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Chaos;an onion HEAD ID:44787

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Chaos;an onion HEAD ID:44787
Chaos;an onion HEAD
変わり身
︻注意事項︼
このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にP
DF化したものです。
小説の作者、
﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作
に突入できなかった可哀想なナイトハルト
品を引用の範囲を超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁
じます。
︻あらすじ︼
らぶChu☆Chu
さい。
※この作品はArcadia様にも投稿しています。ご容赦くだ
ウントしました。
↓ズタボロになった可哀想なアーニャちゃんがちうタンとエンカ
さんがネギ坊主にログインしました。
!
目 次 ││
序章 │││││││││││││││││││││││││
第1章 IF end ↓ onion HEAD
第2章 幼馴染 │││││││││││││││││││
第3章 距離 ││││││││││││││││││││
第4章 茨の睡蓮 ││││││││││││││││││
第5章 好々爺 │││││││││││││││││││
第6章 追加現実 ││││││││││││││││││
第7章 帰還 ││││││││││││││││││││
第8章 一人は、世界にとっての救世主 ││││││││
第9章 一つは、世界にとっての願望機 ││││││││
第10章 一人は、人にとっての救世主 ││││││││
第11章 一人は、人にとっての願望機 ││││││││
os ││││││││││││││││││││││││││
終章 result ││││││││││││││││
エピローグ ある少年の休日 │││││││││││││
ぶつくさ少女現る現る 編 │││││││││││
Chaos;an onion HEAD Chu☆りっぷ
怪奇
千雨ってツンデレの括りで良いのかな 編 ││││││││
にょっきり 編 ││││││││││││││││││││
憧れとトラウマは紙一重 編 ││││││││││││││
428 420 411 397 387
!
366 340 301
第13章 Empty bottom of the ;cha
第12章 Re; ││││││││││││││││││
1
20
36
54
78
278 250 217 190 168 143 116 94
?
第一種接近遭遇 編 ││││││││││││││││││
!
右の瞼が震えるの 編 │││││││││││││││││
私を見るな 編 ││││││││││││││││││││
手を繋ごう 編 ││││││││││││││││││││
だうとはーとだーくおーが 編 │││││││││││││
ちうタン、ファンに愛されちゃう 編 ││││││││││
咲き誇る炎の華 編 ││││││││││││││││││
黒 編 ││││││││││││││││││││││││
│││││││││││││
助けてそして助けられ 編 │││││││││││││││
エピローグ Chu☆りっぷ
!
535 518 506 485 468 457 449 443 435
序章
│││西條拓巳、という一人の少年が居た。
﹁三次元に興味は無いよ﹂と言い切り、老朽化し始めたビルの屋上に設
置された基地︵ベース︶と呼ぶコンテナハウスで、大量の美少女フィ
ギュアに囲まれながら生活する、引きこもり一歩手前の高校二年生。
人との直接的なコミュニケーションを嫌い、最低限の外出しかしな
いネット依存症の少年。
﹁疾 風 迅 雷 の ナ イ ト ハ ル ト﹂と い う ハ ン ド ル ネ ー ム で 一 日 中 ネ ッ ト
ゲーム│││エンスパイア・スウィーパー・オンライン、通称﹁エン
スー﹂│││をプレイし、学校は出席日数を計算して必要以上に出席
しない。
引っ込み思案で、人と話せば必ずと言って良いほどに呂律が回ら
ず、それが女性だった場合には最悪パニック状態に陥ってしまうほ
ど。
周囲からは引きこもり、もしくはキモオタと認識されているが、引
きこもりの部分だけは本人的には違うらしく、それを否定している。
強い妄想癖があり思い込みも激しく、しばしばネガティブな方向へ
と思考が暴走し被害妄想に陥ってしまうが、逆に辛い現実から逃避し
只管自分に都合のいい妄想をしてそれに浸ることもあり、常に情緒が
安定しない。
その妄想力の強さたるや、自分の好きなアニメ作品│││ブラッド
チューン・THE ANIMATION。通称﹁ブラチュー﹂│││
のキャラクター、自称﹁僕の嫁﹂の︻星来オルジェル︼を脳内に投影
し、その自立した人格との会話が可能というレベルにまで達してい
た。
所謂、空気嫁、もしくは脳内嫁である。
他人から見れば、情けないキモオタ。
自らの意に沿わない現実に直面するとすぐに逃げ出し、しかもその
原因を他人の所為として責任転嫁するダメ人間。
1
⋮⋮それが、西條拓巳という少年│││その、︻設定︼だった。
﹁│││あなたは、おにぃ﹂
しかし、そんな彼にも一つの転機が訪れる
│││︻ニュージェネレーションの狂気︼⋮⋮通称、ニュージェネ。
彼の住む渋谷で起こった、連続猟奇殺人事件。
西條拓巳は自らの意思とは何ら関係なく、その吐き気すらをも催す
程の狂気に巻き込まれる事となったのだ。
⋮⋮否、巻き込まれたのでは無い。
︻西條拓巳︼がその事件に関わることは、最初から決まっていたのだ。
│││彼が︻ニシジョウタクミ︼としてこの世界に産まれた時から、
既に。
﹁│││あなたは、にしじょうくん﹂
彼が狂気に触れる発端となったのは、エンスーのプレイヤー間で行
われているチャットだった。
親しい友人であった︻グリム︼との会話中、突然チャットに参加し
てきた︻将軍︼というハンドルネーム。
その︻将軍︼から、成人男性が壁に十字の杭で張り付けられて殺さ
れている画像が送られてきたのだ。
⋮⋮後に、ネットで﹁張り付け﹂と呼称される事となるニュージェ
2
ネ第三の事件。
この時点では未だ起きていない事件であり、誰も知りえるはずも無
い殺害現場。犯行予告とも取れる画像。
それが、拓巳の日常が非日常へと姿を変えた、きっかけ。
│││この時に初めて︻西條拓巳︼は、
︻将軍︼という存在を知った
のだ。
﹁│││きみは、たくみ﹂
自分の過ごしている日常が、足元から徐々に崩れていく錯覚、少し
づつ深まっていく不安。
鬱々とした気分で学校から下校していた最中、近道にと通った路地
裏で│││彼は目撃してしまう。
︻将軍︼から送られてきた画像に瓜二つの殺害現場。そして、血塗れで
その死体を見つめる少女の姿を。
産まれて始めて見た、人間の死体。
人間だと咄嗟に認識出来ないほどに杭で滅多刺しにされ、壁に張り
付けられた凄惨な光景。
壁から地面まで飛び散った真っ赤な血液と、臓腑と、そして、その
返り血を浴びながら、冷静のまま佇んでいる美しい少女│││
│││拓巳は、恐怖した。
悲鳴を上げ、脂汗を流し、現実から目を背け、その場から逃げ出し
た。
体力の続く限り足を動かし、粘つく唾液を飲み込み、パニックにな
3
りながらも必死に、只管に、只管に、ただ只管に走り続けて│││
拓巳はしばらくの間、死への恐怖に怯え続ける事となる。
﹁│││あなたは、たくみしゃん﹂
殺しに来るのではないか
途轍もなく残虐な方
悪魔女│││事件現場で目撃した少女が、自分のことを追って来る
のではないか
?
他人に対して心を開きかけていた拓巳の心は再び堅く閉ざされて、
知った。
│││そして拓巳は、優愛によって初めて人から裏切られる絶望を
│││
拓巳は、優愛によって初めて人を好きになると言う事を知りかけて
さを知り、
拓巳は、優愛によって初めて信頼の尊さを⋮⋮人との繋がりの大切
拓巳は、優愛によって初めて他人と会話することの楽しさを知り、
拓巳は、優愛によって初めて人の優しさと言うものを知り、
かな時間を共に過ごし、彼は彼女から様々な事を教わった。
彼女の存在に拓巳の心は救われて⋮⋮短い時間ではあったが安ら
偏見無く接してくれる穏やかな少女。
拓巳と同じ翠明学園に通う三年生であり、キモオタである拓巳にも
少女の名は楠優愛。
ていく中、拓巳は一人の少女と出会う。
⋮⋮そんな恐怖に怯え続け、ネガティブな妄想により精神が疲弊し
││
法で殺され、自分もまた﹁張り付け﹂にされてしまうのではないか│
?
猜疑心と、疑心暗鬼と、被害妄想の闇に包まれ│││
4
?
│││物語は、加速を始める
﹁│││おまえは、にしじょう﹂
│││ゴシックバンド・ファンタズムのボーカルである岸本あやせ
との出会い。
│││蒼井セナとの邂逅。
│││転校生である折原梢との︻会話︼。
│││妹である西條七海との触れ合い。
│││数少ない友人である三住大輔とのやり取り。
│││ニュージェネ事件を捜査している刑事、判安二と諏訪護の訪
5
問。
│││そして、悪魔女こと咲畑梨深の突然の出現と、和解。
﹁│││あなたは、たく﹂
最初は、彼女に恐怖しか感じなかった。
あの現場を目撃した自分を殺しに来たのだ││拓巳はそう思い、梨
深から距離をとろうと必死になっていた。
殺されたくない、殺されたくない、殺されたくない⋮⋮
の一件で人間不信になっていた拓巳の心は、優しく解きほぐされてい
しかし、彼女は気にせずに拓巳に優しく接し続け、その結果、優愛
最初、拓巳は何の罠かと思い、梨深に対して邪険な対応をし続けた。
差し伸べてきてくれた。
⋮⋮しかし、梨深はそんな拓巳の恐怖とは裏腹に、彼に優しく手を
!
く。
拓巳は献身的な梨深に対して、徐々に心を許していった。
本当に辛い時、何も言わずに一緒に居てくれた、彼女。
怖くて怖くて仕方が無くて、心が擦り切れそうになった時、優しく
抱きしめてくれた、彼女⋮⋮
⋮⋮最初に感じていた﹁恐怖﹂という感情は、梨深と接するうち徐々
に鳴りを潜め、彼女が﹁張り付け﹂の現場に居たことは自分の妄想だっ
たと思うようになり│││拓巳は、梨深に惹かれていったのだった。
だが、そんな拓巳の心とは裏腹に、事件は更に展開していく。
│││終わりを見せないニュージェネ事件による猟奇殺人。
│││﹁ヴァンパイ屋﹂の殺害現場に記された言葉、
︻その目誰の目
︼
int^40
6
│││世界の可能性を殺した数式、︻fun^10
=Ir2︼
│││嘗ての恩師が犠牲となった、﹁ノータリン﹂
﹁│││ぼくはぼく﹂
⋮⋮心の壊れた少女達の扱う、常識の外側にある能力の存在を。
つ人間達。
妄想を現実化することの出来る、一種の超能力とも言うべき力を持
という存在を知る。
様々な出来事に巻き込まれていく中、拓巳は︻ギガロマニアックス︼
│││渋谷を襲うセカンドメルト。
ド︼の顕現。
│││岸本あやせ、蒼井セナ、折原梢による、妄想の剣︻ディソー
×
?
妄想に次ぐ妄想と、狂気に満ちた現実と。
自分の心が妄想に犯されていく妄想に呑まれて。
妄想と現実の境界が曖昧となり、何が真実かも分からなくなって。
何も分からぬまま、拓巳は進んで行く。
望む望まざるに関係無く、拓巳はゆっくりと事件の真相に近づいて
行く。
⋮⋮そして、拓巳は辿り着いた。
│││︻将軍︼の正体に。
│││︻将軍︼の願いに。
│││︻ノアⅡ︼の存在に。
│││それによる、世界の危機に。
│││梨深の思惑に。
│││自分の、出自に。
││││││自分という存在の全ては、
︻西條拓巳︼の妄想から生ま
れた︻設定︼だったと言う事に。
﹁│││ぼくは、妄想のそんざい﹂
絶望に打ちひしがれ、拓巳は自らの死を願う。
事故死する事を妄想し、他殺されることを祈り、自殺に失敗し、自
暴自棄に陥った。
全てが色を失い、価値をなくし、自分の中に響く星来の声にさえ反
応出来なくなっていく。
│││そんな最悪な状態の中で行われた、︻将軍︼との対話。
7
余命が幾許かも無い事を自覚している所為なのか、達観した印象を
受ける皺だらけの少年。
拓巳は、暴徒と化した渋谷の住人達が渦巻く交差点で放つ彼の言葉
を聞き、梨深が捕らわれた事を知り、自分の心と向き合い、そして⋮⋮
唯一つの解を得る。
│││僕は、梨深の事が好きなんだ
その気持ちを自覚した瞬間、彼は覚醒した。
一人のギガロマニアックスとして。︻西條拓巳︼として。
│││妄想の存在が恋をするなんて、キモ過ぎる
│││僕みたいなキモオタが梨深みたいな可愛い女の子を好きに
なるなんて、身の程知らずにも程があるよ
│││自分のキモさに、笑いしか浮かばない
│││⋮⋮でも
│││でも、こんなキモオタでも、彼女のために出来ることがある
のなら│││
﹁│││僕は、存在する﹂
彼は、決意する。
︻将軍︼の願いとか、世界を救うとか⋮⋮そんな物の為ではなく。
│││ただ、自分の好きな女の子を、梨深を助ける為だけに│││
ノアⅡを破壊する。と。
8
﹁│││僕は、西條拓巳﹂
自らが掴み取ったディソードを構え、拓巳は疾走する。
ポーターを切り裂き、
︻グリム︼の正体を白日の下に晒し、サードメ
ルトを耐え抜いて。
あやせを助け、優愛を赦し、七海に背中を押されて。
セナの願いを不器用な形で聞き届け、梢の心を救い上げ、﹁張り付
け﹂を妄想の渦に叩き込み、殺して。
妄想攻撃として襲い掛かる星来オルジェルを貫き、腕を叩き潰さ
れ、アバラを折られながらも、まっすぐに。
そしてノアⅡの眼前にて、事件の主犯、野呂瀬玄一と相対する事と
なった。
│││しかし、その差は圧倒的。
拓巳は満身創痍の身体を酷使し戦うも、胸を切り裂かれ、梨深を犯
す妄想をぶち込まれ。
︻三日間︼にも及ぶ︻一秒︼の拷問を受け、自分の形を保てなくなり、
意識と世界が混濁し、消え落ち、そして│││西條拓巳は、
﹁人﹂とい
う存在から外れる事になった。
⋮⋮だが、
﹁│││僕は、﹂
9
│││六人のギガロマニアックスの、想い。
これまでに拓巳と関わってきた少女達の祈りを受け、拓巳は﹁自分﹂
を取り戻すことができた。
そして野呂瀬から受けた妄想を取り込んで、人の身体を超越し、
︻妄
想から産まれた人間︼は︻妄想から産まれた化物︼と変貌した。
痛覚を遮断し、身体を両断されようとも、脳を潰されようとも身体
の中から無尽蔵に湧き出る塵から無限に再生する、化け物。
他人の妄想を取り込み、自分の物とし、決して死ぬことの無い、反
粒子すらをも自在に操るギガロマニアックスとしての最極地に至っ
たのだ。
⋮⋮そうして
10
│││英雄なんて柄じゃないし、そもそもヒロインからして高嶺の
花にも程がある。
西條拓巳は、一人の人間として、ただの一介のキモオタとして。
たった一人の、自分が想いを寄せる少女のために、ノアⅡを。
戦争の無い未来、争い事の存在しない楽園。
﹂
選ばれた少数により管理された、無味乾燥な乾いた未来を│││
﹁│││僕だ│││
│││野呂瀬諸共、破壊した。
!
そして、ノアⅡが破壊されたことによる爆発が収まった後、梨深は
必死に拓巳の姿を探したが│││終ぞ、その姿を見つけることは出来
ずに終わる。
そう│││││││││︻西條拓巳︼は、この世から、跡形も無く
消え去ったのだ。
******************
│││感じたのは、物凄い光。次いで、衝撃。
11
ガタガタと上下左右前後斜め縦横、全ての方向に身体が揺さぶら
れ、シェイクされる。
衝撃のほか、光さえもが圧力を持って僕をぐちゃぐちゃに押しこね
るけれど、痛覚を遮断しているためか痛みは全く感じない。
⋮⋮その代わり、耳鳴りが酷くて音が何にも聞こえないけど。
一体、何が起こったんだっけ
⋮⋮僕の攻撃は、ノアⅡを破壊することが出来たのかな。
も無いんだけれどね。
爆発に巻き込まれるなんて奇特な経験は﹁僕﹂にも﹁彼﹂の記憶に
う感じる。
音も熱さも痛みも、何一つ感じることは出来ないけど、感覚的にそ
まれたんだ。きっと。
⋮⋮ああ、そうか。僕はノアⅡを破壊した後に起きた爆発に飲み込
?
こんなに凄い爆発が起こっているんだから、完全破壊には至らなく
ても、8割9割は破壊できたと思いたかった。
そうでなくちゃ、何のために命を捨てたのか分かったもんじゃな
い。
│││って、妄想に命があるとか、僕は何を考えてるんだ。
下らない事を考えた、と自嘲の笑みが浮かぶ│││いや、無理かな。
多分、今の僕の身体はそれはそれは酷い状況になってると思うか
ら、顔もぐちゃぐちゃで表情なんて浮かべるべくも無い。
手も、足も、首も、目も、肺も⋮⋮身体全体がぴくりとも動かすこ
とが出来ず、ただあるのは身体が光の中に吹き飛び、散らばり、溶け、
蒸発していく感覚だけ。
吹き飛んだ身体の断面から塵が溢れ出して欠損部分を再生させよ
うとするけど⋮⋮その塵自体が光に押し流されて、瞬時に吹き飛び光
の中へと溶けていく。
│││再生が、追いつかない。
サードメルト時には渋谷を丸々廃墟に変えたほどのノアⅡだ、内蔵
されているエネルギーは膨大なものなのだろう。
少なくとも、今の僕を消滅させられる程には。
⋮⋮⋮⋮でも、良かった。
僕がこのまま死んでいけば、梨深の大切な人である将軍の余命がほ
んの少し伸びる。
僕という負担が無くなれば、梨深は将軍ともっと長く一緒に居られ
る。
12
七海だって、この一年間本当の兄貴に会えなかった間の時間を、少
しでも埋められるはずだ。
│││何より、この件が終わったら梨深に殺してもらうか、それか
自殺しようと考えていただけに、思いのほか楽に死ねそうで助かった
│││
⋮⋮不意に、おかしくなった。
ディソードを手に入れて少しは変わったかなと思ったけど、僕のヘ
タレな本質はそう簡単には変わらないらしい。
少し自分が情けなくなったものの、心は穏やかに凪いでいた。
咲畑梨深。
僕の一番の友達で、僕の一番好きな人で、僕の大切な人。
⋮⋮僕の、片思いの相手。
僕みたいな妄想の存在が、キモオタが。彼女のために何かを成して
死んで逝ける。
これほど良い死に様、そうは無いんじゃないかな。
│││凄く、清清しい気分だ⋮⋮
自分がこれから死に望む事も、そこに意味があると分かっているの
なら│││恐怖なんてあんまり感じない。
七海の事は気がかりだけど│││きっと、将軍が何とかしてくれる
だろう。
だって、七海は僕の妹である前に将軍の妹なんだ。何とかしないは
ずが無いさ。
僕がギガロマニアックスの力で痛覚を遮断できたのなら、きっと、
13
将軍も同じようなことが出来る筈。
七海の手首をリアルブートする事も、造作も無いに違いない。
⋮⋮そう、信じたい。
│││⋮⋮⋮⋮
⋮⋮そろそろ、考えることを止めようか。
今の僕には、もう出来ることなんて何にも無い。
この化物染みた力も、あと数分もしないうちに使えなくなるだろ
う。
│││ならば、あとは静かに死を待つだけ。
これ以上考えを巡らしてしまえば、死への恐怖が蘇ってきてしまい
そうで。
⋮⋮始め、死にたくないって喚いていた時の事を思い出して、心中
で苦笑。
︵││││││⋮⋮︶
僕はゆっくりと、意識を沈めていく。
深く、深く、深く⋮⋮。
そのうちに思考も白く染まっていき、何も考えられなくなって。
穏やかな気分の中、最後に梨深の姿が脳裏に浮かび│││
14
│││あれ
梨深は、無事なのかな。
ふと、心配事が脳裏をよぎって、沈みかけた意識が浮上した。
そうだ、梨深もこの場に居るんだった。
⋮⋮爆発に、巻き込まれていないかな
梨深が助かることを、妄想。
│││僕は、妄想することにした。
そう、思って。
│││せめて、梨深に迷惑をかけずに居なくなりたい。
く。
でもそんな事情とは裏腹に、頭の中が梨深の事で一杯になってい
⋮⋮どうやら、僕の身体はもうそろそろ限界らしい。
た。
視神経がぶち切れる感覚。視界が真っ白から真っ黒に塗り変わっ
そう思って、周囲を確認しようとした瞬間│││ぶつん、と。
してました│││なんて、そんなのは嫌だ。
せっかく野呂瀬から解放したのに、全てが終わってみれば命を落と
?
