...

外部との人間関係を 多く持っておく必要がある

by user

on
Category: Documents
15

views

Report

Comments

Transcript

外部との人間関係を 多く持っておく必要がある
連載◎
コア人材たる
職員に期待する
長野県川上村長
藤原 忠彦
第11回
人口が少なければ少ないほど、
外部との人間関係を
多く持っておく必要がある
長野県東部の八ヶ岳山麓、千曲川の源流域に位置する南佐久郡川上村は、全国有数の高原レタスの産地で、台湾や
香港にも輸出されている。人口は4,756人(平成25年10月1日現在)
。藤原忠彦村長は、全村にCATVなど農業情報
ネットワークシステムを構築し、村営バスの運営、24時間図書館、村のカラマツ材を活用した中学校の建設など、先
進的な村づくりで全国的に注目されている。自らの経験も踏まえて現役の職員には生涯、学習をせよとハッパをかける。
職員として最初の仕事は
トラクターオペレーター
務めることになりました。職員といっても農業を
しながら春と秋のシーズンに集中的に、国から借
りたトラクターで村じゅうの農地を開墾して回る
20
─若い頃、村職員になるまでは農業をされてい
のが仕事です。それを2年間やりました。昭和38
たそうですね。
年、24歳の時に村長に「どうしても必要だから役
藤原 中学時代に国産旅客機「YS-11」の開発の
場に入ってくれ」と言われて、無試験で正職員に
話を聞いたのがきっかけで、高校を出たら工業系
なりました。
の大学に進学して、将来は航空エンジニアになり
─正職員として採用されて、どんな仕事を経験
たいと思っていました。ところが、父親が亡く
されましたか。
なって、母親一人では農業ができないけれども兄
藤原 最初は税務です。それは1年ぐらいで、そ
はせっかく入った大学をやめたくないということ
の後は昭和45年頃までずっと農政で、農業基盤整
で私が高校を中退しまして、6年間は農業だけを
備を手がけました。以前の川上村の農業は米づく
やっていました。その間に、機械いじりが好きな
り、そば、雑穀に牛や馬も飼って多少は野菜も
ものですから将来は大規模農業の時代が来ると思
作っていましたが、高冷地なので収量も収入も少
い、川上村で初めて大型トラクターの免許を取り
なかったのです。「この村で農業で生きるための
ました。昭和36年に、農林省(当時)の寒冷地対
方向性を見つけ出さなければいけない」と、農家
策事業でトラクターと乳牛のホルスタイン50頭が
がみんな模索している時でした。開拓パイロット
セットで村に貸付になり、トラクターのオペレー
事業や土地改良事業など大型事業にいろいろ取り
ターが他に誰もいないというので村の臨時職員を
組んだ結果、
「川上村では野菜しかない。高冷地
vol.108
コア人材たる職員に期待する
プロフィール
藤原忠彦(ふじはら・ただひこ)
1938年11月22日、長野県川上村生まれ。長野県立臼田
高等学校中退。農業に従事した後、1963年に川上村役場
正職員に。企画課長を経て、1988年川上村長に就任。現
在7期目。2005年から長野県町村会長。2010年から全
国町村会長を務める。「常に学び続けなければならない」
と新聞の社説を27年間、スクラップし続けている。趣味
は短歌。
で寒すぎて他のものはやめたほうがいい」と、村
ですか。
役場がまず将来の農業の方向を示して、農家もそ
藤原 昭和62年、48歳の時でした。他の職員から
れについていきました。川上村が「高原レタスの
も村民からも「村長選挙に出たらどうか」「応援
村」に変わっていったのは、その頃からです。
する」と推されて立候補しました。当時の村長は、
農業の方向性がある程度定まったら、今度は村
も大型投資をしなければならないというので企画
農業政策も村営バスも村営テレビも私の企画を実
現させてくれた腕利きのいい村長だったのですが、
財政に回りました。「行政は計画性がなければい
「世代交代が必要だ」「情熱的な若い人がいい」
けない」というので、たまたまその時に川上村が
「もしいなければ自分が続けるしかない」と、後
山村振興事業の対象に指定され、国の山村振興計
継者を探していました。私が名乗りをあげた翌年
