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『ラ・ロシェル信仰告白』 ―その成立の歴史― [ 291KB ]

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『ラ・ロシェル信仰告白』 ―その成立の歴史― [ 291KB ]
March 2
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4
―7
3―
『ラ・ロシェル信仰告白』*
―その成立の歴史―
森
はじめに
川
甫**
!.16世紀前半のフランス・プロテスタン
トの動向
1)の『ラ・ロシェル信仰告白』
「荒野の博物館」
400周 年 記 念 集 会 に お い て、リ シ ャ ー ル・ス ト
「16世紀の宗教改革の覚醒から起こったフラン
フェール教授2)は次のような言葉で講演を始め
ス・プロテスタンティスムは、1520年から1550年
た。
「すべての記念日がかならずしも出生記念日
の間は、いわば、地下の」存在であった。聖書を
というわけではい。批准とか公認を記念して祝う
中心にして、少人数で地下組織を構成して、集会
のがそれである。今日ここに私たちが集まってい
を持った「ルター派」
(今日のように信条を持つ
る記念日の場合がまさにそうである。私たちの集
た教派を意昧しない)、あるいは、「福音派」は、
会の主題である『ラ・ロシェル信仰告白』(『フラ
約30年の間、カトリツク教会と公然と断絶するこ
ン ス 信 条』
)は、実 際、今 か ら400年 前、ラ・ロ
ともなく、また、分離して教会を設立することを
シェルで開かれた大会で生まれたのではなかっ
求めることもなく、彼らの信仰を生きることを求
た。それは、それより10数年前にパリで生まれ
めた。祖国フランスにおける宗教改革運動を注意
3)
た。私は今その状況を思い起こしたいと思う。
」
深く見守っていたカルヴァンの影響のもと、この
この信仰告白の成立の状況を、次の順序で述べた
世紀のなかぱころ、福音派の人々は教会を組織し
い。
始めたパリ、モー、アンジェ、ポアチェ、ルーダ
!.16世紀前半のフランス・プロテスタントの動
向、
".フランス改革派教会第1回大会開催、
#.信仰告白の作成、『ラ・ロシェル信仰告白』
の成立
$.18世紀以後の『ラ・ロシェル信仰告白』評価
むすび
ン、アルヴェール半島に改革派教会が設立された
後、数百の教会が福音派を名乗った。広範囲の種
まきの後、み言葉の種は明らかに大きな収穫期を
迎えた。この収穫はやがて権力の雷に打たれるの
であつた。教会を建設した福音派は、同時にユグ
ノーとして集団となった。このユグノーをアンリ
2世4)は厳しく弾圧した。このような迫害にもか
かわらず、この「新しい」信仰(ただ純粋に原始
教会を再生したこの教会は、新しいものではな
い。)は、徐々に浸透し、あらゆる階層の人々に
広がった。第3階級の身分の低い人々にも、貴族
*
キーワード:信仰告白、改革派教会、フランス・プロテスタント
関西学院大学名誉教授
0
5.
1)森川甫著『フランス・プロテスタント 苦難と栄光の歩み』聖恵授産所出版部,19
9
9.pp.9
6―1
2)Richard STAUFFERT フランス国立高等研究院、宗教部門において、1
9
6
0年代から1
9
8
0年代、宗教改革の歴史と
神学の講座を担当し、また、学長も勤めた。
3)Richard STAUFFER, Brève histoire de la Confession de La Rochelle, BSHPF, juillet-septembre1
9
7
1,p.3
5
5.