この爆発は、梨深の元にまでは届かないって。
15
?
強く、強く妄想した。
将軍には負担をかけてしまうかも知れないけど、そこは許して欲し
い。
僕の、最後の妄想だから。
光に溶けて行った僕の身体が、爆発の衝撃を押さえ込む。
梨深の元まで爆風を届けないように。
今の僕なら出来る。
16
そう、思い込んで。
人では無くなった、今の僕ならば。
身体が完全に消える前に。
妄想しろ。妄想しろ。
強く。
強く。
強く│││
│││強く
!
!!
││││││││││││妄想した。
││││││││││││ノアⅡから溢れでたエネルギーと、僕の
身体が混ぜ合わさる感覚を。
││││││││││││妄想した。
││││││││││││︻僕︼というエネルギーを、無理矢理押
さえ込む感覚を。
││││││││││││妄想した。
││││││││││││梨深が無事で居るという、世界を│││
│││││││││
妄想は、現実となる。
現実は、妄想に置き換わる。
エラーが、現実化する。
肉体は、消滅する。
意識が、裏返る。
再び、僕が僕で無くなる。
17
僕は、ノアⅡと同化し。
僕は、エネルギーに変換され。
僕は、妄想そのものとなり。
妄想は、器を求め。
│││そして、僕は逆流した。
僕に僅かに残っていた、繋がりを辿って。
僕は、︻僕︼へと流れ込む。
︶
18
︵│││ッ
僕の意識も、完全に闇に落ちていった│││
⋮⋮妄想の終わる、テレビの電源が切れるような感覚と共に。
│││僕は、︻僕︼の中で炸裂した。
︻きみ︼は、︻僕︼と同化して││││││││││││
︻きみ︼の声が、僕の外に響いて。
!!
│││⋮⋮ブツン。
19
出ーてーきーなーさー
あーけーなーさーいー⋮⋮
第 1 章 I F e n d ↓ o n i o n H E A
D
│││あーけーろー⋮⋮
⋮⋮ばんばんと、扉を叩く音がする。
│││いーいーかーげーんーにー⋮⋮
いーよー⋮⋮
│││くっそ
さっきから煩いんだよ。 少し黙れよ
処にも届くことなく消滅する。
僕の放ったその声は、扉を叩く音と女の子の声に打ち消されて、何
⋮⋮そっと、小さく呟くけれど。
﹁⋮⋮⋮⋮うっせ、よ﹂
はっきり言って不快な事この上ない。
机の上にあるPCから流れる音楽と合わさって、不協和音。
痛いだけで、声の大きさは然程変化せず。
ぎゅっと、更に強く掌を押し付けるけど⋮⋮鼓膜に圧力が掛かって
ていない。
と耳を手で塞いでいるのに押し付けられた掌の壁は全く効果を成し
声は扉一枚隔てているにも関わらず相当な音量で、さっきからずっ
る。
その甲高い声は小さな女の子の物で、キンキンと耳の中で跳ね回
それと同時に投げかけられる、くぐもった声。
!!
!!
⋮⋮心の中では大声で叫べるのに、現実ではそれが中々出来ないの
!!
20
!!
!
!
?
が情けない。
僕も少しは成長したと思ってたけど、本当のところはこんなもん
だ。
キモオタはキモオタのまま、何にも変わっていやしない。
﹁⋮⋮欝だ﹂
│││聞ーいーてーるーんーでーしょー⋮⋮ こーらーぁ⋮⋮
何度も、何度も、執拗に。
く。
と、そんな事を考えている間にも騒音は途切れることなく続いてい
!?
木製の扉を叩く音が、この四畳半にも満たない小さな部屋の中に響
き渡る。
ばんばん
あーけーろー
ばんばん
ばんばん
あーけー⋮⋮
﹁⋮⋮っああもう
!!
そしてこれまたPCと同じく型遅れ、何世代も前の無駄に巨大な
きで漁る。
僕はその光源に向き直り、机の引き出しを開けて中身を乱雑な手つ
イから発せられる僅かな光のみだ。
光源は机の上に置かれた型遅れのノートPC⋮⋮そのディスプレ
電球照明の無い、真っ暗な室内。
﹂
あーけーなーさーいー
!
!
21
!!
ヘッドフォンを取り出し、両耳に装着。
PCとは繋げられない。
一応音楽再生機能は付いているけど、ヘッドフォンの方が規格に
合っていないんだ。
CDプレーヤーにも繋げられないし、もはやロートル乙としか言い
ようが無い。
⋮⋮しかし耳をすっぽり覆うことが出来るため、耳栓としては中々
に優秀。
本来の使い方ではないけどね。
﹁アーアーキコエナーイ⋮⋮ふひひ﹂
女の子の声と、扉を叩く音が比べ物にならないくらい小さくなる。
完全に消えたわけではないけれど、それでもまぁ何とか無視できる
レベル。
⋮⋮最初からこうすれば良かった。
僕はそのまま、光の方へ│││PCの画面へと目を向けた。
そこに映っていたのは、とあるオンラインゲームのプレイ画面。
⋮⋮残念なことにエンスーではなく、別のゲームだけど。
エンスーの世界は美麗な3Dグラフィックで表現されていたけど、
こ の ゲ ー ム の 世 界 は チ ー プ な 2 D で 表 現 さ れ て い る。⋮⋮ し か も
キャラクターは全て二頭身だ。
PCのスペックの所為もあるんだろうけど、エンスーと比べて動き
も何だかカクカクしていて処理落ちが酷い。
NPCは四種類の言葉しか話さないし、モンスターは行動がワンパ
ターンだし、音楽もエフェクトもショボすぎる。
しかも、スキルの効果が高すぎるものと低すぎるものとの二種類し
かない。
その結果、一部の廃プレイヤー達を除いて同じ職業のキャラクター
が其処彼処を歩いてて、もう飽食状態。
22
│││何というクソゲー。如何にエンスーが優れたMMORPG
だったか分かろうと言う物だ。
だから、疾風迅雷のナイトハルトの名前は使ってはいない。別の捨
てハンを使ってる。
だってこんなダメダメなゲームにナイトハルトを存在させるなん
て、ナイトハルトの名に泥を塗る行為じゃないか。
│││ナイトハルトの名前は、エンスーでこそ。八頭身のパラディ
ンの姿でこそ相応しいんだ。
⋮⋮まぁそれはともかくとして。
こんなにもクソゲー極まりないと言うのに、何故か巷ではこのゲー
ムが数多くあるMMORPG内で一番のシェアを誇っている。
チ認定されてゴミ箱行きだ。
アンチスレもあるにはあるんだけど⋮⋮スレが立った当初はとも
かく、今では本スレの別館扱いに等しくなってる。
前にそれに気づかず否定的な意見を書き込んじゃって、それはもう
盛大に叩かれた。
アンチスレなのにアンチを許さないとか、ホント何なんだよ⋮⋮。
﹁⋮⋮くそ﹂
23
プレイヤー間の評判も良好で、動きが凄い滑らかとか、ゲームバラ
ンスが適度だとか、何処も彼処も賞賛ばっかり。
どこの掲示板に行っても神ゲー認定されていて、儲の数も馬鹿みた
いに多い。
馬鹿なの
?
│││この程度で神ゲーとかさ、お前ら何考えてるの
死ぬの
?
⋮⋮そんな感じの感想をスレに書き込めば、そいつは直ぐさまアン
?
その時の事を思い出して、イラっときた。
ゲーム性にも苛々させられるし、ホント色んな意味でクソゲーだ。
クソゲーオブザイヤーに推薦してやる。
⋮⋮でも、これ以外のゲームはこれよりも出来が酷くて、やる気が
出る出ない以前の問題だ。
それら有象無象のゲームと比べれば、確かにこのゲームは神ゲーに
等しい出来だろうね。
無理な
だけどエンスーに比べればクソだ。異論は認めない、絶対にだ。
﹁⋮⋮な、なら、エンスーをやったら良いじゃないか、って
んだよバカ、ふひひっ﹂
│││だって、エンスーなんて無いんだもん。
自分で自分にそう突っ込んで、自分で意見を否定する。
⋮⋮そのあまりの滑稽さに、気持ち悪い笑い声が口元から漏れ出
た。
⋮⋮アイツまだいんのかよ⋮⋮。もういい加減諦めろよ⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ぎしり、と。
24
?
その笑い声のキモさに再びイラっと来て│││なんかもう、虚しく
なった。
この⋮⋮クー
⋮⋮何、やってるんだろう、僕は⋮⋮。
│││あ⋮⋮ろー⋮⋮
!
うっすらと、僕の耳に届く声。僕はそれをガン無視した。
!
革張りの椅子の背もたれに深くもたれ掛かり、脱力。
その時にヘッドフォンがずれそうになったので、両手で押さえて固
定する。
│││騒音が、完全に消えた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮天井を見上げて、部屋の隅をじっと見つめる。
別に蜘蛛の巣が張っているわけでも、どこぞのホラー映画みたいに
大量の髪の毛が湧き出ているわけでもない。
何の変哲も無い部屋の隅っこ部分だ。
│││視線も、感じない。
25
﹁⋮⋮そらそうだろ、常考﹂
頭を、元に戻す。
脱力した姿勢のままPCを引き寄せ、新しくプラウザを開いてゲー
ムのチャットルームを覗く。
間
⋮⋮プラウザ一つ開くのに一体何百秒かけるつもりなんだよこの
低スペマシン⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
てみる。
先に居た住人からの挨拶を適当に返し、そのまましばらくROMっ
して。
苛々しながら待つこと数分、ようやく開いたチャットルームに入室
!
│││当然、何が起こるわけでもなし。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮、﹂
PCから手を離し、ぶらりと力を抜いた。
両腕がぷらんぷらんと振り子運動を繰り返し⋮⋮直に、止まった。
苛々が、収まらない。
﹁⋮⋮何、を│││﹂
してんだろ、僕。
そんなに詰まんないんなら、やらきゃいいのに。
何が楽しくて、こんな苦行を自分に課してるんだ。
前と同じく引きこもって。一日中つまんないゲームをプレイして。
傍目から見ればイミフな行動とって。そんで苛々して。
﹁⋮⋮ハハッワロス﹂
どこのM豚だよ、僕は。
そう呟いて自嘲する。
⋮⋮理由は、はっきりしてるんだ。
唯それを認めたくないだけで。
│││僕は、将軍を探しているんだ。
大嫌いなあいつを、探してる。
だから、僕は初めて将軍と接触した時と似たような行動を繰り返し
ているんだ。
│││もしかしたら、またいきなり接触してきてくれるかも│││
⋮⋮そんなありえない希望を抱いて。
26
ただ、今の状況を説明して欲しいから。将軍なら、何か知っている
かもしれないから。
無駄だって、ありえないって。分かっているのに探してしまう。
そう、ありえない。ありえない、ありえないんだよ。︻まだ︼、不可
能なんだ。
﹂
│││将軍と接触することなんてまだ出来ないんだって、分かって
いるのに。
﹁│││ふっ
息を吐いて、椅子の上に直立。周囲を見回した。
薄暗い室内、埃の積もった棚にダンボールの山。
ベットがあって、布団があって、達磨ストーブがあって、椅子があっ
て⋮⋮作業用の机の上には、光を放つPC。
│││それが、この部屋にある全て。
僕が集めた美少女フィギュアも、ゲーム機も、エロゲーも、エンスー
専用モニタも高スペックの設置型PCも。
アニメのDVDも、小型の冷蔵庫も、エアコンも、ブラチューのポ
スターも。
床にはコーラのペットボトルやカップ麺のゴミも散乱してないし、
ベットの上にはエロゲの箱なんて一個も無い。
│││星来たんのフィギュアも、何も、存在していない。
⋮⋮ありえない。
ありえないけど、当たり前だ。
⋮⋮そう、当たり前なんだ。
27
!
だって、だって。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮だって、この場所は。
この、世界は││││││
バ カ タ
!
﹂
﹁│ │ │ │ │ │ こ ぉ ん の ⋮⋮ っ
クーーーーーーーーーーーーーーーーッ
﹂
│││バカァンッ
﹁へっ、
突然の轟音。
!!
徐々にその姿を大きくしながら。
衝撃で砕けた細かい木の欠片を振りまき。
まるで回転鋸のように。
その、扉の姿を│││
│││ただ、呆然と見つめていたんだ。
見つめ続ける。
⋮⋮でも僕はそんな人影なんて気にも留めずに、ただただその扉を
て。
木製の扉がくるくると回転して、その裏に小さなシルエットが見え
│││全てがスローモーション。
今まで思考していた事が、全部纏めて吹き飛んだ。
風を切る。
鍵を閉めていたはずの扉が内側に向かって吹き飛び、宙を舞って、
!
それは、一種幻想的な光景で。
28
?
暴虐の化身と化しながら。
│││僕のいる方角に向かって飛んで来る、その光景を。
﹂
⋮⋮なんて厨二的な感想を述べてみたけどこれぶっちゃけ死亡イ
ベントじゃね
﹁│││いひぃぃぃぃゃあぁああああぁええええぁあぁ
我に返った。
思わず情けない悲鳴を上げて僕は咄嗟にしゃがみ込み、今まで立っ
ていた椅子の背もたれ部分の陰に隠れる。
﹂
│││そして、
﹁おぶぅわッ
ちょうど僕が隠れた瞬間、その背もたれの裏側に激突。
衝撃でバランスが崩れて、後ろのPCとその電源コードを巻き込み
ながら転倒した。
│││ブチン
地面に叩きつけられたPCは、嫌な音を立てて⋮⋮そのディスプレ
イから光を消した。
⋮⋮ああ、多分内部データが幾つか破損したかもしれない。
まぁ、セカンドメルトの時の教訓を生かしてバックアップはこまめ
に取っていたから、幾らデータが消えようともそんなに痛くは無いん
だけどね。
というかそれよりもまず転倒した身体の方が痛い。マジ痛い。ひ
じが痛い。泣きたい。
29
!?
?
!?
﹁あぎ⋮⋮っちょ、おまっ⋮⋮何
なん⋮⋮なんなんだよ
﹁い、いき、いきなりなん、なんだ⋮⋮
な事して、ゆ、許される、と、でも、思って⋮⋮
﹂
﹂
﹁わたしが呼んでるのに無視するのが悪いんでしょうが
事くらいしなさいよっ
﹂
せめて返
こんな、ご、強盗、みたい
頑張れ僕。超頑張れ。僕は僕を応援してる。
振り絞って、この凶行を成した人物を睨み付けた。
そしてなけなしの根性│││あるのかどうか知らんけど│││を
物悲しきかな。
僕のスルー検定も堂に入ったもんっすね。慣れてしまった自分が
はそれをスルー。
足元にはもはや木片と化したドアの残骸が転がっているけれど、僕
よろよろと、横倒しになった椅子に手を突いて立ち上がる。
!?
﹂
﹁うる、さいな⋮⋮ べ、別に、僕がき、君に返事を、か、返さなきゃ
僕はその剣幕に一瞬ひるむけど、何とか声を絞り出した。
!
!
!
﹂
⋮⋮あーもー
ホントあなた
型的スイーツ︵笑︶。ケータイ小説百回音読してから出直して来い﹂
﹁て⋮⋮む、お菓子かっこわらい
とお喋りするといーってなるっ
!
その小さな身体から生え出る細い足を踏み鳴らす度に、着ている
たむたむ、と地団駄を踏む襲撃犯。
?
!!
30
?
間髪居れずに返ってくる、勝気なおにゃのこの声。
!
ま た そ う や っ て よ く 分 か ん な い 言 葉 使 っ て ご ま か す
!
!
いけない義理なんて、無い、じゃないか⋮⋮
﹁ぎ ⋮⋮ 何
﹂
?
﹁低脳乙。自分の無知を、た、棚に上げて、人を責めるとか⋮⋮マジ典
!
ローブと一緒に真っ赤なロングヘアがさらさらと揺れる。
五歳にも満たないけど、幼いながらも既に整ってる顔付き。その可
愛らしい顔は、今は怒りによって頬が膨らみ、真っ赤に染まっている。
足を踏み鳴らす駄々っ子のような仕草と合わさって、三次元女子な
がらも萌えを感じさせていた。
まぁ、僕から言わせれば、これは二次元以外ではちっちゃい子供の
みが表現できる萌えだよね。ふひ。
この仕草を三次元の女子高生なんかがやってみなよ。キモいだけ
だから。
⋮⋮あ、こずぴぃは別で。
思わずほっぺたを突っつきたくなるが、実行はしない⋮⋮というか
出来ない。だってやったらきっとフルボッコされる。
違 う
良 い
三次元とかそういうことじゃなくて、この子はマジ切れすると手が
出る子なんだ。
何
?
こんなキモオタで、排他的な性格をしている僕に根気強く付き合っ
てくれる、僕より一つ年上の⋮⋮所謂、幼馴染。といった間柄の女の
子だ。
⋮⋮幼馴染。自分で言ってて違和感が拭えないけど、今は良い。
手には小さな星の飾りの付いた杖のような物を握っており、それで
何時もの通り扉を無理矢理ぶち破ったんだろう。
﹂
│││何せ、ここには︻魔法︼なんて得体の知れないものがあるら
しいから。何が起こっても不思議じゃない。
何そのB級ファンタジー設定。
ま、また今日も、僕に外池とか、言うつもり
31
デ レ の 無 い ツ ン デ レ み た い な も の だ。え
んだよこんな奴には適当で。
?
│││アンナ・ユーリエウナ・コロロウァ。略してアーニャ。
?
?
﹁⋮⋮で、何
?
僕の姉│││違和感│││から頼まれているのか、それとも委員長
的な気質をしているからなのかは分からないけど。
この部屋に引きこもって、学校も無いから本格的ヒキニート生活を
している僕の部屋にたまに襲撃してきては、無理矢理外に遊びに連れ
出そうとするんだ。
⋮⋮正直、ほっといて欲しい。とは思う。
多分、何か一言⋮⋮とてつもなく酷い言葉を浴びせかければ、僕に
関わる事を止めてくれるだろう。
でも、そうしようとする度に│││七海の事が頭に浮かんで、結局
流されてしまうのだ。
⋮⋮まぁ、大抵は今日みたいな口論になるんだけど。関係は険悪で
はない⋮⋮と言っていいと思う。
面と向かっては言わないし態度にも出さない︵出せない︶けど、僕
﹂
﹂
﹂
からだ動かさないとビョーキになるの
ば勇者になれるって言葉、知らないの
﹁知らないわよそんなのっ
?
だから外で遊ばないとダメなんだから
!
!
ずっと引きこもり生活を続けていたためか、容易く彼女に力負けし
てしまう。
背も僕よりアーニャの方が高いし、活発で動き回っている分力も僕
32
としてはまぁ感謝してやってもいいとも思ってる。
﹂
ネカネお姉ちゃんから聞いたけど、タクったらまたずっ
│││僕を、︻タク︼って呼んでくれるから。
﹁そうよ
と引きこもってるそうじゃない
引きこもってるんでしょ
!?
﹁⋮⋮、⋮⋮う⋮⋮ひ、引き篭もる事の何が悪いんだよ。 引きこもれ
﹁うるさい
﹁⋮。⋮⋮べ、別に、君には関係な│││﹂
!
