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Title ペル・ウル(pelu ulu) - 大阪大学リポジトリ

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Title ペル・ウル(pelu ulu) - 大阪大学リポジトリ
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ペル・ウル(pelu ulu) : 紛争渦中で平和共存を実現する
方法
藤井, 真一
未来共生学. 2 P.229-P.254
2015-03-20
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/51796
DOI
Rights
Osaka University
論文
ペル・ウル(pelu ulu)
紛争渦中で平和共存を実現する方法
藤井 真一
大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程
要旨
目次
異なる立場や利害をめぐる対立状態は共生をもたらす
はじめに
1. 紛争・平和研究と贈与交換論
べき「現場」である。本稿では、
その「現場」として「民
族紛争」を経験したソロモン諸島を取り上げる。特に大
勢の他島出身者(マライタ系住民)が暮らしていたガダ
ルカナル島北東部では、
紛争勃発によりマジョリティ(ガ
ダルカナルの人びと)とマイノリティ(マライタの人び
と)の社会関係の再編成を迫られることとなった。本稿
の目的は、(1)紛争渦中におけるガダルカナル島北東
部の状況と当該地域においてみられた暴力回避の平和実
践である贈与財の授受を伴う儀礼「ペル・ウル」の事例
を報告し、(2)集団間関係に変化をもたらす力動性の
1.1 メラネシアの紛争・平和研究
1.2 ソロモン諸島における贈与交換の
機能
2. ソロモン諸島の「民族紛争」下にお
けるガダルカナル島北東部の状況
2.1 ソロモン諸島の「民族紛争」
2.2 ガダルカナル島北東部の状況
3.「ペル・ウル」― 未来共生の第一
歩として
おわりに
源泉として贈与という社会的行為を位置づけて事例分析
することである。
キーワード
贈与
平和
ソロモン諸島
「民族紛争」
ガダルカナル島北東部
未来共生学 2(229-254)229
はじめに
志水宏吉は未来共生学の構築にあたって「私たちの『共生』の原イメージは、
『特定の力関係のもとにある集団間での対立・緊張からの解放』というものであ
る。端的には、異なる立場・利害のもとにある地域住民間の対立やある国のな
かでの民族間での紛争といった状態が、共生をもたらすべき『現場』だと想定し
ている」と述べている(志水 2014: 48)。
本稿で取り上げるのは、志水がいう「共生をもたらすべき『現場』」、ソロモン
1
において 1998 年末から 2003 年 7 月にかけて生じた「民族紛争(
ethnic
諸島(図 1)
tension)」である。とりわけ、紛争の激戦地となったガダルカナル島北東部の
紛争状況を扱う。紛争勃発当時のガダルカナル島北東部 2 は、ガダルカナル島
民だけでなく、同島北東に位置するマライタ島(図 2)から通婚や雇用を通じて
図 2. ガダルカナル島とマライタ島の位置関係と調査地の位置(筆者作成)
移住した大勢の人びとが生活を組み立てていたと同時に、多くのマライタ系住
会の多かったガダルカナル・マライタ両島民の間に心理的な「壁」を作り、両者
民が戦禍を逃れるべく住処を手放した地域でもある(Statistics Office 2002: 128;
の隔絶を促したことは想像に難くない。
宮内 2011: 248; McDougall with Kere 2011: 146)
。両島出身者が共住・混住し
これは、ガダルカナル島におけるマジョリティとマイノリティとの集団間関
ていたこのガダルカナル島北東部について考えたとき、ガダルカナル島民によ
係として捉えることができるだろう。マジョリティたるガダルカナルの人びと
るマライタ系住民の排斥行動として始まった「民族紛争」が、日常的に接する機
と、マイノリティであったマライタの人びとは、
「民族紛争」を契機として集団
間関係の再編成を迫られるようになった。後述するように、多くのマライタ系
住民が居住地から避難し、一部の人びとは紛争渦中も居住地に留まった。紛争
に直面して、彼らの多くは「問題から距離を置く」という戦略を採ったのである。
人類学の分野で、正面から平和という課題に取り組んだ数少ない論集の編者
たちは、比較的小規模で他と明確に区別される民族集団のうち、特に非暴力性
を社会的特徴とするような「平和な社会」を対象として、平和の三類型(社会的
平和、修復的平和、分離的平和)を導出する(Sponsel & Gregor 1994: xvii)。こ
、すなわち「平和な
のうち彼らが強調するのは「分離的平和(separative peace)」
社会」における民衆の平和は他集団との争いを避けることで成立しているとい
。いわば、両集団の間に「壁」をつくることによっ
うものである(小田 2014: 7-8)
て集団間の平和を
出する試みである 3。
「逃げるという行為を、戦争や暴力を回避するという意味での平和をつくる
図 1. ソロモン諸島国全図(筆者作成。東側遠くに位置するテモツ州は除く)
230 未来共生学 第 2 号
行為としてみる視点を提供した」としてスポンセルらが提示した分離的平和を
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)231
積極的に評価しながら、辰巳頼子は「その一方で、彼らが避難しなければなら
交換の関連というよりもむしろ、紛争を解決したり管理したりする在来の方策
なかった背景としての『暴力』も忘れてはならない。避難する人々がつくりあげ
と贈与交換との関連について論じる。
る社会を、平和を追求する実践と理解しながらも、避難せざるを得ない文脈の
中で位置づける必要があるだろう」と述べる(辰巳 2014: 191)。
「壁」自体は、初
1.1 メラネシアの紛争・平和研究
期の平和
出において意義がある。しかし、その「壁」がつくりだされた背景を
メラネシア地域は、その地理的な辺境性によって、世界のその他のどの地
理解しないことには、その先の持続的な平和的関係、すなわち「未来共生」はな
域よりも遅く西洋との接触を経験し、列強の植民地支配に屈した。これは、比
しえない。
較的近年までグローバルな政治経済においてメラネシアが相対的に周縁的な
物理的なものであれ心理的なものであれ、「壁」は他者から自らを隔てるこ
地位に留まっている理由でもある。それがゆえに、メラネシアの土着的な戦争
とで安全な空間を設定しようとする人工の産物であって、それを完全に取り除
(indigenous warfare)が世界の他地域よりも持続してみられるとされる。特に、