画に合わせて村づくりの計画を立てて、それに財
の昭和63年2月、1回目の選挙は無投票で当選し
政予算を割り当てるという企画財政の仕事をずい
ました。企画課長から一気に村長です。
ぶん長くやりました。1回目は昭和45年から54年
─それ以来、任期は7期目で村長になられても
まで務めて、2年間の議会事務局長をはさんでま
うすぐ26年になります。
た復帰しています。2回目の時は新しく企画課が
藤原 選挙は1期目、2期目は無投票で、3期目、
できて、その初代の課長になりました。44歳か45
4期目は若い人が対立候補でしたが大差で勝って、
歳の時です。
5期目、6期目、7期目は無投票です。役場で企
─企画課長時代は、いろいろなアイデアを提案
画財政、企画課長をやっていましたから、村づく
して実現されています。
りについて長期に、ブレないで考える姿勢が村長
藤原 当時、スクールバスを使って全国でも他に
になってもずっと続いています。今から考えれば
なかった村営バスの運行を始めました。村の情報
それがよかったのかと思います。完全に農業だけ
化として村営テレビも始めています。
でメシが食べられる村に成長して、人口減少もあ
村長として
生活・社会インフラの整備に尽力
まり起こらず、農業後継者も完全に定着して、日
本国内でもけっこう高レベルの農業経営ができて
いる村になることができました。
─村長選挙に最初に出ようと思われたのはいつ
─村長になられてから手がけられた事業も数多
vol.108
21
甲武信源流サミットであいさつする藤原村長
新藤義孝総務大臣(写真、左)がレタス畑を視察
くあります。
官報を定期購読して配達してもらっていました。
藤原 生活インフラ、社会インフラの整備で文化
当時は財政も良くなかったのですが、制度がある
センター、24時間図書館、全村100%下水道化、
限りはそれを使いこなすのが役場職員の使命だと
医療・福祉拠点のヘルシーパークなどをつくりま
思っていました。飛び歩いてから村長に「この制
した。24時間運営の訪問看護ステーションは村民
度を使いましょう」と説得に行くと、たいていは
に最も喜ばれていて、介護保険対象者の在宅率は
「よし、やってみろ」と言われました。いい村長
50%を超えています。国が目指していることのほ
に恵まれたおかげで「日本で初めて」をいくつも
とんどはすでにやっています。公共施設を地元産
手がけられたのだと思います。
のカラマツ材を地産地消で使って建てています。
職員時代は、こんなに面白い仕事が世の中に他
その1つの中学校の校舎の音楽室は音楽堂にして
にあるだろうかと思いました。税金で自分のロマ
ドイツ製のパイプオルガンを設置し、将来、卒業
ンが追求できて、上には村長という責任をとって
生がそこで結婚式をあげられるようにしました。
くれる人がいますから。30代から40代の頃が、生
私も夢を持っていますが、村民に夢を持たせられ
涯で一番、楽しい時代でした。
るような村政を行っています。
─国との折衝は大変ではなかったですか。
行政マンに必要なのは
「現状分析能力」
と
「未来創造能力」
と
「人的関係構築能力」
藤原 大変でした。
「川上村では絶対にダメだ」
と言われたことは何度もありました。夜討ち朝駆
けで何回も通ってお願いして、もう足と説得力で
22
─職員時代の仕事で印象に残っているのは、ど
すね。
「悪いことでない限り、絶対できる」と信
んなことでしたか。
じていました。法律は日本全国が対象の標準的な
藤原 昭和42年に農地の開拓パイロット事業が始
ものですが、他の地域では必要がなくても、この
まり、川上村はその第1号になりました。
「峰越
地域には絶対に必要なものがあると、中央官庁に
し林道」の事業も日本で初めて取り組みました。
乗り込んで言い続けました。最大の説得力は行動
農業構造改善も早かったです。今はインターネッ
です。理屈よりは行動、理論よりも行動だと思い
トがありますが、当時は国の新しい制度が告示さ
ます。村長に「これ以上やってもムダだからあき
れるとそれが初めて載るのは官報で、「これはい
らめよう。次の方策を考えたほうがいい」と言わ
い」と思ったものがあればすぐに東京まで飛んで
れた時も、あきらめきれずに「それなら休んで行
いくのです。県にも知らされないことがあるので