!
!
そう言って、僕の腕を掴んでぐいぐいと引っ張るアーニャ。
!
より強い。
ひじが痛いって
さっきぶっ
ひ弱で痩せっぽちの僕に、抵抗できる術なんて無いのである。
﹁ちょっおまっ⋮⋮ い、痛い
﹂
良いから
て、手ぇ
近所の子たちも集めてあるから、すぐそこの広場
つけたとこぉ⋮⋮っ
﹁い・い・か・ら
いいって
⋮⋮みんな僕を、失望した目で見るから。
!
誰かー
勢いは止まらない。
ひ、人攫いー
何言ってるのよ
﹁は、働きたくないでござる
﹁はぁ
﹂
絶対に働きたくないでござる
﹂
働くんじゃなくて、あーそーびーにー
﹁ニュ、ニュアンスで理解しろよぉぉぉ⋮⋮
?
太く頑丈な木で組み上げられた小屋│││といっても小屋って言
│││僕が居たあの部屋は、長く慣れ親しんだコンテナとは違う。
きずられていったのだった。
僕は床に投げ出されたPCに後ろ髪を引かれつつ、部屋の外へと引
!!
いーくーのー
﹂
足をつっぱってみても、片方の手を家具に引っ掛けてみても、その
進んでいく。
でも、アーニャはそんな僕の心情と必死の嘆願を無視してずんずん
!
!
﹂
﹂
﹁っぎ⋮⋮っい、いい、よ
手ぇ離してよぅ
!
│││外の人たちはDQN以上に嫌いだ。
!
にいくの
!! !
│││悲痛な叫びも虚しく。
!!
!
!
!
33
!
!
!!
!
!!
?
うには大きすぎるけど│││その中にある一番狭い部屋。
四畳半ほどの大きさの、殆ど倉庫みたいな場所だ。
勿論、この場所はビルの屋上なんかじゃない│││というか渋谷で
もないし、そもそも日本でもないんだ。
│││1996年。
エンスーも、ブラチューも、まだ生まれていない年代。
その時代のイギリス、辺鄙な山間にあるド田舎な村。
⋮⋮しかも︻魔法︼なんてファンタジーが普及している訳の分から
ない場所に│││僕は居た。
僕の名前は西條拓巳。
とある一人の死に損ないの妄想から生まれた、ただのキモオタの高
校二年生だ。
⋮⋮いや、高校二年生⋮⋮︻だった︼
今の僕は、まだ三歳のガキだ。ちょっと女顔したイケメンの卵。
︻高校二年生の西條拓巳︼の︻設定︼では無く││ネギ・スプリング
フィールドなんていう妙ちきりんなDQNネームの西洋人として暮
らしている。
なんかね、もうね、どうしてこうなった。
だから││将軍が、接触してきてくれるはずが無い。
土地がどうしたとか、人種がどうしただとか、そういう事の前に。
だって今はまだ1990年代で、2000年代にも入っていないん
だ。
もし将軍が居たとしても、彼はまだ小学生にもなっていないはずだ
から。
彼はまだ、将軍にすらなってないんだ。
│││ほんと、どうしてこうなった。
34
僕の身に、何が起こってるん
アーニャにずるずると引きずられつつ、諦観の思いと共に踊りだし
たくなった。
⋮⋮僕は今、一体どこにいるんだ
だよ⋮⋮
誰か⋮⋮誰か教えてよ⋮⋮
﹁さ、まずは鬼ごっこよ
喉の奥から捻り出すような、僕の呟き。
﹂
﹂
﹁│││マジで、ほんとに、どうして、こうなった⋮⋮
もちろんあなたが鬼でね
│││僕は、僕は今、どうなってるんだよぅ⋮⋮
?
⋮⋮消滅はしなかった筈だけど、やっぱり誰にも届かなかった。
35
!
!
!!
!
!
?
第2章 幼馴染
│││物心付いた時には、僕は既に︻西條拓巳︼だった。
あまりに自然すぎて、違和感なんて無くって。
特別な事なんて何も無く、本当にふと気づいた瞬間に︻西條拓巳︼は
︻ネギ・スプリングフィールド︼として、其処に居た。
ネギという身体に僕が憑依したという訳でも、転生したって訳でも
ない。
そんなネット小説みたいな経験はした事なんて無いけれど、心の深
い部分⋮⋮それこそ魂と言って良いかもしれない場所が│││魂
何をバカな│││そう言っている。
⋮⋮まるで浮かび上がるように、当然の事みたいに、僕は最初から
ネギとして存在していたんだ。って。
ノアⅡを破壊した瞬間の事も覚えてるし、爆発に巻き込まれたこと
も覚えてる。
僕の記憶に欠けは無く、でもネギが赤ん坊だった頃の記憶も︻西條
拓巳︼の記憶としておぼろげながら覚えてる。
⋮⋮上手く説明できないけれど、つまり僕は、最初から僕だったん
だ。
それこそ、そういう︻設定︼で突然其処に現れたように。
僕が︻西條拓巳︼の記憶を過去として︻設定︼されて居たように。
僕は、
︻ネギ・スプリングフィールド︼として、当然のように此処に
居て。
│││そしてまた、自分に一体何が起こったのか。という疑問や不
安も、当然のように抱いていた。
本当に訳が分からなかった。
どうして僕が⋮⋮死んで消滅したはずの自分が、突然何の脈絡も無
くこんな環境に居るのか。
36
?
どう考えてもおかしい。どう考えても異常な事態だ。
それなのに、どこかで僕はその事を﹁当然だ﹂とも思っていて。
逆にそれを認められない自分が居た。
イギリスで生まれたのだから、イギリスに居て当然。
西條拓巳は日本人のはずだから、それはおかしい
時代が1990年代で当然。
僕は2000年代を生きていたはずなんだ、それはおかしい。
両親が居ないのが当然。
実際に会った事は無いけど︻西條拓巳︼には両親が居た、だからそ
れはおかしい
イギリス人なんだから、イギリス語が喋れて当然。
違う、英語はそこそこ喋れたけれど、イギリスで使われてる癖のあ
る物なんてよく分からなかったし、喋れなかった。
姉が居るのが当然。
│││違う 魔法なんて知らない
在していたなんて僕は知らなかった
そんなファンタジーが存
!!
精霊
魔力
気
属性
?
契
?
範疇だろう
魔道具
それに比べて魔法とか、何
約
│││どこのゲームの話だよ
?
けど、脳科学や心理学とかで大体の説明が出来る分、まだ現実的な
とか、もはや超能力とかそんな感じの分野だったよ。
確かにギガロマニアックスの力も、ディソードとか、リアルブート
!!
?
な事象がそう簡単に存在してたまるか
それが許されるのは二次
!
37
⋮⋮違う、僕に居るのは妹だけだ。
そんなの居ない⋮⋮
幼馴染が居るのが当然。
⋮⋮違う⋮⋮
!
│││魔法なんてものが存在しているのも、当然
!
!
?
?
?
ここはリアルだ、三次元だ、むしろ惨事なんだぞ。そんなメルヘン
!!
?
元とか、エンスーの中だけだろ
│││そんなの、妄想だけにしとけよ⋮⋮っ
︻僕︼と︻ネギ︼がズレている。
どうしてこんな状況になってるんだよ⋮⋮っ
きたくなったんだ。
│││何で
理不尽。
│││その全てが、怖くて怖くて仕方ない。
してくる。
村の皆が、しきりに︻魔法︼の良さを語り、僕にそれを教えようと
スタンって爺さんが、僕の︻父親︼のやんちゃ話を聞かせてくれる。
ネカネっていう︻従姉︼が、僕のことを気に掛けてくれる。
なのに、ご覧の有様だ。
ただ好きな人を助けて、消え去りたかっただけなんだ。
きたいとも思ってた訳じゃない。
別に賞賛を受けて英雄になりたいとか思っていた訳でも、天国に行
でも無く│││こんな、頭のおかしくなりそうな状況。
それでその後待っていたのは、賞賛でも死後の世界でも無に還る事
界を救って。
僕が、西條拓巳が必死になって梨深を助けて。拷問を受けてまで世
!
ポルナレフの真似をする精神的余裕なんて欠片も無く、ただただ泣
て、泣きそうになった。
常識と常識、二つの設定がぶつかり合って⋮⋮気が狂いそうになっ
!
!?
みんなは当然みたいに僕の周りに集まってくるけど、僕にとってそ
れは当然じゃないんだ。
38
?
彼らと接すれば接するほどに︻僕︼と︻ネギ︼のズレは大きくなっ
ていく。
その感覚はまるで、僕が﹁エスパー少年﹂として晒し上げを食らっ
た時みたいだった。
あの時と違う事は、僕に押し付けられた物が﹁狼少年﹂若しくは﹁英
雄﹂か、﹁ネギ﹂かの違いだけ。
どれだけ否定しても。どれだけ説得しても。どれだけ僕は西條拓
巳だって言い張っても。
周りの人間はそれを笑って一蹴して、僕をネギとして見るのを止め
それとも、妄想
ない。止めてくれない。
これは現実
だって、もしも僕がまだ将軍と繋がっていたらどうなる
ブートした方がいいとも思ったけど、それは出来なかった。
⋮⋮ギガロマニアックスの力を使って、パソコンでも何でもリアル
ネカネを言いくるめてネット環境を手に入れて。
村に来る商人から廃棄処理される寸前のノートPCを手に入れて、
うに引き篭った。
そうして精神が擦り切れそうになった僕は、極力誰にも合わないよ
│││どっちだって嫌だ、こんな環境⋮⋮
?
とすらも封印した。魔法ってやつも忌避した。
だから、妄想も、リアルブートも、断腸の思いで星来たんと話すこ
えるとゾッとする。
⋮⋮でも、その﹁もし﹂を考えると⋮⋮﹁もし﹂が起きたら、と考
い。考えすぎなのかもしれない。
この時代にはまだ将軍は居ないし、僕の身体は︻西條拓巳︼じゃな
いか。
│││もしそうなったとしたら、僕は梨深に顔向けできないじゃな
もしれない。
僕が妄想をしたら、その影響でまた将軍の寿命が縮まってしまうか
?
39
!
?
魔力だか精霊だか知らないけど⋮⋮妄想によって起こる事象と魔
法によって起こる事象が、僕にはそれほど違いが無いように感じたか
ら。
食事と排泄、入浴の時以外はネット世界に入り浸る生活。
例え誰に心配されようとも、誰から説教をかまされようとも僕は部
屋から最低限しか出ないようにした。
ネカネが魔法学校とか何とか言う宗教学校みたいなとこに通って
いて、たまの休みにしか顔を合わさない事も運が良かった。
スタンからは説教され、ネカネは心配して、村の住人からは失望さ
れ白い目で見られる事になったけど、そんなの知った事じゃない。
ひたすらにネットの海を回遊し│││ひたすら将軍を探し続けた。
僕が今どうなっているのか。どんな状況に置かれているのか。
⋮⋮将軍は、その全てに答えてくれそうだったから。
見つけられる可能性は限りなく低い、と理解していた。
無駄なことをしてる、とも理解していた。でも、諦めたらそこで壊
れそうだったんだ。
⋮⋮だから、僕は部屋に篭り続けた。篭り続けて将軍を探して、
│││いや、将軍だけじゃなかった。
探して、
│││梨深を。
探して、
│││七海を。
探して、
│││三住くんを。
探して、
│││あやせも。
探して、
│││こずぴぃも。
探して、
│││気は進まなかったけど、セナと優愛も。
探して、
40
│││判刑事も、高科先生も、百瀬も。
探して、
│││この際、諏訪でも葉月でも野呂瀬だって。
探して、
││││││︻西條拓巳︼を知っている人に会いたくて。感情のベ
クトルはさておき、僕を見てくれていた人に会いたくて。
探して、探し続けていたんだ。
@ちゃんはまだ無かった時代だったから、幾つもの小さな掲示板を
梯子して、入り浸って、日本のページを探し回って、目に付くチャッ
トを片っ端から覗いていったり。
だけど彼らの情報なんて、何も、何一つ見つからなかった。
希テクノロジーの情報も、天成神光会の情報も、シンコーの情報も、
フリージアの情報も│││挙句の果てには三百人委員会の噂や、あや
せが居た精神病院の痕跡すらも存在しなかった。
⋮⋮もう、頭がどうにかなりそうだった。
そして、その末に僕の神経はますます衰弱していって⋮⋮怖かった
けど、自殺する事も視野に入れ始めて│││
││││││そんな時だった。
アーニャが引き篭もったまま出て来ない僕に業を煮やして、扉を無
理矢理ぶち割って進入して来たのは。
彼女の第一声は、直接的な罵倒だった。
何を言っていたのかは、正直詳しくは覚えていない。
⋮⋮ていうか、今考えてみれば罵倒じゃなかったかもしれない。
馬鹿とは言われた気もするけど、でも心配かけるな、悩みがあった
ら言え、とか心配してくれた様な言葉も聞いた気がする。
でも僕はその時結構参ってた状態│││具体的に言うなら、妄想
だった七海が粒子化して消えちゃった時レベル│││だったから、そ
41
れが分からなかったんだろう。
ともかく、その時の僕はアーニャからの言葉を酷い罵倒だと思っ
て。
しかもその姿に七海の姿を幻視してしまい、更に頭に血が上って、
訳が分からなくなって│││それはもう醜い口論になったんだ。
精神年齢17歳の僕と、3、4歳だったアーニャ。
⋮⋮どちらが優勢だったか、なんて。
そんなの言わなくても分かるでしょ。
マジプギャーでザマ見ろビッチwww首吊って
詳細は省くけど、その口論の内容はまさに僕の完封勝利という言葉
が相応しかった。
メシウマ状態
市ねよヴォケwww⋮⋮もう誇張無しでこんな感じだった。大人気
無いにも程がある。
そしてアーニャはもう完全にボロボロになって大泣きしながら、言
論を封じられた末の帰結。
すなわち、暴力に走った。
│││それからの事は、もう本当に何も覚えていない
気づいたら僕は全身余すところ無くフルボッコにされて床に倒れ
ていて。仁王立ちで僕を見下ろすアーニャがぎゃんぎゃんと怒鳴り
散らしていた場面だった。
⋮⋮頭の出来では僕が勝っていたけど、身体の出来ではアーニャが
勝っていたらしい。
つまり論戦では僕が圧倒的だったが、喧嘩ではアーニャが圧倒的
だった訳だ。顔に出来た引っかき傷が凄い痛かった事を覚えてる。
そして、どうやら僕は殴り合いの最中色々な事をぶちまけていたら
しい。
僕の名前とか、記憶の齟齬とか、この理不尽な状況に対する文句と
か、梨深に逢いたいって言う叫びとか、色々な事を。
⋮⋮多分、アーニャはその殆どの事を理解できなかった筈だ。
42
!
だから、その時の彼女が僕の事を泣きながら睨みつけていたのは、
ただ単に意味が分からない事に対しての腹立たしさからだったのだ
ろう。
│││だから、彼女の言葉はそのまんまの意味での﹁子供の戯言﹂
だったんだ。
﹄
﹃そんなにネギが嫌なら、望み通り︻タクミ︼って呼んであげるわよっ
│││
中身も無ければ、深くも無いし、意味も無い。
勢いに任せただけの、考えなしの買い言葉だ。
この台詞を言った時の状況が、夕焼けを見ながらとか頬を赤く染め
てとかだったら、まだ心に響いたんだろうさ。
でも現実は眉を吊り上げて鼻水と涙でベトベトの顔で、倒れた僕の
身体を893キックでマッハふみふみしながらという状況だ。
そんな情緒もへったくれも無い状況でかけられたスッカスカの言
葉で心が救われるほど、僕は単純じゃない。
もしこれで救われていたら、僕は今頃将軍なんて探していないし
ね。
│││でも、ちょっとだけ、楽にはなっちゃったのは確かで。
タクミって呼ばれた瞬間、僕が僕として│││西條拓巳として、認
められたような錯覚を受けたんだ。
100ぐらいあった精神的負荷が、60くらいの負荷に目減りした
だけだけど。
むやみやたらに知ってる人を探すのは止めたものの、将軍はまだ未
練たらたらで探し回ってるけど。
居もしない︻幼馴染︼や︻姉︼の事なんて、受け入れられる訳なん
かないけど。
43
!!
│││まぁ、妥協くらいはしてやっても良いよ、うん。
⋮⋮僕は、心の中でそう嘯いて││││││気が付けば、僕は彼女
に向かって﹁ありがとう﹂と言っていた。
顔はぼこぼこに腫れていて酷い有様だったから、くぐもっていて聞
こえないだろうなと思ってた。
⋮⋮でも、その直後に見たアーニャのぽかんとした顔を見た限り、
聞こえていたんだろうなぁ。
これは僕の黒歴史であると同時に│││非常に不本意ながら、僕に
とって大切な日となったのだ。
この日があったからこそ、僕は⋮⋮ほんのちょこっとだけだけど、
意識を︻僕︼に固定する事が出来たのだから。
まぁ、その直後に騒ぎを聞きつけ飛んで来たスタンから、僕らは物
凄い拳骨と説教を食らった訳だけど。
│││そうして、この日を境にアーニャが僕の部屋に度々突撃して
くるようになって。
│││僕は、この︻設定︼に付き合ってやる程度の余裕を取り戻す
ことが出来た。
⋮⋮出来て、しまったんだ。
******************
冬。
アーニャに無理矢理引きずり出された僕は、二週間ぶりに村の住宅
街にやってきた。
雪こそ降っていないから氷点下までには達していないけれど、それ
でも山間部にある場所の為か結構な寒さだ。
44
その所為かどうかは知らないけど村の中は閑散としており、外を出
歩いている人はそう多くない。
真 っ 黒 な イ ン ナ ー と 厚 手 の ズ ボ ン。そ の 上 か ら 申 し 訳 程 度 に 羽
織 っ た フ ー ド 付 き の ロ ー ブ 一 枚 と い う 着 の 身 着 の ま ま の 状 態 で は、
ちょっと辛いものがある。
⋮⋮くそ、何で僕がこんな目に⋮⋮。
カチカチ、と寒さから歯を鳴らしつつ心中でそう愚痴る。
声に出したい所ではあるけど、歯の根が合わないため上手く喋れな
さそうだったから止めておいた。
まぁ、言ったら言ったでアーニャからの説教が待っているに決まっ
てるからね。わざわざ面倒事を起こす必要は無いんだ。
⋮⋮というか、僕が外に出る事自体が既に面倒事な訳だけど。
何故かって
│││だって僕は、この村じゃ嫌われ者だから。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹂
そんな事を思っていると、ちっちゃい右手て僕の左手を掴んだまま
早歩きで歩くアーニャが、ちらりと僕の様子を伺ってきた。
タクも急ぎなさいよ
そうして、寒さに震える僕を一瞥した後。
﹁⋮⋮さ、まちあわせまで時間がないわ
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
!
意げに話していた事を思い出した。
前、何時もみたいに僕の部屋へと突撃してきた彼女が、その事を得
た物だったはずだ。
入った厚手のコート⋮⋮この刺繍は確か、アーニャの母親がしてくれ
ぱさり、と僕の頭の上に掛かる真っ赤な刺繍でアーニャの名前の
投げつけてきた。
そっと、一度手を離し、自分の羽織っていたコートを僕に向かって
!
45
?
﹁⋮⋮あ、の。これ⋮⋮﹂
﹁あげないわよ。それ貸してあげるから、速くしてよね
﹂
コートをくれたのは有難いんだけど、左
けど、しっかり聞こえていたようだ。
⋮⋮アーニャに聞こえるかどうか分からない程小さい声量だった
だから口を噤んで、お礼だけに留めて置いた。
うな気がする。
色々と言いたい事はあったけど、それを言ったらまた口論になりそ
﹁⋮⋮、⋮⋮あ、り。がとぅ⋮⋮﹂
て着られる、と言う事に改めて自分の状況を認識させられ気が沈む。
まるで人形用みたいに小さい服が、それも女の子用のを余裕を持っ
⋮⋮これってどう見ても幼児用、なんだよなぁ⋮⋮。
ど⋮⋮。
別に悔しいとか、そういった感情は沸かなかった。沸かなかったけ
に表していた。
コートは僕の身体をすっぽりと覆い、アーニャと僕の体格差を如実
とりあえず、肩に羽織ってから前の部分を胸の前で留める。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
手掴まれてるからコートが着られない⋮⋮。
⋮⋮いや、嫌がらせか
らのお越しをお待ちしておりま⋮⋮
の趣味じゃないんだ。惨事のおまいらには次元を一つ差っぴいてか
はいはいツンデレツンデレ。でも残念ながら三次元の皆様方は僕
ンツンと素っ気無い返事だけ。
戸惑いながら前方のアーニャに話しかけるけど、返ってきたのはツ
!
