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サンティアゴ・ガルシア 「ケベードの壁掛けの向こうに見えてくる世界」1)

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サンティアゴ・ガルシア 「ケベードの壁掛けの向こうに見えてくる世界」1)
サンティアゴ・ガルシア
「ケベードの壁掛けの向こうに見えてくる世界」
1)
Santíago García, « Visión del Mundo a Través de las Antiparras de Quevedo » (1992)
2)
B.R 『ペテン師の口上』を世に問うことで、ラ・カン
と構造に、ある裂け目を入れるものだと?
デラリア劇団は新しい形式、新しいスタイルと美学に足
S.G 裂け目というだけでは不十分です。私としては、一
を突っ込んだといえますね。70 年代から 80 年代にかけ
つの踏み石、足まといになっていた障碍をのりこえるた
て、どんな変化が生じたとお考えでしょうか?
めの階段と言いたいところです。当然、作業は形式にお
S.G そう、かなり際どい転機でした、相当に辛どかっ
いても内容においてもより複雑なものになるのですが。
たですよ。集団創作から舵を切り替えて、個人色の強い
B.R グループでその変化を模索した結果、道の一つと
戯曲を台本に使った。それまでの 4 作は俳優が自分たち
してスペインに、とくにケベードに注目したということ
でテクストをつくってきました。そのやり方をずっと続
でしょうか、それは普遍性という点においてですか?
けてきて、その時期の最近作が『エル・パソ』ですね。
S.G そういえるでしょうね。その前の類似した作劇経
3)
『一攫千金』 も同じやり方でした。この作品にはかなり
験として思い当たるのは、『世界を揺るがせた 10 日間』
手こずりました。大きな成功をおさめた『グアダルー
です。このときもグループで過去と向き合う仕事をした
ペ 50 年代』『世界をゆるがせた 10 日間』と同じ方式
のです。ロシア革命 60 周年を記念する公演をやらない
を踏襲していたので、あらかじめ径が引かれている感じ
かという話をコロンビア労働組合連合(CSTC)から持
なんです。拘束されてしまうのですね。『ペテン師の口
ちかけられましてね。(60 周年行事は 1977 年に予定さ
4)
上』 ではその状況の打開が図られた。それまでの作品
れていましたから)もう時間もあまりない。コロンビ
では、一つにはフィクションと現実の関係があまりにも
アの労働者階級の歴史を視野に入れた作品をそれまで
直接的だった、背景を遠い時代に設定して、関係をもう
の間につくるというのは、どうしようもなく無茶な話
少し間接的なものにした方がよいのではないか、という
なんです。でも思い切って 20 年代のことを調べること
ようなことが劇団内で話し合われたのです。そこで 17
からとりかかりましたが、となれば時代を遡って十月革
世紀のスペイン、つまりケベードの時代を今の時代と関
命を担った労働者階級の発祥にも目を向けていかざるを
係づけることにしたのです。こうしてしっかりと距離を
えない。そうこうするうちに 1920 年代にこのロシアの
置いたわけです。現在と歴史的省察、そして歴史的言語
革命に深く影響され鼓舞されて、バナナ農園のストライ
との間に。 そうするとですね、意味作用の領野が開け
キを組織した人物がコロンビアにもいることが分かって
てくるのです。私たちの集団創作作品の中では、このと
きたりするわけです。過去に目を向けることの重要さを
ころ、それが手薄になっていたのですね。
思い知らされましたね。この国の労働者階級の起源を調
変化は二つあると思います。一つは最初の構想からス
べていくうちに、それが運輸部門から始まったことが見
ペクタクルまでのすべてを集団創作方式で担っていくと
えてきたりして、それはそれで非常に興味深かったので
いう方式から、まずは個人がたたき台を出して、それを
すが、しかし、ずっと先の方まで過去を遡りたくなって
集団で最終的な作品に仕上げていくというやり方への移