くことは困難でも、その高さを下げることは不可能ではない(星野 2014: 21)。
「壁」の高さを下げることは、「壁」によって隔てられていた両者が接触する機会
ニューギニアにおける部族間抗争(tribal fight)やソロモン諸島における首狩り
(head hunting)に関する事例が多数報告されてきた(Knauft 1999: 89-156)。
の増加につながる。それは、他者との出会いとなる。
「共生は確実に他者との
そして、メラネシア地域の紛争について記述、分析する研究の多くが、わ
関係性において一定の変化をもたらす。その上、未知の存在や対立する相手と
ずかな紙幅であるとはいえ、その紛争を収拾するための方策についても報告
の共生には恐怖が伴ってもおかしくない。共生を通じて相手との既存の優劣関
している(Wedgwood 1930; Epstein (ed.) 1974; Rappaport 1984; Harrison 1993;
係が変化した先も未知の領域である。したがって、未来を指向し、共に認め合
Knauft 1999)。これらの報告の多くに共通するのが、部族間抗争なり報復殺人
い、支え合い、高め合う共生への努力には変化を受け入れる 勇気 が必要」で
(blood feud)を終結させるために贈与儀礼が行なわれることである。その中で
あると星野俊也が述べるとき、一番のポイントになるのは「変化」であろう(星
も、ニューギニアの部族間抗争に関する研究は卓抜している。村落(village)間
。
野 2014: 21)
や部族間の紛争を解決する平和
本稿の目的は、
(1)紛争渦中のガダルカナル島北東部の状況を概観したうえ
すなわち婚姻関係の構築に至るという(Harrison 1993: 133; Knauft 1999: 52)。
で、
(2)当該地域においてみられた暴力回避の平和実践である贈与財の授受を
敵対集団間の対立状態を解決するために、婚姻関係を結ぶことで両集団の間に
伴う儀礼「ペル・ウル」の事例を報告し、
(3)集団間関係に変化をもたらす力動
ある「壁」を取り除く。このときに授受される贈与財は紛争解決の媒介物として
性の源泉として贈与という社会的行為を位置づけて事例分析することである。
のみならず、婚資 4 としても機能するのだ。
造(peace-making)のプロセスは、女性の交換、
なお、取り扱う資料の多くは 2013 年から 2014 年にかけて約 3 ヶ月に亘って実
施した臨地調査から得られたものである。
1.2 ソロモン諸島における贈与交換の機能
ソロモン諸島では、殺人や窃盗、性的規範からの逸脱に端を発する集団間の
1. 紛争・平和研究と贈与交換論
報復殺人・血讐(blood feud)がしばしばみられた(Hogbin 1964; Keesing 1983)。
しかし、ソロモン諸島の人びとは報復と憎悪の連鎖に身を任せていたわけでは
戦争(warfare)と贈与交換(gift exchange)はいずれも他者との関係がなければ
なく、可能なかぎり暴力の連鎖を避け、血讐を終わらせることが得策であると
行ないえない社会的行為である。また、これらはメラネシア地域を対象とする
。そのために用いられるの
考えていた(Keesing 1983: 39; 藤井 2012: 157-158)
民族誌調査と人類学研究の重要な主題であり続けている。本稿では戦争と贈与
が、政治的リーダーの立会いの下に両当事者が贈与財の授受を行なう儀礼であ
232 未来共生学 第 2 号
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)233
り、それは現在のソロモン諸島においてもみられる慣行である。
ソロモン諸島において贈与交換は、婚姻や葬式、紛争解決において重要な役
婦人、子供、舞踊、祭礼、市であり、経済的取引は一つの項目に過ぎない。
(モース 2009: 17)
割を果たすといわれる。その特徴としては次の 4 点が挙げられる。第一に、伝
統的なものであれ近代的なものであれ、食物 5 と財貨 6 という有形財を与え、受
7
さらに、本稿の議論に即していえば、モースは「人々や神々に対する贈与は、
け取ること 。第二に、少なくとも一時的であれ、複雑な関係性を対立する二
両者の平和を買うことを目的としている」とまで述べている(モース 2009: 44)。
者へと単純化するように当事者らが両極に組織されること。第三に、一方向
贈与が社会関係に対して変化をもたらす力動性の源泉であると捉える筆者の立
的なやり取りはほとんどみられず、互酬性が前提とされること。最後に、関係
場では、モノのやり取りという局面だけを強調すべきではなく、モノが与え受
者が一堂に会し、将来の相互交流のための空間を開くことである(McDougall
け取られるという対面状況の相互行為が両者の社会関係をどのように書き換え
with Kere 2011: 151)。
るのかを考えねばならない。つまり、一方向的な贈与財の授受もまた社会関係
現在のソロモン諸島においてみられるキリスト教・伝統的方法・法的措置そ
の構築や修復に際して効力をもつと考えるべきなのだ。第 3 節で取り上げる贈
れぞれの紛争解決アプローチの異同について論じるマクドゥガルらの整理にお
与儀礼は、まさに一方向的な贈与財の授受を通じた社会関係の構築・修復の例
いては、この 4 点の特徴の整理で十分なのかもしれない。しかし、二点目と四
である。
点目に対して若干の補足が必要である。まず、婚姻・葬式・紛争解決のいずれ
一方向的な財のやり取りを伴う贈与儀礼に関する事例を提示・分析する前に、
であれ、贈与交換が行なわれる場面は公開である場合が多い。筆者が参与観察
このような贈与儀礼が行なわれるようになった背景にある「民族紛争」ならびに
した婚姻儀礼や見聞した紛争解決の儀礼において、当事者のみが参加するよう
紛争下におけるガダルカナル島北東部の状況について略述しておこう。
な秘匿されたものはひとつもない。贈与交換が行なわれる場面には第三者の関
与が不可欠である。その第三者は、ひとつには仲裁者ないし調停者であり、も
2. ソロモン諸島の「民族紛争」下におけるガダルカナル島北東部の状況
うひとつには観衆であり目撃者である。当事者間の贈与財の授受を媒介する第
三者、ならびに当事者間の贈与財の授受を歴史的出来事として目撃し、承認す
本節では、ソロモン諸島で生じた「民族紛争」について略述する。ただし、本
る第三者の存在が、贈与交換において見逃されてはならない。
稿の問題関心に即して、その経過の一部のみを取り扱うことにする。そして、
もうひとつ、マクドゥガルらがソロモン諸島の贈与交換の特徴とする三点目
特にガダルカナル島北東部の人びとが紛争渦中をどのように過ごしたのかに焦
についても補足しておきたい。彼らは有形財の双方向的な交換を想定しており、
点を当てて記述する。
そこには有形財の贈与を通じて無形の何かを獲得するような「異次元交換」
(嶋
田 1993)が含まれていない。しかし、本稿で注目するのは、有形財の一方向的
