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研究成果報告集 - 大阪芸術大学

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研究成果報告集 - 大阪芸術大学
平成二十三年度
塚本学院教育研究補助費
研究成果報告集
第十八巻
学校法人 塚本学院
塚本学院教育研究補助費は、塚本学院教育研究
補助費規程第 1 条により「教育職員の研究活動を
助長するため、教育職員が計画する研究成果を
期待するもの」であり、この塚本学院教育研究
補助費成果報告集は、同規程第 9 条に基づき
刊行するものである。
3
凡 例
1. この報告集は平成 23 年において、塚本学院教育研究補助費規程に基づき補助費を支給
され、研究を終了した教員による研究成果報告書を収録したものである。
2. 掲載は、学校別、学科 、役職別、氏名の五十音順(共同研究の場合は代表者の)とした。
「役職」は、平成 23 年度中のものを掲載した。
目 次
研 究 課 題一覧………………………………………………………………………………………… 5
成果報告
大阪芸術大学………………………………………………………………………………………… 8
大阪芸術大学短期大学部………………………………………………………………………… 100
大阪美術専門学校………………………………………………………………………………… 120
4
研
究
課
題
一
覧
完結研究
〈 大阪芸術大学 〉
学
科
役 職
氏 名
研
究
課
題
名
掲載頁
工芸する
8
デ ザイン 准 教 授 中 川 志 信
文楽人形の動きから最適なロボットモーションデザインを抽出
― 文楽人形遣いとの共同研究を通して ―
10
建 築
教 授 久 保 清 一
JABEE 認証プログラム
(案)
に関するシミュレーション教育と評価
12
建 築
教 授 山 形 政 昭
本学博物館収蔵の W.M.ヴォーリズ建築図面に関する調査研究
14
建 築
准 教 授 杉 本 真 一
建築 CAD 教材開発③ VectorWorks レンダリング操作編
16
建 築
准 教 授 田 口 雅 一
産・官・学連携共同研究における教育実践及び大学の地域貢献
に関する研究
18
文 芸
教 授 出
女形の表象
20
文 芸
教 授 水 島 ヒ ロ ミ 「動物譜(Bestiary)ボドリー 764 番写本」の時代背景に関する研究
22
文 芸
教 授 山 田 兼 士
ドビュッシーと同時代の詩人たち
24
写 真
教 授 有
野
永
霧 「日本人景 村空間」
写 真
准教授 森
川
潔
写 真
美
術
准 教 授 柳 楽 隆 一
口
逸
平
26
ガムプリントによるピグメント印画法の研究
28
講 師 奥 田 基 之
風景写真における空間描写の研究
30
工 芸
教 授 小 野 山 和 代
袈裟について
32
工 芸
教 授 福 本 繁 樹
染色技法における「むら」と「染め味」の創作研究と考察
34
環境デザイン 教 授 下 休 場 千 秋
地理情報を用いた世界遺産の環境評価に関する研究
36
環境デザイン 教 授 ハーヴィA・シャピロ
温泉地域の自然災害と防災に関する研究:東海・東南海・南海
大地震の影響地域を中心に
38
環境デザイン 教 授 松 久 喜 樹
サンフランシスコの都市形成
40
環境デザイン 教 授 若 生 謙 二
動物園の生息環境展示に関する研究
42
映 像
教 授 太 田 米 男
映画『猿飛漫遊記』
(1932)の復元にむけての予備調査
44
映 像
講 師 浅 尾 芳 宣
モーショングラフィックにおける立体視映像表現の可能性の考察
46
芸術計画
教 授 池 田 光 惠 「錦影絵」に於ける光源部改良と、それに伴う木製幻燈機の製作
48
芸術計画
教 授 犬 伏 雅 一
戦間期日本における写真言説の実相
50
芸術計画
教 授 純 丘 曜 彰
芸術の生成:ジャンルの系譜とオリジナリティ
52
芸術計画
教 授 豊 原 正 智
映像の技術革新とリアリティの問題
54
音 楽
教 授 志 村 哲
演奏特性を考慮した楽器分類法に関する基礎的研究
56
音 楽
准 教 授 市 川 衛
iPhone / iPad で合奏する楽器アプリケーションの開発
58
初等芸術教育
教 授 駒
日本における森林性鱗翅類の研究 ― その 3
60
62
井
古
実
初等芸術教育
教 授 田 中 裕 美 子
電子教科書(DAISY 形式)を用いた読み指導の教育的効果に
ついての探索的研究
初等芸術教育
教 授 西 林 幸 三 郎
初等芸術教育学科における「初等教育論」の展開について(Ⅱ)
― 幼稚園と小学校の指導上における「幼小連携」の実践とその課題 ―
64
初等芸術教育
教 授 渡 邉 純
発達障がい者・児の人物画の類型化についての研究
― 定型発達者との比較から ―
66
教養課程
教 授 石 井 元 章
シモーネ・ビアンコに関する基礎研究
68
教養課程
教 授 熊
韓国国立博物館収蔵木家具翻訳並びに復元制作 ― 卓子
70
教養課程
教 授 重 政 隆 文
映画における「笑い」の研究
72
教養課程
教 授 田
雄
大坂画壇の研究
74
教養課程
教 授 籔
亨
80 年代における「ニュー・デザイン」の動向と課題
76
野
中
淸
敏
貴
5
学 科
役 職
氏 名
研
究
課
題
名
掲載頁
教養課程
准教授 田 之 頭 一 知
日本映画における音楽の役割 ― 黒澤明監督の場合 ―
78
教養課程
講
師 加 藤 隆 明
現代彫刻における塊と空間 ― 制作を通してアートを考える ―
80
教養課程
講
師 小 谷 訓 子 「南蛮」の用語史と「南蛮美術」の研究史に関する考察
大 学 院
嘱託助手 河 邉 こ ず え
日本文化をテーマとした舞踊の研究
― 日本の「間」とモダン・ダンス ―
84
大 学 院
嘱託助手 下
毅
集落の空間構成と生業からみる集落共同墓地の立地要因に関
する研究
86
大 学 院
嘱託助手 田 中 晋 平
映画における郊外ニュータウンの表象について ―― 都市と
コミュニティの行方
88
大 学 院
嘱託助手 出 口 実 紀
江戸時代における三方楽所の伝承 ― 京都方の場合 ―
90
大 学 院
嘱託助手 丸
山
松
彦
植物を用いた「知」と「美」の空間について
― 差異の問題を中心に ―
92
大 学 院
嘱託助手 宮
崎
篤
徳
沿岸集落における公私境界まわりの利用形態について
94
大 学 院
嘱託助手 脇 田 桃 子
絵画に於ける「動き・動く」と「間」
96
田
元
82
〈大阪芸術大学短期大学部〉
学 科
役 職
氏 名
研
究
課
題
名
掲載頁
英米文化
教 授 原 光 代
企業の海外展開と IFRS(国際財務報告基準)
100
保 育
教 授 出 雲 美 枝 子
父親の育児参加に関する母親・父親の意識調査
102
保 育
教 授 小
股
憲
明
大正期における不敬事件の研究 その 2
― 事例研究を中心として ―
104
保 育
教 授 村
上
優
幼児はタブレット型コンピュータデバイスをどのように扱うか
106
保 育
准 教 授 山 本 泰 三
視聴覚教育におけるメディアによるフィードバック効果の調査
108
保
育
講 師 作 野 友 美
子どものジェンダー形成
110
保
育
講 師 森 岡 伸 枝
文部省主催成人教育婦人講座の実践と課題
― 育児観に着目して ―
112
景観保全と行政訴訟
114
幼児体育(運動遊び)における手作り運動器具の作製と実践
― 楽しさと挑戦する意欲を目指して ̶
116
教養課程
教
授 畑
雅
弘
通信教育部
保
育
准 教 授 佐 藤 利 一
〈大阪美術専門学校〉
学 科
役 職
氏 名
総合デザイン 教 授 鈴 木 球 也
研
究
課
題
ハイビジョン空撮機材の利用研究 1
総合デザイン 准 教 授 細 沼 俊 也 「くるくる紙芝居」コンテンツ試作と運用法
6
名
掲載頁
120
122
美術・工芸
教 授 伊 藤 均
可溶性金属塩による「にじみ/ぼかし」の試み
124
美術・工芸
教 授 日 下 部 一 司
対(つい)と矩形の構造について
126
7
工芸する
柳 楽 隆 一
准教授
美術学科
平成 23 年度
これまで抽象造形美術を制作してきたが、常に
動するように感じられる桐の森をつくることにな
気がかりでありつづけてきた分野が工芸である。
る、これらを提案した。主旨や提案は、言葉をつ
気がかりであり続けるのは安定感を欠く。気が
なぎ挿入し削り並べ入れ替える作業であった。共
かりを解消するため “自覚を持って” 工芸に踏み
力をたのんだ工芸家は金属と木材について豊富な
込むことにした。まず、「100 年先の暮らしを考
経験と知識を持っていた。なにで、どのように、
える、日本の木を使った家具」という企業コンペ
切り削るのか、磨いた後の色の変化はどうなるの
ティションへの参加を研究の糸口とした。思いが
か、など多くの共通認識があり、制作工程進行よ
けなくも「造形素材としての桐と竹の可能性」の
りも目的や未来や教育についての議論がおおくの
テーマで行った平成 17 年補助費研究の発展・展
時間を占めた。次に取り組んだ素材は竹。これも
開となった。家具の制作から始めた。使う木はふ
平成 22 年度研究の終盤に竹の酒器を作ったこと
たたび桐である。主旨と提案作りを工芸家の協力
がきっかけとなっている。竹林所有者の快諾を得
を得ながら時間をかけて検討した。桐といえば会
て、孟宗竹を切り出し、削り、釜で煮て、自作乾
津桐、東北に繋がるが、3 月 11 日に起きた東日
燥装置で乾燥させ、真空脱泡機で硬化樹脂をしみ
本大震災が頭から離れなかった。間伐材を利用し
こませ、サンドブラスト機で薄皮をはぎ、磨き、
た仮設住宅を作り支援する企業のニュースなど見
塗装などして三種の器ができた。三つも作ればア
るたびに、被災者と支援者の人格にひたすら感動
イデアはつきるだろうとおもっていたがそうでは
をおぼえつつ、情報ばかりにかじりつく私は、私
なかった。少々の太さ長さの違いはあるものの、
に恥じ入っていた。復旧・復興の施策が出だし
単純な円筒形が多様な形に変容していくのは驚き
た、そのような中でのコンペ案の検討だった。タ
であった。さまざまな試作を並べ眺めるうちに、
イトルは「桐の森呼吸 ― 園児の椅子と机」。主
つぎからつぎに “次” が生まれていった。結果、
旨は、幼児期の心身に木の感触を刻むこと、長じ
竹器を約 90 点創りだすことができた。
て樹木に関心を寄せるヒトになること、この二つ
とした。そして、毎年、園内や街の片隅に幾本か
これまで学生には「動詞で素材(石や紙はもち
の桐の木を植え、20 年後木材として利用するし、
ろん水や風や光や影や場所も素材)にアプローチ
また植える。これは都市のなかを、ゆっくりと移
をかける」と「動作の結果が作品になる・時もある」
8
基礎教育を仕掛けてきた。今回の研究は、学生と
定めがたい。工芸のうちでもとくに多くの高度な
同様な姿勢で桐と竹という素材に臨んだのだっ
技法を必要とする漆器は、またさまざまな制作体
た。特に竹については、削りすぎた・割れた・シ
系の創出が必要であろうと思われる。意匠と技術
ミが出てきた、そんなこまった状況に、それなら
をつぎ込んだ華麗な漆工芸を共に使い共に楽し
形を変えよう、割れを埋めよう、シミを文様と考
む場を用意すること、また日常のくらしのなかに
えよう、キズがあるものは塗装しよう、などと対
有用な美しい漆器を提供すること。それを使い手
応した。その結果 “さまざまな竹の器” ができた。
と作り手が共に生み出すことが大切である。」と
塗料は人工漆を使ったが、刷毛は漆刷毛を使っ
ある。②北尾克三郎氏による空海著《声字実相義》
た。職人の叡智がつまった道具の威力を知った。
現代語訳の一部「言語はヒトがその知覚と意識、
漆芸家の使う刷毛の毛は、日本人の女性の髪の毛
見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考えるによっ
を最高とし、毛を束ねる柄には木曽檜が使われる。
て、モノ・コトをとらえ、それらのイメージを声
製造過程は油気を抜くために長期間保存したあ
と字によって表現したものである。」「あらゆるも
と、毛を洗い・揃え・固め・切りそろえ・木を削
のを生み出している主体は、固体・液体・エネル
り・毛を木で挟んで縛り・毛を切り出し・毛先を
ギー・気体・空間によって成る物質とその、いろ・
たたきほぐし・ゴミをとる。刷毛をつくる道具は
かたち・うごきである。生みだされるものは、“知
クシ・ハサミ・カンナ・ノコギリ・キヅチ・ヒモ
のちから” と、その知の力を宿す “生物” と、そ
など。カンナやノコギリなど道具は専門の職人が
して、それらの生物の住む “環境” の三種である。」
作る。素材を収集し作る職人もいる。さまざまな
そして③いま、橋下大阪市市長は「統治機構をグ
職業が関連し支えあっている。工芸を支える素材
レートリセットする」策を示している。
はその多くが自然素材である。職人たちは、時間
モノ・コトを、見て・聞いて・触れて・嗅いで・
や温度や湿度や光や風や水に気を配り、素材を丁
味わったその究極の結果が日本文明。知の力を
寧に “動詞” する。多くの工芸分野は家族を養い
持った生物が住む環境を整備し統治し直す時期が
弟子を教育し文化を継承する歴史と伝承を持つ。
きている。ここで再び登場しなければならないの
は、知を結晶させてきた日本の工芸。このような
三つの言葉を “混ぜる” 直感が働いた。①漆師
中村宗哲氏の《漆うるわし・塗り物かたり》に
方向があるのを見た。この認識を本研究のひとつ
の成果とする。
は「漆という自然の恵みの堅牢な素材、蒔絵とい
う繊細華麗な表現技法、それはまさに日本ならで
はの工芸である。と同時に富と権力の庇護のもと
に、洗練された美意識と、徹底した分業が相乗し
て生み出された工芸でもあった。現代ではそれら
が分散し、個人的な産業的な制作体系も縮小して
きた。使い手も一そう広範囲となり、その焦点も
9
文楽人形の動きから最適なロボットモーションデザインを抽出
― 文楽人形遣いとの共同研究を通して ―
中 川 志 信
准教授
デザイン学科
平成 23 年度
●ロボットに最適なモーションデザイン
今後期待される人間共存型ロボットは、私たち
実演を通して、各感情間でのモーションの差を抽
出した。
の日常生活に柔軟に溶け込む必要性がある。映画
最後は、アニメーションを勘十郎氏に実演いた
やアニメのように、人とロボットが共存する日常
だき、アニメの登場人物と文楽人形における感情
生活を舞台と考え、ロボットに演技をデザインし
表現の MD の差を明らかにした。
て人が快適に思えるような演出をしていかねば
ならない。
ロボットには感情あるモーションデザイン(以
●人形遣い実演によるアニメと文楽のモーション
比較
降、MD)が必要である。ロボットに感情をつく
ここでは最後の実験結果を報告する。P・エク
れないが、ロボットの仕草や動きでロボットに感
マン著表情分析入門、D・エヴァンス著感情、海
情があるかのように人間に思わせることはでき
保博之編瞬間情報の心理学から、分析に重要な
る。昨年は、文楽とアニメの MD 比較から顔の
項目を抽出した。感情ごとのパターン:特徴的
感情表現が乏しい当面のロボットには、文楽の
な身体動作、感情の混合と強度、感情表出プロ
MD が最適であることが理解できた。しかし、参
セス:前注意 → 比較照合 → 焦点的注意、時間情
考文献はほとんどない。そのため、今年度はロ
報処理:リズム・間・情景分析・文脈分疑、表情変
ボットに応用できる文楽の感情ある MD パター
化 4 側面:形態・リズム(速さ・間)
・タイミング・
ンの抽出を目的として研究を進め、「ロボットに
微表情、これらの項目を軸に分析を行った。P・
おける最適な MD は何か?」をさらに追求する。
エクマンは「感情は主に顔に表れ、身体には人々
がどのように感情を処理しているかを表す。」と
●文楽人形遣いとの共同研究
一流の文楽人形遣いである桐竹勘十郎三世(以
降、勘十郎氏)との共同研究を行なった。
まず、勘十郎氏演じる文楽VTRから文楽にお
ける MD の基本パターンを抽出した。
次に、勘十郎氏による六感情(喜怒悲驚恐嫌)
10
明記する。怒りは顔に表れ、その身体は怒りを
どう処理しているかを表す。この研究では、文
楽人形遣いが P・エクマンの顔にしか表れない感
情を、文楽人形の身体でどう表現するかを明ら
かにする。
実験は、文楽人形にモーションキャプチャーを
装着し動画記録する。アニメの 6 感情が表現され
上体も感情によって大きく上下運動をし、体全体
ているシーンを抽出し、それと同様に文楽人形遣
も同様に前後に移動する。これらは感情ごとに一
いに実演してもらい、それらのデータから分析を
定のパターンがあり確実に整理されている。
行う。アニメは日本のジブリアニメと米国のピク
サーアニメを採用した。
結果は、文楽人形における 6 感情のモーション
成果として、感情表現しやすい人間共存型ロ
ボットの新たな骨格構造の創出につながったこと
が大きい。アニメ同様に文楽も誇張した表現を多
パターンは確実に抽出できた。驚き:頭と首を
用する。文楽人形は元々、首や腕や胴体も長く、
前傾し顎を引き一気に後方へ上体とともにのけ
衣装だけで胴が無いものもある。そのため、モー
反る。後方では頭と上体を上げて天を向き、反動
ションキャプチャーのデータでも瞬間異常な位置
で前に突出する。その突出を止めようと両手のひ
に頭や手先がくることがある。その瞬間は注意と
らを前に押し出すようにする、急で速い動きのパ
して人に強調して動きが伝わる。これらの誇張し
ターンである。これは最も驚きの感情の強いパ
た動きは随所に盛り込まれ、感情の伝達に功を奏
ターンであるが、弱くなるに従い動く身体の部位
している。首、腕、胴体が伸縮し、肩が左右単独
と動く量が減る。
で上下する機構をもつロボットは従来になく、こ
悲しみ:静止した状態の間の後、頭と前傾し真
れらを取り入れることで当面の技術レベルのロ
下に向け上体を下げ前後どちらかに傾ける。片
ボットと人との感情のやりとりにおいて飛躍的な
手を顔に添えて震え、時折頭を上げるが角度は
進化が図れると考える。
浅いなど。
感情の強度は、移動量動作量と速度、動く部位
●まとめ
の量に比例する。感情プロセスは、特長 1 として
今後は、この MD パターンを伸縮機能の新構
感情ごとの表現の間に必ず間を設け文脈を理解し
造ロボットに取り入れシナリオとセリフも含め
やすくする。特長 2 は前注意として末端部位の微
た総合的なロボティクスデザインへ移行したい。
動や逆感情の動きを前に入れるなど理解しやすく
具体的には、短編映画もしくは演劇の制作に挑
する。特長 3 の感情の混合は、あえて前後に感情
戦する。文楽やアニメや映画を含めた全ての芸術
別に分けて動いて表現する傾向にある。
と同じように、人間とロボットの共存社会を演出
顔の表情変化を代替する特徴的な身体動作の部
しデザインしていかねばならない。ロボットが人
位として、1 頭部と首、2 肩、3 右手、4 上体、5
間の 5 感に訴え、ロボットと人間が感情をコミュ
全体があげられる。頭部は 3 自由度、首も 3 自由
ニケートすることで成立する人間とロボットの
度の動きが必要で、傾げは愛情、顎の突き出しは
共存社会を目指す。視覚、聴覚、触感などの感
怒り、うつ向きは悲しみなどを表す。肩は首との
覚を充分駆使して、ロボットの考えていることを
距離や傾きの関係が重要で、相互に同調した動き
人々にコミュニケートする芸術である。まさに、
がより感情を伝える。右手も前に速く突き出し怒
総合芸術である。
りを表し、様々な動きで口頭表現の代弁をする。
11
J A B E E 認証プログラム(案)に関するシミュレーション
教育と評価
久 保 清 一
教 授
建築学科
平成 23 年度
1.研究目的と方法
2.芸術系建築教育における JABEE 認定の意味
本学建築学科及び大学院環境・建築領域にお
いま一度、芸術教育に力を注ぐべき本学教育に、
ける JABEE 認証プログラム(案)について、認
なぜ JABEE が必要かについて触れておきたい。
証後の教育環境の向上と制度導入におけるリス
それは建築学科という特殊性に他ならない。もと
ク回避を目的としたシミュレーション授業を実
より建築教育は常に芸術と技術という二極を抱え
施する。
ながら社会的にも広範な領域を形成している。特
本研究は、前年度の研究課題「芸術系建築教育
に本学建築学科が掲げる「建築家の育成」という
における JABEE 認定制度について」で構築した
教育自標を達成するためには、この両者のバラン
認証プログラム(案)が実際の授業のなかでいか
スがとても重要になる。JABEE は技術者教育の
に無理なく実行され成果を上げるかを検証するも
認証機関だが、修士課程に UIA / UNESCO 建
のである。また、問題を抽出・整理するなかで必
築教育チャーター(アーキテクト教育)の認証機
要に応じ改善点を具現化し、実施授業と認証プロ
関を設置するなど、建築設計・デザイン分野にお
グラムの乖離をなくすことも、この自前のシミュ
いて、その特殊性を遺憾なく発揮している。ここ
レーション授業の意義となろう。これによって認
に JABEE 認定分野別要件・建築学および建築学
証プログラム(案)が無理なく実施授業に移行
関連分野にあるプログラム要件( 1 )を掲げれば、
し、さらにはその成果と有効性を確認したい。具
「建築を芸術、技術、文化、社会、法律、経済な
体的な方法として、研究者が関係する講義、演習、
どの多様な文脈と歴史やライフサイクルなどの時
実習、そして卒業制作をはじめ、大学院での講義
間的展開のなかで理解し、…」とあるように、特
や研究演習、さらにインターンシップ授業等をシ
に工学教育に偏重するものでなく、国際通念に立
ミュレーション対象授業に設定し、JABEE 認定
脚した「建築家教育」の方向性を示す認証制度と
基準(共通基準・個別基準)との整合について検
理解できる。それは本学建築学科が目指す方向と
証する。その際、教育到達目標の達成レベルの設
整合するもので、むしろ芸術系建築教育の質を担
定や現行の記録・評価方法が認定審査基準に適合
保するに相応しい認証制度として活用すること
するか否かを点検する。
で、その社会的意義と価値が拡大するものと考え
られる。
12
3.JABEE シミュレーション授業の運営と自己
点検システム
4.まとめ
最後に、JABEE 認定「建築家育成のための
JABEE 認定のための履修科目の選定について
教育プログラム」とは、どのようなものにすべ
は、現行の建築学科必修科目及び選択必須科目の
きかが問われる。ここでは少なくとも UIA /
計 86 単位を専門分野系として扱うことが問題を生
UNESCO 建築教育チャーターの推奨基準に照準
じさせない。そのなかでも、既に一級建築士受験
を合わせた大学院教育(インターンシップを含む)
要件科目に選定を絞れば、到達目標の設定と評価
までの 6 年一貫の教育プログラムが整備条件とな
がしやすくなる。また人文社会科学系及び数学・
ろう。この点について、大学・高等専門学校等、
自然科学系科目については、教養系開講科目の中
実施校のヒヤリング調査は大変参考になった。
「あ
から JABEE 指定科目を 2 科目程度指定する。こ
る範囲に限定される中で高質な教育成果を上げる
の考えは、既に完成している一級建築士受験要件
ことの意義」を強く感じた。従って学部教育の個
の授業構成をフル活用しようというもので、現行の
性を尊重しながら教育到達目標の達成の質を担保
授業運営上、最も省力的で合理的な方法と言える。
する理由より、本学においては、独立した履修制
JABEE 認証プログラム(案)と実施授業の乖
の JABEE プログラムとして設置すべきという結
離をなくすためには、現行の各実施授業の教育目
論に至った。
標が JABEE 認定共通基準及び個別基準にどう無
理なく整合するかが重要である。特にプログラム
修了者が身につけておくべき知識・能力として学
習、教育目標を設定する際には、( a )〜( i )の
個別基準項目に対して総花的に授業科目を配分せ
ず、独自性と方向性を明確に設定し、ある決めら
れた範囲の中で正確に成果が得られるよう努める
必要がある。特に現行の実施授業の特徴や利点に
支障なきよう配慮することが望ましい。これは現
行の実施授業について教員と学生が共通の目的意
識をしっかりもつことから始まるが、言い換えれ
ば各授業ともそのレゾンデートルを再認識するこ
とと、全体としてプログラムの目標達成プロセス
を示す各授業間のネットワークを明確化すること
に集約されよう。そのための PDCA サイクルの
構築は必要だが、現行のカリキュラム及び授業シ
ラバスは自己点検書を付するのみでそのまま活用
可能と考えられる。
13
本学博物館収蔵の W.M. ヴォーリズ建築図面に関する調査
研究
山 形 政 昭
教 授
建築学科
平成 23 年度
近江八幡を拠点に 20 世紀の初頭より活躍し
なお、図面資料の整理は建築学科の学生、大学
た W.M. ヴォーリズ建築事務所の残した史的建
院生による十数名の調査チームを作り春から秋に
築図面が本学建築学科に齎されたのは昭和 50 年
亘る作業を行った。学生諸氏にとって、100 年近
(1975)に遡る。それを史料としての筆者のヴォー
い歴史をもつ古図面に接し、データを書き写す作
リズ建築研究もすすみ、平成 5 年に『ウィリアム・
業経験は未知のことであり、その調査作業を通し
メレル・ヴォーリズの研究をめぐる研究』(学位
て歴史的な図面資料への関心が深められたこと
論文)をまとめることができた。幸いにも当時、
も、成果の一つと感じている。
近代建築作品に関する社会的、文化的関心も広が
り、本学博物館においてヴォーリズの建築をテー
マとした「ヴォーリズが残した建築図面展」(平
成 7 年)、「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展」
1 . 建築作品件数と収蔵建築図面件数
近江八幡に所在した当時のヴォーリズ建築事務
所に伝わる「作品リスト」があり、ヴォーリズ研
(平成 12 年)が開催されたことなどにより、ヴォー
究途上で、その内容を整理作成した「ヴォーリズ
リズ建築図面の史的資料としての価値が認められ
建築事務所作品リスト」(平成 5 年)があるが、
てきたように思う。そうした経緯を経て、平成
その記載内容を仔細に調べ、かつ収蔵建築図面と
17 年(2005)に本学の協力を得たことでヴォー
の照合により、建築作品の件数を 1464 件、収蔵
リズ建築図面は本学博物館内に史的収蔵資料(一
建築図面件数 841 件と修正した。
粒社ヴォーリズ建築事務所寄託資料)として収め
られている。
この図面資料の概要についてはヴォーリズに関
2 . 収蔵建築図面の内容
建築家ヴォーリズの作品集として昭和 12 年に
する研究課程において「ヴォーリズ建築リスト」
刊行され、重要な基礎的史料とされているものに
を作成し、凡その建築作品件数を 1500 件、現存
『ヴォーリズ建築事務所作品集』(城南書院)が
設計図面を約 800 件と捉えてきたものであるが、
あり、事務所によって選出収録された 64 件の作
今回の調査研究は図面資料の内容をより詳しく把
品が代表的建築とされたものである。それに加え
握し、特色についての検討を行ったもので、その
て、近江ミッション(後の近江兄弟社)が刊行し
結果の概要は次に列記するとおりである。
た月刊誌『The Omi Mustard Seed』のなかに
14
4 冊の建築部特集誌があり、先の建築作品集収録
建築に加えて、かなりの建築作品が紹介されてお
り、先の作品集を補う資料とみなせるのであり、
それら書籍、刊行物に掲載されている延べ 109 件、
130 棟余の建築が代表的作品と想定できるのであ
る。この 109 件中、3 件を除く 106 件の建築設計
図面が博物館収蔵図面に含まれていることが確認
された。つまり、代表的作品として選出された
109 件中の 106 件の図面資料が収蔵されているこ
とで、主要作品の大半を含む図面資料としての価
値が改めて確認された。
3 . 主要建築作品の図面構成とリスト作成
収蔵建築図面件数に見出せる主要建築作品 106
件について、収蔵図面リスト等の作成を進めてい
る。それによって、内容の把握とともに、今後の
資料活用にも供するものと考えている。
15
建築 CAD 教材開発③ VectorWorks レンダリング操作編
杉 本 真 一
准教授
建築学科
平成 23 年度
〈研究の背景および目的〉
至った。
建築業界にコンピュータが導入されたのは
ソフトの変更はテキストの変更を意味する。本
1970 年代はじめであり、その後アメリカの大学
学建築学科の教育にあったオリジナルのテキスト
で CAD 教育が実験的に導入されたのは 1980 年
を準備してからソフトを変更出来れば良かったの
代になってからである。大阪芸術大学建築学科で
であるが、学生の就職を考えると迅速に変更する
は建築デザイン教育の一環として建築 CAD 授業
必要があったため、市販のテキストを使って新しい
を 1987 年より、DRA−CAD を主軸に学部教育
授業を始めた。1 年間市販本を使ってみた結果、い
としては全国に先駆けて行ってきた。特に学部卒
くつかの問題点が浮かび上がり、市販本をテキス
業生の多くが CAD 操作の能力を社会的にも求め
トとして授業を進めることに対する困難を感じた。
られるようになり、2001 年よりカリキュラム改
本研究ではオリジナルのテキストを作るにあた
定に当たり必須となった。DRA−CAD を主軸に
り、市販本の問題点を整理し、新しいテキスト作
行ってきた CAD 教育は多くの成果を上げてきた。
りの方針を探り、一昨年度の導入部の基本操作、
DRA−CAD は 2 次元から 3 次元のモデリン
昨年度の 3 次元操作のテキスト作りに続き本年度
グ、レンダリングまで 1 本のソフトで行える優れ
はレンダリング操作のテキスト作りの下書きまで
た国産 CAD ソフトであり、教育用としても優れ
を終えることができた。
ていた。しかし建設業界での DRA−CAD のシェ
アーの落ち込みなどの理由により、2008 年度よ
り VectorWorks を主軸にしたカリキュラムに変
更した。
DRA−CAD の使用を始めた当初は、ソフトを
〈市販本の主な問題点〉
・市販テキストは対象が販売数の多いユーザー
向けに作られており、また即戦力・実務向け
になっているので、必ずしも教育的ではない。
開発した構造システム社が市販していたマニュア
・CAD ソフトの使い方を解説した市販本のほ
ル本と本学での手作りの副本を使って授業を進め
とんどは独習用に編纂されたものであり、分
ていた。次の段階として手作りの副本を改訂しな
厚く、高価である。
がらオリジナルのテキストへと発展させ、最終
的にはそれが市販されるまでに発展・充実するに
16
・一冊で 2 次元、3 次元、レンダリングまです
べてを扱うものはほとんどない。
・本一冊を通して一枚の図面(平面図が主)を
グから入り、その後 2 次元を教え、レンダリン
完成させるための手順が丁寧に記されている
グへと進む。これは従来の建築のデザイン教育
ものが多い。これは途中での達成感が味わえ
でも同じであるが、製図を教える前に粘土や紙
ないため、授業で少しずつ進めるとモチベー
などを使って模型を作ることから始め、次第に
ションを高く保つことが難しい。丁寧な解説
図面化することを教えてきたのと同じ流れで
通りにコンピュータの操作を進めればどんどん
ある。
進み、最後には一枚の図面が完成するが、途
中では自分で考えて作業をすることがない
(
「こ
の線を描くのにどのコマンドを使うのが適切
か」などと自分で考えなくても、常に次の一手
・簡潔な説明に止める。(必要に応じて教員が補
足説明できるため。)
・扱うコマンドやツール数は限定し、慣れてき
てから数を増やす。
を示してくれる)ため、改めて本を見ないで別
・基本操作を覚える段階では、① コマンドやツー
の図面を一人で描けるかというと、ほとんど描
ルの解説 → ② 例題 → ③ 練習問題(課題・試
けない。
験)と進める。これを 1 回の授業内で終えら
・CAD ソフトには多くのコマンドやメニュー
れる量を 1 単元とする。
が用意されているが、市販本ではマニュアル
・各課題はゴールとしての見本を先に示す。(最
(使い方の解説書)的な性格も持たせているた
終成果品としてのゴールが見えないとモチ
め、実に多くのコマンドやメニューが扱われ
ている。
ベーションが下がるため。)
・各課題では、すでに習ったコマンド等を新し
いコマンドやツールと合わせて使わなければ
〈CAD 授業の目的〉
テキスト作りは、大学での CAD 教育をどのよう
に考えるのかという大きな問題と関連してくる。
本学建築学科の CAD 授業の目的としては、手
描けない内容として、コマンドやツールの反
復練習を行う。
・CAD では同じ図面を描くのにいろいろな方法
(作業手順やコマンド・ツール)があるため、
描きの代わりとして CAD 操作技術を教えるだけ
できるだけいろいろな方法があることを合わ
の授業ではなく、開講当初より「CAD を利用して、
せて解説する。
建築のデザイン教育を行う」こととし、現在まで
変わっていない。つまり、設計し、デザインした
・コマンドやツールを一通り学んだあとは自由課
題にて個人の自主性に任せて作品を作らせる。
ものを [ いかに表現し、どう伝えるか ] というプ
レゼンテーションとしてのデザインシミュレー
ションを教育目的としている。
〈今後の展開〉
VectorWorks のテキストの準備が一通り終了
したので、授業用として印刷を行い、授業での使
〈テキスト編纂の基本方針〉
・授業の進め方として、まずは 3 次元のモデリン
用をしながら改良を加えて、よりよいテキストを
めざす。
17
産・官・学連携共同研究における教育実践及び大学の地域
貢献に関する研究
田 口 雅 一
准教授
建築学科
平成 23 年度
本年度は産・官・学共同研究「河内長野木材活
直接的な交流が生まれている。しかし、カリキュ
用研究会」での建築学科の取り組みの中で、「構
ラム上の問題点として「構造意匠演習」は単年度
造意匠演習」の授業の一環として、河内長野市
の授業で、学生も基本的に一回生を対象としてい
天見島の谷地区で森林整備活動を 4/29、5/15、
る為、上級生有志以外の参加が少なく、中々縦の
6/26、7/10 の合計 4 回実施した。一回生主体で
繋がりが出来にくく、学生間での情報・知識・技
ある為、森林ボランティア「トモロス」指導の下、
術の伝承が思うにまかせない部分があった。特に
人工林における間伐の必要性、除伐 → 道造り →
単位取得済みの上級生は、本演習を履修できない
間伐 → 材出しの手順、作業時の注意事項等の講
為、学生傷害保険の適用対象とならず、自主的に
義を受けてから、実際の除伐、道造り、間伐作業
保険を掛けなければならない等、多くの上級生達
を実体験した。当初、慣れない斜面地での作業に
の参加を阻む障害があった。そこで建築学科では
戸惑いを見せていたものの、1 通りの作業を経験
次年度より、「フィールドワーク実習Ⅰ」という
すると徐々に技術が身に付き、十分に森林整備活
科目を新設し、上級生がこの科目を履修する事で、
動を行える労働力になり得る事がわかった。同時
この活動への参加を容易にする枠組みを整えた。
に、学生側も木材という建築材料の生産現場にお
これも本年度の成果の一つと言えるであろう。
いて、ベテランの指導員とふれあいながら、材料
本年度は企業との連携も深まった。河内長野市
の持つ特性を理解し、素材を加工したり、生かし
天見出合いの辻地区における高島屋との共同活動
たりする技術を学ぶという、学内では体験できな
も 3 年目に入り確実に内容も充実したものになっ
い学習が可能となった。更に学生の中には、この
て来ている。高島屋が河内長野市出合いの辻地区
ような研究をテーマとした卒業制作や特別研究を
で、4 年前に森林整備と桜等の植樹を行っている
行う者も出てきている。又単に知識や技術の修得
山の里山化に向けて、大阪芸術大学建築学科が協
だけでなく、学科内での先輩・後輩といった縦の
力し、5/15 と 12/7 の 2 回に渡り、現地で道作り
繋がりや、チームワーク等の対人関係の改善や学
作業を行うと共に、我々が作成した里山整備計画
習意欲の向上といった、学生の人格形成にも影響
のプレゼンテーションを行い、関係者から高い評
を及ぼしていると考えられる。又、学生が地域に
価を得、今後共継続的にその計画に基づいて整備
入る事で、ボランティアの方々や地元の方々との
を進めるべく、協議を重ねる事で一致した。次年
18
度は高島屋活動 5 周年を迎え、契約更改の年でも
は藝術研究所の研究調査補助費の助成を受けて
ある為、我々としても歩調を合わせて森林整備・
2/17 に実施され、この試験体を作成したななめ
地域貢献活動短期的計画目標を立て、それを達成
らや学生達が見学した。実験結果は非常に興味深
する事が急務となっている。又 12/7 の高島屋と
いものであり、河内材活用に向けて有用な第一歩
の共同作業では、トモロスの協力でクリスマス
を踏み出したと言える。このように本研究は、森
リース作りを行ったが、その際利用した天見公民
林整備や人的交流だけでなく、河内材の利用促進
館の館長等にも、産・官・学共同の本研究の存在
を促す商品開発等による地域貢献をも含み、本年
を認識して頂く機会となり、本活動が徐々に地域
度は非常に幅広い、発展的研究活動となって来て
に浸透している実感を得た。次年度はこれら公民
いる事を報告する。
館等と協力して、大阪芸術大学、高島屋、トモロ
スと地元小学生との共同ワークショップ等を企画
し、森林整備活動や地域交流に対する、我々の貢
献度を再確認したいと考えている。又、人的交流
という点では、新たな展開として、大阪芸術大学
通信教育部出身者で運営している「ななめら」の
活躍も見逃せない。当初、森林整備活動の補助を
お願いしていたのだが、彼らが創作した「ななめ
箱」の空間特性と対人効果についての研究フィー
ルドとして本活動に参加したい、との申し入れが
あり、本年度は我々と共同するだけでなく、自主
的に地元の方々との交流を深めており、関係者か
ら好評を博している。さらに、河内材活用研究の
一環である建築構造部材「家具的耐力壁の実験的
研究」における実験用作品を、ななめらと建築学
科在校生とのコラボレーションで作成した。在校
生と卒業生、芸術学部と通信教育部、建築学科と
デザイン学科といった、学内的にも新たな人的交
流が進んだ。これは、大阪芸術大学関係の多くの
在校生や卒業生が本研究に関わる事で、継続的な
研究や地域貢献が可能なシステムが、自発的に形
成されつつある事を示しており、本研究のテーマ
である教育実践における本年度の大きな成果の一
つといえよう。最後に、「家具的耐力壁」の実験
19
女形の表象
出 口 逸 平
教 授
文芸学科
平成 23 年度
今年度は現代歌舞伎屈指の女形坂東玉三郎
錚々たる俳優によって演じられてきた。そして
(1950 〜)にスポットを当て、玉三郎が演じる『天
1977 年 12 月まだ 20 代の若手ながら、坂東玉三
守物語』の主人公富姫の人物造形の変化について
郎に富姫を演ずるチャンスが訪れた。
考えてみた。
2 玉三郎の富姫
1 「天守物語』の上演
それは三島由紀夫『班女』との二本立ての日生
『天守物語』は、泉鏡花(1873 〜 1939)が 1917(大
劇場公演だったが、「坂東玉三郎の美の世界」の
正六)年九月『新小説』に発表した戯曲である。
タイトルが付されていた。1960 年代後半彗星の
劇の前半は、姫路城の天守閣に棲みついた魔界の
ごとく登場し、歌舞伎界の枠を超えて数多くの
女富姫のもとに、猪苗代の亀姫が生首を土産に訪
ファンを獲得した玉三郎初の座頭公演であった。
れ、仲良く手鞠で戯れるといった、奇怪かつ幻想
富姫とは天守最上階から横暴な武士たちを嘲笑
的な世界が描かれる。後半は一転して姫川図書之
し睥睨する妖かしの存在でありながら、他方恋に
助なる若者が現れ、ふたりは恋に落ちるが、城の
生死を賭ける一途な女性でもある。この相矛盾す
武士に責め立てられ窮地に陥る。しかし最後は救
るごとき複雑な人物像こそ、生身の女優より、む
いの神の工人により「人と妖怪との愛」は見事成
しろ女形の人工的魅力によって演じられてきた大
就するという、なんともロマンチックな恋愛譚と
きな理由だが、玉三郎の若々しく中性的・抽象的
なる。
な美が、富姫の形象に新たな一面を付与したこと
歌舞伎でも新劇でも類を見ない、こうしたユ
はたしかである。こののちも上演を重ね、より洗
ニークな劇世界ゆえに、『天守物語』は鏡花生前
練された巧みなセリフ術もあいまって、いまや『天
ついに上演されることはなかったが、1951(昭和
守物語』の富姫は玉三部のライフワークとなった。
二十六)年 10 月花柳章太郎の富姫、水谷八重子
ただしこれが内面からでる所作や表情とは対極
の亀姫の配役で、新派により新橋演舞場で初演さ
の、「完璧なまでの表層の美の世界」との扇田昭
れた。以後富姫は歌舞伎の中村歌右衛門や中村扇
彦の指摘(『新劇』1978 年 2 月号)は、いわば舞
雀(坂田藤十郎)、宝塚歌劇の天津乙女、新劇の
台が玉三郎のワンマンショーに堕する危険性を示
杉村春子、能の観世静夫と新旧様々なジャンルの
唆していた。
20
3 富姫像の深化
実際その後の公演において、たとえば相手役
力を生み出すのか。玉三郎の演技の深まりに今
後とも注目していきたい。
の図書之助は初演の三沢慎吾(新人)から、歌
舞伎の坂東八十助(三津五郎)や片岡孝夫(仁
左衛門)、現代劇の真田広之、堤真一、宍戸開と
次々に変わっていき、一定しない。亀姫もまた
同様である。これでは制作側の努力も観客の視
線も、いきおい玉三郎個人の身体的な美に集中
してしまうのは避けがたい。事実みなもとごろ
うは 1994 年の銀座セゾン劇場公演に際し「舞台
があまりに視覚的に過ぎる上に、表層的な美し
さをねらい過ぎた」「玉三郎に期待したいのは、
自ら挑んで悔いない相手役を選ぶことだ。そう
しなければ、何を演じてもドラマ自体がそこか
ら生まれることはないだろう」と批判している
(『テアトロ』1994 年 4 月号)。
ところが 1997 年図書之助に市川新之助(海老
蔵)を起用するあたりから、富姫像に変化が見
られる。これはまさに若武者の意気と凛々しさ
を備えた新之助の登場によって、後半の恋愛劇
に「ドラマ」 のリアリティが生まれてきたから
である。恋を知ることで、富姫は異形の者から
一人の女性に変貌する。その恋する女の喜びと
苦悩が、玉三郎の「美」を超えて、観客の心を
打つのである。特に 1999 年 3 月の歌舞伎座公演
では亀姫役に尾上菊之助が加わることで、劇前
半にも女性同士の姉妹的愛情の濃密さが浮かび
上がった。やはりこうしたアンサンブル抜きに、
ドラマの面白さは生まれない。
『天守物語』日生劇場公演からすでに 30 年以
上経ち、玉三郎も還暦を越えた。富姫を演ずる
肉体的条件は、次第に過酷なものになりつつあ
る。その変化に向き合い、どのように新たな魅
21
「動物譜(Bestiary)ボドリー 764 番写本」の時代背景に
関する研究
水島 ヒロミ
教 授
文芸学科
平成 23 年度
【研究対象について】
トが使われている。『アイルランド地誌』という
「動物譜(Bestiary)」写本の一冊であるオック
テクストは 3 部に分かれており、一般に、「奇蹟
スフォード、ボドリアン図書館 764 番写本(Oxford,
のように描かれた本」と題された第 2 部第 38 章
Bodleian Library, MS 764)は、いわゆる「動物譜」
が良く知られている。これが「ケルズの書」に言
写本群の第 2 グループに属しており、12 世紀末、
及した箇所と考えられているからである。
もしくは 13 世紀中頃にかけてイングランドで制
『アイルランド地誌』の第 1 部は、アイルラン
作されたとみなされている。前年度までのこの写
ドの地理的な位置や地形、動植物などについての
本に関する研究の成果を踏まえた上でさらに研究
記述であり、第 2 部は自然がたわむれに生んだ
を進めた。
奇異なるものについての記述である。第 3 部は
人間の歴史と文化についての記述から成る。ギ
【写本テクストについての研究】
ラルドゥス・カンブレンシスはこの書を 2 度の
植物に関するテクストを含む点は、第 2 グルー
アイルランド訪問の後に書いた。イギリスがヨー
プの一般的特徴であるという。植物に関する各
ロッパ大陸に最大の領土を誇ったヘンリーⅡ世
項目のテクスト自体は、この 764 番写本の場合
(1154−1189 在位)の時代、すでにアイルランド
セヴィリアのイシドルスによる『語源』とラバヌ
はアングロ = ノルマン勢力の侵入を許しており、
ス・マウルスの『事物の本性について』のテクス
ヘンリーⅡ世は 1171 年秋から翌年にかけてアイ
トからの引用から成り立っていることが分かっ
ルランドに滞在している。
た。この植物の項目については挿絵がない。ちな
みに植物の挿絵が描かれるテクストはディオスコ
【時代背景について】
リデスなどのテクストについてであり、「動物譜
12 世 紀 末 か ら、13 世 紀 半 ば ま で、 イ ギ リ ス
(Bestiary)」の植物の項目については挿絵を描く
はヘンリーⅡ世の後継者であるリチャードⅠ世
事にあまり関心が払われなかったようだ。
(1189−99 在位)、ジョン(1199−1216)、ヘンリー
また、4 項目のテクストにギラルドゥス・カン
Ⅲ世(1216−1272 在位)の統治下にあった。不
