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1556年セビーリャ海上保険条例研究序説
近見, 正彦
現代保険学の諸相 : 松島恵博士古稀記念: 199-216
2005-11-10
Book
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/18079
Right
Hitotsubashi University Repository
1
99
1
5
5
6
年 セ ビー リャ海上保 険条例研究序 説
近
見 正
彦
1序
2 1
6
世紀のセ ビ- )
)ヤ
3 1
5
5
6
年海上保 険条例
1 序
保 険は,1
4
世紀 イタ リアの ジェ ノヴァ, ピサ, フィレンツェ等の商業部市
において,海上保 険 として誕生 したO そ して,1
7
世紀複葉火災保 険が営 まれ
るまでは,海上保 険が唯一一の保 険であ り,保 険 と言 えば もっぱ ら海上保 険 を
意味 していた, とす るのが一般 的な見解 であ る。 したが って,海上保 険は,
0
0
年 ない し7
0
0
年 とい うきわめて長 い歴 史 を有す る
誕生 して今 日までお よそ6
と同時に,火 災保 険等のいわゆ る陸上保 険 を誕生 させ る母胎 で もあった。
かか る海上保 険は,誕生後程 な くして地 中海 を東西に渡 り, スペ イン, フ
ランス, さらにはイギ リス,ベ ル ギー, オランダ, ドイツ等-伝 播 して,つ
9
世紀中葉 わが国に も移 入 され る。 当初 わが国で行 われたのは, 同様
いには1
に海上保 険であ り,陸上保 険が営 まれ るよ うになったのは,若干の時 を置 い
てか らにす ぎなか った。わが国におけ る海上保 険 と陸上保 険の歴 史的関係 を
ヨー一口 ッパにおけ るそれ と同列 に配す るこ とはで きないが, ご く形 式的 に
は, ヨー ロッパにおけ ると同 じように, まず海上保 険が行 われi その後 に陸
上保 険が営 まれ るようになったのであ る。
ところで,かか る長 い歴史 を有す る とともに, 陸上保 険の母胎 となった海
上保 険は,数百年以前の慣 習が生 き続け,今 なお, それがか た くなな までに
守 り続け られてい る保険種 目の最 た る ものであ るO それは,現在 なおわが国
2
0
0
1序
1
5
5
6年 セ ビー リャ海上保 険条例研究序説 (
近見正彦)
2
01
において,大半 の輸 出入貨物 に関 して使用 されている英文貨物海上保 険証券
に も地理的に も遠 くかけ離れた時お よび地の ものであ り,現代 のわが国海上
Bei
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1
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の本文 冒頭部分,す なわ ち "
保 険契約の研究に とって, どれほ どの意義があ るか, といった疑問が発せ ら
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me,asf
ora
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heNamea
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れ るか もしれないQ しか しなが ら, その ような疑 問は当 らないO わが国の海
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n,i
n
7
31
年 の- ムブル ク保 険 ・海損条例 を噂矢 とす る ドイツ法 を基
上保険法は,1
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681
年
本的に継受 した ものであるが, その-ムブル ク保 険 ・海損条例 には,1
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ns
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d,・
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-"とい う文 言 を一瞥す るだ
ui
sXI
V に よる海事勅令が大 きな影響 を与 えていたD また, フランス
の Lo
けで も,首肯せ ざるを得 ない ところであろ う。 ちなみに,上記引用文の 3行
海上保 険法 も,淵源 として,上記海事勅令 にさかのぼ るこ とがで き, イタ リ
dot
h"は "
doe
s
"の古形 で あ って,今 では,通 常,使 用 され て い
目にあ る "
ア海上保 険法 について も同様 であ る.結局, わが臥
ない語 であ る。
びイタ リアの海上保 険法 は, いずれ も起源的には,海事勅令 に収赦 す るので
ドイツ, フランスお よ
今 日わが国において, これほ どに古色蒼然 とした文 言が使用 されている保
6
世
あるが,かか る海事勅令 も, 当時全 く新規 に定め られたわけではな く,1
険証券 は,海上保 険以外 には見 当 らない。 この よ うに,古 い慣 習が生 き続
t
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asの手
紀 中葉 フランス北西部 のルア ンにおいて, お そ ら く An
け, その結果, あ ま りに も多 く歴史の榊 をはめ られている海上保 険 を研究す
で編纂 されたギ ドン ,ドゥ .ラ ・メールの影響 の下 に制定 されたのであ り,
るに当 っては, その歴 史的研 究が重要 であ るこ と,言 をまたない。 と りわ
5
世 紀のバ ルセ ロナ海上保 険条例 が大 きな影響 を与 えて
さらに, これには,1
け,海上保 険契約 の法理 を研究す る場合 には,現行 法規 お よび約款の解釈 に
いた。
つ き,本契約の歴 史的経緯 の探究が有益 かつ重要 であ るこ と,広 く認め られ
同条例 は,現代 海上保 険法の母法 と称せ られ,今 日の海上保 険法はこのバ
数奇 な運命 を辿 って,海上保 険は 〔
14〕世 紀初 頭
てい るのであって,「--・
ルセ ロナ条例 か ら一元的に発達 した とさえ言われ るほ どに, その重要性が強