先程よりも幾分薄着になった彼女は小さく鼻を鳴らして、振り向く
46
?
ことなく歩くスピードをまた一段階引き上げた。
引き上げたとは言っても子供のコンパスじゃ歩くスピードなんて
たかが知れてるけど、今は僕も同じ子供の体型だから、僕も結構影響
を受ける。
いきなり上がったスピードに、僕は足をつんのめらせて転びかけ
た。
﹂
⋮⋮もうちょっと、ゆっくり⋮⋮
﹂
明らかに照れ隠しです、本当にありがとうございました。
﹁っちょ
﹁は・や・く・い・く・の
僕の意見は却下され。
足を運んでいく。
それはまるで嫌な物を見た、といった雰囲気で。ずんずんと大股に
向け、心なしか歩くスピードを速めて去っていく。
ちょっとだけ振り返ってみてみるけれど、既にその青年は僕に背を
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
と飛んでいってしまった。
コートの暖かさと共に感じていた、それとは別の温もりが何処かへ
今さっき擦れ違った村人の冷たい呟きが、僕の耳に入り。
︵⋮⋮っ、⋮⋮︶
│││⋮⋮英雄の、息子の癖に⋮⋮
⋮⋮なのに、何となく。僕の胸の内側があったかくなって│││
!
⋮⋮僕は、コートを胸の前で握り締めて、俯いた。
│││まったく、何をしてるんだか⋮⋮
47
!!
!
│││ナギさんに申し訳ないと思わないのか
│││これじゃあ折角の才能も腐っていくだけだな⋮⋮
⋮⋮それからも、アーニャによって引っ張られながら村の街道を進
む僕を、すれ違う人たちが失望した様な目を向けてくる。
中には微笑ましい物を見るような目の人もいるけど、前者の視線の
方が僅かに多かった。
︵⋮⋮僕を、見るな︶
⋮⋮これはあれだ、エスパー少年と蔑まれていた時の事を思い出す
ね。
彼らの視線が非常に鬱陶しくて、居心地が悪いよ。
僕の前をのしのし歩くアーニャもその視線に居心地悪さを感じて
48
いるのか、さっきからそわそわと落ち着きが無い。
│││どうして皆が僕をそんな目で見るのか⋮⋮理由は分かって
いるんだ。
今から十数年前にあったらしい、魔法世界│││なんてのがあるら
しいよ、よく知らんけど│││で起こった世界大戦。
僕の︻父親︼は、その対戦で活躍した︻英雄︼だったらしい。
⋮⋮馬鹿らしいにも程がある。
何だよ︻英雄︼って、何だよ魔法世界︵笑︶って、何だよ世界大戦
︵笑︶って。何その厨二設定。
その話を聞いたとき、思わず僕はそんな事を呟いたよ。
彼はアル⋮⋮何とかという組織に所属していて、何人かの仲間と何
と言いたくなる
か凄いことをやったらしい。僕はその事について良く知らないけど。
二つ名とか功績とか逸話とか、それなんてチート
いるそうな。
で、この村にはそんな父親に心から憧れてる儲達が数多く集まって
だ。
様な有様で、そのあまりの厨二加減にまともに聞いてられなかったん
?
おそらく彼らは、僕を︻英雄の息子︼として相応しい魔法使いを目
指す事を期待していたんだろう。
実際、一部のヤバそうな奴らはマギ⋮⋮何たらになれってしつこく
迫ってきてたし。
だけど、それがどうだ。
蓋を開けてみれば、肝心の︻英雄の息子︼はキモオタの引き篭もり。
しかも魔法に関しては、触れる事も学ぶ事も避けていると来たもん
だ。
彼らにとっては期待はずれもいいとこだったのだろう。
僕としてはザマァって感じだけどな。ふひひひ。
⋮⋮とにかく、僕は彼らにとって期待外れのダメ息子とでも認識さ
れているんだろう。
もしかしたら、彼らの目の前で彼らにとっての︻英雄︼の事を貶す
ような呟きをしたのも悪かったのかもしれない。
49
僕の事をそんな目で見ないのは、ネカネとスタンとアーニャ。アー
ニャの両親と、僕の事を孫みたいに可愛がってくれている村のご老人
達くらいなものだ。
他の比較的若い村人達は、その殆どが僕の事をゴミでも見るような
目で見てくる。
あと、どうやら僕には魔法学校で校長を務めてる祖父が居るらしい
けど、会った事が無いからどう思ってるのかどうかはシラネ。
魔法学校の校長って時点で地雷臭しかしないし。赤ちゃんくらい
の頃には抱き上げられた事もあるんだろうけど、それは記憶に残って
無いし。
まぁ簡単に言えば、僕は村人の一部からは爪弾き物として認識され
ているって事。
﹂
﹁⋮⋮だから出たくないって言ったのに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮う∼⋮⋮
流石のアーニャたんも今まですれ違ってきた人の視線に晒されて
!
怯んでいるのか、歩く速度はそのままだけど良く見れば眉が微妙に八
の字型に垂れ下がっている。
幾ら僕のお姉さんぶっていても、まだ5歳にも満たない小さな女の
子だ。自身には直接関係が無いとは言え、人から向けられる悪意に耐
性が無いんだろう。
⋮⋮やっぱり、僕は外が嫌いだ。
ふらふらと足を動かしつつ、そっとため息を吐いた。
そして隈のできた眼球をアーニャに向けて口を開く。
﹁や、やっぱり僕、か、帰る、よ。⋮⋮僕が居たら、きっとみんなも、
﹂
楽しめない、だろうし⋮⋮嫌な気分に、なる﹂
﹁タク⋮⋮
アーニャは責めるような声音で僕を睨むけど、否定の言葉は出な
かった。
村の大人からの反応がこんなだから、当然その大人の背を見て育つ
子供も同じような感じな訳で。
何人かは気さくに話しかけてくる子もいるけれど、村にいる大多数
のガキどもはあからさまに僕の事を見下してくるんだ。
今 回 ア ー ニ ャ が 集 め た っ て い う 子 達 は 前 者 が 多 い ん だ ろ う け ど、
アーニャの反応からして後者の奴らも混じってるんだろう。
僕を馬鹿にしない子たちも、もしかしたら帰った後にモンペから何
か言われるかも分からないし。
そもそも僕は身体を動かす事が苦手なんだ。何をして遊ぶにして
も、どうせみんなに気を遣わせたり不快にさせたりしてしまうに違い
ない。
アーニャの気持ちには感謝してあげない事も無いけれど⋮⋮でも、
それだけで周囲に不幸が訪れる事
彼女がやろうとしている事は双方に何の利益も齎す事はないんだ。
│││つまり、僕が外に出る
!
50
!
になるんだよ
Ω ΩΩ︿な、なんだってー
⋮⋮下らない事を呟いて、言葉を続ける。
いいからあなたは黙って
﹁⋮⋮も、もう良い。っ君に引っ張られて⋮⋮ここまで、で、出てきた
ああもうっ
!
こと、で。少しは運動に、なったし﹂
﹂
﹁⋮⋮なる訳ないでしょ
付いてくればいいの
!
は、はやっ
馬鹿速い
速いっ
!
⋮⋮そして、僕と関わる事を止めるように言う人も少なくない様
いが、それでも彼女を可愛がる人は少なくない。
ネカネと同じく学校に通っている所為で月に数度しか帰って来な
供達のまとめ役みたいな存在だ。
性格は素直で、容姿も端麗。リーダーシップもあるし、同年代の子
アーニャは村の人気者だ。
うな。と思った。
⋮⋮ふと、そんな僕の暴言を聞いたら更に村人から嫌われるんだろ
言葉が飛び出てしまう。
何度もバランスを崩しかけて転びそうになって、思わず口から汚い
!
あ、アーニャ⋮⋮
﹂
!! !
周囲からの不快な視線を振り切る様に、歩くスピードを速めた。
│││そうして、僕の手を更に強く引っつかんで。
でも、アーニャは僕の言葉に益々意地固になってしまったようだ。
!!
だ。アーニャはそれを無視してるっぽいけどさ。
だからみんな、
51
!
!
きけ、聞けよクソッ
﹁っちょ
てば
!
僕はつんのめる様にして彼女に続く。
!?
うっせばーか消えろ市ね。
﹄
﹃そんな可愛いアーニャが、わざわざお前みたいなキモオタを気遣っ
てくれているというのに⋮⋮その態度は一体何なんだ
被害妄想乙
とか思うに違いないね、きっと。
は
!
ると言わざるを得ないね。
?
平気でするでしょ
だってそうだろう
今上げたことの他に、子供って汚いこととか
とにかく、僕はそんなガキには触れられたくないと思ってる。
⋮⋮今日のお前が言うなスレは何処だって
知らんがな。
可愛さ、素直さ、性格の良さ⋮⋮全てにおいて二次元の方が勝って
人の所為にするし、何よりその目が気に食わない。
それにぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー煩いし、自分の非を認めないで他
臭くて気持ち悪い。
虹の幼女はレモンの良い匂いがするらしいのに、惨事の幼女は牛乳
⋮⋮三次元の子供は嫌いだ。
りと僕のそれを掴んだまま離さなかった。
僕の方は大して力を込めていないにも関わらず、彼女の手はしっか
ぷにぷにと柔らかく体温の高い、子供特有の感触。
手に意識を向けた。
│││僕はそんな嫌な考えから気を逸らし、アーニャと繋いでいる
?
?
かもしれないじゃないか。
一度くらいは見たことあるだろ
てる奴。
?
⋮⋮嫌なんだ、というのに。
とにかく、それくらい嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌いなんだ。
感で吐くかもね。僕。
だから子供は嫌なんだ。もしそんなのに触れられでもしたら、嫌悪
ありえない、ありえないよ。
鼻くそとかコオロギとか食べ
だからもしかしたら鼻くそをほじって、そのままの手だったりする
?
52
?
﹂
﹁│││ほら、ちゃっちゃと走りなさいよ
るじゃない
ちゃんと、行くから、まっでよぅ⋮⋮
﹂
時間に間に合わなくな
﹁⋮⋮はひ、は、はひっ、ま、って。待って、いい、い、いくよ、っちゃぁ、
た。
⋮⋮なんだか、梨深の姿が脳裏に浮かんで。手酷い敗北感が去来し
むしろ何か、安らいでるような感じがして。
感じていなくて。
│││アーニャに触れられている僕は、そんな嫌悪感なんて微塵も
!
よぅ
│││分かったよ、付き合う。君の気が済むまで付き合ってやる
僕はアーニャに連れられて、村の中を走り抜ける。
ぜい、ぜいと自身の息が切れる音を聞きながら。
!!
僕はそんなことを思いつつ、ふら付く足を無理矢理動かし続ける。
│││ぎゅっと、大切なものが飛ばされないよう、右手に力を込め
た。
⋮⋮結果。
鬼ごっこは鬼のHPが始まる前から0だったので、一人も捕まえら
ずに終わった。という事だけ言っておくよ。あー、情けない。
53
!!
⋮⋮半ばヤケクソの境地。
!!
第3章 距離
ネカネ・スプリングフィールド。
両親のいない僕の面倒を見てくれて、また気にも掛けてくれる年上
のお姉さん。
柔らかな雰囲気を備えつつも、涼やかに整った容姿。その流れる金
髪はまるで糸のような繊細さで、多分櫛を通しても引っかかるところ
なんてきっと一つも無い。
体型は所謂スレンダー型なんだけど、それに反して胸のサイズはそ
れなりに大き目で、背も高過ぎず低過ぎずの絶妙な按配だ。
︻僕︼やアーニャとは、一回りは行かなかったと思うけど、結構歳は離
れていて⋮⋮多分アーニャと同じ学校に通っているんだと思う。
アーニャから良くネカネの成績の優秀さとか、ネカネに告白する奴
らの玉砕話とか聞かされているから、おそらくそうだ。
のような物を持ってるんだ。
優しくて美しくて頭も良くて性格もいいお姉さま
メンタル
しかし豆腐
!
合わせている︻理想の姉︼
しかし豆腐メンタル
!!
│││だがそれがいい。そのギャップ。まさしく萌え、だ。
!
54
つまり、ネカネは成績優秀にて眉目秀麗というエリートで、その上
性格もいいというリア充な人であり、僕の描いていた︻理想の姉︼を
そのまま体現したかのような女性なんだ。
⋮⋮まぁ、年齢の事を除けばだけど。
彼女はまだ中学生くらいだからね、今がこれなら将来には乞うご期
待だ。いやそのままでも好物ですけどねふひひひ。
強いて難点をあげるとすれば、精神面が若干脆い所だろうか
してしまう、癖
彼女は何かショッキングな出来事があると直ぐに軽い貧血を起こ
?
まぁ、僕にしてみればそれも美点であるのだけれどもね。ふひひw
?
立ち振る舞いに一点の隙も無いけど、それと同時に柔らかさも持ち
!!
そしてファミリーネームからも分かると思うけど、血筋上彼女は
︻僕︼の︻従姉︼と言うことになるらしい。
⋮⋮まぁ、本当に血が繋がっているかどうかは怪しいところだけ
ど。
だって︻スプリングフィールド︼なんて付いてはいるけど、僕の︻父
親︼に兄弟が居たなんて聞いたことはないし、僕自身も会ったことは
無い。
疑問に思ってスタンや村のご老人達に聞いても誰も何も教えてく
れないし、何よりその全員がはぐらかす様な態度をとることも気に掛
かる。
もしかしたら父親ではなく母親関係で何かあるのか、とも思ったけ
れど⋮⋮やっぱり誰も教えてくれない。
むしろネカネの事以上に母親の事に対してはうろたえるので、ここ
らへんに何かはあるっぽいんだけど。
⋮⋮いや、これ以上詳しくは聞かないけどね。
だって、何かもう厄介ごとのフラグ臭しかしないじゃないか。
もしかしたら愛人とか腹違いとか、そんな感じのドロドロした話か
もしれないしね、藪を突付いて蛇を出すような事はしたくないんだ。
唯でさえ自分のことで一杯一杯なんだから。
⋮⋮で、そのネカネの事だけど│││僕自身はあんまり好きじゃな
かったりする。
いや、確かに美少女で優しくて、しかも萌えポイント完備の理想の
姉ではある事は認めてやらんでもないさ。
こんな僕でも優しく、それこそ本当の弟のように│││彼女にとっ
ては事実そうなのだろうが│││接してもくれている。
あの毒舌だった星来たんに聞いても、おそらく4割くらいは賞賛の
言葉がうっかり混じってしまうに違いないほど良い子だよ。
│││でも僕はネカネの弟じゃない。
55
いや、正確には︻ネギ・スプリングフィールド︼としての記憶はあ
るけど、その前に僕は︻西條拓巳︼なんだ。
︻西條拓巳︼には妹はいるけど│││姉は、いないんだ。
⋮⋮それなのに、いきなり︻姉︼なんて言われても困るしかないじゃ
ないか。
今はアーニャのおかげ│││暫定、あくまで暫定な│││で大分マ
シになったけど、始めの頃はネカネに恐怖すら感じてた。
僕の記憶にはあるけど僕の記憶には無い、僕の知らない家族。
美少女で、スタイルも良くて、性格も良くて、面倒見も良いい完璧
な姉。
⋮⋮何度も言うけど、まるで僕の妄想の権化みたいな、彼女。
56
幾らお前は誰だって喚いても、お前なんか知らないって叫んでも、
本人も周りの人も、周囲の奴ら全員が彼女のことを僕の姉だって言う
んだ。
│││これは、相当な恐怖だよ。
誰とも知らない赤の他人が何時の間にか自分のテリトリーに入っ
ていて、尚且つ僕の家族面して馴れ馴れしく接して来るんだ。
そいつが何か善からぬ事でも企んでいるんじゃないかって、疑った
り警戒したりするのは人間の本能として当然の事でしょ
何度も言うようだけど、僕は︻西條拓巳︼なんだから。
たんだ。
るよ。でも、そんなの気持ち悪くて到底信じる気になんてなれなかっ
確かに僕の中にはネギとしての│││彼女の弟としての記憶はあ
の無い奴らだったりしたら、尚更だ。
⋮⋮しかも、それを言ってた奴らも│││周りの奴らも全員見覚え
?
⋮⋮⋮⋮つか良く考えてみるとこれ、配置を変えればまんま梨深の
時と一緒だよね⋮⋮
⋮⋮まぁ、とにかく。
?
おかげでアーニャとのXデーが来るまで何時豹変して裏切られる
のか、何時襲い掛かってくるか、何時五段活用問い詰めされるのかと
戦々恐々とした日々を過ごしてたよ。
僕の二年足らずの人生経験から言って、こういう得体の知れない姉
キャラは迂闊に信じると痛い目に会うからね。
優愛とかセナとか葉月とか、あと優愛とか優愛とか優愛とか優愛と
か。彼女はもしかしたら妹キャラだったかもしれないけど。閑話休
題。
酷い時には、彼女に話しかけられる度嘔吐していた時もあった。
⋮⋮流石に、そこまで酷かったのはちょっと前までの話だけどね。
今では、まだ怖くはあるけど過剰な警戒は解いてる。
│││だって、少し余裕を持って見てみたら⋮⋮彼女が︻ネギ︼に
危害を加えようとするはずが無いって、直ぐに分かったから。
⋮⋮とにかく、最初にそんな苦手意識を持っちゃった所為なのか、
気が付けば僕はネカネのことが苦手になってたんだ。
苦手ってだけで、嫌いという事ではないんだけど⋮⋮それでもあん
まり、進んで関わりたいとは思えない。
﹁会話できないほどではないけれど、相対すると怖くなって身構えて
しまう程の苦手意識﹂⋮⋮それが、僕の︻姉︼に対する距離感だった。
⋮⋮アーニャには仲直りしろとせっつかれているんだけれど、正直
どうしたらいいのか分からない。
月に7・8日くらいしか帰ってこないけれど、その間は一緒に住む
事になるんだ。仲良くしろっていう彼女の意見は分からないでもな
いよ。僕もちょっとはそう思ってるしね。
僕の感情はどうあれ︵一応︶身内だって事になってるし、
︵気味悪い
けど︶彼女と家族だった記憶もうっすらある。
⋮⋮だけど、物凄く怖いんだ。
優しいとは思うんだけど、怖い。
良い人なんだろうけど、怖い。
57
僕を気に掛けてくれることが、堪らなく怖いんだ。
わかりません﹀︿
⋮⋮それなのに、環境上仲良くしないといけないって言う二律背
反。
│││ほんと、どうしたら良いんでしょう
*****************************
*
イギリス、ウェールズの山間にある小さい村。
スタン達が住むその場所は、山間にある小さな村でありながら交易
も盛んで生活にはあまり苦労をすることは無い、山間とは思えないほ
どに過ごしやすい場所だ。
水道や電気、下水と言った生活に必要不可欠なライフラインの他、
望めばネット環境も手に入れることが出来、ラジオの電波もしっかり
と入るため情報も簡単に得られる。
流石に宅配サービスを受けることは難しいが、村には定期的にやっ
てくる商人に頼めば大抵の物資は手に入れることが出来るため、困る
事はまず無いと言っていい。
│││村の存在する場所と文明のレベルが合っていないが、それは
この村が︻魔法使いの隠れ里︼という場所である故なのだろう。
強いて難点を挙げるとするならば、山間部にあるため気温が低くな
りがちという事か。
特に冬などは雪が積もりやすく、それに応じて気温も氷点下にまで
下がることがあるのだ。
そのため雪が降る冬の真っ只中にある今現在、いつも活気の絶えな
かった村の中には人通りは少なく、人影は中央にある広場で何人かの
子供達が遊んでいる程度。
上空から降り落ちてくる白と合わさり、閑散とした雰囲気を放って
いた。
58
?
