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電気事業と自然災害 - 京都大学工学部 電気電子工学科

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電気事業と自然災害 - 京都大学工学部 電気電子工学科
年卒︶
たとえば送配電線の上に張られ
て雷を遮蔽する架空地線、変電所
基が倒壊す
や送電線等に設置される各種避雷
戸 が 停 電 し、 鉄 塔
号により
る 被 害 が 発 生 し ま し た し、 近 年
た雲仙普賢岳や桜島、阿蘇山など
では平成
年の台風
活発な活動を続けている活火山も
して、高強度コンクリート電柱や
なお、過去の台風被害を教訓と
力設備への落雷自体を皆無にする
減少してきましたが、それでも電
これらにより、雷による停電は
装置などです。
月には、奄美大島におい
低風圧電線の開発など電力設備は
108万戸が停電しました。
日間
千戸が停電
記録的な大雨のため、奄美本島の
の 累 計 雨 量8 0 0 ミ リ 以 上 と い う
されてきているため、最近ではか
台風に耐えられるように年々強化
︵
落雷区間を切り離すまでの短時間
ことはできず、停電に至らずとも、
万
つての大型台風と同程度の台風が
%にあたる
襲来しても、被害は以前より小さ
秒以内︶に落雷の大電流によ
し、本土から復旧要員や発電機車
復旧に努めました。
る電圧低下︵瞬時電圧低下︶が生
じることは避けられません。
地震国日本において九州も例外
雷警戒運転発令時の大口お客さま
ページを活用した雷情報の提供や、
このため、九州電力ではホーム
年には福岡県西
で は な く、 平 成
への連絡、またお客さまへの技術
万
千戸の停電などの被
下の影響の軽減に努めています。
えるためには、災害の発生を想定
いつ来るかわからない災害に備
︻自然災害への不断の備え︼
弱以上の地震発
対策要員は事業所︵勤務事業所に
生時には自動的に非常体制に入り、
に運用するための情報システムの
した実働訓練や、非常体制を円滑
月に、全社員の
割が参
膨大な送配電ネットワークを張
験等を行うとともに、土石流等の
山灰が付着した碍子の絶縁耐力試
火山灰の除去とその性状分析、火
には台風による被害が毎年のよう
土直撃を免れているものの、過去
れ、幸いにしてここ
な被害が生じる自然災害に対して、
ないものの、一旦発生すれば大き
以上述べたような、頻度は多く
害状況把握とそれに基づく復旧処
割分担の確認や、迅速・的確な被
その目的は、指揮命令系統と役
実戦さながらに実施しています。
え、お客さまのニーズに対応した
置の立案等による早期復旧に加
や配電線を雷から守るために様々
雷は頻繁に発生する自然現象であ
号 に お い て は、
% に あ た る2 10 万
年の台風
り、縦横に張り巡らされた送電線
平成
九州全土の
迅速・的確な社内外への情報提供
﹁りんご台風﹂として知られる
けています。
事業の歴史は、台風、地震、大雨、 災害体制に準じた体制で警戒を続
年に大噴火し
な設備対策を施してきました。
に発生しています。
加した大規模非常災害対策訓練を
ン前の
九州電力では毎年、台風シーズ
構築が欠かせません。
対応にあたることとしています。
めた代替事業所︶に自動出社して
出社できない場合はあらかじめ定
州電力では震度
不能の場合が想定されるため、九
地震発生時には通信手段が確保
害が発生しました。
録し、
国で初めて自衛隊ヘリによる高圧
を実施しました。︵写真︶
︻台風︼
コンサルなどを行い、瞬時電圧低
弱を記
︻地震︼
くなっています。
などの復旧資材を運搬して迅速な
て、時間雨量130 ミリ、
昨年
︻大雨︼
あり、日頃の警戒が欠かせません。
16
方沖地震により最大震度
この時には、道路通行不能の山
の被害や
なども、皆様の記憶に新しいこと
と思います。
本 稿 で は、 長 年 電 気 事 業 に 携
わってきたものとして、九州にお
け る 自 然 災 害 の 実 例 と そ の 対 策、
災害に対する不断の備え等につい
てご紹介します。
日に霧島連山の新燃
18
発電機車︵300 kV A ︶の空輸
間部での停電早期復旧のため、全
︵昭
2
年末年始に各地で発生した大雪
1
月以降の新燃岳の噴火
深堀慶憲
電気事業と自然災害
九州支部長
本稿のテーマを決めて原稿を書
き終えたところで、東北・関東地区
月
年ぶりに爆発的噴火が発生
しました。
岳で
この
で未曾有の大震災が発生しました。 ︻火山噴火︼
改 め て、 自 然 災 害 の 恐 ろ し さ を
思い知らされました。
被災地の皆様に対し心からのお
京都市西京区京都大学桂
075-383-7014
www.rakuyukai.org
発生に備えて、台風襲来時の非常
︻雷︼
6
12
九州は地理的に台風銀座と呼ば
7
洛 友 会
九 州 電 力 で は 設 備 巡 視 の 強 化、
1
1
19
年ほどは本
6
17
5
京都大学電気系専攻内
り巡らせる設備産業としての電気
見 舞 い を 申 し 上 げ ま す と と も に、
16
5
〒615-8510
44
10
3
一刻も早い復興を祈るばかりです。
2
1
27
九州では、平成
36
大 雪、 火 山 噴 火、 雷 な ど 自 然 災 害
との闘いの歴史でもあります。
3
3
1
52
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
(1)
第232 号
などです。
とても重要なことです。
大規模な災害に備えて、電力会
ま た、 地 震 等 の 突 発 災 害 に 備 え ︻電力会社間の応援体制︼
て、 本 店 の 非 常 災 害 対 策 総 本 部 自
社間で復旧要員や資材を相互融通
するための体制をあらかじめ整備
体 が 被 災 し た こ と を 想 定 し、 あ ら
かじめ定めた代替総本部に移動し
本部だより
近藤文治先生追悼特集
先 生 は19 43 年 に 京 都 帝 国 大
受けられました。先生の足跡を少し
1994年には勲二等旭日重光章を
地 域 振 興 な ど で 大 き く 貢 献 さ れ、
運 営、 科 学 技 術 振 興、 財 団 経 営、
先 生 は 教 育 研 究 に 加 え て、 大 学
作・実用化、正弦波探索型の最適
その結果を応用した制御装置の試
ル値制御における諸問題の解明と
時間整定系をはじめとするサンプ
の で す。 一 方、 理 論 面 で は、 有 限
電子式応用装置の開発が顕著なも
イザーやゼロ交叉波相関器などの
化 手 法 に よ る 適 応 制 御 系 の 研 究、
たどらせていただこうと思います。
学工学部電気工学科を卒業、そのま
ゲームの理論に基づく学習制御の
年の阪神淡路大震災時と
しています。
同様に、今回の東北関東大震災に
ま大学院へ進学され、19 45 年
提案、大規模システムの安定条件
平成
て情報連絡を行う訓練も行ってい
さ ら に、 自 然 災 害 発 生 時 に は 自
おいても、これに基づき復旧支援
の導出、古典制御理論と現代制御
ます。
治体や自衛隊など関係機関との連
京都帝国大学講師任用、19 47
した応援復旧員が、不眠不休の疲
が巻き起こったのを目の当たりに
に過ごしています。
﹂との年賀状を
族や周囲の人に助けられて、元気
ぎてわが人生になお余りあり、家
ておられたようですが、
﹁卒寿を過
されることも多く身体も弱くなっ
した。お歳をとられてからは入院
崩すことなく、静かに旅立たれま
食中、椅子に座ったままの姿勢を
先生がお亡くなりになりました。昼
る研究をハードウェア面と理論面
その少し前から、自動制御に関す
学 講 座 教 授 に 昇 任 さ れ ま し た が、
先生は、1957 年自動制御工
析法を導入したものとして高い評
た分野に、理論に基づく正確な解
従来、経験的知識に頼り勝ちであっ
果を挙げておられます。これらは、
スに関する基本式の導出などで成
イオンのモビリティとコロナパル
スの波形歪と線路長の関係の研究、
算子法の提案、ダイヤルインパル
動力による新しい解析法と包絡演
渡現象の解析法の改良、周期的駆
と う か が っ て お り ま す。 特 に、 過
たる研究課題は電気回路であった
工学﹂でした。講義には応用面の
井壮介両先生との共著﹁電子制御
受講した時の教科書は西原宏・岩
かれた方も多いと思います。私が
講義しておられて、その講義を聞
ました。
用に関する先駆的業績をあげられ
工学技術の生体・医療分野への応
療 法 選 択 に 関 す る 研 究 等 を 行 い、
球の異常破壊過程と関連疾患の治
リガニの神経パルスの解析、赤血
引用されております。さらに、ザ
際的学術誌に掲載されその後長く
献されました。これらの多くは国
計 法 の 研 究 とC A D 作 成 な ど に 貢
理論を融合した多変数制御系の設
また、平成 年の台風 号に際し
れ も 忘 れ て﹁ こ の 仕 事 を や っ て 本
し、 一 般 の お 客 さ ま に 対 し て は、 りに灯りがともった避難所で拍手
停電状況等の集中管理が可能です
当に良かった﹂と感激したという、
頂いておりましたので、勤務先の松
の 双 方 か ら 進 め て こ ら れ ま し た。
説明も含まれ、分かり易く理論的
社 内 的 に は、 台 風・ 各 地 の 風 速・
切望されます。
の一刻も早い復旧がお客さまから
したが、災害時こそライフライン
れています。
阪神淡路大震災の際に、数日ぶ
雷等の気象情報や停電・設備被害・
材の事前配備を行います。
点 を 確 保 し た 上 で、 復 旧 要 員 や 資
勢力をもとに復旧応援班の集結拠
台 風 接 近 時 に は、 台 風 の 進 路 や
復 旧・ 動 員 状 況、 高 圧 配 電 線 の 充
つ い て も 年 々 整 備 が 進 ん で お り、 いて、私どもの経験をご紹介しま
一 方、 非 常 災 害 情 報 シ ス テ ム に
ては電力 社の応援を頂きました。
行 政 区 別︵ 市 区 町 村 別 ︶ の 停 電 戸
電気事業の原点とも言えるエピ
江への帰途、ご子息雅文様からの
ハードウェア面では、ディジタル
回生には数学や電磁気学と言
にも明快でした。勿論、電気系の
以上、電気事業と自然災害につ
数や復旧見込み等の情報をホーム
ソードが、九州電力では語り継が
電話で訃報に接したときには驚愕
微分解析機、電子式アナログ素子
を定期的に行っています。
ページと携帯電話を通じて提供で
今回の震災で災害対応の重要性
いたしました。ご家族のお話では、
及びそれらを応用した電子管式各
う、 厳 密 な 証 明 や 正 確 な 公 式 の
日、 近 藤 文 治
回生にも︶自動制御工学の
種シミュレータの試作、並びに磁
導出を中心とした理論的科目が
月
初は
気記憶式ディレイラインシンセサ
20 1 1 年
荒木
光彦︵昭
きるようになっています。
を 再 認 識 し た と こ ろ で あ り、 い つ
お正月三が日も年始のお祝いや年
回生対象に︵当
︻災害襲来前の準備︼
襲われるかわからない自然災害に
賀状の整理などで時間を過ごされ、
先生は長らく
特に交通手段が途絶する離島を
よる被害を少しでも小さくするた
3
最後であったということです。
価を受けております。
多 く 抱 え る 九 州 に お い て は、 結 果
そのお気持ちのままの安らかなご
台風接近に備えて復旧要員や資材
所存です。
4
機車空輸訓練も含む災害対応訓練
18
災害発生時の迅速な対応に努める
11
的 に 空 振 り に 終 わ っ た と し て も、 め、今後も引き続き不断の準備と
を離島に事前配備しておくことは
3
4
係 機 関 と 共 同 で、 ヘ リ に よ る 発 電
年京都大学助教授昇任、当時の主
年卒︶
を行っております。
近藤文治先生を偲ぶ
41
携 が 極 め て 重 要 と の 観 点 か ら、 関
7
1
4
第232 号 (2)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
て言えば理論が工学の骨格をなし
の 魅 力 は 少 し 違 っ た と こ ろ、 あ え
数 多 く あ り ま し た が、 先 生 の 講 義
記憶がございます。私はまだ大学
ら、大学についてのお話を伺った
所 で、 暖 か い 日 差 し を 浴 び な が
して現在はシステム制御情報学会
持つ日本自動制御協会︵名称変更
合意を取りまとめ、京都に本部を
さらに、これら
研究科を中心と
後も長らく講師を務められました。
時にはその計画に参画され、設立
のもので、各家が一年間引き受け
院地区のいくつかの町内の講仲間
い ま し た。 こ れ は? と 伺 う と、 西
ま す。 私 は 卒 業 研 究 に あ た り、 先
ているところにあったように思い
指揮を執られる先生があれこれの
でしたが、日ごろ何事にも明快な
の諸事がまったく分からない若造
議員を歴任され、第
期には
れ ま し た。 設 立 当 初 か ら 理 事・ 評
となっています。
︶の設立に尽力さ
府科学技術審議会委員や同消費生
に 貢 献 さ れ ま し た。 一 時 期、 京 都
際しては顧問としてその構想実現
した﹁京都高等技経学院﹂設立に
なっていたそうです。先生の目覚
の祭壇も回り持ちでお引き受けに
ことでした。それ以外にも伊勢講
て毎日お水を差し上げるのだとの
近 藤 研 究 室 に 入 り ま し た。 先 生
あったパーセプトロンに惹かれて
歳で京都
運営の難しさの一端に触れた思い
思いを口にされるのを聞き、大学
で自動制御連合講演会を毎秋開催
動制御協会は他の学会と持ち回り
会長を務めておられます。日本自
また、大阪電気通信大学退職後は
活審議会委員も務めておられます。
大学、さらには京都という地域に
しいご業績は、その責任感が所属
∼
生のお人柄と研究テーマリストに
2
がしました。その後、
21
は、 そ れ ぞ れ の 学 生 に 応 じ て テ ー
20
春 の バ ー ベ キ ュ ー に 始 ま り、 夏 の
マ を 噛 み 砕 き、 研 究 室 の ス タ ッ フ
争後の工学部を新しい姿へと導か
て く だ さ い ま し た。 研 究 室 で は、 など難題が山積するなか、大学紛
の方々と連携して懇切な指導をし
れました。工学部長退任後も、京
197 3 ∼75 年の間、臨職闘争
大 学 工 学 部 長 に 選 出 さ れ ま し た。
ベースに研究を進めていた日本の
当初はほとんど欧米からの知識を
屋まで出張した思い出があります。
の暑い日に先生のお供をして名古
していますが、その準備のため夏
その幅広い能力を活かしてこられ
一方、財団の運営においても先生は
企業の発展を支援しておられます。
合センター所長を務め、地域の中小
19 95 年 ま で 京 都 府 中 小 企 業 総
推測いたしております。
まで敷衍された結果ではないかと
とりわけご自宅に招待していただ
行 政 の 一 端 を 担 っ て お ら れ ま す。
部省科学官として日本の科学技術
ともに、197 9 ∼8 2 年には文
行 事 が た く さ ん ご ざ い ま し た が、 都大学工学部の運営を補佐すると
際自動制御連盟︵IF AC ︶の世
にまで成長し、198 1 年には国
のご努力により世界トップレベル
自動制御工学ですが、近藤先生他
︵1998∼2010年︶を務めら
︵財︶近畿地方発明センター理事長
長︵1983 ∼2006 年︶及び
ました。
︵財︶応用科学研究所理事
のご逝去に際し、在りし日の先生
京都大学名誉教授近藤文治先生
年卒︶
す。 ご 馳 走 を い た だ い て い る う ち
く新年会が強く心に残っておりま
田丸
啓吉︵昭
近藤文治先生を偲んで
先生のご冥福をお祈りします。
海 水 浴、 秋 の ハ イ キ ン グ、 と 年 中
52
伺って居た事が思い出されます。研
の 将 来 に 至 る ま で、 色 々 な お 話 を
に、 若 か り し 日 の 思 い 出 か ら 研 究
に 集 ま り、 お 嬢 様 や ご 子 息 と 一 緒
に、 い つ の 間 に か 皆 が 先 生 の 周 り
∼9 2 年︶及び理事長︵1988
∼ 1 9 8 8 年 ︶、 学 長︵ 1 9 8 8
るとともに、図書館長︵1985
部電子工学科で学生の教育に携わ
した。大阪電気通信大学では工学
は、大阪電気通信大学に移られま
1984年京都大学定年退官後
IF AC 技術委員、計測自動制御
協 会 の 他、 電 気 学 会 関 西 支 部 長、
功に導かれました。日本自動制御
議運営の基礎を支え、会議を大成
は組織委員会現地委員長として会
り ま し た。 開 催 に 当 た っ て、 先 生
界大会を京都で開催することにな
になられて一年遅れたものの、中
れます。中学受験のときにご病気
ご幼少の頃に父上を亡くしておら
都 西 院 の 旧 家 で お 生 ま れ に な り、
先 生 は19 20 年
に力を注がれました。
執るとともに、両財団の基盤整備
れ、公益を見据えた活動の指揮を
記します。
程修了までの学生時代の思い出を
は学生時代と京大在職時と前後に
しながらこの小文を記します。私
のお姿を偲び、昔の日々を思い出
年︶
回生から修士課
先 生 は 1 9 5 7 年︵ 昭 和
ました。まずは
分かれて先生のご指導をいただき
究室から育った学生は、電気関連の
学会副会長、IEEE 東京支部長
月に助教授より教授に昇任され