きます」と休暇願を提出して東京に行ったことも
vol.108
コア人材たる職員に期待する
横浜スタジアムでの始球式
恒例となっている山菜まつり
ありました。
ささいなことでも興味を持って調べてみることが
─その時はつらくても、後々に財産になったよ
勉強になります。長野県町村会長、全国町村会長
うなこともありましたか。
を務めていますといろいろな方とお会いしますか
藤原 人的ネットワークができていったのです。
ら、今が一番勉強ができる時だと思っています。
中央官庁で窓口になる人は若いお役人で、上の人
人と会うのも勉強で、生涯学習だと思えば苦痛に
に話をつないでくれるわけですが、何度も通って
はなりませんね。
いるとやっぱり仲良くなるものです。その人が主
査、係長、課長補佐、課長、局長とだんだん出世
税金を使わなくても
できることはいくらでもある
していって、中には事務次官になった人もいます。
その皆さんが私が村長になってから「東京応援
─職員OBとして、今の職員の皆さんをご覧に
団」をつくってくれて、中央官庁だけでなく政財
なってどう感じていますか。率直なところを聞か
界からも多くの方が入りました。今でも難しい問
せてください。
題があれば相談に乗ってくださいます。4,700人
藤原 最近、私への「提案が少ないな」と感じて
の村ですが、外の人脈は無限大です。それがある
います。情熱とハングリー精神を持って「村長に
から、私も能力以上の仕事ができたのではないか
蹴られてもかまわない」ぐらいの気持ちで提案を
と思います。
ぶつけてきてほしいんですよ。財政の問題も制度
─地方行政マンに必要な能力は何だと思います
の問題もありますからなかなか難しいですが、税
か。
金を使わなくてもできることはいくらでもありま
藤原 課長でも村長でも「長」になってわかった
す。一般的には行政、ガバナンスとは税金という
のは、行政は「現状分析能力」と「未来創造能
カネをモノやサービスに変えて地域住民に提供す
力」と「人的関係構築能力」の3つがあればでき
ることだと思われていますが、私は行政の仕事は、
るということです。それは自分で努力して蓄積し
その地域のエネルギーに変わるような感動の場、
ていかないといけません。日々勉強です。私は高
感激の場をつくることではないかと思っています。
校中退なので、社会で勉強して取り返すしかない
もう、カネを使うことが全てという時代ではない
と思って今も自助努力を続けています。新聞の社
でしょう。村民と共に、地域の知恵も使って感動、
説のスクラップは27年間続けていますし、メモ帳
感激の「場」をつくるとか、住民参加型の取り組
を持ち歩いて、気になったことはメモしています。
みを企画することも大事で、制度づくりや財政支
vol.108
23
東日本少女サッカー大会
川淵三郎氏と
出が全てではないはずです。
藤原 私は今までの行政経験の中で、自分なりの
─藤原村長の職員時代のバイタリティからする
テーマを持っていました。衣・食・住は個人の努
と、後輩はおとなしくて物足りなく映りますか。
力で向上できますが、公共がからまないと地域が
藤原 最近の若い人は「教育」と「学習」の区別
どうしても活性化できない問題として「情報」が
ができていないような気がします。教育とは、小
あります。世界の出来事や情報は直ちにお茶の間
学校、中学校の義務教育、高校、大学の各学校で、
のテレビに飛び込んできても、地域の情報が一番
生徒・学生として教室で先生から教わって、知識
遅れてしまうんです。コミュニティの情報は世界
を詰め込んで立派な人格をつくって社会、家庭に
の情報よりも早く流すことが大事です。だから村
貢献できる人物になることだと思います。それに
営 テ レ ビ を つ く り ま し た。 衣・ 食・ 住 の 次 は
対して学習は、生涯学習とも言いますがもっと長
「情」です。それ以外に「3つのコウ」も重視し
い期間、毎日、自分で学び続けることです。学習
ました。1つ目は公共交通の「交」で、学校の生
によって人間的にも成長しますし、いろいろなこ
徒や高齢者、障害者、病気の方のような自動車を
とを覚えて、教育で得る知識とは違った「知恵」
運転できない弱者を支えるために村営バスを始め
が身につくと思います。教育と学習、知識と知恵、