│││そんな村の、外れにて。
住宅街から少し外れた場所に立っている、普通の住宅よりも大きな
木組みの家。
その居間に設置されている暖炉の前に置かれた椅子に、一人の少女
が腰掛けていた。
大き目のテーブルに肘を突き、暖炉の中でゆらゆらと揺らめく炎を
じっと見つめるその姿は、まるで絵画のような雰囲気を感じさせてい
て。
⋮パチパチ、と。木切れが熱に炙られ爆ぜる音が部屋の中に響く。
﹁⋮⋮どうしたものかしら⋮⋮﹂
鈴を鳴らしたような美声は、暖炉の炎の中に消え。
窓の外にしんしんと降り積もる雪を眺め、少女が小さくため息をつ
く。
件の少女│││ネカネは、物憂げに伏せられた瞼の上の長いまつげ
を揺らし、金色の粒子を辺りへと振り撒いた。
│││ネカネ・スプリングフィールドには、ある悩みがある。
それは年の離れた弟の事⋮⋮ネギ・スプリングフィールドの事につ
いてだ。
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ﹂
ネカネは窓の外に目をやり、降り積もる雪を見つめる。
⋮⋮どっさりと積もったそれが、まるで自分の悩みのように思えて
更に憂鬱な気分になり、またもや自然にため息が漏れ出た。
ネカネにとってネギとは年のはなれた従弟であるが、実の弟のよう
59
に可愛がっている。
その可愛がり方といったら、それこそまさに目の中に入れても痛く
ないとでも言った風情。
ネギが自分に残された、数少ない肉親だと言う事もそれに拍車をか
けているのだろう。
│││小さな体躯。
│││くりくりとした大きな瞳。
│││ふとした時に行う仕草。
⋮⋮その全てが、愛しくて愛しくてたまらないのだ。
出来る事なら何時もネギの傍に付いていて、常に助けてあげたいと
まで思っている。
だが彼女は普段は村から離れた魔法学校に通っており、ここへ戻っ
てくる事も月に1・2回程度。合計にして10日未満程しかその機会
を得る事が出来ない。今現在だって、明後日には学校のある町へと戻
らなくてはならないのだ。
そのため、自分以外に身寄りのない弟はその間を必然的に一人で暮
らす事となり、彼女は弟がちゃんと暮らせているのかどうかを常に気
に掛けているのである。
一応スタンや村の人々には様子を見てくれるよう頼んであるが、そ
れも常に張り付いている訳ではない。
自分の居ないうちに何か不測の事態でも起こっていないか、寂し
がって泣いていないか。
そんな事を考えると居ても立っても居られず、最悪貧血を起こして
しまうほどなのだ。
⋮⋮攻撃魔法はともかく、医療魔法関係においては学校随一の成績
を誇る彼女であったが、流石に心労から来る貧血には対応出来ない様
だった。
ともかく、それ程に彼女は大きな愛を弟に注いでおり、同時に常に
弟の事についての悩みを抱えているのである。
│││まぁ、今彼女が悩んでいるのはそれとは別種の事であるのだ
60
が。
﹁⋮⋮ネギ⋮⋮﹂
⋮⋮一言、弟の名を呟いて。
彼女はそっと、居間から続く廊下の先にある物置の扉を⋮アーニャ
が壊してしまったため、今は入り口に立て掛けてあるだけのそれを見
る。
﹂
﹁はい通報ー﹂等と言った呟き声│││
薄いベニヤ板で応急措置を施したその扉の中から、カタカタとキー
ボードを叩く音。
そして、
﹁くそっ﹂
﹁市ね
英語ではないため、何を言っているのかは分からないが│││がうっ
すらと漏れ出てきている。
その声は年端も行かない子供の声で、呟きの内容⋮⋮日本語が分か
るものが聞けば、それとのギャップに酷く驚く事だろう。
│││彼女が愛する、弟の声だ。
四畳半にも満たない、人が暮らすには少々手狭な物置の部屋。
本来ならば不用品や使用頻度の低い道具を入れるべきであるその
部屋は、件の弟が日々を過ごす鉄壁の居城として使用されている。
⋮⋮まるで、自分自身が不用品だ。とでも言うかのように。
﹁⋮⋮⋮⋮よしっ﹂
⋮⋮ふと、ネカネは今までの物憂げな姿勢を解き、椅子を引いて立
ち上がった。
白い修道服のようなローブをはためかせつつ、その扉へと近づいて
﹂
いき⋮⋮数秒ほど躊躇した素振りを見せた後、ノックを二回。
⋮⋮そして、
﹁│││ねぇ、ちょっと⋮⋮良い
?
61
!
恐る恐る、問いかけた。
│││っ
すると部屋の内部でガタンと大きな物音が聞こえて⋮⋮ネカネは
緊張した面持ちで、応答を待つ。
それはまるで、想い人に告白をした乙女のようで│││ある意味間
違ってはいないが│││遠目からでも緊張している事がありありと
分かる事だろう。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮
そうして30秒程の時間が流れ、そろそろ緊張もピークに達しよう
何か用
﹂
かといった所│││扉の向こう側から、声が響く。
﹁⋮⋮⋮⋮な、何
?
もし良かったら、お姉ちゃんと一緒にお茶
に出すことなく続ける。
⋮⋮彼女はそんな弟の昔とは離れた姿に密かに心を痛めたが、表情
ネカネが愛する愛弟の、ネギ・スプリングフィールドの姿だ。
縁取る濃い隈がここ最近の特徴となってしまった少年。
父親譲りの赤毛をボサボサに散らかし、僅か齢三つにして目の下に
する光源を背景に、一人の少年が首だけこちらを向けている姿。
見えてきたのは、真っ暗な室内の中、パソコンのディスプレイが発
け、回す。
⋮⋮ネカネは、扉が倒れないようにゆっくりとドアノブに手をか
余所余所しく素っ気無い印象を感じさせた。
部屋の扉を開けることなく投げかけられたその掠れた声は、どこか
先程までの呟きとは違う、少々ぎこちないイギリス英語。
?
﹁え、えーっと、あのね
?
62
!
でも飲まないかしら
﹂
自分でもちゃんと笑顔が作れているか不安だったが、今できる精一
杯の笑顔をその整った顔に浮かべる。
⋮⋮しかし、対するネギはそんなネカネとは決して目を合わせよう
とはせず、眼球が小刻みに痙攣。視線は部屋の中を不規則に揺らめい
ていた。
ネカネは気の所為と思いたかったが│││その瞳には、何故か﹁怯
え﹂の感情が湛えられているように見えた。
﹁⋮⋮え、遠慮、する⋮⋮﹂
ネギはそんな│││彼女の勇気が込められた言葉を、にべも無く一
蹴。
ネカネの知る彼は、紅茶と聞けば飛んでくるほどの紅茶好きだった
はずだが、今はそうでもないようだ。
⋮⋮いや、ただ単に部屋の外から出たくないか、彼女と長く顔をあ
わせたくないだけなのだろうが。
﹂
一瞬、泣きそうな表情を浮かべたネカネだったが、それは直ぐにま
た笑顔に変わり。続ける。
﹁⋮⋮あ、じゃあ⋮⋮お散歩なんてどうかしら
三蹴。
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あ、あのさ。良いから、別に⋮⋮僕にき、気とか、使わなくても
﹁そ、そう⋮⋮えと、それなら﹂
二蹴。
﹁い、いや⋮⋮いいから、それも。⋮⋮雪、降ってるみたい、だし⋮⋮﹂
?
63
?
その声色は、やはり何かに怯えているかのようで。どもり、擦れた
声はとても健常なものとは言えなくて。
﹁⋮⋮ネギ⋮⋮でも、私は│││﹂
だから彼女は、せめて自分はただ単に気を使っている訳ではなく、
何度も、いい、言ってるけど。僕はネ⋮⋮ギ、
ネギを心配している事だけでも伝えようとして│││
﹁っ、ち、違う⋮⋮
なんかじゃない。に、西條拓巳⋮⋮だから﹂
強い拒絶。
突然語気を荒らげたネギに話を続ける前に拒否されて、名前を呼ぶ
事に関しても拒否されてしまう。
もしこれがアーニャだったならば、何時も通りに怒りを顕にして部
屋の中に殴りこんでいくのだろう
もしこれがスタンだったならば、何時も通りに呆れた溜息をつき部
屋の前で説教を垂れるのだろう。
もしこれが村の老人達だったならば、笑って軽く流すのだろう。
もしこれが村の青年達だったならば│││これは、あまり考えたく
ない。
│││しかし、ネカネは弟のそんなつっけんどんな態度に怒るでも
なく、嘆くでもなく│││ただ、悲しくなった。
⋮⋮一体、何が彼をここまで変えてしまったのだろう
原因は、一体何処にあるのだろう⋮⋮
?
うか
以前の、明るくて元気だったはずのネギに、一体何があったのだろ
?
お姉ちゃん居間に居るから、何か
それには、あまりにも差がありすぎる。
﹁そ、そう⋮⋮ならネ⋮⋮タクミ
?
64
!
昔のネギと、自分の名前すらをも嫌悪する今のネギ。
?
して欲しい事があったら言ってね
﹂
そうして、震えそうになる声を押し殺し優しくネギに声をかける│
││が。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮返事は帰って来る事無く。彼はくるりと背を向けて、机の引き
出しから大型のヘッドフォンを取り出し、すっぽりと耳を覆ってし
まった。
それを見たネカネは目を瞑り、ゆっくりと扉を閉めた。
そうしてそのまま暫く部屋の前に立っていたが、それ以上扉の向こ
うからは何の反応も返ってこない。
⋮⋮ネカネはそっと濡れた目尻を拭い、扉の前を後にした。
そして、廊下の行き止まり。居間へと続く扉に手をかけて│││
﹁⋮⋮ご、め⋮⋮⋮。⋮⋮⋮⋮﹂
│││ふと、そんな声が後ろから聞こえてきた気がしたが。
それが本当に聞こえた言葉だったのか、それとも自分の都合のいい
妄想だったのか⋮⋮。
ネカネには、判別する事は出来なかった。
ネカネ・スプリングフィールドには、ある悩みがある。
それは、どうしたら自分の愛する弟が前のような明るさを取り戻し
てくれるのか、と言う事だ。
彼女が案じる弟は、以前はあのような排他的な性格ではなかったは
ずなのだ。
65
?
腕白で、明るくて、元気で⋮⋮。
父親の英雄譚に心を躍らせ、魔法に強い憧れを抱く、魔法使いとし
てはごく一般的な子供に過ぎなかったはず。
⋮⋮だが、今では先程のような暗い性格となってしまっている。
しかも外に出る事を極度に嫌がるようになり、物置の中を自分の世
界と定めたように自分からは決してそこから出ようとしてくれなく
なってしまったのだ。
│││何故
ネカネには、その原因にまったく見当が付かなかった。
彼がああなってしまう前に、予兆は何一つ無く。
本当にふと気が付いたら昔のネギは今のネギとなっていたのであ
る。
一体何が起こったのか、何があったのか。自分もアーニャもスタン
﹂
も、この村に住む者の誰一人としてその理由を知るものは居なかっ
た。
﹁⋮⋮どうしたら、いいの⋮⋮
自分と一緒にこの村に帰って来た時しかあの部屋から連れ出す事
ているが、それも月に1・2回。
彼女の可愛い妹分のアーニャはあの部屋から連れ出す事に成功し
しは見ることが出来ない。
も一緒の部屋で暮らすよう提案しているのだが⋮⋮一向に改善の兆
そのため彼女は何度もそれを注意して、せめて自分が居る間だけで
く健康に悪いと言う事は分かる。
ネカネにはパソコン機器の事は良く分からないが、それでも何とな
ネット漬けの日々を送っているようだ。
スタンや村のお年寄りからの話では、弟は毎日を寝ても覚めても
再び、暖炉の前の椅子に座り直したネカネは溜息と共に呟く。
?
が出来ないため、それ以外は殆ど物置に引き篭もったままなのだと言
う。
66
?
食事や入浴と言った、生活に必要な行為を行う時には自主的に外出
を行うそうだが⋮⋮果たしてそれを外出に含めていいものなのだろ
うか
いくら精神が大人びているとは言え、まだネギは三歳なのだ。こん
な不健康な生活を続けていれば、身体に何か影響が出てしまうかもし
れない⋮⋮。
無理矢理ネット環境を取り上げてしまう事も考えたが、それは逆効
果でしかないだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ネカネは、ネギがパソコンをねだって来る前の、あの今にも死にそ
うな顔を思い出す。
目の焦点は常に合っておらず、理由を聞いても話す言葉は要領を得
ず。自分が話し掛ける毎に嘔吐を繰り返す、異常な様子。
まるで全てが禍々しく歪んでいる世界に一人放り込まれたかのよ
うな、絶望に満ちた表情。
精神を安定させる魔法も、精神科医の言葉も通じず。家の中に引き
篭もり、今にも狂いだしそうだった彼の様子。
それが、パソコンを与えた事により幾分か和らいだのだ。
それでも暫くは余裕の無い状態が続いていたようだが⋮⋮最近の
アーニャとの掛け合いを見る限り、今は違うようだ。
勿論それはパソコンだけではなく、アーニャのおかげでもあるだろ
う。しかし、ネギにとってパソコンが一種の精神安定剤になっている
可能性も捨てきれない。
もしそれを引き剥がしたとして、さらにネギを追い詰めてしまう羽
目になってしまったら│││本当に酷い事になりかねない。
それに、村中での評判についても問題がある。
村の中でも特に接点の深いスタンからネギの事について色々と聞
いているが⋮⋮それを初めて聞いた時は、思わず持病の貧血により倒
れそうになってしまった。
67
?
何故ならスタンからの話によると、今現在ネギは村の若い衆⋮⋮ネ
ギの父、
︻英雄としてのナギ・スプリングフィールド︼に憧れる村人達
から落ちこぼれの扱いを受けていると言う話ではないか。
流石に表立ってのいじめ等は無い様だが、それでも三歳児にはあま
りに辛すぎる状態だ。
考えれば考えるほど、まるで間欠泉のように問題が次から次へと沸
いてくる。
﹁│││ああっ。﹂
ふらり、と。
椅子に座っている状態にも関わらず、貧血によりバランスを崩して
椅子の手すりにもたれ掛かった。
⋮⋮一体、どうしてこの様な状況になってしまったのだろうか
ないから
いわ。コミュニケーションに食事は大切だって言うし、今度ネギの好
物を作って⋮⋮
│││⋮⋮いえ、待って。そもそもネギの好物って何だったかしら
⋮⋮
⋮⋮ネギの好物さえも知らない自分の至らない点ばかりが次々と
浮かんでは消え⋮⋮て、行かずに積みあがり、自分が情けなくなって
くる。
68
ネカネはこめかみに指を押し当て、呼吸を整えながら考える。
│││やはり、幼いネギを一人きりにするのがいけなかったの
│││それとも、両親の事について教えないままだった事
?
?
│││もしかして、アーニャみたいにネギの事を︻タク︼って呼ば
?
│││そう言えば、手料理の一つもなかなか作って上げられていな
?
﹁⋮⋮うう⋮⋮﹂
?
再びネカネの目じりに涙が浮かび、小さい嗚咽が漏れ落ちる。
そうして、ネカネは考える。
何時からだろう
自分とネギとの距離がこんなに開いてしまったのは⋮⋮。
少なくとも、少し前までは何の問題も無かったはずだ。
ネギも今とは違って、素直で明るい性格をしていたはず。
とことこと、ネカネが歩く後をカルガモのように付いて回っていた
はずだし、寝る時も自分に抱きついてきて一緒に眠っていたはずだ。
村人たちとも仲が良かったはずだし、アーニャ以外の子供達とも良
く遊んでいたはず。
そして、父親の英雄譚を聞くのが大好きだったはずで、それを興味
﹂
深々で耳を傾けてきたはずで│││
﹁⋮⋮⋮⋮
│││はず
記憶を正確に断定できていないのだろう
自分ははっきりと覚えているのだ。
末尾は付かないと言うのに。
その出来事をはっきりと覚えているのならば、
﹁はず﹂なんて曖昧な
?
昔のネギは、今と違って明るくて、素直で、父親に憧れを持って│
﹂
│││││持って⋮⋮
﹁⋮⋮あ、れ⋮⋮
?
│││そうして、自らの記憶を確かめる。
そして自分の指で眉間を押さえ、目を瞑って集中。
ネカネの口から疑問の声が漏れる。
?
69
?
⋮⋮何故、自分は先程から思い浮かべている、ネギと過ごした昔の
ふと、気づく。
?
?
ネギと過ごした﹁はず﹂の、まだ彼があのような性格ではなかった
時の出来事を。
ネギが浮かべていた﹁はず﹂の、あの明るい笑顔を。
ネギと村の子供達が追いかけっこをして、それを村人達と一緒に見
ていた﹁はず﹂だった、楽しかった思い出を。
﹂
それらの記憶を思い出そうとして、集中して、集中して、集中して、
集中│││
﹁│││何で⋮⋮
思い出せない。
あれ程深く浸っていた、楽しかった頃の⋮⋮美しかった記憶がはっ
きりと確定しない。
│││昔って、何時の事⋮⋮
それとも三年前⋮⋮いや、まさか
二年前
一年前
まうような感覚を受けるのだ。
﹁いえ⋮⋮待って﹂
│││そもそも、ネギは、本当に明るい性格だったっけ⋮⋮
│││そう、私の後をにこにこ笑顔で付いて回って⋮⋮いた、の
いえ、違くて、一緒に歩いた事なんて⋮⋮。
│││仲の良かった村の人や子供って、誰だったかしら
?
?
いや、むしろ思い出そうとするたびに、その記憶が遠くに行ってし
はっきりとしない。
思い出そうとするけれど、あたまに靄が掛かったかのように記憶が
赤ん坊の時という訳では無いだろう。
半年前
?
?
に何をしたのか⋮⋮と言った事がどうしても思い出せない。
そういう出来事があった、という記憶は存在しているのに、その時
?
70
?
?
?
⋮⋮例えて言うなら文字と絵。ネカネの脳裏には、そんな事があっ
たという﹁記述﹂はあっても、その﹁情景﹂が浮かんでこないのだ。
﹁⋮⋮あ、う⋮⋮ぐ﹂
必死になって記憶を穿り返し、その時の映像を思い出そうとするが
何一つ思い出せず。
⋮⋮それどころか思い出そうとする度に頭痛がして、しかも思考を
続ける毎にそれが酷くなってくる。
│││頭が、割れそうに痛む。
﹁う⋮⋮﹂
痛みに耐え切れず、思考を散らす。
71
ズキズキと痛の増してくる頭を抑え、たまらず頭を抑える腕に力を
入れて、ゆっくり息を吐いた。
自分はただ、昔の事を思い出そうとしているだけなのに、何故こん
なにも酷い痛みを伴っているのだろう
﹁⋮⋮疲れてるのかしら﹂
何も無いだろう。被害妄想も甚だしい。
スタンや他の村人達も自分と同じ事を覚えているのに、記憶操作も
んな訳はないか。
もしかしたら、誰かに記憶操作の魔法を受けていたり│││と、そ
いるとか。
それとも、今が辛すぎて昔の事を思い出そうとするのを脳が避けて
のだろうか。
ネギとの事を思い出せ無いなんて⋮⋮悩みすぎて知恵熱でも出た
徐々に痛みの治まっていく頭を振って、そんな事を思う。
?