当 時 は 大 学 紛 争 の 最 盛 期 で、 京 都
都 大 学 評 議 員 を 務 め ら れ ま し た。
研究が組織的に開始された時期で
度わが国の大学で自動制御工学の
授から教授になられた時代は、丁
話 が 戻 り ま す が、 先 生 が 助 教
も図ってこられました。京都工業
術者育成を中心として地域の振興
の活動と並行して、先生は企業の技
大学での教育研究及び学会等で
究の発展に大きく貢献されました。
く持たれたものと思います。先生
く旧家の当主たるべき責任感を強
あった兄上を亡くされ、数百年続
の と き、 機 械 工 学 科 の 助 教 授 で
見事に取り返されました。大学生
した。なぜ近藤研究室を希望した
して新設の研究室に配属になりま
生の卒業研究のため、第一期生と
年
研究室を開設されました。私は同
て 自 動 制 御 第 一 講 座 を 担 任 さ れ、
年で終了してその一年を
日に京
業 界 に 加 え て 鉄 鋼 や 銀 行・ 商 社 と
∼9 1 年︶を歴任して、同大学の
学校を
月
いった分野でも活躍しています。
など学会の要職を歴任し、学術研
大学においても時計台が封鎖され
ありました。学術研究の発展には
のお家に伺ったとき、厨子に入っ
回
た 時 期 で す。 執 行 部 と し て の ご 苦
会が電子工学研究科及び高度メカ
かについては、先生には申し訳あ
名の同級生と共に
労は多大なものであったと推察い
研究者が切磋琢磨する場が必要で
た立派な行者様が座敷に置かれて
月に
た し ま す。 そ の 頃 の こ と だ っ た と
トロニクス技術研究科を設立した
先 生 は、 19 6 9 ∼7 0 年 に 京
発展に力を尽くされました。
33
32
4
1
す。先生は東奔西走して関係者の
1
6
思 い ま す。 電 気 系 教 室 の と あ る 場
4
4
7
4
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
(3)
第232 号
回生の卒
に自動制御という言葉に惹かれた
り ま せ ん が 特 段 の 理 由 は な く、 単
られたように、後になって思いい
ろうという主旨の指導をされてお
これだけのことを示せば分かるだ
ご指導をいただきました。また先
さらに新米教授にたいして種々の
上 げ に つ い て ご 援 助 を い だ だ き、
に す ぎ ま せ ん で し た。
年卒︶
近藤文治先生のお人柄を
偲んで
宇山
親雄︵昭
り、先生が京都大学を定年退官さ
家族の方のお話では、前日まで家
日朝お亡くなりになりました。ご
生のご指示により洛友会の会員名
れた後も、京都工業会の社会人向
た り ま し た。 この半田づけの経験
月
し、就職後もトランジスタ回路の開
業研究ではサンプリング制御装置
年
発からその続きとしてIC、LS
族とご一緒に会話を楽しまれにこ
近藤文治先生は平成
程に進学した年に先生が外部の研
け講座の開設をご一緒にする中
にこしていらっしゃったとお伺い
簿のコンピュータ化の仕事をした
究 費 を 取 っ て こ ら れ て、 研 究 室 で
Iの設計の仕事へつながりました。
で、いろいろのお話を伺い勉強に
は私のその後の進路に大きく影響
アナログコンピュータを作ること
配属された職場で﹁今年の新人は
の 試 作 実 験 を し ま し た が、 修 士 課
に な り ま し た。 私 は ア ナ ロ グ コ ン
L S I 設 計 の 研 究 室 を 立 ち 上 げ、
用が決まるまでには次のような経
研究室の助手に採用されました。採
攻修士課程を修了し
月に電気工学専
無 事 に 勤 め を 果 た す こ と が で き、
緯がありました。私が修士課程の
年
しています。
19 9 9 年 に 定 年 退 職 を 迎 え ま し
年生の夏ごろであったと思いま
私は昭和
なりました。
に就職後は、日常の仕事で直接ご
た。京都大学を退職した後は、京
す。すでにある会社に就職が内定し
先生のご指導のおかげで私も
半田づけがうまい﹂とほめられた
指導をうける機会は無くなりまし
都を離れ岡山、神奈川と転居しま
ていました。そんなとき友人から
月から近藤
たが、その後も学位論文の提出な
したので、先生にお目にかかる機
教育に活動することができました。
近藤先生についての思い出話は
いくつもありますが、その内でも印
象の深いものをいくつか紹介しま
す。昔のことになりましたので順
助 手 に な っ て 少 し 経 っ た こ ろ、
不同となることをお許しください。
私は職員組合活動にも少しかか
わっていました。近藤先生が工学
部長に就任なさった直後のあると
き、近藤先生から電話で教授室に
来るよういわれました。先生は﹁工
学部長は管理職なので職員組合を
脱 会 し た い。﹂ と お っ し ゃ っ た の
です。当時のほとんどの工学部教
授は職員組合員ではなかったので
また、建国記念日が
月
日に
大変驚いたことを覚えています。
いしたのが最後になりました。当
卒業生が開いたお祝いの会でお会
のご様子でしたが、林千博先生が、
ていることに不安を感じておいで
話しました。先生は就職が内定し
とおっしゃいましたが講演を引き
るよう勧めることはやめなさい。﹂
年︶に東芝
ン プ で し た。 先 生 の 設 計 し た 回 路
ど折にふれてご指導をいただきま
会も減り、一番近くは2008 年
定められた最初の年でした。私は
づけなので、いわゆる﹁いもはん﹂ 学の電子工学科には物性の研究室
日は先生から昔の思い出話、日ご
1960 年︵昭和
に し た が い、 ア ル ミ 板 を 裁 断 し た
した。そして197 8 年に先生か
ま だ 真 空 管 の 時 代 で し た の で、 ミ
枠を作り真空管用のソケットや端
ら京都大学に来ないかというお話
﹁近藤先生が助手になりたい人を探
はあるがこの分野の回路側の研究
ろの生活の様子や健康管理などの
本を使用したオペア
子 用 の 穴 を あ け、 ソ ケ ッ ト、 端
日の先生の米
抗議の意味を表すため当日近藤先
室が無い。ついては新しくLSI
ニチュア管
子、 抵 抗 や コ ン デ ン サ な ど の 回 路
︵平成
月
をいただきました。その時のお話
している。
﹂と聞きました。さっそ
と言われる半田づけ不良による故
回路研究室を作り研究と教育を
大学の人事を優先させるのは当然
生に研究室で講演をしていただく
障 で し た。 繰 り 返 し ご 指 導 を 受 け
話を伺い、また変わらぬお元気な
である、という旨の話をされて採
と だ ろ う と 思 い ま す。 し か し 先 生
る先生もさぞやご不満があったこ
やる方も苦労しましたが指導され
から、最初はいろいろ苦労があり
ころに新しい研究室を作るのです
た。なにぶん外来者が何も無いと
197 9 年 に 京 都 大 学 に 戻 り ま し
て と い う 人 間 が や る 状 態 な の で、 役 に た て る な ら ば と 決 心 を し て、
祈り申しあげます。
心から御礼を申し上げご冥福をお
ありません。これまでのご指導に
りなので、突然のご他界に言葉も
ご様子の年賀状をいただいたばか
ところ承諾いただきました。それ以
ろしいでしょうか、と申し上げた
用工学の研究をしたいのですがよ
先 立 ち、 私 は 先 生 に、 今 で い う 医
40
室がある建物の屋上に登り屋上に
か。﹂ と お っ し ゃ っ て、 自 ら 教 授
た ら﹁ 水 槽 に 土 を 沈 め た ら ど う
た。そのことを先生に相談しまし
明で多数死んだことがありまし
す。飼っていたザリガニが原因不
達の実験をしていた時期のことで
さらに、私がザリガニの神経伝
受けてくださいました。
に﹁学生のみんなに無理に出席す
よ う お 願 い し ま し た。 先 生 は 私
十数台作った最後の頃には半田づ
してくれないかということでし
ご様子に接して、次は白寿の祝賀
さ て、 助 手 と し て 採 用 さ れ る に
用が決まったことを覚えています。
から厳しい叱正の言葉を受けた記
ました。先生からは研究室の立ち
来 年あまりその分野で研究および
憶 は な く、 ご 自 分 で や っ て 見 せ て
話し、内定している会社のことも
けもうまくなり故障もなくなって
た。私もだいぶ悩みましたが、先
会を開きましょうと言って散会し
年と
オペアンプの信頼性も向上しまし
ました。また、年初にはお元気な
4
生からのお話でもあり、母校のお
年︵昭和
寿 の お 誕 生 日 の 日 に195 8 年 と
年︶
部品を取り付け配線を半田づけし
は、これからはIC、LSI の時
ア ン プ ︶ の 試 作 を 担 当 し ま し た。 のも近藤研につながる思い出です。
ピ ュ ー タ に 使 う 演 算 増 幅 器︵ オ ペ
1
て 作 る わ け で す が、 こ の 時 に 問 題
4
く先生に会い、助手になりたい旨
2
年︶の研究室
1
34
11
3
代になると予想されるが、京都大
6
33
35
42
に な っ た こ と は、 素 人 が や る 半 田
20
2
38
23
4
た が、 な に し ろ 半 田 づ け な ど 初 め
59
3
第232 号 (4)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
積もった土をバケツに入れて運ん
日 玄 関 前 に 置 く よ う に し て い る。
食材の配達があり、その容器を翌
お尋ねしましたら、先生は﹁毎日
について先生ご自身が洛友会会報
の長期にわたる洛友会へのご貢献
去を偲ぶために、先生のこれまで
の処理にあたることとなった。洛
長を助けて洛友会の運営及び会務
友会の常任幹事になり、洛友会会
に移転致しました。
大学院工学研究科電気工学専攻内
先生が私に進んで指示をなさっ
月に創設さ
し、同時に洛友会の常任幹事とな
︵近藤先生が︶応研の理事長に就任
年近くにわたって幹事、常
献身的にご尽力下さいました。僭
会長の立場で洛友会発展のために
任 幹 事、 副 会 長、 会 長、 及 び 名 誉
実に
創設の195 2 年以来、本年まで
以上のように近藤先生は洛友会
でくださいました。
周年を迎えた昭和
年、応研の山本常務理事並びに吉田
友会が創立
がらまとめてご紹介させていただ
にお書きになった記事を参照しな
に連絡するように段取りができて
理事長が相次いで逝去されたので、
もしその容器がなかったら連絡先
だけでした。それは私が助手になっ
くことと致しました。
年
い る。﹂ と お っ し ゃ い ま し た。 最
月
越ながら洛友会会員を代表して厚
年
り、洛友会の実務の責任者として
号は翌
日付けで発行されました。平成
れ、洛友会報第
洛友会は昭和
後まで自立心の強い方であったと
晩 年 の 先 生 と の お つ き あ い は、
今改めて思います。
私の方からは研究に必要な高額
調不良による会長辞任のお申し出
う に つ け、 私 も こ の よ う な 心 で 若
方を見ていらっしゃったのだと思
たのを覚えています。一言で申しま
さつをされ、それが大変印象深かっ
で、近藤先生は理事長退任のごあい
で、若干補足を加えてこれをまず
経緯を詳しく述べておられますの
きた﹂と記されています。
勤め洛友会の舵取り役を果たして
されてしばらく経った頃の話で
これは近藤先生が奥さんを亡く
評議員として走り回っておられた
前後の大学紛争時には、工学部の
勉 強 も で き ず、 ま た、197 0 年
ということでした。戦争中は十分
と洛友会との連絡役でお手伝いに
幹事といっても、初めは単に教室
年間を洛友会と共に過ごしてきた。
日︵平成
ら幹事を勤めたのを皮切りに、今
﹁
︵近藤先生は︶洛友会発足当初か
の総会で正式に決定しました。近
長とすることを平成
れ、後任として長尾
眞元総長が
引き継ぎをご承認頂いたので、近
上の理由で会長の辞意を表明さ
月
日
と、後任に長尾 眞先生を洛友会会
年
藤先生はその後も応用科学研究所
の理事長をしばらく続けておられ
日この
と略称︶の理事長でもあった関係
月
ましたが、平成
年
で、洛友会事務局は応研で担当し、
ました。後任には西川䜾一大阪工
職も辞され名誉理事長に推戴され
が洛友会の常任幹事を勤めた︵中
業大学学長が引き継がれることに
応研の常務理事だった山村忠行氏
略︶
。 代目の会長松田長三郎先生、
代目の会長大谷泰之先生から洛
ため、洛友会事務局の強化策として
応研の常務理事および理事長が洛
務局︵移転当時は大澤
靖治事務
局長︶は京都大学桂キャンパスの
学研究所に置かれていた洛友会事
なり、この機会に創設以来応用科
近藤文治先生と洛友会
このたびの近藤文治先生のご逝
年
年
月号︶に
月 号 ︶ に 会 長 就 任 挨 拶、
203号︵平成 年 月︶まで毎号
﹁1999年新年に想う﹂以降
1 8 5 号︵ 平 成
成
ご 挨 拶 と し て は、 1 8 4 号︵ 平
近藤先生の洛友会報への新年の
くお礼申し上げます。
に伴い︶会長に推戴されるまで
年大谷泰之会長の︵体
会長の松田長三郎先生を補佐した。
に洛友会会長として近藤先生のご
年間一貫して洛友会の常任幹事を
以後平成
寄稿があります。洛友会が創設さ
周年記念特別号︶の最初
事として理事会に参加したことで
れてから以降のその運営に関する
月
日付け200 号︵洛友
年
月の定例理事会
会創立
つ く づ く 思 い ま す こ と は、 先 生 は
した。平成
い人たちに接することが求められ
引用させていただきます。
す。 私 の 同 級 生 で 近 藤 研 究 室 出 身
時期があったにもかかわらず、こ
過ぎなかった。会長鳥養︵利三郎︶
年末頃からご健康
すと、﹁私の人生はすばらしかった。
﹂
の 友 人 か ら、 機 会 が あ っ た ら 近 藤
のような言葉を残されたのは、きっ
先生が応用科学研究所︵以下応研
藤先生を名誉会長に推戴するこ
先生に再婚を勧めたらどうかと依
と人生と真正面に向きあい、正正
月︶に至るまで
頼 さ れ ま し た。 私 は い つ の 近 藤 研
堂堂と生きたという自負があって
ここに近藤文治先生のご冥福を
18
年
コンパのときであったかは忘れま
先生は黙って聞いたまま何もおっ
6
25
地方発明センターの理事長を退任
お祈り申し上げます。
5
あげたことがありました。しかし、 の発言であったと思います。
し た が、 近 藤 先 生 に そ の 旨 を 申 し
その後平成
ているのだと痛感します。
年
大 変 心 が 広 く、 じ っ と 弟 子 の や り
年間理
先生が近畿地方発明センターの理
28
友会会長が応研の役員でなかった
ず っ と 時 は 下 っ て、 先 生 が 近 畿
18
1
しゃったことぐらいだと思います。
てかなり経った時でした。
﹁そろそ
30
15
11
な 機 器 の 購 入 を お 願 い し、 か な え
1 27
洛友会代表幹事
木村磐根︵昭 年卒︶
しゃいませんでした。
16
4
ンセンサスが十分得られていると
ることについては会員の皆様のコ
の電気電子工学科卒業生を核とす
義をしています。現在は、工学部
め、会員について厳格な長文の定
の会則にはこの点を明確にするた
かという点でした。その後洛友会
段々曖昧になってゆくのではない
たため、同窓会を構成する母体が
に工学研究科の本拠が桂に移転し
究科に取り込まれたこと、その上
が工学研究科から新設の情報学研
こと、電気系の中の電子通信専攻
院が学部と独立した組織となった
も気にしておられたことは、大学
ご発言で洛友会の今後について最
これらの年頭のご挨拶や平素の
年頭の所感を寄稿しておられます。
1
6
60
た の は、 覚 え て い る 限 り で は 一 度
50
ろ博士論文を書きなさい。
﹂とおっ
58
16
20
15
16
22
された送別の晩餐会であったかと
思 い ま す が、 ご 高 齢 に も か か わ ら
ず 一 人 で お 住 ま い で し た の で、 ま
さ か の 時 は ど う な さ い ま す か、 と
2
7
て い た だ い た こ と も あ り ま し た。 事長をされていたとき、
11
8
10
4
50
15 1
3
10
2
30
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
(5)
第232 号
思 わ れ ま す の で、 近 藤 先 生 に は 洛
た鳥養利三郎教授の教室主任とし
年
月に開催する電
しておきたいと思います。
私は平成
気 工 学 教 室 創 設10 0 周 年 記 念 事
ての歓迎の辞は印象的だった。旧
玄関を入った左側にあった古色蒼
業の幹事を勤めていたこともあ
友会の運営上大きな問題にはなら
ないことを申し上げて安心して頂
然たる薄暗い階段教室で、待つ間
月の定年退職後も
名誉教授だより
サ ス テ イ ナ ブ ルE & E を
求めて
乃至
年 程 の 間、
回、東アジア、特に
て い る。 一 方 で こ の
年に
AS E AN を 中 心 と す る 東 南 ア ジ
アの国々を訪れている。去年はシ
ンガポールとベトナムの首都ハノ
イ、その前の年にはシンガポール、
回 に わ け て﹁ 私 達 の 学 生 生 活 ﹂ の挨拶はなっていない﹄と叱られ
在、たまたま筆者が勤務すること
伝いをさせていただきました。現
先生を補佐して洛友会運営のお手
タイのバンコクとインドネシアの
た。皆、目をパチクリ。
﹃やり直し!