ました。2つ目は高齢化の「高」で、過去、努力
文化と文明をしっかり分けて、考えていかなけれ
して村を発展させてきた高齢の皆さんをしっかり
ばいけないでしょう。
支えないといけません。デイサービスやヘルシー
もう1つ、地方行政でしっかり分けて考えるべ
パーク構想はそれに基づいています。3つ目は交
きなのが「活況」と「活性化」です。これは同じ
流の「交」で、定住人口よりも交流人口のほうが
ではありません。活況を呈していても、活性化に
大事ですから、村役場の職員も新人以外ほとんど
つながらないようなものはいくらでもあります。
全員、海外研修に出して交流の輪をひろげていま
人が集まってきてにぎやかでも経済的な効果が全
す。武蔵野市、三鷹市、町田市、蕨市との都市交
く出ないようなことがあります。行政が手がける
流、アメリカ・ワトソンビルとの姉妹都市交流、
なら、活性化につながるような活況でなければい
中国からの農業研修生の受け入れも、後継者の婦
けないと思いますね。そのあたり、まだ勉強が足
人だけのヨーロッパ研修も、その一環です。それ
りない職員がいるように感じます。
らを合わせて「衣・食・住・情・3コウ」と言い、
─地方行政はこうあるべきだという考えがあり
これが川上村の村政の主要テーマです。
ましたらぜひ聞かせてください。
24
vol.108
その他に、「風土・風習・風味」を無視して村
コア人材たる職員に期待する
台湾での川上村野菜フェア
づくりはできないという「3風の原則」も掲げて
産業が必ず出てくると思います。
います。高原野菜のレタスも、夏でも涼しい高冷
とは言っても、農業しか生きる糧はないという
地という風土のおかげでその風味が生まれていま
決意のもとでやっていますから、村は絶対にブレ
す。道祖神など昔からの風習、伝統文化もしっか
ません。食料をつくる農業は何と言っても生命維
り 守 っ て い く。「 衣・ 食・ 住・ 情・ 3 コ ウ 」 と
持産業で、完璧な経済至上主義ではなくてもやっ
「風土・風習・風味の3風」は、村政の土台とし
ていけます。成長産業だと思いますし、最後に残
て総合計画の中に入っています。それを活かして、
る産業だと思っています。ですからレタスづくり
ローカル色をしっかりと出していかないといけな
の前に人づくりをしっかりやりたいですね。村民
いと思っています。村長になって長い間、それを
のロマンと私のロマンが一致して、税金や国の補
言い続けてきましたから、村民の皆さんにもそれ
助金を使って夢が達成できる。それをやりがいに
なりに理解していただけるようになりました。地
やっています。行政そのものがアートの世界で、
域を中心にものを考えて、やってきたことが今
私はアーティスト、職業的芸術家だと思っていま
やっと実って、効果が出てきたところです。
す。
─今後の村政の方針を聞かせてください。
─最後に、全国の自治体職員の皆さんに期待す
藤原 レタス栽培のおかげで耕作放棄地も空き家
ることをお願いします。
もない農村になり、農業後継者も育ってきました
藤原 この仕事が天職だと思って、情熱を持ち、
が、基幹産業の農業をしっかり守るためにあらゆ
自分が持つあらゆる能力を使って、眠っている潜
ることをやっていかないといけないと思っていま
在能力ももっと掘り起こしてほしいですね。村の
す。グローバル化にもしっかり対応します。しか
ほとんどの職員は県庁勤務を経験していますが、
し何と言っても重要なのは「人づくり」です。毎
役所を中から見るだけでなく、外から見ることも
日のように視察があり、「農業で高収入が得られ
大事です。そこで役所の外の民間の人や先生方と
るから後継者が定着するんですか」と皆さんおっ
の人間関係を1人でも多く築いてほしい。内部か
しゃいますが、実際はそうではありません。人が
らの活力、内発力が低下しないように、人口が少
いるからこそ産業を起こして収入が得られます。
なければ少ないほど、自治体の職員はいざという
基本は人です。私は永久に野菜の産地であり続け
時に外の力を借りられる外部との人間関係を、よ
たいと思っていますが、もしレタス栽培がダメに
り多く持っておく必要があると思います。
なったとしても、人がいれば川上村に新しい産品、
vol.108
25
Fly UP