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「備後府中 首無地蔵菩薩」 >『礼賛記』>霊験譚_全目次

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「備後府中 首無地蔵菩薩」 >『礼賛記』>霊験譚_全目次
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>霊験譚_全目次
霊験譚_全目次
1巻-巻頭
賛辞
1巻-01
足の痛みいえる
(広島県府中市)
1巻-02
頭痛がなおる
(広島県府中市)
2巻-巻頭
地蔵経呪文
2巻-01
胃痛がいえる
(広島県府中市)
2巻-02
てんかんの発作軽くなる
(島根県隠岐郡)
2巻-03
神経痛が治り孫の成績よくなる
(広島県芦品郡新市町)
3巻-巻頭
地蔵の十福
3巻-01
耳が聞える様になる
(福山市)
3巻-02
腰痛がいえる
(府中市)
3巻-03
学校嫌いになつた子が行く様になる
(広島県芦品郡新市町)
3巻-04
母の全身不随が好転す
(府中市)
3巻-05
腰痛が治る
(府中市)
4巻-巻頭
地蔵菩薩
4巻-01
娘の安産
(府中市)
4巻-02
五年ごしの頭痛いゆ
(府中市)
4巻-03
ざこつ神経痛いゆ
(府中市)
4巻-04
リユーマチ軽癒す
(広島市)
4巻-05
安楽往生
(府中市)
5巻-巻頭
地蔵尊讃
(福山市)増川 貢
5巻-01
足首のねんざと心臓うらの痛み消え視力快方に向う
(府中市)
5巻-02
孫の扁桃腺肥大いゆ
(府中市)
5巻-03
長年の痔疾なおる
(府中市)
5巻-04
右腕の痛み快癒す
(府中市)
5巻-05
腰痛1日でいえる
(府中市)
5巻-06
二十五年来のリユーマチいゆ
(府中市)
5巻-07
老衰の母回復す
(府中市)
6巻-巻頭
地
杉原緑水
6巻-01
心臓病が快方に向い妻の肩こりが快癒す
(滋賀県草津市)
6巻-02
肝臓病、貧血好転
(鳥取県米子市)
6巻-03
痔ろう(瘻)いえる
(府中市)
6巻-04
すねの痛み即座にいゆ
(府中市)
蔵
讃
歌
1
6巻-05
根生坐骨神経痛いゆ
(府中市)
6巻-06
妻の往生
(府中市)
6巻-07
全身ひふ病のかゆみとれる
(東京都小平市)
6巻-後記
編集後記
編者
7巻-巻頭
「□奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶」解義
伊藤古鑑
7巻-01
お地蔵様の麗姿を拝す
(広島県御調郡御調町)
7巻-02
両足指の痛さ腰痛、家内の頭痛がなおって
(滋賀県草津市)
7巻-03
長年の頭痛平癒と他にお蔭を戴いたことについて
(滋賀県草津市)
7巻-04
妻の心臓病の快方と「喉」の痛みが一夜でとれた
(名古屋市千種区)
7巻-05
嫁の難産が安産になった
(滋賀県栗太郡栗東町)
7巻-06
孫の火傷後遺症手術せず治る
(滋賀県草津市)
7巻-07
主人の糖尿いえ心臓病軽ゆす
(広島県御調郡御調町)
7巻-08
息子の酒乱がしずまる
(広島県芦品郡)
7巻-09
ノイローゼが治る
(広島県高田郡)
7巻-10
頭痛が治りじんましんも出なくなる
(府中市)
7巻-11
首の痛み治る
(岡山県倉敷市)
7巻-12
両足変形性神経痛が治る
(岡山県倉敷市)
7巻-13
ひょうそう寸前の小指のいたみ治る
(府中市)
7巻-後記
あとがき
編集部
8巻-巻頭
仏説延命地蔵菩薩経
8巻-01
胃潰瘍がなおる
(草津市)
8巻-02
息子の尿道結石が治癒す
(滋賀県守山市)
8巻-03
六年ごしの頭痛がなおる
(府中市)
8巻-04
20年来の頭痛いゆ
(井原市)
8巻-05
はさまれた指の痛み快癒す
(府中市)
8巻-06
目ヤニが出なくなる
(福山市)
8巻-07
あっという間の安産
(倉敷市)
8巻-08
娘の関節リウマチスよくなる
(井原市)
8巻-09
鼻づまり治療外
(井原市)
8巻-後記
あとがき
9巻-巻頭
巻頭言:地蔵菩薩の本願
栄明寺住職
9巻-01
交通事故による人事不省よりよみがえる
(芦品郡新市町)
9巻-02
盲腸ゆ着の痛み一日半にて治る
(沼隈郡沼隈町)
9巻-03
長年の頭痛一回の参拝でいゆ
(益田市)
2
9巻-04
右足変形関節炎いゆ
(府中市)
9巻-05
すい臓の病いえる
(尾道市)
9巻-06
クラブ経営の好転
(福山市)
9巻-07
枯死寸前の松よみがえる
(福山市駅家町)
9巻-08
ぼうこう炎による脚のはれひく
(福山市)
9巻-09
汗かきがなおる
(福山市)
9巻-10
じんぞうの痛みとれる
(御調郡久井町)
9巻-11
商売が上向く
(福山市)
9巻-後記
あとがき
編集部
10巻-巻頭
巻頭言:「生
10巻-01
高血圧が下がる
(広島県府中市)
10巻-02
頭痛即座になおる
(広島県福山市)
10巻-03
神経痛(重症)なおる
(広島県芦品郡新市町)
10巻-04
娘のいぼが一週間で消える
(広島県府中市)
10巻-05
神経痛、リユウマチいゆ
(広島県福山市)
10巻-06
神経痛並びに脱腸のいたみ治る
(広島県深安郡神辺町)
10巻-07
事故による頭痛・足痛いゆ
(広島県福山市)
10巻-08
腸のいたみなおる
(岡山県総社市)
10巻-09
孫の全身やけどがなおる
(広島県府中市)
10巻-10
指の関節と腰の痛みいゆ
(広島市坂新町)
10巻-11
会社業績の向上
(岡山県倉敷市)
10巻-12
ゼンソク一日にして治る
(京都市中京区)
10巻-後記
あ
編集部
11巻-巻頭
地蔵菩薩の由来
11巻-01
胃ガンの奇蹟的な好転
(広島県沼隈郡沼隈町)
11巻-02
センジヨウカンセンの奇病より救われる
(山口県岩国市)
11巻-03
女の子を授る
(滋賀県草津市)
11巻-04
右目視力快方に向う
(滋賀県草津市)
11巻-05
二十年来の横腹の鈍痛いゆ
(広島県御調郡向島町)
11巻-06
住宅資金の調達がかなう
(広島県福山市)
11巻-07
帝王切開の予定が安産に変る
(広島県府中市)
11巻-08
手足のふるえが治る
(岡山県笠岡市)
11巻-09
腰・手足のしびれ(ヘルニヤ)が治る
(島根県邑智郡)
11巻-10
脛の神経痛いゆ
(広島県福山市)
と
が
死
一
如」
杉
き
3
原
茂
11巻-11
首無地蔵さまとの御縁
(広島県呉市)
11巻-12
孫の腎う灸が治る
(広島県福山市)
11巻-13
乳房の痛みが治る
(広島県府中市)
11巻-14
お地蔵様がお腹に上り胃かいよういゆ
(広島県福山市)
11巻-後記
あ
き
編集部
12巻-巻頭
首無地蔵菩薩堂宇落成慶賛文
栄明寺
12巻-01
交通事故傷害が早期に全治に向う
(滋賀県草津市)
12巻-02
七年ごしのゼンソクいゆ
(広島県府中市)
12巻-03
孫の中耳炎治る
(岡山県小田郡矢掛町)
12巻-04
十年来のゼンソクが楽になる
(広島県尾道市)
12巻-05
神経痛がいえ店の始末がうまくゆく
(岡山市)
12巻-06
四年ごしの胃潰瘍なおる
(広島県深安郡神辺町)
12巻-07
心臓病平癒
(広島市)
12巻-08
旅行中足の激痛がいえる
(広島県府中市)
12巻-附記
附記銅製大香炉の寄進
礼拝堂建立
13巻-巻頭
巻頭言_合掌の心
13巻-01
ぎっくり腰が即座になおる
(浜田市)
13巻-02
頭痛がお地蔵さまのタオルでなおる
(松江市)
13巻-03
船酔い車酔い並びに腰の痛みがなおる
(松江市)
13巻-04
膝の半月板が消える
(松江市)
13巻-05
尾骨の痛み消ゆ
(松江市)
13巻-06
腰の打撲傷がなおる
(松江市)
13巻-07
足の痛みがなおる
(松江市)
13巻-08
神経症がなおる
(松江市)
13巻-09
きついノイローゼがなおる
(松江市)
13巻-10
右肩腕が上がるようになる
(松江市)
13巻-11
体力に自信が付く
(平田市)
13巻-12
妻の慢性中耳炎がなおる
(松江市)
13巻-13
主人の肝臓病と私の健康回復す
(島根県玉湯町)
13巻-14
頭痛が治る
(米子市)
13巻-15
高血圧が下がる
(松江市)
13巻-16
足の座りだこが消える
(松江市)
13巻-17
膝の痛みが治る
(島根県伯太町)
13巻-18
孫のおむつがとれる
(松江市)
と
が
4
中村宏海
13巻-19
低血圧がなおる
(松江市)
13巻-20
諸体験抄
(松江市)
13巻-21
痔病の苦痛から解放される
(福山市)
13巻-22
私のゼンソクが癒え主人の肺炎と酒癖が治る
(草津市)
13巻-23
脊椎腫瘍の手術後良好
(福山市)
13巻-24
すばらしき母の往生
(府中市)
13巻-25
甲状腺の腫れがなおる
(三次市)
13巻-26
顔のひきずりの痛み軽癒す
(倉敷市)
13巻-27
再度お地蔵様の御姿を拝す
(広島県御調町)
13巻-28
左手の痛み消える
(府中市)
13巻-29
すばらしき事業の展開
(岩国市)
13巻-30
妻の不思議な往生
(福山市)
13巻-31
お地蔵様夢枕に立たれ左脚関節癒ゆ
(府中市)
13巻-後記
編集後記
編者
14巻-巻頭
地蔵賛吟(画像)
(広島市_斎
14巻-01
地蔵の御姿を拝し脱肛収まる
(府中市)
14巻-02
法悦の境に入り中風の主人立ち上がる
(三原市)
14巻-03
腰の痛み直り毒蛇の難を逃れる
(三次市)
14巻-04
強度の頭痛と孫のぜんそく癒ゆ
(兵庫県村岡町)
14巻-05
目の瞬(まばた)きの好転
(広島市)
14巻-06
植物人間となった友人へのお蔭
(福山市)
14巻-07
癌病の夫の安楽往生
(茨城県真壁町)
14巻-08
御光の中に亡父母を拝し大手術の成功
(茨城県真壁町)
14巻-09
痔と頭痛の治癒
(竹原市)
14巻-10
むち打ち症の治癒と事業の好転
(岡山市)
14巻-11
前立腺肥大症の苦しみ癒ゆ
(福山市)
14巻-12
子の胃潰瘍癒ゆ
(府中市)
14巻-13
骨折が癒え孫の志望大学への入学
(広島県御調町)
14巻-14
全身の関節リューマチが治る
(柳井市)
14巻-15
喘息がおさまる
(広島市安芸区)
14巻-16
主人の安楽往生
(山口県玖珂町)
14巻-17
足のむくみ治る
(山口県熊毛町)
14巻-18
父の病の回復
(柳井市)
14巻-19
脈拍の中断がなくなる
(柳井市)
5
宗六)
14巻-20
腰痛がいえる
(柳井市)
14巻-21
子のノイローゼが治まる
(柳井市)
14巻-22
母の口が利けるようになる
(岩国市)
14巻-23
歩行困難の腰痛が楽になる
(岡山市)
14巻-24
臑の痛み癒ゆ
(福山市)
14巻-25
動脈硬化がなおり貸した土地が返る
(笠岡市)
14巻-26
ぜんそくが癒ゆ
(笠岡市)
15巻-巻頭
春秋地蔵賛吟
広島市_齋
15巻-01
失明寸前を救われる
(福山市)
15巻-02
脳内出血が治る
(大阪府吹田市)
15巻-03
狭心症が治る
(鳥取市)
15巻-04
糖尿病・ヘルニア・胃かいようの治癒
(福山市)
15巻-05
黄金の御姿を拝す
(府中市)
15巻-06
数々の御蔭を頂いた主人の大往生
(草津市)
15巻-07
子供が交通事故より助かり私の肝臓癒ゆ
(広島県沼隈町)
15巻-08
御地蔵様の姿を拝し肝臓の好転
(松山市)
15巻-09
痔と耳の痒いのが癒ゆ
(尾道市)
15巻-10
母の耳が突然聞こえるようになり大往生
(福山市)
15巻-11
倒産後の立直りと大腸ガンの妻の回復
(福山市)
15巻-12
子宮ガンの兆候消える
(広島県御調町)
15巻-13
ぜんそくが軽くなる
(神戸市須磨区)
15巻-14
家中に平安が戻る
(福山市)
15巻-15
メニエール病が癒ゆ
(福山市)
15巻-16
両足すねの痛みが治る
(三原市)
15巻-17
肝硬変が一時持ち直す
(三原市)
15巻-18
主人の心筋梗塞が治る
(広島市中区)
15巻-19
椎間板ヘルニアが治る
(広島県吉舎町)
15巻-20
足親指の痛み治る
(広島市)
15巻-21
頭痛がなおり家運の好転
(福山市)
15巻-22
御地蔵様の霊姿を拝す
(笠岡市)
16巻-01
数々の御地蔵の御利益
(府中市)
16巻-01-1 地蔵尊が家に来られる
16巻-01-2 路上にてお地蔵さんを拝す
16巻-01-3 お地蔵さんのお迎え
6
宗六
16巻-01-4 靴を揃えて下さる
16巻-01-5 お聞き届けを光をもって知らされる
16巻-01-6 家出少年を連れ戻される
16巻-01-7 子供が授かる
16巻-01-8 大腸ガン癒える
16巻-01-9 お地蔵さんの足音
16巻-02
脳打傷の奇跡的回復
(岡山市)
16巻-03
膵臓炎がよくなる
(井原市)
16巻-04
頑固な肩のこり治る
(兵庫県村岡町)
16巻-05
足の痛み一夜にして癒ゆ
(広島県向島町)
16巻-06
両膝関節の痛み癒ゆ
(岩国市)
16巻-07
四年ごしの頭痛が治る
(福山市)
16巻-08
子宮ガンが消える
(府中市)
16巻-09
のどの炎症一日にて治る
(神奈川県伊勢原市)
16巻-10
十二指腸潰瘍・胃潰瘍の治癒
(福山市)
16巻-11
友人の膝の痛み癒ゆ
(庄原市)
16巻-12
右肩と両すねの痛み癒ゆ
(府中市)
16巻-13
関節リュウマチいゆ
(府中市)
16巻-14
左右の腰痛いゆ
(府中市)
16巻-15
父の呼吸困難が楽になる
(福山市)
16巻-16
腰痛が一回の参拝で癒ゆ
(岡山市)
16巻-17
白血病・パーキンソン病癒ゆ
(広島市)
16巻-18
外孫が故郷に帰る
(松山市)
16巻-19
急性心筋梗塞がなおる
(松山市)
16巻-20
糖尿病・骨髄炎癒ゆ
(福山市)
16巻-21
肩の痛み癒ゆ
(石川県松任市)
16巻-22
耳朶の腫れ癒ゆ
(香川県山本町)
16巻-後記
あとがき
17巻-01
営業成績の向上と心臓病の好転他
17巻-01-1 宮業成績向上
17巻-01-2 心臓病の好転
17巻-01-3 縁談が決まる
17巻-01-4 ノイローゼが治る
17巻-01-5 姉の腎臓病の好転
7
(岡山市)
17巻-01-6 家庭円満が戻る
17巻-02
骨ガンの苦痛なく父の往生
(広島市)
17巻-03
頭痛が癒える
(奈良市)
17巻-04
五十年来の中耳炎癒ゆ
(佐伯郡湯来町)
17巻-05
心臓弁膜症いゆ
(福山市)
17巻-06
卵巣腫瘍等による痛み消ゆ
(芦品郡新市町)
17巻-07
後頭部打撲傷がなおる
(福山市)
17巻-08
脳梗塞と足が快方に向う
(三次市)
17巻-09
孫の難聴癒ゆ
(広島市)
17巻-10
精神異常が正常に戻る
(倉敷市)
17巻-11
股関節の痛み消ゆ
(広島市)
17巻-12
孫のおねしょが止り肩のこり治る
(福山市)
17巻-13
脳卒中がよくなる
(三豊郡山本町)
17巻-14
心臓発作が治る
(三豊郡山本町)
17巻-15
痔瘻が直り子宮病癒ゆ
(尾道市)
17巻-16
ヘルニアの後遺症癒ゆ
(姫路市)
17巻-後記
あとがき
18巻-01
仏縁の不思議
18巻-02
霊視益々冴える
(岐阜県御嵩町)
18巻-02-1 諸仏が見えるようになる
18巻-02-2 大学合格の霊視
(岡山県井原市)
18巻-02-3 自動車事故の霊視
18巻-02-4 理容店の開業
18巻-02-5 縁談の霊視
18巻-02-6 阪神大震災の予知
18巻-03
無事出産及行方不明者の発見他
18巻-03-1 娘の無事出産
18巻-03-2 十五年間の行方不明者が見付かる
18巻-03-3 弟の脊髄ガンの好転
(岡山県総社市)
18巻-03-4 バイクでの事故、短期間の治癒
18巻-03-5 胆石の痛み一夜にして治る
18巻-04
姉の喘息が癒え、娘の声が出るようになる
(福山市駅家町)
18巻-05
不思議な縁
(ブラジル国フォルタレサ市)
18巻-06
視力の回復
(広島県神石郡)
8
18巻-07
すねの水たまりが無くなる
(加古川市)
18巻-08
腸に転移した癌が消える
(広島市)
18巻-09
腰痛が癒える
(広島県御調町)
18巻-10
足の痛み治り数々のお陰
18巻-10-1 老婆の足腰の治癒他
(岡山県井原市)
18巻-10-2 縁談が整う
18巻-10-3 盗まれた自転車が戻る
18巻-11
足の痛み癒ゆ
(兵庫県)
18巻-12
首の付け根の痛み癒ゆ
(福岡県嘉穂郡)
18巻-13
仕事がスムーズにゆく
(奈良県生駒市)
18巻-14
孫の視力回復
(福山市)
18巻-15
手首を切断せず癒ゆ
(広島県府中市)
18巻-16
事業の発展
(東広島市)
18巻-17
滲出性内耳炎癒ゆ
(呉市)
18巻-18
むち打ち症癒ゆ
(御調郡久井町)
18巻-19
半身不随の好転
(佐賀県鎮西町)
18巻-20
盲腸炎癒ゆ
(高松市)
18巻-21
咽の悪性リンパ腺腫の治癒
(倉敷市)
18巻-22
阪神大震災時の不思議な体験他
18巻-22-1 背中の痛み癒ゆ
18巻-22-2 左足の痛み癒ゆ
(神戸市垂水区)
18巻-22-3 娘の高校入学
18巻-22-4 父の安楽往生
18巻-22-5 阪神大震災
18巻-23
震災後理想の住宅に住む
(兵庫県芦屋市)
18巻-後記
あとがき
19巻-巻頭
表紙、巻頭言、写真(掲載)
19巻-01
奇跡を起こす信じる力(全文掲載)
(愛知県犬山市)
19巻-02
一枚のタオルで子宮ガン消ゆ(全文掲載)
(岐阜県可児市)
19巻-03
地蔵写真で腹痛が癒え耳鳴りが治る(全文掲載)
(島根県松江市)
19巻-04
膝関節の痛みいゆ(全文掲載)
(福山市柳津町)
19巻-05
鳴き癖の赤ん坊と義父お蔭を頂く(全文掲載)
(岐阜県加茂郡)
19巻-06
尊敬する母親の大往生(全文掲載)
(埼玉県春日部市)
19巻-07
金色の光を拝し足腰治る(全文掲載)
(府中市出口町)
9
19巻-08
腹膜炎癒ゆ(全文掲載)
(広島市)
19巻-09
脳梗塞いゆ(全文掲載)
(岡山県浅口郡)
19巻-10
骨髄炎の疑い晴るる日(全文掲載)
(広島県芦品郡)
19巻-11
ゼンソクが癒え主人は交通事故より守られる(全文掲載) (広島県竹原市)
19巻-12
直腸の病の好転(全文掲載)
(府中市出口町)
19巻-13
頸骨のずれの痛み癒ゆ(全文掲載)
(福山市日吉台)
19巻-14
メニエール病癒ゆ(全文掲載)
(安芸郡府中町)
19巻-15
心臓病の好転他(全文掲載)
(岡山県鴨方町)
19巻-16
ガンの治癒(全文掲載)
(香川県観音寺市)
19巻-17
鼻炎が癒え及び母の大往生(全文掲載)
(福山市鞆町)
19巻-18
鐘楼建立(全文掲載)
編集部
19巻-後記
あとがき
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第1部>賛辞
『地蔵大菩薩礼賛記』第1部
賛辞
尊き御慈悲によりわが願い
かなえ下されたまいし地蔵
大菩薩にたいしそのお蔭を
記録し永く御徳を賛仰し奉る
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第1部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第1部
一、足の痛みいえる
(広島県府中市)K男(71才)
私は一年ほど前より両足のすねのあたりに、水がたまり始め三回も四回も水抜きをしてもらつていまし
た。歩いたり、つくばんだりすると痛みを覚え、うば車にたよつて歩く状態であり坐ろうにも足が痛く
て曲られず、親戚の法要に行つても恥かしい話ながら、仏前に足をなげ出して坐る有様でした。夜は時
おりにがり、にがり始めると、一晩中ねむれぬ日が続いていました。お医者にも度々お世話になつてい
たが、はかばかしくなく足の筋肉縮少と云う病名がついていました。宮詣りにも、石段の上り下りに難
渋し、上りはとも角も下ゎ妊は、大変難儀していました。
昭和五十二年六月二十日のこと、庭先で台に釘打作業をしていた時、知人の老婦人より最近地・ゥら掘出
されたお地蔵さんのお祭りが、今日あるから参りましようと誘われました。どこにそんな地蔵があるか
もしらず、又不思議なお地蔵さんである話にも半信半疑でさそわれるまま、府中市胡町の東郊辻高居の
丘に行きました。
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そこには、首のない古びた小さい石のお地蔵さんが、農道に祀つてありました。四、五人の参拝者がお
られました。つれの知人には、石の地蔵さんのお蔭などあろう筈はないと、不遜な事も申しておりまし
た。
祭りも終り、接待にお供えのお酒をコップに三杯もいただいて飲みました。丘を降りて、その足で酒屋
に寄つて一杯、更に別の酒屋で又一杯、合計五杯も飲んだのでその夜はいささか苦しかつた。そして血
便が出た。お地蔵さんの酒で止めておけばよかつたものを、よけいによからぬ酒を飲んだ為の罰でると
後悔した事でした。然しながら不思議な事に、血便も一回きりで止りました。之まで腸が悪い故か、酒
を飲みすぎると必ず一日数回一週間は続けて血便があつたものをと、その夜は少しばかり不思議に思い
ました。
この事以来、何かひかれる様にお地蔵参りが始りました。早い時は朝の四時前、雨風にかかわらずお参
りし、お経をあげておりました。
当初お地蔵を祀つた場所には、何の施設もない、お年寄が休む所もないのを見て、腰掛をケ作り寄進し
ました。皆様から大層喜ばれましたので足の痛いのを我慢しながら、更に一ケを作つて供えました。
七月一日頃からでした。足の痛みが薄らぎ始めたのです。そして老妻が大阪に出向いた晩、一人家に坐
つている時足が自然に曲つたのです。何の痛みもない。全く不思議でした。それと同時に大きな喜びが
湧き上つて参りました。まさしく、地蔵菩薩のお蔭であると信ずる以外に考えようのない心からの喜び
でありました。
長い間、あれほど苦しんだ足の痛みが消えたのです。何故直つたか、などの理屈はいらない現実にここ
に直つている事実がある。一心にお参りを始めて十日目です。不思議と云う外ありせん。
七月二十日には、芦田川に魚取りに行きました。水の中に入りましたが何ともありませんでした。あれ
ほど悩んでいた痛みが、これほど早く快癒するとは想像もしていませんでしたし、丸で今はうその様で
す。そして、うば車ももはや必要がなくなりました。毎日お礼参りにたのしく地蔵坂を上り下りしてお
ります。
尚、その後歯ぐきがはげしく痛みましたので、この歯をなおしたまえと、地裁菩薩のお経を一心にあげ
ておりました所、五、六日してぴたりと痛みもおさまりました。
これもお蔭と思つています。
この尊い御地蔵菩薩に、心からお礼申し上げると共に、いつまでも、その功徳を鑚仰し奉ります。
南 無 大 地 蔵 菩 薩
南 無 大 地 蔵 吾 薩
合
掌
昭和五十二年九月十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第1部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第1部
二、頭痛がなおる
(岡山市)S女(44才)
今生の五月の初め頃でした。
急に頭がいたくなり、後頭部がザクザクしてたまりませんでした。すぐ直るだろう位に思つていました
が仲々直りません。お医者に見て貰いましたが、自律神経失調症との事でした。頭がはげしくいたむ時
には、道を歩いていても、まるで宙に浮いた様な気持でした。この痛みを何とかして、とりたいと思い
.「針」(注:鍼)にも半月ほど通って見ました。よくなりませんので、良いと聞いた所には片端から
当り、療法も試みて見ました。岡山の諸々にある効めのあると云われる地蔵さんをも随分拝んで見まし
た。ある宗教にも参りました。が、どうしても痛みがとれせせん。
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その頃、山陽新開に府中市で首無地蔵が堀り出された記魔ェ目に止りました。堀り出される迄のいきさつ
や、その後の治癒例などが報じてありました。このお地蔵さんにおすがりすれば或は直るかも知れない
と思つて、昭和五十二年七月三日府中市の首無地蔵をたずねて行きました。新聞の通りお首のない小さ
なお地蔵さんでしたが、直りたい一心で、お願いし拝んで帰りました。
それからと云うもの、毎日頭の痛みがありましたのに、一週間の中に二日位いたんだ程度で痛まない日
が多くなりました。この地蔵さんにお願いすれば確かに聞いて下さると、自信が深まり一週間後に二度
日のお参りを致しました。頭の痛みも一層うすらいでゆく様な気が致しました。
七月二十日、当日はお地蔵さんの例祭でした∽で三度日のお参りをしました。その夜の事です。今まで
にない痛みが急におそつてまいりました。先導者より教わりました地蔵経
「おんかかかびさんまいそわか」
を繰返し一心にとなえておりました。
すると、突然頭の中がビクツとした様な衝撃を覚えました。それを境に、痛みはうす皮をはぐ様によく
なりはじめ、朝方には頭痛は完全におさまつていました。
之が最後の痛みでした。九月二十日すがすがしい気持と喜びの心をいだいて、お地蔵様にお礼に参りま
した。何とお礼を申してよいかわかりません。御徳高く慈悲深きお地蔵様、有難う御座居ます。ありが
とうございます。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
南 無 地 蔵 大 菩 薩
合掌
昭和五十二年九月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第2部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第2部
一、胃痛がいえる
(府中市)U女(50才)
今年七月の始頃でした。急に胃がにがり始めました。下痢も伴いかんけつ的に痛みがおそい、きりきり
とさし込む有様でした。体には自信があつた為に少々の事では休まない私も二日間は完全に休みました
。
元元、アルコール類が大好きで毎夜の如く酒を呑み、酔つたまま眠るのが常でした。今年三月頃病院で
診察を受けた時、肝臓がはれているとの事でしたが別に体の異常を自覚しなかつたので気にも留めず働
き続けて来ました。だがこの胃の痛み丈は閉口しました。痛み始めてすぐ治るだろう位に思つて薬もの
まず医者にも見せずがまんしていました。
当時お地蔵のある丘の下あたりの出口町に姉が住んでおり立寄つた時、姉より首無地蔵の話をきかされ
てお閧ワした。
痛み始めて三日目、胃痛を押して空木方面に仕事に行く途中、出口町の産業道路の坂の上り口に、一〇
〇メートル上に首無地蔵がある標識の幟を確認しました。仕事を終つて夕方五時半頃、坂下にダンプカ
ーを置いてエンヂンをかけたまま上り、お地蔵を拝みました。毎朝仕事に出掛ける前には必ず家のそば
にある先祖の墓に参る習慣がある故にお地蔵の話にも別に抵抗も感ぜず聞いていたので素直な気持でし
た。線香をあげ
「首無地蔵様、家内を安全にお守り下さい。今胃が痛むのでこの痛みを止めて下さい」
と祈りました。
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拝み終つて立上つた時、側に二十才前後の青年(この人もお蔭をもらつていた事を後に知る)が椅子に
腰掛けていて、その青年に何気をしに胃の痛みを話した時、「お地蔵にさわつてお願いして御覧なさい
。皆さんもそうしていらつしやいますよ」と教えてくれました。
その通り石の地蔵の肩のあたりをしばらくなでて立上り板道を下りはじめました。その時でした。不思
議な事に胃の痛みがピタリと止つているではありませんか。あれほどにがり不快だつた胃痛がまるでう
その様にけろつと治つています。自分ながら驚きました。
お地蔵の力を信ずる以外には考えられませんでした。薬は呑んでいないし、昼間痛くても夜は酒でごま
かしていたし、治るべくして自然に治つたと云う様な状態ではありませんでした。
これ以来三ケ月経過しているが何の痛みもありません。ビールやウイスキーは前と変らぬ位毎夜呑んで
います。
今、毎朝仕事を始める前に必ず小一里離れたこの丘のお地蔵にお礼参りしています。何か一日中安心感
があります。帰依の心は益々深まるばかりです。
御地蔵菩薩に対して心から御礼申し上げます。
合 掌
昭和五十二年十月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第2部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第2部
二、てんかんの発作軽くなる
(島根県隠岐郡)S男(20才)
私は小学校の四年生の頃より、てんかんの発作がありまして成人した最近までこのてんかんには悩まさ
れ続けておりました。いつ発作が起きるか分らず月に何回も起き、多い月には十回にも及ぶ事がありま
した。発作が起さると急に倒れて五分間以上、長い時には五、六時間目がくらんだままで無意識の状態
がつづく有様でした。
学校卒業後、幸にして府中市の製造工場に今年三月二十四日に就職する事が出来ました。工場の人達は
大変に親切でした。
今年の六月頃でした。会社の同僚から首無地蔵の事を教えて貰いお願いすればどんな病気でもいやして
下さるとの事でした。場所をよく聞いて見れば会社の独身寮から工場に通う別の小径を通れホ道端にある
事がわかりました。
それから毎日その道を通り出勤の途次、及帰りに立寄つてお地蔵に祈りお願いしておりました。足が曲
らなくて困つておられた老人の方が地蔵参りを始めて十日目に痛みもとれ完全に足が曲る様になつて毎
日お礼参りしているのを見て自信を深め、お参りをつづけている中にあまり発作が起きていないのに気
がつきました。
六月以来十月迄に指折り数えて見ますと五、六回しか発作は起きていない、しかもそれも大変に軽くて
済んでおり三十秒位の目まいであり、長くて一、二分程度で、しばらくしやがんでいると治つています
。いつ発作が起きるかわからず、びくぴくした重苦しい毎日でしたのに気持が大変に楽になつている事
にも気付きました。お地蔵に頼り切つている安心感からでしようか。それにしても、てんかんが是ほど
軽くなつたのはお地蔵のお蔭としか云い様がありません。いよいよ深く心はお地蔵に傾いてゆきます。
朝出動の時など引きつけられる様に足がお地蔵のある小径に向います。必ず全治して下さるに達いない
と一心にお願いしています。
今は毎日を楽しく働いております。このお地蔵に偶然に出くわした事が私の生きる希望となり心の支え
となつております。
それにしましても首の無いお地蔵は誠におかわいそうです。早く首をつけて上げたいと思つています。
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お地蔵さん、有難とうございます。
昭和五十二年十月二十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第2部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第2部
三、神経痛が治り孫の成績がよくなる
(広島県芦品郡新市町)H女(73才)
府中市のこのお地蔵さんについては掘出された当時から知つておりました。もともと家の宗旨真言宗で
ありお大師様に帰依し、四国霊場巡りから神島巡礼はしばしば行つておりますので、夢のお告げで出現
したと云われるこのお地蔵には大変興味もあり、孫をつれて日曜日あたり時々参つておりました。
私には以前から軽い神経痛があり医者にも時折通つておりましたが、それほど重いものではありません
でした。
今年八月二十三日頃のことでした。急に右側の腰痛を覚え、右の腰が治つたと思うと今度は左側がいた
みだし、左の腰痛が治まると左のすねがひどく痛み始めました。お手洗に行つても足を曲げる事も出来
ずその痛さノ苦しみました。医者に行こうと思いましたが、ふと首無地蔵様の事を思い出し、その前に一
度お願いして見ようと思い出口町の地蔵様へ参りました。
一心に祈りました。足のいたみを治して下さいと一生懸命にお願い致しました。お地蔵様を拝んで家に
帰り手洗に行きました所、今迄のいたみが非常に楽になつているのに気づさました。いたみが体のどこ
からか抜けて消えてしまつた様な感じでした。大変おどろきました。そして不思議でなりませんでした
。それつきりお医者にも行かずじまいです。
誠に誠に私の願い事をよくきいて下さいましたので、毎日お家に居てお地蔵様に御礼申し上げ祈つてお
ります。
私の孫に小学枚五年生の長女Kと小学四年の次女Hが居ります。この二人の孫を連れて月一回お地蔵参
りをしています。孫も家では毎朝お地蔵様に合掌してお祈りをしています。お蔭様で二人共病気もせず
益々健康で過しています。学枚の成績も目に見えて向上しております。孫達もお地蔵には大変親しみを
覚え、夏に参拝した時二人は夫々画用紙にお地蔵様を写生しそのまま供えて帰りました。更に、ねん土
でお地蔵の形を造り夫々の机の上に置いて勉強の前には必ず手を合せて拝んでから勉強にとりかかつて
います。
この間学校で長女のKが、よい成績をとつた時にもらうホームラン賞を戴いて帰つておりました。
今後共益々お祈りしてお蔭を戴こうと思つています。
お地蔵様上本当に有難とう御座居ます。
合
掌
昭和五十二年十月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第3部>地蔵の十福
『地蔵大菩薩礼賛記』第3部
地 蔵 の 十 福
女
衆
聡
衆
神
人
病
明
人
明
泰
疾
智
愛
加
産
除
慧
敬
護
身
壽
財
穀
証
根
命
宝
物
大
具
長
?
成
菩
足
遠
益
熟
提
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(延命地蔵経)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第3部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第3部
一、耳がきこえる様になる
(府中市)K男(65才)
六月二十三日、長く失礼していたA様宅に日頃の御無沙汰旁々お詫びにふと立ち寄りました。その頃私
は耳の中に黒い塊が出来て取去った後も耳の穴がふさがつて、頭の中全体がどうしても何かのまくで覆
いかぷさつている様でとても難儀でした。時計の音も全く聞こえませんでした。
二月の初め頃より病院に通つておりましたが、その中だんだんと気分が悪くなり、血圧が上つて目まい
がおきて二度ばかり倒れた事もありました。その病院の帰りでした。A様宅にお寄りしたのは・・・
A様が四国参りをして帰られた後、五月十八日にA様の夢枕にお地蔵様が現れて掘り起こされ、その事
が新聞にのり岡山方面からも大勢のお参りがあるとの事、そして不思c義に皆様お蔭をもらつておられる
事、お参りの方々がお寄りになつて、どんなにしてお祭りをしてあげようかと毎日毎日その事でもちき
りだとの事でした。
私の話を聞かれたA様は
「帰りにお地蔵様の所によつて一生懸命誠の心でお願いをしてみられたら即座にお蔭をくれてですよ」
と話して下さいました。その足ですぐ参らせて戴きました。
それからしばらくして御近所の方をお連れして参つた日、丁度その日はお地蔵様の土台が出来て新しい
お堂でお祭りされる時でした。参らせて戴いて、ふと気がついた時、私の耳はもう何ともありませんで
した。
初めにお参りして以来病院へは一度も行きませんでしたが何と不思議なお蔭でしよう。それ以来例祭の
都度、又間の日にも何度か参らせて戴くたびに、いろんな導きを戴きました。もう本当にロで筆で言い
表わせない事が沢山ありました。こんなすばらしいA様と御縁がありこの方を通じて首無地蔵様の不思
議な御縁の廻り合せを戴きました事を心から感謝すると共にお世話をなさつていらつしやる方々、本当
に有難ぅ御座居ます。
どうぞ世の皆々様、体の事でお苦しみのお方、身の事情でお困りの方、本当に真心でおすがりしてよい
お蔭を戴いて下さい。
有難うございました。
合
掌
昭和五十二年十一月八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第3部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第3部
二、腰痛がいえる
(府中市)K男(65才)
年のせいであろぅか五、六年前より腰のあたりが痛み始めた。それが腰全体にひろがり、針(鍼)はも
とより、あんま(按摩)、おきゆう(灸)と色々試みていた。が一向に好転せず益々痛くなるばかりで
横になつてからすぐには起き上れず、立ち上るまでに苦労していた。
五月頃近所の人から首無地蔵の話を聞いた。大変よく聞いて下さるお地蔵さんとの事であつた。一度参
つて見ようと思つたが体に自信がなかつた。数日して意を決して歩いて出掛けた。百メートルほど歩い
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たが、とても歩けそうにないので引き返し自転車に乗つた。地蔵坂の下でおりて登督つたが可成り急な
坂なので大変苦しく、ようやく地蔵のある丘上までたどりついた。
朝の四時であつスが、その時刻既に人が参つていた。
「私は六十五才子年の男です。腰の痛みをどうか治して下さい」
と一心に祈つた。正面で拝み更にその当時はお堂がなかつたので後に廻つて拝み又正面にてお願いした
。
家に帰つてから片付けやら家事を少しやつて午後昼寝をした。三時頃日覚めた時、足を自然に上にあげ
て、ころつと寝返つて起き上つた。腰の痛みが全然ない。丸でうその様に治つている。きつねにつまま
れた様に不思議とも何とも云いようがない。
こんな鮮やかな治り方を人は信じてくれそうにない。それ以後腰は何ともないのである。あれほどもて
あました腰痛が一回参つただけで消えてしまつたのである。このお地蔵の力の偉大さに感服し感嘆する
のみである。
今妻が入院している。この地蔵菩薩におすがりし妻にお蔭をもらうべく真剣である。
偉大なる地蔵大菩薩様、有難とう御座居ます。
合
掌
昭和五十二年十一月十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第3部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第3部
三、学枚嫌いにをつた子が行く様になる
(広島県芦品郡新市町)寅年女(39才)
私には今年中学二年生の長男がおります。今年の七月の始め頃より今迄何事もなかつた学友関係が、ど
うした事か急にこじれ始めました。性格がおとなしい故か学枚で友達になぐられたり、手をよじられた
り散々にいじめられるらしく、学枚に行くのを極端にきらう様になりました。
九月の二学期が始まつてからは、四、五日登校しただけで、とうとう行かなくなつてしまいました。義
務教育だから行かなくては駄目だと、なだめすかしたが
「面白くもない学校になんか行く必要がない」
と一ケ月も休んでしまいました。
担任の先生も随分心配して下され、成績も大変よい方で学業をきらう子ではないニおつしやいました。近
くのお拝みや(屋)にも行つて相談しました。特殊の学校へでも行かせる決心もしておりました。
児童相談所にも相談に行くつもりにしていた丁度その時、近所の人から首無地蔵の事を聞きましたので
早速本人をつれて出口町のお地蔵様に参りました。お地蔵様に参ろうと子供を誘つた時、子供は別にい
やがりもせず素直について来ました。
私は八月の始め頃から
「子供がよくなります様に地蔵様引つぱつて下さい」
と願掛けをしてしばしば参つておりましたが、子供は三回ほど連れて来ました。
十月九日のこと急に子供が学校に行くと云い出しました。それ以後嫌がりもせず、大儀がりもせず登校
を続けています。朝、積極的に家を出る様になりました。
散々に手こずり心配した子供がようやく朗らかになり、元どうりになつてくれて、ほつと致しました。
お礼にとお地蔵様によだれかけをかけさせて貰いました。肩の重荷がおりた様です。お地蔵様は子供の
事をよく聞いて下さると聞いていましたが、是ほど早く聞き届けて下さるとは誠に有難い事です。益々
子供がよくなります様にとお参りを続けております。
御地蔵様本当に有難とうございます。
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合
掌
昭和五十二年十一月十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第3部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第3部
四、母の全身不随が好転す
(府中市)S女(60才)
府中市上山町に今年八十一才の実母が臥しています。昨年十一月七日のこと、倒れて四十日間意識不明
となり食べ物は全然通らず水のみで過しました。意識は回復しても全身不随となり寝たきりの日々とな
りました。医者も見放してしまいました。お大師様にもすがつて見ましたが、おモ(守)りする人から
年寄りだから駄目でしようと申されました。も早たよるものなく時を待つしかない状態でありせました
。
今年五月十八日お地蔵様が不思議な因縁で畑から掘り出されて祀られ、何にでもお願を聞いて下さる力
強いお方と聞きましたので、五月二十一日よりお参りを始め上山にいる母の事を一心に祈りよくなりま
す様毎日お願いしておりました。
六月縁{、上山へ母の見舞いに参りました。母は私の顔を見るなり此頃不思議に足の痛みが薄らいて来た
と申しますので「実は首無地蔵様に一生懸命母の事をお願いしているのだ」と告げると母は大変喜び「
私も一心に信心するからお前も信心しお参りを続けてくれ」と頼みました。
こうして更に一ケ月経ち七月始頃、母の許へ参りました。母は非常に調子がよいと云いますので足を曲
げさせて見ました。曲げる事の出来なかつた足が痛くもなんともないと云います。私自身も非常に不思
議に思い大変喜しくもありました。
家からお地蔵様には近いので朝夕二回は必ず参つておりましたが、八月の盆前つい二日間ほど参らない
日がありました。丁度この間痛まなかつた母の足が痛んだと後ほど母から聞いた時、小精の反応がてき
めんに現われる事を知り、いよいよ欠かすことなくお参りを続けました。
最近では右に左に一人で寝返りを打つております。先日里に行つた時には、肘枕をして盛んに頭を回転
しておりました。どこにも痛みはなく、昼は家人が留守をしていて夕方帰つても以前の様に足が痛いか
らさすつてくれと云う事もなく、身の廻りのことも皆が帰るまで我慢しており家人も大変に助かつてい
ます。まだ起き上がるところまではいつていませんが、毎日テレビは見ますし、つき切りで傍の者の手
を煩わす事もありません。
誰からも見放されていた母が地蔵菩薩によつて救われました。死ぬまで拝んでくれと母は云つています
が、母の気拝も非常に楽になつている様だし、私自身も重荷が下りた様に気が軽くなりました。逆に私
もお蔭を貰つているらしく体の調子が大変よろしいです。
誠に力のある慈悲深いお地蔵様です。今では、この丘の地蔵堂に参らなければ気がおさまらず、何か惹
かれる様に日参しております。
お地蔵様に感謝の心をこめて御礼申し上げます。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
合
掌
昭和五十二年十一月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第3部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第3部
五、足痛が治る
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(府中市)E男(66才)
私は十年前、脳軟化症にて府中N病院に丸一年間入院治療し、この病気の為右半身不随となり言語障害
を起す様になつたが信仰のお蔭で良くなつた。それからは(芦品郡)駅家町百谷に祭祀してある十二権
現様に十年間一ケ月も欠かす事なく月参りをしていた。今秋の初頃、脚に痛みを感ずる様になつた為外
科医の診察を受けた所、之は血管の障害で養生の方法はないと仰せられた為、以前の病気が再発したも
のと覚悟を決め、最早時の運命に任す外仕方がないと思い家族にも話さず例の十二権現様に参拝し、こ
のお参りが最後になるだろうと秘かに決心して頭から水をかぶり水ごりをとつた。
三時四十分、万能倉まで帰つた時、府中市出口町に首無地蔵ェあり霊験いちじるしい話を聞き其の足で早
速参拝した。
このお地蔵さんの前に立つた時、心から真剣にお祈を捧げた。坂を降つた所にある出雲教府中分院の側
まで歩いた時、それほど痛んでいなかつた脚がまるで針をさした様な痛みを覚えつつ、ようやくの思い
で二十米先の四つ角に辿りついた。そこに丁度停重していた自家用車を見付け、無理とは思いつつ府中
駅まで送つて貰えないかと頼んだ所、親切な人だつたので快く承知され乗せて戴いた。
車の持主は松江市の出身で鵜飼町の理髪店に勤務されており、妻がお産の為に松江に帰つており今一人
身の自由を体故、久佐町まで送つてあげようと云つて、わざわざ二里もある自宅まで送つて下さつた。
歩けそうもなかつた時に之も地蔵様のお蔭ではなかろうかと大変に感謝した。
それから出口町の地蔵様に対し仏説般若心経を一心に称えた。夜になつて脚は大変楽になつた。それ以
来、時折いたみはあつても仕事に差支えるほどでなく、不安もなくなり畑に出ては野菜作りに精を出し
て居る。
医者といえども誤診もあること、薬局の薬も適薬かどうか分らず、唯々店員の説明を信用する丈である
。私の体験から心を決め真心より祈りますれば、必ずお蔭はありますと思いますので病気でお困りの方
は地蔵様に御信仰をなさいます様におすすめ致します。
合
掌
昭和五十二年十一月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第4部>地蔵菩薩
『地蔵大菩薩礼賛記』第4部
地蔵菩薩
地蔵菩薩は釈迦仏の付託(フタク)を受けて釈迦仏の入滅後に弥勒(ミロク)仏が世に出る迄の間、無
仏の世界に住して六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、)の衆生を化導(ケドウ)する仏であ
ります。
土地豊穣、家宅永安、先亡生天、現在無寿等の利益を与えられます。我が国は袈裟(ケサ)をつけ多く
は錫杖(シャクジョウ)と宝珠を持つ形相円満な頭陀の像を石に刻して路傍に建てる。その霊験、由緒
、形像、安置の地名などにより、六地蔵、親子地蔵、子育地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、お初地蔵、とげ
ぬき地蔵、勝軍地蔵、延命地蔵等その他種々の名があります。
地蔵信仰は江戸中期より民間に浸透する様になり地蔵ほど親まれている仏はなく、子供の守護者として
の信仰も厚い。地蔵尊は生きてい髏l間の悩みを救う丈でなく死んだ人の罪まで救うとされております。
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注1、弥勒(ミロク)
慈氏菩薩とも称す。五十六億七千万年の後その住所兜率天(トソツテン)よりこの世に下降し、釈迦と
等しく成道正覚し衆生済度の為に説法すると信ぜられている将来仏
注2 兜率天(トソツテン)
欲界六天の第四位。七宝の宮殿で内外二あり、内院に弥勒菩薩が住して釈迦の化益に洩れた衆年を救済
する為に説法をすると云う。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第4部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第4部
-、娘の安産
(府中市)Y女(55才)
昭和五十二年五月末、Aさんからお地蔵様の話を聞き毎日三才の孫娘をつれお参りを始めました。その
頃からお地蔵様の写真を撮り始め皆様がほしいとおつしやれば差上げておりました。この様なことで功
徳がほどこせるならばと思い写真を焼増ししては、ほしい方にくばつておりました。
私もお地蔵様に色々なお願いも致しました。毎年足腰の悪いのにへいこう(閉口)しておりましたが今
年は忘れた様に元気です。そして一番嬉しい事は嬢の安産です。
お産が近づいて娘のお腹の水が沢山たまり大さくなりました。出産予定専日の十一月二十九日の前日、
娘が私の家に来まして、今日腰が張る様だと云いますのでちよつと診察してもらう位の気持で産婦人科
へ伺つたところ、すぐ産室に連れていかれました。いたみも来ないし根は元気な顔で笑つておりました
。私は病室でお地蔵様にお願いしておりました。しばらくして元気な初声がしますので驚いていますと
赤ん坊を抱いた看護婦が出てこられて、三千九百二十グラムもある赤ちやんでお目出度うと云われた時
、思わずうれし涙が出ました。その後先生から「水が人の倍もたまつていて私が手を洗つている中に水
が出て来て、それに乗つて流れる様に楽々と赤ん坊が出て来た。こんな楽をお産も珍らしい。それにこ
んなに多くの水であつたら変な赤ちやんが生れ易いのに大変丈夫で良い赤ちやんでした」と先生も嬉し
そうに話され、お蔭で水が飛んで床まで汚してしまつたと大笑され自分の事の様に喜んで下さいました
。
皆様もお蔭をもらつて戴きたくこの喜びを人に知らせて上げたい気で一杯です。赤ん坊が夜泣きしたと
聞けばお地蔵様にお願いし、何でもお願いの毎日です。
合
掌
昭和五十二年十二月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第4部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第4部
二、五年ごしの頭痛いゆ
(府中市)F男(84才)
私は五、六年前より急に頭痛を覚え始めた。もともと頑健な生れであり子供の時から病気など縁遠く、
大正時代の若い頃剣道四段の免状をとり教師までしていた体である。岩谷村の村会議員十六年、県の畜
産指導員十三年等、本業の農業はそつちのけにして公の為に日夜奔走していて、体の痛みなど考えても
見なかつた。それが寄る年波の故かとも思つてみた。毎朝目覚めた時頭痛がする。しばらく両側のこめ
かみを強くもまないと痛みがおさまらない。日中も頭のいたみがしばしばおそう。雨の日など一日中い
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たむ。頭痛がひどくなるとめまいがしてくる。無論医者にもかかつていたが血圧等高くもなければ低す
ぎてもいない。
お医者にも病名がはつきりせず効果的な治療の方法がなかつた。自分なりの考えや人の話を総合して見
ると若い頃剣道を村の青年団員に教えていた時、自身が稽古台になつて面打ちに好きな丈お面の上から
頭を打たせていた。
当時は何でもなかつたがそれが後遺症となつて何十年かたつた今頃頭痛となつて現れているのだろうと
あきらめていた。だが八十を過ぎて視力は多少弱つているものの、尚かくしやくとしている身の頭の不
快さ丈はやりきれなかつた。頭痛薬も身からはなした事がない。
お地蔵が出現して間もない六月頃、家の下手の大黒町のM食料品店にたまたま立ち寄つた時、近所のK
氏(地蔵大菩薩礼賛記第一部に体験記発表者)が店の人に地蔵の不思議なことや自分の足痛が十日間の
祈願で見事に治つた話をしているのを耳にした。
だいたい私は無信心であつた。お寺やお宮の世話人になつて寺社の為に随分骨折り尽力して来たが心か
ら拝む事はなく、信心で病気が治るなど頭から信じていなかつた。おかしなことを云つている位に思つ
ていた。
昭和五十二年十一月十八日、朝目が覚めるといつもの通り頭がいたく、一しきりもんで起き上つた。午
前八時半、家から真東に当る丘の上に幟がはためいているのが遠目に見えた。地蔵堂は高台にある私の
家から出口町の反対側の丘に丁度真向いに見える。
その時何となくお地蔵に参つて見ようと云う気になつた。何か惹かれる様な気持であつた。或は四、五
ケ月前のK氏の話が耳の底に残つていたのかもしれない。地蔵が私を導いて下さつたのかも知れない。
神仏の前で、いつもうそぶいていた私も素直な気持でお地蔵の前に額ずきお祈りをした。頭を治しても
らう様参拝者がおやりになるのを見て私もお地蔵にさわつてお願いもした。
家に帰つて午後いつもの如く昼寝をした。午後四時近かつたであろうか、好きなテレビの相撲を見なけ
ればならないと思つて急いですつと起き上つた。そして「おや」と思つた。頭が軽い。目覚めたら必ず
頭がいたく、頭を両手でかかえる様にして起き上らねばならなかつたのに、それを忘れている。あの痛
みはどこえ行つたのか、すきつとしている。今までのもやもやした重苦しさがきれいになくなつている
。そして驚いた。たつた一日のお参りで大変なお蔭を受けたのである。
お地蔵様の偉大な力には今更の如く感嘆した。神や仏の前に手を合せて拝んだ事のない私もこの鮮やか
な治り方には無神論も返上せざるを得ない。
家から真正面に地蔵堂が拝めるのも何かの因縁であり有難い事である。それから毎日お地蔵参りを欠か
さない。私位大きなお蔭をもらつたものはないと思う。
お地蔵様本当に有難とうとざいせす
合
掌
昭和五十二年十二月二十五日
(編者注:)
昭和56年9月29日、同氏は大往生をとげられた。(享年八十九才)
お地蔵に助けられ、毎日の如く、たのしげに地蔵参拝の姿が見受けられた。この年の春、家に帰って玄
関で尻餅をつかれ打って、それが原因で寝付かれた。別にどこも痛くなかったが床ずれに困っておられ
たらしい。9月29日、急に顔色が変り、医者がかけつける間に誠に楽な他界であったと家人は語る。
地蔵に救われた人は皆安楽往生をしておられる。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第4部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第4部
三、ざこつ神経痛いゆ
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(府中市)丑年女(62才)
昭和四十八年九月頃、今まで何ともなかつた両足が急に痛み出して動かなくなりました。早速病院に入
院し一ケ月間治療をうけ、足に分銅を吊して引つばつてもらう有様でした。病名は座骨神経痛でした。
一ケ月後、他の病院に変り主人の車で半年ほど通いました。その後どうにか一人で歩いて通院する様に
なり、お灸も試みておりました。多少はよくなつたもめの痛みは完全に去らず、歩行は不自由で神経の
作用で仕方なく、これ以上はよくならないものとあきらめていまし。散歩しておればよくなるであろう
と思い、犬をつれてと云うより、犬に引つばられて運動していました。
夏のこと、懇意な近所の理髪店にて、最近首なし地蔵が出現して段々病気が治つている話を聞き、同じ
散歩するなら本山町の台地よりも隣仰の地蔵のある丘を散歩したらとすすめられました。
当初、石地蔵で病気が治るなど信じてはおらず、その地蔵がどこにおられるのかも分らなかつたので、
一度下見して見ようと思い地蔵を祀つた丘に来て見ました。人が次々と参拝し熱心に拝んでおられるの
を目のあたりに見て、これほど人が参られるのは何かあるに逢いないと思いました。
九月一日よりお参りを始めました。午前八時愛犬「ラブ」は喜んで先頭に立ちました。地蔵叛はかなり
急で足は思う様に進まず、坂の中途で休もうとすると犬が黙つておらず、急いで坂上に行きたがり、強
引にひつぱる有様でした。地蔵堂の休み椅子にくくりつけて拝んでいる間は大変おとなしく待つており
ます。之を毎日繰り返しました。一度その上にある淡島(神社)さんにつれて行きましたが二度目から
どうしても動きませんので以後はお地蔵のみに参りました。
十日経つた頃から足の調子がよくなつてゆくのが感じられました。それから一ケ月後には元の足の状態
にもどりました。歩くに支障なくなり板の上り下りにも大変楽になりました。
十一月二十日の例祭にお礼のお供えをさせて戴きました(注:現在は18日が例祭)。今では犬が朝の
散歩をさいそくします。家を出ると地蔵様の方へ真先立つて引つぱつてゆきます。
お地蔵様が病気をお治しになることは最早うたがいません。足が楽になり大変なお蔭を受け、これほど
うれしい事はありせせん。
お地蔵様有難う御座居ました。
合
掌
昭和五十二年十二月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第4部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第4部
四、リユーマチ軽癒す
(広島市観音本町)Y女(64才)
私は十年前からリューマチには悩まされつづけておりました。右足が多少よくなれば今度は左足と云う
具合で交互に痛みつづけ、病院通い、はり(鍼)、やいと(灸)、漢方薬とよいと思うものは大てい試
みて見ました。最近では足に水がたまり一週間に二回位の割で抜いておりました。
昨年(昭和五十二年)の七月頃から杖にすがらなければ、とてもいたくて歩けない有様でした。年も押
し詰つた十二月二十七日夜おそく、たまたまRCC(中国放送)のテレビを見ていた時、首無地蔵が映
つていました。足が治つたと云う人の姿も目にとまりました。是非一度参つて見たい衝動にかられて翌
日RCCテレビ局に問い合せ、場所を確めました。
備後府中市は初めての土地でもあり尋ねたずねて一月七日地蔵様のおられる丘にたどりついたのは午後
四時頃でした。一生懸命に拝みました。足をなおして下さいとお地蔵様にさわつてお願いもして見まし
た。
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地蔵堂にお蔭をうけて足がなおつたと云うKさんと云う老人がおられ、お礼にと皆様に、心からお世話
をしておられました。私にも親切に色々と教えて戴き世話もして下さいました。その晩旅館もあつせん
していただき府中市のD旅館に一泊しました。
翌朝、目が覚めた時足が大変楽になつておりました。痛みが完全に消えたわけではありせせんでしたが
、歩行に何のさわることもなく、杖も不要になりました。前日杖にすがつて危い足どりで地蔵坂をよた
よた登つたのと打つてかわつて杖なしで、さつさと丘に上りました。
地蔵堂に昨日のKさんがおられました。思わずうれしくて「お蔭をもらつた」と叫ぶと同時に手にすが
りつきました。
何と有難いことでしよう。たつた一日のお参りで足が自由になると云うことは・・・
何かお礼がしたい。狭い場所でしたがお堂の周辺を心をこめて掃除を致しました。お礼の幟も立てても
らう様世話人に頼み、もつてきた杖もその場にすてて気も軽々と広島市に帰りました。
一月二十日がお地蔵の例祭日と聞いていましたので、朝早く広島を立ち府中市へ参りました。沢山の人
が参つておられました。私の奉納の幟もすがすがしく冬空にひるがえつておりました。礼拝の人が少く
なくなるのを待つて地蔵前にて深く深く拝み、感謝のお礼を申しのべました。
お地蔵様、有難とうございます。
合
掌
昭和五十三年一月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第4部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第4部
五、安楽往生
(府中市)故
K女(78才)
病気が治つたり一家が安全に暮せるのも大変なお蔭であるが、そればかりでなく楽に往生出来ます事も
この上ない有難いお蔭と思う。
長いわずらいで自分も苦しみ、周囲の人を煩わすのは誰しも好まない。肉体は必ず亡びるもの故に、出
来る丈健康に長生をした後は同じ往生をするなら楽に安心して往けることが一番望ましい事である。
K様の往生はその典型と云えよう。K様は府中市出口町胡に生まれ、正直で律儀律で義理固く思いやり
のある方であつた。神社やお寺にも信仰心は厚く、口は悪いが腹は清い人であつた。
昭和三十九年頃より独り暮しなされていた様である。Kさんは可成り以前から足の神経痛で困つておら
れた。このお地蔵が出現さ黷ト熱心にお参りされていた。昭和五十二年九月頃お蔭で足が楽になつたと云
つて大変喜んで話しておられた。早速地蔵堂へお礼にとお供されていた。
秋の日ざしのやわらかいお堂の前の長腰掛に坐つて、誰かれに自分の身の上話をしておられた。視力が
うすくなり書く事には不自由されたが記憶力がよくて色んな歌を覚えておられた。地蔵堂で拝まれた後
気分が乗つてくると、きまつて民謡「春駒」を気持よさそうに歌つておられた。
日頃懇意にしておられた西町のO酒店の奥さんにK様が母より教えて貨つたと云う御詠歌
「高野の山の岩かげに
大師は今におわしますか
空海上人さまの心の内に
咲く花は弥陀よりほかに
知る人はなし
八十八ケ所の御本尊さま
おまもり下さる様に
御一重に御願い申します
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南無大師遍照金剛
南無大師遍照金剛
南無大師遍照金剛」
を書いて貰う様依頼されていた。これをお地蔵に供えるのだと云つておられた。
十一月九日はこの書を受取つて地蔵参りされる積りであつたらしい。朝、所要があつて六時頃家を出ら
れて、近くの深さ一間もの溝に足を踏みはずして落ちられた様である。その時怪我もなく一人で上つて
家に帰られた。医師の診察にも、それが原因による致命傷も見当らなかつた様である。臥床にあつたK
さんはすこぶる元気で常の如く話しておられ、別に苦しい様子もなかつたと云う。
夕方あくびなどされ始めて間もなくその夜の八時前、静かに息をひきとられたと云う。平素Kさんはお
地蔵さんに守られているから楽なお参りが出来ると口ぐせに云はれていた通りの皆がうらやむほど安ら
かできれいなお参りであつたと云う。
昭和五十三年一月二十七日
(注) 本文は目崎町 I氏、西町 O酒店奥さんらの証言により記す。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>地蔵尊讃
『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
地蔵尊讃
(福山市駅家町)増川
貢(53才)
夫れ地蔵尊は六道に迷い苦しむ一切の衆生を救わんが為の故に、大悲の誓願空しからず菩薩の身を示現
し給い衆生の苦を抜き楽を与え給い以つて仏道を引導せしめ給うものなり。
その相好頭は丸を円満にして右の手には宝珠或は蓮華を持ち、左の手には長さ柄の錫杖を持ちて修業の
姿を示現し給うと云えどもその身は無相にして虚空と同体なり。その住し給う所なしといえども深く念
じ厚く供養せん者あらば、ことさらにこの者達の心想の中に住し給うなり。
然りと云えども衆生の心想常に煩悩をつつみかくし、無智の故に侵す悪業の果報は六道に引かれてその
苦しみ極まりなしと云えども此の尊大悲の誓願の故に方便力を以つて時に異相をヲ現し給い此処に地蔵尊
首なしの身を示現し給う。
首なきの故に目なし耳なし鼻も口もなきなり。無相の体なるが故にその身あることなし。住し給う所無
きが故にその心もなし。かかるが故に無なり空なり。空無なるが故に六根は清浄なり。空無なるが故に
法身法界に遍く。法身法界に遍きが故に衆生無辺の大悲より漏れ外さるることなし。一切の衆生を視そ
なはす事平等にして慈母の吾子をいつくしむが如し。
此の地蔵尊首なしの身を顕はし給う事密意斯の如し。若し天れ善男子善女子有りて眼耳鼻舌身意より起
る処の一切の執着を離れて一心にこの地蔵尊を念じ供養し奉れば即得諸願成就夢々疑有るベからず。仰
ぎ願はくは此の功徳を以つて日々に作る所の重罪敢えてその報を受けしめざれとつつしみ敬つて曰す。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
一、足首のねんざと心臓うらの痛み消え視力快方に向う
(府中市)A女(64才)
昭和五十三年二月七日の夕方のことでした。洗濯物を干していました時、庭の小石につまずき右の足首
をねんざしてしまいました。立つておれないほど一晩中ずきずきしました。翌八日は府中市鵜飼の農協
に所要があつたのでタクシーで行く事にしておりました。
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首無地蔵様のことは既に聞いており、時折り参つておりましたし、地蔵堂にかかげてある地蔵大菩薩礼
賛記のお蔭の記事も読んでおりましたので農協に行く前にお地蔵様に参つて見ようと思い朝七時半に家
を出ました。地蔵堂は家から三〇〇メートル位の所にあり、道中は右足首が痛いので左片足でけんけん
とびの恰好でした。御堂には既に三、四人の人がおられました。
私はふだん心経を朝夕仏様とかまどの神様に三巻づつ神様に二十一巻を上げるのを常と致しております
のでお地蔵様に般若心経を一心にあげました。二回目をとをえている時不思議に足の痛みがうすらいで
いくのがわかりました。三回目を上げている時足の痛みは完全に治つていました。帰る時はいつもの足
どりで楽に帰れました。それから鵜飼町へはタクシーに乗るのを止めて五十分もかかる所を徒歩で行さ
、用を済ませて帰りに身内や親戚の墓、五、六ヶ所をきれいに掃除して自宅に帰りました。それつきり
足は何ともありません。誠に不思議で今更ながらお地蔵さんの霊験のあらたかさを身にしみて思いまし
た。
続いて二月十三日又々すばらしいお蔭を戴きました。朝の八時半頃心臓のうら側、肩胛骨の下あたりが
急ににがり始めました。我慢出来ないほどにがり、肩たたきで叩きましたが治せらず、之はお地蔵さん
に参れとの事だなと思つてそのまま朝九時頃出かけました。心経を三回上げました。となえ終つた途端
ににがりは取れ体がす-と楽になりました。一体こんなことつてあるのでしようか。丸でうその様に楽
になつています。再度お地蔵様の御力の偉大さをしみじみ感じました。
帰りに農道を通り過ぎてアスフアルトの広い道に出ると家まで一〇〇メートルの所をうれしくて思わず
駈け出しました。之迄十年間一メートルも走れなかつた体が軽くなつていて、つい走りたくなり何のさ
わりもなく息もはずみません。うれしくてたまらず偶然のきつかけで知つたお地蔵様の世話人の一人で
あるSさんに電話でこの喜びを伝えました。又足のよくなつた時並に心臓のよくなつた時心ばかりのお
供えを地蔵堂にさせていただきました。
今は毎朝毎夕お参りしています。もつとうれしいことに、ここ十年以上視力が衰えて一メートル離れた
人の顔がぼんやり見える丈で、誰か識別出来ず糖尿から来た視力減退と診断され狭い農道を歩く時には
杖にたよらねば不安でしたが、地蔵さんに参り出して道路の小石が見え始め、人の顔も段々にわかる様
になりました。更にはつきり見える様にして下さるであろうとお願いしておりこの頃毎日がとてもたの
しいです。
地蔵堂への往復は「おんかかかびさんまえいそわか」をとなえながら歩き、お堂前では一心に心経を上
げます。一月二十九日に参つた時、Kさんが広島のY様の足が一日にして治つた話をされているのを聞
いて本当であろうかと思つていましたが、今私が現実にすばらしいお蔭をいただいて本当の有難味がわ
かりお地蔵様で明け暮れるこの頃です。
御地蔵様に心をこめて御礼申上げます。
合
掌
昭和五十三年二月二十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
二、孫の扁桃腺肥大いゆ
(山口県玖珂郡)O女(57才)
三重県に私の娘が嫁いでおり六才になる可愛いい孫がおります。昭和五十二年十一月の終り頃、孫が扁
桃腺肥大で度々熱を出して幼稚園を休むと云う心配そうな電話を娘がかけて来ました。
たまたまラジオを聞いていて首無地蔵様の話を聞いていたので祈願に参ろうと思い、もう一度RCC放
送局に問い合わせ府中市への道順を詳しく聞きただしました。そして十二月の初め頃早速地蔵様にお参
り致しました。
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「どうぞ孫の扁桃腺のはれが手術をしないで早くよくなります様に」
と一心にお願いし祈りました。
山口県に帰りしばらく経つて孫のその後の様子をたずねて見ました。おばあちやんがお地蔵さんに祈願
した日から一度熹Mを出さず、元気で幼稚園に通つているとの返事がかえつて来ました。
「おばあちやんが拝んでくれたら、どうしてあんなに早くよくなつたんだろうナア・・・」
と云つて孫が大変不思議がつているとも話してくれました。之もきつと首無地蔵様のお蔭であると喜ん
でおります。
本年二月も終り近く三重県から電話がかかり
「扁椀腺はもうなおつた」
と六才の孫の元気を声が返つて来ました。
私め住んでおります所からはバスに乗り汽車に乗りして四回も乗りかえなければ府中市へ行けませんが
之からも度々お参りしようと思つています。
御地蔵様大変有難とう御座居ました。
合
掌
昭和五十三年二月二十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
三、長年の痔疾なおる
(福山市)M男(69才)
私は今から約四十六年前、当時福山歩兵第四十一聯隊に入隊し、第三期検閲を受けるために姫路市より
行軍で青野ケ原演習場へ向う途中、痔の病にかかつている事に気付きましたが今更どうする事も出来ず
、此の度検閲を受けをければ過去血の出る様な訓練も水の泡と思い誰にも打ち明けず、日々涙をがらに
検閲を受け終りまして、ようやく上等兵に進級し、その後予備主計の試験に合格して聯隊本部に勤務す
る様になりました。
その為に除隊するまで楽な日々を送り病もさほど悪くなく目出度二ケ年の義務を果しました。が痔が直
つたのではありませんでした。
それから後、種々の力仕事や立ち仕事をしている中に又々痔が悪化して脱肛やら出血するやらで、時に
は入院も考えたほどでした。ところが今日と違つて友人が申すには痔の手術をするとよく痔結核になり
易いとの事でこれも思いとどまりました。大阪のD社へも出向いて高価な薬も買つて見たり、又地方で
もよいと云われることを色々とやつて来ましたが別にあまり変つた様子もなく私も最早寄る年波でもあ
りますので半ば諦めておりました。
昨年末突然RCCのテレビニュースで首無地蔵様の事を拝見しました。早速府中市に参り病気全快の祈
願をして帰りました。今年になり正月三ケ日は云うに及ばず毎週日曜日や時間の許す限りお参りさせて
戴いて居りました。
ところが此の度は長い年月の間、出血したり止つたりの繰り返しとは達つた症状が出て来たのです。そ
れはあまりにも出血多量で、又止まる様子もなく日々暗い気持で地蔵様の方へ向つて拝んで居りました
。其の時思い浮んだことは地蔵堂世話人のSさんの云われた事でした。
「信仰しておると一時的に病気が重くなる事がある」
と教えられたことでした。これは今お地蔵様のおめぐみを頂いておることに気付きました。それから気
をとり直し、より一層一意専心地蔵様にお縋りしています中に出血は少くなり血の色も今日まで見たこ
とのない別の色になつて来ております。徐々に淡い色に変り出血もうんと少くなりました。
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現在では出血も止まり脱肛も小さくなり気にもかからなくなりました。是れお地蔵様のお蔭と毎日感謝
し面白く働かして戴いております。日々が全く明るくなりました。あまりのうれしさにお地蔵様へのお
礼にと一筆心こめて書かせていただきました。
御地蔵様有難とうございます。
合
掌
昭和五十三年三月六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
四、右腕の痛み快癒す
(広島県甲奴郡)戌年女(81才)
昨年十月中旬頃の事でした。汽車に乗る為に田舎のバスセンターの待合室で待つていた時、連れの人の
子供が見えなくなつたのであわてて外に飛び出しました。その途端につまづき雨よけにしてあつたトタ
ン板にぶつかり肩から腕にかけて叩きつけた様にぶつたおれました。
右の肩、肘の関節、手首にかけてものすごくうずきました。すぐ医者へ行きましたが注射を打つても痛
みは止まりません。腕は上らず夜はにがり通しでした。茶腕も箸もにぎれず左手で右手を引きよせない
と動かない有様で右手を体にくつつけた形で過しておりました。
そんな或日、嫁が府中市の首無地蔵様の事を教えてくれました。この地蔵様は霊験いちじるしいと聞い
たので本年二月十四日に早速お参り致しました。
お地蔵様にお願いしたその日一日で右手が動く様になりました。それから二日おいて二月十六日にお礼
に参拝しました。家に帰ると一層良くなつており腕も肩の高さまで上る様になりました。三月十七日三
回日のお礼に参りました。その日世話人の方に御礼の御供を預つてもらいました。腕も肩も自由自在に
動き、いたみも完全になくなりました。
甲奴郡から府中まで一人で来て府中駅から一キロ半の道を地蔵堂まで歩く。八十才の年齢に家の者は心
配してくれるが信仰をもつ身の何の不安もなく日々がたのしい。
此度、御地蔵様にたすけて戴き本当に有難う御座居ました。
合
掌
昭和五十三年三月十七日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
五、腰痛一日でいえる
(福山市)N女(45才)
私は普段外交関係の仕事にたずさわつていまして、毎日カブ(注:原動機付自転車)で市中をとび廻つ
ておりました。今年二月の終り頃でした。朝起きると突然腰全体にひどい痛みを感じました。立つて朝
食の仕度をすることすら痛くて今日は仕事に行けないと思つていましたが、何かじゆくじゆくする様な
痛みをこらえて出勤致しました。それから二、三日は我慢しておりましたが、どうにも我慢しきれなく
なりお医者に診てもらおうと思つていた矢先、府中市に首無地蔵がおられ、よく願いごとを聞いて下さ
ると友達が教えて下さつたので、何はさておき午前中にバスにゆられて府中へやつて参りました。
そして一生懸命に拝み且つお地蔵様をなでながら腰のいたみを治してもらう様御願いし祈りました。帰
りのバスの中で幾分楽になつているのにハツと気付きました。腰に手をやつて屈伸して見ました。痛み
が少しやわらいだ様に感じました。
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「有難う御座居ます」
と思わずつぷやき、涙が出んばかりにうれしくなりました。バスを降りると軽い足どりで帰宅致しまし
た。そして翌日いたみは全然感じませんでした。それつきり痛みは消え忘れています。
たつた一回のお参りでびつくりするほど早く治して貰えたなど信じられない位です。尊い偉大なお地蔵
様と申す外ありません。本日三月二十二日で四度目の御礼に参りました。このお力にすがり家族のこと
も今お願いしております。
誠に誠に御地蔵様有難う御座居ます。
合
掌
昭和五十三年三月二十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
六、二十五年来のリユーマチいゆ
(岡山県倉敷市)U女(68才)
私は二十五年ほど前から足のリユ-マチを患つておりました。両足共に痛く特に右足がいたみました。
坐ると中々立ち上れず、立つてしばらくして歩ける様な状態でしたが痛さは年中あり困つておりました
。私はお医者には世話にをらず専ら民間療法にたより、痛みがひどくなり足がはれてくると薬草をつけ
て一時的にいたみを押さえる程度の繰り返しでした。
元々私は信心を一心にしております。諸々方々の寺院や霊験のあると聞いた場所へは十ケ所も参つてい
るでしよう。一ケ所七年間も参り続けた所も御座居ます。家は店をやつており留守の店番をしている時
など電話がかかつてくると足の痛みをこらえてやつとの思いで電話口に出た時には切れている有様でし
た。
昨年の十二月二十七日の夜十一時頃、偶然山陽テレビが首無地蔵の事を放送しているのを見ました。足
が治つた人の話もありました。場所がわからなかつたので放送局に勤めている知り合の人に頼み所を調
べて貨いました。地蔵さんの場所がわかると矢も楯もたまらず仕事に忙しい息子を無理やりにせかせて
車を運転させ、本年一月七日の昼初めて府中市へ参り時間をかけて方々を探し廻り、ようやく出口町の
辻高居の丘に辿りつきました。
御地蔵の前で真言の御経を一心にあげました。御堂の横から御地蔵様にさわつて足のいたみを除いて戴
く様にお願いも致しました。
帰り道一時間程運転して車をとめ途中下車しました。その時何の気なしにすつと車を降りた私を見て同
乗していた娘が「お母さん足は何ともないの」と云つたので始めて足が楽にをつているのに気付きまし
た。再び乗車した時いままでの痛みがありません。之迄乗り降りにさえ大変苦労していた事が丸でうそ
の様です。そのまま楽に家に帰りつき直ぐ歩ける様になりました。その後、多少のいたみは感じました
が大したことではありませんでした。歩くのが大変たのしみになり嬉しくてたまりせせん。二十五年間
のいたみが軽癒し長い間の苦しみから解放されました。
一月十六日、二度目の御礼参りに家族全員揃つて府中市へ来ました。御礼にバナナ一箱(大房三ケ入)
と線香、ローソク等を御供えいたしました。その場に居合せておられた世話人の一人のS様にたのみ広
場におられた参拝者四、五十人全員にバナナを接待してもらいました。私の御礼の気持が果された様で
うれしく一家ドライブして帰りました。
三月二十六日、五回目の御礼参りを果しました。今足のいたみは全然ありません。何と不思議な尊いお
地蔵様でしよう。家族の者にもお蔭をもらうべく毎回つれ立つて参ります。お地蔵様に取次ぐ人も居ら
れず、ものもおつしやらないお地蔵様にどの様にお礼してよいかわかりません。ただ有難う御座居ます
。
27
再拝合掌
昭和五十三年三月二十六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第5部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第5部
七、老衰の母回復す
(府中市)K女(48才)
御調郡御調町の実家に実母(八十三才)が高齢で一昨年老衰の為入院し動けをくなつておりました。二
度外泊の為家に帰ると、それきり病院をいやがりそのまま家で療養を続けました。医者の診断では心臓
も弱つていることだし時間の問題との事でした。
実家の者がねたきりの母の体をふいたりして看病しておりました。私はいつ母の危篤の知らせがあるか
といつもびくびくした日を過していました。
私は府中市出口町胡のD社の託児所に勤務しております関係上、託児所のすぐ上の丘にお地蔵さんが掘
り出され、拝めば色々のお蔭のある事をよく耳にし知つていました。
昨年秋頃、社長さんにすすめられて参つて見る気になり母め病のことコのことをお願いしておりました。
実家の兄嫁には昨年暮に地蔵様のことを教えて上げていました。今年一月中旬、兄嫁と一諸に地蔵堂に
お参りして母の回復を一心に祈りました。兄嫁の一心さが通じたのでしよう。その日母は起き上ると云
い出したそうです。手を貸して障子につかまらせ立ち上つたそうです。それからすぐ歩く様になつたと
云う事です。
三、四日しましたら風呂に入ると云い出し一人で入浴し家人をびつくりさせました。今日か明日かと寿
命を心配していた母が打つて変つて元気になり不思議とも奇跡とも申す外ありません。牛乳を少し飲む
程度で八ケ月以上も固いものを食べたことのない母が食事を置いておけば一人で食べ、散歩もする様に
なり気が向けば五〇〇メートルも出あるきます。
顔につやが出て娘の様に血色がよくなりました。全く健康人と変らず医者へは薬をもらう以外に診察を
受けには行かなくなりました。兄嫁がお地蔵様に少しばかりのお供えをした時、記念に戴いた地蔵堂の
絵の入つた「おんかかかびさんせえいそわか」のお経を書いたタオルを地蔵祭の日に拝んでもらつたの
を家にかかげて毎日拝んでおられます。母親にも見える所にかかげてあるので一字づつ地蔵経をとなえ
ているそうです。
今、母の痛いところもなく、こちらで安心して寝れます。兄嫁は仕事中でもお経を誦しておりその信仰
の深さに頭が下ります。母の奇跡的な回復も兄嫁の力に預るところと感憩しています。
不思議な力強い尊いお地蔵様と讃歎するばかりです。有難う御座居ます。
合
掌
昭和五十三年三月三十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>地蔵讃歌
『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
28
地
蔵
讃
歌
-備後府中市出口町胡 地蔵大菩薩-
杉原緑水
あけぼのの 丘に声澄(す)みさわやかに 鳥うたい初(そ)む 地蔵讃歌(さんか)を
御屋根(おんやね)に むすびしつゆの 解(と)けゆけば 心ほぐるる 光の中に
しあわせの 一日(ひとひ)のはじめ おん前に 上ぐるお経の 声さゆるとき
さわやかに み堂にひびく御経(おんきょう)に 心なごみてゆく うれしさよ
おん前に 打つ鐘(かね)の音(ね)の澄(す)みゆけば 今日の一日(ひとひ)の やすらぎ思う
わが願い かなえたまえや同胞(はらから)を みちびきたまえ 御(お)地蔵菩薩
坂上(さかうえ)に 地蔵おわせば 子をつれて はずみて登る 惹(ひ)かるるごとく
世の風は つめたくしみるさりながら 菩薩やさしく み手あたたかし
御(お)地蔵の 慈悲(じひ)のあまねく 安らかに 御(み)堂をつつむ 夕べの光
松山に さわぎし鳥も しずまりぬ お休みなされ わが御(おん)地蔵
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
一、心臓病が快方に向い妻の肩こりが快癒す
(滋賀県草津市)A男(55才)
私は昭和五十一年八月頃より過労と高血圧のため心臓病(心房細動と不整脈)になり医師の治療をうけ
ていたが病状が次第に悪くなり昨年(52年)十月末一ケ月間入院加療の身となつた。退院後は投薬と食
養生をしながら勤めに出ていたが、又も本年二月に二週間の静養診断を医師より宣告され、自宅療養の
やむなきにいたつた。
其の後出勤し技術助役の職務内容を接客関係の助役に転勤して心臓病との闘病生活に心がけていたとこ
ろ、隣家のY氏より身体が悪いと言うことを最近知つたのだが、府中市に首無地蔵さんという霊験あら
たかなお地蔵さんが安置されているので、そのお地蔵さんにお参りすればすべての難病を治して下さるゥ
らお参りに行くようにすすめられた。
Y氏いわく二十年程前から床に伏すとき上布団が足の指先きにすれても飛び上る程痛く色々の治療をし
てもらつたが治らず困つていたが、テレビ放映で首無地蔵さんの御利益により多くの方々がお蔭を戴か
れ喜こんでおられるのを知り、広島県庁に問合せて住所を聞きお参りさせてもらつたら、何時の間にか
両足の痛みもなくなり、お蔭様で楽に毎日ねむれるようになり喜こんでいる。
次は腰痛を治してもらうべくお参りに近いうちに行くとのことであつた。私は機会があればお参りさせ
て頂くのでその時同道させて下さいと軽い気持であつた。
それから数週間後、家内が私の公休日(三月二十日)にお参りに行くべくY氏に首無地蔵さんの所や道
順を聞きに行ったら、今晩詳しく説明に来てくれるとのこと。私が勤めから帰った時(家内が)その旨
話し、「明日お参りに行きましよう」と申したが、私自身は明日の公休日は家内をつれて大津にあるK
パラダイス(温泉施設)に保養に行く予定であつたので、「お参りは次の公休日でもよいやないか」と
了解させた。
そのことも知らずY氏は明日お参りするからと云つて、地蔵尊由来記と地蔵菩薩礼賛記を持って来てく
れた。「過日話した通り御利益はたいしたものや、一緒にお参りした自転車屋のIさんは中風で手がふ
るえチューブ張りが出来なかつたのが、今では『パンクの修理が出来るようになつた』と喜こんでいら
れる」と話をしながらY氏が煙草を吸いはじめられた。とたんになんとも言えない沈香のよい香がただ
よいはじめたので、「変った煙草ですね」といつて手にとつて見たが一般のセブンスター(注:タバコ
29
の商品名)であつた。本人さんは、「煙草の匂いの外別段変りがない」と言われるが、そばで話を聞い
ていた家内や娘も「本当に沈香の香がする」と言い出し、風呂からあがつて来た長男まで「沈香のよい
香りがしている」と言つたが当人のA氏は「煙草の匂いの外なにもない」という。不思義な現象が起つ
た。
私自身の嗅覚の錯覚でもなく、家族一同が同じ匂いをかいでいると言うことは、お地蔵様が是非来るよ
うにお呼び下さつたのだと思い、明日のKパラダイス行きを中止して首無地蔵さん参りに夫婦で行くこ
とにした。
草津から京都、京都から新幹線で福山、福山から府中までの列車時刻連絡等を調べお参りの準備をした
。翌日幸いにも天候に恵まれ予定通り府中駅に到着、タクシーで首無地蔵さん前で下車して、地蔵堂の
広場の土を踏んだとたんに私の心臓が「す-」とする感じを受けて吃驚した。というのは、まだお願い
も何もしていない、知らぬ土地柄のため、あたりをきよろきよろ見ていて、心臓のことなど眼中にまだ
なかつたときのことであつたから・・・
私は霊験あらたかなお地蔵さんの御利益と御慈悲の尊さに只々驚きの外なかつた。早速お参りのため持
参したローソク、線香、お供物を夫婦であげさせてもらつて、私達の願いごとを一心にお頼み申し上げ
た。お参りしたあとはなんとも言えないすがすがしい気持になつて、お地蔵さんの前の腰掛で休みをが
ら、温い春の日射を身に受けお地蔵さんの幟のはためきを眺めながら昨日から今日にかけての不思議な
現象を体験して、お地蔵さんの偉大なるお慈悲を戴き、夫婦で今日お参りに来てよかつたと互いに喜こ
ぴあつた。
当日の世話人Hさんより由来記と地蔵大菩産礼賛記第四部を戴き感激しながら帰路についた。其の後、
私は今迄睡眠が余り出来なかつたが、よく睡眠出来るようになり心臓の調子もよくなり、体重も増えて
来た。最近出会う親戚の方々や職場の人は「二、三月頃は顔色もすぐれず声に元気がなかつたが、大変
元気よくなられましたね」と言つてもらつている。
家内は十年来夜になると肩がつまつて気分がすぐれないと申していたが、お地蔵さんにお参りしてから
は、うそのようによくなり、お地蔵さんのお蔭と夫婦共々喜こびと感謝の日暮しをさせてもらつている