4)HENRI"(1
5
1
9―1
5
5
9)フランス国王(王位1
5
4
7―1
5
5
9)
**
―7
4―
社 会 学 部 紀 要 第9
6号
階級にも広がっていった。このようにこの信仰が
当時のあらゆる人々の願いに応えるものであった
ことは真実である。
題を審議するために4日間、ひそかに、フォブー
ル・サン・ジェルマンに集まった。この界隈は、
「小ジュネーヴ」と呼ぱれていた。なぜならば、
16世紀に福音派の教えによって起こされた求心
そこにはプロテスタンティスムの支持者が多数居
力のうち、最も驚くべき証拠のひとつは、1557年
住していたからである。官憲が監視している状況
9月4日の夜、パリのサン・ジャック通りで開か
の中でこのような集会を持つことは狂気に等し
れた集会によって私たちに示されている。この
かった。この集会の動機が何であっても、真剣な
時、聖餐式に出席するために、数百名の改革派教
ものであった。たとえもし、歴史家たちが指摘す
徒が教会の長老の館にひそかに集まった。慎重に
るように、ユグノーの貴族たちが国王に提出する
事を運んでいたにもかかわらず、この集会は発覚
目的で、正当な信仰告白を審議、作成しようと望
した。参加者は極度に興奮した下層民たちによっ
んだとしても、あえて権力に挑むことは、人々の
て包囲された。参加者の多くはプロテスタントの
目には狂気が、私たちに言わせれば、信仰の熱い
貴族の剣により切り開かれた突破口によって脱出
思いが必要であり、そして、突き詰めて言えぱ、
することに成功した。しかしながら、彼らのうち
死を賭さなければならなかった。このような状況
130名は逃げ出すことができず、捕らわれの身と
なかで、カルヴァン5)の態度は意味深い。彼の態
なった。彼らのうちには、30人ばかりの貴族を含
度から大胆な人々がパリ大会開催にさいしてとっ
め、その大多数は女性であったが、あらゆる階層
た状況を推し測ることができる。彼らの確信は疑
の人々がいた。異端者は死刑に処すというコンピ
わないが、慎重に事を運ぶことを意図していた宗
エーニ ュ 王 令(1
557年7月24日 発 布)が 効 力 を
教改革者カルヴァンは、この第1回大会を冷静な
失っていないことを示すために、国王は高い身分
態度で観察していた。このような集会は彼にとっ
のユグノーの貴族を処刑した。当時支配していた
てはフランス改革派教会のためには危険で、脅威
暴力の風土があったので、改革派信仰の表明は信
に満ちたものに思え、また、その開催者たちにそ
者にとって、生命の危険を冒すことであった。フ
6)
のことを指摘するのに根拠は不足していなかった。
ランスとイスパニアとの間の紛争に終止符を打っ
たカトー・カンブレシ条約が締結された1559年4
".信仰告白の作成
月以後、危険は増大していった。フィリッペ2世
との戦争から解放されたアンリ2世は、以後、プ
いずれにしても、大会は開催された。パリの牧
ロテスタント、
「この忌まわしい悪党」を絶滅する
師フランソワ・モレル7)に司会されて、大会は改
ために、フリー・ハンドを持つことになった。そ
革派教会の大会組織を定める「教会規定」をまず
して、絞首台が設置された。イエス・キリストの
最初に審議した。それは3つの職 制(牧 師、長
みを願い求め、ただ聖書のみを求める者を処刑す
老、執事)を制定した。
「教会規定」を定めるこ
るために、どの街角にもかがり火がともされた。
とは第一歩に過ぎない。教会という名に値する教
会は、少なくとも16世紀においては、信仰告白な
!.フランス改革派教会第1回大会
くしては教会とみなされない。宗教改革の大原則
を明文化し、福音に参与した教団が信仰を表明す
第1回大会(全国代表者会議)を開催するため
ること、そういうことがその後半の日程におい
に、フランス改革派教会(教会数、約70)の代表
て、パリ大会が果たさなければならない重要な義
が集まったのは、この弾圧の雰囲気に包まれた
務であった。重箱の隅をつつくような習癖のある
1559年5月のことである。彼らの人数は20名か、
神学者のことを少しでも知っているならぱ、1559
最大30名ばかりで多くはなかった。彼らは信仰問
年大会の後半の努力がどんなに大きかったか分か
5)Jean CALVIN(1
5
0
9―1
5
6
4)
9.