2.1 ソロモン諸島の「民族紛争」
なやり取りであり、これによって平和的・友好的な社会関係を獲得するような
ソロモン諸島の「民族紛争 8(ethnic tension)」は 1998 年末に始まった。当時
贈与儀礼である。ここで筆者が念頭に置いているのは、『贈与論』におけるマル
のガダルカナル州知事であったエゼキエル・アレブア(Ezekiel Alebua)が、ガダ
セル・モースの次の指摘である。
ルカナル島民の積年の不満 9 を政治的問題として公に発言したことが、紛争勃
発の直接的な引き金であったといわれている(関根 2002)。
彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に
1999 年に入ると、銃や山刀を携えたガダルカナル島南部出身の若者から成
役に立つ物だけではない。それは何よりもまず礼儀、 宴、儀礼、軍事活動、
る武装集団 10(IFM)が、ガダルカナル島内村落部でマライタ系住民に対する排
234 未来共生学 第 2 号
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)235
斥行動を始めた。政府が仲介して執り行われた伝統的和解儀礼のほか、幾度か
と集めてマライタ島出身学生に立ち退きを迫ったことを話してくれた 12(2011
の停戦協定が締結されたものの、紛争解決のために行なわれたこれらの試みは
年 7 月 19 日のフィールドノートより)
。このような事例は 1999 年上半期にガダ
実効力をもたず、紛争が継続した。2000 年初頭に、首都ホニアラで暮らすマラ
ルカナル島内各地で生じた出来事として頻繁に語られる(SITRC 2012)。それ
イタ系住民を守るべくマライタ側武装集団(MEF)が組織されガダルカナル側
では、本稿の関心地域であるガダルカナル島北東部はどのような状況にあった
武装集団に抗戦を始めた。ホニアラを勢力下においた MEF は 6 月にクーデタ
のか。
を敢行した。新政権はオーストラリアの仲介の下で 10 月に和平合意を成立さ
せたが、ガダルカナル側武装集団を指導してきたハロルド・ケケ(Harold Keke)
2.2 ガダルカナル島北東部の状況
11
が合意を拒絶してガダルカナル島南部へと拠点を移し新たな武装集団(GLF)
先に述べたように、
「民族紛争」では、当初ガダルカナル島内に居住するマラ
を組織、戦闘行為を継続した。2003 年 7 月、オーストラリア主導の介入部隊「ソ
イタ出身者を排斥することが目指された。ガダルカナル島北東部には大勢のマ
ロモン諸島地域支援ミッション(Regional Assistance Mission to Solomon Islands:
、
「民族紛争」の直接的な
ライタ系住民が暮らしていたため(Fraenkel 2004: 54)
RAMSI)」が武装解除と治安回復のために駐留を開始して紛争は終結した。
被害がよりよく観察できる地域である。このことが、筆者が当該地域に着目す
国民統一と和解の促進を目標に、紛争中に生じた人権侵害について独自
る理由のひとつである。
の調査を行なったソロモン諸島真実和解委員会(Solomon Islands Truth and
紛争渦中のガダルカナル島北東部の状況を述べる前に、なぜガダルカナル島
Reconciliation Commission)の最終報告書によれば、「民族紛争」はその特徴に
北東部に大勢のマライタ系住民が暮らしていたのかについて触れておく。この
よって三つに時期区分できる。具体的には、ガダルカナル側武装集団 IFM がガ
地域には、ガダルカナルの人びとと通婚して居住するマライタ出身者もいたが、
ダルカナル島内のマライタ島出身者に対して排斥行動を始め、警察がこれに応
大きな要因として挙げられるのは国家経済を担う基幹産業であった「ソロモン
戦した第一期(1999 年末まで)、IFM とマライタ側武装集団 MEF との武力衝突
諸島プランテーション会社 13(Solomon Islands Plantation Ltd.: SIPL)」がガダ
が際立った第二期(2000 年 10 月まで)、旧 IFM と旧 MEF の混成軍事警察がガ
ルカナル島北東部の平原地帯に位置していたことである。
ダルカナル側武装集団 GLF と対峙した第三期(2003 年 7 月まで)である(SITRC
住居、学校、診療所などを備えた SIPL は広大な生活空間でもあり、労働者
2012: 733)。本稿では、第一期に焦点を当てて記述する。本稿で取り上げるガ
向け集合住宅地域 14(図 3)がいくつか存在したため、他島出身者でも家族と
ダルカナル島北東部において、大勢のマライタ系住民の国内避難を生じた点で
ともに移住して生活することが容易であった(宮内 2011: 203-204)。SIPL は
最も劇的な変化をみせたのがこの時期だからである。
1990 年代後半までに約 2,000 名の労働者を抱えており、関連産業に従事する
1999 年初頭、同時期にガダルカナル島西部と東部の両方で、ガダルカナル
「民族紛争」中の 1999 年時点で SIPL 労働
人間は 8,000 から 10,000 名に上った。
側武装集団によるマライタ系住民への武力による威嚇と排斥がみられた。当時、
者の 65% がマライタ出身者、16% がテモツ州出身者であったという(Fraenkel
ガダルカナル島西部タンガラーレ(Tangarare)の寄宿学校へ通っていたガダルカ
2004: 49、54)。集合住宅は数が限られているため、SIPL 敷地周辺の土地に集
ナル島北東部出身の若者は、夜中に武装した若者たちが宿舎へ現れ、マライタ
落を形成するマライタ系住民も少なくなかった。たとえば、1999 年 5 月に焼き
島出身の学生たちに対して翌朝までに立ち退くよう命じたと語る(2010 年 3 月
討ちされたバラスナ川 15(Mbalisuna)東に位置するケム(Kemu)や同年 6 月に
4 日のフィールドノートより)。ガダルカナル島東部ルアヴァツ(Ruavatu)で理
襲撃されたビヌ(Binu)などは、主に SIPL で働くマライタ系住民から構成され
科教師をしていた青年海外協力隊の日本人教師もまた、いろいろな物を破壊し
た集落であった(関根 2002; Fraenkel 2004: 54)。
ながら騒音を立ててやってきた武装集団が、夜中に学校関係者全員をホールへ
236 未来共生学 第 2 号
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)237
しかし、ガダルカナル島北東部の海岸地帯に位置する S 集落で行なった筆者
の聞き取り調査によれば、1999 年 6 月時点までに武装集団が大挙してガダルカ
ナル島北東部にやってくることはなかったという(2014 年 2 月 2 日のフィール
ドノートより)。彼らが当該地域でキャンプを張り、ガダルカナル島北東部の
人びとに対して従軍や海岸部の警備を強要するようになったのは 1999 年 6 月