。お地蔵さんへの礼のお礼に親戚、近所、職場等の人達に由来記や礼賛記を見せて、身心共に困つてい
る人は首無地蔵さんの尊いお慈悲におすがりするよう、その御利益の広大なることきわまりがないと話
している。
幸いにも五月十八日の祭祀一週年記念に家内、娘、他の方々とお参りさせて戴いた。世話役Sさんの御
配慮により多くの参拝者と共に心ゆくまでお参り出来、身心共にすがすがしい気持になり、新たな喜こ
びを感ずると共に、お地蔵さんの偉大なご高徳にふれふすのみである。
お地蔵さん本当に有難う御座います。幾重にもお礼申し上げます。
合
掌
昭和五十三年五月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
二、肝臓病、貧血好転す
(鳥取県米子市)K男(59才)
昭和五十二年十一月私は郷里の米子市から府中市の会社に就職した。米子にいる時から様々の持病があ
り、二十年前から頭痛に悩まされ、その上五ケ月位の間に二、三回は貧血をおこし、めまいがしてぶつ
たおれることがしばしばであつた。おまけに肝臓を悪くし胸のむかつくことも度々であつた。医者の診
断では私の体は六十才までもつまいとの事であつた。
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府中市へ来て会社の人より地蔵さんの事は教えてもらつていた。十一月二十八日頃のこと、お蔭をもら
つたと云うお年寄から首無地蔵に参る様にすすめられた。
十二月六日、初めてお地蔵様にお参りした。肝臓や、めまい、貧血をなおして下さいと一心に祈り、地
蔵さんにさわつてお願いもした。会社の仕事が終ると毎夕お参りした。日曜日には三回も参つていた。
その甲斐あつてか今年二月頃より貧血がよくなつてきているのがわかつた。体の重苦しさがとれて楽に
なつてゆくのがわかつた。自分でも知らぬ中に体のいたる所の悪い箇所がよくなつて来ている。
今月四月五日の今日までお参りを始めて一回も貧血もめまいもおきない。三十八才の時、米子で何軒も
のお医者にかかり診てもらつた。どの医者も駄目だと云われ、あきらめていた肝臓も最近の診断では、
大丈夫と保証された。今では吐気も全然おこらない。食事にも味が出て来て大変おいしい。体も楽にな
り仕事もバリバリしている。就職当時一ケ月働くときつくて六日は休暇をとつていたのに最近では休暇
もとらない。仕事が楽しく一日が楽しい。以前は食事をしているとよくむかつき半分位で喰べたものを
吐き出していたがそれもなくなつた。有難くてうれしくてお地蔵参りが毎日の日課である。有難うござ
います。
合
掌
昭和五十三年四月五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
三、痔ろう(瘻)いえる
(府中市)O男(59才)
昭和二十四年に私は痔のいたみを覚え始めた。医者の診断で痔ろうと判つた。戦時中は海軍に居り艦上
生活や尻をぷんなぐられたりして酷使した為に戦後痔が悪くなつたのではないかと思った。その箇所が
度々化のうして痛んだ。外科医に穴をあけてもらつて、うみを出し一時的には楽になつた。が半年もた
たぬ中に再発し、その度に痔に穴をあけてうみを出す繰返しであつた。
お地蔵様が昨年五月に掘り出されて、祀られていたことは近所に住んでいるのでよく知っていた。昨年
十月再び痔が悪化して医者にかかつた。と同時にお地蔵様にお願いして見ようと発意した。それから毎
日の様に参つた。参拝の回数が重なるにつれ痔の調子がよくなつてゆくのがよくわかつた。発願十日目
には、いたみは完全になくなつた。それ以後再発もない。あれほど手こずつた痔疾から解放されて全く
清々しい。
本日四月二十三日、既に半年を経過したが再発の気配もなく、痔疾の意識もなくなつている。何と不思
議なお地蔵であろう。今は暇を見てはお礼参りを欠かさない。来る度毎に参拝人が益々増えているのに
目を見張る。鳩さえ二、三羽から七羽え更に九羽えと増えて来てお地蔵堂になごやかな雰囲気を作って
いる。お地蔵様の偉大さを今更肯くのみである。有難う御座居ます。
合
掌
昭和五十三年四月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
四、すねの痛み即座にいゆ
(府中市)O女(67才)
四年前の或る日、所用があつて自転車を踏んでいた。その時誤つて車輪に足を突込みすねをいためた。
車輪の中に足を入れるなどめつたにない事であるが、その時私はどうかしていた。それ以来痛みが続い
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た。じつとしていてもにがり、歩けばなほ更いたんだ。色々手当をしながら痛みも一進退しつつ、この
状態が四年間続いた。
今年の
一月下旬、嫁が首無地蔵様に参る様にすすめてくれた。嫁は近所でお地蔵様の話をきき、多勢の人が参
るので何かお蔭があるに違いないと話してくれた。嫁のすすめに心動いてその日すぐ十時頃首無地蔵に
参拝した。
私は若い頃寒行もして来た。石槌山には八回も登っている。すねをいためてからも足を引きづる様にし
て石槌山参りをした事もあり、元々信心にかけては人後におちない積りでいる。お地蔵の前で「すねの
いたみをなおして下さい」と一心にお祈りした。更にお地蔵にさわりながら治癒をお願いした。
祈願を終つて地蔵板を降り始めた。ふと気がついて見ると足のいたみは完全におさまつていた。不思議
に思いながらも大変うれしくなつて家に帰りついた。今まで足を曲げると痛かつたのに家に帰つて曲げ
て見たがすねは何ともなかつた。その後無理をして足を使い過ぎたりすると痛んだ事もあるが、お地蔵
様に参ると即座に治つた。最近では全然いたまない。四月二十五日、因島巡礼を行い、続いて神島巡礼
と六日間と云うもの歩き続けたが全くいたみは起らなかつた。
最初に治つた当時、あまりにもうれしかつたので勤め先で会う人毎に話して廻ったものである。そして
暇さえあればこの地蔵ケ丘に登る。ここに参るとふるさとに戻つた様に何となく安らぎを覚える。
偉大なるこの地蔵菩薩を賛歎し感謝の言葉もありません。只々有難うございます。
合
掌
昭和五十三年五月十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
五、根生坐骨神経痛いゆ
(府中市)M男(59才)
子供の頃私の家は織物業を営んでいた。織機の後に乗つかつている縦糸用の千切に重し用の石がぶらさ
がつていた。昭和六年頃はたおりの手伝をしていて、その重石を持上げた途端に腰をいためた。それ以
来この事が原因と見えて、今日に至るまで時折腰のいたみを覚えた。
今から七年前左足のすねの下の筋肉がいたみ始めた。それが体の上の方にゆき、だいたい(大腿)部、
腰といたみが移って行った。痛み出すとじつとしておれない程いたむ。十メートルも歩けないほどであ
つた。
医者、ハリ、お灸と何回も通つた。大抵の人がやる治療は試みた。だが段々に痛みはひどくなるばかり
であつた。ある日弟が首無地蔵の噂をきいて来た。何んでも大層よくキいて下さるとの事で「兄さん一度
行って見たら」とすすめてくれた。
「祈れ薬(くす)れ」と云う俚諺がある。今迄私は「くする」方ばかり力を入れていたが、こういたく
てはやり切れず物理療法の限界を感じて祈つて見る気になつた。昭和五十二年八月下旬頃からお地蔵参
りをはじめた。だが最初の一週間位は半信半疑であつたが朝夕二回は参り続けた。
一週間を過ぎた頃であつた。何だかなおる様な気がしはじめた。不思議な予感であつた。その頃よくな
った夢も見た。そして痛みも大分うすらいでいた。お堂前では薬師様のお経しか知らないので
「おんころころせんだりまとうぎそわか」
を丁心にとなえた。家から四キロメートルあるこの地蔵堂えの行きも帰りも一心にとなえつづけた。
この頃はお地蔵一色であつた。それから一ケ月経つた九月の終り頃、足腰の痛みは殆どなくなつていた
。走れる様にもなつて来た。
初めてお地蔵様にお願いした時、全部よくなるのは慾が深いと思い
32
「少々のいたみは我慢します故これ以上のいたみの出るのを止めて下さい。」と祈念した。
偉大なる御地蔵様は私ののぞみ以上の願いをかなえて下さつた。あれほど手こずつた痛みをいやして下
さつたのである。信心の尊さ地蔵尊の慈悲の深さを身に泌みて思い知った。
あれ以来八ケ月たつ、その間多少のいたみはあつたものの仕事に何のさわりもない。毎日石油販売の業
務に自動車を快適にのりまわしている。そして仕事の一段落した夕方、必ずお礼参りをする。この地蔵
の丘に登る事が今では私の一日のたのしみとなり安らぎとなつている。
「南無地蔵大菩薩」
と真心こめて合掌するのみである。
昭和五十三年五月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
六、妻の往生
(府中市)K男(66才)
妻のI(六十三才)は昭和五十三年四月十四日あつと言う間に安楽を往年をとげた。
昨年の五月、私は六年間苦しんだ腰痛をこの首無地蔵様のお蔭でたつた一日でいやしてもらつている。
(地蔵大菩薩礼賛記第三部に掲載)
そして最近まで家から地蔵堂まで往復四十五分以上かかつていたし、左足を地につけるとき.パタッと
云う音がしていたのがなくなつて、左右スーツスーツと楽に歩行出来る様になり、今では往復三十分で
参れる様になつた。
昭和五十二年七月、妻が突然に発病し苦しみ入院した。血圧が上り脳の血管がもれているとの事であつ
た。八月下旬、病院で二〇〇以上あつた血圧を一二〇まで下げて脳の手術をした。結果は良好であつた
。
その後まもなく歩るく練習をするべくベットを降りたが、そのまま仮死状態におち入つた。幸い医者の
人工呼吸で復活したので、私を救つて下さつたお地蔵にすがり願かけをした。福山の病院で妻につきき
りの私は、月一回か二回しか府中市の地蔵えは参れなかつた。が一心に妻の快癒を祈つた。九月病状が
急に悪化してものの言えない状態になつた。耳はきこえていた様である。本年の正月、妻め病状を見て
、も早助からぬと察して、全快が不可能ならば楽に参らして下さる様に一生懸命にお願いした。お地蔵
様を拝してくる毎に何か変った事が妻の身辺におこつた。その度に何か話しかけたい様なうれしそうな
表情をしていた。そして周囲の人々にも希望がもてるほどよくなるかに見えた。
四月十四日の朝のこと、床づれを防ぐ為に体を横にしてやつていた私に代り、その日に限って二人の看
護婦が来てくれた為、私は廊下のそうじをするべく室外に出た。と看護婦が呼ぷので部屋にもどつた時
には妻の心臓はとまつていた。
あつと言うまのことであり、少しも苦しんだ様子もない。お地蔵に祈り始めてより、のた打ちまわる様
な苦しい様子は少しもなかつた。同じ病院で随分苦しんで死んでゆく例を多く見ている丈に妻は大変仕
合せだと思つた。おそらくあの世に行つたことすら知らぬのであろう。
妻よ彼岸にて尚お地蔵様の救いを受ける様に・・・・・・
南 無 地 蔵 大 菩 薩
昭和五十三年六月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
七、全身ひふ病のかゆみとれる
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(東京都小平市)K男(84才)
私は三年ほど前よりひふ病にかかり、それが全身にひろがつた。そしてかゆく注射をしてもなおらず悩
みの種であつた。
今年四月の終り頃、府中市の娘の所に身をよせていた。その時首無地蔵の霊験あらたかなうわさを耳に
した。六月十五日初めて地蔵堂に参つた。沢山の人が熱心に拝んでいた。お堂までそう遠くないので毎
日の如く参拝し、ひふ病の快癒を祈つた。そして線香の灰をもらつて家に帰り、そのまま足等に塗って
いた。
私は禅宗であるがお地蔵前では一心に南無阿弥陀仏をとをえた。線香の灰は薬としてのどんな成分があ
るか知らないが体にぬるとしみていた。化のうもしなかつた。半月経って不思議にかゆみが止つた。今
では殆んどかゆみがない。
全くお地蔵様のお蔭と思つた。大変うれしかつた。早速世話人のSさんに依頼し大願成就の幟を作つて
もらいお地蔵に寄進した。幟をながめながら老齢の身の心うれしく、近く東京に帰る予定である。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
合
掌
昭和五十三年七月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第6部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第6部
あ と が き
今回で地蔵大菩薩礼賛記も第六部を出版することになる。これらの礼賛記は各部毎に記述者が自署され
た一冊を奉納し、お地蔵の後にある「お礼の文」をる袋に収められ、昼夜をわかたず、お地蔵の慈光の
中にある。
礼賛記に掲載された素晴らしいお蔭記は、ほんの一部にすぎない。大変な数の方々が何んらかのお蔭を
戴いておられる。毎日の如く、新らしくお蔭を貰われた方々が御礼に見えられ、炎夏にかかわらず参拝
者は減るどころか益々増えてゆさ、今やこの地蔵ケ丘は信仰の熱気で満ちている。
昭和五十三年五月十八日、石地蔵出現して祭祀一周年の祭典を盛大に行つた。その日の終日の参詣者は
三千人に達していた。それが一ケ月後の六月十八日の月例祭には一日で四千人をこえている。
悩め髏l々、このお地蔵の広大なお慈悲の力をつたえ聞き、遠く近くこの丘に集り、現実に救いの手が差
しのべられている。
人間界の理屈を超えたこの事実は、まさしく地蔵尊が衆生救済の為に出現されたとしか思えない。
編
集
部
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>
『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
解義
□奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶」解義
お地蔵様の真言は「□奄(おん)・訶訶訶(かかか)・尾娑摩曳(びさまえい)・娑婆訶(そわか)」で
あります。
□奄(おん)は帰命の義、訶(か)・訶(か)・訶(か)は種子真言で、最もたいせつなことを三度唱え
るのであります。尾娑摩曳(びさまえい)は「賛歎するものに」という意味で、いま真言を讃歎せる自
分自身のことをいいます。
娑婆訶(そわか)は成就の義であります。
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そこで種子(しゅし)といい、真言種子とていねいにいうこともありますが、これはお地蔵様の種子は
訶フ一字であります。種子が一切を含有している如く、訶の一字はお地蔵様のお姿、お利益ご霊験を含有
していて、最も根本的なものであります。これを人間にたとえていうならば、ここに亀太郎とか鶴松と
かいう名の人があつてそれらの人を呼ぶのに亀さんとか鶴さんというのであります。その亀さん鶴さん
の全部が包含されております。すなわち亀とか鶴とかの一字の中にその人の人格、識見、家財道具に至
るまで、一切が包まれているのと同じで、この訶の一字にお地蔵さまの功徳利益から種々雑多のお姿ま
で包含されているというわけです。それをていねいに、三度「訶訶訶(かかか)」と呼んだのは、その
功徳利益を成就させんがために、一心になって唱えるわけであります。
(伊藤古鑑著『路傍のお地蔵さま』より)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
一、お地蔵様の麗姿を拝す
(広島県御調郡御調町)S男(73才)
二年程前、橋から落ちて左足のすねをひどく打った。以来いたみが二~三週間続いたがその痛みはおさ
まったが今度はしびれる様な別のいたみに変り長い間難儀していた。びっこを引きながら歩いた。寝て
いてもしびれいたんだ。この間医者通いもしていた。
府中市に首無地蔵が掘出されて大層お蔭がある話を近所の人からも聞き、町役場に勤めている娘も聞い
てきた。昭和五十三年九月十日、日曜日の朝、妻と共に首無地蔵に参拝した。
先づ沢山の人が参って熱心に拝んでおられるのを見て驚いた。こんなに多くの人が参る所ならもっと早
く来ればよかったと思った。多勢の人の為、地蔵正面から拝めず、お堂の右横から般若心経を一心にと
なえていた。すると白い様な神々しいお地蔵様の御姿が見えた。お地蔵様は正面をむいておられ、頭は
丸く、やさしそうな、面長の女性の様なきれいなお姿であり大人の背丈位であった。
心経をとなえ終って立ち上った時お姿は見えなくなっていたが、足のしびれはきれいに消えていた。お
蔭をもらつたと私は妻に言った。妻は信じられない風であった。
お地蔵様の姿を見たと言ったが、一緒に並んで拝んでいた妻には見えなかったと言う。
不思議さと足のしびれの治ったうれしさにいそいそと家に帰り、早速若い者に参る様すすめた。娘達は
夕方参った。
私は元元、備中高松稲荷を信仰しており尚、近所に寂れた観音様があったのを建立して祀っている。七
百年前の墓をきれいにして上げて祀った時、武士らしいその人の姿を拝んだこともある。戦前には霊感
というか明日のことがよく予感されていた。
昔からこう言ぅことがしばしばあるのでお地蔵様の姿も拝し得たのかも知れない。
いづれにしても美しい尊い御方である。十一月十八日の例祭にお礼参りに参った。丘一杯の善男善女の
参拝に感激し、益々悩める人々を救われます様心をこめてお祈りした。
有難うございます
合
掌
昭和五十三年十一月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
二、両足指の痛さ腰痛、家内の頭痛がなおって
(滋賀県草津市)Y男(69才)
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私の職業はタイル左官業で冬期等職業柄冷え込みの関係か、二十年来両足指の先きが就寝の際上布団に
すれただけでも痛さのため飛び上る程の痛さに苦しんでいました。又、腰痛も而り、其の上喘息の身の
ためあらゆる医療機関で診察を受けましたが快方に向はず、現状維持というつらい日々を送っていたと
ころ、昨年十二月二十七日頃テレビ観賞中、首無地蔵さんの偉大なる御利利益によって多くの方々が難
病をなほして戴き喜こんでいられるという画面を見たが、そのとき何処の放送局かチャンネルを見忘れ
、ただ広島県とのみしか記憶していませんでした。
後日一度お参りしたいと思い大津や京都支局等に問い合せましたが首ウ地蔵さんの所在が解らないまゝ月
日がたち、どうかして一度お参りしたいと思っていたところ、当町の寺の息子さんが広島県庁に勤めて
おられることを思いだし、早速電話で問い合わせたところ、二月十二日府中市出口町に祀ってあると連
絡がありました。
やれやれこれでお参りが出来ると喜んだものの、遠方の地であり、土地勘もない私として行き先き不安
も感じて、誰か連れを誘ってお参りしようと思って、懇意にしているI自転車屋の主人が中風で仕事も
出来ずぶらぶらしておられたので、Iさんに首無地蔵さんのお慈悲におすがりするよう、テレビで見た
ことを話しお参りを誘ったところ、多くの方々が難病をなほしてもらつていられる霊験あらたかなお地
蔵さんなら、是非お参りしたいということで話がまとまり、二月十四日、二人でお参りさせてもらいま
した。知らぬ土地、尋ね尋ねてのお参りでありました。
三人程お参りされていたので、その人達にお地蔵さんの由来記を尋ね聞かせて戴き、私は両足指の痛み
を、Iさんは中風で手、足が自由にならないのを自由になるようお願いしました。
遠方の地であるため再三のお参りも出来ないので、お地蔵様にローソクや線香を日々あげていただく寸
志を受け取って下さる世話人さんを尋ねたところ、Sさん宅を教えて項きました。
Sさんより首無地蔵さんに多くの方々がお蔭をもらはれ、喜こびと感謝の日暮しをしておられる実例の
お話を聞き、お地蔵さんの由来記と礼賛記を戴き、帰路再度お地蔵さんにお参りして家路につきました
。長い間お参りしたいと思っていたのが果たせて、心は何時しか晴れやかになった。
その後私の足の指先きの痛みは知らず知らずの間になくなるし、Iさんは今迄中風で自転車のチューブ
張りが出来なかったのが修理出来るようになり、お互にお地蔵さんの不思議なお力に驚くと共に、お参
りした甲斐があったことを喜こびあい感謝とお礼を心よりお地蔵さんに遠方の草津の地より申し上げま
した。
三月十一日にお礼参り方々、次は腰痛の平癒のお願いと家内が年中、頭痛で悩んでいたので家内や町内
の人達十人でお参りさせてもらいました。
其の後私の腰痛もお蔭様で不思議というかどんな仕事をしても痛さ知らずになりましたし、家内の頭痛
もうそのようになおり晴ればれした毎日を過させてもらっています。
これ一重にお地蔵さまのお蔭で、感謝とお礼の日々を送っています。喜こびの余り町内や知人にこのこ
とを話し難病で困っていられる方にお地蔵さんのお蔭を戴かれるよう、折があればお話し、問い合せが
あれば、由来記や礼賛記を見せてあげ乗車する列車、乗替え駅、お地蔵さんえの道順などを教えてあげ
ています。
五月十八日の祭祀1周年記念祭には前日より泊りがけで信者八人でお参りしました。腰痛平癒のお礼と
次は喘息の平癒をお願い致しました。
其の後、滋賀県下の方々や親戚、知人等お地蔵さんにお参りしてお蔭を戴かれた八十名余りの多くの人
達が喜こんでいられるし、私も嬉しさの余りお地蔵さんに何かお礼をと思い幟を奉納させてもらうべく
、私が発起人となり隣りのY氏(この方もお地蔵さんのお蔭で心臓病がよくなられ家族一同がお地蔵さ
んの信者)の協力を得て奉賀帳を各人に回したところ七十八名の賛同を得て、七月十八日、月例祭に草
津信者一同で幟九本、大津信者一同一本、栗東信者一同で一本の計十一本奉納させて項きました。
お慈悲深きお地蔵さんの周囲に私達の幟がはためき感謝の一端とさせて項きました。
偉大なるお蔭をさずけ下さるお地蔵さん本当に
有難う御座います
36
合
掌
昭和五十三年七月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
三、長年の頭痛平癒と他にお蔭を戴いたことについて
(滋賀県草津市)Y女(57才)
私は十年前から頭痛と吐気で苦しみの毎日で御座いました。「N」や「S」等の頭痛薬を服用していま
したが頭痛は治りませんでした。あるときは県成人病センター禅経科で細密診断を受け一ケ月通院しま
したが頭痛は治りません。次は京都に良い神経科の医院があると聞きましたので診察を受けましたが駄
目でした。又、N病院や附属病院の診察を受け薬も戴きましたがいっこうに頭痛は治らず、各先生方は
「原因不明です気にしないようにしなさい」と云われるが、割れるような頭痛はどうしようもありませ
ん。憂鬱な苦しい毎日を過して参りましたところ、町内のYさんから広島県府中市に霊験あらたかな首
無地蔵さんが祀ってあって、本人自身お蔭を戴かれ喜こんでいられる話を聞かせて戴き、由来記や礼賛
記も見せてもらいましたが、私のあさはかな気持で半信半疑でしたが四月十七日に同道させて項きまし
た。行きがけ、新幹線の中で激しい頭痛におそわれて薬を二回も呑みました。同道した娘は副作用が発
生し身体に悪いと忠告しましたが、痛さのため呑まざるを得ませんでした。娘が私の顔色の悪さや気分
の悪さでお参りが出来ないのではないかと心配したそうです。
どうにかお地蔵さんにお参りすることが出来ました。帰路は頭痛が何時しか、うすらぎ心が知らず知ら
ずの間に晴れやかになっている自分に気付き吃驚しました。新幹線の車窓より沿線の風景を眺めつゝ、
こんなに早くお蔭を戴いたのかしら、今日までの頭痛の苦しみから解放されました。私の喜こび、口や
言葉では云いあらわせません。只々お地蔵さんの偉大なるお慈悲に感謝と喜こびの外御座いませんでし
た。
五月十八日には十人余りの方々と喜こんで祭祀一周年記念にお礼参りさせて項きました。本当に有難い
ことで毎日地蔵経をとなえ晴れやかな日暮しをさせて貰っています。
六月十七日のお礼参りには長男が同道してくれました。長男はスナック経営者です。お参りする前日よ
り歯痛で顔まではれあがっていました。行きの新幹線では痛がっていたのがお参りしての帰りは歯痛が
治っていました。其の後スナック経営の売上げが不思議にも昨日よりは今日、今日よりは明日と売上げ
が伸び、息子は母に同道してお参りしたお地蔵さんのお蔭と喜こんで私に話しました。
お慈悲深き尊きお地蔵さま本当に有難う御座います。
厚く厚く御礼を申しと上げます
次に私宅が世話になった市役所の方が七月一日心筋こうそくで入院されたことを四日に聞き、見舞に病
院に行きましたところ、面会謝絶の状態でありました。奥さんが、かねがね私が話していた首無地蔵さ
んにお願いに参りたいが、今の状態では主人の病状は危篤状態でお参りが出来ないと話されました。医
者はあと二~三日の命と思っていられるらしいので翌日私と娘が代参しました。戴いたお地蔵さんのタ
オルを早速病人の胸にあててあげました。
私が代参に行ったことを病人に奥さんが伝えたらしいが病人がうとうとしていて目をさましたとき枕も
とのスタンドがお地蔵さんに見えたといって、手を合せて拝んだことのない人が始めて手を合せ「南無
阿弥陀仏」と唱えられたらしい不思議な現象がありましたと奥さんが話されました。これはきっとお地
蔵さまが病人のおそばに来られたことできっと御利益があります。安心して信心して下さいと申しまし
た。
そのお蔭で日に日によくなられ、二ヶ月で退院されました。医者は心筋こうそく(梗塞)で全治される
例はめずらしいと不思議がられています。
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私、お地蔵さんのお蔭で恩返しや人助けが出来まして本当に有難いことで心からお地蔵様にお礼申上げ
ます。
草津信者一同でお蔭を戴かれた人々がお地蔵さんえの御礼に幟を奉納したい趣旨に喜こんで賛同させて
戴きました。
八月十八日の例祭に朝五時過ぎの列車でお連れの方とお参りさせて戴きました。読経や説教を聞き有難
いお参りに気分もすがすがしくなりました。地蔵堂周囲にはためく幟を挑めながら今日まで戴いた多く
のお蔭を書いて、偉大なお慈悲深いお地蔵さまの御利益を多くの人達に知って戴くことがお地蔵さんえ
のお礼になると思い一筆心こめて書かせていただきました。
お地蔵さま本当に有難う御座います
合
掌
昭和五十三年十月十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
四、妻の心臓病の快方と「喉」の痛みが一夜でとれた
(名古屋市)A男(55才)
私の妻は二十年程前から低血圧で、たえず頭痛が発生して、時々立上れないくらい、ひどい頭痛になや
まされて参りました。これは持病でなおらないものとあきらめていました。もう一つの病気は二年程前
から体重が六kg位ふえ、そのうちに心臓が踊る(どうきがする)息ぐるしくなる状態となり医師の診
察を受けましたところ、大動脈弁膜症で入院して治療した方がよいと言われたが入院するのを迷ってい
るうちに今度は喉が食事のときや、唾(つば)をのみこむときに「しゅよう」が出来ているような痛み
を言ぅようになり、又も心配が重なって憂鬱(ゆううつ)な毎日を送っていましたところ、本年五月七
日妻の亡父百ケ日の法要ノお参りした際、草津市の義兄Y氏から府中市にお祀りされてある霊験あらたか
な首無地蔵さんの由来記や礼賛記のお話や、義兄自身心臓病で入院されたのが見違える程元気になられ
たのも、首無地蔵さんにお参りされたお蔭であることも話して下さっので道順や所在を詳しく教えて戴
きました。義兄姉は五月十八日の祭祀一周年記念日にお礼参りするとのことで、そのときお連れにして
いただいて私達夫婦もお参りする予定でしたが、妻はその日まで待ちきれず、つぎの日曜日、五月十四
日に是非お参りしようと言うことで、十四日にお参りさせて戴きました。
名古屋を朝八時に出発してお地蔵さんにお参りさせて項き帰ったのは夕方六時頃でした。今迄妻は車や
電車で往復三時間程度の乗車でも、つかれたといって寝ころび何もしようとしなかったのが、つかれた
とも言わず、自分から進んで使いに行ったり、家事をせっせとしているのです。私も不思議に思って居
りました。
次の日から妻は心臓の「どうき」や喉(のど)の痛み等を何も含わないので早やお蔭を戴いたのかと思
いながら一週間程して妻に心臓のことや喉の痛みはどうかと聞きましたところ
「あれ
本当ぜんぜん痛くもないわ」と自分でも忘れてしまう程、お参りした翌日からすっきりと痛みがとれて
いました。
私は元来あまり神仏を信ずる心のうすい方でしたがこの妻の様子を見て内心驚きました。
それから三ケ月経過しましたが妻は頭痛も発生せず心臓の方も仕事は一人前以上しているのに「どうき
」「息ぎれ」もなくなりました。医師は貴女の体は時々診察に来なければいけないと忠告されたので、
以後二回程診察に行きましたが医師も吃驚しています。
貴女の体で一人前に仕事が出来るようによくなったのは不思議でならないと申しておられました。
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この真実を体験した私は、お地蔵さんの御高徳には心をうたれました。お地蔵さんは妻の病気ばかりで
はなく今迄不信心者の私の心まで直して下さいました。妻は嬉れしさの余り八月十八日の月例祭には義
兄夫婦に同道させてもらつてお礼参りをさせていただきました。草津市信者一同の心ばかりの幟に賛同
させていただいたのがお地蔵堂の周囲にはためいている中、月例祭の読経にお参りが出来、心はれやか
に帰宅してまいりました。偉大なお地蔵さんの御利益に心から喜こび感謝しております。今では朝夕家
内中でお願いとお礼を遠隔の地よりさせてもらつています。
お地蔵さま本当に有薙ぅ御座います
合
掌
昭和五十三年十月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
五、嫁の難産が安産になった
(滋賀県栗太郡栗東町)O男(69才)
私の同業者で草津のYさんが「広島県府中市に霊験あらたかな首無地蔵さんが祀ってあるのでお参りし
ないか」と再度誘はれたので、四月九日、Yさんの案内で他の人達と同道させてもらいました。別に願
いごとはないので家族一同の無事息災と、八月末出産予定の嫁の安産をお祈りしました。お参り後、世
話人Sさんよりお慈悲の深い地蔵大菩薩さまのお蔭を、多くの方々が戴かれ喜こんでお礼参りに来られ
ているお話を聞かせていただき、帰路もう一度皆んなでお地蔵さんにお参りしました。
其の後は何んとなく気分的に晴れやかな毎日を家族一同過してまいりました。
嫁は毎月産婦人科で診察を受け、母子の健康状態を見てもらツていましたが、八月の診察結果が思いもよ
らぬ悪い結果となりました。胎内の子供が逆子になっており、嫁の体では切開手術の心要があるので八
月末そのつもりで人院するよう宣告されました。その話を聞かされ吃驚と心配の余り夜も寝られないの
でお地蔵さんに何んとかお助け下さるようお祈りしました。
そのお蔭で逆子は幸いにも近くの産婆さんに直してもらうことが出来ましたことは、お地歳さんの深い
お慈悲のお蔭と感謝申し上げましたが、出産の予定日は日一日と近づき産婦人科は難産の予定とのこと
、切開手術のお産では嫁や生まれてくる孫にどんな傷がつくやも知れないし、万が一手術の結果が悪か
ったらと思うと、心配で心配でたまらず、じつとしていられないので、Yさんにこのことを話しました
ところ「四月の参拝のときお地蔵さんのタオルを戴いたでしょう。そのタオルを嫁の腹帯の間に入れて
巻かせ、お地蔵さんに安産をお願いしたらよい」と言われたので二、三日してから嫁に腹帯といっしよ
に巻かせましたところ二時間程経過したら驚くなかれ産けいづき始めました。
今更ながらお地蔵さんの偉大な尊きお力に吃驚しながら、安産出来ますことを一心にお願いしましたと
ころ、翌日九月二十五日午前十時、切開手術もせず且つ何の苦痛もなく元気な可愛い男の子を安産いた
しました。親子共々元気であります。こんな嬉しい思いをしたのは始めてです。難産の宣告が安産とな
ったのはお地蔵さんのお蔭以外ありません。
これ程御利益があろうとは夢にも思っていませんでした。
九月十八日にお礼参りをし心からお地蔵さまにお礼を申し上げました。
あまりの嬉しさとお地蔵さんえのお礼にと思い拙文も顧り見ずお蔭を戴いた喜びを書かせていただきま
した。
お地蔵さま本当に有難う御座います
合
掌
昭和五十三年九月二十八日
39
(編者注:)O氏はその後硅肺病の為苦しんでおられたが軽癒し病院を代った医師のお陰で労災保険の
適用も受けられるようになり、度々病院から地蔵参拝をしておられた。昭和59年10月他界。最期ま
で意識明瞭のまま楽に大往生された。奥様が十一月四日おに礼参拝された。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
六、孫の火傷後遺症手術せず治る
(滋賀県草津市)T.M(48才)
よちよち歩きが出来るようになった可愛い外孫が本年一月末、娘のちょつとした不注意で使用中の石油
ストーブに両手をかけて立った為に両手の平を大火傷しました。早速医師の手当を受けましたが両手の
手は白くぶくぶくにふくれあがり、左手の平は皮膚だけでなく肉まで焼けていました。可愛い孫の泣き
さけぶ悲しい毎日でしたが、火傷は一ケ月余りで治りました。而し手の平は火傷でひきつられて伸びま
せん。そのため両手の指が曲がった状態となりその上、手の平の筋(手相)がなくなっていました。
体を不自由にした悲しみで娘は泣きくずれる有様、なんとか治らないかと大学病院で診察を受けました
ところ、足の裏の肉を両手の平ノ移植しお尻の肉を足の裏に移植の大手術をしないと手の平、指の機能は
快復しないとのことです。小さい可愛い孫にこんな大手術で又も痛い
目にあわすのかと思いますと可愛想で可愛想でたまりません。他によい治療法がないかと他の病院で診
察を受けましたが、大同小異大手術には変りがなく悲しい、心配な毎日を送っていましたところ、私の
友人が府中市に霊験あらたかなお地蔵さんが祀ってあってYさんに同道してお参りして来ました。多く
の方々がお蔭を戴かれ喜こんでいられる話を聞き、「おぼれる者わらをもつかむ」のたとえの通り、手
術もせずに孫の火傷後遺症が治ればこんな有難いことはないと思って、Yさんに詳しくお地蔵さんの道
順を教えて戴き、五月十八日夫婦で孫の火傷後遺症全治祈願にお参りさせて戴きました。
そのとき世話人にお願いして線香の灰を戴き、且つ地蔵さんのタオルを戴いて帰りました。早速娘夫婦
や先方の両親に地蔵経を唱えながらこのタオルで手の平を毎日さすってやるように、また線香の灰を手
の平に塗ってこするよう教え、わたしてやりました。
毎夜入浴のとき娘夫婦や先方の両親は一心に私の教えた通り地蔵経「おんかかかびさんまえいそわか」
と唱えながらタオルで手の平をなでられました。今ではタオルがうすやぶれになる程一生懸命にお願の
日々を過されました。
その甲斐あって有難いことに日々日々手指が伸びるようになり、八月十五日には手の平、指の伸びは普
通状態になって里帰りをしてくれましたときの、私の喜こび筆舌につくしがたい喜こびで御座いました
。お慈悲深いお地蔵さんのお蔭と心よりお礼申し上げました。
手の平の筋(手相)は出来ないと医師より言われていましたが、不思議と言ぅのか筋(手相)も出来て
まいりました。只々お地蔵さんのお蔭でありまして感謝の外ありません。
あまりの嬉しさとお地蔵さんえのお礼の気持で下手な文書も顧り見ず書かせて項きました。
お地蔵さん本当に有難う御座います。
合
掌
昭和五十三年十月二十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
七、主人の糖尿いえ心臓病軽ゆす
(広島県御調郡御調町)S女(49才)
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昭和四十八年三月中旬頃、主人(五十七才)は心蔵病にて入院し四十日間治療を受けました。
その間に糖尿病を併発して心配の種が又増えました。四十日後退院はしましたがその後も通院は続き約
八キロメートルある町の病院へあしかけ六年間も通っておりました。
悪い事が重り昨年十月中頃より義母が老衰して足がたたなくなりました。府中市に嫁しておられる義妹
のKさんより首無地蔵様の霊硬いちじるしい話を聞き早速お参りしました。そして義母の為一心に祈り
ました。
老衰と心蔵衰弱の為に再起不能と書われていた義母が立上がり歩く様になった奇蹟が生じました。(地
蔵大菩薩礼賛記第五部のK女記に詳細記q)
義母がよくなったので之に力づけられて、或は主人の病気もお願いすれば治るかも知れないと思い、今
年の一月より真剣に祈り始めました。一ケ月経過しました時不思議に糖尿病がよくなってきました。検
診の結果糖尿はも早出ないと治療を打ち切られました。一層不思議に思いつゝ最初は望んでも駄目と思
っていた主人の心臓病も快方に向うかも知れないと自信を得て府中市へ来る度に月一~二回首無地蔵に
参っておりました。バスで二十五分かゝりますが地蔵堂で祈り家でも朝夕欠かさず祈り続けました。
昭和五十三年六月下旬、病院で診断の結果、心電図もよく心臓もよくなってきたので今迄六種類戴いて
いた薬を一種類にして下さいました。その時のうれしさは格別でした。お地蔵様は助けて下さったと思
いました。毎月の薬代も一挙に六分の一に減り、私自身も同様に軽くなった様な気分でした。襖(ふす
ま)ごしの主人の苦しそうな寝息に胸しめつけられ、板道を登るのさえ息切れし、犬のえさをやる為に
庭先に出ても「フーフー」云っていた主人の呼吸も楽になった様でした。苦痛は大幅に軽減致しました
。
翌朝早速首無地蔵に御礼に参りました。何回も何回も御礼し休みながら帰宅しました。
家族の者がよくなってきた矢先に今度は私自身が更年期障害と言うのでしょうか頭痛がし肩がこってき
ました。貼薬もはって見ましたがすっきりせず、主人の心臓の治癒をお祈りした後、欲が深いかと御地
蔵様にお断りしながらお願いしておりますと、五月の終り頃にはすっかり治ってしまい、かかっていた
按摩も不要になってしまいました。今はお地蔵さんに明けお地蔵さんに暮れております。地蔵堂に献金
した記念に戴いた地蔵タオルに入魂して貰い、えを立てかけてタンスの上の箱に収め、花を生けお供え
もして毎朝夕拝みます。朝お願いし夜は感謝の気持で拝み、働きながらも地蔵経をとなえます。お祈り
の時は「おんかかかびさんまえいそわか」を十回二息でとなえ終えます。目をつむってお地蔵を思いう
かべる感じでお地蔵にすがる気持で拝みます。
拝んでいると頭が自然に下ってまいります。最近は短い雲が浮んできてその形が地蔵の姿に見え始めま
した。何とも言えない神々しい感じです。夢の中でも二~三回お地蔵様に会った夢を見ました。
近頃台所で揚物をしていて油がとびちって大やけどをしました。ひりひり痛みましたが一心にお地蔵様
に祈っていましたら五十分でぴたりと痛みはとまってしまいました。
毎日が清々しく、うれしく有難うの繰返しです。
合
掌
昭和五十三年九月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
八、息子の酒乱がしずまる
(広島県芦品郡)酉年女(69才)
私の息子は二十を過ぎてから酒を呑むとあばれて仕方がなかった。人間は大変良く普段はおとなしいの
だが、酒を呑むと乱れて手がつけられなかった。毎日毎日これには家中苦労した。二十三年間と言うも
の迷惑のしどうしであった。時には息子を殺して自分も死んでしまおうと何度思ったか知れない。新聞
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ででもこうした記事をよく見掛けるがわかる気がした。息子の嫁がしょつ中私の所に電話をかけて訴え
て来た。最近では竜話がかかってくると年をとって気が小さくなった故か、手足がふるえる始末であっ
た。息子は若い時分都会に働きに出ていて何かの拍子にぐれてそれ以来酒ぐせが悪くなっていた。
昔から私は氏神様には毎日の如く参拝しトいる。以前しょうしん脚気で一生治らぬと言われていた病気を
、五年乃至六年間氏神様に日参して治った経験もあり、信心によるお蔭については疑うものではない。
息子の為にお陰があると聞けば、所を遠しとせず足しげく願かけに参った。尾道市に拝むところがあり
そこにも参った。ここでは金のいる所へ参ってもその時限りで、ありそう言う所で拝んでも無駄であり
、自分で信心して一生懸命拝めと言うお告げであった。
今年になって夢の中で場所はどこかわからぬが自分で一生懸命拝んでいた。
昭和五十三年四月の始め嫁が会社で首無地蔵様の話を聞いてきた。大変のお参りがあり何でもよく聞い
て下さるとの事であった。そこで早速府中市の地蔵堂に参拝した
「私の息子がむやみに酒を呑まない様に、そしてあばれない様にして下さい」と一心に祈った。
一里ばかりある道のりを一日置にかかさず歩いて参った。今年の八月のお盆を境に嫁から泣く様な竜話
が全然かからなくなった。そして今ではほっとしている。お地蔵様が私の必死の願いをきき届けて下さ
ったのであろう。
「おんかかかびさんまえいそわか」今は一日中この御経をとなえ、お地蔵様に明けお地蔵様に暮れるこ
の頃である。
有難う御座います。
合
掌
昭和五十三年十月二十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
九、ノイローゼが治る
(広島県高田郡)F女(47才)
私は農家に住む主婦ですが今年の三月三十一日に母の病気が再発して倒れました。看病の為に今迄勤め
ていた職場とも別れました。八十三才の父の面倒やら、家の中の色々の心配事が重って四月頃胸が焼け
る様な痛みを感じはじめました。氷で胸など冷やしたりしましたがその中、頭がはっきりしなくなり、
田植えも出来ず主人が人に頼んで植えてもらった様です。病院に行く様に主人がすすめたらしいが私は
病気ではないと言い切る為に里の妹を呼び三人で無理やり病院につれて行かれました。
よく眠ればよろしい、別に異常はないが出来れば一週間位入院する様すすめられたが二人の病人をかか
えて入院など出来ないと断りました。医者の薬もY酒もなんだか恐ろしい様で呑む気になれず、叱られ
て呑む様な有様で私を取りまく周囲がとても恐く感ぜられてつらい日々でした。病人の見舞に戴いたま
んじゅうでさえ咽を通りませんでした。化粧をするでもなく、体重はどんどん減って来ました。人に会
うのが恥かしく言葉も少なくまり黙り込んでいたそうです。
或る日お姉さん(主人の従兄弟の妻)が「お地蔵さまのしおり」を職場の人から借りて来て、私に首無
地蔵様にお参りする様にすすめて下さいました。数日後に私は次男に連れられて「しおり」をたよりに
お参りしました。初めての土地で仲々分らず私は帰ろうと言い出しましたが次男は一生懸命に捜し昼頃
ようやく辿りつきました。私は只軽い気持で拝み、お地蔵様の体に触りました。そしてお礼として備え
付の封筒に名前のみ書いてお供えしました。その後主人は次男に向って月例祭の日に会社を休み再度母
を連れて行く様に言いましたがガソリン代がもったいないと私は断りました。
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それから数日後、お姉さんが来られその後の様子を聞かれましたが、別に変ったことはなくやはり頭が
重いと答えました。お参りした人は皆良くなっているのに貴女ばかりはどうしてでしょうと言われても
返す言葉もありませんでした。
八月に入っても依然として頭は重く、ハリコでもかぶっている様でもやもやし、それに夜もろくに眠れ
ませんでした。次男は車に乗る仕事をしているので気を付ける様に注意すると「僕のことは心配しない
で自分のことに気を付ける様に」と逆に言われ、その一言が奇妙に不思議に思えました。それから数日
後ふと今迄の自分が昨夜夢でも見たかの様に次々と思い出されてきました。私はこの時初めてはっきり
とお地蔵様の事を思い出しました。お地蔵様は今私を正気づけてFさった。罪深い私を助けて下さったと
思い感謝の気持で胸が一杯になりました。
その時の喜こびは口では言い現わせない嬉しさで涙が出て仕方がありませんでした。私は嬉しさの余り
隣の人にこれ迄の事情を話しました。隣家の人は本当に良かったと喜こんで下され、二人の年寄をかか
えてどうなる事か可愛そうにと周囲の人々が大変心配していたとのことでした。
私は熱い涙が出て仕方なく「元気な姿に戻ったのは貴女一人の力ではない」と近所の人は共に泣いて下
さいました。
私は二回目の地蔵参りを主人と三人でしました。何時の間にか頭もよくなっていて九月十三日には広島
市の叔父叔母を呼び四人連れで三回目をお礼参り致しました。今の私は胸がスカッとしていて何かしら
希望が胸に湧き上り、自然と両手を合せ地蔵経が口に出ます。
今私は本当に幸福です。お地蔵様本当に本当に有難うございました。
お地蔵の慈悲の腕(かいな)に支えられ 胸うちに 今日もうれしさ溢るる
合
掌
昭和五十三年九月十六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
十、頭痛が治りじんましんも出なくなる
(府中市)子年女(54才)
昭和五十二年五月十八日に、首のないお地蔵様が畑の中から掘出されたものだと、それはそれは美しい
お姿の神様が御近所の信心深い人の夢まくらにあらわれて、「私をどうか掘りおこしてくれ、今土の中
にうもれている」とおっしゃったのだと。早速掘ってみたらその場所に首のとれているお地蔵様の胴体
だけが出て来て、その近くの方々が、沢山寄られておまつりになったのだと、私の知人の御老人がお出
でて、しきりに話を聞かせて下さいました。
私は不思議なこともあったのだなぁとひとり思い、おりました。その御老人から一度一緒にお参りしよ
うと再三さそわれましたが、はい、又参りましょうと言ぅだけで、お参りしたことヘありませんでした。
大体私は無神論者と言ってよいか、何と言ってよいか、信仰にかけては、無神経な者でした。
或日、別のお方がお出でて、「今日私は、首無地蔵様のお祭日だから、これからお参りしようと思うか
ら一緒に参りましょう」とさそわれました。私は思わず「はい参りましょう」と申しました。私はお参
りする気はなかったのですが、「はい」と返事をした以上、参らなかったらうそつきになると思い、後
お参りしますから、先に参っていて下さいと申しました。
でもお参りすると言ったのだから、是非お参りせねばならないと思い、初めて一人でお参りするのだか
ら、道もわからないまま、聞いた方向を定めて、その方向に向いて行っていましたら沢山の方々が、そ
ちらにむいて行っていらつしやるので、後をつrいて行きましたら、お地蔵様のお堂に着きました。
私をおさそい下さつたお方は、もうお堂にお参りしておられました。私は何とはなしに手を合せておが
み帰りました。農道の方にむいてゆくのは久しぶりでコスモスの花がきれいに咲きみだれ、空気はおい
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しいし、何とも言えない、おだやかな感じとなりつつ、早足で家に帰りました。丁度一時間かかってい
ました。
それから一ケ月後、今度は娘と一緒にお参りして帰りました。帰る途中、大分足が弱ったように感じて
、ぼつりぼつりと足を運んでわが家にようやく着きました。そして、二、三日後気分も悪くないし、熱
もないのに急に喀血し始めました。二、三日家で安静にしていましたが、止まりませんので、とうとう
入院しました。二日ほどして血はとまり、後八日ですっかり元気になり退院しました。
昭和四十九年頃より始終頭が重く、食べ物によっては、体にじんましんが出て因っていましたが、それ
以来大かた一年が来ますが、ずっと気分もよくなり、じんましんも全然出なくなり元気になりました。
だからあの時お地蔵様が、私の体の中にある悪血を全部取りのぞいて下さったと信じています。眼には
見えないけれど、あの美しいお姿とお地蔵様は不思議な御力をお持ちで、何と言ってよいか、言葉であ
らわすことの出来ない有難い感じで一杯で御座います。
それ以後思い出すごとに、お地蔵様の方向に向って、両手を合わせてお祈りを捧げています。
社会情勢もめま紛しく変って来ている今日、一度限りの人生で此の世に生を受けた以上みんなが御地蔵
様の御手の内にいだかれて常に温く、おまもり下さいますように御祈りしてやみません。
合
掌
昭和五十三年十月二十九日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>7
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
十一、首の痛み治る
(岡山県倉敷市)W女(63才)
私は三十年前より肩がこり首がこっていてよく眠れなかった。途中で一時治っていたが一年前より又悪
くなり始めた。首の左側に軟骨が出ていてとても痛む。倉敷市茶屋町の整形外科で首つりをして手当を
してもらつていた。がどうしてもなおらなかった。
近所の人が首無地蔵を教えて下さった。足のすねが痛くてふとんが掛っても痛かった人がお地蔵様に参
って一日でなおったと言うことである。今年九月の初めお蔭を貰われたM様に連れ立って府中市の首無
地蔵に参った。
不思議も不思議その夜から首がらくになった。うれしくて有難くて十月の中頃、家中でお礼に参った。
もうすでに三度もお礼参りしている。今では痛みは今く感じられない。
十一月十日大阪にいる姪にこのことを話して呼び寄せ、共々に府中市の首無地蔵にお参りした。その夜
は府中市の駅前旅舘に泊った。姪は頭から首すじにかけて痛みがはげしく、朝起きた時など首すじから
背中にかけてにがる様にうずいていた。それがお地蔵様にお参りして、歩くのさえ苦痛だったのが楽に
旅館にたどりついた。そして背中のいたみも感じない位になり、夜もゆっくり休める様になったと大変
によろこんでいる。
お地蔵様有難うございます
合
掌
昭和五十三年十一月十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>9
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
十二、両足変形性神経痛が治る
(岡山県倉敷市)M女(62才)
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昭和二十五年頃より足の関節が悪くて点々と病院を変えて見ましたが、はかばかしくないまま会社勤め
をしながら農業の手伝いをして居りました。家をたてる事で無理を重ねて今年で二十八年間夜も昼も痛
い痛いの口ぐせでした。足が上らぬ為、稲の切株に足がひっかかっていました。
五十年一月病院に行き見て戴きましたところ、変形性神経痛と診断され絶体安静で、四十日入院致しま
したがあまり変りないままに医師は、適切な運動や作業を行う日常生活に不便のないようにする訓練が
大切ですと言われて、退院致しましたので長い四十年の会社勤めも退職致して、これより悪くならない
様にと神に念じながら、本年は児島大師と四国大師様 烽ォました。
お盆にI様が胸のあたりが痛くて病院をあちこち行ってもわからなかった時、知人より府中市の首無地
蔵様を教えられて参り、お蔭を受けてよくなりました。貴女も参って足をお顧いなさいと言われて、早
速子や孫を連れて(孫はちくのう症でした)今年八月二十五日、一生懸命でお願い致しました。気分的
に足が軽くなった様で駅まで歩いて帰りました。
何日かたつ中、足の痛さを忘れる様になっていました。嬉しくてもったいなくてたまりませんでした。
その後、遠く近くの人々をおさそいして参り、ほどんどの人が喜んで二度三度とお参りをしています。
かぞえて五十人ぐらい参らせていただいていましょう。
残り少ない人生を一日でも痛みを感じない様にすごしたいと、皆と顔を合せる度に又参りましょうと話
し合っています。ただ感謝の気持でいっぱいです。
八月二十五日と十月十七日、十月十九日、十一月十二日、四回参らせて戴いて居ります。十二日は雨で
したが主人が手が神経痛の様だというので主人と孫、娘と近所の人、親類の人で十五人参り代参も三人
たのまれて参らせて戴きました。 ありがとうございました。
□奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶
合
掌
昭和五十三年十一月十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
十三、ひょうそう寸前の小指のいたみ治る
(府中市)K女(58才)
昭和五十二年九月の初め彼岸のお墓掃除をしている時、萱で右の小指を切りました。すぐになおる位に
思って湯水につけた為、十日ぐらいして急にいたみだし化膿してひょうそうになる寸前にまでうみまし
た。外科医に行けば爪をはがされ、水仕事も出来なくなるので恐れて行きませんでした。
私は終戦後すぐ大病をしてお大師様を信仰して命を助けて頂いた事があります。首無地蔵様の霊験あら
たかなことを娘が会社で聞いて帰り早速娘と共に参りました。
いつも低血圧で頭がいたいので最初それのみお願いしていました。丁度その日参拝しておられた女の方
の腰の痛いのを聞き自分のじゅずでお地蔵様にさわりお経をとなえながら一心にさすって祈ってあげま
した。終りに自分の指のいたみに気づき石地蔵様にふれ、うみを自然に出して下さいと祈りました。帰
りにすぐ坂道をおりながら小指にさわって見ましたら全然いたくありません。お参りする時はさわる事
も出来ないほど痛かったのにと何回も強くさわって見ました。痛みはほとんどありません。不思議とも
何とも言い様がありません。お地蔵様は一心になれば必ずすぐ願いをきいて下さるのだなあと思いまし
た。
何と偉大な有難い御地蔵様でしょう。小指もその日限り、いたみも去り、うみも知らぬまになくなり全
く不思議です。有難く思っています。
又、今年の八月中旬、今度は足の小指の爪のさかむげを手でちぎつた時、そこからばいきんが入り足の
脚まではれ上りました。手の指の時以上に痛み夜もねむれぬ程でした。歩くことが出来ずお地蔵様にも
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参られませんでした。外科病院へ今度は行かねばいけないだろうかと思っていましたが最初お参りした
時、気持ばかりお供へをして、戴いたタオルとお守りを仏だんにおまつりしていました。そのお守を足
の小指の上にさわりながら「お地蔵様どうぞうみを自然に出して下さい」と一心に祈りました。祈り終
って五分くらいして次の間に立った時、ほう帯が少し黄色くにじんでいるのが目につきすぐほう帯を取
って見ました。ほんとにうみが出ていました。一度ならず二度までも外科病院に行かず切る事なくおか
げを戴き本当によく聞いて下さる御地蔵様だと心から有難く思っています。私はお参りして毎日、以前
助けて戴いた御大師様にお礼をこめて「南無大師遍照金剛」を数回となえ、次に「おんかかかびさんま
えいそわか」を数回となえてお経を三回あげ「有難う御座居ます」と申し我願いをお願いします。私は
いつも思い出しては「有難う御座居ます」の言葉をくり返します。
南無地蔵大菩薩様有難うございます
合
掌
昭和五十三年十一月十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第7部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第7部
あ と が き
地蔵大菩薩礼賛記第七部出版にあたり、滋賀県草津市のYT氏(礼賛記第六部に体験記掲載)の御骨折
により滋賀県関係のお蔭を受けられた方の体験記五編を戴き、その他の方々のすばらしいお蔭記と共に
一段と内容の充実したものとなった。
滋賀県は草津市のYS氏が昨五十二年暮の全国放送のテレビにて首無地蔵を見られたが所在がどうして
も分らず、ひきつけられるままに諸処方々に問い合せられ一ケ月半かかってようやく府中市を尋ねられ
、その後数々のお蔭をうけられた。氏が導火線となり草津市を中心に百名以上の方が首無地蔵に参拝さ
れ、大方の人がお蔭を受けられ、なお輪が拡がりつつある。
広島県御調郡御調町のSJ氏の地蔵菩薩を拝せられた体験記は、現象の石地蔵には首がな様に見えるけ
れども御本体には御顔があることを物語っている。夢のお告で堀出された東夫妻の見られた地蔵尊も他
の二~三の祈祷師の拝した姿にも共にお顔は映じている。S氏の拝せらたお姿ですべて一致したいるこ
とは、女性の如く美しくやさしいお方であるということである。
霊眼のある人以外には見られない地蔵尊は普通の人に映ずる幻影の如きものではなく、確かに次元を越
えたた尊いお方がおわせらると思わざるを得ない。そうでなければこれほど多くの人々の奇跡的な救い
や、毎日千人前後(休日は三千人)の参拝者などあり得ない。
終りに巻頭にかかげたお地蔵の真言の解義について引用させて貰った伊藤古鑑氏は岐阜県山県郡高富町
の普教寺の住職であり、花園大学の教授もされた方で昭和四十七年同寺で没しておられる。
編 集 部
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
一、胃潰瘍がなおる
(滋賀県草津市)N男(70才)
私は今七十才です。お酒は若い時から人に負けをい程飲み続けて来ました。今日まで病気は一回もせず
医者の世話にならず年をとつて来ました。が或る日役員会に出席したあと例の如く宴会となり酒を大い
に飲み二次会でも飲みまくり帰宅しました。
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翌朝、胃が急に痛み出し起きることも出来ず苦しみました。生れて初めて胃腸病院で診察を受け十五日
間通院致しましたが、痛みがとれないので他の病院で再診してもらつたところ、レントゲンの結果、十
二指腸潰瘍と胃潰瘍とのことで、すぐ入院と言われたが大手術をされると思うとなかなか入院に踏切れ
ず再度カメラで撮影しましたが、やはり潰瘍には変りありませんでした。やむなく入院を決意しました
が手術をすれば早く治ると医師は云はれ、これは大変なことだ手術せずになんとか治らないかと尋ねた
ところ三ケ月以上かかるとのこと。其のとき今迄、首無地蔵さんに四回程お参りして色々の願いごとを
かをえてもらつているので、お地蔵さんにお参りし手術せずに胃潰瘍が平癒するようお願いしてから入
院しました。
昭和五十三年九月十二日に入院しましたが不思議と申しませうか、毎日の医師の巡回診察で腹を押えら
れても痛くもなく医者の方が不思議がられる始末、私は霊験あらたかなお地蔵さんのお蔭と毎日喜びと
感謝の気持でお地蔵さんにお礼を申し上げていました。
一ケ月後の十月十二日、カメラを飲んで胃の撮影をした結果潰瘍はきれいに治つていると医者が吃驚さ
れ、こんなに早く治る患者は初めてやと不思議がられました。私は只々お地蔵さんのお蔭と心よりお礼
申し上げました。手術もせず一ケ月で治るとは夢にも思つていませんでした。
そうして医師は何時でも退院してよろしいと申されましたときの私の喜こびは、筆舌に侭しがたいもの
でした。
同室の患者達も手術せずに一ケ月で退院と云うことは見たことも開いたこともないと皆さんより申され
たので、私は府中の首無地蔵さんのお蔭を戴いたのだと話をし、喜こんだ次第です。他の患者さんもお
参りしてお願いしたいと云はれる方があり、十月十六日お礼参りのとき連れだつてお参り致しました。
お地蔵さん本当に有難う御座いました。御恩は一生忘れません。
合
掌
昭和五十三年十二月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
二、息子の尿道結石が治癒す
(滋賀県守山市)H女(47才)
私は小さいときから、父につれられてよく大阪の石切さんや生駒さんにお参りに行つたことが数多くあ
り、今もをお神仏に縁が厚く、京都の狸谷不動さんや大阪の石切さんにかならず月参りをして一家の無
事息災を祈願しております。そのお蔭様で毎日楽しい健康な家庭をきずいてまいりましたが、私の次男
(十九才・短大生)が高枚時代より下腹部がときおり痛みだし、医師の診断の結果、高校三年生のとき
盲腸といぅことで手術しましたが、其の後も再三下腹部の痛みを訴えます。
そのうち日毎に痛さが増し苦しむ日が続きました。特に夜中に発生しその介抱を毎夜してやりますが、
痛みはやまず苦しみもがくさまは見るにしのぴない・冾ナした。医師に診察してもらつたところ、尿道結
石の疑いがあるといつてレントゲン写真を撮つてくれた結果、「結石」が一糎(センチ)の長さで三粍
(ミリ)の厚さがあることが判明しましたが、「結石」をとかすよい薬がない、また即効薬もないとの
ことで呑み薬は戴きましたが、医師は三ケ月程しても「結石」が出ない場合は手術するが、それまで痛
んでもがまんするしか方法なない、ひどい痛みのとさは痛止めの注射をするしか処置がないということ
でありました。
毎夜息子の痛み苦しむさまに悲しいつらい日々を送つていましたところ、昭和五十三年六月十日頃、私
の勤務している知人Yさんより広島県府中市に霊験あらたかな首無地蔵さんがお祀りされてあつて、多
くの方々がお蔭を戴かれ、難病が治り喜こんでおられるお話や礼賛記と地蔵由来記を見せて預き、Yさ
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ん自身心臓病が快方に向つた実話(第六部礼賛記掲載)を聞き、そんなに有難いお地蔵さまなら是非お
参りしようと思い、信心深い友人のHさんを誘つて六月十八日お参りさせて頂きました。
私は「次男の尿道結石で困つています。痛まず、苦しまず、自然に治りますようにお地蔵さんのお力で
助けてやつて下さいお願いします」と一生懸命にお願いしました。Hさんは姑さん(七十才)が心臓肥
大で病床の身を治して戴くようお願いされました。その際「志」を世話人Sさんにお渡し、お地蔵さん
のお守りや、手拭と由来記を頂戴して帰りました。
その後、毎日地蔵さんのお守りにお水をあげて「おんかかかびさんまえいそわか」をとなえ、お願いの
お祈りを続けました。私の気持はお地蔵さまを信じ、おすがりしていれば必ず息子の苦痛を治して下さ
ると確信して楽な気持になりました。お蔭さまで毎夜痛み苦しんだ息子の尿道の痛みが不思議というか
徐々にうすらぎました。友人のHさんにこのことを話しますと、私の姑さんも十日余りで起きられるよ
うになり、ぶらぶらされる程元気になられたということで、お互いに偉大なお地蔵さんの御利益に心か
ら感謝し、よろこぴあいました。七月十七日、二人でお礼参りさせて戴き「結石」が痛まず無事外に出
ることをお願い申し上げました。
其の後、医師は尿道結石が細長いので尿道でかたむくと相当苦しむでしよう。もし苦痛がひどいときは
K病院に直送するよう紹介状まで下さつたが、お蔭さまでその心配もなく八月十七日痛みなしで「結石
」が出たと息子が喜こびながら私に見せてくれたとき、私一人ごとのように首無地蔵さんのお蔭と手を
あわせてお礼を申し上げました。そのときの喜こび、文書や言葉でいいあらわせません。その後は一日
としてお蔭を戴いたことを忘れず、毎月お礼参りさせて戴き「お守」をはだみはなさず身につけ、喜こ
びと感謝の毎日を過させて戴いています。
お地蔵さま本当に有難う御座います。
つたない文ですが、お地蔵さまえのお礼の気持で思いのまま書き綴りました。幾重にもお礼申し上げま
す。
合
掌
昭和五十四年二月六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
三、六年ごしの頭痛がなおる
(府中市)O女(35才)
六年ほど前より私の頭は狂いそうになるほどいたみましたた。したがつて仕事など全然手につかず一日
中苦しんでおりました。毎日の様に病院通いをし、薬をもらつては飲みつづけていました。おしまいに
は薬をやめねば却つて体に悪いほどのみつづけたものです。私の頭痛はとうてい人様には理解してもら
えない位悩みに悩みました。
昭和五十二年五月の下旬のこと、私の家からほど遠くない胡町の明浄寺山の下手の丘の上に首無地蔵が
掘出されたと新聞の記事を見た近所の人からききました。霊験あらたかとききましたので、とるものと
りあえず五月二十六日にお参りしました。当時は路傍の石地蔵様であり、御堂もテントも何もない、野
ざらしの首のないお地蔵様が農道に祀つてありました。それから毎朝五時に参りました。その都度三十
分位は「南無大師遍照金剛」を一心にとなえました。
その中に薬をのむ分量が次第に滅つてまいりました。いたみも段々かるくなつてくる様でした。一ケ月
経つた頃、石地蔵そつくりの形をした御地蔵様の夢を見ました。それ以後、体が大変に楽になりました
。これまで朝の運動に出ても、倒れる様なしんどさを覚えていましたのがなくなりました。走る様にも
なり、フットボールも出来る様になりました。
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一ケ月半でくすりも完全にやめました。仕事もどしどし出来る様になりました。お蔭様で昭和五十二年
の夏は元気でたのしく過すことが出来ました。
お蔭をいただいてから一年半以上になりますが、その後いたくも何ともありません。お地蔵様のお蔭と
毎日がたのしく足が自然に地蔵の丘にむかいます。毎日お礼まいりせねばおられません。血色もよくな
り頬もふくよかになり、えびす様の様な、え顔になつたと人は申します。
南無地蔵大菩薩・・・
有難うございます。有難うございます。
合
掌
昭和五十四年二月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
四、二十年来の頭痛いゆ
(岡山県井原市)I女(87才)
私は昭和三十二、三年頃からの頭痛もちでした。はじめの中は頭の中が鳴る様な感じで、ザーザー雨が
降る様な気持でした。それが進んできて、今度は頭が鳴りつつ三日か四日に一度ぐらい頭痛がする様に
なりました。(頭痛薬の)HやNなどの薬を服用する様になりました。遠近を問わず、あらゆる医者を
尋ねて歩きまわりました。その上、やいとう(灸)に、針に、ひねり、注射とあらゆる手をつくしまし
たし、女の事故、血の道ではないかと思い、婦人科えも行き相談致しました。大学病院にも国立病院に
も行つて見てもらいましたが、頭痛はなおらず、も早たよるものはないとあきらめておりました。
昭和郭四十六年頃より医療費が無料になりましたため、近くのお医者に通つていましたが十日分として
もらつた薬が頭痛がはげしい為に八日間で飲んでしまつておりました。おまけに痛みはひどくなるばか
りで、この状態が一年半以上もつづきましたでしよう。
忘れもしない昭和五十三年十一月二日のことでした。隣のおばさんが「府中市に首無地蔵というお地蔵
さんがおられ、何でも大変よくきいて下さるので参りましよう」と誘つて下さいました。十一月七日に
初めてお参りしました。十一月十六日に二回目をお参りして帰り、私の部屋に戴いたお地蔵さんのタオ
ルをボール紙で芯を作り、巻いてお祭りしました。そして鐘を思う存分にたたいて声をはり上げ心経を
唱え、頭痛がいえます様一生懸命、御願い致しました。
不思議なことに、二回目のお参り以来、二日に一度、三日に一度と段々頭が痛くない様になり、三回日
の十二月十一日めお参り以後一回も頭痛がしなくなり、一服のくすりも飲まなくなりました。ついにお
地蔵様の大きな大きなお蔭を戴きました。心底からうれしく天にも登る様な気持でございます。二十年
の長い間どれほど苦しんだ事でしよう。今別天地にいる心地です。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
お ん か か か び さ ん ま え い そ わ か
あ り が た や お 地 蔵 さ ま
御 お か げ で 頭 い た い が 全 快 す
合
掌
昭和五十四年三月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
五、はさまれた指の痛み快癒す
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(広島県府中)A女(65才)
私は昨年来もったいないほど数々のお蔭をお地蔵さんから戴いております。(礼賛記第五部掲載)
この外更にいただいた空陰を記しお地蔵様えの感粛の気持を申し上げる次第です。
昭和五十三年二月、広島市の伯母の家に法要に参りました。その帰り道、従姉妹が広島駅まで車で見送
つてくれました。車に乗つて前ドア-を閉めたとたんに右手の指四本の第一関節の所を強くはさまれま
した。従姉妹は気の毒がつて早速こう薬を貼る貼つてくれました。その上この足で病院え連れてゆくと
申してくれましたが、私は心から信じているお地蔵様がおられる故大丈夫ですと断りました。
電車にのつて府中市え帰る間中ヅキヅキ痛み通し、指先は紫色に変じて来ました。一生懸命に般若心経
をとなえ、首無地蔵様を念じお願いしておりました。
府中の自宅にたどりつき、御手洗いに行さました途端に不思議なことに貼薬が自然にはがれました。と
同時に指からおどろくほどの沢山の血が流れ出ました。更に不思議なことに痛みがそれつきり、ぴたり
と止つたのです。それを機に指も快方に向つてさました。丁度指の曲一節より五ミリ下をはさまれまし
たが骨も折れずに助りましたし、又帰る途中も血が出なくて本当に助かりました。これも一重に御地蔵
様の御蔭と有難く御礼申し上げます。
又、昭和五十三年六月十四日午後四時頃、そうじをしている最中踏み台がたおれて左足首をねんざしま
した。とても痛みまして夕食の支度も足を引きずる様にしてやうやく終えました。終つてすぐ夕の礼拝
の時にお地蔵様に一心にお祈り致しました。午前三時お手洗いに行こうと思つたが、足がいたくて立た
ないので主人の手を借りて済ませました。その直後、主人にローソクと線香を神様、仏様に供えてもら
い、般若心経を六十三回となえてお祈りしました。すると不思議に足はケロリと良くなり全然痛みを感
じなくなりました。この時ばかりは主人も頭をかしげて不思議がりました。
今度はその主人がお蔭を戴きました。昭和五十四年三月十日の雨降りの朝、自転車で雨傘をさして出勤
しました。家より二十米行つた所で転び、ひどく打つたようでした。傘をカッパに替えて行きましたが
、もし悪くなる様なら電話を呉れる様申しておきましたが会社から何の連絡もないので安心していまし
た所夕方七時頃、歩けないといつて駅からタクシーで帰つて来ました。午後四時頃から歩けなくなった
との事でした。お地蔵様より線香の灰を戴いていたのを早速とり出して主人の痛む所へつけて般若心経
を一心にとなえました。
翌日の朝と昼と灰をぬりました丈で夕方には歩ける様になり、翌十二日から普通通り何事もなかつた如
く出勤致しました。
お地蔵様の素晴らしい御力には只々感謝の二字のみでございます。
有難とう存じます。
合
掌
昭和五十四年三月十六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
六、目ヤニが出なくなる
(広島県福山市)明治四十二年生の老人(70才)
私がこのお地蔵様にお参りさせて戴いたのは昭和五十三年の十月の末のことです。人々の口から口えと
言い伝えられるこの石地蔵様は、ほんとうに尊い有難いおかげを下さるお地蔵様にちがいないと信じて
、近所の方々とお参りさせていただきました。府中という土地もはじめてですし、たどりついて見ます
と誠に首はないし、何年、いや何十年何百年の昔に祀られていたのではないかと思いました。
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私はこのお地蔵様の前にぬかづき、よくよく見ると、ほんとうに尊いお方だと信じて心をこめてお願い
致しました。私は長年の間、目ヤニが出て困つており、人様とお話をするときは目ヤニを気にしてよそ
を見ながら話していたものでした。目医者にも通いました。十日通い、二十日、一ケ月、二ケ月と通つ
て見ましたが一こうにききめはありませんでした。其の中にお医者の方から、あなたの目は慢性だから
なおるめどがないと言われ、がつかりしあきらめておりました。
一しよにお参りした道づれの方が、このお地蔵様には首から上がないので目のことをたのんでも何のお
かげもありますまいと笑つておられました。けれども私はこのお地蔵様はきつと助けて下さると思い、
仕事の合間にも、道を歩くときも、野良仕事をしながらも口をついて出るのが
おんかかかびさんまえいそわか
おんかかかびさんまえいそわか
でした。
一心にとなえている中に、いつのまにかかすんだ様であつた目が良く見えるようになると同時に、目ヤ
ニが出なくなっているのに気がつきました。近所の人からも目がきれいになったと申されました。ほん
とうにうれしうございました。
朝な夕なに「府中の首無し地蔵様有難うございます。有難うございます」とお礼申上げております。
合
掌
昭和五十四年三月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第8部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第8部
七、あつという間の安産
(岡山県倉敷市)S女(34才)
私の出産予定日は昭和五十三年十一月十四日でした。予定日ぎりぎりまでお店の手伝いをしたり車で配
達などしていましたから、入院しなくてもよいのかと逆に親の方が案じておりました。
出産の日の夜、八時頃まで仕事をして産婦人科にゆきました。そして分娩室に入るなり出産致しました
。たつた三分間のあつという間のことです。生れた赤ん坊は四〇〇〇グラムの女の子でした。私自身信
じられない位の安産でした。
その後の経過もとても良好で翌日は退院し、即日、洗濯、御飯の支度などの家事をし、全然休むことな
く、御産後二十日すぎには車を乗り廻し、配達の手伝いをしております。
同じ産婦人科に二ケ月前から入院し、産後も二ケ月も安静にしておられた方に比べ何と有難く幸せな事
でしよう。家に帰つても赤ん坊は泣きもせず、私が出産日前後もいつもと変らぬ姿を見せるものですか
ら近所の人は「Sさん、本当に赤ちやん生れたのかしら」といぶかる位です。之も一重に御地蔵様のお
蔭としか言い様がありません。
私の母が一年位前に二十五年間の足のいたみを一回のお参りで即座に直してもらつており(礼賛記第五
部記載)それ以来一家をあげて御礼参りに毎月参拝しております。
私も大きをお腹をかかえて八ケ月頃まで毎月お参りし、御地蔵様にお願いしておりました。その後は母
が代つて参りお願いしてくれておりました。私の無痛分娩もそのお蔭と思います。
子供には直子と命名しました。昭和五十四年一月の寒い日に直子をつれて首無地蔵様にお礼に参リまし
た。丁度その時、世話方のSさんが居られ「こんなに寒い日に赤ちやん大丈夫ですか」といわれました
が「大丈夫です。御地蔵さんだからつれてきたのです。」と申しいささかの懸念もあリませんでした。
おんかかかびさんまえいそわか
南無地蔵大菩薩
有難うございます。
51
再拝合掌
昭和五十四年三月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第9部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第9部
八、ぼうこう灸による脚のはれ引く
(広島県福山市)K男(65才)
府中市に住む私の弟(五十九才)は昨年三月二十日ぼうこうえんで病院に入院した。病状は一向はかば
かしくなく、今年の一月頃はもう駄目だと言われていた。弟は病気の苦しさに殺してくれとまで口ばし
つていた。
弟の嫁の叔父が首無地蔵を信仰していた。近くなので、しばしばお地蔵に参り弟の為に一心に祈つて下
さつていた様である。私の郷里、府中市えはしばしば帰るので、その都度お地蔵に私の願いごとを頼み
、その足で弟を見舞つていた。
本日昭和五十四年五月二十七日弟を病院に見舞うと、不思議なことをきいた。三日前、弟の目の前に地
蔵様が大きくせまつて来たということである。起きて見ると、むくんで足全体ェ大きく腫れ上つていたの
が一晩で引いて、足の骨が見えるほど元どおりになつていたという。そして急に楽になつたそうである
。そう言えば見舞つた今日も今まであいまいであつた言葉もはつきりしていた。
私はお尻の骨の辺がいたかつた。昨年の八月、つつぱつたりするので倉敷の病院え通い注射を打つてい
た。御地蔵様えは一昨年の暮、兄と一緒に参り、それから度々参り昨年の八月十九日に参つてお尻がよ
くなり始め、九月の彼岸に参つた後は完全になおつていた。その外に右のすねが痛み、坐つて立つ時物
をもたなければ立ち上れないほど痛かつたのが、月二、三回参つてお願いしている中に今年の五月十三
日すつと立てる様になつた。
よくお願いごとをきいて下さる素晴らしい御地蔵様である。
有難うこざいます。
合
掌
昭和五十四年五月二十七日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第9部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第9部
九、汗かきがなおる
(福山市)D女(56才)
私は風邪をひくとすぐ大汗をかき、それが一週間から十日間もつづき困っておりました。熱は七度三分
程度でそれほどでもないのに、背中がぞくぞくして背筋が寒くなり、横になつていると大汗が出てシー
ツがびつしよりぬれました。之を毎日繰返しておりました。お医者からは神経性ではないかと言われて
おりました。
昭和五十三年五月二十白頃弟の嫁がこの首無地蔵の霊験あらたかなことを教えてくれましたので早速参
らせて戴きました。よく拝んで帰りましたら、その日から汗が出なくなり不思議に思いました。その後
、出ませんでしたが昭和五十四年五月二十五日夜、再び大汗が出る様になり衣類もびつしより濡れ食慾
もなくなりました。
翌日すョお地蔵様に参りましたら、その日はそれつきり一度も汗をかきませんでした。今日、又有難く御
礼に参りました。ほんとうに有難うございました。
52
本日、子供も連れて参つております。今日で四回目の参拝です。近所の人々にも、この有難い御地蔵様
のことを教えてあげています。
首無のお地蔵さまの有難き汗の消えゆく今日のうれしさ
合
掌
昭和五十四年五月二十七日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第9部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第9部
十、じんぞうの痛みとれる
(広島県御調郡久井町)D女(50才)
私は二十二、三才の頃じんぞう結石で大学病院に入院した。入院中石を自然におろした。その後仕事で
無理をする関係上、四年目毎にじんぞうがいたんだ。ハリやマツサージをしばしば行つた。注射をすれ
ばジンマシンが出るので、じんぞうの検査は出来ないと医者は言つた。
二年前ににがり、今年の五月初めより再び痛み出した。一日中痛み、お腹を押えどおしであつた。今年
の四月十六日に久井町の人が府中市の首無地蔵は何でもよくきいて下さるということを、その人も聞い
て知つておられて私に教えて下さつたので早速参つた。
二回目は五月十三日に参つた。一心に御地蔵にお祈りした。そして来る時は車中でお腹をおさえていた
のに帰るときはすつかりよくなつていた。二回目に参つたとき、わずかの御供えに対して、お守りとタ
オルを戴いた。そのタオルでお地蔵様のお体をよくなでお願いしておいた。
入浴後にタオルで体のいたむ所にあてがうと不思議に楽になる。つい最近、肩がいたんだので、あてが
つたら気分が非常によくなつた。じんぞうもその後大変よろしい。
本当に不思議な有難い御地蔵様である。
おんかかかびさんまえいそわか
合
掌
昭和五十四年五月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第9部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第9部
十一、商売が上向く
(広島県福山市)大正2年生の男(65才)
私は戦後、人を数名雇つて商売を致して居り今年で三十一年になります。経営の方も何とか順調にゆき
、格別どうと云ふこともなく平凡な日々でした。処が四十八年、突然のオイルショックでそれ以来、世
界中が不況に見舞われ、私も他聞にもれず四十九年八月頃から毎月赤字の連続に落入り、その額も少々
のものではありませんでした。
次々と私財をつぎ込みながら何とか、その内にその内にと思いながら続けて参りましたが、やがてそれ
にも限界があり何日になつたら赤字が解消出来るのか、その見通しもつかぬままある日ある人から「府
中市の出口町に首無地蔵様が居られる。それは実に不思議なおかげが有るので一度お参りして見ては」
とすすめられ、おほれる者はわらをもつかむと云ふ思いで、昨年八月末、家内と一緒に初めてお参りさ
せて戴きました。
お地蔵様には祈祷師の様な人は居られず、各自が自分で石地蔵をさすり乍ら願いごとを頼むのです。そ
れ以来、毎朝五時に起きて御参りを続けて居ます。片道車で三十分位の処です。
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処が昨年十月の初頃から、だんだん忙しくなり、それからは赤字が段々黒字に変つてまいりました。現
在では此の分で行けば、来年中には四十九年以来の赤字もほとんど解消出来る様な状態にまで立直りつ
つあります。
人間の力では、どんなに努力してもどうにもならない時があります。今さらお地蔵様の目に見えない偉
大なお力をひしひしと感じ、家内と共に朝夕感謝の一念です。
信者再拝
昭和五十四年六月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第9部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第9部
あ と が き
府中市出口町新町の山名勇氏の御厚意により氏の羽中の土地四九九平方メートルを
一先づ借用することが出来て、同地を整地し、昭和五十四年五月十二日午前十時地鎮祭を行う。つづい
て五月十六日午後二時より同三時の間府中市の名刹真言宗栄明寺住職中村宏海師の読経の中に旧地より
五〇メートル上手標高六十五メートルの丘に御地蔵を遷座し奉つた。
府中市出口町川上の建築士楢崎好松氏が心根を注いで設計建築した銅板屋根、輝くばかりの総台湾檜造
りの一・二メートル角(屋根三メートル角)高さ三・五メートルの御堂の中に府中市河佐町石工小堀光
夫作の蓮華を形どつた青御影石の台座の上に首無地蔵を安置し奉る。暑からざるうす曇リ空の下、八つ
尾山下の若葉のかおりが清々しくただよう中に、たまスまの参拝者五十余名の合掌のうちに無事移転を終
えた。今までがきゆうくつな場所であつた故に広々とした土地に御地蔵もゆつたりと落着かれた思いで
ある。
地形は一段と高くなり地蔵坂を登りつめた所、府中市を一望の下に見おろせる絶佳の境内である。さつ
き晴れの五月十八日は地蔵世話人一同の人知れぬ苦労も稔り、満二周年大祭を盛大に行う。午前午後二
回にわたり栄明寺住職外三名の読経の声もさわやかに早朝よりの参拝者引さもきらず。団体バス、報道
関係者ら詰めかけ、当日の参詣者全員に般若心経を染抜いた手続を記念にくばり、終日大変な賑いとを
つた。御地蔵はいよいよ力を発揮下され、悩み苦しめる多くの人々に救いの手をさしのべられることで
あろう。それかあらぬか本編の地蔵礼賛記第九部の中に明らかに御地蔵が姿を現わしたまい神明加護の
事例を見せたまう体験記がある。有難く尊い地蔵大菩薩を賛歎し奉る。
合
掌
編 集 部
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>巻頭言
『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
巻頭言:「生 死 一 如」
人はいつかは死ぬと漠然と思っている。だが今日、或は明日自分は死なないであろうと思っている。だ
が肉体死はいつかやってくる。病苦、人生苦、精神的苦痛等その極限に於て死を想定し不安におちいる
。
般若心経に不生不滅、不増不減なる言葉がある。生れもしなければ死にもしない。ふえもしなければ減
りもしないと解してよいであろう。この語は現象面からは解し得ない。不生不減とは永遠の存在という
ことである。この物質的肉体のことではない。本物の「我」とは苦渋多き肉体的我のことではないと数
千年前釈迦は既に指摘しておられる。この肉体にしても、井戸や水道の水で成立ち動物や植物質の摂取
によって構成されている。死後焼かれても気化し或は他の物質に転化し完全になくなるわけではない。
「死」という意味が一切なくなってしまうと定義づけるならそれは疑問である。仮現された人間なる形
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がくずれ去るにすぎない。人間なる本体-生命は消えない。之を五官智でなくばく直に感得された釈尊
の悟道がある。
だが生身の人間には、痛み、苦しみを現実に感ずる。そしてこれらを見事に解消下されたまう地蔵菩薩
が府中市の北方八ツ尾山のふもとに出現された。地威の霊気に癒やされた人々の往生に際しての平安さ
も感嘆に値する。現世の苦しみが除かれ、肉体死の間ぎわに常かわらぬ心境でおられた人々の事例を知
るにつけ、抜苦与楽の為現れたまい、人を救われつつある地蔵尊であるとの確信が深まる。
地蔵菩薩に帰依し、地蔵におすがりせる人々に生死一如の見事な心境を見る。この境地こそお蔭の最高
のものである。
”おん地蔵まもりたまえばわがいのち
生くるもたのし 往くも安けし”
茂
昭和五十四年九月二十六日
府中市出口町
杉 原
茂
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
一、高血圧が下がる