﹁⋮⋮ダメね﹂
どうやら自分は本格的に疲れているようだ。
ネカネはそう結論付け、とりあえず頭痛薬の一つでも飲んで置こう
と重くなった頭を抱えて立ち上がり、薬箱のある棚へ向かって振り
返って│││
﹁⋮ぁ﹂
│││廊下の影から、ネギが複雑な表情を浮かべてネカネの様子を
伺っていた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
72
思わず体が凝固した。
そうして暫く何とも言えない雰囲気が周りを包みこみ、無言の時が
流れる。
ネギの様子はやはり先程と同じで、ネカネとは視線を合わせないよ
う伏せられて。
居間には入ってこないまま、廊下とを繋ぐ柱の影に隠れていた。
彼女の視線を避けるように、時折その小さな身体をぴくぴくと痙攣
させ、柱の影に微妙に出たり入ったりを繰り返す。
それはまるで小動物がする仕草のようで⋮⋮ネカネは上手く働か
ない頭の中で、場違いにも﹁可愛いなぁ﹂という感想を抱く。
︶﹂
思わず抱きしめたくなって、無意識の内に足を動かそうとして││
│
﹁⋮⋮︵⋮⋮はっ
はた、と思考力を取り戻す。
!
そうだ、昔はともかく今はそんな事をしてはいけない。
ネギは自分に怯えているようなのに、そんな事をしてはますます怖
がられるだけではないか。
ちょっとした自虐を交えつつ、彼女は冷静さを取り戻し│││そし
お姉ちゃんに何か⋮⋮﹂
て、やっとの思いで口を開いた。
﹁あ⋮⋮どうしたの
﹁い、いや⋮⋮なんか、トイレ行って⋮⋮したら、変な声、聞こえたか
ら。気になって⋮⋮そ、そん、だけ⋮⋮﹂
﹁変な声﹂の部分でネカネを震える指で指し示し、若干答えにくそうに
ネギはそう言って。さらに身を縮こまらせた。
彼の言う変な声とはおそらく、頭痛に苛まれていた時のうめき声の
事だろうが⋮⋮そんなに変な声を上げていただろうか
を合わせたら│││
﹁⋮⋮もしかして、心配⋮⋮してくれたの
﹁⋮⋮っ⋮⋮、⋮⋮﹂
﹂
その事と⋮⋮自分を指差した事。そして、
﹁気になって﹂という発言
つまり通りがかったわけではなく、自分の意思で来たわけで。
ネギがトイレに言った後にこの部屋に来たと言うのならば、それは
ネギの部屋を挟んで反対側の位置にある。
この部屋とトイレの位置は、廊下をの進んだ突き当り。つまりは、
だが、それと同時に気づいた。
⋮⋮弟に妙な声を聞かれてしまった事に対し、少し赤面。
たのかもしれない。
自分では抑えていたつもりだったが、完全には堪えられていなかっ
?
き出しただけだが⋮⋮それでも、その行動が答えを如実に表してい
脱兎、とは言っても走り出したわけではなく、顔を伏せ早歩きで歩
ネカネがそう言った瞬間、ネギは脱兎の如く逃げ出した。
?
73
?
た。
│││ネギが、私のことを心配してくれた⋮⋮
何時も自分のことを怯えた瞳で見ていたあの子が
ここ最近、まともに会話を交わしてくれなかったあの子が
⋮⋮私の、ことを⋮⋮
⋮⋮﹂
﹁ま、待って
﹁
!!
﹁え、っと⋮⋮良かったら、一緒にお茶⋮⋮どう
﹂
頭の中がぐるぐると回転し、無意識のうちに口が開いて│││
一言さえもが浮かばなくて。
⋮⋮しかし、やはり何も言葉が浮かんでこなくて、
﹁ありがとう﹂の
⋮⋮そんな思いに駆られ、口をパクパクと開閉させる。
何か言葉を掛けなければいけない。何かを言わなくてはならない
咄嗟に声をかけたは良いが、何を言ったらいいのか分からない。
﹁⋮⋮⋮あ⋮⋮⋮う⋮⋮﹂
⋮⋮沈黙。
まま、歩みを止めた。
ネギはその声量に肩を跳ねさせたが│││こちらを振り向かない
この場から立ち去ろうとする彼の背に、気づけば声をかけていた。
﹂
白に染まって│││
ネカネは思わず頭痛の事も忘れてしまう程に舞い上がり、頭が真っ
が嬉しくて。
その事が嬉しくて、あのネギが自分のことを気に掛けてくれたこと
?
?
?
?
?
74
!
咄嗟に口をついたのはそんな言葉。
我に返って、ネカネは激しく後悔した。
ちょっと前に言った台詞も覚えていないお馬鹿さんは
│││それはさっき断られたじゃない
誰
私よ
﹂
﹂
もう、明らかに無理をしている事が伺えたが│││驚きと喜びで頭
食いしばった口元は小刻みに震えていて。
青白く不健康な肌の色をしたその部分はさらに青く染まっていて、
│││彼の視線は定まらず、腰も引けていた。
思わず彼女は変な叫び声を上げてしまった。
そう思っていたけれど、返ってきたのはそんな言葉で。
﹁そ、そうよね。なら││││││っぇ
やっぱぁ⋮⋮⋮⋮⋮⋮っも、らうぅ⋮⋮
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぐ⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぎ⋮ぃ⋮⋮⋮⋮⋮⋮っ、や、
そうして投げかれられたのは、やはり拒否の言葉であり│││
り、口を開いた。
そう悲嘆にくれるネカネの視線の先で、ぎこちなくネギが振り返
これでは、再び断られて、部屋に篭られてお終いだ。
⋮⋮
│││せっかく、ネギとまともに会話できるチャンスだったのに
⋮⋮これは、もう、ダメだ。ネカネはがっくりと項垂れる。
か今度は言葉すら出せない状態。
に弁解の言葉を投げかけようとするが⋮⋮先程よりも焦っている為
そして目に見えるほどにうろたえて、俯いたまま顔を上げない背中
!?
!
!? !!
今すぐに用意するからっ﹂
が真っ白になっているネカネには、それが分からなかった。
﹁ちょっと、ちょっと待ってて
!
75
!! !?
そして今まで考えていた事も、頭痛も。それら全てが脳裏から吹き
飛んだように、慌ててキッチンへと走っていく。
その際椅子に足を引っ掛け大きな音が響き、それに驚いたネギが身
を竦めたがそれに気づかずに早足で。
カチャカチャと食器が擦れる音を響かせつつ、慌しくお茶の用意を
それも一緒にいただきましょう
﹂
実はこの前商人のおじさんから美味しいって評判
始めたのだった。
﹁そ、そうそう
のお菓子を貰ったのよ
そうして、ネカネは弾む声音でそう言って。
棚から取り出した薬缶に水を入れ、火に掛けた。
容│││もしかしたら妥協かもしれないが│││してくれた。
以前は周りのものを皆拒絶していたネギが、身内との触れ合いを受
だ。
だが、これはネカネにとってこれ以上無い吉兆とも感じられたの
たったそれだけの事なのに、こんなにも浮かれてしまう。
に歩み寄ってきてくれた。
あれほど頑なだったネギが、あれ程自分に怯えていたネギが、自分
ネカネはそれに気づかない。
⋮⋮まぁ、明らかに無理をしている様子ではあるのだが、浮かれた
に完全に嫌われているわけではない、と思っていいのだろう。
ネギが自分と一緒にお茶をしてくれる⋮⋮少なくとも自分はネギ
カネは思う。
│││ひたひたと、こちらに向かってく裸足の音を聞きながら、ネ
!
ならば、このままの調子で接していけば、元の明るかった﹁はず﹂の
76
?
!
ネギに⋮⋮とは行かないまでも、それに近い彼に戻ってくれるのでは
ないか
?
その事を考えると、今まで沈んでいた気持ちが急速浮上。
﹂
ようやく光明を見つけた気がして、これから頑張るぞと言う気持ち
になってきたのだ。
﹁♪∼⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮くそ、素数だ。⋮⋮そ、素数を。素数をぉ⋮⋮
そして、ネギが居間の机に座った気配を感じつつ、ネカネは上機嫌
に鼻歌を歌う。
まな板の上に置かれたケーキ風のお菓子に包丁を入れて│││ふ
と、思う。
│││どうせなら、アーニャも呼びたいところだけれど⋮⋮
⋮⋮ちら、と。
背後に視線をやり、椅子に座ったまま落ち着き無く貧乏ゆすりをし
ているネギを見て。
│││今日くらいは、二人きりでもいいわよね。
こっそり舌を出して、心の中で妹分に手を合わせて。
ネギにとって⋮⋮拓巳にとっては、無常とも言える結論を下したの
だった。
│││この時には、もう既に。
頭痛と同時に抱えた違和感の事など、頭の中から綺麗さっぱり消え
ていた││││││
77
!!
第4章 茨の睡蓮
│││月曜日。
それは週における始まりの一日で、多くの人間にとっても始まりの
一日だ。
休みが終わって仕事や学校に行かなくちゃならない、憂鬱な曜日。
ゲームで言えば、章の始め。タイトル画面からスタートボタンを押
して直ぐ。
本当は日曜日が一週間における第一日らしいんだけど、僕はそんな
印象は持っていない。
というか、殆どの人は日曜日って週末だと認識してると思う。
日曜日は土曜に続いて休日だからね、何となくセットで週末ってイ
メージがあるから。
イギリスではどうなのか分らないけど、少なくとも僕はそう思って
78
生活してる。
だって引き篭もって学校にも保育園にも行ってないし、仕事も無い
からそんな常識なんて必要ないからね。ふひひ。
ともかく月曜日とは始まりの日であり│││⋮⋮そして、僕はそん
な月曜に毎週絶対に欠かさず行っていたことがあった。
│││自己確認・自己肯定の作業だ。
簡単に言うと︻西條拓巳︼を自分に再確認させる儀式のようなもの。
⋮⋮やってることは、PCのテキストに書き出された自分の置かれ
た状況を唯眺めてるだけなんだけどさ。
でもこれをやらないと、僕は不安で不安で堪らなくなっていたん
だ。
⋮⋮何でかって
惑し、恐れ、憤り、発狂しかけて壊れかけた。
僕がこの環境に置かれた当初は、その基地外じみた自分の状態に困
⋮⋮くそ。
かったから。
だって、そうしないと僕は︻ネギ︼を受け入れてしまうかもしれな
?
食べ物も碌に喉を通らず胃は常に空っぽのまま。ストレスによっ
て胃液が過剰分泌され、お腹はいっつもキリキリ痛んで、それが更に
ストレスを増大させるという悪循環。
もう︻ネギ︼って呼ばれる度に嘔吐感がこみ上げて来て、胃液だけ
の吐瀉物を撒き散らしたのだって一度や二度じゃない。
⋮⋮でも、それでも皆は僕のことを︻ネギ︼って呼んで。僕を︻ネ
ギ︼にしようとして。
昔はそんな状態だったため、当然僕は︻ネギ︼に強い嫌悪感を抱い
ていて。
そして絶対に受け入れることは無い筈だったんだ。
勿論今だってその感情は変わらない。
前ほど酷くはないけれど、やっぱり自身を︻ネギ︼と呼ばれると少
なくない嫌悪感と共に吐き気も押し寄せる。
僕があまり外に出たがらないのだって、対人恐怖症の他、アーニャ
以外の⋮⋮他のDQN達が︻ネギ︼と呼ぶのを聞きたくないからだ。
ネカネやスタン、他の老人達やその家族といった比較的僕に友好的
な奴らは一回言えば│││話す度毎回だけど│││ネギって呼ぶの
は止めてくれる。
でも、若い奴ら⋮⋮理想に燃えている様な頭の固い奴らはそうじゃ
ない。
僕の心情や感情なんか知ったことじゃない、と言った風情で僕に
︻ネギ︼を強要して来るんだ。
幾ら僕がネギと呼ぶなって言っても、DQNどもは﹃ナギさんから
貰った名前を否定するのは良くない﹄とかうざい事言って聞きやしな
い。
その度にネカネやスタンが取り成してくれて一応は引き下がって
はくれるんだけど、絶対に呼び名を改めようとしないんだ。⋮⋮ほん
と何なんだあのDQNども、終いにはアジフライ投げつけんぞ。
⋮⋮とにかく、その時から多少落ち着いたとはいえ、僕は︻ネギ︼が
大嫌いなのには変わり無い。
変わりは無いんだ。
79
変わりは無い⋮⋮無いんだけど││││││だけど、今は少し余裕
が出てきてしまった訳で。
言わずもかな、アーニャの所為な訳なんだけどね。
勿論、僕が︻ネギ︼と呼ばれることを受容したって訳じゃない。
そんな事したくもないし、する気も今後一切ありえない。
⋮⋮でも、ほんのちょっと。
僕は、この︻設定︼に│││︻ネギ︼に付き合ってやってもいい、と
思ってしまっている事も確かで。
│││それに気づいた時、僕はまたもや恐怖した。
このまま絆されて行ってしまったら、僕は︻ネギ︼を受け入れてし
まうかもしれない。
一年や五年でそうなる事はまず無いだろうけど、十年や二十年先の
事は分からない。
感じている嫌悪感も無くなっていくかもしれない。違和感を感じ
なくなっていくかもしれない。
そうして最後には│││︻西條拓巳︼と︻ネギ︼の配分が入れ替わっ
て、僕は完全にネギになってしまうかもしれない。
⋮⋮十年も二十年もこのままなんて考えたくは無いけど、何をどう
すれば︻西條拓巳︼に戻れるのかすら分らないんだ。
僕は、もう元の場所│││梨深達が居たあの場所へ帰れないかもし
れない。
でも、それでも︻西條拓巳︼であった事は⋮⋮ある事だけは捨てた
くなかったんだ。
│││だから僕は、自分に言い聞かせる意味を込めて︻僕︼の記憶
を記録として書き出した。
毎週定期的に自分の置かれた状況を確認して、僕が︻西條拓巳︼だっ
て事を確認する。
自分の記憶とこの状況との相違点を粗方書き出して、今が異常であ
る事を確認する。
僕が今までやってきた事を思い出して、僕は僕だと確認する。
80
︻ネギ︼と呼ばれる事に対する嫌悪感を思い出して、周りの雰囲気に流
されないようにする。
⋮⋮意味の無い行動かもしれないけど、将軍を探す事と同じ。
それでも、やらずには居られないんだ。
│││⋮⋮いや、やらずには︻居られなかった︼、が正しいね。
最近、僕はそれを行う事が億劫になってきてるから。
⋮⋮理由は、僕のディソードにある。
僕が︻ネギ︼になった後、初めてディソードを見つけてから。
ふと見上げた空に浮かんでいた、何の変哲も無い雲だった筈のそれ
を見つけた時⋮⋮僕の頭の片隅に、ほんの一片の疑惑が生まれてし
まって。
⋮⋮それから、
︻西條拓巳︼の記録を見る事に苛々するようになった
んだ。
苛々して、ムカついて、足元が揺らぐ錯覚。
そこに書かれた僕は、本当に︻僕︼なのか。
まだ100%僕はそれを︻西條拓巳︼と断言できてはいるけど、先
の事に関しては自信がなくなってしまったんだ。
│││僕が︻僕︼だって思う事に、何か良く分からない感情のざわ
めきが伴うようになったから。
⋮⋮だから、僕はアーニャに︻タク︼って呼ばれるたびにひっそり
と安堵していたりするんだ。本人には絶対に言わないけど。
│││それと、ディソードの件は僕がリアルブートを忌避している
理由の一つにも加えられた。
ここ最近に出来た後付の理由。山の如く積まれた問題点の一番上、
81
最新の出来事。
元々ギガロマニアックスに関する力は使うつもりは無かったけれ
ど、これで絶対に使いたくなくなったんだ。
僕はディソードを通さなくてもリアルブートが使えちゃうみたい
だから、意味の無い想いかもしれない。
でも、使うと使わないでは雲泥の差がある筈だ。
⋮⋮ディソードに触れたくないし、見たくも無い。
それが、ギガロマニアックスの力を使いたくない二つ目の理由に
なったんだ。
*****************************
カーテンの隙間から、うっすらと朝日が差し込む。
それは目の前にあるPCの人工的な明かりとは違って、僕の網膜を
柔らかく焼く優しい光。
何か、種類の知らない鳥が鳴いている声が鼓膜を震わせ│││そこ
で僕は外が既に朝になっていることに気が付いた。
時計を見ると、朝の7時。
⋮⋮昨日の夜からぶっ続けで、あのダメダメオンラインゲームをプ
レイし続けて8時間。
始めた頃はまだ外は真っ暗だったのに、もう日の出の時間帯だ。
﹁⋮⋮さむ﹂
僕の居る場所│││ウェールズとか言う場所は今は冬を迎えてい
るらしく、とても寒い。
それが朝早くなら尚更だ。
部屋の隅に置いてある達磨ストーブが赤く発光して熱を発してい
るけれど、まだ少し肌寒い。
それなのに外の気温とは結構差があるらしく、その気温差でガラス
82
が結露している。木の壁が湿って、何とも言えない木の香りが部屋の
中に充満しちゃってるよ。
臭いって訳じゃないんだけど⋮⋮何か、妙な匂いだ。
﹁⋮⋮木組みの小屋は、こういう所がイヤなんだ﹂
コンクリとか金属とかと違って、匂いは強いし直ぐカビが生える。
今のこの部屋がベースと違って汚れていないのだって、それがある
からだ。少しでも気を抜いて食料の食べ零しを床とかに撒いておく
と、際限なく虫が沸いてくるんだ。本当に嫌になる。
⋮⋮冬なんだから冬眠するか死んでろよ。
﹁⋮⋮⋮⋮ぁっ、ふ⋮⋮﹂
そのまま何となくぼんやりしていると、僕の口から欠伸が漏れ出て
きた。
瞼が重くて重くてしょうがない、脳が睡眠を求めてるんだ。
⋮⋮本当、不便な事極まりないよ。
17歳だった時は一日30時間は余裕でエンスれたのに、今じゃ8
時間程度でこのザマだ。
目がしょぼしょぼして、頭が痛くなって。無理な酷使に子供の身体
が悲鳴を上げている。
⋮⋮この程度じゃ一流の廃プレイヤーなんて自称できないってい
うのに。
﹁⋮⋮疾風迅雷のナイトハルトが、聞いて呆れるよ⋮⋮﹂
まぁ、今使ってるハンドルネームはリーゼロッテの方だけどね。
別に他の全く新しいハンドルネームを使っても良かったんだけど、
それだと将軍が分かってくれないかもしれないって危惧があった。
83
でも、だからと言ってナイトハルトの名に汚点を残したくもなかっ
たんだ。
⋮⋮僕にとっての﹁ナイトハルト﹂の名は、僕が︻僕︼として生き
てきた│││彼のものとは違う、正真正銘の僕自身│││西條拓巳と
して歩んできた、その証みたいなものだから。
決して、そんざいに扱う事なんて出来なかったんだ。
│││だから、そんな訳でのリーゼロッテ。
折衷案、とも言うね。
何せ彼が意識を取り戻してからずっと、僕は思考盗撮されてたみた
いだから。
彼なら、この名前でも僕の事だって分かってくれるはず。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
84
⋮⋮自分でも分かってるよ。無意味な事してるっていうのは。
彼が僕の事に気づいてくれるって事に、ネトゲのハンドルネームな
んて全然関係無い。
だけどしょうがないんだ。
﹂
│││これを止めたら、きっと僕は│││⋮⋮。
﹁⋮⋮くっそ、ムカつく⋮⋮
もしこのゲームがエンスーだったら⋮⋮いや、そこまでは言わない
それもこれも全部、このゲームがクソ過ぎるのが悪いんだ。
│││それがまた、僕を苛立たせる。
音しか響かない。
かって投げつけたけど、全力で投げつけた割には弱弱しくて頼りない
そして、その衝動のまま耳栓代わりのヘッドフォンを外して床に向
ラッと来た。
いろいろな意味で自分が昔とは違うって事を改めて自覚して、イ
!