になった応用科学研究所へは、洛
︵昭
起 立、 礼、 着 席! よ ろ し い。﹄ 大
友会行事や運営の打ち合わせなど
洛友会の常任幹事を仰せつかりま
あ る い は﹁ 戦 時 中 の 学 生 生 活 ﹂ の
学はえらいところだ。私達をまる
で会長をご退任になるまでずっと
今 年 は 多 分、 シ ン ガ ポ ー ル、 中
した。それ以後ずっと会長の近藤
題 で、 近 藤 先 生 が 京 都 大 学 に 入 学
で中学生か小学生扱いじゃないか
近藤先生をお訪ねして来た所でし
このたび、洛友 会事務 局のご要
国 の ハ ル ピ ン、 マ レ ー シ ア の 首
当に立ち上がって礼をして着席し
された頃からの出来事を詳細に書
と一瞬思った。教授はさらに続け
た。先生は亡くなるまで私にとっ
請 を 受 け、﹁ 名 誉 教 授 だ よ り ﹂ と
たのはよかったが、開口一番﹃今
回
ら れ た。﹃ 大 学 で は 諸 君 を 紳 士 と
て本当に身近にいらっしゃる存在
して洛友会報に一文を寄せる機
都 ク ア ラ ル ン プ ー ル、 そ れ に バ
大 い に 助 か る。 新 た に 書 き 下 ろ す
労 す る こ と は な く な り、 編 集 子 は
と い う こ と に す れ ば、 埋 め 草 に 苦
な だ け 埋 め 草 に 使 い、 続 き は 次 号
な い も の を 用 意 し て お け ば、 必 要
ので何処でどう切ろうと差し支え
書 く の は 大 変 だ か ら、 少 し 長 い も
等の大人として取り扱われたとい
あった。ところが大学で初めて対
ただいたが、本質的には保護者で
主の私達を一応大人扱いはしてい
高等学校にあっては、やんちゃ坊
諭 は 完 全 に 保 護 者 的 立 場 に 立 ち、
注意する。
﹄ 聞いた私は大きな感
動 を 覚 え た。 小・ 中 学 校 で は、 教
だきました。合掌
時 の 訓 辞 ﹂ の と こ ろ で は﹁ 入 学 式
く こ と に し た ﹂ で 始 ま り、﹁ 入 学
の で、 埋 め 草 と し て 連 載 さ せ て 頂
験 を 度 々 利 用 さ せ て 頂 い た。﹂ と
入生に対する訓辞に、この日の経
私はその後の教員生活の中で、新
る こ と を 教 え ら れ た 次 第 で あ る。
平成 年度本部総会は左記に
より開催されます。多数の方々
記
年6月
日 土( )
のご来場をお待ちいたしており
ます。
日時
平成
03 3-292 5-936
東京支部総会終了後
場所
学士会館
い と の ご 要 望 で あ る。 及 ば ず な
えたいメッセージを記して欲し
る の か。 2 0 0 8 年 度 か ら 京 大
何を目的にそれらの国々を訪れ
Global
で、文部科学省のGCOE︵
︶プログラ
Center of Excellence
ムの一つとして﹁地球温暖化時代
委員会及び外部評価委員会の委員
のエネルギー科学﹂教育研究拠点
長を委嘱されたからである。この
年
に亘って大阪工業大学の情報科学
京大を定年退官してから既に
部長と学長などを務めたが、それ
GCOE プログラムはエネルギー
形成が始められ、筆者がその諮問
らも辞して、今は京都を中心に幾
科学研究科、エネルギー理工学研
年
つか︵非常勤︶の仕事を仰せつかっ
の歳月が経過した。その間約
ま ず は 近 況 報 告 か ら 始 め よ う。
を申し述べてみたい。
が ら、 以 下 に 普 段 の 想 い の 一 端
ある。
とヒンズー教寺院プランバナンが
世界遺産の仏教寺院ボロブドール
ガジャマダ大学があり、郊外には
は広大なキャンパスを構える名門
似た雰囲気の古都である。市内に
上の長い歴史を持ち、京都とよく
因みにジョクジャカルタは千年以
古 都 ジ ョ ク ジ ャ カ ル タ を 訪 れ た。
﹁会報編集子から埋め草の原稿
目を一部省略してご紹介します。
して取り扱う。従ってもし紳士と
でありましたので、先生に感謝の
会 を 与 え ら れ た。 洛 友 会 会 員 の
ン コ ク へ 行 く こ と に な る だ ろ う。
の は し ん ど い の で、 す で に 書 い て
う感激が胸に湧き上がるのを覚え
き 残 し て お ら れ ま す。 そ の 第
を 頂 き た い と 要 求 が あ っ た。 毎 号
しておとる行動があればどしどし
意を込めこの稿を作成させていた
皆 様 方、 特 に 大 学 院 生 な ど も 含
ひょっとすると生まれて初めてだ
あ っ た も の の 中 か ら、 洛 友 会 に 関
における羽田総長の訓辞の内容に
近藤先生らしい思い出を書き残し
本部総会開催のお知らせ
係ある部分だけを掲載させて頂く
単 に 専 門 知 識 の 練 磨 の み な ら ず、
た。それと同時に、大学の教育が、
学生だった戦時中の思い出を中心
人間性の陶冶にも大きな比重があ
ことにした。たまたま私が 京大の
年と言うことでもある
ついては覚えていないが、式後︵あ
ておられます。後輩の我々も銘記
12 15
に、 戦 後
るいは翌日︶電気工学科で行われ
23
む 若 い 会 員、 さ ら に は 今 年
が、アフリカのボツワナも訪ねる
月号︶以来
10
月
月号︶まで
3
の電気系教室新入生も含めた学
年
西川
䜾一
年卒
京都大学名誉教授︶
2
ことになるかもしれない。
年
年
いてまいりました。
上記の会長のご挨拶以外に
り、平成
9
もなく教授が見えたので、各自適
10
部 学 生 の 諸 君 な ど に 向 け て、 伝
30
3
17 5 号︵ 平 成
10 1
4
25
1
12
19 4 号︵ 平 成
13 8
8
23
TEL
50
第232 号 (6)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
生可能エネルギーのほか、東南ア
究所、工学研究科原子核工学専攻、 排出量の増大が避けられない。再
後とも一層の経済発展が必要との
100 位前後に留まる。だから今
4、0 0 0 米 ド ル 程 度 で、 世 界 の
者
ジアでは近い将来、間違いなく原
そして熊取の原子炉実験所の
合 同 で 実 施 さ れ て い る の だ が、 そ
筆者の提案には、幸いASE A
旨に基づいている。
N初め多くの国々の理解と賛同
ている。
位で
ら転落していることをご存じだろ
あった。しかし現在はその地位か
NOE の結成と活動についての報
フォーラムから参加各国における
人 当 た りG D P で
長年の間、東アジアにおいて我
つの
が国は
理由で、地球温暖化防止を目指す
うか?GDP の測り方には
回
ポスト京都議定書の策定に当たっ
方 法 が あ る。
が 得 ら れ、 2 0 0 9 年 の 第
そのような状況の中で、我が国
て、温暖化ガス排出量の削減目標
のG C O E が 展 開 す る 事 業 の 一 つ
と し て、 諸 外 国、 特 に 近 来 発 展 の
設定を拒否する姿勢を崩さない。
トによるものであり、もう一つは
種材料、地域エネルギー・システ
ルギー利用、エネルギー貯蔵、各
つは公定為替レー
と こ ろ でG C O E の 教 育 プ ロ グ
その国の購買力平価を考慮したも
&E︶に関する研究・開発と意見・
︶フ ォ ー
Energy and Environment
ラムという、エネルギーと環境︵E
況に対応することを重視している
E フォーラムでは、こういった状
述 べ たG C O E プ ロ グ ラ ム やS E
面でも協力する必要がある。先に
術者や管理者の教育・人材養成の
SEE フォーラムなど海外の会議
京大で出会うそれらの諸君、また
と し て 働 く 外 国 人 も 何 人 か い る。
ログラムの特任助教や研究補助員
院で学習・研究を続けている。プ
国々から大勢の留学生が来て大学
状況変化を示す典型的な指標の一
なのだ。最近の東アジアの急速な
あって、今や日本はその次の
を展開しているシンガポールで
盛んな投資を得て活発な経済活動
ルネイであり、
位は海外からの
石油と天然ガスに恵まれた小国ブ
のである。後者によれば、
位
らすことが期待される。
実社会に有為なインパクトをもた
が具体的政策とも結びついて、現
になった。研究者たちのアイデア
してテーブル討議が開かれるよう
ご と に 国 際 的N O E の 構 築 を 目 指
教育と人材育成など、様々の課題
で年
乃至
回、 国 際 フ ォ ー ラ ム
それらの会合に京大の上記の研究
なったのだが、エネルギーの利用
から言えばまさに世界の超大国と
言って彼らの方が同年代の日本人
強熱心だということ、また正直に
ちは盛んな意欲と活気に満ち、勉
年、発展途上国や新興国の若者た
ションのセッションである。NO
E に関するテーブル・ディスカッ
になったセッションがある。NO
SEE フォーラムで、最近慣例
ち向かわねばならない。すなわち、
暖化防止以外にも様々な課題に立
ルギーの確保、環境保全・地球温
な発展を実現するためには、エネ
ところで、地球社会が持続可能
ム、 技 術 革 新 と エ ネ ル ギ ー 政 策、
情 報 交 換、 さ ら に は 人 材 育 成 を 目
や会合で出会う顔なじみの若手研
つとして、触れておいた。
の排出量は世界
科や研究所の先生方や院生たちと
効率は極めて悪い。国民一人当た
位となった。規模
一 緒 に 参 加 す る、 そ れ が 出 か け る
タイの若手で日本留学の経験を持
れ て い る と い う こ と だ。 例 え ば、
開かれた第
回SEE フォーラム
と配分、生物の多様性保持、大規
の安定供給、希少地下資源の探索
良質な水資源の確保、安全な食料
よりも平均的には外国語能力に優
倍以上なの
ご 承 知 の よ う に、 最 近、 中 国、 の2・5分の 程度だが、GDP当
目的である。
りの温暖化ガス排出量は未だ日本
1
の略
Eとは Network of Excellence
で、2007 年にタイのパタヤで
2
2
位は
指 し た フ ォ ー ラ ム を 設 け、 イ ン ド
のである。
究者や大学院生も多い。そういっ
も含む東アジアの参加国持ち回り
た人たちと接して感じるのは、近
E&E に関する幾つかの国際会議
2
や 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム が 開 か れ る。 P は昨年世界
1
発 展 の 典 型 例 と し て、 中 国 を
位となり、GD
ラ ム に 基 づ い て、
カ国以上の
告がなされるとともに、自然エネ
はE&E 科学・技術の先進国とし
携を重視しているのである。
も う 少 し 具 体 的 に 言 う と、 京 大
2
を 開 催 し て い る。 加 え て 他 に も、 見 て み よ う。 一 昨 年、 温 暖 化 ガ ス
の提案によってSEE︵ Sustainable 全な技術を提供するとともに、技
1
3
15
利用などに関する効率的でかつ安
て、エネルギーの供給・変換・輸送・
1
5
1
著 し い 東 ア ジ ア 諸 国 と の 交 流・ 連
子力の利用も始まるだろう。
4
1
済発展は目を見張るばかりであ
ン ド な ど も 加 え て、 こ の 地 域 の 経
韓 国、 東 南 ア ジ ア 諸 国、 そ れ に イ
の 問 題 が 残 さ れ て い る の で あ る。
エネルギー技術全般に亘って多く
利 用 が 多 い の も 原 因 の 一 つ だ が、
だ。今でも化石燃料として石炭の
たりの排出量は実に
ほか英語、フランス語、さらには
る。ベトナムのT さんは母国語の
日本語も英語も極めて堪能であ
つ S さ ん は、 母 国 語 は も ち ろ ん、
には、単なるCOE では不十分で
互に絡み合った問題群を解決する
E&E に関わる様々の、しかも相
で筆者が提唱したものだ。つまり、
難問が山積みになっているのであ
ら将来に向けて、実に多種多様な
の予防等々、地球社会には現在か
特に人間や動植物に対する感染症
保健・医療技術とシステムの確立、
模 自 然 災 害 の 予 防 と 被 害 低 減 化、
る。 従 来、 我 が 国 の 学 術・ 経 済 交
あ り、 そ れ ぞ れ 得 意 技 を 持 っ た 幾
る。 そ れ 故、 各 国・ 各 分 野 のN O
流の相手は主として欧米の国々で
ロシア語も出来る。つまり母国語
つ か の C O E が 連 携・ 協 力 の ネ ッ
人 当 た り のG D P は 未 だ に
OE とでも言うべきネットワーク
3
発・実用化などを進めようとの趣
1
結成と活動にも大きな力を発揮し
つ、
だから地球社会全体の為にも、我
トワークを形成して、より幅広く、
E がさらに結びつき、スーパーN
あ っ た が、 最 近 は 上 記 の 国 々 と の
の外国語がこなせるのである。彼
またより効率的に調査・研究・開
つ
での支援が不可欠なのだ。国のG
らの活躍は、後に述べるNOE の
国民
と英語のほかに、もう
今 後 も な お 一 層 急 速 な 社 会・ 経 済
DPは世界第 位になったものの、
ギー消費とそれに伴う温暖化ガス
交 流 が 急 速 に 比 重 を 増 し て い る。 が国からの技術移転と人材育成面
発 展 が 見 込 ま れ る の で、 エ ネ ル
10
1
2
2
1
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
(7)
第232 号
を構築することが必要なのだ。
ルギー理工学研究所﹂を発足させ
る。 そ れ 故、 研 究 者 そ れ ぞ れ が
力 を 秘 め て い る。 し か し、 激 し
ういえば、鞄を肩にかけると加速
いることがよくあります。友人に
度的に痛みが増します。私の鞄は
ま湯的感覚では確実に落後者に
僅かの間だけ持って貰うと、想定
入りきらなかった物が飛び出して
来るだけ多様な研究者や現場の
なる。若い諸君の自覚と活躍に
外の重さに驚かれることもしばし
い国際競争に勝ち抜くだけの努
そういう様々の研究開発プロ
技術者とコンタクトして、実社
期待するところ大である。
力と気概は絶対に必要で、ぬる
ジェクト或いはプログラムの中
会・市場に与えるインパクトの
独自の目的とアイデアを持って
で、筆者自身は何をテーマとして
大きな成果を生み出すべきであ
研 究・ 開 発 に 臨 む と と も に、 出
が、 そ の 前 身 と し て﹁ 環 境 調 和 型
い た の か? も と も と の 専 門 は 制
たこと、等々に繋がる。