(広島県府中市)N女(81才)
昭和四十九年頃から私はよくめまいがする様になった。お医者より高血圧であるといわれた。家の中で
もめまいがしてよく倒れ、街に行く為に家を出てしばらく行くとぶったおれたりした。
昭和五十二年三月のある日、街まで用たしに出かけて帰りに家の近く六〇米ほどの所に出口川にかかっ
た大黒橋があり、橋まで帰ったとき急にめまいがして来た。交通がはげしいので危く、しばらく橋の欄
干に腰かけて休む積りでいた。目くらみの為手さぐりで欄干の方によっていった。ところが欄干が低か
った為、手が触れる前に体をとられて河底に転落した。高さ二間近くあり、河石がごろころしており、
頭をひどく打って一ケ月も入院した。街中でめまいがオて倒れると人が助けて下さっていた。
昭和五十二年五月十八日
東寿男さんの夢枕にお地蔵さんが立たれ、掘出されて五月二十日初めておまつりがあることを知り、お
願いして見ようと思い、一人ではおぼつかないので嫁につれられて参った。当日は五~六人であったで
あろう。その日は幸いめまいも起らず坂を登ることができた。それから毎日参った。最初の一週間は若
い者や嫁がつれて参ってくれたが、段々自信がついてきて一人で参る様になった。お経も今然知らず拝
み方も知らないので只手を合せて「明治三十一年生れ戌年の女ですが血圧を下げ助けて下さい」とお地
蔵さんに一心に祈った。それから目に見えてよくなってゆくのがわかった。
外出しても目まいがしなくなっていた。十五日目には完全になおった。お医者にみてもらうと不思議が
られて「おばあさん 之はどうしたことだ 血圧が下がったなあ 正常です」と言われた。
高い時の血圧は二〇〇もあって息ぐるしかった。之以来一人でどこえでも安心して行けた。それから毎
日お地蔵さんにお礼参りする。地蔵堂にくるのがとても楽しい。あれから二年経つが何ともなく一回も
めまいは起きていない。
「おんかかかびさんまえいそわか」 今日もお地蔵さんの前でとなえお礼を申し上げています。
昭和五十四年七月二十九日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
二、頭痛即座になおる
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(広島県福山市)Y男(69才)
私は十年前より頭痛になやまされていた。毎日の如く気分が悪かった。針をさす様ないたみもおそって
いた。お医者にもしばしば通った。そして薬ばかりのんでいたが一向にはかばかしくなかった。私は昔
から御大師様を信仰している。方々の御大師様に参り腰のいたかった時、腰なし地蔵に参って腰のなお
った経験もある。従ってお地蔵さんはよく信仰している。私は風呂屋を営んでいるので、いろんな世間
話が耳に入る。府中市の首無地蔵も近所の皆の話から知った。その頃頭がいたくて寝間からはなれられ
ず亀のごとく臥せっていた。昨年の十一月の昼まえ少し気分がよいので、この時とばかり起き上って府
中市の首無地蔵に参った。その時受付にSさんという世話人の方がいそがしそうに参拝人の受付をして
おられた。私が頭がいたくてかなねんと言ったらその人は「頭のいたいのは御地蔵さんに参れば問題な
いですよ。今晩あたりなおっていますよ」とこともなげにおっしやつた。そして沢山の頭痛持ちがなお
っているとも話された。
全くそのとおりであった。家に帰る頃には既に頭は楽になっていた。あれから半年以上になるが頭は何
ともない。それ以来首無地蔵えは何回も参る。その都度奉納し、タオルとお守りをいただき、病院に入
院している者に差上げている。そしてお地蔵さんの霊験のあらたかなことを話してあげる。今、私の家
内の妹が具合が悪いのでお地蔵さんを教えてやり今日つれて参った。是非お蔭をもらってやりたい。御
地蔵様有舞うこざいます。
昭和五十四年七月三十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
三、神経痛(重症)なおる
(広島県芦品郡新市町)S男(74才)
昨年の三月頃であった。一、二ケ月の間に急に両足のすねの関節が思うように動かなくなった。痛くは
なかったが歩行は大変むずかしかった。ゆっくりとひこずる様な足取りで百メートル歩くのがやっとの
ことであった。針、医者に通い、内科医にもかかり薬も呑んでいた。半年位は通ったがはかばかしくな
かった。
お地蔵さんの話は友達よりきいた。「お地蔵さんに参って見よ、よくきいて下さるよ」と教えられた。
昨年の四月頃初めてタクシーで新市町より四キロほど離れた首無地蔵に参った。世話人のS様宅に寄り
お守りやタオルを戴いた∪タクシーを降りてSさん宅までたった十数メートルの間をかたつむりの如く
のろのろ歩いたB玄関に足をかけるのさえやっとの思いであった。
その後タクシーで三ケ月の間四、五回参った。私は真宗で拝む時は地蔵の前で心経を一心にあげた。参
り始めて三~四ケ月した頃からぼつぼつ歩ける様になった。そして大変うれしかった。一年後には何不
自由なく歩ける様になった。今毎朝晩おつとめをして府中市の方向に向いお地威さんを拝みお礼を申し
ている。月二回は必ずお礼参りする。今ではバスで通い、バスから十分ほど歩く。
その外胃や体のあちこちが悪かったのがよくなり体全体が大変調子よくなった。今年の八月二日、一年
前の私の歩きぶりを知っておられるSさんが、すたすたと地蔵の前に歩いてゆく私を見られて驚いてお
られた。今や私の毎日はお地蔵さんと切りはなすことは出来ない。首無地蔵信仰は私の生き甲斐となっ
ている。
南無地蔵大菩薩
合 掌
昭和五十四年八月二日
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「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
四、娘のいぼが一週間で消える
(広島県府中市)巳年女(38才)
小学五年の私の娘は、小学二年年の頃より口のほとりにごはん粒がついている様にたくさんのいぼが出
来ておりました。その他に足のすねや手の指にも沢山いぼがついていて、私は娘がいたましくてならず
、はずかしい思いをしているであろうと胸をいためておりました。「いぼころり」をつけて見ましたが
いぼはとれませんでした。
夢のお告げで首無地蔵を堀出された東寿男さんの奥さんと私の里の母が親しかったので、不思議な霊顕
のあるお地蔵さんのことを母から教えられ、娘のためにお願いして見ようと言う気になりました。昭和
五十二年の夏の時分でした。子供をつれて首無地蔵に参りました。子供のいぼがとれます様にと願「、地
蔵経を一心にとなえました。娘も手をあわせお地蔵様にお願いしておりました。
その後は私だけで度々お参りしました。すると不思議にいぼは一つ一つしぼんでゆきました。そしてい
つの間にか消えておりました。私はいぼが一つ一つ消えてゆくことに会社の昼休みを利用して地蔵堂に
お礼に参りました。参り始めて一週間目には全部きれいにとれてなくなっておりました。
娘の口のまわりもすべすべした元のひふになりました。私は涙が出るほどうれしうこざいました。
その後たびたびお礼に参りました。不当に不思議な有無い御地蔵様です。
合 掌
昭和五十四年八月六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
五、神経痛、リユウマチいゆ
(広島県福山市)I男(79才)
私は首無し地蔵様のことを七十九才の現在迄知らず過ごし誠に残念に思っておりますが、今現在は非常
に感謝しております。私は近年神経痛や、リユウマチの持病を持ち心の中で本当に困っていましたが、
昭和五十四年六月十八日の月祭日に初めてお参りして、八月二日の二度めのお参りの時にはすっかり痛
みもとれて感謝の日々を過ごしております。
これも一重に地蔵様を信じ、私も集中的な信心の念力のたまものと思っております。この上は、ますま
す御地蔵様を信じて、これからの艱難辛苦を乗りこえて一家の繁栄と自分自身の健康を守りたいと思っ
ております。
合 掌
昭和五十四年八月六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
六、神経痛並びに脱腸のいたみ治る
(広島県深安郡神辺町)I男(80才)
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私は今年の二月始めより右足の膝下が急にいたみかけたからお医者の診察を受けました処、神経痛にな
っているとの診断のみで、別に投薬がないからこれは自然療養をしなければと覚悟致していました処、
三月に入り友人が「府中市の首無地蔵にお詣りなってお蔭をいただかれたらどうですか。お地蔵さんが
よく聞いて下さるから」との話でしたから、四月十八日に始めて首無地蔵へお詣り致し般若心経を一巻
あげまして、お地蔵さんをさすりその手で自分の膝下の痛いところをさすって帰りましたところ、それ
から一週間位過ざた頃、足の痛みがなおっていたのに気がつき、お地蔵さんのおかげがありました事と
感じました。それから四月に入りまして脱腸になり、腸がこぶのようにでてきますと非常に苦痛を覚え
ますから、五月十八日に首無地蔵さんへ参詣、重ねてお願いしましたところ、一ケ月目には脱腸しても
全然痛くないようになり、大変有難い事と感謝致しました。
それからの気持は嵐のあとのようにさわやかですがすがしく、苦労は何もなく毎月の月例供養には必ず
たのしみにしており、参詣の折、地蔵坂を登るときは何もいらぬという心境になり丈夫で楽しい老後を
過したいと念じます次第です。
南無地蔵大菩薩
合 掌
昭和五十四年八月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
七、事故による頭痛・足痛いゆ
(広島県福山市)A女(59才)
今から約二十八年前の昭和二十六年頃のことでした。或る日大きな物体が頭に落ちて来ました。その為
に頭の骨にひびが入り、その頃から足がリユウマチ、神経痛になりました。昭和四十二年には正面から
トラックに突っこまれる交通事故に会い、頭が破れる寸前のひびが入り入院致しました。
昭和五十年八月二十五日に調味料を配達中、国道二号線上でわき見運転のトラックに後方から追突され
、前方の大型トラックとの間にはさまれて内臓を強く打ち、又々百日ばかりの入院生活をおくりました
。何の因果か次々と恐ろしい事故にあい、幸い奇跡的に助かりはしたものの現在まで一日として頭がす
っきりしたという日は無く、二十八年間というもの事故の後遺症に悩まされつづけ、死にきれない苦し
みと戦って、今日まで生き延びてまいりました。「健康は最高の幸福であり、何よりの財産である」と
当時痛切に思ったことでした。
昭和五十三年十一月の末、友達から首無地蔵様のお話をききました。「何でもよくきいて下さるお地蔵
様で、是非貴女もお蔭を戴きなさい」と教えられ胸一ばいになり、とび立つ思いで府中市に参りました
。私は一生懸命お地蔵様にお祈りしお願い致しました。そして不思議も不思議、只の一度でお蔭を戴き
ました。二十八年間の頭の苦しみが全快したのです。又足の方も今ではよくなり、毎日年れ変った様に
元気で働いております。全く言葉に出せないほど有難く、うれしく思っています。人間何事も一心をこ
めれば不思議なことがあるものと思いました。偉大なる御力のある御地蔵様の御恩は、一生末代忘れる
ことは出来ません∪
皆様方一人でも多く私の様なお蔭を戴いて下さい。お地蔵様は何事でも聞いて下さいます。私は毎日仕
事に出ては病気やなやみの多い方には一人でも多くがいただかれます様お話をし、お地蔵様におつれし
ております。信仰は本当に尊いものです。
合 掌
昭和五十四年九月十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>8
58
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
八、腸のいたみなおる
(岡山県総社市)未年女(36才)
私は二十才位の娘時代に腸のあたりが時おり軽くいたんでいました。結婚後はそれがひどくなってきま
した。住んでいる方角が悪いのだといわれたこともありました。昭和四十九年に二人目の子供を出産し
て以来更に悪化してどうにもならず、下の子供を里の家に頭かってもらう始末でした。入院して検査し
てもらいましたが結局原因がわからないまま通院していました。自宅で療養しながらいたくなると病院
に行くという日々でした。盲腸でもないと医者は言われるし、診断しても痛い所がわからぬままでした
。
腸が悪化して四年目の昭和五十四年六月三十日の朝、毎日新聞の一頁をさいた首無地蔵の特集写真記事
にひきつけられました。霊顕いソじるしいというこのお地蔵さんの記事は素直にうけとめることが出来ま
した。私のことを心配してくれていた長男が参って見ようとすすめるし、七月二十二日初めて府中市の
首無地蔵に参拝しました。お腹がなおりますようにと一心にお祈りし、タオルを受付でもらって帰りま
した。そしておなかがいたくなるとこのタオルでさすっておりました。すると不思議なことに八月のお
盆の時分にはお腹の調子は大変良くなってきました。その時分里に行った時、下の娘が三十九度以上の
熱を出して苦しんでいました。早速もっていたお地蔵さんのタオルをひたいにあて、母と一緒に心経や
地蔵経を一心にあげていましたら、あくる朝は平熱に下っていました。お医者には行かずじまいでした
。又九月十一日の朝、目がさめると私の右目は開かぬ位はれ上っておりました。人前に出るのがはずか
しいくらい顔形も変っていました。そこでお地蔵さまのタオルをじっと目にあてがっておりました。「
おんかかかびさんまえいそわか」を一生懸命となえました。翌十二日の朝にははれも完全にひき、目が
パッチリとひらきました。度重なる不思議なる不思議なお蔭をいたださお地蔵さまの偉大なお力に感嘆
するばかりです。
長男(八オ)は毎朝登校する前、タオルを頭において「今日も一日勉強がよく出来ますように」といっ
て出かけます。本日九月十六日日曜日、子供と共に御礼参り致しました。御地蔵様有難うございます。
合 掌
昭和五十四年九月十六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>9 >
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
九、孫の全身やけどがなおる
(広島県府中市)戌年女(69才)
今年五才の私の孫(男子)が今東京に住んでいます。昭和五十四年七月、この孫が風呂の熱湯の中に落
ちて大火傷をしたとの知せを聞いた時、私の心臓が止るほどのおどろきでした。水を加えなければ入れ
ない風呂場に行った孫に、風呂のふたに乗ってはだめだとその母親にきつく言われていたのにふたに座
ったのです。途端にふたがはずれて煮えたぎったお湯におちました。そばにいた六年生の姉が大いそぎ
で引き上げて、とっさに水をかけてやったそうです。救急車を呼びタオルでくるんで病院にかつぎこぎ
こみました。湯におちたとき手先と足先丈がわずかに出ていたので、そこを除いて全身の大火傷であり
、目丈を残してほうたいでぐるぐ驍ワきにされました。体全体に水ほうが出来て痛い痛いと泣きどおしで
注射を打つ場所もない有様に医者も困ったといいます。
私は孫の災難をきいた直後、つね日頃お参りをしている首無地蔵様を思い出し、おすがりしようと思い
、早速参拝して孫を助けて下さいと一心に祈りました。そしてお地蔵のお守りを受け、タオルを戴いた
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のでタオルで御地蔵様のお体にさわりながらお願いしました。これらを訳を話して孫の所に送ってやり
ました。二、三日毎に東京より状況を知らせて来ていました。十日目頃容態が少し悪くなったので輸血
をしたといいます。その翌日から急に元気になって食物も少しのどを通る様になり、「お父さん、お母
さん有難う。ごめんなさい」といったといいます。このことを聞いて私の胸は一ぱいになりました。
それからは日毎によくなり全身のひふが一皮きれいにむけて元どおりになり三週間目に退院しました。
あんなにひどかったのに、こうも早く治るとは不思議な位できっとお地蔵様のお加護があったにちがい
ないと深く深く感謝しています。
八月のお盆に東京から家中そろって墓参りに帰ってきました。そしてよくなった孫の体を見せてくれま
した。早速つれ立ってお地蔵に参り厚く厚く御礼を申し上げました。府中に滞在中、孫は海水浴にも行
って来ました。やけどの跡はうそのようにきれいになっておりこんなに有難いことはありません。お地
蔵様有難うございます。
合
掌
昭和五十四年九月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>10 >
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
十、指の関節と腰の痛みいゆ
(広島市坂新町)U女(54才)
昭和五十四年五月の毎日新聞で府中市出口町の首無地蔵様の記事が目にとまり、不思議なお地蔵である
と思いこ一度参って見ようと思っておりました。たまたま広島バスが参拝募集していることを知り、早
速申込みまして団体で参りました。私はその日から三ケ月位前より両手の指の関節がいたく、その上に
腰のいたみに悩まされておりました。医者には勿論かかって治療をうけ、針術・マッサージと色々手を
つくして見ましたが一向によくなりませんでした。
広島バスに乗り、初めてお地蔵にお参りして、いたみをなおして戴くよう、よくよくお願いしておきま
した。乗車して次の参拝地である嫁らく観音に向うバスの中で手を伸ばしたり曲げたりしてみますと両
手の痛みが全然感ぜられません。何度屈伸しても痛みはなく、たちまちお地蔵様のお蔭をいただいたと
思いうれしくてなりませんでした。こうも早くお蔭をもらえるとは思ってもいませんでしたので一層有
難い気持でした。
次に腰のいたみをなおして戴く様二度、三度とお参りしました。上向きになると腰が痛く、起き上るの
に大変苦しんでおりました。三回目を参拝した頃より急に楽になり腰痛もなくなりました。九月十六日
友達を誘い私はお礼参りをしました。その折タオルをいただきお地蔵にそなえ自分で祈祷して広島に帰
りました。「今日もお参り出来ましてほんとうに有難うございました」と心の中で何度もお礼をのべま
した。
お礼参りして帰った翌朝のことでした。九月十七日午前四時頃、急に咳が出てきて大変息苦しうこざい
ました。その時、昨日戴いたお地蔵様のタオルをふと思い出し、そのタオルをのどにまきますと不思議
にピタリと咳がとまりました。おかげで六時すぎまで安眠出来ました。咳が即座にとまったおどろきを
近所の方にお話ししますと不思議そうに聞いておられましたが、私が数々の戴いたお蔭の話を申します
と喜んで下さいました。
今後共お地蔵様の偉大なお力におすがりして過ごしてゆきたいと存じております。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
昭和五十四年九月二十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>11 >
60
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
十一、会社業績の向上
(岡山県倉敷市)N男
私は十年前、昭和四十三年の春、裸一貫でボイラーの据付修理業を始めた。その前の昭和三十一年から
四十二年まではどん底の生活であった。四十二年以後は四十六年と四十九年に経営上の谷間があったが
幸い順調に業績は伸びてきた。
昭和五十三年の一月頃、首無地蔵の話をきいた。私は元来神仏は全面的に信ずる性なので、通りがかり
の神社やお寺や路傍のお地蔵に至るまで必ず頭を下げて通った。早速府中市の首無地蔵に参拝した。当
時は掘出された狭い場所に小さいが素朴な地蔵堂にまつってあった。お地蔵様にお祈りしたらそれまで
さし込むようにいたかった頭痛がその場でおさまった。有難いお地蔵様であると早速世話人にわずかだ
が寄付金を[めて帰った。
それ以来ここに時折参っていた。お祈りするときは、自分のことや金品の要求は一切しない。社運の長
久と安全第一を祈願した。その後はどの様になろうと神仏におまかせの気持である。仕事でせっぱつま
った時でも不思議にいいように展開した。自分をいじめ、たてついた者は別にこちらが何もしないのに
ひとりでに不幸な目にあっていた。お蔭様で売上は毎年三割づつふえ続けている。
昨日、打出の小槌の夢を見た。起きて古財の中を調べていたらすっかり忘れていた打出の小槌が出てき
た。不思議な夢であった。だがこれでどんどん金がたまることを願うまいと固く誓った。適正利潤以外
一切戴かずあくまで曇りのない生活でありたい。
今府中市でボイラーの修理の仕事を請負っているので本日九月二十三日、府中に来た星で首無地蔵に参
り「今日こうして参って来られたのもお蔭でこざいます。有難うこざいます」と、感謝の気持でお祈り
した。その日の仕事の終った夕方、府中市に仕事にきていた従業員全員をつれて再び地蔵堂に参った。
南無地蔵大菩薩 有難うございます。
昭和五十四年九月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>12 >
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
十二、ゼンソク一日にして治る
(京都市中京区)H女(57才)
昭和五十一年の初夏、ふと引いた風邪が元で夜床につくと咳が出て眠られぬ夜が続き、K大学病院の専
科に行くと急性ゼンソクと言われ、それ以来初秋から春先にかけて発作が起き通院しておりました。近
所の奥様が(滋賀県草津市のY様の姉さんですが)だまされたと思って参って来る様にと進められ、府
中市のお地蔵様の事を道順からお願いの仕方迄くわしく教えて下さいました。それは昭和五十三年九月
末の事でした。早速主人共々十月の初めにお参りさせて頂きました所、受付に居られた方が「ゼンソク
なら速ぐに聞いて下さる」と言われ、遠い処から来たからとてお供物のお下りやお饌米を戴かせて下さ
いました。其の夜の事です。毎日毎夜、コンコンとお腹の痛くなる程出ていた咳が不思議な事にピタッ
と出ません。楽にさせて戴き、それ以来一回も出ません。
あらたかなお地蔵様の力に唯々有難く勿体なく毎朝晩お姿に手を合せお礼申して居ります。此の間、五
十四年九月十六日には娘夫婦と息子夫婦に孫(生後六ケ月と八ケ月)を連れてお礼参りに行かせて頂き
ました事嬉しく存じます。有無うこざいます。
合 掌
昭和五十四年九月二十五日
61
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第10部>あとがき >
『地蔵大菩薩礼賛記』第10部
あ と が き
今年の暑い夏にも地蔵参拝者の絶えることがなかったが、秋立つとともに参り手は急激にふえてきた。
九月二十四日の彼岸の中日には一般のほか団体バスが早朝から夕方にかけ四、五十台をかぞえた。山陽
道、四国路からの信仰団体や老人会が目立った。最近はお蔭をうけられた方のお礼参いがことのほか目
につく。地蔵境内は終日信者の熱気がこもっている。
広島県より宗教法人「府中地蔵菩薩」としての認証を受け、昭和五十四年九月二十六日宗教法人として
注務局への登記も完了した。今後は公的機関として益々社会の為奉仕すべく信者並に役員一同決心して
いる。
御地蔵は霊顕いよいよいちじるしく、あまたの人々を救いたまいつつある。伏して礼拝するのみである
。
合 掌
編 集 部
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>巻頭言
『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
巻頭言:地 蔵 菩 薩 の 由
来
日本のいたるところの路傍にお地蔵さまがまつってあります。そしてその地名や、いわれからお地蔵さ
まの名前がつけられております。子育て地蔵とか、勝軍地蔵、身代り地蔵、田植え地蔵、矢田地蔵など
いろいろあります。ここの府中の地蔵も、掘り出された当初から首無地蔵と愛称されて、数多くの人々
を救っておられます。お地蔵様は素朴で庶民に最も親しまれ、愛されておリます。そこでお地蔵様の起
源と申しますか、由来について昔から伝えられている説を、造詣深い二、三の人の研究書から引用し、
次にまとめて見ました。
インドでお釈迦さま出生以前にバラモン教が盛んでした。インドの思想で梵天(ぼんてん)が上方の天
にあって守護し、地天が下方の大地を守護キるとされ、梵天は男神で地天は女神と考えられていました。
この女神は財を蓄え、病気をなおし、敵を降伏させる時に祈る女神でしたが、後にいつのまにか男神と
して祀られる様になっています。
お地蔵させは、インドの言葉でクシティ・ガルバ(KsitiGarlbha)といい、漢字に書けば乞叉底_波といい、キシャチ・ケルバとも読ましています。クシティは
地と訳し、ガルバは胎、あるいは子宮と訳されています。故に地は大地を意味し、胎は胎蔵の意味で大
朶み、包蔵することになります。そこで地蔵は大地のようにあらゆるものを朶む母体であって、そこか
らあらゆるものはあらわれ育成され、成就するという意味が成り立ったと思はれます。
バラモン教では地神とか地天とかいって偉大な堅固神として崇拝していました。この大地が一切の万物
を生ずる徳があると見て、それを主宰する神さまを地持神、地大神と称して崇敬しております。
バラモンの教典には地母ともいい、もろもろの神の母ともいい、最高の神格を与えてあがめ、その神徳
としては、偉大と堅固と、不滅と生育の四徳をあげ、なかでも特に生育の徳を取りあげてあらゆるもの
を出生し、生育し、繁茂し、益々繁栄するようその育成を達せしむる功徳があるというものでインドの
各地に祭られ、信仰の対象とをったようです。
そこで仏教の上にもそれが取入れられ、お釈迦さまの御身の上にも色々とこの地神のはたらきが説かれ
ています。お釈迦さまが悟りを開かれたときにもこの地神があらわれて、そのお悟りを証明したと伝え
62
られ、又お釈迦さまの一生を通じてお守りをしたといわれています。地神は釈迦の外護神として取り扱
われていましたが、後に仏教の中に取り入れられ地蔵菩薩といぅことになりました。
仏教では「地蔵菩薩本願経」の中にお地蔵さまの前生は大長者の子であったと言い、又バラモンの女光
目がその前生であったとも説かれています。
お地蔵の慈悲は特に広大で、地獄を一生の住みかとされ、罪人の友達となられ、その者を救うために身
も心も魂も、打ち込んでのお慈悲を与え下さる尊いお方であります。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
一、胃ガンの奇蹟的な好転
(広島県沼隈郡沼隈町)K女(47才)
私はお地蔵さまのお蔭で大変苦しんだ盲腸のゆ着のいたみを、参拝後、たつた
一日半で救つていただき(礼賛記第九部に掲載=記事=)、それ以来不思議なことが次々とおきている
。
昭和五十四年九月三日、私のいとこ(五十一才男)が胃ガンの手術をした。結果は手おくれとのことで
開腹した丈にとどまり医者は三ケ月の寿命であり、長らえて半年のいのちと診断を下した。既に食物は
一切受付けていなかつた。肉親や親族はもうだめだと暗い気持であつた。私はそれをきいたとき府中の
お地蔵さんに助けてもらおう、いやお地蔵さんならきつと救つて下さると必死にすがる気持になつてい
た。私がお蔭をもらつているので自信もあつた。
翌九月四日、会社の仕事を主人共々に終えて夜八時半、主人の運転で府中市に参った。その夜は雨であ
つた。夜おそいのにかかわらず参拝人も居た。が私は人目かまわずはだしになつた。
「いとこを助けて下さい。助けて下さい。お地蔵さまの力でなおLて下さい」と必死に祈つた。そしてお
堂のまわりを百回めぐりお百度を踏んだ。何かお地蔵さまにして上げることはないかと思いふと気付い
てお供えの水を取替えてあげようと、既に供えてあつたコップの水を捨てずに半分そのままいただき水
をかえてお返ししておいた。その後は日曜日毎に三回ほど夜の八時三十分に参つてお百度をふんだ。最
初の日から一週間目(九月十日)に病人の写真が手に入つた。その写真を供えてお百度を踏んだとき、
それまでぎりぎりいたんでいた病人のいたみがピタリと治まつた。之は私の妹が翌日見舞いに行つたと
き病人の痛みがなくなつたと申したことでわかつたことである。
ガンで固くなつていた胃が一切いたまないのである。それに食慾がぐんぐん出てきた。病院の食事も全
部たべる様になつた。私がお地蔵様に参るまでは一切のどを通らなかつたのが捨てるのが勿体ないと言
い出した。私の見舞のものも全部たべるほど旺盛になつた。九月二十日頃には退院しなくてはならぬと
病人が言い出した。レントゲン写真はとつていないが便と尿と血沈の検査の結果で「病気はなおつてい
る、いつ退院してもよい」と医者は言つた。いとこは十月六日に退院した。
十月七日は日曜日なのでお地蔵さんに参る前にいとこを見舞に行つたら、その日は解散した衆議院議員
の選挙の投票日であり、投票に行つていて留守であつた。そのまま私達はお礼参りに府中地蔵に行つた
。いとこは何百年をも生きるほどに値する位元気になり有難いことだと思いお地蔵さまに厚く厚く御礼
を申し上げた。
最初いとこの病気のことをきいたとき気の毒で涙が出て仕方がなかつた。二日間泣いた。九月四日の夜
府中の地蔵坂を上るときは、車の中で涙をふいたハンカチはずぶぬれになつていた。地蔵境内に足をふ
み入れた途端に涙が一滴も出なくなり気分がスーツとしてさわやかになつた。それからお百度を踏んで
坂を下り、車が坂下の曲り角を曲るときも涙は出なかつた。そのとき「救つてもらつた」と思はず叫ん
だ。以来いとこのことを話しても涙は出なくなり、いとこを見舞に行く度に不思議に目に見えて体力が
回腹していた。
63
いとこは手術後二十日目には体重が一キログラムふえ、今(一ケ月後)は二キログラムふえた。病人特
有のひふのよじれもなくなつた。
私自身について申せば、十月六日会社で溶接作業中光が目に入つた。溶接の光が目に入ると針をさす様
に苦しく涙が出てあけられない。目がくらんで太陽も見えない。蝉にこの光をあてた丈で目くらみして
落ちるほど強烈な光である。
その夜ひどく目がうずいた。「お地蔵さまのしおり」のお地蔵の写真を前に置き「おんかかかびさんま
えいそわか」を十ペんとなえ「ようせつの光が日に入つたので、いたみをとつて下さい」とお願いしつ
つ拝んでいるとすぐに痛みは消えた。こういう経験は前に何度もある。
不思議な有難い何ともいいようのない偉大な尊いお地蔵様です。
有難うございます。
合
掌
昭和五十四年十月七日
追記:従兄弟は十月退院後、調子よろしく元気になり職場に復帰したが、五十五年調子悪くなり再び入
院した。だが不思議に痛みは全然なかった。食欲もたった。腹もよくすくといっていた。
五十五年八月他界した。それまで苦痛は一切なく皆があっという間に安楽大往生をとげた。
御蔭をうけて十ヶ月間は元気であった。だが首無地蔵への御礼参りは一度もしていない。Kさんが皆に
代ってお礼をいっている。従兄弟が亡くなってから夢にお地蔵が立たれ「従兄弟がお礼参りにくればも
っと寿命は伸びていたものを・・・」と告げられた。
昭和56年3月15日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
二、センジヨウカンセンの奇病より救われる
(山口県岩国市)H男(37才)
私は十年近くも奇妙な皮ふの病いに苦しんだ。全身の細胞が盛り上がる病気である。普通の人のひふ病
の三十倍も盛り上るのである。冬はそれにひび割れが出来ていたく、夏には毛穴をふさいで汗が出ない
。しばらくすると表皮がかわき白くなつて来て剥げる。かゆくもあり、手を伸してもいたく、ちぢめて
も痛い。この始末におえないひふ病は頭のてつペんから足先におよんだ。九州医大で血液検査やその他
色々調べてもらつたが原因がわからず、墓場まで行かねば治らないであろうと言われたほどである。こ
の病気は食物に関係しており、先進国特にアメリカに多く、日本では戦前にはなく戦後発生するように
なつたニのことであつた。食品の添加物などが或はえいきようしているのではなかろうか。医者がつけた
病名はセンジヨウカンセンというききなれない名であつた。
みにくいひふのため会社もしばしば休み治療に専念する故、エリートコースをあきらめざるを得なかつ
た。国鉄やその他転職した大手の会社も止めるはめになり今溶接工をしている。私の人生を狂わせた業
病に長年苦しめられ泣かされていた。
昭和五十四年一月二十日頃のことであつた。私の妻がふとRCC(中国放送)のラジオで首無地蔵の話
に耳をとめた。妻は洗たくなどするときいつもラジオをかけつぱなしにしていた。そのお地蔵は色々な
病気をなおしておられるとのことで、私に参るようにすすめた。私は早速RCCに電話し、首無地蔵の
話や場所を確認し、府中市役所に問い合せて詳しく道順を教えていただいた。
だがその時分はまだ体がいたくて遠出のきく状態ではなかつた。秋に入り十月二十日病気の小康になつ
たのを見計い、熱が三十八度前後あつたが思い切つて岩国から車を運転して府中市に参つた。丁度十二
時頃であつた。
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「おんかかかびさんまえいそわか」を何べんもとなえた。先づ「顔や手の出ている部分から治して下さ
い。」と一心にお願いした。わらをもつかむ気持であつた。三十分位お祈りしたであろう。帰るべくお
地蔵の坂を下りかけて何か気にかかり又引き返してもう一度念を入れて拝んだ。
府中駅の所まで車を運転して来た時、急に熱が上り目まいがしてきた。運転どころではないので車を駅
前にとめてしばらく休み地蔵経をとなえていた。のどがかわいてきたのでアイスクリームを食べた。と
同時に気分がスーツとしてきた。
おじぞう様のしおりに、一時悪化した状態が現れて治る場合があると書いてあつたが、私の場合まさに
その通りであつた。地蔵を拝んで一時間後に平熱に戻つたのである。「気分が爽快!!」と思はず叫び
声を上げて車を発車させた。久しぶりの快適なドライブであつた。あらたかな霊験であつた。お地蔵様
のお蔭を戴いたことがはつきりわかつた。全く有難く不思議であつた。
首無地蔵を拝んで帰るとき線香の灰を戴いた。それを指先でなめては水で呑みこんでいた。半月たつた
頃ひふの病はてき面に好転していつた。先づ首から腰にかけて良くなり、更に腰より膝上と十日目毎に
快方にむかつた。不思議にもそれが雨の日毎によくなつて行つた。参拝後一ケ月たつた今ひざ下を少し
残すのみで八~九分どおり恢復した。あれほどの苦痛も完全に消え去つた。なぜもつと早く参らなかつ
たのかと後悔している。
本日十一二十三日遠くてもぜひお礼に参らねばならぬと思い家族全員子供もつれて参つた。今では毎日
府中市の方向に向い地蔵経をとなえている。私は神様は信ずる方であるが之ほど偉大なお地蔵様は他に
おられぬと思う。声を大にして全国の人々に教えて上げたい気持で一ぱいである。
有難うございます。
南無地蔵大菩薩
合
掌
昭和五十四年十一月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>
『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
目次
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(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
『 三、女の子を授る 』
(滋賀県草津市)O女(30才)
私が結婚してワ年になりましたが子供に恵まれませんでした。結婚二、三年は別に子供がほしいとも思わ
ず、そのうちに授るであろうと思って過して来ました。
其の後妹が結婚して妹に子供が生れましてからは、私も子がほしくてほしくてたまらなくなりました。
両親も一日も早く内孫の顔を見たいが、どうしているのかと申されますが、こればかりは私にもわかり
ませんので難かしい気持ながら、やむなく医大の産婦人科で診察を受けました。
其の結果、夫婦共に身体には異常がないとのことでしたので其の後毎月医師の指導を受けてまいりまし
たが、残念にも妊娠はしませんでした。
子供がほしいほしいと思う毎日でしたところ、昨年七月末に町内の墓地掃除に行かれた私の母が、近所
の方の話では広島県の府中市という所に霊験あらたかな首無地蔵さんが祀られてあってお願いごとは何
んでも「かなえ」て下さるらしい、有難いお地蔵の話を聞いて来られ、その方の父(栗東町
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O氏)が参拝されて、お蔭を戴かれ毎日感謝の日暮しをしていられるので、「後日私方に来て頂いて詳
しくお話を聞かせて預けるようお願いしてきた」と母が話されましたが、私はそのときもったいなくも
半信半疑でしたが子供がほしい毎日で医者の指導まで受けている身、溺れる者、藁をも掴む思いでその
方のお話を後日聞かせて頂きました。早速昨年八月十五日子供を授けて下さるよう夫婦でお参りさせて
戴きました。
其の後は毎日お地蔵さまに心の中でお願いしてまいりました。私の身体には其の後何の変調もなかった
のですが定例診察が十月中頃にありました。其の時、医師は「喜こびなさい妊娠していますよ」との言
葉に自分の耳を凝ったぐらい「先生本当ですか」と再度尋ねました。これはお地蔵さまがお授け下さっ
ためだと思い嬉し涙が出ました。
医師の申されるにはどのようにして妊娠したのか不思議と申され、今後の参考のため是非当院で出産し
てほしいと申されましたが、私は草津の産院の事務に勤めている関係で五ケ月間だけ京都の産院で診察
を受けました。
夫も喜こんで正月にお地蔵さまえ妊娠したお礼と私の安産をお願いにお参りしてくれました。お蔭様で
七月二十五日夕方苦しむことなく、無事女の子を安産いたしました。今更ながらお地蔵さまの偉大なお
慈悲にただただ頭が下るのみで御座います。
両親も毎日孫の顔を見ながら、「よく生れてくれたね、よかったよかった」と喜こばれ、「こんな可愛
い孫を授けて下さったのもお地蔵さんの御利益のお蔭」と深く感謝されております。大人ばかりの家庭
に赤ちゃんが生まれてからは家の中は子供の表情一つに「笑ったよ、喜こんでいるよ」と賑やかで楽し
い明るい毎日を送らしてもらっています。これ一重にお地蔵さまのお慈悲のお蔭で御座います。お地蔵
さま本当に有難う御座いました。
合
掌
昭和五十四年十月三十日
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
四、右目視力快方に向う
(滋賀県草津市)S男(86才)
私の右目が見えなくなっているのが本年五月にわかりました。それはふとしたことで左目を手で押えた
とき、右目はあいているのに真暗で何も見えないのに驚きました。これは大変だと思い早速眼科医に診
察して貰ったところ年寄り目で手術しても視力の回復は駄目でせうとのことでした。もし左目も同様に
悪くなれば年老いて暗闇の生活をしなければならないと思うと、悲しくもあり残念でたまらず、もう一
度他の眼科医の診察を受けましたが、やはり結果は同じでありました。
どうすればよいかと思案したとき、そうだ以前からY氏より霊験あらたかな首無地蔵さんのお話を聞い
ていてYさん参拝の際、無事息災を祈願して「志」をィ地蔵さんにあげていたのを思いだしました。
そうだ右目視力回復はお地蔵さんのお慈悲におすがりするよリ道がないと思い五月二十九日Yさんに同
道願ってお地蔵さまにお参りさせて頂きました。その時Yさんがお地蔵さんに供えてある水で洗眼すれ
ば御利益がいただけるかもわからないと申され世話人Sさんにお願いして下さいました。Sさんは心よ
くお世話下されお地蔵さんのお水を戴いて帰りました。
其の後は朝夕その水で洗眼しながらお地蔵さんに右目視力恢復をお願いして参りました。年寄の身毎月
お参りしたくても遠方のため出来ず、其の後二回Yさんに代参をお願いしてお地蔵さんのお水を戴いて
来てもらって洗眼を続けて参りましたところ、今迄右目だけですと真暗闇で何も見えなかったのが不思
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議にも電燈の光がぼんやり見えるようになり道と川との識別が出来るまでに視力が恢復して来ました。
本当に有難いことです。これも一重にお地蔵さまのお慈悲のお蔭で御座いましてこんな嬉しいことは御
座いません。
今後共視力が益々恢復致しますよう、お地蔵さまのお利益を賜りますようよろしくお願い申し上げます
。
お地蔵さま本当に有難う御座います。
合
掌
昭和五十四年十一月二日
首 無 地 蔵 さ ま
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
五、二十年来の横腹の鈍痛いゆ
(広島県御調郡向島町)M女(53才)
私は二十年前より横腹に「こり」のようなものがあり、それが腰にきたり足にきたりしてにぶい痛みが
つづいていた。
首なし地蔵については近所の人からうわさをきいていた。昭和五十四年九月中旬に家族と一緒に府中の
お地蔵様にお参りした。そして「おんかかかびさんまえいそわか」を三回となえた。あくる朝起きて見
たらこりがとれ、いたみが消えていたのでびっくりした。
次の一週間目に又参った。足の親指が気になる程度のいたみであったが、うずいていたのをなおして下
さる様祈った。この時は般若心経三巻を上げて帰った。あくる日は楽になり、三日間むくむくしていた
が四日目にはおさまった。今ヘ腰も足も何ともない。有難いお蔭をいただき大変感謝している。
最初にお参りしたとき受付で「お地蔵さまのしおり」をいただいた。表の写真に石のお姿以外にお地蔵
様のお婆が見えた。不思議に思いながら自動車の中で写真を見つめながら帰った。一緒にいた娘には姿
はわからぬという。
お姿は三人見える。真中の人はふっくらして威厳のある人で柄も大きい。眉毛が張り口がしゃんとして
いる。その上の方にけがれのない、きれいな生れたばかりの玉のような可愛らしいお地蔵さまが見える
。正面に向って右側の人は絹の衣をきておられて、竜宮の乙姫様のように美しい。石に掘られているた
もとはお姫様のたもとに見える。右肩をやや斜の後にひいておられる。左側の人は男性か女性かはっき
りしないが、昔の神主が履くような大きな木靴が見える。更に中央のお地蔵さんの後方に沢山のお地蔵
さんがおられるように思はれる。しおりの写真を見ていると私にはそのように映る。
不思議な有難いお地蔵さまです。
合
掌
昭和五十四年十月七日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
六、住宅資金の調達がかなう
(広島県福山市)Y女(75才)
大阪にいる私の娘が店を出すために新らしく家を買った。この家の代金として私が三軒持っている中の
二軒を売りに出した。ところがいつまでまっても買い手がつかなかった。いささかあせり気味になって
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いた。そのうち府中市にある首無地蔵が願いごとを何でもきいて下さるという話をきいて、昭和五十四
年九月十八日にはじめて参り家が売れますように祈った。
それから二、三日して夢を見た。夢の中で私は神社の前にいて草を取り、しめをわを張っていると、神
様ということがはっきりわかる、黒っほい着物をきた五〇位の男の方と、同じ位の年の着物を着た女の
方の姿が見えた。男の方は長い棒のようなものをもって立ってィられた。神様のような男の人は棒のよう
なもので私の首をさわられた。アラツと思ったら私の首が落されていた。夢の中のことゆえ別に痛くも
なかった。そこで目が覚めた。しばらくして又うつらうつらしていると、夜が明けて冷汗をしっとりと
かいていた。
夢を見た四、五日後に家が売れた。家の資金を借用するため大阪の銀行に赴いたとき、その叙行のあっ
せんで、売家にしている家を建ててくれた人がよい値段で引取ってくれた。事は急転直下に解決した。
あくる日九月二十五日すぐに首無地蔵様にお礼参りした。こんなことは始めてであり、お蔭であるとい
うことははっきりわかった。
お地蔵さま有難うこざいます。
合
掌
昭和五十四年十月七日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
七、帝王切開の予定が安産に変る
(広島県府中市)K女(50才)
お地蔵さま有難う御ざいます。
先日昭和二十八年己年生れで二十六才のY子の体が弱いため、年れてきます赤ちゃんが元気で五体揃っ
て健全であります様安産をお願いしておきました。
平素不信心な私にもかかわりませず、この産は大きな御力添を頂きまして心から深く感謝いたしていま
す。
昭和五十四年十月二十三日午後二時の帝王切開の予定でありましたが、十月二十一日午前四時頃から陣
痛が始り午前六時に病院に入院致し、午前八時頃に三千四百グラムの丈夫な男の子を安産致しました。
親子共元気でございます。帝王切開の予定が普通分娩になり本当に有難く一重に御地蔵様のお蔭と家族
一同厚く御礼申しあげます。本人はお守と御地蔵の御本体にさわったタオルを肌につけてお産をさせて
頂いたそうです。
名前は昌敬(まさのり)と命名致します。此の子はKお婆ちゃんのひい孫に当ります。お婆ちゃんは昭
和五十二年にお地蔵様出現後間もなく雨の日も風の日も御地蔵様に参っておりました。九月初め帝王切
開の予定日が決ってから、おばあちゃんは毎日のように、私は週に二回はお地蔵に参り、体が弱い為に
五体そろった赤ちゃんが安らかに生れてきます様に祈っておりました。
お婆ちゃんの真心もお汲取り下さいましたものと重ね重ね有難く何とお礼申してよいやら御礼言葉もわ
かりません。只々有難く深く深く感謝いたして居ます。
どうぞ御地蔵様、此の上共新しい生を享けて此の世に参りました昌敬、元気ですこやかに長生してくれ
ます様、又Kお婆ちゃんも年老いて枯木にもひとしくなって居ますけど、大難は小難で受けられます様
大きな御力をお与え下さいませ。
本当に有難う御ざいました。
合
掌
昭和五十四年十月二十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>8
68
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
八、手足のふるえが治る
(岡山県笠岡市)S男(42才)
昭和五十三年の十月頃、夜中にトイレに行きたくなり目が覚めました。立ち上ろうとしましたが両足に
力が全然入らず.バツタリ倒れました。仕方なくよつんばいになってトイレに行きようやくの思いで用
をたしました。
朝になると足はもとどおりになりましたが同じようなことが今年の二月頃まで数回起きました。針医者
、電気治療、病院と方々通って見ましたがいっこうに良くなりませんでした。又五十三年の六月から三
ケ月ほど肝臓を悪くして休業し通院もしました。昨年の八月頃から中腰になると足が、がくがくふるえ
て歩いていても足が地につかぬ状態でした。身体、特に手が小きざみにふるえる様になり、会社で昼食
時に箸 烽ツ手がふるえ、おかずが容易にはさめませんでした。周囲から冷たい限で見られているように
思われ、村の会合に行っても身体がふるえ、辛い悲しい思いをしていました。頭はポーツとしてきます
。仕事をしていても考える力がなくなり、人と話していてものどがかすれ舌がもつれ何をしゃべってい
るかわからぬ有様でした。真冬でも少し動いた丈で汗が流れ、のどが乾き飲物が欲しくなって困りまし
。次から次えと身体の故障が起きてきて人と会うのが辛く、従って常に孤独でした。
そんな時、府中市の首無地蔵さんが大変御利益があり、大勢の人がお蔭を戴いていることを耳にしたの
で、ワラをも摘む気で早速家内と二人で五十三年の十二月三日にお参りしました。地蔵堂の前で一生懸
命お経をとなえました。体がよくなります様一心にお願いしました。三回四回とお参りしている中に、
五十四年の三月頃から段々に体がよくなってゆくのがわかりました。そして今年の四、五月頃には完全
によくなりました。今日ではすっかり元気になり、もとの体になり、手や足や身体のふるえもなくなり
ました。気持も積極的となり、人とのつながりも深まり生々とした人年を送っています。
私は首無地蔵によって完全に救われました。こんなうれしいことはありません。病気で困っておられる
方々に私の体験をお話してあげています。
首無地蔵様本当に有難うございます。
合
掌
昭和五十四年十一月六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
九、腰・手足のしびれ(ヘルニヤ)が治る
(島根県邑智郡)T男(79才)
私は昭和五十三年三、四月頃より腰が痛み手足がしびれる様になり、今年四月頃から急に腰がいたみ手
足が、ひどく痛み、わずかな坂でも休まないと、あるけなくなりました。医者にお話しし見て戴き、其
の日レントゲンを撮ってもらったら「腰のセキズイが大変ゆがんでおる。其の為に腰がいたみ手足がし
びれるのだ。注射と飲み薬をやるから毎日来るように」と言われましたので、ず-とつづけて行く様に
して居ました。病名はへルニヤでした。ところがある日友人が話して呉れますのに、自分もシンケイツ
ウでひざがいたみ、あちらこちらの医師や病院に行ったがなかなかなおらず、其の中、ある人から広島
県の府中市に首ウ地蔵さんが有り、其のお地蔵様にお参りして一心におすがりしてたのんだところ帰って
間もなく、ひざの痛みもよくしてもらい、今では、ひざのことも思はなくなったので、さっそく御礼参
りをしたと聞きましたので、私も昭和五十四年十月七日親類のM薬店主と土建業を営むT氏に旅館業W
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氏四人でお参りして、タオルを頂だき、それに線香の煙をあてたり、お地蔵様をさすったり一心にお願
いして帰りました。
それからと言うものは夕方風呂からあがると、はだかで「おんかかかびさんまえいそわか」をとなえな
がらタオルで、いたいところを一心にさすります。其の為、今では大変にらくになり毎月十八日がお地
蔵様のお祭りと聞きましたので、去る十一月十八日Mさんと二人でお礼参りさせて頂きました。ほんと
うに、あらたかな御地蔵様です。
今後もお地蔵様の偉大なお力におすがりして行きたいと思っています。又、人様にも首無地蔵様の有難
さをおすすめしてあげています。
おんかかかびさんまえいそわか
合
掌
昭和五十四年十月二十九日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
十、脛の神経痛いゆ
(広島県福山市)H女(71才)
今から六年前、嫁いでいる娘の家へ遊びに行った時の事、突然に脛がうずき出し、筆舌に尽くせぬ程の
痛みに大変苦労いたしました。
帰りましてからは、医者・指圧・電気針と良いと思われる凡ゆる治療に通ってみましたが、すっきり致
しません。一時は杖にすがっての医者通いも致しました。
昭和五十二年七月の事でした。近所の人から「府中の首無し地蔵さんが大変お蔭がある」と教えられ、
早速お参りいたしました。二度三度と足を運ぶうち、次第に足のうずきも止まり、その有難さに心から
手を合わせたものでした。
昭和五十二年三月初めには脛のいたみも治まり完全によくなっていました。今では旅行等も出来驍謔、に
成り、毎月三・四回は必らずお地蔵さんへお参りさせて貰っております。
近所の足の悪いおばあさんにも、お誘いし一緒にお参りしておりますが、その方もお蔭を貰われ大層嬉
こんでおられます。
これからもお地蔵さんのお蔭を頂いて、健康で明かるい毎日を過ごしたいと思って居ります。
有難うございます。
合
掌
昭和五十四年十二月十六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
十一、首無地蔵さまとの御縁
(広島県呉市)S男(65才)
忘れもしない昭和五十三年三月二十一日、井原市樋之尻山の「嫁いらず観音」春の大祭に近所の方四、
五人と参拝しました。つれの一人が大勢の人ごみの中で迷子になられたので外の人が探しに行っている
間、私一人観音本堂前で待っておりました。すると四十三、四才位の御婦人が寄って来られ、「貴男は
何を願いに参られたか」ときかれたので、「母の中風のこと、私の足の悪いのをなおしてもらうよう参
りました」と返事をしますと、「足の悪いのは観音さんより府中の首無地蔵さんに参ってごらんなさい
。私も足が悪くて大変困っていたが首無地蔵様のお蔭でこのとおりよくなった」といって、階段から三
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回ほど飛び降りて見せて下さいました。そして首無地蔵さんは美しい婦人であるともきかきれて心が大
変うごきました。名前もきかなかったこの婦人には、その後一度も会っておりませんが、あの方がお地
蔵さんではないかと今でも思い出されてなりません。
それから仕事に追われて首無地蔵に参拝も出来ぬまま日がたつ中に、足に水がたまりはじめました。歩
行に難渋し、便所に行くにも困り、食事も横になって食べる始末でした。病院に行き水を抜いてもらい
ましたが嫁いらず観音の御婦人のことを思い出し、早速いたい足を引づって参りました。府中駅からタ
クシーで参り一生懸命お願いして駅まで歩いて帰りましたが大変楽になっておりました。本当に夢の様
な気持でした。
私達の仕事は高所の足場作業や足に力の入る仕事ばかりで、足に無理がかかり夜中に足にひきつけが起
り苦しむことがありました。そこで早速お地蔵様にお参りしました。その夜から一度も足のひきつけが
おこらなくなりました。おまけに足の水もたまるのもなくなりお蔭様で元気に仕事も出来ます。私が一
日でよくなった話を音戸の信心家の義弟に致して早速二人で参りましたら義弟は大変感激し、以後お地
蔵の申し子の様に一生懸命信心しています。更に私の系統には親代々のゼンソクの気があり私も坂道を
歩く丈で苦しかったが今はお地蔵様のお力で楽にあるけます。お地蔵様よリお蔭を次々いただいて驚く
やら有難いやら思っているのに又々おどろくことがおこりました。
六十五才の私は市役所より老人手帳とハガキが来て身体検査を受ける様にとのことでした。五十四年九
月五日病院にゆきまして検査をしてもらうと高血圧で、血圧が二二〇もありました。医者から大変だと
おどかされました。早速翌日お地蔵さまにお願いに上りました。それから一週間目に病院に行きました
ら一七〇に下っております。あまりにも早い好転に病院も之にはおどろいておられました。目下血圧は
上は一七〇、下は八○の正常です。
現在も若い者に負けぬつもりで一生懸命働いております。足のいたみ、ゼンソクも高血圧も忘れて今仕
事がたのしく出来ますのも首無地蔵様のお蔭と思い喜こんでおります。日曜日毎にお参リしております
が、日曜日のくるのをたのしみに毎日がんばっています。
有無うこざいます。
合
掌
昭和五十四年十二月一日
追記:昭和58年6月3日、脳溢血にてあっというまの安楽往生であった。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
十二、孫の腎う灸が治る
(広島県福山市)A女(60才)
私はお地蔵様より大きなお蔭を戴いております。(礼賛記第十部掲載)
その後度々お礼参りし皆様にもお地蔵様のことを教えてあげておりました。たまたま私の孫、小学一年
(七才)がじんう炎で八月三十日国立病院に入院しました。検査の結果は大層悪く血尿も出ました。同
室の子供達は半年か一年位の入院が殆どでした。
私はお地蔵様に孫の治癒をお願いするため九月十日に参拝しました。そして孫の為最初の願かけをした
とき、お腹と足に冷水をかけられた様に霊気をうけました。二回目のとさも同し様な感を受けました。
私は孫にお地蔵様にお願いしていることは話していないのに、「おばあちゃんが祭っている仏様、大師
様に頼んでくれ」といいました。「首無地蔵様に早く治る様に頼んでいる」と話したら、それ以後は会
う度に「首無地蔵に参ったか」とききただしました。私は床の間に祭壇を作り、弘法大師と金比羅様と
宮島さんを祭っています。それにお地蔵さんをこの度お祭りしました。地蔵の形をした貯金箱を求め入
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魂した一体を家に、一体を病院の孫にやりました。病院に見舞いにゆくたびに、孫はそのお地蔵さんに
お祈りして寝ていると申し「一日も早く僕の病気をなおして下さい」と拝んでいます。
「孫には拝むことを教えていないのにどうして言うのか」と私の主人も不思議がっておりました。偉大
なお地蔵様の神力が通じているのだろうと私はお地蔵様に感謝しています。私は孫のお願いをしている
といつも涙が出ていました。孫の病気はぐんぐんよくなり、私が二回目の霊感を受けてより十日目、入
院後五十五日で退院しました。今は元気で通学しています。十二月二十一日、御参りし、皆様にお蔭を
さずけて下さいと一心に祈り目をあげると、石のお地蔵の下あたりに白い姿で小さいがふっくらした、
きれいな姿を拝みました。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
合
掌
昭和五十四年十二月二十-日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
十三、乳房の痛みが治る
(広島県府中市)K女(65才)
昭和五十二年に首無地蔵様が出られた当時から、うわさをきいてここに時折参っていました。昭和五十
四年になって急に私の乳房がいたみ始めました。針をつき立てたようにキリキリいたみました。私が平
素信仰している胡町の御大師のO様に伺いを立てますと内臓は何ともないとの御宣托でした。
そこで私は八月十五日より九月四日迄御地蔵様に二十一日間「願」をかけました。乳のいたみを治して
いただきますよう御祈りしながら毎日通っておりました。不思議なことに十日もたたぬ中に乳の痛みは
消えてしまいました。九月四日以降は毎週土曜日にお礼参りしています。
十月十一日朝七時頃参拝した時でした、お地蔵様の左の肩(向って右面)に御地蔵様の姿が現われてお
りました。真白いお姿で、そでなしを着ておられ紐を前で結び、両手を前に受けておられました。可愛
らしい目がバッチリと輝き、髪は昔風に上に揚げてありました。御蔭を受けられた人が供えておられる
霊前灯の光があたり、それは美しく写真が浮き出た様な霊姿でした。大人の女性のお姿に見えました。
私はそのとき透きとおった様な何とも言えない有難い気持でした。側におられた五、六人の方も同時に
目撃しておられ、御地蔵様の出現は間違いのない事実です。
十二月二十二日午前八時、手を合せて御地蔵様を拝んでいると前回の時と同じ様に美しい霊姿が現れて
おりました。今回は石像の正面中ほどに御姿を現しておられます。霊前灯は取ってありましたが、光が
なくてもきれいなお顔がはっきりおがめました。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
有 難 う ご ざ い ま す。
合
掌
胞和五十四年十二月二十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
十四、お地蔵様がお腹に上り胃かいよういゆ
(広島県福山市)A男(63才)
昭和五十四年五月頃、私は急に腰がいたくなりました。病院でレントゲン写真をとってもらうと、小指
位の大きさの腎臓結石が二ケあるとのことでした。そこで首無地蔵に参り一心にお地蔵様にお願いしつ
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つ、お地蔵にさわった手で腰をなでて帰りました。不思議に二回のお参りで腰のいたみはとれました。
そこでそのままほっておいて二ヶ月経った時に急に腎臓がいたみ始めました。早速注射してもらいまし
たが、二時間たつと楽になりました。結石が二ケ共外に出たのでした。この痛みは、石が外に押し出さ
れる時のいたみでした。お蔭様で腎臓の為に仕事は一切休むことはありませんでした。お地蔵にお供え
したときお返しに「ただいたタオルとお守りは整理ダンスの上に供えていつも拝んでおります。
昭和五十二年に私は胃かいようで入院していたことがあります。その後大したこともなかったのですが
、今年の十一月九日の晩、急にお腹がせつくなって苦しくなりました。ねむれぬほど苦しみましたが夜
がおそいので医者に行かず我慢していましたら、くたびれていつのまにか眠っていました。
夢の中で重苦しいと思って気が付くとお地蔵様がおなかの上に立っておられました。府中の地蔵堂にあ
るそのままの形でした。地蔵堂の地蔵様は、うす黒い色ですが私のお腹の上に立っておられる姿はみが
かれた様にきれいでした。新しい石で作られたままの様な地肌でした。苦しくせつないと思っています
と、やがてお地蔵様が帰られました。すると目が覚めました。時刻は朝の四時でした。それから二、三
分たつと、うその様に楽になりました。それっきりいたまなくなりました。
それ以後、体の調子がすっかりよくなり、今までだるかった足も軽くなりました。気分もさわやかです
。その日の晩に早速お礼に参りました。今では一家全員で参ります。
お地蔵様有難うざいます。
合
掌
昭和五十四年十二月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第11部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第11部
あ と が き
何とすばらしいお地蔵さまでしよう。次から次えと首をかしげたくなるようなお蔭を戴かれる方が続出
しています。治療に見はなされたような人々が、この御地蔵様にお願いに参られ、短時日の間に好転し
てゆかれるとは一体どういうことでしようか。苦しんでおられた状態を見知っていた人か、或は直接お
蔭をうけられた方でないと、治った話を聞いた丈では恐らく信じられないでしよう。起科学的なことが
ここ地蔵堂に起きています。
お守札の包み紙や、お供えの水や、線香の灰さえ飲んで不治の病いがよくなるなどの奇蹟がおきた方も
おられます。だが皆が皆この様にされても同じ奇跡がおきるとは限らないでしよう。
お蔭を受けられた方は皆真剣です。わらをも掴む気持で必死にお地蔵さまにすェり切っておられます。す
がり切るとは、自我を捨てることです。信心深くお地蔵の霊気がスーツと入ってゆく素地が出来ている
と申してよいでしよう。
又、ここ地蔵堂に何かがなければこうした不思議な現象も起らないでしよう。普通人には見えない、人
為をこえた高次元の何かがあります。既に、御地蔵の霊姿を拝された方が何人もおられ礼賛記第十一部
中にも御姿を拝された体験談が多くあります。悔み苦しめる人々に救いの手をさしのべるべく、地蔵菩
薩がここに出現されておられるといってよいでしよう。
昭和五十四年十二月二十七日、地蔵菩薩の事務所二階建が完成しました。皆信者の方の浄財の集積のた
まものであります。これを機に一層参拝者の御便宜を計るべく計画されています。
願くば御地蔵の慈悲の御手を益々広く深くさしのべ賜わらんことを願い奉ります。
合 掌
編 集 部
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>首無地蔵菩薩堂宇落成慶讃文
『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
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首無地蔵菩薩堂宇落成慶讃文
敬て秘密教主大日如来両部界会諸尊聖衆殊に別(ワ)いては本尊聖者首無地蔵菩薩十方三世の諸仏諸菩
薩諸天善神に白して曰く
夫れ惟みれば当山は去ぬる昭和五十二年五月十八日当所、東(アヅマ)氏の霊夢により発堀されて地湧
の大聖者、首無地蔵菩薩として祭祀されて以来、霊験まことに灼(アラタ)かなるものあり、その偉徳
を伝え聞いて参拝者後を絶たず、ために旧霊場にては狭隘不便を感ずるに至り、遂に昨年五月貌在地に
御堂を新築移転せらる。
爾後、事務休憩所の新築あり、今回念願の礼拝堂の建設なって、ここに輪奐の美を一新せり。依而本日
その落成を祝して理趣三昧慶讃法要を厳修し法楽を捧ぐ。
顧みれば尊像発堀以来僅々三ケ年フ短日月にこの偉業の達成されたることは本尊聖者の霊験赫々たるはも
とより 又地元世話人方の敬虔なる奉仕によるものと感嘆措く能わざる所である。
仰ぎ冀くは本尊聖者首無地蔵菩薩威光倍増してその本誓を還念し、以って益々当山隆昌発展のため更に
は信者各家の家門繁栄福智円満現当所願皆令満足の法益を垂れさせ給わんことを。
乃至法界平等利益
干時 昭和五十五年九月十八日
護持法主
宏 海 敬 白
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
一、交通事故傷害が早期に全治に向う
(滋賀県草津市)Y男(57才)
私、首無地蔵さまには不思議な御縁によりまして昭和五十三年三月二十日よりお参りさせて頂き、お地
蔵様のお蔭を戴いて毎日喜こびの日暮しをしている者です。地蔵大菩薩礼賛記第六部に掲載して頂きま
した。「心臓病が快方に向い妻の肩つまりが快癒す。」(=参照=)という題です。
其の後は毎夕お地蔵様の写真とお守り札を祀ってお光りをあげて、日々の息災を祈り感謝のお礼参りを
して参りましたところ、不運にも本年四月十六日琵琶湖へ単車に乗って魚釣りに行ったとき、農道で交
通信号が無い交叉点で後輪に乗用車が衝突して、私は五米余り飛ばされ転倒して「くちびる」を裂傷し
人事不省ノなった交通事故に遭遇しました。
警察などが現地検証しているとき、私は死んでいる者と錯覚されて道端に倒れたまま放置されていまし
た。其の時交通事故だと云って見に来た人が、倒れている私に「誰だ」と尋ねてくれたので私は無意識
ながら「草津のYです助けて下さい」と云ったそうです。尋ねてくれた人が運良く国鉄の私の職場での
部下であったのです。
「被害者は生きているやないか、早く救急車の手配を」と現地調査の警察官に注意してくれて、やっと
救急病院に移送されました。外傷七針縫ってくれた治療に対し痛さは覚えていません。其の後は記憶力
がなくなり、見舞客の顔を見れば○○さんお見舞い有難うといって話しているが見舞客が帰って三十分程
経過すると「先き程来て下さった見舞客はどなたですか」と妻が私に尋ねると、「そんな人は知らない
」と言っていたそうです。
入院二日目に妻が私に怪我後何も食べていないので「何か食べる?」と尋ねてくれたところ、私今では
覚えありませんが「今首無地蔵さんが口の中に小石を三つ入れて下さったので何もほしくない」と返答
したそうです。妻は霊験あらたかな首無地蔵さんが助けに来て下さったのだと思いお地蔵さんのお慈悲
に深く感謝し、早期に治すようお願いのお祈りをしたそうです。
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其の後、外傷は治ったが頭が変であるので妻が医師に「全治するのにどれだけの日数がようしますか」
と尋ねたところ「三年程しないと普通の人になれないでせう」と言ったそうです。妻は悲運の涙であっ
たところ長女の嫁いでいる先の伯母さんが京都伏見にある病院の総婦長をしておられ、私の交通事故傷
なら「もっと早く治るのではないか」と言って下されたので長女や長男がK救急病院長に交渉して京都
の病院に転移しましたところ、入院して十五日程で私の記憶力が快復し始め一ケ月の再入院で目出度く
退院して今では二週間に一回の通院でよいことになり以前の私に戻りました。
これは一重にお地蔵さんのお慈悲のお蔭様です。只々感謝の外ありません。退院後一週間目に首無地蔵
さんの礼拝堂の上棟式を聞き、お礼のお参りとお祝いに妻と近所の方とで参詣させて戴きました。
今回の交通事故について先に述べました通り、死亡していると錯覚され放置されていたのが私の部下の
お蔭で救急病院に入院出来たことや、入院二日目に首無地蔵さんが口の中へ小石を入れてくれたこと、
救急病院を変って三年かかる全治が二一ケ月余りで退院出来たこと。その上外傷等の痛さ知らずに今日
を迎えましたことは、これ一重に尊いお地蔵さまの再度のお慈悲のお蔭さまで、只々感謝の外ありませ
ん。
首無地蔵さま本当に有難う御座います。
厚く厚くお礼申し上げます。
合
掌
昭和五十五年七月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
二、七年こしのゼンソクいゆ
(広島県府中市)寅年女(30才)
私は七年前までは病気らしい病気をしたことはなく健康でした。ところが一児を授かり産後一年間育児
のつかれが出ていた所に熱があるのを押して百姓をしました。その為気管支をこじらせ、ゼンソク性の
気管支炎となりました。二番目の子供がお腹にいるときもはげしい発作がおきました。妊娠八ケ月頃い
たたまれなくなって入院治療しておりました。お蔭でゼンソクもしばらく治まっていましたが昭和五十
一年に三人目の子供が生まれ、その後昭和五十三年の秋にまたまた激しい発作におそわれ苦しみました
。五十四年の正月には一歩も歩くことが出来ぬほど息苦しく、正月の支度も出来ず寝たきりの有様でし
た。肺炎になり、肺炎が治まると又[ンソクの発作がおきるという繰り返しでした。ゼンソクは患った人
でないと想像もつきませんが、発作の最中は今にも息が止るかと思うほど苦しいのです。
私の母は信心家であり方々の寺にも参り、首無地蔵の噂がひろまった頃もよく参って私の病気治癒を祈
ってくれていました。首無地蔵は大変よくきいて下さるお地蔵さん故、私にも参る様すすめていたので
発作のおきない体の調子のよいときに時折参っていました。月に一~二回は参っていたでしよう。「ゼ
ンソクが治ります様に」と文を書き、地蔵堂の「お願いの文」箱に納めたりしておりました。正月に首
無地蔵に参った折戴いていた大きな厄除け線香を発作のときにはたいておりました。苦しいときの神だ
のみ、心の底にはきっときいて下さるにちがいないとの意識はあった様です。
昭和五十四年二月九日夜、又々ひどい発作がおきました。息苦しくて上をむいて寝ておれません。それ
は今までにない激しさでした。仕方なくふとんの上に起き上り、掛けふとんにもたれたままでした。無
意識に「おんかかかびさんまえいそわか」をとなえておりました。それはすがる様な気持で必死でした
。二月十日土曜日の明け方、少しうとうととしておりました。午前三時か四時頃だったでしよう。「カ
チヤツ」という音がしたと同時に斜に首無地蔵の台座がうごいて私の家の方角に向かれました。そのと
きのお地蔵さんは今の安置されている場所より約五〇メートル下手の掘出された丘の畑にあり東南の方
角に向かれており私の家はま南でした。そして首無地蔵が大きくなられてスーツと私の枕もとに立たれ
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ました。それは綺麗な真新しい花崗岩で錫杖をもたれ、耳は大きく丸顔でにこやかに目をつむり、男と
も女ともわからぬ美しいお姿でした。お地蔵様が来られると同時にあれほど苦しかった発作がおさまり
胸がスーツと楽になりました。朝六時には完全になおっており嘘のように普通どおりに家事も出来まし
た。
それ以後ゼンソクの発作は全然おこりません。ゼンソクのおき易い気候の変り目である昨年の秋も今年
の春も何事もなく楽にすませました。ゼンソクの治まった日、早速友達に私の不思議な体験を電話して
話しました。妊娠九ケ月だったその友達は商売をしており、お腹の子は逆児でなおらぬというので首無
地蔵に願をかけており、雨の日もお参りしているということでありました。私がこれからお礼参りに行
くというので連れだって参拝しました。帰りに友達は産婦人科によって診て貰らったら逆児は元どおり
になっていたとの事でありました。
その後、無事元気な子供を出産しておられます。誠に誠に有難いお地蔵さまです。
「おんかかかびさんまえいそわか」
合
掌
昭和五十五年六月二十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
三、孫の中耳灸治る
(岡山県小田郡矢掛町)F女(71才)
合 掌
天地の神々さま有難うございます。
万人の皆様方有難うございます。
私達はここにこうしてつつがなく生かされて居ります。
今この偉大なる神仏のお恵みに感謝しつつここに拙なき筆をとりました。
実は私の娘三女が大阪に嫁いで居ります。現在八才、六才、五才の子宝に恵まれていますが不幸にして
六才の男の子が三才のときハシカ(麻疹)の為熱に侵され中耳灸を起こし、大切な鼓膜を破りました。
それから三年半というものは降る日も照る日も病院通いでございました。
「何年通ふたら此の耳は全快になるのでしようか」と医師に尋ねましたところ「一生一代通院ですよ」
ときびオい悲しい宣告を受けました。娘はがっかりしてショツクを受け心に痛いかたまりを抱きつつ毎日
子育てと主婦業に明け暮れていた様です。
其の当時私の兄、井原市のNが「それは府中市の首無地蔵さまへお参りしてお蔭を戴くがよい、わしの
知人に立派な人が居られるからよく頼んで置いてやる」と人思いの兄は優しく教えてくれました。
おぼれるものはわらをも掴む気になりました。併し、可愛い娘のためとはいえ家庭や主人をないがしろ
にすることが出来ず、私が代理としておすがりする事に致しました。神仏さまは金も財産もとられない
、とって下さいますものは唯々真心のみとひたすら心の目を開き首無地蔵させにすがるべく発心しまし
た。
昭和五十四年八月の暑い日、矢掛から団体バスが出ていると云う事を聞き、早速申し込み十八日の御縁
日に府中詣でのバスに乗りました。感謝と感激に満ち溢れ山川草木ことごとく
我を迎うの感有りて私の血液は浄化される思いでした。
さて目的地の菩薩さまの参道にはバスから降りる人乗る人のおびただしい群には一先ず驚異の目を見張
りました。早速事務所で.お地蔵さまにお供えしてそのお返しに、しおりとお守りとタオルを戴きロー
ソク線香を上げお賽銭を捧げ右の手にタオルを持ってお地蔵さまに祈りました。孫の住所氏名病名を声
に出し、人間にたのむようにどうか孫の耳を治して下さい。勉強のさまたげになりますのでどうか治し
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てやって下さい。後とり息子の大切な子です。どうか治してやって下さい。と一心におねがいしました
。
私ばかりが入念にたのんでも振り向けば右の手にタオルを持った人が沢山居られるので人さまにご迷惑
を掛けてはと今度は菩薩さまを中心に真言を唱えながらぐるぐると何回もまわりました。又家に在る時
に香華燈明御食の供養をしてお守りと孫の写真を仏壇に並べて、朝は心経十一巻夕には十巻と毎日二十
一巻の般若心経を唱えました。
そうこうしている中に続々と出ていたきつい耳だれも恰かも海の引潮の如く快方に向いました。昭和五
十五年一月十四日、不思議な事に医者より「耳は治りましたよ。もう病院へ来なくてもよろしい」と断
言されました。本人の心の安らぎは基より両親の一方ならざる悦び感謝は筆舌につくし得ません。地上
の万物我に帰りたり、地上の生物我が味方なり、祖父母に至るまで家内一同新年と共にあたたかい春を
迎えました。之もひとえにみ仏さまのお慈悲と感謝して居ります。誠に勿体ない事でございます。有が
とうこざいました。万人の皆さま方有がとうこざいました。
おんかかかびさんまえいそわか
目に見えぬ神の心に 通うこそ 己が心の誠なりけり
再拝合掌
昭和五十五年二月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
四、十年来のゼンソクが楽になる
(尾道市)酉年女(48才)
十三年も前のことです。三原市の奥の御寺へお参りしたとき風邪をひきました。この風邪はしぶとく、
なかなか治らず半年もつづきました。前のお寺さんへ風邪をお返しに参りましたがすっきりしませんで
した。お医者より気管支喘息と診断されました。
それから十年もの長い間苦しいゼンソクとの闘いがつづきました。よいと言う治療法、お医者、病院、
お拝み屋など片っ端から通って見ました。大阪の医者、阪大病院にも行って参て貰いました。二年目に
山陰の太田市に良い専門医が居るときき、中国山脈を越えて、車で七時間以上もかかるところを七年間
通いました。ここで二回治療を受けますと一~二ケ月は楽でした。福山市に私の体によく合うお医者が
見つかり、近くはありそこにも通いました。福山では治療後二~三日しか効能がつづきませんでした。
あらゆるところを尋ね二~三十ケ所は行ったでしよう。どんなに悪くてもお店の仕事は休みませんでし
たが只一回丈一週間ほど福山の病院に入院致しました。
今から三年前丁度首無地蔵が出現されました頃、甲山町の得意先に行った時、「府中市のお地蔵さんに
参ったら」とすすめられました。「お蔭のある不思議なお地蔵さんで、だまされたと思って、行ってご
らんなさい」といわれました。丁度息若しかったときであり、「よし参ろう」と思った途端に、つまっ
た様であった気管がす-つと通り呼吸が楽になりました。誠に不思議でした。早速店の人の運転でお地
蔵さんに参りました。車中は楽でしたが地蔵坂はやや急で当時は息苦しくてとても歩いて登れませんで
した。地蔵堂のすぐ側に車をつけ、二~三メートルの小坂をやっと上りました。
それからは毎月五~六回は参っておりました。そしていつのまにか胸は楽になってゆきました。今では
坂も平気で上れます。春の木の芽時や梅雨時分には毎年ひどくなっていたゼンソクも何ともなくなりま
した。今年の春、主人が議員に立候補しましたので激務が続きましたが有難いことに楽に切り抜けられ
ました。(主人は幸い当選しました。)
77
山陰の医者通いもいつか遠のいています。時おりよほどの時薬の世話になる程度で、それもめったにな
く、この三年間うその様に楽に過させて戴いています。無関心だった主人も今では自分で車を運転して
お地蔵様まで連れていってくれます。お礼に賽銭箱を寄進させて戴きました。
有難い尊い首無地蔵様、益々御力を発揮下され人々を御救い下さい。
南 無 地 蔵 大 菩 薩
合
掌
昭和五十五年七月十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
五、神経痛がいえ店の始末がうまくゆく
(岡山市八幡町)F女(53才)
姫路市に居住していた昭和五十一年頃、座骨神経痛に悩まされました。三年間ほど足の関節の痛さに困
っておりました。丁度その頃、信心深い姉がたまたまテレビで首無地蔵の放送を見ました。何でもよく
さいて下さり大変なお参りとのことで私を誘って府中市に参りました。昭和五十二年の正月過ぎでした
。
幸いなことに地蔵堂にお地蔵さんのお蔭を貰われた人が居られました。その人は「足が大変悪く、這う
様にして坂を上り、お地蔵さんの石にさわりながら一心にお願いをして坂を下りますと忽ち治っていた
」と話して下さいました。それを聞いてお地蔵さんを一生懸命さすりながらお願いをしました。「おん
かかかびさんまえいそわか」のお題目を一心にとなえました。一時間位はお堂におりました。
家に帰ってしばらくするといつの間にか神経痛が起きないことに気付きました。ほんとうにうれしうこ
ざいました。二年目にはお礼をかねて次のお願いに首無地蔵に参りました。私は手芸店を開きながら教
師もしておりました。かねがね姫路のお店をたたんで岡山に移りたいと思っておりました。二度目のお
参りにこのことをお願いして帰りますと本当に不思議に希望通りに岡山に先づ家を建つことが出来まし
た。三年目、三度目のお地蔵参りをして無事今年六月末に岡山に引っ越しすることが出来ました。お店
の方もほぼ希望の価格で引取る人が現われてスムーズに買って下さいました。
私は戴いたお地蔵さんのお守りに毎日手を合せて拝んでおります。私を誘ってくれた姉について申しま
すと姉の息子の嫁がひどい肝炎にかかり三ケ月ももたぬであろうといわれていたのを姉が首無地蔵にお
願いしておりましたところよくなり、その後子供も生れています。
私がお参りするときは生徒もつれて参りました。その中に子宮ガンにかかり、も早駄目であろうといわ
れた生徒が今では元気にピンピンしております。
本当に有難い御地蔵様です。今後も毎年二回は必ずお参りする積りです。
南 無 首 無 地 蔵 大 菩 薩 様
合
掌
昭和五十五年七月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
六、四年ごしの胃潰瘍なおる
(広島県深安郡神辺町)N男(59才)
四年前のことです。会社に勤務中、胃が悪くなり薬局のくすりを買って飲んでおりました。薬局の薬で
は二時間位胃が良くなっていましたが後はいたみました。之の状態が三日間つづいたので医者で診察し
78
て貰うと胃潰瘍とのことでした。胃の上部に二つ、曲り角に二つ「よう」が出来ているとのことで潰瘍
によいくすりとて血管注射をして貰いました。
会社に通勤しながら三十日医者に通う中レントゲン撮影の結果、よくなっていると言われました。そし
て半年か七ケ月位は良好状態がつづきました。が又々胃の調子がおかしく、再びレントゲンを撮ると「
どこも異状はない」と医者は言います。飲み薬を四種類もらってのんでいますニ七ケ月経った頃鈍痛を覚
えましたので、再度レントゲン写真にかかると「胃は綺麗だ」といいます。それでも重苦しいので又薬
局のくすりの厄介になりました。こうして薬を二年間つづけました。三原の稲荷さんに参りお金を包ん
でお願いすると軽いから直ぐなおると言われました。それで半年位はよくなった様な気分でしたが、そ
の後又駄目でくすりを五ケ月続けました。
福山市の勤め先の衣裳部のOさんより「府中市の首無地蔵は何でも願いごとをきいて下さる」と教えら
れましたが、その時は参る気がしませんでした。昭和五十四年十二月三日どうしても胃の具合が悪いの
で初めて参りました。その時はお供えもせず、たった二百円のお賽銭を上げた丈でした。地蔵堂の前に
拝み方の説明が書いてあり、その通りに「おんかかかびさんまえいそわか」を三回となえました。そし
て名前も別に言わず胃の状態を最初から話して、よくして下さいと願いました。只それ丈でした。五分
もかかっていないでしよう。
帰る頃には胃の状態は忘れておりました。何ともないのです。家に帰っても何ともありません。それっ
きり治ってしまいました。不思議なことでした。めしの固いのやライスカレーを食べたり、コーヒーや
お茶の濃いのをのむと、すぐ胃が痛んでいたのが何ともありません。治ったのは気のせいかと思い、思
い切って固いライスカレーをわざと食べて見ましたが何ともありませんでした。どう考えても不思議で
した。
今胃薬とは縁を断ちました。本日で八ケ月間、何をたべてもさわりはありません。胃のお願いは二回た
のんだ丈でした。お礼にわずかですがお金を供えさせて戴きました。そして折あればお地蔵様に参りま
す。
おんかかかびさんまえいそわか
南 無 首 無 地 蔵 大 菩 薩 様
合
掌
昭和五十五年八月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
七、心臓病平癒
(広島市)C女(48才)
私は十三才の時、原爆にあって以来身体が悪くなり本当に辛い毎日でございました。特に心臓で苦しむ
様になりましたのが昭和四十五年の春頃でございます。毎朝二時から三時迄の間に体が急変して参るの
でございます。それは苦しい辛い歳月でございました。
御大師様、観音様を信心させて頂いておりました。丁度こんなある日、昭和五十三年二月あるお寺様よ
り首無地蔵様のお話を開かされ、お詣りさせて頂きました。初めての参拝の日は急に体が悪くなりまし
た。でもお地蔵様を信じて一心におすがりさせて頂きました。三度目頃より不思議にほっさもなくなり
現在では、あの時の苦しみはなく助けて頂きました。
本当に首無地蔵様の有難ウ尊さを胸に念じつつ合掌の毎日でございます。今ではお地蔵様に参拝の度に心
よりお礼申し上げますと共に生きる喜こびに感謝の毎日でございます。
本当にお地蔵様有難うございました。
合
掌
79
昭和五十五年九月二十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
八、旅行中足の激痛がいえる
(広島県府中市)T女(79才)
近所の仲良しの友達三人と、ある会社の招待で別府「杉の井」に一泊し、途中宇佐八幡宮にお参りして
帰える予定の旅行に出かけようと、一ケ月前から此の日の来るのを指折りかぞえて待っておりました。
いよいよ明日にせまって、手軽に仕度をし早目に寝につきました。出発は五時、寝過ごしてはと気にし
ながら中々ねつかれず、一寸ねたと思った十二時頃トイレにおきあがり、ベッドから右足を下ろそうと
思いましたが、急に腰のあたりから立つことも出来ないほど足が痛みだし、痛みをやっとがまんしてト
イレに行きました。這うようにしてトイレから帰えり、やれやれこれでは夜の明けるまでには到底よく
なるまいと案じつつ又行きスくなり、何回かおぼえてはいないけど通いました。ほんとうにつらくて、ど
うすることも出来ず思わず「首無地蔵さんお助け下さい」と痛みとお願いとで涙をとめどもなく流しな
がら、お光をあげて一生懸命おねがい致しました。
夜が明け「今私がやめては折角楽しみにしていた友達にすまぬ」と一生懸命にお地蔵さんのお守りをは
だみにつけて、これこそ泣いてたのみました。
とうとう五時がきました。友達はさそいにこられ、私は何にくわぬ顔で出て一緒に車にやっとのことで
乗りました。痛みはよくなりませんが、でもきっと助けて下さるとそれのみを念願して府中元町の集合
場所まで行き、そこで人員の点検、車の号車割をする等、約一時間痛さと寒さでふるえていました。引
きかえしたらお友達にすまぬと思うので、ただ一すじにおねがいするのみでした。