以来地 中海沿岸地方にその発達 を遂 げたのであ るが, これが また一方当時の
調 されてい る条例 であ るが, これ もまた,忽然 と定め られ るに至 ったわけで
貿易交通関係か ら, ロン ドン, ブルー ジュ等の港 に伝 播 したのであ るo要す
4・5世紀 イタ リアの条例が存在 した。つ まる
はな く, その伏線 とな るべ き1
るに海上保 険の発生か ら大体 ア メ リカ大陸 または東 印度航路の発見 に至 るま
ところ, わが国 を始め, ドイツ, フランスお よびイタ 1
)アは言 うに及ばず,
2
0
0
〕年 間は海上保 険の揺藍 時代 と見 るこ とが で き,海上保 険の地 中
で約 〔
4・5世
ヨー ロッパ, そ してひいては世 界の現代 海上保 険法 は, その源泉 を1
海時代 と称す るこ とがで きる。海上保 険の地 中海時代 といって も今 日行 われ
紀地 中海時代 の海上保 険条例 に有す るのである。
てい る世 界各国の海上保 険法規 または約款の骨格 は,大部分 この時代 にで き
やや もす る と,地 中海時代 とい う名辞は,海上保 険契約 の有効性が認め ら
上が った といって差 し支 えない。 そ して海上保 険法が世 に 〔とか く〕難解 と
礼, そ して海上保 険が誕生 した ものの,未だ同契約の法理が必ず しも十分 に
いわれ るのは,勿論 その本来の内容 の複雑性 に もよるこ とであるが, また一
発達 してはいなか った時代かの如 き印象 を与 えるおそれがあ るが,実際はそ
つには現代 の海上保 険法規 または約款, こ とに英国海上保 険約款が普通 人の
うではない。む しろ, この時代 に,海上保 険法お よび海上保 険契約法理 の根
想像以上 に当時の 旧套 を維痔 しているためで もあ る。 であ るか ら海上保 険法
幹は形成 されたのであって, その意味 で, 同時代 は, 海上保 険法史お よび海
または約款の研究 に志す者 は決 して当時の海上保 険制度 または法規 の研究 を
上保険契約法理 の歴史において,最 も重要 な時代 の一 つであ るO
怠 ってはな らぬ。」 とい う,海上保 険契約お よびその歴 史的研 究の泰斗,一
橋大学名誉教授,故加藤由作博士の言 を借 りるまで もない。
1
4・5世紀地 中海時代 におけ る海上保 険条例 と言 えば, わが国 とは時間的
4・5世紀地 中海時代 の海上保 険条例 は,現代 海上保 険法の
この ように,1
源泉であ り, また, この時代 に海上保 険法お よび海上保険契約 法理 の根幹が
形成 されたこ とか ら, 同時代 の海上保 険条例 が どの ようなこ とを規定 し,海
2
0
2
1 序
1
5
5
6年セ ヒー リャ海上保険条例研究序説 (
近 見正彦)
2
0
3
上保 晩法お よび海上保険契約法理 の どの ような根幹が形成 されたかは, わが
りあえず大 き く二つの条例群,す なわち1
4
3
2
年 ない し1
4
8
4
年 に定め られ たバ
国の現行 海上保 険法お よび海上保 険契約 の解釈問題のみな らず,一般 に,現
ルセ ロナの諸条例 の地 中海条例群 と1
5
3
8
年 ブル ゴス条例 ,1
5
5
6
年セ ビー リャ
代 海上保 険契約の法理 の探究に きわめて大 きな意義 を有 している。
5
6
0
年 ビルバ オ条例 等の大西洋条例群 に分 け ることがで きる と思 われ
条例 ,1
1
4・5世紀地 中海時代 に走め られた海上保 険条例 は,今 日知 られている も
る。 その理 由は, まず第 1に,上掲の ように,一方は 1
5
世紀,他方は1
6
世紀
0条例 を数 えるoす なわち,1
3
6
9
年1
0月2
2日にジェ ノヴァ
のだけ で, お よそ2
と,定め られた年代 に明確 な線引 きが可能 だか らであ り,第 2には,定 め ら
の ド- ジュ (
d
o
g
e)Ga
br
i
el
eAdor
noによって定め られた海上保 険条例 を最
れた地が,一方 は地 中海沿岸都市 であるのに対 し,他方は,大西洋沿岸都市
3
9
0
年頃の ジェ ノヴァ条例 ,1
3
9
3
年 5月 9日付 けの フ
古の もの とし,以後,1
であ るか らである。正確 には大西洋沿岸都市 と言 うこ とはで きない都 市 で定
3
9
4
年 3月1
7目付 けの同条例 ,1
401
年 2月 2日付 けの ジェ
ィレンツェ条例 ,1
め られ た もの もあ るけれ ども, それで も地 中海 よ りはむ しろ大西洋に よ り密
ノヴ ァ条例 ,1
4
05
年1
2月の フ ィ レンツェ条例 ,1
4
0
7
年1
2月31目付 けの同条
接 な関係 を有 していた都市で定め られてお り, その ことは何 らかの形で条例
40
8
年 1月2
3日付けの ジェノヴァ条例 ,1
41
9
年1
2月2
3日付 けの フィレン
例 ,1
の規制 ・整 内容 に深 く影響 を与えた と思 われ るか ら, これ も大西洋条例 に数
ツェ条例 ,1
4
2
0
年頃の ジェノヴァ条例 ,1
4
21
年 5月1
5日付 けのヴェネツィア
えるこ とがで きる。
4
24
年 6月 8日付けの同条例 ,1
43
4
年 8月2
7日付けの ジェノヴァ条例
条例 ,1
セ ビ- リャは,言 うまで もな くイベ 1
)ア半 島南西部,ア ラビア語 で 「
大き
等の イ タ リア初期 の海上保 険条例, さ らに1
4
3
2
年,1
4
3
5
年 ,1
4
3
6
年 ,1
45
2
な川」 を意味す るグァダルキビル川 を8
0
km ばか り下れば大西洋に通 じ, ど
午,1
45
8年,1
4
6
1
年お よび1
4
84
年 のバ ルセ ロナ海上保 険条例 等である。
ルバ オ もまた, イベ リア半 島北部, ネル ビオ ン川 を1
1
km ほ ど下れば ビスカ
これ らは,海上保 険法史の観点か ら,大 き く二つの条例群 に分 け るこ とが
1
ヤ湾, そ して大西洋 に通ず る都 市 であ る。 ブル ゴスは,マ ドリッ ドの北 21
で きるであろ う0-つは, バルセロナの条例群 が制定 され る以前, イタ リア
km の 内陸都市 であ り,大西洋沿岸都 市 とは言 えないが, しか しなが ら中世
の ジェ ノヴァ, フィレンツェ, ヴェネツ ィアで定め られた条例群 であ り, ま
スペ インの主要 な輸 出品であった羊毛 の一大集積地 であ り, この地 に集め ら