ブレンシス(1145−7 ? 〜 1223 年頃)が著した『ア
在がちであったリチャードⅠ世の時代、イギリス
イルランド地誌』(1188 年頃成立)からのテクス
の内政はウォルター・オブ・クータンスやヒュー
22
バート・ウォルターらに任されていた。失地王と
的根拠は欠けている。1225 年から 1250 年頃、ソー
して名高いジョンの後を継いだのがへンリーⅢ世
ルズベリで制作されたとする考え方が一般的なよ
であり、その失政についてはよく知られている。
うだが、これは Sarum Master と呼ばれる画家の
一方、大陸では 1215 年には第 4 回ラテラノ公
会議が開かれ、様々な教会改革やカタリ派対策、
様式を前提とした推測である。
以上が今年度の研究報告である。
十字軍などについて議論が行われた。この時期、
イングランドではソールズベリが教会典礼につい
て優位に立つ状況が生まれている(セーラム用
式)
。さらに、フランシスコ会修道士が 1224 年頃
にはオックスフォードに到着していた。
この時代は、写本制作について大きな変化が訪
れた時期でもある。オックスフォード大学(12
世紀半ば)やケンブリッジ大学(1209)の成立に
よって、また、女性を含め、貴族階級などの識字
率の上昇に伴って、書物に対する需要が増大し、
写本制作の場は多極化していくことになる。カン
タべリーやウィンチェスターなどに加え、オック
スフォードやケンブリッジなどへ、つまり修道院
のスクリプトリウムから外へと広がり、その担い
手も職業分化しながら俗人の手に委ねられるよう
になっていった。制作される写本の点数が増加す
ることに加え、豪華本を好む傾向も顕著になり、
「詩篇」や「動物譜」はその影響を強く受けてい
る。シトー会修道院のためにつくられたと思われ
る Cambridge Univ. Lib. Ii. 4. 26 写本などに対
して、アシュモル 1511 番写本や 764 番写本のよ
うな豪華な「動物譜」写本は何のために制作され
たのか、少なくとも修道院で読まれるための教育
的書物とは考えにくい。
【制作年代について】
ゾウの挿絵に描かれた紋章が一つの手がかりに
なる可能性はあるが、依然として年代推定の決定
23
ドビュッシーと同時代の詩人たち
山 田 兼 士
教 授
文芸学科
平成 23 年度
まず、平成 23 年度に発表したおもな研究業績
同上
(論考・エッセイ・書評など)を挙げる。
[以上前年度分追加]
( 1 )五十七歳詩集 ― 天野忠 / 谷川俊太郎 /
( 8 )現代詩の新鋭 ― 犬飼愛生について 『詩と
高階杞一 『ムーンドロップ』第 14 号(編
思想』2001 年 4 月号(通巻 294 号、土曜
集責任者・國重游、2011、2、4)
美術社出版販売、2011、4、1)
( 2 )翻訳詩の楽しみ ―「ミラボー橋」から『パ
リの憂愁』へ 『PO』第 140 号(竹林館、
二『まばゆいばかりの』(細見和之との対
2011、2、20)
談) 『びーぐる ― 詩の海へ』第 11 号(澪
( 3 )谷川俊太郎と〈こども〉の詩 2011 年 3 月
19 日(姫路文学館での講演)
( 4 )2010 年の十冊を読む(細見和之との対談)
『別冊・詩の発見』第 10 号(澪標、2011、
3、22)
( 5 ) 詩 人 た ち が 読 む 福 永 武 彦( 長 田 弘、 阿
部日奈子、小池昌代とのシンポジウム、
2010 年 7 月 24 日、近代文学館)
『年報・福永武彦の世界』第 2 号(福永武
彦研究プロジェクト、2011、3、31)
( 6 )福永武彦から池澤夏樹へ 魂のリレー(池
澤夏樹、田口耕平、岩津航。近藤圭一、西
岡亜紀との座談会、2010 年 1 月 15 日、近
代文学館)同上
(7)
「死の島」日記(福永武彦『死の島』研究ノー
24
( 9 )対論・この詩集を読め(第 11 回)朝吹亮
標、2011、4、20)
(10)詩集時評(3)詩の治癒力を信じて 『びー
ぐる ― 詩の海へ』第 11 号(澪標、2011、
4、20)
(11)小池昌代『弦と響』(書評) 『びーぐる ―
詩の海へ』第 11 号(澪標、2011、4、20)
(12)細見和之詩集『家族の午後』
(書評)
『樹林』
2011 年春号(通巻 556 号、大阪文学学校、
2011、5、1)
(13)アンケート「後世に残したい昭和の名詩
小野十三郎「カヌーの速度で」 『PO』144
号(竹林館、2011、5、20)
(14)上 坂 京 子 詩 集 『 風 と 曼 珠 沙 華 』( 書 評 )
『イリプスⅡnd』第 7 号(澪標、2011、5、25)
(15)追悼・島田陽子 / 島田さんの晩年のこと
ト)
『年報・福永武彦の世界』第 2 号(福
等 『びーぐる ― 詩の海へ』第 12 号(澪標、
永 武 彦 研 究 プ ロ ジ ェ クト、2011、3、31)
2011、7、20)
(16)対論・この詩集を読め(第 12 回)和合亮
一『詩の礫』(細見和之との対談) 『びー
ぐる ― 詩の海へ』第 12 号(澪標、2011、
4、20)
(17)詩集時評(4)震災の後で詩を読むという
こと 『びーぐる ― 詩の海へ』第 12 号(澪
標、2011、7、20)
(18)萩原朔太郎『宿命』再考 『現代詩手帖』
2011 年 10 月号(思潮社、2011、10、1)
(26)川邉由紀恵詩集『桃の湯』(書評) 『どぅ
かまら』第 11 号(2012、1、10)
(27)詩集時評(6)収穫の秋、か 『びーぐる ―
詩の海へ』第 14 号(澪標、2012、1、20)
(28) 対 論・ こ の 詩 集 を 読 め( 第 14 回 ) 杉
山 平 一『 希 望 』( 細 見 和 之 と の 対 談 )
『びーぐる ― 詩の海へ』第 14 号(澪標、
2012、1、20)
(29)一海槙詩集『正夢』(書評) 『びーぐる ―
(19)ドビュッシーと同世代の詩人たち(ヴェル
詩の海へ』第 14 号(澪標、2012、1、20)
レーヌ、マラルメ、ルイス等の翻訳とレ
(30)生きることと書くこと(福間健二、細見和
クチャー) 京都フランス歌曲協会、2011、
之との公開座談会) 『びーぐる ― 詩の海
10、15
へ』第 14 号(澪標、2012、1、20)
(20)高階杞一を読む 第 8 回 まぼろしの聖家
(31) ド ビ ュ ッ シ ー と ヴ ェ ル レ ー ヌ 雅 な 宴
族を求めて ―『ティッシュの鉄人』『びー
(ヴェルレーヌ、バンヴィルの翻訳) 京
ぐ る ― 詩 の 海 へ 』 第 13 号( 澪 標 刊、
2011、10、20)
都フランス歌曲協会、2012、2、12
平成 22 年度においては、著書こそなかったも
(21)対論・この詩集を読め(第 13 回)北川透
のの(ただし共著は 4 月刊行予定)前年度の 29
『海の古文書』(細見和之との対談)『びー
点よりさらに増加した。いずれも自身の重要な研
ぐる ― 詩の海へ』第 13 号(澪標、2011、
究テーマに基づき、また関連する仕事であるが、
10、20)
特に(19)と(31)は、主要テーマの「ドビュッ
(22)福間健二詩集『青い家』(書評) 『びー
ぐる ― 詩の海へ』第 13 号(澪標、2011、
シー」と直接関わるものであり、これらを中心に、
後日「成果論文」を制作する予定である。
10、20)
(23)詩集時評(5)生と詩 / 死と詩 『びーぐ
る ― 詩 の 海 へ 』 第 13 号( 澪 標、2011、
10、20)
(24)眉村卓の散文詩 remix について(エッセイ)
『樹林』2011 年秋号(通巻 562 号、大阪文
学学校、2011、11、1)
(25)〈風のアニムス〉と〈水のアニマ) 『日
高てる詩集』(現代詩文庫 194、思潮社、
2011、11、30)解説
25
「日本人景 村空間」
有 野 永 霧
教 授
写真学科
平成 23 年度
有史以来、人類はこの地球にさまざまな行為を
展開してきた。日本人も時代の流れの中で、多様
視点から制作に取り組んできた。
今回は「村空間」である。村は、今日まで生活
な行いを継続してきた。その結果としての集積が、
の中心として存在し、日本民族の特性形成の根幹
今日私たちが目の当たりにする現在の光景であり
をなしてきた。日本と言う国を形作ってきたので
風景である。
ある。その農村で繰り広げられていて、今日まで
私の「日本人景」のシリーズは、日本に現存す
る風景を写真に撮り、収集し、分類・分析を行い、
見過ごされてきた空間の中から、新しい視点から
日本の風景を捉えようとしたのである。
編集をすることによって、日本民族が形成してき
た風景を見つめようとするものです。その研究過
これまでの作品制作においても、一貫して、画
程を通して、日本国民が抱くものの見方や考え方
面を知的に、幾何学的に構成してきた。「温泉川」
を探ろうとしている。今回は日本民族が意識的に
では線遠近法や一点集結法を構成要素とした。ま
あるいは無意識的に育んできた農村地帯に焦点を
た、「三角地」では逆パースペクティブと左右に
絞った。村空間には、今日までの長い歴史時間の
消失するパースペクティブの複層する遠近法を展
中で集積した独特の現象が展開している。その現
開した。「借景」では遠近法でも前景をはっきり
在繰り広げられている農村地帯を、空間感覚を働
と大きく表し、後景をより小さく扱う大小遠近法
かせながら、捉えようと試みた。
を使いながら構成した。さらに画面における「上
下の風景」や「前後の風景」を重ねながら重層構
研究概要
図を作り上げようとした。
これまでの研究補助費の研究において、「三角
今回の「村空間」では点と線と面から生まれる
地」では三叉路によって挟まれた三角の特異な土
空間をフレームの中に取り込む作業である。点と
地の利用方法から、日本人のものの考え方や見
線、点と面、線と面、さらに点と面と線が作りだ
方を探り、また「温泉川」では、川の中から撮影
す「間」の妙を捕らえることにより、日本の農村
することにより、人間の視点からでなく川の眼に
風景を再発見しようとした。特に線では、垂直線
なって、日本人の自然に対応する姿を見つめてき
と水平線に強く感覚を注ぐように努力した。面で
た。また「借景」では、日本人独自の造園文化の
は、地面は勿論、特に空の空気感や雲のありよう
26
に注視することにより、空間の多様性を求めま
リンター、インク、ペーパーの品質の進歩と改善
した。
に目を見張るものがある。銀塩での手作り制作に
とって、アナログとしての味わいは無視できない
農村も変わった。現在の農村では、家屋が新建
ところであるが、より高度な表現を求めるなら今
材によって姿を変え、味わいのあった立ち木も伐
や、デジタルの可能性と未来性にチャレンジすべ
採され消滅したりして、驚異的に村風景が変貌を
きであることが確信できた。今後、よりデジタル
遂げていっている。その変貌の中で、今までに見
による個性ある表現ができるようになるために、
ることがなかった空間や、ふだん気にもしなかっ
色感覚やトーン感覚を養い、フォトショップ表現
た空間や、無関係の関係の風景などにより、現在
を研究し、特色のある作品づくりに役立てていか
の村空間が形成されている。しかし、それも現在
ねばならない。今回の会計報告ではフィルム以外、
だけの風景であり、今後日々変貌を遂げていくこ
プリンターのインクとペーパーが中心となってい
とは疑いのないところである。しかし、変わるこ
るのは、以上の理由である。
とによって立ち上がってくる新しい農村風景は認
識しやすいが、「空間」という視点で日本人が作
このテーマでの制作結果であるが、1 年間とし
る日本的な現代風景を発見することは至難のこと
てそれなりの成果はあるといえるものの、完成で
である。自己を信じて、空間に感応する表現者と
きたとは言えない。この成果を踏まえて、制作を
しての洞察力と感性にたよるのみであった。
継続していかなければならない。
作品制作と並行して、もう一つの課題としてデ
ジタル表現への移行という問題が持ち上がってき
た。これまで、そのクオリティの高さを大切にす
るために、銀塩フィルムと銀塩プリントを使用し
て作品づくりをしてきた。だが昨今、銀塩材料の
選択肢が急激に減少し、製品のクオリティも大幅
に下落してきている。それに反してデジタルのク
オリティが驚異的に上がってきた。
この現実を認識して、この機会にデジタル表現
に、本格的にチャレンジしてみた。ペーパーの差
異による色調変化や操作の違いによる変化などを
中心に研究した。特に銀塩とデジタルとの作業で
の違いに注目した。銀塩の暗室作業のあいまいさ・
アバウトさを経験してみると、デジタルで作業
がいかに高精密かを痛感した。それに加えて、プ
27
ガムプリントによるピグメント印画法の研究
森 川 潔
准教授
写真学科
平成 23 年度
ピクトリアリズムの時代(英:pictorialism, 仏:
セフ・W. スワンが 1864 年にカーボン印画法を発
pictorialisme、1885 ~ 1914)、ガムプリントに代
明し、次々にブロムオイル印画法、オイルプリン
表されるピグメント印画法は写真技術の発達と
ト印画法などのピグメント印画法の代表的な技術
20 世紀初頭のモダニズム運動の中で急激な衰退
が開発されていった。
を見せ歴史の中に埋もれ消え去ってしまった。
その後 19 世紀の末にはアルフォンス・ポワトヴァン
一昨年、京都国立近代美術館で行われた「生誕
の原理を改良しガムアラビックに重クロム酸カリウ
120 年 野島康三展 ― ある写真家が見た日本近
ムと顔料を混ぜ合わせた溶液を用いたガムプリント
代 ― 」において、絵画主義の影響を色濃く持つ
印画法が確立されイギリスのアルフレッド・マス
野島康三によるガムプリント作品を目にし、改めて
ケルやフランスのロベール・ドマシーにより歴史
その重厚な表現力を持つピグメント印画法の研究
的名作が世に送り出されることとなる。
が必要であると認識した。2011 年 3 月には東京都
写真美術館における「芸術写真の精華 日本のピ
日本国内でも 1890 年頃に入るとさまざまな写真
クトリアリズム 珠玉の名品展」においても、そ
機材や道具が輸入されるようになり、フィルムも
の豊かな表現性に改めて驚かされることとなった。
ガラス板にニトロセルロースを塗布したガラス湿
板から今日の形状に近い乾板フィルムへと変わっ
ピクトリアリズムの時代とは写真の黎明期から写
て行った。そうして写真は瞬く間に多くの日本の
真を絵画芸術の一つとして成立させるための様々
アマチュア愛好家たちの間に普及していったの
な方法が試行錯誤の中から生み出されたものの代
である。そんなアマチュア愛好家の中から当時の
表的な時代である。絵画を模倣することによって
ヨーロッパの絵画主義的写真の動きに注目し、マ
写真の芸術的価値を高めようと多くの写真技士が
スケルやドマシー等が使ったピグメント印画法に
研究に勤しんだのである。1855 年にフランスの
自ら着手するものが出て来るのである。後に日本
アルフォンス・ポワトヴァンがゼラチンなどの溶
のピクトリアリズムの時代を牽引することとなる
液に重クロム酸カリウムなどの試薬と混ぜ光に当
黒川翠山や野島康三らである。彼らはヨーロッパ
てると感光したところが硬化するという原理を発
の絵画主義的写真に影響を受けながら日本におけ
見した。この発見をきっかけとしイギリスのジョ
る芸術としての写真とは何かを追求し日本独自の
28
ピクトリアリズムを完成させた。1912 年頃には
ム(potassium)が結合したものが代表的であり、
日本のピクトリアリズムの流れは最盛期をむかえ
これらは蓚酸鉄塩より安定しているためピグメン
ピグメント印画法を駆使したユニークな作品が数
ト印画法に広く使用されたはずである。
多く生み出された。しかし 1930 年に入ると海外
からの新たな写真の潮流に押され次第に勢力を
このことから重クロム酸カリウム(potassium
失って行くのである。
dichromate)を感光主成分としてガムプリント法
の調合を進めることとした。
本研究では、かつて行われていた絵画主義的写真
重クロム酸カリウムは橙赤色の無機化合物で柱状
を制作する一つの方法として最も広く用いられて
の結晶体であり精製水には比較的解け易い物質
いたガムプリント印画法に焦点を当て、ピクトリ
である。溶解率 30%を超える辺りから飽和状態
アリズムの時代のプリントマイスター達が行った
になり常温では解け難くなるが感光性を得るには
繊細かつダイナミックな印画法を再現する事に
15%程度の水溶液で十分である事が分かった。ま
あった。
た、高濃度の重クロム酸カリウム水溶液は紫外線
ガムプリントによるピグメント印画法の研究は、
による黄色シミや黒点が多く発生する要因にもな
写真の古典技法またオルタナティブ・プロセス写
るようだ。これ故に 10%から 20%の溶液をアラ
真法に属しており、これまでの研究分野の領域に
ビアゴム溶液(30%水溶液)に同量入れることで
あり過去の研究成果とも密接に関係する位置にあ
最も効果的なプリント濃度を得ることができるこ
る。ピクトリアリズム衰退以降歴史の中に忘却さ
とが分かった。10ml の重クロム酸カリウム溶液
れた一つの印画技法を検証する事は、当時の社会
に 10ml のアラビアゴム溶液そして顔料を 2g 程
的背景や作家の精神性をも伺い知ることができる
度の混合率が今までの印画実験で最も成功率が高
重要な試みであるだろう。
く安定した画像を生成することができた。
添加する顔料の種類によって様々な色の表情や質
本研究において、その画像形成の元となる感光材
感を豊かに見せることができる。このガムプリン
料の研究からその処方を明らかにすることにあっ
ト印画法はある程度の技術が必要とされる部分は
た。主要専門研究機関において文献資料の精査と
あるのだが、写真の持つ芸術性・表現性をさまざ
確認を行ったが、19 世紀末から 20 世紀前半に記
まな方向から検証し直す一つの方向性を示してい
されたものの殆どは明確な試薬名やその処方を書
るようだ。今後もガムプリントのみにとどまらず
き記したものを確認することは困難であったのだ
ピグメント印画法の全貌を解明すべく同様の研究
が、基本的にきわめて単純な試薬の構成であるた
を続けたい。
め重クロム酸塩(dichromate)または蓚酸第二鉄
塩の種を感光材料として、それらの単薬または混
本研究を支えてくださった塚本学院へ心より感謝
合薬によるものであろうと推測できる。重クロム
申し上げる。
酸塩とアンモニウム(ammonium)またはカリウ
29
風景写真における空間描写の研究
奥 田 基 之
講 師
写真学科
平成 23 年度
1 .はじめに
を通して出来る木漏れ日が真円の投影像(太陽の
この研究は 2 次元の視覚情報伝達による写真表
投影像)である事などの記述があり、東洋でも紀
現において、3 次元座標を 2 次元に変換される空
元前 5 世紀、中国春秋戦国時代の思想家の墨子の
間を如何に表現してきたのかを整理し、それに対
書物にピンホール現象について記述されている。
する人間の感受性と理解を考察し、風景写真表現
その時代から小さな穴が像を結ぶ事を知っていた。
における空間描写と情緒性の存在を作品制作に展
またガラスは紀元前数千年前の古代エジプト時
開する事を目的とする。
代には作られていたようである。紀元前 8 世紀に
2 .見る事から再現する事
はレンズによる拡大鏡の記録があります。水滴の
そもそも人が見たものを記録し伝えようとした
形を真似たものが始まりであろうと考えられます
のは、文化らしきものを持たない旧石器時代の洞
が、レンズ豆の形をした透明なガラスが光を集め
窟壁画に端を発していると考えてよい。(最古と
る事などから、レンズを使ったカメラオブスキュ
思われる 3 万 2 千年前のショーヴェ洞窟、1 万 8 千
ラという現実の空間を平面の投影像にする装置
年前アルタミラ、1 万 5 千年前ラスコーなど、ク
が作られた。ルネッサンス期を経て様々な表現技
ロマニヨン人による、遠近法が使われている。こ
法を確立してきた絵画の世界において、現実の忠
の時代は寒冷な時代で寒さをしのぐ為に動物の皮
実な描写と言う機能は写真が担う事になり、絵画
の幕や簡単なテントを使い始めていた。)
はより現実を求めたシュールリアリズムから印象
その後時代が飛びますが、ブルネレスキー、アル
派、未来派、抽象、キュビズムと新たな表現を求
ベルティ、ジョット、レオナルド・ダ・ヴィンチ
めて変化した。
らによって線遠近法を含む様々な、3 次元空間の
3 .風景とは何か
投影像としての絵画技法がルネッサンス期を経て
「自然」は人類があらわれる前から存在してい
確立するのですが、3 次元空間を 2 次元の平面に
た。そこに現れた人類は自然との関わりのなかで
正確に描くための道具として、カメラオブスキュ
生きることになるが、自然と闘いそこで生き残る
ラと言う道具があります。遠近法やカメラオブス
努力を続けることで、自然を「環境」としてきた。
キュラは古代ギリシャ時代から知られていたので
すでに環境は人が自然と係わるその関係性のこと
すが、中世で忘れ去られ、ルネッサンス期に再発
である。だが、この時点ではまだ「風景」につい
見された。
て語ることはできない。風景は、人が生きるため
始まりはアリストテレス(プラトンの弟子紀元
に自然と係わる限り現れてこないからである。生
前 4 世紀)の手記に日食の時の木漏れ日が太陽と
きるための現実的な関心から離れ、ひたすら審美
同じように欠けていった事や、竹かごの楔形の目
的な態度がとれたとき、はじめて姿をみせるのが
30
風景である。
painting として使われ、イギリスの風景画の導入
「風景」については、内田芳明氏は、風景にはそ
を通じて、landscape を風景画の対象とする風景
の中に「情」がひそんでいる、つまり「風情」と「情
の知覚であり、対象とする景観でもあるという意
景」の合体であるといわれる。かつて「日本風景
味が付されていったことが推察される。それゆえ、
論」の志賀重昂がわが国の自然の美しさから愛国
landscape は景観でもあり、風景でもあるといっ
心へと展開したように、風景は心理的な美への評
ても良いのであろう。一方、scenery が風景と訳
価を持っている。
され、景観とは訳されない点で、landscape とは
「風景」ランドスケープという言葉が表面的に捉
相違があるのであろう。日本人には landscape の
えられ、目で見える物的状況のみ往々にして理解
景観にはなじみがなかったが、近代的風景を受け
されがちだが、それは景観の一面にすぎないので
入れるなかで、landscape を風景として受け入れ
ある。地域社会は様々な物を取込みつつ歴史的な
たのであろう。
時間の中で成長していき、景観はその生態的な動
4 .結び
態においてこそ意義を持っている。
すなわち、景観とは目に見える景色と同時に、
西洋美術史上、自然を風景と認識したのは、18
世紀の始め頃で landscape とか scenery と言う言
それを支えている生態、人文、経済等の行為・活
葉の使い方が、風景を意味するようになったと同
動と一体のものとして認識する必要がある。
時に、ニュートンが自然現象を数式を用いて物理
風景の「風」は「趣き」が該当するのであろうか、
的に解明できることを示したことが影響してい
大気の運動としての風が心理的な状態を表すので
る。いずれにしても西洋で自然を風景と認識し始
あろうか。松尾芭蕉は風を「風雅」など多用して
めたのは、200 年余り前のことで、それに比べる
いるが、それが芭蕉の「さび」「わび」などの境
と日本でもう少し早くから風景を認識していた様
地を示すとすれば、風化と関係するのかもしれな
である。江戸時代の浮世絵文化は、それまで西洋
い。風の中国古代の使われ方が孔子の詩経に現れ
絵画が題材としなかった風景画で溢れてる。また、
ており、風とは歌のタイプを区分して表し、今日
江戸時代に盛んになった盆栽は、風景を縮図化し
の様式に該当する。現在も・・風は様式をあらわ
たもので、自然の中に風景を見なければ成り立た
している。風致は日本的な「趣き」であり、西洋
ない。また、日本的な庭は自然風景を「見立て」
的な「美」と違っていることは確かである。場の
によって再構成したものであると言える。
様子は雰囲気として感じられるが、大気の運動で
写真表現は様々な実験的制作が行われ現在に
ある「風」と結合している。風致は場面の雰囲気、
至っている。(技術的手法に関してデジタル化に
落ち着いた趣きと美的な快さなどを総合した感が
よる様変わりは、近代的変容と捉える以上の結果
あり、日本人ならではの独特の感覚によってとら
を内包している事は否めません。)しかしながら、
えられた意識であるといえるだろう。
風景表現を行うにあたって自然風景を対象とし
「場」のもとで成立する風景の視覚を中心とした
て典型的日本風景を参考に掲げ、空間描写を旨
知覚はパノラマの眺望において景観を対象とし
とした画面構成について考察する事の意義を再
ており、逆に風景は景観を対象とする知覚とい
認識した。
うことができる。景観を landscape の訳語とし
て生み出す一方で、風景という言葉も landscape
とした。語源的にはオランダ語の領地の境域を
示す言葉から、それを描いた風景画に landscape
31
袈裟について
小野山 和代
教 授
工芸学科
平成 23 年度
袈裟は僧侶が着用する衣のことで、葬式の時に
ように告げたという話が出てくる。袈裟は広げる
僧侶が身につけている豪華なストールのような衣
と、四角い布裂がつなぎあわされ大きな布になっ
として目にする。
ている。この四角い長短の布裂が田畑をあらわし、
袈裟は古いインドの言語(サンスクリット語)
それらをつないでいる細長い布裂が、畦道のよ
の「kasāya(カシャーヤ)」という言葉の音訳を
うだといわれる。田が作物を生ずるように、仏を
漢字であらわして用い、今日に至っているといわ
供養することにより福徳を生ずることから袈裟を
れる。もとは衣の名称でなく色名で、「kasāya」
「福田衣」とも呼ぶ。つなぎあわされている布裂
の意味を漢字にした場合は、壊色(えじき)とな
の数に応じて五条袈裟、七条袈裟、九条~二十五
る。壊色は暗くて汚い色や赤褐色の汚れたような
条袈裟があるがいずれも奇数で、数が多くなるほ
色といわれる。仏教の修行者の服は壊色とするよ
どサイズも大きくなる。五条袈裟は作業着、七条
う律で定められていた。
袈裟は普段着、九条袈裟以上は正装に用いるとさ
長方形の布をストールのように肩から斜めにか
れている。長い年月を経て仏教が他国に伝播する
ける袈裟の着用スタイルは、インドのサリーと似
にしたがい制服のような日常着が、本来の意味を
ている。一枚の布を体に巻きつけるサリーは巻衣
なくし、装飾的なものへと発展した。わが国には
の代表的なものだが、仏教発祥の地インドで僧侶
豪華な金襴、綴れ錦、刺繍が施されたものなどさ
の日常着として欠かせない衣服であったこともう
まざまな袈裟があるが、最高の位にある理想的な
なずける。年中暑いインドでは袈裟を直接肌に着
袈裟は、ぼろぼろの糞にまみれたような布裂を縫
用していたが、仏教が中国や日本に伝播するにし
い繋いでつくった「糞掃衣(ふんぞうえ)」とい
たがい、その土地の気候風土に適した着用法に変
われている。
化していった。
最高の位の袈裟とされている糞掃衣は、東京国
もともと袈裟は仏教の修行をしている人と、他
立博物館にある奈良時代の法隆寺所蔵の「七条刺
の宗教の修行をしている人を見分けるために決め
衲袈裟(伝聖徳太子所用)」「七条刺衲袈裟(伝釈
られた制服のようなものだといわれる。仏教の修
尊所用)」などがあり、二領とも刺し縫い(ステッ
行者が守るべき規則である律には、釈尊が水田の
チ)がこれでもかというくらいこと細かに施され
風景をみて、これに似せて修行者の衣服をつくる
ている。見ると異常さを感じるくらいだ。これら
32
の袈裟は、布裂がすり切れた表情をわざとつくり、
い布裂や小さな布裂を大切に使用する日本の染織
いかにもぼろぼろになったように制作されてい
品は数多くある。そこには「もったいない」の生
る。そのテクスチュアは現代のテキスタイルアー
活哲学が凝縮されているようだ。「もったいない」
トに通じる。
とは、節約する、むだにしないという意味だけで
正倉院には「九条刺衲樹皮色袈裟」「七条刺衲
はなく、「勿体」はモノの「まことのかたち」を
樹皮色袈裟」や「七条織成樹皮色袈裟」などある。
さし、モノの値打ちが生かされず無駄になるのを
これらは「国家珍宝帳」に記載されている。「七
惜しむ気持ちを「もったいない」という。日本人
条織成樹皮色袈裟」は布裂を縫い集めたような織
の造形思考の根底には「勿体」の哲学が脈々と受
り方で、そのように織られているということは、
け継がれていると考える。
糞掃衣がすでに意匠化されていたことや、本来の
学生の頃、正倉院展で初めて袈裟を見た時の
刺し縫いがいかに大変な作業だったかを物語って
感動からいつか袈裟を調べてみたいと思ってい
いる。
た。本年度は袈裟を知ることに終始した。袈裟
かつて布は貴重で簡単に手にはいるものでな
からヒントを得て布裂を作品制作にどのように
く、例えば木綿布の場合、種まきから綿の採集、
生かすかは、企画展に作品を出品して「染織造
糸づくり、染色、織りと気の遠くなるような時間
形の動向」を研究、「小作品」へ取り組んだが、
を費やして一枚の布をつくった。靭皮繊維の場合
さらに今後の課題となった。
はさらに手間と時間をかけて繊維を採集し、布に
した。女達は家族のために糸をつむぎ、その糸か
ら布をつくり、衣類を縫った。衣類は穴があいた
り破れたら継ぎ当てをし、傷んだ部分を補強して
『糞掃衣の研究』
松村薫子 法蔵館
「高僧と袈裟」
カタログ 京都国立博物館 2010
『袈裟のはなし』
九馬慧忠 法蔵館
使用した。それらの手法は刺し子、裂き織り、パッ
チワーク、アップリケなどで、痛んだ布の補強、
参考文献
2006
2010
補修、再生のために生まれたものだが、なんとも
美しい表情を持っている。継ぎ接ぎを重ねた衣類
は襤褸(BORO)と呼ばれ、海外ではテキスタイ
ルアートとして高く評価されている。わたしは袈
裟を調べるうちに袈裟として最高の地位にある糞
掃衣やまずしい民が補修を重ねた襤褸(BORO)
の根底には、布裂に対する「祈り」に近い思いが
あることに気づいた。
糞掃衣、裂き織りの衣類、寄裂の着物、百得着
物、アイヌのアットウシのアップリケ部分、縞帳、
野村コレクションの実物貼装の小袖屛風など、古
33
染色技法における「むら」と「染め味」の創作研究と考察
福 本 繁 樹
教 授
工芸学科
平成 23 年度
創作と論考の両面から、染色技法における「む
言えるのか疑問を抱いたこと、また、京都造形芸
ら」と「染め味」について研究をすすめた。伝統
術大学の染織テキスタイルコースのグループがさ
的な友禅染めや型染めなどは「むら」と「染め味」
かんに用いている「ジェイプド・ダイ」については、
を徹底的に排除してきたが、一方、当該研究者が
技法のメカニズムを説明する「ジェイプド・ダイ」
専門とする蠟染めの分野では「むら」と「染め味」
よりも、その技法を採用する意図や動機をもうか
を積極的にいかそうとする作家が多かった。しか
がい知ることができる「なるほど染め」のほうが
し、そのような顕著な現象を指摘して、その理由
いいと考えたからである。昨年度の京都新聞連載
を明らかにしようとする論考がみあたらない。ま
のエッセイ「現代のことば」
(2011 年 1 月 20 日夕
た、日本の美術を代表する琳派を「たらしこみ」
刊掲載)において、
「日本のこころ」をタイトルに「な
が特徴づけることが指摘されているが、なぜそれ
るほどの造形思考」について主張したことも、そ
が特徴となっているのかの理由については未解決
の理由となった。
のままである。それを染色技法の実践をふまえた
造形思考から、あらたな表現技法の試みによって
論文研究に関しては、一部成果をあげたが、けっ
創作をすすめ、同時にそのうらづけとなる理論的
して充分なものとはいえなかった。当該研究にお
考察をすすめようとした。
いては、一年の研究期間ではとても充実した成果
をあげられるものではなく、なお数年間の多角的
制作研究では、蠟染め技法のメカニズムに注目
なとりくみを要するものであることが、その理由
し、積極的に「むら」と「染め味」にとりくんだ。
である。年度内に発表した一部の論文成果として
とくに反応性染料の特殊な性質を生かして、独特
次のようなものがある。
の「むら・にじみ・しみ」を工夫した。今年度に
試みたものとして、絞り染めや、染料の打ち合い
「糸の先へ いのちを紡ぐ手、布に染まる世界」
を応用した独創的な染め味を試みて、一定の成果
展( 福 岡 県 立 県 立 美 術 館、 福 岡 2/4 〜 3/11)
をみたので、それを「なるほど染め」と命名して、
カタログにインタビューでの発言記事を掲載
作品発表した。
「なるほど染め」の命名には、予想
(p.7−10)。
以上の反響があった。この技法の命名については、
民族藝術 28 号(2012 年 3 月発行)の「民族藝
「オリジナル技法」
「独自技法」それに「ジェイプド・
術学の現場」欄(p .232−233)に拙稿「型染めと
ダイ」なども考慮したが、
「なるほど染め」を標榜
することを決断した理由は、
「オリジナル技法」
「独
テキスタイルアート、その珍奇性」を寄稿。
数年前から制作をつづけている和綴じ本の増補
自技法」とするには、意味が漠然としていること、
創綴による改訂版の刊行をすすめ、そのなかで
はたしてどれだけ「オリジナル」や「独自」だと
エッセイ集のタイトルを「私淑言(ささめごと)」
34
とあらため、
「本の創綴(そうてい)」
「ヘタウマ」
「三
青 い 風 21 人 展( ギ ャ ラ リ ー 青 い 風、 京 都、
昧」「囱(まど、window)」「鬼より強い豆」など
3/2‐11)
のエッセイをあらたに執筆して加えた。
とくに今回の研究計画の成果としておもなもの
作品制作研究に関しては、積極的にすすめるこ
は、次の 3 組の作品である。いずれも染色技法名
とができ、その成果を発表することもできた。以
を「なるほど染め」とした。ふたつの企画展と、
下に、そのとりくみのなかから、12 の出品展覧会
ひとつの建築空間の注文制作である。
と、ひとつの建築空間注文制作を列挙して、おも
な成果となった 3 組の作品についての概要を記す。
第 18 回染・清流館展 Part−2(染・清流館、京
都、10/1‐26)出品作品
2011年
青い風小品 19 人展(ギャラリー青い風、京都、
4/14‐23)
のほほん 福本繁樹 本の創綴(そうてい)展
《あら(荒)》綿布╱なるほど染め、蠟染め。
パネル、102.5×102.5×5cm
《にき(和)》綿布╱なるほど染め、蠟染め。
パネル、102.5×102.5×5cm
(千疋屋ギャラリー、東京、5/9‐14)
東日本大震災義援金チャリティアート展(オリ
糸の先へ いのちを紡ぐ手、布に染まる世界(福
エ アート ギャラリー、東京、5/17‐21)
岡県立県立美術館、福岡、2/4 〜 3/11)
韓・ 日 繊 維 藝 術 交 流 展 Korea − Japan
《虹のかなた》綿布╱なるほど染め(絞り染め
Fiber Arts Exhibition 2011(韓国文化院 ミ
の応用)、蠟染め。
リネギャラリー、大阪、6/28 〜 7/4)
パネル 2 枚、各 260×104×4.5cm
美の冒険者たち( JR 大阪三越伊勢丹 6 階美術
画廊、大阪、8/10‐16)
社会福祉法人 桃花塾 児童部棟(富田林市)壁
STREAMING:from Textile to Clay, Rozome by
面染色作品《虹》
Fukumoto Shigeki and Porcelain by Fukumoto
雨上がりの青空に輝く《虹》を表現。12 点シ
F u k u(K E I K O G a l l e r y , B o s t o n . 9/10 ~
リーズ、各 90×90×5cm、2012 年 2 月作品完成。
10/10)http://www.keikogallery.com/
綿布に、絞り技法を応用した独自のなるほど染
青い風 19 人展(ギャラリー青い風、京都、10/1‐9)
めと、蠟染め併用。反応性染料使用。各 4 棟の
第 18 回染・清流館展 Part−2(染・清流館、京都、
リビング・ダイニングの吹きぬけ上部壁面に、
10/1‐26)http://someseiryu.net/
見あげるように展示。A 棟から D 棟にかけて、
テキスタイルアート・ミニアチュール展 ― 百花
虹色に赤燈黄緑青藍紫へと色彩を展開。
斉放 ―(Gallery 5610、東京、11/11‐19)
A 棟1階 廊下(1)北面壁、《虹 No.1》
2012年
第 13 回 あやなす展 Small Works: 切(きれ)
・
布(きれ)・裂(きれ)(千疋屋ギャラリー、東
京、1/9‐14)
糸の先へ いのちを紡ぐ手、布に染まる世界(福
岡県立県立美術館、福岡、2/4 〜 3/11)
社会福祉法人 桃花塾 児童部棟(富田林市)
壁面染色作品《虹》12 点シリーズ制作(2012
A 棟2階 リビング・ダイニング(1)上部南面壁、
《虹 No.2, No.3, No.4》
B 棟2階 リビング・ダイニング(2)上部南面壁、
《虹 No.5, No.6, No.7》
C 棟1階 リビング・ダイニング(3)上部南面壁、
《虹 No.8, No.9》
D 棟1階 リビング・ダイニング(4)上部西面壁、
《虹 No.10, No.11, No.12》
年 2 月作品取り付け、4 月竣工)
35
地理情報を用いた世界遺産の環境評価に関する研究
下休場 千秋
教 授
環境デザイン学科
平成 23 年度
本研究の目的は、日本国内においてユネスコの
には、観光資源として利活用するにあたり、遺産
世界遺産に選定された地域について、地理情報を
の価値を損なわない計画を立案しなければなら
用いた分析手法を適用することにより、それらの
ない。
世界遺産と地域環境を保全し、観光資源として活
本研究の申請時点において、国内の登録物件数
用してゆく方途を明らかにすることにある。具体
は 14 件であったが、この研究での対象物件は、
的には、世界遺産が位置する地域に関して、国土
平成 23(2011)年 6 月に新たに世界遺産として
地理院の地形図、空中写真、旧版地図、国土交通
登録された平泉と小笠原諸島を含めた 16 件とす
省土地・水資源局国土調査課の土地分類図(地形
る。16 件全ての世界遺産について、資料の収集
分類図、表層地質図、土壌図)、環境省の現存植
と分析を行った。
生図、動植物分布図、文化財分布図、市町村史な
地図を主とする地理情報は世界遺産の空間的認
どの資料を収集・分析して世界遺産としての環境
識を容易とする。地理情報を有効に活用すること
価値を評価し、今後の地域計画課題を研究成果と
により、世界遺産が有する普遍的価値をより正確
して提示する。さらに、対象地域を限定して現地
に評価することが可能となる。本研究では、前述
調査を実施することにより、具体的な提言を行う。
した地理情報に関する資料を収集し分析すること
ユネスコの世界遺産は、世界中の顕著で普遍的
により、世界遺産に関する環境評価を行った。16
な価値のある文化遺産、自然遺産を人類共通の宝
件の世界遺産のなかで、白神山地(秋田県、青森
物として守り、次世代に伝えていくことの大切さ
県)、屋久島(鹿児島県)、知床(北海道)、小笠
を唱えるものであり、「世界の文化遺産及び自然
原諸島(東京都)の 4 件が自然遺産である。また、
遺産の保護に関する条約」に基づき登録される。
法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)、姫路城(兵
ユネスコ世界遺産として登録されるには、自然遺
庫県)、古都京都の文化財(京都府、滋賀県)
、白
産、文化遺産に係わらず、遺産として登録され
川郷・五箇山の合掌造り集落(岐阜県、富山県)、
る物件そのものの価値がまず問われる。つぎに、
原爆ドーム(広島県)、厳島神社(広島県)、古都
それらの物件が有する価値を地域の住民、行政、
奈良の文化財(奈良県)、日光の社寺(栃木県)、
専門家がどれほど認識しているかが求められ、法
琉球王国のグスク及び関連遺産群(沖縄県)、紀
律に基づく具体的な保全計画が必要となる。さら
伊山地の霊場と参詣道(和歌山県、三重県、奈良
36
県)、石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県)、
とする奥州藤原氏 3 代によって築かれた世界遺
平泉 ― 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考
産・「平泉 ― 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及
古学的遺跡群(岩手県)の 12 件が文化遺産である。
び関連する考古学的遺跡群 ―」が存在する。奥
いずれの世界遺産に関しても、地形地質、地
州藤原氏の初代清衡が、仏教による平和社会の構
表水、現存植生、土地利用、文化財といった自
築を目指して、東北地方の中心として平泉に本拠
然物と人工物の双方の景観構成要素について、
地を建設した理由について、地理情報を用いて考
地図資料に基づき考察することによって、世界
察すると、平泉の地形地質条件としては北上川の
遺産の環境価値を評価した。その結果、どの世
肥沃な沖積平野が広がる中に、泥岩と砂岩から成
界遺産とも、景観性、生物多様性、歴史文化性、
る砂礫台地となだらかな丘陵地があることを理解
自然災害性といった評価基準からみて、地域固
することができる。砂金の産出、北上川による南
有の風土に根ざした環境価値を有していること
北交易、北上川を挟んで東側の束稲山と西側の金
が明らかとなった。
鶏山の存在など、藤原氏が目指した理想郷建設の
世界遺産に登録されるために、ユネスコの専門
地理的条件が平泉には整っていた。
家委員会による審査が実施される。遺産物件に関
平泉は平成 23(2011)年に世界遺産登録がな
する科学的・専門的情報を提供する必要があると
された。岩手県を始めとする東北地方の地域住民
ともに、住民をはじめとする世界遺産と関わりの
は、昨年 3 月の東日本大震災により物心共に大き
ある地域の多様な主体が、遺産の価値についてど
な打撃を被った。歴史的に何度も津波被害を受け
の程度の認識をもち、保全に対してどれほどの情
てはその困難を克服してきた地域住民にとって、
熱を有しているかが問われる。そのような遺産に
平泉の世界遺産登録は地域の将来に向けての大き
様々な関係をもつステークホルダーが遺産の価値
な希望となる。
を認識する際に、地理情報は有効な情報共有手段
世界遺産としての価値の評価は、千年以上にも
となる。本研究は、既に世界遺産として登録され
わたって変わることのない地域の魅力を再発見
た地域の環境評価を行うものであるが、地理情報
することでもある。平泉における実例で示された
の分析手法は、今後、世界遺産登録を目指す地域
ように、地理情報を用いた世界遺産の環境評価の
にとっては、地域の魅力と課題を発見し、関係す
考え方と手法は、変わることのない地域風土の特
る主体間において情報を共有する時に必要不可欠
徴を発見する方法として有効であることが明ら
なツールとなる。
かとなった。
また、地理情報の分析においては、現地調査を
欠かすことができない。資料の収集分析を行った
上で、実際に現地を訪問し、分析結果を確認する
過程が必要となる。
例えば、本研究で現地調査を実施した岩手県西
磐井郡平泉町には、平安時代後期、中尊寺を始め
37
温泉地域の自然災害と防災に関する研究:東海・東南海・
南海大地震の影響地域を中心に
ハーヴィ A・シャピロ
教 授
環境デザイン学科
平成 23 年度
地球は 10 数枚のプレート(岩盤の板)によっ
(安政南海地震)死者数千人、1944 年 12 月 7 日
て地表面を覆われている。なかでも日本は他の国
M7.9(東南海地震)死者・行方不明 1200 人以上、
には見られない 4 枚のプレートが複雑に交差して
1946 年 12 月 4 日 M8.0(南海地震)死者 1300 人
存在している。北は北米プレート、東は太平洋プ
以上だったと記されている。次の南海トロフ関係
レート、南はフィリッピン海プレート、そして西
M8 クラスの大地震が発生する確立の最近の予測
にはユーラシアプレートが日本近辺に集合してい
によると、東海地震は 30 年以内に 87%、東南海
る。2011 年 3 月 11 日、千年に一度発生した超巨
地震は 70%、そして南海地震 M8.4 は 60%である。
大地震ともたらされた大津波が東日本とその沿岸
M9 クラスの大地震発生確率の予測は 2012 年春
地域を襲い、2 万人以上の死者・行方不明者、田畑、
に結論がでる。
家屋やビルも消滅した。これらの原因は上記に記
した 4 枚のプレートの中の太平洋と北米プレート
の接点地帯にある巨大海底断層の動きによるもの
である。
この研究のために、アンケート調査を実施した。
その主な内容は次のとおりである。
( 1 )あなたの温泉地は自然災害を受けたことが
ありますか ?( 2 )いつ、どのような自然災害を受
近い将来(今後 30 年以内に)、西日本の太平洋
けましたか ?( 3 )あなたの施設は防災対策を持っ
側でも同様な大震災が予測されている。そのため
ていますか ?( 4 )対策があれば、どのようなも
にも以前から国内外の温泉地域災害と防災研究の
のですか ?( 5 )対策がない場合、その理由をのべ
一環として、西日本地域における各温泉地域への
て下さい( 6 )この調査の結果を知りたいですか ?