エ ネ ル ギ ー﹂ の 教 育 研 究 拠 点 形 成
御・システム関係なので、E&E
年度まで続けられる予定だ
G C O E は20 0 8 年 度 に 始 ま
世 紀C O E が 2 0 0 2
り、
年度まで実施されてい
された未来開拓学術研究プロジェ
本 学 術 振 興 会︵J S P S ︶ で 実 施
程 に な る。 さ ら に そ の 前 に は、 日
手段が有効かといった問題や、電
悪影響を抑制するにはどのような
性 に ど の よ う な 影 響 が 現 れ る か、
ると、電圧、周波数や系統の安定
電源が大量に電力系統に導入され
やコジェネプラントなどの分散型
東 西 ア ジ ア・ イ ン ド・ ア フ リ カ
だから今後は、欧米のみならず
流 と 連 携 が 必 須 の 条 件 と な る。
要になり、その上で国際的な交
な視野と見通しを持つことが重
発でも企業活動でもグローバル
一段と低くなるだろう。研究開
間 の ヒ ト・ モ ノ・ カ ネ の 垣 根 は
切割愛させて頂いた。
のだが、紙数の都合でこの際は一
フォーマティクスとかに関するも
律分散システムとかバイオイン
筆者の仕事のもう一つの側面は自
の 想 い の 一 端 を 語 ら せ て 頂 い た。
以 上、 聊 か 長 く な っ た が、 普 段
と、 財 布、 携 帯 電 話、 音 楽 プ レ ー
因なのかと自分の鞄の中身を見る
物 の 方 が 可 愛 い 物 が 多 く、 小 さ め
せん。女性用のかばんは小振りな
すが、私はPC は持ち歩いていま
ていればすぐに達しそうな重さで
ともありました。PC を持ち歩い
定したところ ㎏ を示していたこ
持ち歩いているかが気になり、測
る。
ク ト の﹁ エ ネ ル ギ ー 利 用 の 高 効 率
力需要の変動に応じて料金を変化
などのどこででも、自信を持っ
についてもそういった観点から仕
化と環境影響低減化﹂分野の研究
させる季時別料金制や負荷適応料
て逞しく活躍出来る人材だけが
た。 そ れ に つ い て も 諮 問 委 員 長 を
推進委員長を仰せつかっていたと
金制などを実施するための具体的
求 め ら れ、 生 き 残 れ る。 優 秀 な
︵平
前原
慶子
︶ こ れ か ら の 世 界 で は、 国 の
い う 因 縁 が あ る。 当 時 は 京 大 だ け
方策などについても研究を進めて
研 究 者、 技 術 者 や 経 営 者 は、 現
事をしてきた。例えば太陽光発電
で な く、 東 大、 阪 大、 東 北 大、 東
い た。 そ れ ら は 今 日 流 で 言 え ば、
在既に世界中で奪い合いになっ
年
工大などの先生方とお付き合いさ
スマートグリッドに関する課題で
交流もあった。
す るC O E と の お 付 き 合 い は
せ て 頂 い た し、 も ち ろ ん 海 外 と の
あり、早期に先駆的研究を始めて
ているのだ。
デジタルデバイスで肩凝
りを解消
年卒・東京支部︶
皆様の中にも肩凝り・腰痛に悩
減出来れば苦労はありません。全
すことでしょう。しかし簡単に削
改善策は明確です。荷物を減ら
4のファイルが付いて来ます。
に 入 っ て い ま す。 通 勤 時 は 更 に A
ボトル飲料、文庫本や技術書が常
ヤ ー、 手 帳、 化 粧 ポ ー チ、 ペ ッ ト
ですが、中々叶いません。何が原
の鞄にして軽やかに生活したいの
そしてこの分野との因縁はさら
い た と 言 え る だ ろ う。 加 え て 言 え
まされている方は多いのではない
て必要だと思うからこそ毎日持ち
に 遡 っ て、19 87 年 度 か ら
ば、スマートコミュニティ︵自律 活 躍 の た め の 必 要 条 件 の 一 つ
は、コミュニケーション力と英
かと推察しますが、私も中学生の
歩いています。不意に備える目的
女性の〝もしも〟の備えが隠され
あ り ま せ ん。﹁ 化 粧 ポ ー チ ﹂ に は
分散都市︶に関する仕事もしてい
頃から酷い肩凝りに悩まされて来
行していないばかりに困りたくは
で持っている物もありますが、携
度 ま で 実 施 さ れ た﹁ エ ネ ル ギ ー 変
語プラス現地語の能力である。
ました。近頃では日がな一日PC
勢が悪い為か、改善の兆しが見ら
ており、持ち歩かないなど言語道
換と高効率利用﹂と題する大型の
︶ 近 来、 我 が 国 産 業 の 国 際 的
に向かっている為か、そもそも姿
れません。マッサージに通うも焼
た。現在、京大エネルギー科学研
競争力は相対的に低下しつつあ
てかなり厳しいものとなるだろ
け石に水です。他に改善策は無い
文部省重点領域研究の代表とし
り、国の経済状況は従来に比べ
う。しかし徒に悲観することは
︵
メディアセンターの喜多一教授な
以上のような経験を通して得た
無い。我が国は技術開発におい
究科の手塚哲央教授、同学術情報
どが仕事仲間であった。
実 上 最 初 の 独 立 研 究 科 で あ る﹁ エ
教訓、特に若い世代に伝えたい提
年度発足に漕ぎつけた
ネルギー科学研究科﹂の創設を提
案 し て、
断です。他に削減の余地があると
し た ら、 嵩 張 る 紙 類 で す。 文 庫
ものかと見渡せば、日々持ち歩い
1
一人で出来ることは知れてい
ている鞄が目に留まりました。そ
ても、世界で通用する商品開発
こ と、 同 時 に﹁ 原 子 エ ネ ル ギ ー 研 ︵
究 所 ﹂ の 改 組 を 実 現 さ せ て﹁ エ ネ
においても、まだまだ潜在的な
︶工学分野の研究・開発では、
3
言をまとめると、次のようになる。
て、 全 国 大 学 の 百 名 規 模 の 先 生 方
の ま と め 役 を 務 め た こ と、 そ し て
2
その時の経験に基づいて京大で事
19
10
92
会員寄稿
年
7
ばです。一度、どれ程重い荷物を
年度から
︵
に関する
12
務 め た の で、 京 大 で のE & E に 関
06 21
96
第232 号 (8)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
ているのでは?と感じます。更に
と、私の望む方向性とは逆を行っ
し、持っていない時に限って読む
ち運びには適していません。しか
技 術 書 の 類 は 単 価 が 高 く、 ま た 持
倒臭い気がしますが、
魅力的です。
ております。
の通勤電車に揺られる日々を送っ
建物。その後津波によって、みる
地震の揺れによって、倒れている
子 は、 津 波 が く る 直 前 の も の で、
い 事 も 考 え ら れ ま す。 今 読 書 中 の
そんな重量を片手で支え続けるこ
必 要 に 迫 ら れ る こ と が 多 い で す。
日も ㎏ の荷物を肩にかけ、満員
本 を す ぐ に 読 了 し そ う な 時 は、 も
とが私には出来ません。片手で支
技術書は需要が少なく電子化が進
ます。これは電子化作業自体は面
う 一 冊 持 っ て 出 掛 け ま す。 空 き 時
えられなければ、電車内での読書
程度の重さ︶という状態を考える
間を無為に過ごすよりも有意義に
もままならず、結局他に本を持ち
本や技術書は忙しくて手が出せな
活 用 し た い、 と 考 え て の 行 動 で す
森
成人
︵平 年卒・北陸支部︶
没を連想しても、決して大げさで
子は、まるで映画にあった日本沈
し出されていました。これらの様
地。津波から逃げる車の様子も映
みるうちに水に覆われていく陸
が、 肩 凝 り が 悪 化 し 物 事 に 集 中
まない可能性があるため、自炊も
最初は携帯電話の電子書籍に手を
い 状 態 に 耐 え ら れ ま せ ん。 そ こ で
私はいわゆる活字中毒症で本が無
念 す べ き か と 考 え ま し た。 し か し
サイズ・重量です。問題点として
した。これならば片手持ち可能な
を 導 入 し、 音 楽 プ レ ー
iPod touch
ヤーと手帳と電子書籍を統合しま
少々大きいように感じます。結局、
書 サ イ ズ で す が、 女 性 の 手 に は
出版社各社は一刻も早く全書籍を
ま せ ん。 可 能 で あ れ ば 電 子 書 籍
必要な措置だと割り切らざるを得
私の肩凝りを緩和させるためには
そうです。 しかし、荷物を削減し
とをやっているような気分になり
ると、何か取り返しが付かないこ
籍、特に専門書を切り落とすとな
ましたが、今一番頭の中にある地
いたことなどを書こうと思ってい
た子供の話、仕事を通して感じて
きました。それまでは昨年生まれ
うか考えている中、この地震が起
地震。この投稿の内容を何にしよ
震と名付けられた未曾有の規模の
のでしょう。東北地方太平洋沖地
きっと後々まで語られる日になる
の同級生と一緒に、新潟へ向かっ
もあり、友達から車を借りて高校
被害の状況がわからなかったこと
たということもあり、テレビでは
地震は発生が日が沈んでからだっ
院の修士
起きた新潟県中越地震の時は大学
した。
考えさせられたことを思い出しま
この映像を通して、学生時代に
はないものでした。
出 し ま し た。 携 帯 電 話 の 小 さ い 画
は画面サイズの小ささが挙げられ
電子化すべきでしょう。そうすれ
震を通して考えさせられたことを
たのを覚えています。幸い私の実
日。 こ の 日 は
面で小さい文字を追うのは非常に
ますが、文庫本やペーパーブック
ば、自炊も最小限で済み、あまり
地震の発生を知ったのは、仕事
書かせていだきたいと思います。
月
疲 れ る も の で し た が、 持 ち 物 が 増
程度の内容であれば特に不便は感
罪悪感に駆られなくて済みそうで
年
え な い、 出 し 入 れ が 楽、 混 雑 し て
じません。寧ろ携帯電話の電子書
す。ユーザのコスト負担は最小限
家は、震源地から離れていたこと
年に
いても読めるというのは大きな利
籍に比べて読みやすくなりまし
で移動中の車の中。何気なくつけ
回生でした。その時の
私の出身は新潟で、平成
年 間 で、 の べ
た。不明な単語が出てきたら辞書
で は 済 ま な い と 思 い ま す が。 自 炊
19
︵ Amazon
︶は読書に
れ た Kindle
は 大 き い よ う に 感 じ ま し た。 専 門
発 売 さ れ て い ま す。 最 初 に 発 売 さ
通信機能付き電子書籍専用端末が
が 脚 光 を 浴 び て い ま す ね。 数 々 の
し た。 更 に 昨 年 頃 か ら、 電 子 書 籍
が 随 分 減 り、 鞄 が 少 し 軽 く な り ま
す。 こ れ に よ り 本 を 持 ち 歩 く こ と
量はかなりのものだったと思いま
されず、スペースの節約が可能で
子書籍化すれば、紙の劣化に悩ま
ぶそうですが、自宅所有の本を電
電子ファイル化する作業をそう呼
切り落とし、スキャナで読み取り、
自分の所有する書籍をバラバラに
に注目しているのが、〝自炊〟です。
ましたが、更なる軽量化を図る為
凝縮した為、荷物は大分軽くなり
られました。
台に
で き れ ば い い。 そ う す れ ば 重 い 荷
や 顔 面 す ら も 電 子 化・ ク ラ ウ ド 化
い き ま す。 後 は 化 粧 ポ ー チ い や い
合 す れ ば、 ほ ぼ 荷 物 は な く な っ て
書を統合し、携帯電話と財布を統
ト・ 音 楽 プ レ ー ヤ ー・ 書 籍・ 技 術
PCを導入することで、手帳・ノー
くなります。更に軽量なスレート
ら取り外せば、私の鞄は急激に軽
が、みなテレビにくぎづけ。その
かって仕事に取り組んでいる同僚
帰社してみると、普段は机に向
ませんでした。
大きめだな﹂という感覚しかあり
こ と も あ り、﹁ 今 回 の 地 震 は 少 し
超える地震が何度も発生していた
は、ここ数年東北地方で震度
を
れてきたからでした。この段階で
出てくる。また家に帰れば家族が
由に移動でき、蛇口を回せば水が
電車が時間通りにきて、車で自
会えるまで﹁もう会えないかもし
いう状況。その時同級生は、実際に
に着いてから丸一日経過した後と
り、 家族と再会できたのも、新潟
同級生の家は完全に倒壊してお
れない﹂と真剣に考えたそうです。
もあり、家族・建物共に被害はあ
書・ 雑 誌 を 読 む の に は あ れ く ら い
物をもたずに軽やかに行動できる
待 っ て い て く れ る し、 電 話 を か
つの機能を
のサイズが必要なのは分かります
すし、プライベートクラウド内に
時テレビで流れていた被災地の様
度
が、 鞄 の 中 に 今 の 荷 物 + 電 子 書 籍
のに、という妄想に囚われつつ本
端 末︵5 0 0
保存すればどこからでも参照でき
2
ペットボトルと同
点 で し た。 こ の
読 み ま し た。 毎 月 の パ ケ ッ ト 通 信
5 00 ファイル以上を携帯電話で
をすぐ引けるという付加価値も得
平成
日常のありがたみ
で き な く な っ た ら 本 末 転 倒 で す。 歩く羽目になりそうです。その他
やむを得ないと考えています。 書
15
11
を取入れることで専門書も荷物か
3
りませんでしたが、一緒に帰った
いっそのこと書籍の持ち歩きを断
電子書籍端末は、小さいもので新
5
ていたラジオから﹁宮城県で
震
の地震発生﹂という情報が流
23
5
5
3
ml
1
7
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
(9)
第232 号
インドで感じたこと
︵昭
年卒・中部支部︶
日比
均
と同じように寒い。外を歩くイン
ド人は、厚手のジャンバーに毛糸
歳前後の人
年前に別れを
インドは多産多死でピラミッド
型の人口分布から
がとても多い。デリーに新しく出
告げた。その結果、
ころが、ジャバルプールでの宿に
来た大規模ショッピングモールに
の帽子を深々とかぶっている。と
は 暖 房 が な い。 毛 布 が あ る だ け
階のバー
階のバーに行
い。酒を飲みたければ
に行く事になる。
階のレストランから料
くと、ウェーターが出てきて、注
文すると
理を運んで来る。ビールもウェー
我慢して寝ていた。ただし、デリー
で、下着を重ね着して、寒いのを
飲 み 物 は 15 0 円 か ら 25 0 円 で
ガ ー 屋 や コ ー ヒ ー 店 も 沢 山 あ り、
であふれかえっていた。ハンバー
とにかくお客の不満が出ないよう
あ ふ れ る 間 際 ま で 注 い で く れ る。
ウェーターはビールをコップから
タ ー が 注 い で く れ る。 と こ ろ で、
での宿はちゃんと部屋には暖房が
泡が立たないようにコップを傾け
に、出来る限り沢山注ぐのがイン