頃のことであり、それは首都ホニアラから最も離れた場所に位置していた SIPL
の集合住宅地域で殺人が発生した時期と重なっている。
この殺人事件は S 集落の人びとを震撼させた。情報提供者の一人フランシス・
マネゲレア 16(Francis Manengelea)は「それまで奴らは立ち退きを要求するだけ
で、殺人のためにやってきたわけではなかった」
と話す
(2014 年 2 月 2 日のフィー
ルドノートより)。しかし、6 月には立ち退きに応じなかったマライタ系住民に
図 3. SIPL の集合住宅の様子。幹線道路から複数の路地が平行して伸びており、それぞ
れの路地には写真のようなトタン屋根の家屋が複数戸ずつ連なっている。ひとつの家屋
は同じ間取りの 4 部屋から構成される。
(2011 年 8 月筆者撮影)
対して傷害殺人が生じたのである。殺人事件の直後、SIPL の集合住宅に暮らし
(宮
ていたマライタ系住民17はほぼ全員が首都ホニアラへと避難したといわれる
。また、同時期に S 集落で暮らしていたガ
内 2011: 243; McDougall 2011: 145)
ダルカナル島民たちもまた身の安全のために家屋を離れて畑や別集落へと避難
このように大勢のマライタ系住民が暮らしていたガダルカナル島北東部は、
。SIPL 周辺地域から避難した
した(2014 年 1 月 22 日のフィールドノートより)
マライタ系住民の排斥を企てるガダルカナル側武装集団にとって恰好の標的と
人びとは総計 9,326 名に上った(Statistics Office 2002)。
なった。それまでのマライタ系住民による粗暴な振る舞いや侮辱的言動に対し
SIPL 集合住宅地域での殺人事件を契機に、当該地域に暮らしていたマライ
て憤りを覚えていたというジョン・トーレ(John Tole)は、ガダルカナル島北東
タ系住民のほとんどすべてがホニアラへと避難した 18。換言すれば、それ以降
部出身でありながら、いち早く武装集団に積極関与した数少ない人物である。
に当該地域で出歩く人間はすべてガダルカナル島民であるとみなされる状況が
彼はマライタ系住民を排斥したいと考える若者数名を従え、精力的に排斥行動
生まれた。このような認識の単純化は、治安維持のために武装集団と対峙する
を行なった。
「マライタ系住民の家屋を燃やして回った。アブラヤシ用の農薬
当該地域をパトロールする際の思考停止を招いたといえる。なぜなら、
警察 19 が、
散布ポンプでガソリンを撒いて、片っ端からマッチを擦って火を投げたんだ」
パトロール中に出くわす人間はすべてガダルカナル島民であり、それは関与の
と話すトーレは、当該住民らが畑仕事などで留守にしている家屋に火を放った
度合いに差はあれど多かれ少なかれ武装集団を支持する者とみなすことができ
という。
「帰宅して家が焼け落ちてるとどうする。寝る場所がないんだから立
るようになるからだ。言い換えれば、警察は当該地域を出歩く人間に対する逮
ち退くしかないだろう」というのが彼の作戦であった。実際にどれだけの家屋
捕や狙撃といった暴力行使を正当化できたのである。あるとき、これが不幸な
に火を放ったかは覚えていないらしいが、ガダルカナル島北東部のマライタ系
事故を生み出した。平和維持を目的とする贈与儀礼「ペル・ウル」
(後述)に参加
住民を排斥するためには、前項(2.1)末に触れたような銃や山刀を用いた対面
しようとした一人の若者が射殺されたのである 20。
状況における威嚇以外の方法もとられたようである(2014 年 2 月 2 日のフィー
ジョン・マネアネア(John Maneanea)は S 集落出身の若者であった。1999 年当
ルドノートより)。
時、彼はマキラ州の聖スティーヴン・パムア中学校(St. Steven Pamua Secondary
238 未来共生学 第 2 号
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)239
次節では、ガダルカナル島北東部における未来共生のための平和実践とみなす
ことができる贈与儀礼の事例を提示し、分析する。
3.「ペル・ウル」―未来共生の第一歩として
ソロモン諸島の「民族紛争」では大勢のマライタ島出身者が避難を余儀なくさ
れた(Statistics Office 2002; 宮内 2011)。特に、国家経済を担う基幹産業であ
るアブラヤシ農園が位置していたガダルカナル島北東部の平原地帯は、5,000
から 6,500 人のマライタ系労働者およびその家族が暮らしていたこともあって、
ガダルカナル側武装集団による排斥行動が最も顕著にみられた。1999 年 6 月末
までに、ガダルカナル島北東部に居住していたマライタ系住民のほとんどは武
図 4. ガダルカナル島北東部の S 集落ならびにテテレ警察、SIPL 集合住宅の位置。
テテレ警察の東側で南北に走る直線はテテレ警察が主にパトロールしたとされる
道路を示す。
(2014 年 1 月 3 日のフィールドノートをもとに筆者作成)
力を伴う威嚇を受けて、家財をそのままに首都ホニアラへ避難したといわれる。
紛争渦中に実施された国勢調査の結果によれば、1999 年 11 月時点でのガダル
カナル島北東部の人口は 8,600 名ほどであった。そのうち 96% にあたる約 8,300
School)に通っていたが、このときはセメスター休暇のため S 集落へ戻ってき
名をガダルカナル出身者が占め、
マライタ出身者はわずか 1% 程度にすぎなかっ
ていた。テテレ地区に暮らしていたマライタ出身の男性が「ペル・ウル」
(後述
。しかし、すべてのマライタ系住民が居住地を離れて
た(Statistics Office 2000)
する事例 2 のことを指す)を行なうということで、マネアネアは武装集団のメ
避難したわけではない。本節では、敵対集団の中に留まり続けたマライタ系住
ンバーたちとともに儀礼の目撃者(witness)となるべく別集落へと向かった(図
民がいかにして彼らの生存を維持したのかに注目したい。
4 の大きな矢印で示した東から西への移動)。このとき、藪の中で身を潜めてい
民族間の対立が深まる中で、婚入したマライタ系住民をわずかに抱えるある
た警察がマネアネアを狙撃し、死亡させた(2014 年 1 月 3 日のフィールドノー
集落の人びとは集落内の平和を乱されないようにする戦略を採っていた(Fujii
トより)。
in press)。労働者として移住してきたマライタ系住民だけでなく、ガダルカナ
暴力的衝突が影を潜めて 10 年あまりが経った現在、ソロモン諸島の「民族紛
ル島内へ婚入したマライタ系住民たちもまたその多くがホニアラへの避難やマ
争」の経過については定説化された語り口が存在する(2.1 で示した紛争経過の
ライタ島への帰還を余儀なくされているが、一部の集落ではガダルカナル側武
要約を参照)
。しかしながら、これまで記述してきたような顔の見える関係の