くるのですね。さてそうなると、この国の労働者や人民
行。もう一つは上演する作品の性格が変わったこと。現
の出自は明らかにスペイン、ここにやって来て、イン
実の事件と演劇との関係は以前ほど直接的なものではな
ディオの人たちとともにクリオーリョ社会をつくりだし
くなっています。
ていった最初の移住者たちです。その社会がでんと根を
B.R ということは、『ペテン師の口上』は、これまで
張って今日に至っているわけですよね。その根っこのあ
あなた方が維持してきたテクストとスペクタクルの形式
たりにケベードがいるんです。彼の作中人物の無頼漢た
1)[訳註]翻訳に際しては以下の文献を用いた。Santíago García,
Volumen 2, Bogotá, Ediciones Teatro
La Candelaria, 2002, pp. 209-222. 奇妙な表題であるが、ケベードの『大悪党』には、穴だらけで先が丸見えの「王様」の壁かけ
の話が出てくる。
2)[原註]ブランカ・セシリア・ラモス G とのインタビュー。1992 年 3 月 12 日。
3)[原註]1980 年初演。
4)[原註]1981 年初演。
― 1 ―
ち、この土地に到来して住み着いた流れ者たちで、それ
です。ケベードの作中人物は私にとっては大変に魅力的
が私たちの真の祖先、私たちの根茎である、ということ
な人物なのですが、生身のケベードにそれが対応してい
になります。この祖先探しをしていきますと、家名だの
るわけではありません。この人の人生と私の下世話な人
栄誉だの声名だのは一挙に消し飛んでしまう。身の毛も
生とでは対蹠点にひとしい隔たりがありそうですし、ド
よだつ殺し屋、盗賊、あぶれ者、まあ言ってしまえば「非
ン・パブロスという作中人物との関係においても、そ
常に胡散臭い」連中ばかりで、まさにその典型がドン・
れは同じでしょう。私の私的な話を引きあいに出すと、
パブロスなんです。面白いのはケベード作品のドン・パ
こんなエピソードがありますので披露しておきましょ
ブロスの行方、一稼ぎ目当てにインディアスに渡るとい
う。私は子ども時代を、プエンテ・ナショナル(サンタ
う落ちですね。ご存じのとおりです。
ンデール州)という小村で送りました。5 歳から 8 歳ま
B.R つまり世界観の変換もない、幸福や倫理の追求が
5)
で、そこで暮らしました。毎晩、家の台所に行きまして
あるわけでもない、そんなものとは正反対 。
ね、そこで女中が語ってくれる素適なケベード話に聞き
S.G というか、むしろ、それは始原の探究なのです。
入っていたのです。大きな家でしたが、使用人の子ども
それがアイデンティティの追求であり、自らの正体の認
たちがみんな集まって、肩を寄せ合って聞くんですよ。
知を志すものなのです。演劇はアリストテレスがギリ
魂を抜かれましたね、あのケベードには。それが私のケ
シャ悲劇の中に認めていた発見的認知(アナグノーリシ
ベード民話のイメージになっているのです。プエンテ・
ス)という機能を、自らの最重要要素の一つとして、何
ナショナルの我が家の台所のケベードですね。傲岸不羈
らかの形で念頭に置いています。舞台に触れることで観
で、粗暴で、皮肉で、民衆的なケベードです。
客の中に認知が生ずる、そして彼の「知の布置」が変わ
ところが中等教育を受けるようになって、そこでケ
る、そんな効果を当て込んでいるのです。ところが、そ
ベードを読むことになります。大いなる幻滅、打ちのめ
うは問屋が卸さない。私たちのこれまでの作品を振り
されましたね。プエンテ・ナショナルで聞いたケベード
返っても、最初の何回かの上演では、観客からの認知を
の話なんて、いっさい出てこない。ぜんぜん別な話だっ
得るのは非常に難しかった。観衆は大変なショックを受
たのです。その後、ケベードの伝記を読んだのですが、
けてしまって、こんな不様なアンチ・ヒーローは、到底、
私の耳に残っている台所のケベードとは何の関係もない
認める気になれないのです。観衆はテレビなどによく出
ケベードであることが分かりました。それで一種の復讐
てくる大衆文化向きの積極的なヒーローを求めます。ネ