5
世紀 スペ インのバ ルセ ロナで定め られた条例群 であ るO これ ら
た一つは,1
れた羊毛 は,主にビルバ オか らビスカヤ湾, そ して大西洋 を経て, フラン ド
二つ の条例群 は, その形式的な側面,す なわ ち制定 された地お よび時代, ヴ
ル等へ輸 出 されていたか ら, これ もや は り大西洋 に密接 な関連 を有 していた
ォ リュー ム等 につ いて,違いがあ るばか りでな く,実質的 な側面,す なわち
のである。
規定 内容 の豊か さにおいて も, きわだ った相違 を示 してい る1)。
かか る大西洋 に密接 な関係 を有 していた都 市で定め られた条例群,つ ま り
1
435
年バ ルセロナ条例 は, イタ リア初期 の条例 とは異な り, 多 くの規定 で
大西洋条例群 は,地 中海条例群が その規制 ・整対象 を主 として地 中海 を航行
海上保 険契約 の要素 に触 れ, 同契約 の法理 を著 し く発展 させ た。 だか らこ
す る船舶 お よびその ような船舶 に積載 され る貨物 に関す る保険 としていたの
そ,体 系的 な海上保 険条例 としては, この条例 をもって最 古の海上保 険条例
に対 し, おおむね大西洋 を航行す る船舶 お よびそれ に積載 され る貨物の保 険
53
8
年 のブル
とすべ き旨,主張 され るのであ るが, その後, スペ インでは,1
を規制 ・整対象 としていた。規制 ・整対象た る保 険の被保険船舶 ・貨物 の航
ゴス条例 ,1
5
5
6
年のセ ビー 7
)ヤ条例 ,1
5
6
0年 の ビルバ オ条例 等が定め られ る
行 ・運送領域が, 内海たる地 中海であるか あ るいは外海たる大西洋 であるか
こととなった。む しろ,1
5
世紀 中葉か ら1
6
世紀 にかけては,かつての イタ リ
は,条例の規制 ・整 内容 に大 きく影響 したであろ うこ と, そ して場合 に よっ
アにおけ る と同 じよ うに,スペ インで も海上保 険条例 が百花揺乱の ご とく定
ては規制 ・整 内容 が後者において一段 と進化 した こ とは,容易 に想像 し得 る
め られ るに至 るのである。
43
5
年バ ルセ ロナ条例 第1
5条お よび第1
2
ところであ り,今 日の委付制度が,1
かか るスペ インの諸条例 は,詳細 な検討 は今後の研究 を待つに して も, と
条に本制度の前身た る推定 ない し擬 制制度 (
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6年セビー リャ海上保険条例研究序説
21
6
世紀のセビー リヤ
(
近見正彦)
2
0
5
k
t
i
o
n
e
n
)が定め られていたにせ よ,条例 史上初めて規定 されたのか,1
5
3
8
年
猶予期 間 を設けてユ ダヤ教徒 に キ リス ト教へ の改宗か 国外過去 を迫 っ た こ
ブル ゴス条例 であったこ と, この一事 のみ を とって も,上記想像 の妥 当性に
0月1
2日に コロンブスが現在 のバ-マ諸 島のサ ン ・サ ル
と,三つ 目は, 同年 1
つ いて,大方の納得 を得 るこ とが で きるのではないだろ うか。
バ ドール島に到達 したこと, そ して内つ 目は, ネブ リ--の 「カスティー リ
これ までバルセロナの条例 があ ま りに高 く評価 されたためか, 大西洋条例
。 これ ら四つ の出来事 の うち,後の スペ
ヤ文 法」が出版 されたことであ る3)
群 の研究はないが しろにされが ちであった。 どちらか といえば,バ ルセ ロナ
イン王 匡r
の経済に とって,最 も大 きな影響 をもた らしたのは, 貢うまで もな
の諸条例 にスポ ッ ト・ライ トがあ ま りにあて られ過 ぎたために,大西洋条例
くコロンブスの新大陸の発 見であった。
群 はその影 に隠 されて しまった きらいが な きに Lもあらずである。 しか しな
1
4
5
1
年, ジェ ノヴ ァ近 郊 で毛 織物業者 の息子 と して生 まれ た コロンブ ス
が ら,近代海上保 険立法 として菅が高 く,かつ またそれ以後の近代 ヨー ロッ
4
9
2
年 4月1
7日付 け と同 月3
0日付 けのいわゆ るサ ンタ ・
は,好余 曲折の後,1
6
8
1
年 Lo
ui
sXI
V の海事勅
パ海上保険立法に きわめて大 きな影響 を与 えた1
2日に グラナ ダ を出発 してパ ロス港 に急行 し
フェの 協約 を結 び, 同年 5月1
令 にほ とん ど同 じ形で受 け入れ られ たギ ドン ・ドゥ ・ラ ・メー ルの編纂 され
0日間 を費や した後,ニ-ニヤ号, ピンタ号 お
たC そ して, ここで準備 に約8
たルア ンが,直接 あるいはブ リュー ジュ を介 して, カスティ 1
)ヤ と強 く結 び
よびサ ンタ ・マ リア号 の三隻で 8月 3日金曜 日, 日の出前3
0
分 ,8時にサ ル
つ いてお り, さらに何 よ りもギ ドン ・ドゥ ・ラ ・メールの編纂者 とされてい
テスの河 口か ら出航 したのであ る。 このサ ンタ ・フェの協約 には, コロンブ
る An
t
oi
n
eMa
s
s
i
a
sがルア ンに移住 したスペ イン人の 1人で あ った こ とを
スを,発 見す るであろ うあ らゆ る陸地お よび島々の終 身提督 とし, その相続
考慮すれば,海上保 険法の継受関係上,大西洋条例群 の有す る地位 は,バ ル
人が これ を承継 し, さらに発 見す るであろ う土地 の副王兼総督 に任命す るこ
セ ロナ条例 に勝 る とも劣 らない重要 さを有す るのであって,大西洋条例群 の
と,真珠等,発 見地で購入 または交換 したすべ ての物 品につ いて,取得 の た
研 究 をおろそかにす るこ とはで きない2
)
。
めに要 した経費 を差 し引いた残 りの 1/1
0をコロンブスに与 え,9/1
0は両
6
世紀
本稿 は, この ような考 え方 を基 に,典型的大 西洋条例 と思われ る,1
中葉 セビー
ーリャで定め られ た海上保 険条例 を研究すべ く, その基礎 的事項に
つ いて検討す るものであ るQ
l
) 拙著 『海上保 険 史研 究 』1
9
9
7
年 ,p
p
.
1
4
.
2
) 拙稿 「
1
5
2
0
年 ビルバ オ海 上 保 険条 例 (
莱)
」『創立60周年 記念損 害保 険 論 集 』 損 害
9
9
4
年 ,p
p
.
7
1
0
12
.