影響と対応等のテーマを選んだことを私として
等である。以上のようなアンケートに返信封筒(切
は、大阪芸大で私の最後の教育研究となる。
手付き)を同封して、各地域の温泉施設(ホテル・
1500 年頃からの地震資料によると、過去、西
旅館)に郵送した。
日本には、3・11 東日本大震災と同様な大震災が
今回の研究地域の東は神奈川県から西は鹿児島
起きたことがある。1605 年 2 月 3 日、東海・南
県までである。東の東海地震による被害可能あり
海地震、M 7. 9(慶長地震)死者数千人、1707 年
の沿岸地域の調査対象は次のとおりである。神
10 月 28 日、M8.4(宝永地震)死者 2 万人、1854
奈川県には湯河原温泉(解答率 47%)、静岡県に
年 12 月 23 日( 安 政 東 海 地 震 ) と 1 日 後 M8.4
は、熱海温泉(解答率 35%)、河津温泉(解答率
38
78%)、下田温泉(解答率 35.3%)他の温泉地。
から、防災マニュアルやスタッフ訓練等は非常に
中央の東南海地震危険地域には愛知県の南知多温
少ないが、施設のほとんどには懐中電灯やローソ
泉(解答率 43.8%)、三重県には鳥羽温泉(解答
クの準備は非常に高い。しかし、大地震や大津波
率 45. 5%)他 2 ヶ所、そして和歌山県には、南
の前には、全く無防備といっていい。
紀勝浦温泉(解答率 47.4%)、白浜温泉(解答率
3・11 東日本大震災から一年は経ったが、教訓
51. 6%)他数ヶ所。そして西には南海地震危険地
をしっかりと受け止めただろうか。調査結果を見
域には、高知県に土佐温泉(解答率 73.9%)他数ヶ
ると、西日本の温泉地の大災害への準備は決して
所。宮崎県に串間温泉、他 3 ヶ所と鹿児島県には、
充分なものとはいえない。このことは、西日本は
大崎温泉、他 1 ヶ所である。地域別の解答率(総合)
東日本より安全だという安易な過信にすぎない。
は東海地震危険地域、42.1%、東南海地震危険地
残念ながら、近未来、M9 クラスの大地震や大津
域、52. 7%、そして南海地震危険地域、73.3%で
波は必ずやって来るであろう。その時の備えを今、
ある。しかし調査結果を知りたい解答率は逆の傾
ただちに始めなければならない。建物の耐震性の
向がみられる。その理由は、3・11 東日本の被災
向上、及び全温泉施設 は防災マニュアル確保と、
地に近いほど関心が高い、しかし温泉地の準備が
スタッフ訓練を火災だけでなく、全種類の災害の
十分と信じられているから知る必要がないと考え
ために繰り返し行うべきである。温泉は自然と一
ているでしょう。
体化できる反面、裸の状態の無防備な客の命を守
4
4
4
4
4
それぞれの地震危険地域における温泉施設の
る義務が温泉宿にある。中央や地方の行政の動き
項目別の解答率は次のとおりである。東海地震
を待たずに、温泉施設独自の対策、準備を進める
ゾーンには、大地震がかなり以前から予測されて
ことを提言する。
いるから、他地域より防災対策は進んでいる。例
以上
えば、ほとんどの温泉施設には、防災マニュア
ル及びスタッフの訓練が実施されていた。しか
し、熱海温泉を除いて、外国人向けの防災情報は
ない。他の地域と同様に、懐中電灯とローソクの
準備率は非常に高いが、調査結果を知りたい要望
は少ない。東南海ゾーンには、災害体験がやや少
ないせいか、防災マニュアルやスタッフ訓練等は
70%弱。しかし施設のほとんどには、懐中電灯
やローソクの準備は東海ゾーンと同じく非常に
高い。白浜温泉には、外国人のための防災情報を
4
4
持っているが他の温泉地には全くない。そして、
調査結果については東海地震ゾーンより少ない。
南海地震ゾーンには、災害体験がもっとも少ない
39
サンフランシスコの都市形成
松 久 喜 樹
教 授
環境デザイン学科
平成 23 年度
研究の目的
サンフランシスコ地域の総括的なランドスケー
波は共通の問題点を含んでいる。そのため東日本
大震災の被災地である岩手県気仙沼、陸前高田、
プデザインを紹介する文献が見当たらないことは
大船渡を中心に現地にて被災地を見学、また専門
以前から専門家の間で問題となっている。その為、
家や一般の方々からの聞き取り取材を行った。サン
様々な特徴的なプロジェクトを紹介し論評するこ
フランシスコ地域においてもランドスケープと防災
とを前回からの研究課題としている。サンフラン
の視点からの地理的検証やそれに関するプロジェ
シスコのランドスケープについての手引きとする
クトの紹介等を加えた内容とした。
ためには、立地する地域について熟知する必要が
ある為、都市形成の変遷や現状の問題点を中心に
研究の背景
研究を行った。折しも 3 月 11 日に東日本大震災
戦後ランドスケープアーキテクトの職能がアメ
があり、未曾有の甚大な被害をもたらした。研究
リカにおいて飛躍的に拡大発展した。
郊外住宅ブー
地域のサンフランシスコ地域も同じ環太平洋地震
ムや高速道路の発達、郊外ショッピングセンター
帯に属し、しばしば日本と同じように地震に見舞
の出現、都市再開発などアメリカンドリームが世
われていることから、サンフランシスコ地域にお
界中に知れ渡り時代を席巻した。サンフランシス
ける防災に関する調査も加えた研究とした。また
コはアメリカ人にとって常に最も住みたい町とし
特徴あるプロジェクトの紹介と論評についても引
て人気第一位を誇っており羨望の場所であり続け
き続き行った。
た。西海岸のランドスケープアーキテクトである
トーマス・チャーチらによって推進された戸外の
研究計画と方法
研究方法については、以前に現地を視察した時
庭園空間を取り入れた住宅とそこでのライフスタ
イルが雑誌などで紹介され人々に浸透していった。
に撮影した写真類と、新しく入手した情報を整理
プライベートなスペースだけでなく、公共空間に
し、特に都市形成に関する地理的検証を中心に分
おいても古典的なアメリカ東部の伝統に束縛され
析した。サンフランシスコ湾地域の地理的条件が
ないデザインや手法がサンフランシスコのガレッ
日本、とりわけ大阪湾地域は似ていることから、
ト・エクボ、ローレンス・ハルプリン、ロパート・
巨大な自然災害が突如発生した今回の大地震、津
ロイストンらによって展開された。サンフランシ
40
スコ地域はその後も時代の要請によって次々にそ
ままでは湾ではなく河川になってしまうのでは
れまでにない提案や職能の展開があり、その軌跡
ないかといった危機感が市民運動となり、1964
を実際のプロジェクトの中にみることが可能であ
年にマクティア・ペトリス法を成立させ、その
る。例えば、地域のコミュニティー再生、生物多
後とぎれることなく続けられた市民運動によっ
様性のデザイン、ニューアーバニズムにみる環境
てサンフランシスコ湾の環境管理体制を確立さ
負荷の小さい都市環境の創造といったテーマで
せた。脆弱な自然の生態系と個人の所有権を守
ある。特に臨海部の再開発は、世界的に注目を集
りながら、開発を抑制し、沿岸の公共利用の場
めてきた経緯がある。すでに関連する個々のプロ
所をなるべく多く確保していくといった困難な
ジェクトの研究については以前から進めていたが、
課題にいかに取り組んで来たか。また沿岸のパ
サンフランシスコの都市形成の立地である地理的
ブリックアクセスを確保するための手法と管理
条件の重要性を今回の大震災で再認識することと
の問題点を現地での調査を踏まえて検証した。
なった。
防災について
研究の内容
都市形成の成立の変容
東日本大震災が発生し、近い将来サンフラン
シスコでも起こるであろう大地震、自然災害と
サンフランシスコの都市がどのような経過を
防災対策について調べた。サンフランシスコは
経て形成されたのかについては、著作の「ラン
サンアンドレアス断層帯上に位置しており、大
ドスケープデザインの探究」にその概要を紹介
地震が過去にもたびたび起こり、甚大な被害を
している。過去 30 年間に都市計画の民主化と
もたらしている。1989 年の地震は、直下型で
規制手法の変化という大きな変化が生まれた。
はなかったがサンフランシスコと対岸のオーク
都市計画とは何か、公共とは何か、このような
ランド市一帯の沖積層の軟弱な地盤に被害が
設問に対し都市計画の主体は住民である、とも
集中した。ビルの倒壊、フリーウェイの倒壊、
とれる変化は計画のプロセスそのものが重要で
サンフランシスコとオークランドを結ぶベイ
あった。サンフランシスコの都市部計画では、
ブリッジの上層部が約 2 キロにわたって崩落
1985 年に全米でもっとも進んだ成長管理政策と
した。絶え間のない人口の流入による都市の
いわれる容積率の引下げであるダウンゾーニン
拡大と地震、洪水、山火事など避けられない
グ、開発業者の負担強化が策定された。
自然災害にどうつき合うのか、その方策の一
つが断層情報の公開と活断層上の新設の建築
湾岸域環境保全について
を禁止する「活断層法」の制定であった。
サンフランシスコ湾およびサンパブロ湾は閉
鎖性海域そのもので、水深は湾の 2/3 が低潮
時に 5m 以下となる。湿地や干潟を多く有する
ため、過去に湾の 1/3 が埋め立てられた。この
41
動物園の生息環境展示に関する研究
若 生 謙 二
教 授
環境デザイン学科
平成 23 年度
はじめに
シシ等がコンクリートの堀の中に展示されている。
動物園は生物多様性と環境を認識する場として
これらは、柵をやめて、南アルプスを展望できる位
重要な役割をになっているため、種の生息環境を
置に棚ではなく堀を設けて、その中に築山や岩山
理解することができるような展示であることが必
を配し、植栽を行うことで岩山のカモシカや枝をわ
要である。動物園における展示の課題は、動物の
たるタヌキごしに彼らの生息環境であるアルプスを
生息地での環境を再現し、本来の行動や習性を発
遠望でき、この園の立地をいかした独自の生息環
揮させて展示することである。生息環境を自然主
境展示が可能になる。
義的に具体化する手法は、生息環境展示とよば
れ、近年、それらの先進的な事例がみられるよう
2)盛岡市動物園
になってきたが、多くの展示では旧来の檻やモー
市郊外の丘陵の森林地帯にある同園では、ニ
ト式が多く、多くの動物園では、展示の方策を模
ホンザルはサル山で展示され、擬岩は造形的に
索しているのが実情である。本研究では、わが国
は窪地などの変化もつけられており、奥の樹林
の動物園に対する現地調査にもとづいて、生息環
が背景となっており評価される。傾斜地に配さ
境を再現して展示する具体的な方策を探り、具体
れたサル山奥の擁壁から背景に広がる樹林へ金
化する手法についての提言と考察を行い、わが国
網のシュートを設け、樹林を広範囲にネットで
の動物園展示の方向性を展望したい。
囲うことで、樹林の中でくらすニホンザルの展
示が可能になる。ただし、それぞれの樹皮を金
調査園事例
網で被覆するなどの樹木防護策が必要になる。
1 )飯田市動物園
また、鳥類は、ネットケージで展示されている
リンゴ並木南端の崖沿いの敷地にあり、南東に
が、20㎡程度と小規模であるため、飛翔が困難
は南アルプスを遠望できる好立地にある。園内に
な状態にある。同園の敷地には多くの樹林が残
は、南アルプスに生息するニホンカモシカやニホン
されていることから、樹木の樹冠下部分をネッ
ジカが南アルプスを背にする位置に柵の中で展示
トで被覆する手法で 200㎡程度の樹林をネットで
されている。また、園の中央にはニホンザルがサル
覆い、鳥類の飛翔行動を確保することができる。
山として展示され、南側の崖沿いにはタヌキ、イノ
この手法を用いれば、樹林を維持しながら展示
42
を行うことが可能であり、コストと展示効果、
これらのコンセプトは乱れはじめている。今後の
鳥類の行動空間確保の観点から有用である。
改修では、主園路沿いに個別の動物種を展示して
きたこれまでの空間手法をあらため、主園路から
3)熊本市動物園
はいりこむエリアを設け、複数種の複合展示や混
同園では、ペンギン、ニホンザル等の展示の再
合展示を行う必要がある。また、多くの樹林が残
生を予定している。ニホンザルでは角形ケージに
されているため、樹林を残したまま、そこにネッ
展示する計画であったものに対して、提案を行い、
トをかけて展示するなどの手法も生息環境展示を
築山の上に円型のネットケージを配して、その上
具体化する上で有効である。
に 4 本の落葉樹と常緑樹を配する計画が進められ
ている。また、ここに展示されているニホンザル
考察
が県内の相良村の個体群であることから、同村へ
野生動物の多くは植物を餌とし、またねぐらと
の調査を行い、森林と周辺農地の生息環境を調査
して活用してくらしている。植物は草本や灌木と
して設計に反映させている。
ともに、高木となる樹木が大きな役割をはたして
同園は阿蘇山からの伏流水が流れる江津湖に隣
いる。動物園の生息環境展示を具体化するには、
接する動物園である。次期に計画されているアフ
近年、進展した植栽技術を用いて樹木を活用する
リカの水辺では、アフリカサバンナでカバの群れ
ことが有効である。樹木保護の方策を確保すれば、
が水浴する水辺を再現し、江津湖と視覚的な連続
動物にとっての登攀、緑陰などとともに、景観を
性を保つような設計にするならば、水都熊本を表
創る上では大きな効果が期待される。ネットの製
現する生息環境展示が可能になる。
作技術も進展しているため、樹木の樹冠を保護し
ながら、展示にとりこむことも可能であり、堀式
4)宇部市常盤公園動物園
展示とネットの活用で複数種の複合的展示も可能
同園は霊長類を中心にしたコレクションをもつ
になる。周囲の景観をとりこむことで、野生動物
が、旧来の檻式の展示で動物の行動は制限されて
が生育する地域環境の認識にとっても効果を発揮
いる。同園には 11 頭のテナガザルがおり、これ
する。とりわけ日本の固有種の展示にあたっては、
らは世界的にも希有の数である。これらの展示に
こうした野生動物が生育する地域環境との連動が
あたっては、水堀で島を設けてそこに 20m程度
重要である。
の高木を数本植栽することで、樹上の活発な枝渡
り行動を誘発することができる。
5)多摩動物公園
同園は昭和 30 年代に動物地理学的配列として
開園された動物園である。起伏の多い二次林を活
用して檻を用いず堀式の展示で生息環境の再現に
つとめ、園内景観を一してきたが、近年の改修で
43
映画『猿飛漫遊記』
(1932)の復元にむけての予備調査
太 田 米 男
教 授
映像学科
平成 23 年度
はじめに
説、チラシ類などの調査、そして何よりも玩具映
四国愛媛の映画愛好家から 20 数種の 16 ミリ・
画の断片のショットによって、主演が澤田慶之助
フィルムが届けられた。内容調査のためだった。
(沢田敬之助)であり、金森万象監督の『猿飛漫
元活動弁士が所有していたそうで、すべて無声映
遊記』である可能性が高いことが判ってきた。た
画であるという。調べてみると、原節子のデビュー
だ、データベースや俳優年鑑などの沢田の紹介欄
当時の映画もあったが、大半が既存のもので、ま
にはこの作品が欠落していた。残った字幕の断片
た半数が戦後のトーキー作品でありながら音声帯
には数人の俳優が表記されており、彼らがマキノ
がないもの。余談になるが、テレビ放映に際し、
映画の俳優たちであることで、牧野省三の死後、
映画会社が使用後の一般流出を防ぐため、音声帯
マキノ映画が解散した後に創設された弱小の会社
は別テープなどで分けて販売したもの。このフィ
が漏れている可能性もあった。調査の結果、マキ
ルムらの存在によって、戦後にも活弁付の無声映
ノ映画傍系の会社の一つに、金森万象が中心に設
画上映が行われていたことが容易に推察できた。
立された協立プロという会社があり、3 本ほど製
そのフィルム群の中に『忍術猿飛佐助』と表題
作していた。その最初の作品でないかという推測
のある映画があり、これが金森万象監督の『猿飛
が成り立ち、キネマ旬報などの批評や解説と映像
漫遊記』短縮版である可能性が高く、国立フィル
を照らし合わせ、ほぼ『猿飛漫遊記』に間違いな
ムセンターにもない唯一の残存フィルムであるこ
いと判断するに至った。
とが確認できた。そこで今回、研究テーマに選び、
具体的に特定するためには、細部まで映像を調
作品の周辺調査と復元のための予備調査を行うこ
査する必要があった。経年劣化したフィルムのダ
とにした。
メージが大きく、簡易作業として複製フィルムに
このフィルムが『忍術猿飛佐助』と表記されな
起こしてからテレシネ(デジタル化)して調査す
がら『猿飛漫遊記』と特定した理由を説明する。
る必要があった。以降は、残存フィルムから全カッ
16 ミリの短縮版が作られる段階で、改名される
トをプリントアウトして調査し、明確になった内
例があり、似た表題や該当する作品を調べたが、
容である。
タイトルからは特定することができなかった。そ
の中で、スチール写真やキネマ旬報などの雑誌解
44
俳優・沢田敬之助について
残存カットをビュワーで確認する中で、表題の
映画『猿飛漫遊記』について
台本が残っていないために、フィルムから採録
猿飛佐助役の俳優であるが、字幕も残っておらず、
し照合することになった。無声映画は活弁に頼っ
あまりよく知られた俳優でもなかった。スチール
ているために、あまり字幕がなく、内容を知った
写真を調べると、松竹の俳優らしい。玩具映画フィ
ものでないと把握できない。そこで、全カットを
ルムの映像の中に、松竹の林長二郎(長谷川一
プリントアウトした画面構成表を作成し、資料類
夫)主演の『風雲城史』があり、準主役の城主役、
と照らし合わせ、欠落箇所の確認と活弁台本であ
小沢茗一郎と同人物ではないかと判ってきた。小
ろう内容の把握を行っていった。立川文庫の『猿
沢茗一郎は衣笠映画連盟出身で、林長二郎の脇役
飛佐助』(著者・雪花山人)には、漫遊の旅にな
をしていたが、『十字路』を最後に松竹から離れ、
る件は同じだが、登場人物やエピソードが異なり、
マキノに移った。その時に改名し、沢田敬之助を
この映画は金森たちのオリジナル・ストーリーで
名乗るようになる。2 年ほど在籍し、大都に移っ
あるらしい。猿飛佐助は架空の人物だけに、奇想
た。名も、一時澤田慶之助(本作)や沢田敬之介
天外な発想で、物語の飛躍も成り立つ。この映画
としたがすぐに元の敬之助に戻っている。
では、豊臣家再興をめざし、天敵徳川家康の命を
彼のマキノ時代の作品歴は確認できたが、マキ
狙うため、江戸城の図面を手に入れるべく奮闘す
ノ映画が省三の死後、カリスマを失った組織は、
るが、それも叶えられず、霧隠才蔵など真田十勇
日活や松竹、新興、大都に移籍したり、マキノ・トー
士が勢ぞろいし、紀州九度山に集結、大阪の陣(最
キー、正映マキノ、マキノ商会、宝塚キネマ、エ
後の戦い)へと挑んで行くところで、作品は終わっ
トナ映画、協立プロなど、マキノの人材は離散し
ている。
て行く。その崩壊ぶりが如実に表れていた。この
協立プロも、省三の一番弟子であった金森万象が
今後も、資料類が発掘され、また完全版(原版)
大阪に事務所を構え、製作に乗り出していた会社
などが発見された時に、より詳しい内容が分かる
で、その第一作が『猿飛漫遊記』であった。省三
だろう。一時間弱の短縮版だが、一本の映画の発
が開拓した忍術映画は尾上松之助を大スターにし
掘によって、忘れられた監督や俳優の再発見と名
た講談ものでもあり、省三への想いと映画(活動
誉の回復につながる。今回の研究では、失われた
写真)の原点に立ち返っての企画であったことが
フィルムや資料類の発見、何よりも映画復元と保
伺える。協立プロは、他に『魔の上海』、『光を仰
存の意義を改めて認識させた。更なる無名映画の
ぎて』の三作で、経営破綻し解散している。短命
発掘の機を待つ。
に終わった会社だけに、映画史の作品リストにも
尚、今回調査を行ったフィルム群はすべて所有者
抜け落ちた可能性があり、沢田敬之助の作品歴に
に返却している。
も欠落していた。
45
モーショングラフィックにおける立体視映像表現の可能性
の考察
浅 尾 芳 宣
講 師
映像学科
平成 23 年度
はじめに
でも活かした複雑な表現が出来ると考えている。
近年、映像表現におけるモーショングラフィック
特に 2010 年は「3D 元年」と言われるほど、立体
によるアニメーションの重要性は高まりつつある。
映像に対する機運も高まってきており、従来平面
古くは映画「黄金の腕」のソウル・バス、
’90 年代
の絵で構成されたモーショングラフィックスに立
からでは「seven」のカイル・クーパーに代表さ
体空間で構成されている 3DCG を組み込み、よ
れる文字やグラフィックを中心としたモーション
り空気感や立体感に溢れ、リアルを超える立体
タイポグラフィーが有名であるが、昨今のコン
映像ならではの新しい映像表現の可能性を考察
ピュータの性能向上により、静止画、動画と素材
したい。
のフォーマットを問わない多種多様な構成表現が
可能になってきた。その結果、平面で構成された
第一章
モーショングラフィックスと、立体である実写と
モーショングラフィックによるアニメーション
の垣根が低くなり、実写映画であっても SF やア
を制作する上で、まずはイメージボードを制作し
クションなど、ジャンルによっては特殊効果とし
た。モーショングラフィックとは文字通り、元々
てモーショングラフィックス的表現が多用される
平面表現であるイラストやロゴマークなどのグラ
ようになってきた。一般に抽象的な表現が多い
フィックに動きを加える事でアニメーションに加
モーショングラフィックスではあるが、素材の選
工する事であり、実像が存在する撮影された動画
択肢が多様化してきた事から、具象的でリアルな
と、グラフィックデザインとの中間的な表現であ
質感を持ったまま、数式の世界でしか見る事の出
る。それは本来静止画で成立している表現に時間
来ないような螺旋やリサージュ図形に代表される
軸を加えるわけであるので、どの時聞を切り取っ
きわめて数学的な構成を、実写と見間違えるほど
ても印象的かつ流れるような動きの美しさを完結
のリアルな質感と物理演算を伴うようなリアルな
させる事が要求される。その流れるような動きを
動きで表現する事が、パーソナルコンピュータで
表現するために本研究では、自然現象をベースに
も今後可能になってくると思われる。それはまさ
した物理演算によるモーションを使用し、秩序あ
に数式で表現される 3DCG の分野であり、両者
る揺らぎの表現を試みた。そのように制作された
を組み合わせる事によって、より緻密で立体感ま
イメージボードは立体的に構成された万華鏡とで
46
もいうような構成になった。
ビ社アフターエフェクツを使用し、素材同士の合
成、質感や色補正を行った。
第二章
次に素材制作行程に移る。本研究では配置や動
さいごに
きの美しさを重要と考えるため、出来る限りシン
本研究で得られた成果により、モーショングラ
プルな素材を必要とした。まずはベースとなる平
フィックスにおいて 3DCG 表現の利用は十分に
面的な幾何学図形を制作した。これは画像ソフト
有効であると考える。秩序ある美しさの表現はも
ウェア、アドビ社のイラストレータで作成した。
とより、特に奥行きの表現に必要な素材の物量を
理由は遠近を表現するためには素材サイズの拡大
高速に生成する事が出来た。さらには計算によっ
縮小が必要不可欠であり、一般的なビットマップ
てモーションを作り出しているため、初期値の変
画像では画質の劣化を避ける事は出来ないため、
更や係数によって様々なバリエーションを作り出
解像度制限の無いベジェ曲線を使用するためで
すことも可能で、そこで思いがけない効果が生ま
ある。もちろん平面だけではなく、そこに 3DCG
れることもあった。ただ今後の課題として浮かび
ソフトウェア、マクソン社の CINEMA4D を使
上がったのは、それだけでは我々の感情を動かす
用して立体として構成された素材も作成した。
のは難しいという点であった。正確な 3D のパー
スと我々が感じている立体空間との差は大きく、
第三章
そこに必要なのは人間の目の特性や錯覚までも活
完成した素材を空間上に配置し構成する作業に
用した感覚的描写である。さらに研究を進めノウ
入る。この作業には第一段階として CINEMA4D
ハウを積み上げる事によって、感情をも動かすよ
を使用した。素材を手作業で立体空間に多数複製
うな新しいモーショングラフィックスの表現が可
していく配置作業にはかなりの労力と時間がかか
能であると考える。
り、出来の精度を出す面でも難しいところがある
ので、今回はパーティクルと呼ばれる手法を用い
る事にした。これは簡易的な物理演算の一種で、
多数のオブジェクトをある規則に沿って動かす事
が出来る。そこに風や重力などを設定しランダ
ムに初期値を振る事によって、多様性のあるモー
ションを生成させる事ができる。実例としては雨
や雪、火の粉などを CG で表現する時によく利用
される。ただしパーティクル同士の相互作用まで
は計算しないため、正確なシミュレートにはなら
ないが、計算コストとの兼ね合いで十分だと判断
した。そして仕上げには合成ソフトウェア、アド
47
「錦影絵」に於ける光源部改良と、それに伴う木製幻燈機
の製作
池 田 光 恵
教 授
芸術計画学科
平成 23 年度
大阪芸術大学「錦影絵」の復元風呂(木製幻燈
まり、種板絵の周辺が暈けない大きさと明るさの
機)のモデルは、天保の頃、「錦影絵」を大坂で
レンズで、本体は手に持って操作可能な範囲、内
広めたとされる富士川都正の 4 代目が使用した大
径 140(W)×300(L)×220(H)mm 前後に納める
阪歴史博物館所蔵のものであり、現在、種板と
必要があり、製作台数分、同一規格で揃うこと
併せて大阪市の有形文化財に指定されている「風
が条件になる。探した結果、89mmφ、焦点距離
呂」を参考にして製作した。しかし、製作当時に
124mm の非球面レンズを採用することにした。
入手できた集光レンズは、その口径と焦点距離が
それを填めるレンズ板は、種板と接する位置に
それぞれ異なっていたので風呂本体の大きさに
セットすることで、絵との距離を以前製作した「風
不揃いが生じ、材料となる桐材の厚さも製作年度
呂」より短くして鮮明度を高めた。種板絵は大部
によって違っていた。そのため、種板を移動させ
分が 50mm 正方、大きい絵で縦幅が 80mm であ
て絵全体を替える動きの全幅が風呂幅によって
るが、従来のヘリコイド 50mmφレンズでは絵の
異なり、扱う「風呂」によっては使用できる種板
周辺部に暈けが生じる。そこで、より鮮明に映す
が限定された。幻燈師の人数や演目、演出が変更
ために 80mmφの球面レンズに変更した。ヘリ
される度に風呂香盤を修正し、種板の指押さえ印
コイドの重さや、着脱、繰り出し操作、風呂幅を
を風呂幅に合わせて刻み直す必要が生じた。こう
考慮した上でこのサイズが妥当であろうと判断し
した汎用性に欠く状況を解消するため、統一規格
た。筒の長さはコンデンサーレンズの焦点距離と
のレンズと桐材を入手して、白熱電球、ハロゲン
前板や種板の板厚等から算出できるが、木材は、
ランプ、LED 等の各光源に対応できる操作効率
気候による湿度の影響で微妙に板の厚さが変化す
の良い、できるだけ軽い、復元モデルの特徴を生
る。演目によって制作時期も異なる種板を使うこ
かした改良形状の「風呂」を、これまで制作した
とから考えて、若干短くし、筒の繰り出しで微調
全ての演目が十分上演できる台数で製作する必
節することにした。風呂図面は、レンズを填め込
要があった。その際、既存の種板の修理と新しい
んだ厚紙で模型を作り、ピントが合う位置を確認
「風呂」に合わせた操作性の改良も行った。
し、それに合わせて光源位置も決めた。基本的な
「風呂」の大きさは、採用するコンデンサーレン
風呂構造が決定した段階で、既存の演目では全て
ズよって違ってくる。復元風呂とほぼ同じ幅に納
の風呂で縦引き種板が使われることはないので、
48
挿入口からの光漏れを回避するために、天板に縦
軽くて扱いやすいので、幻燈師は、身体と「風呂」
引き種板の挿入口がある「風呂」と、無いものの
が一体化したように動くことができた。同じ規
2 種類を作ることにした。種板挿入口は全て広幅
格であるから、「風呂」と種板の組み合わせを瞬
サイズに開け、中枠(通常使用する種板用アダプ
時に替えることができ、演出の確認や変更にす
ター)を抜いた時に広幅使用になるようにした。
ぐに対応できる。「錦影絵」の表現の可能性を追
中枠挿入時は風呂本体横のストッパーを工夫する
求していく上でもこれまで以上に力を発揮する
ことで、暗がりでも手間取らず、幅の違う種板の
であろう。イベントやワークショップ等での展
入れ替え擦作ができるようにした。熱処理フィル
開も期待できる。
ター、光源台、通風口の位置と固定方法を決め、
図面を描く。通風口は、光漏れを最小限に押さえ
て熱を逃がす構造に改良したが、ハロゲンランプ
以下は、今回製作した「風呂」を使っての上演
活動である。
2011 年 8 月 16 日
光源では、風呂内部は外側に比べてかなり温度が
登録有形文化財・藤岡家住宅
上がり、熱を逃がすという点では根本的な解決に
演目:ぐるんぐるん
はならなかった。そうしたことから、発光熱が極
端に低い LED の使用を視野に入れて実験を行っ
たが、現段階では光の特性がかなり違う上、映写
距離が遠くなるほど光の減衰が著しいので、光源
2011 年 11 月 8 日
大阪歴史博物館「大阪の歴史再発見」
【第 1 回】
「アニメの源流 錦影絵」
演目:桜白波憑依豆袋、ボール
の明るさを維持しながら投影するのは難しく、広
い場所での上演には向かない。特に、「錦影絵」
の光の特徴である、色温度 3200K 以下の赤みを
帯びた暖かな光は望めない。種類が豊富になった
とはいえ、錦影絵用としてはまだ満足いく LED
は商品化されていない。しかし、光源の消費電力
が少ないことは大きな魅力であり、現在よりも小
型のバッテリーを使う可能性も出てくる。充電の
回数も減り、操作時間が長くなることも期待で
きるであろう。現状ではアクリル支持体とフィ
ルムに対する耐熱処理は、構造上避けられない
が、それに替わる素材を検討しつつ、風呂光源
の LED 化に向けて引き続き調査研究する必要が
あるだろう。
今回新しく製作した「風呂」は、電源コードを
必要としないことから安全面で格段に進歩した。
49
戦間期日本における写真言説の実相
犬 伏 雅 一
教 授
芸術計画学科
平成 23 年度
いわゆる「藝術写真」の時代が終焉して、新興
られるはずのものであるにも関わらず、なぜ岡本
写真が時代の主流に躍り出てくることになるので
が違和感を覚えたのか。昨年に発表された高橋千
あるが、明治から太平洋戦争に至る写真言説がこ
晶の論考「「モダン・フォトグラフィー」受容の
の二つの局を単線的に結び付けるものであるはず
重層性 ―『フォトタイムス』誌に見る言説空間
もない、という予想が本研究の基調にある思いで
と写真実践」はこの疑問に対して一つの解答の可
ある。
能性を示している。そこでは、『フォトタイムス』
例えば、岡本東洋(1891−1969)の研究で最近
誌についてこれまでにない精細な言説分析が実践
一書 ―『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣、
され且つ作品のテクスト分析も並行して行われて
2012 年 ― を上梓した中川馨は、芸術に関わる写
いる。議論の核心は、同誌におけるモダン・フォ
真の局外に位置付けられてきた岡本の中に醸成し
トグラフィー(おおよそ外延において新興写真と
たストレートフォトグラフィー的要素を実証的に
オーバーラップする存在)の言説、作品レベルで
明らかにして見せている。中川によれば、岡本は
の複数性、そしてモダン・フォトグラフィーその
動物写真、植物写真のパイオニア世代の一角を占
ものの受容の複数性を、雑誌のアマチュア購読者
める存在であるが、その被写体との関係性を追求
の「啓蒙・誘導」を重点化するか、あるいは、プ
していく過程でストレートの価値を見出し、さら
ロフェッショナルな撮影者の「啓蒙・誘導」を重
に、そのストレートに「日本的なもの」の現出の
点化するかの差異として解読しようとする説得力
意義を自覚するようになる。岡本は藝術写真を拒
のある試みである。換言すると、
『フォトタイムス』
否するのであるが、その時点では、ピクトリアリ
誌の言説空間が、藝術写真を新たな写真行為の編
ズムのソフトフォーカス嗜好に対する違和感だけ
成へと脱構築しようとする際の継承性と断絶の複
でなく、新興写真の動きに対しても違和感を覚え
合度とその際のそれぞれの強度差が織りなすテク
ており、最終的にその二つを合算して拒否する姿
スト空間として提示されるのである。岡本の違和
勢を鮮明にするために美術写真(『美術写真大成』
感の理由はこれである程度まで理解できるであろ
月報第一号、平凡社、1936 年)という言葉をわ
う。しかしながら、断絶性に依拠する板垣鷹穂の
ざわざ使用するようになっている。
藝術写真と新興写真は、まさに対極に位置付け
50
「機械美」を主唱するモダン・フォトグラフィー
擁護、推進の議論とはすれ違っているようにも見
える。しかしながら、板垣の言説の展開を戦間期
ナルなものへと変換させられたし、変換してし
から太平洋戦争突入後までを辿っていくと興味深
まったことは認めざるをえないであろう。しかし、
い事実にぶつかるのである。
それは撮影主体の問題を明確にとりこむことでロ
美学から出て写真・映画について多くのテクス
ジカルには岡本の言説に接合したのであって、
「機
トを残した板垣鷹穂(1894−1966)は、新興写
械美」そのもののロジックは撮影主体(ナショナ
真の時代に木村専一、田村栄とともに『フォトタ
ルという規定以外の多数の規定因子を内包してい
イムス』の写真言説を主導し、「新興写真研究会」
る主体)を前景化した瞬間にモダニズム的な閉域
(1930 年設立)の中心的論客として、「新興写真」
を解体する形で開かれたのである。戦間期写真言
の路線を唱道した。ところが、彼が 1942 年に執
説を解析する座標空間が 3 次元程度では足りない
筆した「寫眞藝術に於ける日本的特質」(『造形と
ことがここまでの議論でも明らかであろう。例え
文化』育成社弘道閣)には、不思議なことにすれ
ば中山岩太の言説、滝口修造の言説などによって
違ったはずの岡本東洋の議論が微妙に木魂し、共
n次元化を図り、加えてその座標空間を相対化す
振している。当該論考において、板垣はストレー
る必要がある。
トフォトグラフィー的姿勢で日本的な主題にアプ
ローチすることが、西洋の写真美学の物まねから
の離陸であると主張した。写真と撮影者の関係
性を宙づりにして、写真映像に集中することが
フォーマリズム的な姿勢であり、板垣が主唱した
藝術写真的映像美と対極をなす「機械美」(『新し
い藝術の獲得』天人社、1930)、しかもストレー
トな写真映像が最も親和性をもつ「機械美」が撮
影主体を後景化するフォーマリズム的なものであ
るとすると 30 年代の初めの「新興写真」期の板
垣の言説は大戦に突入して変節したのであろう
か。ナショナリズム的でありドイツ的な「地と土」
の言説に浸透されたとも見える板垣の写真におけ
る日本的なものへの希求は、普遍言説としてのモ
ダン・フォトグラフィーが実は欧米的撮影主体を
不可分のものとして揺曳しナショナルなものであ
りうることから、撮影主体としての「日本」、「日
本人」を前景化すれば必然的に発生してくるもの
と解釈することができる。この限りで普遍性を志
向した「機械美」、「機械美学」は根底からナショ
51
芸術の生成:ジャンルの系譜とオリジナリティ
純 丘 曜 彰
教 授
芸術計画学科
平成 23 年度
研究の具体的な対象
今日、芸術のマスプロ化とともに、著作のオリ
半に提示されている手がかりのみで、きちんと犯
人が一意的に読者にも推理できるものもあれば、
ジナリティは莫大な利益の源泉となる一方、各所
奇妙な味の怪奇譚として、その異様な犯罪像を提
で盗作問題も生じている。この意味で、今年度、
示することを主眼とするもの、倒叙法のように、
この問題を考えるに当たって、従来の芸術学や芸
探偵に追い詰められていく犯人側の心理を描写す
術史が採り上げるような、いわゆる天才よりも、
るもの、などのように、交差することのないドメ
むしろ文化的潮流や商業的需要の中にある芸術活
インをなしている。これらは、自然発生的なもの
動にこそ注目した。具体的には、二十世紀の大衆
ではなく、ヴァンダインの鉄則のように、作家側
教育を背景として登場し、現代の通俗文化の主流
から自己論評的に自分の作品の形態が提示されて
となっているパルプフィクション、すなわち、ミ
パラダイムとして確立されていく。
ステリや SF、ホラー、ラブロマンスなどである。
知ってのとおり、これらは、概括的に見れば、
ジャンルの系譜
どれもこれも似たり寄ったり。しかしながら、そ
だが、文学史を問えば、もともと古くは黙示
ばやラーメン、カレーなどの有名店と同様、むし
録にまで遡る幻想文学という伝統があり、これが
ろ大差ないがゆえに、そこには熾烈な競争があり、
十九世紀のブルジョワ社会とともに、娯楽読物へ
その中に凡百が及ぶことなど叶わない古典的な人
と展開し、ここに、ミステリや SF、ホラー、ラ
気作家たちが聳え立っている。ほとんど同じよう
ブロマンスのようなジャンルが成立してくる。こ
な物語展開にもかかわらず、この人気作家たちと、
のジャンルの成立をつぶさに観察するならば、そ
凡百とを分けているものは何なのか。
こには、エポックメイキングな作家が存在する。
つまり、進化論的に、徐々にジャンルが分化し、
ジャンルという公理系
調べてみると、むしろここでは、凡百の群がり
それがしだいに細密化していくのではなく、ある
作家が突然にあるジャンルを切り拓く。たとえば、
によってこそ、ジャンルが細分化され、読者を含
コナン・ドイルがいなかったら、今日のような探
めて、共通の公理系となっている。たとえば、ミ
偵小説というジャンルが誕生することはなかった
ステリにおいても、本格派と呼ばれるような、前
だろう。ここにおいて、重要なことは、ジャンル
52
を切り拓く作家は、多くの場合、作品をシリーズ
うべきジャンルごとの評論層の成立も注目に値す
的に生み出し、その作風そのものが一つのジャン
る。彼らは、ジャンルの公理系の見張り役のよう
ルになっている、ということである。
な存在であり、亜流であっても公理系にうまく即
さらに詳細を見ていくと、このようにある作家
している、もっともみごとな亜流たちを推奨し、
が新しいジャンルを切り拓く直前においては、じ
ジャンルメイカーの創作数を越える読者側の需要
つは類似の作品がさまざまな作家によって散発的
に供する。つまり、ジャンルメイカー本人の作
に創作されている。コナン・ドイルの前には、エ
品は絶対的にヒットするが、それの創作が追いつ
ドガー・A・ポーから、マーク・トウェインまで、
かない間に、評論層の審判とともに、亜流という
さまざまな作家が探偵小説を試みているのであ
にはもったいないような凡百の作家たちが市場で
る。しかしながら、このような先駆的な作家たち
バックアップし、二次的市場を活性化して、さら
は、試行錯誤的で一作ごとに作風が異なり、いま
なる才能を広く集める。
だジャンルというものを模索している途中である
このジャンルエンジンは、新人の登竜門となる
ことが多い。一方、エポックメイキングな作家は、
が、しかしまた、そのジャンルのトップに君臨す
処女作において最初からジャンルのパラダイムを
る巨匠のパラダイムを破ることはできない。たと
打ち立て、そこに大量の凡百の亜流をぶら下げ
えば、スピルバーグのような監督の下から、多く
つつ、その後も自分のジャンルの模範例で在り
の助監督が生まれたが、スピルバーグを越えるこ
続ける。
とはできない。先述のように、ジャンルメイカー
は、その処女作からして、自分の自身のパラダイ
ジャンルという閉塞
その後においても、スパイもののイアン・フ
レミングやホラーのスティーブン・キングのよう
に、ジャンルメイカーとも呼ぶべき巨匠が次々と
ムを持っているからであり、他人のパラダイムの
下からは、後年にそのパラダイムを破るような作
家は生まれない。
このように、アートを、個人の内面性と社会の
現れ、それぞれに自分のドメインを確立していく。
支配性との相関関係において眺めてみるとき、こ
しかしながら、その一方、そのそれぞれのジャン
れまでの芸術学が見落としていた、大きな歴史的
ルの中は、どうなっているのか。先述のように、
系譜、芸術的精神史とも言うべきものが見えてく
巨匠をパラダイムとする亜流の凡百がひしめき、
る。ミクロの個人の視点とマクロの社会の視野の
それでも、そのジャンルの中においては、プロと
両方をうまく用いて、この芸術的ダイナミクスを、
して成り立ちうるような商業的市場の恩恵にあず
さらに深く研究していきたい。
かることができる。逆に言うと、凡百が間ジャン
ル的な作品を作っても、それは、ジャンルの公理
に対する違反として、市場への商業的ルートから
も排除されてしまう。
ここには出版社のみならず、プロの読者とも言
53
映像の技術革新とリアリティの問題
豊 原 正 智
教 授
芸術計画学科
平成 23 年度
映像の技術革新は、その周辺の技術の進歩の成
い作品はほとんどないといっても過言ではない。
果を取り込み、一言で言えば、常に「現実そっく
その手法は、大まかにいえば、(1)歴史的現実の
りなもの」を手に入れようとしてきたということ
再現、(2)実写では不可能かあるいは困難な撮影
ができよう。19 世紀前半の写真術の登場以来の
のための特殊撮影、(3)SF 映画における空想的現
映像技術の歴史は、その「リアリティ(現実性)」
実の創造そして(4)アニメーションにおける表現
の精度を、革新の都度上げてきたのである。その
のリアリティの実現のために使われる。
ような映像技術がもたらす「リアリティ(現実性)」
(1)の過去の今はないあるいは変化している歴
とは何か、また、アニメーションを含む映画や実
史的建造物や都市等の再現は、既に論者による研
験映像の表現におけるリアリティを追求する手法
究で示されたように、『スパイ・ゾルゲ』(2003)
と作品におけるその意味について明らかにするこ
の 1930 年代における上海や東京、『ブラザーフッ
とが本研究の目的である。
ド』(2004)の朝鮮戦争当時のソウルや平壌、あ
るいは最近ではテレビドラマではあるが、NHK
1.