を思いたちましてね、私のケベード、私の中のケベード
ガティブなヒーローでは駄目なのです。でも私たちが
を映し出すような作品を創作してやろうと思ったので
しようとしてきたのは、まさにそういうことなのであっ
す。これはスペインの大詩人、数多くの作品をものした
て、一種の洗浄作用というか、脱糞効果というか、どう
あのケベードとは別なケベードです。ケベードについて
しようもないヒーローを通しての発見的認知の探求なん
造詣の深い識者たちは、私の作品を見て怖ぞ気を震いま
ですね。
した。なぜってケベード(作中人物のケベード)が吐く
もっとも発見的認知とは言っても、ギリシャ悲劇が企
台詞のほとんどは私の頭の中からひねり出した言葉で、
図したような登場人物への感情同化を目指しているわけ
それはケベード(作家としてのケベード)の思想に関す
ではありません(あの場合は主人公への同化が救いにな
る私の考えに他ならないからです。詩人のイメージとは
るわけですよね)。私たちの場合は、大いなる幻滅がそ
あまり関係のない、私自身の個人的なケベード像である
れにとって代わります。幻滅がつまりは下剤なんです。
からです。スペインでこの作品を上演したときは、アル
ですから、作品の最後の台詞の一つはこうなっていま
マグロ野外劇場とその後でマドリッドでもやりました
す。業火に焼かれれば、そう、地獄は癒されるさ、と。
が、結構、受けは良かったのです。左翼系の新聞などは
B.R 自分の実人生、自分なりの世界観を何とかして自
たいそう褒めてくれて、なかなか冴えた劇評も出ました
分で決めていく人物が戯曲には出て来ますよね? こう
が、右翼の間では大悪評、スペインの大詩人の顔に泥を
いう喜劇仕立ての私的な生活の仮面剥ぎは、一体どのよ
塗る人物を登場させて舞台に汚物を撒き散らすラテンア
うにして構想されたのでしょうか?
メリカの不敬の輩の仕業、ケベードにたいする容赦しが
S.G 私が決してしてはならないと自戒しているのは、
たき冒瀆である、という批評でした。
この作品の中に告白や自伝的なものを読み取ることなの
B.R ケベード作品には、無頼漢という民衆文化に根を
5)[訳註]『大悪党』の末尾でアメリカに渡ってからの生活を予告してパブロスはこう言っている。「第 2 部でごらんいただきますよ
うに、わたくしの生活はますますひどいものになっていきました。と申しますのは、ただたんに住む場所だけを変えて生活や習
慣を変えない者は、決してその状態を改善できないからであります」(桑名一博訳『大悪党』)。
― 2 ―
置いた人物類型がもちいられていますが、80 年代のラ
漢、「すいすいと」世渡りをする者の中にプラスの符号
テンアメリカ社会に通ずるどんな要素が、あの中にある
を見てとらなければならない。パブロスがその企みを十
とお考えですか?
全に実現したわけではないにしても、それでもその経験
S.G ケベードに出てくる 17 世紀の悪党は階級の梯子を
の中には公衆に手渡すことのできる教訓、彼自身が手渡
よじ登ろうとしているタイプで、何よりも結婚によって
したいと願っている人生の教訓が、多少とも含まれてい
別な階級に身を移そうと企んでいる寄食家です。でも、
ます。すなわち生きるとは虎の穴を踏んで生きることだ
うまくいかない。志とは逆にますます零落していくばか
という悟りです。
りです。彼にとって、立身出世は高根の花なのです。で
B.R パブロスと関連してですが、ここでもう一つの
も何とか上の階級に這いあがろうと、破廉恥行為を片端
テーマに移りましょう。民衆文化における祭りは率直で
からやってのける。モラルも無用、倫理のひとかけらも
開かれた社会的表現を通して公的なものと私的なものが
ない。ただただ傍若無人なだけの野心家です。ケベード
融合される表現の場であるとされています。あなたが作
はストイックでセネカ風の、あるいはカトリック的でキ
品の中で創造した無頼漢パブロスはこの二つの社会を揺
リスト教的な彼のモラルで、パブロスの姿勢を基本的に
れ動いている存在なのでしょうか、それともそのどちら
は詰っているように思われます。彼の小説は多分に道徳
かに卓越的に足場を置いている人物なのでしょうか?