福山までバスは四十五分位かかり、降りて新幹線迄歩るくのがやっとでした。「どうぞお助け下さい」
と祈りつづけました。ところが八幡宮についたときは、すっかりよくなっていました。朝の痛みはどこ
えやら、それでも下車してから奥の院まではほど遠くて中途で五、六人のお友達とここで失礼しようと
車に引き返しました。元のようにはならなくてもほとんどよくなって「有難うございます。有難うとざ
います。」の一念でした。午後、何時かはおほえていませんが杉の井につきましたら、もうすっかり痛
みは失せていました。
あてがわれた部屋におちついてから、うれしくてうれしくて此のうれしさは言い表わすことも書き表わ
すことも出来ないほどでした。お風呂に入って床についたらうれし泣きになきました。お友達にも云わ
ず、こみあげておふとんをかぶってお礼をいいつつ泣きつづけました。
明けて十四日の帰えりには、先に先にあるいてお友達の座席もとってあげるようになりました。帰りは
とても楽しい旅でした。
帰宅の翌日、先づ一番にお礼参りに若い者の車に便乗してお地蔵さんにお参りしました。それから約一
ケ年と二ケ月たって六月十二日、ふとしたことから右の足のすねぼうずの内側をねじて、それが為に水
がたまり四ケ月の間外科医にかかりましたが、不幸中の幸にして手術もせずに今はすっかりよくなりま
した。その間歩くことは不自由しませんでしたが四ケ月の長い間色々と大へんの修行を致しました。今
ではほとんどよくなって何をするのも不自由なく、心身ともに大きいおかげを戴いたと感謝しています
。
ほんとにお地蔵様よりいつも有難く守っていただいています。私のおかげの体験話はほんとにささいな
ことですが、心の安らぎをもとめて一度限りの人生を生きぬきましよう。多くの人の中には時が来てよ
くなっためだとかたづけられる人もあると思います。私はおかげを戴いたと信じています。
有難うございます。
合
掌
80
昭和五十五年九月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第12部>附記
『地蔵大菩薩礼賛記』第12部
附
記
一、銅製大香炉の寄進
昭和五十三年二月滋賀県草津市吉田茂七氏が初めて首無地蔵に参拝され長年の足の痛風がいえ、それを
機縁に草津市周辺の人々が多数参詣され、あまたのお蔭を戴かれている。そのお礼にと草津市、青田茂
七、吉田綱義、井関一一、中村龍三、白木はつえ、並に
栗太郡栗東町の太田春吉氏らが発起人となり昭和五十四年十一月より翌年の春にかけて滋賀県並にその
縁故者二〇九名に話しかけられ、その寄進により高岡市の業者に銅製の大香炉を特別発注された。
四月十九日胴径九〇センチ、高さ六十四センチの香炉とそれを覆う高さ二七〇センチの銅板茸屋根を併
せて自らの手で運搬、据付、奉納された。
四月二十三日午後一時香炉除幕式を行う。寄進者の除幕、栄明寺中村住職の洒(シャ)水の儀、読経、
焼香と厳粛に式は進み御神酒、供菓の接待で午後二時めでたく終了す。滋賀県より関係者五〇名、一般
参列者一五〇名に及び、この日めずらしく風が強かったが新若葉のふくいくと薫る中、地蔵境内は明る
く晴れ上っていた。
二、礼拝堂建立
三年前、農道に質素に祀ってあった首無地蔵尊の霊験いちじるしく数知れぬ人々を救われ急激に参拝者
がふえてきた。礼拝者の為に雨除け、日よけにテントで一時をしのいでいたが間に合わなくなり、信者
世話人の間より礼拝堂建立の機運が高まり、既に集った賽銭等の浄財により、自発的に寄進を申出られ
た方は別として、建立のための募金は一切行わず建設することになった。
昭和五十五年五月二十一日午前九時栄明寺中村住職の祈祷により雨の中地鎮祭を行う。同年六月十一日
午後五時上棟式を行う。中村宏海師の静かな読経により式は始まる。棟木までの高さ九米余の中間にし
つらえた祭壇にはバナナ、夏みかん、塩、小豆、水等供う。午後五時三十分責任役員並に信者代表、大
工による紅白の餅、清酒券、ビール券、菓子袋の投与が始まる。集まった府中の人約千人、異様な熱気
であった。用意した一石二斗の餅三千六百箇は忽ちにして無くなる。その後工務店寄贈の二斗樽の鏡開
き、一合桝による祝い酒を汲み交す。梅雨の一休みの晴れ間、幸いにして暑からず、三室山に日はまさ
に沈まんとし、うろこ雲にくまどられた西日がおだやかであった。
絶えまなく信者のあげる地蔵堂前め香煙は高く白く立ち上り明浄寺山の新緑にとどいていた。
昭和五十五年八月三十日礼拝堂は完成した。入母屋造り、総銅板茸屋根、白壁の美しい御堂である。今
ここに名実共に首無地蔵尊のおわす場所が出来上った。
続いて同年九月十八日月例祭をかね中村宏海師以下五名の住職により盛大に落慶法要が行われた。当日
の参拝者一万人を超える。
地蔵菩薩礼拝堂
桁ゆき
7m84cm
奥ゆき
13m72cm
棟までの高さ 9m50cm
正面虹梁
巾:37cm
長:5m09mm
厚:17mm
81
本堂前虹梁 巾:30cm
長:3m88mm
厚:17mm
間張
長:3m88mm
厚:16mm
柱
巾:46cm
台湾桧
桁・梁・合掌 地松
格天井
秋田杉
間張
肥松
虹梁彫刻
御調郡御調町三郎丸の彫刻家・古川三七雄氏の彫刻であり、模様は火災よけの意味を表わす。
波頭と瑞雲を彫ってある。裏面は青草模様である。
屋
根
0.35mm厚の銅板による一文字平葺
施工者・府中市中須町
広兼板金
設 計 者
福山市震町
畠
山
治
建築施工者
府中市出口町
楢 崎 工 務 店
総 工 費
26,187,590円也
世 話 人
府中市出口町
長 谷 川 義 光(責任役員)
杉
原
茂
池
田
正 人
宮
奥
善 造
楢
崎
喬 造
高
山
隆 市
竹
口
正 明
枳
穀
弥 吉
児
玉
征 治
東
寿 男(信者代表)
杉
原
政
坂
口
正 人
平
川
明
藤
原
武 士
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
一 ぎっくり腰が即座になおる
(島根県浜田市浅井町)M男(34才)
私の父(五十四歳)は石見交通㈱の観光バスの運転手をしている。首無地蔵がテレビや新聞に出て有名
になり、山陰地方では石見観光がいち早く、参拝者募集をして、毎月の如く今に至るも参り続けている
82
。お地蔵さんが出現されて間もない昭和五十三年の春、二回目の募集をして、バス一台で府中市に参っ
た。浜田市敬川町内会の人五〇人と共に私の父が運転して、首無地蔵に参拝した。私の父はそれより一
週間前からぎっくり腰となり痛みを訴えていた。当日も痛かったのを我慢して運転して行った。皆さん
が地蔵石にさわりながらお祈りしているので、父も石にさわった手で腰を一生懸命さすった。
地蔵坂を下りながら腰のいたみがなくなっているのに気付いた。あまりの御利益の早さに父はおどろき
且つ喜んだ。その後個人で妻を連れ二回ほどお礼参りしている。以来父は今日まで何回団体を府中市に
運んだか知れない。
私の同寮のH氏(バスの運転手)が膝に水がたまる様になり何回も水を抜いていた。昭和五十七年のこ
と、H氏は石見観光バスを運転して団体を連れて参った。そして自分も膝をお願いした。家に帰ったら
きれいに治っていた。以後再発していない。
昭和五十八年七月、腰の痛い老婆が、わが社のバスで参り、拝んで次の予定地、府中市の十輪院(真言
宗)に参った。地蔵坂を登るときは痛がっていた老婆は十輪院の石段を登るときは平気で上った。至極
、楽であるという。老婆は地蔵参りの帰りには早お蔭をもらわれたのである。
昭和五十八年十月三十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二 頭痛がお地蔵さまのタオルでなおる
(島根県松江市)O女(71才)
私は弘心会を作っています。加入は随意であり、声をかければ忽ち二〇〇名は集って下さいます。この
会は十年前に、夫のSと一緒に作りました。最初は小豆島めぐりの団体の名前でした。弘法大師を慕う
心の会の意味です。そして毎年三月十二日は必ず小豆島参りをします。小豆島以外にもこの会はどこに
でも参り、最近は府中市の首無地蔵参りが多いです。この中からお地蔵さんのお蔭を貰われる方が続出
しています。
島根県庁に勤務の職員の奥さんで四十歳位の方がおられます。たまたまその奥さんにお会いしたとき、
年中頭痛がして大変因っておられました。私がお地蔵さんに参拝したとき戴いたお地蔵さんのタオルを
親類の人に上げていたのを貰い受け、奥さんにその使い方を教えて差し上げました。その奥さんはタオ
ルで頭をなでたり、枕にして夜寝ておられました。一~二日して頭痛はきれいに治ったと、うれしそう
に話されお礼を言われました。
私が首無地蔵尊を知った経緯(いきさつ)は次の通りであります。
昭和五十四年六月三十日付の毎日新開の中国版に一頁紙数をさいて、首無地蔵写真特集記事をのせてい
たのを、隣のおばあさんが有難い事が書いて有りますよと言って、私の家に持って来て下さいました。
其の新聞を読みます内に、東さんの夢枕にお地蔵様が立たれ発堀された事跡に、自分も昔同じ夢を見て
不思議な事があった事を思い出して共感し、同じ夢の状況を新聞に見て明日先ず知らない府中でも一人
で出掛けお参りして来ますと言いましたら、私が教えて上げたのに一人で行くとは何事ですかとおばあ
さんからお叱りを受けました。私も本当だと思いまして一畑白動車をたのみましたら、何とおどろきま
した事に、4・五日で大型バス一台が満員となり、皆様と御一緒にお参り出来たのが首無地蔵様への初
めてのお参りでした。
私の夢とはまだ隠岐に住んで居た頃の事で御座います。明治維新に廃仏棄釈の時、小宮さん(荒尾神社
)は大宮さん(隠岐の総社)に合併されました。ところが小宮さんは社だけ合併されて、御本尊は其の
ままになっていました。その小宮さんが夢枕に立たれ、自分のところの掃除をして呉れる様に言われ、
丁度其の頃私は脊椎カリエスで大変に苦しんでおりました。掃除をして呉れたらお前のカリエスも治し
てやる、又誠を持って来る者には皆お蔭をやるとの事でしたから、次の日から掃除に掛かりました。其
83
の度事に腰がくりくりとしまして一週間後にはすっかり良くなって居りました。そして他の人達もその
土地を踏みさえしたら即座に万病がきいて居たのです。
同じ夢の状況を新聞で見て、知らないところでも尋ねながら一人でお参り仕様と思ったのです。其の後
皆様と御一緒にお参りする事二十六回。ある時は大型バス三台で参拝の時も有りました。其の都度皆様
が色々と不思議なお蔭様を頂き良くなられた方々が数多く、其の事を聞く度事に、お地蔵様に、心から
手を合せ感謝の気持ちで一杯です。皆様と御一緒にお参りが出来ます私は、私程幸せな者はないと涙が
出る程うれしく感じます。
お地蔵様、何時迄もお参りの皆様にどうか御利益を差し上げて下さいます様、心からの私のお願いです
。本当に不思議なお地蔵様
合 掌
おんかかかびさんまえいそわか
おんかかかびさんまえいそわか
おんかかかびさんまえいそわか
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
三 船酔い車酔い並びに腰の痛みがなおる
(松江市東津田町)T女(77)
私は三十歳の頃から船酔いや車に酔うようになっていました。したがってバスや船には乗れず、遠方へ
は行く事が出来なかったのです。
昭和五十四年六月三十日付の毎日新開に、首無地蔵さんの記事を見て、何だかお蔭さんが有りそうな気
がして、参拝して見たくなり、となりのOさんところへ新聞を持って行きましたのがきっかけになり、
Oさんと一緒にお参りして早くも二十五回になります。松江より広島県府中市迄は五時間位で、長距離
のバスでしたので乗れるような私の体ではないのに、出発の時からバスに酔う事などすっかり忘れてい
ました。途中何事も無く、府中につき首無地蔵尊に礼拝し腰のいたいのも治してとお願いしました。そ
の夜七時 松江に居ったが全然単に酔いもしませんでした。毎日新聞を見た時点からよくなっていたら
しいのです。お蔭さんで腰のいたみも治ってしまいました。
孫のK(昭和四十一年五月十八日生)が四年前に中学一年生の時、頭にハゲが三ケ所出来ました。どの
医者も三年経たねば髪は生えないと言われたのを、Oさんと一緒に首無地蔵に参りましたが、三ヶ月ほ
どできれいに毛が生えそろい、本当に不思議でした。
お礼参りにはすぐ行きました。本当に不思議な有難いお地蔵様です。
合 掌
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
四 膝の半月板が消える
(松江市矢田町)T男(40才)
私は足の脛(スネ)に生れつきの軟骨が出ていて、それが段々きつくいたくなってきた。そのうちスネ
に水がたまる病気になつた。仕事を休むわけにいかず、無理して仕事をつづけている内にお盆になった
。昭和五十四年八月二十二日に手術をする予定で、既に入院して手術日を待っていた。時期的に歩けな
84
い状態であり、軟骨を切り取ることになっていた。八月十四日のこと、Oさんより、霊験あらたかな府
中市の首無地蔵さんのお話をきいた。そしてOさんに道順を詳しく開いて自分で自動車を運転して松江
市を出発した。府中市へは初めての土地であったが一回も迷うことなく地蔵堂にたどりつけた。そして
一心にお地蔵さまにお祈りした。受付で僅かの奉納をして、お返しにタオルと地蔵のしおりをいただい
た。
手術日が伸びて、八月二十七日に診断を受けたら、医者より手術の必要がないといわれた。半月盤がど
こかに消え失せたと言う。こういうことが現実にあるのであろうかと我ながら不思議であった。とも角
、脛の調子はよいし、以後何ともない。鉄工所つとめも支障なく休むこともない。その後もお地蔵様に
本気で何回も参った。最近では子供が首無地蔵へなら行くが、よそへは行かぬという。有難い御地蔵様
である。
合 掌
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
五 尾骨の痛み消ゆ
(松江市西浜佐陀町)O女(48才)
昭和五十六年二月二十八日親戚の法事に行く為いそいで玄関の向う側の靴を履こうとして、つっかけを
踏んだ。その日は雪が降っていて子供が履いて出て裏に雪が附着しているのを知らなかった。そのため
つっかけが滑って玄関にころび、いやというほどお尻を打った。骨が折れたかと思った。その夜痛みが
はげしく、食卓の椅子に坐って御飯をたべょうとしたがいたくて座れない。止むを得ず立ったまま喰べ
た。寝床に入っても上向きにも横にもなれない。仕方なしにうつ伏せになって寝た。
翌日医者に行く予定であったが近所に火事があって、後片付けの手伝いのため行かれず四日目にようや
く医院に行った。レントゲンを撮って貰ったら骨にひびが入っていた。私はアレ泣Mー症で薬ものめず
注射も打てない、一日中座ることが出来ず椅子の上に座布団を重ねてようやく軽るく座る日が続いた。
松江市に弘心会という信仰団体がありOさんが主催しておられた。参拝者を募って、霊場巡りをしてお
られ、首無地蔵へも度々参っておられ、私も一畑電気鉄道(株)の観光バスの添乗員としガイドをしていた
。丁度、尻を打って一週間目に弘心会の首無地蔵参拝について一畑電鉄バスで府中市に来た。地蔵坂下
のバス駈車場に車をとめ、乗客は皆地蔵堂へ参ったが私はお尻がいたいため参る気になれず大儀でバス
に残っていた。ガイドをしていて首無地蔵参拝者の中にひざのなおったおばあさんと一緒したこともあ
り、お蔭のあることは知っていたが頭から信じてはいなかった。折角ここまで来たのだからとバスの運
転手が無理矢理手を引き、背中を押して地蔵坂を登った。そしてお供えをし、記念タオルをいただいて
御地蔵様にさわり、そのタオルで何回も痛い所をさわった。参ったからにはと一生懸命にお祈りした。
その日は無事に帰り、お家で再びタオルでお尻をさわり寝た。
当夜はげしい痛みがあり上を向いて眠れずうつむいて寝た。
翌日の明け方、便所に行きたくなり目をさますと天井が見えた。いつのまにかあおむけになってねてい
た。その瞬間痛みを感じなかった。手で尻を持ち上げる様に何向もしたが痛みは全然なかった。すっか
り治っていた。
一週間経っても痛む様ならば再度レントゲンをとりにくる様にと医者に言われていたが、痛くないので
それっきり医者に行かずじまいである。
九月以降、一畑バスによる団体の首無蔵地参りは殆ど私が担当した。昭和五十六年九月十日から昭和五
十七年二月十八日まで毎週参り、通算三十五回参っている。バスの添乗貝として数台のバスで参るとき
85
、途中車が止まる毎にバスを来り換え、首無地蔵様よりお蔭を戴いた話を来客にして上げた。本当に不
思議な有難いお地蔵様です。
昭和五十七年二月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
六 腰の打撲傷がなおる
(松江市古志原町)M男(84才)
私は四年前より老人健康法の会長をしています。
昭和五十六年の五月のことです。孫のために上げた鯉のぼりが家の電線にひっかかりました。それを取
るため、長はしごを取り出して登りました。はしごの頂上にのぼった途端に、足がはずれて地上に転落
致しました。運悪く地上に杭が立っていて、いやというほど腰を打ちつけました。そして当分動けない
有様でした。
丁度その頃Oさんが、弘心会の首無地蔵参りに誘って下さいました。まだ腰はひどく痛んでおりました
が、我慢をしてバスに来り込みました。府中市までは遠いバスの旅でした。地蔵坂をやっと登って、軽
い気持でお地蔵さんを拝みました。帰りのバスの中は何だか腰が楽になり、松江市に着くまでノ完全に痛
みはとれておりました。
何と効き目の早いお地蔵さんでしょう。私は地蔵堂でそれほど一生懸命に拝んではいなかったのに、誠
に不思議でした。
その後は老人連れで中国に旅行しましたが何ともなく、昭和五十七年秋の島根国体では老人健康法の体
操も教えました。腰の治つた翌十一月にお礼参りをさせて戴きました。
誠に有難い御地蔵様です。皆様もお蔭をもらって下さい。
合 掌
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
七 足の痛みがなおる
(松江市)女
三年前、事故で私は足を痛めてしまいました。踊りが職業(花柳流師匠)の私にとってこれは致命傷で
した。いたくて踊るどころではなく、長い間難儀を致しました。何回目かの首無地蔵団体参拝にOさん
が声をかけて下さいました。
私はお地蔵さんに触りながら、心に足のなおるよう御祈りを致しました。昼すぎ帰りの松江市営バスが
府中市を離れて、少し行った所に甲山町があります。その手前に架橋工事中の赤い橋が見えて参りまし
た。その瞬間でした。いままでうずいていた足の痛みがぴたりと止ったてはありませんか。不思議も不
思議、本当に不思議でした。丁度バスの中をOさんがお地蔵さんで戴いたお神酒を皆さんについで廻っ
ておられました。私は喜びのあまり「足がなおった」と大声をあげながらOさんの所にかけよりました
。
それっきり痛みも出なくなりました。お礼に千羽鶴を首無地蔵堂に奉納致しました。
有難うございました。首無地蔵様
合 掌
昭和五十八年八月二十三日
86
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
八 神経症がなおる
(松江市東津田町)女(49才)
私は神経症というのか極端な神経質であった。どこがどう悪いというのではないのに、何かにつけ不安
でおどおどしていた。
私の知人にWさんがおられ、府中市の首無地蔵に参拝するので一緒に参らぬかと誘われた。非常に霊験
のあるお地蔵さんということであった。どんなお地蔵さんか知らぬが誘われるままに一緒に府中市に行
った。首無地蔵に参ると、皆さん一生懸命にタオルで石の地蔵さんに触わっていらっしやる。宗務所で
五百円ほど奉納すると、お返しにタオルとお地蔵さんのしおりをいただいた。タオルは木綿で、地蔵堂
に安置されたお地蔵さんの絵と、「口奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶)」のお経が書いてあった。このタオル
に首無地蔵さんの霊を入魂して帰ればよいとのことで、地蔵さんにさわり一心に祈った。
家に帰ると何となく心が落着いてきた。不安な気持は失せていた。今ではどこに行くにもタオルを身体
から離さない。タオルを持っていると力づよく安心である。最近では心がすっかりほぐれている。噂に
たがわぬ素晴らしい首無地蔵さんである。
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
九 きついノイローゼがなおる
(松江市古志原町)O女
私のノイローゼは十一年間の長患いでした。勤めもいつかやめてしまいました。ノイローゼがこうじて
視力が減退し、疲労のために目がうろうろして焦点がつかめない状態になりました。
これまで治療代に何十万円も費しております。私の前途は真暗闇で絶望の渕に立っておりました。
松江市東津田町のO様にお会いしたのは二年前のことでした。O様一行の首無地蔵参拝団体に加わり府
中市に行きました。
地蔵本堂前で一心にお地蔵様に祈っておりました。すると、三才と七才位の女の子と男の子が見えまし
た。幻覚とも思えず、はっきりお姿を拝し、不思議なことに思いました。
それから家に帰り、お地蔵様の夢を見させて下さいとお願いしますと必ず夢に現われました。
二回目に参拝して帰る途中、目が急に痛みはじめました。きつい痛みようでした。その時よけいに悪化
してしまったと思いました。が、しばらく我慢しておりますと明くる日には反対に治っておりました。
気分がすっきりして、ノイローゼも消え失せ、目もすっかりよくなりました。現在どこも何ともありま
せん。その後、地蔵堂で拝んでおりますとお地蔵様の後方に六人の御姿を拝しております。私の苦しみ
を救って下さった有難いお地蔵様です。
おんかかびさんまえいそわか
合 掌
昭和五十八年八月二十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十 右肩腕が上がるようになる
87
(松江市横浜町)O女(73才)
長い間右肩がいたんで右腕を上げることが出来ませんでした。
府中市への参拝団体に交わり、首無地蔵に参りました。何がしかのお供えをして地蔵タオルを受け、地
蔵堂にて一心に入魂して家に持ち帰りました。
毎日このタオルで右肩腕をさすっておりました。或る朝のことなにげなく右腕を上にあげるとスーツと
楽にあがりました。全然痛みを慈しませんでした。ついに手が上がったと大変喜びました。そしてお地
蔵さんに感謝致しました。喜びの余り妹の所に参りこの話を致しますと、妹は治る時期が来ていたのだ
と関心を示しませんでした。が私はお蔭だと信じます。
南側の障子を明け、府中市の方角に向き、お礼を受け取って下さいとお地蔵様を毎日拝んでいます。
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十一 体力に自信が付く
(島根県平田市灘分町)Y男(46才)
昭和五十六年七月九日NHKテレビが「中国路のどこかで」の番組で首無地蔵のことを放映した。それ
を見た宍道町の和名佐老人会(M幹事)が会合のとき首無地蔵参拝を決議した。参拝して帰りに体調の
よくなった人が出て来た。そこでお礼参りの計画が起こり、一畑電鉄バスが募集に踏み切った。
私は一畑電鉄玉造営業所(バス)に勤務しており、当時地蔵参拝は神がかり的な感覚でムード的に参る
ものと思っていた。時代の流れか、最初は営業所内の空気も半信半疑であったが、お蔭をもらう者が出
て来、応募者も増えてくるので所内の疑いは解けてしまった。
五十六年の九月の初めから全社で大々的にバスの参拝募集を行った。その年の暮頃から翌五十オ年の春に
かけて、毎週日曜日に平均十五台のバスを運行した。多い時には二十台を一度に出し、千人近い参拝者
が一挙に府中市に押しかけ、地蔵堂はごったかえす有様であった。身近な人の中から次々とお蔭の体験
者が出て来た。
私は体が弱かった。入院を繰り返していた。退院して三年経過した後仕事も順調であったが、体の事を
心配しながら仕事をしていた。元来心臓が丈夫でなく無理のきかぬ体であった。
昭和五十六年十月十九日、バスの団体募集を行い、その団体をつれて私も首無地蔵に参った。私はこの
御地蔵さんについては半信半疑であった。だが皆さんと同じように石地蔵にさわった。触った瞬間に体
がぼ-つと熱くなった。そして有難い感が全身を走った。
参拝を終えて帰る道の途中で足の関節の悪い人が痛みを感じなくなったと言った。こっていた私の肩の
こりも治ってしまった。
以後私のつかれもすっかり違ってきた。首無地蔵尊の御霊験について想像以上のものがあった。評判以
上に霊力の現実に対面した。私の人生観、宗教観も変化した。不思議さを超えた現実、真実性をしみじ
み感じた。松江市方面から府中市へ車で日帰り出来ることも幸いした。事務所の職員で俗に言う五十肩
で腕の上らなかったのが、地蔵タオルでなでて治ったり、歯痛のなおった人もいた。
今島根県各地から広烏県府中市の首無地蔵参拝者は連日絶えない。
昭和五十八年八月二十四日
88
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十二 妻の慢性中耳炎がなおる
(松江市堂形町)I男(78才)
私の妻Yは二十四才の冬、急性中耳炎で手術を受け、一応治癒した状態でしたが、十年位してから膿が
出る様になり、現出雲市の病院へ一年間入院して種々手をつくしましたが、完全に治癒したことになり
ませんでした。以後膿が出たり、また止ったりといった状態でした。
昭和五十六年十月一畑竜鉄バス会社が、広島県府中市の首無地蔵さんはとても霊験あらたかで、病気を
治して下さったり、困ったことは参拝して祈額すれば、お聞届け下さると云う触れこみで参拝者を募集
していることを聞き、最初第一回は妻が一人でお参りいたしました。お蔭で膿の出ることが少し良くな
った様だと申しまして、十一月にもお参りいたしました。ところが十一月お参りした其の日から膿が全
然出なくなりました。奇蹟と云ってよいでしょう。丁度同年十月孫のSが、昭和五十七年三月島根大学
卒業の予定で、国家公務員の第一次試験を受けました。第一次もパスし、又第二次も合格して只今大蔵
省に勤務しています。十一月十二月と私も家内と一緒にお参りしました。妻の中耳炎の治ったこと、又
孫の大蔵省採用等々、偶然だと云えばそれまで、然し私は首無地蔵様のお蔭を受けたと確く信じていま
す。私も後と四ヶ月で数え年八十才となります。八十年の永い経験から料学や医学で割り切れない、何
にか解らない大きい力の存在を知っています。
参拝団体バスの中でもよく首無地蔵様のお蔭話を耳にしますが、私は確かにお蔭を受けさせて貰った一
人です。私は全部で三回だけお参りさせていただきましたが、妻は今月(八月)で二十一向お参りいた
しました。今後もお願いとお礼参りを続けたいと申しています。
倅(せがれ)夫婦も孫の就職お礼参りに三回お参りしたと申しています。私も外出する時、又旅行に出
る時など南方(広島県府中市)に向ってお地蔵様にお祈りをして家を出る様にしています。
今後永き将来首無お地蔵様のご加護を念してペンを擱(お)きます。
合 掌
昭和五十八年八月二十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十三 主人の肝臓病と私の健康回復す
(島根県八束郡玉湯町玉造温泉)T女(60才)
昭和五十六年九月、一畑電鉄バスが広島県府中市の首無地蔵にバスを出していることを開いた。その頃
私は体が弱かったし、主人も肝臓を患い肝硬変になりかけていた。お地蔵さんのお蔭があるというので
、同年十月府中市に一畑バスの団体と一緒した。
玉造から府中へは日帰りが出来る故、月参り出来ると思い、暇を見ては一年間通った。その都度お供え
をして、お返しのタオルを受けたのが二与三十枚もたまった。主人は一時医者にも見放されていた。私
は必死にお地蔵様にお祈りし、お願い箱に毎月五百円-千円を赤封筒に入れて夫婦の年と名前を書き込
む丈で箱に入れておいた。
お蔭様で重態の主人の体も回復し食欲も出て来たB出雲三十三ヶ所めぐりもしたし、四国八十八ヶ所も夫
婦でお礼に参った。私はもともと信心好きである。御大師さんやお不動さんを平素信心している。首無
地蔵に参って半年位してぐんぐん体の調子がよくなってきた。首無地蔵堂で戴いたタオルを枕カバーに
して寝たり、チョッキに縫って身につけた。
89
タオル二枚で丁度チョッキが縫える。冬は暖かく、年寄りには便利で大変具合がよい。一畑バスのガイ
ドOさんが地蔵尊のお蔭を貰われており、その説明をききながら府中市に参るのがたのしく色々参考に
した。米子市のお不動さんの先生がゼンソクで因っておられたのがお地蔵さんでよくなられた。
私の一家中が首無地蔵尊を信心している。のぼり二本も奉納している。主人の体も医者の診断良好にて
目下ゴルフを楽しんでいる。
昭和五十八年八月二十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十四 頭痛が治る
(米子市博労町)I女(45歳)
十何年もの間私は頭痛に悩まされていました。昨年の秋頃、首無地蔵さんよりお蔭をもらった人から、
霊験いちじるしいお地蔵さんの話をきいておりました。
昭和五十七年九月六日、十四名の団体で初めて府中市に参りました。首無地蔵様に頭痛を直していただ
く様一心に祈願して、礼拝堂の椅子に腰掛けて休息していました。すると急に胸が苦しくなり、頭の方
がジーンとして来て、気分が悪くなってきました。頭がふらふらするので長椅子に横になり五-六分間
じっととしておりました。しばらくして気分がすーっとしてきて頭がすっきり致しました。
帰るときは丸でうそのように頭が軽るくなっておりました。首無地蔵尊のお力は話のとおり誠に偉大で
した。長年の黷オみが消えこんなうれしいことはありません。会う人毎にお地蔵様の話をし困っている人
に参るようすすめています。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
昭和五十八年十月九日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>15
(15)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十五 高血圧が下がる
(松江市外中原)Y女(73歳)
四年前までは私は血圧が高く、外出先から帰るとすぐフトンを敷いて寝たものです。血圧が高いと気分
が悪くなり目が廻り不安な日々でした。
昭和五十四年の頃でした。府中市の首無地蔵さんは大変御利益があるときき、Oさんのグループと一緒
に参拝致しました。参拝から松江に帰り、今まででしたらこんな長距離の旅など出来ず、まして旅の後
は気分が悪くなるはずなのに、反対に気分がよい。家の者にふとんは敷かなくてよいと申しました。そ
れ以来体の調子が大変よろしい。元の元気な体になりまして幾度もお礼参りに出掛けました。
今年七月には主人自ら首無地蔵に参拝のことを言い出しまして二人で一緒に参りました。府中市の首無
地蔵さんは評判通り、確かにお蔭があります。有難いことです。
合 掌
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>16
(16)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十六 足の座りだこが消える
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(島根県松江市)K女(73才)
いつ頃からか足に座りだこが出来ました。そこに水が溜りはじめ、その上血もたまるようになり、いた
みもはげしくなってまいりました。何年医者に通ったことでしょう。
丁度二年前、昭和五十六年に弘心会のOさん達一行にさそわれて府中市の首無地蔵に参りました。一回
参拝しただけで坐りだこはきれいに消えてしまいました。
何と不思議な霊カの強いお地蔵さんでしょう。それっきり痛みもなくなりました。以後、弘心会が首無
地蔵参拝のときはいつも一緒させてもらっています。有難うございます。
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>17
(17)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十七 膝の痛みが治る
(島根県能義郡伯太町)W男(72歳)
或る日のこと急に足に血うみがたまり出し、痛みがはげしくなってきた。近く娘の結婚式があるので、
それまでになおしておかねばならず、手術をする予定であった。私は娘の媒的人は弘心会の会長のOさ
んであった。Oさんは団体を引率して首無地蔵参拝を何回も行われ、多くの人がお蔭を貰われていると
きいていた。Oさんより電話があり、思い切って家内中がOさんに連れられて参った。
首無地蔵さんに私の切実な願いを訴え、脛を治して下さいと一心に祈った。一回参っただけで痛みがや
わらぎ手術はせずじまいである。爾来お蔭をもらったので困っている人をつれて首無地蔵に度々参って
いる。
息子(四十三歳)は瓦の施工ならびに販売をしている。お蔭で他の店が暇なのに息子の所は毎日忙しく
、息子夫婦ともに元気で無事である。近所の人はお地蔵様のお蔭であると言っている。
昭和五十八年八月二十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>18
(18)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十八 孫のおむつがとれる
(松江市矢田町)T女(59歳)
子供が満二歳位までには襁褓(おしめ)がとれるが普通であるが私の孫は四歳になるのにまだはずせな
かった。
昭和五十七年四月十九日、Oさん達のグループで首無地蔵に参拝した。これより先、松江の人でKとい
うお婆さんより、困ったことがあれば、お願いごとを紙に書いて、お地蔵さんのすぐ横にある「お願い
の文箱」に入れなさい。私も子供の合格を祈って、事務所に備えてあった用紙に書いて入れ、無事合格
出来た話を聞いていた。私もその通りにした。「出雲市に住む数え年四歳の孫Mがおむつがとれなくて
因っています。お蔭をもちましておむつがとれますように」と書いて入れた。
そのことを家に帰って娘の家に電話しておいた。四月二十一日夕方娘謔闢d話があり、子供が便所でして
みようかといっておむつをはずした。それ以来おむつが取れ、以後しくじりはなくなり驚いていると言
った。そして笑いながらお母さんはお地蔵さんのお蔭というかも知れないが、これこれの事実があった
と告げた。
私も最初地蔵参りをしたとき、バスのクーラーが涼しすぎてくしやみのしどうしであり、窓を明けたり
閉めたりしていたのに、帰り途は松江に着くまでクーラーのかけ通しであったのに、くしやみは全然出
なかった。
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私は首無地蔵尊の御霊験は決して疑わない。
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>19
(19)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
十九 低血圧がなおる
(松江市新町)I女
私は常日頃から血庄が低かつた。朝は退儀でなかなか起き上れなかつた。
ところがOさんが首無地蔵に連れて行つて下さった。首無地蔵宗務所で奉納金票住所氏名を書いて五百
円か千円位、任意の奉納をすると一枚のタオルとしおりがお返しに戴ける。そのタオルに自分自身でお
地蔵様に祈り入魂して、持ち帰るとよいと開かされた。
このタオルでお地蔵様を一心に拝み、家に帰り、一番ぶろにお地蔵さん(タオル)と一緒に入つた。風
呂から上がり
そのタオルで体をふいた。それから新品の洗面器でタオルを丁寧に洗い、脱水機にかけて乾燥し、枕の
カバーにして休んだ。
それ以来、朝起きがすっと出来るようになった。体が清々しく軽くなってきた。
今では血庄を気にしなくなった。有難うございます。
南無首無地蔵大菩薩
昭和五十八年八月二十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>20
(20)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十 諸体験抄
お地蔵さまよりもろもろの御蔭を貰われた人の体験談を次に列挙します。いづれも松江市西尾町在住の
人々です(9を除く)
1、H女(七十四歳)
腰のいたみが治る。
2、I女(七十三歳)
右足の上のあたりと頭痛がなおる。
3、H女(六十三歳)
おできにメスを入れたのがよくならなかったのに地蔵にお参りした翌日からよくなった。
4、M女(七十歳)
足のいたみなおる。
5、M女(七十歳)
足のいたみなおる。
6、I女(七十三歳)
足のいたみがなおる。
7、Y女(六十七歳)
膝に水がたまらなくなった。
8、K女
右足のつけねの所がしりしりしたのが良くなった。
9、(松江市矢田町)g男(十八歳)
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昭和五十六年(十六歳のとき)野球をしていて足をくじき、父につれられて参ったらいっぺんになおっ
た。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>21
(21)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十一 痔病の苦痛から解放される
(福山市芦田町)男(46歳)
人間は火を使用することを知ってから後、他の生物と区別して見られる様になったと聞いております。
自然の猛威、つまり風雨・地震・火事などに対して文明時代の今日でさえ、例えば毎年のこと必らず日
本に上陸して大きな被害の跡をのこす台風にも、先端文明の象徴である、科学は現在地の位置、規模の
掌握ができる程度で、そのコースをわが国への直撃から大平洋上へ変えることなど想像もつかない状態
であります。太古の人は岩かげに身を潜める外、術は無かったでありましょう。他の生物と同じ様に人
はひたすらに、静かな山を、川を、海をそして病魔からの退散のみを請い願って神の祭り事をし、家内
安全、無病息災を念じたでありましょう。農耕民族と言われた私どもの祖先は、信じられないほヌ多くの
信仰と神社仏閣を残して呉れています。
私は40代後半を迎えて、最近は特に皮下脂肪が増えました。少しの距離を走ってもう息か上り、腰は
丸く、頭髪は薄く、年輪を感じるシワは目立つ有様で、以前は一晩で除れた疲労も年中抜けない様に思
います。初老を感ぜずにはおれない昨今であります。同じ年代が似た様な日常会話を交わすとき、己を
忘れて少年であり青年であったりして楽しい時を過ごしますが、それが神経痛、胃腸の障害、血圧の上
だ下だとか、又知人さんの誰がガンで亡〈なったと言う話が増えていることに気付く次第であります。
私は五年ほど前に痔病で悩まされたことがあります。この病気は力仕事の後、また寒い時期の疲労の蓄
積のとき等に発病します。2年に一回ぐらいの割でそれまでも患っていました。局部的に人前で話すこ
とも、ましてや露呈する行為は全く情けないので、手遅れになって医院へ駆け込む場合が多いのは止む
をえません。私は府中市内で評判の外科医で満足できず、福山市内の総合病院にも診てもらったが診察
時に堪え難い様な恰好を強いられ、痛い目に遭わされたが治療効果は少なく、用便後の苦痛に十日間ぐ
らい悩まされたのを今も忘れることが出来ません。
そんな時、知人から「瞞されたと思うて構わんなら俺の言うことを聞くが良い。一回府中の首無地蔵さ
んに参拝してみろ、他所の人はだんだん御蔭をもらって治らない病気も直してもらったと聞いたぞ」と
勧めて呉れました。どちらかと言うと唯物的発想者である私は難病が、人の手で作られた神社、仏殿お
よびそれらの御本尊さんの力で医術で癒らぬ病巣が退治できるという話は半信半疑でありました。
昭和53年の冬芦品郡新市町を流れている芦田川左岸を妻の運転で地蔵参拝の帰途、私は腰に毛布を巻
いた様な暖気を覚えたので、妻に向って「おい、どうしたんじやろ!尻が暖こう感じるがの」と言いま
した。妻は「それは良かったネ、あなたオカゲを貰ったんヨ、御地蔵さんのオカゲを疑ってはいけんヨ
」と言ったのを記憶しています。翌日再び医院の門は潜りませんでした。それから後も痔病は再発せず
に過ごすことが出来ています。今では私も世の中には不思議な事がいっぱいあり、タイミングとして完
治直前の参拝であったと思うのは罰当りで、科学的な立証は無いとしても私も地蔵さんの不思議な目に
見えない力で治癒したのだと信じる様になりました。数え切れない多くの生物の中で何故人間だけが突
出した文明、科学を持っているのかと言う疑問と同じ様にである。その数ヶ月後、私は首無地蔵さんに
御礼の気持で再び参拝しました。首の部分が、何かの事故で欠け落ちて哀れさを感じる御地蔵さんに私
はハンケチで何度も触れさせて頂き、口の中で「お蔭さんで、しんどい病気が治りました。本当に有り
がとう御座居ました」と繰り返しました。周囲には無数の峨り旗が風に揺れていました。「他所の人も
、この地蔵さんに助けてもらったんだなあ」と心なごむ気持ちでそれらを眺めたのが昨日の様に今も想
い出されます。
先日、久しぶりに参拝させて頂きました。最初に参拝した当時と較べると本殿、参拝者用休憩所、宗務
所、みやげもの、食堂、そして広い駐車場も確保され境内もたいへん広くなっており、参道には道標も
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あって、参拝者もたいへん多〈、貸切バスを利用した他県からの人も多く、全体が様変りしているのに
驚きました。首無地蔵さんには由緒ある話が有って私も聞かせて頂きました。病気や精神的な悩みを持
った方はこの世にいっぱいおられます。その人達にこの御地蔵さんは、いつまでも御慈悲のカを持って
救って下さることと信じます。感謝の気持ちの一端を申し述べて結文とします。
昭和五十八年十月十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>22
(22)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十二 私のゼンソクが癒え主人の肺炎と酒癖が治る
(滋賀県草津市)O女(64歳)
私が三十五歳のとき、ゼンソクの発作がおきて以来二十五年間苦しみ通しでした。特に春と秋の気候の
変り目時には発作がひどく、息苦しくて横になれず、一晩中起きていたことも度々ありました。
昭和五十三年の冬も終りに近い頃、近所にYさんが居られ、痛風で悩んでおられたのが、府中市の首無
地蔵尊に一回参拝されただけで治った話をきき、Yさんが三回目のお参りをされるとき同道させてもら
いました。一回参っただけでしたが発作はぴたりと止まりました。その年の春秋にも発作は起こらず、
今日まで五年間完全に鎮静しています。長年の苦しみから解放され、本当に有難く以来毎年三~四回は
必ずお礼参りを欠かせません。滋賀県の信メで大香爐を寄進したときも、また大赤提灯を奉納したときも
、真先に参加し、又別に家族一同の名前を記した小提灯数箇を地蔵堂の正面に掲げさせてもらいました
。
私の主人が三年前肺炎にかかり入院しました。レントゲン写真の判定では肺が曇っており、治療も手お
くれで、助かる見込みはないと医者は宣告しました。大きなショックを受けた私は翌早朝一番電車で只
一人府中市に参りました。もともと主人は大の酒好きで、飲むと二時間もぐずり、家族を困まらせてい
たので初めはお地蔵様に酒をやめるようにお願いしておりました。「酒を止めないのなら早く死なして
下さい。病気がよくなるのでしたらすぐによくして下さい」と一心に祈りました。参って二~三日しま
すと、せいていた主人の咳が止まりました。地蔵堂で一袋の御饌米(せんまい)を戴いたのを、生のま
ま三粒づつ主人の口にふくませました。お地蔵さんを全然信じていなかった主人も、このときは素直に
従い、たばこを吸う代りにお米を口の中で噛んでおりました。お地蔵様の入魂したタオルを胸にまいて
ねておりました。そして十日目に撮ったレントゲン写真はきれいになっておりました。医者も不思議が
っておられました。入院一ヶ月日には退院し、以後風邪を引かなくなったばかりか、更に不思議なこと
に酒を一滴も呑まなくなりました。有難くくうれしくお地蔵様のお力と感謝せずにはおれませんでした
。
退院してすぐ主人と共に首無地蔵尊にお礼に参りました。入院していたため主人の足どりは確かでなく
、足がもつれてようやく地蔵坂を登りましたが、参拝を終って降るときには足は軽くなって普段の足ど
りにもどりました。之も不思議なことでした。子供たちにはお饌米を生で噛ませており、近所の病人に
もお僕米を分けてあげております。
お蔭を戴いてからお地蔵様を拝んでいますとお顔をよく拝します。髪の形は見えません。昭和五十四年
五月十六日懲はお地蔵さんの夢を見ました。その頃首無地蔵尊が新らしい敷地に移転されたことは知り
ませんでしたが敷地境内の入口にお地蔵様が立っておられて、参った私を本堂まで案内して下さいまし
た。その後参拝して夢に見たそっくりの敷地であり、夢を見た日が移転された日であることを世話人の
Sさんから開きおどろいた次第です。
昭和五十七年三月六日、赤い大提灯を草津市のお蔭をもらった有志の方で奉納しました。当日、紅と白
の二枚の長い布を大提灯にくくりつけ、その端を地蔵本堂の柱に結び、お寺さんにより、奉納の読経を
してもらった後、その布をもち帰った。私の嫁の親元の長男に子供が生れるのでその妊婦の腹帯にその
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布を巻かせました。同年十月二十三日に女の子を出産しました。予定より十日早かったが、三十二歳の
初産であったのに安産でした。
数々の不思議なことがおこり私はお地蔵さまより多くの功徳をうけております。
有難うございます。
合 掌
昭和五十七年十二月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>23
(23)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十三 脊椎腫瘍の手術後良好
(福山市草戸町)N
昭和54年2月5日に始めて知人に連れられお参りさせていただき、今日に至るまで月参りさせていた
だいて居ります。5日から大雪の中でも雨の日もスベリながら33日間つづけておかげを受ける為に足
を運びました。本当に有難いと思ったからです。
初めてお地蔵様にお参りするまでは、毎日タクシーで病院通いをしていました。それを見かねた現在も
一諸にお参りしてるお方に奨められ、府中駅から歩いてお参りし、帰りも駅まで歩き、又福山駅から草
戸町まで歩きました。お連れの奥様より早速おかげを頂かれましたネと言われました。それまで二ヶ月
余り歩いて無かったのです。それに翌日もつかれる事もなく、一ヶ月余り毎日歩き自分でも不思議に思
いました。
その後、セキズヰにシュヨウが神経を取り巻き手術をしました。その時も無中で無意識にオンカカカビ
サンマエイソワカと唱えてた由です。後からの先生の話で神経を切ったから足を引きづるかも知れない
と心配されたそうです。が現在それも無く毎月お参りさせていただいて居ります。今後も何事もない様
ノポリも立てて頂き一生懸命にお願いに上ってます。KさんMさんYさんとも言葉を交わす様になれて
人の出合い、ふれあいそれもみんなみんなお地蔵様のおかげと喜んで居ります。
オンカカカビサンマエイソワカ元気で過せますよう。
合 掌
昭和五十八年九月二十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>24
(24)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十四 すばらしき母の往生
(府中市)男(48才)
母は若いときから随分苦労したようである。だが私達が成人してから微塵もその気配を見せなかった。
母は徹底した仏教信者であった。不平を言ったり怒った姿に接した記憶はない。仏様のような人である
と近所の人が言うのをよく耳にした。府中市の仏教会に入って仏教活動をしていた。晩年は仏教講話が
あればその寺に赴き、熱心に耳を傾け、ぞれを録音して、帰って再び開き直すほどの熱の入れようであ
った。同僚の者或はかかりつけの御医者さえ母の心境の深さに感心していたときく。その母が足の神経
痛で困っていた。その頃首無地蔵尊が掘出され、噂が広まり、参拝している中に、いつのまにか治って
いた。地蔵坂附近に母の知合いの家があり、週毎に乳母車を押して登り、その家の庭に車を預け地蔵堂
に参った。帰りはその家で一休みして、しやべるのを楽しみにしていた。
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秋のある日、いつもの如く車を押して坂を上り、その家の台地に達したとき何だかスッと体を通り抜け
る霊気を感じたという。お地蔵様はすぐ丘の上に安置されている。そして全身澄み切った、何ともいえ
ない、有難い気持のよい心境であったと母は話してくれた。
昭和五十四年十月二十日、外出着に着替え、家を出るとき嫁(私の妻)にふとんは畳んでよいが、マッ
トはそのままにしておいてくれと頼んで出た。途中気分が悪くなり家に引返した。妻はそのとき二階で
洗濯物を干していた。階段を下りたとき、母は外出着のままマットの上で息を引きとっていた。苦しん
だ様子は全然なく、清らかな生けるが如き死顔であった。家にいた家族の者さえ知らぬあっというまの
大往生であった。奇しくも母八十歳の誕生日であった。髪は一糸乱れず、着物の裾もきちんとしていた
。両手を胸にあてあたかも仏像をあおむけに倒した姿そのままであった。心臓の発作であったようであ
る。子供達全員に死後のことを細かく書きのこしてあり、母の持物はすべて整理し、その処分方を書き
止めていた。近隣の人はその美しい往生ぶりを賛歎した。母は長い間、仏教で信仰心をつちかい、お地
蔵様でその極致に達し、すばらしい安楽往生をとげたのだと思う。
合 掌
昭和五十八年十月三十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>25
(25)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十五 甲状腺の腫れがなおる
(三次市)K女(63才)
昭和五十五年五月のことでした。急に右ののどが腫れて顔を前にかがめるたびに息苦しく大変因ってお
りました。当地の外科医の所へ広大(=広島大学)の先生が来られるから是非診察してもらうよう友人
からすすめられました。早速先生に見てもらうと直ぐ手術をしなさいと言われました。広大の病院にも
二~三度赴き、他の先生に見て戴いて同じ様なことを言われ、入院の部屋まであてがってもらっていま
した。
丁度その頃府中市の首無地蔵尊の話を開き参拝致しました。そして一生懸命甲状腺の全快をお願い致し
ました。
それからしばらくして広島に行き診察してもらったところ手術は見合せょうとのことでした。もしのど
の固まりが取れないようでしたら手pをしないといけないといわれました。
その後首無地蔵へしばしば参詣している内に次第にかたまりもとれ、良くなりました。これも首無地蔵
尊のお蔭と誠に有難く厚く感謝しております。
合 掌
昭和五十八年一月三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>26
(26)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十六 顔のひきずりの痛み軽癒す
(倉敷市玉島町)I女(72才)
私は昭和五十五年十二月二十六日風邪をひいて寝つきました。高熱がつづきましたのでタオルを冷して
ずっと額に当てておりました。その夜、寝入って寝返りを打ったとき、タオルがほほにづれ落ちていて
ほほを冷やしておりました。それが原因らしく、あごが曲り顔がゆがんだ形になりました。医者の診断
では皮ふがマヒしたとのことでした。
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字を書いても真すぐのつもりが右にゆがんだ字ならびになっておりました。道を歩いているといつの間
にか右斜めに歩く有様で、まことに困った日々でした。半年の間、医者を何人も替り、又電気治療も致
しました。熱は引いたものの顔のマヒ状態はつづきました。
倉敷の病院で診てもらったとき中耳炎があるフでその手術をしなければならないというので、全身検査の
結果、糖尿病が発見され、その治療を先に行くことになりました。一応おさまり中耳炎の手術をしまし
た。春になれば大方よくなるであろうとの医者の言でした。
私の家は百年以上もつづく高級履物店であり、福山市のT靴店とも取引きがありました。昭和五十六年
八月三十一日、T氏が商用で店に来られ、私のゆがんだ顔を見て気の毒に思われ、府中市の首無地蔵の
不思議な話をして下さいました。それ以来自宅で私流にお地蔵さんを拝んでおりました。するとお地蔵
さんの夢を見ました。目のくりくりした可愛らしい顔のお地蔵さんがコリコリした両手で私のほほを掻
くようにしてさすって下さいました。
目が覚めると、中耳炎後の耳の中できしるのがなくなり顔のゆがみも多少よくなっておりました。お医
者に行ったとき「Iさんはかわいそうな人だったのに驚いた」と言われるので私の病状が一層悪化した
のかと心配して尋ねると、治っているといわれました。そして貴女は宗教の道を行じているのかとの質
問に、首無地蔵さんを一心に信仰していますと言うと納得された様でした。頭が割れるように痛かった
のもいつの間にか治っていました。
十月五日、主人と一緒に府中市に行き首無地蔵様にお礼参りをしました。受付に世話人のSさんがおら
れたので御礼の幟を立ててもらう様依頼して帰りました。
明けて昭和五十七年二月五日、孫が大学を受験するというので合格祈願に参りました。そして家で一心
に祈っていました三月の初め、二度目の御地蔵様の御姿を夢に見ました。私の庭の池に五〇匹ほどの鯉
を飼っており、夢の中にその池が出て鯉の中に私は座っていました。家の二階を見上げると、開いた障
子の影から孫がのぞいており、その後にお地蔵様がおられました。
するとお地蔵様は二階から階段を降りて来られて池の中にいる私のえり首をつかまれるとすっと座敷に
釣り上げられました。それっきり姿が見えなくなりました。孫は無事目的の大学に合格致しました。
今年の五月の初め三度目の御姿を夢に見ました。私の家に首無地蔵の世話人の方が現われ、ローソクと
線香を立てて帰っていかれるとその後をお地蔵さんが行かれ、近所の人も出てきてぞろぞろ続く。裏門
から表までの二〇間ばかりの通路を通り表門に達して姿は見えなくなりました。三回とも同じ丸い可愛
い顔をしておられ、目がくりくりと、ほほのつやつやしたきれいなお地蔵様でした。手はコロコロして
いて着物は茶色の衣の様に思えました。錫杖は見えませんでしたがはだしでした。夢の中でコロコロし
た手でさすってもらっている間は大変気持がよろしかったが、覚めた後は何だかこわい様な気持でした
。
この頃では中耳炎はすっかりよくなっていると診断されました。
二度目のお地蔵参りの時でした。お地蔵へ供える三キログラムもある線香一箱をもって参りました。地
蔵坂を登るとき主人は足のわるいおばあさんを背負ったため私に線香をもたせました。こんな重いもの
を持てる体の状態ではない私も仕方なしに持ったのですが別に重いとも感ぜず平気で坂が登れました。
主人はおどろき私も不思議でした。
その後しばしばお地蔵参りをします。参るたびになにがしかのお金を奉納して、そのお返しのタオルを
、二~三〇枚戴いて帰り、月末店の客に、お蔭をもらった御礼のつもりで進呈します。もらった人の中
からタオルでさすり足がなおったとお礼にこられる人が出て来ています。玉島より地蔵参りのバス二台
もあっせんしました。
会う人ごとに首無地蔵に参るようすすめています。
今うれしさで一杯です。有難うございます。
首無地蔵大菩薩様
合 掌
昭和五十七年六月十三日
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「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>27
(27)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十七 再度お地蔵様の御姿を拝す
(広島県御調郡御調町)S男(78才)
昭和五十三年に首無地蔵尊にお参りしお拝んでいるとき御地蔵様の麗姿を拝し、立上ったとき長年の足
の痛みが癒えて不思議な御蔭を戴いたことは「地蔵大菩薩礼賛記第七部」に記しております。
その後も毎月のごとく御参りしていますがめったに御姿を拝すことはありません。ただその後二回、真
剣なお願いのとき麗姿をおがみました。神戸に嫁いでいる娘が腎臓病で神戸市の病院に入院し大手術を
受けました。昭和五十七年七月のことです。腹部を切開してあと幾針も縫ったが依然として痛い。再度
レントゲンで見るとガーゼが残っていることが分りました。最初の切開のときも衰弱していて危ぶまれ
、手術で多量の出血があり、弱っているところへ二x日の手術は絶望的でした。これを開いて私は早速日
頃信心する府中市の首無地蔵に参りました。心経を一心に上げました。何回目かの心経をとなえている
とき、地蔵様は御姿を御堂の中にお顕わしになりました。それは前回と同じく女性の様に美しい面長の
御顔をされた姿でした。大人の等身大の背丈で頭丸るく素晴らしくきれいな御影石の御地蔵様で右手に
錫杖を左手にジュズをお持ちでした。水を全身に浴びたごとく、神々しくて涙がこほれました。そして
体が透き通ったようになり、体の存在がわからなくなっていました。
娘はもう大丈夫と思いました。家に帰り早速神戸の娘に電話してこの旨を伝え快癒するから安心する様
に申し伝えました。二度日の手術も成功し、娘は私がお地蔵様の姿を見て間もなく食事も喰べられる様
になり、ぐんぐんよくなって参りました。駄目だと思っていた医者も不思議がっておられたとのことで
す。昨年の十二月頃よくなったのでスーパーの元の職場に働きに出ようと言い出すようになりました。
まことに有難いことでした。
三度目にお姿を拝んだのは孫娘のためにお願いをしたときです。孫娘は乗用車の運転免許をとるべく三
原市の自動車学校に通っておりました。運転はうまいのにいざ試験となるといつも落第していました。
孫娘はおじいちゃんはお地蔵様にお願いするとよく開いて下さるので私のために祈ってほしいという申
し出に、早速首無地蔵に参りました。孫娘のために一心に祈っていると三たびお地蔵様がお出ましにな
りました。前と同じ御姿でした。「もう大丈夫だ」と孫娘に申してやりました。
次の試験のとき普通九十点とれば上のところ、九十五点というめったにない優秀な成績でゆうゆうと合
格しました。あまりにも上手なので試験官が乗せてくれといったということてす。これは前の話と前後
しましたが五十七年四月のことです。
私の足もあれ以来完全になおっています。私の家には御大師様と観音様、お地蔵様を三体一ヶ所に祀っ
ています。おはつを供え毎日のように拝みます。いよいよのときは首無地蔵尊を頼るしか有りません。
頼れば必ずお蔭はあります。誠に偉大な尊いお地蔵様です。
「おんかかかびさんまえいそわか 南無地蔵大菩薩」
昭和五十八年二月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>28
(28)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十八 左手の痛み消える
(府中市)S女(38才)
私は神秘的なもの、とりわけ神通力などというものには特別に興味を持つ方である。と同時にそれに対
する畏れと、好気心というか面白がっている表も多分にある。つまり、そういった現象に出合うことが
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無かったし仮にあるとしても自分では気のつかないことである。そんな折、首無地蔵の出現は私にとっ
て好気心を燃やす格好の材料になった。
時折、訪れては勝手なお願いをし、それが現実に現われるのを秘かな楽しみにもしていた。たいした願
い事も無かったためか、これといって何の変化も現われなかった。
私は事を運転することが多い。57年6月始め頃、左手が痛く握る時はすんなり指が曲らない。ひどい
痛みではなかったが、ハンドルを握る時はちょチと心配だった。左手の甲も腫れていた。勿論、左手を使
って起き上るのは痛くて出来なかった。
一ヶ月位痛みは続いた。7月に入り首無地蔵の近くの親戚に来た時、ここまで来たついでにお参りして
帰ろうと軽い気持で参拝した。夕方だったためか人の気は無かった。これ幸いとお地蔵様をさすった。
願い事をするというより何とはなしに摩ったといった方がよい。そしていつものように家に帰った。
ところが翌日一ヶ月位ハンドルを握る時いささか不自由だった左手の痛みがピタリと無くなっていた。
手の甲の腫れもひいていた。起き上る時左手をついても何の痛みも感じなかった。
私はお地蔵様の奇跡なる話を人から開いて面白がっていたが、自分に起るとは考えていなかった。もし
起るとしたら面白いことだとは思っていた。この私に起った現象がお地蔵様のお蔭かどうかは分からな
い。けれども私はお蔭だと思っている。納得できるからである。あの日以来一度も痛みを覚えない。
昭和五十七年八月十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>29
(29)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
二十九 すばらしき事業の展開
(岩国市)H男(40才)
昭和五十四年十一月私は首無地蔵尊に救われた。センジョウカンセンとう長年苦しめられた皮ふの奇病
が治り、事業を始めてそれが急発展した。(地蔵大菩薩礼賛記第十一部に体験記発表)
溶接の工場を経営しているが、すべて首無地蔵尊に導かれている。昭和五十八年の三月、全国的な不況
のあおりで溶接の仕事の中、電気溶接の仕事がぷっつり途絶えた。従業員四十名もかかえて毎月の給料
を払わねばならず、困って早速府中市の首無地蔵に参った。
三月十九日の夜岩国市を自家用車で発ち午前〇時に地蔵堂に着いた。早速はだしになってお百度を踏み
始めた。百度石から本堂まで二~三十メートルある。その間石を敷いたところが四~五メートルあった
。境内の敷石は山の岩石を砕いたもので全部とがっている。それが足裏に突き立ち痛い。最初の二十回
位までは痛くてたまらなかったが、二十回をすぎた頃は何とも感じなくなった。私自身入神の境地にあ
った。お百度百回踏むのに一時間半かかった。真夜中の丑三つ時、山際の地蔵堂は不気味に静まりかえ
っていたが、私は何だか暖かくお地蔵さんに包まれているようであった。
その日岩国に帰って夕方、至急見積書を提出するよう依頼があり、仕事のつながりが出来た。苦境は見
事に打開された。
三月二十二日早速、首無地蔵に参り、当夜も真夜中にお礼のお百度を踏んだ。
私は家の神棚に祭ってある首無地蔵尊を毎日拝んでいる。
新しく仕事の取引先が出来るとき、首無地蔵尊を拝んでいるとはっきりとお地蔵様よりお知らせがある
。× ○の記号が明瞭に眼前に浮かぶ。×印が見えたときそれと取組んだ相手先は倒産するか、とにかく採
算がとれない。△印が見えたときはまあまあの成績であり、○印は利益が出る。
岩国では優秀企業と折紙をつけられた。お地蔵様は完全に私を守って下さっている。このたび有限会社
S工業を設立させていただき、又山口県知事許可番号XX号を戴き建設業として一人前に成長出来た。
有難いことである。
おんかかかびさんまえいそわか
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昭和五十八年十一月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>30
(30)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
三十 妻の不思議な往生
(福山市瀬戸町)K男(78才)
妻は昭和五十八年六月二十六日口内から度々出血して困り、市内の病院に入院しましたが、病はだんだ
ん悪化してついに九月十四日に口腔舌ガンで七十八才で他界致しました。昭和五十二年に手術をして二
回も手術はして居りますが今の度は高齢のため手術も治療も出来ず、舌は日に日に腫れ上り、ロの外に
はみ出て次第に大きく黒く固くなって、食事は鼻から入れ、言葉はようやく分る程度になり、熱は出る
、頭は痛い氷のうの取替えに困りはて首無地蔵さんにお願いしました。(五十三年七月九日から今年迄
に四十五回お参りしています)
今年(昭和58年)七月二十七日妻の休んで居る左肩の所に金色の館に入られたお地蔵さんのお姿があらわ
れ、首無地蔵にお百度を踏めとのお知らせが妻にあったので、妻が私に其の事を頼みました。しかし真
夏の盛りで老体では無理といったら妻も得心しましたが、思い切って参ったのが昭和五十八年七月三十
日最も暑い炎天の日でした。私も足の痛い持病が有りましたがお百度踏みを始めました。
初めの間は休み休み五十回踏みました。そこで一寸休んで次の五十回を始めますと不思議に少しも足は
痛くありません。走る様な速さでしんどさもなく後の五十回も踏み終えた。帰って其の事を娘に話すと
今日は痛くなくても明日になって体が痛くなるのだと話したことでした
。しかし明日になってもその後も少しも痛まない、不思議な事でした。
さて妻はその日から取扱いに困りはてていた、氷のうを取り除き、頭もいたくない様になり、誠に不思
議なおかげをいただきました。本当に助かりました。それから毎朝夕府中へ向い百回づつおがんで居り
ましたが八月中、病気は悪化するばかりで舌は次第に腫れて来ました。私はお地蔵様に最後のお願いを
致しました。たとえ死んでも女だから顔に傷の出来ない様に御無理のお願いを致しました。ところがそ
れほど見にくかったその舌が九月四日に出血もなく自然に落ちて今迄他人に見せられなかった顔がまる
で見違えるようになり皆さんに見てもらって十日間きれいな姿で休みました。誠に誠に不思議でなりま
せん。
本当に有難い不思議なおかげをいただきました。
葬式の日、近所の人は妻の顔のみにくい形を知っているので誰も見ようとしませんでしたが元通りきれ
いな顔になっていることを告げると告別をした人たちは皆不思議がりました。私は妻の死顔があまりに
も美しいので見とれていました。臨終のときは少しも苦しまず楽な往生でした。
私は首無地蔵尊により妻を安楽往生せしめられ、極楽に導いて下さったと信じています。
おんかかかびさんまえいそわか
身は低く心は清し井戸の水
人に救われ人を助ける
仙蔵
合 掌
昭和五十八年十月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>31
(31)『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
三十一 お地蔵様夢枕に立たれ左脚関節癒ゆ
100
(府中市)F男(61歳)
昭和五十二年十二月定年退職致しました私は、その六年前から左脚の関節が痛みはじめ難ぎをしており
ました。五十三年秋頃からは階段の上がり下りに困る事が多くなり、旅行に出かけても、バスの乗り降
りに苦痛を感じる状態でありました。時折は痛みの為に夜中目覚めることもあり、通院はしていても一
進一退あまり快方に向〈ようすもなく、半ばあきらめておりました。
五十四年春三月だつたと思います。母親(八十二才)から首無地蔵様へお参りしてみたらどうかと、す
すめられましたが、全くその気になれない日々が、何日も続きました。そんなある日、半信半疑ながら
、お参りしてみようかと思い立ち自転車で家を出ました。坂道の下に自転車を置き何xも休み休みしなが
ら一歩一歩ふみしめながら地蔵様への坂道を登りました。途中で引き返そうかと考えながらも、やっと
たどりつき、地蔵様の前にひざまづき、手を合わせ無心にお祈りしました。膝の痛みも忘れただただ無
心に手を合せておりました。そして腰掛けに坐り、何ともいえないすがすがしい心地で暫く休憩をとり
、帰途につきました。
その日の夜、不思議といえば不思議!本当に信じられないような、はなしですが、お地蔵様が夢枕に立
って下さったのです。今でも明瞭に思い出す事ができますが、あの夢のお方はお地蔵様だと信じて疑が
いません。
上品でおだやかなやさしい丸顔、おすべらかしのような長い髪、写真で見る十二ひとえのような着物を
着て、だまって静かに立っておられるのです。
明くる朝早速お礼参りを致しましたが、気がついてみるとあの急な坂道も、あまり苦痛もなく、登るこ
とができました。お地蔵様が、助けて下さったのだ・・・と思うと、有難さがこみ上げてまいります。
ひざまづき、手を合わせ静かにお祈りをして心からお礼を申し上げながらこみ上げてくる熱いものをど
うしようもありませんでした。
あの日以来今日まで、ひざの関節の痛みはすっかり取りのぞかれて、壮快な日々を送ることができて生
きることの幸せを感しております。
表現が.舌足らずで万分の一も言いつくせませんが有難い体験を記してみました。少しでもお役に立て
ばと念じてやみません。
おんかかかびさんまえいそわか
昭和五十八年十二月十日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第13部>編集後記
『地蔵大菩薩礼賛記』第13部
編集後記
昭和55年11月、地蔵大菩薩礼賛記第十二部発行以来しばらく中断していた礼賛記第十三部を今回3
年振りに編集発行致します。
第十三部は山陰特集号となりました。首無地蔵参拝者は増加の一途にて、府中商工会議所が昭和57年
度の参拝者を実地調査して年間70万人と推計致しました。昭和56年の後半から、昭和57年の春に
かけて山陰地方特に松江市を中心に、観光バス会社の募集参詣はひきも切らず、一畑電鉄観光バスの如
き毎週休日には大型バス(45人乗)15台から20台に及ぶ大量運行となり、地蔵堂周辺は大混雑を
呈したことがしばらく続きました。
これら松江市周辺のお蔭を戴く者続出し、これを記録すべく、昭和58年8月、編集子は三日間現地に
出張し、直接面接して20編ほどの霊験記を戴くことが出来ました。
これに他地区の霊験談を加えて31編とし、製本費のみの原価にて領布し、広く首無地蔵尊の御霊力を
知って戴ければと思い出版した次第です。
お地蔵さまの霊験を書いた古い本「地蔵菩薩三国霊験記」十四巻に152話が戴せてあり、これは平安
朝の初期から室町時代末までのことを、三井寺の実睿および良観が編集し、貞亨元年(1684)の刊
101
行です。また「地蔵菩薩利生記」六巻(37話)を求化幻人浄慧が撰述して、貞亨5年に出され、同じ
く浄慧の「地蔵菩薩利益集」五巻(61話)が元禄4年に執筆されています。また明治20年には関無
学禅師の「地蔵菩薩明治霊験報道篇」があります。
地蔵大菩薩礼賛記第一部より本編十三部までの霊験談は129話あります。これらはほんの一部にて、
この外の霊験例は数限りなくあります。人が月にまで到達するほど料学の発達した昭和の現代において
、府中市の八ツ尾山の麓に、かかる霊験著しい首無地蔵尊が出現され、多くの悩める人を救われつつあ
ることは、科学では割り切れない常識を超えた何かがあることを示し有難いことであります。
Book 14: Introduction ? missing, cannot open
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
一、地蔵の御姿を拝し脱肛治まる
(府中市下辻町)H男(87才)
私は脱腸と痔のいたみに長年苦しんでいました。排便後肛門がひっくり返り、元にかえるまでの三時間
位はものすごく痛い。昼間は割合楽であったが、夜の十一時半から二、三時頃まで我慢出来ない位痛み
ました。オロナイン軟膏を毎日つけておりましたが一向に効き目がない。医者は手術するよう奨めまし
たが、切るのが嫌でそのままにしておりました。この状態は十四、五年続いておりました。
首無地蔵尊が出現されて、街なかから近いので毎日参拝しておりました。昭和六十三年二月十七日のこ
とでした。夜十一時十一分、時間もはっきり覚えております。いつもの通りの激しい痛みに耐えており
ました。その時の痛みは今まで以上の痛みで死んでしまいたいような苦しみでした。あまりの痛さに「
明日首をくくって死んでやろう」と声を出して叫びました。その声がお地蔵さんに聞えたのでしょうか
、白い幕が上からスルスルと下りて来ました。そして真白な奇麗な幕が横になびき波打っておりました
。その幕の上に御地蔵様がスーツと立たれました。足は見えませんでしたが、幕の上を行ったり来たり
しておられました。首はありませんでした。地蔵堂に祀ってある石地蔵さんと同じでした。
「あら首がない」とつぶやき
「あれはお地蔵さんだ」
と、思わず声を出していました。実物大の首無しお地蔵さんでしたが、ただ違っていたのは、両手が金
色できらきら光っておりました。手が膝の上に置かれた形で指まで光っていたのは覚えていますが、何
を持たれていたかは覚えていません。それは尊い世にも不思議な金色でした。袖の下が少し直角になっ
ているのがはっきり見えましたが、後で実際の石の首無地蔵様を見たときとそっくり同じで、毎日拝ん
でいたのに袖のすそ下の段までは気付きませんでした。あまりの不思議さにそっと目を開けますと姿は
見えません。目をつぶるとお姿が再び見える。三回繰り返し、目をつぶったり開いたりして三回とも見
えました。御地蔵様は肉眼では見えないと悟りました。三回後はお地蔵様も幕も共に消えておりました
。と同時に、全く瞬間的に痔のいたみは消えておりました。脱腸も元の所におさまっていました。
想像も出来ないことが起きたのです。自分ながら信じられませんでした。だが現実には、つい先程まで
の痛みは嘘のように消えている。十何年間の苦痛が瞬時に無くなった。嬉しくて嬉しくて、泣きに泣き
ました。有がたくて夜明けの五時まで泣いていました。その夜は一睡もしていません。
私の体験は人に話しても信じて貰えないでしょう。二ケ月経ちますが何ともありません。首無地蔵堂に
参拝の度、お賽銭は上げていますが、奉納金はほんの数回少額納めただけです。以後、私にしては多額
を毎月納めさせて頂いています。これまで家中の安全を祈るだけで、私の体の病気快癒も金儲けのこと
など一切お願いしたことはありません。どの神様にも頼むこと自体が無理と思い、頼んだことはありま
せん。それでもお地蔵さんは私を救って下さいました。「ここのお地蔵様は生きておられる」と知人が
申していましたが、本当に力のある尊い首無地蔵様です。
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尚不思議なことが起きています。高齢な身が若返って行くように感じられます。高齢による下のしくじ
りも一切無くなりました。益々元気になっています。有難うございます。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
昭和六十三年四月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二、法悦の境に入り中風の主人立ち上る
(三原市糸崎町)女(70才)
昭和四十八年夏主人が中風で倒れてより数年間病床の人となっておりました。耳は聞こえるのですが、
口がきけなくなっておりました。主人は元々体は頑健で戦地にも赴いており、豪放磊落で斗酒なお辞せ
ずといったタイプの人でしたが病には勝てませんでした。
昭和五十五年頃でしたか、或る日突然主人の部下であった府中市のSさんが見舞いに来て下さいました
。何十年振りかで会った主人の顔にはうれしそうな表情が浮んでおりました。Sさんは首無地蔵の世話
をなされているとかで、首無地蔵のお蔭話を熱っぽく色々と話して下さいました。側で主人は一生懸命
に聞いておりました。私にいつか参拝されるとよろしいと言われてSさんは帰られました。その直後主
人は私にすぐ首無地蔵に参るよう手振りで催促し、枕元にあった腕時計を私に渡し、せかすように致し
ました。
その翌日私は府中市に参りました。Sさんに案内してもらいお拝み方を教わり、一心に主人の快癒を祈
りました。三十分位は拝んだでしょう。それからしばらく昔話をして私は中国バスに乗り帰途につきま
した。
パスが駅家町あたりを走るころ、ふしぎな体験を致しました。急に私は何ともいえないさわやかな気分
になりました。清々しい風が私の体内を吹き通っているような、未だかつて体験したこともない神々し
い状態でした。風が窓から入っているのかと思い窓に自を向けましたが、季節は三月のこととてまだ寒
く、どの窓も閉め切ったままです。何ともいえない有難い気持のまま二時間かかってバスから山陽線に
乗り換え三原市に帰り着きました。家の門をくぐるまで言葉には表せないさわやかな気分でした。帰宅
するやすぐSさんに電話し、バスの中での不思議な体験を申しました。
「奥さん、それはお地蔵様のお蔭ですよ。早速お蔭をもらわれています。一心がお地蔵様に通じたので
す」とSさんの即答がかえってきました。
地蔵参拝後、間もなくまた不思議なことが起こりました。寝たきりの主人が起きるといい出しました。
手を貸してベッドから降ろしてあげると、かべづたいに二~三歩あるきました。思いもよらなかったこ
とが生じたのです。何年も寝たままで体も動かず足も弱り切っており、立上がることはとうてい考えら
れず、このままで寿命が終るものと家族一同諦めておりました。その矢先、起き上がる気力が出て来た
主人を見た私は大変な驚きでした。そしてうれしさと感謝の気持が一杯にこみ上げてきました。主人の
目に輝きが生じ、頬に艶も出て来たようです。人間の寿命には限りがあることとて、もうこれで主人が
どうなっても悔いはないと思いました。私の一生の中でこれほど素晴らしい体験、感激はなく全く夢の
ようでした。一ヶ月後には松葉杖で庭を歩くようになりました。
それ以来、しばしば首無地蔵にお礼参りを致しました。中風で再起した話はあまり聞いたことがなく、
主人の生命力の強さ、お地蔵様の偉大な力にただ感嘆するばかりです。世の中に不思議なことがあるこ
とを身をもって体験しました。
それから数年平穏な有難い日々が続きました。遠方までは行きませんが町内も歩くようになりました。
親戚に行っては近所を歩き、帰りに駅から自宅まで歩いて帰る位元気になっておりました。
103
昭和六十二年九月主人は肺炎にかかり入院致しました。そしてわずか四日後にくるしむこともなく、「
頑張ってね」という私の言葉に「うんうん」とうなずき、「奥さんがそばにいてだからいいね」と話す
看護婦さんにニコッと口をほころばして笑顔をしていましたが、次第に心電図の山が一直線になり、苦
痛の表情も見えず、静かに安らかに永眠致しました。七十六歳の往生でした。
元気な時には信心するような主人ではなかったのに、死顔は仏様のようなふっくらした笑みをたたえて
おりました。首無地蔵尊は延命地蔵ともききます。確かに主人の寿命を延ばして頂きました。しかも安
らかな悟りにも似た数年だったと思います。主人の魂はお地蔵様に救われ、あの世における夫の安楽を
信じております。
私には、小さい時分に体のほっそりした孫がおりました。お地蔵様に太く丈夫な体になるようにお願い
しておりました。その孫が成人し、広島大学に合格しました。孫は家の人の知らない間に、一人で首無
地蔵にお礼参りをしておりました。この孫は、車が大破する自動車事故に二回遭っていますが、不思議
に傷さえ負わず、二回とも無事でした。
一家、数々のお蔭を頂いております。首無地蔵様ありがとうございます。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
昭和六十二年十月記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
三、脛の痛み治り毒蛇の難を逃れる
(三次市高杉町)H女(75才)
昭和五十七年七月二十二日、孫のKの見舞いに大阪に行くことになっていました。ところが私の脛が急
に痛くなり、病院で診察して貰いました。左のすねに水がたまっていると申され、びっくり致しました
。これは大変と思い日頃信心する首無地蔵様にすがるほかないと思いましたが、二十二日は痛くてとて
も参れませんでした。大阪へのお土産に買ったお菓子を供えようと地蔵様のことを気にしながらその晩
は休みました。
翌朝午前三時のことでした。首無地蔵さまが夢の中で早くお参りせよと申されました。それはそれはお
美しい丸顔で色白く、緋の衣を着られたお姿でございました。自が覚めてすぐに身支度をして参拝致し
ました。丁度府中市元町の娘のところに泊っていましたので地蔵堂までそう遠くはありません。人一人
居ないうす暗い地蔵堂の前で一生懸命に祈りました。祈り終って立ち上ると、すねの痛みは殆んどなく
軽くなっていました。あの急な地蔵坂も何のその走りながら下まで降りました。本当に霊顕あらたかな
お地蔵様であるとしみじみ思いました。世の中の困っておられる方も信じてお参りされることをおすす
め致します。
おんかかかびさんまえいそわか
七月三十日
今日はよい天気でした。朝三時に起きて首無地蔵様に参りました。帰りには家までどの位あるかと一歩
一歩数えながら歩き、丁度二千五百歩で家に着きました。午前四時半でした。それから五時二十分頃ま
で自室で一寸休み朝の食事の支度にかかり、食後七時半より掃除をし、次いでに隣の娘の家の掃除もし
て十一時半、お菓子とお花をもって首無様へ参りました。世話人様より首無地蔵様の有難いお話を色々
聞かせてもらいました。帰宅して昼食をとった後「地蔵大菩薩礼賛記」を読んでいますと、そのままい
つの間にか眠っていました。うとうとしていますと地蔵様が「時間だから早く起きて参りなさい」と申
される声をきき、はっと目が覚めました。丁度三時半でした。その時は既にお姿は見えなくなっていま
した。本当に不思議なことがあるものだと私は思いました。
七月三十一日
104
朝三時起床。地蔵堂に参りお百度を踏ませて戴きました。心も清々しく何のつかれも出ませんでした。
昭和五十八年八月十二日のことでした。娘の家にいた時、元町の門田池の上の石垣の草を取る積りで仕
事をすませ、細道を通って手で草をむしっておりました。石垣の穴に手を入れようとしたその時『待て
、よく前を見なさい』とお地蔵様の声を聞きました。お姿はなく、直に教えて下さいました。見れば「
ハミ(=はぶ)」が目の前でとぐろを巻いておりました。私はびっくり仰天しました。あたりを見ても
人影はなく困っていますと、Mさんという方が丁度通りかかり、お願いしてハミを取ってもらいました
。とても大きな毒蛇でした。子供を七匹もはらんでいました。私が気付かずに草を取り進んでいたら、
完全にハミに噛まれるところでした。子持ちのハミは気が荒く、猛毒が忽ちに体にまわり手足を切断し
ていたかも知れません。お地蔵様のお知らせがなかったら、今私はだるまさんになっていたでしょう。
本当に危ないところでした。私は又もお地蔵さんに助けられました。
地蔵堂よりお受けした「タオル」は大事に大事に持っております。一年間は奇麗でこれで体をさするこ
とが出来ます。夜、寝るときには側に置いて休みます。一寸具合が悪い時にはすぐにこの「タオル」で
体をさすります。こうして助けて戴いたときには、自分で作ったトウモロコシにキウリを添えてお地蔵
様に供えます。又日を改めて御礼に参り、一ケ月と三日間真夜中に参り、時には早朝参ることもあり、
その時には晩に買っておいた供えものを持参します。毎日、時には一日に二度、その度に百円のお賽銭
とお菓子は欠かしません。
お地蔵様には何遍もたすけていただきました。本当に有難うございます。これから先もよろしくお願い
申します。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
四、強度の頭痛と孫のぜんそく癒ゆ
(兵庫県美方郡村岡町)K女(60才)
昭和五十六年の頃です。鳥取にいる知人が病気ときいて見舞いに行きました。ところが本人は元気でけ
ろっとしておられる。聞けば府中市の首無地蔵様にすがっていたら治ったといわれた。そんなに御利益
のある御地蔵様なら早速参って見ようと主人と二人で参りました。
私はひどい頭痛持ちで、商売をしていますが、お客が帰られた後はひどく痛みが出て困っておりました
。日本海に近い私の所から、広島県の府中市までは車で七時間近くかかります。地蔵様の前で一心に頭
の痛みの治るよう祈って帰りました。それから半月も経ったころ全然頭痛の発作の起こらないのに気付
きました。完全に治っておりました。まさしく霊験あらたかな有難いお地蔵様であるとつくづく思いま
した。
しばらくして御礼を兼ねて全家族で参りました。三歳になる孫もつれて来ました。孫は小児ぜんそくで
苦しんでおりました。孫のぜんそくの話を首無地蔵の世話人さんに話すと早速、お供えしてあったお塩
をなめさせて頂き、地蔵水を飲ませて貰いました。孫のぜんそくの治癒をお願いして帰ったその日の中
に、孫のぜんそく発作はぴたりと止まりました。薬が離せなかった孫に、それっきり薬がいらなくなり
ました。全く不思議な位でした。
やせていた孫がどんどん肥えて来ました。今小学一年生になっていますが、肥えすぎて今度は反対にや
せるようにお願いしています。
村岡町の人々に霊験著しい首無地蔵への参拝を呼びかけますと、忽ちバス三台の人が集まりました。府
中市まで三台の長距離の運行をし、その日の夜帰り着きました。以後二~三回、三台分で参りましたが