装集団 IFM に対して貝貨や食糧を贈るなどすることによって既存の社会関係を
もとで具体的に生じた紛争渦中の出来事はほとんど掬い上げられてこない。同
維持するような努力が見受けられた(藤井 2014: 116)
。本稿では、筆者が臨地
じように、次節で取り上げる紛争渦中の生存戦略ともいえる贈与儀礼の様子も
調査を実施したガダルカナル島北東部 S 集落 21 を中心にバランデ川(Mbarande)
これまで紹介されたことがない。しかし、未来共生を考えるうえで必要となる
以西の海岸部地域においてみられた「ペル・ウル(pelu ulu)」の事例を紹介する。
のは、ミクロレベルでの相互作用に対する理解であり(志水 2014: 48)、それを
理解するための非共生的関係の理解であろう。本節では、非共生的関係の背景
となった「民族紛争」の様態とガダルカナル島北東部における状況を示してきた。
240 未来共生学 第 2 号
事例 1
マライタ北部ラウ・バエレレア(Lau Baelelea)出身の男性チャールズ・ル
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)241
ドワナ(Charles Ludwana)は、ガダルカナル島北東部出身の女性と結婚し
て S 集落の西に位置するゴラバウ(Ghorabau)集落に暮らしていた。彼が子
どもたちとこれまで通り一緒に暮らし続けるために、「彼の頭を支払わな
ければならなかった」
。なぜなら、当時の紛争状況下において、「彼の頭は
切り落とされなければならなかった」からである。彼は戦士(malaghai)に
対して、伝統的な未調理の食材とともに 1 頭の生きたブタとひとつのサウ
ザンガヴル 22(Sauthangavulu)を与えた。
事例 2
ガダルカナル出身の女性と結婚してテテレ海岸のガヴァガ(Ghavagha)に
暮らしていたヴィンセント(Vincent)はマライタ中部クワラアエ(Kwara ae)
出身の男である。彼はガヴィガで家族と暮らし続けるために、飼っていた
図 5. 遠くに見えるのが、マライタ系住民が放棄した家屋。
(2014 年 2 月筆者撮影)
ブタを殺し、調理食物をガダルカナルの人びとに振る舞った。
端的に表現するならば、「ペル・ウル」は平和的な社会関係の維持 23 を目的に
行なわれる贈与儀礼である。
「ペル」は動詞「ペルア(pelua)」が目的語を伴うと
なったのである 24。
それでは「ペル・ウル」を拒むとどうなったのか。目撃証言によれば、ある
きの短縮形であり、「支払う」を意味する。
「ウル」は頭部を意味する名詞である。
マライタ系住民が戦士(malaghai)によって穴を掘ることを命じられた。そして、
したがって、「ペル・ウル」は字義通りには「頭を支払う」という意味である。自
穴の中央に立った彼の頸を戦士が切り落としたのだそうである(2014 年 1 月 4
分の頭部を物理的に切り離さないために、頭部の代替物として財の贈与を行な
日のフィールドノートより)。
「ペル・ウル」を行なうことは、ガダルカナル島北
う。これが「頭を支払う」の意味である。
東部に当時居住していたマライタ系住民が、紛争状況下の暴力を回避して居住
「ペル・ウル」を行なうことが、現実的にどのような結果・効果をもたらした
し続けるための方策のひとつだったのだ。
のか。ガダルカナル島北東部で生活していたほとんどのマライタ系住民は、ガ
しかし、
「ペル・ウル」を行なったマライタ系住民のすべてが「ペル・ウル」を
ダルカナル側武装集団による暴力的な排斥行動を受けて、それまでの居住地に
行なうために必要な財産(贈与儀礼に適した生育状況のブタや貝貨)を有してい
。しかし、「ペル・ウル」を行なったごく
家財などを残したまま避難した(図 5)
たわけではない。彼らの中には姻族や友人、キリスト教教会などから支援を受
一部の人びとは居住地に留まり続けることを許された。彼らがガダルカナル島
けて財貨やブタ、伝統的食材などを集め、
「ペル・ウル」を行なったものもある。
北東部で生活を維持することは、当該地域に暮らしているマジョリティである
ガダルカナルの人びとによって支えられたし、
「ペル・ウル」を目撃したガダル
事例 3
カナルの人びとによって彼らが当該地域に居住することの正当性が外部者(特
S 集落から 5km ほど離れたロロニ(Roroni)集落に暮らしていたマライタ
に武装集団)に対して主張されるようにもなった。つまり、彼らは「ペル・ウル」
北部バエレレア出身のジョン(John)は、首都ホニアラに頻繁に出入りして
を行なってからは武装集団による暴力的な排斥行動の標的から外されるように
いた男である。その頻繁な往復のためにガダルカナルの人びとからスパイ
242 未来共生学 第 2 号
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)243
容疑をかけられることになる。ガダルカナルの人びとは彼に対してカネを
ブタ 1 頭と現金 1,000 ソロモンドルのほか、「ポポ(popo)」を用いずに調理
要求した。これに対して彼が支払ったのは、現金 10,000 ソロモンドルと 4
したコメとヤムイモとサツマイモから構成されていた。
∼ 5 種類の貝貨であり、鍋 20 個分のコメを炊いて儀礼を行なった。彼の支
払いに対して、彼の姻族(ガダルカナル出身者たち)とキリスト教地域支援
スプとは、ドク語 27 で「山盛りの食物(a heap of food)」を意味する。スプを構
センター(Christian Outreach Centre)に属する人びとが寄付するなどの貢
成する食物が調理済みか未調理かで二種類に区別される。すべての食材が未調
献をした。
理の状態である場合にかぎり、それは「アラ・ゲア(ara gea)」と呼ばれる。また、
調理済みの食物が用いられる場合、それらは「ポポ 28(popo)」と呼ばれる木製
以上の事例は、紛争当時のガダルカナル島北東部で武装集団の指揮をとって
25
の黒い器に収められ、バナナの葉で封じた上に火を通したブタ肉や魚の燻製な
「ペル・ウル」が行なわれる現場に
いた男性 による証言である。彼は立場上、
ど 29 が乗せられて儀礼の場へ持ち込まれるのが一般的である 30。事例 4 ではポ
立ち会って目撃者となることが必要とされた。
「ペル・ウル」を行なった人びと
ポを用いずに調理済みの食物が供出されたというが、これは「ペル・ウル」が
が誰かを知ることは、武装集団にとって暴力的な排斥行動を行なってはいけな
宴であったことを意味している。なぜなら、調理済みの食物が供出されること
い相手を同定することにもなるからだ。
は、たいてい儀礼の参加者によってそれが共食されることを前提しているから
ところで、
「ペル・ウル」は紛争渦中にのみ行なわれた贈与儀礼ではないこと、
である。聞き取りによれば、女性や子どもたちもまたこの「ペル・ウル」には大
また、それは必ずしもマライタ系住民だけが行なったものでもないことが筆者
勢参加し、共食したという。事例 4 では、贈与者と受贈者とチーフ(maneka ni