けどもうちょっとマシな出来だったら。
僕はこんな苛々せずに、少しはゲーム自体を楽しめたかもしれない
ね。余計な事を考える暇も無かった筈だ。
⋮⋮幼児の時って時間が進むのが遅く感じるとか言うけど、きっと
17歳の身体でも同じ感じだったよ。
このゲームをプレイしている最中は、一分一秒経つのが待ち遠し
かった。
やってたことはソロプレイでのアイテム収集だったけど、フィール
ドの切り替えに30秒もかかるし、キーのタイピングとキャラの動き
にズレがあるし、まともに動くことすら難しい。
エンスーの快適なゲームシステムに慣れ過ぎた僕には、このゲーム
にはどこもかしこも不満点しか見当たらない。
あとPCも古杉。
キーボードは海外仕様で使いづらいし、読み込み遅いし、煩いし、何
より容量少なすぎ。PCがデータを処理できなくてフリーズとか、テ
ラワロス。
その度に苛々がたまって、早く時間が過ぎてくれって思わずにいら
れなかったね。何でこんな苦行を強いられなくちゃなんないんだ、っ
て。
ほんっとクソゲーだ、ほんっと使えないPCだ。
ゲームはもうしょうがないにしても、PCに関してはもう少し容量
が欲しい。贅沢は言わないから、せめてもう500GB。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんな恨み辛みを心中で愚痴りつつ、進行状況をセーブ。
表示されたセーブデータを見てみると、プレイ時間は既に三桁台の
終盤に突入している。
⋮⋮よくもまぁ、こんなゲームにここまで時間をつぎ込めたもん
だ、と我ながら呆れた。
身体能力に制限があるからエンスー時代のデータには遠く及ばな
85
いけど、それでも結構な数字だ。
これだけやれば当然、リーゼロッテの名前もゲーム内じゃそこそこ
有名になってる。
何せ彼女はナイトハルトとみたいなガッチガチの前衛職ではなく、
サポート中心の中衛職だからね。
このゲームには基本高火力で敵を叩き潰すか、逆に叩き潰されるか
の二択しか選択肢のない脳筋が多いから、サポートに優れた高レベル
PCはあちこちのパーティに引っ張りだこだ。
それ故彼よりも人を助ける機会が多くて、その人達から情報が広ま
るのも速い。
BBSでは﹁俺らの聖女﹂
﹁リーゼロッテたんマジ天使﹂
﹁リアルの
リーゼロッテは病院に入院している薄幸の美少女﹂とか言われてる。
オタってちょろいね。
この頃のネカマプレイしてる連中は、まだイライザみたいな自分の
利益を優先させるクソプレイヤーばっかで、純粋に﹁ネカマ﹂を楽し
んでる奴は意外と少ないらしい。
あからさまなぶりっ子を演じて女に扮し、僕らみたいな純粋な男心
を持つ奴らを惑わして、貢がせるだけ貢がせる。
そうしてお目当てのレアアイテムを手に入れたら、パーティメン
バーから切ってそのままオサラバ、ってパターンが多いみたいだ。イ
ライザ死ね。
だからあまり露骨に女って主張をせずに、礼儀正しく控えめに相手
を立てる古き良き清楚キャラを演じていれば、この頃の男プレイヤー
達は何も言わなくても勝手にリア女だって勘違いしてくれるらしい
よ。
ソースは@ちゃん。前にネトゲ板で自称ネット黎明期からの最古
参プレイヤーがそう言ってた。
﹁⋮⋮ふひひっ。げ、現実はこんなキモオタだけどな﹂
まぁ、それでも今のこの姿を│││女顔のショタがリーゼロッテの
86
正体って知られれば、一部の層では逆にファンが増えそうではあるん
だけど。
⋮⋮改めて思うけど、3歳児の時点で女顔とかイケメンとか分か
やら何やらが凄いらしいし、親が英雄
るってありえないよね。どんだけ将来有望株なんだよ。
体のスペックも魔力保有量
とか美人の姉とか幼馴染ありとか、これ何てテンプレ厨二主人公
これで悲しい過去︵笑︶とかあったら完璧だね。オプーナを買う権
利が貰えるレベル。
ちょっと前ならこれでリア充になれるとか喜んでたかもしれない
けど、実際なってみると気味悪さが勝るよ。
⋮⋮こんな事になるくらいだったら、あの油っぽいキモオタフェイ
スのままで十分だった。
つらつらと、そんなく下らない事を考えつつゲーム画面を閉じ、別
のプラウザ⋮⋮何時も巡回してるチャットルームのページを開いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そしてチャットルームが開くまでの間僕は朝食をとろうかと考え
て、食料を取りに部屋の外へと出るべく棚の上に無造作に投げ捨てら
れたコートを着込む。
このPCじゃプラウザが開くまでに最悪数分近くかかるからね、時
間の効率的活用ってやつさ。
クリスマスのプレゼントに貰った、裾に緑色の糸で﹁ネギ﹂って刺
繍が施されたちょっとくすんだ白色のコート。
僕はそれを肩に羽織って、扉の近くに置いてあったブーツを履き壊
れかけの扉を押す。
ぎぎぎ⋮⋮と鈍い音が響いて、その際に細かい木屑がパラパラと床
に落ちて扉が倒れるんじゃないかと不安になった。
早くスタンの爺さんに言って直してもらわないと⋮⋮とは思うん
だけど、中々踏ん切りがつかないで居る。
⋮⋮もしかしたら、ネカネが既に頼んでくれているかもしれないけ
87
?
?
ど。
﹁っひ⋮⋮﹂
そうして、部屋から廊下へと一歩踏み出した瞬間│││今までとは
比ではないくらいの冷気が僕を包み込み、思わず変な悲鳴を上げてし
まった。
咄嗟に口を押さえたけれど、今この家にいるのは僕一人だった事を
思い出して安心する。
⋮⋮ネカネとアーニャは、もうこの村にはいない。昨日の夜に魔法
学校へと帰って行ったんだ。
だから、次の休みの日⋮⋮少なくともあと一カ月近くはこの家には
僕一人だけ。
これでやたらと気を使われることも、無理矢理外に出される事もな
くなった訳だ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮訳なんだけど、何故かあんまり嬉しくない。
恐怖と面倒。二つの大きなストレスからは解放されたはずなのに、
何故か精神が安定しないんだ。
⋮⋮何でかな。歩きながら考える。
うだったからやめた。
│││何かこれ以上深く考えると、色々取り返しがつかなくなりそ
﹁⋮⋮そ、そんな事より、今は食べ物だ⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、
88
ああ、あと何時もは後ろ髪を引かれるような表情のネカネが、その
日に限って期限がよさそうにニコニコ笑ってたのが気になったよ。
アーニャも不思議に思っていたみたいだし、何か良い事でもあった
のかもしれない。
⋮⋮もしかしたら、僕と一緒にお茶をした事が原因かな。わかんな
いけど。
まぁそれはそれとして。
居間へ続く扉を開いて、今は沈黙している暖炉を通り過ぎる。
暖炉の中にはまだ新しい木切れが燃えやすいよう、キャンプファイ
ヤーの時に燃やすアレみたいにかっちり組まれていて、直ぐに使える
ようにしてあった。
⋮⋮多分、ネカネかアーニャが気を使ってくれんだろう。
この組み方から見る限り、これを用意してくれたのはネカネの方か
な。アーニャの組み方はただ木切れを投げ入れてるだけだし。
﹁⋮⋮意味、ないのに﹂
使いやすいように配慮してくれているのかどうか知らないけど、僕
は基本あの物置部屋から出ないから暖炉なんて使わないし、使えな
い。
火を起こす事なんて、僕は直接やった事ないからね。人力でも、機
械でも。
だから、こんな事をしても全くの無意味だっていうのに。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何か妙な罪悪感を覚えつつ、キッチンへ向かう。
何時もは埃が積もってて酷い有様な場所だけど、昨日までネカネが
89
使っていたおかげか、そこにはまだ生活感が漂っていた。
そして部屋の隅にに設置されている大き目の冷蔵庫の取っ手を背
伸びして掴む。身体を振り子みたいに前後に揺らして、勢いをつけた
ところで一気に力を入れて引く。
いちいち面倒くさい工程だけど、今の僕は背が低いからそうしない
と上手く扉を開けられないんだ。
⋮⋮まさか、こんな具合に大人と子供の身体機能の違いを実感する
羽目になるなんて夢にも思わなかったよ。
﹁⋮⋮よ、よっ⋮ぐ⋮﹂
そうして苦労して開けた扉を使ってよじ登り、冷蔵庫の中身を覗く
ような姿勢で見る。
昨日ネカネが作ってくれた手料理が1・2日分と、ハムが少し。ト
マトとチーズがそれぞれ一袋ずつに、あとはペットボトルのコーラが
三本と紙パックの牛乳が一本入ってる。
冷凍室と野菜室には何も入っていないから、実質この中にあるもの
だけがこの家にある食料の全てだ。
⋮⋮これなら最低3・4日なら食料を補充しに行く心配は無い、か
な。
冷蔵庫の中に入っている量は良くて二日分くらいだけど、今の僕は
小食だから一食分を二食に分けても十分足りるんだ。
僕は三つのサンドイッチをが乗った皿を手にとって、その内の一枚
を小さく千切って抜き取った。
│││ネカネの作る料理は、それなりに美味しい。
僕は当初、色々な所で言われている通りイギリスの料理なんて不味
いと思っていて、大して期待はしていなかったんだけど⋮⋮そんな事
は無かった。
味付けは確かに日本人好みの物とは離れているけど、イコール不味
いって訳じゃない。好みにもよるんだろうけど、僕は美味しいと感じ
た。
90
スコーンとか、スープとか。そういったものばかりだったけどね。
何ていうか⋮⋮ほっとする味、とでも言えばいいのかな。月並みな
言葉だけど、まずそれが思い浮かんだよ。
⋮⋮悪いけど、僕は味に関するボキャブラリーはあんまり引き出し
が多くないからこれくらいしか言う事は無い。
菓 子 と イ ン ス タ ン ト を 主 食 と し て き た 僕 に、女 性 の 手 料 理 を レ
ビューしろなんて無理ゲーもいい所だ。
⋮⋮まぁ、どうでも良い話かもしれないけど。
そして扉の部分に置いてあったコーラを一本取り出して、身を引い
て地面に着地。
未だ開いたままの扉、その下部分に手を引っ掛けて手前側に引き寄
せた。
ゆっくり扉が閉まっていく様を何となく見ていると、扉の部分に仕
舞われている牛乳パックの色が少しおかしく見えて。
﹁⋮⋮っ、くっそ、くそっ⋮⋮
⋮⋮嫌なものを、見た。
﹂
それこそ、一瞬にも満たない時間。
│││扉を閉める間際。
冷蔵庫から視線を外せないまま、じりじりと後ろへと後ずさる。
僕は胸のざわつきを抑えながら、そう呟いて。
!
91
カビでも生えたかな、とちょっと疑問に思って良く見てみると││
﹂
│茨が絡みついた剣に、
﹁││││││ッ
│││バン
!!
叩きつけるようにして、扉を閉めた。
!
扉が完全に閉まる瞬間│││視界の端に映った牛乳パックが、剣の
形に見えた気がした。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮なんだか、胸が苦しい。
胸の部分の服を握り締めつつ、そのままゆっくりと冷蔵庫から距離
をとる。
何の変哲も無い冷蔵庫が、さっき自分で中身を確かめたはずの冷蔵
庫が│││何か、得体の知れないものを内包しているように見えて。
⋮⋮それなのに。﹁見たくない﹂と頭が悲鳴を上げているのに、視線
を逸らす事が出来ない。
目を逸らしたその瞬間│││また、別のものが剣の形に見えるん
じゃないかって思って⋮⋮それが、たまらなく嫌なんだ。
92
│││︻剣︼を見たくない。
見たくないからこそ、目を逸らせない。逸らさない。
冷蔵庫に緊張しながら向かい合っている様は端から見たらとても
滑稽な姿に映るんだろうけど、そんなこと考えてる余裕なんて無い。
﹂
後ろ歩きの姿勢のまま、下がり続ける。
﹁⋮⋮さ、さい、最悪だ⋮⋮
見て。
│││眼球が、痙攣する。
見て。
見て。
│││きっと目の錯覚だ、それか勘違い。絶対に認めない。
見て。
│││何にも、何にも、見ていない。
見て。
│││僕は今、何も見ては居なかった。
!!
│││あれを見続けたら、僕が本当に僕であるのか分からなくなる
じゃないか。
﹂
⋮⋮背ける。
﹁⋮⋮っ
﹁っぐ
僕が僕である限り変わらない形状を保つ筈のディソード。⋮⋮そ
いた、気味の悪い茨の姿を。
│││あの、僕の細く直線的なフォルムをしたディソードに絡みつ
たんだ。
僕は横になったまま目をきつく閉じて、今見たものを忘れようとし
けたたましい音を立てるけど、どうだっていい。
壊れかけの扉を押し倒して、ベットの上に転がり込む。倒れた扉が
﹂
⋮⋮無性に﹁タク﹂っていう台詞が恋しくなって、たまらない。
ていたけど、今は気にならなかった。
腕の中のサンドイッチはぐしゃぐしゃになってコートに張り付い
押し開き、自分の部屋に向かって駆け出した。
直ぐ背後まで迫ってきていた扉を振り向き様体当たりするように
ぐっ、と。苛つきを飲み込んで。
!!
れが変化していると言う、意味を。
93
!!
第5章 好々爺
│││ディソード。
ギガロマニアックスがギガロマニアックスたる所以、健常な精神を
持つ者には見る事も触れる事すらも適わない、妄想で出来た剣。
それは単なる誇大妄想狂が│││メガロマニアックス達が、ギガロ
マニアックスへと覚醒するための鍵みたいな存在だ。
普段はリアルブートと呼ばれる、妄想を現実化させる力を行使しな
い限りは同じギガロマニアックスでも触れる事は出来なくて、どんな
物体も素通りしてしまう単なる見掛け倒しでアイタタタ系の妄想に
過ぎない。
けど、一旦現実にリアルブートしてしまえば全てを切り裂く最強の
殺戮兵器に早代わり。
燃える様に真紅の光を放つ刀身で、人体だろうがコンクリだろうが
どんな物体も豆腐より簡単に両断できる物騒な代物となってしまう。
⋮⋮その切れ味は、凄まじい一言に尽きるよ。
切る、と言うよりは、圧倒的な熱を持って焼き切る、と言う表現の
方が相応しい気もするけどね。
ポーターと呼ばれるノアⅡの使いっ走りが背負っていた金属製の
大きな端末や、そこそこ厚かった筈のベースの扉も一太刀で真っ二
つ。
僕に至っては野呂瀬からの攻撃で胸部を肋骨ごと纏めてざっくり
裁断された事もあるし、その攻撃力の高さは身を持って知ってる。
たぶん、物理的に存在する物で切れないものなんて無いんじゃない
かな。
⋮⋮多分。
で、そんな感じでまるでどこぞの厨二武器みたいに圧倒的な武器性
能を誇っているディソードだけど│││本当はそんなチャンバラと
かの暴力的な事に使うべきものじゃないらしい。
94
本来はディラックの海って言う反粒子の溜まり場に干渉し、リアル
ブートみたいなギガロマニアックスの力を補助するって事がメイン
の役割なんだ。
話によるとリアルブートのほかにも、思考盗撮や妄想攻撃、妄想シ
ンクロといった力もディソードの有無でその威力や効果が大きく変
わってくるそうだ。
僕はこれがなくてもディラックの海に干渉し、妄想をリアルブート
する事ができていたけど│││それは多分、野呂瀬曰く﹁世界最強の
ギガロマニアックス﹂である﹁彼﹂の力を継いでいるからなんだろう。
⋮⋮ひょっとすると。僕が妄想から生まれた人間である、という事
も少しは関係してたかもしれない。
僕が妄想からリアルブートされたって事は、ディラックの海から
︻西條拓巳︼の体を構成する部品を取り出したって事になる。
だったら、僕の身体│││細胞の一つ一つがディラックの海と何ら
95
かの繋がりを保持、若しくは高い親和性を有していて、そこに干渉し
易くなっていた可能性も全く無いとは言い切れないはずだ。
もしかしたら、僕はある意味ディソードに近い性質を持っていた存
在だったのかもしれない│││なんて。まぁ、妄想だけどさ。
⋮⋮話が逸れた。
ともかく、ディソードという存在は分かりやすく言えば、ゲームに
おけるショートカットキーみたいなもの。
格ゲー的に表現すると↓←↑→↓←↑→↓HSとかの面倒なコマ
違うね、それはおまいらの錬度が足りんのだ。
ンド技を︻L2︼HSで出せるようになる。そんな感じだ。⋮⋮逆に
分かり難いって
ポーター狩りを行ってた通り魔。僕は人違い︵とも言えないけど︶で
セナは街中でもお構いなくディソードを構えて闊歩し、夜な夜な
つらにはその辺の意識が足りて無かった気がするよ。
僕にその事を教えてくれたのは彼女達だった筈なのに、どうもあい
主にセナとこずぴぃのDQNメルヘンコンビな。
無しにぶんぶか振り回していた訳だけど。
まぁ、僕の知ってるギガロマニアックスの連中は、そんな事お構い
?
