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マイネッケとウェーバー

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マイネッケとウェーバー
マイネッケとウェーバー
−ドイツ歴史主義の再建をめぐって−
牧 野 雅 彦
Ⅰ.はじめに―問題の所在
Ⅱ.一八四八年三月革命とフリードリヒ・ウィルヘルム四世
1.プロイセン学派と新「ランケ学派」のフリードリヒ・ウィルヘルム四世評価
2.マイネッケのラッハファール批判
Ⅲ.マイネッケと政治史学の再建
1.プロイセン学派から新「ランケ学派」へ
2.マイネッケ―新「ランケ学派」をこえてランケへ
Ⅳ.結語 マイネッケとウェーバー
Ⅰ.はじめに―問題の所在
フリードリヒ・マイネッケとマックス・ウェーバーとの間に密接な思想的交流があったであ
ろうことは、歴史主義をめぐる問題、政治と倫理の緊張と対立の問題など、この両者が取り組
んだ問題の共通性を見ればすぐに予想されることであろう。事実この両者は19世紀末から2
0世紀初頭のドイツ・リベラリズム(とその問題性)を代表する知識人として多くの論者によ
って引き合いに出され、対照されて論じられてきた。しかしながら両者の具体的な関係が実際
にいかなるものであったかについて彼ら自身が遺した資料はあまり多くはない。たとえばマイ
ネッケはその回想録の中で、『世界市民主義と国民国家』を書いた直後にウェーバーがフライ
ブルクにマイネッケを訪ね、「われわれは性格や能力において非常に異なってはいるけれども、
同じ目標をめざしている」と賛意をこめて語ったと述べているが1)、ウェーバーの側からそれ
を確認する記録は、マリアンネの『伝記』やその他の書簡類にも見あたらない。総じて管見の
限り、ウェーバーがマイネッケについて具体的に述べたところはほとんどないのであるが、そ
の数少ない発言の一つが彼の最初の方法論文「ロッシャーとクニース」の脚註の一つに付され
た次のような発言である。
「マイネッケは、『史学雑誌』第七七巻(一八九六年)の二六四頁で、『ひとは、歴史的な集
団運動に向かう場合、そのなかに何千人かの人間の自由なXの働きがかくされているのを知る
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ならば、それを単に法則的に作用する諸力の発現にすぎぬとみなすときとはまったく違った目
をもってするであろう』と信じている。―また同書二六六頁で同じ著者は、この『X』―
人格のなかの非合理的な『残基』―のことをその人格の『内奥なる神殿』だと語っているが、
それはトライチュケがある種の敬虔さをもって人格の『謎』について述べているのとすこぶる
似ている」(Roscher und Knies, Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre. 4. Aufl.,
Tübingen 1973, S. 46, 松井秀親訳、未来社、一九八八年、九九頁)。
マイネッケの発言は、歴史研究の中心は個性的個人の行為にあるのかそれとも定型的な集団
現象にあるのかというカール・ランプレヒトの『ドイツ史』をめぐって行なわれた方法論争の
文脈でなされている。歴史的行為者の人格を、非合理的な存在、合理的に理解できない未知数
Xとして神秘化することは、トライチュケに代表されるドイツ歴史主義のもつ欠陥であり、マ
イネッケもそうした欠陥を共有している、とウェーバーはいうのである。ここでの発言をみる
かぎり、ウェーバーはマイネッケに対して―少なくとも方法論のレベルでは―基本的に批
判的な態度をとっていたように思われる。したがってこの発言を一つの根拠として、ウェーバ
ーはマイネッケをも含めたドイツ歴史学、歴史主義の思想潮流には基本的に批判的であった、
ウェーバーの方法論の主要課題は歴史主義からの離脱にあった、という像が描かれることにな
る2)。しかしながら方法論の上でウェーバーがマイネッケに批判的だったかどうかはそれほど
自明のことではない、同じ「ロッシャーとクニース」の後の方には次のような註がある。
「マイネッケが、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の挙措を本質的に合理的な観点から説明
せんとする試みに対して、『史学雑誌』(一九〇二年)のなかで行なったところの、非常に繊細
な批評を見よ。(当面の場合、内容的には彼の反対者―ラッハファール―の解釈があるい
は正しいかもしれぬが、それは私の判断のおよぶところではないし、またここではどうでもよ
いことである。われわれの関心を引くのは説明原理の批判のみであって、具体的にはあるいは
なお正しいかもしれぬ内容的な成果の批判なのではない)」(Roscher und Knies, S. 100, 訳二〇
五頁)。
先のウェーバーのマイネッケに対するネガティブな発言もあって―ウェーバーはここでも
マイネッケには批判的な立場をとっているだろうという先入見に影響されて―翻訳は「合理
的な観点から説明せんとする試みに対して」という箇所を「試みにおいて」と訳しており、結
果として、行為を合理的な観点から説明しようとするのはマイネッケなのかラッハファールな
のか、そしてウェーバーはいずれに与しているのかいささか分かりにくいものになっているの
であるが、註記が付された本文をみれば、ウェーバーがマイネッケを肯定的に評価しているこ
とは明らかである。ウェーバーはここで、他者の行為とその意味を合理的な観点から推論する
ことは、他者の行為の「解明」の有力な手段であるけれども、それはあくまでひとつの仮説
的・索出的手段なのであり、原理的にはつねに経験的な検証を必要とすると述べており、その
文脈において、マイネッケのラッハファールに対する「繊細な批評」を高く評価しているので
ある。だがこの点を十全に理解するためには、『史学雑誌』に掲載されたマイネッケのラッハ
ファール書評論文「フリードリヒ・ウィルヘルム四世とドイツ」(Historishe Zeitschrift, Bd.