の臨地調査からわかった。次に挙げる事例は、「ペル・ウル」を行なったという
komu)たちだけでなく、大勢の観衆が見守る中で贈与財の授受が行なわれたの
ガダルカナル出身の老人ポリカープ・マネレ(Polycarp Manele)に対して 2014
だ。
年 1 月 29 日に行なったインタビューから得られたものである。
なぜガダルカナル出身のマネレは「ペル・ウル」を行なったのか。直接的な理
由は、S 集落の人びとがマネレに対して「ペル・ウル」を行なうように要求した
事例 4
からである。なぜ彼らはそのような要求をしたのか。S 集落の人びとの回答は
マネレはマライタ南部アレアレ(Are are)の女性と結婚して、S 集落の南
26
多様である。ひとつにはガダルカナルから敵対集団となるマライタ島へと避難
端にあるトトンバ (Totoba)に暮らしていた。当時、トトンバにはアレア
したことが挙げられる。また、紛争渦中におけるガダルカナル島北東部の生活
レ出身者が大勢暮らしていた。しかし、紛争勃発後、とりわけ 1999 年 6 月
状況に鑑みた嫉妬もある。
のアブラヤシ・プランテーション労働者居住区に対する襲撃があった直後
これは離反・造反の認識である。彼はマライタ出身の妻の安全を考慮して妻
に、そのほとんどが首都ホニアラへ避難した。マネレの妻も避難すること
とともにマライタへ避難することを選択した。しかし、妻子だけをマライタへ
を望んだ。マネレは妻子とともに避難することに決めた。彼らは妻の出身
送り、自身はガダルカナルの土地に留まるという選択肢も可能であった。ガダ
地であるマライタ南部へと移住した。マライタ南部では家屋を建てること
ルカナルの人びとから見れば、彼は仲間を裏切って敵対集団のもとへ去ったと
なく、妻方親族と共住していた。
映ったのだ。それゆえ、紛争が終結してガダルカナル島北東部へと戻ってきた
かつての居住地を離れてからおよそ 3 年後の 2003 年、紛争が下火になっ
マネレ一家は、そこでの生活を再開するために当該地域の人びととの間の社会
た頃にマネレは妻子とオジを連れてトトンバへ戻ってきた。このとき、彼
関係を結び直さなければならなかった。
「ペル・ウル」は当該社会への再編入の
は「スプ(supu)」を作った。このスプは時価 500 ソロモンドル相当の生きた
ために必要な手続きだったのである。
244 未来共生学 第 2 号
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)245
先に挙げた事例で「ペル・ウル」を行なったのはすべてガダルカナルとマライ
らした。ガダルカナル島北東部に暮らすマライタ系住民も、当該地域のガダル
タとの間で通婚してガダルカナル島北東部に暮らしていた人びとである。事例
カナルの人びとも、それまでの平和的で共生可能な社会関係を結び直すために、
1 から事例 3 は、マライタ出身の男性が居住地に留まり続けるために「ペル・ウル」
「ペル・ウル」を行なったのである。
を行なったものである。事例 4 は、マライタ出身の女性と通婚したガダルカナ
ただし、留意しなければならないのは、ガダルカナル島へ婚入して暮らして
ルの男性が、一度は居住地を離れて避難し、再びガダルカナル島北東部へ戻っ
いたマライタ系住民のすべてが「ペル・ウル」を行なったわけではないことであ
てきたときに「ペル・ウル」を行なった事例であった。
る。たとえ通婚関係があったとしても「ペル・ウル」を行なわずホニアラやマラ
これら 4 つの事例を通して共通しているのは、(1)ガダルカナルとマライタ
イタ島へと避難したマライタ系住民は多い。また、紛争が終わってから事例 4
「ペル・ウル」は居住
との通婚関係にある者が「ペル・ウル」を行なったこと、(2)
のような「ペル・ウル」を行なってガダルカナル島北東部へ戻ってくることもほ
地の社会関係が切断した後、あるいは切断の危機に
とんどない。彼らの多くはガダルカナル島北東部での社会関係を切断したまま、
した後に行なわれたこと
である。先に述べたとおり、紛争以前のガダルカナル島北東部には大勢のマラ
新天地での生活を組み立て直しているといえる。それは分離的平和のための方
イタ系住民が暮らしていた。アブラヤシ・プランテーション SIPL が提供する集
策ではあるが、未来に向けた共生関係の構築とはいえないだろう。
「ペル・ウル」
合住宅に居住する者も多かったが、SIPL が提供できる部屋数はそれほど多くな
を行なったごく一部の婚入マライタ系住民だけが、弱体化ないし切断した社会
「民族
かったため、マライタ系住民は SIPL 付近の各地に集落を形成していた。
関係を平和的なものへと変化させ、紛争期間を当該地域で過ごしたのである。
紛争」中に襲撃を受けたケム(Kemu)もビヌ(Binu)も、またマネレが暮らして
この点に、
「ペル・ウル」が未来へと開かれた共生関係を作り出していく足掛か
いたトトンバも住民の多くはマライタ出身者から構成されていた(藤井 2014:
りを見出すことはできないだろうか。
122 注 22)。
もうひとつ注意しておきたいことがある。それは「ペル・ウル」が執り行われ
物理的に距離を置く避難という生存戦略は、同一地域に共住しているという
る空間には贈与者と受贈者だけでなく、贈与財の授受を通して社会関係が(再)
地縁的結合に基づいた社会関係が築かれている場合に主に採られたものである。
接合されたことを確認し、不当な異議申し立てを禁じるための観衆(目撃者)が
それに対して、単に同一地域に共住しているだけでなく、通婚を伴う血縁的結
存在するということだ。ガダルカナル島北東部に婚入して共住するマライタ系
合に基づいた社会関係が築かれている場合は、
「ペル・ウル」のような贈与儀礼
住民が当該地域のガダルカナルの人びとと個人的・地域的な社会関係を構築し
が行なわれ、姻族や友人らもそれを支援するという事態がみられることがあっ
ていたとしても、その社会関係の網の目から漏れる外部者(具体的には、多く
31
た 。
のガダルカナル島南部出身者から構成されていた武装集団)にとっては関係が
ソロモン諸島では、婚姻に際しても贈与財(婚資)の授受を伴う儀礼が行なわ
なく考慮に値しないかもしれない。大勢の観衆が見守る中で「ペル・ウル」を行
れる。バートによれば、それは「(相手集団から)女性を盗む」という発想に基づ
なうということは、そういった外部者に対して当のマライタ系住民が当該地域
。したがって、「ペル・ウル」も婚姻儀礼も同
いているという(Burt 1994: 236)
のガダルカナルの人びとの社会関係の中に位置づけられていることを標示する
様に贈与財の授受を伴って社会関係を操作するものである。換言すれば、いず
意味もあったと考えることができるだろう。
れも贈与という社会的行為によって人間関係に変化をもたらす儀礼である。
通婚関係にあった人びとの間には婚姻儀礼を通じて単なる地縁的結合よりも
おわりに
密な社会関係がすでに構築されていた。