の『坂の上の雲』
(第 3 部、2011)における日本海
映像技術の歴史は、飽くなき「現実そっくりな
海戦等の再現映像は、従来は大掛かりなオープン
もの」の追求の歴史であり、映画はその後、音
セットやスタジオでのセット、ミニチュア撮影に
を、色を獲得し、それらの精度を上げ、音の立体
よって実現されたが、リアリティの問題、撮影の
性、人間の視野を超えるスクリーンの大型化を実
従って表現の自由度の制約等の点で、それらとは
現し、今日では三次元の 3D 映像を獲得した。映
比較にならないほどである。上に挙げた映像の例
像の技術革新は、オルテガが「機械がなしうるこ
は、ほとんど実写と思える程の精度によるリアリ
とは、原理的に無限定である」(『技術とは何か』
ティの高さを実現している。
1939)というように、さらに、映像という「虚像」
(2)
の場合は、
『ローレライ』
(2005)のような魚
によって「実質的な現実(virtual reality)」を創
雷発射や爆雷投下の水中戦闘シーンや『キング・
ろうとしている。特に、90 年代以降のデジタル
コング(2005)におけるニューヨークでの空撮
技術の急速な発展は、コンピュータ・グラフィッ
シーン、
『クリフハンガー』
(1993)の山岳シーン
クス(以下 CG)による表現のリアリティ(現実
等、
CG やデジタル合成によってそのリアリティは、
性)を格段に向上させ、従来のアナログ技術にお
それ以前の撮影手法に比べて飛躍的に高められて
ける「合成」のリアリティとは比較にならない程
いる。
の精度を達成している。
(3)SF 映画は、ジョルジュ・メリエスの『月世
最近のアニメーションをはじめ実写映画におい
界旅行』(1903)以来、まさしく空想科学映画と
て、デジタル合成や CG による表現が応用されな
して時の科学的知見を基に様々なセットの工夫や
54
合成技術によって「本物らしさ」が目指され、
『2001
による視覚的な形象のリアリティのみならず、ア
年宇宙の旅』(1968)のようなアナログ時代の特
ニメーションの本質としての動きのリアリティを
撮技術を駆使した高い現実性を実現した作品が制
も、「モーション・キャプチャー」や「フェイシャ
作された。しかし、『スター・ウォーズ』シリー
ル・キャプチャー」等のデジタル技術によって実
ズの『エピソード 1』
(1999)
『エピソード 2』
(2002)
現し、ひいては 3D 映像による実質的な(virtual)
『エピソード 3』
(2005)や最近の『アバター』
(2009)
に代表されるように、進歩した CG やデジタル技
術は、完全な CG による想像上の生物と実際の人
空間のリアリティさえも獲得しつつある。
2.
映像表現における「リアリティ」の問題は、古
間を含む実写映像の破綻のない融合を可能にし、
くて新しい問題である。映画・映像に限らず、小
そのリアリティの精度の飛躍的な高さと特殊効果
説をはじめとして芸術の他の分野でもしばしば問
による映像のダイナミズムを実現している。そし
題にされるが、その意味は極めてあいまいである。
て、そこに見られる映像の視点は、新たな「視覚
古くは、リュミエール兄弟によって、1895 年 12
の形式」すなわち世界を見る見方をも提示してい
月 28 日、パリのグランカフェで上映された「シ
るといえよう。それは丁度 19 世紀に写真技術が
ネマトグラフ」の『ラ・シオタ駅への列車の到
ルネサンス以来の線遠近法的視覚の形式を破壊し
着』を見た観客は、驚きのあまり腰を浮かせたと
たように、再び映像の技術革新が視覚の革新を行
いうエピソードがある。そこでの映像の「リアリ
おうとしているのである。
ティ」とは何を意味するのであろうか。現実の列
(4)アニメーション映像は、写真的な撮影では
車と思ったのであろうか。
なく、描かれた絵を動かすことから始まるのであ
映像の本質は基本的にはクラカウアーがいうよ
り、その意味では人物や物の形や風景の映像的な
うに「物的現実」を写し撮ることである(Theory
リアリティは最初から期待されていない。むしろ
of Film, 1960)。従って、先ずそこに「リアリティ」
絵が動くことによる素朴な面白さや、カメラ映像
が生まれる。そこからストーリーの「リアリティ」
に必然的に伴う物理的制約に煩わされることのな
が生まれるのであるから、後者のリアリティを実
い自由な表現によるファンタジーにアニメーション
現するためには前者のリアリティを高めることが
の本質がある。しかし、今日の映像技術の革新は、
前提となる。映像の技術革新の歴史はその飽くな
人物や物や風景、あるいは自然現象等の表現に現
き追求の歴史であるといえよう。そして、その飽
実と見まがう程のリアリティの高さを可能にして
くなき追求の背後にあるものが人間の現実所有の
いる。CG の技術は、人工的な物体の表現はその
欲求であろう。一時もその姿を留めることのない
当初から比較的に得意としてきたが、有機体、特
現実を手元に持っておきたいというその欲望は、
に人間の表現、あるいは波や風、雪や雨等の自然
今日の映像技術の成果によってほぼ満たされつつ
の表現は技術的に困難であった。それが技術の進
あるのではないか。今日の「リアリティ」の問題
歩により、実写とほとんど区別がつかないような
は、その映像技術が、素朴に「物的現実」を写し
現実性を獲得するようになる。そのような現実性
撮ることの「リアリティ」から、非現実的な「嘘
に対する技術的許容度の拡大は、元々カメラ映像
の現実」、「創造された現実」の「リアリティ」へ
に伴う制約から解放されているアニメーションの
の欲求へとその軸を移し、そこから様々な検討す
表現では、増々自由な想像的あるいは空想的な世
べき問題が新たに生まれている。オルテガの先の
界や物、キャラクターが創造されることになる。
言葉は、1939 年であるが、このような飽くなき
それは、ゲームソフトの映像に象徴されるように
技術革新を予測しているかのようである。
限りなく現実性を高めようとする「撮られた」も
のではなく、「作られた」映像を可能にする。CG
55
演奏特性を考慮した楽器分類法に関する基礎的研究
志 村 哲
教 授
音楽学科
平成 23 年度
はじめに
こんにち、日本の大学では、日本音楽を学べ
1.研究の目的
本研究の大前提は、日本楽器の中で、外国人研
なくなりつつある。20 世紀において、私たちは、
究者、プロフェッショナル演奏家の最も多いであ
欧米の文化に憧れ、いわゆるクラシック音楽、ポ
ろう尺八において、(1)江戸期以降の尺八を取り
ピュラー音楽、ジャズなどのコンサートに通って、
巻く音楽や楽器製作技術の歴史的変遷と、(2)現
あるいはレコードを購入して、それが最高の音楽
代に並存する外観は同じでも使用する人々と音楽
だと思っていた。そして、音楽系の大学のほとん
の世界観が異なる 2 種の楽器「地無し尺八と地塗
どは、西洋音楽を学ぶ機関として、演奏家、教育
り尺八」個々の特徴を、音楽と楽器の相互作用と
者を養成し、それらの音楽種目を世界レベルに高
いう視点から考察するところにある。
めてきた。さらに、20 世紀のマスメディアも音
また、楽器学における楽器分類法に「楽器の演
楽産業もほとんど、それらの音楽のために番組や
奏特性の評価」という新しい視点を導入するため
レコードを制作、宣伝してきたので、たとえば、
の基礎的研究でもある。こんにち、尺八演奏の自
日本の伝統音楽の担い手やファンは、ほんの少し
由度の高さは、世界的に高い評価を得るようにな
の時間、空間しか得ることができなかった。
り、国内外において幅広い音楽種目に用いられて
一方、本研究の対象である尺八音楽は、こんに
いる。そこで、楽器製作者と演奏者はそれぞれの
ち欧米における人気は高まりをみせており、多く
立場から楽器の構造・材質・製作方法、あるいは
の演奏家、愛好家が世界各地で日本音楽を学んで
トレーニング方法を再構築し、作曲家や聴衆の新
いる。また、尺八をテーマにした博士学位取得者
しい要求に応えてきた。また、楽器製作者や演奏
は海外の大学の方が多い。そこで、20 世紀に我
家自身も過去には予測のつかなかった音・演奏表
が国が培った西洋音楽の学びの形態と同様に、彼
現を提示してきた。
らは欧米での日本音楽の学びの場を形成してくれ
本研究は、これらの変遷と諸特性を明らかにす
る可能性もあり得る。また、その現象は日本にお
るために、歴史的録音録画資料、楽器構造資料を
ける日本音楽の再評価のきっかけとなり、日本音
収集するとともに、文献資料と照らし合わせて諸
楽を学び直したいという意識を高めるよいチャン
要素を抽出し、研究の基礎資料としてのアーカイ
スであるとも考えられる。ようするに、これまで
ブを作成することを目的とする。
我が国では、一般の人々が、魅力的な日本音楽に
接する機会が少なかったのだから、学びの場が失
われつつあるのは、人気があるとか無いとかいう
2.研究経過の概要
本研究は、下記の手順で実施した。
以前の問題であったと考えるのである。
2.1.
56
日本伝統楽器として最も国際化が顕著であ
る尺八を例に、現在までに各国でどのような
検討した。また、Ⅹ線透視図をデジタル化し
音楽種目に適用されてきたかを調査した。そ
て観察するためのシステムを構築し、様々に
の結果をもとに、本研究においては、個々の
視点を変えて多角的に表示できるようになっ
演奏家が使用する楽器の構造、特徴を記録し、
た。さらに、現在の様々な情報環境で学生や
音楽との関連を検証する必要がある。
一般が閲覧するための仕組みを構築するた
ところで、こんにち、新進気鋭の若手演奏
め、非力なパソコンや携帯端末から発展し
家は、ポピュラー音楽を最も多く聞いて育っ
た iOS、android でもストレス無く学習でき
た世代であり、音感、リズム感は日本伝統音
るコンテンツのフォーマットを検討し、その
楽の様式よりも、西洋音楽の様式をより自然
データのアーカイブ化とインターネットや出
に感じ、身に着けているのではないかと推測
版物による公開の準備を進めた。
できる。現在の彼らの活動中心になっている
音楽種目が、それを如実に表している。そこ
で、報告者が主催する「地無し尺八研究会」
おわりに
西洋楽器の世界では、ピリオド楽器の研究や演
において、彼らの使用する楽器の特徴につい
奏の価値がすでに評価され、一般の理解が進んで
て確認するとともに、博物館楽器を試奏して
いる。今後は、日本楽器においてもこの領域の追
もらい、意見を聴取した。
究が促進されれば、同様に評価されるようになる
と報告者は確信している。たとえば、尺八音楽は
2.2.
フィールドワークにより、楽器製作者、演
それをとりまく社会、政治、演奏の場などの影響
奏家、楽器収集家への調査を通して、彼らが
により、多様な様式へと拡散してきた。そこで、も
求める楽器の諸特性を調査した。
はや 1 種類の楽器では、様々に異なった個々の音
こんにちの尺八製作者のうち、20 歳代か
楽様式の音楽や奏法を十分に表現することができ
ら 40 歳代の若手職人が製作する楽器の傾向
なくなっているように感じられる。そこで、たとえ
を探るとともに、50 歳代、60 歳代および、
ば、日本の三味線が、音楽種目ごとに様々に、楽器、
それ以上のベテラン製作者との違いをフィー
奏法、音色とも異なった方向へ発展してきたよう
ルドワークやインタビューの結果から検討し
に、尺八も音楽との相互の関係を密接に保って分
たところ、若手の製作者に古楽器の形態であ
化させたほうが、個々の伝統音楽を極める楽器と
る「地無し尺八」に興味を持ち、製作を手が
してさらに発展していくのではないだろうか。
今後、
けている者が多いことが分かった。このこと
このことについて、より多くの尺八家、聴衆、そし
は、20 世紀の西洋音楽的演奏様式に適した
て各分野の研究者諸氏と議論していきたい。また、
楽器構造を必死に模索してきたベテランの世
そのためには、ピリオド楽器としての各時代の典
代に対し、もう一度、西洋楽器には無い日本
型的特徴を有する楽器の調査、保存、分析と資料
楽器の独自性に、若手が目を向け始めたこと
化をすすめていかなければならないと考えている。
によるのではないかと考えられる。
引用・参考文献
2.3.
収集資料のデジタル化の作業、およびその
志村哲 2002『古管尺八の楽器学』出版芸術社。
アーカイブ作成の作業を行ない、資料の教育・
志村哲 2011「地無し尺八と地塗り尺八−現行の
研究への幅広い応用と公開の可能性を探った。
2 つの精神世界を理解するために」(招待講演)
今回は、著名楽器コレクションや博物館
日本音響学会全国大会スペシャルセッション音楽
楽器を借用し、Ⅹ線透視図を作成して、個々
音響[音楽と楽器の相互作用Ⅱ]講演論文集(早
の特徴を観察するとともに、その復元方法を
稲田大学)2011 年 3 月 9 日。
57
iPhone / iPad で合奏する楽器アプリケーションの開発
市 川 衛
准教授
音楽学科
平成 23 年度
1.研究目的
進化と普及が爆発的に進行している iPhone/
響を発生させるシンセサイザーの iPhone ア
プリ「Noise Synth Lite」
iPad は、平成 23 年度現在 25 万本以上のアプリ
③デジタルサウンドファイルを読み込んで
ケーションがインターネット経由で世界中に配信
パッドへのタッチでピッチや音量を変えて
されるようになり、パソコンやゲーム機器とは異
演奏できるサンプラーの iPad アプリ「iPad
なるマルチメディア・アプリケーションの新たな
Sampler」
プラットフォームへと成長した。そこに注目して、
複数の iPhone/iPad で即興演奏で合奏ができる
また、iPhone/iPad の音楽アプリケーション
ことを特徴とした iPhone/iPad の音楽アプリの
を複数台で同時に動作させた場合に、音質を損な
新たな可能性を追求しようと考え、独自の音楽ア
わずに自由な形態の演奏ができるように、音声出
プリを開発し、完成したアプリのネット配信も目
力を bluetooth によるワイヤレス通信で送信する
指した。
環境を整備して検証を行った。なお、iPhone は
携帯電話であり研究のために購入することが困難
2.研究内容
であるため、携帯電話機能だけが無い同等の機能
2 − 1.研究の全体像
を有する iPod Touch を代用として使用した。
Apple が 提 供 す る iPhone SDK を 使 用 し て
Objective - C によるプログラミングを行い、即興
2 − 2.音声のワイヤレス通信の環境整備
演奏で合奏が可能な楽器アプリケーションとして
iPhone/iPad の音声を bluetooth でワイヤレス
タイプの異なる以下の 3 種類の iPhone/iPad の
で受信して音声のライン出力を得るための最も一
音楽アプリを独自開発して検証を行った。
般的な機器として bluetooth レシーバーがあげら
れるが、市販の bluetooth レシーバーはほとんど
①マーチング・スネアをシミュレーションして
が USB 端子から充電して使用するタイプで、充
マーチングのリズムの即興演奏を可能にする
電中は音声の受信ができず、長時間の連続使用が
iPhone アプリ「Marching Snare」
できないという欠点があることが判明した。こう
②高速フーリエ変換の手法でノイズから電子音
58
した欠点が無い bluetooth 機器がないか探したと
ころ、『Creative T12 Wireless』という bluetooth
また、このアプリの電子音響だけを音源とし
スピーカーが外部電源が常に供給され、ラインア
た電子音響音楽作品『Requiem 2011 by White
ウトも装備され、比較的安価な機種を見つけるこ
Noise』を上原和夫氏が作曲し、大阪芸術大学で
とができた。これらを 4 台購入して同時に動作さ
行われた Audio Art Circus 2011 で初演されると
せ、4 台の iPhone/iPad のワイヤレス音声が 4
いう成果もあった。
台同時にスピーカーのライン出力から安定して得
られることを確認した。
2 − 5.iPad ア プ リ ケ ー シ ョ ン「Pad
Sampler」の開発
2 − 3.iPhone アプリ「Marching Snare」
の開発
デジタルサウンドファイルを読み込んでピッ
チ や 音 量 を 変 え て 演 奏 す る iPad ア プ リ「Pad
平成 22 年度から開発を始めていたマーチング・
Sampler」の開発を行った。iPad に適したサンプ
スネアのリズムの即興演奏をできる iPhone アプ
ル音の演奏方法として、コルグのカオスパッドや
リ「Marching Snare」が完成し、Apple の App
カオシレーターなどからヒントを得て正方形の
Store のインターネット販売も行った。
パッドをなぞるインターフェイスを採用した。最
このタイプのアプリは基本的に一人で即興演奏
初にひとつのパッドで演奏する方法で試作した
が楽しめる仕様となっているが、複数人で同時に
が、一人で演奏する場合に音楽学的な魅力がある
演奏すれば一人の場合とは一味違う楽しみ方がで
ようにするため 2 つのパッドで違うサウンドを同
きる。現在は楽器の種類がマーチング・スネアの
時に鳴らせる仕様に変更し、良好な結果を得た。
一種類であるが、将来的にはマルチ・タムやバス・
ドラムなど加えたマーチング・バンドのアプリへ
の発展を考えている。
3.結果と展望
本年度の研究で 3 種類の異なったタイプの即興
演奏で合奏が可能な iPhone/iPad の音楽アプリ
2 − 4.iPhone アプリ「Noise Synth Lite」
の開発
ホワイトノイズやピンクノイズを音源として、
を開発して、それぞれの特徴を把握することが
できた。今後は各タイプのアプリケーションの
更なる改良とバリエーションを充実させ、イン
これを高速フーリエ変換して周波数領域でのフィ
ターネットでのアプリの公開・販売も増やして
ルタリングを動的に行うことで、特徴的な電子
いきたい。
音響を発生するシンセサイザーの iPhone アプリ
「Noise Synth Lite」を開発した。
このアプリを使用することで従来ではリアルタ
イムの演奏が困難であったノイズを音源とした音
楽が直感的に即興演奏でき、複数台で同時に簡単
に楽しむこともできるようになった。
59
日本における森林性鱗翅類の研究 ― その 3
駒 井 古 実
教 授
初等芸術教育学科
平成 23 年度
日本は降水量および気温などの条件から,森林
年計画の 3 年目にあたる.
が成立する環境にある.日本の森林率は現在でも
約 70%でその意味で日本は森林国と呼べる.日
本に生息する昆虫を含む動物の多くが森林の環境
1 .研究結果
1 )オオナミモンマダラハマキ Charitographa
に適応している.しかしながら,日本の森林の質
mikadonis(ハマキガ科マダラハマキガ亜科)
は大きく変貌を遂げている.すなわち,昭和 30
およびその近縁種の研究
年台の全国一斉造林で多くの天然林が伐採され,
オオナミモンマダラハマキCharitographa mikadonis
スギ・ヒノキが植林された.さらに近年の開発で
はマダラハマキガ亜科のカザリマダラハマキガ族
自然林が減少している.このような理由で日本古
に属する.カザリハマキガ族は世界から 7 属 65
来の昆虫相は開発により,大きな影響を受けてい
種が知られている比較的小さな群で(駒井ほか,
る.申請者は過去 30 年間,鱗翅類(チョウ類と
2011),その寄主植物や幼虫の生態についての知
蛾類),特に小型鱗翅類の系統分類学的研究に従
見は多くない.申請者は本種の幼虫がホオノキお
事してきた.また,動物生態学の研究者や害虫研
よびキタコブシ(モクレン科)の果実に穿孔する
究者から各種樹木を摂食する多くの種の同定を依
ことを明らかにし,成虫,幼虫,蛹を形態および,
頼されてきた.これらのほとんどが森林性である.
幼虫の摂食習性について,詳細な記載とともに図
本研究の目的は存在が確認されているが,その生
示をおこなった(駒井ほか,2011).本年度の研
態・行動の調査が十分でない森林性鱗翅類につい
究で本種と酷似する近縁種がそれぞれシデコブシ
て,生態・行動および分類学的解析をおこなうこ
(モクレン科)とタムシバ(モクレン科)に依存
とである.この研究を通して,多くの森林に適応
していることが判明した.これらの種の標本を得
した鱗翅類の種の生態・行動が写真ともに記録さ
るのと分布を調べるために,5 月に北海道美唄(モ
れる.さらにいくつかの種は新種の存在の可能性
クレンおよびキタコブシ),10 月に青森県八甲田
があり,新名が登録され,分類学的再検討を通し
山および白神山(ホオノキおよびタムシバ),11
て日本の鱗翅類相研究の一助になるものと期待さ
月に岐阜県土岐市(シデコブシ)で調査をおこなっ
れる.また,これらの成果は生物多様性保全の観
た.現在これらの標本は現在成熟幼虫の段階で飼
点からも意義があると考えられる.本研究は 3 カ
育中であるが,一部が飼育環境下で羽化した.こ
60
れら 3 種について詳しい形態学的な研究(成虫の
なった.これら 2 種は現在まで,高原山では見つ
頭部,触角,翅脈,内部形態,幼虫および蛹)を
かっていない.
おこなった.種の区別点として,成虫の斑紋,♂
3 )乗鞍岳の高山性鱗翅類の生態に関する研究
genitalia の uncus および aedeagus の形状,♀
2011 年 8 月 4 日〜 6 日の 3 日間,標高 2000 〜
genitalia の ostium の形状が重要であることが分
2700m(森林限界〜草地)地点で鱗翅類の調査
かった.
をおこなった.昼間,飛翔する鱗翅類の採集お
2 )栃木県高原山のブナ・イヌブナ種子および
よび生態の観察,夜間にライトトラップによる
青森県八甲田山のブナ種子に穿孔る鱗翅類
採集を実施した.ハマキガ類はこれまで訪花性
幼虫の研究
についての記録はほとんどなかったが,Clepsis
2009 年から宇都宮大学森林科学研究室と逢沢
monticolana タカネハイイロハマキが,ハクサンボウ
峰昭助教の共同で,栃木県高原山で採集されたブ
フウ Peucedanum multivittatum(セリ科)とミヤマ
ナ種子を食べる鱗翅目の調査をおこなっている
アキノキリンソウ Solidago virgaurea ssp.leiocarpa
が,本年度から新たに弘前大学農学生命学科生物
(キク科)に訪花するのを観察した.
学科石田清准教授と共同で青森県八甲田山でも同
様な調査を開始した.本年度申請者は現地調査を
2 .研究成果
おこなわず,5 月・10 月に採集したブナ・イヌブ
モクレンのオオナミマダラハマキ類
(Charitographa
ナ種子に穿孔する鱗翅類幼虫の液漬標本に基づき
spp. は形態および遺伝子に基づき,系統を解析中
研究をおこなった.その結果,以下のことが明ら
で,論文にまとめつつある.乗鞍岳の鱗翅類につ
かになった.高原山で明らかになっているブナに
いては,「2010 年 7 月中旬および 2011 年 8 月上
寄生する 8 種(ハマキガ科ヒメハマキガ亜科 4
旬における乗鞍岳の鱗翅目昆虫と個体数調査」
(共
種,キバガ科 2 種,シンクイガ科 2 種),イヌブ
著)のタイトルで論文にまとめ現在投稿中である.