6)Cf.『フランス・プロテスタント』pp.5
4―5
7)François de MOREL
March 2
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4
―7
5―
るであろう。信仰を文章化するに当たって、当時
8)とストフェール教授は指摘している。それ
る。」
のキリスト教徒が今日の私たちのような躊躇や留
でも1559年大会の議員たちは、カルヴァンが彼ら
保や疑いを知らない時代でも、神や救いといった
に寄託した案文を修正したのちに40条からなる信
中心的な間題に関して、全会一致できるような文
仰告白を採択した。
書を1日や2日で作成することがどうしてできる
であろうか。
それでは、信仰告白はいかにして作成されたの
であろうか。答えは少なくとも、唐突である。パ
カルヴァンによる『序説』と1559年大会の決定
を以下に示す。
カルヴァンによる草案の「序説」
リ大会の通知を好意的に受け取らなかったが、カ
信仰の基礎は、使徒パウロの言うごとく、神の
ルヴァンは不満を示すような狭量な考えは持って
み言葉による(
「ロ一マ」10:17)のであるから、
いなかった。フランソワ・モレルの懇願に応え
生ける神は神の律法において、その預言者たちに
て、カルヴァンは大会議員たちに35条からなる信
より、また、最後には、福音書において明らかに
仰告白の草案を届けた。カルヴァンの草案は大会
さ れ る(「ヘ ブ ル」1:1)の で あ り、そ し て、
の最終日に届いた。それがいかに首を長くして待
人々の救いに適っているかぎり、そこに神の意思
たれていたか、いかに感謝して受け取られたか想
を示しておられることを私たちは信じる。した
像できる。この草案作成者が与えている権威を
がって、私たちば神から出た言い逆らうことので
よって、ジュネーブから送られて来たこのテキス
きない、謬りのない真理の総和として、旧約聖書
トは、何ら修正を加えられずに直ちに採択される
および新約聖書を持っている。そこにはあらゆる
のであろうか。否。いかに尊敬されていても、い
叡智の完全な規範が含まれていさえするので、そ
かに畏れられていても、カルヴァンは16世紀の宗
れに付け加えたり、減じたりすることは正しくな
教改革者たちにとって教皇ではなかった。それゆ
く、その全 体 に 同 意 し な け れ ば な ら な い こ と
え、第1回大会の議員たちは、ジュネーブの宗教
(「申 命」4:2、「エ フ ェ ソ」4:6、「箴 言」30:6)
改革者が彼らに送ってくれた草案を修正すること
を私たちは信じる。
ができ た。
「第2条 か ら 第34条 に は 手 を 付 け な
ところで、この教理は人間や天使の権威ではな
かったが、その代わり、市民権に関する第35条を
く、ただ神の権威による(
「ガラテヤ」1:8)の
2つの条項(第39条,第40条)に分割した。そし
であるから、したがって、神のみがこの教理の確
て、とりわけ、聖書からのみ神知識を取り出して
実さを選ぱれた者に与え、また、この教理を彼ら
いる見事な序説を新たに5つの条項とした。
「神
の心に刻むことを私たちは信じる。
を知ることができるのは、神のみ言葉のみによる
のであり、また、聖書の啓示においてのみである
1559年大会の決定
ことをきわめて完壁な仕方で明言しているこの序
1.唯一の神が存在し、その神は霊的で、永遠
説を、パリ大会が保持しなかったのは惜しまれる
の、見えない、変わらない、無限の、測りし
ことである。それにもかかわらず、幾人かの著者
れない、消すことのできない、唯一で、単純
たちが指摘しているように、この序に代わった5
な本質であり、全能であって、全知であり、
つの条項、とりわけ、み言葉によってより明瞭に
全く善で、全く正義で、全く憐れみ深いこと
知られる前にその被造物と摂理によって神が啓示
を私たちは信じ、そして、告白する。
されると主張する第2条は、カルヴァン派のセン
2.神は、第1に、そのみ業によって、また、創
スを持っている者にとっては、みすぼらしく感じ
造とその維持と導きによって、より明白に
られるということを肯定しないにしても、ジュ
は、第2に、初めは神託により顕わされ、次
ネーブの宗教改革者、カルヴァンによって提供さ
に、私たちが聖書と呼ぶ書物に書かれたみ言
れたテキストの香りも力も失わせていると言え
葉によって、神として私たちにご自身を明ら
8)Richard STAUFFER, op. cit., pp.3
5
9―3
6
0.