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マイネッケとウェーバー(牧野)
89, 1902, S. 17-53)と、その前提となるフェリックス・ラッハファールの著書『ドイツ、フリ
ードリヒ・ウィルヘルム四世とベルリン三月革命』(Felix Rachfahl, Deutschland, König
Friedrich Wilhelm IV. und die Berliner Märzrevolution. Halle 1901)をみておく必要がある。
このことは、ウェーバーの方法論文がもっていたひとつの歴史的文脈を浮き彫りにすることに
もなるであろう。
Ⅱ.一八四八年三月革命とフリードリヒ・ウィルヘルム四世
1.プロイセン学派と新「ランケ学派」のフリードリヒ・ウィルヘルム四世評価
周知のようにフリードリヒ・ウィルヘルム四世は一八四八年のいわゆる三月革命期のプロイ
セン国王である。彼の政治的業績をめぐってはすでにハインリヒ・フォン・ジーベル(『ウィ
ルヘルム一世による帝国建設』第一巻、一八八九年、第四版一八九二年)やハインリヒ・フォ
ン・トライチュケ(『一九世紀ドイツ史』第五巻、一八九四年)らいわゆるプロイセン学派の
政治史家たちが、後のウィルヘルム一世とビスマルクによるドイツ統一の完成という歴史的地
点から、基本的にはおおむねネガティブな評価を行なっていた。その論点をいま簡単にまとめ
るならば、ドイツ統一政策、三月革命時の政治判断という二つの論点をめぐっている。
第一に、たしかにフリードリヒ・ウィルヘルム四世は彼なりのドイツ国民統一の理念を有し
ていたが、それは近代的な国民主義というよりはむしろ中世的な身分秩序の様相を色濃く帯び
たものであった。したがってそうした理念の制約ゆえに、彼は神聖ローマ帝国以来のドイツの
盟主としてのオーストリアに対して断固とした態度をとりえなかったのであり、これが彼とそ
の助言者ラドヴィッツのドイツ(統一)政策を大きく制約していたのである。彼らは後のビス
マルクのようにプロイセン国家利害の擁護とその上に立った統一へのイニシアティブをとるこ
とができなかった。
第二に、フリードリヒ・ウィルヘルムのそうした政治的資質の欠如は三月革命前後の一連の
政治的経過への対応のまずさに如実にしめされることになった。そもそも国内政策において革
命勃発前に統一を志向する穏健リベラルの勢力に譲歩して彼らと協調していたなら、ベルリン
の三月革命は避けることができたはずであるし、その場合にはプロイセンはドイツ統一の主導
権を手中に収めることによって、ドイツ政策の上でも前進が可能となったであろう。だが彼は
それができなかった。その結果、ベルリンの貧民層、不穏分子の蜂起を招いてしまったのであ
る。
もとよりベルリンの騒乱自体は直接には不幸な偶然(軍の側の銃の暴発)が招いた偶発的事
件であった。だが国王は軍隊と民衆との衝突という事態に動揺して民衆に過剰に譲歩をしたば
かりか、王宮を警護していた軍隊を兵舎に撤退させるという誤った命令を下した結果、蜂起し
た民衆に包囲され彼らに対して屈辱的な屈服を強いられることになった。
かくしてフリードリヒ・ウィルヘルム四世のドイツ政策は、彼が行った一連の政治的判断の
誤りのために挫折することになったのである。こうしたプロイセン学派のフリードリヒ・ウィ
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と対照すること、それがなすべき第三の手続きとなる」(ebenda, S. 24-25)。
そうした観点から国王フリードリヒ・ウィルヘルム四世の行動を見るならば、そこにはプロ
イセンの国家利害に基づく権力衝動を制約するひとつの原理が存在している。オーストリアの
歴史的優位の承認も、国王のなかの独特の理念的・倫理的・国民的原理にもとづいていたので
あり、それはまた王の世界観、国家観の一部をなすことによって同時に彼の宗教の一部ともな
っていたのであった。かくして「意識的な、宗教的な要請に導かれた意志が願望を押さえ、世
界観が権力衝動に制約を課したのである」。もとよりドイツという名称は国王にとっては母親
のように尊いものであったけれども、それは王が仕えようとした主の御名の神聖性とは別のも
のであった。このようにマイネッケはいうのである。
以上のようなマイネッケの議論をみてくるならば、論文「ロッシャーとクニース」の註記に
おけるウェーバーの立場はもはや明らかであろう。個人の人格とそれをとりまく環境、あるい
は人格の内における権力的利害関心と理念・世界観との相克を丹念に追跡するというマイネッ
ケの方法にウェーバーのそれとの共通性をみることは、ウェーバーの議論に通じたものであれ
ばそれほど困難なことではない。件の註はまさにウェーバーがそうした「方法としての理解」