ナにきせいする 9 種(ハマキガ科ヒメハマキガ亜
科 5 種,キバガ科 3 種,シンクイガ科 1 種)の小
型鱗翅類のうち,種名が判明しているのは,ブナ
ヒメシンクイだけであるが,本年度はキバガ 1 種
およびハマキガ科の 1 種がそれぞれ,ブナキバガ
Stenolechia sp.(キバガ科),シロアシヨツメモン
ヒメハマキ Cydia japonensis (ハマキガ科)であ
ることが判明した.一方八甲田山では,ブナヒメ
シンクイは共通であるが,優占種はメムシガ科の
一種とナナスジナミシャク Venusia phasma(シャ
クガ科ナミシャク亜科)であることが明らかに
61
電子教科書(DAISY 形式)を用いた読み指導の教育的効果
についての探索的研究
田中 裕美子
教 授
初等芸術教育学科
平成 23 年度
【はじめに】
開発に期待が高まっている。
読みに困難を持つ子どもはさまざまである。中
本稿では、DAISY 形式の教科書を単なる補助
には、学習障害、ディスレキシアなどと診断され
的・代替え的な役割を超えたものとして用い、読
ている子どももいれば、診断はされていないが、
みスキルの向上を促しつつ、子どもが本来の読み
自分では本を読むことができない、読むことが苦
の目的である「読んで意味が分かる」と実感でき、
手で取り組もうとしない子ども、さらに、PDD
自ら読もうとする姿勢を育てる指導法 TSRI(Top-
や ADHD 傾向などの行動面の問題に加えて読み
down Structured Reading Intervention)の開発
に困難がある場合など、特別な支援が必要な子ど
を目指し探索的研究を行ったので報告する。
もは少なくない。読み困難を持つ子どもの指導に
は、音韻意識指導、キーワードを用いた文字と
【方法】
音の連合指導、音読指導、語彙指導などがある
1 . 対象児:N 県 N 市内 3 校の小学校の担任・
が、単一の指導法だけではなく、複数を併用し
保護者が「読みに問題がある」とした子ども 15
た方が効果は高いと英語圏では報告されており
名 を 精 査 の 上、3 年 5 名、4 年 3 名、5 年 4 名 の
(Snowling & Hulme, 2008)、音読と語彙や内容理
解の指導を組み合わせる方法がより適切と言われ
ている。
近年、書籍の電子化が著しい速度で進んでおり、
計 12 名(男 11 名、女 1 名)を対象とした。
2 − 1 . TSRI 指導法とは、子どもとの相互的
(interactive)なやりとりを通じ、まず書かれて
いる内容について概要を掴み、次に個々の言葉や
読み困難児の指導への適用についても検討が始
熟語の意味を理解するという Top - down の流れ
まっている。しかし、読みに問題があるものにとっ
に沿う。音読スキルは大人の音読を聴く、復唱す
ては、単に図書を電子化するだけでは紙の書籍と
ることにより促進し、内容理解を深め、語彙を拡
同じで、何の助けにもならない。DAISY(Digital
大するために、推測する、Mapping(図式化する)、
Accessible Information System)形式で電子化さ
要約する、説明するなどの活動を行い、自立的な
れた図書は、ことばや文が順次音声化されると同
読みの姿勢を確立するために、自分の読み、内容
時にその箇所がハイライトされ、聴覚的情報と視
の理解度、知識などについてのセルフモニターの
覚的情報が統合された形で提示される。そのため、
スキル(UDL:Universal Design for Learning,
補助的・代替え的な役割を果たすために読めるよ
Rose & Gravel, 2010)の向上を図る(田中・入山、
うになると考えられている。また、近年の法改正
2010)。
により、教科書が DAISY 形式で電子化できるよ
2 − 2 . 実施方法:各学年の国語教科書にある
うになった。そのため、読みや学習に躓いた子ど
説明文を用いた。授業が始まる 1 週間前から、原
もへの DAISY 教科書を用いた具体的な指導法の
則毎日 15 〜 20 分間 12 回(約 2.5 〜 3.5 週間)、
62
TSRI 指導を計画された手順に従って TA が実施
楽になること、概要を口頭で要約するため、読ん
した。
でいる内容が音読と同時に分かるようになってき
3 . 効果の測定・分析:指導期間の前後で、指
たことなどを実感するようになり、S 自身が指導
導単元の特定個所およびプリントの音読、内容に
を楽しみにするようになった。また、周囲が気付
ついての発問を行って子どもの読みの変化を測定
くほど、指導した単元や、あるいは指導していな
した。また、指導期間終丁後、①読みに対するモ
いプリントの音読が流暢になった。実際、音読速
チベーション、②音読スキル、③読解の 3 つにつ
度が 682 秒から 162 秒と 5 分の一になり、健常平
いて、①クラス担任、② TA、③子どもの自身、
均(103.9 秒)に近づくとともに、読み誤り数が
④家族の評価を調べるアンケートやインタビュー
10 語から 1 語に減る(健常平均 2.8 語)という良
を行った。
い変化が認められた。さらに、音読しながら意味
が分からないと、自分で読み直すようになったと
【結果】
指導効果についての担任からの評価は高く、全
員が「積極的に発言するようになった」
「取り組
いう。担任によると、国語以外の教科書も自分で
読もうとするようになったり、授業中読み難いと
きには担任にたずねるようになったという。
みが積極的になった」等、肯定的であった。4 年
男児(dyslexia)の担任からは「国語だけでなく、
【考察】
今まで出さなかった課題の提出、わからない問題
DAISY 教科書を用いた TSRI 指導により、小
を聞きにくるなど変化が目覚ましい」との報告が
5 の事例 S(言語学習障害)はわずか 2 週間程度
あった。また、3 年女児(dyslexia)は、個別学習
で音読および内容理解の両面で顕著な伸びが認め
の後、他の単元にも自らふりがなをふる、読めな
られ、さらにそのスキルを自主的に他の教科に汎
い単語に印をつける等の変化がみられたという。
用しようとする姿勢も認められた。従って、本研
今回、対象児全員の音読スキル変化については
究で構築した TSRI 指導法のプログラム内容が適
分析が未完了で、数量的な結果報告ができないた
切であり、小 5 になっていても劇的な伸びが期待
め、言語学習障害( 5 年生)事例 S について質的
できると言える。ただ、事例 S の聴き取り理解
な結果を報告する。
の良さ、読めないことについての困り感、自分で
事例 S は、低学年から読みが不正確で助詞な
PC を扱い指導プログラムを実施しようという自
どの読み誤りが多かった。週 3 時間ことばの教
立感などが指導効果を増幅させた点は、事例 S 固
室に通い、漢字、音読、読解の指導を受けていた
有のものであろう。そのため、他の対象児につい
が、5 年生になるとますます漢字の読みが難しく
ても効果分析を急ぎ、効果の有無を確認しつつ、
なり、読みたくないという抵抗感が高まった。そ
効果があまり認められなかった対象児について、
して、自分では読めないとの強い苦手意識を持
その原因を明らかにしていく予定である。そして、
ち、自尊感情が低下し、学習意欲や根気の喪失が
TSRI 指導のさらなる構築に向けて、対象児を増
認められるようになった。知能検査(WISC−Ⅲ)
やす、国語以外の教科も用いる、市販されている
では、FIQ85,VIQ82,PIQ92 で知的な低さは認
デジタル教科書で実施するなどの研究に取り組む
められないが、言語の弱さが認められた。また、
必要があると考える。
学力標準検査 SS( 4 年時)では国語 27、算数 20
と、S の潜在能力が教科学習に反映されていな
かった。そこで、事前・事後評価を加えて 2.5 週
間、TSRI 指導プログラムを個別で実施した。指
導開始後 3 日目頃から、復唱をおこなうと音読が
63
初等芸術教育学科における
「初等教育論」
の展開について
(Ⅱ)
― 幼稚園と小学校の指導上における「幼小連携」の実践とその課題 ―
西林 幸三郎
教 授
初等芸術教育学科
平成 23 年度
1 .初等芸術教育学科の学生の成長
だ結果だと評価している。
)
大阪芸術大学に初等芸術教育学科が新設されて
また、本年度(23 年度)にかかえた大きな課
2 年が経過した。芸術の領域をベースにした初等
題は、3 月 11 日に起きた「東日本大震災」とそ
教育を展開するという新しい試みは、学生たちの
れに続く「福島第一原子力発電所崩壊」である。
日常的な取り組みの中にも表れている。
大学祭における「ミュージカル」の取り組みも、
初等芸術教育学科の学科会議でも、それへの支
援が話し合われ、初等芸術教育学科の 2 回生を中
22 年度(初等芸術教育学科創設 1 年目)は、大
心に支援活動が展開され、学科教官の用意したプ
学祭実行委員会の企画する「ファッションショー」
ログラムだけではなく、自発的に「その後の活動」
に参加したが、単なる「ショー」だけではなく、
を展開し、福島県いわき市を訪問したことなど、
踊りを加えたり、筋書きを追おうとしていたりし
学生たちの成長を感じている。
たことも、決して身びいきではない、新しい潮流
2 .小学校・幼稚園の教育を身近に感じて
の誕生を感じさせるものであった。
23 年度は、創設 2 年目ということもあって、初
さてこうした学生たちの自発的な取り組みと、
本学科の位置づけである「小学校課程」と「幼稚
等芸術教育学科の 1 、2 回生が合同して「ミュージ
園課程」という幼小の連続した教育の在り方は、
カル」の筋書きで、独自の取り組みを誕生させた
将来の素晴らしい教師を育てる取り組みと矛盾す
ものである。この学科の位置づけである「芸術を
るものではなく、相互に関連したものとの位置づ
主体とした教育活動」の展開に合致してきたと、
けをしている。
十分な満足の目で学生たちの成長を喜ぶところで
本学学生たちが、教員免許取得に関連して、具
ある。学生たちに、
「君たちは、大学生になったの
体的に幼稚園や小学校の現場との連携を模索し、
だから、全てに渡って、自主的・自治的活動をし
1 回生の時から、個別の学校や幼稚園への「ボ
よう」と呼びかけ、育ててきた成果であると位置
ランティア」として「インターンシップ」受け
づけをしている。
(初年度は、学生たちの希望で
入れをお願いしてきたところであるが、平成 24
あった「学科合宿」を成功させたが、渡邉学科長
年度春、いよいよ 3 回生になって、「子どもふれ
の「教官からやってもらうのではなく、あなた方
あい体験」として、教育課程に位置づけられる
で準備し、実行するように」との指導が実を結ん
ようになった。
64
本研究では、こうした大阪芸術大学初等芸術教
つながり、子どもたちが楽しく安心して学校生活
育学科の動きに呼応して、幼稚園から小学校への
を送ることができることをめざして、様々な取り
「つなぎ」を円滑に行うことにより、学生たちに
組みを行っていることなどの説明」がなされ、保
も様々な体験をさせることが可能であり、ひいて
護者の心配は解消されたようである。小学校へ進
は、指導内容についても「幼小連携」を模索する
学させようとしている5歳児の保護者にとって
ことにより、「初等教育学」の深化充実が図られ
は、大きな安心であった。
るものと考える。
3 .研究の実際
そこで、研究担当者として、昨年度(平成 22
研究担当者は、2 学期末に地域の識者交えた「A
幼稚園協議会」において、「開かれた園、信頼さ
れる園になっている」と評価した。
年度)の研究内容である「初等芸術教育学科にお
A幼稚園とA小学校では、行事をお互いに参観
ける『初等教育論』の展開について」の成果をふ
したり、見直した防災計画・教育課程・学校関係
まえ、平成 23 年度には、実際に「幼小連携」の
者評価のまとめなどを提示しあったりして、共通
実践園・実践校における研究推進に寄与してきた
の課題についての認識を共有することができた。
ものである。
幼小連携が日常的に実践できており、地域の信頼
具体的には、大阪市立 A 幼稚園の「幼稚園協
議会の委員」となり、
「大阪市立 A 小学校との『幼
小連携』を担う」活動に参加した。
も更に高いものとなっている。本年度の研究の大
きな成果として特筆される。
A 幼稚園では幼児の興味や欲求を生かしながら、
A幼稚園の 4 歳クラスは、バイリンガルの新入
遊びを中心に文字や数への興味・関心を高め、人
園児が全園児数の 3 分の 1 を占め、言葉や文化の
間関係づくりなど、様々なことを学んでいる。一
面でも進級児の保護者は不安に思われていた。
方、小学校では子どもたちは授業を通して各教科
ところが、2 学期の運動会や作品展をやり上げ
の内容を学ぶ。「聞く・話す」「読む・書く」や「考
るに従って、「いろんな子と触れ合うのはいいよ
える」といった活動が多くなる。こうした生活の
ね」という声を頂いた。これは、①担任(新任)
変化や新たな出会いに慣れることができるだろう
への援助体制作り(人材育成)が出来た②保護者
かと、入学を控えた幼児と保護者は期待と不安を
からよく見える園づくりが出来たと評価できる。
もっていたが、幼小連携の成果であると言えよう。
このことが、卒園時のほぼ 100%が進学する「A
小学校の教育課題」に密接に結びついているもの
と思われる。
4 .研究の成果と今後の課題
A幼稚園とA小学校では、年間にこれまでに
様々な行事においても交流を図ってきた。一連の
2 学期末に、A幼稚園長から講話「子どもの育
様々な行事を行うなかで、幼児・児童ともにそれ
ちと教育内容について」があった。登降園時の保
ぞれの立場での体験により実践力の高まりが期待
護者とのざっくばらんな会話の中で「幼児教育の
できると考えた。これらの成果をもとに、初等芸
大切さ」「子育ての楽しさ」を話した内容であっ
術教育学科で「幼小連携の在り方」を検討してゆ
たが、幼稚園教育から小学校教育へとなめらかに
きたいと考えている。
65
発達障がい者・児の人物画の類型化についての研究
― 定型発達者との比較から ―
渡 邉 純
教 授
初等芸術教育学科
平成 23 年度
1 .目的
筆者が接する PDD 事例は知的障害を伴うケー
筆者は、日常臨床場面で「人物画テスト』を数
スが大半ではあるが、高機能の人たちが、就労支
多くのケースに実施して来ているが、その中で、
援や福祉制度等の利用を目的に、療育手帳の交付
時折「裸体画」に遭遇する経験を積み重ねてきた。
を求めて来所するケースも増えており、IQ70 以
また、ここ 4 〜 5 年は、
「外輪郭のみの人物画』(横
上の高機能広汎性発達障害の人たちに接すること
田・渡邉 2007)をはじめ、広汎性発達障害(以下、
が多く、実際判定すると、時には IQ100 以上といっ
PDD と記す)と診断されたケースに特徴的に認
た場合もある。
められる人物画について、PDD の障害特性の観
そうした中で、年間約 250 〜 1000 件程度の人
点から解釈する試みを行い、その類型化(横田・
物画を見るうちに、PDD 圏の人物画にいくつか
渡邉 2008)にも取り組んできた。
の特徴的なパターンがあることを見出し、「広汎
そして、人物画テストとサリー・アン課題(成
性発達障害(PDD)に見られる人物画テストの描
人で知的水準が軽度〜ボーダー域の場合でも)の
画特徴について」の類型化を試み、暫定的に以下
実施が、PDD をスクリーニングする上で、その
のように分類した。すなわち、
機能・感度が非常に高く、臨床的に極めて有用な
ツールであることを明らかにしてきた(横田・渡
邉 2009a、2009b)。
また、
「外輪郭のみの人物画」においても、PDI(描
画後質問)の中で、裸体であると言及される場合
もしばしば認められた。すなわち、明確な裸体で
はないが、服の全く描かれない「外輪郭のみの人
【類型Ⅰ】形態水準や明細化度の高い、精緻な
描写の人物画
【類型Ⅱ】形態水準が低くバランスの悪い、稚
拙な描写の人物画
【類型Ⅲ】「外輪郭のみの人物画」に代表される
簡素化された人物画の 3 類型である。
1 .【類型Ⅰ】形態水準や明細化度の高い、精
緻な描写の人物画について
物画」において、手の指だけではなく、足の指も
5 本描くケースもかなり多く、PDI の中で「服は
Ⅰの描画特徴としては、①形態水準や明
着ていない。…裸です。」といったふうに答える
細化度が高く精緻な描写であるほかに、多
ケースも多くあった。
くのケースで②左右対称性が顕著③均一な
そういった事例は、重度・中度・軽度精神遅滞
筆圧と迷いのない運筆(時に一筆書き的)
、
を伴う場合から、ボーダーライン〜正常知能に至
といった傾向もしばしば認められ、さらに
るまで、様々な知的水準の PDD に認められたが、
④テスターをモデルに実写する、あるいは
これらのケースでは、二次障害的な不適応行動を
身近な実在の人物やキャラクターなどを描
示す事例も若干含まれるものの、統合失調症等の
く、といった場合もよく見られる等の傾向
精神病水準の疾病を合併しているケースは 1 例も
がある。
認められなかった。
66
2 .【類型Ⅱ】形態水準が低くバランスの悪い、
稚拙な描写の人物画について
一方で、類型Ⅱでは、①形態水準が低く、
3 .結果
結果として、強いて挙げれば、描画の技能が高
②顔は強調されて大きく措かれたり詳細
いため精密なキャラクターや自画像を描く例が数
に描かれたりするわりには、身体部分が未
例見られたこと。特に、短期大学生は幼稚園教諭・
熟で未分化なことが多いこと、③顔と身体
保育士資格を取得する学科生であったため、大半
のバランス以外にも、全体と身体部位の
が幼児児童の戯画化した描画であった。スティッ
バランスがうまく取れていないといった
クフィギュアが 1 例みられたのみであった。
傾向が認められる。
3 .【類型Ⅲ】「外輪郭のみの人物画」に代表さ
つまり、我々の分類した広汎性発達障害の 3 類
型に類似したといえる描画は、スティックフィギュ
れる簡素化された人物画について
アの 1 例のみであったと言える。精密な描画につ
類型Ⅲについては、描画特徴がかなり明
いても、類型 1 のような表情が乏しく、機械的に
白であるが、「外輪郭のみの人物画」に限
左右対称に描いたり、均等な筆圧のものはみられ
定するとその数は必ずしも多くはない。
「外
なかった。また、裸体画も 1 例もみられなかった。
輪郭のみに、顔だけが描かれた人物画」や、
更に、年齢に比して形態レベルが著しく劣る類型
「外輪郭だけの人物画に衣服を想定してい
2 に分類できるものは皆無であった。
ると考えうる境界線が多少描かれた人物
画」(衣服とはっきり同定できるものは除
4 .考察
く)などはかなり多く、さらには、スティッ
今回の研究において、定型発達の対象群の選択
ク・フィギュア(棒人間)も亜類型として【類
に問題があったのかを検討する必要に迫られた。
型Ⅲ】に含めている。また、この中に裸体
対象群を描画の不得意と感じている人や年齢層を
画も含まれる。
小学生、中学生年齢層に広げるといった対応で、
以上の研究を進めてきたとき、では、定型発達
同様の類型化が可能かを検討してみたい。
群ではどのような人物画を描くのかという点を比
しかし、今回の結果から考えると、精密と言っ
較検討する必要があると考えるにいたった。そこ
ても、定型発達者が描く精密さと、広汎性発達障
で、今回、定型発達群の学生の協力を得て、特徴
害者のこだわる精密さで、タッチや表情、対称性
を同様に類型化できるか否か、また、類型化する
といった点で大きな差異があることが指摘でき
とすればどのような割合で生じるのかについて検
た。「一見して自閉症の作品と分かる、どこかし
討を加えた。
ら無機質な細密画を描くものが少なくない」こと
(杉山;2002)などが、数々の先行研究や事例報
2 .対象と方法
対象は、大阪府下の 4 年制大学 1 年生 28 名と
告において指摘されているように質の違いが明ら
かであると言えた。
短期大学 2 年生の女子 30 名計 58 名である。(今
また、描き始める際に性別を明らかに意識して描
回男子学生は数名いたが、男女差が著しいため対
き始めていること。裸体画が全く見られなかった
象からは除外した。また、対象者については、主
ことは、広汎性発達障害者の教示理解と明らかに
旨を説明し、同意を得たうえで、授業時間を利用
異なり、広汎性発達障害者の字義どおりの理解で
して、「人の絵を描いてください」次に、「今描い
はない、コミュニケーションの成立がそこにはみ
た反対の性の人を描いてください」との教示で、
られ、この点についてのズレが、広汎性発達障害
全体におこなった。
者の日常の生きにくさの問題につながっているこ
方法として、上記に示した 3 類型に分類できるか
とが示唆できた。
を検討した。更に、広汎性発達障害者の描画との
差異について検討した。
67
シモーネ・ビアンコに関する基礎研究
石 井 元 章
教 授
教養課程
平成 23 年度
本補助費を戴いて遂行した本研究は年度早期に
もともとフィレンツェ共和国(後のフィレン
完成を見せ、「彫刻家シモーネ・ビアンコに関す
ツェ公国、トスカーナ大公国)出身であったシモー
る研究 研究動向と今後の問題点」として本学大
ネ・ビアンコがヴェネツィア共和国に至って自
学院紀要『藝術文化研究』第 16 号(2012 年 3 月
らヴェネトの彫刻家としての自覚を以て活動し、
出版予定)に掲載されることが決定した。その概
ティツィアーノ・ヴェチェッリオやピエトロ・ア
要は次の通りである。
レティーノ、マルカントニオ・ミキエルら同時代
16 世紀にヴェネツィア共和国で活躍したフィ
の名の知れた人々から高い評価を受けるに至った
レンツェ共和国出身のシモーネ・ビアンコ
(Simone
事実を、同時代資料に現れる彫刻家への言及から
Bianco チュッフェンナ・ローロ、生年不詳〜ヴェ
追跡した。この節ではこれらの言及に関連した先
ネツィア、1553 年以降)はアントニオ・ロンバ
行研究も紹介した。
ルドに連なる古典主義的作風を持つ彫刻家であ
次いで、ビアンコが急速に人々の記憶から忘れ
る。ギリシア語で署名をすることを習いとしたビ
去られ、350 年後の 1880 年オーストリアの美術商
アンコは、同時代の名のある作家からも賞賛され
へロン・デ・ヴィルフォッスが、ギリシア語の署
ており、彼が 16 世紀前半のヴェネツィアの文化
名 ΣΤΜΩΝ ΛΕΥΚ ΟΣ ΟΕΝΕΤΟΣΦ(シ
環境を理解するために不可欠の作家であることは
モーネ・ビアンコ、ヴェネツィア人)を持つパリ
論を俟たない。しかしながら、現存する確実な作
の 2 作品を発見したことから現在に至る研究史が
品が極端に少ないことに加え、他に作品が存在し
始まることを示した。20 世紀前半にイタリア・ル
たとしてもそれらが帝政ローマ期の肖像と非常に
ネサンス期の彫刻研究に大きな足跡を残したレオ・
近い様式を持つために、作品自体がルネサンス彫
プラニシッヒは、ビアンコに「古代の単なる盲従
刻ではなく古代彫刻として美術館の収蔵庫に眠っ
者と」いう烙印を押した張本人で、彼の研究以降
ている可能性が高いという帰属の問題から、その
ビアンコを否定的に捉える傾向が固定化したこと
研究が進んでいない作家の一人である。本稿は、
は否めない。そこに変化が現れるのは 1970 年代、
ビアンコの作品に関する同時代の文献資料および
ピーター・メラーやウルスラ・シュレーゲルらの
19 世紀以降の研究史を紐解き、現在の研究状況
検証によってである。後者は主に同時代絵画との
を明らかにすることを目指した。
関連でビアンコの作品を論じると共に、新たな帰
68
属可能作品を提示した。一方前者は、研究史をま
かしい古代文化の再生」を標榜したルネサンス美
とめる傍ら、様式的判断からビアンコの活動を
術の根本的な理解に欠くべからざる点であるが、
青銅作品にまで広げて解釈しようとした(これ
ポンポーニオ・ガウリコが 1504 年フィレンツェ
については疑義なしとしない)。
共和国のジュンティ社より刊行した『彫刻論(De
しかしながら、ビアンコの作品はその「古代性」
sculptura)』の研究と共に、今後の課題としたい。
故にいまだに考古学博物館に収蔵されている可能
性が残っている。古代美術研究者の立場から上述
の研究成果に反論が出るのは、この点で当然のこ
とであった。その代表例が『イタリア美術におけ
る古代の記憶』シリーズの中で、「イタリア美術
における古代の肖像彫刻の役割について」と題す
る論考を執筆したクラウス・フィトシェンである。
彼は 13・14 世紀の古銭に刻印された皇帝の肖像
が同時代の絵画や浮彫に影響を与えたとし、次い
で 15 世紀北イタリアにおけるこの動向の中心的
人物であるアンドレア・マンテーニャを、そして
彼を引き継ぐ作家として同時代に同じマントヴァ
で活躍した彫刻家アンティーコ(本名ピエール・
ヤコポ・アラーリ・ボナコルシ)および、シモーネ・
ビアンコを挙げる。その後フィトシェンは、メラー
によって緩く解釈され始めた作品帰属を正当に引
き締めたが、これによってビアンコに関する研究
は逆に滞ってしまったように見える。このように、
ビアンコの作品を同定することはいまだに容易な
課題ではない。そこで本稿が試みるカタログ・レ
ゾネは、今後のビアンコ研究の出発点として、現
時点で確実視される作品に限ることを目指した。
フィトシェンの指摘に基づけば、シモーネ・ビ
アンコは古代を模倣するだけでなく、凌駕しよう
とした作家であると考えることができる。ここで
重要なのは古代と「現代」
(すなわちルネサンス期)
を比較するルネサンス期のパラゴーネに関する議
論の一つ、新旧論争である。この点こそが、「輝
69
韓国国立博物館収蔵木家具翻訳並びに復元制作 ― 卓子
熊 野 淸 貴
教 授
教養課程
平成 23 年度
経費関係、制作過程について述べる前に、今回
塚本学院教育研究補助費の使用については、次
の主題である四方卓子について少し説明をしてお
のようである、謝金に関しては翻訳・資料整理
く。韓国李氏朝鮮朝時代の舎廊房家具の一つで、
として韓国ソウル市九老区新道林洞在住の 裵 この卓子は快適な比例とともに細い骨材と層板だ
仁實 女史にお願いし、この翻訳された資料が
けで組み立てられ、家具が占める広さの負担とな
私の主題となる家具復元制作に当然のことなが
らず狭い室内にも有用であり、よく合っている。
ら大きな役割を果たしている、また結果として
卓子は層板だけで組み立てられた開放的な形であ
李氏朝鮮朝家具の貴重な資料となっている。旅
り小物を載せておく機能とともに主に装飾のため
費に関しては、広島県に広島県立美術館に、次
の家具である。すなわち書物を積み重ねて置き、
に長崎県にユン・ホサン氏の以前務める韓国国
小型の水石盆または小品の陶磁器などを載せて装
立伝統文化学校の崔 公鎬教授の来日講演があ
飾としての用途もある。それゆえ器物を安全に載
り、その際ユン氏からの資料を持参、提供いた
せるとともに引き立てるように単純で安定感のあ
だけるという事で長崎に、また金沢には、昨年
る設計が必然的であった。一般的に四方卓子はこ
同様石川県立美術館・金沢市立中村記念美術館
のことを考えられた簡潔美が強調された格調の高
での展示の関連で訪れた、これら旅費費用と計
い家具である。簡潔な比例とともに全体が細い柱
上している。消耗費に関しては、制作に関する
と横木(セモク)などの骨材と組み立てその力学
物品の木材・漆・工作道具など上げられ計上する。
的な構築は韓国木家具の代表的な特性である。ま
通信費としては、多くは、韓国との資料の送付
た、四方を塞いだ他の家具に比べても視覚的に負
が主で、EMS の料金がこれである。
担がないので狭い所に置くにも都合が良く、卓子
制作にあたってはまず、今回は、大筋に翻訳作
の柱の骨材としては細くても丈夫であり、反るこ
業も進めていただき、その資料から制作にも早く
とのない香椿、梨、松を使い、板材としては自然
から取り掛かることが出来た。また、具体的制作
な墨の感じがする黒柿を対称に用いたり、桐、松
に関しては韓国において今回の四方卓子を得意と
が用いられた。このような形の卓子を一般的に四
する作家である木工芸作家であるユン・ホサン氏、
方卓子と呼び、其々の層を塞がず層板だけで作ら
またソウル市の木工所の指導協力により、原型に
れたものをいう。
より近いものの制作が可能となった。木工芸作家・
70
工房作家による資料から導き出された、具体的採
実な木工家具の復元が出来たことが大きな成果と
寸・木材種から木取り採寸の手解きを受け、それ
なった。
に従い木取りを行い、作業を進めていくことが出
来た。ユンさんからは、朝鮮松、木工所からは香
椿の材料の手配を受け、これら材において作業を
進めた。
舎廊房は学者達の学問と芸術の深い思索をする
ための空間であり、そのような中に於いて卓子は
簡潔な比例とともに全体が細い柱と横木(セモク)
などの骨材と組み立てその力学的な構築は韓国木
家具の代表的な特性である。美学としてのこの細
い柱でありながら構造を支えるかがこの卓子の魅
力でもあり、造作の難しい点でもある。先ずは、
木取りであるが反りのない柱材よりやや厚めの板
を用意し、木厚と同じ幅で必要柱材の本数と横木
となる本数分も合わせて木取りし、反りをとり柱
材の厚みに揃える。このようにして用意した柱材
と横木に対し、翻訳分の中にある資料を参照し、
柱・横木・層板の構築にかかるのであるが、天板
の横木と柱の合わせは斜め継ぎである。柱と横木
がつながる部分鏃を長くして背面まで出すネタジ
(マッヂャンプチョク)技法を用い丈夫に組むよ
うにした。しかし、この卓子の場合は骨材が細く
側面の斜め継ぎによってむしろ骨材を弱くなった
りもするため、門の縁取りは一般的な門の縁取り
の仕組みとは違え広い門の縁取りを削って直角に
会う角の内側を丸めておいた。足台は足台の裏面
から楔を打ち込んで抜けないようにした、そのこ
とにより、強度が保たれる工夫を知ることが出来
た。結果 2 点の四方卓子の家具の制作が出来た。
以上、翻訳がスムーズに行われこれら資料が大き
な資料となりうることに加え、今回韓国の木工芸
家の協力を得ることが出来たことにより、より忠
71
映画における「笑い」の研究
重 政 隆 文
教 授
教養課程
平成 23 年度
映画の長い歴史において、初期から一つのジャン
という事実が重要である。
ルとして喜劇映画がある。列車が駅に到着したり、
現在でも実験的にサイレントで撮る映画もある
工場の門から労働者が出てきたりするだけでは満
が、
今からサイレント期の撮り方に戻ることはない。
足しなくなった観客を、何とか楽しませ、笑わせ
言葉を獲得した現在、その存在が見えにくいのだ
ようとしてさまざまな作品がどんどん作られた。
が、映画の「笑い」が生じる過程に、サイレント
喜劇映画もその一つである。その伝統は途切れる
期に確立した方法があるはずだ。それこそが映画
ことがなかった。映画を生産するどの国において
独特の「笑い」である。
も、喜劇映画のない国はないだろう。近年の日本
笑いを生み出す要素を大きく分類してバーバ
映画界では、「男はつらいよ」シリーズ、「釣りバ
ル・ギャグ Verbal Gag(言葉を媒介とするもの)
カ日誌」シリーズが終焉を迎え、以後、笑いを基
とサイト・ギャグ Sight Gag(視覚によるもの)
本にしたコメディは単発的にしか公開されない。
という二分法がある。映画はすでに言葉を獲得し
観客に喜劇映画受容の習慣がなくなりつつある。
ているので、純粋にサイト・ギャグだけでコメディ
笑わせようとする意図が見え隠れすると、観客は
を成り立たせることは今では困難になっている。
それを察知してそれほど笑わなくなる。
現在では、言葉による「笑い」を最大限に有効利
「笑い」そのものは、もちろん映画によって最
初に生み出されたわけではない。古代ギリシャに
用して、もっぱらバーバル・ギャグに終始する作
品も増えてきた。
はすでにアリストファネスの喜劇があり、シェ
同じく映像媒体としてのテレビにおけるドラマ
イクスピアも多くの喜劇を残し、スウィフトや
やバラエティ番組の多くにおいても「笑い」を言
フィールディングなどイギリスの小説家もユーモ
葉に頼る傾向が強い。いや、むしろ言葉に頼りす
アにあふれた作品を次々に上梓してきた。いろい
ぎであるといってもいい。ひどいのになると、バー
ろな分野に「笑い」の要素はある。
バル・ギャグをテロップで文字に直して見せ付け
映画の「笑い」が特徴的なのは、それがサイレン
ト期から始まっているという点だ。言葉を媒介と
る番組も増えている。
サイト・ギャグは見た瞬間に笑いが生じる。一
せず、観客を笑わせていたのだ。後に音を獲得し、
方、バーバル・ギャグはまずその言葉の意味を理
言葉を自由に使えることによって、より複雑な笑
解し、その前後の関係を認識してから笑いが生じ
いを生みだすことが可能になった。しかし喜劇映画
る。バーバル・ギャグはサイト・ギャグよりテン
は言葉を介しないサイレント期に始まっている、
ポが一つ以上、遅れる。もちろんこれは遅れてい
72
い笑いだが、サイト・ギャグの方が瞬間的に笑い
ズレた部分である。笑いを生じさせるためには、
に転じるという意味で、実に映画的である。同時
第三者が必要という説があるが、以上のシーンで
に、「笑い」の質を考えても純粋で高度だと思う。
も状況が見えている恋人を同じ場所に配置してい
映画独特の「笑い」の要素というものは、ユー
る。このあたりも計算づくである。
モア小説や舞台での喜劇などと違った形ではっき
キートンの場合はどうか。サイレント期のキー
りと存在するのだろうか。それを解明する出発点
トンは自分では基本的に笑わない。最近のテレビ
をこの論文で構築したい。
のお笑い番組においては笑わせる側の芸人たち
この研究では映画的な「笑い」であるサイト・
が自分たちで笑って伝染させようとしている。話
ギャグを公開されるさまざまな作品から抽出し
している内容にではなく話している自分の笑う姿
て、その構造を明らかにし、いくつかのパターン
によって笑いを誘導しようとしている。笑いを提
を規定するつもりである。そこからバーバル・ギャ
供する側が笑い、受け取る側も笑う。これにはズ
グへの効果的転用を考えたい。映画における「笑
レがない。しかし、面白い動きをしているのに当
い」の原理を解明することによって、新しい笑い
の本人がまったく笑わないという点にズレが生じ
を生みだす方向を探ろうとするものである。
る。したがって笑いの質はキートンの方が深いと
笑いの生じる根本原理はこれまで様々な哲学者
考えられる。実例を挙げよう。
『セブン・チャンス』
や作家によって定義されてきた。本論ではそれら
(1925 年、バスター・キートン監督)の中で、決
を踏まえた上で、「ズレ」の要素がその中心にあ
められた日時までに結婚すれば遺産が入るという
るという仮説をまず掲げたい。それを根拠に論を
ので、キートンは結婚相手を募集する。彼は数百
進めたい。本来あるべき姿から少しズレることで、
人の女性に追いかけられる。そして丘を逃げてい
確かに笑いが生じるからである。
ると大規模な落石があり、転がり落ちてくる岩石
では、ズレによって生じる笑いとは何か。サイ
を避けながら逃げるシーンがある。普通の道筋で
レント期に活躍した二人の映画人、チャールズ・
いうと、落石からは逃れられない。そこを巧みに
チャップリンとバスター・キートンを例にとって
逃げる。そこにズレがある。これらのシーンです
考えてみよう。
ぐ笑いが起こるのはサイト・ギャグであることと
チャップリンの『モダン・タイムス(1936 年、
大きな関係がある。
チャールズ・チャップリン監督)の中に夜のデパー
本論分では、サイレント時代の映画における「笑
トで、ローラースケートをする場面がある。手す
い」の質を見極めた上で、この一年間に見た映画
りが工事中で、一部、取り外されている。そこを
から特筆すべきサイト・ギャグについて詳しく論
チャップリンが目隠ししながら滑り回る。ドキド
じ、現代の映画における「笑い」がどうなってい
キ、ヒヤヒヤすると同時に観客の口から笑いが漏
るのかを解明したい。
れる。手すりのない場所で目隠しをしてローラー
スケートをすれば、普通は階下に落ちる。階下に
落ちるのが正当な道筋である。ところが落ちずに
ギリギリのところを滑る。目隠しをしているので
危ないところを滑っている意識がない。危ない所
なのに怖がらない。これらが本来の道筋から少し
73
大坂画壇の研究
田 中 敏 雄
教 授
教養課程
平成 23 年度
今度の大坂画壇の研究に際して、大阪芸術大学
図書館が所蔵している大坂画壇で活躍した画家達
の作品について調査・研究した概要を報告する。
二、浜田杏堂筆 習画帖(一帖 紙本墨画 27.0× 13.2cm)
本 画 帖 の 表 紙 に「 杏 堂 濱 先 生 」 と
記された短冊形題箋が貼られていて、浜田杏堂
一、大岡春卜筆 ①人物下絵画巻(紙本墨画
(1766 〜 1814)の画帖であることがわかる。浜
淡彩 41.1×1163.7cm) ②花鳥下絵画巻
田杏堂は本氏は名和氏、名は世憲、杏堂・希庵
(紙本淡彩 41.5×1046.4cm)
と号す。幼少の頃、医家の浜田家の養子となり、
この二つの画巻には奥書きがなく、又落款・
医業に勤める傍ら、絵画を好む。文人画家の福
印章もない。「花鳥下絵画巻」の巻頭に “屏風
原五岳について絵を学ぶとともに文人としての
十六双地取三巻之内花鳥小図雀 法眼春卜公於
素養である詩や書も巧みとなり、文人画家とし
楽山洞図之” と記載されていて、大岡春卜の屏
て一家を成した。本画帖は文人画家達が絵の手
風の地取(下絵)であることがわかる。大岡春
本とした中国の画譜『芥子園画伝』からの抜き
卜(1680 〜 1763)は江戸時代中から後期にかけ
書きである。内容は石、巒頭、樹木、葉、茅屋、
て大坂で活躍した狩野派の画家である。①人物
雑樹、家屋の描き方の画法を示したもので、絵
下絵画巻には「四愛図」「琴 書画図」「竹林七
を学ぶ人の為の習画帖である。『芥子園画伝』等
賢図」「許由巣父図」「虎溪三笑図」等の 10 の画
の画譜が手に入れ難い弟子のために描き与えた
題から成っている。②花鳥下絵画巻は季節感の
ものではなかろうか。江戸時代の後半の絵画学
ある花木と鳥の組合せと「芦と鷺図」
「芦と雁図」
習の方法を知る一端となるものである。
「松に鳥図」
「竹に雀図」等の図様が描かれている。
本画巻は狩野派の伝統的な画題と様式や屏風の
三、金子雪操筆 山水画帖 二帖(①帖 31.3×
構図など踏襲した下図の作品である。狩野派の
14.6cm ② 帖 27.5×19.4cm 各 紙 本 墨
画家の粉本学習や型の踏襲を知り得る資料であ
画淡彩)
る。春卜自身の本画制作や弟子達の教育の為に
必要なものであっただろう。
①の画帖には帖末に「壬寅春仲 於雪操庵南画
□蘭湘吹之 金不言」とある。又、各図には「雪
操」の印が押されていることによって、この画帖
74
は金子雪操(1794 〜 1858)によって天保十三年
山水等で、全て 45 図で、その内の「人物図」に “政
(1842)に描かれたことがわかる。この帖の表紙
辰之夏 孔寅冩” とあり、文政三年(1820)に描
は薄板で、「雪操翁山水」と墨書されている。全
かれたか。長山孔寅(1765 〜 1849)は秋田で生
て 9 図から成っている。②の画帖も表紙は薄板で
まれ、京都で呉春に絵を学び、大坂で活躍した四
ある。この画帖には落款も印もないが、①とセッ
條派の画家である。三条茂佐彦の名で、狂歌もよ
トであるとともに描写様式が①に似ているので、
くし、狂歌本の挿絵も多く描いた。
雪操の作品ではないかと思う。図は 10 図である。
金子雪操は江戸で生まれ、増山雪斎、釧雲泉に絵
を学び、各地を遊歴して大坂に居住する。一時、
六、深田直城筆 運筆習画帖(一帖 紙本墨画
淡彩)26.8×15.7cm)
大坂近郊の吹田に七・八年住む。この①の画帖は
本画帖は各種の花、野菜、人物、鳥などを墨と
天保十三年の紀年があり、その頃には雪操は吹田
淡彩で簡略に描いた作品で、各帖には「直城」の
に住んでいたので、この①の画帖は吹田での作か
印が押されている。全図で 25 図である。深田直
と思われる。
城(1861 〜 1947)は滋賀県で生まれ、森川曽文
に学んだ四條派の画家である。明治 19 年(1886)
四、岡田半江筆 山水画巻(一巻 紙本淡彩 32.8×543.5cm)
この画巻の巻末に「天保亥重陽前五日 墨江儒
寓 半江田肅」の記載があることにより、天保十
に大阪に移り、大阪で活躍する。この画帖の末尾
に、墨書の貼紙があり、「賀正 戊辰歳旦 深田
直城」とあり、戊辰は昭和 3 年(1928)で、その
頃にこの画帖が作られたのかも知れない。
年(1839)に岡田半江によって描かれたことがわ
かる。岡田半江(1782 〜 1846)は大坂の文人画
家岡田米山人の子で、絵は父に学ぶ。半江は天保
八年(1837)3 月の大塩平八郎の乱の後、住之江
に住居を移す。本画巻には “墨江儒寓” の書があり、
住之江で描かれたことがわかる。本画巻の巻頭に
は著名な書画家である貫名海屋の題辞がある。こ
の画巻は半江の晩年に描かれた作品で、大塩の乱
後の失意と晩年の悟りにも似た気負いのない清清
しさが窺える作品である。
五、長山孔寅筆 画手本帖(一帖 紙本墨画
淡彩)
本画帖の表紙に「長山孔寅筆 画手本」と墨書
されている。この画手本の内容は花、野菜、人物、
75
80 年代における「ニュー・デザイン」の動向と課題
籔 亨
教 授
教養課程
平成 23 年度
20 世紀の後半になると、デザインの世界では、
そして、やがて 80 年代は「デザインの十年」
一元主義的なモダニズムや機能主義への再検討
とも目されるほどに注目されるようになってい
がはじまり、改めて多元主義的な方向への模索
る。デザインは展覧会やメディアの出し物になり、
がはじまる。「形態は機能に従う(Form follows
新世代のデザイナーはもはや特定の企業に縛り付
function)」や「少なければ少ないほど良い(Less
けられることなく自由に活動を始めている。そこ
is more)」という従来の指針的な格言が批判的に
で本研究は、こうした 80 年代の「ニュー・デザ
再吟味され、「実用に適すると同時にシンボルで
イン(New Design)」の動向をドイツ、イギリ
はないという形態はありえない」という意見や
ス、日本などでの事例に即して調査研究するとと
「少ないものはもうたくさんだ(Less is bore)」
もに、その課題について考察することを目的とし
という声が出てくる。こうした動きの高まりのひ
て定め、その目的を達成するために、次の三つの
とつが、1980 年にオーストリアのリンツで開催
見地から研究を進めた。
された展覧会「フォーラム・デザイン(Forum
Design)」(1980 年 6 月 27 日から 10 月 5 日まで
第一に、80 年代の「ニュー・デザイン(New
続けられ、1981 年 2 月に完了)である。この「フォー
Design)
」の源泉や概念について、理論と制作
ラム・デザイン」は「当代の文化の現在位置の測
の双方から調査研究した。具体的には、イタリ
定をデザインの視野から企てること」を目標とし
アのエットーレ・ソットサス(Ettore Sottsass,
て掲げている。そこでは「デザイン」概念が、一
1917−)などの「メンフィス(Memphis)
」集団
般的には「生活の質」への影響、個別的には「個々
からの影響を再検討した。そしてまた、1980 年
人のアイデンティティ」への影響、といった幅の
にオーストリアのリンツで開催された「フォー
広い意味合いで吟味されている。デザインの歴史
ラム・デザイン(Forum Design)
」と緊密な相
の全体や、デザインの意味やその多様な機能が論
互関係のもとに編集され刊行された書物『デザ
議されたのであり、デザイン物品と使用者の関係
インは眼に見えない(Design ist unsichtbar)
』
のみならずデザイナーの役割が熱心に論議されて
(Oesterreichishes Institut für visuelle Gestaltung.