的な性格をもつ小説なのです。自分の階級を離脱して上
S.G 私は私的なものを公的なものに馴染ませることを、
流社会に抜け出して行こうとするパブロスの悪戦苦闘、
一種の抗体反応だと思っています。プライバシーを秘匿
それをケベードとしては否定したいわけです。ケベード
するのではなく、それを曝け出してしまうこと、そのも
の考えでは、人間は習慣を変えることによって変わって
ろもろの欠陥を曝け出して、他の人々にも役立つものに
いくのであって、居場所を変えることによってではな
するわけです。ある人にとっては益体もないものかもし
い、というわけですね。
れませんけれどね。―実際、そうした下世話な経験に
私たちは、まったく逆なことを言いたいのです。ケ
よってしか、世界は改善されないのです。このように私
ベードがマイナス符号の人間として主人公を描いてい
的なものを公的なものへと転倒することが、バフチン
るのにたいして、私たちは彼をポジティブに符号化し
が『中世・ルネッサンス期の民衆文化』の中で描き出
ようとしているわけです。つまり悪党の悪知恵を持ち上
してくれているカーニバルの本質です。秩序が転倒さ
げて、スペインのケベードやパブロスよりも、むしろイ
れ、欺瞞や社会の汚辱が曝し出され、それが社会の再生
タリアの悪党たち、コメディア・デ・ラルテのアルレッ
につながっていくというのがカーニバルでしたよね。で
キーノやザンニに似たイメージに祭り上げてしまいたい
すから、それは下剤として作用しているともいえる。ア
のです。社会の不動の掟を出し抜こうとする悪賢さ、仮
ルトーの言い方に倣えば、ペストということになるで
に失敗してもその失敗の経験はきちんと胸に納めるず
しょう。
る賢さです。このように悪知恵や横着さ、無頼さにポ
B.R 日々の生存は地獄である、という言葉もあります
ジティブな符価を与えることで、私たちは今日の、こ
ね。ところでパブロスは、ルーキアーノスの『黄金のろ
の二十世紀の現実に少しは近づけるのではないでしょ
ば』のように、うまく変身して第二の生を生きることが
うか。
できるのでしょうか? 罪―懲らしめ―復活―幸福とい
今日のコロンビアは麻薬密売で悪名が高いのですが、
う、バフチンの労作にも出てくる、あのお馴染みのサイ
少し距離を置いてこれを見てもよいのではないでしょう
クルを証明することに成功するのでしょうか?
か。歴史的に不利な条件に置かれてそうせざるを得な
S.G 主人公のパブロスに振り当てられたのは、彼の主
かったのですが、コロンビアの人間はラテンアメリカの
人であり所有者であり作者であるケベードが創作した物
他の国民よりも気がよく回ります。たとえば追剥を考え
語を生きるという人生ですよね。しかしですね、せっか
てみましょう。これをたんにマイナスの符号だけで考え
く主人公の人生を定めてやったのに、出来そこないの作
るのでは駄目で、悪賢さや利口さの中にポジティブなも
中人物であるパブロスが仕掛ける罠に作者の方が嵌まっ
のを見なければなりません。追剥という行為を持ち上げ
てしまうのです。作中人物が作者を愚弄する。そして作
て、祭り上げてしまうのです。ブレヒトがやったように、
者が決して望まないパブロス自身の生を体現してしまう
です。銀行を襲った奴と、銀行をつくった奴と、どっち
のです。彼が演じる振る舞いは罰当たりな人生の応報と
がワルなのか、分かったものではない、という台詞があ
して罰が下るという模範小説の図式にすっきりと当て嵌
りましたよね。ここには一つのモラルがあります。これ
まらないのです。自らの人生(それは何よりも無頼漢と
を流用して洞察を深め、ワルの野心家、詐欺師、無頼
しての人生であり、その苦難であり、数々の厄災であり、