についての検討の文脈に付されていたのである。
しかしながら、マイネッケとウェーバーとの接点はそれにとどまるものではないように思わ
れる。ここで問題にしたフリードリヒ・ウィルヘルム四世の評価をめぐるジーベル、トライチ
ュケらプロイセン学派と新ランケ学派との対立をどのように解決するのか、それに対するマイ
ネッケの解答が『世界市民主義と国民国家』とくにその第二部なのであった。たしかにウェー
バーは「ロッシャーとクニース」のこの註では、フリードリヒ・ウィルヘルム四世と三月革命
期の具体的歴史的問題の評価にはあえて立ち入ることを避けている。だがはじめに述べたマイ
ネッケの回想によれば、ウェーバーはマイネッケの『世界市民主義と国民国家』に高い評価を
与えたという。その第二部で扱われている「プロイセン・ドイツ問題」にウェーバーは戦中戦
後の政治論でとりくむことになることをも考えあわせるならば、三月革命からドイツ統一にい
たる政治過程とその歴史的評価をめぐる問題意識の上でも、両者の間にかなりの共有部分があ
ったことは容易に想像できるだろう。そのあたりの事情を推し量る手がかりとして、ドイツに
おける政治史学の展開とその中でのマイネッケの位置についていま少し見ておくことにしよ
う。
Ⅲ.マイネッケと政治史学の再建
1.プロイセン学派から新「ランケ学派」へ
ドイツ政治史学、いや正確に言えば政治史をその中軸に据えた歴史学の出発点がレオポル
ト・フォン・ランケ(Franz Leopold von Ranke 1795-1886)であったことはすでに周知のこと
であろう。もとよりすでに示唆しておいたようにランケと後の狭義の政治史学派との間には明
らかな相違が存在する。ランケにとっても、歴史叙述の中心はやはり国家を中心とした政治・
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ルヘルム四世評価に異論をなげかけたのが、マックス・レンツやラッハファールに代表される
いわゆる新「ランケ学派」であった3)。彼らはプロイセン学派の政治史家たちが彼らのリベラ
ルな政治的価値判断をストレートに歴史に投影することに対して批判的な態度をとり、またラ
ンケが『列強論』で示したような対外的国家間関係を重視する点で共通していた4)。ラッハフ
ァールは言う。
「人は―才気にあふれた国民的志向の歴史家がするように―『オーストリア宮廷の悪意』
とか、『国民思想に対するオーストリアの敵対』について語るかもしれない。だが見逃してな
らないことは、オーストリア国家がもしその歴史的特性を否定することを欲しないとするなら
ば、彼らは別の政策をとりえなかったということ、そして、あらゆる国家にとって、自分自身
とその権力の主張はその最高の掟たりつづける、ということなのである」(Rachfahl, a. a. 0., S.
13-14)。
ジーベルやトライチュケはドイツの国民的統一に敵対的なオーストリアの態度を道徳的に非
難し、フリードリヒ・ウィルヘルム四世とラドヴィッツがオーストリアに対して的確な対応を
とらなかったことを批判しているが、そもそもオーストリアもまたそのおかれた歴史的政治的
情況の中で自らの権力利害を擁護するためには、それ以外の対応はとりえなかったであろう。
その意味においてはドイツの統一、そして一八四八年の三月革命もドイツの国内事情にのみ規
定されていたわけではなく、全ヨーロッパ的な国際的力関係の中におかれていたのであり、そ
の点を考慮せずして個々の政府の政策を道徳的に非難することは無意味だ、というのがラッハ
ファールら新「ランケ学派」の主張であった。
そうした観点からラッハファールは三月革命期のフリードリヒ・ウィルヘルム四世の態度を
も「弁護」している。
「いいかえれば、三月一八日の[国王フリードリヒ・ウィルヘルム四世の]勅令は、一八四
八年三月のすべての先行するプロイセンの歩みと同様に、本質的には譲歩―つまり革命の怖
れに強いられた譲歩ではなく、むしろ攻勢、しかもドイツにおける優位をめぐるオーストリア
との格闘における攻勢だったと捉えられるのである」(Rachfahl, a. a. O., S. 105)。
三月革命期のフリードリヒ・ウィルヘルム四世の行動は当時プロイセンのおかれていた客観
的な歴史的情況に適合した権力利害の表現であったのであり、決して革命の騒乱による動揺の
結果ではなかった。そうした観点から軍隊の撤退による王宮の包囲の責任も国王にではなく、
王の意図を理解せずして撤退命令を下した近衛師団指揮官プリトヴィッツに帰せられる。ラッ
ハファールの著書の大部分はこの点の解明に費やされていた。
ラドヴィッツの助言に基づく一連のドイツ政策の意図についても同様の観点から再評価され
る。すなわち、国王とプロイセン政府はプロイセンの権力利害に基づいて、その実現の一方策と