月に
ボディチェックがあった事を除い
んで、ゆったりとした時を過ごし
ニューに書いてあるコーヒーを飲
立てずに飲む方が旨かった。
インドのビールはインド流に泡を
が 抜 け て し ま っ て 旨 く な か っ た。
車 線 の 幅 が あ り、 中 央 が
ジャバルプールでいつも通った
道 は、
車線分舗装してあって、両側の
半車線分が未舗装であった。牛や
ヤギは未舗装の所を歩き、歩行者
や自転車やリクシャ︵自転車タイ
歳前後のとても沢
山いるインドの人は、超長寿命に
プのタクシー︶やオートリクシャ
な る 比 率 が 高 く、
は超高齢化社会になっているはず
朝、昼、晩の毎食を取っていたが、
別館でレストランがあり、そこで
ル プ ー ル で 宿 泊 し た ホ テ ル に は、
インドの地方都市であるジャバ
緩 め ず に 突 っ 走 る。 そ し て、 同 じ
ら、中央の舗装部分をスピードを
転手はホーンを絶えず鳴らしなが
て く れ る。 こ の ル ー ル の 基 に、 運
らすホーンで未舗装の部分によけ
動車が通る際は、自動車が必ず鳴
レストランでは酒を出してくれな
だと、私は予想している。
︵ 輪車タイプのタクシー︶は、自
年後のインド
だから、今の
い。 中 国 の 人 と は 対 照 的 で あ る。
知らない、ゆったりとした人が多
コは吸わない人が多い。急ぐ事を
は食べない、酒は飲まない、タバ
た。 と こ ろ で、 イ ン ド の 人 は、 肉
程度を歩いた
て、注意してゆっくり注ぐ。我々
ド の 流 儀 だ と 言 う。 そ の た め に、
年
泊18000 円︵
こ の デ リ ー の 宿 は、
行った時は
月には新ターミ
/
日本人は、泡がビールの旨さだと
がインドだけあって暑かった。ホ
年
ナルが出来、トイレもきれいになっ
大規模すぎて
考えるので、ウェーターにわざと
個ある
ルピー2・25円︶で、インドなの
だけで疲れてしまったので、今度
に高いと感じた。部屋に
個は点かな
泡を立てて注いでもらった。所が、
かった。 年 月に行った時は 泊
電気スタンドの内、
はタージマハルという高級ホテル
インドのビールは泡を立てると気
で、電気スタンドは全部点くよう
テルの部屋にはクーラーが入って
軒ほ
杯100ルピー︵約200円︶と、
大幅に値上がりしていた。変化に
台あ
驚きながらケンタッキィフライド
チキンを買おうとしたら、
るレジのすべてが動かないので売
れないとの事であった。やはりイ
ンドは変わっていないと感じた。
で、
杯5 0 0 円 の ブ ル マ ン と メ
14000円︵ ルピー1・75円︶
になっていた。大した進歩である。
月では、デリーの国内線
て く れ る 人 が い る か ら こ そ、 元 気
いた。ところがインドで在住の日
ていた。食事が出来る店も
安かった。
て は、 日 本 と 同 じ 感 覚 で あ っ た。
あった。周辺道路が非常に渋滞し
月の時に行ったが、若い人
2
ていたことと、モールに入る際に
年
2
ければ元気な友達の声が返ってく
る。 こ れ ら の こ と は 何 事 も な い 普
15
20
入っていたので助かった。
で、布団の類はない。仕方ないの
1
段 の 生 活 の 中 で は、 極 々 普 通 の こ
同じコースで、全く同じ宿であっ
ドの変化と、全く変わっていない
年
軒だ
のターミナルはうらぶれた感じで、
に仕事に取り組み生きていくこと
本人は﹁インドで過ごしにくいの
どになっていた。ただし、コーヒー
トイレも汚かった。朝飯を
が で き る。 こ れ ら の こ と は、 な に
は 冬 で、 暖 房 が な い か ら 寒 い。﹂
こ れ が 正 解 で あ っ た。 ジ ャ バ ル
1
とで、
﹁当然﹂だと思っていたこと
月
を探している人の映像を忘れるこ
回だけであるが、その間のイン
たので、インドに行ったのはこの
裏でそれを維持するように頑張っ
所とが非常に良く分かった。その
すべて本当は﹁当然﹂ではなく、
とができません。
て い る 人 が い る か ら こ そ、 私 た ち
月に行った時には、さす
かがあった際に時々感じることな
と言っていた。この言葉を半分信
年
体験の一部を紹介する。
の に、 ど う し て も 普 段 の 生 活 の 中
じて、日本での冬の服装のままで
プールは北回帰線のちょっと南に
1
け あ る マ ク ド ナ ル ド で 取 っ た が、
では忘れてしまい、
﹁当然﹂と思っ
1
月 に 再 度 イ ン ド に 行 っ た。
なことなのだと。これからはこれら
年
のことに感謝し、心に刻んで生活を
位置するので、冬でも暖かいだろ
して﹁当然﹂ではなく、とても幸せ
送っていきたいなと思います。
10
で し た。 当 然 の こ と だ と 思 っ て い
る か ら こ そ、 電 車 が 少 し 遅 れ れ ば
﹁なぜ?﹂と腹が立ち、工事などで
いつもとは違う渋滞が起こってい
れ ば イ ラ イ ラ し、 家 族 の ち ょ っ と
し た 発 言 に ぶ つ か っ た り す る。 ま
た 大 切 な 人・ 家 族 が 近 く に い る こ
年の
にインド︵デリーとジャバルプー
月、
ルという地方都市︶へ行った。
年の
る こ と を 忘 れ て し ま い、 さ さ い な
仕事で
こ と で 不 幸 だ と 感 じ て し ま う。 私
年
ヶ月の間をあけて、ほとんど
は 避 難 所 の 中 で 涙 な が ら に、 家 族
と が﹁ 当 然 ﹂ と 思 っ て、 幸 せ で あ
49
10
はそれを普通のこととして利用す
4
08
て し ま う。 しかしこれのことは決
1
10
2
3
1
月は日本
1
1
る こ と が で き、 周 り で 自 分 を 支 え
10
1
3
10
3
08
1
65
1
1
1
3
うと予測していたが、
1
1
10
10
10
1
3
1
20
10
08
2
08
10
第232 号 (10)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
ような対向車が同じように中央の
ネルギーで発電すると油を輸出で
一番不便だったのは通信手段で
27 0 ㎥︶の灌漑用水を流しなが
極め、再開まで
再開交渉は手間取り非常に困難を
年半もかかりま
らの工事の迫力は言葉に表せない
ほど壮観で危険でした。
す。電話は役に立たず、F AX は
使用禁止でした。
きるため水力発電所も重要なので
す。
舗 装 部 分 を 突 っ 走 っ て く る と、 あ
わ や と 思 う 間 際 で、 両 者 は そ れ ぞ
した。戦争継続中での再開であり、
ヶ月間の
便を走らせ、情報収集・交換がもっ
水 門 及 び ク レ ー ン や、 放 水 弁、 排
多く潜水夫による修理を必要とし、
水面下 m にある取水口は漏水が
事遂行でした。
では何度も一時中断しながらの工
工事完了までには、約
とも必要であった戦争開始直後は
︶ダム付帯設備の修理
込みフルターンキープロジェクトを
タクシーの運転手にメッセージだ
︵
初めて受注したイラク国デルベン
現場とバグダッド間は車で定期
よ け る。 日 本 人 に と っ て は 本 当 に
ディカーン水力発電所建設のこと
電機メーカーとして本格的な土木
チ キ ン レ ー ス で、 毎 回、 肝 が つ ぶ
けを持たせて走らせたこともあ
バグダッドヘの避難を含め、現場
れ る 思 い で あ る。 こ の チ キ ン レ ー
を振り返ってみたいと思います。
.忘れられない想い出
︶ゲリラ活動
数カ国となりました。それ
会社の国籍も多岐にわたり、従事
本、 欧 州、 中 国、 イ ン ド と 分 れ て
ぞれ食事が異なるため、食堂も日
者は
中なので、クルドゲリラによる襲
いました。もっとも重要な食料の
現場はクルド族領域のまっただ
撃・誘拐もあり、クルド領域内は
︵
無線器の利用も電力庁を説得
軍隊の護衛が無ければ昼間の通行
でした。
が訓練等の点から実現できません
ス を 成 立 さ せ る た め に、 イ ン ド で
月︶からプロジェクト完成
し、日本から機器を送付しました
た。
が、イラクの港で止められ最後ま
.プロジェクト遂行状の問題点
︶狭い空間への発電設備設置
も ち ろ ん、 後 か ら 取 れ て し ま っ た ︵1986年 月︶まで従事しまし
自動車の方が多いとは思うが。
非常に沢山いるインドの若者
調達では、欧州勢が、船便ではな
を 使 い こ な し、 そ し て 今、 自 動 車
用し、既設の灌漑放水鉄管
て完成したロックフィルダムを利
1963 年に灌漑・治水用とし
る の で、﹃ 中 東 と 欧 州 は 近 い が、
月
かが大きな問題でした。
月
日
ぶ物は契約書であり、我々日本人
た。
中東と日本は遠い﹄と実感しまし
戦 争 が19 8 0 年
人種のルツポの中での多国籍プ
日に勃発
の み、 郵
日 本 と の 連 絡 は telex
便も不確実なため、承認図等は出
しました。発電所はイラン国境に
ロジェクトのため、相互を取り結
工事開始まもなくイランイラク
張者のハンドキャリーに頼りまし
近い重要施設ですので空襲の危険
く、 ト ラ ッ ク 便 で 本 国 か ら 陸 送 す
でもできませんでした。
を 使 い こ な そ う と し て い る。 そ の
それぞれの隙間に、当初設計の
MWx
性があり、何時現場から引揚げる
︶放 流 の 確 保 と 発 電 所 エ リ ア
の掘削
特異な状況のもとで紆余曲折を
にとって苦手な分野でした。
収しました。
経ながら、イランイラク戦争の間
に工事の中断を決意し、現場を撤
建設現場が空爆されましたが、幸
隙 を 縫 っ て 工 事 を 進 め ま し た が、
砂漠の国ですので濯漑用水の管
理はあらゆることに優先し、工事
運なことに撤退後であったので仮
人身事故は取水口修理で水深 m
︶幸運
のための放水の中断や制限はダム
設設備の一部被害ですみ、人身事
の潜水作業中のダイバーが死亡し
件のみです。
.貴重な体験
︶表彰
電 機 メ ー カ ー で は 初 め て︵ 社 ︶
国際建設技術協会より建設省建
︵
︵
局 の 同 意 が な け れ ば 実 施 で き ず、
故を防ぐことができました。もし
日に
工事の手待ちや中断が度々生じま
数日決断が遅れていたら、どんな
月
した。イランイラク戦争中は、軍
︶再開の決意
イラク政府から、再三再四プロ
ジ ェ ク ト 再 開 を 要 求 さ れ ま し た。
︵
でも恐ろしいです。
日後の
隊の架設橋が最優先となるため軍
た
基を使い分け灌漑用水
惨状となっていたか想像するだけ
︵
た。
︶イランイラク戦争・工事停止
で手にすることができませんでし
レ ベ ル の 高 さ は、 習 っ て か ら の 期
が、 英 語 を 使 い こ な し、 パ ソ コ ン ︵
70
︵
間がやたら長いだけの私とは比べ
MWx
条の
も の に な ら な い。 イ ン ド の 行 く 末
台 を 押 し こ み 25 0 M W の 発 電 所
︶仮設工事
を新設する工事です。
台に代わり、
恐るべし。
︵
仮設宿舎の電気・水道等も全て
川よりポンプアップし浄化設備を
年卒︶ 自前で、ジーゼル発電機を設置し、
設けました。
イランイラク戦争時にはジーゼ
ル油が不足し、新たに油を入手す
るまで、食料備蓄用の冷凍庫や宿
2
との交渉も必要になりました。
灌漑弁
を確保しながらの放水路仮締め切
基の
㎥︵ 最 大
り 工 事 は 難 航 し ま し た。
灌漑弁から毎秒最大
70
5
中東の国・イラクでの
水力発電所建設
石井
清隆︵昭
3
1
4
5
1
4
舎の冷暖房の電源確保等生活を優
先させるために残り少ない油を使
9
3
用し、何度も工事をストップさせ
︶通信手段
10
21
10
83
生活を優先しました。
.はじめに
20
2
1
3
3
中東=産油国=火力発電所と発
想 し そ う で す が、 産 油 国 で も 水 エ ︵
1
3
3
1
2
3
4
が装備されていない自動車が多い。 年
水設備等も修理を必要としました。 ︵ ︶多国籍プロジ エ.クト
工事範囲が広いため、関連工事
3
り、伝書鳩の利用も検討しました
れ の 右 側 に、 ス ピ ー ド を 緩 め ず に
1
筆者は、
受注後の打合せ︵1979
5
は、最初から左側にはドアーミラー
3 38
た。
7
7
2
90
36
1
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
( 1 1 ) 第232 号
設 経 済 局 長 表 彰 を、 ま た︵ 財 ︶ エ
ルベンディカーンの経験のたまも
に切り抜けることができたのもデ
のと思っています。
ンジニアリング振興協会よりエン
ジニアリング功労賞を受賞しまし
従事していた試験員は、湾岸戦争
イランイラク戦争後復旧工事に
台だけでも運転していて
︶家族
のため
た。
︵
ので、
号機を完了させ帰国した
年の長期にわたり家を留守に
し、 父 親 と し て の 影 響 力 は 非 常 に
も 限 ら れ、 成 長 過 程 の 子 供 達 に 対
シ ッ プ が と れ な く、 家 族 と の 会 話
きませんが、平和な世界が戻った
みならずイラクヘも行くことがで
現状ではデルベンディカーンの
ています。
ら是非とも家族とともにデルベン
歳で
少 な く な っ て し ま い ま し た。 長 女
︶さいごに
苦 労 の 連 続 で、 一 時 は 会 社 を 辞
か げ で﹃ や る 気 が 大 切、 や れ ば で
このプロジェクトをやり遂げたお
め る こ と を 真 剣 に 考 え ま し た が、
︵
と、感謝しています。
苦労は並々ならぬものであった
き 合 い の 代 行 な ど、 妻 の 心 遣 い や
親 不 在 で の 思 春 期 の 子 育 て、 村 付
ら な い 国 際 電 話 の チ ャ レ ン ジ、 父
す た め の 手 続 き、 ほ と ん ど つ な が
嗜好品等を東京経由で出張者に託
持 病 用 の 薬、 家 族 か ら の 手 紙 や
ました。
直 な 子 供 に 成 長 し、 社 会 人 に な り
気 遣 い・ 努 力 の お か げ で、 全 員 素
い て く れ ず 心 配 し ま し た が、 妻 の
あった長男は一時帰国してもなつ
も 乗 れ ず、 最 初 の 出 張 時
ディカーンを訪れてみたいと思っ
ほしいと願っています。
1
の 高 校 進 学、 次 女 の 転 校 の 相 談 に