― 3 ―
転落であるわけですが)を曝け出すことによって、その
つ造された虚構の観衆に過ぎず、本ものの観衆ではな
人生が価値を帯びたものになるのです。ここにおいて新
い、というわけです。街頭で実際に起こった事故を見て
たに甦るのは主人公自身ではありません。甦るのは公衆
いる観衆でもないし、現実の出来事に立ち会うために集
なのです。公衆の地獄はある程度、浄化されるのです。
まった人々でもない。絵空事を見るために、たまたま観
不運なオポテュニストの人生を見せつけられるときに、
衆を名乗っている人間たちに過ぎないというのですね。
観衆にある種の浄化作用がもたらされるからです。
ケベードが創作の創作と言って詰っているのは、これな
B.R その奇抜な創作は、作品を振り返っての私の理解
のです。この鏡の遊びの教授学では、教授内容の真偽は
では、フィクションの展開と並行して進行しているよう
不問に付されています。演劇ではその内容は審問に付さ
に思われます。そして結局のところ、地獄の存在は明ら
れます。ですから教育的な遊びよりも、芸術的なそれが
かになったのでしょうか? 悪魔と罪人たちが地獄の住
より興味深いのです。後者では無頼漢の人生を示すこと
人であるばかりではなく、パブロスのような実在しない
自体に主眼が置かれていますから。
人間(彼は想像の産物ですから)や、ここにいる観衆も
B.R 悪魔や罪人が住む空間を観衆が住んでいる空間と
同じ地獄の蜉蝣だというわけです。ケベードの台詞で
同一化しようとする意図が働いているのですね。その意
は、公衆は創作の創作の、そのまた創作と呼ばれていま
図にはどのような意味が込められているのでしょうか?
すからね。
S.G 空間を三区分することでお答に迫りましょう。ま
S.G 私がベースにしたのは『地獄の改善に総決起した
ず真ん中にあるのが舞台で、ここがフィクションの現場
6)
悪魔たち』 と名づけられているケベードの物語なので
です。背後に奥舞台があって、そこが地獄です。悪魔た
す。あまりの重労働に悪魔たちがとうとう我慢できなく
ちが騒いでいます。それから手前が観客席になっていま
なるという話です。地獄に漁場が創設されたものの、悪
す。ということはですね、観衆は世界からちょっと引き
魔の方は生殖器をちょん切られてしまっているために世
下がって、鏡を覗きこむような構図で、それにご対面し
代交代が利かない。それにたいして地獄に流れ込んでく
ているわけです。真ん中が舞台で、奥が地獄。地獄が手
るお客さんの魚たちの頭数は増える一方です。それでと
招きして観客を呼び、観客はあたかも鏡の中の自分を見
うとう悪魔たちが蜂起するんですね。労働過重に抗議し
つめるかのように目を凝らしてそれを見るという構図で
て悪魔が決起するわけで、何だが身につまされるような
す。地獄にいるのは、みんな何かしら悪いことをした人
話ですよね。この夢物語にはもう一つ、非常に興味深い
たち、この世で暮らしている人間たちもそれぞれに罪を
オチが記されています。人類の未来図です。地獄に泳ぎ
おかしていて、地獄に行く資格は十分にある。そこで舞
着く連中の多くはでっぷりと肥えた魚たちでね、大臣と
台が中間地帯になるのです。どっちつかずの道行きの場
か、銀行家とか、大泥棒とかといった人たちです。とこ
になるんですね。
ろが、そういう魚が将来的には目に見えて減っていくと
B.R そうした記号によって構成されるスペイン演劇の
いうわけです。現世が全面的に正されてしまえば、悪魔
伝来の手法を観客が理解すると見込んで、初演から今日
たちの過重労働も目出度く軽減されていくであろう。い
まで、劇団はあれを上演しつづけてきたのですか?