保 険事 業絵合研 究所 ,1
王が取得す るこ となどが定め られていた4)C
同年 1
0月10・11日の夜, コロンブ スはサ ン ・サルバ ドール島 を発見 し, さ
らにキューバ,- イチ を発見 して, 原住民 と物 品を携 えて帰国す る。9
5
年の
7
隻の船 団 と1
5
0
0
人の乗組 見
第 2回航海は,植民地経営 を日的 とし,1
各種
資材 をもって- イチに航行 し,経営 に着手 したが,必ず しも十分 な成果 を挙
げ るこ とはで きなか った。 しか しなが ら,プェル ト・リコ, ジャマ イカ等 を
発見 した。 そ して,第 3回航海では, トリニダー ド,那 )ノコ河 口, さ らに
2 1
6
世紀 のセ ビー リャ
第 4回航海 では, ホンジュラス,パナマ地峡 な どを発見 してい るO
これ らの航海 と相前後 して多 くの探検 が行 われ,パルボアは太平洋岸 に達
1
5
世紀末 の1
4
9
2
年 は, スペ イ ンの歴 史に とって特 記すべ き年 の一 つ であ
s
a
be
lと Fe
r
d
i
n
a
nd
oの カ トリッ ク両 王 の新 しい
る。す なわ ち, この年 に I
スペ イン王国 を象徴す る四つ の大 きな出来事が生 じている。一つ 目は,両王
し, ボンセ ・デ ・レオンはフロ リダ を発 見 したO この ような冒険 を推進 した
の も, その結果 を独 占したの もカスティ リャであった。
r
e
p
a
r
t
i
r
n
i
e
n
t
o
.分割)の権利 を得,
コロンブスは.最初 レパルティ ミエ ン ト (
が同年 1月 2日にグラナダに入城 し, グラナ ダ王国が陥落 して レコンキスタ
土地 と原住民 を経営者に分割 し,強制労働 と貢柄 を課 し,植 民地経営 を行 っ
に終止符が打たれたこ と,二つ 目は, 同年 3円3
1日に勅令 を発 し, 4ヶ月の
た。かか るレパ ルティ ミエ ン トは, 人 口の減少 をもた らし,発見 当時の- イ
2
0
6
2 1
6世紀のセ ビー リャ
1
5
5
6年 セビー リヤ海 上保 険条例研究序説 (
近見正彦)
2
0
7
チは,人口4
0
万 であったが,1
5
0
8
年ニ コラス ・デ ・オバ ン ド稔督の時代 には
で呼ばれ る文化 を発展 させ た 「
ペ ルー」の最後の王朝がお よそ1
3
世紀頃 クス
6万,1
51
4
年 には 1万 4千 と激減 した らしい。 そこで, オバ ン ドは,原住民
コを中心 に建 設 され たインカ帝 国であ るが, 当時の インカの住 民 は, 6百
の魂 の故済 と保 護 を条件 に,土地 を経営者に委託す る方式 を採周す ることと
万, 8百万 とも言われ,強大な絶対君主の下 に高度 を社会秩序 と文化 を維持
50
3
年1
2月2
0日の I
s
abe
lの勅令 に よって,法制化 され,
した。 この方式は,1
していたO この イシ カの植 民地化 に手 を くだ したのは, フランシス コ ・ピサ
それに よれば,原住 民 も一応 スペ イン国王の 臣下 として扱 われ,「インデ ィ
ロであ る。
オをキ リス ト教徒 と交際 させ, そのキ リス ト教化 を促進 す ること」
,「インデ
ピサ ロもコルテスと同郷 (
エストゥレマ ドr
7-ラ)でセ ビー リャか ら西 イ ン
ィオ を招集 して カ トリッ クの信仰 を説教す るこ と」
,「カ シー ケ (
原住民の首
5
0
9
年 にはオ-- デのパ ラグア遠征 に参加 してい るCサ ン ・
ド諸 島に渡 り,1
長)は, スペ イン人が必要 とす る労働 に従事 す る一定数 の インデ ィオ を確保
セバ スティア ン植民地の建設には,副官 として関与 し,パルボアの太平 洋発
してお くこ と」 な どが定 め られ ていた。 これが, いわゆ るエ ン コ ミエ ンダ
見の探検 に も加 わった経験 を有 していた。最初の うち彼の企図は,十分 な成
(
e
nc
omi
e
nda.委託)である。
5
3
0年 1月あ らためてスペ インを発 ってパナマ に帰
果 を挙 げ得 なか ったが,1
オバ ン ドがハ イチの総督 に任命 された1
50
2
年 頃か ら,領土獲得 と植 民地経
2
年 1月パナマ を出航 し, インカ帝
り, 第 3回の遠征 を準備 した。 そ して,3
営が本格的に進め られ るようになったO そ して, コロンブスの一子デ イエ ゴ
国の王 ワイナ ・カペ グの二 人の子, ワスカル とア タワルパの内紛 を巧み に利
が オバ ン ドの後任 として総督 に な り,オ-- ダが ヌエバ ・ア ングル シー ア
用 して,好策 と暴虐の末 に, ア タワルパ を捕 らえ,莫大 な身代金 の取得 に成
(
南アメリカ北岸一帯)の総督,ディエ ゴ ・デ ・こ クエサがベ ラグア地方の総督
功 したO それに もかかわ らず,彼 はア タワルパ を殺す とい う,残虐非道 な行
に任命 された頃か ら,植 民地経営は大陸に進 出 してい くこ とに なる。
為 を行 ったが, さらに,1
5
3
3年 ソ トを先陣にインカの首都 クス コに侵 入 し,
5
01
年 には, アフ リカ果人奴隷 の輸
一方,原住民労働 力の衰退に直面 し,1
略奪,破壊,焼 き討 ちの限 りを も尽 くした。 その後,部下のベナル カーサル
入が ドミニ クス派宣教 師 ラス ・カサ スに よって主張 され,1
51
7
年 Ca
r
l
osi
に命 じてキ トー を征服,つ いでチ リ- の遠征 を企て,アルマ グロにその実行
は,年 間 4千人の黒人奴隷 を供給す る特権 ア シェ ン トをフラン ドル人に与 え
を命 じた。 こうして,アルマ グロはペ ルー支配の地歩 を固めつつ あったが,
た。 これは後 に ジェ ノヴ ァ商人に売 り渡 されたが, いずれにせ よ,新大陸の
原住民の反抗,身内の内紛,本 国スペ イン王国におけ る彼の評 判の悪化 等 の
鉱 山 ・栽培経営 はかか る黒人奴隷 の売買に よ りその労働 力 を供給 され るこ と
中,1
5
41
年 6月2
6E
I自身の子 に虐殺 された5)D
となった。
当初の発見はカ リブ海の島々であ ったため, そこか ら収奪す る富は限定 さ
スペ イン王国が メキ シ コ (
メヒコ)に関心 を抱 くよ うに な ったのは, キュ
れ,一時は植 民地放棄す ら叫ばれ たが,探検 は次第に新大陸に及 び, ここに
ーバの総督ベ ラスケスがユ カタン半 島の探検 を命 じた コル ドバ ・グ リハルバ