―7
6―
社 会 学 部 紀 要 第9
6号
かにされる。
だ雰囲気があった。好意的な謁見を期待して、大
3.聖書全体は、以下に記す旧約聖書、新約聖書
会は作成されたばかりの信仰告白を若い国王に提
の正典の諸書によって構成されている。
出するために、すべての教会に一人ずつ使節を宮
(以下、省略)
廷に派遣するように要請した。ついに、改革派信
4.これらの諸書は、教会の全面的賛成と同意に
仰が認められるのであろうか。6ヶ月のち(1561
よるだけでなく、聖霊の内的な証拠と説得に
年9月)に開かれたポアシー会談は、プロテスタ
よることを私たちは認める。聖霊は聖書を、
ントに彼らが熱望している宗教の自由を獲得する
いかに有用であっても私たちの信仰告白の根
ことを可能にするであろうか。否。なぜならぱ、
拠とはなりえない教会の他の書物と、私たち
1562年3月、ギーズ公の軍隊によって礼拝中のユ
に識別させる。
グノーが不意に襲われ、70名以上殺害されるとい
5.私たちは、これらの諸書に含まれているみ言
う恐ろしい事件が起こったからである。そして、
葉が神から出たものであり、ただ神からの権
これがその後に続く宗教戦争の血なまぐさい歴史
威を得、人間からでないことを信じる。そし
の始まりである。しかしなが ら、1
570年、コリ
て、み言葉はあらゆる真理の規範であり、神
ニー提督の不屈の努力によって得られたサン・
への奉仕と私たちの救いのために必要なすべ
ジェルマン講和は、宗教の異なるフランス人の間
てを含んでいるので、人間はもちろん、天使
に永続的な和解が調印されるかに見えた。講和に
さえも、それに付け加えたり、減じたり、変
よって改革派教会はラ・ロシェル、モントーバ
えたりすることは許されない。したがって、
ン、コニャック、ラ・シャリテ・シュル・ロワー
その結果、古さも、習慣も、多数も、人間的
ルの4つの安全保障都市が与えられた。講和の有
知恵も、慣例も、法令も、王令も、政令も、
利な条件によって改革派教会の中に幸福感が生ま
公会議も、幻も、奇跡も、この聖書に反対す
れた。サン・バルテルミーの虐殺事件の1年前、
べきではなく、遂に、聖書によって、検討さ
1571年4月2日、プロテスタントの砦として認め
れ、整えられ、改革されねぱならない。そし
られたぱかりのラ・ロシェルにおいて、第7回フ
て、それに従って、私たちは、3つの信条、
ランス改革派教会大会が開催された。
すなわち、使徒信条、ニカイア信条、アタナ
この大会は他の大会とは異なっていた。実際、
シオス信条を承認する。神のみ言葉に一致し
「改革派陣営」の必要のために来訪した高位高官
ているからである。
の3人の改革派教会の代表がいた。すなわち、ナ
ヴァール教会代表のナヴァール王妃、ジャンヌ.
!.『ラ・ロシェル信仰告白』の成立
・ダルブレ11)、ジュネーヴ教会を代表してテオ
ドール・ド・ベーズ12)、フランス教会を代表して
パリ大会の2年後、状況はユグノーにとって好
コリニー提督13)が列席し、コンデ公14)やルイ・ド
転してきたかのように見える。シャルル9世9)の
・ナッソー15)も参加した。この王侯たちの参加す
治世、王母カトリーヌ・ド・メディシ10)は実際、
る大会には高位の調停役が必要であった。その任
プロテスタントに接近することを決意するように
務にはカルヴァンの後継者で、ジュネーブ・アカ
見えた。それゆえ、1561年3月ポアチェで開催さ
デミーの学長、テオドール・ド・ベーズが選ばれ
れたフランス改革派教会第2回大会にはくつろい
た。背が高く、会議のテーブルではよく目立っ
9)Charles!(1
5
5
0―1
5
9
8)アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシの次男。フランス国王(王位、1
5
6
0―1
5
7
9)
1
0)Catherine de MÉDICIS(1
5
1
9―1
5
8
9)アンリ2世の妃、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の王太后。
1
1)Jeanne d’ALBRET(1
5
2
8―1
5
7
2)ナヴァール王、アントワヌ・ド・ブルボン(1
5
1
8―1
5
6
2、王位、1
5
5
5―1
5
6
2)の
妃。フランス国王アンリ4世の母。
6
0
5)
1
2)Théodore de BÈZE(1
5
1
9―1
1
3)Gaspard, l’amiral de COLIGNY(1
5
1
9―1
5
7
2)
5
8
8)
1
4)Henri CONDÉ(1
5
5
2―1
1
5)Louis NASSAU