おり、80 年代のデザインの展開に格好の指針を
Herausgegebeben von Helmuth Gsoellponter,
提供することになる。
Loecker Verlag, 1981.)に注目し、「デザイン、
76
それは何か」
、
「歴史と理論の徹底的な見直し」
、
「個々人によるデザインの考え方」
、
「経済的な背
景のもとでのデザインの考え方」といった当書の
内容と論説について再検討した。
第二に、80 年代のドイツやイギリスや日本な
どにおける「ニュー・デザイン」の出現について
調査・研究した。具体的には、まずドイツに関し
ては、1982 年にハンブルグ芸術・産業博物館で
開かれた
『失せた家具 ― より美しい住まい
(Möbel
perdu-Schöneres Wohnen)』を端緒とする、一連
の「ニュー・デザイン(Das Neue Design)」の
展覧会について、調査・研究を進めた。さらにイ
ギリスについては、ジャスパー・モリソン(Jasper
Morrison)
などの
「ニュー・シンプリシティー
(New
Simplicity)」のデザイナーの活動について調査研
究を進めた。さらにまた日本については倉俣史郎
のミニマル主義的なデザインなどについて調査・
研究を進めた。
第三に、80 年代の「ニュー・デザイン」の国
際的な展開や伝播や影響関係などについて調査・
研究した。具体的には、「奔放な 80 年代」といわ
れている 80 年代のデザインが 90 年代に向けてど
のように推移していったかなどについて調査・研
究を進めた。
その際、本研究に必要な写真などの視覚資料を
作成するとともに、データー・ベース化を検討し
推進する。また当研究に必要な図書資料や映像資
料について調査し、本学図書館に未所蔵のものに
ついては補足収集し購入した。
77
日本映画における音楽の役割
― 黒澤明監督の場合 ―
田之頭 一知
准教授
教養課程
平成 23 年度
黒澤明(1910−1998)は言うまでもなく日本映
が、ここでは紙幅の関係上、今し方記した 5 作品
画を代表する監督の一人であるが、その長いキャ
における音楽のありようについて大枠を提示する
リアの中でも、とりわけ 1950 年代から 60 年代に
ことで、映画監督黒澤が、音楽に対してどのよう
かけてのスタイルを、時代劇について簡潔に述べ
なスタンスで接していたのかについてラフ・ス
れば、それまでの舞踊的な立ち回りを排して、ま
ケッチを試みることにしたい。
さしく西部劇のスタイルを日本映画に持ち込んだ
まず早坂が担当した 3 作品についてであるが、
点に特徴があり、逆にそれがハリウッドなどの西
映画の中での音楽の立ち位置として、まずもって
部劇に影響を与え返している。また、その効果音
縁の下の力持ちに徹しているという点を挙げるこ
に関して言えば、『用心棒』(1961)において、現
とができる。BGM として裏方に終始するという
在では当たり前のこととなっているが、刀で斬る
この音楽のあり方は、或る意味で映画音楽の常道
音を挿入したことは有名である。この時期の作品
ではあるものの、その音楽はただの紋切型のもの
が示している構図の厳しさやカメラワークのダイ
ではなく、映像そのものに浸透してその物語世界
ナミズム、そしてそれらによって作り出される映
の色合いを大きく縁どる働きを持っている。『羅
像の迫力、そういった点に関しての研究や評論は
生門』の場合、オープニングで聞こえてくる音
おそらく枚挙に暇がないであろうが、目を音楽に
楽は、旋律として耳に残るといったものではない
向けてみると、それらの作品およびそれに続く時
が、しかし、雅楽の笙と思われる響きが、西洋の
期の黒澤作品で音楽を担当していたのが、日本の
管弦楽の響きを背景にして浮かび上がるよう配さ
映画音楽を考えるうえできわめて重要な 2 人の人
れており、日本的なイメージと、さらには広く物
物、 早 坂 文 雄(1914−1955) と 武 満 徹(1930−
語の舞台となる京の都を枠づけている。また、
『生
1996)であることに気づく。早坂が手がけたもの
きる』のオープニングでは、癌に侵され余命いく
としては、たとえば『羅生門』(1950)、『生きる』
ばくもない主人公が本編でブランコに揺られなが
(1952)、『七人の侍』(1954)などがあり、一方武
ら歌うことになる《ゴンドラの歌》が、管弦楽に
満 に は、『 ど で す か で ん 』(1970)、『 乱 』(1985)
よる音楽の中にモティーフとして取り込まれてお
がある。この黒澤作品における音楽の役割や働き
り、その歌が重要な役割を果たすことが示唆され
に関して考察を加えることが本研究の課題である
ている。さらに『七人の侍』のオープニングの音
78
楽は、低音域の打音による地を這うようなリズム
る音楽という点にあり、作品の主題を縁どるもの
に終始したものとなっているが、その響きの佇ま
と考えることができる。それは本編中で用いられ
いは、野武士が駆る馬の蹄の音を大きく枠づけて
る “歌” の扱いにはっきりと示されているように
いると言ってよく、映像に重々しい雰囲気を与え
思われる。その典型は、『生きる』において主人
ることで、本編での物語展開を先導する役割を果
公がブランコに揺られて歌う《ゴンドラの歌》で、
たしている。他方、武満が担当した 2 作品のうち、
「命短し 恋せよ乙女……」という歌詞が、この
まず『乱』であるが、黒澤と武満の確執はよく知
映画の主題そのものと重ねられている。また、
『七
られたエピソードである。黒澤が思い描いていた
人の侍』にあっては、ラストシーンで農民たちが
音楽のイメージはグスタフ・マーラーで、武満に
歌う労働歌(田植え歌)に大きな意味が付与され
もそれを求めたが、武満はそれをよしとしなかっ
ており、野武士に打ち勝った真の勝者が農夫たち
たのであった。実際その音楽は、管弦楽をベース
であることを、その歌は明確に示している。黒澤
にしてはいるものの、武満の映画音楽の基本スタ
は物語の要所となる個所に歌を挿入することにか
イルである弦楽器による持続音とそこに楔を打ち
けては、一種天才的と言ってもよい閃きを示して
込む打楽器群の打音の組み合わせに則っており、
いるようであるが、しかしその歌は、あくまでも
少なくともそこにはマーラーのイメージはない。
映画全体の中の一つの部分としての歌である。黒
むしろ、邦楽器的な音の佇まいを軸に据えている
澤は音楽を映画の構成要素の一つと考え、その点
と言ったほうがよく、たとえばオープニングの後
で映像主導という映画の原理原則から逸脱するこ
半では、鼓とおそらくはフルートによる邦楽的な
とがなかった監督であると言ってよい。この一貫
響きが中心となっており、それが本編冒頭におけ
した姿勢が、彼の作品を支えているのである。
る鼓の音色へと続いてゆく。これに対し『どです
かでん』は、上記 4 作品の音楽とは明らかに異なっ
たものとなっている。オープニングで示される音
楽は、はっきりとした旋律を持ち、明確にテーマ
音楽と位置づけることができる。したがって、本
編でもその旋律が用いられることになり、さらに
は、観者に何かしらの旋律を意識させる音楽もま
た本編中で聞こえてくることになる。この武満が
担当した 2 つの作品の音楽の佇まいは、対照的な
ものではあるが、しかしその役割はあくまでも映
像の下支えにあり、物語展開の枠づけにある点を
見逃してならないであろう。
このように見てくると、黒澤作品における音楽
の位置づけは、その基本があくまでも映像を支え
79
現代彫刻における塊と空間
― 制作を通してアートを考える ―
加 藤 隆 明
講 師
教養課程
平成 23 年度
今回の研究は、彫刻にとって不可欠な要素「塊」
の画家、イブ・タンギーの絵画に現れる奇妙な
と「空間」についての思考と実践をおこなった。
生物体の形も制作の参考にしたがこの作業は次
作品制作方法は、動物真皮部分を幅 3 ミリ程度長
回のテーマとした。
さ 15 センチ程度に裁断しそれをお湯で煮込む。
私の作品は、豚真皮で表面が造られており、内
動物真皮は茹でることで柔軟になり、また膠を発
が空洞で表面も隙問状態の構造でできている。作
生し冷やすと接着剤の役割になる。この制作方法
品の 1 体は 3 つの部位から構成してあり、下部部
は以前と変わらないが、作品制作のモデルとなる
分が床に安定できるような形、球体を 3 つ合わせ
イメージは前回までとは大きく異なる。作品の
たような形と、中央の形態は上部の作品部分を支
イメージの原型は発泡スチロールを削り制作する
えるように逆円錐形とし下部に突き刺さるように
が、そのひとつの発泡スチロールの型から 2 体以
構成した。大きさは人間の等身大で作品を 360 度
上取り出し(この制作方法は彫刻というより彫塑
周りながら鑑賞できるようなボリュームをもたせ
のほうが正しいかもしれない)それを展示空間に
た。もう 1 体は一見動物を思わすようなデザイン
配置してきた。展示スタイルはインスタレーショ
で、構成する複数の部分が互いの内部に介入し、
ンと呼ばれる方法であり、それは狭義の彫刻概念
それにより表面だけではなく、入り組んだ内部構
とも異なる。しかし今回は個々に作品を独立させ
造が視覚的に捉えるように制作した。
るため、一つの型から複数の作品を制作すること
彫刻の歴史においてこの塊と空間は対立概念で
は行わず、個々にモデル原型を作る事とした。ま
あると同時に一対のものでもある。ストーンヘン
ず独立した個としての作品を制作するため、彫刻
ジ遺跡は、巨石が縦と横の関連で造られてあり、
の重要な要素「塊」と「空間」をテーマとし、作
その構造の隙間に大きな空間が存在している。そ
品の有り様を考察する事とした。
の巨石塊が重力に逆らい空間を作ることで鑑賞者
今回の制作にあたり、彫刻の源流であろう巨
には塊の力を感ずる事ができる。鑑賞者は彫刻
大遺跡などを参照にした。例えばイギリスのス
の特性としてある物質の重さやそれを制作する労
トーンへンジや日本の明日香の亀石などである。
働力が日常的に経験推測可能において塊の性質を
世界にも日本にも巨石文明は数々あり、多様な
理解する事ができる。またその塊の性質が空間の
魅力を見せている。さらにシュールレアリズム
質をも決める。また明日香の亀石の魅力は自然の
80
形に、作り過ぎないようにイメージを施している
事と亀石が置かれた状態に魅力があると感じられ
る。つまり、亀石自身の土に埋まった部分、もう
一つの可視化できないところに塊の重要性が見え
る。塊はモノが空間を占めることででき上がり、
モノの限界が空間を作ることになる。これは、
「可
視化する空間」であり「可視化できない塊」でも
ある。つまり塊は内部が可視化できないことで私
達の注意を引く。塊は人の視線を内部に透過させ
ず、そしてそれ以上に身体で触ることもできない
不可思議さにある。
塊の内部は手で触れることができず眼も届かな
い、そのような場所は、人の精神が触れる場所で
はないかと考える。彫刻が触覚の芸術であるなら、
むしろ、触覚できない塊内部に精神で触れる作業
こそ彫刻の醍醐味でもあるのかもしれない。
塊と空間については、塊は「手で触れられるし
眼でも見える」
、空間は「手で触れられないし眼で
も見えない」
という概念が間違いであったと思えた。
私の作品は、塊と空間については混濁状態にあ
る。作品は透過性がありボリュームはあっても塊
ではない。塊が存在しない以上空間意識も薄らぐ。
それは、巨石彫刻イメージの抜け殻的作品であり、
塊と空間が出合う場所を豚真皮でドローイングし
たような希薄さである。しかし、私にはその有り
様が重要だと考えている。希薄で存在の記憶であ
るような彫刻が現代をうつす様に思えるからであ
る。この作品は平成 23 年度 10 月なびす画廊で発
表した。また、平成 22 年度野外彫刻として奈良
の以前農家であった場所の庭に作品を展示した。
野外のため自然の気候で作品は崩れ、数ヵ月後作
品は消滅した。その過程も同じ場所で写真で報告
した。
81
「南蛮」の用語史と「南蛮美術」の研究史に関する考察
小 谷 訓 子
講 師
教養課程
平成 23 年度
この研究は「南蛮」という言葉を題材に関連文
蛮」という言葉が見られるのは、古くは平安時
献を検証し、16 世紀中頃に日本が初めて西洋世
代の『経国集』や『日本紀略』にまで遡るが、
界と出会い、ヨーロッパ人を「南蛮」と認識した
これら初期のケースは、古代中国語の意味内容
状況と、それ以降、特に第二次世界大戦前後にお
を踏襲し、言葉の定義に何ら変化は見られない。
ける「南蛮」の定義の変遷を明らかにすることを
「南蛮」がその語源の枠組みを越えて日本独自の
目的としている。その際「南蛮美術」という用語
意味合いを形成しだすのは、正に 1543 年のポル
も取り上げ、特定の美術作品群が「南蛮美術」と
トガル人渡来以降なのである。
称されることの問題点をも指摘する。
『日本国語大辞典』によれば、「南蛮」は:戦国
1543 年 9 月 23 日、二名のポルトガル人を乗せ
時代以後わが国で、ルソンやジャワなどの東南ア
た中国のジャンク船が種子島に漂着した。村の長
ジア方面をさして用いた呼称。また、東南アジア
である西村織部丞は、その船の船長である中国人
に植民地をもつポルトガル・スペインをさし、オ
の五峯に二名のポルトガル人の身の上について尋
ランダ・イギリスなどと区別して用いた呼称、と
ねる。すると五峯は「此是西南蠻種之賈胡也」と
ある。次に『広辞苑』を見ると、室町末期から江
いう答えを返す。史上初の日本人とポルトガル人
戸時代にかけて、シャム・ルソン・ジャワその他
の出会いは凡そこのようなものであった。このや
南洋諸島の称。また、その地を経由して渡来した
りとりは、その後 1606 年に『鉄砲記』において
西欧の人や品物。また(多く他の語に冠して)珍
記録され、種子島で初めて日本人がポルトガル人
奇・異風なもの、と定義されている。更に、歌舞
を「南蠻(蛮)」と認識したことを裏付ける。
伎や舞踊の演技で、右足が出る時右手を出すよう
元来「南蛮」とは、古代中国語の用語で、漢民
族を取り巻く四方向の他民族を指す蔑称 ――「東
夷」
「西戎」「北狄」「南蛮」―― の一つであった。
な、普通とは逆の手足の動作も「ナンバ」という
そうだ。
長い鎖国時代を終え、日本の文明開化が進む
しかしながら「南蛮」は、日本に輸入されてか
と「南蛮」という用語も学術的に用いられるよ
ら徐々にその意味内容を変化させ、侮蔑的なニュ
うになる。先ず初めは、1915 年に出版された新
アンスを残しながらも、非常に暖昧な定義で用
村出著の『南蠻記』である。「南蛮博士」という
いられるようになる。因みに、日本の文献で「南
別名を持つ新村出は、言語学的、そして文化人
82
類学的な観点から「南蛮」に興味を持ち、その
おける「南蛮」という用語の定着と、「南蛮美術」
後相次いで『南蛮更紗』や『南蛮廣記』など「南
の定義付けが確立された。因みに、「南蛮美術」
蛮」についての本を出版する。新村氏は「南蛮」
とは、桃山時代から江戸初期にかけ、西洋風の主
という用語を「ヨーロッパから渡来した文化や
題・意匠・技法のいずれかに影響を受けて制作さ
芸術」という意味で用いており、これが現在の「南
れた美術の総称であり、日本画である「南蛮屏風」
蛮」に関する学術的理解の礎を築いた。1935 年
も含めば、渡来品そのものも含むといった非常に
には、新村氏によって『広辞苑』の原型である
広義な用語なのである。
『辞苑』が出版される。そこには「南蛮」に関す
このように「南蛮」は、広義或いは暖昧な定義
る用語が 15 語掲載されており、その後の「南蛮」
であるという問題を抱えながらも、近世以降の日
の意味内容を学術的に定義付けることとなった。
本の美術や文化に根差している言葉である。例え
「南蛮」という用語が美術史研究において使用
ば身近なところでは、
「南蛮辛子」「南蛮漬け」「南
されるようになったのも、やはり 20 世紀初頭で
蛮煮」「南蛮黍」「南蛮柿」など食文化の領域にお
ある。先ずは、永見徳太郎が 1928 年に出版した
いても使用されている。料理などの場合「南蛮」
『南蛮美術集』である。興味深いことにこの著作
の言葉に潜む侮蔑的な意味は払拭され、むしろ好
の序文は、新村出によって書かれている。つまり
意的で前向きな意味合いが強いと思われる。しか
美術史学において「南蛮」を使用する場合におい
しながら「南蛮」を学術的に使用する場合は、蔑
ても『広辞苑』の編纂者である新村出の学術的関
称であったという語源を無視する訳にはいかな
与が認められるのである。ただ、特筆すべきは、
い。しかも作品の分類が重要な仕事の一つである
永見徳太郎も新村出も美術史の専門家ではないと
美術史学では、曖昧で多義な「南蛮」を専門用語
いうことである。新村出は言語学者・文化人類学
として用いることは、芸術作品に対する正しい認
者であり、永見徳太郎は長崎出身の美術愛好家・
識と理解を妨げることに繋がると考える。それに
収集家である。永見に続くように同郷人の関衛も
もかかわらず依然として「南蛮」は、ある特定の
1933 年に『西域南蛮美術東漸史』を出版してい
グループの作品群を示す時に使用される用語であ
ることから、美術史学における「南蛮」、あるい
る。今日では、この現象がむしろグローバル化し、
は「南蛮美術」という研究テーマは、20 世紀初
日本語以外の文献や展覧会でこの用語を目にする
頭に我が国において奨励された「郷土教育」ある
ようになった。だからこそ今「南蛮」の用語史、
いは「郷土史」の運動を受けて長崎県人たちが開
そして歴史的かつ文化的な問題を取り上げ、議論
拓していったという経緯が浮かんでくる。その後
する必要性を強く感じるのである。
は、池長孟によって『南蛮美術総目録』が 1955
年に、西村貞著の『南蛮美術』が 1958 年に、岡
本良知著『南蛮美術』が 1965 年に、そして坂本
満著の『南蛮美術と洋風画』が 1970 年にそれぞ
れ出版され、20 世紀後半までには、美術史学に
83
日本文化をテーマとした舞踊の研究
― 日本の「間」とモダン・ダンス ―
河邉 こずえ
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
今年一年間、本研究の課題である「日本文化を
が踊られるという舞踊作品であった。能舞台の橋
テーマとした舞踊の研究 ― 日本の「間」とモダン・
掛りから見え隠れする舞踊手、そして演奏者の背
ダンス ―」を中心として調査・研究を進めてきた。
景には鏡板の老松が聳え立つ。おそらく既成のプ
まず現在、日本各地において上演されている
ロセニアム・ステージ型の劇場で同じようにテ
“日本文化をテーマとした舞踊作品” の調査を行っ
ナーサックスとパーカッションと、モダン・ダン
た。特に調査で印象に残っているのは、富山の
スとの融合を行うと、もっと西洋的な作品になっ
利賀村にて行われている “モダン・ダンス in 利
ていたであろう。つまり能舞台の空間、目付柱、
賀” という公演である。会場は、日本有数の合掌
鏡板、後座、橋掛りなどが必然的に演者の日本人
造りの劇場で行われている。劇場には柱があり、
としての呼吸の「間」を表出していたのだと考え
能舞台を思わせる空間的な “日本の「間」” が存
られる。つまり能舞台全体が作品の「間」のリズ
在している。出品作品は日本のモダン・ダンス
ムを構成する舞台美術として成り立っているとい
を支えてきた作家達による舞踊作品である。作
える。こういった日本人特有の「間」を引き出す
家が空間を意識しているのか、空間が作品に意
ものは能舞台だけではない。
識させているのか、一般的に日本で多く使用さ
コンクール調査においては一人四分ほどの持ち
れているプロセニアム・ステージで観る舞踊作
時間で、次々と多種多様な衣装や小道具を持った
品と比べて、時間的にも空間的にも “日本の「間」”
舞踊手を調査することができた。そのなかで、着
を強く感じさせる作品が多いように思えた。こ
物や法被、花弁や扇子などの日本文化に携わる装
のようにプロセニアム・ステージではなく、能
飾をしている舞踊手も多く現れる。それらの舞踊
舞台のように “日本の「間」” が存在している舞
手の動きにおいて興味深いことが、着物の袖を持
台で舞踊作品を上演すると、モダン・ダンスに
つ仕草や花弁を散らす仕草など、そこに必然的に
おける日本人らしい「間」がより垣間見られる
生まれてくる日本的な間合いである。そして更に
という調査結果が出た。例えば神戸ビエンナー
興味深いのは、コンクールとなると審査員を含め、
レにおいて行われた舞踊作品「華の鏡」は、湊
観客は舞踊手の質の良し悪しを探し出す。例えば
川神社の能舞台において、テナーサックスとパー
着物の裾をとるその時、観客も無意識に日本的な
カッションとの演奏にのせて、モダン・ダンス
間合いを期待してしまうことになる。つまり、あ
84
る舞踊手が着物の裾をとることに重きを置かず衣
本文化に構築されている「間」のリズムを動きに
装を意識せず踊っていたとすれば、舞踊手と観客
表現することで、舞踊手の身体には日本の「間」
とが共有できる日本的な「間」は存在しないこと
がうまれるということになる。
になる。そしてもし舞踊手が着物の裾をとること
調査の結果、モダン・ダンスにおける日本の「間」
に重きをおいていれば、そこに観客の期待してい
は観客・舞踊手・振付者を結ぶ大切な機能を持ち
た「間」つまり観客と舞踊手とが共有することが
合わせているということがわかった。日本文化を
できる「間」合いがうまれて、さらに観客は舞踊
テーマとした舞踊作品は勿論、そうではない舞踊
作品のリズムに引き込まれて同調していくのだと
作品であっても、観客・舞踊手・振付者の身体に
考えられる。
日本人の呼吸の「間」が存在する以上、「間」に
これらの調査結果から、なぜ日本のモダン・
ついて考えることは、避けては通れない問題であ
ダンスにおいて日本人らしい「間」を見いだす
る。よって、振付者・指導者はより多くの日本文
必要があるのかが鮮明になってきた。まず、日
化に触れ、日本人の呼吸の「間」を考察すること
本文化に存在する「間」は日本人同士における
で、舞踊手の身体を介して舞踊作品に、作者の「間」
コミュニケーションにおいて欠かせない存在で
のリズムを表現することが可能になると考えられ
あること。特に舞踊の世界において日本特有の
る。そして作品の中に表現された日本の「間」の
「間」は、観客・振付者・舞踊手の相互関係にお
リズムは、舞踊作品を日本的なものとして成り立
いて重要な役割を果たす。先にも述べたように、
たせ、日本人の観客のみならず、世界の観客を引
観客の呼吸のリズムと舞踊手の呼吸のリズムと
き込むことが可能になると考えられる。
を同調させるための「間」として、またある時
はズレを生じさせるための「間」としての役割
これらの調査を基に引き続き日本人らしいモ
ダン・ダンスを考究し、確立していきたい。
を果たす。また能舞台や、日本的な小道具が「間」
を表出させるという調査結果から、もうひとつ
の「間」の効果を分析することが可能となる。
それは、振付者、指導者が舞踊手に動きを伝え
る際に、日本の「間」のリズムが表現の伝達を
円滑に促すということである。例えば、能舞台
ではない既成の舞台であっても、橋掛りをゆっ
くり歩いている「間」、柱の陰から覗いている「間」
を表現できれば、そこに日本の「間」がうまれ
ることになる。また、着物を着ていなくても袖
で口を押える「間」、帯を結ぶ「間」、が取れれ
ば舞踊手の動きに静と動の「間」がうまれる。
実際に日本の舞台美術や小道具がなくても、日
85
集落の空間構成と生業からみる集落共同墓地の立地要因に
関する研究
下 田 元 毅
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
研究の目的と背景
本研究は、生活空間と墓地との関連が明確で
の保冷、加工、流通のネットワークと結びついて
おり、地域社会・経済構造の連携、すなわち各集
ある「集落共同墓地」を対象に、そこに見られる
落と女川市街地が連動した構成をしている。
墓地立地の空間的特徴を把握することを目的とす
集落の空間構造と被災状況
る。本年度は、宮城県牡鹿郡女川町の 16 集落を
( 1 )過去の地震・津波・高台移転の履歴と現在
対象に現地調査を行い、立地や選定の特徴を把握
女川町誌の記録されている過去の地震・津波
した。更に東日本大震災による各集落の浸水状況
の履歴をみてみると、過去 22 回の地震・津波に
を地図上に図示し、被災状況を把握しながら墓地
よる被害を受けている。被害規模の大小はあるも
が残っているか等を確認した。東日本大震災を通
のの高地移転の記録はなく、小規模集落のため海
して、集落の基層文化の一つである墓地の状況を
際に住み続けてきたことが推測される。女川町は
記述し把握することは、墓地の立地要因を物理的
16 の漁村集落を数集落に集約する案がいくつか
な要因として把握できるだけでなく、今後集落が
検討されたが、住民は、集落の統合に対して強く
墓地や神社等の基層文化をどのように復興のなか
反対したため、個々の集落による単独復興(高地
で位置づけていくのかを見据える上で有意義であ
移転)の検討を行うため各集落にコンサルが紹介
ると考える。
され、移転計画を進める動きがみられる状況であ
女川町の漁村集落の概要
る。女川町の各集落は、後背地が急峻な地形を抱
女川町沿岸部は、リアス式海岸である三陸沿
えている集落が多く、大規模な高い台地の開発が
岸の南部に位置し、牡鹿半島の複雑で急峻な起
されるのでなく、身近な小地形を読み込み、移転
伏をなしている所が多く、海に張り出す岬や尾
する集落も出てくると考えられる。また、今後更
根の谷間にできる僅かな平地に港と住居配し集
に進む過疎集落に対し、計画的な集落の統廃合が
落を形成している。各集落の人口は約 23 名(大
妥当である、という選択肢も視野に入れ、その手
石原集落)〜 257 名(寺間集落)で小規模な漁村
がかりとして現況の集落図と被害状況(浸水範囲)
集落が女川湾内に離島(出島、江島)を含め 16
を作成した。
集落が分布している。
生業は、主に定置網、養殖など資源管理型の養
殖漁業の発達した地域で、住民の大部分は主に漁
業と水産加工業に従事している。水産業は、食品
86
( 2 )集落立地の分類と特徴
①集落の立地
住居立地と地形の関係から谷戸立地、ハマ立地、
尾根立地の 3 つに分類した。急峻な尾根状の地形
や岬の合間に住居域が分布する谷戸立地(16 事
(高白浜)、また、津波で墓地を失った集落はな
例中 10 事例)
。また、比較的平坦な土地が海際に
く、すべて残されていた。これは、急峻な地形の
面して広がっている場所に立地するハマ立地(16
なかで利用可能な限られた土地が住居域として利
事例中 5 事例)
、複雑な地形ラインに沿うように
用され、神社・墓地は、集落の両端や後背地や地
立地する尾根立地(16 事例中 1 事例)をみるこ
形の尾根上の海抜 20m 以上に位置していること
とができ、女川町の集落立地が地形に抗うことな
が多く被害を免れた。単に土地利用の問題だけで
く、自然地形がつくり出した僅かな平地に形成し
なく神輿や獅子を納めている神社もあり、過去の
ている傾向が多くみられる。
震災の経験がその場所を決めていることも推測さ
②住居域と漁港の配置関係
れる。
住居域と漁港の配置関係から、住居域と漁港が
女川町は、御前浜集落をのぞくすべての集落に
ずれて配置されている漁港ズレ型(16 事例中 4
獅子舞の祭事が存在し、神社はその起点となって
事例)と、住居域の延長に配置されている漁港連
いる場合が多い。各集落固有の基層文化の要素で
続型(16 事例中 12 事例)に分類した。住居域と
ある神社が残されていること、また、墓地が残る
漁港の配置関係は、海際の土地利用や地形的要因、
ということは、被害によって集落を離れて暮らし
風等の自然的要因を読み解く鍵となり、また、住
ている住民が墓参等によって帰省するきっかけと
居域と漁港がずれている場合、海が直接対峠する、
もなり、これら神社・墓地が残されていることは、
加工場や漁具倉庫の場所、網の手入れをおこなう
今後の住民間のコミュニティーを考えていく上で
オープンスペースなど、生活空間と生業空間の連
も重要な要素である。
続性がどのように集落空間(道や住居配置等)の
まとめ
なかで捉えることができるのか、高地移転を見据
以上、女川町における集落の神社、墓地立地を
えた際の重要な手がかりとなると考えられる。
含めた空間構造と被害の要点を記したが、女川町
③浸水状況
のような小規模な漁村集落の復興を考える場合、
女川町を襲った津波の波高は、15 〜 19 m とも
単に人為的技術で ハザードを抑え込むのではな
言われているが、入り組んだ集落形状によって
く、自然の地形を読み解き、その脅威も含めて自
は、三角波や波のかさが増し、標高 20m 超える
然と共生することを主眼とする土地利用を考えて
津波に合った集落もある(尾浦、竹浦)。浸水域は、
いくことは、女川町の漁村集落における高地移転
標高約 20m 付近と崖地ラインでなぞられ、集落
の重要な手段のひとつであると考える。そして、
の住居域はほぼ浸水している。水路(川)のある
集落の人々の精神的復興を見据えた時、集落のア
集落(16 事例中 10 事例)は、川沿いの地形が低
イデンティティーとも言える墓地、神社が復興の
地であることもあり川を溯って浸水している。中
文化的基軸となり、これまでの記憶とこれからの
には大石原集落のように川を溯り、浸水域が飛地
記憶の拠り所として機能していく事が重要である
のように分布している例もある。
と考える。
残された神社と墓地
特筆すべくは、集落内の神社・墓地が津波で流
されずに残っていることである。神社は地震によ
り破損しているものもあるが、16 集落中 1 集落
87
映画における郊外ニュータウンの表象について ―― 都市
とコミュニティの行方
田 中 晋 平
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
映画における郊外ニュータウンの表象を探る今
内の映画に留まらず、アメリカのサバービアやフ
年度の研究では、特に戦後日本の高度成長期以降
ランスのバンリューと呼ばれる郊外地域を扱った
の郊外像の歴史的な変遷について、映像・文献資
映画にも視野を拡大し、郊外のイメージの同一性
料の収集に加え、実際に映画や TV ドラマの舞
と差異を論じていく方法論を模索した。その作業
台となった多摩ニュータウンなどの首都圏郊外に
から、家族という単位を前提に構成された「性愛
も赴き、調査を進めた。「ノン・カテゴリー・シ
空間」
(多木浩二)と考えられる郊外の共同体から、
ティー」(八束はじめ)とも呼ばれる郊外の空間
別種のコミュニティの可能性もまた浮彫になりは
的な不確定性、都市としての同一性の曖昧さを考
じめているという論点を提起するに至った。
慮した上で、本研究ではそれぞれの郊外と見做さ
次に大阪芸術大学大学院芸術研究科の紀要『藝
れてきた地域が、どのように生きられた記憶や歴
術文化研究』第 16 号に発表した研究報告「風景
史を堆積させた場所であるか、そして映画などの
論の再配備 ―― 郊外映画研究について」では、
メディアの舞台として表象されてきたかを検討す
1960╱70 年代の転換期にあたる日本で、映画批
ることともなった。
評家の松田政男らによって唱えられた「風景論」
その研究成果の一部として、まず大阪芸術大学
の問題提起に立ち返る作業から、映画における「風
藝術研究所の紀要『藝術 34』に論文「郊外映画
景」の位相が、現在の「荒廃」や「スラム化」(篠
研究 ―― コミュニティの行方」を発表した。こ
原雅武『空間のために』から、この表現を使用す
こでは、映像メディア上の郊外表象と実際の郊外
るにあたり、特に示唆を受けた)が指摘される郊
や都市のイメージ形成に認められる相関関係に着
外と、その表象についての研究を進める上でも示
目することから、ステレオタイプ化されがちな郊
唆的な意義を持つと述べた。また、特に「ファス
外像(均質・画一的で没個性的であり、コミュニ
ト風土化」(三浦展)などが指摘される地方都市
ティとしての機能が欠如している、等々)への批
のロードサイドに顕著に認められるような風景を
判的視座を得る上で有効な複数の映画作品(松岡
物語背景に据えた映画からは、場所や人々が見捨
錠司監督『きらきらひかる』、豊田利晃監督『空
てられるという事態こそが、鋭く問い直されてい
中庭園』、黒沢清『ニンゲン合格』、富田克也監督
ると指摘した。
『Furusato 2009』など)が検討された。また、国
88
これらのアウトプットとは別に、今年度は問題
意識をより広範囲な場所や人々に向けて発信して
理想的なイメージを帯びるに至った郊外という場
いくための回路の構築も試みた。まず 2011 年 11
所の性質を再考したい。前述の研究報告の結論部
月 10 日(木)、大阪日本橋の古本屋・蒼月書房を
で述べたように、もし 1960╱70 年代の郊外開発
会場に、申請者と大阪芸術大学附属大阪美術専
の歴史自体が、戦後という時空間の抑圧という観
門学校非常勤講師の橋本淳氏で、郊外を巡る想
点から把握できるとすれば、郊外と呼ばれる地域
像力の変遷についての、トークイベントを催し
は、日本の敗戦という出来事に含まれた「喪の問
た。橋本氏には主に聞き手役を務めていただいた
題」を考慮する上でも、重要な場所としての意味
が、申請者が見逃していた複数の論点を提出して
を担っている。そうした観点から、映像メディア
もらい、同様の催しを重ねる上でも学べた事柄が
が担う記録性や想像力が当時のコンテクストにお
多い。今後は実際の映画などの製作者も招き、
「郊
いて、どのように風景の変容と対峠したかが、い
外」をキーワードにして、実製作の現場でその場
ま一度問われねばならないと考えている。
所が選ばれるに足るどのような魅力を持つかにつ
いても、詳しく伺ってみたいと考えている。
さらに申請者の論考に加え、郊外に関する数人
の論者によるエッセイと写真、ブックガイドと年
表を収録した小冊子『郊外通信』を製作した。掲
載した開発予定地に堆積したままの砂利、雑草の
生い茂る空き地などを捉えた写真群は、前述の申
請者の論文や研究報告で強調した、現在の郊外が
抱える問題の断面を垣間見せているはずである。
また、収録した 6 篇のエッセイでは、映画研究や
西洋美術史、建築学などの多分野に渡る研究者ら
に、各自の郊外に関する問題意識について詳述し
ていただいた。建物と住人の二重の高齢化が指摘
される中、ただネガティブな状況ばかりが語られ
たわけではなく、具体的なリノベーションの方途
や映画やアニメ、さらに音楽にも渡る、郊外を起
点にした想像力の拡がりを把握できる内容になっ
たと思われる。
最後に今後の研究の展望も記したい。やや概括
的な研究に留まった今年度の反省を踏まえ、次年
度以降は、特に高度経済成長期の日本に焦点を合
わせ、国土の再開発による均質化の問題とそこで
89
江戸時代における三方楽所の伝承
― 京都方の場合 ―
出 口 実 紀
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
舞楽は、京都、奈良、大坂に居住する三方楽所
担当するのは左舞のときに限られる。そのため右
とよばれる楽人たちによって、代々伝承されてき
舞の舞人になるのは自然のことである。それに対
た。楽人の家系は「楽家」と呼ばれ、各家によっ
して、東儀家は篳篥の演奏を担うため、左舞、右
て演奏する楽器や舞が決まっている。今日、一般
舞の両方の楽人を務めることができる。というこ
に雅楽と称されるものは、唐および朝鮮半島から
とは、左・右のどちらかに偏らず、舞人としても
伝来した器楽曲を中心とし、日本において改編し
参仕できるのである。
たものや新たに作られた、いわゆる「唐楽・高麗
今回の研究では三方楽所のうち、京都で活動し
楽」を指す。唐楽を伴奏にもつ舞楽を「左方」ま
ていた大内楽所に焦点をあて、禁裏での右舞の状
たは「左舞」、高麗楽を伴奏にもつ舞楽を「右方」
況を考察した。使用した史料は、京都大学附属図
または「右舞」と呼ぶ。
書館が所蔵する「四天王寺楽人林家楽書類」(全
申請者はこれまで、主に三方楽所のなかで右舞
を担当する立場であった天王寺方を対象に研究を
119 冊)のなかの、
『禁裏東武並寺社舞楽之記』
(全
19 冊、1643 ~ 1861)という奏楽記録である。
行い、江戸時代の奏楽記録や雅楽譜などから、当
この史料の記録年代は、寛永二十年(1643)か
時の天王寺方が伝承していた右舞は 20 曲である
ら万延二年(1861)までの 219 年で、史料名のと
ことを指摘した。また、20 曲それぞれの伝承傾
おり、禁裏で行われた行事、その他京都の寺社に
向や舞の伝承系図についても考察した。
おける行事、江戸幕府関係の行事での奏楽記録と
天王寺方は、四天王寺の行事や法会での奏楽は
なっている。宮中での正月行事には三つあり、そ
もちろん、三方楽所として京都方や南都方ととも
れは「元日の節会(がんにちのせちえ)」、「踏歌
に、禁裏、京都の寺社、幕府関係の奏楽にも出仕
節会(とうかのせちえ)」、
「舞御覧(まいごらん)」
している。天王寺方の本拠地である四天王寺の場
である。また、京都の寺社での奏楽は石清水八幡
合、右舞は林家と東儀家が中心に舞っていた。と
宮など、江戸幕府関係では、江戸城や日光で行わ
りわけ、林家が舞人を務めることが多く、それは
れた奏楽について記録されている。
林家の専門楽器が一つの要因として挙げられる。
まず、『禁裏東武並寺社舞楽之記』に記載され
林家は笙を専門とする楽家で、高麗楽の演奏には
ている曲目から、江戸時代の禁裏で上演されて
笙を用いないことから、林家が管方(演奏者)を
いた右舞は 21 曲であることが確認できた。そし
90
て、21 曲のなかでも上演頻度に違いがあり、す
務めた回数をみると、林家、東儀家よりも回数を
べての右舞が同じ比率で行われていたわけでは
上回る曲は 1 曲も見当たらなかった。つまり、京
なかった。
都方の本拠地である禁裏での行事であっても、多
正月十六日に行われる「踏歌節会」において、
《納曽利(なそり)》と《延喜楽(えんぎらく)》は、
家が右舞の主導権を握ることはなく、右舞は天王
寺方を中心として行われていたと考えられる。
記録が始まって数年後の慶安二年(1649)頃まで
また、走舞(はしりまい)といった一人舞の場
は必ず行われていた。それに加えて、
《登殿楽(と
合や、平舞(ひらまい)のような四人舞など複数
うてんらく)》、《地久(ちきゅう)》のどちらかを
の舞人による事例では、曲によって「多家 2、林
加えて 3 曲行うのが通例であったようだ。しかし、
家 2」や「多家 3、林家 2、東儀家 1」など人数の
次第に《延喜楽》、《地久》が定着し、記録が終わ
差があり、舞の格(大曲、中曲、小曲)なども考
る万延二年(1861)までその状態が続いていた。
慮に入れて、今後さらなる考証が必要である。
その結果、《納曽利》
、《延喜楽》、《地久》の 3 曲
が 21 曲のなかでも極めて上演回数が多い。
次に、三方楽所のなかで、どの楽家がどの右舞
の舞人を務めていたのか、楽家と右舞の関係を考
察した。その結果、右舞の舞人を務めていたのは、
天王寺方と京都方で、そのなかでも主に舞人を務
めるのは、天王寺方の林家、東儀家と京都方の多
家であることが確認できた。先にも述べたように、
四天王寺においては林家と東儀家が中心となって
右舞の舞人を務めていた。禁裏での場合も同様で、
主として林家が舞人を務める例が多くみられた。
そして、京都方の多家は笙の家であり、右舞を行
いやすいという環境は、林家と同じであると考え
られるが、質的にも林家と同等であるかというと、
必ずしもそうとは言えないようである。
その多家の舞人について、年毎のどの行事に誰
が舞を務めたか、各曲の舞人を本家・分家という
家筋まで整理した。京都方の多家は、
《納曽利》
(一
人舞)
、《貴徳(きとく)》(一人舞)、《退走禿(だ
いしょうとく)》(大曲)では舞を務めたことがな
く、これら以外の曲においては林家、東儀家とと
もに舞人を務めている。そのうえ、多家が舞人を
91
植物を用いた「知」と「美」の空間について
― 差異の問題を中心に ―
丸 山 松 彦
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
本研究は温室をモチーフとした写真作品を制作
とにした。
し、また温室に関する言説の研究から、モチーフ
まず、暗い部屋と明るい部屋を両極に展開した
をとおして作品にアプローチし、作品のあり方を
ことの問題点について述べる。写真の本質は「か
探るものである。
つてあった」ことである。写真に写されるのはか
私はかつて植物園をモチーフに loop という作
つて、どこかにあったものであり、この点は疑い
品を制作し、そのさい、写真を作るカメラの装置
ようがない。暗い部屋に納められた像は化学的に
の起源をカメラオブスクラとし、植物園に設置さ
定着され、写真となる。自然が光学と化学によっ
れる温室を対比させて考察した。そこではカメラ
て切り取られるのである。対して明るい部屋は自
オブスクラを暗い部屋、温室を明るい部屋と設定
然を発見し、運び、育て、増やすことで建築の内
した。両者は自然を切り取り、対象として取り込
側に取り込む。温室内の植物を維持するには莫大
む装置であり、両者の関係が入れ子状になった
なエネルギーを要し、展示用の温室の他に栽培用
状態を作品 loop において表現した。しかしなが
の温室を設けて常に展示状態を保たなければなら
ら、制作された作品は写真の特性に力点が偏りす
ない。もともとあった自然を切り取っていること
ぎてしまい、モチーフである植物園、温室の本質
に間違いが、単なる切り取りではない。展示状態
に迫れていなかった。作品はインスタレーション
を維持することは、写真で言うところの定着に値
形式としたが、展示の条件も限られた。そこで形
する。このように見れば両者はほぼ同じ性質の装
式を変え、新たに冊子の形式で再び制作を試み、
置と言える。ここで問題となるのは時間である。
本研究の成果の一部として小冊子を出版した。作
写真はかつてあった、すなわち過去である。対し
品の媒体を変えることにより、新たな展開を期待
て温室の時間とは何か。温室の植物はもともと、
したが、作品の特性と合致せず、効果は限定的な
自然界から切り取ってきたのであって、かつて
ものとなった。この作業は作品が備えていた別の
あった場所からは移動している。だが温室の中に
側面を引き起こすことに成功し、本研究を進める
展示されているのは生きている植物であり、かつ
上で不可欠な過程であった。これらの反省を踏ま
てではなく、今も生きて、活動している。切り取
えて、温室を巡る言説を見直すことで、温室をモ
られたのが過去だとしても写真のように定着され
チーフにしながらも別の写真作品を制作するこ
てはいない。温室において時間を設定するのは困
92
難である。この点に関して、松浦寿輝の言説を参
私はいくつかの習作をへた後、それはカラー写
考にする。松浦は 18 世紀と 19 世紀を比較して、
真であり、精密な描写を要し、温室を空間として
18 世紀は空間の世紀であり、19 世紀を時間の世
認識させつつも、施設としての体裁を完全に見せ
紀であるとしている。これに従えば、写真は 19
てはならない、という写真であると結論づけた。
世紀の発祥であり、時間の概念を伴った装置と言
新たな作品は未だ完成していないが、本研究で得
えるだろう。温室の期限は 18 世紀よりも前にさ
られた成果をもとにこれからも制作を続けて行き
かのぼることができるが、本研究の撮影のモチー
たい。
フとしている温室の形態が確立されたのは 18 世