「民族紛争」の勃発に伴う対立的な風潮
は、姻族をはじめ確立された個人的・地域的な社会関係の弱体化や切断をもた
246 未来共生学 第 2 号
本稿では、ガダルカナル島北東部における紛争渦中の状況を紹介し、民族対
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)247
立が深まる中で暴力回避と共存のための平和実践として行なわれた「ペル・ウ
来的に維持させるような力学が働いていることである。未来共生の課題は、マ
ル」という贈与儀礼の事例を提示、分析してきた。本稿の分析から明らかになっ
イノリティをマジョリティに同化させるのでもなく、両者の隔たりを維持し
たことは以下の三点である。
ながら全体社会を夢想するのでもない。マジョリティとマイノリティの双方
第一にガダルカナルとマライタとの通婚関係にある者が「ペル・ウル」を行
が生産的な形で変化し、さらに付加価値を生み出すことを目指すという(志水
なったことである。しかし、彼らは自力で「ペル・ウル」のための贈与財を準備
2014: 44-45)。本稿で取り上げた「ペル・ウル」は、未来共生を実現するための
できるとは限らなかった。自力で準備できない場合は、彼らと個人的・地域的
第一歩として考えることができるのではなかろうか。
なつながりをもっているガダルカナルの人びとがさまざまな支援を行なってい
謝辞
た。
第二に「ペル・ウル」は居住地における社会関係が切断の危機に
した後、あ
本稿で用いた資料の多くは、大阪大学グローバル COE プログラム「コンフリクトの人
るいは切断してしまった後に行なわれたことである。
「民族紛争」の勃発によっ
文学国際研究教育拠点」平成 23 年度大学院生調査研究助成と卓越した大学院拠点形成支援
て民族対立が強調され、ガダルカナル島北東部に暮らすマライタ系住民とガダ
ルカナルの人びととの間に確立されていたはずの社会関係(社会的紐帯)が弱
体化してしまったときに、
「ペル・ウル」は両者の関係を強化する働きを持って
いた。マライタ出身の妻とともにマライタ島へ避難したガダルカナルの老人は、
紛争終結後にガダルカナル島北東部に戻ってきて生活するにあたって、切断し
てしまった当該地域の人びととの社会関係を結び直さなければならなかった。
補助金「コンフリクトの人文学国債研究教育拠点」平成 25 年度大学院生調査研究助成費(大
阪大学)を受けて、2011 年 7 月から 12 月と 2013 年 11 月から 2014 年 2 月に実施した臨地
調査から得られたものである。ここに記して感謝します。
注
1
のメディアで「民族紛争」として言及されてきた。しかし、実際にはガダルカナルもマライタ
「ペル・ウル」は未来に向けた共生関係を確立するための「変化」をもたらす行為
も一枚岩の存在ではなかったことが指摘されている(関根 2002; 藤井 2012; Fujii in press ほ
か)。ソロモン諸島真実和解委員会の最終報告書でも、
「1998 年から 2003 年までの全期間を
なのであった。
特徴づけるものとして一般化した『民族紛争』という当該紛争の定義は、厳密に言えば、第一
第三に「ペル・ウル」が行なわれる場面には、その当事者であるマライタ系住
段階(1998 年末から 2000 年 6 月 5 日の MEF によるクーデタまでの期間を指す)のみに当ては
民とガダルカナルの人びとだけでなく、贈与財の授受を通して社会関係が(再)
接合されたことを確認し、不当な異議申し立てを禁じるための目撃者が存在し
ていたことである。目撃者の存在は、
「ペル・ウル」によって強化された社会関
係ないし再接合された社会関係が将来的に維持されることを保証した。それゆ
え、
「ペル・ウル」を境として彼らが武装集団によって暴力的に排除されること
はなかったのであった。
この紛争はガダルカナル・マライタ両島民間の争いであったと解されることが多く、国内外
まる」
(SITRC 2012: 733。丸括弧内は引用者注)と述べられている。
2
ガダルカナル島内には 7 から 18 の言語(およびその方言)が存在するといわれる(Statistics
Office 2002: 266-268)。ガダルカナル島北東部で主に話されている言語はドク語(Doku)で
ある。1999 年の国勢調査によるとドク語を母語とする人口は 12,272 人であり、これはガダ
ルカナル島の各言語集団の中でも最大規模の話者人口である。なお、ドク語は近年までレン
ゴ語(Lengo)と呼ばれており、国勢調査結果を含め文献上ではレンゴ語と表記されることが
多い。しかし、ドク語に「レンゴ」という語彙は存在せず、言語名称としてしか意味を持たな
いこと、それに対して「ドク(doku)」は「良い(good)」や「承諾(OK)」など多義的な意味を持ち、
このように「ペル・ウル」という贈与儀礼は、一方向的な贈与財の授受を伴う
日常的に頻繁に用いられる語彙であることが筆者の臨地調査からわかっている(伝聞のみだ
儀礼でありながら、社会関係の再接合へとつながるものであった。ここにはモー
が、言語名称を「レンゴ語」から「ドク語」へと変更する動きもあるようだ)
。以下、本稿でア
スが述べたように贈与行為を通じて平和的関係を買うような事態が現出してい
る(モース 2009: 44)。さらに筆者が強調しておきたいのは、「ペル・ウル」が既
存の社会関係をより平和的なものへと変化させ、さらに変化した社会関係を将
248 未来共生学 第 2 号
ルファベット表記を付記する際は、原則としてイタリック(斜字体)がドク語を表すものとす
る。ただし、注 4 ならびに注 22 で用いるイタリック表記は、前者がソロモン諸島の共通語で
あるピジン語、後者がマライタ島北部の言語のひとつであるクワラアエ語(Kwara ae)の語彙
である。
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)249
3
4
ただし、
「壁」をつくることで暴力を回避しようとする試みは「平和な社会」に特権的なもので
15
った。付記したアルファベット表記(Mbalisuna)は、ソロモン諸島で発行されている地図や
距離を置いているので誰かが殺されることは稀であったという(Sack 1974: 79-81)。
公文書に記載されている綴りに基づく。
メラネシア地域に広くみられる「コンペンセーション(kompensesin)」という伝統的慣行がある。
16
われるが、婚資もまた「相手集団から女性を盗む」という発想に基づいているためコンペンセ
ーションの一部に含まれるという指摘がある(Burt 1994: 236; 関根 2003)。
伝統的な食材としてはヤムイモやタロイモなどが、近代的な食材としてはコメやインスタン
トヌードル、ツナ缶詰などがある。
6
食材と同じく伝統的なものと近代的なものの双方がありうる。伝統的なものとしては貝貨を
17
18
7
マクドゥガルらはキリスト教による紛争解決が言語に偏っている点を指摘した上で、贈与財