かにもケベードらしくセネカ風でストイックな見方なの
S.G まったくの直観でしたが、私たちはあれを本もの
ですが、そんな風にして地獄が無用になるときが来る、
の広場、ラ・コンコルディアの市場で初演したのです。
というのですね。真に正義が回復した暁にはもう地獄は
原作と原作者のことを思い起こしてそうしました。物売
要らない、悪魔も必要とされない、と。
りたち、物売り広場に集まる女たちのための作品にした
この遊びのスペクタクルには、舞台と観衆の間に鏡の
かったのです。それで市場に行き、彼女たちを芝居に招
遊びが仕掛けられています。舞台はたんに地獄を映し出
いたのです。彼女たちは子ども連れで、バスケットに食
している鏡に過ぎないのですが、観衆もまた、舞台の鏡
べ物などを詰めてやってきました。空間は広場の女たち
を映し出す鏡の鏡なのです。舞台がやがて消えていく虚
で一杯になりました。ラ・コンコルディア名物の、あの
構の世界であり、かりそめのものだとすると、観衆の世
女たちです。物売り人はまだ農民の遺風をつよく残して
界もまた、一瞬の後には消えていく仮象であることにな
います。売り場所も大部分は屋根のない場所、つまり青
ります。舞台で何かが起こって、それによって観衆が生
天井です。この公演は破天荒で、意外なことの連続でし
み出されるのですが、その観衆なるものは非現実の仮象
た。スペインの古語はなんとコロンビアの民衆の間で、
であり、創作物を故意に見せつけられることによってね
とくに農村出身の民衆の間で、広く口言葉として使われ
6)[原註]Quevedo,
. Madrid, Ed. Aguilar, 1945.
― 4 ―
ているのです。人々は大いに芝居を楽しんでくれまし
番目に触れない部分は、いうまでもなくお尻です。自分
た。そして全面的にそれを理解したのです。
だって、見てはいない。それを他人様に知られること
その後、他の観衆、学生や大学人、専門職の人々の前
は、あらゆる意味で自分の一番私的な部分を曝け出すこ
でも上演したのですが、そのときはすんなりとはいきま
とで、これはなかなかの挑戦です。尻を剥きだしにする
せんでした。とくに最初の週が大変だった。後になると
という動作はケベードの「尻の穴の名誉と不名誉」と題
観衆の態度もだいぶ軟らかくなって、作品をよく見て意
されたプレマティーカの一つから摂ったものですが、ベ
味をつかんでくれるようになるのですが。
レヒトは「身ぶり」(ゲストゥス)と呼んでいるものを、
中産階級の中以上の観客にとっては、この芝居はひど
この作品では尻を曝すというもっとも露骨な行為に置き
く取っつき難い芝居であったようです。手も足もでない
換えているのです。あるがままの、もっとも不名誉な自
という感じです。いましがた申し上げたような鏡が見え
分を曝すわけです。全面的な露出がこの動作に示されて
ない、舞台の向こうに自分たちがいる、鏡の中に自分た
いる。それは観衆にたいするパブロスの態度を凝縮した
ちが映し出されているということが見えないのです。し
ものです。自らのありようを曝け出すこと、コロンビア
かし市場の観衆には、朧げながらその姿が見えたのです。
の私たち、その現在を生きる私たちは、自らの姿を尻の
もう一つの重要な点は言語です。民衆が普段使ってい
穴まで見せつけられるのです。
て、すっかり馴染んでいる言葉が、実はアルカイックな
B.R もう少し一般的なテーマに移りましょう。作品に
言語であったりするのです。サンタンデールの田舎では
見られるカーニバレスクな時空間について、少し語って
fermosa(= hermosa 美しいの古語)、fierro(= hierro
いただけますか?