してドイツの国民的統一へのイニシアティブを握ろうと意図していたのであり、革命への譲歩
も、民衆蜂起と軍隊との衝突という意図せざる偶発事の介入はあれ、むしろそれを利用してオー
ストリアのくびきからフリーハンドを握ろうとしたのだ、とラッハファールは言うのである。
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マイネッケとウェーバー(牧野)
2.マイネッケのラッハファール批判
さて、こうしたラッハファールの議論に対してマイネッケはいかなる態度をとるのか。もと
よりマイネッケも彼ら「ランケ学派」の方法が政治的な先入見から免れた客観的な歴史叙述へ
の展望を切り開いたことを高く評価している。しかしながら国王の行動を徹頭徹尾国家の権力
利害の表現とみなすというその方法は、一定の限度においてはたしかに索出的な意義をもち、
大きな実りを約束するものだとしても、彼らのやり方は度を越してはいないか。すべてが国家
間の権力的利害関係へと組み入れられて説明されるならば、行為主体としての政治家のもつ個
人的・個性的な特性はまったく無視されることになるであろう。そうした説明からでてくる
「凡庸な現実政治家」の像からは、国王フリードリヒ・ウィルヘルム四世の実像は浮かび上が
ってこない。「国王の行動をリアルポリティークの図式で説明したり合理化しようとするもの
は、まさに凡庸な現実政治家の像をもたらすだけで、そうした行動の内奥の核心を引き裂いて
しまい、このような記憶に価する歴史的現象の一つのもつ特性を見失わせてしまう」
(Meinecke, Historische Zeitschrift, Bd. 53. 1902, S. 52-53)。国王の三月革命期の行動は、革命的
騒乱によって彼がうけた精神的打撃を抜きにしては説明できないとマイネッケは言うのであ
る。
「内的な支えを失ったひとりの男として、神に与えられた権威という理想を引き裂かれ、ド
イツ[統一という]希望の藁に縋るように、王は三月二五日のポツダムでの談話―それは不
満を漏らす将校のサーベルの音をともなったのであるが―を行なったのである」(ebenda, S.
50-51)。
権力利害を重視する新「ランケ学派」の方法においては、歴史的行為主体としてのプロイセ
ン国王は、国家利害のたんなる「代理人」、繰り人形となってしまうであろう。かつてランプ
レヒトの集合主義的方法に対してあれほど激しく反対した新「ランケ学派」の彼ら自身が今度
は同様の誤りに陥ってしまっている、と批判した上で、マイネッケは自らの方法を提示して言
う。
「本物の歴史的な個人について十全な形の理解を獲得するためには、人はまずさしあたりつ
ぎのような二通りのやり方を行ない、また両者をしっかり区別しておかなければならない。ま
ず第一に、個人の人格にそのすべての本質的な生の表出を安んじてこだわりなく行なわしめ、
その中心的な利害関心を問い、そこからひとつの内面的な連関をうちたてようとすること。そ
の際に矛盾や分岐に突き当たったなら、性急に合理化して説明しようとして、矛盾をあまり本
質的ではない『付属物』として片づけてしまわないように気をつけねばならない。そのすべて
の心音や脈拍にまで注意を払うようにしてその個人にゆっくりと慣れ親しむことがきっとさら
に先に導いてくれることだろう、最強の、決定的な衝動を感じ取ることができるようになるだ
ろう―ただしそれはつねに近似的になかたちで可能であるということにすぎない。というの
も歴史家は医者と同様にその生きた対象を解剖することはほとんどできないからである。だが
他方で、その取りまく環境に目を向け、そこから個人に対して働きかけるあらゆる種類の影響
や利害を探求せねばならない。個人と環境とを、その両方を正しく評価するために、じっくり
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マイネッケとウェーバー(牧野)
外交史であったし、国家を取りまく歴史的個性的事情の認識が実践的政治家に対して大きな寄
与をなすべきことは当然のことであったが、同時にまた政治と歴史との間にはまもるべき境界
が厳然として存在していた。政治家には、情況を冷静に認識するにとどまらず、それを乗り越
える何かが必要である。その意味で彼は学としての政治学の可能性については―ルソー的な
自然権に基づく社会契約論であれ、あるいは国家経綸の学としての政治経済学であれ―著し
く否定的であった。学問がなすべきことは政治的実践に直接関与することではなく、世界史的
な観照の立場に徹することだ、というのがランケの立場であったことはよく知られていよう。
だがそうしたランケの学問的立場と、それと密接に結びついている政治的保守性に対して批
判がでてくるのは当然のことであった。ランケの学問的限定にあきたらずにもう一歩政治に踏
み込もうとした歴史家たちこそ、ドロイゼン、ジーベル、トライチュケらに代表されるプロイ