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た。ラ・ロシェル大会はただ単に華麗な大会では
なかんずく、審議に参加したナヴァールとコンデ
なく、この大会は優れた業績を挙げた。とりわ
の王子たちによって署名された後、ラ・ロシェ
け、1559年パリ大会で採択された信仰告白を審議
ル、ベアルン、ジュネーヴの公文書館に送付され
したのである。
ることになる。こうして、1559年、パリで採択さ
この信仰告白は1
2年間にその地歩を固めてい
れた信仰告白は1571年の第7回大会で、いわぱ、
た。それはフランスのすぺての改革派教会のなか
批准され、この信仰告白はこの大会の名称を採用
に広がっていた。この信仰告白はフランス王国以
した。爾来、この呼び名が用いられ、今日も、
外でも、ヴェツセルやエムデンの大会においても
『ラ・ロシェル信仰告白』という名称が用いてら
認められていた。このような普及、このような成
れている。
功は必ず、さまざまな条項の表現に若干の不正確
さを引き起こす。それゆえ、大会はまず第一に、
むすび
正統と認められるはずの本文について一致するこ
とを求めた。ついで、聖餐式を扱っている第36条
に関して長時間。論議を行なった。実際、1559年
18世紀以後の『ラ・ロシェル信仰告白』の評価
この信仰告白の批准の時期から今日までの運命
の本文では、信者はイエス・キリストの「実体」
を辿るには新しいもう一つの研究発表を必要とす
とされると明言しているこの「実体」という語が
るであろう。簡潔に言うならば、カミザールや荒
問題となった。それは2つの視点からであった。
野の大会で用いられたのち、19世紀にはその光が
1549年、聖餐式の間題に関してジュネーヴの改革
弱まるのが見られた。1842年の大会は、この信仰
派と和解したツィングリーのチューリッヒの弟子
告白に対して少し敵意を秘めているのが見られ
たちは「実体」という語につまづいていた。彼ら
る。1872年の大会はこの信仰告白の古臭さを指摘
は主の晩餐をまったく受難の記念としていた。一
している。しかしながら、教理的表現にこだわら
方、カトリックは「実体」という語を物質的意味
ない19世紀はこの信仰告白を明白に拒否すること
で解釈していた。「実体変化」というローマ・カ
は決してなかった。1938年、フランス改革派教会
トリックの教理により、聖餐のパンとぶどう酒の
がその一致を回復した時、その信仰の表現を一致
質がキリストの体と血に変わるからである。
信条と並んで、この信仰告白に認めることができ
この相違を知っていたが、それでも、ラ・ロ
たのであった。
シェル大会は「実体」という非難されている語を
ストフェール教授は「それでは、今日、
『ラ・
保持することを決定した。それは頑迷さの故では
ロシェル信仰告白』はどのように考えられている
なかった。そうではなく、聖餐式において神秘的
であろうか。
」という問いを投げかけ、次のよう
な方法で、信者は真にイエス・キリストの体に結
に、この信仰告白のもつ意義を指摘している。
びつくことをよく示すためであった。しかしなが
「この信仰告白は過去の尊敬すべき記念碑である
ら、大会はあらゆるあいまいさを避けることを好
けれども、今日、信仰告白の意味がまったく変
んだ。大会はその公式文書のなかで、
「実体」と
わったとするならば、私たちにとって意味の欠け
いう語は、「いずれにしても、身体は、肉的な仕
ている記念碑であろうか。私はそうは思わない。
方で関係のあるいかなる状況にも、混合も、変化
そんなに過去でもない時代、ナチズムに遭遇して
も、変質も意味するものではなく、霊的な仕方で
ドイツの教会はその信仰を告白した。そのことは
イエス・キリストご自身が私たちのものになり、
今日、なお、教会は状況が必要とする度に、教会
私たちが彼のものになるという状況を意味してい
は自らを、謙虚に、しかし、確信をもって、教会
る」と明言している。
の名において、教会のためにその信仰を宣言する
「実体」の語の審議が終わり、大会は羊皮紙
よう求められている。フランス改革派教会が『ラ
で、3つの写本を作成することを決定した。これ
・ロシェル信仰告白』に関して、必ずしも字義通
らの写本はフランス改革派諸教会の牧師、長老、
りには確信を表明していないことは歴史家も認め
および、高位の人々、つまり、ナヴァール王妃、
ているところでである。したがって、例を一つだ
―7
8―
社 会 学 部 紀 要 第9
6号
け挙げるならば、16世紀には国家はキリスト教国
主要参考文献
であることを望んでいたのであるから、国家の義
―CONFESSION DE FOY, JOANNIS CALVINI, OPERA
SELECTA, vol.!, MCMLII, pp.2
9
7―3
2
4.