コンキス タ ド- レスの時代 が訪 れ るu しか しなが ら, それはスペ イン植 民地
の報告 によるらしい。エルナ ン ド・コルテスはベ ラスケスか らの大陸遠征 の
時代 に大 きな暗い影 を落 とす こ ととなって しまった。
命令 を受け,1
51
8年 11月1
8日サ ンティア ゴを出航 し,ユ カ タン半 島に向か っ
スペ イン王国の新大陸征服 は,短年 月で完成 された点 において まさに驚異
たが, ここにスペ イン植 民地時代最大の残虐行為 の一つが展開 され ることに
的であ ったO 当時の技術水 準 に あ って, た とえ火砲 の 出現 が あ った と して
な る。
ち,遠 く隔てた新大陸に本 国の数 十倍 の大領域 を半世紀 に も満 たない短期 間
また,中央ア メ l
)カの植 民地経営 を進めてい くうちに,南の大陸には 「
ペ
に征服 したのである。
ルー」 と呼ばれ る富裕 な国が あることが分か り, 当時の コンキスタ ドー レス
1
49
2
年 コロンブスの第 1回航海か ら1
5
5
0年頃 までを新大陸の発見 ・征服期
が 目をつけ るこ ととなった。紀元前か ら住みつ いた原住 民が さまざまな名称
あ るいは広義 の コンキス タ ド- レスの時代 と言 うこ とが で きるで あ ろ う。
2
0
8
2 1
6世紀のセビーリャ
1
5
5
6年セビーリャ海上保険条例研究序説 (
近見i
E夢)
2
0
9
I
sabelは,1
499
年 コロンブスが派閥的 な敵視 に よって告訴 されたの を機 会に
ろ う。 その点, スペ イン王国の植 民地統治の行政機構 は比較的整備 されてお
サ ンタ ・フェ協約 を破棄 して新大陸の領有権 を宣言 し,ア ングル シア型大土
り, 多 くの点で他 国の模範 になっていた由である。創設 され た植 民地の行政
地所有制 の下,植民地経営 を行 うに至 る。
機構 は, 中央集権 に基づ く官僚統制機構 であ り, カステイ リャの諸制度 が導
当初植 民地経営 の 目的は,植 民地 の農業確 立に よるヨー ロッパへの食糧補
入 されたが,本国 と植 民地 との関係 は,必ず しも一方的な統制 と服従 とい う
給 であったO ア ンティ リアスの農業開発 もメキシコお よびペルーの鉱 山の発
単純 な ものではなか ったo名 目上 は, メキシコもペ ルー も独立 した王国であ
見に よって頓挫 し,砂糖 プ ランテー ションのみが根付 いた。 しか しなが ら,
って,単 に共通 の国王 を戴 く同盟 国に過 ぎなか った。 しか も,各植 民地 は,
1
560
年植 民地 は食糧 危機 に陥 ったため, 食糧生産が促進 され,麦はメキシコ
それぞれのインデ ィオの伝統 に基づ いて各 自の制度 を築 いていたのであ り,
お よびペ ルーの基本作物 となるO
根幹 は同 じであ って も, 多 くの地域 的な相違が存在 した。
スペ イン王 国は もとよ り, ヨー ロッパ諸国の経済に大 きな影響 を与 えたの
植 民地経営 に関す るスペ イン王 国の主要機 関 は, コンセ- ホ ・デ ・カマ
50320年,期待 され た金
は,何 は ともあれ 新大 陸の鉱業生産 であ った。1
n
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・正式には,
ラ ・デ ・ラス .インデ ィアス (
略称 Co
の産 出は, アンティ リアスや カ リブ海沿岸 の水産式採取 にす ぎなか ったが,
Re
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.インド顧問会務)お よびカ-サ ・デ ・コン ト
1
52144
年 には, コルテスの メキシコ征服 に よって金 の産 出量は増大 した。
Ca
s
adeCo
n
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r
a
t
a
c
i
o
n.商務院,商務省,通商院,商業会議所などと訳さ
ラタシオン (
1
545
年)は,年 3千 キ ログラムの銀
一 方,ペ ルー北部 の ポ トン銀鉱 の発 見 (
れている。
)である。
6世紀後半になる
産 出量の増加 をもた らす こ ととな り,ベ ル一一
の銀産 出額 は1
1
524年の勅令 に よって発足 した コンセ- ホ ・デ .カマ ラ ・デ ・ラス ・イン
と仝産 出額の 3分 の 2を占め たO また, メキシコ中部 では,サカステス,パ
l
osI時代 に最高行政事務 を扱 う機 関 として組織立て られ,
デ ィアスは,Car
チ ェコ, タス コな どの銀鉱が稼動 し始め,銀が金 を陵駕す るこ とになる。か
征服地の拡大 とともに拡大整備 された。 それは, カスティ リャ顧 問会議 に範
くて,新大陸 の銀産 出額 は ヨー ロッパ を含 む仝産 出額 の 5分 の 4を占め, し
をとった もので,行政 ・立法 ・司法の機能 を併せ持 った新世 界関係の最 高意
か も生産費は ヨー ロッパの 3分の 1ほ どであ ったo
思決定機 関であった。 それに対 し, カーサ ・デ ・コン トラタシオンは,新世
かか る植 民地 の物産 は,船 団に よ りセ ビー リャの港 に送 られた。 ヌエバ ・
50
3年 セ ビー リャに設立 され
界 と本 国 との関係一切 を統制 ・調整す るために1
エスバーニ ヤのベ ラ ・クル スや ヌエバ ・カステ ィ リャのカル タヘナ等- の船
た機 関で, その業務 内容 は,植 民地 との間の航海,商業に関す る諸事項 のほ
団は,毎年 3-4月セ ビー リャ, カデ ィス またはサ ン ・ル カル ・デ ・バ ラ メ
か,行政上の連絡や現地資料 の保管,税関事務 な ど,非常 に多様 で,やがて
-ダ (
セビJ )ヤの下流の地)に集結 した船舶 で編成 され,翌年 の 2月には,
国庫や王室財庫 に入 るべ き資金の回収 ・保管か ら, インデ ィアスにおけ る通
-バナに集結 してセ ビー リャに帰港 したが,往 きの貨物 は,貴金属 ・その他
。 と りわけ, 1
539年 8月1
5
商関係 を主 とす る高等法廷 の機能 をも果 た した7)
の物産 との交換物資 としての工業製 品,特 に毛織物 であ り,帰 りの貨物 は,
日 Car
l
osIの勅令 に よ り, セ ビー リャの他 の法廷 とカーサ との裁判権 の競
1594年の帰航船舶の貨物の9
5
.