、現在は年、春秋一回は必ず団体で参っております。現在まで私は十六回は参拝しております。お陰様
105
で家族皆健康で商売もうまく行っています。肩がこっていても首無地蔵堂に参りますと一ペんに治って
しまいます。
首無地蔵様有難うございます。掌
合 掌
平成元年十一月三日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
五、目の瞬(まばた)きの好転
(広島市中区)Y女
私は広島市でスタンドを経営しております。業績が上むいていそがしく、或る年腹の手術を致しました
。それ以後日のまばたきを頻繁(ひんぱん)にするようになりました。医者はホルモンのバランスがく
ずれて目に来、無意識に目をパチパチするのだと言われました。接客商売をしているので私は気の重い
毎日でした。昭和五十五年頃でした、自宅で掃除しているとき、点けっぱなしのテレビにふと目が行き
ました。丁度首無地蔵様を放映中で、大勢の人が拝んだり、触ったりしておりました。こんなに多くの
人が参るのだからきっとよいことがあるに違いないと思いました。無性に参りたくなり店の娘数人をつ
れて府中市に行きました。二~三回参った時、偶然に世話をしておられるS様にお会いしました。皆応
接間に通され、地蔵様の由来や数々のお蔭話を聞かせて貰いました。その時S様は「さっと来て簡単に
拝み、さっと帰ったのではお蔭はない。じっくりと時間をかけて一心におがみなさい」と言われました
。その次には二人で参拝しました。屈(かが)んで足がしびれるまで拝みました。家に帰ってからまば
たきも平常通りになりました。店に来たお客も「ママ、さいきんまばたきをしなくなったね」とおっし
やる。「ハイお地蔵様のお蔭です」と首無地蔵の御利益の話に花が咲くようになりました。
私は小学五年生の頃、戦没者の無縁仏の墓掃除をしたことがあります。帰宅して間もなく発熱し高熱が
十日間も続きました。熱で苦しんでいるのにご飯は三人分も食べるという奇妙な状態が続きました。医
者は診断してどこにも異常はないといわれる。そこで親は目の不自由な霊媒師の所に連れてゆきました
。霊媒師は墓に行ったであろうと即座に指摘し、無縁仏に取り憑かれているといって祈祷してもらいま
したらけろりと治った経験があります。
広島市にはスタンドやバアが何十軒も開業しています。そのど真中で開業しています。この場所には中
々入居させて貰えません。信用のある店とか、店の主人の人柄を見て入居させる一流の場所です。ここ
で開業することは店の信用が保証されたと同じに人は見ています。私はこの場所にあっさりと入居を許
して貰えました。銀行からの口添えもあったと思われますが、お地蔵様の蔭の力も大きいと信していま
す。五十五年以来、広島市から毎月一日に地蔵参りを欠かしたことはございません。
私のスタンドは、旧海軍、陸軍の戦友会やら旧制高校のOBの二次会の溜り場となっています。十坪の
店ですが一杯で入り切れないことが度々です。夫々の向きに応じて対応し、思い切りうっ憤の捌け場を
提供してあげています。女らしくなく、いいたいこともボンボン一言いますので、却って気に入られて
いるようです。お蔭で毎日多忙で元気な日を送らせて戴いております。
昭和六十三年十月頃のことでした。
夢の中に、ダイヤのような青色、黄色の物体が沢山降って参りました。その物体は近づくほど大きくな
ってきました。私は知らず知らずの中に手を受けておりました。その上に五十cm位の観音さまのごとき
ものが乗っかっておりました。或いはお地蔵様であったかも知れません。色はこげ茶色で頭がありまし
た。「あらっ」と思った瞬間に自が覚めました。その光景はいまでもはっきり覚えています。
店の売上げも落ちず繁盛しています。有難いことです。首無地蔵様有難う御座居ます。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
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平成元年十月一日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
六、植物人間となった友人へのお蔭
(福山市山野町)S男(80才)
昭和五十六年五月の末のことでした。
友人のH氏が畠で耕作中、倒れておりました。家人が発見し、すぐに加茂町の病院にかつぎ込み入院せ
しめましたが、意識は回復せず、点滴を続けるばかりでした。六月四日私は友人のため府中市に急行し
、首無地蔵尊に参拝致しました。私は且つて首無地蔵堂に参り、足の痛みがなおるなどお蔭を戴いてお
ります。
宗務所でお守りを貰い、地蔵尊の前にて「H氏が仕事は出来なくても、自分の用を便ずる程度に回復致
しますように」と一心にお願いしました。そしてすぐ引き返して府中駅へ走り、福塩線に乗り万能倉駅
に下車しました。が時間はずれでバスがなく、病院まで走り続けて、午後四時頃病院に辿りつきました
。病室では付添いの友人の夫人にお守りを渡し、
「お守りを主人の体の下に置いて下さい。どんなお蔭を戴けるかわからないが」
と申し、バスの都合ですぐ病院を辞去して帰宅しました。
翌六月五日朝七時十二分、同氏は誠に安らかに死去されたと組内の言い伝えにより知りました。H氏は
糖尿病で十五年間闘病生活を送り、今回倒れて七日間、意識不明のまま植物人間であったらしい。これ
を首無地蔵尊のお蔭により苦痛の終止符を打っていただいたと思います。友人はお蔭で安楽往生をとげ
ました。友人の体を棺桶に納める時、そのお守りも一緒に納めてはと私は薦めましたが、夫人はこれほ
どの霊力のあるお守り故私が持っていますといって今も夫人が所持しておられます。
六月十四日、私は首無地蔵尊の首のあった元の御姿を拝察した画像を描き、地蔵堂に奉納致しました。
私の家の近くに首無地蔵と製作が同時代と思える首のある同寸大のお地蔵様がおられます。この像を参
考にして描きました。幸い地蔵会館の床の間に飾って戴いております。有難いことです。
合 掌
昭和五十九年五月二十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
七、癌病の夫の安楽往生
(茨城県真壁郡真壁町)W男(64才)
昭和五十六年八月二十九日、NHKテレビ放送局が「中国路のどこかで」を全国放送しておりました。
その中で広島県府中市の首無地蔵様を放映し霊験あらたかなお地蔵さんで多くの参拝者のあることを知
りました。是非参拝したいとの思いから明けて翌年の七月七日に主人と共に参拝し地蔵タオルを拝受し
て帰りました。その時の主人はとても元気でした。
昭和五十八年主人は癌に倒れました。ベッドの枕許にお地蔵さんから拝受いたしましたタオルを何時も
おきました。病状は悪化して行き、ある時突然にベッドから狂い落ちそうになるほどの痛みにおそわれ
、その時、このタオルで患部のあたりを撫でておりましたら何時の間にか眠ってしまい、翌朝目が覚め
てみるとすっかり痛みがとれていて、主人も喜び私達もほっと致しました。
それからは何んの苦しみも痛みもなく主人は大変に感謝の日々を送らせて頂きました。が、寿命だった
のでしょう、有りがとう有りがとうとお礼を言いながら安楽往生致しました。何よりも苦痛のないまま
楽に他界させて頂いたことがせめてもの慰めであり有り難いことでございます。
107
お礼をと思いながら何分茨城県から府中市は、遠方なのですぐ御礼参りも果たせず、本日ようやく念願
がかない、息子と共に首無地蔵尊に御礼を申し述べることが出来ました。首無地蔵様有りがとうござい
ます。
合 掌
昭和六十三年四月十六日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
八、御光の中に亡父母を拝し大手術の成功
(茨城県真壁郡真壁町)A女(84才)
昭和六十三年四月十六日、W様が御子息様と、首無地蔵さんに御礼参りに行くと聞きましたので、私も
是非参拝したいと思い御一緒しました。そして地蔵タオルを拝受致して帰りました。
平成元年五月、血小板減少、紫斑病の病になり、脾臓、たん嚢、子宮、卵巣全摘出の大手術をする事に
なりました。が出血多量の時には全部摘出出来ないとの事など、色々の話を聞き不安な毎日で夜も眠れ
ませんでした。拝受した地蔵タオルを思い出し、毎日身体をさすりお地蔵さんにおすがりしました。幸
いにも手術の結果、出血が他の人よりも少なく無事時間内に手術がすみました。亡くなった両親の夢な
ど今まで見た事がないのに、金ピカピカに御光が差しそこに両親がいて、ニコニコしながら私を見守っ
ていてくれました。その為に少しも恐ろしさを感じないまま手術は終っておりました。今は順調な回復
をして居ります。
首無地蔵さんの御守護を頂き、本当に有りがとうございます。首無地蔵さん厚く厚く御礼申し上げます
。有りがとうございます。
合 掌
平成元年十一月十七日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
九、痔と頭痛の治癒
(竹原市福田町)N女(56才)
昭和五十九年四月十一日、私は痔の治療に府中の医院に来ました。そこの婦長さんから首無地蔵さんの
有難いお話を聞いて早速主人がお参りに行きタオルを頂いて参りました。
私は勿論痔も悪いけど毎日の出血で頭が痛く、頭の中に何時も重い石が入っている感じで、首を動かす
のも大変でした。それがタオルを枕カバーにして寝た翌日(十二日)とっても頭が軽くすっきりとして
頭痛がぴったりと治りました。「不思議不思議首無地蔵さんのお蔭かなあー」と有難くうそのような話
ですが、真実本当の事です。首無地蔵さん感謝します。有難う御座居ました。私は未だ医院(四月二十
九日)に入院していますが、痔の方も日々よくなり退院も間近かになりました。退院の際には主人と一
しょにお礼参りに行きます。本当に不思議な有難いお地蔵様です。
昭和五十九年四月二十九日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十、むち打症の治癒と事業の好転
(岡山市)O(80才)
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昭和四十六年のこと、タクシーに乗っていたとき後方の車に追突された。その瞬間首をぐっと後にひね
った。話にはよく聞いていたむち打症に私がかかるとは思わなかった。それ以来長い苦痛の生活が始ま
った。
首すじの鈍痛は中々治まらず針その他の治療を試みたがはかばかしくなかった。うっとうし、日が毎日
続き特に梅雨期は一番苦しかった。
私は昭和四十四年から不動産業を始めている。土地造成や建売住宅の販売を主に行っていた。昭和五十
六年頃から不動産・建築業並びに関連産業をおそった不況はひどかった。私の事業もそのあおりを受け
た。
丁度その頃友人より首無地蔵の霊験あらたかなことを聞き、それから私の首無地蔵様参りが始まった。
お参りするたびに、むち打症のこと、事業のこと、家族の幸福を一心にお願いして帰った。
お願いはその都度かなえられた。全く不思議であった。むち打症もいつの間にか治っていた。今日一日
家族が元気で暮らせることを感謝しながら、毎日朝夕床におまつりしている首無地蔵様の札とお姿の写
っているしおりを一心に念じ手を合せている。
八月十四日のお盆に首無地蔵尊にお礼と次の願い事をお願い札に書いて、願いの箱にお納めて帰った。
まだまだ私の願いは限なく続くことであろうが、きっとお地蔵様のご守護あるものと確信している。家
族揃って益々精進に励んでいる。私は今、お地蔵様に救われ導かれている。
おんかかかびさんまえいそわか
南無地蔵大菩薩
合 掌
昭和五十九年八月十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十一、前立腺肥大症の苦しみ癒ゆ
(福山市水呑町)T(73才)
昭和四十七年七月頃でした。前立腺が急に肥大して、小用の時、出るには出るが、細く非常に出にくく
、幸い痛くはありませんでした。その時医者より手術を薦められ、年を取ってから楽になるといわれま
した。手術するほどではなかったが、医者のいう通り手術を受けました。一ケ月入院し、退院後は通院
しておりました。
その後調子が悪くなり、昭和六十一年頃まで悪化の状態が続きました。朝の四時頃から起き上るまでの
間、何とも言えない気持の悪さでした。
十四日間もやもやしておりました。昭和六十一年九月十八日のことでした。人様から、また娘から首無
地蔵様に参って見るようにすすめられ、当日月例祭の日で大勢の参拝客でしたが、その中に交じって前
立腺の治癒をお願い致しました。原因不明の他の病気も出ておりましたので一心にお願いしました。
帰ってから三日目でした。体の調子がよくなっているのに気付きました。更に一週間経って、とぎれと
ぎれによくなって来ておりました。九月十八日の参拝から一ケ月後に二回目の参拝を済ませました。そ
の時は完全に体の調子は回復しておりました。以後は御礼をかねて毎月参拝しております。願いを叶え
て下さる素晴らしいお地蔵様です。有難うございました。
合 掌
昭和六十三年六月十八日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十二、子の胃潰瘍癒ゆ
109
(府中市目崎町)M(74才)
私は昭和五十二年お地蔵様が掘り出され祀られた年から参拝を続けております。
昭和五十七年夏、跡継ぎの息子が病気になりました。診断の結果胃潰瘍でしたが、ガンのうたがいもあ
るとのことでした。私にとっては大ショックでした。会社も経営しており、息子に万一のことがあって
は大変なことになります。日頃信仰している首無地蔵様にすがるほかないと思い、幸い地蔵堂は近いの
で朝晩参りました。時には一日十回参拝したこともあります。首無地蔵宗務所でお供えの返しに戴いた
タオルで、地蔵の御体にさわり、必死に息子の治癒を祈念し、そのタオルをもって病院に毎日二~三回
息子を見舞いタオルで息子の体をさすってやりました。
お地蔵様の前で拝んでいますと涙がとめどもなく出て参ります。その状態が毎日二十日位続き、二十日
経過した頃、いくら拝んでも涙が出なくなりました。おかしいなと思いました。涙が出ないので心配で
もありましたが、あるいはお蔭を戴いたのかも知れないと嬉しくもあり複雑な気持でした。
病院に行き、医者に今一度レントゲン写真をとってくれと頼みました。医者は息子の病状をみて、二十
日位で好転している筈は絶対にないと思っていたようです。「この間胃カメラで貴方も中をのぞいて胃
の様子が荒れているのを見たばかりでよく知っている筈でしょう」と逆に叱られました。私も息子の胃
の中の異常な荒れを知っていましたが、必ずよくなっているという自信のようなものもありました。
医者にしつこく頼んだ結果、二十四日目に医者は胃カメラを差し込みました。医者はおどろき私をすぐ
呼び中を見せてくれました。胃へきは奇麗になっていました。私もびっくりしました。医者はこんなに
短日時によくなるとはと不思議がっていました
私はうれしさのあまり何かお地蔵さんにお礼をしなければと思い、境内にたって四囲を見廻しておりま
した。境内に砂利を一面に敷いてあげるのがよいと思い付き早速寄進致しました。更にローソク立ての
大改造もしてあげ、鐘も寄付致しました。それでも尚御礼をしたりなく思っている次第です。
息子の胃は完全に治癒していると申されました。以後私自身もよく便秘を致しますが、地蔵堂に参ると
忽ち治ってしまします。
私は息子の病気平癒祈願に、一年の中三百六十五回以上参りますと誓いましたが、六ケ月で三百六十五
回以上参っておりました。首無地蔵様は真剣にお願いすれば聞いて下さることを身をもって体験しまし
た。
有難いお地蔵様です。今尚朝夕の礼を欠かせません。願わくば悩める多くの人々を救いたまわんことを
.....
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
平成元年十月十八日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十三、骨折が癒え孫の志望大学への入学
(広島県御調郡御調町)K女(81才)
昭和四十七年十一月、私は裏の築山で大腿骨折を致しました。裏隣りが病院でしたので、すぐかつぎ込
まれました。手術を受けましたが一年経っても歩けません。その間の辛さは筆にも言葉にも表せないほ
どの苦しみでした。仕方なく府中市の外科の専門医の所に参り再度手術してもらいました。何回も骨を
切り、六回も切られました。そしてその病院に一年間入院しておりました。娘が二人おりますが遠方に
勤めていますので、たまの休にしか病院に来てくれません。家族の者が交替で看護してくれました。入
院中隣りの患者が、府中に首無地蔵様をお祭りしてあり、大層お蔭を下さいますと教えて下さいました
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。そしてその患者の付添の娘さんに連れられて、昭和五十三年五月十八日初めて首無地蔵に参りました
。それからしばしばお地蔵様に参り、早く治るように祈っておりました。
或る日院長様が申されるのに、年齢の割に早く骨が付いて、早く快方に向っていますねと申されました
。入院後一年たちましたら杖も不用になりぼちぼち一人歩き出きるようになりました。一人でお参りし
ている中に、一人のおじさんと知り会いました。そのおじさんは、妻がちょつとしたことで家出したの
で、一週間ぶっ続けで首無地蔵様に参り願いをかけておりました。ある人がお宅のお姉さんはどこどこ
に居られましたよと、教えて下さったその日に妻が帰って来、今では家庭も円満に暮らして感謝してい
るとのことでした。
お地蔵様は一つではなく、二つ、三つでも願いごとを聞いて下さる尊いお方ですよと、そのおじさんは
申され、嬉しさ一杯で勇気百倍し、お参りさせて戴いております。私はお地蔵様が今の場所より五十m
位下手の畑の中に祀ってあった時からお参りしていますので、既に十年以上参っております。
都会にいる孫がT大のみに入学願書を提出し、私に「府中の首無地蔵様にお参りしてT大に合格させて
戴くように祈って下さい」といって、御調町-府中市間(バス二十分)の一ケ月分の交通費を送って来
ました。私はすぐ引き受けて、喜んで毎朝御調町を一番発のパスに乗り、府中市出口町の首無地蔵堂に
日参しました。孫のことゆえ、足取りも軽がると参り、合格祈願を一心に念じていました。毎月十八日
の地蔵祭の日は早目に参り、坊さんが法要し説教して下さる真前への座席を私の指定席としておりまし
た。
一次試験は一月十三日と十四日で、東京で三月四日と五日に二次試験が行われました。三月二十日が合
格発表の日でしたが、それより先、三月十五日に孫は御調町の我が家に来て、「有難う、お地蔵様のお
蔭で、すっかり答が書けた」と自信たっぶりの様子を見せておりました。そして孫は首無地蔵に参り、
一晩泊って西宮市に帰りました。
昭和五十四年三月二十日T大学合格発表の日「十二時発表合格万歳」の電報が届きました。「只々お地
蔵様のお力です、お力です」というのみでした。
昭和六十一年11月孫は四十三ケ国の博土課程丈の人が集まり、京都において研究授業を外国語でしっ
かりと話が出来たと申しておりました。昭和六十三年三月三十一日には米国プリンストン大学へ研究授
業のため成田を出発、平成元年三月帰国、T大研究科原子力工学専攻博士課程を終了し、博士号を戴い
ております。現在T大在籍のまま、T社の総合研究所に入所しています。西宮市の娘は孫と私の名義で
お地蔵様に寄付致しました。又座布団もお供えしました。私はいつまでもお地蔵様にお参り出来ますよ
うにとお祈りするのみです。
私はいつもお地蔵様のお姿が頭に浮かび、夢もよく見ます。ある時私の家の玄関の下駄籍の上にお地蔵
様がお坐りになった夢を見た日、大阪にいる娘がいきなり電話をかけて来て「今、尾道駅にいる。これ
から府中のお地蔵さんに連れて行ってあげるから支度をして待っていなさい」といった。それこそ夢か
と思うほどうれしくなりました。娘は日帰りで大阪に帰りました。
一生懸命にお地蔵様にお祈りしておりますので、直接良くお蔭を戴きます。私はあちこち体が痛みます
が、その都度おとなえをしばらく致しますとすっかり良くなります。有難いこと限りがありません。
むかし、加入していた町の婦人会の私の親友が、ふとしたことで手首が折れ、三ケ月入院されていまし
たが、中々なおらずお家が農業なので農繁期に寸時帰宅されて、鍬を持っただけで手がふくれ上る有様
でした。私が腫れた友人の手を握り、「おんかかかびさんまえいそわか」と五回となえては
「御調郡御調町のMです。お地蔵さんありがとう、この手の腫れが引きますよう、お蔭を下さいませ。
ありがとうございます」
と言いつつ二十分間位、何回も一生懸命に腫れた個所をさすってあげました。翌朝早く家に伺うと、「
あらKさん、すっかり治りました。腫れも引き、痛くもありません。貴女の手でさすって下さったのが
よかったのですね」と大喜びされました。
111
「私の手がよいのではなく、首無地蔵さんに長年お参りさせて戴きますので、すっかりお地蔵さんが私
の体にお知らせ下さるからでしょう。私も足や腰が時々痛むことがありますが「おとなえ」をして手で
痛む所をさすっていると少時の間で治ります。
首無地蔵様、ほんとうにほんとうに有難うございます。
平成元年十月十八日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十四、全身の関節リューマチが治る
(山口県柳井市)Y女(65才)
昭和四十五年頃私はリューマチにかかりました。悪性の関節リューマチにて体全体の関関節が痛み苦し
み通しでした。両手両肘、膝、脚の著しい障害で、両手指は全く機能しませんでした。山口県より障害
度二級と認定されておりました。勿論歩くことも出来ず一年半ほど入院しておりました。その後は家か
ら通院しておりました。当時体重は三十Kgでやせ細った体でした。
私はお大師様の信仰を何十年も続けております。昭和五十五年五月七日の夜のことでした。家で一心に
般若心経をあげておりました。そのとき首から上は観音様のような美しい人にお会いしました。首かざ
りもはっきり見えました。夢ではありませんでした。これを霊姿というのでありましょうか。その前岩
国の友達から府中市の首無地蔵尊の霊験著しい話をきき参拝しようと思っていた矢先でした。
霊姿を拝した二日後五月九日に友達と府中市に参りました。電車で柳井市より三回ものり替え、十二回
も駅のホームの階段を上り下りし、歩けず電車にも乗れなかった体で府中市に行けたこと自体が不思議
でした。
地蔵堂に参り拝んでおりますと全身が一度に軽くなりました。体が透きとおったような状態で、言葉で
は言い表わせない気持で感激のきわみでした。体の痛みは全然なくなっていました。長い間の苦痛が一
挙に消え去っておりました。そこで首無地蔵に一生参る決心を致しました。柳井市の自宅に帰るまで丸
で夢見心地のようで楽に帰れました。
これまで全関節がいたむ為に痛み止めの注射三千五百本も打って来ました。それが原因で股関節の骨が
ぼろぼろになり、手術をしなければならなくなっておりました。昭和五十六年十月六日広島市の日赤病
院に入院し大手術を受けることになりました。手術後は金属を脚に埋め込むことになりました。骨の手
術なので大変心配でした。全身麻酔がかかる直前でした。お地蔵さまが手術台に来ておられました。前
と同じように観音さまのようなお姿でした。
「全麻(ぜんま=全身麻酔)まえ仏に会えてまかせる心」という句が浮んで手術を医師にまかせる心境
になると同時に意識不明に落ち入りました。
「Yさん手術は終りましたよ、部屋に帰るんだよ」という看護婦の声を聞いて意識が戻りました。手術
は六時間もかかり、牛乳ビン八本分の血液を注入されたとのことでした。そして一ケ月後に退院しまし
た。手術前が二十日間で、同病の患者でこんなに早く回復して退院した患者は、病院始まって以来とい
うことでした。皆んな不思議がっておられました。門を出るとき副医院長以下医者全員に見送って戴き
ました。それ以来まがりなりにも普通の生活に戻ることが出来ました。字も書けるようになりました。
目方も二十Kg増えて五十Kgとなりました。本当に有難く感謝の日々でございます。
家に木の地蔵仏と観音様の額を別個にまつっております。朝四時に起き、五時まで心経を百巻となえま
す。昭和五十九年七月二十九日までに九回首無地蔵に参っております。その殆んどタクシーです。柳井
市から府中市まで五時間、参万五千円かかります。そして以後数々のお蔭があり、お地蔵さまの導きで
百人以上救っております。その中の一つを付記します。
112
私の近くに親思いの子がおられましたが、或る日突然家に帰らなくなりました。親が心配されたので夜
中の十二時お地蔵さまにお伺いを立て、早く帰るように祈って上げました。すると「ノイローゼ一歩手
前である助けてやれ」とのお告げがありました。それから三日目にその子はひょつこり帰って来ました
。私はその子に気が落ち付かぬので勤め先で悩みごとがあるのであろうと申しますと、どうしてそれが
解るのかとおどろいていました。上司とのトラブルに悩んでいるとのことでした。私がお大師様とお地
蔵様の力で助けてやると申しておきまして、柳井八十八ケ所を巡りました。一周四時間かかりますが、
私の体で廻れるのが不思議な位でした。十九番札所は地蔵菩薩でした。そこで
「大師山掛声高くこだまして
足は貸すぞと大師はげます」
の歌が自然に出て参りました。寺に着きますと住職がびっくりしておられました。貴女のその体ではじ
ゅんれいは無理であり、さぞ難渋しておられると思い迎えに行こうとしていた所ですと、おっしゃられ
ました。巡礼が終って間もなくその子の会社でのトラブルは見事に解決しました。上司の気持がころっ
と変わったということでした。
柳井市日積にSさん(九十六歳)がおられます。若夫婦が親戚の不幸があって通夜に行っている間にS
さんがいなくなられました。探すと田圃の稲の中に転んでおられました。硬直していた体を救急車で病
院に運ぶと内科でボウコウに管を通したとき血が出ました。その息子夫婦は私に助けを求められました
。私は助けてあげますと即座に断言しました。そして一心こめて百巻の心経を上げお地蔵様にお願いし
ました。お医者は四十八時間しか生命がもたぬ故親戚を呼ぶように言われたと夫婦は心配しておられた
が、私は大丈夫集めなくてもよろしいと言い切りました。Sさんは血のかたまりが出て、おしっこまで
出る様になりました。お粥もたべられるようになり、息子夫婦はSさんが死ねば責任上自分達も自殺し
なければならぬといっていたのが、一度に三人の命が助かったことになります。この話は今日から二十
日程前の出来ごとです。
私はお地蔵様に救われ導かれ本当に幸せです。先の不安も何もありません。
首無地蔵尊に心から感謝申し上げます。
合 掌
昭和五十九年七月二十九日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>15
(15)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十五、喘息がおさまる
(広島市安芸区)S女(80才)
私は五十六年の冬持病のぜんそくでK病院へ入院し、色々治療はして戴きますものの毎晩の様にせきが
出て、お部屋の方も寝かせませんでした。首無地蔵様を一生懸命拝んでいますと知らぬ間に眠れる様に
なり、それから二週間後退院出来本当に有難く感謝致しています。一度お地蔵様へお参りし度く思って
います。
合 掌
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>16
(16)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十六、主人の安楽往生
(山口県玖珂町)A女(63才)
私は主人がN製鋼退職まで苦楽を共にしていました処、妹娘がパーキンソン氏病にかかり、治療の甲斐
もなく帰らぬ人となり一時は何も手に付かず、主人も口には出さないものの何となく、やけ気味で退職
113
後も酒で気をまぎらわしている様でした。その中、二回目の年金を受給したころ肝臓ガンで入院し、医
師より三ケ月の生命といわれ又ガックリしました。毎日看病のあけくれでした。普通ガンは痛みが毎日
あるとの事ですが、首無地蔵様にお願いしていましたところ、本当に余り痛みもなく、話ながらあの世
の人となりました。
丁度二人まで亡くし、一時は途方にくれていましたが最近首無地蔵様へ参詣しました。二人共苦しみも
なく他界させて戴きましたのも、お地蔵さまのお蔭と感謝しています。有難うございます。
合 掌
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>17
(17)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十七、足のむくみ治る
(山口県熊毛町)T女(65才)
私は五十六年十一月に病院へ入院しました。医師の話に依りますと、原因不明です。右足が膝から足首
までさけん許りむくみ、どうする事も出来ず検査々々の明けくれでした。その中左肩より手首まで真黒
くなり筆舌に表せられないショックでした。すぐ隣のベッドに入院されていたYさんに導かれ、首無地
蔵さんを一生懸命拝んでいましたら、嘘の様に黒みも取れ、足のむくみもいくらかとれ次の病院へ転院
出米、本当に感謝致して居ります。
合 掌
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>18
(18)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十八、父の病の回復
(山口県柳井市)S男(46才)
私はこれ迄余り信仰には関心がありませんでしたが、五十九年の五、六月まで四回首無地蔵様へYさん
とお参りしました。それ迄これといった不幸もなく平凡でしたが、父が病院で助からないという診断で
ショックを受け、地蔵様へ参詣し社務所へお供えしタオルを頂き地蔵様に一生懸命お願いし、それから
帰り一週間位し元通りに父は生き返り本当に有難く感謝して居ります。これからも続いて参詣する覚悟
です。それに家内の洋裁が忙しくこれまた有難い事です。
合 掌
昭和六十三年四月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>19
(19)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
十九、脈拍の中断がなくなる
(山口県柳井市)M女(37才)
私は昨年Yさんとお知り合いになり、親子共にYさんのお宅へお邪魔する様になり、平素よりお大師様
首無地蔵様のお話は伺っていましたが、此の度二男が一分間に六回も脈が止まり二、三日前(去る五月
二十三日)検査して頂きました。その前Yさんに指導して頂き首無地蔵様にお願いしていましたところ
、階段を四十六回上り下りしまして、その間一回脈が止まっただけで入院する必要もなく、本当に首無
地蔵様に感謝し、一度お詣りする心算です。
母親は小児マヒで歩けなかったし、手も不自由だったのが首無地蔵様のお蔭で歩けるようになりました
。
合 掌
114
昭和六十年六月記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>20
(20)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十、腰痛がいえる
(山口県柳井市)S女(71才)
私は二男三女の母として苦労はしましたものの余り病気もした事のない私でした。ある時突然腰痛で起
きられず、今は亡き主人に食事の世話から何から何までして貰い、何といっても気の毒でたまりません
でした。Yさんは戦争中よりのお知り会いの方ですので、首無地蔵様のお話を聞き一生懸命お願いして
いますと、何時となく起き上れる様になり、本当に有難く感謝致し、以後腰痛の苦しみはありません。
本当に有難うございます。
合 掌
昭和五十七年冬記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>21
(21)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十一、子のノイローゼが治まる
(山口県柳井市)M女(52才)
私は五男一女の母として家事と農業に追われ、毎日多忙で御座居ます。或る時次男息子がノイローゼに
なり、手がつけられず、精神病院へ入院中です。余りつらいのでYさんの導きで首無地蔵さまを一生懸
命拝んでいましたら、一ケ月二ケ月とだんだん正常になり、お盆までには退院できる見込みとなり、本
当に感謝感激です。今迄暗黒の家庭が一度に明るくなり、他の子供もお母さんの体に無理はさせずに、
長生きをして頂くという様になり本当に生き甲斐を感じています。
合 掌
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>22
(22)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十二、母の口が利けるようになる
(山口県岩国市)N女(60才)
私は五十六年秋、母が突然倒れ、半身不随の身となり、年金もなく、姉妹夫婦代わる代わる病院へ行く
許りでした。口も利けなかった母が毎朝首無地蔵様を拝み、一生懸命お願いしていましたら、南無大師
遍照金剛と一気にお唱えする様になり、お部屋の者も親類一同わっと感涙しました。本当に有難く感謝
致し、一度お詣りし度思っています。
合 掌
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>23
(23)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十三、歩行困難の腰痛が楽になる
(岡山市)O男
私は腰痛で歩けず大変困っておりました。たまたま山陽新聞に首無地蔵の記事が載っているのを読み、
大勢の人が参りお蔭を受けておられるのを知りました。
115
昭和六十二年一月二十七日、首無地蔵世話人あてに参拝経路図をお願いしておりましたら、折返し地蔵
さまのしおりなどを同封した親切な返事を戴きました。脊髄の三番と四番の間に軟骨が出て痛く歩けな
い状態で一ケ月程入院しておりました。大分歩けるようになったので、地図をたよりに府中市に参りま
した。
二回目に首無地蔵参拝を終えて帰途につきましたところ、福山駅のホームに降りた時、腰のいたみがよ
くなったのに気付きました。それまで持っていた杖が不用になりました。我ながら不思議に思いました
。こんなに早く良くなるとは思ってもいませんでしたので、嬉しさは言いようがありませんでした。や
っぱり地蔵さんのお蔭の話は本当でした。再発もしません。一度お医者にお見せしたら、驚いておられ
ました。それからお礼をかねて月参りを一年間致しました。霊験著しいお地蔵様です。悩める多くの人
々がお蔭を貰われるよう祈ります。
合 掌
平成元年十一月八日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>24
(24)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十四、臑(スネ)の痛み癒ゆ
(福山市)H男(71才)
昭和五十五年頃迄、臑の痛みに困っておりました。特に左側がひきつけて、歩くのに足をひきずってお
りました。勿論正座することも、あぐらをかくことすら出来ませんでした。座っても足を出したままの
生活でした。この状態が三年続いておりました。
昭和五十六年頃でした。首無地蔵の話は有名になっており、近所の人も大勢参っておられました。私も
何かに引かれるような気持で参拝しました。
お地蔵様を拝み、歩いて府中駅に向っておりました。駅に着くまでにひきずっていた足がいつの問にか
治っているのに気付きました。たった一回参っただけなのに、早お蔭をもらい驚くやら有難いやら、も
ったいない限りでした。それっきり治ってしまい再発しません。
有難いお地蔵様の石像を家に祀るつもりでおりましたが、後の者が祀るかどうかわからず、却って困る
のではと思い諦めました。首無地蔵の境内に奉納しようと申し出ましたが、場所がないということで果
たせず、地蔵石が買える位の金を御礼に奉納し、世話人に処置方をお一願いしておきました。
私は俳句と絵に趣味がありますので、
小春日の善相ばかり地蔵祭
の句につくしんぼうの絵を添えて額にして寄進、宗務所の応接間に掲げて戴いております。
有難うございます。
合 掌
平成元年十一月八日記
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>25
(25)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十五、動脈硬化がなおり貸した土地が返る
(岡山県笠岡市)M女(65才)
オンカカカビサンマエイソワカ
私が首無地蔵様に最初にお参りさせて戴いたのは、主人の父の十三回忌の法事の帰り途の時で平成元年
十一月五日の日でございました。
116
つづいて十一月十八日には電車で、お連れの人と一緒に参拝させて戴き色々の願い事をして帰りました
。主人が亡くなってから次第に体が太って来て今年の十一月迄に九kgも肥えてきておりました。太り
過ぎの故か、胸が苦しくお医者様に診てもらいました。動脈硬化との診断で、息切れがひどく「ニトロ
」という薬をもらっておりました。氏神様の七十五段の石段も息切れがして者れませんでした。その時
でございます。
お地蔵様のお力添えのィ蔭で、或るお力から浅口郡里庄町浜中の「サンモカール」の先生で、東洋医学に
よる整体をなさっているT様を紹介して下さいまして、毎日整体に通っておりました。そして十一月二
十五日の朝「首は無いけど美男美女、さわるこの身に美男美女、首は無けれど目も見え耳も聞え鼻も口
も利くぞ
思う心に思われて、この身の地蔵にそそがれし香りは永久に輝く。サンモカールの香りと共に宇苗を走
る。十二支えとの方々も我が身と同じ、煙たなびくとまやにも、潮の香りと愛でられて、御身を守って
やるぞいなあ、『オンカカカビサンマエイソワカ』三回唱えよ、願いは思いのままよ、なあサンモカー
ル、なあみよこ、いとしき我が子等よ、よくここ迄きたよなあ・・・涙が流れておろうが・・・」
その頃私は右目から自然にホロホロと涙が流れていたのです。ここ迄言われた時私はあまりにも勿体な
くて「お地蔵様 お地蔵様」と感極まって大声を出して泣き伏しました。
又「・・・決して急いではならぬぞよ、言葉たくみに乗せるなよ、言葉たくみに乗るな、口車、よき子
等よ、又早く帰ってこいよ、骨身にしみたこの香り背中のコリも取れたよう。太ってえらかろうが、人
々を助けてやってくれよ(サンモカールの整体の先生の事です)
私の手となり足となり、全身で体当たり、必ず見届けておるぞよ しっかり
頑む又こいよ。どんな人でも辛抱して腹も立たうが頑張れよ、四季さまざまな景色と共に、人の心も色
々あるよ、南無大悲大慈の観音様は、心の中は日本晴れ、心狭き者助けてやってくれ。これからも色々
の者達が来るぞ、繁盛を祈っている。
又こい、又こい、身も心も軽かろうが体いとえよ、お前達の笑顔、話声はみんなつつ抜けよ。タクサン
モーカル、其の名の如くよき言葉をもたくさんもうけてくれよ。甘言に乗るなよ、心せよ。別れはつき
ぬが・・・アーアサッパリした。では又 のうサラバ」
十一月二十九日の四時四十五分でした。そして十一月三十日朝六時四十分には
「おいでおいでみなおいで、お手手つないでみな帰れ、あの子もこの子もつれてこい、お手手つないで
輪になって、みんななやみをもってこい、どんどんもやしてやるわいな、どんなに大ぜいきたとても、
ちっともわしは困らない。どんどん助けてやるわいなあ。雨が降っても、風ふき雪になろうとも、試練
の海は荒れるとも、其の中くぐって来い、来い、来い。前はわし
後はダルマの姉さんなれど(サンモカールの先生)このダルマ七転八起き縁起ダルマに見寸られ、ダル
マを持って帰ってくれ、必ず両手で潰してくれよ、必ず笑って受け取れと、よくよく申し伝えてくれよ
。あの子も可愛いい、朝から晩迄身を粉にして働いて、喜んでくれる人は少ない。助けてもらって喜ば
ぬ者がどこにおろうか?それをジッと耐えていて、毎日毎日よく働くぞ、あの子の身になってやってく
れる者を珠していたのよ、ミカンを供えてくれるとか、ジッと待っておるぞよ。紀州の殿様ミカンの国
よ、必ず嫁に迎えてやるからそれ迄修業しておれよ、とよくよく伝えてくれよなあ。ミカンは一ケだけ
むいで供えてくれよなあ、すぐたべられるから では又。」
十二月一日五時三十分には
「七転八起のダルマさんに(サンモカールの先生)よく礼を申してくれよ。むいでくれたミカンは一ケ
と言ったのに
みんながむいでくれて有薙う。母なる私はみんな大ぜいの子供達にわけてたべさせました。みんな喜ん
でたべた・・・
一度あしふみしてこい。なん等かの形で証拠を見せてやる。見せても分らぬ其の時は、一度三度尋ねて
こい。阿波の徳島のお鶴でさえ、尋ね尋ねて母を探して歩いて、やっと巡り会えたではないか。心に迷
いが出た時は又帰ってこいよ・・・。」
117
十二月三日十一時二十分には
「なやみを
なやみとせず、わしにまかせ今度まいったら線香を買って帰れ」と申されて・・・色々の秘伝もおしえ
て戴きました。
十二月四日六時五十分には
『・・・みなそれぞれに顔も違う。心も違う。すっくと立ちし地蔵も、少しは座って見たくなる。立っ
たり坐ったり、寝たり起きたりしてみたい。旅行もしてみたい。私は石なり。お前は軟らかい五輪。天
体を大切にいとうて其の日を喜んで、とんだりはねたり兎の様に、雪の野を走るウサギも、雪の上を歩
く七地蔵、今夜は今夜はどこにとまろうか・・・。」と申されましたので
私も必死で、「むさくるしい所ではございますが何卒当家におとまり下さいませ」
「何卒お酒召し上って下さいませ」
地蔵様は「居心地のよいところで休ませて戴きます」
十二月五日六時五十八分
「・・・そなたのへそから中へ入りこんでやる。母子の別れとなるところ。でも決して油断すな、充分
気をつけよ。オンカカカビサンマエイソワカ。今後そなたに気分害する様な事を言った時はすぐわしを
呼べ。必ず返答はしてやる。では休めゆっくりと。」等々色々おしえて戴きまして、身に余る光栄でご
ざいます。そして御地蔵様で戴きましたタオルをサンモカールの先生にお届けさせて戴きました。先年
から皆々様に
「このタオルは肌守りのタオルです。でもお地蔵様は首が無く大変なのですから、自分の願い事のみた
くさんしてはお可愛そうです。五体満足な者でも、次から次へと願い事許りせられたら肩がこるでしょ
う。よくよく相手の事を考えて、少しでも感謝の気持で、身につけて守ってもらって下さい。又少しで
も喜ぶ様な事があれば、一度はお参りなさって、労をねぎらって深く御礼を申し述べて下さい」
と必ず有難いお言葉を副えて渡されます。又戴かれたお方様達は病気がよくなる人、気分のよくなる人
、感謝の気持がわかって来られたお方等々たくさんおられます。又私も、知人の方々も、タオルをいつ
も身につけさせて戴いております。私はお蔭様でお地蔵様のお力と、サンモカールの先年の治療を戴き
、只今では七十五段の石段も、ルンルン気分で上つたり下つたりさせて戴いており、又タオルを戴かれ
ましたお方様の中には、仲の悪い嫁姑さんがおられ、嫁さんがお地蔵様のお蔭話をされながら姑さんに
タオルを上げられました。姑は感激し、今ではとても喜ばれて、仲むつまじい嫁姑となられました。又
立ち通しで、皆々様の悩みを一人でお受けになっていらっしやいますお地蔵様が、おいたわしくて、サ
ンモカールの先生から戴きましたものでお慰めさせて戴きました。大変お喜び下さいました。その時は
、私の扇がコリコリとなって、首もまわらなくなりますと、早速先生が、私のコリをほぐして下さり整
体して下さいます。その時はお地蔵様は人払いをなさって、一対一でさせて戴き、終ると礼拝の人々が
どっと集まって参ります。全く不思議と申す以外には言葉もございません。
私は樽工場を経営していた父が亡くなり、土地と工場を他人に貸しておりました。土地が必要となり、
十一年前より返還を要求しておりました。借主は言を左右にして仲々返してくれません。立退料を支払
う、交換地も出そう、引越しの手伝いもしよう等々あらゆる条件を出しても、一向に聴いて下さいませ
んでした。仕方なく裁判にかけ、判決も下り、いつでも強制執行できる状態になっても出てゆかれませ
ん。お地蔵様にお参りさせて戴きましてより、真剣にその土地に立って、御真言を唱え祈っておりまし
た。
突然十二月十一日、先方様より「平成元年一月二十日迄にはお返しします。二十年の長い間あたたかい
温情に接しながら、立ち退きの際には御心痛をおかけ致し申しわけございませんでした」と有難い不思
議な御挨拶を戴きました。あんなにもむずかしく、腹寸たしい日々が全くたった一ケ月間の御祈願で、
返還になったのは全く全くお地蔵様のお蔭でございます。立退料も払わずに済み、裁判関係のわずかの
経費で二十年来の土地は無事解決致しました。お地蔵様のお力の俸大なすばらしさには全く頭が下がり
ました。
118
お多忙なお地蔵様の御身を案じられて、サンモカールの先年も色々と御心痛なさって、心霊的にお頭(
つむ)を出して上げたい。少しのお手助けが出来ればと、それのみ毎日毎日お考えでございます。其の
御心が通じましたのか十二月十八日にお参りさせて戴きました、その夜の七時半のことです。お地蔵様
のタオルと一緒に戴きましたお地蔵様のしおりを御神前にお供えして朝夕御祈願申し上げておりますが
、この晩、御尊顔を拝顔奉りました。そのお顔は金色に光り輝き、大きな石耳で、左向きになられて、
端麗なはっきりとほりの深い、御尊顔で、全身に濃い紫色の法衣をまとい、大勢の合掌したお方がいら
っしやいます。又、両手には何かお宝を持たれておられます。サンモカールの先生はお地蔵様のお体の
中に右側に男子、左側に女子がいらっしやいますと申しておられます。私もその女のお方が、赤ん坊を
抱っこしておられ、へその緒から長いベールの様なひもか出て、男女を結び、親子仲良く御在位してお
られる様に見え、又時々お二人はズボンの筋目の通った洋服を着ておられるお尊姿を拝見させて戴いて
あります。
又サンモカールの先生も、一度はお地蔵様に御尊顔にお参りになっておられ、度々皆々様の喜びのお金
のお礼を私に言付けて下さいます。
本当にお地蔵様とサンモカールの先年の御対面は不思議な出会いでございました。この不思議な有難い
御縁を大切に、大切にさせて戴きながら、毎日毎日を暮らさせて戴く覚悟でございます。どうぞ師走も
押し迫りました。御多忙のお地蔵様の御身何卒おいとい下さいまして、御送日遊します様に遠く笠岡の
地よりお祈り申し上げております。お世話下さいますお方様も、何卒御身御自愛遊ばされまして、よろ
しきお正月をお迎え下さいませ。長々と乱筆にて申しわけございません。何卒お許し下さいませ。又早
くお参りさせて戴きます日を一日千秋の思いで待っております。
おんかかかびさんまえいそわか
あらあらかしこ
合 掌
平成元年十二月二十二日
首無地蔵尊様
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第14部>26
(26)『地蔵大菩薩礼賛記』第14部
二十六、ぜんそくが癒ゆ
(岡山県笠岡市)O女(67才)
私は五~六年前ぜんそくで苦しんで居りました。風邪を引くとたいへんしんどくなり、咳が二~三時間
も止まりませんでした。
近所のM様が、首無地蔵様へお参りして、タオルを受けてまいられ、私も頂戴して早速肌身に付けさせ
て頂きました。
又其の前より浅口郡里庄町浜中に居られます「S」の先生に整体して頂き、その上に首無地蔵様のお力
頂き有難い日々をすごさせて頂いて居ります。最初はテレビを見て笑っても、胸にこみ上げて苦しく、
困ったのに、今日では前の事は何もなかった様に、楽しく働かせて頂き、有難く日々感謝させて頂き、
厚く厚く御礼申し上げます。おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
昭和六十三年四月十八日
Book 15: Introduction missing?
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
一、失明寸前を救われる
119
(広島県福山市)S男(68才)
私は広島県福山市田尻町の生れであるが、若い時から絵画を志ざし、日本画四条派の門田兵五郎画伯に
入門、その後十二年を経て上阪、日本南画院、直原玉青画伯の門をたたき、指導を受けた。苦難の末、
独立し南画家として郷里福山市に帰り、各画展に出品したり、水墨画の講師として多忙の日を過してい
た。しばしば中国各地に外遊し、取材旅行を重ねていた。病前、夜の二~三時頃まで絵を描いていた過
労の為か、突然目がちらつき始め、眼前を星がとび散るように見え出した。高熱も出た。眼科医に二~
三度診察を受けた。「失明の恐れあり」手術を要するとの宣告に恐くなり辛抱していた。
目は不自由ながら忙しく画を描き続けていると、夜セけに突如目が開かなくなっていた。折しも昭和五十
七年四月六日、午前三時頃、突然雷鳴とどろき、空からザーツと音がしたと思うと、あたり一帯が急に
明るくなり、仰臥している眼上中空に、足は見えなかったが、白衣を着たやさしい顔の地蔵尊が現われ
たまうた。
『あなたの眼は命より大切なもの。眼を直してやるから府中へ来い。その代わり是非とも首無地蔵堂に
献画せよ』
という声が聞こえ、地副の風合も指示され、昇華するように姿を消された。府中市の石像の首無地蔵は
見たこともなく、全く知らないのに姿をお見せになったことが不思議でならなかった。
「目を直してやるから、赤いじゅうたんを地蔵のうしろに掛けてくれ、火事が起ったので地蔵の背中の
辺が熱いから」
というお告げも耳に残っていた。妻が府中市から嫁いで来ている息子の嫁に、実家に電話を掛けさせた
。地蔵堂のすぐ後に掛けてあった沢山の奉納の折鶴が焼けて大騒動している最中とのことであった。そ
れで地蔵尊が赤いじゅうたんをかけてくれという意味が判った。夜中雷鳴と共に光った光りで私の目は
何ともなくなっていた。
驚き入った私は、身命をとして夜を徹し、脳裏に浮ぶ地蔵尊のお姿を画いた。横二尺×縦四尺の画布にじ
ゅうたん色の赤い唐草模様を画き、その中央に首無地蔵尊を絵書いた(巻頭絵)。これを持参し、府中
市を訪れ、地蔵堂を探して、地蔵尊の後の板壁に立てかけた。途端に目がはっきり見えるようになった
。長年掛けていた眼鏡もはずしてしまった。
今この絵は地蔵会館の二階の間に飾ってある。失明寸前の眼がこの夜を境に薄紙をはぐ様に快癒し以前
よりよく見えるようになった。そして若返った。私は真実「れいけんあらたか」の八文字を体験し、眼
のみならず、全身にみなぎる活力が湧出する思いで画道に精進している。
地蔵堂に参詣し判ったことは、四月五日の夜、地蔵尊安置のすぐ後の建物が焼失し、その光景は恰も地
蔵尊が炎の中より昇華された様に見え、指示された地副は赤どんすで唐草模様と告げられたのも尤もだ
ということである。その奇縁に驚き、一夕霊の尊さに感じ入った。
昭和五十八年六月、坂出市の玄画展の会場で、突然筆がもてなくなり、持っても落ちる状態になった。
早速引き返し新市町のT病院に入院した。脳こうそくとのことであった。これも大事に至らず、二週問
で退院した。この度も地蔵尊の導きのあったことと思っている。
現在、老人大学の水墨画講師や文化センターの講師、弟子の指導等、毎日席の暖まる暇がないほどであ
るが、身体は益々充実している。これもひとえに地蔵尊のお蔭と感謝しています。
願わくば私と同じく悩める人々に、地蔵尊の広大なる慈悲の御手により救われ給わんことを・・・・
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
(平成四年一月十七日)
(編集者注)
昭和五十七年四月五日(月)、夕方五時頃、地蔵本堂の裏手に奉納してある千羽鶴小屋が全焼し、隣接
の大聖不動明王の須屋が半焼した。地蔵礼拝中の目撃者の言によれば、小学一年前後の子供がローソク
120
の火にて千羽鶴につけ火したいたずらという。地蔵本堂は裏側板壁が煙でくすんだ程度で済んだ。不動
堂はすぐ取りこわし、五月六日新築。千羽鶴小屋はガラス壁で囲いをし、以来中に入れないようにして
ある。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
二、脳内出血が治る
(大阪府吹田市)Y男(62才)
昭和五十六年一月、大阪府豊中市市役所の仕事を終えて帰る途中、突然に苦しくなり路上に倒れました
。意識もうろうとして路に横たわっているとき、幸いにして通行人が警察に通報して下さって、救急車
で病院に運びこまれました。そのまま八ヶ月入院して手当を受けておりました。入院して間もなく、府
中市出身のMさんが、郷里府中市に首無地蔵が出現され、多くの人が参拝しておられ、霊験あらたかで
あると教えて下さいました。
これを聞かれた市役所の同僚が四・五名で府中市へ参られ、首無地蔵で肌守りのタオルを受けて帰って
下さいました。この地蔵タオルで毎日頭をさすったり、枕カバーにして寝ておりました。発病後三ヶ月
目頃より次第に病状も目に見えて好転して来ました。そして歩き始めました。以後急速に回復し、昭和
五十六年八月八日に退院致しました。退院後すぐ府中市へ行き、首無地蔵様に御礼を申し述べました。
これ以来毎年欠かすことなく参拝しています。退院後二年半ほどして復職し、二年半ほど勤めて定年で
市役所を退職しました。体調も好調にて、娘や嫁のお産のときにもお願いに参り、どちらも安産でした
。一家七人そろってお礼に参りました。
首無地蔵尊はいうまでもなく、代参して下さった市役所の友人達に心から感謝しております。
首無地蔵様有難うございます。
(平成二年十二月十五日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
三、狭心症がなおる
(鳥取市)T男(85才)
私は鑿泉(さくせん)工業所を設立し、ボーリングの仕事をしています。
昭和五十六年の或る日、突然に苦しくなり、病床の身となりました。闘病生活中、五十六年の八月二十
九日、NHKテレビが首無地蔵の全国放送をしているのを見ました。大勢の人が参り、多くの人がお蔭
を貰っておられるのを知りました。早速その翌日の朝、鳥取市を出発して府中市へ参りました。首無地
蔵の坂道は急で、しんどかったが付き添って来てくれた子供三人が支えてくれて登りました。地蔵堂の
前で一心に拝むと忽ち気分がよくなり、病いも直ったような気になりました。あまりにも早い御蔭に霊
験のあらたかなことを身をもって知り有難い極みでした。参道側の食堂で昼食をとりました。食事がお
いしく、病気中食べなかったものまで食べるので、側にいた子供はおどろいて見ていました。
帰ってすぐ鳥取市の日光バスに私の御蔭話をし、首無地蔵様の霊力のすばらしさを熱っぽく説明しまし
た。バス会社は心動いて私が話した十日後に参拝募集して、バス一台で府中市へ参りました。その半年
後には、応募者が増え、バス三台で運行するようになりました。
当市の同業観光会社、日の丸バスがこれを見て、私を呼び事情を詳しく聞きました。日の丸バスも大い
に意動いて、米子市で大々的に首無地蔵参拝募集を行いました。日の丸バスは二台を運行し始めました
121
。私はバスに便乗して、乗客に私の首無地蔵の霊験談を縷々(るる)説明しました。NHKが首無地蔵
と一緒に放映していた府中市七ッ池の青目寺にも参拝しました。
その後、何人もの人を案内して、府中の首無地蔵へ参りました。私は五十八歳のとき、名古屋市の北に
ある春日井市の曹洞宗道了山大雄院の了覚師に師事していました。豊中市の牛乳会社の井戸水が不足し
ているので、了覚師に願い、霊感で掘削地点を当ててもらい、ボーリングした所一三九mで豊富な水が
湧き出ました。この道了山の信者が多く、私が鳥取市の会長をしており、これら信者を大勢つれて首無
地蔵に案内参拝しました。更に知り合いの、兵庫県村岡町のK様(地蔵大菩薩礼賛記第十四部参照)に
首無地蔵を紹介しました。K様は首無地蔵へ参られ、勿ち素晴らしいお蔭を頂かれたことは前回の礼賛
記に詳しく書かれています。村岡町より毎年二~三台の団体バスで参拝されることも同礼賛記に付記し
てあります。
三年前狭心症で倒れて二ケ月入院していたことがあります。医者から絶対安静を言い渡されていました
が、私は死んでもよいから首無地蔵に参るといって、起き上り決死の覚悟で車に乗りました。友人のY
氏が心配してついて来てくれました。首無地蔵に参った途端に元気になりました。府中市に来るときは
車の中に寝たままでしたが、帰りには起きていました。もう体は何ともありませんでした。何と素晴ら
しいお地蔵様でしょう。多くの人を救われ、大変で御座いましょうが、首無地蔵尊様、益々御力を発揮
下され、悩める人を御導き給わんことを。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
(平成二年十二月十六日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
四、糖尿病・ヘルニヤ・胃かいようの治癒
(広島県福山市)S男(46)才
タクシーの運転手をしていた昭和五十三年十月、膵臓(すいぞう)を患い、入院直前首無地蔵のお蔭を
頂き、全治(昭和五十四年一月)した霊験談を、地蔵大菩薩礼賛記第九部に掲載して頂いている。そめ
後困ったことがあればお地蔵様にお願いし速やかにかなえられている事例は数眼りない。人様の病気で
苦しむ様子を見兼ねて、代って参拝し、祈ってあげ治った例も数多くある。その中二・三の例を次に紹
介し、いかに首無地蔵尊の霊力の強いかが、お分りになると思う。
(その一)末期糖尿病患者の治癒
福山市山手町在住の工場主の奥さんが、糖尿病で苦しみ、F市民病院に入院しておられた。病状は悪化
し、鼻血が出て止まらない。鼻に栓をしたら、下から出血し始めたので婦人病と間違われたらしい。健
康体の人の血小板は三七〇〇~三八〇〇あるといわれ、奥さんのは、四〇〇~五〇〇までに減少してい
た。血管も切れていた。医者は死の直前の状態であるといっていた由である。
当家では臨終も近いと見て家族全員が集っておられた。病人の奥さんの知り合いからこのことを聞いて
、私は首無地蔵の話をしてあげた。その知り合いは病人の家族にこのことを話された。病人の姉妹から
私に地蔵へ代参の依頼があった。病人の住所と名前と病名を紙に書いてもらい、それを持参して首無地
蔵に参った。
昭和六十三年二月真夜中の午前二時である。私は福山市御幸町で「N」というカラオケ喫茶を開いてい
るので、客が帰り、片付けした後でないと体が空かない。勢い午前二時になる。冬の冷え込む深夜、私
はその手紙をお地蔵様の前で読んだ。そして二十分位心経を一心に上げた。真剣に病人の治癒をお願い
した。午前二時参拝を連続三日続けた。
122
私がお地蔵さんからお蔭を貰うときは、何故か大あくびが出る。十年前、仰向けになることの出来ない
ほど痛んだ膵臓の病気が治るときも、地蔵豊から御調町へ帰る三里の間、あくびを連発した。私のあく
びはお地蔵さんよりお知らせのようである。このときも拝んでいる最中、あごがはずれると思えるほど
大口をあけてあくびを連発した。そして自分は気付かなかったが、一緒に参ってくれた妻が、自分の体
がぶるぶる震えていたといった。病人の病気が乗り移ったのであろう。そして御地蔵により綺麗に病を
払斌(ふっしよく)されたと解釈する。
奇蹟が起きた。地蔵堂に参り始めて四日目、病人の姉妹からびっくりした電話がかかってきた。四〇〇
~五〇〇まで下っていた血小板が四日目には三〇〇〇に上っていたという。信じられないことが起きた
。医者も驚いた由である。以後鼻血も完全に止まり、食欲も出てきた。目に見えて回復し一週間後には
退院された。二年半経た現在も時折道を歩いておられる奥さんの姿を見掛ける。まさしく奇蹟としか言
いようがない。地蔵尊の偉大な力に感嘆するばかりである。
(その二)髄(ずい)カンバンヘルニヤが治る
福山市駅家町に三十六歳の男性でズイカンバンヘルニヤで苦しんでおられる方がいた。私は昭和六十二
年十一月二十二白から、カラオケ喫茶を開業している故、多くの人が来店し楽しんでおられる。その中
に影の暗い、憂うつそうな奥さんがおられた。何か悩みごとがあるのでしょうと尋ねると、主人が標記
の病気にかかっている悩みを告げられた。T病院に入院中という。色々病状を聞くと主人の足が立たな
いという。私の店にはお稲荷さんと首無地蔵を祀っている。「私も御主人の病気治癒を祈ってあげるか
ら、奥さんも一生懸命になりなさい。病気になるのは何かの原因がある」といってお稲荷さんを呼び出
した。
『ろっくうさんがおられない。先ずそれを祀れ。亡くなられた御主人の父の骨は分骨されている。骨を
一緒にせよ』とお告げがあり、主人の父は泣いているとのことであった。先祖供養が足りないと申し上
げると、亡父の骨は福知山と京都に分骨している、新屋なので「ろっくうさん」も祀っていないとのこ
とであった。
私は先ず地蔵経をしばらく自分の家であげていた。最後に首無地蔵に参り病気の平癒をお願いした。平
成二年八月の真夜中の二時である。これを三日続けた。この祈祷のときは胸にどしっと強い衝撃を受け
た。これがお地蔵さんからの御知らせであった。地蔵堂で拝み始めて二日目のときである。私が地蔵を
拝んでいる時刻に、病人は急に高熱を発し、足が痛み出した由である。奥さんが首無地蔵のタオルを主
人のふくらはぎに巻くと忽ちにして痛みは消えた。一週間目には歩けるようになられた。手術をしなけ
れば治らないといわれ、手術を覚悟していた人が、手術をせずに済んだ。十月に退院され今元気でおら
れる。病気治癒を祈り始めて通算一ケ月を要しただけである。
(その三)妻の胃かいようが治る
私の妻が胃かいようになり、小指位の穴が胃にあった。医者から二ヶ月間薬を飲むようにいわれ、その
後手術をすると宣言されていた。
私はいつもの通り、午前二時の地蔵参拝を三日間続けた。お地蔵様に妻の胃の全快を真剣にお願いした
。三日日の夜、妻と参拝していたとき、痛みつづけていた妻の胃の痛みが、うそのようにぴたりと止ま
った。それ以来妻は薬を飲まない。私の地蔵様による人助けを他人ごとのように思い、半信半疑であっ
た妻も、自分がお蔭をもらって以来、地蔵様の御利益(ごりやく)を完全に信ずるようになった。
合 掌
(平成二年十二月十八日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
五、黄金の御姿を拝す
(府中市出口町)H女
123
今日はお地蔵様の初祭り、多くの方々がお蔭を戴かれる不思議な力を持っておられます。地蔵様に主人
の病気快復をお願いに、朝早くお参りする事を決心し、夜明けの薄暗い時に家をでました。
冷え込む寒さも一心ゆえ、あたりはシーンと静まり返り所々の外燈が照らすも暗い。だれも通る人がな
い道もちっとも淋しさを感ぜず口で心経をとなえ進んで行く中、ふと向うを見ると、お地蔵様のお社に
入っておられるお姿が、五〇米先で黄金にキラキラ燃え輝く見事なお姿を私に見せていただき、思わず
合掌感謝感激にひたった次第です。私はお大師様にいつもお参りしているので、美しい仏具のきらめき
は知っていますが、暗やみの中の光は口で云い表わせない程見事で光り輝くお姿にしばしば見入り、パ
ッと消えて寂の暗やみにもどるその瞬間の出来事にぼうぜんと立ち止まった私です。有難く足取りも軽
く地蔵様に参り心経を上げて礼拝して帰りました。
毎朝の日課の如く今日までもお参りさせていただいて居ります。主人のような病いは寒さが害をなし、
春めき暖かくなれば主人も楽になるでしょう。少しづつ歩くのも、たやすくなっている様ですがキッと
お力をあたえて下さり助けていただく日の近からん事を願いつつお縋りしています。
薄暗き夜明けの道に黄金の
輝く地蔵導き賜う
(平成三年一月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
六、数々の御蔭を頂いた主人の大往生
-納骨のとき鳴りし不思議な鈴音-
(滋賀県草津市)Y女(65才)
主人は昭和五十一年八月より、高血圧と心臓の治療をうけておりました。五十三年三月十九日、隣りの
吉田茂七様に首無地蔵様のお話を聞かせてもらい、さっそく二十日に二人でお地蔵様にお参りしました
。府中駅よりタクシーに乗り、お地蔵様の前で下車し、畠の中の地蔵堂の広場の土を踏んだ時、心臓が
スーツとして身体が軽くなったと聞かされ、びっくりしました。それ以来、三ケ月に一度はお参りさせ
て頂だく様になりました。
おかげ様で昭和五十五年四月一日、主人は元気で四十年間大好きだった国鉄(JR)を定年退職し、元
気一ばい、手に色々の証書を持って帰って来ました。先祖様に二人でお参りしてお礼を言いました。私
は「お父さん長い間ごくろう様でした」と主人にお礼を言って、二人で喜びの涙でお祝いをしました。
これからは色々と好きな事をしていつまでも長生きしましょうと話し合いました。
翌日からは、主人のすきな魚つりをして遊ぶと言って、毎日魚つりに行っておりました。四月十六日朝
、元気で出かけたのに、運悪く自動車にはねられ、四ケ月入院、私はさっそく首無地蔵様にお参りに行
きました。世話人様に色々とお地蔵様のお供え物をいただき持って帰り病院へ行き、
「お父さんお地蔵のお供え物です」と言って口に持って行った時、主人は
「今お地蔵様が三っ口の中に小石を入れてくださったのでおなかが一ぱいでなにもいらない」と言われ
ました。私は言葉が出ませんでした。私はただ「オンカカカビサンマエイソワカ」ととなえるばかりで
した。胸元があつくなり泣けて来ました。お地蔵様のありがたさに手を合わすばかりでした。四ケ月で
無事退院、それからも三ケ月に一回は府中市の首無地蔵様にお参りさせて頂いておりました。
昭和五十六年十月二十二日夜二時、突然倒れ救急車で病院に運ばれました。院長より左半身脳梗塞と言
われました。身体は動けません。私はお地蔵様にお願いに行くべく、朝五時に病院を出て府中市のお地
蔵様にお参りしました。世話人様よりお水やお線香の灰を頂き持って帰り、主人の体を一生懸命なでな
がら「オンカカカビサンマエイソワカ」と二人でとなえおねがいしたおかげで、一日一日と良くなって
124
来てくれました。三ケ月目に頑の手術も五時間かかりましたが、無事終りました。手術の前日も府中市
までお参りさせて頂きました。びっくりするほど良くなり、五ケ月で退院、院長もYさんは不思議な程
良くなるのが速いと言われました。退院後一ケ月温泉へ行きやっと半身はだめでも杖を持って歩く様に
なりました。電車にも乗れる様になったので、首無地蔵様にお参りしました。世話人様も大変喜んで下
さいました。本当に主人はお地蔵様のお力を頂いております。
この様な身体で九年間、何の心配もなく二人でアメリカ外国旅行も出来ました。が、平成元年五月十九
日、二度目の発作が来たのです。散歩に行って気分が悪くなり、草むらで私にだかれて意識がなくなり
ました。学校帰りの女の子に救急車をおねがいして、病院についた時には、百パーセントだめだと言わ
れました。
「お地蔵様おたすけ下さいませ」と一生懸命おねがいしました。三日目、京都の病院に移せる様になり
ました。五月二十二日からは主人は救急治療室で病気と戦いました。世話人様にお手紙を出して代って
お地蔵様にお願いしてもらいました。そして色々とお地蔵様のものを送って下さいました。
「お父さんにはお地蔵様が付いていて下さる、頑張りましょう」と、口もきけない主人に話しながら般
若心経をとなえました。四ケ月日、九月二十一日、院長より小室に移してあげましょうと言われました
。
『今日からは私が看護婦になります、お父さんがんばってね』と、口もきけない主人に泣きながら一生
懸命毎日シーツの交換や、おしめの取り替えをしました。主人はなにもわかりません。なんとかがんば
りました。お地蔵様のお札をベッドにくくりつけて、タオルで頭から足先まで、毎日さすりつづけまし
た。口は利けないが、十月より車椅子に乗り、廊下を廻る様になりました。目はキョロキョロしている
が、口は利けません。
言葉のない主人に色々と話しながら、一年一ケ月が過ぎました。私が疲れてきたのか、夕方になると三
十八度の体温になりましたが、私が倒れては、お父さんが可愛そう、頑張りましょうと、自分に言い聞
かせながら看護しましたが、五月三十日診察しすぐ入院と言われました。だが、お父さんが気になりま
す。意識のない主人に
「お父さん、私明日から急性肝炎で三階の病室に入院する、時々お父さんを見に下りるから三人で頑張
ろうね」
と言いました。その時主人が鼻をすすって泣き出したのです。私はびっくりしました。お父さんの顔を
なでながら泣きました。六月一日より子供三人にお父さんの世話をしてもらっていました。丁度、三週
間の二十一日の四時すぎ、長男がお父さんの容体が悪くなったという病院からの電話があったと言って
子供達は皆来てくれていました。私は看護婦に付き添われ、主人の病室に行きました。
「お父さん、がんばりや」と言った時、聞こえたのか、目をパチパチ動かしていました。
手足はもう冷たく固くなっていました。もうだめです。私はお父さんの手を持って般若心経を三回とな
え、
「オンカカカビサンマエイソワカ、お地蔵様、お父さんはもうだめです。どうかお地蔵様お父さんを彿
様のそばにおねがいします。」と一生懸命お願いしました。
お父さんの心臓がとまりました。先生が残念ですと言われました。お父さんは何の苦しみもない、ただ
寝たままのやさしい顔で、仏様の様に見えました。お父さんは死んでもお地蔵様のお力をいただいてお
られる人です。死後のお父さんの手を合わす事が出来ないので、看護婦がひもで手をくくりました。姉
娘が、悪い事をした人でもないのに、手をくくられては可愛そうだ、と言って紐をほどいたので、手が
離れました。私は又お地蔵様におねがいしました。
「オンカカカビサンマエイソワカ」と、四・五回となえて夫の手をさすっていると、不思議に手がやわ
らかくなって、合わせられる様になり、数珠がかけられました。お葬式も三百五十人の参列で、お寺さ
んも七人、楽器の人が五人と、にぎやかに送って頂きました。納骨を済ませて、佛様の前で、お寺さん
をかこんで親戚姉弟と子供達で分骨しました。私がお父さんののどぼとけを手に持った時です。佛様の
鈴か、それとも巡禮の鈴の音か、大きく二回チリーンと鳴ったのです。お寺さんがびっくりして、佛様
125
の方をふりむきましたが、だれも鈴を鳴らした人はいません。皆顔を見合せるばかりでした。お寺さん
は
「綱義さんはこれで極楽に行かれる旅に立たれた」と言って下さいました。お父さんのお棺にはお地蔵
様のタオルで縫った着物をきせてあげました。きっとお地蔵が案内して下さっている事と思います。私
もお寺さんの話を聞いて安心しました。ほんとうにお地蔵様ありがとうございます。主人や私達家族ほ
ど首無地蔵様のお助をいただいた者はないと喜んでおります。首無地蔵様ほんとうにありがとうござい
ます。これからも子供達や私どもをどうかお守り下さいませ。
おんかかかびさんまえいそわか
府中市の首無地蔵堂へは遠いので家の中でお札に毎日お茶とお水をお供えして、朝夕お参りさせていた
だいております。ほんとうにありがとうございました。
主人の看病づかれでしばらく体調をくずしていましたが、ようやく回復し、平成三年一月二十六日お地
蔵さんに様々の御蔭を頂いた主人の御礼参りに、府中市の首無地蔵に参りました。長男夫婦が車で運転
してくれ、草津市より府中市まで六時間を要しました。私は昨年の三月頃より、右脚がリューマチにか
かり、すねが疼(うず)き、曲げられませんでした。何回か水も抜きました。首無地蔵に参ったときも
なおうずいておりました。参拝を終り、家に帰りついた途端に足の痛みがなくなりました。子供達が嘘
でしょうといって信じられない顔をしていました。階段も平気で上下出来るようになりました。これも
また不思議でなりません。お地蔵様や亡くなった主人が守って下さるのであろうと有難い気持で一杯で
す。重ね重ねの御蔭にただただ感謝するばかりです。
合 掌
(平成三年一月二十六日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
七、子供が交通事故より助かり私の肝臓癒ゆ
(広島県沼隈郡沼隈町)K男(48才)
十年前、子供が交通事故に遭った。その日は無性に府中市の首無地蔵に参りたくなり、午前中参拝した
。昼頃帰宅しますと子供がバスの下敷になったが、奇跡的に助かったことを知った。
子供は歯医者に行くため、自転車で朝家を出た。途中で診察券を忘れたので取りに帰った。家の近くで
折から進行中のバスが目の前で止ったので、自転車で横切った。バスの運転手は乗客の下車に気を取ら
れて、子供が横断しているのに気が付かなかったようである。バス停で停車するのを忘れて、停車場の
かなり前方で客を降ろしたらしい。乗客を降ろしてバスを発車させたが、バスの前部で変な音がしたの
で、ドアの調子が悪いのかと思って再度ドアの開閉をしてバスを動かした。が運転手は変だと思いバス
を止める寸前に、後輪のタイヤの前部より子供が転がり出て来た。すぐ近くの病院に担ぎ込み調べて見
ると、別に体に異状はなく、頭を二針縫う位で済んだ。側で見ていた人の話によると、子供はバスの下
に巻き込まれ、四・五回横転して出て来たという。タイヤに引かれていたら命はなかったであろう。軽
い傷で済んだのもお地蔵様の守護のお蔭と信じている。
平成二年八月、私は体に変調を覚えて、国立病院で診察を受けた。肝臓が悪いとのことで一ヶ月入院し
た。肝臓機能検査値が非常に悪い。GOTの正常値は○~三五であるのに、私の検査値は八〇〇と出た。
まさしく異常である。肝臓が極度に悪化しているシグナルである。
それから治療を続けたが、幾度計ってもこの異常値は下らなかった。思い切って首無地蔵に参拝した。
そして肝臓の治癒を真剣にお願いした。その後の検査で肝臓機能検査値は二五位になった。まさしく正
常値の範囲である。以後何回計っても正常の数値を示した。極端な好転ぶりに医者は首をかしげ驚いた
。超料学的な現象が起きた。一ケ月日には退院した。
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私は首無地蔵様の不思議な霊力を信じる。人が何と理屈をつけようとも、体が楽になり、病気がなおれ
ばよいのである。信仰で病気が癒えることはこの上ない有難いことである。
ひたすらお地蔵様を賛嘆し礼拝する。
首無地蔵菩薩様有難うございます。
合 掌
(平成三年五月四日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
八、地蔵様の姿を拝し肝臓の好転
(愛媛県松山市道後)卯年の女(63才)
私は体の不調に悩んでおりました。特に肝臓が悪く、肝機能の数値は健康体で三十五までというのに、
私ははるかに多く一〇〇以上でした。三ケ月程入院しておりました。その後は退院して五年~六年間通
院しておりました。薬も連用しておりました。が一向によくなる様子は見えませんでした。
平成二年八月の末、Iバスが、府中市の首無地蔵参拝の募集をしておりました。病状がはかばかしくな
いので、つい引かれて参る気持になり応募致しました。ところがバス会社は急に運行を中止しました。
仕方なく、地蔵世話人のSさん宅に電話し道順を詳しく教えて貰いました。参拝すれば地蔵のいわれや
御蔭詰も話して下さるとの親切な導きに、平成二年八月二十九日一人で首無地蔵に参りました。Sさん
から色々と御話も聞きました。僅かな奉納金でしたが、その御返しにとタオル(肌守)を頂きました。
御守も頂いて帰り、日夜、肌身離さず持っておりました。外出のときも必ず肌身につけておりました。
参って二週間後の朝五時頃、御地蔵様の御姿を夢に鬼ました。顔かたちあり、目鼻立ちととのい、お顔
は真白でした。着物も白っぽく微風が吹いていて、衣がゆれ、銀色がかったブルーの色に輝いておりま
した。何ともいえない神々しいお姿でした。同時にお地蔵様の後方に祀ってある御不動尊も現状のまま
の姿に見えました。
普通見た夢はすぐ忘れてしまいますが、不思議にこの御地蔵さまの夢は忘れず、今なお綺麗だったなあ
とはっきり覚えています。このことがあって後は、身の周辺が好転しているように思えます。自転車に
乗って通行中、しばしば自動車に追突されたり、追突されそうになっていましたが、そういうことが一
切なくなりました。自転車乗車中も、何か安心感のようなものが支配し、不安がなくなりました。
薬も飲むのを止めました。体の調子もかえってよくなりました。お地蔵様がすべて守って下さっている
ようです。これから毎月地蔵参りを続ける積りです。
首無地蔵様有難うございます
合 掌
(平成三年六月一日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
九、痔と耳の揮いのが癒ゆ
(広島県尾道市)Y男(47才)
府中市の首無地蔵の名前は有名であり以前から知っていました。
昭和六十二年頃より、痔の疾患と耳の痒(かゆ)いのに悩まされておりました。医者の治療は受けてお
りましたが、はかばかしくなく二年を経過しておりました。近所の人より首無地蔵の霊験あらたかなる
ことを聞き参って見る気になりました。
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平成元年三月始めて参拝しました。そして真剣に、痔と耳の治癒を御願い致しました。毎週日曜日には
必ず参拝しました。参り続けて今年になり病状が好転しているのをはっきり意識するようになりました
。現在では両方とも何ともなくなり、医者通いを止めております。
子供も時折り連れて参っておりました。お蔭で大病もケず希望通りの高校に入学することが出来ました。
妻も十四・五年間脱肛で苦しみ、手術はしましたが完全には治っていませんでした。妻も一緒に参って
いる中、平成二年の夏頃から調子がよくなってきました。誠に有難いお地蔵様です。今後も毎週の参拝
は欠かさない積りです。
首無地蔵様有難うございます。
合 掌
(平成三年六月一日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十、母の耳が突然聞こえるようになり大往生
(福山市駅家町)S男(75才)
私が首無地蔵を知ったのは十二年ほど前のことである。お地蔵さんを下った府中町の街中に親戚があり
、たまたま親戚に来ていたとき、多くの人が参っているので、何があるのであろうと釣られて一緒につ
いて行った。その当時は掘り出された丘の畑の隅に安置してあり、現在の境内にある礼拝堂が建ちつつ
あった。皆一生懸命に拝んでおられ、大変お蔭のある御地蔵様であるとの話も耳に入ってきた。
八十三歳になる母が、昭和五十二年に足を骨折した。足を手術したが完全には治らず歩行に不自由して
いた。母の足を楽にしてもらえるようにとそれから地蔵参りが始まる。同時に一家の安全をも祈願して
いた。
毎月のlに参り、事務所で御供えをすると、地蔵タオルを御返しに頂いて帰った。従って地蔵タオルも増
えていった。母はこのタオルでチョッキを作り、自分で着て家で首無地蔵を信仰していた。地蔵タオル
はなお余るので、タオル四~五枚で甚兵衛羽織(じんべいはおり)を作り、或はチョッキにして、尋ね
てくる年寄友達に進呈して喜ばれていた。
五千円ないし壱万円をお地蔵様にお供えすると、備前焼などの湯飲みをお返しにもらった。最初に頂い
た湯飲二ケは母が使用したが、以後頂く湯飲はすべて知人、友人親戚に贈呈した。
母は人様から聞いた話は他人にしゃべらなかった。特に秘密なことは他の人に絶対に洩らさなかった。
口の固い母ということで、他人は自分の家人に話すよりも母にしゃべった。母は高齢になるにつれ、次
第に耳が遠くなっていった。耳元で大声を出さないと聞えなくなった。近所の人は母に話しても知らぬ
顔をしているので、面白くなく段々話さなくなっていた。母が八十八歳になったとき、連れて首無地蔵
に参った。お地蔵様を拝みながら「有難う、有難う」と言いながら泣き出した。何かに感動したのであ
ろう位に思っていた。
それから家に帰り、離れた場所から何気なしに「おばあさん」と呼ぶと「ハイ」と返事をした。何の気
もなく返事をしたのであろうとその時は思った。ところがそれ以後母を呼ぶと即座に返事をする。完全
に耳が聞こえるようになっていた。これには私は驚いた。私だけではなく、もっと驚いたのは近所の人
である。最初は精巧な補聴器を耳につけたのであろうと思っていた近所の人も、補聴器なしで聞えるの
を知って忽ち評判になった。この事実を目の当りに見て、私は首無地蔵の霊験をまざまざと知った。お
地蔵様のお蔭を他人ごとのように思っていた私は、この時以来、本当に信ずるようになった。
私は真宗である、般若心経と地蔵経と不動尊の呪文を一層身を入れて唱えるようになった。
昭和六十三年、脳こうそくであった母は九十三歳で大往生をとげた。誠に見事と言える往生であった。
意識はずっとはっきりしていたし、苦痛の表情は全く見られなかった。臨終の朝八時から、息はかすか
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であった。手足も全く動かすことなく、いつ息を引きとったのか医者にも分らなかった。こういう安楽
往生の仕方は医者も珍しいといった。この大往生ぶりがまた近所の評判になった。
母の死後も、毎月、地蔵参拝は欠かさない。妻や子供も連れて参る。私の体は丈夫な方ではないが、こ
れ以上悪くもならず、不自由もしていない。妻は心臓の調子がおかしくなると西の方、首無地蔵堂に向
い拝んでいるとすっと楽になるという。
多くの人々を救いたまう首無地蔵尊、有難き御地蔵様、益々御力を発揮下され、世の苦しめる人々を救
いたまわんことを・・・
有難うございます。ありがとうございます。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
(平成三年七月七日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十一、倒産後の立直りと大腸ガンの妻の回復
(広島県福山市)S男(46才)
福山市駅家町のM氏は縫製業を営んでおられたが、七年前に倒産した。その後、小規模ながら縫製の仕
事等をしておられたが、何をしてもうまく行ってなかった。M氏は私の経営するカラオケ喫茶によく出
入りしておられ顔なじみであった。当初はM氏が倒産しておられたことは全然知らなかった。何とはな
しにM氏の浮かぬ類が気にかかり、ある日、「何か考えごとをしておられるのでは?」とぶしつけに質
問をした。
「いや何も考えていない」との返事が返ってきた。
「いやしているにちがいない。白状しなさい」
と更に追及すると倒産していることなど、その日は半分ほどしゃべられた。一週間ほどしてまた聞くと
、苦境をありのまま全部話された。当店に来られるたびに大酒を召しておられたので、やけになってお
られたことは察していた。億の負債があり、家や夫の状態をM氏の奥さんが心配しておられた。心痛の
あまり奥さんはガンにかかっておられた。奥さんは拝み屋のところにも足を運んでおられた。
M氏の告白をきき、私は事業上のアドバイスをしてあげた。話の中で私が首無地蔵に参り、大変なお蔭
を頂いたこともしゃべった。M氏は話を聞きながら半信半疑の様子であった。M氏も方々霊験のあると
いう場所に参っておられる。
M氏一家を救おうと決心し、首無地蔵のしおりと、おふだを祀ってあるわが家の神様棚を拝んでいると
、M氏の先祖の霊が全部出て来た。M氏はT家で生まれたが、M家に入った。T家には子供がおらず断
絶するので、M氏の子供(長女)をT家に養女にやった。M家が倒産したので、M家の仏壇を生家のT
家に預けた。よってT家の先祖はM家出の娘がお守りしている格好であった。更に家に祀ってあるお稲
荷さんを拝み呼び出すと「M氏は自分の家の先祖祭りはせず、T家の先祖の供養ばかりしている」
というお告げが出た。このことをM氏に伝えるとM氏はびっくりされた。店が潰れたり、妻がガンに犯
されるのは先祖が邪魔をしているのである。仏だんが両家で入れ替っているのに気付いておられなかっ
た。先ず先祖供養をしなくてはならぬが、仏だんを両家とり替えねばならない。私はM家に代って、M
家の先祖にお断わりを書って、首無地蔵にM家の不運の好転を御願いし始めた。真夜中二時の地蔵堂へ
の参拝である。三夜連続M家の先祖に断わりつづけて、首無地蔵にお願いした。例によって一日、二日
目は地蔵堂で祈祷中大あくびが出た。深夜の参拝者でよく顔を合せる人が、たまたま居合せて、私が大
あくびをしながら拝んでいる姿を見て
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「あくびをするとお地蔵さんがそっぽを向かれますよ。水でも呑んで目を覚ましてから拝みになったら
」と親切まじりに忠告してくれた。
二日目にはもうあくびは出なかった。先祖が安心されたようである。願掛け三日間の初日は平成三年六
月十四日の日曜日であった。その前日六月十三日には福山病院で、奥さんの大腸を切ると宣告されてい
た。六月十日の診断のときに、大腸から肝ぞうにガンが転移していることが分った。私は地蔵祈願満願
の六月十六日まで、手術をしないよう強く申し上げていた。
祈祷初日の六月十四日の夜、奥さんの腹がひどくにがった。そしてコールタールのような油状の真黒な
便が出た。それっきり腹の痛みは止った。私は手術の予定日を聞かされたその前の三日間(十一、十二
、十三)も拝んであげていた。そして十三日に病院に様子を見に行ったわけであるが、それから一層入
念に後の三日間を拝んだのである。医者は六月十七日に手術をした。だが肝ぞうはきれいで、ガンの症
状は消えていた。腸を二十cm切り取った。取った腸をまっ二つにさいて見るとガン細胞は完全に溶け