セン学派の政治史家たちであった。事実、彼らの多くはリベラルな政治家として一八四八年の
三月革命に参加してフランクフルト国民議会のドイツ統一の試みを推進し、その挫折の後には
ビスマルクのプロイセンと協力してその統一事業に協力することになる。もとよりジーベルが
もともとランケの弟子であったように彼らもランケの歴史的方法を尊重しはするが、他方でそ
れは政治的実践、彼らの求める国民的統一という道徳的目標と深く結びついていなければなら
ない、というのが彼らの共通した立場であった。歴史学はたんなる観照の手段ではなく、国民
の政治教育の手段でなければならない。ランケがその実践的意義について否定的であった「政
治学」をジーベルやトライチュケが大学で講じたのもそうした彼らの立場の特徴をよく表して
いる5)。
しかしながらドイツ統一が完成してリベラルな政治史家たちの政治的課題が一応達成された
段階で、政治史学は新たな課題設定とそのための方法的再検討を迫られることになる。ランケ
の方法に立ち返るというかたちでそうしたプロイセン学派の政治史学の方法を批判したのが、
マックス・レンツやフェリックス・ラッハファールらのいわゆる新「ランケ学派」であった。
先に述べたように彼らはジーベルやトライチュケらのリベラルな政治史家たちが彼らの国民主
義的な観点を歴史分析に持ち込んで、結果として歴史叙述の客観性を損なっていることを厳し
く批判している。しかしながら彼らの主張は―ランケ自身がそうであったように―単純な
政治からの脱却と歴史的観照の立場への回帰ではない。新「ランケ学派」の指導的人物と目さ
れるマックス・レンツの小論「ビスマルクとランケ」(Bismarck und Ranke, 1901, Kleine
Historische Schriften, S. 383-408)が示しているように、そもそもかれらのランケ再評価の背
後にはランケとビスマルクとの共通性という問題意識があった。世界史的観照の立場に立つ歴
史家と政治的実践家という立場の相違はあるにせよ、国家間の権力利害の相克という冷厳な歴
史的情況に対する認識という点で両者の間には深い共通点があるというのである。両者の政治
認識の共通性を前提とした上で、政治家ビスマルクと歴史家ランケとの相違を考えること、あ
るいはランケにおける政論家と歴史家との関係とを問うこと、これがプロイセン学派以後の歴
史家たちの共通の問題であった6)。ということはいいかえれば、ドイツ統一を主導したビスマ
ルクの政治的認識を支えていたものは、彼に協力したリベラルな政治史家たちのそれよりはむ
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政策科学8−3,Feb.2001
しろランケのそれに近い歴史的精神であった、ということをも意味するであろう。端的にいえ
ば政治的判断というプロイセン学派の政治史家たちが最も重視していたまさにその点におい
て、彼らは誤まっていたのではないか、これが新「ランケ学派」のランケ回帰の内に潜む問題
意識だったように思われるのである。
2.マイネッケ―新「ランケ学派」をこえてランケへ
そうした観点からマイネッケの仕事を位置づけるとどのような展望がひらけてくるであろう
か。すでに整理してきたところから明らかなように、マイネッケもランケから政治史学派、そ
して新「ランケ学派」のランケ回帰の内に貫かれている政治史的な伝統、すなわち歴史的個性
認識と政治的判断とを結合しようとする問題意識を共有している。その上で新「ランケ学派」
のプロイセン学派批判の正当性を認めつつもその行き過ぎを是正して両者をこえた新たな方法
を模索するというのがマイネッケがラッハファール批判論文で示した方向であった。それは
『世界市民主義と国民国家』でひとつの実を結ぶことになる。
ラッハファール批判論文で示したように、マイネッケは新「ランケ学派」の権力利害重視の
方法に対して、政治過程における理念・世界観の意味を認めていた、その限りでまたリベラル
な歴史家たちが現実の政治・歴史過程で担っていた国民主義の理念をも相対的に評価してい
る。だが他方でドイツの国民統一に際しては彼らの自由主義的な国民主義とともに、今一つの
国民主義が重要な意義をもっていた。これがランケからビスマルクへと流れるいわゆる保守的
国民主義の系列であり、フリードリヒ・ウィルヘルム四世とその周囲の人々の内に抱かれてい
た理念もその流れに属する。そうした保守的国民主義の理念史をたどること、これが『世界市
民主義と国民国家』の第一部の主題となる。
かくしてドイツの統一は保守的な国民主義の代表としてのビスマルクとプロイセンによって
達成される。だが保守的な国民主義が国民主義たるためにはやはり自由主義的な国民主義のイ
ンパクトとそれへの対抗という側面ぬきにはありえなかったであろう。その意味においてドイ