紀である。チャッツワース、パクストンの温室な
ど、外部と内部を透明なガラスによってしきり、
ガラスを鉄の枠で支える構造を備えた温室の登場
は 18 世紀なのである。つまり暗い部屋と明るい
部屋の成立には 1 世紀の歴史上の差があり、時間
の概念の有る無しが横たわっているのだ。この点
を踏まえた上で、両者を同等に併置するのではな
く、別の方法によって解釈するべきだと判断し、
作品を制作することにした。
そこで、過去から出発する写真と空間の温室を
結びつけるキーワードとして廃嘘をあげる。これ
も前述の松浦寿輝の言説によるものである。それ
によると温室ははじめから廃嘘のイメージを内包
しており、そのイメージを想起させるゲームであ
るという。とすれば、写真において廃嘘を想起さ
せる温室の姿を作品にしてはどうか。松浦のいう
ゲームの再現である。建築が廃嘘になるには一定
の時間が必要であり、廃嘘になった建築の内部に
は植物が浸食する。「廃嘘写真」とよばれる写真
にはそうした風景がいくつもみられるが、廃嘘と
なった建築の写真ではなく、廃嘘を想起させる写
真である。このとき作品の鑑賞者が思考する時間
は未来である。建築から人の気配が消え、植物に
よって浸食され、廃墟となる未来である。そのよ
うな写真のしつらえはどのようなものだろうか。
93
沿岸集落における公私境界まわりの利用形態について
宮 崎 篤 徳
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
研究の目的
わが国は、本土の周りを海で囲まれ、同時に起
伏に富んだ地形の特性上、沿岸部の斜面地に立地
まず、地籍図から読みとれる所有区分として「道」
・
「水」などの公的空間と、地番・地目で表記され
た私的空間の 2 区分を設定する。
する集落が数多く存在している。これらの集落の
次に現地調査により利用状況の区分をおこな
多くは、主な生業である漁業・農業の衰退や土地
う。「道」・「水」をそれぞれ道路・水路として利
利用の制約がもたらす集落内敷地の狭小性などに
用しているものについては公的利用とし、「道」・
より、過疎化・高齢化が進行している。しかし、
「水」などの公的空間を複数の限定された人が利
急斜面集落には公・共・私が複雑に絡み合った、
用するものは共的利用、個人もしくは同世帯者が
空間を分け合い、使いあうコミュニティが数多く
利用するものは私的利用として位置づけた。
存在している。本研究では、急斜面に立地する集
以上の所有区分と利用状況による区分により、
落の公私境界部の敷地利用について、地域別に比
急斜面集落における敷地利用の区分として 6 タイ
較をおこない分析する。
プを選出した。公私境界部にあらわれる表出物に
研究対象集落として、愛媛県佐田岬半島周辺の
ついては、「流し台」、「洗濯機」、「物干し」、「洗
7 集落(小網、小島、神崎、与侈、串、大浜、合
い場」、「屋根」、「みち空間」などを確認すること
田)と三重県鳥羽市の神島集落をとりあげる。
ができた。表出物の表出形態については、「はみ
研究の方法
出し」、
「にじみ出し」、
「利用者はみ出し」、
「覆い」、
本研究では、公私境界を確認する手段として
地籍図を用いる。地籍図により公的空間としての
「へこみ」、「通り抜け」などが確かめられた。
公私境界部の敷地利用の分析結果とその比較
「道」・「水路」と私的空間としての個人利用敷地
道・敷地利用区分 6 タイプの表出について、神
について確認し、その境界部を現地観察のポイン
島では『公的空間の私的利用』が 121 箇所中 49
トとした。
箇所(40.5%)と大きな値を示したのに対して、
現地調査により、集落内の「道」・「水路」と個
佐田岬では 233 箇所中 49 箇所(18.5%)にとどまっ
人敷地の境界部の利用状況について目視により確
た。『私的空間の公的利用』については、佐田岬
認すると同時に、写真データを作成した。
の 44 箇所(18.9%)に対して、神島は 8 箇所(6.6%)
急斜面集落における敷地利用の区分について、
94
となった。
両地域の道・敷地利用区分 6 タイプの表出結果
を比較すると、神島では個人所有物が道上・水
佐田岬では「庭空間」が 52.5% となり「隙間」
は 18.2% にとどまった。
路上にあらわれ、利用されるケースが多く見受
神島では個人敷地内のわずかな「隙間」をみち
けられたのに対して、佐田岬では個人敷地内を
として利用しているのに対して、佐田岬では個人
みちとして利用しているケースが多いという結
敷地内の多目的利用空間(庭空間)の一部をみち
果を得た。
として利用しているケースが多くあらわれた。
『公的空間の私的利用』の表出傾向の詳細分析
結果のまとめ
『公的空間の私的利用』の詳細について、両
分析・比較結果をまとめると、個人敷地内をみ
地域で比較をおこなう。まず、表出物について
ちとして利用する『私的空間の公的利用』につい
は、神島では「流し台」・「物干し」がそれぞれ
ては、みち的利用される個人敷地内の空間形態に
32. 7%・36. 7% と多く表れたのに対して、佐田岬
違いがでる結果となった。神島では建物と建物の
では「屋根」
・
「物干し」が 36.7%・20.4% となっ
間の隙間部分をみち利用している。対して、佐田
た。両地域ともに「物干し」が多く表れており、
岬では物干しや流し台、洗濯機や植栽、腰掛けの
特に神島では「流し台」、佐田岬では「屋根」の
置かれた敷地内の空間をみちとして利用するケー
表出の大きさがうかがえる。
スが多く見受けられた。この結果からも、神島に
次に表出形態については、神島では「はみ出し」
・
「利用者はみ出し」が 34.7%・49% となり、佐田
おける敷地の狭小性がうかがえる。
また、個人所有物が道上、水路上にあらわれ、
岬では「はみ出し」・「覆い」がともに 36.7% と
利用される『公的空間の私的利用』が神島におい
なった。両地域ともに「はみ出し」が多く、特
て多くあらわれる結果となった。特に表出形態で
に神島では「利用者はみ出し」、佐田岬では「覆い」
の「利用者はみ出し」が多く表れていることは、
が多く表れた。
現在の法制度を巧みに利用した結果であると言え
結果として、両地域ともに「物干し」が道上に「は
よう。表出物である「流し台」や「洗濯機」は個
み出し」て利用されるケースが多く確認された。
人敷地内のわずかな隙聞に収められ、利用者は利
また、神島では「流し台」が個人敷地内のわずか
用時のみ「はみ出し」て利用する。いわば一時的・
な隙聞に置かれ、「利用者が(道上に)はみ出し」
仮設的な「はみ出し」であり、利用者側の巧みな
つつ利用されるケース、佐田岬では「屋根」が道
利用法がうかがえる。神島における個人敷地の狭
上を「覆う」ように設置されているケースが多く
小性を表す結果であると同時に、現代の生活に対
見受けられた。
応するための狭小敷地を有効に利用する手法であ
『私的空間の公的利用』の表出傾向の詳細分析
ると考えられる。
『私的空間の公的利用』の詳細について、両地
域で比較をおこなう。みち的利用される個人敷
地内の空間形態について、神島では「隙間」が
62.5%、「みち空間」が 37. 5% となるのに対して、
95
絵画に於ける「動き・動く」と「間」
脇 田 桃 子
嘱託助手
大学院
平成 23 年度
絵画で「うごきを描く」というとき、多くはう
かし、ここで考察したのは、私自身の身体のみの
ごいている物やうごく人を眺める視点から描かれ
問題ではない。そうではなく人の身体が「動き・
る。例えば歩く人のうごきを表現するなら、先ず
動く」とはどのような状態なのか、また「動き・
(歩く)モデルを見て、ポーズやムービングのデッ
動く」が絵画としてどのように在ることが可能な
サン、クロッキーを行い、次にそれらのスケッチ
のか、という問題を考察した。また、実際に制作
を元に作品制作を行う。つまり、うごきを観察す
を行っていくことで考察した内容を絵画作品とし
る視点から対象を捉え、そこから作品として制作
て結実させることを研究の目的とした。
することが多い。
しかし本研究における「動き・動く」とは、観
「間」は、常識的で現実的に理解されている一
察する視点からのみ捉えられた、物や事のうごき
定の時間や空間の在りかた指すのではなく、各個
をあらわすのではない。例えば歩く人がいたとし
人の主体的な身体感覚から捉えた「時間、空間、
て、歩く人その人が自分自身であり、その歩く自
価値」の複合された(物事の)在りかたを指す。
分自身の身体感覚から作品を制作しようとして
「間」は人のそれぞれの身体から実感され捉え
いる。
られる。そして「間」として主体的に感じとられ
た「時間、空間、価値」は、その身体によって
「動き・動く」の「動き」とは「物や事」つまり「対
具体的な動作となってあらわれる。つまり、ある
象」のうごきであり、「動く」とはうごいている
相手の動作を捉えようとすることは相手の感覚を
その人の「意識」、つまり「主体」の「うごく意識」
捉えようとすることであり、その場で相手が感じ
のことである。対象としての「動き」を捉えるこ
取っている「時間、空間、価値」を捉えようとす
とと、主体としての「動く」意識とが働いて主体
ることである。
的にうごき、つまり「動き・動く」を捉えること
ある動作を捉えようとしたとき、人は「動き」
ができると考える。視覚による外的に知覚される
である対象を一方的にただ見つめ続けるというこ
対象のうごきのみではなく、自分自身の身体を通
ともなければ、主体として「動く」状態であり続
して知覚される内的で主体的なうごきが私にとっ
けるということもない。人は客観的にある対象の
て現実的な実感を伴う「動き・動く」である。し
「動き」捉えようとするとき、それは同時に主体
96
として(「動き」を捉えようとする)「動く」状態
現れる。そのため、人の(形)は年齢、性別、人
でもある。つまり人は、それぞれが「動き・動く」
種などの要素は特別な場合を除き、画面には現れ
として存在する。
ず、表されない。
人(の形)は単に視覚によってのみ認識された
絵画に於いて「間」は余白の間、間の空間と呼
人ではない。人の視覚をも含めた(身)体全体に
ばれている。「間」は主に日本の絵画において問
よって知覚される身体とその「間」が、人(の形)
題とされることが多い。それは、日本の文化の
として現れる。つまり鑑賞者にとっての「動き・
中で「間」が特別な場面で使われる言葉や概念で
動く」そのものとして在るべく、人の(形)は、
はなく、当たり前のものとして受け入れられてき
ある面では形代として働いているといえる。
ているからである。絵画に於いての「間」は、観
また、「動き・動く」を画面に現そうとすると
る者の想像力と身体感覚を引き出す仕掛けのよう
き、人(の形)を日常的な時空間で知覚されるよ
なものとしてあるのではないだろうか。鑑賞者は
うな「立体」として捉える意識は強くはない。そ
画面から「間」を感じ取ることで、「動き・動く」
してそのような「立体」としての(身)体が画面
状態になり絵画からうごきを感じ取っていると私
にあらわれることは少ない。
は考えている。
制作者である私は「間」を捉え「動き・動く」
制作作品に主に用いられた素材は、木枠、キャン
身体を持ちながら、絵画の画面上に於いての「間」
バス(麻布、綿布、綿と化学繊維の混紡)
、アクリ
を意識し、画面を「動き・動く」そのものとして
ル絵具、顔料、メディウム、木炭などである。
存在させるべく、描く。鑑賞者はその表され現れ
本研究では特に線を重要視した制作作品を行っ
た「動き・動く」を捉えようし、それぞれに「間」
た。アクリル絵具とメディウムによる線の長短、
をはかり、画面上に「間」を見出すことで鑑賞者
強弱、濃淡の変化のみではなく、木炭を併用し(下
各個人の「動き・動く」を体感していると考えら
描きする素材としてではなく)線を生かすことを
れる。
考慮した。木炭も数種類を用い、強い線として残
す、よく見れば線として認識できる程度に残す、
本研究に於いて制作された作品、「動き・動く」
画面に刷り込むなど細かな変化を意識し用いた。
が描きだされた画面には、人(の形)があらわれる。
そのことによって(身)体の「間」と「動き・動
しかしその人(の形)は「ある特定の誰か」が「あ
く」のあらわれ方、あらわされ方がより複雑化さ
の人」として描きだされているのではない。日常
れることとなった。
生活を過ごす場で一般的に知覚される「あの人」
や、特定の質を持つ「誰か」はそこ(画面にあら
わされ、あらわれる場)には、描かれない。そう
ではなく、(身)体と他の物あるいは事との関わ
り方、関係の持ち方そのものが人(の形)として
97
98
99
企業の海外展開と IFRS(国際財務報告基準)
原 光 代
教 授
英米文化学科
平成 23 年度
2008 年後半までは Convergence から Adoption へ
一定の結論が下されているようにもとれる。その結
と米国の IFRS 導入は急速に進むかに見えた。し
論とは、USGAAP に基づいて作成された財務諸表
かし、2009 年 1 月、シャピロ氏が SEC 委員長に
は IFRS に従って作られたものでもあり、USGAAP
就任すると状況は変化、IFRS 適用に係る懸念が
それ自体が米国上場企業にとって遵守すべき IFRS
表明されるようになる。シャピロ氏曰く「単一の
であるというものである。この考え方からすれ
会計基準を用いることで投資家が企業の評価をし
ば、USGAAP は米国の重要な会計基準であると
やすくなるということについて異論を唱える人は
同時に国際基準でもあると解釈され、今後米国が
いないだろうが、IFRS は USGAAP ほど細かく規
USGAAP に替えて新たに IFRS を採用するという
定されず解釈の余地が大きいこと、またもし IFRS
意思は見られない。同 Paper は、Convergence と
が適用されたとしても各国での適用のされ方に一
Endorsement を組み合わせた Conversement とい
貫性を欠くということに対し懸念を抱いている」
。
う新たなアプローチを紹介しており、IFRS 採用の
同氏はさらに、IFRS 移行に膨大なコストがかかる
意味で使用されてきた Adoption なる用語は消え、
ことにも言及し、移行プロセスで生ずるインパク
IFRS 導入に関してはすべて Incorporate で統一さ
トを熟慮する必要があると指摘、すでに発表され
れている。
たロードマップに縛られず今後再検討したい、さ
らに IFRS 策定機関である IASB の(他の国々か
米国が IFRS を飲み込もうとしている一方で、EU
らの)独立性についても再考したいなどと述べた。
諸国では IFRS を自国の都合に合わせ変化させて
使用している。この図式でいけば、日本が将来
2011 年 5 月に SEC より Staff Paper が公表され、
IFRS を採用する場合、EU 諸国同様、自国の都
同年 6 月、自見金融担当大臣が IFRS 採用に係る
合に合わせた IFRS を導入すればよいわけである。
米国の後退ムードについて言及、加えて震災の影
米国に習う必要性は特に見当たらない。
響も考慮した上で、日本も IFRS の導入を延期す
ると述べるに至る。
会計基準によって企業の姿と活動が一定の形で投
資家等に情報提供され、その情報によって資金調
確かに同 Staff Paper によれば、すでに SEC 内で
100
達が左右される以上、どの国の企業も自分たちに
とって最善の基準を確保したいのは当然である。
ある。今後 IFRS を採用しないという選択肢もあ
従って各国企業は、自社に有利な IFRS が形成さ
るが、ビジネスが国際化するにつれ、会計基準に
れるようそれぞれの政府や会計士団体等に働きか
も汎用性、国際性が要求されることは明らかであ
けるであろう。このため、IFRS は会計基準であ
り、一国のみにしか通用しない基準を持ち続ける
りながら国際政治の舞台にさらされ、各国の綱引
ことは不利であろう。
きに組み入れられることになる。
ただし、IFRS を丸ごと受け入れるのではなく、
米国はこれまで、どの国よりも積極的に IFRS を
日本企業の活動が損なわれることのないよう持
活用しようと考えたに違いない。IFRS 策定主体
続的に注意を払い、堂々と意見を発表し、変化の
になることで世界経済のフレームメーカーとして
必要性を訴え、自国産業に有利な展開を図るべき
君臨する意思であったろうとも思われる。一方、
である。同時に、日本企業の特質や多様性にも目
IASB もまた、米国 FASB との共同作業が IFRS
を向けねばならない。国際展開を図る上場企業に
発展に大きく寄与するであろうとの展望に立っ
とっては IFRS の導入は重要な課題となるが、非
て Convergence を進めてきたことは間違いない。
上場企業にとって、あるいは多くの中小企業に
IASB は、これまでの 10 年間に最も注力してきた
とっては、国内の商慣行や税務に適した会計基準
こととして、欧州、豪州、ニュージーランドから
をもつことが先決である。すべての企業にとって
の要望への対応と USGAAP との Convergence、
の IFRS ではないことを踏まえるべきである。企
さらに世界金融危機への対応を挙げている。今後
業が海外展開するとともに資金もまた海を越え
はアジアやラテンアメリカ、カナダなどの地域の
る。企業の資金調達がグローバル化するに伴い、
ニーズにも応えてゆかねばならないとの抱負を述
財務会計も連動してグローバル化する。様々な専
べ、IFRS の内容は要望によって変化していくこ
門職に国際的な視野が求められる時代ではある
とを明らかにしている。
が、とりわけ、国際的な企業活動、特に財務面に
関わる人々には、今後ますますグローバルな視野
多くの国から様々な意見を吸い上げ、修正・追加
が要求されるであろう。
を重ねてきたのであれば、IFRS は本来、一国の
政治色や経済、文化を投影しないという特徴を
もっていなければならない。同時に、どの国にも
通用する汎用性を有していて当然である。しかし
現状では、欧米の、あるいは英語圏の国際基準に
留まっている。IASB が掲げる抱負にあるアジア、
ラテンアメリカへと大きく拡大していくのはまだ
まだ先のことであろう。しかし、それでも 30 年
以上の歳月を経てこの形が出来上がってきたので
101
父親の育児参加に関する母親・父親の意識調査
出雲 美枝子
教 授
保育学科
平成 23 年度
【研究目的】
もとに、附属幼稚園 4 園において園児の母親で構
私たちは、2005 年の『「おやこ教室」の役割再考
成されるメンバーで座談会を行い、父親の育児参
― 母親の育児不安を探る ―』の研究において子
加について現実に直面する問題点について自由に
育て中の母親が育児に対して父親の協力があると
討議してもらう。
( 4 )父親にも母親と同様に座談
回答しながらその内容には十分には満足していな
会を行い、母親の意見と対比させることによって、
いという調査結果を得た。また、2010 年 6 月 30
より具体的な父親の育児参加の現状を把握する。
日に育児・介護休業法が一部改正施行されたが、
( 5 )附属幼稚園 4 園の調査結果から、それぞれの
現在の社会において父親の育児休業取得には大き
環境や特性の違いによる意識や父親の育児参加の
な支障があると感じられる。そこで子育て中の父
実態の現状の差異について、比較検討する。
(6)
親の意識を把握するため、附属幼稚園に通う園児
得られた調査結果を、同様の先行研究と比較検討
(3 歳~ 6 歳)の母親および父親、地域の子育て
支援「おやこ教室」に参加する子ども(0 歳~ 3 歳)
する。
【結果および考察】
の母親および父親に対して、父親の育児参加に関
附属幼稚園 4 園(照ヶ丘幼稚園、松ヶ鼻幼稚園、
する意識調査を行うことにより、4 園の附属幼稚
金剛幼稚閥、泉北幼稚園、以下それぞれ T 園、
園それぞれの環境や特性の違いによる意識や父親
M 園、K 園、S 園)と、それらを含む地域に住む
の育児参加の実態の現状の差異について比較検討
子育て世代の家庭を対象に調査をおこなった。母
し、同様の先行研究とも比較検討を試みる。
親・父親の年齢は、T 園地域において 40 歳未満
【研究計画、方法】
の母親は 89.9%、父は 72.8% で他園と比較して
( 1 )父親の育児参加ついて、附属 4 園の地域の子
母親は 8.9 ~ 16.9 ポイント、父親は 7.4 ~ 11.1
育て支援・未就園児「おやこ教室」に通う 0 歳~
ポイント高かった。幼児では 6 歳児の比率は最
3 歳児の母親および父親、附属幼稚園に在籍して
も高い S 園地域で 12.0%、少ないのは T 園地域
いる園児(3 歳~ 6 歳)の母親および父親に、独
の 4.2% であった。また第 1 子の比率が T 園地域
自で作成した質問用紙を配り無記名で回答しても
59.3%、M 園地域 58.6% に対し K 園地域 48.5%、
らう。
( 2 )アンケート結果から、父親の育児参加
S 園地域 49.0%と、およそ 10 ポイントの差となっ
の現状と課題を読み取る。
( 3 )アンケート結果を
て お り、 第 3 子 の 比 率 で は K 園 地 域 14.4%、S
102
園地域 10. 0% と高く、T 園地域 7.6 %、S 園地域
極的」「どちらかというと積極的」と解答してい
5.9% であった。T 園地域においては比較的若い
るのに対し、
「消極的」「どちらかというと消極的」
親が多いこと、K 園地域と S 園地域については子
は母親 27.9 %、父親 26.8 %であった。附属幼稚
育て環境の充実度が高いことと関連がありそうで
園児の母親による座談会においても活発な意見が
ある。育児に関する親族の協力状況について、母
交換された。また父親による座談会にも積極的な
親は母親の母 48. 2%、母親の父 36. 3%、父親の母
協力が得られ、それぞれの地域における特徴もよ
32.3%、父親の父 24. 3%、その他 18. 7%、から協
く表れていた。当附属幼稚園ではバスによる送迎
力が得られていると回答したが、父親の回答は母
や延長保育を行っておらず特別な英才教育を施す
親より 3. 0 から 11.4 ポイント低い。父親の知ら
こともないが、保護者はそのような教育スタイル
ないところで協力を得ているということだろう
を理解した上で子どもを入園させていることも考
か。これは 2005 年に私が行った『
「おやこ教室」
慮に入れる必要があると思われるが、当附属幼稚
の役割再考 ― 母親の育児不安を探る ―』の調査
園を選択して入園させる家庭において父親の育児
における結果と同様の傾向であった。また、「祖
参加に対する意識の高さが伺い知れる結果であっ
父母」の協力に対する要求はあまり高くないが、
た。父親の育児参加が最も必要な時期について、
「夫」の協力が 88 . 9 % ありながらも 46 . 9 % が「夫」
父親の解答において「6 歳~」が S 園 26.3 %、K
にもっと協力して欲しいと回答していた。父親の
園 23.8 %、T 園 6.4 %、M 園 4.8 %と郊外では大
育児参加に対する考え方では、「父は仕事、母は
きな比率を占め都市部では少数派であった。その
育児」は母親 1 . 0 %、父親 2 . 5 %、「許す範囲内
理由についての検証はできていないが、とても興
で参加すれば良い」はそれぞれ 64 . 1 %、53.6%、
味のある結果であった。
「積極的に参加するべき」は 32.7%、37.7% であっ
た。これは 1999 年から 2009 年にかけて社団法人
中央調査社(以下、中央調査社)が調査したデー
タ(それぞれ 8.5%、55.0%、34.3% ╱ 2009 年)
と比較しても大差は無く、「父は仕事、母は育児」
とする考え方は極めて少数派であり、父親の育児
参加を肯定する考え方が大多数を占める。しかし、
「積極的に参加するべき」と考える人は 4 割に満
たない状況である。また育児参加の内容について
も「風呂に入れる」「遊び相手をする」「授乳・食
事の世話」
「おしめを替える」
「寝かしつける」
「幼
稚園などの送迎」全ての項目で 10 ポイント以上
高い結果が出ている。父親の育児参加に対する姿
勢においても、母親の 71.3%、父親は 72.4% が「積
103
大正期における不敬事件の研究 その 2
― 事例研究を中心として ―
小 股 憲 明
教 授
保育学科
平成 23 年度
①昨年度、大阪府立中央図書館において収集・複
写した明治、大正、昭和戦前期の『読売新聞』
『朝日新聞』掲載の不敬事件関係記事 1500 件余
のうち、昨年度において整理作業を終えること
ができなかった記事について、リストの整理を
行った。
②上記作業によってリストアップした不敬関係新
聞記事について、補助員を用いて、判読及びパ
ソコンへの入力作業を行った。
③このようにして情報が得られた不敬事件のう
ち、より詳しい情報が必要と判断される事件に
ついて、栃木県立文書館および日光市立図書館
に出張して補充調査を行った。
④以上の作業により、本年度新たに、大正期不敬
事件 31 事例を収集することができた。また、
近衛師団他への投書不敬事件
3 .大正 3 年 7 月 自動車運転手宇佐美藤一
郎の王子駅における不敬事件
4 .大正 4 年 3 月 群馬県富岡町会議員福澤
常五郎の梨本宮座乗列車での不敬事件
5 .大正 6 年 1 月 衆議院本会議における有
松法制局長官の解散勅語取り落とし事件
6 .大正 6 年 3 月 憲政会総務尾崎行雄に対す
る不敬攻撃事件
7 .大正 6 年 11 月 東宮行啓時の陸軍大演習警
備問題
8 .大正 7 年 6 月 栃木県北押原村軍人分会
長の戊申詔書奉読不敬事件
9 .大正 8 年 9 月 新しき村建設者日本基督
教会牧師宇都宮米一不敬罪事件
既知の事例についても多くの新たな情報を得る
10.大正 11 年 1 月 布施辰治弁護士事務所員
ことができた。その結果、手元の大正期不敬事
永田某らの総持寺皇族墓地への侵入不敬罪
件の事例リストは、総計 268 件に上った。
容疑事件
⑤以上の研究調査で、今年度新たにリストアップ
した大正期の不敬事件は、次に列挙する通りで
あるが、詳しくは論文にまとめて公表する予定
である。
1 .大正 2 年 10 月 国学院大学講師本居清造
の山梨県神職講習会不敬事件
2 .大正 3 年 6 月 福岡県立石村西岡秀人の
104
11.大正 11 年 4 月 福岡県人山口與曽人他 3
名の不敬罪容疑事件
12.大正 12 年 2 月 衆議院本会議場における
田淵議員への不敬漢野次事件
13.大正 12 年 3 月 岡山県藤野村中原鷹次の
姫路砲兵連隊入営中の不敬文書郵送事件
14.(参考事例)大正 12 年 早稲田大学教授猪俣
津南雄検挙事件
文書所持事件
15.大正 12 年 12 月 良子女王絵葉書不敬事件
16.大正 12 年 10 月 関東大震災罹災者の配給
品待ち行列時の不敬罪事件
17.大正 13 年 1 月 長野県東郷小学校の失火
による御真影焼失事件
18.大正 13 年 1 月 列車窓よりの不敬ビラ散
布事件
19.大正 13 年 1 月 茨城県新郷小学校松沼繁
太訓導の御真影焼却事件
20.大正 13 年 1 月 憂国同志会による元老西
園寺公望らへの不敬攻撃事件
21.大正 13 年 2 月 長野県都住小学校の失火
による御真影焼失事件
22.大正 13 年 2 月 朝鮮人李寵業の東京下谷
区洋食店における放言不敬事件
23.大正 13 年 2 月 東京府写真業片桐真五郎
の摂政・同妃の写真密売事件
24.大正 13 年 11 月 石川島造船所職工田代某
の落書き不敬罪事件
25.大正 13 年 12 月 東京築地兵器廠人夫今井
震乃助の不敬罪事件
26.大正 15 年 5 月 太子展出品の菊花紋章類
似 2 作品撤回事件
27.大正 15 年 8 月 西田某らの牧野伸顕内大
臣らに対する不敬攻撃事件
28.銀座貴金属店天賞堂の菊花紋章類似商品不
敬容疑事件
29.大正 15 年 9 月 千葉県伊橋甲子男の田中
義一・床次竹二郎不敬罪告発事件
30.大正 15 年 11 月 熊本県人著作業平山正臣
の赤坂東宮仮御所正門前での摂政直訴事件
31.大正 15 年 12 月 高知県人筒井千尋の不敬
105
幼児はタブレット型コンピュータデバイスをどのように
扱うか
村 上 優
教 授
保育学科
平成 23 年度
Ⅰ.はじめに
るために、本研究では「幼児用 app を評価するこ
2010 年に Apple 社から iPad が発売されて以
と」と「デジタルタブレッ卜を使った幼児の遊び
来、多くの種類のタブレット型コンピュータデバ
を動画として撮影しその遊びを分析する」ことに
イス(以後、デジタルタブレットと呼ぶ)が出現
分けて研究を進めた。
している。デジタルタブレットは、従来のデスク
A. このデジタルタブレット用に開発されている
トップ型コンピュータの入力デバイスであるマウ
数種類の幼児用 app を評価することによって、
スやノート型コンピュータのパッドと違い、画面
現在開発されている幼児用 app は、幼児が扱
上に現れるオブジェクトを直接指で操作するとい
うことに対してどのような配慮がなされてい
うユーザーインターフェースを採用している。デ
るのか、また修正すべき問題点を持っていな
ジタルタブレットの持つこのユーザーインター
いかについて考察する。
フェースは、「ものを直接扱う」という観点から、
B. 2 組の親子がデジタルタブレッ卜で遊ぶ様子
幼児にとって非常に有効であると考えられる。本
を記録し、幼児はデジタルタブレットでどの
研究は、デジタルタブレットが幼児の遊びを高め
ように遊ぶかを分析し、デジタルタブレッ卜
る道具になり得るのか、そして、その可能性があ
が幼児にとっての遊び道具になり得るか、ま
るならば、幼児用アプリケーション(以後 app と
た、今後修正・改良すべき事項は何かを考察
呼ぶ)に要求されるユーザーインターフェースは
する。
どのようなものであり、どのような環境を構成す
ることが必要であるかを明らかにするためのパイ
Ⅲ.研究方法
ロット研究である。
A. 幼児用 app の評価について
幼児用として開発されている app がどのよう
Ⅱ.研究目的
な特徴を持ったものであるかについて、ユー
この研究の目的は、本調査で使用したデジタ
ザーインターフェースを中心に様々な視点から
ルタブレッ卜が幼児の TAP* 注 (Tablet Assisted
評価し、予想される問題点について考察した。
Playing)としての役割を果たすのか、さらに遊
1 . 分析方法:app の評価指標として、広告、オ
びを高めるために必要なユーザーインターフェー
プション、アバウ卜画面につながるボタン等
スはどのようなものであるかを実証的な視点から
が付けられているか、文字が使用されている
明らかにすることである。このことを明らかにす
か、音データが使われているか、app を操作
106
するために必要な操作は何か、そして、ユー
作している時の姿勢、そしてその時刻である。
ザーインターフェースの完成度や修正すべき
問題点に着目した。
Ⅳ.結果
1 . 広告や app についての情報を表示するボタン
B. デジタルタブレットを使った遊びの記録と遊
びの分析について
が開始画面の目立ち易い場所に設定されてい
たり、説明文を読まなければ遊ぶことができ
1 . 対象者:2 歳 4 ヶ月女児 A とその保護者(ス
ない仕様になっていたり、様々な設定を行う
マートフォーンを常時使っている。A は母親
オプション画面に簡単に入ってしまう等々、幼
のスマー卜フォーンで遊ぶことにより、Tap、
児が使用するという視点から考えると不都合
Flick 等の基本操作ができるが、この実験で使
な要素を持っている app が多い。その app は
用するデジタルタブレットは初めての経験で
幼児単独で遊ぶことができるのか、それとも、
ある。)と、2 歳 5 ヶ月女児 B とその保護者(ス
側に援助者が必要であるかについての情報を
マー卜フォーン、実験用デジタルタブレッ卜
明記することが重要であると考えられる。
に関しては、全く使用経験はない。)である。
2 . 幼児用 app として備えるべき機能が準備され
2 . 環境構成:約 5m×2m の木製の机の上にデジ
ていなかったり、app 間での操作方法に統ー
タルタブレットを置き、自由に遊べる空間を
がとられていないため、操作者に混乱を与え
確保した。
ていることが分析の結果から明らかになった。
3 . 記録方法:2 台のデジタルカメラを準備し、 1
タブレットの操作方法について、幼児用 app
台は女児が操作するデジタルタブレットの画
として備えるべき仕様は何かについての研究
面を記録し、もう 1 台は女児 A、女児 B の表
を進め、年齢に適した操作方法を明らかにす
情と遊びを援助する母親の様子を記録した。
ると同時に、app の仕様に関する適正年齢を
4 . 分析方法:記録したムービーを大きく 2 つの
表記する必要性がある。
場面に分けた。幼児 A が母親の援助でデジタ
3 . デジタルタブレットで遊ぶ時間の長さ、集中
ルタブレットで遊ぶ場面と、幼児 A と幼児 B
度、人間関係の高まり等から判断すると、デ
が 1 台のデジタルタブレットを使って遊ぶ場
ジタルタブレットは幼児の遊びを高める道具
面である。最初の場面の分析の指標は、遊ん
(TAP)として、非常に高い可能性を有してい
でいる app 名と app 内の各場面でどのような
るデバイスであると考えられる。しかし、デ
操作をしたか、そして左右どちらの手のどの
ジタルタブレットの設置環境、デジタルタブ
指を使って操作しているか、画面の向き、操
レットをどのように活用するかという使用形
作した app 内のオブジェクトの種類とその時
態、そして使用人数と設置台数などを考慮す
に app から返される反応、行われた操作の意
る必要性があると言える。
味、母親の援助、操作に関する注記、そして
それぞれの動作が起こった時刻等である。後
* 注 村上 優、松田 総平(2011)「保育におけ
半部の分析の指標は遊んでいる app 名、app
る TAP 利 用 の 可 能 性 ― TAP(Tablet
の操作に関する注記、遊びに参加している人
Assisted Playing)は遊びをアシス卜するの
物、遊びにおける人間関係上の注記、app を操
か ―」日本保育学会
107
視聴覚教育におけるメディアによるフィードバック効果の
調査
山 本 泰 三
准教授
保育学科
平成 23 年度
(研究目的)
えられていた。学習者は徐々に洗練されていく
・社会問題の集約した教育保育現場で必要な現場
知識の担い手であった。1970 年以前は学習者
カを、2 3 年間で促成させなければならない
より学習環境に焦点が注がれ、1970 年代には
養成校の現実の中で、全入時代学生の高低幅広
内的能力の方略的利用が、そしてその後、メタ
いレベルや拡散した資質に対応できる教育展開
認知の研究から現代に続く、盛んなメタ認知研
方法を、映像メディアによる「振り返りと見通
究を背景にしての自己調整学習が中心となる。」
し」の個々のケースで探る事を目的とする。
このようにパリンサーは、今日の教育改革は社
・教育方法「プレゼンテーション」の演習で、自
会構成主義の学習技能の考え方を反映している
己の実演映像分析による「振り返りと見通し」
と述べ、メタ認知、自己調整の大切さを指摘し
活動効果に生じた、伝達解説表現内容、及び表
ている。メタ認知とは自分の理解を意図的に監
現方法の教育効果のばらつきについて、その原
視し、計画、思考の規制、点検、再点検を行う
因を探り、指導環境の具体的な方法を探る事を
事である(Mary F. Heller, Reading−Writing
目的とする。
Connections−From Theory to Practice−,
・同一の環境、つまり映像メディアによる「振り
Longman, 1991)。すなわち、自己の実演映像
返りと見通し」が全員に同じ効果を与えられる
分析による「振り返りと見通し」活動はその事
物ではないらしい事が、前回の調査で理解でき
を具体化し運営する教育方法であると言える。
た。そこで、個々のケースで探る事を目的と
・教育活動における視聴覚教育の意味は、古くは
し、どんな対象者にどんな要素があるのか、環
学習効果の増大として認知されたばかりでな
境づくりとして何をふまえる必要があるのかを
く、あるタイプの発達障害の対象者にもその認
探り、明らかにする事を目的とする。
識や自己統制の効果が認められてきた物であ
・「振り返りと見通し」活動は学習技能に属する。
る。しかし効果の検証の研究よりも個々の教育
パリンサー(Annemarie Plincsar)らは、学習
保育従事者にとっての具体的な実施方法論が必
技能研究の歴史について、「伝統的な学習技能
要である事は、現場側からの要望であろう。教
観では、それは知識や技能の獲得あるいは理解
育技術と言う物は、ただ使えば即誰でも効果が
の促進の為に個人で行われる活動である、と考
出る物ではない。目的があっての方法でありそ
108
の目的を意識する事から始まる。しかし、かた
は効果の有効な側にあった。これらは映像の自
や養成校の現実の中で前述の様に 2 3 年間で
己分析による「振り返り」がその行為を修正し、
促成させなければならない事、全入時代学生の
到達目標である理想行為に至る為の効果的な対
高低幅広いレベルや拡散した資質に対応し、目
策を試行錯誤できると言う、「見通し」行為に
的を意識させ動機付けさせていく為には、新た
少しは貢献できたのではないか、と考えられた。
な教育方法論を探らなくてはならない。そこ
・(「テーマ設定課題項目」について)
で、学習とは関連付けである(Cross 1999)と
前回調査時の獲得ポイント別人数分布図の分
言う方向から物を見る事とした。心的な関連付
布パターンと異なり、他の 2 項目と同様の頂が
けが脳内のシナプスの連絡によって完成するか
見られた。それは 1 回目の自己活動映像の観察
はともかく、今まで分離していた二つの概念
分析後に、「テーマ設定項目」の優れていた演
が関連している事に気付く「アハー体験 ah
技者の映像を自己映像と比較し具体的な展開例
experience」や学問の抽象的な概念が日常生活
に触れる機会を設けた事と関係があったと考え
の具体的な事柄と関連している事に気付く満足
られた。
感に現れると言われている。その為の「出会い
・前回の振り返り環境では、「テーマ設定課題項
のドラマ」作りの一つとして自己を客観的に振
目」の獲得に貢献できるものが少なかった。
り返る方法をとる事にした。
比べて、
「操作関係項目」と「話術態度項目」では、
(手順)
教育保育養成校の教員に授業方法を設定し、依
頼し、映像記録とアンケート調査を行う。 統一
活動 1 回目に対する振り返り環境から意識づけ
られた目的行動が、活動 2 回目に反映されたと
考えられる。
した教材テーマのもとでプレゼンテーション活動
・これは、振り返る機会を提供され、気付いて
映像を撮影し、自己分析、フィードバック項目抽
も、目的に至る対策に具現化できる能力的な問
出し、養成校では科目項目にならない様な気付き
題ではないと考えられ、むしろ視覚的で印象的
のカテゴリーを中心に観察しつつ、効果を考察す
な「態度や操作」の気付きに捕われ、そこで思
る。そして効果のばらつきがある内容や対象者を
考停止するので、聴視者に対応した統合的なプ
抽出し、要素の分析を行う。同時に自己の実演映
レゼンテーションの構成に、気付くまでには至
像分析による「振り返りと見通し」活動を行わな
らないからかと推測された。振り返り環境から
いグループと比較検討する。
の気付きを次の目的に至る対策活動に具現化す
並行して学内の保育学科 1 年生に同様の手順で
一巡する。
ると言う事が容易なものとそうでないものがあ
ると考えられる。
(考察)
・前回の調査時と環境が変わらない「操作関係課
題項目」と「話術態度課題項目」の 2 つは、前
回同様、獲得ポイント別人数分布図の山の中心
109
子どものジェンダー形成
作 野 友 美
講 師
保育学科
平成 23 年度
1 .研究目的
3 時間のビデオカメラでのデータ記録採取とフィー
本研究の目的は、保育環境における相互行為場
ルドノーツを作成する参与観察を行った。プライ
面から、子どもがどのようなジェンダーに関する
バシーを考慮し、保育園名、園児や保育者の名前
コミュニケーションを行っているのかを検討し、
はすべて仮名を用いる。
明らかにすることである。
先行研究より、子どもたちは独自の意味世界を
生きていることが明らかになっている。
本研究でいう、ジェンダーにまつわる言動や行
為を含む活動とは、生物学的性と対比された社会
的文化的な構築としての性(ジェンダー)に関す
このことより、子どもたちのコミュニケーション
る発話や振る舞いなどを指す。その活動の開始か
をその文脈をよく理解した上で、できるだけ子ど
ら終わりまでを主に子どもが相互行為を行ったと
もの視点に立って解釈していくことが重要であ
きの発した言葉に注目して事例を収集し、エピ
るといえる。子どもたちは、その状況や行為主体、
ソード単位にその意味の分析を行った。そして、
文脈の違いによって、様々な意味でジェンダー
子どもたちのジェンダーに関するコミュニケー
をコミュニケーションに活かしていると考えら
ションの意味に着目してカテゴリー化を行った。
れる。
そのカテゴリーを年齢別に分類し、どの性別間で
本研究では、コールバーグ(1966/1979)のい
なされたのかを集計した。
う、ジェンダーの安定性の時期である 3 、4 歳児
と、時間や状況が変わっても自分自身や他者の
性別が変わらないことが理解できるようになる
3 .総合的考察
子 ど も た ち は、 男 / 女 に 関 し て 言 及 を し た
ジェンダー恒常性の時期である 5 歳児を対象に、
り、性別カテゴリーを用いて場を分けようとした
各年齢における子ども同士の相互行為に焦点を
り、からかいをするなど、ジェンダーに関するコ
当て、ジェンダーをめぐるコミュニケーション
ミュニケーションを展開していたことが明らか
を考察する。
になった。また、エッチな会話をしたり、異性に
関心を示すなど年齢を追うごとにそのバリエー
2 .研究方法
本研究は、関西圏の保育園において週 1 回、2 〜
110
ションも豊富になっていくことがわかった。男児
は、男/女にまつわる事項を用いて、ふざけやか
らかいに利用していた。女児は、男児のふざけや
とも可能であろう。それは、例えば「男の子が『女
からかい行為の抵抗や応戦として「女の子には優
の子』が持つモノとされているモノを身につけた
しく」などと主張するなど、殊に、からかいやエッ
り、用いたりすることは『男の子』として恥ずか
チな会話において男女の差異が見られた。
しいことだ」というような形で、男児は『男の子』
一連の事例において、多くが社会的に女性また
とはどのような性であるのかを学んでいく。これ
は女児にまつわる事項や行為に関してやりとり
は、男児が自分を『男の子』という集団に帰属さ
をするものであった。子どもたちにとって、「女
せるだけではなく、このような観念が男児集団の
の子はピンクを着る」「女性は化粧をする」など
中に芽生えつつあるということである。すなわち、
社会的に女児や女性がするとみなされる事項や行
これは、子どもたちが自ら自分の属している性と
為のほうが見えやすく、取り入れやすいのではな
は異なる性との差異化を図り、それに近接するこ
いかと考察される。子どもたちは、男/女という