て無くなっていた。黒便が出たときなおっていたので手術しなくてもよかったことになる。医者はただ
驚くばかりであったという。更に不思議なことに手術中血が出なかったことである。大量出血に備えて
、輸血の準備はしてあったが使わず仕舞いであった。六月十六日、見舞に行ったとさ奥さんは腹に地蔵
タオルをまいておられた。
手術後に点滴を始めると発熱した。点滴をやめると熱が下がる。医学の常識を覆すことばかり生じた。
大手術だったのに回復ぶりが普通とはちがい、ぐんぐんよくなり、これまた医者のおどろきであった。
抜糸は十日目が普通であるのに、奥さんの場合一週間目に糸を抜いた。十日目には普通の食事に戻られ
た。手術後一ケ月が経つが注射もせず、入浴し散歩もする。元の健康体と変らない。
さて主人の方も萬事よい万に回転してゆく。債権者に対して、いつまでも放っておいては良い芽は出な
い。頭を下げて詫び、土地があるのだからこれを処分して負債の返済にあて再起した方がよいと勤める
。
七百万円の負債を有する債権者の家へ、M氏に私が同道して負債を整理する旨、事情を話した。債権者
の社長は、百万円の返済でよいという寛大な返事が返ってきた。
保証協会には何千万円もの借入保証がしてあった。M氏の土地はすべて借入金の担保に入っており、六
社が抵当権の設定をしていた。入り組んだ抵当のため、抵当権を外すことが発かしく、且つ先祖代々の
土地を手放すことをためらっていた。七年間も借入金の返済を怠っていたため、保証協会は障害金とし
て金利を上げていた。協会にかけ合い、金利一四%を普通金利に戻し、三筆合せて七%の金利に了承し
てもらうことが出来た。元金全額返済を条件に担保抹消の了解も得た。残るは一社のみであるが、これ
もめどは立っている。土地売却の件は知り合いの某氏に話をつけてあり、担保さえ抜けば売却して、全
部借金を返済してなお余剰が出る。
糸のようにもつれていたM氏の負債も返済のめどが立ち、新規まき直しで、事業再開の曙光が見えてい
る。
御地蔵様は、不治といわれるガンを直し、苦しんだ商売の立直りに素晴らしい力を貸し賜われた。人間
業ではとうてい出来ない。有難い限りである。
合 掌
(平成三年七月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十二、子宮ガンの兆候消える
(広島県御調郡御調町)T女(75才)
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私の娘が長野県上伊那郡辰野町T家に嫁に行っています。今から三年程前、婚家の姑が子宮ガンらしい
と医者の診察を受けたと娘から電話を受けました。私はかねてより首無地蔵を信仰しており、度々参拝
し、数々のお蔭も頂いています。長野の先方様には黙って、早速首無地蔵に参り、Tの母の病気の治癒
を卸祈り致しました。般若心経を一巻上げます頃、突然に地蔵尊が御堂の中に、御姿を御見せになりま
した。それは美しい女性の姿でした。瓜ざね顔でおちょぼ口をきりっと結ばれ向って右側にちょつと首
をかしげておられました。大層綺麗な清々しいお顔でした。心経の三回目を唱え終るころ、丁度テレビ
のスイッチを切ると映像が遠のいて消えるように、お姿は地蔵石像の方に消えてゆかれました。私は御
地蔵様の霊姿を見たのは始めてであり、何ともいえない感激でした。
誠に神々しい有難い御姿でした。
その後で長野の娘に聞くと、姑の病状はガンではなかったとはっきりと医者は申したそうです。最初は
医学的に何らかの兆侯が見えたからこそ医者は疑いを抱き、それが御地蔵様に祈ることにより、その兆
候を完全に消されたと私は思っています。御地蔵様の霊姿を拝した人は即座に病状が消えると聞いてお
ります。地蔵世話人の方も医学的にどう考えても解せない治癒が起きていると申されます。
しばらくしてTの両親が一緒に長野より、府中市の首無地蔵に参られました。御主人はその前に転んで
足を痛められ、足に金を入れておられました。首無地蔵に参られて足が何となく軽くなったようであり
、よくなったような気がしたと申されました。
私は一町余の田を作っています。もっとも重労働の部分は息子にしてもらっていますが、少々無理をし
ても不思議に体がつづきます。田仕事をしながら、時々、府中市の方向、東を向いて首無地蔵を拝みま
すと、又元気が出て来て、仕事が続けられます。高齢で、三十八kgの体重なのによく仕事が出来ます
ねと、近所の人に不思議がられます。
私は家に居ても、神仏を拝み、廊下に出て首無地蔵を拝みます。お蔭で病気もせず健康に過しています
。お蔭をよく貰いますが、以前は時々罰もあたりました。戦時中大和地方の七社巡りをしたとき、全身
にはろせが出てかゆくなりました。何か神様の気にさわることをしたらしい。おんばら米(饌米)を返
しなさいと忠告され、御米を返しますと途端にかゆみが収まった体験もあります。
御地蔵は罰を当てたまわず、私の願いをよくかなえて下さいます。有難い御地蔵さまです。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
(平成三年八月二十二日記)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十三、ぜんそくが軽くなる
(神戸市須磨区)A女(17才)
私の祖母が神戸の銭湯でよく出会う人がおられました。顔なじみとなったその人に祖母が家の病人のこ
とを話しました。その人は「広島県の府中市に良いお地蔵さんがおられるので参って見なさい。多くの
人が参りお蔭を貰われている」とすすめて下さいました。地図を書いてくれたけれども府中市へ行く見
当がつきません。その人は「私が連れて行ってあげましょう」と親切に案内して下さりました。それ以
来道順が分かり祖母は一人で度々参るようになりました。祖母は家の者がよくなるようにと一心にお祈
りしていたようです。
私は十年前よりぜんそくの発作に苦しんでおりました。四季の変り目には決って発作が起き、二週間か
十日位続いておりました。横になれない日々の連続でした。ある時など、息がつまりそうになり、急い
で車で病院に行き、手当を受けました。吸入器で薬品を吸い込みますと発作は治まります。がこれも一
時的でした。三年前、発作が起きて階段も上れないほど苦しかったとき、祖母は一生懸命に首無地蔵に
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お願いしてくれました。その為多少楽になったようでした。首無地蔵は子供のことをよく聞いて下さる
と聞いた祖母は、私を連れて府中市に行きました。私も祖母と一緒に三掃ほど参りますと胸がすっと軽
くなりました。苦しい発作はそれ以来無くなりました。それからは私の方が無性に参りたくなり、祖母
をさそいます。祖母は私の弟にお礼にと首無地蔵境内に青のぼりを献納してくれました。
平成三年八月二十六日、晩夏のぶり返した暑さの続く日、急に私はお地蔵さんに参りたくなり、祖母に
たのむと、急に言われても新幹線の乗車賃はないといいます。母にねだると心よく金を潰してくれたの
で、その翌日早速祖母と首無地蔵に参拝しました。地蔵境内に足を踏み入れますと、心がなごやかにな
り落ち着きます。世話人の方が応接間に招いて下さり、色々お地蔵様のお蔭話をうかがい益々うれしく
なりました。帰りには地蔵水も頂戴し、抱えるようにして帰りました。祖母は神戸より毎日西に向い首
無地蔵を拝んでいます。お茶が沸くと必ずコップに汲んでお地蔵さんに捧げます。祖母は感謝の気持で
毎日過しています。お蔭様で家の者は皆健康です。
首無地蔵様有難うございます。
(平成三年八月二十七日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十四、家中に平安が戻る
(福山市駅家町)未年の女(48才)
私の家では男子が次々と死亡している。主人も四ち五年前ガンで亡くなった。家の中は内輪もめがして
仕方がなかった。死んだ主人の同級生が、福山市森脇のカラオケ喫茶店の常連であった。店主のS氏は
、首無地蔵様より大変なお蔭を頂かれた方というので、主人の同級生は私の家のことを、S氏に拝んで
もらうよう依萌された。S氏は早速店の神棚に祀ってある首無地蔵を拝んで下さった。「わが家には蛇
の神様がおられたが、それをおそまつにしてきた。白蛇様をまつりなさい。家内は円満にゆくであろう
」とのことであった。
そして更にS氏が別に自分の祀られているお稲荷様を呼び出された。お稲荷様も同じ様に蛇の神様を祀
れといわれ、蛇の入る所がいる、白蛇の須屋を作れとの知らせであった。位が非常に高い故、笠岡市の
道通さんのお札を受けて祀るがよかろうとのお告げである。早速、笠岡の道通神社に参った。祈祷して
もらうと
「位が高い故、瓦屋根の須屋では似合わない。銅板の屋根の須屋を買うがよかろう」と告げられた。そ
こで銅版の須屋を求めに高松の最上稲荷に参り、買って帰宅したのがその日の夕方四時半であった。何
でもその日の中にしてしまわないとお蔭がないと知らされているので、仏具も買い求め須屋を完成した
。花と線香を立てお供えをした。更に塩と米と、白蛇の大好物である卵も供えた。ろつくうさんも祀り
、家の中を塩で清めた。それっきり家の中のごたごたは収まった。喧嘩のたねがなくなり嫁も素直にな
り、文句のつけようがなくなった。以来府中市の首無地蔵信仰をかかさない。
おんかかかびさんまえいそわか
合
掌
(平成三年九月二十二日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>15
(15)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十五、メニエール病が癒ゆ
(広島県福山市)M女(41才)
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私はメニエール症候群という奇妙な名前の病いに苦しんでおりました。メニエール病とは悪心・嘔吐・
めまい・耳鳴り・難聴が発作的に起き、反復する慢性の内耳疾患のことで、内耳の血行障害や、自律神
経障害などにより起ると医学的に説明されており、フランスの医者メニエールの名から名付けられたと
いわれます。
偏頭痛がして、横になればめまいがします。じっとしていてもめまいがすることがあります。そして睡
眠が十分にとれません。真直ぐに歩くとめまいがするので、横になって歩くなどなさけない有様でした
。病院ではこの病気はなおらないと宣告を受けておりました。この症状は年に三回位おきて、それが一
週間位つづいておりました。最近ひどい発作が起きて十日間続いておりました。その一ケ月ほど前に、
カラオケ喫茶「Y」という店に入りました。お地蔵さんでお蔭を頂いた人が「Y」の店の神棚にお供え
をした「のし紙」が貼ってあるのが目にとまりました。そのいわれを店主のS様に尋ねますと、首無地
蔵様は大変な霊験があり、地蔵様より無数のお蔭を受けた人がおり、私もこうして首無地蔵を祀り毎日
拝んでいるとのことでした。お地蔵様のお話を聞いて、早速首無地蔵に参りました。S様の力添えもあ
って三日目にはさすがの難病から解放されました。四日目には物すごい深い眠りにおち入りました。今
までの不眠を取戻したかのような寝込みようでした。
首無地蔵に参った帰りに、駅家町の県道沿いに「くるくる寿司」というすし屋があります。そのあたり
に来たとき車の中でじっとしておりました。気持がスーツとしたのです。それから先に申しました深い
ねむりに入ったのです。三日間ねこみました。目覚まし時計をかけておりましたが、時計のリンなど全
然耳に入りませんでした。血圧が低かったのが正常に戻るなどのおまけもつきました。奇妙な病もすっ
かりよくなり血色も大変よろしいです。
首無地蔵様誠に有難うございました
(平成三年九月二十二日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>16
(16)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十六、両足すねの痛みが治る
(広島県三原市)T女(68才)
二年前より両足のすねが突然痛み始めました。医者は「使い痛みであり、擦れていたむのだ、杖を突い
て歩きなさい」と忠告して下さったが、杖を突くなど不格好なので我慢して歩いていました。すねは段
々変形し始めました。
新幹線に乗った時など、下車するとき、早く降りないとドアが締まるので「ごめんなさい」と言いなが
ら他人様の肩を借りて下りました。荷物は持って貰うわけにゆかないので、苦労しながら下車しており
ました。
丁度半年ほど前、首無地蔵の霊験あらたかなことを聞いておりまして、参拝し何がしかの御供えをし、
お返しの地蔵タオルを頂いておりました。
平成三年十一月四日の夜は急に冷え、ふと ノ 入っても首のまわりが寒いので、以前頂いたお地蔵様のタ
オルを思い出し、それを首にまいて寝ました。夜中に目が覚めて起き上りました。これまで起き上ると
き、足が痛いので這い這いしながら立ち上っておりましたが、この夜はスパッと起きなおっておりまし
た。あれほど痛かった脛が何ともありません。薬を呑んだわけでもないし、手当てもしていません。以
前医院で膏薬サロンパスを貼るようにもらっていたが、二~三回貼っただけで止めています。何故治っ
たのか不思議に思いながら考えていますと、お地蔵さんのタオルを首に巻いて寝たお蔭であると思い当
りました。急に有難くうれしくなりました。何回坐って立ち上っても顔をしかめながら立つことがなく
なりました。自動車に乗り坐って、立つときびっこを引いていたのもなくなりました。
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十一月六日、早速お礼に府中市の首無地蔵に参りました。足が痛くなくなったので、楽に参拝出来まし
た。子供や孫のために御地蔵様の御加護を頂くよう祈り、奉納して、タオル四枚を頂いて帰りました。
しばらく地蔵様へ参っていないので、参拝しようと思っていた矢先でもあり、タオルを首に巻いただけ
で長い間の足の苦痛から解放されました。不思議としかいいようがありません。
首無地蔵様有難うございます。
合 掌
(平成三年十一月六日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>17
(17)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十七、肝硬変が一時持ち直す
(広島県三原市)戌年の男(63才)
私は肝不全の一歩前まで肝ぞうが悪化しておりました。肝不全は即ち死を意味します。
四、五年前より肝ぞうが急に悪くなり、医師会病院へ入退院を繰り返しておりました。すいぞうも悪く
、たんのうも悪化しており、年内の命と医者より宣告されておりました。
首無地蔵さまより大変なお蔭を貰われたMさんの兄のUさんより、カラオケ喫茶「Y」のマスターにた
のみ、首無地蔵にお願いしてもらうようすすめられましたが、その時は行く気持になっていませんでし
た。今年中にいのちが危いといわれたので、身内がさわぎ出し、その気になって首無地蔵に生命を救っ
て貰うようSさんにたのみました。
Sさんは、十一月の六、オ、八日と午前二時、三夜連続、首無地蔵に参りお願いして下さいました。祈祷
を始めて四日目より腹にたまっていた水が出始めました。肝硬変で腹にたまった水は絶対に出ないとい
うのが医学の常識とのことでした。Sさんが首無地蔵を拝んでおられた時、私の病いをなおしてやると
のお知らせがあったそうです。パンパンに張っていたお腹が小さくなり始めました。それから一週問目
に真黒な普通の大便が二日つづけて出て、お腹がへっこみ、大変楽になりました。と同時に無性に眠く
なりました。朝食をたべては眠り、昼めしをとっては眠る状態が三日続きました。お地蔵さんが乗り移
られ、変化が起きると告げられておりましたが、その通りのことが続けざまに生じました。
それから十日位経ちましたが、結果がまだはっきりしませんので、もう一日拝み直そうといわれ、Sさ
んの家に参りました。拝んで貰うと、先祖の一人が蛇を片っ端から殺しており、神様の使いしめの蛇ま
で殺しているので、そのさわりがあるといわれた。
そしてSさんは、首無地蔵、お稲荷さん、身替り観音、八大竜王を呼び出され、私の体内にふき込まれ
た。私は金しばりに会ったように身動きが出来なくなりました。お経を上げておられたSさんより、部
屋の中に入って線香を立てるように命ぜられました。金しばりの解けた私はふらふらしながら、御部屋
に入って線香を立てました。途端に体の重みが抜け、スーツと体が楽になりました。身心脱落の境地と
なり、完全に病いが治ったと思うようになりました。三・四日後、病院で精密検査をした結果、病気は
治癒している、退院してよろしいと告げられました。平成三年十一月中旬、無事退院しました。肝硬変
により腹部に溜った水が抜けたことで医者はおどろいておられました。
首無地蔵の肌守りのタオルも頂き、腹に巻くようにいわれ、ずっと腹に巻いています。退院して用心し
ながら生活しています。食事もおいしくなりました。退院後、三回、妻と一緒に府中市の首無地蔵にお
礼に参りました。お地蔵様有難うございました。
合
掌
(平成三年十二月十八日記)
(編集者注)
御本人は平成四年一月二十五日逝去された。別の症状による急逝であった。
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この時は霊的な反応はなかったという。もう少し早ければ治癒出来た霊示だった由である。平成三年の
年末は越せない医師の見解であったのが、十一月退院後二ケ月余の延命であったことになる。家人の言
によれば楽に往生されたといわれる。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>18
(18)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十八、主人の心筋梗塞が治る
(広島市中区)N女
私は広島市中区でスタンドクラブを経営しております。昭和五十四年頃、お客様が府中市の首無地蔵の
お話をして下さり、それ以来毎年参拝するようになりました。
主人が呉服屋を経営していますので、昼間は私も手伝っておりました。或る夜、私は夢を見ました。三
台の車でドライブしていて、のどがかわいたので、通りがかりの会社に立寄り水を飲ませてもらおうと
しました。その会社に暴走族がたむろしていました。突然出て来て私の連れは皆つかまえられました。
私は一人で走って逃げているとき声が聞えました。ふと立ち止まり耳を傾けますと、首無地蔵様が、私
を左の胸に抱いて逃げよとおっしやつておられました。そんなことをすると罰があたりますといって私
は二度も三度も断わりました。それでもお地蔵様は私を早く抱いて逃げよ、貴女は助かると申されまし
たので、御地蔵様を抱いて逃げました。そこで目が覚めました。
朝主人にこの夢の話をしますと、今日は何の日か分って話をしているのか。今日は呉服の展示会の日な
のに、縁起でもないことをいうと、こっぴどく叱られました。私は頭にきて、あなたは首無地蔵を信じ
ていないからそういわれるのです。私は今日はきっと良い事があると断言しておきました。
展示場で私は来客を待っていますと、いつもなら人前に出たがらないママが一番先に来て下さり、着物
を二枚と帯を買って下さいました。主人もびっくりし、この日はよく呉服も売れました。これもひとえ
に首無地蔵様のお蔭と有難く思いました。
昭和六十二年八月二十九日、主人が急に心筋梗塞で倒れました。病院で血液の循環をよくするために血
管にカテーテルを通すと腸閉塞をおこしました。主人は苦しみました。二回目も同じことで苦しみまし
た。病院の部長医師はあと三日がやまですと聞かされて私は大変なショックを受け水も喉を通らなくな
りました。
早速、ワラにもすがる思いで府中市の首無地蔵に参りました。そして一心にお百度を踏みました。その
後主人の血管は詰るし、三回目のカテーテルを通したら腸閉塞にまたなるから奥さん覚悟していて下さ
いと申し波されました。カテーテルを行う前日また首無地蔵に参りました。その日は雨でした。どしゃ
ぶりでした。友達もついて来てくれ、傘を差してお百度を踏むよう薦めてくれましたが、傘をさしては
誠意が通じず、お百度になりません。濡れてもよい、主人の病気を直して頂くんだからと、屋外に出ま
すと、雨は嘘のように止みました。一心になって境内の百度石と地蔵堂の間を百回往復し主人の病気治
癒を祈りました。
お百度を終ると又雨が降り始めました。私は毎日、主人の病気のことが頭にあるので、いつも満腹感で
食事が喉を通らず、七〇kgあった体重も二ケ月で十七kgも減っており、それに雨でずぶ濡れになれ
ば倒れてしまいはせぬかと、御地蔵様が心を配って下さり、御百度中は雨を中止して下さったとしか思
えない晴れ間でした。不思議でもあり只々御地蔵様に御礼を言い感謝致しました。
それから三回目、四回目とカテーテルを通し、主人は病室に戻って来ました。主治医は主人の腸閉塞が
心配だったのでしょう。度々部屋に来て様子を見て下さいました。懸念していた腸閉塞も全く起らず、
丸で嘘のようでした。主人の胸におさめたお守りとタオルに医師は目を止め、これはどこのお守りかと
聞かれました。私は府中市の首無地蔵様のですと答えますと、「聞いたことはある、いいんだね」と言
われました。
135
主人は腸閉塞を併発せず、病気も好転して二ケ月振りに無事退院致しました。今もすこぶる元気で働い
ており、本当に御地蔵様の御蔭を頂き有難い限りです。
現在私は流川でスタンドを営んでいますが、飲みに乗られるお客さんに首無地蔵のことを話しますと、
連れて行ってくれと頼まれます。毎週日曜日、二ケ月間にわたり色々の人を首無地蔵にお連れしました
。お連れした人でもないお客が申し合せたようにお店に来て下さり首無地蔵様に参ったと申されます。
「ママ、御地蔵さんが皆を店に集まらせて下さったのだ」
と皆さん驚いておられます。
今でも皆と一緒にお参りさせて頂いています。平成四年の元旦、午前六時に皆さんと一緒に初詣をし、
長時間、境内の斎灯火に心持よく暖まりながら事務所の開くのを待ちました。地蔵様に会いに行くのが
たのしみです。
首無地蔵様ありがとうございます。
合 掌
(平成四年一月一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>19
(19)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
十九、椎間板(ついかんばん)ヘルニヤが治る
(広島県双三郡吉舎町)T女
府中市の首無地蔵様のお話を聞かせて頂いたのは、昭和五十四年か五十五年頃、即ち発掘されて、二・
三年経った頃でございます。その頃主人は左足を患っておりました。立ち上ると、つまり足に体重がか
かると左足の膝の裏側に激痛が走り、腰を掛けると痛みが全く無い症状が続いておりました。町のお医
者で診察を受けましたところ、椎間板へルニヤとのことでした。椎間板とは、椎骨の椎体と椎体との間
にある板状の軟骨組織で、弾力に富み、椎体間の可動性を高め、クッションとして働くものとのことで
した。この椎間板の内部の髄核が背柱管内に脱出を起こした状態となり、背髄根を圧迫して、座骨神経
痛や腰痛などを起こすと「う医学的な説明でした。
医者は思い切って手術しても一〇〇%の治癒は保証出来ないとおっしやり、とり敢えず一日一回の牽引
を数日間、主人は続けておりました。だが効果が一向に現われず困り切っておりました。
その時甲山町の知人から、府中市の首無地蔵尊の霊験あらたかな話を聞かせて頂きました。藁にもすが
る思いで早速主人と二人でお参りしました。その年の十一月、毎週日曜日に参拝しました。最初の一~
二回は参道の急な坂道を登るとき、主人は足の痛みが激しいらしく、何回も歩行を止め、休み休み登り
ました。翌十二月のお詣りのとき、あの激痛が薄らぎ、歩くのがぐっと楽になったようだと主人は言い
ながら休むことなく、二百メートルの地蔵坂を登り切りました。
全く不思議という外なく、大声を張り上げんばかりの夫の喜びの表情を今もはっきり覚えております。
それからの参詣は一段とお礼と感謝の気持に変って参りました。
私は更年期障害と重なり、腰痛と強い肩こりに悩んでいた折でしたが、私も一緒にお蔭を賜わりました
。以来、差し支えのない限り、毎月一回のお詣りを欠かせません。
年に一~二回、少し主人の様子が変だとは思っても、以前のような激痛はなく、何時の間にか忘れてお
り、健康者と変りなく、共々に喜んでいるのが実情です。ただ昨年の平成三年頃から急に忙しくなり、
月詣りを欠礼する月が増えていることが気にかかり反省しているこの頃です。いずれにしましても首無
地蔵尊の霊力はすばらしく、主人の難病や私の病いを癒して頂いたことを感謝致すばかりです。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
(平成四年一月十日記)
136
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>20
(20)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
二十、足親指の痛み治る
(広島市安佐南区)N女(68才)
八年前のことです。主人の右足の親指が変色して、痛みを伴うようになりました。医者の診察では病名
は分らぬとのことでした。人様の話で首無地蔵に参れば大変お蔭があると聞いておりましたので、主人
は痛い足を引きずりながら、共に新幹線に乗り府中市に参りました。
お地蔵様に、主人の足指の痛みが治るよう一心にお願いし、宗務所でお供へのお返しの地蔵タオルを頂
いて帰りました。朝晩お地蔵様にお願いしながら、このタオルで主人は足の指をさすっておりました。
一ケ月経った頃、足の変色も次第に元どおりになり、指の痛みも無くなってまいりました。それ以来主
人はすっかり元気になりました。このままほっておいたならホ指は切断するはめになったであろうとお地
蔵様のお告げもありました。その後は出来る限りお地蔵様に参っております。
爾来、私は不思議な霊夢を見るようになりました。夢の中に、大日如来様がお出ましになったり、白蛇
が現われて私の右手を噛み、噛まれたその手で首無地蔵の全身をさすれ、特に身体が痛いときにそうす
れば痛いのが治るとおおせられました。
ある日急に腹痛を覚えたことがあります。その時臍の上を押さえよとのお告げがあり、そうしますとピ
クリと痛みが治まりました
今では病気の人を一人でも多く救えと申されます。病人の住所、氏名、病名を書いて、首無地蔵尊のす
ぐ側にある「お願いの文」箱に入れよ、必ずお蔭をやるとのお告げがありました。私が病人の「願い文
」を持参し箱に入れて拝みますと大日如来様が出られる。お力をお貸し下さいと般若心経を一心に唱え
ますと首無地蔵様が姿を現わされます。真ん丸いお顔で、ふくらみのある真黒い髪が肩上まであります
。やさしくお声もとても綺麗です。光りを帯びて後光のごとく差しています。「恐れることなく人を救
え、護ってやる。先祖も兄弟も悉く救ってやる」とおおせられます。
お地蔵様ありがとうございます
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
(平成四年一月十五日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第15部>21
(21)『地蔵大菩薩礼賛記』第15部
二十一、頭痛がなおり家運の好転
(広島県福山市)A女(72才)
四十四年間の結婚生活中、主人は胃を手術したり、半身不随になったりしまして不運な生涯でしたが、
済まぬ済まぬと私に詫びながら、あの世に旅立ちました。四人の子供をかかえて四十四年間、私は何度
死のうと思ったか知れません。
夫の看病をしながら、幼い子供を背負いつつ、商いの日々に耐えかねて四人の子供を道づれに死を決意
しました。その時でした。友人が府中市に慈悲深い首無地蔵さんがおられるから、尋ねてお願いし助け
てもらいなさいと助言してくれました。友人の声はお地蔵さんの導さの声だったのでしょう。自分をと
り戻し、思い切って府中市の首無地蔵に参りました。
137
その頃私は二十五年前、交通事故でェを負傷し、それが原因で毎日頭痛と目眩に悩まされておりました。
一家を支えるため休むことも出来ず、頭をかかえて車を運転し、商売の調味料を各店に卸して廻ってお
りました。病身な夫に仕事をさせる訳にゆかず、毎日死との闘いでした。
首無地蔵尊に我が家の不幸や、私の頭痛をなおして下さるよう真剣にお願い致しました。そして一度参
った丈で頭がすっきりしました。長年の頭痛が治ったのです。私は有難いやら驚いておりましたが、私
以上に病院の先生が驚いておられました。
私は現在七十二歳ですが、我ながら年とも思えぬ働きで、車を運転し商売に駆けずり廻っております。
その合い間を縫っては首無地頭に参拝しお礼を申し上げています。ほんとうに有難いお地蔵さんです。
お困りの方は私のよぅにお地蔵さんにすがりお蔭を頂かれますよう祈ります。自分で作ったお地蔵さん
の歌を、毎日歌いながら元気で頭張っております。
お地蔵さま有難うございます。
合 掌
(平成四年一月二十日)
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「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>1
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
一、数々の御地蔵の御利益
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地蔵尊が家に来られる
路上にてお地蔵さんを拝す
お地蔵さんのお迎え
靴を揃えて下さる
お聞き届けを光をもって知らされる
家出少年を連れ戻される
子供が授かる
大腸ガン癒える
お地蔵さんの足音
(広島県府中市朝日町)K男(80歳)
丁度十五年前の六十歳のとき、腰痛に悩んでいた。首無地蔵が出現された昭和五十二年五月、霊験あら
たかなるを聞き、苦痛をおして地蔵坂をようやく登り、午前四時、地蔵の御Oにて一心に治癒を祈り、
その日の午後三時には完全に痛みが消えていた。それ以来腰痛は起らず有難い日々を送っている。この
体験記は「地蔵大菩薩礼賛記第参部」に掲載されている。
あれから十五年、首無地蔵尊とのお付き合いは毎日続いている。首無地蔵の御姿を何回も見、お知らせ
を受け人助けも何回か行い、不思議な出来ごとは数え切れない。その中の主なものを数例列挙し、この
世に考えられない不可思議なことのあること、そして首無地蔵の霊力のすばらしさを御紹介する。
私は毎夜一時半に起きて地蔵堂に参り、二時間かけて掃除をする。府中市の街中の家から二十分位かか
る。香炉の中の折れた線香を一本一本拾い立て直す。線香立てやローソク立て、御堂のぞうきんかけ等
周辺の清掃を丁寧に時間をかけて行う。その間深夜の参拝者も数人はおられる。
不思議な出来事は、大方夜の中に起きている。
その一、地蔵尊が家に来られる
138
七、八年前のことである。独り身となった私は、夜の楽しみはテレビである。特に時代劇が好きで、俳
優の松平健演ずる、徳川八代将軍吉宗の時代劇「暴れん坊将軍」を見ていた時である。眠くなってうと
うとしていた。寝てしまっては見られなくなるので、何とか眠るまいとしていた。その時急に肩を叩か
れた。禅寺で坐禅修行のとき、ねむりこけると警策(けいさく)で肩をたたかれ眠気をさまされるが、
丁度そのように棒でピシッとなぐられた感じだった。振り返るとお地蔵さんの伸びた手が目に入ってき
た。しばらく立っておられる気配で目が覚めた。戸は締っているのにどこから入って来られたのか、入
口は開いているのかと入口の方を見て首を元に戻すと手は見えなくなっていた。全身は見なかったが肘
から先のきれいな手ははっきり見えた。お蔭でテレビを見続けることが出来た。
その二、路上でお地蔵さんを拝す
例の如く夜中の一時半に参り、掃除を済ませて朝の三時過ぎ地蔵堂を後にした。丁度五~六年前の話で
ある。深夜の府中市の街並に入り、本町の通りにあった日本電信電話公社(今のNTT)の裏通りを通
り山根の酒店の辺に来た。ふと見ると小雨のふる前方を傘をさした、八等身のものすこい別ぴんの女の
人が歩いている。この真夜中に妙齢の美人が通る筈はないがと、顔を見ようと急ぐと女性も歩を速めて
追いつけない。段々影が大きくなってゆき、真すぐに差していた傘を肩にかけられた。その傘にはっき
りと女の姿が写っている。耳かくしの髪形で、白黒でなく、カラー色の美しい姿である。傘は茶系統の
番傘風であった。水をかけられたようにゾッとしたが、恐怖を感ずる時の気持ではなく、何か暖かい、
うれしいようなゾッとした気持であった。私にはお地蔵さんがお姿を御見せになったと思っている。更
に追いつこうと足を速めると右側の家の中に入られた。気がつくと二軒共空屋で東側の家に入られた。
現在は、NTTの東隣りで、二軒共取りこわされ、今駐車場になっている。その前を通るときは必ず拝
みオンカカカビサンマエイソワカを唱えながら通っている。
その三、お地蔵様のお迎え
真夜中、眠れないで困っている時、ミシミシと音がして誰か近づいてくる気配がした。寝床のそばまで
来て足音がピタリと止んだ。と同時に全身の血が抜けたようになり、血液が下ったのがはっきり分った
。びっくりして、その反動で思わず寝床の上に体を起した。毎夜一時半には、首無地蔵に参り清掃して
いるのでお地蔵さんが迎えに来られたのであろうと思い起き上って身仕度をして出かけた。
その四、お地蔵様が靴を揃えて下さる。
夜の一時半、いつもの如くお地蔵様に参るべく布靴を履こうとして土間に降りた。いつも靴は座敷に上
る時に脱いだままにしているので、体の向きを変えて履くのが日常である。ところがこの夜に限って、
布靴は一mほど離れていて、しかも座敷を降りたままの形で揃えてあった。即ち靴の向きが変っており
、下りてそのまま履きなさいというように仕向けてあった。急いで座敷に上がり履物を蹴飛して上った
ならば不揃の筈であるが、きちんとそろえてある。戸口は閉っており誰も入った形跡はない。独身の私
以外に家に人間も犬も猫もいない。一体誰が履物の向きを変えたのであろう。こんな不思議なことが世
の中にあるのであろうか。しばらく戸惑ったが、御地蔵以外に考えられず、素直に御地蔵様の仕業と考
えて靴を履き、深夜の府中の街中を通り抜け、首無地蔵堂に参り二時間かかって清掃した。今考えても
どうしても解せないことである。
その五、願いの聞き届けを光をもって知らされる
午前一時、お地蔵さんへ参る途中のことである。府中市の商店街を抜けて有地病院の前を過ぎた頃、見
知らぬ大人が路上に倒れていた。洒に酔っぱらっていた。本山町で酒を呑んでの帰りという。福山へ帰
る道はどちらかと尋ねていた。そこで本町通りの商店街のアーケード下まで連れて引き返し、東へ向け
て歩いて行けと教えた。この深夜よっぱらってどうやって福山の方に帰れるのであろうと気になりなが
ら首無地蔵に参った。そしてその人が無事に帰られるよう祈った。
拝んで帰る途中でピカッと光った。電気の光とも違い、稲妻のような光でもなく、明るい異様な光であ
った。
私はお地蔵さんが、あのよっぱらいを導いて無事に帰されたのだとの確信をもった。次の体験例から同
じようなことがあるので一層信じている。
139
その六、家出少年を連れ戻さる
少し以前、他人の子供を十五・六年間預って守りしていたことがある。その母親がアルコール中毒で病
院に入っていた。中学生になって子供は施設に預けられた。施設から中学に通い、卒業後は工場に就職
し住み込みであった。十年前の十五、六歳の頃、会社を抜け出して行方不明になった。一週間、市役所
や施設は懸命に行方を探したが、所在が掴(つか)めなかった。この話が私の耳に入った。以前私が守
りしていたことを知って、何か手掛りがつかめないかと相談を受けた。
私は例の如く深夜のお参りをして首無地蔵に子供のことをお願いした。お願いして帰りかけるとピカッ
と光った。丁度前記の泥酔者に道を教えた後に光ったと同じ光りである。その時お地蔵様が子供を探し
に行かれたなと思った。
家に帰って一眠りして起きると朝の五時項であった。そこへひょつこりと例の子供が家に入って来た。
どこに居たと尋ねると首無地蔵に居たという。その前はどこに居たと聞けば土生町の公園に居たという
。お地蔵さんが子供を連れ戻されたとしかいいようのない出来事であった。
子供は会社に戻り真面目に働いている。母親も退院して帰り、酒も絶ち就職している。
その七、子供が授かる
広島県西城町の人でD氏がよく参っておられ、顔見知りになっていた。平成三年の或る日、D氏は嫁に
子供が出来ないので授かるようにお地蔵さんに頼んで欲しいといわれた。私は祈祷師ではないので、貴
方が毎日参って直接頼まれるとよろしいと返事した。氏は遠くて毎日参れぬし、貴殿が熱心に参拝して
おられるので、お地蔵さんがきっと聞き届けて下さるに違いない、お願いしますと懇請された。氏は祈
願ののぼりも奉納しておられた。
私はD家に子宝が恵まれますよう一心に祈ってあげた。それから間なしにD家の嫁が子供を妊娠したと
いって、赤飯をもって私の家にお礼に来られた。私より地蔵さんにお礼をしなさいと申すと、既にお地
蔵さんには赤飯をお供えしお礼を申し上げて来たとのことであった。
平成三年九月二十七日の台風十九号は、風速五〇~六〇mの猛台風となり、九州から山口県・広島県に
大被害をもたらし、山林の大木を片端からなぎ倒した。都市の屋棍瓦を吹きとばし、地蔵会館の頂上の
瓦も吹き飛んだという。奉納の幟(三~四百本)が殆どたおれ、風当りの強い所の百本近くの幟が千切
れて飛んでいた。その中にD氏奉納ののぼりがあったが、五~六本残った中の一本がD氏のであった。
その八、大腸ガン癒える
十年前、腸が癌に犯されていた。腸の二ケ所を手術し切って捨てた。二年三ケ月入院していたが助かっ
た。今こうして元気でおられるのもお地蔵さんのお蔭である。お地蔵さんにお願いすれば何でも聞いて
下さるし、色々と知らせて下さる。
最近、夜のお参りには十二時四十五分に家を出る。香炉の灰の中の折れた線香を出して整理し、地蔵堂
を清掃する。家に帰るのは朝の三時四十分頃である。
たばこも吸わぬし酒も飲まない。体の調子はすこぶるよろしい。
その九、地蔵さんの足音
草木も眠る丑三つ時の地蔵堂は無気味に静まり返っている。
深夜の清掃中、よくお地蔵さんの足音を聞く。私以外誰も居ないのに、足音がシャツシャッと聞えて来
て、不意に鐘がジャンジャンと鳴る。或は賽銭(さいせん)がジャラーンと入る音が聞こえる時もある
。特にお不動さんを掃除中によくその音を聞く。最初はびっくりしたが、今は馴れて驚かなくなった。
誰も居ない夜の礼拝堂の中をコトコトと音がすることがよくある。お地蔵さんが墨染めの衣を着て杖を
ついて歩いておられるのを見たこともある。その時は頭は丸かった。
私の晩年はお地蔵さんと共にある。八十の老齢とはいえ何の不安もない。お地蔵さんは何でも聞いて下
さるし、楽しい日々である。
おんかかかびさんまえいそわか
平成四年九月十八日
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140
「備後府中
首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
二、脳打傷の奇跡的回復
(岡山県倉敷市)K女(34歳)
平成二年五月十三日のことでした。
午後単車で街に買物に出掛けました。途中前方よりトラックが疾走して来て、単車に接触しそうになっ
たので、咄嗟(とっさ)にハンドルを切りましたが、勢い余って側のブロック塀にほどよく突き当りま
した。頭を打ち、ヘルメットは吹き飛び、そのまま意識不明になりました。人通りの少ない路上であっ
たので、道に放り出されたまま三時間放置されていたようです。たまたま近くの人がゴミを捨てに来て
、倒れている私を発見し、急いで一一九番に電話して下さいました。
救急車でD病院に運ばれました。打ち所が悪く、耳や鼻から多量に出血していたといいます。その後、
母が懇意なM病院に移されました。頭がい骨骨折で重症でした。治療のため、左半分の頭がい骨を取り
はずし、病院の冷蔵庫に保管していたといいます。
脳の左半分は運動などの大事な機能を有し、それが壊されると、かりに治癒しても元どおりの体にはな
らないといわれています。
手術に八時間かかりました。手術を終えた医師は「植物人間になるかも知れない、あきらめたがよい」
と宣告したそうです。
頭がい骨は二ケ月も保存しておけないので、二ケ月目に元の頭にはめられました。その間意識は不明の
ままでした。
意識のない間ただ一度、十七年前に亡くなった父が現われました。父はしきりにこちらに来るなと手を
前に押しておりました。生命が切れるかどうかの境目であったのでしょう。父が招いていたら私のいの
ちはこと切れていたかも知れません。不思議な体験でした。
二ケ月位して意識がわずかに戻りました。が口が麻痺してものが自由に言えません。脳をやられて完全
に言語障害を呈しておりました。歩くようになっても足がしっかり地に着かず、ひょこひょこ飛ぶよう
な心地でした。言語障害をなおす為に、二ケ年間治療に通いました。二年後にどうにか相手に言葉が通
ずるようになりました。平成四年の八月頃より言語障害もなくなり、不自由なくしゃべれるようになり
ました。
交通事故に遭って以来、兄が非常に心配してくれ、この地方にまで響いている備後府中市の首無地蔵尊
の霊力にすがるべく、毎月府中市に参り必死になって祈ってくれました。その都度多額の奉納をし、祈
願の幟も境内に立ててくれています。
今思えば、この兄の真剣な祈りがお地蔵様に通じ、私のいのちを救い守って下さったと思っています。
植物人間になるかも知れないと言い、治癒不能と思っていた医者も一年で私の頭の傷はよくなり、障害
の治ってゆく経過を観察しながら不思議がっていました。殆どといってよいほど元に戻った私の状態を
見て医学界で発表するとまでいっておられます。
私は回復してから三回首無地蔵にお礼に参っております。お地蔵様に参ると何ともいえない有難い気持
になります。地蔵堂の前ではじっとしておれないほどうれしく、親元に帰ったような安らぎを覚えます
。私の症状が段々よくなる過程で、他のことはしゃべれなくとも「おんかかかびさんまえいそわか」丈
はすぐ言えるようになりました。お地蔵様の写真を撮ったのをいつも枕辺において寝ておりました。
兄は四十二歳ですが、自営業を営んでおり、血圧が高かった時があります。高い時は二〇〇位あったそ
うですが、私のために首無地蔵に参っている中にいつの間にか正常になり、今一三〇~八〇になったと
喜んでいます。
141
誠に誠に有難いお地蔵様、今後共お守り下さいませ。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
平成五年三月十九日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
三、膵臓炎がよくなる
(岡山県井原市)H女(38歳)
私は生れ付き体が弱く、どこの土地に行っても入退院を繰り返していました。昭和五十年頃までは、ど
の仕事をしても、二~三ケ月位で止め入院しておりました。大病で死にかけたことも七回位あります。
昭和六十一年、胆石を手術して以来、入退院を続け、三年間は仕事も全然出来ないでおりました。
近所にKさんという老婦人がおられ、平成三年のある日遊びに行きました。Kさんは府中市の首無地蔵
に度々参っておられ、お蔭をもらったと申されました。体の調子が悪いとき首無地蔵を拝むとたちまち
体が軽くなるとのことでした。Kさんの息子さんが事故にあったとき、体につけていた首無地蔵のお守
りが飛んだが体は何ともなく助かったと話して下さいました。Kさんに教えられ、私も首無地蔵に参る
ようになりました。最初はそんなにお蔭がある所なら一度参って見よう位の軽い気持でした。
ところが参った途端に体が軽くなり、気持がよいではありませんか。以来毎月参っておりましたが、一
回参拝をとばした月があり、てき面にすいぞう炎にかかり入院しました。参拝をさぼった罰であると思
いそれ以後月参りを欠かしたことはありません。すいぞう炎も間もなく治りました。私が地蔵参拝の前
夜には必ずお地蔵様の夢を見ます。
私の実家の母が脳血栓で倒れ、兄はのどの腫瘍、兄嫁はじんぞう病で入院しました。私はお地蔵さんに
すがりました。私はどうなってもよいから、実家の三人を救って下さいと一生懸命に祈りました。その
日もKさんと一緒でした。
参拝から帰るとその晩から飯がのどを通らず、食事が出来なくなりました。どうしてかと不思議に思い
ましたが、お地蔵さんに実家の病気平癒の願掛したせいだと悟りました。
平成三年二月、再度参拝して今度は私の食事が出来るようお願いしました。祈っている中に私の体が急
に軽くなりました。府中市に来るまでは体が重たく、じっとしておれない気分でした。それがうそのよ
うに全身が軽いのです。入浴したときのさわやかさとは全然違う、表現出来ないみずみずしい気分に浸
っておりました。参道の食堂「地蔵庵」に入って昼食をとりました。直ぐ食事が出来、とてもおいしう
ございました。同行のKさんは、私の食べっぶりを見てびっくりしておられました。
お蔭さまで兄ののどは良くなりました。兄嫁も、そして母も年が年ですが、病状は好転してきています
。
平成五年三月三十一日、縫製工場で仕事をしている最中に突然、頭が痛くなりました。咳をしても痛い
。一日中しんどく、体温計は四〇度をこえておりました。病院に行き注射した丈で一日で治りました。
普通でしたら完治まで一週間はかかるのにと医者は不思議がっていました。同年四月二十七日、仕事中
またまた熱が出て四十一度に上りました。せきも出たし、風邪らしいのですが、それはど苦しくなく平
気で仕事を続けておりました。二時間位で仕事を打ち切り、病院で点滴をしてもらい寝ました。あくる
日は平熱であり、けろっとして出勤しますと会社の人はうそだろうと信じませんでした。お地蔵さんの
加護としかいいようのない体験でした。
私とお地蔵さんは離れることは出来ません。地蔵堂に参ればふるさとに帰ったような安らぎを覚えます
。
首無地蔵さま、有難とうございます。私のみならずお困りの皆様をもお守り下さいませ。
142
平成五年五月八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
四、頑固な肩のこり治る
(兵庫県美方郡村岡町)K男(49歳)
私は兵庫県八鹿(ようか)町に本社を一置くZバス会社(バス二〇〇台保有)の村岡営業所に十五年間
勤務している運転手である。
十年前両肩が凝り始め仲々なおらない。一日中バスのハンドルを握る職業柄、肩こりは仕方がないとあ
きらめていたが、終日重苦しく仕事によい筈はない。両肩を棒で叩いてもこたえないほどの固さであっ
た。三ケ月に一回位献血して、血液を抜くと、しばらくは調子がよい、が又すぐこりが戻る有様であっ
た。
村岡町に、広島県府中市の首無地蔵に参りお蔭を貰われた方がおられ、その方達が年二~三回バスで団
体参拝をしておられた。その都度、私はZバスの乗務員として府中市に参っていた。乗客より首無地蔵
に願いごとを頼めば何でも聞いて下さるということを聞き、私も肩こりの治癒をお願いしていた。数回
参った頃、気がついて見るといつ治ったのか分らぬ中に、肩のこりは癒えていた。それ以来十年になる
が、肩こりは全然起らない。全く不思議というほかなく、まさしく霊験あらたかなお地蔵さんである。
遠い村岡町から往復十四時間もかけて年に何回か府中市に団体参拝されるのも不思議ではないと私自身
の体験から思ったことである。
首無地蔵参拝の運転は私が専属のようになっている。日本海に近い村岡町から中国山地を南下して八鹿
町~和田山町~生野町を経て福崎で、中国自動車道に乗り入れる。岡山県落合町か北房町、広島県の東
城町、庄原市、三次市などのインターチェンジから府中市に至る。片道七時間を要する。時間短縮出来
るコースはないかと色々調べて見た。岡山県内のバスの通れる近道はないかと、バスで二回参拝すれば
、その前に四回は自家用車で家族をつれ、色々なコースを辿り、近道で安全な道路を偵察しつつ府中市
に参った。
最近は北房町から南下する。岡山県内の道路も道幅を広げ除々によくなって来てはいる。マイカーでは
六時問半で行ける。
地蔵参りの道中は長道中なので、乗客がお互に自己紹介をする。交替の為、運転手は二人居るので、私
の休みのときは、首無地蔵のお蔭の体験談を発表する。毎日バスを運転しているのにお蔭を貰ってから
全然肩のこらない有難さを皆さんに教えてあげる。
バス運転を含めて、年に五~六回は首無地蔵に参拝しているが無事故、家中無病息災なのもひとえにお
地蔵様のお蔭と感謝している。
合 掌
平成四年十一月五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
五、足の痛み一夜にして癒ゆ
(広島県御調郡向島町)E女(74歳)
十二年ほど前のことでした。急に足が腫れ始め、脛に水がたまり、坐ることも出来ず、痛くて歩けませ
んでした。この状態が二年はど続きました。
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私の前半生は苦労の連続で、自殺したいと思ったことも何度かありました。家は豊かではなかったが、
幸い体が丈夫でしたので男のする仕事をして家計を支えてきました。それ故、良年の無理がたたり、足
にきたのであろうと思っていました。
十年前、近所の人が、府中市に首無地蔵という大変霊力のあるお地蔵様が出られ、お蔭を沢山もらって
おられるので参って見てはとすすめられました。足が腫れていては府中市の地蔵の板道を登るのに難渋
するでしょうと一緒に参って頂きましたB足を引きずるようにして地蔵板を登り、首無地蔵の本堂の前に
ようやく到達しました。
私は無信心者で、神仏に祈ったこともなくお経も知りません。只、
「首無地蔵様、足をなおして下さい。」
とお願いをしただけでした。この間二~三分位です。
その夜はぐっすり眠りました。朝、目が覚めるとあれはど腫れていたのが一気に引いておりました。私
は目を疑いました。足の痛みも全然ありません。狐につままれたようで、不思議で仕方がありませんで
した。近所の人も不思議だと言うばかりでした。何で一夜にして腫れがひいたのか分かりません。只、
お地蔵様のお蔭としか言いようがありません。
お地蔵様の写真を撮って帰り、これを祀って拝んでおりましたが、後に事務所にお地蔵の絵がありまし
たので頂いて帰り、現在それを毎日拝んでおります。水とお茶と御飯は欠かさず供え、メロン、リンゴ
等季節のものも供えています。般若心経がよいと聞きましたが、難しくて中々覚えられず、本を買って
一生懸命に読み、今ではすらすらと称えることが出来ます。
足の腫れが引いて以来、お医者には行かず、再発もしておりません。近所の人より地蔵に連れて参るよ
うよく頼まれます。
家は貪しかったが、私は常に親切心をもって人に接しておりました。附近に片足の無い一人暮しの老人
が住んでおられました。戦時中であったが、気の毒に思い、酒一合を毎日差し上げ、もらい物もわずか
ではあったが分けて上げていました。私の方も食べ物には不自由をしていた頃でありましたが、老人が
死ぬまで面倒を見てあげました。こうした親切心が巡ってお地蔵さまより大きなお蔭を頂いたのかも知
れません。一人娘ですが京都に嫁ぎ、今、東京に住んでいますが幸せな家庭を築いてくれており、私の
こともよく気遣ってくれます。
私は一人暮しで広い家を守っています。近所の人もよくして下さり、寂しいことも不安もありません。
有難いことです。
毎月十八日の月例祭には必ず参拝し、月の中三ケ日は首無地蔵参りを欠かしたことはありません。他の
社には参ったことはありませんが首無地蔵だけには何故か足取りも軽く惹かれて参ります。
且つて車の事故に遭ったことがあります。医者は入院を要すと診断しました。入院しますと事故の相手
方に出費がかさみ、よくないと思い入院しませんでした。二十日位の通院で治ってしまいました。事故
の際、警官の調べに対して、歩いていた私の方が不注意で悪いと申し立てますと、車を運転していた人
は、私の前方不注意が原因だと、どちらも自分が悪いと主張しますので、警察ではこんな例はないと調
書作成に困っておられました。後遺症もなく、短日時に癒えたのもお地蔵様のお蔭と思っています。今
後共、人様には迷惑をかけない方針でおります。
私は犬好きで、小さい座敷犬を飼っておりました。十五年間愛育しておりましたが、ガンにかかり余命
いくばくもないと見えました。私は二回はど犬を抱き地蔵堂に参り、一心にお願いしました。お蔭で犬
は全く苦しむ様子もなく、あっという間に息を引きとりました。
お地蔵さま、誠に有難うございます。困っている方々をどうぞ救って上げて下さい。
おんかかかびさんまえいそわか
平成四年八月八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
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六、両膝関節の痛み癒ゆ
(山口県岩国市)M男(75歳)
私は第二次世界大戦において、戦場で弾に当り両足骨折をした戦傷兵です。
昭和十三年一月十日、独立山砲兵第三連隊補充隊に現役兵として入営し、同年四月に戦地へ渡りました
。昭和十四年三月戦場にて弾丸に当り、背部貫通銃創を負いました。これが第一回目の負傷でした。昭
和十六年九月、中国湖南省岳陽県沙港で二回目の負傷をしました。左膝関節貫通銃創並びに右大腿部骨
折盲管銃創という負傷名でした。砲煙弾雨の中で戦死しなかったのが不思議な位でした。野戦病院生活
を送り、内地還送となり陸軍病院で治療に専念する日が続きました。
戦後は傷もよくなり元気で働いておりましたが、年を取るにつれ、昭和五十八、九年頃より、両膝関節
が大変うずくようになりました。家の中でも杖をついて歩行する有様でした。
丁度その頃、岩国市営バスが府中市の首無地蔵と井原市の嫁いらず観音をかけての参拝募集をしており
ました。友人が一緒に参拝し、首無地蔵に関節炎のお願いをしたらと薦めてくれましたので、友人二人
と参拝団に加わりました。地蔵堂にてお地蔵様に一生懸命にお願いし、帰宅後も朝夕首無地蔵を拝んで
おりました。以来、不思議なことにぽつぽつ何時とはなしに痛みがうすらいでゆきました。有難くうれ
しい限りでした。現在も朝夕の首無地蔵へのお祈りを欠かしたことはありません。そして一年に一度は
首無地蔵堂に参拝致します。
六年前、御礼に幟を一本寄進致しました。一心に信行すれば、必ずお蔭があると感謝しております。
現在私は、世の為、人の弟、誠心誠意仕事をしています。お蔭で三度も叙勲を受けました。これもお地
蔵様のお蔭により元気に仕事が出来るからだと思っています。
おんかかかびさんまえいそわか
平成四年五月十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
七、四年ごしの頭痛が治る
(広島県福山市)A女
私は昭和六十二年七月、子供を出産しましたが、産後の血の道が悪く、頭痛に悩まされておりました。
神経科の医者へ通う日が続き、薬は一日三回服用しておりました。頭痛は一向によくならず、痛いので
あたり散らし、両親と毎日のように喧嘩しておりました。主人との喧嘩もしょっちゅうでした。耳鳴り
がし、耳もよく聞えませんでした。いらいらがつのるばかりでした。
首無地蔵様より大変なお蔭を頂かれ、それ以後人助けもしておられる福山市のS様を主人の知人が紹介
して下さいました。早速伺いますと、首無地蔵にお願いして下さると同時に地蔵より受けておられた、
肌守りの地蔵タオルを一枚頂きました。それを枕カバーにして休みますとその日の中に頭が楽になりま
した。それからは親とのけんかもなくなり、頭が変であるとか、おかしいと言っていたのを言わなくな
りました。平成四年四月十九日のことした。
四月二十二日、二十三日、二十四日と三夜連続、夜の十二時にS様に首無地蔵へ連れて行ってもらいま
した。S様より首無地蔵尊が必ず治して下さるから、薬も一日一回に減らすようにいわれ、その通りに
しました。S様のいわれるのに、何代か前の先祖が水の中で死んでいる。その供養をしていない。S様
が水上げ供養をされると、水死した霊が浮び上り、その霊を供養して下さっいました。わけのわからぬ
無茶苦茶に痛かった頭がすっきりしたのも、取りついていた先祖の亡霊が離れ、成仏したとしか思いよ
うがありません。
先祖供養したお蔭で、生れつき耳が遠かったのがよく聞こえるようになりました。
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地蔵タオルを枕カバーにして寝るとぐっすりとねむれます。寝てばかりいてろくに晩ごはんの仕度をし
なかったのをするようになり主人も喜んでいます。
長い間の苦しみから解放され、これ位うれしいことはありません。
首無地蔵さま、有難うございます。
平成四年五月一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>8
(8)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
八、子宮ガンが消える
(広島県府中市)女(60歳)
六、七年前の昭和六〇年頃、静岡県清水市の官庁に勤めていた私の弟の、部下の妻が子宮ガンになり摘
出することになっていた。
私は弟に、常々府中の首無地蔵の霊験あらたかなことを話していた。弟は部下に地蔵の話をした。お地
蔵さんに参って駄目でも元々ではないかと薦めた。部下の人は本気になられ夫婦共々に府中に来られた
。私は夫婦を待ち受け、地蔵堂に案内し一緒になって拝んで上げた。夫婦はわらをも摘む気持であった
のだろう。お地蔵さんの前にうずくまって長らく拝んでおられた。恥も外聞もなく真剣そのものであっ
た。その姿を見て私は頭が下った。
私は首無地蔵の肌守りのタオルとおふだと、お守を受けてあげた。妻はタオルに線香の煙を収め、お地
蔵をなで、地蔵の霊気を受けられた。更に地蔵の石を手でさすり、その手でお腹をさすって、新幹線で
清水市に帰られた。
その日は金曜日であった。その夜風呂に入られると背中に黒いアザが水玉になって一面に出ていたとい
われる。どういうことであろうかと夫婦共々に訝(いぶか)しがられた。
翌日土曜日は、病院に行って診察を受けるとガンの症状がない。医者は不思議に思われ、もう一度月曜
日に来るように言われた。一日置いて月曜日に病院に行くと何ともない。更に一週間経って診察したが
全然症状がない。子宮ガンを取除く予定だった医者も首をかしげ、仕方なくガンが無いことを宣告した
という。
その後すぐ子供が出来た。一人しかいなかったのに二人目を出産された。子宮を全部切り取ってしまう
筈であったのに子供が生まれた。夫婦にとっては正に夢のようであった。まさしく奇蹟であった。首無
地蔵の霊験のすばらしさを感得された。
参拝をすすめた私の弟もこれにはびっくりした。六年経った今でも何ともないそうである。
部下の夫婦も官庁勤めの転勤族であるので、府中の首無地蔵に参れないので、毎朝、お地蔵のおふだに
水を上げ拝んでおられるという。
私は十八日の月例祭には必ず参っている。
合 掌
お地蔵さま有難うございます。
平成四年五月二十四日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
九、のどの炎症一日にて治る
(神奈川県伊勢原市)K男(65歳)
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町でも村でも日本中どこへいっても一番目につくのは、お地蔵さんです。地蔵の名の起りは、人々の苦
しみや悩み、願いごとなどすべてかなえて下さるという大悲の心が、ちょうど大地の中に、あらゆるも
ののいのちを育くむ力が蔵されているように、人々をいつくしむ心を、無限にもっておられるというと
ころから、「地蔵菩薩」という名がつけられました。
お地蔵さんは、その願いのように、人々の苦しみや悩みをとり除き、願いごとをかなえて下さると同時
に、死んでいった後の世までも慈悲の手を差しのべて下さるとも言われます。
お地蔵さんの信仰は、阿弥陀信仰とも結びついて、村や町の入口、あるいは辻に、お地蔵さんをお祀り
し、みんなに親しまれておられます。
又お地蔵さんほど、いろいろの名がつけられている仏さまはありません。(子安地蔵、子育地蔵、延命
地蔵、石切地蔵、子持地蔵等)。
広島県は府中市に世にも珍しい、顔と首の無い首無地蔵さんがおられます。
私は三年程前に知りました。首無地蔵さんにお願いすれば、どんなことでも直ちに叶えて下さるという
ことで、全国各地から参拝者が、切れることもなく、大勢の人々が参拝に来ておられます。
私も首無地蔵さんからご利益をいただいた一人でございます。
広島県の福山市に仕事の関係で出張した折に、ホテルで夕食をしている時に、小骨がのどにひっかかり
、炎症をおこし一日中苦しみました。
府中の首無地蔵さんのことを思い出し、平成四年五月二十一日、福山市より20kmほど中国山脈より
の府中市に赴き早速参拝させていただきました。
お地蔵さんのご真言「おんかかかびさんまえいそわか」を何回もとなえながら、首無地蔵さんの体に右
手でさわり、その右手にてのどにさわりながら、のどの炎症が治りますように、一生懸命お願いをして
帰りましたところ、炎症が軽くなり次の日には治っておりました。
実にすばらしい体験をさせていただきました。首無地蔵さんのご利益たるや日本一でございます。
全国の皆さん是非一度府中の首無地蔵さんにご参拝されては如何でしょうか。
首無地蔵さん本当にありがとうございました。
平成四年六月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十、十二指腸潰瘍・胃潰瘍の治癒
(福山市)W女(63歳)
毎日元気で、私はお地蔵さんへお参りさせて項いております。そして数々の御神徳を項いております。
七~八年前、友達に連れられて、首無地蔵に参るようになりました。年に三~四回は参っておりました
。その頃は体のどこも悪いところはありませんでした。これまで他の神仏は信心はしておりまして、日
々の健康を感謝して暮しておりました。
ところが平成三年四月頃、突然体の変調をおぼえ、医者に診断してもらいましたところ、十二指腸かい
よう(潰瘍)とのことでした。腸の病いが治るまで九ケ月ほどかかりましたが、その間、しばしば首無
地蔵に参り、絵馬を買い求め、早く治癒しますよう、願い文を書いて、地蔵堂の後の絵馬掛けに納めて
おりました。
腸がなおると、今度は胃かいよう、ポリープと続けて患いました。平成四年四月のことです。医者より
入院を要すといわれました。が私は家で仕事をしていますので入院しませんでした。その代り毎月の首
無地蔵の十八日の月例祭には欠かさず参り、その外にも参拝し、その都度絵馬を求めて願掛けをしてお
りました。
そして、平成四年七月には、奇蹟的に全治致しました。
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この二年間というものは本気で参拝し、真剣にお祈りしました。
お蔭で内臓の重病はなおりましたが、ももの筋肉痛は治るところまで行っておりません。
四年前より、右足のももの筋肉が痛み始めました。眠れない日もありましたが、歩くには支障なく、痛
まず、ただ立っていると痛みます。
平成四年八月十八日の月例祭に参列する積りでおりましたが、足は痛み続けておりました。それが十八
日の朝、家を出るときにはうそのように痛みが止っていました。晴々とした気持で参拝しました。筋肉
痛の完治をお願いしておりますが、動く仕事に支障はありませんので生活には困まりません。
これからも一生懸命精進させて頂き、元気で毎日を過させて頂きます。
本当にありがとうございます。心から御礼申し上げます。
平成四年八月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十一、友人の膝の痛み癒ゆ
(広島県庄原市)T男(72歳)
私が首無地蔵様の事を知ったのは約十年位前のことです。庄原市内に住む旧中学校時代の同級生の家へ
ある用件で参りましたところ、「実は今府中の首無地蔵様へ家内を連れてお参りして帰ってきたところ
だ」「毎月お参りしている」とのことをお聞きし、話によると「仲々の御利益があるのだ」ということ
であったのでその後、毎年の五月十八日の大祭の当日は勿論、殆んど毎月のように小学時代の同級生や
友達数人と私の車でお参りしていました。
数年前、現在、神奈川県座間市に住んでいる小学校時代の同級生I君が将来、庄原に帰ってきて住む家
を新築していた頃、実は「自分は膝が痛んで困っているのだ、夏でもクーラーは勿論、扇風機の風に当
っても痛みが激しくなるのだ」とのこと、それではということになって例の数名のメンバーにI君夫妻
を加えて首無地蔵様にお参りした訳です。
お参りする時は大抵、庄原を八時に出発すれば九時二十八分頃には到着し早くお参りすることができる
のです。当日も九時二十分頃到着し、受付で手続を済ませて、一時、一心にお祈りをしていました。お
参拝が済んで、私にトイレの場所を聞いてきましたので場所を教えて境内で待っていました所、I君が
帰ってきて「今、用をたしていたら急に膝が暖かくなってきて、今も暖かい、暖かい」を連発していま
した。又、帰りの車の中でも「膝が暖かい、膝が暖かい」と云いながら、庄原へ帰って参りました。
その後、家の方も新築作業も無事終って、ここ数年神奈川県に住んでいて一年に一回位庄原に帰って参
りますので、その都度遊びに行って大話をするのですが膝が痛むといった話は一回も聞きませんので多
分あれっきり治ったのではないでしょうか。
今朝も三次ピオーネを買って送っておきましたので、明日の夜位電話があると思います。
その時よく聞いて見ますが、全く不思議なことがあるものだと思っています。
平成四年九月十三日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十二、右肩と両すねの痛み癒ゆ
(府中市)H男(82歳)
昭和五十二年五月十八日、東寿男氏が首無地蔵を発掘され、農道に祀られると、霊験あらたかであると
いう噂が附近に広がっていた。その頃、私は右肩の痛みと両脚すねの痛みに悩まされていた。二階の階
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段を上り下りするときも足がいたくて顔をしかめながら上下し、地蔵坂を登り降りるときも難渋(なん
じゅう)した。医者には見せなかったが神経痛と思っていた。
首無地蔵が出現されて二ケ月経っていた頃、噂をきき早速参った。当時は現在のように広い敷地の中に
立派な殿堂があるわけでなく、農道わきに掘り出したままの石地蔵が立っていた。そばに赤い小さな幟
に「首無地蔵」と墨で書いたのが立っていた。普通いたる所の道端で見るお地 さんと変りがないが、
首がないので一層貧相に見えた。次々と供え物が積まれ、可成りの人のお参りがあった。お経を唱える
でもなく、只、
「肩のいたみと足の痛みを治して下さい」
と素直な気持でお願いした。
二日日の朝参ってお願いした帰りに、坂道を下っていて、痛みがないのに気付いた。おかしなことがあ
るものだと思いながら、家に帰って、二階の階段を上つて見た。痛くない。
まさしく本物である。私は首無地蔵さんからお蔭をもらった。たった二日のお参りである。肩の痛みも
癒えていた。有難いことである。首無地蔵さんの霊力はすばらしい。
以後毎日の参拝を欠かさない。雨が降ろうが、雪が降ろうが、この十五年間、休んだことがない。爾来
、痛みは一日も再発していない。お地蔵さんで治ると再発しないといわれているが、私の場合もその通
りである。お蔭を貰った人で再発した人も見ているが、病気になった原因を除かないで以前のままの生
活に戻っている。そして感謝の気持を忘れてしまっている。
礼拝堂で休んでいると、遠方から参られた人とよく話をする。
「辛抱しながら参拝を続けなさい、必ずお蔭がもらえますよ」
と私の例を申しながら話してあげる。参拝者は大変喜ばれ元気づけられて帰られる。
家にはお地蔵さんは祀っていない。家から地蔵望まで歩いて十分位の所にあるし、毎日参るのでその必
要がない。
お蔭で家中皆元気である。有難い限りである。
おんかかかびさんまえいそわか
平成四年九月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十三、関節リュウマチいゆ
(広島県府中市)I男(76歳)
私は国鉄(現JR)福塩線の備後安田駅に勤めておりました。
昭和四十年の秋、足が痛み始めました。家の引き戸を開け、足を上げて家の中に入ったつもりなのに、
戸口に引いたレールにひっかかる有様でした。H病院にて診察を受けますと、関節リユウマチとの診断
でした。以来国鉄は休みませんでしたが、病院通いが始まりました。
昭和四十二年、府中駅に転勤となりました。病院も近くなり、昼食後、通院しておりました。足が治る
と腕に、腕が治ると又足に痛みが移り、移動性のリユウマチに悩んでおりました。四年間医者通いをし
ました。この病気は死ぬまで治らぬであろうと諦めておりました。
昭和五十二年五月、首無地蔵が出現され、大勢の人が参っていることを知りました。時折府中の八幡神
社に参った帰りに首無地蔵に寄っておりました。翌、昭和五十三年春、首無地蔵のお堂の側に行った時
、孫を連れたおばあさん同志が、このお地蔵さんは霊験あらたかで、石にさわると病気がなおると話し
ているのが耳に入りました。
それを聞いた私は早速お地蔵さんの石にさわって、その手でリユウマチの足をさすりました。
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地蔵堂から北約二〇〇m山手に淡島明神が祀ってあります。以前から祀ってある明神ですが、首無地蔵
が出現されてついでに参る人が増え、ここも繁昌し始めていました。
首無地蔵から淡島明神に参るべく坂道を登り始めますと、歩行に難渋していた私の足がまるで他人の足
のように軽かった。足に痛みがない。自分自身びっくりしました。
首無地蔵さんは即刻お蔭を下さった。神や仏を幼少の時から信仰していた私も驚くほかなく有難い極み
でした。
昭和五十年国鉄を定年退職し、引き続き傍系会社のN観光社に勤めて六年、昭和五十六年に退職しまし
たが、昭和五十三年春、お地蔵さんよりお蔭をもらって以来、楽な生活を送っています。リユウマチも
再発せず、しばしば貼っていたサロンパスも不要になりました。ただ五十六年二月、脳こうそくで入院
していましたが、わずか二ケ月で元どおりになり、これもお地蔵さんのお蔭と思っています。
爾来首無地蔵参拝は欠かしたことがありません。朝五時半に家を出ます。晴雨にかかわらずお礼参りを
します。お賽銭十円は必ず賽銭箱に入れます。一日休んだ時は翌日二十円を入れます。
「貴殿にお蔭があるのなら皆んなにお蔭がある筈だ」
と近所の半信半疑の方の懐疑的な言葉を聞きましたが、神も仏も同じであり、謙虚に手を合わす気持が
大切と思います。
お蔭を貰わない人には分りませんが、素直な心を持ち、縁あれば、神仏の加譲は必ずあると信じていま
す。
首無地蔵さま、有難うございます。
平成四年九月二十一日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十四、左右の腰痛いゆ
(府中市)U男(75歳)
私は終戦を、福山四十一連隊の大行李班として、南海の、ミンダナオ島で迎えました。これまでしばし
ばの激戦に、爆弾や銃撃で多くの戦友を失いましたが、私は幸いかすり傷程度で済みました。これも成
田不動さんのお守りを肌身離さず持っていたお蔭と思っています。戦後は四国の石槌山へ毎年参拝して
います。
昭和五十二年正月、東寿男氏の手により首無地蔵が発掘されたことはいち早く知っておりました。そし
て時折り参っていました。当時は体の故障もなく、願いごともありませんでした。
昭和六十一年の秋頃、急に腰痛を覚え、その為に足も立たなくなりました。痛いのを半日我慢しました
。首無地蔵尊の霊験あらたかなことは十分知っていましたので、本気でお蔭を貰おうと決心し、足を引
きずりながらようやく坂道を登ってゆきました。
私の家は真言宗であり、般若心経を一心にとなえました。
家に帰って二時間位経過した頃、足が自然に立つではありませんか。腰の痛みもやわらぎ、自分ながら
不思議でした。
首無地蔵を拝んでいる中に痛みが消えたという話もよく聞きましたが、私の場合も短時間の治癒でした
。地蔵尊の霊力のすばらしさを身をもって体験しました。
あくる日、夜明けと共に一番に首無地蔵に参り、厚く御礼を申し上げました。
以後、腰の痛みは起きていません。只、二回ほど脳こうそくでT病院に入院しました。
病院で一生懸命に首無地蔵にお願いしていた故か、どちらも四十日位で退院しています。
同じ患者で良く入院している人もおられます。治りにくい病気を短日時になおしていただいたのも地蔵
尊の力が働いたと思っています。
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毎日、首無地蔵へ参拝の後は、運動を兼ねて迂回して五kmの道を歩いて帰ります。
いろんな人に私の体験を話し、地蔵尊のすばらしさを告げながら、日々を平穏に、たのしく過ごさせて
頂いています。
おんかかかびさんまえいそわか
平成四年九月二十五日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>15
(15)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十五、父の呼吸困難が楽になる
(福山市)Y女(44歳)
拝啓
先日はお電話で失礼致しました。
此度は勿体ないお話しを頂き恐縮に存じます。
又、此度のお蔭を心より感謝申し上げます。拙い文、字をお許し下さい。
私の父は七十八歳になります。四・五年前より肺と心臓が悪く、通常の人の1/3以下の機能しかあり
ませんので、歩く事が困難なため、足も弱っておりました。
普段、体の調子が良い時は、家族が車で送迎して、父の楽しみの一つであります将棋を指しに行ってお
りましたが、平成四年の夏の終り頃より食欲がなくなり、足も以前にもまして弱り、床より離れようと
しませんでした。
このままでは寝たきりになってしまうのではと、家族の者達皆でS配しておりました折、平成四年春、私
の知人が、長男の試合の時に、お地蔵様へお願いに行って下さり、勝つ事ができたので、お礼参りには
、私に行く様にとおっしゃって下さっていたのですが、日常の忙しさにかまけて、気になりつつも、月
日が過ぎておりました。ちょうど時間が空きそうなので、二・三日前にお参りさせて頂こうと決め、父
を誘った処、思いがけず、行きたいと申しましたので、平成四年九月一日、酸素吸入器を持ってお参り
させて頂きました。
その時、父は車からは降りようとしませんでした。とてもしんどそうに、酸素吸入をしたまま、車のシ
ートを倒して横たわっておりました。そうすると事務所の女性事務員の方が、とても親切に、入口の車
止めの金具を取りはずして下さり、せっかくここまで来たのだからと、境内に入り、お地蔵様のすぐ際
まで、車を止めさせて下さいました。
お地蔵様を触らせて頂くには、二・三歩歩けばよいのですが、父はそれでも体がきつそうに、息使いも
荒く、足もヨロヨロでしたが、何とか自分自身で触る事ができました。
帰路も車中では酸素吸入器を離しませんでした。そうしました処、当夜はぐっすり眠る事ができ、その
日を境に、食欲もでてきまして、翌日より又将棋をさしに出掛け、以後、毎日老人クラブヘ通っており
ます。平成四年九月二十三日お礼参りさせて頂きました折は、門前のおみやげ店の所より車を降り、自
分でお地蔵様の所へ歩いてお参りさせて頂く事ができました。
本人は元より、私を含め家族一同心より感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございました。今後
も続けてお参りさせて頂こうと思っております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
御地蔵様の御案内にもありましたが、素直な心でお参りさせて頂く事が、とても大事な事だと痛切に感
じております。
皆々様にも良いお蔭があります様に念じております。
世話人の方もどうぞお体を大切に御自愛の程、御多幸をお祈り申し上げます。
乱筆乱文で失礼いたします。
敬具
151
(平成四年十月十三日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>16
(16)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十六、腰痛が一回の参拝で癒ゆ
(岡山市)女(69歳)
二十年前より、私は軽い腰痛を繰り返しておりました。いわゆる使い痛みというものでした。体を休め
ていると独りでに治っておりました。
丁度十年ほど前だったと思います。岡山市の婦人会がバス二台を仕立て、府中市の首無地蔵参拝を致し
ました。私も参加し、バスに乗り込んだ途端に、急に腰が痛み始めました。
何故か自分でも分りませんが、今までの軽い腰痛と違い激痛でした。どうなるかと道中不安ながら、ワ
ラにもすがりたい気持で、腰に手をあて、苦痛をこらえておりました。
とにかく我慢して府中市へ着きました。地蔵堂に詣で、手のひらで石にさわりながら、ぜひ腰のいたみ
を直して下さいと念じながら、その手で腰をさすっておりました。その時地蔵世話人の方が首無地蔵の
お話をして下さるというので、全員、礼拝堂の椅子に腰かけて聞きました。
「首無地蔵に参られた方で、熱心に拝まれ、早い人は即座にお蔭を貰われております。何回も参ってい
る中にお蔭をもらわれる方もおられます。とにかく-生懸命にお願いし、拝みなさい。このお地蔵さん
は不思議な霊力を有しておられ、真剣な人ほど早くお蔭をもらえます。」と
有難いお話を伺い、バスに乗るべく地蔵坂を下っていますと、あれほど痛かった腰がうそのように治っ
ているのに気付きました。世話人の話の中に、即座にお蔭を頂かれる方があるとおっしやいましたが、
私もその一人でした。
バスに乗ると「早、お蔭を受けたのよ」と隣席の人々によろこび一杯に話しかけました。
それ以来十年経ちますが腰痛は起きません。年に二~三回は必ずお礼かたがた首無地蔵に参拝します。
人々にも地蔵参りをすすめています。又、悩んでいる人の為にお祈りもしてあげています。
私がお蔭を受けて二回目に参ったとき肌守りの地蔵タオルを受け、それに入魂して持ち帰り使っていま
す。時折タオルを人様にも差し上げます。
誠に霊力のつよいお地蔵さまです。
有難うございます。
(平成五年二月十五日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>17
(18)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十七、白血病・パーキンソン病癒ゆ
(広島市)K女(54歳)
私は広島市内に住む五十四才の主婦ですが、以前から、府中市に霊験あらたかなお地蔵様がおまつりし
てあることを聞き、お参りさせて頂いておりました。
七、八年前の事、東京の従兄弟の息子が白血病にかかり、入院中∽お医者さんから、後三ケ月の命と言
われた時、福山に住む私の兄嫁が首無地蔵様にお参りし、お守りとタオルを頂いて帰り、東京に送った
ところ、わらをもつかむ思いで一生懸命お願いしたそうです。
それから日に日に快方に向い、今では全快して、家業のガラス店を継いで元気に働いております。この
時お地蔵様の不思議な御利益にびっくりしました。
152
平成元年二月の事です。今度は広島の私の知人で、当時Z十一才になる奥さんが夜お風呂に入ろうとした
時、急に体ががたがた震えだし止らなくなりました。息子さんが急いで救急病院に連れて行かれたので
すが、点滴を打っても震えが止らず、翌日、日赤病院で診てもらったら、パーキンソン病だと言われた
そうです。パーキンソンという病気は体全体の運動神経を煩う病気で、今の医学では治りにくい進行性
の難病です。この方も食欲がなくなり、夜も寝られず何ケ月も床についてしまわれました。日頃お世話
になっている方なので、私はいてもたってもおられずお地蔵様にお参りしました。
お守りとタオルを買って、どうぞこの人の難病を治してあげて下さいとて心にお願いして持ち帰りまし
た。
奥さまは早速お守りを肌につけ、そのタオルで毎日毎日、タオルがすり切れるほど体をなでながらお願
いされました。ところが数ケ月後、あれほどひどく震えていた体の震えが治り、食欲も少しずつ出て、
安定剤を飲まなくても夜寝られるようになったと言われました。ご家族の皆さんは元より、私も大変喜
んで秋には早速お礼参りをさせて頂きました。
それ以来ずっと元気で家事が出来るようになり、毎年遠方へ旅行にも行かれるようになりました。
歩行も不可能になるだろうと言われた難病を、これほどまでに元気にして頂いたのは、お地蔵様のお蔭
と感謝の念でいっぱいです。毎年一~二回は必ずお礼参りをしていますが、一人でも多くの方が尊いお
地蔵様の御利益を頂かれる事をお祈りします。
お地蔵様ありがとうございます。
合 掌
(平成五年六月一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>18
(18)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十八、外孫が故郷に帰る
(松山市)S女(77歳)
家に跡取りがおりますが、まだ学生で九州に住んでおり、当分家に帰って来そうにありません。
松山市内ですが娘が嫁に行き、二十八歳になる子がおり、名古屋に就職して七年になります。この外孫
でも帰って来てくれないかなあと願っておりました。
平成三年十一月、府中市の首無地蔵さんは、何でも願いごとを聞きとどけて下さるとのことでしたので
府中市に参り、来年の三月までに外孫が帰ってくれるように願掛けしておきました。
願いはかない、平成四年三月、孫は松山に帰って来てくれました。だが突然のこととて職が見付かりま
せん。またお願いに首無地蔵に参りました。一年後の四月に無事就職致しました。
私のお願いヌおりにお地蔵さんは聞いて下さいました。孫も元気で勤めております。
私の腰の痛みもお地蔵様にお願いし完全になおっております。
首無地蔵様ありがとうございます。
(平成五年五月十二日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>19
(19)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
十九、急性心筋梗塞がなおる
(松山市)T女(77歳)
平成三年二月十八日でした。突然心筋こうそくで倒れ、急きょ県立病院に入院しました。
153
肩がこるし、風呂に入るとむかつく状態でした。病院の診断では、七時間以内に手術をしないと危ない
といわれ、私も決心しました。半麻酔の状態で夕方の七時半から五時間位かけて心ぞうの手術を行いま
した。手術の前に私は首無地蔵から受けたタオルを枕カバーにし、地蔵のお守りも身につけておりまし
た。手術の最中、完全麻酔ではないので、うつらうつらした状態で不動明王の姿を見ました。これまで
に四国松山から府中市の首無地蔵には二~三回参っております。その都度地蔵さんの後のお不動さんも
拝んでおりました。又近くの高山の十三仏の不動尊も信ツしています。
そのお不動さんがすこい目でにらんでおられました。両手をひろげて私を救う恰好をしておられました
。手術は無事終りました。
心筋こうそく患者は手術をする前に大てい死んでいるとのことでした。
お蔭で私は助かりました。手術後は体が何ともないので動き廻っていて医者から叱られる始末でした。
平成三年十一月に首無地蔵様にお礼に参りました。医者からは発作の時の用意にニトログリセリンを与
えられていました。ニトロは劇薬なので飲めず、舌の下に含んでいると楽になる薬です。調子がよいの
で退院後一回も含んだことはありません。お地蔵様のタオルは常に枕につけてねています。
昨年五月にもお礼に参り、丸二年を経過していますが、体に何の異状も感じません。既に四回は参拝し
ております。首無地蔵の霊力のすばらしさを身をもって体験致しました。
有難いお地蔵さんです。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成五年五月十二日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>20
(20)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
二十、糖尿病・骨髄炎癒ゆ
(福山市)S男(47歳)
福山市御幸町にSという四十二才の知人がおられる。S氏は一年ほど前、体の調子が悪いので、病院で
診察を受けると糖尿病と診断された。氏は大の酒好きであった。
医師より酒はほどほどにして、食事療法をするよう申し渡されていた。その頃(平成五年五月十二日)
、中学生の子息H君(十五才)が突然骨髄炎を患うようになった。S氏は大変なショックを受けられた
。自分もさりながら、息子を助けたいと必死であった。私が首無地蔵尊よりお蔭をもらい、地蔵の霊力
をお借りして人助けをしていることを知っておられる氏は、私に救いを求められた。氏は無神論者であ
り、神仏で病気がなおるなど信じておられなかったが、墓へはよく参っておられたB背に腹は替えられず
、やっかいな糖尿病と息子の骨髄炎の治癒の相談を受けた。
私は例によって、平成五年五月十六日、十七日、十八日と三夜連続、夜の十二時に首無地蔵にお願いに
参った。祈祷は毎夜一時間位続けた。無我の境に入ったころ、お地蔵様の姿が見えてくる。それは女性