国 は し ま し た が、 子 供 と の ス キ ン
す る こ と に な り、 こ の 間 何 回 か 帰
1
3
き る ﹄ と の 信 念 が で き、 新 し い こ
参考資料
余水路の基礎補強工事中
発電所完成後の放流
2
と、 困 難 な こ と に 直 面 し て も 無 事
(発電所の位置)その1
(発電所の位置)その2
7
3
第232 号 (12)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
デルベンディカーン発電所遠景
年卒︶
アナログからディジタルへ
釜江
尚彦︵昭
36
ぞれに意味を与えることによって
素の組み合わせによる表現にそれ
た人類が、代表的ないくつかの音
化する音声で種々の情報を表現し
高さと大きさがアナログ的に変
音符である。
あり、音楽音響のディジタル化が
り、言葉のディジタル化が文字で
音声のディジタル化が言葉であ
言 葉、 文 字、 音 符 で あ ろ う。 人 の
ル化を成してきたが、その代表が
人類は歴史上で多くのディジタ
である。
報を再構成するのがディジタル化
る情報を、代表的な表現のみで情
連続的なスペクトルで表現され
文字、音符
.デ ィ ジ タ ル 化 と 文 明 ︱ 言 葉、
1
で な く、 自 ら の 歴 史 や 物 語、 経 験
し て い き、 生 活 上 の ノ ウ ハ ウ だ け
言 葉 を 作 り 上 げ た。 言 葉 は 多 様 化
り、これらの進歩を促進する。こ
ごとに積み上げられるようにな
文明や音楽が多くの地域で、世代
るのに大いに役立った。こうして
の発展を加速させた。
両者のあいだのシナジーがこれら
の 処 理 装 置 の 発 展 と 表 裏 一 体 で、
ディア、パソコンやゲーム機など
あ る。 そ の ほ と ん ど は 狭 い 国 内
の常識を超えた数の会社が国内に
機器、薬品や化学製品なども世界
とがある。そのほか自動車、重電
支配するようなディジタル化、標
滞が話題になっているが、世界を
わが国の経済の停滞、技術の停
もここにあるのではなかろうか。
空 間 的、 時 間 的 に 離 れ た 相 手 へ の
しかし言葉による情報の表現は
字、音符などのディジタル化の最
クを可能にしたことが、言葉、文
のようなポジティブフィードバッ
る。表現メディアの標準化ととも
ともに標準化が大きく貢献してい
これらの普及には技術の進歩と
裕がない。このことは日本がもつ
を繰り返し、海外に目を向ける余
マーケットでどんぐりの背くらべ
ことがその解決策ではなかろうか。
準化を生み出すような社会にする
を伝承するまでに成長した。
情 報 伝 達 に 多 く の 制 約 が あ る。 言
味 し か も た な く な る。 多 く の 情 報
まざまであるが、異なるメーカー
したものなど、標準化の方法はさ
が大きな勢力をもつことで標準に
界団体の標準化、特定のメーカー
のは設計に立ちかえって解決する
それに対して理系で教育されたも
う と す る 傾 向 が あ る よ う に 思 う。
ると、物事を﹁運用﹂で解決しよ
ことである。文系のみで教育され
もまれな文系支配の社会だという
森野
信幸︵昭
年卒︶
同曲異種楽器演奏を聴く
楽しみ
技術と能力を結集し、ディジタル
化を推進し、標準化することで世
に、
SDメモリ、
CDやDVD、
ディ
ジタルカメラなどハードウェアの
大の功績であろう。
その反面多くの情報が失われ
葉 を デ ィ ジ タ ル 化 し、 記 録 で き る
よ う に し た の が 文 字 で あ る。 正 確
番目の障害はわが国が世界で
ている。
界をリードするための妨げになっ
ル、パソコンなどの標準化などが
標準化、インターネット、電子メー
発声とイントネーションで多様に
進んだ。公的な標準化、特定の業
た。言葉としての〝おはよう〟は
た だ 言 葉、 文 字 が あ る 程 度 普 遍
表現される。それが文字で﹁おは
な記録を人類が得たのである。
性をもつまでには多くのせめぎあ
が 失 わ れ た の で あ る。 音 符 に よ り
の製品でも互換性に心配がない点
つの意
多くの戦いを通じて言葉や文字は
多 く の 民 族 音 楽 が 失 わ れ た り、 変
が普及の鍵を握ってきた。
よう﹂と書いたとたん、
統 合 さ れ、 進 化 し て い っ た。 こ れ
質したりしたこともよく語られて
い が あ っ た に ち が い な い。 多 様 な
が 標 準 化 の 過 程 で あ る。 そ の 結 果
いる。
音楽を聴く楽しみ方は、聴く人
部 族、 民 族、 国 家 な ど の 単 位 で 言
こ と を 模 索 す る。﹁ 運 用 ﹂ で 物 事
の数だけあるといっていいでしょ
.わが国の現状
う。私の場合、今から
多 く の 情 報 を 失 っ て も、 言 葉、
を解決する人がディジタル化、標
手段としていっそう確実なものに
準化への動機付けをもつまでには
近代になって種々の情報表現メ
つの特殊事情が関係
の動機付け自体が小さい。これに
は わ が 国 の 熱 意 は 大 き く な く、 そ
国を挙げての取り組みという点で
進し、それを標準化することへの
しかし種々のディジタル化を推
り、経営のツールであるとしか見
かす技術者も単なる専門家であ
ツールであり、それを開発し、動
びコンピュータシステムは
つの究極であるコンピュータおよ
文系社会ではディジタル化の
もたらし、企業経営の中心として
帯電話、パソコンは社会の変革を
ない。実際はインターネット、携
まずそれぞれの業種においてわ
経営者の必須知識といえるまでに
文字や音符により記述された知
年余り前
やハードウェアの標準化にはわが
時間がかかる。
さ に 制 約 を 加 え る こ と で、 音 楽 音
ディアが登場した。電話、ラジオ、
はわが国の
世紀後半からの表現メディア
大きな意義と価値をもち、大いに
国は大いに貢献している。
響 を デ ィ ジ タ ル 化 し、 音 符 を 誕 生
テレビなどである。これらは当初
しているように思える。
文字、音符というディジタル化が
お 祭 り、 儀 式、 宗 教 行 事 な ど で
人類に役立っていることは歴史が
さ せ た。 確 立 す る ま で に は 多 く の
はアナログ技術により信号化さ
なった。
歌われた即興的な音楽や民謡を記
示している。
36
述 す る た め、 使 え る 音 の 高 さ や 長
せめぎあいがあったことであろ
れ、アナログ信号で運ばれていた。
つの
う。 そ れ に よ り 進 化 し た 結 果 が 現
.近代におけるディジタル化
在 の 音 符 で あ る。 こ れ こ そ デ フ ァ
が国の会社の数が多すぎることで
世紀はこれらの
ある。通信機メーカー、携帯電話
成長したとの認識に欠ける。同時
世紀後半から
このような表現メディアのディ
メーカー、家電メーカーなどは世
ディジタル化の時代である。
ジ タ ル 化 はC D,D V D, 半 導 体
準である。
識、 知 見、 音 楽 は つ ぎ の 世 代 を 教
に若者の理系派離れの原因の一つ
クトスタンダードの世界の統一標
1
界のほぼ半分がわが国にあったこ
1
葉、 文 字 が 標 準 化 さ れ、 情 報 伝 達
2
メモリなどのディジタル蓄積メ
2
育 し、 別 の 地 域 や 部 族 に 普 及 さ せ
21
いつまんでご紹介します。
の楽しみについて、その一端をか
の演奏を、原曲と聴き比べること
楽器と異なる楽器で演奏される曲
ます。以下に、作曲家が指定した
とともに少しずつ変容し続けてい
進 行 の 場 合 が 多 く、 そ の 内 容 は 年
ています。興味の対象は複数同時
は途絶えることなく現在まで続い
て以来、クラシック音楽への興味
ヴェンとの感動的な出会いがあっ
コード店﹁ミヤコ﹂でのベートー
の高校時代に、大阪・心斎橋のレ
50
20
3
1
2
20
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
( 1 3 ) 第232 号
︵
尊大なユダヤ人と貧乏で気の弱い
と聞き比べてみますと、管弦楽版
ばしば取り上げられています。比
れた美しい作品で、演奏会でもし
です。シューマンの情熱がこめら
調 ﹂ ︵ 5︶が あ る こ と も 今 回 初 め て
番号なしの﹁ピアノ三重奏曲ニ長
り 作 曲 者 自 身 が 編 曲 し た、 作 品
︶ム ソ ル グ ス キ ー 作 曲 / 組 曲
内容が大人数の管楽器や打楽器に
知りました。両者を聴き比べたと
ではムソルグスキーが表現したい
較的音密度の高いオーボエが奏で
ころ、元々美しい第
ユ ダ ヤ 人 と が 口 論 す る 場 面 で は、
埋もれがちですが、ピアノ三重奏
るメロディーは、愛し合う二人の
前者をオーケストラが、後者をピ
原曲はピアノ独奏曲のための組
アノが担当しています。私が一番
曲版では原曲の意図をより直接的
﹁展覧会の絵﹂
曲 で す が、 ラ ヴ ェ ル が 編 曲 し た 管
感銘を受けたのは、第 曲︵終曲︶
楽章が、三
弦楽版の方がよく知られていま
1
前 者 に は、 ブ ル ガ リ ア 生 ま れ の
す。 い ろ い ろ なC D の 中 で 私 が 最
エフの市街地にある、ロシア民族
似た演奏がしばらく続きます。キ
かに、厳粛に、回想風で祈りにも
ノ 協 奏 曲 ﹂ と﹁ ピ ア ノ 三 重 奏 曲 ﹂ 編曲版とは異なり、弦の弱奏で静
も 興 味 を 抱 い て い る の は、﹁ ピ ア
の誇りを示す大きな門への賛美の
ケストラの強奏で始まるラヴェル
の﹁キエフの大きな門﹂です。オー
気がします。
すが、この気持ちが分かるような
け 離 れ て い る。﹂ ︵3︶と 言 っ て い ま
編曲だが、ロシア的なところとか
タ ビ ュ ー に 答 え て、﹁ す ば ら し い
曲の管弦楽版について、あるイン
ナージは若いころに、ラヴェル編
まれのウラディミール・アシュケ
に表現しています。旧ソビエト生
オーボエが最適のように感じます。
が、シューマンの情熱の表現には
器の個性が感じられて楽しいです
く発売されています。それぞれの楽
器 で の 演 奏 を 記 録 し たC D が 数 多
ヴ ァ イ オ リ ン、 チ ェ ロ 等 様 々 な 楽
家にも人気があり、クラリネット、
に私には思えます。この曲は演奏
濃密な語らいを表現しているよう
好例でしょう。交響曲を作曲して
過程で、美しさがより顕在化した
三重奏曲への編曲という単純化の
な感銘を受けました。交響曲から
といったものが感じられて、大き
してベートーヴェンの心の優しさ
きました。青春の輝きと憧れ、そ
う美しさを増していることに気づ
重奏曲に編曲されることでいっそ
に編曲したものです。
ピアニストで作曲家のナウモフ
気持ちを表現しています。加えて
︵ 1︶
から2,3 年後に、三重奏曲を改
楽
︶ジャズそしてタンゴ・・・
分かるような気がします。
︵
楽器群と、ヴァイオリン、ヴィオ
・ジャック・ルーシェ・トリオの
また音楽評論家の
箇所ではオーケストラと対等に主
重 責 を 担 っ て い た ピ ア ノ は、 あ る
あ ま り 長 く な っ て い ま す。 原 曲 で
所に自由な書き込みを行なってお
す。 原 曲 を 十 分 尊 重 し な が ら、 随
気や哀歓をかもし出すなど、なか
特殊奏法を駆使して不気味な雰囲
ちに、ロマの音楽を思わせる弦の
てくれます。しかし、聴き進むう
をしなやかな室内楽の世界に誘っ
リンとチェロが加わり、聴くもの
で始まりますが、すぐにヴァイオ
曲 ﹂ ︵ 2︶で す。 そ の 冒 頭 は ピ ア ノ
︶が編曲して
た こ と が き っ か け だ っ た と、C D ︵ The Bekova Sisters
自ら演奏している﹁ピアノ三重奏
︵
あるように思います。
この曲の魅力を解き明かすカギが
ています。これらの発言のなかに、
て 面 白 い 効 果 を も つ。﹂ ︵4︶と 記 し
残るが、この形式不整備がかえっ
終わった後でも一種の不満感さえ
情 的 な 内 容 で あ る。︵ 中 略 ︶ 聴 き
的 形 式 で は な く、 文 学 的 ま た は 感
柱となっているのは西欧の純音楽
じ ら れ て 甲 乙 つ け が た く、 そ れ ぞ
き比べたところ、独自の魅力が感
ことを最近知りました。両者を聞
調作品
﹂ ︵5︶と い う 作 品 が あ る
自身が編曲した﹁三重奏曲変ホ長
な曲です。この曲を元に、作曲者
感じられる曲で、私のとても好き
うな愉悦感とのびやかな雰囲気が
器群が協同で作り出す、溢れるよ
ります。最近になって、ある若い
を、少し批判的に聴いた記憶があ
ました。当時私はこのジャズ演奏
M 放送︶で紹介されたことがあり
の﹁ バ ロ ッ ク 音 楽 の 楽 し み ﹂︵ F
さんが交互に担当されていた時期
が、 皆 川 達 夫 さ ん と
オ 〟 が バ ッ ハ の 曲 を 演 奏 し たC D
バッハ演奏
後者は、カザフスタン生まれの
題 を 演 奏 し、 あ る 部 分 で は 軽 妙 な
なか個性的な面が随所に出てきま
り、 演 奏 時 間 は 管 弦 楽 版 よ り
分
付属のブックレットに書いていま
装飾音をまるでパーカッションの
10
/ つのロマンス
作品
この曲は、オーボエとピアノの
︵故︶
じくベートーヴェンの﹁交響曲第
への感心は日に日に高まってきて
たことがきっかけで、私のジャズ
ズのCD の﹁貸し・借り﹂を始め
音楽愛好家と、クラシックとジャ
﹂を元に、やは
三 重 奏 曲 の 話 題 を も う 一 つ、 同
れの特徴が光っています。
服部幸三
よ う に 演 奏 す る な ど、 か な り 自 由
す。例えば第 曲﹁バーバ・ヤガー﹂
3
38
番ニ長調作品
36
94
分ほどの短い曲
2
2
ために書かれた
12
9
︶ロ ベ ル ト・ シ ュ ー マ ン 作 曲
に 振 舞 っ て い ま す。 役 割 分 担 も 絶
︵故︶
し、 管 弦 楽 編 曲 版 で 聴 く と ピ ア ノ
ラ、チェロ、コントラバスの弦楽 その昔、フランスのジャズ演奏
団 体〝 ジ ャ ッ ク・ ル ー シ ェ・ ト リ
﹂という
めて世に問うた作曲者の気持ちが
︶ベートーヴェンと三重奏曲
奏曲変ホ長調作品
︵
編曲者ナウモフは、﹁展覧会の絵﹂
たC D
奏 曲 へ の 編 曲 を 思 い 立 っ た の は、 と い う ピ ア ノ 組 曲 を 書 き 残 し て
章 構 成 の 曲 が あ り ま す。 ク ラ リ
ベートーヴェンの作品に﹁七重
あ る の で し ょ う か?