の授受を伴う伝統的な紛争解決はモノのやり取りが重要となるという。しかし、同時に、そ
の場で授受されるモノが社会関係の構築なり修復に対して効果を発するようになるのは、贈
19
その背景や経過の詳細はすでに報告されている(Kabutaulaka 2001; 関根 2002; Fraenkel
20
10
21
22
貝貨はマライタ北部で重要な価値を持つタフリアエ(Tafuliae)ときわめて類似している。そ
のそれは一回り小さい。
よる土地取得の制限、(5)ガダルカナル島への譲渡地の返還から成る要求であった(Fraenkel
23
ここでいう「平和」は直接的で身体的な暴力が顕在化しない状態のことを指す。
2004: 44-52)。
24
居住地に留まることが許されたとはいえ、活動の自由は大幅に制限された。自身が所有する
畑であっても遠く離れた場所にある畑へ出かけることは控えねばならなかったし、別集落を
当初、
「ガダルカナル革命軍(Guadalcanal Revolutionary Army: GRA)」と呼ばれ、紛争が進
「ガダルカナル解放戦線(Guadalcanal Liberation Front: GLF)」と呼ばれた。
なお、この時期にみられたガダルカナル側武装集団 IFM によるマライタ系住民への排斥行
動に対して、威嚇されたマライタ系住民は、最終的に武装集団の要求を呑んで全員退去して
訪問するなどの集落間移動も現実的にはできなかったという。これには、先に述べた紛争当
時のガダルカナル島北東部の状況も関係していると考えられる。
25
14
SIPL はコモンウェルス開発公社(Commonwealth Development Corporation: CDC)とソロモ
なお、幾度も「ペル・ウル」を見守り続けた彼はその後、武装集団から抜け出して紛争が終結
するまでの期間をガダルカナル島内各地に潜伏することでやり過ごしたという。
26
地名のカタカナ表記(トトンバ)は聞き取り調査時の情報提供者の発音に即して行なった。付
記したアルファベット表記(Totoba)は、聞き取り調査に際して情報提供者から教示された地
いる。
13
サウザンガブルはガダルカナル島北東部にみられる貝貨の一種。10 本鎖、1 尋から成るこの
の相違は貝のビーズ一つ一つの大きさで、マライタで用いられるものに比べてガダルカナル
知られるようになった。
12
S 集落は、2011 年時点で 137 世帯(約 500 名)が暮らす比較的大きな集落であり、その大半は
ガダルカナル出身者とセントラル州出身者であった。
展して実体が現れるうちに「イサタンブ解放運動(Isatabu Freedom Movement: IFM)」として
11
この出来事はソロモン諸島真実和解委員会の最終報告書にも記載されている(SITRC 2012:
406)。
具体的には(1)過去にマライタ人に殺害されたガダルカナル島民 25 名に対する賠償請求と
(3)国民の州間移動の制限、(4)他島民に
(2)ホニアラに住む他島民に対する住民税の課税、
これにはソロモン諸島警察(Royal Solomon Islands Police Force: RSIPF)だけでなく、ニュ
ージーランド人フランク・ショート(Frank Short)が長官を務める即応部隊(Rapid Response
2004; Moore 2004; Braithwaite et al. 2010; 宮内 2011; 石森 2013)ので本稿では詳述しない。
9
「民族紛争」を契機としたマライタ系住民の避難の様態については、特に宮内泰介の研究が詳
Unit: RRU)も含まれる(2014 年 1 月 3 日、1 月 5 日のフィールドノートより)。
与財の授受に付随する演説によるとも述べている(McDougall with Kere 2011: 158)。
8
SIPL 労働者とその家族を含め 5,000 名から 6,500 名とされる。
しい(宮内 2011: 252-289)。
はじめとする原始貨幣、近代的なものとしてはソロモン諸島の通貨である貨幣(ソロモンド
ル)がある。
公人であったアレブア元州知事と真実和解委員会の最終報告書にも記載のあるマネアネアの
2 名を除き、本稿に登場する事物名のすべては仮名である。
これは誹謗中傷や窃盗、殺人、性規範の逸脱行為に起因するトラブルを解決する目的で行な
5
河川名のカタカナ表記(バラスナ川)は聞き取り調査時の情報提供者たちの発音に即して行な
はない。部族間抗争が頻繁に報告されてきたニューギニアでは、敵対相手はたいてい適切な
名の綴りに基づいている。
ン諸島政府との合弁会社で、1971 年にアブラヤシの植えつけが始まり、1976 年から収穫と
27
ガダルカナル島北東部の現地語の名称である。本稿注 2 も参照のこと。
搾油が始まった。
28
饗宴に際して山盛りの食料が贈与されたり振る舞われたりする慣行はソロモン諸島全域でみ
られる。しかし、調理済みの食料を封じるポポが用いられるのはガダルカナル島にのみ認め
かつては CDC(コモンウェルス開発公社の略)と呼ばれ、1 ∼ 5 にナンバリングされていた。
られる慣行である。
紛争の影響を受けて閉鎖した SIPL に代わり、2006 年から操業を開始した「ガダルカナル平
原パームオイル会社(Guadalcanal Plains Palm Oil Ltd.: GPPOL)はこれを再利用し、現在は
GPPOL1 から GPPOL3 がある。プランテーション労働者の給料日にあたる隔週金曜には集
合住宅地域に青空市場が開かれる。
250 未来共生学 第 2 号
29
伝統的にはブタ肉や魚の燻製が用いられるが、近年ではツナ缶詰で代用されることもある。
30
「アラ・ゲア」は、世帯数などに応じて用意された小型の編み籠(lalapa)に小分けされて参加
藤井|ペル・ウル(pelu ulu)251
者に配られる。
「ポポ」に封じられた調理済みの食物は、饗宴の場において参加者全員で共食
して消費される場合が多いようであるが、一方から他方への贈与物として器ごと贈られるこ
ともある。後者の場合、「ポポ」を受け取った集団は自分たちの集落へと「ポポ」を持ち帰っ
て集落内で分配する。空き容器となった「ポポ」は、時期をみて贈り主に返却されることにな
る。ただし、返却するときには空き容器のまま返却してはならない。器を満たす必要はない
が、少量であれ調理済み食物を封じて贈り主へ返却されるのが通例である。
31
ただし、第 3 節の前半で述べたように、ガダルカナル島北東部へ婚入して暮らしていたマラ
イタ系住民のすべてが「ペル・ウル」を行なったわけではないこと、その多くがホニアラやマ
ライタ島へと避難していることには留意する必要がある。S 集落での聞き取りによれば、紛
争勃発を契機にガダルカナル島北東部から離れたマライタ系住民らのほとんどは紛争終結後
も当該地域へと戻ってきていない。
参照文献
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