62% が金 ・銀であったと言わ
言 うまで もな く金,級 (
543
年 8月
合 につ いては, カーサが優越す る旨定め られ, さらにその範 囲が 1
れる。
)
, そ して獣 の生皮, タバ コ,砂糖, イ ンデ ィゴ,洋紅等の物産 で あ っ
2
3日の同勅令 に よって規定 されたため,商事 に関す る裁判権 は,本 カーサが
たo Lか も,銀 は後にポル トガル領 東 イン ドの貿易決算に使用 され, いわゆ
行使 してお り, それは海上保 険条例 の適用 に大 き く影響 を与 え るこ とにな
る三角 貿易 が成立す る。 なお,銀の流入が ヨー ロ ッパ に価格草食 さらに商業
る。
革命 をもた らしたこ とは,周知 の通 りであ る6)0
かか る植 民地の経営 に当た って, まず整備 すべ きは,統治機構 のそれ であ
3) 立石 「スペ イン帝 国の時代」 同編 訂スペ イン ・ポル トガル史1新版世界各国史1
6
・
2
00
0年, p.
1
4
5.
2
1
0
31
5
5
6年海上保険条例
1
5
5
6年セビーリャ海上保険条例研究序説 (
近見i
E
彦)
4) 飯壊 F
大航海時代のイベ リア』中公新書,昭和5
6
年,pp.
1
3
3
1
3
4
.コロンブスの生
1
3
3
5
1
,林屋訳
涯については,多くの文献があるが,さしあた り飯塚,前掲書,pp.
『コロンブス航海誌』1
9
6
5
年,増田 『コロン7ナ
ス』1
9
7
9
年,今野訳 『コロンブス』ク
セジュ文庫,1
9
7
2
年を参照。
5
) コンキスタド-レスの時代については,飯象 前掲書,p
p.
1
5
6
1
6
4
▲井上鼠 前掲
2
4
6
6
5
.なお,関 ・立石編訳 『
大航海時代-スペインと新大l
削 1
9
9
8
年,藤田
書,pp.
訳 『
J
.
H.
.エリオット・スペイン帝匡Ⅰ
の興亡 (
1
4
6
9
1
7
1
6
)
j1
9
8
2
年,川北訳 『コロン
4
9
2
1
9
6
9
-j l
T・Ⅰ
Ⅰ
,1
9
7
6
年,小体訳 『
スペイ
ブスからカス トロまで-カリフー
海史1
9
7
5
年をも参冊 C
ン-磨史的省察-』1
6) 新世界あるいは新大陸との商業 ・貿易関係については,非上 「スペイン絶対主義」
『
岩波講座 ・世界歴史』1
5
,近代 2,pp.
3
5
4
9
,川北 「
ヨ-ロッパの商業的進出」
訂
岩波
6
,近代3,pp.
1
17
2
2および pp.
1
3
0
4
2
,非上編 『
南欧史』1
9
5
7
年,
講座 ・世界歴史』1
pp.
24
9
5
7
,飯塚,前掲番,pp.
1
8
4
1
9
0
,浜名訳 F
フェルナン .ブローデル .地中海』
I
1
,1
9
9
2
年,pp.
2
0
8
1
4
,特に,Har
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ng,
C.
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8および Maes
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gur
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,Madr
i
d,1
9
91
.pp.
31
3
5
,
6
7
6
7y91
1
2
1を参照。
7
) スペインの植民地統治の行政機構については,飯本 「中南米の植民地 『
岩波講
座 .世界歴史』1
6
,近代3
,1
9
7
0
年,pp.
1
2
1
7
2
4および上記 Mae
s
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r
o,p
p.
1
1
5
2
1を参批
」
2
1
1
び商 人の利益 を保 護 し,増 大せ しめ るギル ドと して の機 能 で あ った。 そ し
て, その後両王 は,かか るスペ イン東海岸 に設け られていた商業 団体 をカス
テ イ リャに移植 す るこ とを決 断 し, セ ビー リャにお いては, 1543年 8月勅許
を発 し, ウニベ ルス イデー ・デ ・メル カ ド- レスの設立 を認め るこ ととな る
の であ る。 それ は, 急速に増大す る新 大陸 との交易 とそれに伴 って急激 に増
加 した争 いが, か-サ ・デ ・コン トラタシオ ンの処理 能力 をは るかに超 えて
いたか らであった。
かか るウニベ ル ス イデー の メンバー は,新 大 陸 との取 引に従事 す る商 人に
限 られて いた し, それ もセ ビー リャに住 む,既婚 であ る とや もめ であ る とは
問 われ なか ったが,少 な くとも25歳以上 の商 人 で なければ な らなか った。
次第にセ ビー リャは,新世 界交易 の 中心地 に成長す る一方, カーサが新世
界交易, 同世 界- の またはか らの航海お よび同世 界へ の市民の移住 に関す る
主 た る政府監督機 関 となって行 く。
かか るウニベ ル スイデー とカーサ との関係 は, きわめ て密 であ り,継 続 的
であ り, また重大 であ ったo E
J
常業務 として, あ るいは国 王の特定 の指 示 に
よ り, 交易 に関す る規制,船 団に参加 させ る船舶 の選択 お よび船 団の組 織化
3 1
5
5
6
年海上保 険条例
につ いて, カー サは ウニベ ル スイダー の役 月 衆 と骨 に相談 を行 い,各種 条例
の制 定 につ いて は, カー サ の役 員衆 が ウニベ ル ス イデー の ア ドバ イス を求
カ トリック両王 は, 1503年 王室 の独 占機 関 として, カーサ ・デ ・コ ン トラ
タシオ ンを開設 し,1510年 これ を政 雁付属機 関 とした。 そ して, 1524に コン
め, さらに ウニベ ル スイダー は王国の商業政 策 につ いて多 くの助 言 を与 えて
いたの であ る9
)
0
セ- ホ ・デ ・カマ ラ ・デ ・ラス ・イ ンデ ィア スが設け られ る と, カーサ はそ
か くして, セ ビー リャは, 1556年 海上保 険条例 を定 め るに至 るの で あ る
の所属 経 済機 関 とされ るこ ととな った。一 方, セ ビー リヤ商 人は, ウニベ ル
が, それ は, 上記 カーサ ・デ ・コン トラタシオンが ウニベ ルスイダー の役 員
ス イダー ・デ ・メル カ ド- レス (
UI
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ndi
as
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衆 のア ドバ イスを得 た上 で,制定 され た もの であ る。
l
aあるいは単に Co
ns
u】
adoとも呼ばれる。
)を結成 し,上 記 カーサ
Come
r
c
i
odeSe
vi
】
と結合 して,新 大陸商業 の独 占体 制 を築 いたのであ る8)0
しか しなが ら, セ ビー リヤで定め られ た海上保 険条例 の最初 の ものは,上
os Iに よ り定 め られ た条
記 1556年条例 では ない。 それ以前に1552年 に Carl
13世紀 以前 に も,若干 の商業団体 が スペ イン東海岸 に,商業上 の争 いの解
例 が存在 す るのであ るが, 1552年条例 は, 2か条 で,保 険契約 は公 的書面 を
汰, ア ラゴン商 人の同地 内外 での取 引の保護 ・促 進 のための機 関 として存衣
もって締結 され ない限 りその効 力を有 きない こ とと船舶保 険の付保制 限のみ
し, 1450年 までには, ア ラゴン, カ タル一 二 7, ル シ ョンお よびバ レンシア
を規定す るに過 ぎず,規定数 と言い, また内容 的 に言 って も,最 も重要 なセ
中の 8都 市 において, 同団体 が設立 され ていたo この よ うな団体 は, そ もそ
ビー リャ海上保 険条例 が 1556年 条例 であ るこ とに異論 をは さむ研究者は いな
も二つ の機 能 を有 してお り, それ らは,争 い を解 決す る法蓮 としての, お よ
いO
2
1
2
1
5
5
6年セ ビー .