のように美しい尊いお姿である。地蔵経を上げる時はすんなりと上げられるが、病気治癒の願いごとを
唱える段になると、お経を止められることもある。お地蔵様がお聞き届け下さった時は病人の病いのな
おる時である。最近は私の胸にお地蔵の強い圧力を感ずる。これが私へのお知らせである。
S氏の場合、二夜つづけてお地蔵様が私に乗り移られ、十八日に助けてやるとの啓示を受けた。
S氏は五月二十日に病院で糖尿病の検査を再度受けられた。検査の結果、糖尿の反応は全然出ない。完
全に病いは消えていた。
五月二十二日、釣りに行かれ、大きなチヌを釣って来られ、お礼にと私の家にもってこられた。そして
全快祝いだと洒をたらふく飲まれた。更に息子もK医大で検査を受けた。
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レントゲン写真にも血液検査にも、骨髄炎の症状は現われず、これまた完全になおっていたと言われる
。今、H君は中学校のテニス部で毎日テニスをしておられる。親子共々、同時に発病が治り、S氏の喜
びようは大変なものであった。
首無地蔵尊の霊力の偉大さをまたまた体験させて頂いた治癒例である。
おんかかかびさんまえいそわか
合 掌
平成五年六月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>21
(21)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
二十一、肩の痛み癒ゆ
(石川県松任市)N男(50歳)
平成四年の初め頃、突然肩の痛みを覚えるようになりました。私は、種々治療を試みましたが一向によ
くなりませんでした。
当時、N技研の従業員十五名で広島県方面に旅行に出掛けました。その時、府中市に首のない珍らしい
お地蔵さんがあるが、何でもよく利くという首無地蔵のうわさを耳にしていましたので、備後府中市へ
行き、夕方首無地蔵堂に参拝しました。一行中、私のみ宗務所で奉納金を納め、お返しの地蔵タオル(
肌守り)を頂いて帰りました。
タオルで痛いところをさすっておれば治ると聞いていましたので懸命に肩をさすっていましたところ、
いつの間にか痛みが消えておりました。
現代医学的な治療法ではなく、説セは出来ませんが、世の中にこうした治癒もあるものだと思っている次
第です。
お地蔵様ありがとうこざいました。
平成五年三月十九日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>22
(22)『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
二十二、耳朶の腫れ癒ゆ
(香川県山本町)Y女(67歳)
私の主人の右の耳朶に、小指の爪より大きい黒いぶつぶつのようなものが出来ておりました。汁が出る
ようでしたら悪性でしたのでしょうが、幸い汁も出ていませんでしたが、
十日位してかさぶたになっておりました。医者に診察してもらうようすすめましたが、医院には行かぬ
と言い張りました。
平成五年六月十八日の首無地蔵の例祭にIさんに連れられて初めて参拝し、お地蔵さんの霊力のすばら
しさを知り、地蔵タオルを受けて帰っておりました。
主人が医者に行かぬなら、お地蔵さんに頼んで治してあげようと、地蔵タオルを主人の耳に当て、一生
懸命に「おんかかかびさんまえいそわか」を唱えておりました。
翌日、蜷lが呼ぶので急いで行って見ると、
「耳がつるつるになっている、かさぶたがそんなに早く取れなおるのか、耳がきれいになった。」
と半ば驚き喜んでいました。
これが近所の人の評判になりました。
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私は、左の脛が痛く、その上ギックリ腰になっていて、毎日医者に通っていました。先月十八日、首無
地蔵に参ったときお地蔵さんの石に触わり、その手で腰や足をさすって帰りましたら、七月初めには非
常に痛みが軽くなっていました。
私の血圧は普通の人の血圧と違い、上は八〇、下は六〇~七〇といづれも一〇〇以下でした。それが何
かの調子で一五〇になると、普通の人なら高くない血圧なのに、ふらふらして目がまわり苦しみました
。首無地蔵に参って以来、頂いたタオルで頭をなでると何ともなくなりました。足も腰も楽になりまし
た。
先日、岡山の最上稲荷にお参りしたときも、スイスイと何の苦もなく石段を上下出来ました。お医者も
お蔭でしょうといって下さいました。
誠に有難いお地蔵のお蔭を頂きました。
首無地蔵様有難うこざいます。
平成五年七月十八日
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第16部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第16部
あとがき
平成五年五月十八日をもって地蔵祭祀十六周年を迎えました。当日の年大祭は生憎の雨にもかかわらず
近郷遠来の一万人近い参拝客で境内は雑踏致しました。
祭祀十六周年目に当り、首無地蔵尊の霊験記第十六部を編集出版し得ましたことを至上の喜びと致しま
す。相変らずの数々の不思議な霊験談に、只々(ただただ)地蔵尊の霊力に感嘆するばかりです。
広島県の東部の府中市の北方八ツ尾山(三四五.九m)の麓(ふもと)のこの丘は、霊地として根付い
たことを思わせます。
数多くの体験記をお寄せ頂いた方々に対し厚く御礼申し上げると共に、益々多くの人が御地蔵の霊力に
触れられ、至福の生活を送られることを願って止みません。
尚、現在の境内の南側に三五〇坪の土地を買い求め、境内の拡張造成工事が進んでおります。参拝者の
皆様により快適な想いの場を提供すべく目下計画中であります。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
一、営業成績の向上と心臓病の好転他
その一、営業成績の向上
その二、心臓病の好転
その三、縁談が決まる
その四、ノイローゼが治る
その五、姉の腎臓病の好転
その六、家庭円満が戻る
(岡山市)M男(59歳)
その一、営業成績の向上
私は楽器の製造販売会社に勤務している。十六年前、妻の母親が首無地蔵の話を耳にして是非一度つれ
て参ってくれと話していた。休日を利用して広島県府中市に行くと、地蔵を祀った場所はすぐ判った。
発掘現場から四~五〇メートル上手の山裾に土地を整備して移転したばかりの時であった。眺めのよい
上に新しい須屋を建て、首のないお地蔵様が祀ってあった。
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参拝を終えて帰ると、続けざまにピアノの注文を三~四件受けた。高価なピアノ一台を売るのに簡単に
買い手はつかず売込みに苦労する商売であるが、この時ばかりは意外であったが、不思議とは思わなか
った。
二~三ケ月経って義母が再び参りたいというので、二度目のお参りをした。その後は仕事が順調に行き
、この時初めておかしいなと思った。義母は三人に一人がお蔭を受けるので、三回はお参りした方が良
いと申すので、今度は私一人で三度目の参拝を果した。これが首無地蔵参拝の始まりであった。以来、
数年間は月参りを欠かさなかった。ある時、地蔵堂で金杯を貰った。参拝者に配布した残りが一~二ケ
しかない金杯を頂く幸運に恵まれた。七年ほど前までは毎月参っていた。そのお蔭か、営業成績優秀と
いうので、会社より社長賞をもらったことがある。又ある年は、営業成績個人の部で全国第二位の成績
を上げるなど、営業マンとしての面目をほどこした。
地蔵参りが始まってから、月参り毎に会社の人や他の人を連れて参るようになる。多い時は十五~六人
一度に参り、自家用車が長々と続いた事もあった。何か困った人の話を聞くと即座に首無地蔵の話をし
たものである。
倉敷市の知人でOさんが糖尿病で困っておられたので、首無地蔵の霊験のすばらしさを話し、参るよう
すすめておいた。それっきりこのことを私は忘れていた。半年ほど経った頃私はいつもの様に地厳に月
参りを行い、受けた地蔵タオルで、お地蔵さんの石をさすっていると、お堂の反対側から同じくタオル
でさすっている人がある。その人はOさんであった。共に気付きおどろいた様子で互に顔を見合わせ、
声をかけてこられた。お蔭で糖尿が大変良くなったのでお礼参りに来たとの事、大変喜んでおられた。
お話してから一度も会っておらず、石地蔵の両側から、タオルで撫でながらの不思議な再会であった。
御本人は病の好転に驚いておられた。
その二、心臓病の好転
私は仕事の関係で大阪に単身赴任していた。神戸に住み通勤の途中、JR大阪駅ホームで倒れた事もあ
る。階段を上る時息切れがしてどうにもならぬ事もあった。平成六年一月の末、風邪と同じ病状がした
ので神戸で医者に行ったが風邪薬をくれただけだった。飲むとよけいにしんどくなり、その夜から呼吸
困難になり、タンとセキでどうにもならなくなり、これは死ぬかもしれないと自分でも感じた。後でわ
かった話だが風邪薬は劇薬が入っていて心臓病にはむしろ誘発する働きをし良くないとの事であった。
岡山に連賂をとり次男と妻の二人が迎えに来た。やっとの思いで岡山に帰り、その夜又、呼吸困難に陥
る。翌早朝、日曜日の当番医を調べ、岡山市民病院へ車で妻につれて行ってもらった。診察の結果すぐ
救急車を手配され岡山国立病院に入院した。市民病院の当番医師に何故もっと早く来なかったかといわ
れた。
私は狭心症と思っていたが、拡張型心筋症になっていた。助からぬ病気という。心臓移植しか治る方法
はないという。大阪医大に行かねば移植は出来ないといわれ、それには手続が必要であり、長くかかる
という。他人様の心臓を移植しなければ、寝たり起きたりの生活で、家の回りをぶらぶらする位で三年
の寿命、良く生きて五年、と宣告された。
私は首無地蔵のタオルを会社の事務机の中とカバンの中と家にいつも置いていた。家にあるタオルを早
速病院にもってくるよう妻に頼み、夜寝るときタオルを心臓にあてて寝た。日中は病院に気兼ねしては
ずした。お地蔵さんに毎日真剣にすがっていた。
入院して間もなく病状が悪化して呼吸困難に陥った。意識がもうろうとしているとき、川の流れが見え
157
た。舟がやってくる。船頭が乗っている。川のむこうは花がいっばい咲いている。花の中に若い女の人
が笑って立っている。船頭も私を見てにっこり笑っている。対岸の花畑はきれいな光景であった。船頭
は黒い服を着ている。誰も私においでおいでをしない。ただ笑っているだけである。
反対の遥か彼方で私を呼んでいるようだ。意識が戻ってからのことであるが、看護婦が朝五時頃巡回に
来て、私の異常に気付き顔を叩いたり、大声で呼んでいた声であった。
それから二ケ月を経過した。医者は妻と子供を呼べという。急に呼び出しを受けた妻は私に不吉なこと
が起きたのではないかと驚いていたが、医者より主人に奇蹟が起きたと聞かされ、安堵の胸をなでおろ
し喜びに変った。私の病状がすっかり好転していたのである。妻は本当のことを私に教えていなかった
が、良い話なので初めて真相を打ち明けた。
本当の病状は、拡張型心筋症でうっ血性心不全を起して居り、これは心臓の筋肉が壊死(えし)する病
気で、心臓病の末期的症状であり、うっ血性は肺に血が固まり、呼吸困難になる病いであった。心臓の
筋肉が壊死する故に移植するしか方法がない。
私はまさに死の淵にあった。私は病気は自分でなおすしかないと思った。病気がよくなったのもお地蔵
さんのお蔭としかいいようがない。お医者が奇蹟が起きたと私に伝え、二人も三人もの医者が私の状態
を詳しく聞いていた。治るはずのない病気が好転したのが医者のおどろきであったようである。
病院に患者が増え、ベッドをあけねばならず、自宅療養してもよいことになり退院した。家に帰れば寝
るだけで動いてはいけないと注意された。復職は考えぬがよいと忠告もされた。
しばらくは妻の運転で通院した。バスで通院してもよいことになり、やがて車を運転して通院してよい
ことになった。その中、階段を五~六段上ったり、二〇〇~三〇〇メートル位は歩いてもよい許可が出
た。
朝、犬を連れて散歩に出るようになった。三ケ月経つたころ急に犬がよろけ、ふらつき倒れる。じっと
見ていると起き上るが以前のような元気がない。獣医に見せると犬の心臓が悪いというので一週間入院
させた。犬の病は奇しくも私と同じうっ(鬱)血性心不全であった。私の心臓病のことは獣医に話して
いなかったが、このとき打ち明けると、犬は貴方の身代わりになったと真剣な目差しで獣医は語った。
愛犬は退院後一週間で死んだ。獣医の紹介で獣医でつくっている専門の葬儀屋が丁寧に迎えに来てくれ
て火葬にしてくれた。そして案内状が家に届いた。寺へ行くと千人近い人が参っており、岡山市でも有
名な日蓮宗の寺で二時間法要して頂いた。犬も成仏してくれたと思う。
死地を脱して、私の心臓は八〇%ほど回復していたが、尚、治療を続けるため新薬をくれた。きつい薬
なので身体に合わなければ取替える。一年後には副作用が出るかも知れぬということであった。飲み始
めて十ケ月経つとお腹が痛み始めた。即刻国立病院に入院した。下痢、発熱が続いた。診断の結果大腸
が犯されていた。大腸の悪い部分を切り取ることになった。平成六年十二月二十五日が手術の予定日で
あった。ところが急患が入り手術は正月過ぎまで延期された。次の手術までの間、地蔵タオルを腹にあ
てがい、「おんかかかびさんまえいそわか」を一年懸命唱えていた。
平成七年の元旦が過ぎて一番に手術することになり、再検査した医師は、手術は取り止めだと言った。
大腸は奇蹟的に好転していたのである。医者も首をかしげておられた。
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平成七年四月に会社に復職した。病前は大阪支社勤務中であったので当然に大阪に復帰するはずであっ
た。別に申し出たわけではないのに、岡山市にそのままいてよろしい。岡山で体を馴らすようにという
会社の温情のある申渡しであった。
退院後は現在まで三回首無地蔵にお礼に参っている。
平成元年十二月十七日、一ドル=一四三円四〇銭。東証平均株価三万八九一五円の史土最高株値をつけ
た日本経済は、平成三年五月からのバブル崩壊による平成の大不況に突入した。ドルは高騰し、平成七
年には七十円台まで上った(現在は一〇〇円前後)。株価も一万七~八千円を上下している。日本の多
くの企業は円高による輸出不振、低価格の輸入品に押され、又国内消費も冷え、会社は体質改善を余儀
なくされ、リストラクチュアリングを合言葉にどの会社も大幅の人員整理が進行している。私の年齢、
体の状態からして、真先きに取上げられてもおかしくないが、私はそのまま会社に居残っている。
計らわず、首無地蔵尊は私を良い様に導いて下さっている。有難い限りである。
以下、私が薦めてあげ、又は地蔵堂まで案内して上げた人々の中よりお蔭を貰われた人四~五人を紹介
する。参拝後の結果を聞いた訳ではない。先方から御礼を言われた方達である。この他に数多くの霊験
者のあることを附記しておく。
その三、縁談が決まる
神戸市灘区に三十三歳のOさんがおられる。その母親は主人を亡くしており、大阪で寮母をしておられ
た。日本でも有数の教団の熱心な信者であった。平成五年の秋、たまたまその母親と会い、息子に縁談
の整わない悩みを聞かされた。既に十何回も見合いをしたという。広島県の府中市に首無地蔵がおられ
、とてもよく聞いて下さると教えて上げ、地図も記入してある首無地蔵のしおりを渡した。母が息子に
話すと、Oさんは早速参るといって母親と二人で十月の次の日曜日に参拝された。その年十二月には縁
談が決まり、結婚され母子共々に大喜びされた。現在は芦屋市に住んで居られる⊂
平成七年一月十七日、午前五時四十六分、降って湧いたように震度七の都市直下型阪神大地震が起き、
死者五五〇〇人を超す大災害が発生し、壊滅的大惨事となった。芦屋市もその中心の都市であった。O
さんの家は高速道路が倒壊したすぐ近くにあったが、Oさんの家は全く無傷であった。テレビで見ても
分るようにOさん一家周辺はひどい壊れようであった。
Oさんも首無地蔵尊のお蔭と有難く思われ、紹介した私に感謝の念でいっぱいの様だ。
その四、ノイローゼが治る
岡山市でピアノの教師をしているN先生の娘が、銀行のS氏と結婚された。S氏は本店勤務であったが
、結婚後間もなく遠方の支店に転勤となった。S氏は転勤を嫌っておられた。いやいやながらの支店勤
めでは人間関係がうまくゆく筈がない。S氏はノイローゼになった。
私は娘の母親に首無地蔵に参るよう薦めておいた。一家で首無地蔵に参られたらしい。半年経ったとき
、「Mさん、有難う」といきなり母親より言われた。
普通、支店勤務となれば一年~三年は勤めるのが慣例であるが、こちらで御願いしたわけでもないのに
、一年もせぬ中に本店に戻されたという。そしてノイローゼも完全に収った。早速一家は首無地蔵にお
礼に参られた。
その五、姉の腎臓病の好転
六~七年前のことである。姉は腎臓を患い、病院を転々としていた。最後に岡山の中央病院に入院した
。依然としてよくならない。
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当時私は首無地蔵に月参りをしていたので治癒をお願いした地蔵のタオルを受けて病院に持参した。姉
はタオルを腎臓の箇所にしっかりとあてがっていた。二ケ月位の入院で姉は退院した。一〇〇%の治癒
ではないが、時折通院して定期検診を受ける程度である。本人はしんどいとか苦しむことなど一切ない
。
その六、家庭円満が戻る
倉敷市中庄にT氏がおられる。T氏は養子である。T氏はマージャン狂といわれるほどマージャン好き
であった。養子先は大百姓であり、義父は死亡していた。T氏はマージャン勝負に大金をかけた。金が
ないときは米を持ち出し払った。従って、家庭内はうまく行かず風波の絶え間がなかった。大酒は飲む
。夜は遅い。暴力はふるう。金は家に入れないし、遂に離婚問題が持ち上った。
私はT氏の妻に相談を受けた。丁度会社の同僚四~五人を連れて首無地蔵に参ることになっており、T
氏もその仲間に加えた。同僚は一回切りの参拝であったが、T氏はこの後家族全員を連れて参られた。
その後も何回か参られたようである。
家庭に平安が戻った。妻からも、本人からも家庭円満であるとの言葉を聞いた。
(平成七年九月十日)
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「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
二、骨ガンの苦痛なく父の往生
(広島市西区)W女(57歳)
若いころから無口で友達もなく、唯仕事だけを生きがいにしていた父が十七・八年前交通事故で耳が聞
えなくなり、以後補聴器を付ける事を嫌って自分の世界に閉じこもり、他人の言葉を殆ど聞かなくなり
ました。それが原因で老人性ボケの症状がでて、一年十ケ月前に入院しました。
父は七・八年前から夜中に七・八回もトイレに行く有様で、尿の方の検査をしていただく様にと何度も
言いましたが、ただガンコに「何ともない」で過していました。父は今年一月十日他界しました。昨年
十月、尿が出なくなり検査していただいたら、前立腺肥大から前立腺ガンになり、骨にまで転移して手
術も出来ず、ホルモン注射でガンの進行を止めながら死をメつという状態でした。先生のお話では一~二
年の命とのことでした。今年一月四日から体調がおかしくなり食事もしなくなりました。一月八日から
急変して呼出しがかかりました。ガンで命を断つ人は意識がはっきりしていて、痛さに苦しみながらこ
の世を去ると聞いていましたので、先生にお聞きしましたら、ほとんどの人が死の直前まで苦しむ様だ
といわれました。注射で痛みをおさえる事はできますが、本当に苦しみだしたらどうしようか?と思い
ました。
その時、何度かおじぞう様にお参りに行きまして、世話人のS様から、本当に心をこめてお願いすれば
ガンの痛みもなく、あの世に行かれた方のお話を想い出しました。私は九日と十日と父のそばにいると
きは、父の手をにぎってガンの痛みで苦しみません様に、どうぞ痛みから助けて下さいとお願いしまし
た。父は骨ガンなので体を動かすととても痛がる由、私がそばにいて様子を見ていますと時々顔をしか
めるぐらいで、静かにねていました。時々手を動かすので手をにぎりますと、すぐ静かになります。死
の四時間ぐらい前腰をむしタオルでふきましたが痛がりません。先年が見に来られて、痛いはずだがと
言って足を右に左にゆすりましたが全然痛がりません。先生の方がびっくりなさって、あれっ!!全然痛が
らない。痛くないのか?。普通ならとても痛んで苦しむのに、と言われて行かれました。枕もとには看
護婦さんからの心のこもったガン封じのお守りと、私がいただいた首無地蔵御守りが並べてあります。
160
首無地蔵様が父のガンの痛みと苦しみを取って下さって・・・とてもうれしく胸がいっぱいになりました。
父はそれから三時間後に、ガンの痛みも苦しみもなく、お助けいただいたお地蔵様に導かれながらあの
世に旅立って行きました。
首無地蔵ぼさつ様、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうどざいました。
合掌
(平成五年九月一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>3
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
三、頭痛が癒える
(奈良市西大寺)N女(71歳)
私は今日平成六年の二月二十三日の午後一時頃から、とてもはげしい頭痛がして、それはほんとにとて
もつらい時間を晩まで過しました。
その日、三日も風呂へ入っていないので、支度をしていたからとうとう思いきって風呂へ行って帰りま
した。風呂から帰ってきても、はげしい頭痛はいっこうに止りません。夕方になって苦しい頭痛になや
んでいました。時間は経つばかりで苦しかったです。その晩は夕食をすませて早く寝ることにして、ぼ
つぼつ夕食を始めましたが、頭痛がして苦しいので御飯を半分ほど食べて、まだ半分のこっている時に
、ふと思いついていつもお助けを受けている首無地蔵様の「タオルとお守り」を持って頭を一生懸命に
・・・頭痛ナ苦しんでおるのでございます、
お助け下さいませと十分ぐらい頭を「なでさせて」いただきました。その時夕方の六時でした。十分も
くり返してお祈りしました。そしてタオルとお守りをおさめて後、残り半分の御飯を食べ終って六時二
十分頃には、なんだか頭か軽くなってきたような感じがしました。私はこれわこれわと一人でおどろき
、だんだんと時間が経っていました。丁度七時でした。その頃にはすっかり頭痛は治ってしまいました
。痛かったのは「うそ」みたいでした。その時私はびっくりして今六時間苦しんだ頭痛は「首無地蔵様
」が治して下さったのだ。ほんとに有難いことだ。首無地蔵様有難うございます。ほんとうに有難うご
ざいますと何回もお礼をいいました。あれ程にはげしかった頭痛がすっかり治りました。首無地蔵様有
難うございます。ほんとに有難うございます。頭痛がすっかり治りましたと、私はていねいに何回もお
礼をいってその晩は八時半には床に入りました。すぐに眠ったらしいです。
翌朝二十四日の朝五時半に目がさめてお手洗いに行きましたが、とても頭が軽くてすっかり気持が良か
ったです。又それから一寸眠りました。二十三日の晩に首無地蔵様のお力を受けて頭痛を治してもらっ
たことはとても嬉しく、私には一生忘れることは出来ません。首無地蔵様有難うどざいました。又、お
願いを致します。
(平成六年二月二十四日)
追記
又、今二十五年間の腰の痛みに苦しんでおりました所、今年三月始めより首無地蔵様のお蔭ですっかり
治りましたことを附記致します。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
四、五十年来の中耳炎癒ゆ
(広島県佐伯郡湯来町)O女(58歳)
161
今より九年前の昭和五十九年、主人が胃ガンの手術をしました。
家の前のSさんが既に十年前に首無地蔵のことをよく知っておられ、主人の手術後に首無地蔵に参れば
大変な御利益があると教えて下さいました。
昭和六十年二月、主人はドライブを兼ねて私を連れて府中市の首無地蔵へ参ると言い出しました。真夜
中の夜十時、湯来町を出発しました。府中市に行くのは始めてで道は知りません。とにかく東の方向へ
車を運転し、山中の山路も不思議に迷うことなく、全く導かれるように、芦田川沿いに下り、府中の街
の入口のガソリンスタンドに掲示してある首無地蔵の道しるべ(千メートル先)のあるところまで来ま
した。
゚ 前二時でした。今頃参ってもおそらく門が閉っていて入れないであろうと思い、手前の府中公園の路
上で仮眠し夜の明けるのを待ちました。夜明けと共に地蔵堂に参りましたが門などなく二十四時間いつ
でも参拝出来ることを知りました。以後毎月三回は参拝し、しかも夜中に参っています。五~六回参っ
ている中に主人は体が浮き浮きするようだと申しました。大手術後なのに府中市迄三時間を要す道のり
でありながら、度々運転しても体にはこたえないと言います。むしろ気分がさわやかであるといいます
。
お蔭で主人の胃の調子はすこぶるよく、同年代の身内が主人を含め四人共胃を患い、他の三人は間もな
く死亡しましたが、主人のみ現在も元気でいます。姉も首無地蔵様のことはよく知っていて主人の現在
あるのはお地蔵のお蔭であると申しています。
昭和六十年三月にも夫婦で参りました。
私は耳は年中じくじくしており、、赤ん坊の時から慢性中耳炎にかかっていました。どんなに治療して
も治らず、五十年間悩み通しました。医者も匙(さじ)を投げましたし、なおらぬものと半ばあきらめ
ておりました。
三月、首無地蔵に参って間のないある日、姉が私の耳が奇麗になっていると教えてくれました。それま
で気付きませんでした。耳穴にさわって見ると、あのいやなじくじくがない、耳がすべすべしている。
五十年来の慢性中耳炎がなおっている。私はうれしくはありましたが、それよりも驚きの方が大きかっ
た。どんなに手を尽しても治らなかった中耳炎が首無地蔵に参っただけでなおっている。不思議という
外ありません。
同時に又々、主人に奇蹟が起きていました。主人の左肘(ひじ)が悪く骨が外れて、そのまま肉が盛り
上り、肘は曲ったままになりました。それが季節の変り目毎に痛んでおりましたが、地蔵参拝後は全然
痛まなくなりました。医者は肘の状態を見て、痛むはずだがと申しますが主人はけろっとしており、医
者も首をかしげて不思議がっております。あれから十年経っていますが主人の痛みは全くありません。
その後、主人は心臓を悪くし、平成六年二月十四日に手術をしました。三月八日には退院して、あくる
日には車を運転して廻っていましたが何ともありません。退院後五日目に首無地蔵まで三時間運転して
参りましたが、主人はつかれた様子も痛む様子もなく、けろっとしています。周囲の者が皆びっくりし
ています。三月八日の参拝にはお礼に三千羽の折り鶴を奉納しました。
私は心がいらいらしても、地蔵堂へ来るとす-と楽になり落着きます。ここの境内には何か不思議な雰
囲気があります。
或る月、生後六ケ月の孫をつれて年寄夫婦丈で参拝しました。孫はむずかるかと思いましたが、帰宅す
るまでミルクも欲しがらず五~六時間寝通しで全く手がかからず、これも意外なことで、地蔵参拝の不
思議の一つです。
姪のむこが地蔵のタオルを欲しがり、お産の腹帯用にと、事務所で受けてもって帰ってやりました。霊
験あらたかの一語に冬きます。
毎月一回は参らぬと落着かず、気が済みません。数々のお蔭を頂き、首無地蔵様ありがとうございます
。
おんかかかびさんまえいそわか
合掌
162
(平成六年三月十三日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
五、心臓弁膜症いゆ
(福山市)K女(50歳)
平成元年一月かぜで府中の病院へ行き、心臓の機能に障害があると言われ、三月循環器病院で弁膜症と
診断されました。人から拝んでもらったらどうかと薦められていましたが、信仰療法には疑いをもって
いましたので、積極的になれませんでした。ところが子供の微熱が一ケ月位続いたので医者の治療を受
けましたが、はかばかしくありませんので、霊験いちじるしいという首無地蔵の話は聞いていたので、
子供のために地蔵参拝はしておりました。そして子供の病気は快癒しました。
だが私の方は痛みはありませんが、血圧が上ったり、脈が早くなるなどして、しんどい日々でした。
平成五年十二月中旬、医者より心臓が悪化しているので、十二月中にS臓の手術を要すると宣告されまし
た。私の通っていた病院は福山の循環器病院です。このことを昔からの友人であるS氏に打ちあけると
、物凄くよく聞いて下さる府中市の首無地蔵にお願いしてやると引受けて下さいました。
S氏は十二月の中頃、午前零時に首無地蔵に参拝し約四十分間、連続三日間、深夜の祈祷を続けて下さ
いました。
平成六年の新年早々に病院で診察してもらうと、心臓は正常に戻っているといわれ、手術しなくてよい
と診断され、ほっとしました。このまま悪化すれば肝臓にも負担がかかってくるので一安心でした。
子供の場合といい、私の心臓の治療といい、信仰による病気直しは確かに生じており、私の神仏への考
え方は訂正せざるを得ません。
S氏の店で、水割りウイスキーを飲んでいた時、氏からその後の心臓の様子を尋ねられたので、正常に
なっていることを告げました。お礼はどうしたらよいかと聞くとお地蔵さんに礼参りしようということ
で、一月三十一日S氏と共に首無地蔵に参拝、清酒を供え深々と感謝の言葉を申し上げました。
首無地蔵尊ありがとうございます
合掌
(平成六年一月三十一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
六、卵巣腫瘍等による痛み消ゆ
(広島県芦品郡新市町)女
五年前、母が卵巣腫瘍で府中市の病院に入院しました。病状は悪化し手おくれで手がつけられず、何回
も注射を打っておりましたが治らず、三ケ月後に遂に切開して退院致しました。
退院後三年経過しました時、他の機能が犯されました。種々治療したお蔭で病巣が小さくなりましたの
で、三ケ月ほどして退院しましたが、半年後に又々悪化して半年間治療を受けるなど入退院を繰り返し
ておりました。
次には腸がやられ、直腸も切りました。退院後三ケ月して今度はお腹が悪くなるなど、も早、薬の効き
目もなく、却って副作用が起きてよろしくないので、漢方療法に切り換えて見ました。がこれもはかば
かしくなく、前より痛みがはげしくな閧ワした。八時間おきに痛み止めの注射を打つようになりました。
眠れぬので睡眠剤を飲み、安定剤を服用しておりまして、為に母はうつ病状態になっておりました。大
腸も破れました。
163
母は十五~六年前の首無地蔵が出現された頃、時おりお地蔵さんに参っておりました。その関係で、私
も首無地蔵のことはよく知っておりましたので、母の病状がはかばかしくなく、心痛していた矢先、薬
も効かなくなり、頼るものがないので、首無地蔵にすがる気持ちになりました。一~二年前より週一回
は参り、母の治癒を一心に祈願しておりました。私の真剣さが足りないのか母の病状は一向に好転致し
ません。
首無地蔵事務所で、お蔭を貰われた方の霊験談「地蔵大菩薩礼賛記」第十四部、十五部、十六部が発売
されておりました。その本を読んでいて、S様のすばらしい体験談が載っているのが目に止まり、同氏
に相談しようと思い事務所で電話等を教わり連絡がとれました。様は私の家に来られ、家相のよくない
ことを指摘されました。古い家の方はトイレと炊事場の方角がよくないと言われ取りこわしました。新
屋は鬼門(東北)の方にトイレがあり、井戸が表鬼門(東南)にあるので清めて下さいました。
S様は一月三十日、三十一日、二月一日と三日間違続して、午前零時より三十分間首無地蔵にて母のた
め深夜の祈祷をして下さいました。始めの二日はお地蔵様が乗り移られ無我夢中でしたが、三日目の夜
は、お経がスムーズに口をついて出るようになり楽になったと申されました。そして首無地蔵様のお働
きが現れ、体内の悪いものが出たり、熱が出たりするが心配ないと注意して下さいました。数日して、
おりものがあり、熱も出ましたが発熱による母の苦痛は全くなく、むしろ医者が不思議がっておられま
した。母の痛みもなくなっており、痛止めの注射も不要になりました。
二回目の深夜の地蔵参拝してのお祈りは二月十三日、十四日、十五日の三夜行われました。家族も本気
でお祈りしなければ駄目だと注意され、私と父と妹も一緒にS様に従い首無地蔵に参りました。厳冬の
寒さが身にこたえましたが、私達は一生懸命でした。終って、首無地蔵のすぐ上に祀ってある淡島明神
にも参拝しました。
不思議なことに、母の痛みが消えたのは勿論ですが、ひどく腫れ上っていた両足の中、先ず片足が引い
てきました。
病状は快方に向いました。何よりも有難いことは痛み止めの注射を打たなくて済むようになったことで
あります。母は楽になり、父も大喜びです。日が経つにつれよくなる希望が湧いて来ております。
首無地蔵様、本当に有難うございます。一日も早く母の全快をお願い致します。
二月十八日の月例祭には早速お礼に参りました。
おんかかかびさんまえいそわか
合掌
(平成六年二月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
七、後頭部打撲傷がなおる
(広島県福山市)T女(69歳)
十七年前、福山市の会社に勤めていた主人が腰を痛め、疲れ易くなり、仕事も休み勝ちでした。
府中市の首無地蔵の下手のS氏より、だまされたと思って首無地蔵に参って御覧なさい。お蔭がありま
すよと薦められました。半信半疑ながら月に何回か首無地蔵に参っておりました。半年位経った頃でし
た。ふと気がつくとあれ以来病院にも行っていない。しょつ中行っていたハリ医者にも御無沙汰してい
ます。これがお蔭ではないかと思い、それまであまり信じていなかった主人も私も本気になり、毎月十
八日の月例祭には必ず参るようになりました。
七年前、事情があって私はストレスが溜るようになりました。母の面倒も見ていたし、妹のニのゴタゴタ
にも巻き込まれ、自身の家の中がパンク状態になり悩んでおりました。あげくの果て倒れて頭を打ち入
院するはめになりました。後頭部の打撲傷で四ケ月治療を受けました。
164
意識不明の間のことでした。紫のカーテンが揺れ、大きな掛軸が上から降りて来ました。掛軸には観音
さまのような姿が絵書かれ、その中にお地蔵さんのお顔も沢山ありました。掛抽は胸の辺りで止まり、
また上に上って、紫のカーテンはゆらゆら揺れて消えました。それを機に頭の打撲傷は次第に治って来
ました。
これまでは私は神仏を信ぜず、頼るようなことはありませんでしたが、主人の体験や私の体験から仏に
頼ることは迷信ではないと強く信ずるようになりました。十七年間毎月十八日のお祭りには必ず参り、
夫婦共に地蔵参拝していますが、都合のつかぬときはどちらかが必ず参っております。
頭のひどい傷跡も残りませんでした。手のふるえていたのもいつのまにか治っていました。お医者は、
四ケ月の入院にかかわらずよくあそこまでよくなったなあと主人に申したそうです。
私は首無地蔵にお参りせぬと何か気が済みません。朝方、大儀だなと思っていても、参り出すとしゃん
として来ます。そして境内に足を入れると安心します。車にはよく酔っていましたが、私が本気に信心
しだしてから車に酔わなくなりました。主人も体が弱かったが七十歳過ぎた今も元気で働いています。
息子によいお嫁さんをと首無地蔵様にお願いしておりましたら、釣合いのとれぬ位立派なお家から嫁に
来て項きました。先方様の御両親も嫁さんも気立てのよい申し分のないお方です。
家の中は明るく大変よろしい。主人は好きだった洒もタバコも止めてしまう位変りました。
首無地蔵様、誠に誠に有難うございます。
世の人々の為にお蔭をさずけて下さい。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成六年六月一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>8
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
八、脳梗塞と足が快方に向う
(広島県三次市)S女(67歳)
平成五年十月十日のことでした。主人の手足がしびれたようになり急に不自由になりました。医師より
脳梗塞と診断されました。
主人は歩くに難行しておりましたが、それでも今年の二月まではどうにか歩いておりました。それが急
に寒くなり全く歩けなくなりました。便所へ行くにも支えて行く有様でした。
今年の四月より主人の病気平癒祈願に、首無地蔵参りを始めました。
十四・五年前、八十三歳だった祖父が脳血栓で倒れたので、首無地蔵様にお願いし、そのとき幟も奉納
しました。お蔭で一時よくなりましたので、お地蔵さんの霊験はよく知っております。今回は主人のこ
とをお願いし、お守りを求め、奉納金を納め、そフお返しに地蔵タオルを頂きました。
家に帰り、このタオルで主人の頭と足を一生懸命さすってあげていました。そして主人と一緒に参拝出
来るようになることをたのしみにしておりました。
平成六年六月二十一日、願いがかない、主人と共に首無地蔵に参ることが出来ました。主人の病状は以
前よりはずっと良くなり、一人で立てるようになり一人で歩く練習をしています。私はお地蔵様に厚く
御礼を申しました。主人は手を合せて長く御礼をいっていました。
主人にはお地蔵の霊体が見えるらしく、座敷を歩きながら時折手を叩いて拝んでおります。食事も旺盛
です。歩くのも大変楽になっております。肩をかかえて地蔵の前まで参りましたが、一人で歩けるよう
になるように一心にお願いしています。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成六年六月二十一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>9
165
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
九、孫の難聴癒ゆ
1.聴覚が戻る
2.交通事故の兄の回復
3.顔のひきつりがなおる
(広島市佐伯区)O女(54歳)
1.聴覚が戻る
平成四年の三月、四歳の孫(男子)が風邪をこじらせ、耳が突然聞こえなくなりました。長い間耳鼻科
医院に通い治療を受けましたし、特別治療も施してもらいましたがよくなりませんでした。医者は他の
治療医を紹介してやると何回もおっしやつたが、その先生を信用して通院を続けておりました。
その年の四月の終り頃、病院の待合室で、山口県の姉に会い、姉の祖父が府中市の首無地蔵に参ってお
蔭を貰い、病気がよくなったので、一度首無地蔵に参って見てはと勧めてくれました。
早速五月三日、一人で首無地蔵に参りました。孫の耳が治るよう懸命にお願いし、受付で地蔵タオルを
受けて帰りました。
それから地蔵タオルを毎日孫の耳にあてがい、顔をさすったり、身体全体を撫でてやっておりました。
四~五日経った頃、耳の症状があまりにも早く好転しているので医者は驚き、本日より薬は出さない、
週に一回来る丈でよいとおっしゃいました。私自身はこの有様を見て、てっきりお地蔵様のお蔭かなあ
と思ったりしましたが、うれしさは隠せませんでした。
忘れもしない平成五年七月七日のことでした。孫が突然「聞えた」といった。私のおどろきとうれしさ
は大変でした。医者も看護婦も共に泣いて喜んでおられました。孫の聴覚は完全に元に戻りました。そ
れ以来何ともありません。
孫が夏、プールで泳いでいるとき、耳に水が入りましたが、悪くなる様子もなく、おまけに風邪を引か
なくなりました。お地蔵様の霊験のすばらしさをさまざまと知りました。
孫は、
「おばあちゃん、お地蔵さんに行かんの?、今度はいつ行くの」
と催促するようになり、参拝をたのしみにしています。孫は四回連れて参ったし、私は六回は参ってお
ります。府中市へ行くのが遠いとは思えず苦にもなりません。
2.交通事故の兄の回復
平成六年二月、兄がバイクに乗って出掛けていたとき、橋のたもとに車が停車していました。その車が
急にバックしたので追突され、兄は七m下の橋下に転落しました。顎(あご)・鼻・歯等を骨折するな
どして、首から上は全部手術を要する大怪我をしました。その為九ケ月も入院していました。口も利け
なくなっていました。耳丈は聞えたが、会話はすべて筆談でした。十一月三十日退院し、平成六年十二
月三十日、広島市で会いました。その時頂いていた首無地蔵のタオルを一枚、不思議なお蔭があるから
、首に巻いたり、撫でたりするようにと言って渡しておきました。
年が明けて平成七年一月十日、電話で容体を聞きますと、今年になって急に、「お早よう」「今晩は」
「お休み」と言うようになったと兄嫁の弾んだよろこびの声が返ってきました。
3.顔のひきつりがなおる
山口県山陽町に姉がいます。姉の顔がひきつりY医大に通っていました。医者は歯から来ているといわ
れたが、一向にはかばかしくありません。首無地蔵のお話を聞いていた姉は、山口の防長バスが地蔵参
拝のツアーを募集していたので、応募し府中市に参りました。
166
首無地蔵事務所にて地蔵タオルを受けて帰り、顔を撫で、夜は四つ折りにして枕の下に置いて寝ていま
した。
それから間もなく顔のひきつりはなくなり、更に不思議なことに膝に水が溜まり正座出来なかったのが
、坐われるようになったといいます。姉は日中は地蔵タオルで膝を撫で、夜はタオルを膝に巻いて寝て
おりました。一ケ月で完全に正坐出来るようになり、びっこもなおり腫れも引いてしまったと姉は大喜
びしています。
身内親族ことどとくお地蔵様のお蔭を受けて感謝の至りです。誠に有難い首無地蔵尊です。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成七年一月十日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十、精神異常が正常に戻る
(倉敷市)女(73歳)
昭和六十年頃のことでした。四十八歳の息子が忘年会に行くというので、酒を飲まぬよう注意していた
にもかかわらず、普段はあまり飲まない子がその日に限り相当飲んだようです。警察から息子の交通事
故の連絡があり、大あわてに現場に飛んでゆくと、子はフーフー言う丈で意識はもうろうとしていまし
た。
自家用車は川のほとりに停っており、河に飛び込む寸前の場所で停車していました。急停車して車体に
頭を打ちつけたのか、苔打ちになったのか、頭がおかしくなっていました。まさしく酒飲み運転の一人
事放でした。酒の飲み過ぎ故に、酒気が収まれば元の意識に戻るであろうといわれたが、一向に正気に
戻りませんでした。しよろんとした顔でスばこを所望する。煙草を側に置いてやるとそれを吸わず、又呉
れと催促する。同じことを繰返すので頭が変になっていることが判りました。
医者にかかりましたが、仲々元に戻りません。この頃、息子は前の仕事を止めて国元に帰っておりまし
た。
精神科の医者に転医しました。相変らずたばこが欲しいというので与えてもそれが分らりません。若い
ので元気がありよく歩き廻わり、お腹が空くらしくうどんを何杯でも食べます。
「お母さん、こんな所で何をしているのか」
と病室に付添っている私に怪訝な顔でたずねたりします。
「私は何でこんな所にいるのか」ともいう。息子のこの有様に情なく、何度も涙を流しました。
その頃、岡山県の笠岡市の北木島にいる祖母が、府中市の首無地蔵によく参っており、お地蔵さんの霊
験を知っておりました。一度参って見るように勧められたが私は半信半疑でした。医者で治らないのに
果して元通りになるのであろうかと疑問でした。それでも藁にもすがる気持ちで平成四年に府中市に参
りました。首無地蔵の受け付で地蔵タオルを受けました。
私自身腰痛に悩まされていましたので、帰宅したその日の夕方タオルで腰にさわりました。と、突然電
器に触れたごとく腰がピリッとし、腰すじに電流が走ったようなショックを受けました。お地蔵さんは
電気を起されると思ったほどでした。それっきり電気の感じは二度と起きていません。そして腰痛がぴ
たりと止まりました。あまりの不思議さに唖然(あぜん)としました。私はお地蔵さんの霊力を本当に
信ずるようになりました。息子の治癒も神頼みしかないと決心し、息子のため孫をも連れて首無地蔵に
改めて祈願に参りました。そして必死に拝みました。
お受けした地蔵タオルで、息子の頭や首のまわりを懸命にさすってやりました。
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それから十日も経ったでしょうか、短い時間ほんの一部分ですが、まともだなあと思う事を話すように
なり、今までの絶望と悲しみの中から一縷の望みを見出して居りましたところ、お医者より付添は今日
から帰りなさいといわれました。
「これだけ手のかかる、目のはなせない子を置いては人様に迷惑をかけるのが心配だ」と申しましたと
ころ、本人の自立心を持たせた方がよいので、ナース(看護婦)のそばにおいておくからという事で帰
り、翌日夜の明けるのをまちかねて病院に行きました。看護婦さんが、「しつかりしてきています。心
配ないですよ」といわれた時は思わず嬉し涙が出てしまいました。面会にもあまりこない方が良いとい
われ、一週間おき位に行きました。面会に行く度にしっかりして来ています。息子を見る度につい口に
出る言葉は、
「南無地蔵大菩薩」で、心の中で手を合せてしまいます。
退院の日お医者から、同じような患者はたくさん見て来たが、この人の回復ぶりは正に奇蹟としかいい
ようがないといわれました。
息子は完全に正気に戻り職場に復帰しました。私は首無地蔵尊にのぼり(幟)を奉納し、お礼を申し述
べると共に二度と悪くならないよう息子の健康をお願いしました。
以後毎月十八日の例月祭には必ず首無地蔵に参拝します。当日は息子が運転し私を乗せてくれます。
生きている間は地蔵参りを欠かさないと願掛けをしています。家ではお地蔵様の御姿を思い浮べながら
般若心経を毎日上げています。そして今孫が勉強好きになるように、又苦しみを持つ人が一人でも多く
救われるよう祈っています。
首無地蔵様有難うございます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成七年一月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十一、股関節の痛み消ゆ
(広島市中区)H女(67歳)
私は七年前から腎臓が悪くなり、透析を始めました。透析を長く続けると骨の成分を犯すらしく、五年
前より股関節が痛むようになりました。立ち上るときとても痛い。じつとしていても痛く、むしろある
程度歩いた方が楽でした。寝ているとき神経痛のような激しい痛みがおそっておりました。顔色はどす
黒く、難儀の日々でした。
以前仕事をさせて貰っていた広島市流川町のスタンド「S」の経営者Yさんが私の病体を案じて下さり
、府中市にすばらしく霊験のあるお地蔵さんがおられ、一度参って見てはと誘って下さいました。Yさ
んも首無地蔵さんに大きなお蔭を頂かれ、地蔵大菩薩礼賛記第十四部にその体験談が掲載されています
。(該当文)
平成七年二月一緒に首無地蔵に参りました。そして病気治癒を一心にお願いしました。
参拝を終って帰る頃には楽になり、一回の参拝で股関節の痛みが消えてしまいました。足を屈伸しても
何ともなくなりました。これは本物であると地蔵信仰に本気で打ち込み始めました。
股関節治癒のお礼に主人と一緒に参りました。その時お地蔵さんの霊水を貰って帰りました。足が痛ん
だ時など拝みながらこの水をつけますと忽ち治ります。
腎臓は体内に生じた不要な物質を体外に排出し、体液の組成や量を一定に保つ大事な働きをします。こ
の病気にかかると尿が出にくくなり、大変苦しいのです。
首無地蔵に参拝を始めてから、尿も多めに出るようになり多少楽になりました。
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腎臓透析は一回五時間かかります。その間病院で首無地蔵のタオルを首にあて「おんかかかびさんまえ
いそわか」と一生懸命となえています。透析は死ぬまで続くと聞いていますが、お地蔵さんのお蔭で一
日も早い全治を祈っております。
(平成七年四月二日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十二、孫のおねしょうが止り肩のこり治る
(福山市)女(73歳)
首無地蔵が掘り出され、有名になったのが昭和五十二年でした。それから四~五年経った頃、お地蔵さ
んは何でも聞き届けて下さると聞いておりました。その頃六歳だった孫のおねしょう(夜尿症)がどう
しても治りませんでした。毎朝のこととて何とか治したいと思い、おばあさんは起して小用させればよ
いではないかと注意して下さるが、いつ漏らすか分らず手古ずっておりました。
首無地蔵さんにお願いしてみようと思い、息子夫婦と孫を連れて府中市に参りました。そして孫のこと
を地蔵尊に一生懸命に頼みました。孫も可愛い手を合わせて拝んでおりました。
「何しにお地蔵さんに参ったの」と聞くと、恥ずかしそうに
「ィしっこをお願いした」とためらいながら小さな声で孫は言いました。
不思議も不思議、その夜から孫のおねしょうはぴたりと止ったのでした。あまりの霊験の早さ、すばら
しさに驚きました。
それからも首無地蔵へは時折り参っておりました。
平成六年の秋頃より右肩が凝るようになりました。普通の凝りようではなく、痛くて気分が悪い。風呂
に入っても手が動かず、一人で体が洗えないので主人に洗ってもらう状態でした。
お地蔵さんのことを思い出し、何でも縋(すが)ろうと、早朝一人で参拝しました。宗務所はまだ早く
締っていて、丁度毎朝参っておられるらしいおじいさんに会い、地蔵堂の下手の世話人Sさん宅を教え
てもらいました。症状を訴えると、Sさんは地蔵タオルを送ってあげるから、それで肩を撫でなさいと
申され、住所を告げて帰りました。早速地蔵宗務所より送られた地蔵タオルで、毎夜肩を撫で、寝る時
は右肩をタオルで包んで眠りました。
私は朝起きると東に向い太陽を拝み、正面(北東)に向って八百万の神々をおろがみ、北方府中市に向
っては首無地蔵尊を拝しておりました。二階にはお大師様を祭っており、四国巡拝は何回も致しました
。
気がついたときには肩はいつの間にか治っておりました。
娘が子供二人を残して離婚していました。主人と意見が合わなかったようです。子供は母親を無性に慕
っておりました。何とか元の鞘に収まるようにと首無地蔵にお願いしておりました。間に入った人が上
手に話して下さり、先方から帰ってくるように申され、一年目にして仲睦まじい生活に戻りました。雨
降って地固まるの例えの通り昔のことが嘘のような円満な家庭です。
平成七年六月二十四日のことでした。何でも話し合う友人Mさん宅を訪れ世間話をしていると、Mさん
は娘のことに悩んでおられ相談を受けました。その時私は足が痛んでおりました。そして肩のこりを治
してもらったきりで一度も首無地蔵にお礼に参っていないのに気付きました。お礼に参らねばいけない
と即座に決心し、翌早朝Mさんと一緒に参りました。Mさんは娘のことを祈願されました。(世話人の
)Sさんからも色々アドバイスを受けられました。私はまとまったお金をお礼に奉納しました。私の主
人は鉄工所を経営しておりますが、バブルの景気が崩壊し、平成の大不況に突入しており、仕事が大幅
に減っている時節にかかわらず、夜おそくまで残業する忙しさです。ひとえにお地蔵様のお蔭と思って
います。応接間でS様と話しているとき、毎週日曜日に参られる広島市のスタンド経営者Yさんが来ら
169
れ、紹介され、お地蔵さんから受けられたお蔭話や、旺盛な生活態度に感銘し、大変有意義な参拝日と
なりました。
願わくば首無地蔵様、友人の悩みや、多くの人々の痛みを和らげ給わんことをお願い致します。有難う
ございます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成七年六月二十五日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十三、脳卒中がよくなる
(三豊郡山本町)T女(47歳)
香川県山本町の辻にTさん(75才)が住んでおられます。Tさんは、十二年前に御主人が脳卒中で倒
れ、今もなおずっと看病しておられます。
発病した当時は、病気のためか、あばれたりしておりました。あまりにもひどかったので息子さん(広
島県在住)が見かねて、友人より、府中市に首無地蔵尊が祭ってあり、何でもよく聞いて下さる霊験あ
らたかなお地蔵さんであることを聞いておられまして、早速、府中市に参り、首無地蔵宗務所でお札と
お守りを受けて帰り、おじいさんのベッド(まくらもと)にくくりつけました。その晩からあばれるの
がぴたりと止まり、顔もおだやかになり、なお寝たきりですが事なくすごしておられます。
昨年の六月に、ある信者さんより地蔵タオルをいただいてずっとお守りにして使用されております。
九月のある日、知人より、亡くなられた人の着ていたパジャマがまだきれいなので、よろしかったら使
ってほしいとていただき、その寝巻をさっそく着せたところ、突然おじいさんが「脱がせてくれ、脱が
せてくれ」と苦しみました。おじいさんの顔は、まっ青でした。おばあさんはびっくりして、おじいさ
んの着ていた寝巻をいそいでぬがせました。
そこですぐお地蔵さんのお札で体の上をさすりました。すると今まで顔色が悪かったのが、サッーと見
る間に元の元気な顔色にもどりました。そこでさっそくお地蔵さんにお礼を言いましたところ、「すぐ
その古着の寝巻をこの家から出しなさい」とお地蔵さんからのお告げがありました。おばあさんは、そ
の古着の寝巻を持って来ていただいた人に今までの訳を話し、すぐ引取って帰ってもらいました。その
方は、すぐ処分したとのことです。
古着には、何か因縁があったのでしょうか。
これは今年九月十八日首無地蔵の月例祭に参拝する約一週間前の出来事でした。
平成六年九月十八日、当家(T氏)より御礼のしるしの奉納金を預かり、首無地蔵尊にお供しておきま
した。
誠に不思議な霊験にてここに記させていただきます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成六年九月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十四、心臓発作が治る
(三豊郡山本町)Y女(68歳)
私は首無地蔵様よりしばしばお蔭を頂いています。地蔵大菩薩礼賛記第十六部にも、主人の耳たぶの腫
れたのが癒えた霊験談を載せて頂いています。
170
つい最近も大きなお蔭を受けました。
平成六年八月二十五日、午前十一時頃、激烈な心臓発作が起きました。以前にも度々発作は起きていま
すが、軽い程度で済んでおりました。五~六年前、心筋梗塞(しんきんこうそく)という診断を受けて
おります。
今回の発作は我慢出来ないものでした。締めつけられるようで、痛いという感じを通り越していました
。豆粒のような大汗がたらたらとしたたり落ち、人には言えない苦しさでした。もうろうとした意識の
中で「おんかかかびさんまえ「そわか」を無意識に称えていたようです。これは看病してくれた孫が、お
ばあちゃんは、お地蔵さんの呪文を、繰り返し繰り返し称えていたと証言しています。
するとお地蔵さまがパッとお出ましになられました。白衣を着て、錫杖(しゃくじょう)を持ったお姿
ははっきり覚えていますが、他のことはおぼろです。
そして叱りつける声で
「こっちに来るのは早い、そっちに行け」
とおっしやつて、蹴飛(けと)ばされました。
途端に意識がはっきりとし、気がつくと心臓の発作は嘘(うそ)のように収まっていました。この間、
二~三分です。孫が応急処置として氷と冷たいお茶で一心に胸を冷やしてくれておりました。
当日は病院には行かず、翌日医者に診(み)てもらうと、もう心配ないと太鼓判を押して下さいました
。
私は朝晩必ずお経を上げます。先ずお大師さんに上げ、首無地蔵さんに上げ、終りにお不動尊を拝みま
す。
翌月の九月十八日の首無地蔵の月例祭に先達のIさんらと五~六人で参り、厚くお礼を申し上げました
。
当日の参拝の折にも心臓は何の不安もありませんでした。有難いことです。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成六年九月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>15
(15)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十五、痔ろう(瘻)が直り子宮病癒ゆ
(広島県尾道市)女(59歳)
今から七年ほど前、主人が痔ろうで入院しました。痔の病いの中で痔ろうが一番質(たち)が悪くやっ
かいな病気でした。医師は二週間ほどで退院出来るというので手術をしました。だが手術を繰り返しま
したが、ばい(黴)菌が入り化のう(膿)して熱が出るようになりました。一向に好転しないまま月日
が経過しました。
或る夜のこと家で睡眠中主人の姿が見えました。主人は病院に居るはずなのに何でそんな所に居るのと
尋ねると途端に目が覚めました。急に胸さわぎがし、早速病院に電話し主人の容態を聞き、早朝六時に
出かけました。
「苦しんで苦しんで『助けてくれ、内科の先年を呼んでくれ』と叫んでおられた」と同室のウ者が教えて
くれました。同室の人は家に電話しようとしたが、看護婦が大丈夫といったので中止したといいました
。
痔の手術は三回もしたが、化のうして治りません。そこで私の友人より首無地蔵の霊験のあることを教
えてもらっていたので、おすがりすることにしました。
首無地蔵でお守と地蔵タオルを頂いて帰り、早速主人の痔のまわりをさすっていると気持ちよく眠って
しまいました。
171
主人は翌日の朝までぐっすり眠りました。目が覚めると熱がすっかり下っていました。それを機に痔も
すっかりよくなり一週間目には退院しました。そしてすぐ府中市に参り首無地蔵にお礼を申し上げまし
た。不思議なことに以後、痔の再発がありません。
主人は固かった患部が柔らかくなり、便も固くもと通りになりました。首無地蔵尊のお蔭であると非常
に喜び、他の仏様は拝まないが、首無地蔵さん丈は拝んでいます。
私の姉が熊本市に住んでいます。平成六年、出血多量で三ケ月入院していました。退院して一ケ年は経
過がよかったのですが、平成七年四月にお腹が痛むので又入院しました。
検査の結果、子宮病でした。
病状は次第に悪化し、六月頃には四十度の高熱を発し痛みと熱で苦しみつづけておりました。医者は回
復の見込みが薄いので、いつ家に連れ帰ってもよいと申しておりました。
「苦しい」という悲痛な知らせの電話が家にありました。私は以前に主人が首無地蔵に助けて頂いてい
るので、姉も助けてもらおうと友人と平成七年六月十四日首無地蔵に参りました。
早速地蔵タオルとお守りを受け
「医者は子宮が悪いと言っていますが、姉は四十度も熱を出して苦しいといっています。痛み丈でもと
めてやって下さい。熱だけでも下げてやって下さい」
と必死にお祈りしていました。すると体がぞくぞくとしてきて、髪の毛が一本一本立つように思えまし
た。異様な体験でしたので、一瞬、姉の容態が悪くなったのではないかと思いました。お堂の外に出ま
すと急に雨がざ-つと降って来ました。
姉との暇乞(いとまご)いになるかも知れないと思い、六月十五日一家全員、子供の車の運転で熊本に
面会に行きました。お地蔵で受けたタオルをお蔭があるからといって姉に渡しました。姉はタオルを握
りしめ、助けて下さいと必死で自分で患部をさすっていました。お守りは耳のあたりに置いて帰りまし
た。
二日後、熊本の姉から元気な声で電話が入りました。
「昨日はありがとう。お蔭でお守りをもらったその晩よくねむれた。夜中の二時に熱は三十七度一分に
下っていた。楽になったので初めて電話した」
私はほっとしました。涙が出るほどうれしかった。もう駄目かと思った姉の重病をかくも安々と楽にし
て下さった首無地蔵尊のお慈悲とお力に只感謝するばかりでした。姉はうれしさのあまり、方々に電話
していました。医師もたまげておられたといいます。
平成七年七月三十日、退院の許可が出て姉は自宅に戻りました。熱はそれっきり上らぬとの電話があり
ました。
「お地蔵さんのお蔭でよくなったので、近所のお地蔵さんに片端からお参りしている。元気になったら
府中市に必ず参る」
と弾んだ姉のよろこびの声でした。
姉はもう家に帰れないと思っていました。死んで帰ると思い込んでいたのが極楽世界に生き帰った思い
と申します。
平成七年八月五日、一先づ姉に代わり、友人と共に首無地蔵様にお礼に参りました。
お地蔵様本当に有難うございました。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成七年八月五日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>16
(16)『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
十六、ヘルニヤの後遺症癒ゆ
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今年は亥年、丁度十二年前、子年の雪の降る寒い二月十九日のことでした。人からお地蔵様の噂を聞き
、姫路から新幹線の福山駅で乗り換え、府中駅に着き、タクシーに乗って運転手に首無地蔵に行ってほ
しいと言いますと、新米であったと見え良く知らないと言われ、尋ねながらやっと主人と二人で、地蔵
堂に着きました。
主人は、因縁の罪障を消滅して下さる様にお願いに参りました。
私は、ヘルニヤで腰の手術をして居りましたが、後遺症に悩んでおりました。
首無地蔵さんにお願い致しましてから、お陰様で元気にさせていただきました。
十二年前、その年から四国巡拝もさせて戴き、高野山で得度のため潅頂(かんじょう)を受けました。
(得度名・妙成)。
他の人達に、首無地蔵様の御利益の話をさせて頂いていたのですが、なかなか御縁が無く、お礼参りが
今日になって仕舞いました。
知り合いが、首無地蔵様に、お参りしてお願いしたい事があるから、道順を教えてほしいと言ってこら
れ、私も御一緒させてもらおうといって、やっと御縁を戴き、お詣りした次第です。
十二年前とは打って変わりお堂も立派になり、御本尊様も大きく大きくなられてびっくり致しました。
お礼参りの遅くなった事、又お願い事も念じさせて戴きました。
思い返せば、首無地蔵様から御利益をいただいてより愛媛県の霊峰石鎚山から山形出羽三山の月山に登
り元気にしていただきました。
十二、三年前では考えられないことでした。
大きな大きな力を授かりました。
首無地蔵様に心より感謝致しお礼申し上げます。
八月二十三日地蔵盆に再度お参りさせていただけるようになり、御一緒に行きましたお友達も、大きな
お蔭を頂いたと喜び、お礼参りにこられました。
本当に首無地蔵様有難うございました。
(合掌)
(平成七年八月二十三日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第17部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第17部
あとがき
地蔵大菩薩礼賛記第十七部を出版し得て、毎回ながら首無地蔵尊の不思議な霊力に感嘆するばかりであ
る。本書に目を通されれば瞭然とすると思う。現代の奇跡と言われる所以である。
医学史の研究で著名な北里大学の立川昭二教授が首無地蔵を調査され、顕著な霊験体験のある十数名の
信者に面接、月刊誌「世界」(岩波書店発行)平成六年十月号に、病いと医の現代民話「首無地蔵と救
急車」と題して発表された。同誌を読んだといって東京から九州に至る読者が続々と参拝された。又こ
れらの人の中に不思議なことが起きている。その後教授はこれを「生と死の現在」という単行本にして
出版された。
平成三年十二月三日、地蔵堂の後方、地下一〇〇メートルの深さまでボーリングした。白砂の地層から
豊富な水が涼々と湧水し始め、水質検査の後、地蔵の霊水として参拝者の飲用に供し始めた。この井戸
水は、夏は冷たく冬暖かく、美味しいと評判になり、遠方からも汲みに来ている。この水を巡ってこれ
また御蔭を貰う人が出始めた。
御手洗舎(みたらししゃ)の水口は青銅の竜である。最近この竜口に、岐阜県関市、大阪市、岡山県の
いづれも霊感のある婦人が参られ、三人共、竜の口に竜神が宿っていると申された。一人は神酒を欲し
ておられるとて地蔵の酒を供えた。
173
井戸掘削については、以前、岐阜市の行者H氏が参拝されたとき示唆され、霊示された掘削場所に目印
をしておいた。この場所は、更にそれ以前に近郷のボーリング専門業者が地形を観察して指差した場所
と同一箇所であった。
平成三年十二月三日、地蔵堂の後方、地下一〇〇メートルの深さまでボーリングした。この水を、奈良
東大寺の鏡池と興福寺の猿沢池に注ぐよう、H氏より指示された。
平成五年一二月十五日、二本のボトルに地蔵水を入れ、奈良市に赴く。大仏殿の大仏の前に一部を供え
余を鏡池に注いだ。同様に興福寺の薬師如来の前に供え、猿沢池に注いだ。かくて大仏と首無地蔵尊と
は地蔵水によって結ばれたことになる。こうしたことは常人にはとうてい思い浮ばぬ発想である。尚東
大寺は補修用の屋根瓦の寄付の受付中であったので、一枚の大瓦に「平和なる世界実現」と墨書し首無
地蔵菩薩の名で寄進しておいた。
H氏は、首無地蔵の霊姿も見え声も聞かれる優れた霊能力者である。岐阜市にあって首無地蔵のことは
お見通しである。御地蔵の石体は何十万、何百万の人によって願いごとを唱えながら手やタオルで擦(
こす)られる。為に御本尊は非常に疲れておられる。汗を掻いておられるので触らせないよう霊感のあ
る何人もの信者からの忠告があった。石に触れることによって安心される参拝者に、触わることを禁ず
ることは今更出来なかった。世話人として戸惑っていた矢先、H氏は、透明度日本一の北海道摩周湖の
水をわざわざ汲んで来られ、地蔵石に注がれた。これで御地蔵は精気を取り戻され、益々御博洽(はつ
こう)、今後も多くの人々を救われると申された。
それを証明するかの如く、午前中摩周湖の水が注がれたのを一切存じない笠岡市の霊感の供わった三宅
美代子様が、午後偶然に参って来られ、今まで見られた御姿とは全く異った金色の光を放ち最高のすば
らしさであったと礼拝後述懐された。その後更に一回H氏は摩周湖の水を注がれ、現在もお地蔵様より
多くの人が救われている。
又、H氏は発掘祭祀した当時首無地蔵出現の意義を次の如く説明された。
第二次世界大戦による太平洋の戦没者、原爆による犠牲者等の霊を浄化すべく日夜働いておられ、又大
仏と共に平和なる世界実現に向け働き給うとのことである。
平成五年十一月十八日の例祭日に初めて厄除大根煮の接待を行った。参拝者は殺到し大好評であった。
大根炊きは昔から中風封じの呪いがあるといわれている。以後十一月十八日を秋の大祭とし、五月十八
日の年大祭を春の大祭とした。
平成六年十一月十八日、二回目の厄除大根煮を振舞うと同時に当年より護摩法要を行事として取り入れ
た。十分に検討を重ね、礼拝堂に大護摩壇を備えた。心経の声と太鼓のひびきの中に、安養寺及栄明寺
の住職により法要と護摩が焚かれ、参拝者が願いごとを書いた護摩木が住職の手により次々と投げ込ま
れると、真紅の炎が高く燃え上り、悪霊を消滅せしめるごとく、壮厳な儀式となった。
平成七年七月、新造成地が完成し境内地は倍増した。新らしい防護柵にずらりと並んだ紫の奉納幟が勢
よく風になびきはためいている。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
一、仏縁の不思議
(岐阜県御嵩町)K女(45才)
私は岐阜県に在住している尼僧でございます。
今回不思議な仏縁を体験致しました。小学六年生の娘(二女)が「いじめ」という試練に会い、そのた
め病気となり苦しんでおりました。又以前旅すがらお世話になった人のお孫さんが、小学六年生で、名
前も私の娘と同名でした。この娘さんは後述するまさしく運命的な少女でした。この少女が、府中市の
首無地蔵様へと私を引き合わせてくれたという、本当に不思議としか言いようのない出来事が起こりま
した。
174
運命的なめぐり合わせの前日のことでした。神経を患い入院中の娘と私は、いつもの通り病室にいまし
た。私は愛読書「大法輪」六月号(平成八年)を読んでいました。その本には全国フ不思議なお地蔵様の
紹介をしてありました。が何故かそのお地蔵様のページは読み飛ばしていました。
事が起きる前日に、どういうわけかそのページを何気なく目にしていました。
娘にとりましては、小学校六年の最大のイベントである修学旅行が、明日に迫っておりました。しかし
どうころんでも、退院ということはとうてい無理な状態でした。然し何と不思議なことに、私が無意識
に、「大法輪」誌の首無地蔵様の記事を目にしたその夜のことです。娘の主治医より突然・・・。
「あいさん!一生に一度の修学旅行だ。行くか!!」
と申された。私も娘も一瞬唖然としていた。
「思い切って行ってこい。小学校最後の思い出だ。今まで病気になるほど苦しんだんだ。う-んと楽し
んでおいで。たとえ旅行先で、病院へかつぎ込まれたっていいじゃないか。その時はその時だ。先生が
学校によく説明して、承諾をしていただくから・・・・。『ナース』を付け『点滴』をぶらさげても、
勇気を出して行こう。」
普通では考えられない思いもかけぬことが起きたのでした。私は何かが引き起こっているのだと直感致
しました。
そして次の日、娘は夢のような修学旅行に出発して行きました。
又その当日の午前五時頃、なんと広島より電話がかかって来ました。電話の主は、昨年日本全国を旅し
た節、お世話になった老夫婦からでした。
「昨日の午後八時、孫娘が瀕死の交通事故に逢いました。その際、虫の息の中で、『本日中に府中の首
無地蔵様に必ず来て下さい。』との事でした。孫娘は先に行ってその地で貴女を待っていると。」
続けて老夫婦はふるえ声で
「貴女の話をしたことはあるが、貴女が修業を終えて、岐阜にお帰りになっていることも、まして住所
も電話番号も知る由もないあの娘が、死の直前に、貴女に残した願いです。私達の可愛い孫娘の供養だ
と思って行ってやって下さい。」と申されました。
お顔を見たこともなく、お話をしたこともない娘さんの、私への最後のメッセージだったのです。
実は九年前に、仏様より不思議なお力を授かり、今日まで私のような者にでも、亡くなった方と、現世
で生きている人々とのお使いとして、お役に立てさせていただいてきました。
私に彼女が伝えたかったことは、是非首無地蔵様の所に来てくれとのことでした。
私が気が付きました時、首無地蔵の地名が明記されている「大法輪」誌を手に、学校へ出掛けた筈の長
女「S」(中学1年)と二人で、広島県の府中市へ向う車の中でした。
府中市のあの地蔵のおわす丘に立ちました時には、もう夕方になっておりました。
はじめて目にしました首無地蔵様のお姿に、涙がとめどもなく溢れ出て、止まりませんでした。その名
のごとく、首の無いお地蔵様の首のあたりに、本日私をここに導きし、あの老夫婦のお孫さんのお顔が
、金色の光の中にはっきりと浮き出て、にこやかに笑っていました。そして私にこう伝えてくれました
。
「妙法様よく来てくれましたね。ありがとう。貴女様は今日より一生、この首無地蔵様との御縁は切れ
る事はないでしょう。どうかこの素晴らしい『地蔵のお力』と『御縁』を、多くの悩める者、病む者、
生きる気力をも無くしている者達を、貴女の言葉で、多くの人々に、この地に導きお役に立てて下さい
。そして貴女の娘(あい)さんの「いじめ」も間もなく消滅し、身体も良くなりますよ。」
そう言い残して、首無地蔵様に抱かれて、金色のホールの中に包まれ、天に向って昇り、静かに空の彼
方に消えてゆきました。
このような不思議な体験は大変な意味がありました。なぜかお地蔵様に御縁の深い方々が大変多く、私
宅にこられ是非府中市に行って来たいと申され、あれ以来多く岐阜県よりお参りに行かれました。そし
て必ず口々に申されますには、「なぜか又首無地蔵様に逢いたくてたまらなくなる」と言われ、何度も
足を運ばれております。
175
ある人は、夢に首無地蔵様がお出になり「再び我の所にお出なされ」と呼んで下さったと、大喜びで足
を運ばれる。ある方は何故かあの場所に立ちたいと申される。
本当に不思議です。別に病気でなくとも、魂が清められ、「パワー」を項けるのだと私は感じています
。心温まる幸せです。ありがたいことです。
明日「月」に行って帰ってこられる時代が来ましても、このような「宇宙の不思議」「仏縁の不思議」
は、素直な清い心で受けとめ、我が魂に仏様を迎え入れることではないでしょうか。
どうかより多くの人々が、首無地蔵さまの御縁をお受けになられますよう、心から願ってやみません。
合 掌
(平成八年十一月十一日)
追記
二女「あい」は、修学旅行より無事帰り、首無地蔵に連れて参りました。
娘「あい」は首無地蔵様の前で
「あいちゃん」(広島市の老夫婦の孫娘)有難う。
と何度も頭を下げて、お礼を言いながら泣いていました。
首無地蔵に参ったことで、身も心も完全にふっきれたようです。「いじめ」が原因の「急性神経性重症
喘息」もすっかりよくなり、今では完全に立ち直り、夏のひまわりのごとく、寒い時でも生き生きと元
気に過ごしています。
本文中の、広島市の老夫婦の孫娘(あい)さんが交通事故で瀕死の重傷を負い、臨終の頃が私の娘「あ
い」が病院を退院した時刻でした。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>2
(2)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
二、霊視益々冴える
(1)諸仏が見えるようになる
(2)大学合格の霊視
(3)自動車事故の霊視
(4)理容店の開業
(5)縁談の霊視
(6)阪神大地震の予知
(岡山県井原市)H女(40才)
平成三年、私はすいぞう(膵臓)炎で苦しんでいるとき、知人からすすめられて首無地蔵に参り、お蔭
で救われました。この時の霊験の詳細は、地蔵大菩産礼賛記第十六部に載っております。
以来、毎月首無地蔵参拝を欠かしたことはありません。お蔭で病気の問屋のようであった私は、すっか
り元気になり、病院へ行くこともなくなりました。薬も飲ワなくなりました。山や海に行けば子供の智恵
熱のように発熱していたのが全くなくなり、医者とも薬とも縁が切れました。そして不思議なことに人
の運命がわかるようになりました。
(1)諸仏が見えるようになる
平成七年三月のことでした。この一ケ月間、観音さんやお地蔵さん、見たこともない奈良の諸仏が次々
と現れました。夜中に目を開けていても、つむっていても祭ってもいない諸々の仏様が、ほほえんでい
る姿がよく見えるのです。或る晩は一晩中見えたこともあります。首無地蔵の世話人が申されるのに、
首無地蔵の背後には大仏様が控えておられ、その他多くの仏様がおられるとのことで、或はそれらの仏
様が見えたのかも知れません。
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(2)大学合格の霊視
それ以来、尋ねられる人の運命が瞬間に見えるようになりました。私の近所の土建会社の息子さんが大
学を受験されました。親御さんが試験の合否を霊視して欲しい(という)依頼がありました。その人の
名前と生年月日を紙に書いてもらうと、まだ発表していないのに大学の校庭の合格発表の掲示板が見え
、受験番号は見えなかったが、息子さんの名が上の方にあるのが霊視出来ました。合格されていると告
げた通りに、その後の発表があったとのことです。もう一人占ってあげたが、その人のは見えず不合格
でした。
(3)自動車事故の霊視
平成七年七月の終り頃、広島県世羅町の喫茶店で友人に会いました。友人の息子さんが自動車の運転免
許をとったので、将来を占ってほしいと頼まれました。名前と生年月日を見ると即座に息子さんの事故
の光景が浮き出ました。息子さんの車が大破しているが息子さんは無事である霊視でした。どこか神社
か仏にお参りして、お祓いを受けた方がよいと忠告しておきました。
盆過ぎの八月頃、産業廃棄物業者のその友人から電話がありました。私の予言通りになったせいか、「
貴女はこわい人だ」と前置して、息子の車がぶつかって、車体は目茶目茶に壊れたが、息子はカスリ傷
で済んだといってお礼を言われました。
(4)理容店の開業
主人が占ってくれと申しました。主人は理容店に勤めております。主人を占っているとき、主人の肩越
しに理容店が見えました。近い中に自分の店がもてると予言しておきました。丁度平成七年十一月に、
福山市引野町に廃業した理容店があり、その店を譲り受け、平成八年一月五日に開店しました。主人は
独立し、自分の店を持つことが出来たのです。
(5)縁談の霊視
平成八年五月五日、子供の日に首無地蔵に参拝すると滅多に会はない世話人のSさんが、宗務所で受付
けをしておられました。宗務所で色々話している時、入れ替わり立ち替わり参拝者が、地蔵タオルやお
札やお守りを受けておられました。その中の一人の娘さんが倉敷から参られ、ゴマ(護摩)木を十六本
買われ十六人の友達のためにと言って、夫々の願いごとを書き、宗務所に納められました。この日から
二週間後に首無地蔵の十九周年大祭があり、ゴマ供養が行われるためのゴマ木の受け中でした。Sさん
が娘さんの願いごとを聞かれると、「良縁」ということでした。「丁度よい折にHさんが来ておられる
。占ってもらったら」と薦められ、私が占うとその娘さんはとてもやさしい娘さんであり、今年の秋に
はよい縁談があり、すし屋の光景が見えました。おそらくその通りになるとは思いますが、今年の末ま
でにお預けしておきます。
(6)阪神大地震の予知
終わりに阪神大地震について不思議な体験をしていることを記しておきます。
地震が起きる丁度二週間前から、毎夜のごとく、地震と火事の夢を見つづけました。朝方目が覚める頃
でした。広範囲にわたって街中が揺れ、家が倒れ、人が下敷きになり、道が通れなくなり、パニック状
態になっており、そして一面の焼野原が見えました。私は神戸のことはよく知りませんが、あまりにも
場所が広いのでどうも関西の辺りではないかと思っておりました。人にしゃべってもこんなことは誰も
信用しないし、主人にのみ話しておりました。毎晩のことであり、何か知らせているなと思い恐ろしか
ったのです。平成七年一月十六日の夕食は、お腹が一杯の感じで、食事がのどを通りませんでした。翌
一月十七日、午前五時四十六分、岡山県井原市にても地震のゆれを感じました。早速テレビをひねって
見ますと神戸の地震が映っていました。まさしく今までの夢は正夢でした。昼頃のテレビはますますひ
どく神戸の市街の状況を写し出しており、大火災の映像も夢の通りであり、おそろしく目に映りました
。焼野原もすべて夢で見た光景とそっくりでした。私は昔から夢を見ますが、それが正夢であることが
多かったのです。今回もお地蔵さまがお知らせ下さったものと思っています。
本当に首無地蔵尊の霊力はすばらしい。私も微力ながら人助けに尽したいと思っています。
おんかかかびさんまえいそわか
177
(平成八年五月五日)
(注)平成八年秋近く、倉敷の娘さんに占いの通り、結婚話があったが、娘さんにはやりたい仕事があ
った為、結婚か、仕事かどちらを取るか悩まれたが、縁談の方を断わられた由である。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>1
(1)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
一、仏縁の不思議
(岐阜県御嵩町)K女(45才)
私は岐阜県に在住している尼僧でございます。
今回不思議な仏縁を体験致しました。小学六年生の娘(二女)が「いじめ」という試練に会い、そのた
め病気となり苦しんでおりました。又以前旅すがらお世話になった人のお孫さんが、小学六年生で、名
前も私の娘と同名でした。この娘さんは後述するまさしく運命的な少女でした。この少女が、府中市の
首無地蔵様へと私を引き合わせてくれたという、本当に不思議としか言いようのない出来事が起こりま
した。
運命的なめぐり合わせの前日のことでした。神経を患い入院中の娘と私は、いつもの通り病室にいまし
た。私は愛読書「大法輪」六月号(平成八年)を読んでいました。その本には全国フ不思議なお地蔵様の
紹介をしてありました。が何故かそのお地蔵様のページは読み飛ばしていました。
事が起きる前日に、どういうわけかそのページを何気なく目にしていました。
娘にとりましては、小学校六年の最大のイベントである修学旅行が、明日に迫っておりました。しかし
どうころんでも、退院ということはとうてい無理な状態でした。然し何と不思議なことに、私が無意識
に、「大法輪」誌の首無地蔵様の記事を目にしたその夜のことです。娘の主治医より突然・・・。
「あいさん!一生に一度の修学旅行だ。行くか!!」
と申された。私も娘も一瞬唖然としていた。
「思い切って行ってこい。小学校最後の思い出だ。今まで病気になるほど苦しんだんだ。う-んと楽し
んでおいで。たとえ旅行先で、病院へかつぎ込まれたっていいじゃないか。その時はその時だ。先生が
学校によく説明して、承諾をしていただくから・・・・。『ナース』を付け『点滴』をぶらさげても、
勇気を出して行こう。」
普通では考えられない思いもかけぬことが起きたのでした。私は何かが引き起こっているのだと直感致
しました。
そして次の日、娘は夢のような修学旅行に出発して行きました。
又その当日の午前五時頃、なんと広島より電話がかかって来ました。電話の主は、昨年日本全国を旅し
た節、お世話になった老夫婦からでした。
「昨日の午後八時、孫娘が瀕死の交通事故に逢いました。その際、虫の息の中で、『本日中に府中の首
無地蔵様に必ず来て下さい。』との事でした。孫娘は先に行ってその地で貴女を待っていると。」
続けて老夫婦はふるえ声で
「貴女の話をしたことはあるが、貴女が修業を終えて、岐阜にお帰りになっていることも、まして住所
も電話番号も知る由もないあの娘が、死の直前に、貴女に残した願いです。私達の可愛い孫娘の供養だ
と思って行ってやって下さい。」と申されました。
お顔を見たこともなく、お話をしたこともない娘さんの、私への最後のメッセージだったのです。
実は九年前に、仏様より不思議なお力を授かり、今日まで私のような者にでも、亡くなった方と、現世
で生きている人々とのお使いとして、お役に立てさせていただいてきました。
私に彼女が伝えたかったことは、是非首無地蔵様の所に来てくれとのことでした。
私が気が付きました時、首無地蔵の地名が明記されている「大法輪」誌を手に、学校へ出掛けた筈の長
女「S」(中学1年)と二人で、広島県の府中市へ向う車の中でした。
178
府中市のあの地蔵のおわす丘に立ちました時には、もう夕方になっておりました。
はじめて目にしました首無地蔵様のお姿に、涙がとめどもなく溢れ出て、止まりませんでした。その名
のごとく、首の無いお地蔵様の首のあたりに、本日私をここに導きし、あの老夫婦のお孫さんのお顔が
、金色の光の中にはっきりと浮き出て、にこやかに笑っていました。そして私にこう伝えてくれました
。
「妙法様よく来てくれましたね。ありがとう。貴女様は今日より一生、この首無地蔵様との御縁は切れ
る事はないでしょう。どうかこの素晴らしい『地蔵のお力』と『御縁』を、多くの悩める者、病む者、
生きる気力をも無くしている者達を、貴女の言葉で、多くの人々に、この地に導きお役に立てて下さい
。そして貴女の娘(あい)さんの「いじめ」も間もなく消滅し、身体も良くなりますよ。」
そう言い残して、首無地蔵様に抱かれて、金色のホールの中に包まれ、天に向って昇り、静かに空の彼
方に消えてゆきました。
このような不思議な体験は大変な意味がありました。なぜかお地蔵様に御縁の深い方々が大変多く、私
宅にこられ是非府中市に行って来たいと申され、あれ以来多く岐阜県よりお参りに行かれました。そし
て必ず口々に申されますには、「なぜか又首無地蔵様に逢いたくてたまらなくなる」と言われ、何度も
足を運ばれております。
ある人は、夢に首無地蔵様がお出になり「再び我の所にお出なされ」と呼んで下さったと、大喜びで足
を運ばれる。ある方は何故かあの場所に立ちたいと申される。
本当に不思議です。別に病気でなくとも、魂が清められ、「パワー」を項けるのだと私は感じています
。心温まる幸せです。ありがたいことです。
明日「月」に行って帰ってこられる時代が来ましても、このような「宇宙の不思議」「仏縁の不思議」
は、素直な清い心で受けとめ、我が魂に仏様を迎え入れることではないでしょうか。
どうかより多くの人々が、首無地蔵さまの御縁をお受けになられますよう、心から願ってやみません。
合 掌
(平成八年十一月十一日)
追記
二女「あい」は、修学旅行より無事帰り、首無地蔵に連れて参りました。
娘「あい」は首無地蔵様の前で
「あいちゃん」(広島市の老夫婦の孫娘)有難う。
と何度も頭を下げて、お礼を言いながら泣いていました。
首無地蔵に参ったことで、身も心も完全にふっきれたようです。「いじめ」が原因の「急性神経性重症
喘息」もすっかりよくなり、今では完全に立ち直り、夏のひまわりのごとく、寒い時でも生き生きと元
気に過ごしています。
本文中の、広島市の老夫婦の孫娘(あい)さんが交通事故で瀕死の重傷を負い、臨終の頃が私の娘「あ
い」が病院を退院した時刻でした。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>3
Book 18, story 2-01 to 06 are the same?