アシュケ
ナージは若いころに、ムソルグス
くれたムソルグスキーへの敬意
キ ー の こ と を﹁ ダ イ ヤ の 原 石 の
あるコンサートでこの組曲をピア
と 感 謝 の 気 持 を、 こ の 終 曲 に こ
ノで演奏したときに聴衆の一人
めているように思えてなりませ
が、﹁ ピ ア ノ 独 奏 で 聴 く と オ ー ケ
ネット、ホルン、ファゴットの管
ん。
よ う な 人 ﹂ ︵3︶と 表 現 し て い ま す。
ストラ演奏がないのを寂しく思う
この組曲の人気の秘密はどこに
が あ り ま す。 ピ ア ノ 協
2
は、﹁ ム ソ ル グ ス キ ー の 音 楽 の 支
6
人姉妹のベコヴァ・シスターズ
20
がなくて残念に思う。﹂と告げられ
渡辺護さん
4
3
︶が、ピアノ協奏
︵ Emile Naoumoff
曲用に編曲したものを自ら演奏し
10
の部分をラヴェル編曲の管弦楽版
3
曲 で、 富 裕 で
妙 で、 た と え ば 第
6
第232 号 (14)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
年卒︶
ICTによる新たな価値
の創造に向けて
4
いわば映像によるコミュニケー
と 簡 単 に つ な げ る よ う に し て、
かなり核家族的になっている
や環境問題などのさまざまな社
シ ョ ン が、 絆 の 深 ま り を も た ら
I C T の 技 術 進 歩 は め ざ ま し く、
会 的 な 課 題 を 解 決 す る と 共 に、
すとも考えています。
中 で、 子 供 や 孫 の 家、 あ る い は
企 業 経 営 の 効 率 化 や、 新 事 業 の
年老いた両親の家との間をもっ
展 開 な ど、 社 会 の 成 長 に 貢 献 す
す る こ と に よ っ て、 少 子 高 齢 化
境、これについては日本は世界で
ICTを武器として上手く活用
ト ッ プ ク ラ ス で す。 競 争 も 激 し
る可能性が大いにあると考えて
と し て は、 光 フ ァ イ バ ー、 A D
日本では固定のブロードバンド
端 の レ ベ ル に な っ て い ま す。 今、
指 標 で 韓 国 等 と 並 び、 世 界 最 先
今 後、 こ の I C T の 利 活 用 と い
と こ ろ が 絡 む わ け で す け れ ど も、
日 本 の 文 化、 習 慣、 い ろ い ろ な
れ ら の 展 開 の た め の 規 制 の 問 題、
で で き る の で は な く、 や は り そ
と か、 情 報 通 信 メ ー カ だ け の 力
それらの展開はNTT である
もこれからの展開になってきま
レット端末といったようなもの
マ ー ト フ ォ ン で あ る と か、 タ ブ
も パ ソ コ ン だ け で は な く て、 ス
流 れ で す。 ま た そ の た め の 端 末
の も、 I C T の 利 活 用 の 大 き な
するクラウドのサービスという
では なく、サービスと して﹁活用 ﹂
ス テ ム を 自 分 で﹁ 所 有 ﹂ す る の
ト の ひ と つ、 ソ フ ト ウ ェ ア や シ
さ て、 最 近 の パ ラ ダ イ ム シ フ
い わ け で す が、 利 用 料 金 だ と か、
います。
S L 、 C A T V 等 が あ り、 こ れ
う こ と を、 日 本 全 体 で 大 き く 伸
音 楽 の 形 式 が、 と て も 優 れ た 表 現
た。 と り わ け﹁ 三 重 奏 曲 ﹂ と い う
年 に 卒 業 し て、 今 年 で、 は や
京都大学の電気系学部を昭和
社の副社長の宇治でございます。
皆様こんにちは、NTT 持株会
の 電 話 だ け で し た が、 世 界 の 流
に な っ て い ま す。 か つ て は 固 定
ような速度が出るというレベル
T E サ ー ビ ス は、 ほ ぼ 光 と 同 じ
始 し た﹁ ク ロ ッ シ ィ﹂ と い う L
て い る﹁ ひ か り T V ﹂、 あ る い は
使 い 方 で あ り、 N T T で 提 供 し
はり映像サービスが一番有効な
を 使 っ た サ ー ビ ス と し て は、 や
これらのブロードバンド基盤
の 端 末 等、 日 本 で は こ れ か ら 大
すべく出てきたアンドロイド系
こ と も あ り ま す が、 そ れ に 対 抗
のアイフォンがきっかけという
す。 ス マ ー ト フ ォ ン も ア ッ プ ル
%カバーで
き て い る、 そ れ に モ バ イ ル の 方
ばしていきたいと思っています。
らが既に日本では
月にサービスを開
能力を持っていることを再認識し
年 に な り ま す の で、 同 期 で 集
れ で 見 て も、 固 定 か ら モ バ イ ル
変 大 き な 伸 び に な る だ ろ う、 ド
も、 去 年 の
ま し た。 こ れ ら の﹁ 発 見 ﹂ の 中 身
ま っ て 今 年 秋 に、 記 念 の 同 窓 会
コモの販売計画を見ていてもこ
い う こ と も 含 め て、 環 境 的 な 問
ら す と か、 無 駄 な 時 間 の 短 縮 と
と に な っ た、 こ れ ら が 出 張 を 減
企業の中でどんどん使われるこ
タ が 本 当 に 大 丈 夫 か、 あ る い は
問題 はないのか、とか預けた デー
す。
になるというように思っていま
れらが予想を超えた大きな展開
︿CD番号と参考資料﹀
︵
︶ CHANDOS CHAN 9672
︶
団 伊 玖 磨 +N H K 取 材 班 / 追
︶ ALCAR ALC 51062
変わってからは
年ということで
21
は、 音 楽 の 専 門 家 に と っ て は イ ロ
ハ の イ で も、 私 の よ う な 専 門 外 の
で の 展 開 の ほ か、 T V 会 議 等 も
﹁ フ レ ッ ツ・ テ レ ビ ﹂ 等 々 の 家 庭
た だ、 こ の ブ ロ ー ド バ ン ド イ
題 に つ い て も、 有 効 で す し、 教
どこにそのデータがあるのかし
︵
︵
38
るところです。
う も の は、 必 ず し も 充 分 と は 言
ンフラを活用したサービスとい
育 現 場、 医 療 現 場 等 で も こ う い
の還暦同窓会の模様は平成
え ず、 行 政 サ ー ビ ス、 医 療 や 教
う高精細な映像を使っていくと
音楽を聴き続けたいと願っていま
年 、N T T に
私 は 修 士 卒 な の で、 当 時 の 電 電
さらには中小企業などでの情報
育 と い っ た 公 共 的 な サ ー ビ ス、
ら と か、 利 用 す る に あ た っ て の
の会報に掲載されました。
すが、昨今の環境の変化、技術の
い う こ と が、 効 果 的 な サ ー ビ ス
懸念 材料もあるわけ で、そう いっ
す。 最 後 ま で お 読 み い た だ き、 あ
変 化 は 大 変 激 し く 、 な か で も 、I
化 は、 世 界 的 に 見 て も 日 本 は 遅
となっていくと思います。
25
ク ラ ウ ド も、 セ キ ュ リ テ ィ 上
CT とビジネスの関連では、パラ
れ て い る と い う 現 状 が あ り ま す。
1
2
公社に入ってから
跡 ム ソ ル グ ス キ ー﹁ 展 覧 会 の
3
りがとうございました。
絵﹂
︵NHK出版︶ pp.109 110 ダイムシフト、サービス融合、グ
年
へ、 あ る い は 固 定 と モ バ イ ル の
宇治
則孝︵昭
通 信 速 度 だ と か、 い ろ ん な 評 価
︶
︵ 1992
います。この機会に、このジャズ・
ローバル化が、大きな流れとして
ト リ オ の バ ッ ハ 演 奏 を 改 め て 聴 き ︵ ︶名曲解説全集 管 弦 楽 曲 中
あると考えています。
︵
︶
︵音楽之友社︶
なおしてみたいと思っています。
さて、タイトルのICT は情報
p.30
1959
・アルゼンチンタンゴ楽団による ︵ ︶
通 信 技 術 の 略 語 で す が、 こ の 中
Beaux
Arts
Trio
PHILIPS
など
モーツァルト演奏
で、ブロードバンドインフラの環
468411-2
モ ー ツ ァ ル ト の﹁ 交 響 曲 第 番
ト 短 調K 5 5 0﹂ の 第 楽 章 冒 頭
度 目 に 出 張 し た 機 会 に、 ブ
︶後記
この拙稿を纏め上げる過程で
4
融合というフェーズになってい
い ろ い ろ な﹁ 発 見 ﹂ が あ り ま し
︵
い出となりました。
聴 い た こ と が、 今 で は 懐 か し い 思
エノスアイレスのタンゴハウスで
ンに
を、J I C A の 仕 事 で ア ル ゼ ン チ
ンチンタンゴ楽団が演奏するの
の 哀 愁 を 帯 び た テ ー マ を、 ア ル ゼ
40
を 京 都 で 行 お う と、 い ろ い ろ と
46
1
人間には大きな喜びであり楽しみ
99
4
です。今後もこの楽しみを求めて、 企 画 し て い る と こ ろ で す。 前 回
12
5
5
40 46
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
( 1 5 ) 第232 号
た意味ではより安全で安心な社会
報 の 融 合 も 進 ん で お り、 今 ま で
あ り ま す。 と 同 時 に、 通 信 と 情
I T と い っ て い た の が、 I C T
的基盤としてのクラウド、という
というように、コミュニケーショ
ものが日本としても必要なのでは
ないかと考えているところであり
ン︵C ︶を含めた言葉使いになっ
ているのもそういう流れをあら
ます。
ところで、グローバル化の視点
で す が、 日 本 企 業 の 海 外 展 開 は、 わ し て い る と 思 い ま す。 私 自 身、
教室だより
平成 年度卒業生の進学
就職状況について︵報告︶
電気工学専攻長
土居
伸二
せんが、全体としましては昨年度
ました。結果的には学校推薦で不
名前後約
合格になった学生は
% であり、またこれらの学生も
ますが、多くの企業では好況時に
状況はかなり改善されたとは言え
リーマンショック後の厳しい就職
果を把握するには至らなかったと
から
順調に就職活動が進められたこと
次の面接では内定をいただきほぼ
就職に関しましては、一昨年の
とほぼ同様の分布になりました。
比べまして採用数が大幅に少ない
考えています。
ヶ月推薦を早めたことの効
状況でありました。それにもかか
枠を頂戴し誠に感謝申し上げる次
企業から以前と変わらぬ学校推薦
わらず、電気系教室に対し多くの
高 い 基 準 に よ る 理 由 で は な く、 非
ていましたが、今年度はそうした
リーダーシップの欠如が挙げられ
て、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 能 力 と
昨年度不合格になった理由とし
NTT 生活で、電話の世界とデー
第で御座います。また、一昨年度
常に緊張する、耐ストレス性がな
NTT グループの社員数は
就職に際しましても洛友会会員諸
としてはやや特異な状況も体験し
が面接で不合格になるなど、教室
かかわらず例年になく多くの学生
か 確 か で は あ り ま せ ん が、﹁ 人 間
究に関するよりは、用語が正しい
ました。これらのことは勉学や研
い、という理由がほとんどであり
われわれ同期の仲間が集まる
兄諸姉より例年と変わらぬ多大な
たところでありますが、今年度は
数万
日 本 人 で し た。 と こ ろ が、 現 在、 役に立っています。
す が、 そ れ が、 今 の 立 場 で 大 変
の学生は大変厳しい競争下での就
万人で、ほとんどが
職活動を強いられ、学校推薦にも
社員数が約
の進学就職状況についてご報告い
ご支援を賜り就職希望学生の就職
年度の電気系教室卒業生
たします。まず最初に、今年度の
れ ば 人 気、 競 争 率 も 高 か っ た、
が無事に決定致しましたことに関
力﹂に該当するものではないかと
り、外国人比率は約
それがややもすれば最近はそう
数名の極一部の学生が第一志望の
おり、﹁ウルトラドメスティック﹂ る 夢 と ロ マ ン も あ り、 言 っ て み
でもなくなっているようだとい
して心から御礼申し上げます。
がカタカナでのケータイ、という
いう形で小さくなってきて、それ
う時代から、いわゆる携帯電話と
ものをかついでいた時代、そうい
というような形で弁当箱のような
いた時代から、ショルダーフォン
ランクに大変大きい装置をつけて
界 も 自 動 車 電 話 で、 自 動 車 の ト
の 利 活 用 や イ ノ ベ ー シ ョ ン が、
横串としての機能を持つICT
し、 社 会、 業 種、 組 織 を 超 え た
け て、 更 に 貢 献 で き る は ず で す
会的課題の解決ということに向
成 長、 あ る い は I C T に よ る 社
今 後、 I C T に よ る 社 会 経 済 の
こ と も 大 き な 問 題 だ と 思 い ま す。
理科系離れになっているという
も っ と い え ば、 近 年 そ も そ も
えたことを示しているように思わ
ンフラ系企業を志向した学生が増
向にある日本経済の中にあってイ
向が見られます。これはデフレ傾
た学生がやや多くなったという傾
情 報、 電 力、 鉄 道・ 運 輸 に 就 職 し
目 を 向 け ま す と、 今 年 度 は 通 信・
を表に示しました。修士の就職に
攻︵以上修士︶の進学・就職状況
情報学研究科通信情報システム専
工学専攻、同電子工学専攻および
︵学部︶ならびに工学研究科電気
ため、今年度は就職のガイダンス
間がなかったという問題があった
な り、 そ の 後 の 就 職 活 動 に 十 分 時
ます。
が不合格に
昨年度は学校推薦で面接に臨ん
関係各位には心から感謝申し上げ
た。ご支援いただきました洛友会
全員内定を頂くことができまし
スにおいて就職を希望した学生は
た。お陰様で年度初めのガイダン
順調に内定を頂くことができまし
面接で不合格になる程度で、ほぼ
職担当を通して感じたように思い
ないのではないかという問題を就
あって人間力が十分鍛えられてい
が 致 し ま す。 こ の よ う な 環 境 に
の付き合いも昔よりは希薄な感じ
う声を聞きます。また、学生同士
学生を叱ることができない、とい
叱ると大学に出てこなくなるので
気に限らず、多くの大学教員から、
ているように思われます。京大電
で人間的に鍛えられる機会が減っ
強する学生もしない学生も、大学
判断されます。最近の学生は、勉
化を感じています。
ことで、メールを見る、あるいは
若者に魅力を沸きたてられるよ
22
といっていた小生でもグローバル
いずれにしても、ふりかえって
うことに対し、大変危機感を持っ
﹁おさいふケータイ﹂等で使うよ
う、 さ ま ざ ま な 取 り 組 み を 進 め
を約
年度の電気電子工学科
うになり、いまやそれがスマート
れます。それ以外は、企業毎に若
ヶ月早め
月上旬に学生と
1
の面談を行って希望調整を完了し
4
分の
フォンという本当に名実ともに画
ると共に情報発信もしていきた
干人数の出入りはあるかもしれま
今年度の学校推薦の学生が、
9
1
だ学生の内、
像、映像も自由に扱える情報機器
いと思っています。
3
ます。
のような形に進化してきたわけで
平成
みると、この分野のイノベーショ
20
て話をしています。
平成
と、 こ の 電 気 系 の メ ン バ ー が 大
ここのところ急速に伸びていま
5
学に入った頃はこの分野に対す
1
割に増えて
電子工学専攻長
鈴木
実
通信情報システム専攻長 守倉 正博
電気電子工学科長
北野
正雄
10
人 に 減 り ま し た が 、M & A 等 に よ
す。 私 が 電 電 公 社 に 入 っ た 頃 は、 タ の 世 界 の 両 方 を 経 験 し て い ま
22
22
30
ンにより、たとえばモバイルの世
2
第232 号 (16)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
割以上
回で内定を頂くことがで
のない限り教室から推薦した学生
学校推薦方式をとって特別なこと
合格できなかった学生が
名以上
かったために電気系大学院入試に
な取り組みが効果的かわかりませ
と研究力、そして、まだどのよう
会の期待に応えられますよう教育
生も大変な就職活動を強いられる
また違った別の問題が発生して学
ります。来年度は、今年までとは
をほとんど受け入れて下さる企業
% を切っ
出てしまいました。そのため学部
んが、人間力の養成に努力して参
ことと思いますが、このような情
き た と い う 結 果 は、 そ れ 自 体 は 大
変 喜 ば し い こ と で あ り ま す が、 従
学生の大学院進学率は
名に加
博士課程進学者は、電気系の連
でにいくつかの企業が採用活動の
活動は、東日本大震災のためにす
りたいと存じます。来年度の就職
大なるご支援をお願い申し上げる
諸兄諸姉には今後とも引き続き絶
勢ではありますが、洛友会会員の
携教育プログラム在籍者
ています。
もまだ多くあることを申し添えて