)ヤ海上保険条例研究序説
31
5
5
6年海上保険条例
(
近見正彦)
ところで,1
5
5
6
年 セ ビー リャ条例 を掲 げた主要文献 を掲 げれば,次の通 り
2
1
3
はオ リジナルのテ クス トとそのフランス語訳が掲載 されている。
上記 5文献は,訳 であるか, オ リジナルのテ クス トであるかの違 いはあ る
であ る。
(1) Re
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5
56
年 セ ビー リャ条例 を掲 げているが, 同条例 全体 を
に して も, いずれ も,1
1
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nRe
copi
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sRe
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OSdeユ
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掲載 してはいない ものの,1
5
5
6
年 セ ビー リャ海上保 険条例 の研究 において必
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3,pp.
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I,London,1
7
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,pp.
(2) Mage
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,Anes
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(3) Bal
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Ⅰ
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6,pp.
7
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(4) Capmany,A.deyMol
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6お よび② Maes
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,Madr
i
d,1
9
91の 2
書 を挙 げ るこ とがで きるであろ う。 とりわけ,後者 には, これ まで知 られ て
いない史料 が掲載 されてお り,1
55
6
年条例研究 には きわめて有益 な示唆 を得
るこ とので きる書 である。
さて,上述 の ように,1
5
5
6
年 セ ビー リャ海上保険条例 は 5文献にその全体
Li
br
odelCons
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adode
lmar(
r
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d.
),1
9
6
5,
Bar
cel
ona,1
96
5,pp-
が掲載 されているが,同条例 を研究す るにあた り, それ らのいずれか一 つの
6
5
36
5.
みに よって研 究 し, それ以外の文献 は一切参考 に しない とい う研 究姿勢が邪
(5) Par
de
s
s
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,J.
M.
,Col
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,Par
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,1
84
5,pp7
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0
3.
(1)は,Ca
r
l
os I
Iの命 でそれ以前 に定め られた各種諸条例 を印刷 ・発行
した条例集であ り,公的条例集 としての性格 を有 してい る。
(2) は,商人であ った Mage
nsが海上保 険契約 に関す る種 々の事 項 ・論
点について解説 ・論 じた古典 的名著であ るが,1
5
5
6
年 セ ビー リャ条例 に関 し
て言 えば, これのオ リジナルの テ クス トが掲 げ られているわけ ではな く, そ
の英訳が掲載 されているに過 ぎない。
道であ るこ とは言わず もがなであ るけれ ども, 5文献の中で, いずれが後 の
55
6年条例制定時のそれこそオ リジナルをテ クス トを
各種 改正 を含 まない,1
よ り正確 に掲 げているか を検討 し, それ を第一義 的な基礎 史料 として, さ ら
に他 の諸文献 を参照 しつつ,研究す るのが正 当を研究姿勢 であ るこ とに疑 い
はない。 とすれば,先の 5文献の内, この ような第一義的基礎 史料 として挙
げ るべ きはいずれであ るか を検討 してお く必要が生 じて くる。
上記 5文献の中で,訳 しか掲 げていない文献は,第- に検討 の蚊帳 の外 に
i
F
;
.
くこ とがで きるであろ うo と言 って,一切参考 に しない とい うこ とでない
(3) は, これ も (2) と同様 に古典 的名著 として名 を馳せ てい る文献 で
のは, もちろんであるが,訳 しか掲げ られていない点 で, それ らを第一義的
あ るが, これに もオ リジナルなテ クス トが掲 げ られてい るわけ ではな く, そ
)
.
E
礎 史料 とす るわ け に は いか な い。 で あ るな らば, 当面検 討 すべ きは,
の イタ リア語訳が掲載 されてい るに過 ぎない。
(1)
, (4)お よび (5) とい うこ とになる。
(4) も, (2)
, (3) と同 じ く古典的名著 である。 しか しなが ら, (2),
Par
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55
6
年 条例 の掲 載 に際 して, H
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o"は その
(3) とは異な り,1
5
5
6
年条例 (
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6
83
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版 に基づ いた 旨を明 らか に して い る。 しか しなが ら,Pa
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usの 言 う
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5
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"として掲げられてい
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o"が何 年 版 の もの か は明 らか で ないc Lか も,Par
des
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us
る。
)の オ リジナルのテ クス トが掲載 されてい る。
が使用 した1
6
8
3
年版が何 の1
6
8
3
年版か も分 か らない。 しか しなが ら,文脈か
(5) は,かの有名 な 6巻 か らなる海事 法規集の中の 1巻 であ り, これに
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usの言 う1
68
3
年版 は, "
LaRe
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o"の 同
ら言って, お そ ら くPa
21
4
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5
56年海上保険条例
1
5
5
6年セ ビ- リャ海上保険条例研究序説 (
近見正彦)
2
1
5
年 版 で あ ろ う。 と す る な ら ば,Pa
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usが 参 考 に し な か っ た "
La
Par
de
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usが掲 げたテ クス トと1
6
81
年版のテ クス トとはか な りの相違が 存在
6
8
3
年版 以外 の版 であ る とい うこ とに な るわけで,果 た し
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o"はユ
す る。 た とえば,Pa
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usでは,海上保険関係 の規定数 が全体 で5
5
か条 で
てそれは何年版 であろ うかC
あるのに対 し,1
6
8
1
年版 では5
7
か条 であ り, 2か条の違 いが あ る し,最 初 の
可能性 は二つ,す なわち1
6
8
3
年以前の版かあ るいは1
6
8
3
年以後の版である
規定 も,Pa