とが「ふさわしくない」という意識を持つという、
性に関する社会的な意味づけを理解していくこと
性に関する高度な自我意識を持とうとしようとし
で、子どもたちの間でもコミュニケーションに利
ているということではないだろうか。
用していく。また、そのようなやりとりは、直接
本研究で扱った事例は、子どもたちが行う男
的に受け手にも作用し、ジェンダーを浸透させる
女にまつわるエピソードの断片にすぎない。し
可能性のあるコミュニケーションといえよう。そ
かしながら、子どもたちがどのように男/女に
して、このようなコミュニケーションを通して 1
関する事項や行為を理解し、それをコミュニケー
人 1 人がその場その場で生成される「男の子は化
ションに利用しているのかということの一端を
粧をしない」「女の子はピンク系のものを持つ」
垣間見ることができた。今後の研究では、コミュ
など、男/女にかかわる差異を自分のこととして
ニケーション・スキルの問題や恥などの自我意
内面化し強化していくことに、子どもたち同士も
識の形成の問題とも関連させて考えていく必要
作用していると考察できる。
があるだろう。
子どもたちは男/女にまつわる事項や行為を子
どもたちだけで使っていくことで、理解していな
い子どもにも直接的に教示することになったり、
他児とその認識を深めることになると考えられ
る。そして、このようなコミュニケーションを繰
り返すことで、子どもたちの中で、一定のジェン
ダーに関する共通理解が形成されることが考えら
れよう。
一方で、子どもたちだけが理解できるジェンダー
が形成される可能性や、子どもたちだけでも新た
なジェンダーを生み出す可能性があると考えるこ
111
文部省主催成人教育婦人講座の実践と課題
― 育児観に着目して ―
森 岡 伸 枝
講 師
保育学科
平成 23 年度
本論は、全国で開催された文部省主催「成人教
が、全国的な開催状況等がほとんど明らかになっ
育婦人講座」に着目し、なぜ女性が社会教育講座
ていなかったⅲ。ゆえに論者は文部省の女性への
の対象となったのか、そして必要とされた女性の
社会教育政策がどこまで実態に反映しているのか
教養(育児を含む)とは何であったのかを明らか
を掌握するために、全国の婦人講座の開催状況や
にすることを目的とする。なお、対象とする時期
講座科目等を明らかにしてきたⅳ。その結果、宮
は、初めて「成人教育婦人講座」が開催された大
坂広作は社会教育政策の機能について「思想善導
正 13(1924)年から、本講座が「母の講座」と
を中心とする」ⅴとし、文部省のイデオロギー教化
共に拡充していく昭和 4(1929)年までとするも
の側面を強調する。だが、論者は宮坂のこの見解
のであるⅰ。
は男性用の成人講座についてのものであり、婦人
文部省主催「成人教育婦人講座」(以下婦人講
に対するそれ(婦人講座)については当てはまら
座と記す)は、大正 14(1925)年に奈良女子高
ないと結論づけた。しかし、女性が成人教育講座
等師範学校(以下奈良女高師と記す)に本省が委
の対象となった際、文部省側あるいは府県は女性
嘱し、開催されたのを始めとする。先行研究では、
に子どもの教育を含めどのような役割を期待し、
婦人講座は生活改善運動の一環として行われ、育
何の教養を身につけることを期待していたのかと
児も含めた家庭の機能に影響を及ぼそうとするも
いう点については深く追究してこなかった。
のであったといわれている。ただ、婦人講座は主
以上の課題意識から、本研究ではまず、文部省
たる研究対象となっておらず、たとえば本講座に
社会教育課小尾範治の著書や論説を検討し、女性
関する文部省の政策について、『日本近代教育百
に対する社会教育観をみていった。そして、文部
年史』『近代日本社会教育政策史』といった研究
省が婦人講座の各委嘱先に送付したと思われる文
においてもさほど言及されることはなかった ii。
書(奈良女子大学附属図書館所蔵)ⅵを検討し、文
ゆえに、なぜ文部省は女性を社会教育講座の対象
部省が女性に対してどのような社会教育講座を考
としたのか、ということはほとんど明らかになっ
えていたのかを考察した。さらに文部省『成人教
ていない。
育講座実施概要』ⅶから全国における婦人講座の開
また、婦人講座の実態については、社会教育史、
地方教育史、婦人教育史等の中で紹介されてきた
112
催状況等の実態を検討し、各委嘱先は女性の教養
をどのように考えていたのかを明らかにした。
その結果、当時の文部省の社会教育講座の目
的は、近代的な国民を育成することにあったが、
婦人講座の中身については育児知識を与えると
教育学部社会教育学研究室、昭和 63(1988)年)。そ
して地方教育史研究では、『大阪府教育百年史』にお
いて奈良女高師による婦人講座について、聴講者の学
歴や年齢等が明らかにされている(『大阪府教育百年
いった指示をしていないように、婦人教育におい
史』第 1 巻概説編、大阪府教育委員会、昭和 48(1973)
て明確なビジョンがあったとは言い難いもので
年、1032 〜 1035 頁)。また婦人教育史研究では、山
あったことが明らかとなった。ゆえに、文部省の
村は奈良女高師の婦人講座について各年度の講義科目
等を紹介するにとどまっている(山村淑子「戦時期に
課題としては、婦人講座により、女性の近代化を
おける母性の国家統合 ― 文部省「母の講座」を中心
いかにすすめていくのかが、課題として残され
として ―」『総合女性史研究』21 巻、総合女性史研究
ていたといえる。だが、婦人講座を委嘱された
各府県レベルでは、女性のニーズを考えながら、
そこで与える教養は裁縫といったものに限らず、
育児や小児栄養などが含まれており、従来の育
児観に転換を迫るものであったといえる。すな
わち、成人女性に必要とされてきた育児知識は、
従来であれば周囲の人々によって経験談として
伝承されるものであった。だが、婦人講座の出
現により、育児知識は学校によって医学的・科
学的なものとして語られるものだという育児観
が新たに形成される契機となったといえる。
会、平成 16(2004)年、30 〜 34 頁)。
ⅳ 森岡伸枝「1920 年代における文部省主催『成人教育
婦人講座』― 文部省の指示と各府県での実態に着目
して ―」(関西大学教育学会『教育科学セミナリー』
第 42 号、2011 年)
ⅴ 宮坂広作前掲書、233 頁。
ⅵ 「24 ― 成人教育・社会教育」『校史関係史料目録』(奈
良女子大学附属図書館、平成 3(1991)年)に婦人講
座に関する資料が分類されており、この目録に沿っ
て第 1 次資料が奈良女子大学附属図書館に所蔵され
ている。
ⅶ 文部省『大正十五年度 成人教育講座実施概要』。なお、
昭和 2(1927)年度以降は『本省主催成人教育講座実
施概要』へと名称変更する。
ⅰ 昭和 5(1930)年以降については「母の講座」を開催
する地域と「婦人講座」を開催する地域に分かれるた
め、両者の目的の違いなど詳細な比較検討が必要と
なってくる。したがって、本論ではまず婦人講座の源
流に着目し、対象とする時期を大正 13(1925)年以
降昭和 4(1929)年と設定した。
ⅱ 国立教育研究所編『日本近代教育百年史』第 8 巻社会
教育(2)東洋館出版社、
昭和 49(1974)年、
宮坂広作『近
代日本社会教育政策史』国土社、昭和 41(1966)年。
ⅲ 社会教育史研究では成人講座の実態解明に取り組んだ
ものとして、小樽市の事例を明らかにした鈴木の論文
がみられるが、資料的制約ゆえに成人講座の開催に関
する文部省の指示内容は明らかにされていない(鈴木
真理「昭和初期文部省主催成人教育講座に関する考
察」『社会教育学・図書館学研究』第 12 号、東京大学
113
景観保全と行政訴訟
畑 雅 弘
教 授
教養課程
平成 23 年度
今回の研究では、景観三法制定後の、地方自治
体の取組み状況を確認すること、及び近時の景観
保全訴訟の動向および判例を分析することである。
等)は、歴史的・文化的景観の保全タイプである
といえる。
今回調査した篠山市は、混合型タイプの典型で
ある。同市は、阪神間から電車で 1 時間のところ
1 .景観三法と景観行政団体
景観法及びその関連法(景観法の施行に伴う関
に位置するが、緑豊かな里山と田園風景が継承さ
れ、今もなお日本の農村の原風景である「ふるさ
係法律の整備等に関する法律及び都市緑地保全法
との景観」が残っている。また、中心市街地は、
等の一部を改正する法律)、いわゆる景観三法が
江戸期の城下町であったことから、国選定重要伝
平成 17 年 6 月 1 日に全面施行された。都市、農
統的建造物群保存地区に指定されている歴史的な
山漁村等における良好な景観の形成を図るため、
町並みが残っている。加えて、旧宿場町などの面
良好な景観の形成に関する基本理念及び国等の責
影が色濃く残る街村も存在する。同市は、これら
務を定めるとともに、景観計画の策定、景観計画
の景観を保全すべく、景観計画及び景観保護条例
区域、景観地区等における良好な景観の形成のた
の案を提出し、現在、パブリックコメント手続に
めの規制、景観整備機構による支援等所要の措置
おいて市民の声を聞いているところである。
を講ずる、我が国で初めての、景観についての総
合的な法律である。
2 .景観保全と行政訴訟
本法制定後、景観行政団体である地方自治体
景観保全は、土地利用、建築行為の規制を必要
は、2012 年 1 月 1 日時点で 524 団体があり、景
とする。経済活動、インフラ整備などの必要性も
観法に基づいて景観計画を定め、指定区域の規制
否定できないなか、いかなる程度の規制を行うか
を行っている。
の判断は難しい。それは、景観保全と開発との調
保全する景観の中身は、自然的な景観、都市・
集落の景観および歴史的文化的な景観(福山市景
観計画による分類)であるが、各自治体の地域特
和を見いだすことなのであるが、国民の価値観は
一様ではない。
この調和は、景観法のみならず、都市計画法、
性により、その重点の置き方は異なる。たとえば、
建築基準法、自然公園法、そのた各種開発行為の
東京都の区の場合(例えば今回の調査した台東区
規制法律の総合的運用の中で、目指されてきたと
114
ころであるが、近時は、自然環境、景観の価値の
こと、また根拠法令の趣旨・目的を考量するに当
大切さが改めて認識されるなか、行政がゴーサ
たっては、根拠法と目的を共通にするに関連する
インを出した開発行為等について、住民が反対
法令の趣旨・目的を参酌することとしている(従
し、行政の判断の妥当性を訴訟で争うことも多く
来の通説「根拠法目的基準」説と、それより法律
なってきている。
上の利益を広く捉える「法的保護に値する利益」
景観保全訴訟としては、一定の高さ以上のマン
説の中間といえる立場といえようか)。
ション部分の撤去を命じた国立大学通り高層マン
広島地裁(平成 20 年 2 月 29 日は)、基本的に
ション訴訟(最高裁 18.3.31 判決)が有名である。
9 条 2 項の指針に従い、判断している。すなわち、
最高裁は景観権という一般的な権利の存在は否定
公有水面埋立法 4 条 1 項 3 号が、公有水面の免許
したが、一定の場合には、景観利益が法的保護に
基準の一つに、埋立地の用途が土地利用又は環境
値する利益となりうるとした点において、画期的
保全に関する国または地方公共団体の定める計画
な判決と言える。
に違背していないことを挙げていること、また埋
そして、近時の例としては、鞆の浦訴訟(鞆の
立の告示があったとき、利害関係人は都道府県知
浦世界遺産訴訟)を挙げなければならない。広島
事に意見書を提出することをさだめていること、
県福山市の鞆の浦湾の架橋計画に係る公有水面埋
さらに目的を共通にする法律として瀬戸内海環境
立て免許について、周辺住民等が埋立て免許処分
保全特別措置法を挙げ、同法も環境保全の配慮お
の差止めを請求、同時に仮の差止めの申立てした
よび住民の意見反映を要求していることを根拠に
行政訴訟である。
して、景観利益の「法律上の利益」性を肯定し、
この訴訟では、広島県知事の埋立て免許処分の
差止めを排水権者や周辺住民が請求したが、そも
かつ住民がそれを有しているとして原告適格を認
めている。
そもこれらの者に原告適格があるかどうかが問題
となる。行政処分の差止め訴訟は、処分の差止め
3 .今後の課題
を求めるについて「法律上の利益」を有する者に
鞆の浦訴訟広島地裁判決は、行政救済の機会を
限り提起することが出きる(行政事件訴訟法 37
保障する上で必要な、原告適格の拡大に沿った考
条の 4 3 項)。景観利益は、原告適格を肯定す
え方であり、肯定的評価が可能である。ただ、景
る「法律上の利益」といえるのであろうか。
観法が保全しようとしている、
「良好な景観(good
行政事件訴訟法 9 条の「法律上の利益」に意味
landscape)」とは何か、それは公益なのか個人的
については、従来から種々の解釈がみられるとこ
利益なのか、もし公益性の強いものであるとする
ろであるが、行政事件訴訟法 9 条 2 項(2004 年
と、主観訴訟としての行政訴訟で救済を図るもの
の改正により挿入された)は、法律上の利益の有
ではないのではないかという疑問もあり、さらに
無の判断においては、当該処分の根拠法の文言の
検討の必要があるであろう。
みによることなく、根拠法の趣旨目的ならびに処
分において考慮されるべき利益の内容を考慮する
115
幼児体育(運動遊び)における手作り運動器具の作製と実践
― 楽しさと挑戦する意欲を目指して ―
佐 藤 利 一
准教授
通信教育部 保育学科
平成 23 年度
【研究目的】
IT 関連の器具が急速に発展し、画面を通して
運動もできる時代になっている。そこで、逆に手
*的当て
ボールが的に当たると後ろに倒れるように
作製。
作り器具や昔からある道具を使用し、幼児の興味
1 位の色を横幅 20cm、高さ 25cm とし、2 〜
の度合いを見ながら実践することで、自ら積極的
4 位まで各高さを 4cm 高くし、5 位の色をボー
に運動に参加する意欲や、挑戦しようとする姿勢
ド版とした。
をどれぐらい引き出せるか調査した。また、器具
*ボールの選択
での動きを連射カメラで撮影し、動きのメカニズ
ムを探求しながらプラス要因やマイナス要因を探
り、指導技術の向上及び保育学科学生の教育指導
に役立てることを目的とする。
重さ 30g、直径 8cm のゴムボールを使用し、
飛距離を測定した。
年長男子では( 6 〜 9m)が 77% で女子では
( 5 〜 7m)が 90% であった。
年中男子では( 4 〜 5m)が 68% で女子では
【研究計画】
大阪芸術大学附属幼稚園 4 園の年長児 215 名・
年中児 191 名を対象とした。
色・的当て・キャッチング・ドリブル・ハードル・
両足ジャンプの 6 項目を調査した。
( 3 〜 4m)が 75% であった。
このデーターを参考に、投球距離を 4 〜 7m
で設定した。
5 〜 7 人の 2 チーム編成として 1 個のボール
を持ちリレー方式で的が全部倒れるまで続けた。
(成果)
【方法と成果】
*興味ある色の調査
9 種類のカラーボール
(赤・青・緑・黄色・黒・水・
オレンジ・ピンク・茶色)を設定し、好みの色
を 3 種類選択し、上位から 5 種類の色を選んだ。
「結果」
的が倒れる瞬間の喜び。チームの優勢状況が把
握できる。チーム競技なので互いに勝利を味わう
ことが出来る。この利点から、盛り上がりの中で、
的に当てようとする意欲が伺えた。
(問題点)
飛距離の伸びない幼児を調査すると、脇を締め
年長組男子では、
( 1 位 青)
・
(2 位 赤)
・
(3 位 緑)
・
た状態から前腕を前や横から出す形が見受けられ
(4 位 水)
・
(5 位 黒)
で年長組女子では
(1 位 ピンク)
・
た。これが原因であれば、脇を開く形にすること
(2 位 水)
・
(3 位 黄)
・
(4 位 赤)
・
(5 位 オレンジ)
が必要であると考えられる。
であった。
この色を参考にして、的当ての器具を作製した。
116
第 1 段階として、羽根の広い紙飛行機を使用し
特に、指の第三関節に当てることで安定感が保
た。滞空時間が長く飛行変化が生じる為、10 分
たれていた。
程度、投法に集中できた。第 2 段階として、ス
*ハードル走・両足ジャンプ
ポンジを長さ 30cm、幅 5cm のロケット型にし、
槍投げの方法や雪合戦方式を取り入れ、投げる楽
しさを味わえる試みをした。
「ハードル」
牛乳パックを固定し高さ 20cm のハードルを
使用していたが、転倒する場面も見られたので、
バーの所をスポンジに変え、乗せる形にし、高
*ボールキャッチ
木材で両側を固定し中央の真上から振り子
さを 10cm 高くして試みた。
(成果)
方式で回転し 1 秒でボールに当たり、高さ 3 〜
スポンジによる効果で、転倒者は激変した。
4m 上昇し、放物線を描いて 3m 地点に落下す
外れるので安心感が生まれ、踏んでも沈む状態
る器具を作製した。ボールはビーチボールを使
になり、着地後の 2 歩目の足が前方に踏み出せる
用した。
ため、転倒防止につながったと考えられる。
スタート場所は、落下地点から 1 〜 3m 前後と
した。
(成果)
落下地点が読めずにキャッチが困難な幼児も見
受けられたが、しだいにボールが頂点に達する所
で前後左右の反応を示し、落下地点に入ることが
出来てきた。
真上から降りおろされながらボールに当たり、
ハードル間の距離も、年長児で 3m50cm が着
地から 4 歩で飛べる距離感覚であると確認した。
「両足ジャンプ」
牛乳パックにスポンジを乗せ、33cm の高さに
して 7 台縦に設定した。
(成果)
7 台の設定理由は、声を出すねらいがあり、1 週
間の月〜日までを数えながら飛ぶことで、バラン
飛んでくる状況が把握できるので、スタート地点
ス感覚が向上していった。また、バーが外れるた
に立った時から集中していた。
めパーフェクトでクリヤーしようとする姿勢も伺
ビーチボールを使用したことで、顔と両手で三
角の支点でキャッチする姿も見受けられ、ボール
うことができた。
感覚距離は 60cm が妥当であった。
を最後まで目で追っている表れでもあった。
特に印象的なことはキャッチ後の満足感が記録
に残っており再挑戦の意思を示していた。
*ボールドリブル
【まとめ】
幾種類かの道具を使用してみたが、毎回興味を
引き、挑戦意欲が表に出ていた。
年中児を対象に行った。
行動・見学チームに分けて行った所、見学チーム
1 回 3 分程度で 1 日 2 回、直径 5cm のスーパー
がしっかりと行動チームを見ていることが効果の
ボールを使用した。
(成果)
現れであると考えられる。また、その場限りでは
なく、反復する重要性が不可欠で、体験率が増加
手の大きさは、約横幅 8cm 指の長さまで 10cm
するたびに、運動効果やバランス感覚を養うこと
ぐらいであり、直径 5cm のボール扱いは困難で
が出来る。そのためには、準備時間の掛からない
あるが、逆に集中出来ると期待をかけた。
ことが必要条件になるであろう。
手の付き方や膝の使い方によりバウンドの威力
が変化することに気付き、
自らの工夫姿勢が伺えた。
117
118
119
ハイビジョン空撮機材の利用研究 1
鈴 木 球 也
教 授
総合デザイン学科
平成 23 年度
本研究ではラジコンヘリコプターによる空撮の利
から説明的な画へと 1 カットの中で映像として
用研究を行なった。ラジコンヘリコプターによ
成立させることができることが確認された。こ
る空撮映像は映像作品の中において効果的に訴
れを利用し映像作品に品位を伴い変化を与える
求力ある変化を生み出すが、実機ヘリコプターよ
カットの収録を試みた。試みとして映像配信サイ
り低空での、まるで人が歩いているような視線か
ト YouTube 公開用に撮影したものは水面上での
ら一気に上空へと移動し全景を見せるというよう
移動を巧みに取り入れた作品として制作した。公
な非日常の映像を生み出す。これを実現するため
開は「Under Oriental Skies ― ラジコンヘリ空
ヘリコプターの振動除去など画質面での改善を行
撮 ―」として作品をアップし好評を得るにいたっ
なってきたが、放送画質に及ぶ高画質な映像収録
た。公開アドレスは http://www.youtube.com/
はカメラ性能に及ぶところが大である。しかし小
watch?v=2M3Yy5PxJZM。撮影は愛媛県内の渓
型軽量の個人向けカメラはこれまでそのコスト設
流と高原で行い小規模な落差の滝を中心に水の流
計から画質に制限が及び、特にレンズ描写性能を
れを捉えたものである。水面を滑らかに移動し風
はじめとする表現力に限界が存在した。しかし近
の流れのような視点で変化ある画作りに臨み効果
年、業務用カメラにも小型化の価値が生まれ、こ
的な編集を行なった。本研究の狙うところである
れに対応する機種が多く発売されるように時代の
高品位な映像となったが、高品位である理由は揺
変化が生じてきた。特に画角の広角化とアタッチ
れを除去する技術にある。本研究では高品位なカ
メントレンズの高性能化は受け入れられる状況が
メラの映像を活かすため、空中移動するヘリコプ
拡大してきたことにより一層推進を見た。本研究
ターに装着されたカメラを保持するジンバルに
はこの広角化された映像収録を業務を含めた映像
ジャイロを搭載する。機械的なバランスをとると
制作に活用することが目的である。研究の実際に
ともに 3 軸ジャイロによるカメラ揺れ止めに成功
おいては広角化に伴うパースペクティブの変化を
した。通常、揺れの残る画像では編集時において
活かし、魅力ある画作りを目指した。人の目線
モーションスタビライザー処理を行い、映像画面
のような高度を走るような速度で前進移動しそ
上でデジタル処理によって揺れを除去する。しか
のまま上空へ高度を上げると移動感を伴い全景
しこの方法は非常に手間のかかる作業である上、
をスムースに見せることができる。魅力ある画
画面を拡大利用するため画質が低下するという難
120
点が存在する。本研究の目標はモーションスタビ
飛行は禁止されている。現状の機材は環境系の撮
ライザーなしで高画質をそのまま利用することで
影にのみ利用できるものであり、この現状機材の
あるがこの実地研究によって成功したことを確認
利用範囲としての安定運用を図ることは経験と回
した。この成功によって放送利用も視野に入り、
数の積算である。その範囲においての利用を目的
次の実験としてテレビ番組への利用を行なう機会
に改良策を模索するものである。
を得るに至った。東京放送(TBS)番組「THE
世界遺産」は高画質映像を特徴とする番組である
がこの番組での企画として小笠原諸島父島での撮
影を行なった。この実地では高画質が収録可能な
機材を離島へ運搬し、そこで活用するという難度
の高い要求が発生する。ラジコンヘリコプターの
軽量小型である特徴を活かす実地である。離島へ
の運搬は重量、大きさ制限が発生しまた燃料、電
池類の持ち込みも規制されるが本研究の成果はそ
れをも視野に入れたものであり特に大きな問題の
発生なく移動に成功した。現地での撮影において
も時間的効率はスムースであり多数カットの収録
に成功し、TBS ディレクターにはたいへん喜ん
でいただいた。本研究成果は TBS 番組放送に使
用され、平成 23 年 11 月 27 日に「THE 世界遺産
スペシャル ― 空から見る日本 I 自然遺産編」と
して全国放送され、その後の報告では視聴率も好
調であった。放送では多数のカットが使用され本
研究の利用価値が確認された。TBS ディレクター
の感想としては、効果的な映像を効率的に収録で
きる機材として今後の利用価値を期待できる、と
の評価をいただき番組 HP でも興味ある機材とし
て特に紹介していただいた。この成果は本研究の
本分を余すところ現し非常によい成果を挙げたと
認める。今回の研究から次に見出される目標はラ
ジコンヘリの安定運用と非常時の安全性の確立で
ある。従来からラジコンヘリの危険性は絶対ゼロ
にはならないものであり、都市部、人の上空での
121
「くるくる紙芝居」コンテンツ試作と運用法
細 沼 俊 也
准教授
総合デザイン学科
平成 23 年度
【研究目的】
本研究では、
前年度からの制作スキームやプロジェ
クト運営、連携協力イベント実施結果を踏まえ、
その問題点を探り改善策を検討しながら、さらな
るレベルアップを目的にエコ教育教材コンテンツ
制作を中心に研究を継続して行う。
【研究計画・方法の全体調整】
前年度同様に本研究プロジェクトメンバー全員が研
究目標と研究計画を把握する上で合同協議を行う。
【分野別制作物とエコ 365 プロジェクトメンバー
の決定】
《分野別制作物》
1 . 導 入 ア ニ メ 横 山 幼 稚 園 用 吹 替 ア テ レ コ 2 .ECO365 メンバーズバッチ 3 . 新リサイクル
キャラクター(パック船長) 4 . ミニくるくる紙
芝居台 5 . カード遊び(分別トリオカード) 6 . パネルシアター(分別トリオ登場の巻) 7 . 絵
合わせカード(エコめくり) 8 . 自宅学習用エコ
教材[おみやげ]<エコバッグ・絵合わせパズル「エ
コチェーン」
・卓上すごろく「エコトレイン」
・ぬり
え・エコソング DVD・エコ学習教材本(エコの
たね)>/グッズ(シール・マグカップ) 9 .Web
版 3 D パノラマ絵本 10. 認定証とメダル 11. エ
コ 365 プロジェクト企画・運営 12.ECO365Web
サイト(~エコロン村の大冒険~)
《エコ 365 プロジェクトメンバー構成》
・在校生 17 名 ・卒業生 1 名 ・学外タレント
2 名(プリンセス金魚) ・非常勤講師:劉 相
孝(R2 代表)/神野 修(造形屋主宰)/糸数康
明(マルチメディアクリエイター) ・准教授:
細沼俊也 ・協力:キャラクター造形研究室、グ
ラフィックデザイン研究室
【前年度作成したコンテンツの見直し】
エコ教育イベント後の参加園児に対する[おみや
げ]を主として見直しを行う。また、研究プロジェ
クトの進行状態は、随時ブログやツイッターで公
122
開し情報を共有。
【事例調査】
《コンテンツ事例分析》
① 平 成 23 年 8 月 12 日「S3D 映 像 現 状 調 査 」
……本年度に試作する 2D 画像からの 3D 変
換に関わる事前調査を目的に、S A I T A M A
S U P E R A R E N A【 J Y P N A T I O N i n
JAPAN 2011】コンサート S3D 映像撮影ディ
レクター・パクソンイン氏に S3D 映像の現
状について伺う。
② 平 成 23 年 12 月 26 日「 教 育 教 材 制 作 調 査 」
……Web と連携したユーザー参加型のイベン
ト事例調査を目的に、彩の国ビジュアルプラ
ザ【ビジュアル・サーカス】パフォーマンス
イベントでの明和電機製品デモに参加した。
【主たる制作物の目的と特徴】
《『自宅学習用エコ教材[おみやげ]』の制作》
本研究で開発する『自宅学習用エコ教材[おみや
げ]』は、園児達が参加したエコ教育イベント終
了後に自宅に持ち帰り、継続して家族と遊びなが
ら自然とエコ知識が身に付くエコ学習教材となっ
ている点が特徴である。
《新リサイクルキャラクター(パック船長)の制作》
現在エコロン村のリサイクルキャラクターにない
牛乳パックをモチーフとした新キャラクターのデ
ザイン案をNHK【あほやねん!すきやねん!】
の番組でプリンセス金魚のお二人に制作依頼、本
学でブラッシュアップし新キャラが完成。
《オリジナル「ミニくるくる紙芝居台」の企画・
デザインと製作発注》
「ミニくるくる紙芝居台」の基本サイズとデザイン
を決定後、製作を依頼した造形屋神野氏と改良し
ながら完成。サイズを小さくすることで園児たち
も扱える様にして汎用性を高めた。
《S3DWeb 版パノラマ絵本の企画・オーサリング》
好奇心豊かな子供達にとって AR コンテンツは導
入に有効といえる。次年度に向けて前年度制作
した Web 版パノラマ絵本を S3D 映像に変換し、
Web 上で閲覧できる様に Flash で試作。オーサ
リングは劉氏に協力を依頼した。
【イベントプロデュースボランティア事業の企画・
実施】
《コラボイベント『エコ 365 プロジェクト』の企
画と調整》
和泉市立教育研究所樹下所長、和泉市立横山幼稚
園園長と園児へのエコ学習教材とプログラムにつ
いて協議。
※ イベント時間は 45 分 1 . はじめの挨拶・導
入アニメ/ 10 分(園児は受動態、興味から
集中力を高める) 2 .「くるくる紙芝居」/ 10
分(園児は受動態、楽しく学び集中力を高め
る) 3 . 班に移動( 5 グループ花組・空組混合)
4 . カード遊び(分別トリオカード)
/ 15 分(園
児はアクション、楽しく学ぶ) 5 . 認定証授与・
おわりの挨拶・メダル、おみやげ、マグカッ
プ贈呈/ 8 分(園児はシェア、自宅継続学習、
共有と回想)
[コラボイベント実施先と対象者について]
前年度同様に官学協同プロジェクトとして実施。
・対 象 者:和泉市立横山幼稚園花組・空組の園
児 29 名
・実施回数:1 回
《コラボイベントスタッフの決定》
運営:CD 専攻学生 11 名/サポート:CD 専攻ア
シスタント 1 名/事務局契約職員 1 名/統括責任
者:准教授 細沼俊也
《コラボイベントの実施》
[エコ教育プログラム達成目標]
・和泉市立横山幼稚園花組、空組/平成 24 年
1 月 27 日(金)……キャラクターの親和性/分
別ゴミの種類と捨て方を学ぶ。
[動的に楽しく学ぶイベント用新エコ教材の必要性]
今年度は「エコかるた」に変わり受動態からアク
ションに転じる動的なエコ教材として、カードゲー
ムである「分別トリオカード」を制作しイベント
プログラムに取り入れた。
「エコかるた」は園児
達が座ってカードを取り合うのに対し、
「分別トリ
オカード」は立って動き回るカードゲームである。
前年度の経験からプログラムの進行には園児達が
自ら体を動かして楽しく学ぶプログラムが必要性
であることを認識しており、記憶に残るエコ教育
イベントには必要不可欠のものである。
《イベントプロデュースボランティア事業のコラ
ボシップ効果の検証》
イベント実施後アンケート調査により効果を検証。
アンケートⅠ:今回のイベントに参加された、教
育研究所・横山幼稚園の担当者 6 名の協力を得て
実施。今回特に力を入れた「おみやげ」の教材内
容について高い評価を受けた。問題点としては、
悪役の CO 2 くんの本来の意味が園児に伝わりき
れていなかったことである。イベントプログラム
全体としては高評価であった。
アンケートⅡ:プロジェクトに関わったメンバーに
対し実施。目的を達成する為に計画的にデザイン
し運用することの難しさや、自分の役割を認識し
実行する大切さなど、個々にグループワークから
得られたと感じており、各自がスキルアップ効果
を実感していた。
《ECO365 サイトの構築と考察》
現在公開中のコラボレーションサイトとは別に、
ECO365 専用のサイトを試作中。コラボレーション
サイト『みんなのパノラマ絵本』では、コラボレー
ション制作でのパノラマ絵本を中心にブログや作家
の作品を公開してきたが、今回制作する『ECO365
~ エコロン村の大冒険 ~ 』では、ECO 365 の取
組みと開発したエコ学習教材やイベント、グッズ、
作家作品紹介などツイッターやブログも併設しコン
テンツを公開する。公開は次年度を予定。
【まとめ】
エコ 365 プロジェクトを通じてメンバー1人1人
が、デザインについて問い始めていたことが印象
的であった。また和泉市立教育研究所、和泉市立
横山幼稚園の関係者から、真剣にプロジェクトに
対する批評を頂けたことにも感謝している。更な
るエコ 365 エコ教育事業のブラッシュアップを行
い、より良いプログラムを構築していきたい。今
回の横山幼稚園でのエコ教育イベントは、「大阪
芸術大学テレビ」番組内(平成 24 年 2 月 17 日・
18 日)で紹介された。また、NHK総合TV番
組「あほやねん!すきやねん!」
(平成 23 年 12 月
7 日)では、官学連携 ECO365 プロジェクトの取
組みも紹介され、番組内で新リサイクルキャラが
誕生するという、番組とのコラボ制作も学生たち
にとって楽しい学びであった。
最後に、このエコ 365 プロジェクトにご理解とご
協力を頂きました全ての関係者の方々に厚く御礼
を申し上げたい。
【イベントプロデュースボランティア事業のコラ
ボシップ効果の検証と ECO365 サイトの構築
と考察】
123
可溶性金属塩による「にじみ / ぼかし」の試み
伊 藤 均
教 授
美術・工芸学科
平成 23 年度
■「研究目的」の達成度
方法を追求した。
可溶性金属塩の特色は従来の粉体顔料では表現
塩化コバルト・酸化第一鉄・硝酸鉄・硫酸銅・
し得ない、深みのある優雅な色調・うっすらと
硝酸銅・塩化ニッケル・硝酸マンガン・塩化金銀・
光沢のある色調・独特の浸透性、を持っている。
硝酸クロム・タンバンの 10 種の可溶性金属塩で
1950 年代以降のアメリカにおける抽象表現主義
造形作品・クラフト作品に絵付けしその装飾効果・
的陶芸の独特な色彩表現に合致しており、可溶性
表現効果を検証した。研究結果は、「滲み」/「ぼ
金属塩の色彩表現の確立が急務とされている。装
かし」などの装飾効果に関しては塩化コバルト・
飾の素材として可溶性金属塩を用いた表現が試み
塩化金銀・タンバンに、当初予想していた以上の
られており、今、陶表現に導入できる安定した可
装飾効果を得ることが出来た。焼成結果は技術的
溶性金属塩の発色が求められている。なぜならば、
な問題も含めて、描画後・施釉から焼成までの時
新たな「装飾表現」が現代陶芸の主流となる方向
間を短縮することで解決できた。大旨良好な結果
にある。
を得たことから、次年度の課題制作に導入するこ
22 年度の研究「可溶性金属塩の発色/発色効
とが可能となった。
果の考察」で得た、可溶性金属塩の発色データー、
表現効果を基に、本年度は造形作品・クラフト作
品・実制作に反映させる。可溶性金属塩で描画し
その、「滲み」/「ぼかし」の効果を装飾として自
■「研究計画・方法」の過程
今回の研究は大阪美術専門学校の陶芸工房で実
施した。
立させ、粉体顔料に比べて技術的に困難と思われ
可溶性金属塩二十数種のうち、塩化コバルト・
る、着色・乾燥・焼成などを確立することが主目
酸化第一鉄・硝酸鉄・硫酸銅・硝酸銅・塩化ニッ
的である。
ケル・硝酸マンガン・塩化金銀・硝酸クロム・
陶磁器に施す絵付けには、釉下・釉中・釉上が
タンバンの 10 種の可溶性金属塩で造形作品に彩
あり、釉下の着色顔料には、鉄・呉須、などの粉
色・焼成しその装飾効果を検証しそれぞれの顔
体顔料と水に溶ける絵の具と、可溶性金属塩の二
料が持つ固有の発色を考察し、顔料の使用方法
種がある。可溶性金属塩が持つ特性「滲み」/「ぼ
の技術的な安定度を目指した。
かし」などの発色効果を最大限に発揮できる技術・
124
以下の条件で研究を実施した。素地土は、京
都日本陶料製造・並信楽土・磁器土を用いた。可
筆遣いなどの要因がどのように反映されるのか
溶性金属塩と水との混合比は、塩化コバルト 1g
実用段階まで到達させたい。
水 10cc、酸化第一鉄 1g 水 13cc、硝酸鉄 1g
水 15cc、硫酸銅 1g 水 20cc、硝酸銅 1g 水
■「研究計画・方法」の成果
10cc、塩化ニッケル 1g 水 10cc、硝酸マンガン
塩化コバルト・酸化第一鉄・硝酸鉄・硫酸銅・
原液、塩化金銀 1g 水 20cc、硝酸クロム 1g 水
硝酸銅・塩化ニッケル・硝酸マンガン・塩化金銀・
10cc、タンバン 1g 水 10cc、を基準に各顔料と
硝酸クロム・タンバンの 10 種の焼成を試みた結
水の混合比を変化させ数回のテストを実施した。
果は、何れにおいても、十分とは言えないまでも、
素焼きは可溶性金属塩の特性である浸透性は
下絵付け段階でも起こりうる事が判明したので、
ここの顔料の固有色を得ることができた。
還元焼成においては、塩化コバルト以外は、鮮
少しでもその弊害を無くするために、900 度で
やかな発色は示さず、硫酸銅・硝酸銅も、銅赤色
焼成する事とした。釉薬は、京都日本陶料製造・
を期待したのだが、表現に至るまでの発色は得ら
3 号石灰釉・マット釉、を用いた。施釉は描画
れなかった。塩化コバルト・塩化金銀・タンバン
後、直ちに浸し掛けをし、自然乾燥の後に焼成
に、従来の粉体顔料では表現し得ない、深みのあ
を実施。焼成温度・雰囲気は、酸化焼成は 1230
る優雅な色調・うっすらと光沢のある色調と独特
度、還元焼成は 1230 度、還元温度は 850 度から、
の浸透性を得ることが出来た。
1160 度、3 時間 20 分であった。
塩化コバルトを用いた描画は時折見受けられる
試験体の形状は、水に溶解した水溶性塩化金属
のだが、それ以外の可溶性金属塩を使用した描画
を用いて素地に描画を施すのであるが、この顔料
はあまり見受けられない。今回の研究により、本
は素地に対して浸透性がある。この特性を生か
校のカリキュラムに導入する事が可能となり、今
して一般の粉体顔料では困難な濃淡のぼかしや、
まで以上に表現の幅が広がり学生にとっても従来
にじみ文様などを効果的に表す事ができる。以
の、「日本的な色彩」のみの表現から脱却し可溶
上のような観点から、器物性のある形状を考え、
性金属塩を装飾の素材として用いる事で新たな色
直径 30 センチ、深さ 13 センチの逆三角形の形。
彩感覚を用いた表現が可能である。
即ち 2 年生の前期のろくろ課題である、中鉢に
描画した。深さも 13 センチあるので、口部から
底部にかけてのグラデーションの表現も可能だ
と思う。同じくろくろ課題の直径 10 センチ・高
さ 40 センチの円筒状の袋物に、リング状に描画
し、ぼかし文様の装飾表現を実施した。器物の
内側に描いた文様が外側にどのように反映され
るのか、実験段階の線描ではかなり鮮明な、に
じみを呈したが、今回の文様では、顔料の濃淡・
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対(つい)と矩形の構造について
日下部 一司
教 授
美術・工芸学科
平成 23 年度
これまで、写真における支持体の触覚性と物質
く人かの作家の平面作品に於いては、意識的ある
性について興味を持って制作してきた。それと同
いは無意識に「対」の関係による構図を作り上げ
時に関心を持っているのは矩形、すなわち写真の
ているものがある。
縦横の比率についてである。
基本的に写真は対象を四角く切り取ることで成
り立つ表現なので、当然ながらカメラのファイン
ダーの縦・横比率によって構図のとり方が変わる。
顕著な例はブレッソン(Henri Cartier−Bresson)
とマティス(Henri Matisse)である。
(Henri とい
う名前が対になるのも奇遇であるが)
この二人の具体的な作品を分析することで「対」
シャッターチャンスと同様に構図は重要な要素で
という観念がそれぞれの構図を作り上げていく様
ある。「何を撮るか」という問いと同様に「どう
子を確認できた。
撮るか」という問題が同じウエイトで考えられな
ければならない。
ブレッソンの写真には「2」あるいは「対」の
関係が顕著な作品が多い。たとえば 1956 年の「ド
今年度はそうした矩形、特に正方形フォーマッ
ルドーニュ・フランス」では、塀越しに井戸端会
トで撮影することに加え「写真の中の対(つい)」
議をする中年女性 2 人が高いカメラ位置から撮ら
というテーマを構図に絡めながら考えることに
れている。婦人たちは犬をそれぞれ 1 匹ずつ侍ら
した。
せているし、門柱は 2 本、向こうに家の屋根が二
二つそろってひと組になること、あるいは素材
つ写っている。
や模様・形などを同じに作ってそろえることなど
1953 年の「アテネ・ギリシャ」などは非常に
を、一般的に「対」と言う。つまり、モノとモノ
明確な構図で撮られている。二階建ての石の建造
との相対的な関係が作り出す新たな意味を生む仕
物が建っていて、1 階部分の屋根が画面の半分( 2
掛け、その一つのアイテムとして「対の関係」を
分の 1)を占め、路上には黒服の老婆が 2 人並ん
使いたいと思う。
で歩いている。建物の 2 階には等身大の石の彫刻
今回は制作と並行しながら対(つい)の実際例
(女性)が対応するようにきちんと配置されてい
を見つけ資料化することを行った。この度のテー
るのである。「対」の関係だけで構図が成り立っ
マである「対と構図」という組み合わせには、文
ている最も顕著な例であろう。
脈のない強引さがあるかもしれない。しかし、い
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「トリエステ・イタリア・1033 年」は画面を上
下 2 分割した芝の上に横たわる上半身裸の男を
用しているのもこうした理由によるのかもしれな
撮ったものだが、画面の端すれすれに樹木と何か
い。このように考えて見ると縦長や正方形の画角
の建造物がかろうじて写っている。縞柄の煙突
は、人間工学的にやや抵抗感のあるフォーマット
のようなものと柵のストライプの対の関係、建造
としてとらえることができる。この、やや抵抗感
物 2 つと樹木 2 本の関係などまるでスタジオで構
のあるフォーマットである正方形で対象を切り取
成して撮影したかのような正確さで構図ができあ
ることは、積極的な造形・構成への意志を鍛える
がっている。
ことにもなるはずだ。
マティスの油彩にも多くの対関係が見いだされ
今回「対」という概念をフィルターにして、身
た。もっとも顕著な例は、1918−19 年の作品「絵
の周りを観察することで、これまで見てきた何の
画の制作」であろう。この絵は白いテーブルで読
変哲もない風景が、急に意味を持って立ち現れる
書する少女を、画家がイーゼルを立てて描いてい
様子を体験できたのも面白かった。
る場面の絵画である。
作品制作は主に正方形フォーマットに改造した
画家と少女、実際の少女とキャンバスの中の少
35mmカメラによる撮影と、バライタ紙に印画・
女、花瓶の花と鏡に写っている花、レモン 2 個、
調色によるものであるが、各種展覧会で発表する
書物中の図版 2 枚、画家の持つ絵筆 1 本とテーブ
こともできた。今後しばらくこのテーマで制作を
ルの上に無造作に横たわる筆が 1 本。このように
続けるきっかけを作ることができた。
無駄なく・見事なまでに仕組まれた対の関係がマ
ティスの構図を作り上げている。
天・地、善・悪、右・左、男・女、生・死・・・
など相反する二つの概念を我々は持っている。し
かし実際は天と地の間(地表)に人が立っていた
り、善と悪の中間で悩む我々がいるわけで、敢え
て二つの概念を想定することで、自分の位置を確
認することができるのである。
つまりこうした対の概念によって見えてくる
様々な要素を見いだしていくことが今回の制作に
とってのテーマでもあった。
今回は全て正方形フォーマットで写真を撮った。
静止した体勢で眼球を動かし見える視野は、垂
直方向に約 125°
、水平方向に 200°
である。人間
の視野の角度は縦よりも横の方が広いので、横長
の画面が見やすいともいわれる。ファインダー
のフォーマットも多くのカメラが横長の画面を採
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平成 23 年度
塚本学院教育研究補助費研究成果報告集
平成 24 年 11 月 1 日
学校法人 塚 本 学 院
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