鉄)、sumerced(旦那様)というような言葉に出会いま
S.G ええ、その前にバフチンの本『中世・ルネッサン
すし、ボヤカでも古語や古い発音が多く口にされていま
スの民衆文化』7)を読んだことが私にとっては非常に重
す。それを措くとしても、ケベード作品に出てくる夥し
要でした。中世カーニバルの基本的な性格を論じてい
い尾籠な表現は今でも民間では広く使われていて、それ
て、それは秩序の転倒だというのです。下のものが上に
がスキャンダルになるわけではありません。逆に教養あ
なり、死んだものが生き返り、4 日間はすべてが明け透
る公衆の間では鼻つまみになるのですが。はじめの頃は
けになる。民衆は遠慮なく笑いに笑う。カーニバルの笑
そういう経験もしましたが、公演を重ねていくうちに観
い、というやつです。世界はひっくり返しになって、中
衆も変わってきて、最近では違和感も少なくなりまし
の臓物が引き出され、覆いは剥がれて太陽の下に曝け出
た。『ペテン師の口上』10 周年を記念して最近もこれを
される。戯曲を書く際に私が使おうとしたのは、この
上演したのですが、観衆との関係という点では何の問題
カーニバルの表象です。パブロスという男をケベードの
もありませんでした。人々は作品の中に抵抗なく入り込
手からもぎ取って、作者がその時代に示そうとした姿よ
んできて、この作品が目指している深い対話とコミュニ
りも、もっと明け透けに彼を曝しものにしようとしたわ
ケーションが成立していました。はじめの頃は起こらな
けです。不幸な運命の中で 500 年もジタバタし続けて、
かった状況が生まれているのです。
ついに幸福に出会えなかった男の姿を。
B.G それで思いだしたのですが、スペクタクルに裸の黒
G.R そのカーニバレスクな性格の決め手となっている
人が登場しますね。二度ほど舞台を駆け抜けていきます。
空間は、作品にそくしていうと何でしょうか?
サンティゴ、あなたです。あの人物を観衆の前に引き出
S.G そうですね、イタリア式の、舞台というよりは広
すことで、どんな効果を期待しているのでしょうか?
場に近い空間です。つまり、開かれた空間です。すべて
S.G プエンテ・ナショナルのケベードで一番人気を博
の出来事は広場で起こると想定されています。突き当た
した警句の一つはこんなものでした。ケベードが橋の下
りには戸口や窓があって、そこから広場を覗きこめま
で用を足しているときに、誰かが通りかかった。旅人は
す。いわば出口や入口がわんさとある広場で何かが起こ
橋を覗きこみ、下にいるケベードを見て叫びます。que
るという趣向です。その意味ではバロック劇場向きの作
vedo! que vedo!(何か見えるぞ、見えてるぞ!)ちょう
品といえましょう。バロック演劇の空間というのは割れ
ど脱糞中のケベードが言います。「おや面目ない。尻ま
た空間、開いた空間なのです。すべてがそこで示される
で人に知られてしまったわい!」
し、すべてが見られる。閉じた空間ではないわけです。
この話は今でも耳に残っています。人間のからだの一
開いた空間の背後の一面は閉じた空間になっていて、
7)[原註]M. バフチン『中世・ルネッサンスの民衆文化』シグロ 21(メキシコ)、1982 年。邦訳、
『ミハイル・バフチン著作集 7 フ
ランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』、杉里直人訳、水声社、2007 年。
― 5 ―
これが地獄です。それから反対側の一面は暗い空間で
い。やらなければならないこと、それは社会が犯罪社会
す。これは時間のトンネルで観客はその中に引き込まれ
となることを避けることです。罪の場をなくすことなの
ています。
です。罪を購う場所などに存在理由を与えないことなの
B.R この物語の時間(歴史的時間)からパブロスとい
です。
う人物は抜け出したり、物語を食い破ったりする。この
人物について、他のどんな側面を作品で示そうとされた
B.R 作品全体にはその他にも多様な意味が含まれてい
のでしょうか?
て、その意味するところは複雑です。意味作用が形成さ
S.G 事実上、物語(歴史)は引き裂かれています。パ
れる仕掛けやメカニズムに関しては、それを説明しよう
ブロスは順序立てて彼の人生の歩みを語ろうとするの
とする沢山の議論が記号論の分野でおこなわれていま
ですが、劇の中のもろもろの出来事はそれを妨害する。
す。それは沢山の隠された意味の層を掘り出すことを
ファブーラ、出来事の鎖は線的な時間に従って継起する
自らの仕事にしています。この作品は、これまでおっ
のではなくて、ある思想を暴き立てるような仕方で連鎖
しゃったことの他に、どんな意味の深層を開示されてい
していくのです。この人物が腹に一物もった野心家であ
るのでしょうか?