ツ統一は保守的な国民主義とリベラルな国民主義の二つの潮流の共同の上に成り立っていたの
である。その限りにおいては一八四八年にもひとつの歴史的可能性が潜在していた、とマイネ
ッケは言う。
「いま、サンスーシー(ポツダムにあるフリードリヒ大王の離宮)とフランクフルトがベル
リンに対して、ホーエンツォレルン王朝とドイツの議会とがプロイセンの議会に対して一つに
なりうる切迫した瞬間がやってきた。―それは、意外な内容に満ちた、まったく独自の歴史
的眺望であった。いわば船が突然向きを変え、羅針がふるえ動くのがみられるのである。人々
はこれに反対して、われわれに言うであろう。プロイセンの羅針儀はきっと、まったくひとり
でに、すぐにふたたび以前の方向を示すだろうと言うことを、自分たちはよく知っている、と。
だがしかし、そのことは、こうした状況の魅力を取り消すものではない。この魅力はなかんず
く、プロイセン国王の古い誇り高い王冠が、それがまさにうち勝とうとつとめていた当時の民
衆の力に対して、ここで、それに劣らず民衆的な同盟者を見いだすことができる、という点に
−186−
マイネッケとウェーバー(牧野)
ある。ただ自由だけを望んだ潮流に対して、プロイセンの王冠は、自由と権力とを同時に望ん
だ潮流を利用することができたであろう。フランクフルトからプロイセン王冠にむかって運ば
れ、共通の民主的な敵に対する闘争によってなおいっそう変形され、王冠の側に押しやられた
この自由主義は、生き続けることができたであろう。王国は時代の精神と和解することはでき
たであろうが、もちろんしかし、われわれの知っているとおり、まったく新しい、純粋にドイ
ツ的な、もはや決してプロイセン的ではない地盤の上に自らを立たせなければならなかったで
あろう」(Meinecke, Weltbürgertum und Nationalstaat, 2. aufl., München und Berlin 1911, S.
381-382, 矢田俊隆訳『世界市民主義と国民国家Ⅱ』岩波書店、一九七二年、七一−七二頁)。
急進的な民衆の支配するベルリンとプロイセン議会に対抗して、フリードリヒ・ウィルヘル
ム四世とプロイセンの政府がフランクフルトの穏健でリベラルな国民主義者たちと協力してい
たならば、いいかえればフランクフルトの国民主義者たちが、プロイセンの急進的な議会との
対抗で苦境に立つプロイセンの政府に対して、その政治状況を利用してドイツ統一への協力と
譲歩を勝ち取っていたならば、後の歴史は違った様相を示していたであろう。こうしたマイネ
ッケの評価が、一面ではかつてのリベラル=政治史学派の国民主義を継承していることは明ら
かであろう。
だが歴史的な「イフ」の問題がマイネッケの第一の問題ではない。マイネッケの課題は、一
九世紀ドイツ史、ドイツ統一の歴史的文脈の上に歴史家たちの思想そのものを位置づけ直すこ
とであった。かくして統一ドイツとプロイセンとの関係をめぐる二つの潮流が、同時にドイツ
歴史学におけるランケとプロイセン学派との対比につながることが明らかにされる。
「そして同時にわれわれは、ここでまた十九世紀のドイツの歴史叙述内部の大きな対立が、
ランケといわゆる政治史の代表者たちとの間の対立が、一つの中心的な政治問題に即して現れ
ていることに、注意を喚起してもよいであろう。ドイツのためにプロイセンの国家的一体性を
破壊するか、もしくはどうしてもこれをくつがえそうとした人々の系列の中には、ヨハン・グ
スタフ・ドロイゼンがあり、マクス・ドゥンカーがあり、さらにまた、われわれがまもなくみ
るであろうように、ダールマンがあった。彼らは、プロイセンによって、しかしまたプロイセ
ンを犠牲にして、ドイツを統一しようとしたのだった。ランケも同様にプロイセンによるドイ
ツの統一を望んだが、しかし、歴史的に成長した国家の個性を維持しようとした。かの人々は、
近代的なドイツ国民国家の理想から出発し、歴史的なドイツ、領邦的なドイツを顧慮しようと
はしたが、しかしそれが立憲的連邦国家に関する彼らの概念を妨げない限りにおいてのみ顧慮
しようとしたことによって、自分たちの時代にいっそう根ざしていた。ランケはドイツの歴史
からいっそう深くくみ取り、古いドイツの保守的帝権と、領邦的な時期と、新しい、生まれ出
ようとしている立憲的=国民的なプロイセンとをどんな裂け目によっても中断されない、一つ
の統一的な発展系列に総括した。かの人々のところでは、激しい願望と熱情が―シュタイン
がかつてプロイセンをうち砕かれたままにしておこうとした情熱に似たところが相変わらずい
くらかあった―より多く存在しているが、ランケのところでは、歴史的観照の静けさが現実
的政治的考量の冷たさに結びついている」(Meinecke, Weltbürgertun und Nationalstaat, S.