(3)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
三、無事出産及行方不明者の発見他
(1)娘の無事出産
(2)十五年間の行方不明者が見付かる
(3)弟の脊髄ガンの好転
(4)バイクでの事故短期間の治癒
(5)胆石の痛み一夜にして治る
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(岡山県総社市)M男(74才)
私の首無地蔵信仰は十四~五年前から始まります。
私はくすりの行商をしています。岡山市の製薬会社のくすりを、中国、四国地方の各家に、家庭薬(タ
コ印)の置き薬をして年中廻っています。
高知県を二十五、六日間。山口県を十五、六日間。岡山県の大佐町を十日間という風に、殆ど旅をして
いますが、お地蔵様のお蔭と申しますか、体熄苺vで支障なく、くすりを各得意先に届けています。その
間月始めには必ず夫婦で首無地蔵参拝を欠かしたことはありません。
私はお地蔵様より多くのお蔭を頂き、また人様にもお蔭をもらってあげていますが、そのお礼にと首無
地蔵の境内に入ると妻は必ず涙が出るといいます。私はお礼にお地蔵を拝んでいると決まって涙が出ま
す。またあくびもよく出ます。そして眠くなります。あくびは帰る途中も続き、総社市近くの小田町あ
たりで止まります。あるいは家に看いて止まることもあります。世話人の方が申しておられましたが、
内臓を患っていた人が、お地蔵さんにお願いして、約小一時間、自宅に帰りつくまであくびが出たが、
家に着くと同時にぴたりと止りました。翌日入院手術の予定で病院に行くと、再検査の結果、手術の必
要ないと帰されました。完全に病状が失せていたと話しておられましたが、あくびはお地蔵さんからの
よいお知らせとのことでした。
私は行商のときはいつも首無地蔵の地蔵タオルを医療箱に入れて回っております。首無地蔵尊の霊験の
すばらしさは、この十数年の間、身にしみて体験しています。
そのお蔭話の数例をここに記させて頂きます。
(1)娘の無事出産
十四、五年前のことです。娘が嫁に行きましたが、出産の予定日をはるかに過ぎており、中々生まれま
せん。家の者は気をもみ、心配しましたが、どうすることも出来ません。医者は帝王切開をするといっ
ておりました。
私は首無地蔵尊に、娘が無事出産出来ますようにお願いに参りました。地蔵タオルを受け、このタオル
をお腹の上にのせるか、眠るときは枕カバーの内側に置いて休むように娘に言っておきました。
娘はその夜眠って三十分経ったころ、夢の中で首無地蔵の姿を見たといいます。府中市に祭ってある首
のないお姿と同じであったといいます。
参拝しお願いして三日目に突然出産しました。頭の大きな子供でした。安産で家中大喜びし、私達親夫
婦もほっとしました。それ以後行商のかたわら人助けをするようになりました。
(2)十五年間の行方不明者が見付かる
高知県の私の得意先の近所の人で、長男が家を出たまま行方不明になっておりました。そして十五、六
年経過しておりました。
私はそれを聞き、何とか探し出せないものかと、日頃信ずる首無地蔵に参り願をかけました。その日も
総社市の家に帰るまであくびの連発でした。それから間もなく、始めて高知県の当家に、行方不明の息
子から手紙が届きました。「現金封筒で送金してくれ。広島県福山市の加茂局止めにしておくよう。」
とある丈で、住所は書いてありません。息子が生きていることが分った丈で当家の親は大喜びしました
が、場所の不明が又心配の種でした。
私は加茂町が分った丈で手掛りになると、人探しに奔走しました。福山市加茂町は首無地蔵のある府中
市から東方約四里位の所です。加茂町手前の福山市駅家町の旅館でそれらしい人相の在りかを聞き、町
のガソリンスタンド、米屋等を聞いて廻りました。尋ね歩きながら加茂町の山裾の野小屋にぶつかりま
した。その小屋の中に一人ぽつねんと座していました。全くの偶然でした。民家ばかり探していては絶
対に見付からない。全くお地蔵さんのお導きとしかいいようがありません。
「お前ここで何をしている。親父さんが心配しとるで・・・。」
「親には何も知らせてくれるな。」
と息子はとまどっていましたが、私は早速高知県の親御さんに連絡して来てもらいました。
180
親は息子の顔を見るなり、いきなり抱きついて泣き出しました。十五年間の心配が一気に吹きとんだ様
子でした。
(3)弟の脊髄ガンの好転
横浜に弟が住んでいます。
弟は昨年脊髄ガンを患い、足腰が立たなくなっていました。弟の嫁からの電話で平成八年の正月一杯は
体がもたぬとのことでした。
私は早速首無地蔵に参り、地蔵タオルとお地蔵さんの井戸水を受け、横浜に飛びました。日帰りでした
。
弟にこのタオルを枕カバーの下に入れて眠るように、そしてこの地蔵水を飲むよう申しておきました。
病状は目に見えて好転し、弟は医者の薬より、兄のくれたクスリ(地蔵タオルと地蔵水と、野菜)の方
がよく効くといっていました。スプーンに二~三杯しか食べられなかった食事が、今では茶碗一杯食べ
るようになりました。
医者はガン患者で食事がとれるのが不思議であると申しているそうです。二月に又地蔵水と野菜を送っ
てやりました。平成八年春三月弟は元気になりました。
(4)バイクでの事故短期間の治癒
平成末年の春、総社市の高校生がバイクに乗っていて大事故を起こしました。大怪我で一年間休学の予
定とのことでした。
私は知り合いであったので、早速首無地蔵に参り、タオルを受け地蔵水をもらって届けてあげました。
四~五日経つと不思議も不思議、歩けるようになりました。そして首無地蔵にお礼に参られた。その年
の夏休みには完全に治癒しました。
(5)胆石の痛み一夜にして治る
平成六年の九月、高知県の行商で南国市後免に行った時でした。その夕方、急に腹痛がし始めました。
胆石の痛みのようでした。油汗は出るし、居ても立ってもおられぬ状態でした。早速所持していた地蔵
タオルを取り出し、二時間ばかりお腹を押えていました。その間懸命に「おんかかかびさんまえいそわ
か」を唱えておりました。その中いつの間にか眠っていました。目が覚めると夜が明けており痛みはき
れいに失せておりました。全く不思議としかいいようがありません。涙が出るほど有難く、お地蔵様に
感謝しました。それ以来一切痛みは起きず、医者にも行っていません。
まだ他にも色々お蔭話がありますが、この二十年問、私の家庭内にトラブルは一切起きていません。首
無地蔵の信仰を始めて以来、平穏無事に過ごしています。それまでは家庭の調子が悪く、何かごたごた
が起きていました。
家も新築出来ました。タンス他の家具は首無地蔵のある府中市(家具の産地)で一切を整えました。妻
はよく朝方お地蔵さんの姿を見ます。丸い顔で、線を引いたような御目、ニコニコされふっくらとした
奇麗なお顔であるといいます。眠れぬ夜は地蔵の真言を唱えると御姿が見えるといいます。誠に誠に慈
悲深い、偉大な首無地蔵様と申し上げるほかありません。
ありがとうございます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年七月二日)
Book 18, story3-01 to 05 same?
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>4
(4)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
四、姉の喘息が癒え、娘の声が出るようになる
(福山市駅家町)K女(69才)
181
先日十九日に、首無地蔵様へお参りさせて頂きました。毎月一度は家族と共にお参りさせて頂いていま
す。其の日に少しでもお供えさせて頂こうと、主人と受付へ行きました所、其の受付の方と主人は御存
じだったのでしょうね、色々とお話をして居る中に、私達家族が首無地蔵様より沢山おかげを項いてい
るのですと、又此の度姉のぜんそくもお地蔵様のおかげを頂いて治りましたと、お話したら、受付の方
が是非其の体験を聞かせて下さい、書いて下さいとおっしやいましたので、下手ながらペンを取る事に
しました。
私の姉が今、茨城県土浦市に住んで居ります。前からぜんそくで困っているとは聞いていたのですが、
夜もねむれない日が毎晩続き、通院しても仲々治らないと聞いてびっくりしました。毎夜苦しい状態が
続いているとも知らず、それは今から五年前の事なのです。私は姉に首無地蔵様の事を話したら、私の
代りにお参りして来てと、姉の声は泣きそうな声でした。
私はすぐ首無地蔵様へお参りさせて頂きました。そして姉の事を一生懸命お願いをしました。気持丈で
申し訳ないと思いながらお供えして、タオルとお守りを頂いて姉にすぐ送って上げました。姉は大変喜
んでくれました。姉はお守りを身に付けて、主人に、「おんかかかびさんまえいそわか」と大きな字で
書いて貰い、それを柱に貼って毎日一生懸命拝んでいたそうです。外出する時でも、心の中で『おんか
かかびさんまえいそわか』と歩きながらでも拝んでいると、心が自然となごんで来て有難い気持になる
のよと、度々電話が掛って来ました。
それから三ケ月程経った頃、姉から電話があり、「夜も不思議な位いねむられる様になり、又ぜんそく
が出なくなったのよ、貴女のおかげよ。首無地蔵様におかげを頂いたのよ、有難くて胸がいっぱいよ。
」といわれるのを聞いている中に、私は心から「首無地蔵様ありがとうございました」と何度も何度も
お礼を申し上げました。あまりのうれしさに泣いてしまいました。そして平成五年と六年、二年続けて
茨城県から姉夫婦が来て首無地蔵様へお参りさせて頂きました。
私もお礼参りをさせて項きました。毎年十一月十八日の秋の大祭の日に姉夫婦と私達家族で首無地蔵様
へお参りさせて項きました。有難い気持と感謝の気持で一ぱいで、姉はとても喜んで手を合せて居りま
した。
昨年は家の都合でお参りさせて頂く事が出来なかったので、残念に思っていたのでしょう。今年はきっ
とお参りさせて頂くからと、電話で同じ事ばかり云って来ます。平成五年に首無地蔵様のおかげで、二
十年ぶりの姉と再会出来ました。これも首無地蔵様のおかげと心から感謝致して居ります。姉は近所の
方や友人に、首無地蔵様の話をして、おかげを項いた事に友人もみんなびっくりして、お孫さんの事や
主人の事をお願い出来ないか知ら、タオルやお守りを頂いて下さいとの依瀬の電話が姉から有りました
。
一人でも沢山の人や苦しんでおられる方におかげを頂いてもらわねばと、私は又すぐ首無地蔵様へお参
りさせて頂きました。気持丈のお供えをさせて頂き、お守り、タオルを頂いて早速姉の友人に送って上
げました。姉の友人も大変喜んで下さいました。首無地蔵様本当にありがとうございました。其の気持
で一ぱいです。
実は私の娘の事なのですが、ある日突然京都に居る娘からの電話です。悲しい声で、それもかすかに聞
こえる娘の声で「お母さん、声が出ないの。」という。今すぐ京都まで行くと云っても、夜の九時頃で
したので、「大丈夫よ、お母さんがきっと治して上げるから待っていて」と、云って翌日一番のバスで
、首無地蔵様へお参りさせて頂きました。ただただお地蔵様にすがる思いで一ぱいでした。一生懸命首
無地蔵様にお願いして帰ってきました。其の晩、娘からうれしい電話がありました。「声が出る様にな
ったよお母さんありがとう」と。私は「首無地蔵様におかげを頂いたのよ」というと娘はそれを聞くな
り、お地蔵様ありがとうと手を合わせたそうです。不思議な位娘の元気な声でした。本当に有難い事で
す。感謝感謝の気持で一ぱいで泣いてしまいました。それから娘は今も元気で頑張っています。
私の事なのですが、今から十五年前に私は心職の手術をしました。五十四歳の時でした。定年が間近と
云う時に、手術を受けなければならなくなりました。手術室へ入る前に「お地蔵様、助けて下さいね」
と心の中で何度もお願いして、手術室へ入ったのです。九時間も掛って手術は無事に済んだのですが、
182
あまり状態が思わしく無く、先年が駄目かも知れないとおっしやつたそうです。私は後から聞いた事な
のですが、次女が西の方へ向って、一生懸命首無地蔵様に手を合せて「母を助けて上げて下さい」と、
一生懸命お願いしたそうです。意識不明だった私に先生が、次女に「大さな声でお母さんと呼んで見な
さい」と云われたそうです。それで娘が「お母さん」と大きな声で呼んだそうです。私は何も知らなか
ったのですが、かすかに首を動かしたそうです。翌日の昼頃にやっと意識がもどった時は、娘は首無地
蔵様におかげを頂いたのだと、何度も有難うございましたと手を合せたそうです。私達家族は首無地蔵
様に心からお礼を申し上げました。
始めの中は入院退院のくり返しでしたけれど、今はすっかり元気になりました。家事の仕事が出来ませ
んでも頑張っています。どこが悪いのなんて云われる様に、今は健康で毎日を楽しく送っています。こ
れも首無地蔵様のおかげと、感謝の気持で一ぱいです。あれから十五年たちました。一泊ですが旅行に
娘が連れて行ってくれます。旅行にも行かれる様になったのもこれもみんな首舞地蔵様のおかげと、朝
晩西の方に向って、手を合せています。体の不調な時、西の方に向って「おんかかかびさんまえいそわ
か」と拝んでいますと、何時の間にか体の痛みを忘れています。首無地蔵様本当にありがとうございま
す。これからも家族一同お守り下さいます様にと心から祈っています。
祖母も首無地蔵様のおかげで九十三才で大往生をとげました。首無地蔵様本当にありがとうございまし
た。
受付の方とお話出来た事を心から喜んでいます。どうぞよろしくお願い致します。
(平成八年二月二十六日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>5
(5)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
五、不思議な縁
(ブラジル国フォルタレザ市)M女
このたびは、ていねいなお便りと、『地蔵大菩薩礼賛記』および、立川昭二氏の本のコピーをどうもあ
りがとうございました。私の心のむくままにお参りさせていただいたのですが、このようなお手紙をい
ただき、何とも有難く恐縮しております。
実は私も、一九九四年「世界」十月号の立川昭二氏の文章を拝見して、お地蔵様にお参りさせていただ
いたもののひとりでございます。「世界」は、私にとっていつも、かけがえのない師のような存在であ
り、ここ十五年は、ほぼ毎号欠かさずに読んでおりました。一九八四年以降、アフリカ、イギリス、ブ
ラジルと海外での生活が続きましたが、「世界」はいツも送ってもらっていました。私は疫学を専門とす
る公衆衛生の研究者で、日本人としての心のありよう、日本人としての文化を基にしての海外との関わ
り、といったことをずっと考えてきていましたが、格別これといった信仰をもっていたわけでもありま
せん。
しかし、一〇月号の立川氏の文章が何故か心に残り、忘れることができません。お地蔵様のことが、何
だかなつかしいように思われ、つい繰り返し繰り返し読み、とうとうこの十五年間の「世界」の中でも
、最もくりかえし読んだ論文となってしまいました。「世界」としては、少々肌合いのちがう内容です
のに、本当にふしぎでした。そうこうしておりますうちに、お地蔵様の夢をみたりするようになりまし
たので、これはきっと一度いらっしゃいといって下さっているように思いはじめました。そう思いなが
らも、なかなか伺えなかったのですが、今回この四月から、日本の国際協力事業団(JICA)専門家
としてブラジルに派遣されることとなり、久しぶりに1ケ月、日本にもどり、しかも親しい友人が岡山
に赴任しましたので、週末に岡山を訪ね、そのあとJRをのりついで府中市を訪問することができまし
た。地球の裏から、あんなに心ひかれていましたお地蔵様にお会いできて、本当にうれしく、何度もお
地蔵様に触れさせていただいてきました。
183
子供たち、家族の心身共の健康をお祈りしましたが、何よりどうか私自身がよりよく生き、よりこの世
界への役に立つことができるよう、お祈りさせていただきました。
私が生きているということ、またこのように異国の地で様々な人と出会い、様々な仕事をする機会を与
えられている。そのようにして生かされているということは、偶然とは思えません。私がよりよく生か
されていくことをお地蔵様が望んで下さっているように思えました。
本当に何度考えてみましても、何故これほどまでに、心ひかれたのか、自分でも理解できません。でも
今は、春のうららかな美しい日に、府中に私を呼んで下さったお地蔵様に感謝しております。それを機
会に、貴方様からこのようなていねいなお便りをいただけたことも何とも嬉しゅうございます。
また、いつかお目にかかることもあるかと存じます。
どうかお体大切に。よき日々をおすごし下さいませ。
かしこ
(平成八年四月三十日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>6
(6)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
六、視力の回復
(広島県神石郡)F男(67歳)
私は両眼とも視力は良く異常はなかったのですが、十五年程前、高速道路を運転中、突然中央の白線が
曲がって見えたのです。自信のあった目に異常が生じた事に気付き愕然としました。それからはテレビ
を見ても画像が崩れて見えるのです。
不安のまま尾道市の眼科医にかかり、三ケ月程通院しました。があまりはっきりしませんでした。その
後知り合いのYさんより、府中の首無地蔵さんで頂いたタオルだと言っていただきました。
これで具合の悪い目をおさえて治癒をお願いしなさいと言われ、その通りにしました。それから二ヶ月
位い経った頃だと思いますが、或る晩夢を見たのです。私の右肩に猿が来て止ったのです。難を去る(
サル)と言う暗示であろうかと思ったものです。その時の夢の中に、お地蔵さんが現れたのです。どう
しても首無地蔵さんにお参りしなくてはと思い立ち出かけましたが、始めての事で、途中道に迷ってし
まいました。そんな時、親切な人に出合い、その方達二人おられましたが、後をついて来なさいと自動
車で先導して下さりお参り出来ました。受付けで奉納金をおさめ、タオルをいただいてお地蔵様の前に
行きびっくりしたのです。夢に見た通りのお地蔵様だったのです。あれから折にふれお参りを重ねてい
ますが、以後目も正常に戻り誠に有難い事です。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年五月六日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>7
(7)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
七、すねの水たまりが無くなる
(兵庫県加古川市)F女(72歳)
首無地蔵には十年前から参拝しています。広島県の簡保センターに宿泊したとき、首無地蔵のことを書
いたチラシが目に留まりました。それに心が動かされ、以後年に五~六回は参るようになりました。現
在は毎月参拝しています。
平成六年の暮れ、右足のすねに水が溜まり始めました。水が溜まると痛くて坐ることが出来ません。六
回も水を抜きました。この間頂いた地蔵タオルをすねにあて懸命に治癒を祈っておりました。
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私は首無地蔵のお札を仏壇に供え、先づ先祖を拝み、それから
「お地蔵さん、ここから私のお願いを受け取って下さい。悪い所をなおして下さい」
と毎日一心にお願いをし、「おんかかかびさんまえいそわか」と御真言をとなえておりました。平成七
年春頃からすねが痛まなくなりました。不思議にも水も溜まらなくなりました。お医者も首をかしげて
おられました。以後月参りをしています。加古川市から府中市まで車で三時間と少しかかります。お地
蔵さんへ来るのが楽しみです。
時々胃に圧迫を感じますと、お地蔵さんにお願いすればいつのまにかすーっと楽になっています。どこ
かが悪くなればすぐ直して下さるので安心しています。私は方々巡拝致しますが、首無地蔵ほど線香、
ローソクの無料の所はありません。有難いことです。本日首無地蔵十九周年大祭に参拝しました。一万
人ほどの参拝者で賑わっているのも宣(むべ)なるかなと思っています。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年五月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>8
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
八、腸に転移した癌が消える
(広島市)I男(70歳)
私は首無地蔵尊より大変大きなお蔭を頂きました。御地蔵に対し感謝の気持をこめて、その霊験を述べ
させて頂きます。
平成七年四月十五日、東京での結婚式に出席し、十八時過ぎに終了しましたが、間もなくえずき(嘔吐
)がきて、二度ほど吐きました。翌日帰りの飛行機の中でも二度ほど吐き、終日食事が出来ませんでし
た。帰宅後すぐ、かかりつけの医師の診察を受けますとポリープが食道を圧迫しているとのことでした
。
再び市民病院で受診し、胃カメラで検査をし、手術を要するとのことで四月二十五日に入院しました。
食道と胃のつながり部分にガンがあり、腸にも転移しているとのことでした。先づ食道と胃を取り除きA
腸を引き上げて、食道や胃の代役を果たし、腸のガンは手術完了後に、レントゲン照射や抗癌剤で治療
する方針でした。
平成七年五月二十五日手術を受けました。肺の癒着があったので、それを剥ぎ取るのに四時間かかり、
六時間の手術予定が大巾に伸び、生命の危険のため、食道と胃の一部を取り除いた丈で終了しました。
前後十時間を要し、夜になって打ち切られました。
それから一進一退の入院年活を続けておりました折、幸いな事に近所の方の御主人がガンの手術をされ
、首無地蔵に参拝されてお蔭を受けられ、元気になられたことを奥様より伺い、早速長男夫婦が首無地
蔵に参拝してくれました。
七月二日に参ってくれたのですが、それから不思議なことに悩まされていた高熱が三十六度台に下がり
ました。私は大変おどろき且つ感謝した次第です。平熱になったことで楽になりました。経過良好で退
院することになり、退院の前七月二十六日検査を受けました。検査の結果、腸に転移していたガンが消
滅したことを知らされました。検査された部長さんが妻に対し「ああ驚いた!!ガンが消えている。こ
んなこともあるのだなあ!」と大変不思議がっておられたとのことです。
お蔭様で三ケ月間の入院生活に別れを告げ、平成七年七月二十七日退院致しました。
退院後は食道の手術部分が狭くなっているので、食物がスムーズに通らず、食道拡張のため再度十月に
入院し、拡張の治療が終わり退院しました。
手術の為、縮小はしましたが、胃が残ったことで食べたものの栄養の吸収が出来、食事もおいしくなり
、体力の回復も順調で、三十八kgの体重が四十四kgまでに増えました。特に転移していたガンが消
えていたことは誠に不思議でお地蔵さんのお蔭以外に考えられないと思っています。医師より平成八年
185
二月頃までの命であろうといわれたそうですが、今日まで生かされて頂きました。平成七年八月十五日
に長男一家がお礼参りに連れて行ってくれました。ありがとうございました。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年六月十九日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>9
(9)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
九、腰痛が癒える
(広島県御調町)M男(67歳)
私は昭和六十二年に、N鋼管F製鉄所を定年退職した。そして続いて府中職業訓練所へ通っていた。
或る日二階の部屋でテレビを見ていた。階下で家人が食事だから降りてくるように言った。立ち上ろう
とした途端に、腰が痛くて起き上れない。腰が抜けるように痛くどうしても立てない。私はベランダに
這って出た。
私は三年前から府中市の首無地蔵へ参拝しているので、首無地蔵尊の霊験のすばらしさは見たり聞いた
りしてよく知っている。お地蔵にすがろうと心に決めた。
「おかげを頂けるものなら直して下さい」
と必死になってお願いした。すると不思議に腰が楽になり軽くなってゆくのを覚えた。どうやら階段を
降りることが出来て食事を済ませた。
あくる日十一時に訓練学校に登校した。半ドンであったので、昼帰宅すると、親戚の人が心配して来て
いた。腰が立たないという電話があったので見舞に飛んで来たという。
丁度その頃、上下町の矢野温泉のあやめが見頃なので一緒に行こうということで、親戚の車であやめ見
物に出掛かけた。
あやめの花を堪能して家に帰り、寝そべっていると、又腰が立たなくなった。
再びベランダに這って出た。
東方府中市の方に向い、おことわり方々お願いをした。
「腰を楽にして頂いたのに、お礼もせず、申し訳ありません。再び痛くなりました。どうかもう一度な
おして下さい」
真剣にお祈りすると、間もなく楽になった。
以後毎日のように首無地蔵に参拝している。その都度百円の賽銭を上げている。壱万円以上の奉納も何
回もしている。
私にはいつでもお地蔵さんの御姿が見える。中央に山伏のような姿の男の人が立っておられ、左側に白
い髪の長い女の人が手を合せておられる。その中間に丸顔の女の人の顔が見え、左側のローソク立の方
を見ておられる。
首無地蔵は私にとっては心のふるさとであり、地蔵境内に一歩足を踏み入れれば、心の和むのを覚える
。
ありがとうございます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年七月二十一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>10
(10)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十、腰痛が癒える
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(1)老婆の足腰の治癒他
(2)縁談が整う
(3)盗まれた自転車が戻る
(岡山県井原市)K女(69歳)
昭和五十四年頃、私は井原市の北方四キロメートルの山奥の芳井町に住んでおりました。その当時、脛
から下にかけて急に足が痛くなり立たなくなりました。その頃、隣県の府中市の首無地蔵が急に有名に
なり、何でも聞いて下さるというので、井原市の井笠バスが、毎月十八日の地蔵の月例祭に参拝者募集
をしており、毎回四~五台のバスが出ておりました。お地蔵さんでお蔭をもらわれた近所のお婆さんが
、だまされたと思って参って見ませんかと誘って下さいました。
府中市のバスの駐車場から地蔵堂までは急な坂道であり、下車しましたが、足が痛いので、皆に支えら
れ、汗をかきながらやっとの思いで登り切りました。まだお地蔵さんが掘り出された畑の隅に祀ってあ
った頃で、現在の立派な境内と違い、ささやかな小祠に祭られていました。
「助けて下さい。助けて下さい。足の痛いのを治して下さい」
と一所懸命お願いして帰りました。
十日位経った頃、足の痛みはいつの間にか消えており、普通のように歩けるようになりました。大変有
難く、それから毎月十八日には、井笠バスの団体バスに参加し、参拝するようになりました。
月参りを怠ると、てき面に、身の廻りに変なことが生じます。
井原市へ住居を移してしばらく参拝しなかった時に体が痛くなりました。息子より参るのを飛ばしたせ
いだと指摘されました。息子も大きなお蔭をもらっております。息子は左官業を営んでおります。
五~六年前、息子が作業中、足場を踏みはずして転落しました。普通なら死んでいたか、手足が折れて
いたであろうと同僚が申した位、高い所から落ちました。が目の上がわずかに傷ついただけで助かり皆
不思議がっておりました。息子よりお地蔵様にお礼に参ってくれと頼まれ早速府中市に参りました。
首無地蔵の前に食堂「地蔵庵」があります。首無地蔵でお蔭を貰われたというFさんが働いておられま
した。参拝の折昼食に立ち寄ると色々助言して頂き、人助けをするように薦められました。
自宅に居ると何も言わないのに多くの人が尋ねてこられ、助けてくれといわれます。その度に、その人
の住所と名前を書いてもらい、その紙をもって首無地蔵に参り拝んであげます。
人助けの例を二~三記します。
(1)老婆の足腰の治癒他
近所のおばあさんが足腰が痛いといわれる。娘に養子をもらわれたが、その養子も入院し、娘も頭痛で
悩んでおられました。治るように頼んでこられたので、皆の名前を書いてもらい、首無地蔵に参ってお
願いしてあげました。私が一所懸命にお祈りしている頃、おばあさんは自宅で眠くてかなわなかったと
申された。養子は一週間で退院し、娘の頭もまもなくすっきりし、すぐミシンを踏むようになり、おば
あさんの足腰もよくなり、おばあさんは喜ばれ、地蔵参りに熱心です。
(2)縁談が整う
十年前、芳井町の人で、菓子工場で一緒に働いていた人の息子に嫁が中々決まらないので、私の所に相
談にこられた。私は例の如く名前を書いてもらい、首無地蔵に参りお願いしました。
その人がお寺で撮られた写真を見せてもらったとき、その人の後に霊が写っておりました。それが災い
しているとわかり、拝んでもらうよう頼んで上げました。拝んでもらうと霊は逃げました。それをきっ
かけに、嫁がすぐ決まり、大変喜ばれました。今だにその息子さんは嫁さんと一緒に首無地蔵に参拝し
ておられます。
(3)盗まれた自転車が戻る
平成五年頃のことです。私の娘の赤い自転車が自転車置場で盗まれました。私は二~三日待つように、
きっとお地蔵さんが助けて下さるからと言いきかせ、三日目に首無地蔵で拝んでいますと自転車置場が
霊視出来ました。その中に盗まれた赤い自転車が見えました。
187
娘に「行って見なさい。自転車は戻っている」と教えました。翌朝娘が自転車置場に行きますとちゃん
と自分の自転車が元どおり置いてありました。
盗んだ人の良心が戻り返してきたのでしょう。
信心していますと不思譲なことばかり起きます。大手術をしなければならなかった人が手術せずに退院
出来た人など私は既に十二~三人を助けてあげ、その人達に会いますと必ずお礼を言われ、何時地蔵参
りをされるかと聞かれます。井原市の人が特に多いです。
家にはお地蔵様を祭っており、家で拝んでいますと、府中市の首無地蔵堂が浮かび上り、ローソクの火
がよく見えます。五本-七本とローソクの火が見え、今五人~七人と参っておられることが分かります
。
数々のお蔭を頂き、多くの人々を救って下さるお地蔵さま、有難うございます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年八月十八日)
Book 18, story 10-01 to 03 same?
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>11
(11)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十一、足の痛み癒ゆ
(兵庫県)巳年男(55歳)
昭和五十年のことです。古くなった会社の鴨居が、突然落ちて来て運悪く下に居合わせた私の首をひど
く打ちました。頚骨が折れたらしく、痛みがはげしく、その後後遺症が十年も続きました。首がうずき
、仕事も出来ない有様でした。長い間リハビリにも通いました。
打撲後十年経った頃、島根県出雲市の妻の実家の母が首無地蔵のタオルとお守りを送ってくれました。
タオルを首に巻くようにとのことでした。
その当時、山陰地方より、一躍有名になった府中市の首無地蔵に、バスツアーが出るほど参拝者が大勢
参り、続々お蔭をもらっておられました。私も直りたい一心で、タオルを首に巻き、「おんかかかびさ
んまえいそわか」を称えておりました。
一年も経たない中に、首は楽になり、現在完全とはいかないまでも仕事は支障なく出来るようになり、
大変有難く思っております。
七年前、今度は妻の右腕がしびれ、痛むようになりました。医師は使い痛みと診断しました。夜中の二
時頃痛み出し、寝られず、毎日寝不足気味でした。早速私の使っている地蔵タオルで、右腕をこすり始
めました。そして一年位でしびれはとれました。一枚の地蔵タオルを二人で交互に十年間も使いました
ので、ボロボロになりました。
お礼を兼ね新らしいタオルを頂くため、本日夫妻で首無地蔵に参拝しました。幸い地蔵に詳しい世話人
の方ともお話が出来、心も安らぎ、満足して帰りました。
子供もお蔭様で病気一つせず、大学も卒業し社会人となって活躍してくれています。
お地蔵様、厚く厚く御礼申し上げます。
(平成八年八月三十一日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>12
(12)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十二、首の付け根の痛み癒ゆ
(福岡県嘉穂郡)T男(86歳)
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私は農家の生れで長年農作業に従事し、周辺に鉱山が多く炭鉱でも働いていました。長期の肉体労働で
無理が生じたらしく、年と共に肩がこり、首の根っこが痛くなってきました。自分では使い痛みと思っ
ていました。
私の二女が広島県の福山市に嫁いでおり、昭和五十二年五月に、近くの府中市に突如として首無地蔵尊
が出現され、著しい霊力があるという噂があっというまに広がっていました。
福山市の娘は、私のこの痛みをやわらげようと、私を呼び、府中市の首無地蔵へ同道してくれました。
当時は地中より掘り出して間もなく、須屋も小さく、周辺は山の斜面の畑ばかりで、畑隅にこじんまり
と祀ってありました。
地蔵堂には各地からの参拝者があり、賑わっておりました。
島根県に針の治療で有名な所があり、そこで治療を受けようと思い、側にいた神辺町(広島県)のおば
あさんに話しかけると
「針治療は一~二回でもよく効くことは効くが、直ぐ元に戻ってしまう。首無地蔵の方がよく効きます
よ」
とお蔭をもらわれたらしい自信のある言葉でおっしゃいました。
そこで島根県行きを止めて、お地蔵さんにすがることにしました。
「首のつけねの痛みを直して下さい」
と一生懸命にお願いして九州に帰りました。
私は地蔵受け付で頂いた「お地蔵さまのしおり」の表紙の地蔵写真をベッドに飾っており、地蔵の真言
もとなえながら、毎日拝んでおりました。
首のあたりがうずいて、夜もろくに眠れなかったのが、気がついて見ると、いつの間にか楽になってい
ました。医者にはかからず仕舞いで直ってしまいました。その後多少痛むことがあっても、お地蔵様を
拝むと楽になります。
首無地蔵が出現されて十九年の間に、九州から遠く、しかも年で度々参られないが、それでも四~五回
は参拝しております。二回目は奉納金も一万円を納めさせて頂きました。三回目はお礼の地蔵幟りを立
てました。府中市に行き地蔵境内に足を踏み入れますと何となく安らぎを覚えます。
首無地蔵様有難うございます。いつまでも息災で過ごせます様にお願い致します。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年九月三日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>13
(13)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十三、仕事がスムーズにゆく
(奈良県生駒市)S男(57歳)
私は大阪のある新聞社に務める平凡なサラリーマンです。若い時から宗教、信仰に興味を持ち信心のマ
ネ事を三〇数年続けて来ました。西国三十三ケ所を始め近畿地区の神社仏閣を約三〇〇ケ所位お参りを
した経験を持っております。
教会のハシゴもし、十カ所近い教会の門をくぐって来ました。今年に入って宗教雑誌「大法輪」六月号
に掲載された「首なし地蔵」さんの記事を読みました。何事も経験で早速足を運びました。その日は偶
然にも大祭の日で多勢の善男、善女で境内は身動きが出来ない位でした。願い事をよく聞いて下さる尊
いお地蔵さんであると前記の雑誌に書いてありました。
私の仕事は夏の「高校野球」の季節になると非常に忙しくなります。写真に関する仕事をしており、何
人かでチームを組み作業をする訳です。今年はメンバーが変わり慣れているのは私一人でした。他の者
は経験が浅く果して仕事がうまく行くかどうか心配になり悩みました。そこで、早速「首なし地蔵」さ
んにどうかトラブルなく仕事が順調に行くようにお願いしました。約二カ月に渡る仕事の期間中、お蔭
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を頂き何のトラブルも無く無事に仕事が完成しました。する事、なす事すべてうまく運び不思議な位す
べての条件が整い順調に仕事を仕上げる事が出来ました。
こんなに早く、又、具体的なご利益を頂いたのは私の人生で始めての経験でした。また、他人様に貸し
たお金も返って来ました。
早速近い内にお礼参りに行く積りです。「お地蔵さん」は素直で純心な気持ちでお願いすれば必ず聞い
てもらえる事を確信しました。
これからも多くの人々が御蔭をいただける事を願っております。
「お地蔵さん本当にありがとう御座居ました。」
合掌
(平成八年九月五日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>14
(14)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十四、孫の視力回復
(福山市)K女(75歳)
札幌市に十歳になる男の子で兄の孫がいます。四歳の頃から視力が弱く、眼鏡をかけなければ、段々悪
くなり、一年眼鏡をかけねばならぬと言われ、早くからかけていました。遊び盛りの年頃であり、遊び
の最中に邪魔になりすぐはずしていました。可愛そうで見ておれませんでした。
私は首無地蔵でお蔭をもらっていますので、お地蔵さんの力で何とか直らないものかと、平成七年八月
二十七日に参拝し、孫のことをお願いし、地蔵タオルとお守を頂いて、北海道に送ってやりました。タ
オルを時折目にあて、眠るときは枕カバーにして休むように申し添えておきました。
このことはすっかり忘れておりました。一年経って、平成八年八月二十一日ノ北海道に行き、九月三日に
福山市に帰りましたが、その間孫は眼鏡をかけておらず、非常に生き生きとしておりました。その子の
母は学校へ行くにもルンルン気分で通っていると申しておりました。完全にお地蔵様のお蔭を頂いてお
りました。全く不思議の一語につきます。
私は現在息子の仕事の関係で昭和四十九年より福山市に住んでいますが、元々北海道の者です。昭和三
十六年に北海道大学病院に入院したことがあります。病名がよく分らず、その中アジソン氏病(ドイツ
人医師の名前)であるとてホルモンが二七〇種ある中の一つ(ステロイドホルモン)が足りないという
。四ケ月間検査ばかりで、後には体が黒くなりました。入院後にこのホルモン薬を注射しましたら二~
三分で体がしゃんとし、よくなりました。その後は錠剤を服用し、一生飲まねばならないといいます。
私は毎日のように動き回っていますので、体が痛くなります。その都度首無地蔵に参ると痛みは不思議
に直ります。首無地蔵へはパーマ屋で友達に教えてもらい十五年前に既に参っております。そしてお蔭
をもらっております。その後は困っている人の為に祈ってあげています。七~八十人は助けてあげたで
しょう。
私は福山で十五年前、会社の病院に入院していたことがあります。六人部屋で、私が首無地蔵のお蔭の
話をしますと、そんな馬鹿な話があるかと陰口をついておりました。この中の一人が私の居ない間に、
病院を抜け出し、ハイヤーで首無地蔵に参っておりました。
そして受け付で何がしかの奉納をしてお返しの湯呑茶碗をもらって帰っておりました。この人は糖尿病
を患っておりました。その中に糖尿も出なくなり、インシュリンも打たなくてよくなり退院しました。
それで同室の者の態度が一遍に変り、首無地蔵への見方も改まり信用するようになりました。そして後
の五人も地蔵参りをするようになりました。糖尿病の患者がお蔭をもらって後に、私は首無地蔵で五人
分のタオルを頂いてきてやりました。更にこの中の一人に脊髄を患っていた人がおり、背中が痛んでい
たのが、お地蔵さんを信仰するようになり痛みがとれ、非常に喜ばれました。
190
昭和五十八年頃、北梅道の姉や姪が福山に来たことがあります。その時、姉も姪も肩が凝っていました
。按摩を呼んでくれるよう頼んだので、按摩へは行ったことがないので家を知りません。だまされたと
思って首無地蔵へ行こうといって、二人を府中市へ連れて行きました。二人はお地蔵さんに触った手で
一生懸命肩をこすっていました。帰りのタクシーの中で二人とも肩が変だといい、肩が軽くなったとい
います。即座にお蔭を頂いて姉も姪も大喜びでした。それ以来肩が凝らないといいます。北海道で風邪
をひくと、「おんかかかびさんまえいそわか」ととなえるとすぐ風邪が治るといいます。地蔵タオルが
汚れた頃に、新らしく地蔵タオルを受けて送ってやります。
多くの人々をお助け下さる首無地蔵様、誠に誠に有難うございます。
(平成八年九月七日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>15
(15)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十五、手首を切断せず癒ゆ
(広島県府中市)Y女(74歳)
鳥取県倉吉市に親戚があります。親戚の主婦が蒜山高原で大々的に大根の栽培をしている農家に手伝い
に行っておりました。大根の集荷出荷はすべて機械化しており、三年前、出荷の最中に運悪く親戚の人
は手首をはさまれました。早速病院に行きますと、切断しなければならぬと申されました。
当時この近辺では首無地蔵の霊験の著しいことが有名になっておりました。二十世紀梨の栽培の盛んな
所で、梨の採取時期に、急に肩が痛み出し、梨の採取が出来なくなった主婦がいました。丁度近所の人
が首無地蔵に参って、地蔵タオルを何枚も受けて帰り、周囲の人に配っておりました。そのタオルを持
っていた人が、肩が動かなくなったその主婦の肩に、タオルを広げて掛けてあげると忽ち、肩の痛みが
消え動くようになりました。この話がパッと広がっていて、手をはさまれた人も知っておりました。そ
こで府中市の首無地蔵の下手に住み、毎日のように参拝し、お蔭ももらっている私の所に、地蔵タオル
を受けて送ってくれるよう依頼してきました。
私は早速首無地蔵に参り、タオルとお餞米を頂いて、倉吉市の親戚に送ってやりました。
タオルで負傷した手をさすっていた親戚から、二~三日して切断しなくてもよいと言われたと知らせて
来ました。
手首も動くようになり、現在も何ら支障なく農耕作業に従事しています。周囲の人も不思議がっている
とのことです。
二十五歳になる孫がおり、現在親の経営する鉄工所を手伝っています。三年前、会社の自動車で走行中
、機械が故障し、ブレーキが効かなくなり、方向がとれず、じぐざぐしながら道をはみ出し、林の中に
突っこみ木々をなぎ倒しながら車は転倒しました。孫は自力で車から這い出し助かりましたが、かすり
傷一つ負っていませんでした。
この他、運転中、土手から二回も転落する大きな事故を起こしていますが、その都度怪我もせず、けろ
っとしています。私は首無地蔵のお守りを孫に渡し、いつも身につけさせております。事故に遭っても
、お地蔵様が護っていて下さると信じています。まことに有難いお地蔵さまです。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年九月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>16
(16)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十六、事業の発展
(東広島市)T男(65歳)
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十三年前、会社に勤めていた息子が突然に家出しました。
心配のあまり、評判の高い首無地蔵にすがるべく、祖母と一緒に府中市に参りました。府中市の旅館に
三泊し、朝晩首無地蔵堂に参拝し、息子の行方と無事を祈っておりました。
お地蔵様に通じたのか、十日目に息子からの連絡があり、ほっと致しました。本当に有難く、早速息子
の祖母の名前で幟を奉納致しました。息子は上京して運送店に勤めていました。友人の誘いでA軽運送
協同組合に入社し、友人の下で働いていました。そこで東京に家を借りてやり住まわせました。
息子は二年位勤めて独立し、一人で運送店を始めました。四年間続けた後個人会社を止め、F株式会社
としト再出発しました。株式会社設立後は仕事が順調に進んでいましたが、例の平成のバブルの崩壊で不
況となり、仕事量も減ってきました。が不況にかかわらず、仕事が向うから飛び込んできました。建材
店の運送を一手に引き受けていた運送屋の主人が突然に亡くなり、その運送の仕事を息子の会社に依頼
してきました。そして一挙に運送量が増えました。
会社にして六年を経過し、息子も三十五歳となり、今年四月資本金を一千万円に増資し、従業員も八名
になりました。その中に国立大学出身の人もいて、片腕となって働いてくれています。
息子は二回ほど東京から首無地蔵に参っています。私は最初首無地蔵に参った後に、胃の手術をしまし
たが、順調に経過し、既に十年余になりますが好調です。毎月の首無地蔵参拝を欠かしたことはありま
せん。家でもお地蔵のお札を祭り毎日必ず拝んでいます。
誠に首無地蔵様有難うございます。今後共お守り下さい。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年十月二十四日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>17
(17)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十七、滲出性内耳炎癒ゆ
(広島県呉市)W女(60歳)
二十五年前私は内耳炎を煩い、難儀をしました。
風邪を引いたのがもとで、熱が出、耳に水がたまるようになりました。水を注射器で抜きました。耳の
中は微妙な構造になっており用心深く注射器の針で鼓膜を通し、そっと水を抜くのですが、これがとて
も痛いのです。月に二回水抜きをしていました。そのあと鼻から空気を入れて、水がたまらない療法を
週に三回は行いました。耳鼻科医に十年余りも通いました。
当時私は洋裁仕立をしていました。その中のお客が、首無地蔵参拝の募集をしていた呉市の観光バスで
府中市に行きました。私の苦しみを見兼ねて、首無地蔵のお守りを受けて帰り、私に下さいました。始
めて見るそれは、ニても優雅で、奇麗でしたので、そのお守りの紐をカーデガンのボタンにくくりつけ、
お守りを内側に入れておりました。
不思議なことが起きました。それから二、三日~一週間過ぎても水がたまらないのに気付きました。お
守りが効いたのか耳が今までと違いとても軽いのです。従って耳鼻科に行こうという気も起きなくなり
ました。その時、妹はお守りが効いたのだろうと言います。それっきり医者には行っておりません。刺
激物を食べるとかゆくなったり、神経的なもので心がイライラすると調子が悪く、耳中でピチンとあわ
が弾けるような音がきこえてきますが、水がたまったような様子はなく、痛くはありません。以前のこ
とを思えば、この上なく楽です。
一年後に、始めて府中市に行き、首無地蔵にお礼参りしました。お地蔵様が祭られて七年目頃と思いま
す。初めてお地蔵を見て、もの凄く感激しました。首無地蔵様の頭にさわりながら涙がぼろぼろと流れ
おちました。そして本当に私をお助け下さいまして感無量の余り泣き、今でも思い出せばむせびます。
私の苦しみを知っている主人は、急転回に好転した私の病状を見て、びっくりしておりました。「お地
蔵さんで効くのはお前だけだ」と申しました。府中市より帰ってから、毎晩、声には出しませんが、東
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方首無地蔵に向い、地蔵の真言をとなえました。私の内耳炎がよくなって十三年経ちます。お蔭で耳鼻
科のお世話になることもなく、有難い日々でした。現在では風邪を引かぬように、首無地蔵タオルを首
にまいて寝ています。妹にも地蔵タオルを首に巻いて寝るように勧めましたら、よく風邪をひいていた
のが一切引かなくなりました。私はお守りだけで助ったのです。年に一度は必ず地蔵参拝をします。
首無地蔵さま有難うございます。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年十月二十七日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>18
(18)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十八、むち打ち症癒ゆ
(広島県御調郡久井町)K女(69歳)
府中市の首無地蔵が出現されたのが、昭和五十二年であり、一挙に有名になり、近隣に広まりました。
私達夫婦が参拝を始めたのは昭和五十三年からであり、昭和五十五年五月十八日の大祭のときの記念の
湯呑を頂いたのを今も大切に保存しています。そして年に四~五回は参拝しておりました。
昭和五十八年、所用で主人の運転する車で広島に向っておりました。折悪しく、後続車に追突され、首
に強い衝撃を受けました。その時は何ともなかったが、夜になって急に目がくらくらしてきました。痛
みも激しくなり、病院で手当を受けました。それから一年間通院しましたが一向に好転しません。
首無地蔵は霊験いちじるしいと聞いトいるので、本気になり必死にお願いを始めました。地蔵堂の線香の
灰も頂き枕の上に置いたり、地蔵タオルを首に巻いて寝ておりました。昭和五十九年には、次第に痛み
も感じなくなってきました。そしていつのまにか痛みは消えておりました。現在に至るも、たまに使い
痛みはあるものの、むち打ちの痛みは全くありません。レントゲン写真には、五番と六番目の首と骨の
間が欠けています。それでも痛まないので医者は首をかしげておられます。
最初の診断では頭痛は直らないと言われ、薬はもらったが飲まずじまいです。十年経ちますが、むち打
ち症が出て痛くて寝たということはありません。自動車部品の加工の仕事を請負っており、重金属を上
げ下ろしたりするので、体の節節は痛みはすれ、むち打ち症の再発はありません。
平成六年頃、不況で仕事が激減したことがあります。その時も首無地蔵尊にすがりました。一生懸命に
仕事をお願いして帰りかけました。府中市街を出て、父石町のJR福塩線の踏み切りに差しかかりまし
た。その時めったに出たこともない大あくびが出、耳もむずがゆくなりました。おかしいなあと思いつ
つ久井町の自宅に辿りつきました。
翌日のことでした。思いがけない大量の仕事がどっさり入って来ました。昨日のあくびや耳のかゆみは
、お地蔵さんのお知らせだったのだと思い知らされました。
使い過ぎで肩が痛くなることがあります。首無地蔵で拝んでいるとボギッと骨の折れるような昔がきこ
えました。妙な事があると思い帰宅しますと、痛みはすっかり軽くなっておりました。
首無地蔵様は誠に有難いお地蔵さんです。
厚く厚く御礼申し上げます。
(平成八年十月二十九日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>19
(19)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
十九、半身不随の好転
(佐賀県鎮西町)Y男(74歳)
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平成六年六月七日、午前九時頃仕事にいって、脳内出血の為に唐津市のH病院に入院しましたら、半身
不随の診断が出て、闘病生活に入りました。麻痺の為に言語障害が出て、昼夜点滴を十五日間ぐらい続
けました。倉敷の娘が一週間ほど介抱して、一応帰りました。そして、帰ったものの心配なので、娘は
病院の看護婦さんに相談しますと広島に首無地蔵様がおられると教えられ、娘夫婦で参りに行き、御地
蔵様のしおりと、タオルをいただき、御願いしてきたそうです。早速唐津の病院にタオルを送ってもら
い、それを家内が朝晩お地蔵様の真言を唱え、全身を撫でて祈祷してくれました。そうする内に日に日
に食事が喉を通るようになり、足の麻痺も徐Xに取れてきて、ベッドから降りて、立てるようになりまし
た。それから嬉しくて、毎日少しずつ足も元気になり、病院内の散歩もするようになり、初めは手を引
かれましたが、手摺につかまって歩き、それから一週間たつと、もう手放しでぼちぼち歩けるようにな
りました。その時の喜びは涙が出るはど嬉しいものでした。
また食事の時、麻痺のせいで思うように行かず、左手で初めはさじで苦労して食べていましたが、次第
に箸の練習もできておいしく御飯が食べられるようになりました。でもその他に不眠症に悩まされまし
て、毎晩タオルをいただき、「口奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶」を三回唱え休むようにしました。お蔭様で
、五ケ月ほどで退院ができ、毎日のように、リハビリにバスで通うようになり、また、人が驚くほど、
回復に向かい今でも毎日リハビリの為に通院しております。
心配してくれた娘の子供も、岡山大学の推薦入学のお蔭を受けました。非常に喜んでおります。そして
、去年の五月に、私のお礼参りに参った時、十二歳の孫娘の眼病の祈願をしてきたところ手術も無事に
終り、お蔭を受けて今では学業に励んでいます。また毎日朝晩眞言を唱えて、佐賀の地よりお祈り致し
ております。次の機会にお参りさせていただきます。
首無地蔵さま有難うございます。
(平成八年十一月三日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>20
(20)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
二十、盲腸炎癒ゆ
(香川県高松市)H男(72歳)
私は昭和三十年正月元日に物凄い盲腸の痛みがあり、近くのお医者様にお願いして見て頂き、正月が終
り次第に手術をと言われ、痛み止めの注射をして帰りました。正月三日が終って、いつ手術をお願いし
ようかと考えておりました所、先生が脳梗塞で亡くなられ、盲腸はチクチク痛むし、今度はY総合病院
の院長先生にお話してみますと、薬ではすっきりしないから、早く切りなさいと言われましたが、又そ
の先生が急死されました。
そして近くに若い先生が開業されましたが、又その先年もガンで亡くなられ、本当にどうしたことかと
思案しました。ある日、知人にこの事を話してみた所、ありがたい地蔵大菩薩様がいらっしやることを
初めて知りました。できることなら親から頂いた大事な体に、メスを入れたくありませんでしたので、
ぜひお願いしてみようと知人に相談しました。十年位前のことです。教えて頂いた人を合せて四~五人
の連れで府中市に参りました。その時分は盲腸はしくしくと痛んでおりましたのを我慢して参拝しまし
た。首無地蔵堂では一生懸命祈りました。
帰宅して二~三日経つと盲腸の痛みは消えておりました。不思議でもあり、有難くもありました。それ
っきり再発もせず、手術もせずに現在に至っております。
三人の先生が亡くなり、手術をしない私が、今日まで長生きさせて頂いていますのは、決して自分の力
ではなく、願い事をかなえて下さった地蔵大菩薩様のお蔭と、毎日感謝しております。そして年三回バ
スで皆様をさそってお参りさせて頂いております。これからもできるだけ参拝させて頂こうと思います
。
首無地蔵様本当に有難うございます。
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(平成八年十一月十二日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>21
(21)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
二一、咽の悪性リンパ腺腫の治癒
(岡山県倉敷市)N女(65歳)
私は首無地蔵に毎月月参りをしていました。既に十年以上は参っています。息子もここ数年、本気で参
拝しています。息子は電気工事の仕事をしており、不景気の時にもお蔭様で店は繁昌しておりました。
平成七年六月、私の頬が急に腫れ、のどまで腫れてきました。病院に行きますと、ガンの疑いがあり、
二~三日の寿命と宣告されました。その位ひどい症状であったようです。即刻入院し、すぐ手術するよ
うに言われました。私は入院や手術がいやなので、その病院を断りました。二日後娘が別の病院を探し
てくれました。その病院は入院せずともよいということで診察を受けました。そこで私の為に一番よい
と思われるK病院を教えトもらい、紹介状も書いて頂き、そこの耳鼻科で診察を受けました。後に内科に
替わり、私には抗ガン剤が合いそうなので、それを注射しながら様子を見ようということになりました
。抗ガン剤を注射しますと一日半でのどの腫れは引きました。胃や肝臓にも腫瘍があるとのことで、抗
ガン剤注射と薬を併用しておりました。お蔭で半年で退院出来ました。平成七年十二月十五日のことで
す。入院中は娘が、店の商売用のお酒をもって首無地蔵に参り、一生懸命祈ってくれていました。
平成八年一月四日、正月参りを兼ね首無地蔵にお礼に行きました。境内は沢山の人で賑わっていました
。
私は食堂を経営しています。店では地の酒「さつき心」をお客に飲んで頂いています。このお酒を毎年
正月に首無地蔵にお供えするのが行事となっています。本年の正月にも「さつき心」を供え、厚く厚く
御礼を申し述べました。病気が好転したのはお地蔵様の力と信じています。
私の主人は昭和五十七年に亡くなっています。主人の生存中はよく一緒に参っていましたので、かれこ
れ十五~六年は地蔵参拝したことになります。
のどのリンパ腺腫は完全に消えました。医者は抗ガン剤が私の体質に合ったのだろうと申されます。抗
ガン剤はきつい薬なので、肝ぞうを痛め、目下その治療を行っています。のどの方は一年近くもなりま
すが、その後悪化もせず何ともありません。良き医師にめぐり合えたことも幸運でしたが、首無地蔵の
おはからいもあり、大きなお慈悲を頂いたと思っています。
自分の身の回りのことは自分で出来るようになり、お店の手伝いも出来て、楽しい日々を送っています
。お地蔵様有難うございます。今後ともお守り下さい。
おんかかかびさんまえいそわか
(平成八年十一月十三日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>23
(22)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
二二、阪神大震災時の不思議な体験他
(1)脊中の痛み癒ゆ
(2)左足の痛み癒ゆ
(3)娘の高校入学
(4)父の安楽往生
(5)阪神大震災
(神戸市垂水区)O女(57歳)
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(1)脊中の痛み癒ゆ
昭和五十二年十二月二十七日の夜TBS系(関西では毎日放送)で広島県府中市の首無地蔵さんの事を
テレビ放送したのを友人が見ていて、私にもお参りに行こうと誘ってくれました。その頃私は背中が痛
くて、寝返りをするのも大変でした。一度は背中が痛いので、新幹線に乗って行けないと断りました。
でも友人が誘ってくれたと云うことは、私に「お地 さんが呼んで下さっている。」と思いすぐに「連
れて行って」と連絡しました。
四人連れ立って府中市にむかい、タクシーでお地蔵さんに着き、首無地蔵さんに「背中の痛みを取って
下さい。」と一心にお願いしました。帰りに福山駅で、他の人達は初めて福山市に来たので、福山の駅
から一泊のため鞆の浦に行きました。
私は連日背中が痛くて、夜もゆっくり眠れなかったので皆に、「私は寝られないから、皆さん先に寝て
下さいよ。」と云っていた私が一番先に眠ってしまいました。朝までぐっすりと寝て、皆に「何が背中
が痛いのよ。」と云われ、昨日まで寝返りも出来なく痛くて泣いていたのに、お地蔵さんに痛みを取っ
て下さいとお願いしたら、すぐに取って下さいました。本当に霊験あらたなお地蔵さんです。
うれしい、有難い、本当に心より感謝しています。それから現在にいたるまで、色々とお地蔵さんにお
願いして助けていただきました。
(2)左足の痛み癒ゆ
十数年前、左足が痛くなり、いつもなら十分程で行ける病院に四十分以上もかかって通院し、治療を受
けていました。娘が見かねて、私を首無地蔵さんに連れて来てくれました。私は足が痛く娘にすがりつ
きながら、府中に着き、首無地蔵さんに「どうか足の痛みを取って下さい。」と一生懸命お願いしまし
た。そして坂の下の池田製菓でタクシーを呼んでもらい、府中駅に着き、福山行の電車は反対側のホー
ムなので、私は一人で階段を昇りました。私を下から見ていた娘が「お母さん、手すりももたずに、上
っているけど、足は何とも無いの。」と声をかけられ、私の足の痛みが無くなっているのに、自分で気
がつき、こんなに早く痛みを取って下さった首無地蔵さんに心よりありがたくお礼を申しました。
(3)娘の高校入学
十三年前、娘が高校進学の時、あまり試験勉強をしませんでした。私は公立高校に入学してほしかった
ので首無地蔵さんにお参りして、「どうか娘が公立高校に入学出来ます様に。もし公立に行けましたら
、壱万円寄付させて頂きます。」と心よりお願いしました。三月二十日が合格発表でした。午前中に、
合格したことがわかり、昼から学校に娘といっしょに行かなければならないので、姪にたのんで、二十
日昼から府中市に代参してもらい、首無地蔵さんに、合格したことを申し、お礼を言ってもらいました
。それから数日後私は首無地蔵様に約束通り壱万円のお供えをさせてもらいました。本当に自分の時も
うれしかったですが、それ以上に娘の為に聞いて下さった事がありがたくうれしかったです。
(4)父の安楽往生
父は平成五年三月二十四日に、K市中央病院に入院し、右足を足のつけねから15cm残して、切断し
ました。医師は父の寿命はあまり長くないと言われました。五月一日には「後十日程でしょう」と言わ
れましたので、私は首無地蔵様にお参りして「治らないのなら、苦しまずに、あの世に行けます様に首
無地蔵様迎えに来て下さい。」とお願いしました。父は五月二十一日まで本当に弱りもせず、子供や孫
達と話をして、ベッドの上で送日していました。二十一日の日も変りが無いので弟が、父の洗濯物を持
って私の家に行くと言ったら、父が「T子によろしくと言ってくれ」とたのまれたそうです。病院から
私の家までは単車で往復十五分程です。弟が病院に着いたら、父は亡くなっていました。看護婦さんが
弟が病院を出てからずっと父に付いていて下さったのですが、昼食なので五分程はなれて病室に入った
ら、もう亡くなっていたのです。いつもと変らずおだやかで本当に美しい顔をしていました。
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首無地蔵さんがむかえに来て下さったのだと、私は心よりそう思いました。父は平成五年五月二十一日
昼十二時十二分苦しまず、そして子供達にあの世に行く時の自分の姿は見せずに、安楽往生しました。
ありがとう御座居ました。首無地蔵様
(5)阪神大震災
平成七年一月十七日午前五時四十六分。
あの大地震です。私の家は神戸市中央区で三宮より少し東に寄った所です。娘の部屋には家具類が一杯
です。頭上に何が落ちて来ても不思議ではない状態でした。右の物が左に飛び、左の物が横にとび、タ
ンスや水屋、大きな冷蔵庫、水屋など物という物は、グチャグチャでした。でも娘の上には物一つも落
ちていませんでした。地震の前、一月十五日に、首無地蔵さんにお参りしてO家の親戚の名前、友人達
の名を上げて、首無地蔵さんに平穏無事をお祈りして釆ました。不思議な事に、私が拝んだ人は、あの
すごい地震の時に怪我をしていませんが、名前を上げなかった人は、上げた人のとなりに座っていても
怪我をしています。首無地蔵様のおかげは、こわい程いただいております。
仮設の家も自分の思っていた一番奥の部屋が当り、よろこんでおります。首無地蔵様有難度御座居ます
。
私は今までに首無地蔵様に色々お願をしました。そして数えきれないくらい御蔭をいただきました。自
分の事だけでは無く、娘、親、妹弟、親戚、知人と本当に助けていただきました。
口奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶
口奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶
合 掌
Book 18, story 22-01 to 05 same?
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>23
(23)『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
二三、震災後理想の住宅に住む
(兵庫県芦屋市)S女(63歳)
私は娘の友人の母のOさんと知りあいになり、首無地蔵参拝には一緒させて頂いています。
平成七年一月十七日の阪神大震災で、家がだめになり、仮設住宅に入るしかありませんでした。
芦屋市が、市営住宅を空屋十軒も入れて、抽選すると八月にきまり、私はOさんと首無地蔵さんにお参
りし、抽選に当ります様にとお願いしました。抽選をする順番を決めるのに、くじを引いた所、一番が
当りました。多勢の人の中、私は一番にくじを引いたら、又、一番が出ました。だから、私は今まで住
んでいた家の一番近い所の市営住宅をえらぶことが出来ました。仮設に入っていたらいずれ又転居の運
命でした。でも私達家族はもう転宅しなくて燉ヌいのです。
これもみな首無地蔵様のお蔭と信じています。有難うございます。
平成八年十一月十八日秋のお祭りにお参り出来て大変うれしうございました。
(平成八年十一月十八日)
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第18部>あとがき
『地蔵大菩薩礼賛記』第18部
あとがき
地蔵大菩薩礼賛記第十八部が出版出来ましたことを喜びと致します。毎回ながら、首無地蔵尊をめぐる
有難い不思議な出来ごとは、只驚くばかりであり、生々としたお地蔵様のお働きを賛嘆致します。
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大学の教授が筆を執られ、全国的な月刊誌に掲載された首無地蔵の記事が、本稿の金守様の不可思議な
霊験譚のごとく、或は東京その他の地方において、読後にお蔭を受けられ、各地より首無地蔵に参って
こられるということは、地蔵尊の目に見えぬが、強力な霊力を感じ取ります。
人界においては、最高学府の教授の方々の注目を引き、学術論文或は霊験記として発表され、天界にお
いては益々霊力を強められ、地球をめぐり人々を救い、平和成就にむけ働きたまう首無地蔵尊の御姿が
、霊能力者の霊視に映じてお閨A一段上の高所におわす地蔵尊と申せましょう。
目下境内に鐘楼を建設中であり、平成九年の春頃竣工予定です。お地蔵様の梵鐘の音は、又々不思議な
働きをすることが予想されます。
なお、平成八年十二月に「首無地蔵菩薩」のインターネット・ホームページを開設しました。地蔵菩薩
の歴史、由来、お蔭など、世界のどこからでも瞬時に知ることが出来ます。
ホームページのアドレスは左の通りです。
http://www.fuchu.or.jp/~jizo
終りになりましたが、霊験談をお寄せ下された各位に深甚なる感謝の意を表します。
「備後府中 首無地蔵菩薩」>『礼賛記』>第19部>巻頭
『地蔵大菩薩礼賛記』第19部
巻頭
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