自由応募で就職する学生数に関
え、修士課程からの進学者が電気
しましては、年を追って増加の傾
向が見られます。これは学生がそ
特に電気メーカーでは就職希望学
次第でございます。
ブマッチング面接を義務づけて
系
名、通信情報システ
ういう就職活動を望んだというよ
ん で も 不 合 格 に な り ま す。 ジ ョ ブ
し な い 場 合、 学 校 推 薦 で 面 接 に 臨
えたということによるものと考え
が学校推薦から自由応募に切り替
りは、一部の電力会社などの企業
り博士課程進学率の向上に大きな
育プログラムは今年で
ム専攻で
年目に入
名ありました。連携教
回実施しその
役割を果たしております。学部で
マッチング面接を
の成績上位者を対象としたこのプ
後は推薦すれば面接なしに書類手
の人事担当とお会いし採用に関す
今年度、就職担当として各企業
面でのプレゼンスが大きくなって
数が多くなるとともに教育・研究
ログラムの支援のもとで在籍学生
ログラムは、グローバルCOE プ
試験は自由応募方式で行い内定後
るお話を伺いしまして感じました
程 度 の 大 小 は あ れ い ず れ も、 採 用
つの方式のい
ことは、リーマンショックの後の
シ エ イ ト と し て グ ロ ー バ ルC O E
上の博士課程学生がリサーチアソ
おります。現在は合わせて
名以
い と こ 取 り で あ っ て、 大 学 が 上 手
経済停滞状況にも拘わらず、電気
万円
の奨学金が支給されています。非
万円から
系学生へのこれまでに劣らぬ熱心
自動車や重機械関係にこの傾向が
より雇用され月
に利用されているという側面もあ
回
ト を 取 る の に 時 間 が か か る た め、 な 求 人 要 望 で あ り ま し た。 特 に、
ジョブマッチングはたかだか
年 後 に 学 位 取 得、 就 職
ういう教室からの制約がある状況
け も ち を 許 し て お り ま せ ん が、 こ
製をしている企業から制御工学を
製缶業や製紙業など製造機械の内
も多かったように思います。また
従来かそれ以上にしているところ
ムの確かな道筋が形成されること
躍してもらい、連携教育プログラ
力が発揮できる環境で引き続き活
の時期を迎えますが、是非とも能
,
常にアクティビティの高い学生が
では学校推薦で就職活動する学生
学ぶ電気系学生への熱い求人要望
多く
は少し不利にならざるを得ないよ
が寄せられましたことを特に記し
後議論の必要性を認めたところで
学部卒業学生に関しては、今年
業からは熱い眼差しで見られてお
や人気が良くないようですが、企
電気電子工学科は受験生にはや
を願っている次第でございます。
う に 思 わ れ ま す。 学 生 が 不 利 に な
ておきたいと思います。
減っている中で電気系の採用数を
程 度 し か 受 け ら れ ま せ ん。 現 在、 強 く 全 体 の 採 用 数 が 従 来 よ り も
50
25
らないように教室としても柔軟な
教室では学校推薦と自由応募のか
10
り ま す。 学 生 の ほ う も ア ポ イ ン
証 さ せ る と い う、
は大学に学校推薦方式で就職を保
ました。
られます。また、金融や証券関係
5
続 き の み と い う 企 業 も あ り ま す。 企業への就職も相変わらず見られ
専攻で
い ま す。 ジ ョ ブ マ ッ チ ン グ が 成 立
生に対して学校推薦に先立ちジョ
開始時期を遅らせると声明してお
90
3
3
2
ります。これからもこのような社
平成22年度卒業生進学就職状況
2
対応を取ることができるように今
1
3
度の卒業対象生が142名と多
工学研究科(電気工学、電子工学)
、情報学研究科(通信情報システム)
、電気電子工学科
10
る か も し れ ま せ ん。 最 近 の 企 業、 おきます。
来のように理解すると誤解が生じ
10
1
あ り ま す。 な お、 現 在 で も 従 来 の
修士 学部
進 学・就 職 先
15
京都大学博士課程工学研究科電気系専攻
3
京都大学博士課程情報学研究科
72 京都大学修士課程工学研究科電気系専攻
23 京都大学修士課程情報学研究科通信情報システム専攻
5 京都大学修士課程情報学研究科知能情報学専攻
6 京都大学修士課程情報学研究科システム科学専攻
11 京都大学修士課程エネルギー科学研究科
3 東京大学大学院修士課程情報理工学系研究科
小 計
18
120
官公庁
0
1 国土交通省
電気関連
32
1 シャープ、ソニー、パナソニック、三菱電機、住友電気工業、富士通テン、
東芝、日立製作所、三洋電機、村田製作所、ローム、富士通、京セラ、日
立グローバルストレージテムノロジーズ、TOA
通信・情報・放送
17
1 NTTコ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン ズ、NTTド コ モ、NTT西 日 本、NTTデ ー タ、
NTTファシリティーズ、KDDI、ソフトバンク、ケイオプティコム、NHK
技研
電力・ガス
10
0 関西電力、四国電力、東京電力、中部電力、エネゲート、大阪ガス
機械・自動車・鉄鋼
10
2 小松製作所、本田技研工業、ファナック、キャノン、トヨタ自動車、新日
本製鐵、三菱重工、IHI、デンソー、アイシン精機
運輸・鉄道
6
2 JR東日本、JR貨物、JR東海、JR西日本、近畿日本鉄道、名古屋鉄道、京
阪電気鉄道
化学・他製造業等
1
0 サントリー
金融・商社等
3
1 バークレイキャピタル、三菱商事、モルガンスタンレー、三菱東京UFJ銀行
その他
2
4 Z会、電通、高布、リクルート、タカオシン、テクロス
小 計
81
12
研究生等
0
8 研究生2、未定6
計
99
140
修了、卒業者数
進学
2
2
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
( 1 7 ) 第232 号
科の良き伝統となる様、尽力して
交流会が末永く続き、電気電子学
金澤哲夫、神原仁志、小林陽太郎、
上 田 芳 彦、 太 田 雄 至、 大 音 隆 男、
今 井 康 貴、 岩 田 達 哉、 上 田 俊 策、
淺井陽介、池田啓太、稲葉遼太郎、
総合館での卒業証書伝達式が行わ
る全学の卒業式に引き続き、電気
開催された。みやこめっせにおけ
業生送別会︵洛友会との共催︶が
卒業生送別会
ない世間話から将来についての話
いく所存です。
高 井 啓 次、 田 口 周 平、 田 口 裕 樹、
名
をしたりと、お酒を片手に先生方
最後となりましたが、交流会に
中 田 陽 介、 中 村 達 也、 西 啓 介、 西
電子工学専攻
との親睦を深めていました。また、
ご厚志頂いた全ての先生方、学生
これからもこの電気電子工学科
普段は見ることのできない先生方
の皆様に心より感謝申し上げま
れた。今年度かぎりで引退する創
研 究 室 の こ と だ け で は な く、 何 気
の意外な一面も垣間見ることがで
立司、西中淳一、野村太一、橋谷享、
建以来の大講義室の教卓にも別れ
時よりがんこ三条本店にて
学 科 交 流 会 が、
午後
開催されました。
回生を対
電 気 電 子 工 学 科 交 流 会 と は、 主
に研究室配属を控えた
一博、張仲咼、梁永︵以下写真外︶
柴田良平、張哲
3
24
が行われた。
学科長︵平
年度︶北野正雄
その後、教職員を交えての歓談
き課題を問いかけていただいた。
これからの技術者として思慮すべ
た。 ま た、 今 回 の 大 災 害 に 接 し、
窓会の活動や意義を説明いただい
表幹事からの餞の言葉とともに同
一講義室に参集し、洛友会木村代
引き続き、工学部
号館共同第
日、電気電子工学科の卒
き、大変有意義な時間を過ごすこ
す。また運営にあたり洛友会から
林 雄 一 郎、 広 瀬 政 晴、 福 井 裕、 前
を告げた。
弘 貴、 岡 田 奈 々、 加 藤 雅 大、 川
口 浩 和、 河 村 雄 太、 喜 多 知 広、 久
保 敦 司、 久 保 山 祐 紀、 髙 悠 史、 小
堺 祐 平、 小 山 友 一、 小 山 め ぐ み、
佐 藤 翔 士、 清 水 裕 介、 鈴 木 望、 底
押 辰 弥、 谷 口 充 展、 田 原 雅 人、 辻
井秀、永原静恵、西尾裕、西垣勇輝、
早川輝、細江陽平、美馬圭介、宮本
政 樹、 向 井 祐 利、 盛 重 彰 仁、 矢 野
克 之、 吉 川 真 登、 王 冕、 赤 井 真 一
月
とができました。
補助金を頂き誠にありがとうござ
田潤、三瀧雅俊、湊康明、向井寛、
電気電子工学科交流会の
開催
回となる電気電子工
最後に副学科長である守倉正博
いました。厚く御礼申し上げます。
今年で第
日︵ 金 ︶ の
教授に一言頂き一本締めの後閉会
月
となり、学生も先生方も終始笑顔
74
明 治 健 介、 森 岡 直 也、 金 シ ン、 張
象 と し た 会 で あ り、 先 生 方 と 親 睦
交流会実行委員会 年卒︶記
を深めることを目的としておりま
名
卒業式がみやこメッセで、引き続
日︵水︶に修士
き修士学位記授与式が桂キャンパ
月
は じ め に、 学 科 長 で あ る 北 野 正
年
雄教授に交流会開催にあたり一言
スで執り行われました。写真は晴
名
頂 き、 乾 杯 の 音 頭 を と っ て 頂 き ま
名
37
伊 藤 薫、 植 月 亮 太、 梅 本 貴 弘、 大
電気工学専攻
れて修士︵工学︶となられた
平成
電気系修士修了式
花田光平︵平
の絶えない会となりました。
37
す。 運 営 は 電 気 電 子 工 学 科 に 所 属
名、 学 生 が
す る 学 生 主 体 で 行 わ れ て い ま す。
今年は先生方が
と例年通り多くの方にご参加頂き
71
8
3
し た。 最 初 は 緊 張 気 味 の 学 生 も 会
ました。
23
18
7
の方々です。
23
7
が 進 む に つ れ 次 第 に 緊 張 が 取 れ、
3
︵以下写真外︶竹内活徳、玉置直寛
22
23
2
28
第232 号 (18)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
䠄ᖹᡂ㻞㻝ᖺ㻞᭶ᮎ⌧ᅾ䠅
༞ᴗᖺ
事務局だより
ᅗ䠎䠊༞ᴗᖺู⣡௜≧ἣ
日付︶
㻜
月
㻕
㻞㻜
︵平成 年
㻔
⣡ 㻤㻜
௜
㻢㻜
⋡
㻑 㻠㻜
教員の異動
年度会費納付状況
月末現在の会
ᅗ䠎䠊༞ᴗᖺู⣡௜≧ἣ
・通信情報システム専攻
平成
報告
毎年行っている
費納付状況についてご報告いたし
ます。
月 末 現 在 の 会 員 数 は、 7、
3 47 名ですが、居所の判明して
䠍䠌 䠍䠍 䠍䠎 䠍䠏 䠍䠐 䠍䠑 䠍䠒 䠍䠓 䠍䠔 䠍䠕 䠎䠌 䠎䠍 䠎䠎
日付︶
日付︶
い る 会 員 数 は 5、6 4 1 名 で す。
年度の会費を納めて頂いた会員
数 は、 2、4 3 9 名 で、 前 年 よ り
㻞㻜
月
月
日付︶
㻟㻜
田野哲
准 教 授︵ 守 倉 研 ︶ 岡 山
大学
教授
・電子工学専攻
冨士田誠之
講 師︵ 野 田 研 ︶ 大
阪大学
准教授
月
128 名の減少となりました。物
月
故者を除く現会員数に対しての納
付 率 は、 3 3・2 % で す が、
に洛友会報をお送りしている居所
は年度別の納付率、図
は
の判明している会員数に対しては
図
42・5%になります。
卒業年別のグラフですが、平均値
で 前 年 よ り 0・5 9 % 減 少 し ま し
今後とも皆様のご理解とご協力
た。
をお願い致します。
事務局
記
ᅗ䠍䠊ᖺᗘู⣡௜≧ἣ
年
日付︶
年
菅野未知央
助 教︵ 鈴 木 研 ︶ 高
エネルギー科学研究所
助教
着任︵平成
年
・筒井弘 助教︵佐藤高史研︶ 大
阪大学より
︵平成
・知能情報学専攻
・生存圏研究所
海老原祐輔
准 教 授︵ 大 村 研 ︶
名古屋大学より
1
22
退職︵平成
月
日付︶
日付︶
1
3
大澤靖治
教授︵電力システム︶
年
橋本弘蔵
教 授︵ マ イ ク ロ 波 エ
ネルギー伝送︶
昇任︵平成
月
23
3
・生存圏研究所
篠原真毅
教 授︵ マ イ ク ロ 波 エ
ネルギー伝送︶准教授より
・電子工学専攻
月
冨士田誠之
講 師︵ 野 田 研 ︶ 助
年
教より
︵平成
年
日付︶
ᅗ䠍䠊ᖺᗘู⣡௜≧ἣ
1
河原大輔
・エネルギー科学研究科
准 教 授︵ 黒 橋 研 ︶ 情
中村祐司
報通信研究機構より
教 授︵ 電 磁 エ ネ ル
ギー学︶准教授より
︵平成 年 月 日付︶
︵平成
月
・通信情報システム専攻
ᅗ䠎䠊༞ᴗᖺู⣡௜≧ἣ
㻝㻜㻜
4
2
䠕
䠔
䠓
䠒
ᖹ䠑
・電気工学専攻
年
浅香卓也
准 教 授︵ 高 橋 研 ︶ 首
都大学東京
教授
・ ベンチャービジネスラボラトリー
山末耕平
助 教︵ 松 重 研 ︶ 東 北
大学
助教
︵平成 年 月 日付︶
㻜
䠄ᖹᡂ㻞㻝ᖺ㻞᭶ᮎ⌧ᅾ䠅
松尾哲司
教 授︵ 電 磁 エ ネ ル
ギー工学︶准教授より
転出︵平成
31
・通信情報システム専攻
3
梅原大祐
助 教︵ 守 倉 研 ︶ 京 都
工芸繊維大学
准教授
㻝㻜
ᅗ䠍䠊ᖺᗘู⣡௜≧ἣ
㻢㻜
⣡
௜
⋡ 㻡㻜
咁
䠂
咂 㻠㻜
ᅗ䠍䠊ᖺᗘู⣡௜≧ἣ
1
28
22
31
4
1
31
1
3
22
10
3
4
1
23
22
22
22
6
3
22
2
1
22
23
23
平成23年 4 月 15 日
洛 友 会 会 報
( 1 9 ) 第232 号
年度の各支部総会は左記
支部総会のお知らせ
平成
の 日 程 で 開 催 さ れ ま す。 場 所・ 時
間など詳細は各支部幹事の方より
池田茂雄氏
CUE№ 発行のお知らせ
が 発 行 さ れ ま し た。
25
巻頭言
﹁学生よ、技術者よ、立ち上がれ!﹂
大学の研究・動向
﹁環境調和型エレクトロニクスの現状と展開
学生の声
教室通信
電気電子工学科長
賛助会員の声
中川原
修
北野
正雄
﹁生物と電気と数学と︱数式やコンピュータを
使って生命を理解し、新しい医療をめざす︱﹂
高校生のページ
博士論文概要
研究室紹介
﹁歌声合成について︱﹁初音ミク﹂を支える技術︱﹂
産業界の技術動向
︱分子系エレクトロニクスおよび電気自動車研究︱﹂
千本
倖夫
http://www.s-ee.t.kyoto-u.ac.jp/ja/information/cue/
こちらもご覧下さい。
目次は以下の通りです。内容は、HP にも掲載されますので
c u e ︵ 電 気 関 系 教 室 技 術 情 報 誌 ︶№
25
株式会社村田製作所
編集後記
訃
報
講昭 河嶋
秀夫
講昭 原田
力
昭 岩元
巌
昭 小田
敏彦
昭 近藤
文治
昭 土井
正之
昭 安陪
稔
・1・2
・1・
・8
・8
・
・
11
・1・4
12
ご 案 内 が あ り ま す。 ふ る っ て ご 出
藤野盛夫氏
日︵金︶四国支部
席ください。
5月
連絡先
井上欣也氏
[email protected]
5月 日︵日︶関西支部
連絡先
平岡正憲氏
[email protected]
5月 日︵金︶中国支部
連絡先
木元伸一氏
[email protected]
5月 日︵土︶北海道支部
連絡先
連絡先
[email protected]
6月3日︵金︶九州支部
秋山康人氏
[email protected]
6月4日︵土︶東北支部
連絡先
中村智和氏
[email protected]
6月4日︵土︶北陸支部
連絡先
安藤和史氏
[email protected]
6月 日︵土︶中部支部
連絡先
[email protected]
6月 日︵土︶東京支部
鎌田照己氏
[email protected]
事務局
記
連絡先
・2・2
・1・
以上の方々がご逝去なさいました。
謹んで哀悼の意を表します。
編 集 後 記
この度の東北・関東の地震と津
波で犠牲になられた方々に心から
哀悼の意を表します。また被災さ
れて避難生活を余儀なくされてい
る方々に心から同情申し上げま
す。一日も早い復旧・復興が叶う
よう心から願っております。
本当にその痛ましさには息をの
む思いでありました。ご年配の会
員なら編集子と同じ印象をもたれ
たのではないかと思います。テレ
ビに映し出された東日本大震災の
情景は、写真で見た原爆の後の広
島市街のようであり、焼夷弾で焼
き尽くされた東京の焼け野原のよ
うでした。
しかし、まだ放射能がないだけ
広島長崎よりはましだと思ったの
も束の間、福島原発のニュースに
驚愕し、臨界事故を考えて落ち着
かない数日を過ごしたのは小生の
みではないと思います。放射能事
故までかかえ込んでしまった三重
苦の日本。何としてもここは乗り
切らなければなりません。
福島原発への電力供給は地震後
日以上も掛かって冷温停止が困
ないでしょうか。
えてゆかなければいけないのでは
か。電気に関わるだけに真剣に考
りしろ思考法﹂ならどうだったの
ベル賞受賞者益川敏英教授の﹁の
います。その差は一体何か。ノー
電力女川原発は無事冷温停止して
波も福島原発より大きかった東北
難になりました。一方、地震も津
11
23
18
23
23
22
22
23
23
23
12
12
12
18
18
23
31
23
20
22
27
28
18
25
第232 号 (20)
洛 友 会 会 報
平成23年 4 月 15 日
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