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444-445, 訳一二七−一二八頁)。
先に述べたようにマイネッケ自身の政治的立場はランケよりは後のリベラルな政治史家たち
に連なっている。だが、ランケの歴史的観照とそこから導き出される冷厳な認識と対比された
ときに、政治史家たちの政治的認識はむしろ「非政治的な」ものとして浮かび上がってこざる
をえない。
「ドロイゼンは、プロイセンのドイツに対する歴史的使命を、プロイセンの実際の政策の目
標から説明しようとする傾向を持っていたために、この国家の真の本質を見誤った。彼はそれ
によって、彼が一八四八年にドイツの統一のためにプロイセンの解消を要求したとき、意識し
て犯していたのと同じ過失を、プロイセン国家人格の自律に対して、それを予想することも望
むこともなしに、犯したのである。彼は今やプロイセンを、いわば精神的に、また彼自身の心
情の要求のために解消したのであり、彼は、プロイセンが既に過去において道徳的にある程度
までドイツに没入していたと信じ、かつそのことを学問の手段によって証明しようとしたので
あった。それゆえわれわれは、彼の後の歴史解釈が、一八四八年の彼の政策と正確に一致して
いることを、知るのである。彼のプロイセン的立場は、厳密に吟味すれば、元来非プロイセン
的もしくはたしかに少なくとも超プロイセン的だったのであり、彼が主張した「政治史」は、
非常に非政治的な側面をもっていた。なぜなら、プロイセン国家のもっとも固有な本質から生
じたものでない政策をこの国家のせいにすることは、非プロイセン的=非政治的な考え方だか
らである。そして、もし人々が彼の誤りの究極の根源をもう一度はっきりと理解するならば、
彼らは、十八世紀の非政治的な考え方が、厳密に政治的であろうとしたこの歴史家の思想世界
のなかまでいかに強く影響を及ぼしているかを認めるのである」(Meinecke, Weltbürgertun
und Nationalstaat, S. 447, 訳一二九−一三〇頁)。
かくしてマイネッケもまた、ドイツの政治的・歴史的思考の源流としてのランケへと回帰す
ることになる。だがそれはレンツ、ラッハファールのような国家利害リアリズムへの単純な回
帰ではなかった。むしろマイネッケはそうした政治的リアリズムそのものを生み出す精神的源
流としての歴史主義の歴史的自己省察へと向かったのである。一九二四年に出された『近代史
における「国家理性」の理念』で彼は、『世界市民主義と国民国家』で問題とした「国民主義」
からさらに一歩進んで、政治的思考そのものの精華としての「国家理性」の理念史を問題にす
る。それは同時に政治的・歴史的個性の認識ということを通じて密接に結びあう近代歴史主義
の成立の前史の探求でもあった。かくしてマイネッケは彼の第三の代表作『歴史主義の成立』
ではドイツにおける歴史的思考の源流をたどることになる。もとよりその間に彼自身は第一次
世界大戦とその敗戦、ワイマール共和制の成立と崩壊、という深刻な歴史的経験を経ることに
なり、その影響をいかに評価するかがマイネッケの思想評価には問題としてのこされているの
ではあるけれども、その基本的な方向は『世界市民主義と国民国家』ですでに定められていた
と言えるであろう。そのような意味でマイネッケの「理念史」はまさにそうした歴史主義その
ものの歴史的自己省察の方法なのであった。
−188−
マイネッケとウェーバー(牧野)
Ⅳ.結語 マイネッケとウェーバー
かつて一八九五年にマイネッケは『史学雑誌』に掲載されたジーベルの追悼文のなかでこう
述べていた。われわれはもはやジーベルのように政治と歴史との幸福な結合に安んじることは
できない。われわれの前にあるのは、ランケ的な美的観照の道か、あるいはより実証主義的な
方向の徹底かの二つの選択肢である、と(Historishe Zeitschrift, Bd. 75, 1895, S. 394-395)。こ
れまで述べてきたような意味において、マイネッケはランケへの回帰を選択したと言えるとす
れば、これに対してウェーバーはさしあたり第二の道、すなわち実証的な国民経済学への道を
歩むことになったということができる。
ウェーバーの知的個人史を理解する上で、彼もまたマイネッケと同様にドイツの政治史的伝
統から出発したことはもっと強調されてよいことがらである。青年時代のウェーバーが母方の
伯父(母ヘレーネの姉イーダの夫)であったヘルマン・バウムガルテンと交流し、大きな影響
を受けたことはよく知られているが、彼バウムガルテンはボン大学でダールマンの教えを受け
てのちに一八四八年の革命に参加し、その後にはトライチュケらと協力してリベラリズムの方
向転換―ビスマルク・プロイセンとの協力―へと寄与した自由主義的な政治史家の代表的
な人物なのであった。ウェーバーと交流を始めた時期にはすでにバウムガルテンはトライチュ
ケとその『一九世紀ドイツ史』をめぐって対立していたし、トライチュケらプロイセン学派と
バウムガルテンの対立点は後の新ランケ学派のプロイセン学派批判との関連でも興味深い論点
を提示しているのであるが、そのことはともあれバウムガルテンの立場は少なくともランケ以
来の広義の政治史的伝統の上に立っていた。青年時代のウェーバーのバウムガルテンにあてた