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usでは コン トラタス イオ ンの条例 の 第2
7
条 とな って い る
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usが参考 に しなか った理 由,す な
か, である。常識的に考 えれば,Pa
6
81
年版 では 「カーサ ・デ ・コン トラタスイオンの条例 第 9部3
9
節保 険
が,1
わち編集者衆が若干の修正 を認め られていた とい う理 由か らして,1
6
83
年以
者衆,諸危険お よび インデ ィア ス航海 に関す る保 険」の第 1条 とな ってい
後の版 であろ うと考 えるのが大 きな間違 いの ない ところであろ う。 なぜ な ら
る。 さ らに,Pa
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usでは, インデ ィア ス向け航 海 の普 通 海上保 険証 券
ば,編纂者衆に若干 の修正が認め られていた とい うのは, ある程度の時間が
9
節第3
3
条 とされてい るが,1
6
81
年版 で
は,条例 の最後 に掲 げ られ, 注で第3
経過 し, その間の諸事情 の変化 そ してそれに よる修正 の必要性 か ら,諸規定
は第3
5
条 に掲 げ られ てい る。 この よ うな相違 は,他 に も少 なか らず存 在 す
のア ップ ・ツウ ・デ イ トを 目的 とした合理的 な整理 を試み ると同時に,余 り
るO わずか 2年の違 いで この ような多 くの相達がなぜ生 じるのか は,大 きな
に大 きくオ リジナルの規定 を変更す るのは条例 の編纂 とい う本来の 目的に大
疑問であ るが,紙幅の関係 もあ り, ここでは検討 しないO
き く逸脱す る可能性 があ り得 るために,若干の修正 に限 る とい うこ とで, そ
いずれにせ よ,我々が 1
5
5
6
年 セ ビー リヤ海上保 険条例 を検討す るには,上
の ような修正 のみ を認め た と考 えるこ とがで きるであろ うか らであるO さら
記 5文献のいずれ をも参考 に しなければな らないが, しか し, 第一義 的 な参
に,Pa
r
de
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s
usが1
6
8
3
年版 を参考 に した とい うこ とは, 同版が最 もオ リジナ
考史料 としては, まず (1) を取 り上げなければ ならないのであ る。 したが
ルに近い, あ るいはオ リジナルその ものであると考 えたか らではないかO と
って,今 後1
5
5
6
年 セ ビー リャ海上保 険条例 の規定 内容 を検 討 す るにつ いて
い うこ とは, 間接 的に Pa
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sが参考 に しなか った H
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6
8
3
年以後の版 であ ることを示 している。つ まる ところ,Pa
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usが参考
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に しなか っ た "
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Ⅴ,
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1
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5を第一蓑的史料 とし, さ らに上 に掲 げた各種 史
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o"の版 であ ろ うと思 われ るの であ って, その よ うに考 え るのが
料 を同時に参考 に してい (こ ととす る。
常識的 な ところではないだ ろ うか。 しか し,残念 なが ら,筆者は,1
6
8
3
年以
海上保険条例 の史的研 究に関す る筆者の立場お よびその よ うな研 究の重要
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o"の版の存在 を知 らない。 と言 って, その よ うな版が
後の "
性 につ いて述べ た後,1
5
5
6
年セ ビ- 1
)ヤ海上保 険条例が定め られ た頃の同地
ない とい うこ とではない。 む しろ,Pa
r
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6
8
3
年版 に基づ き1
5
5
6年条
の状況 を概観 した。 そ して, 同条例 が定め られ る背景お よび制定機関 を瞥見
例 の諸規定 を掲 げてい るか ら, それ以後の版 を調べ る必要性 を感 じなか った
し, この条例のテ クス トが掲 げ られている文献の中で,第一義 的な史料 とし
ためであ り, その よ うな版 の存在 を否定 してい るわけ ではないO
て, いずれ を取 り上げ るべ きであ るか を検討 した。
上記文献の (1) は, "
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この問題 は,一見小 さな問題 であるかのような印象 を与 えるか もしれ ない
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6
8
1
年 版 で あ るO
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"で あ り, お そ ら く Pa
が, その実, そ うではな く, む しろ基本的な,かか る史的研究 を行 うに あた
もしそ うであ るな らば,Pa
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s
usが参考 に した1
6
8
3
年版 よ りも 2年早 く公
って,最初 に解決すべ ききわめ て重要 な間喝 で あ る と言わ なければ な らな
刊 されてい るわけで,1
5
5
6
年セビー リャ海上保 険条例 を検討す る場合には,
い。 史料 それ 自体 としての価値 は もちろん, もし不正確 を史料 に基づ いて検
これ をまず第一義的基礎 史料 として参考 にすべ きであろ う。詳細はいずれ検
討すれば, その換討結果が一層不正確 になるのは必然であ り, その ような研
討す る予定 であるが, とりあえず瞥見すれば, わずか 2年の違 い とはいえ,
究の姿勢はこれ を最 も回避すべ き ところであろ うd
2
1
6
1
5
5
6年セ ビJ
)ヤ海上保除条例研究序説
(
近見正彦)
言 うまで もな く,筆者が結論付 けた,1
5
56年セ ビー リャ海上保 険条例 の検
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討に際 して第一義的に使用すべ き史料が Recopi
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Ⅴ,Madr
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6
81
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Ⅴ,Madr
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d,1
97
3,pp.
9
6
1
0
5であ ることは,
Re
ynosdel
asl
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l
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s(
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e
8.
),
決 して絶対的ではない。現在 の筆者の検討 か らそ う言える と言 ったに過 ぎ
ず, その点では, あ くまで も筆者の緯論 は相 対的であって,今後の史料 の発
見, あ るいはよ り細部 にわたる地道 な検討の結果,翻 さなければならない事
態が生 じるの は, 当然 であ る。海上保 険条例 が定め られたのは1
5
5
6
年 であ
c
opi
l
ac
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onが公刊 されたのは1
6
81
年 であって, その間には1
0
0
年
り,上記 Re
c
opi
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onよ りも条例制定時に
を超 える時間が経過 しているか ら,将来 Re
近 い史料が発見 され る可能性 は多分 にあるのである。 しか しなが ら,現在 の
史料状況お よび筆者の,不十分 ではあるが,一 応の検討 の結果,上記の よう
なこととなったわけで,少 な くとも筆者が本条例 について今後研究 を進め る
に当たっては,上記史料 を第一義的に使用 してい きたい と考 えている。
8
) 井上 前掲論文,p
p
.
3
8
,3
9
.
9
) Cf
.
S
mi
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R.
S,
,
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