ること、何かにつけて転身と上流社会への昇進を画策し
S.G というわけで、私は多義的でありたいと念じてい
ていること、しかしいつも差しさわりが生じて希望が叶
ます。演劇作品というこの記号は、記号学者たちの芸術
わないことを、私たちは示そうとしました。ケベードは、
研究が述べているように、一つではなく、多くの記号内
階級を移動することがどんなに不可能事であるかを私た
容をもつものです。そこで作品は相剋する意味の闘争の
ちに示そうとしましたが、しかし私たちはケベードとは
場となり、だからこそ、その記号内容は非常に多層性を
違って、階級移動が不可能事であると言おうとしている
もつものになるのです。たとえばケベードの場合でいえ
のではありません。そうではありません。私たちはこう
ば、一つの記号表象が一方では処世訓めいた教育的記号
した秩序の転倒が可能であることを示そうとしているの
内容と結びつくこともあるのですが、それだけでなく、
です。今すぐに勝利はしないにしても、人類はいつの日
私たちのアイデンティティ、私たちの起源、私たちの
にか、きっと勝利するでしょう。人間が別な階級に這い
生、延いては私たちの罪科、コロンビア人でありラテン
上がろうとするのが、一体どうしていけないのか。悪い
アメリカ人である私たちの存在そのものについての理解
のは、パブロスが下の階級から這い上がって上の階級に
をもたらす記号内容ともなるのです。それは 500 年間に
割って入ろうとすることではないでしょう。そもそも階
犯してきた罪の遺産、詐欺の、放埓の、自らの存在を偽
級が存在するという、そのことが悪なのです。洗濯女の
装しようとすることの、ありもしない顔を見せたがるこ
倅から身を起こして大統領に登りつめたマルコ・フィデ
との、積年のつけなのです。このような意味内容もさる
ル・スアレスのような例を引き合いに出して、出世の機
ことながら、観客の方々はもっと沢山の内容をそこから
会はあるのだと言い繕うことだってできますが、反対に
汲み取っていただけるはずで、まさにそこに芸術が究め
貧しい洗濯屋に生まれて何とか出世しようと奮闘したも
ようとする舞いの一跳びがあるというべきでしょう。芸
のの奮闘空しく破滅していくタイプの逆例を持ち出すこ
術とは多義的な記号の探求に他なりません。そして芸術
とだって可能です。この悲劇を見せしめに使って、衆生
は同時に記号内容を多様なスタイル、多様な表現形式と
にこの男の轍を踏むなと戒めることもできます。しかし
結びつけ、作品にポリフォニックな性格を与えようとし
それを、この社会の仕組には根本的な不正義がある、ぶ
ます。一つの言語、一つの表現形式に特化することなく、
ち壊さなければならないものがあることを明らかにする
多くのそれと結合します。このポリフォニックな性格
ための暴露として用いることだって、できます。そうで
を、私たちは他の諸作ではもっと徹底的に追求したので
す、地獄の仕組こそが、ぶち壊さなければならない悪な
すが、それがこの作品ではやや控え目になっています。
のです。もしも諸悪が根絶したら、地獄は悪魔のいない
『エル・パソ』ではこの方向での実験をもう少し先にす
地獄になっていくでしょう。悪魔は劇場の奉仕者になら
すめましたし、『あらあら、なんと不思議』や『大騒動』
なければなりません。
もそうです。この 2 作ではカーニバル的なもの、多義的
B.R この作品での地獄の扱い方はキリスト教が示して
というよりはむしろ多声的なものを集中的に追求し、作
いる暗鬱な空間になっていますよね?
品をシンボリックというよりは、より以上にアレゴリカ
S.G もちろん、そうです。懲らしめの場で、それは正
ルな性格のものにしようとしたのです。
義に悖るものです。懲らしめの場なんて、あってはなり
ません。罪を購う暗い場所なんて、あってよいわけがな
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(訳:里見実)
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