いくつかの書簡からは、学問の道を選択するかそれともより実践的・活動的な生活の方を選ぶ
のかというウェーバーが抱えた問題をうかがうことができるのであるが、その際バウムガルテ
ンが勧めた学問の道とは、まさにドイツの政治史的な伝統の延長線上にあったと言うことがで
きる。だが、よく知られているようにウェーバーは伯父バウムガルテンのそうした勧めにした
がうことはなかった。ウェーバーが選択したのは政治史ではなく、国民経済学という新しい学
問領域なのであった。いわばトライチュケらの政治史学がドイツ統一という政治的課題の達成
とともに一種の課題喪失情況に陥ったとするならば、それにかわって新たな時代の課題を担う
学問として浮かび上がってきたのが歴史学派の国民経済学であり、その担い手がグスタフ・シ
ュモラーを領袖とする社会政策学会であったのである。ウェーバーにとって歴史学派の国民経
済学は、政治史学が喪失しつつあった政策的有効性を新たに担う「政治のための学問」、「政策
科学」であったのである。その意味においてウェーバーもまたドイツの歴史主義が当初から有
していた政治的思考との密接な関わりを継承していたということができるであろう。ウェーバ
ーはいったん歴史学派の国民経済学を選択した上で、その方法的問題を再検討するというかた
ちで、あらためて歴史的思考のあり方の問題に直面することになる。「ロッシャーとクニース」
をはじめとする一連の方法論はまさにそうした課題への対応なのであった。
だが、そうであるがゆえに、つまり国民経済学という迂回路をとったがゆえにウェーバーの
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政策科学8−3,Feb.2001
場合にはマイネッケのようにただちには政治史的伝統そのものの延長線に回帰することはもは
やできなかった。歴史過程における理念の意味という点でマイネッケと共有する点があったと
しても、実際の分析対象そのものは、政治史とは異なるものとならざるをえなかったのである。
伝統的な政治史的対象の叙述と分析に安んじて回帰するにはウェーバーはあまりに政治的人間
でありすぎた、ということもその一つの理由であろう。ではウェーバー自身がいかなる方向に
歩みを進めることになるのか、これについては稿をあらためて検討する必要があるだろう。
注
1)Friedrich Meinecke, Straßburg, Freiburg, Berlin 1901-1919, Erinnerungen von Friedrich Meinecke,
Stuttgart 1949, S. 102.
2)たとえば西村貞二『ウェーバー、トレルチ、マイネッケ ある知的交流』中公新書、一九八八年は
「ロッシャーとクニース」の註を引いて両者をそのような観点から対比している(一二〇頁以下)。
3)Max Lenz, 1848 (1898), in:ders, Kleine Historische Schriften, 2. Aufl., München und Berlin 1910, S. 345359)
なお、ここでの新「ランケ学派」という呼称は林健太郎『世界の名著 ランケ』(中央公論社、
一九八〇年)解説から借用しているが、直接にそれに対応するドイツ語原語があるわけではないし、当
時のドイツでそうした呼称が少なくとも彼ら自身によって使われたわけではない。ただし、彼らの論敵
であったカール・ランプレヒトがその歴史学方法論をめぐる論争でeiner Schule der Jungrankianer(青年
ランケ派あるいはランケ左派とでも訳すことができよう)という言い方を用いているし、本文で述べる
ようにレンツ、ラッハファール自身、意識的に国家の対外的利害関係を重視するというランケの方法を
継承しようとしているのであるから、そうした呼称はそれなりの根拠をもつというべきであろう。ただ
し、新「ランケ学派」のうちにマイネッケを含めるかどうかは―先の林の解説にもあるようにそうし
た理解が一般的のようであるが―微妙な問題を含んでいる。少なくとも本文で紹介したようにマイネ
ッケ自身はレンツ、ラッハファールら「ランケの最近の帰依者たち」と自らを区別しているのであり、
両者を一括して同一の「学派」に押し込めるのは問題がある。全体として見ればマイネッケもランケへ
と回帰したのであるが、その意味内容については本論で見るようにいわゆる新「ランケ学派」とは異な
っているからである。
4)ちなみにレンツにはランケの『列強論』と同じ表題を掲げた書物がある。Max Lenz, Die größen
Mächte, Berlin 1900.
5)そうした観点から政治史学派の出発点はフリードリヒ・クリストフ・ダールマン(1785-1860)『政治
学』(1835年)に求められる。トライチュケはボン大学でダールマンに学び、また彼の継承者であるこ
とを意識している。
6)他方でフリードリヒ・ウィルヘルム四世に宛てたランケの意見書が明らかにされたことが(Leopold
von Ranke’s Sämtliche Werke Bd. 49/50, 1887)、ランケの政論家としての側面とそれが一八四八年の革
命期に与えた歴史的影響という問題を浮上させる今一つの背景となった。
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