務を述べている第39条と第40条に関しては、宗教
改革の遺産に最も忠実な信者にとってさえ、疑間
を投げかけざるを得ない。しかしながら、
『ラ・
ロシェル信仰告白』自体が望んだもの、つまり、
輝き、表現、聖書の翻訳、400周年を記念してい
るこの憲章は現代性を失ってはいない。
『ラ・ロ
シェル信仰告白』が私たちに与える教訓は、現代
の願いや勧めに直面して、私たちは黙しているこ
とができないということである。世界という法廷
を前にして、私たちがキリスト者として参加し、
そして、改革派キリスト者として私たちを位置付
けることができるのは、イエス・キリストとの関
係においてのみであり、神のみ言葉としての聖書
を読み、聖書に聴くことによってのみであると定
義できるということを、この信仰告自は私たちに
16)
思い起こしてくれるのである。」
1
6)Richard STAUFFERT, op. cit. p.3
6
6.
―LE CATÉCHISME DE GENÈVE par JEAN CALVIN, suivi
de LA CONFESSION DE FOI DES ÉGLISES
RÉFORMÉES EN FRANCE, éd.《JE SERS》
,1
9
3
4.
―LA CONFESSION DE FOI DES ÉGLISES RÉFORMÉES
EN FRANCE, La Revue Réformées,1
9
5
2.
―Richard STAUFFERT, Brève histoire de la Confession
de La Rochelle, allocution prononcée à l’Assemblée
du Musée du Désert, le 5 septembre 1
9
7
1, à
l’occasion du 4e centenaire de la foi de La
Rochelle. Bulletin de la Société de l’Histoire du
9
7
1,
Protestantisme Français, juillet-septembre1
―森川 甫『フランス・プロテスタント 苦難と栄光
の歩み』聖恵授産所出版部,1
9
9
9
March 2
0
0
4
―7
9―
Confession de la Foi de La Rochelle
: Composition and declaration of the Confession of the faith
ABSTRACT
In the 16th century, a church without its confession was not considered worthy of
claiming the name of church. In May 1559, the members from 70 reformed churches in
France gathered in Paris to have the first Synod to compose the text of their confession of
the faith. During this congress, they received a draft of the confession from the messenger
of John Calvin, Reformer of Genève. This is the draft which they were waiting for. This
draft of Calvin’s was composed of 35 chapters. They did not amend the draft between
Chapter 2 and Chapter 34, but they divided Chapter 35 into 2 chapters, and above all,
divided chapter 1, which is Calvin’s excellent and beautiful introduction of this draft. into 5
chapters. Calvin was a great Reformer, but not a Pope, so the members of the Synod could
amend Calvin’s draft. In any case, the text of the confession was drawn up, and in this
Synod, the French Reformed Church decided on their Confession. On April 2nd 1571, the 7th
Synod was held, with the attendance of four eminent persons, that is, Jeanne d’Albret,
Queen of Navarre, Henri de Navarre, later King of France, Prince Condé, and Amiral
Coligny. After eager discussions, presided by Théodore de Bèze, on the articles, this Synod
ratified the Confession as that of the French Reformded Church. This Confession is called
Confession de La Rochelle. Today, this confession is authorized as one of the most
significant credos among the traditional Credos.
Key Words: Confession of the faith, Reformed Church, French Protestants.
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