殺されかけた事もあった。
こずぴぃは一見無害な小動物系に見えるけど、その実気に入らない
奴がいれば躊躇無く︻ドカバキグシャーッ︼に踏み切る危険思想の持
ち主でもある。
彼女達にも色々と事情があったって事は思考盗撮で把握している
けれど、それでも二人から殺されかけたり殺害宣告を受けてる僕とし
ては、お前が言うなよと言わざるを得ない訳で。
⋮⋮はいはい、初めてディソード引き抜いた途端に俺tueeee
eeee的行為へと及んだキモオタが立てた本日のお前が言うなス
レはここでございますとも。
とにかく、ディソードとは剣の形をしたまったく別のものであっ
て、決して剣の役割を担った武器ではない。
それはあくまで副次的な能力であって、本来は前述の通りギガロマ
ニアックスとしての力を補助するための端末なんだ。
⋮⋮だったら何で剣の形をして、実際に武器として使えるのか。何
でディソードなんていかにもな名前なのか。
僕も、そこら辺の事が矛盾していると常々思ってる。補助端末だっ
て言うんなら戦う機能なんていらないし、もっとそれに相応しい別の
姿があった筈なんじゃないか⋮⋮とかね。
│││でもその一方で、ディソードを手に入れる条件を考えると
ディソードが剣の形で、且つ戦うための力を有しているのは当然の事
なんじゃないかとも思う。
ディソードを手に入れる条件│││それは、想像を絶する程の肉体
的、精神的苦痛に耐え抜く事。
身体と心と⋮⋮外側と内側の両方を痛めつけて、追い詰めて。そう
して壊れる寸前にまで至って、やっとディソードが視認できるように
なるんだ。
それはつまり、ギガロマニアックスに覚醒した人間の周囲には何か
しら⋮⋮自分を傷つける︻敵︼がいるって言う事で。
96
⋮⋮だから、ディソードがそんな力を有しているのは、そいつらか
ら身を守るために人の心が生み出した自衛の手段なのかもしれない。
だからこそ、剣の形と戦うための力を有しているのかも知れない。
⋮⋮腐るほどあった時間の中で考えるうち、僕はそう思うようになっ
たよ。
その所為かどうかは知らないけど、ディソードの姿もギガロマニ
アックスで共通という事はなく、その人の傷つき歪んだ心を表すかの
ように、個人でそれぞれ違う特徴的な姿をもってる。
⋮⋮そりゃそうだよね、全く同じ妄想をする人間なんて同時に存在
する訳無いし。
梨深のディソードは鳥の翼のように展開する特殊な形状となって
いて、また中央から分離させる事もできる、僕の知るギガロマニアッ
クスの中で唯一の二刀流が可能な剣だ。⋮⋮ぱっと見、弓に近い形
だったと思う。
展開する前は円盤状の形をしていて、展開した後も剣と聞かれると
首を傾げざるを得ない。まぁ、有る意味梨深らしいディソードと言え
るんじゃないかな、変人的な意味で。
セナのディソードは二股に別れた刀身が特徴の大型の剣で、おそら
く僕が一番見た回数の多いディソードだ。
あんなに大きな剣が彼女の細腕で軽々と振り回される姿はまさに
圧巻で、リアルブートされる度に女性の悲鳴のような甲高い音を立て
ていたことが印象に残ってるよ。
優 愛 の デ ィ ソ ー ド は 持 ち 手 に 金 色 の 装 飾 が 付 い て い る 細 身 の 剣。
リアルブートされた時に花びらみたいな光が舞っていて、飾りとあわ
せてバラの花を連想させたよ。
⋮⋮まぁ、彼女も僕と同じくニュージェネ中にギガロマニアックス
に覚醒した口で、しかも僕の居ない場所での覚醒だったため思考盗撮
でしかその活躍を見たことがない。それにそれ以降使用された事も
無かったから、形以外にどんな特徴を持っていたのかは分からないん
だけど。
97
こずぴぃのディソードは⋮⋮大きくて、薄くて、平べったくて。剣
というよりむしろ板に近い物だったね。ロリ体型の彼女がびくびく
した顔で、身の丈ほども有る武器を両手で抱えつつ街中を歩く姿はと
てもシュールだったよ。
今考えるとセナとこずぴぃは良いコンビだったのかもね、凶暴具合
と剣のでかさ的な意味で。
⋮⋮⋮⋮ところで前々から気になってたんだけど、DQNパズルの
被害者をフルボッコにしたのは彼女だったのかな、それとも僕だった
のかな。
あやせのディソードは直線的な部分の無い、刀身から柄の部分まで
内側の部分がぐねぐねと曲がった流線型の剣。
彼女の性格と、トンネル内でディソードの話を聞いた時にスク水姿
の分身を僕に見せてくれた事を考えると、妄想攻撃に特化した性能を
持っているのかもしれない。僕の推測だけどさ。
七海のディソードは│││⋮⋮正直、情報が少なすぎてどんな物な
のか全く分からない。最後に思考盗撮で見たときにあいつが持って
いたものは、刀身だけでなく柄にまで刃や棘が並んだ禍々しい十字架
型の剣だったけど⋮⋮。
⋮⋮でも、どんな物であれ、七海が覚醒した経緯を考えれば⋮⋮あ
んまり歓迎できる能力は持ってないと思う。
野呂瀬のディソードは、僕や彼女たちのディソードとは全く違う│
││重機と生き物が融合したような物だった。
人を一人張り付けに出来るほどに巨大な剣⋮⋮その中央には黄色
い目玉がぎょろりと蠢いてて、大鋏へと変形する際の機械的なギミッ
クと合わせてとても不気味な雰囲気を持っていたよ。
将軍のディソードに関しては、七海以上に全く分からない。
⋮⋮僕の中にある彼の記憶は︻過去の西條拓巳︼の記憶と︻妄想の
西條拓巳︼の設定が混ぜ合わさっているものだから、
︻ギガロマニアッ
クスの西條拓巳︼の記憶は持っていないんだ。
だから、彼のディソードがどんな形状でどんな機能を持っていたの
か⋮⋮僕はそれを知り得る事は無かったし、これからも知る事は永遠
98
に無いだろうね。
⋮⋮もしかしたら、彼が︻西條拓巳︼である以上、僕のディソード
と似た│││いや、僕の剣の元になった形をしている可能性も無くは
無いかもしれないけど。
で、僕のディソード。
信 じ ら れ な い 程 に 真 っ 直 ぐ な 一 切 の 無 駄 を 廃 し た 細 く 直 線 的 な
フォルムが特徴で、柄の部分には炎の形をした意匠が刻まれている。
余計な曲線も、装飾も、突起も無い、鍔さえも存在しない直線。特
徴的な姿をした梨深達のディソードとは対照的だけど、決して地味っ
て訳でもなく。自分で言うのもなんだけど中々スタイリッシュなデ
うっせばーか。
萌えや劣等感や妄想で混沌とした心から、どうやったら
ザインをしていたはずだったと思う。
⋮⋮何
こんなヲサレな剣が生まれるんだって
│││まぁでも、そんなカッコいいディソードも今となっては気味
の悪い変容をきたしてしまった訳だけど。
僕がこのディソードを初めて使用したのは、サードメルトが起こっ
た 後。ノ ア Ⅱ と 一 緒 に 吹 き 飛 ぶ ま で の 半 日 に も 満 た な い 時 間 だ け
だった。
⋮⋮七海が人質に取られ、それを助けに行った時にもディソードを
使用するチャンスはあったけど│││まぁ、黒歴史だ。うん。
│││でも、僕ははっきりと覚えてる。
あの時、梨深の事を助けたいと思って掴み取った金属に似た感触
を。
まるで重さは感じなかったけど、掌に確かに感じたあの手応えを。
ポーターや星来、野呂瀬と戦った時に振るわれた、ギガロマニアッ
クスの力の脈動を。
それらは全て変わらずに、最後まで僕の手の中にあった。
⋮⋮だから。だから、決して。
99
?
?
│││僕のディソードには│││茨なんて、絶対に巻き付いていな
かったはずんだ。
︵⋮⋮⋮⋮︶
⋮⋮それは、表面から覗く葉脈のような半透明のガラス部分を脈動
させ、赤い明滅を繰り返し。
金属のようにも、有機物の様にも見える繊細さと。
思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせてい
て。
⋮⋮なのにそれを見ていると、僕はどうしようもない苛立ちと不安
感に襲われる。
│││もう一度言うけど、ディソードは妄想の剣だ。
100
その姿はギガロマニアックスで共通という事はなくて、その人の傷
つき歪んだ心を表すかのように、個人でそれぞれ違う特徴的な姿を
もってる。
│││だから、その姿が変わった時。
それは、持ち主の心や精神に何らかの変化、若しくは異常が起こっ
てしまった。という事じゃ││││││
柄から、刀身から。上から下まで余すところ無く茨でびっしりと埋
│││嫌だ。
くらいは僕にだって分かるよ。
だけど、それでも。今の僕のディソードがまともな状態じゃない事
だって、全部その二人と野呂瀬からの受け売りだ。
識 が あ る 訳 じ ゃ な い。今 ま で 語 っ て き た デ ィ ソ ー ド に つ い て の 事
⋮⋮僕は、将軍やセナみたいにギガロマニアックスについて深い知
?
め尽くされ、隙間なんて殆ど無い。
そのシルエットや僅かに覗く青色から、辛うじて原型は留めている
んだろうって事が分かるだけだ。
どうして茨なんてものが巻き付いているのか、僕が︻ネギ︼になっ
ている事と何か関係があるのか。それとも、この茨の部分が︻ネギ︼と
しての︻僕︼なのか
⋮⋮核心の部分は、何も分からない。
│││嫌だ。
茨に隠れている部分がどうなっているのか⋮⋮触れて確かめられ
れば良いんだろうけど、そんな勇気なんてとてもじゃないけど起きな
い。
確かに形を見る限り一見大きな変化は無さそうに見えるよ。でも、
細かい部分がどうなっているのかは分からないじゃないか。
│││嫌だ⋮⋮
⋮⋮もし。
たら
その時、僕は僕のままでいられるの
るの
│││嫌だ
︻西條拓巳︼のままでいられ
僕の主観では、僕は僕のままで居る筈だ。
でも、それは単に自覚が無いだけだったとしたら
自覚の無いままに僕じゃなくなっているのだとしたら
101
?
もしも、その茨の下が│││自分の知らない形に変容していたとし
!
僕の心が、知らないうちに別のものへと変化しているのだとしたら
?
?
!!
?
?
?
│││
?
その疑念が、たまらなく怖くて。
その猜疑が、たまらなく不快で。
│││だから僕は、ディソードから目を背け続けるんだ。
これ以上、僕の心が変わらないように。
決してそれを受け入れないようにして、僕が僕であり続けられるた
めに。
僕が僕でなくなっているかもしれないという事に気づかないよう、
自覚しないように│││。
⋮⋮ディソードの姿が変わっている時点で、もう手遅れなのかもし
れないんだけど、ね。
***********************
に重圧がかかっている事に気がついた。
そして、唐突に覚える息苦しさ。
何か重いものが圧し掛かっている感覚と、口と鼻を何かで塞がれて
いるかのような感覚。
しかも身体を動かそうとしても上手く動かせない。
⋮⋮どうやら僕は、何か幅の広い布のようなもので包まれるように
102
﹁⋮⋮これはまた、派手にやりおってからに⋮⋮﹂
⋮⋮そんな、溜息交じりの声で目が覚めた。
﹂
その声は年老いた老人のもので、吐き出された溜息からは酒の臭い
が漂ってきた。
﹁⋮⋮う⋮⋮ぐ⋮⋮
⋮⋮誰だろう
?
声の主を疑問に思って、意識を自覚した瞬間││││││僕の身体
?
縛られているようだ。
相当無理な体勢で縛られているのか、肩の方に回された左腕と背中
に折り曲げられた右足とがギチギチと悲鳴を上げてる。
│ │ │ ⋮⋮ い て、い て て て て。痛 い、痛 い な。窒 息 し ち ゃ う っ て
⋮⋮。
七海の悪戯かなんか
﹁んん⋮⋮ぅー⋮⋮﹂
何なの、七海
なぁー
⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
ねぇー
だ っ て ほ ら ぁ ⋮⋮ 僕、三 歳 だ か ら。体 力 と か、足 り て な い
ら。もうちょっと、眠らせて欲しいんだよ。
苛々してて、ベットに倒れこんで、震えながらやっと眠れたんだか
僕のディソードが何か、変な感じになってて。
き合ってる余裕無いんだ。
⋮⋮ほんと、やめてよこういうの。 僕今ちょっとそういうのに付
?
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぅぁー⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮
えっ。
103
?
﹁⋮⋮
っぎぃ⋮⋮
﹁んぐぅ⋮⋮
﹂
﹂
でも︵ビクンビクン
うぅんぐッ
くやしぃ⋮⋮っ
クビクと痙攣する。
手足の筋が引っ張られ鈍い痛みが体中に走って、その度に身体がビ
て暴れまわる。
拘束から逃れようと、蓑虫状態のまま必死にじたばたと手足を振っ
れて。
僕はいきなり訪れた理不尽な状況にうろたえて、冷静な思考を奪わ
一気に目が覚めた。七海なんて居る訳ない
!?
何
いや優愛かッ
何で僕縛られてるの
それとも神光
どういう事
希の残党か
誰か助けてー⋮⋮ッ
!?
!?
全部嫌だ
!?
なものが取り払われて。それにより毛布によって引っ張られていた
さっきも聞いた老人の声が耳朶を打って、巻きついていた布のよう
﹁│││えっ﹂
﹁⋮⋮何しとるんじゃ、お前さんは﹂
続けて│││⋮⋮。
ん跳ね回りながら、どうにかして身体の自由を手に入れようと抵抗を
その度に身体を突き抜ける筋肉が引きつる痛みにびったんびった
じり、ひねり。
心と声、両方で助けを求める叫び声を上げながら身体をねじり、よ
│││だれかー
!?
!?
痛みと混乱から目尻に涙が浮かんで、流れ落ちる。
!?
!
!!
!!
!
!
!
104
!!
!?
!?
手足がベットに投げ出され、ぽふんと気の抜けた音を立てる。
咄嗟に頭を上げて、声のした方向を見上げると│││そこには。
﹁毛布に包まって、随分と楽しそうじゃの﹂
│││僕のベットの横に立ち、毛布を片手にニヤニヤとした笑みを
浮かべた老人│││スタンが居て。
ぱらり、と。
彼が投げ捨てた毛布が僕の身体にかかり、端の部分がベットのシー
ツの上に広がった。
⋮⋮どうやら僕の事を拘束していたのは、この毛布だったらしい。
寝ているうち、いつのまにか僕の身体にきつく巻きついてしまってい
たみたいだった。
毛布は結構厚みがあって、三歳の筋力の無い身体だったから、僕に
は重く感じられるんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
僕は呆然、後、赤面。
端から見れば馬鹿みたいな行動を糞真面目に取っていた事に思い
当たり、羞恥心が胸元を駆け巡る。
スタンはそんな僕を意地の悪い目つきで見つめて。
﹁⋮⋮こらまた、随分と愉快な寝相をしとるんじゃのぅ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
僕とスタンの間に、何とも言えない雰囲気が充満する。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
105
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぷひょっ﹂
│││そして、ゲラゲラと笑う声が狭い部屋の中に響いた。
僕が、自身のディソードから逃げる勢いで毛布に入った3時間後。
午前9時30分。
僕の記憶にまた1ページ、新たな黒歴史が刻まれたのだった。
⋮⋮欝だ。
***************************
﹂
﹁ひ、ひっひ⋮⋮ い、いや何、ネカネに扉を直してやってくれと頼
まれてのぅ
と思うて来たのじゃが│││ワシの判断は正しかったようじゃの
ひっひっ
?
﹁もうそろそろ冬も終わりとはいえまだ寒いからの、速い方が良かれ
所謂保護者の立ち位置に居る爺さんだ。
の縁か︻父親︼の忘れ形見である僕やネカネの面倒を良く見てくれる、
話を聞く限り、僕の︻父親︼の面倒も良く見てくれていたらしく、そ
懐古厨。
かにつけて説教を垂れれば、
﹁昔は良かった﹂としか言わない典型的な
昼間からお酒を飲んだくれていたり、口より先に手が出たり⋮⋮何
│││彼の名はスタンの爺さん。
人。
まるで絵に描いたような、いかにも魔法使いと言った風情のこの老
口に蓄えた豊かな髭と、口調で示すあざとい程の老人アピール。
つばの広いとんがり帽子に味わい深い色合いの木製パイプ、そして
何でいるんだ、との僕の問いかけに、彼は笑いながらそう答えた。
!
あのままだったらぼーず、窒息してお陀仏じゃったぞ
?
106
?
ひ﹂
﹁⋮⋮っざぁ⋮⋮⋮⋮
﹂
⋮⋮端から見ればタチの悪いDQN老人にしか見えないんだけど、
面倒見は結構良くて、僕の一人暮らし生活の手助けをしてくれてい
る。
偶に食料を持ってきてくれたり、今回みたいに家具が壊れてしまっ
た際に修理しに来てくれたり⋮⋮。
あと僕が他の村の住人から必要以上の干渉を受けないのだって、ス
タンが周りに睨みを利かせているからだそうだ。
昔、僕に暴力とかを振るう奴等や、無理矢理外に引きずり出そうと
する奴らが居たらしいんだけど、そいつらは皆スタンからの鉄拳説教
コースを受ける羽目になったって話だ。
その事があってから、村のDQN連中は僕に良くない感情を向ける
ことはあっても具体的な行動には出て来ない⋮⋮というか、出てこれ
ないって事みたいだ。もしかしたら、同じ老人体でも﹁彼﹂より元気
かも知れないね。
﹂なんて
そう説明してくれたアーニャは恩着せがましく﹁だからちょっとは
感謝して、ちゃんとおじいちゃんって呼んだげなさいよ
言ってたけど、僕は彼のことをそう呼ぶつもりはない。
僕みたいなねっとりしたキモオタが﹁おじい
⋮⋮さて、色々と言ったけど│││まぁネカネに比べれば、僕はス
もいだす﹂のコマンドがあるね。三万までなら賭けてもいい。
もしステータスを確認できたら、きっとスタンの特殊技能には﹁お
さんが、実は相当な実力者だった﹂っていうキャラ設定。
⋮⋮何ていうか、お約束だよね。﹁普段はだらしの無いヘンクツ爺
話を聞いた事がある。
腕は確かだそうで、村の自警団の団長みたいなものを務めているって
そしてやっぱりと言うべきか、その性格に反して魔法使いとしての
ない。
ちゃん︵はぁと﹂とかさ⋮⋮⋮⋮これは僕きんもー☆と言わざるを得
だってそうでしょ
!
107
!
?
タンの事は苦手じゃなかったりする。
理由は簡単だ。
いくら彼が僕の保護者的な立場に居るといっても、やっぱり﹁赤の
他人﹂というカテゴリからは抜け出せないからね。
⋮⋮つま
│││︻血の繋がった知らない人︼よりも、︻赤の他人の知らない人︼
の方が自然だし、当然のことだって安心も出来るでしょ
りは、そういう事だよ。
﹁おおそうじゃ、何なら今度からワシが添い寝でもしてやろうか
ひょっひょっひょ﹂
また今回のような事が起きたら困るしのぅ
﹂
﹁⋮⋮っい、いい加減、しつっこいよ⋮⋮
?
?
だめだこいつ⋮⋮早く何とか│││あ、手遅れですかそうですか。
葉を吐き捨てて水筒を呷り続ける。
僕のそんな悪口なんて気にもせず、こちらの羞恥心を的確に抉る言
﹁引き篭りには言われとうないわ、蓑虫ぼーず﹂
﹁⋮⋮こ、この⋮⋮ふ、不良老人⋮⋮が﹂
この所業、僕に喧嘩売ってんのかこの爺。
美味そうに飲むその中身は、言わなくたって明確だ。思った傍から
銀色の水筒を取り出して口元に当てた。
⋮⋮と、一通り笑った後、彼は嫌らしい笑みを浮かべたまま懐から
くなるほどアルコールを摂取するのが一般的なわけが無い。
僕は外国の文化にはあまり明るくないけど、朝っぱらから息が酒臭
息がその証拠。
に大らかになるんだ。さっきから笑うたびに漏れ出てくる酒臭い吐
説教とか締めるところは締めてるんだけど、それ以外の事には極端
N爺。
⋮⋮まぁ、実際はネカネよりも馴れ馴れしいんだけどね。このDQ
?
108
!
﹁ふ、ふひひ⋮⋮
せ、せいぜい肝臓癌にでもなって、にょ、尿管結
石で苦しめばいいさ﹂
﹁ふん、ワシには魔法があるから苦しくないもん。石ころなんざ杖の
一振りで木っ端微塵じゃて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
もう膀胱ごと爆散すれば良いよ。
﹁⋮⋮⋮⋮もう、いい。さ、さっさと直して、帰ってよ⋮⋮﹂
とりあえず、酔っ払いには何言っても無駄だってことが分かった。
僕はベッドの上から降りて、のろのろとPC前の椅子に向かって歩
き出す。
足元にはアーニャが壊した扉の残骸が散らばっており、細かい木片
が広範囲に渡ってばら撒かれてて、割と酷い有様だ。
一見何も落ちてない場所に見えても、靴を一歩踏み出す度に木の欠
片が砕け散る音が響くあたり、その拡散具合が分かるだろう。
﹁あー待て待て、破片を踏み荒らすでない。 直しにくくなるじゃろ
うが﹂
するとスタンが慌てて水筒から口を離し、今度は袖口から30セン
チほどの棒を取り出して、一振り。
﹂
小さな声で何某か呟き、僕にその先っぽを向けて│││
﹁ほいっとな﹂
﹁っ、うわ⋮⋮
│││杖の先から、何か風をイメージさせる緑色の光が走り、僕の
身体を空中へと持ち上げる。
そうして彼の持つ杖の動きに合わせて宙を進んで、机に置かれたP
109
!
!!
Cの前へ│││クッションの敷かれた椅子の上へと降ろされた。股
の間が、ひゅっとしたよ。
﹂
﹁わーったわい。お望み通りすーぐ直してやるからに、ちょっとそこ
で大人しくしとれ﹂
﹁⋮⋮っよ、よこ、予告もなしに、これ、やめ、止めてくれよぉ⋮⋮
﹁ひょっひょっひょ﹂
スタンは悪びれもせずそう笑って、蓋をした水筒を僕の方へと投げ
捨てた。
いきなり飛んできたそれを、僕は驚きつつも何とかキャッチ。
突然何するんだよ、って。抗議を籠めた視線をじっとりと向けてや
るけど、その時には既にスタンはこちらに背を向けてなにやら呪文を
唱え始めていたところだった。
﹁∼∼∼、∼∼∼、∼∼∼∼⋮⋮﹂
﹁⋮⋮に、日本語で、おk﹂
⋮⋮多分、扉を直すための⋮⋮ま⋮⋮魔法を使おうとしてるんだと
思うけど、正直何を言っているのかさっぱり分からない。
最初に韻の踏んだ英語っぽい言葉を言ってるのはかろうじて聞き
取れるんだけど、それ以降は全然ダメだ。
発音がネイティブ過ぎるのかとも思ったけど、それなら︻ネギ︼の
記憶を持つ僕が聞き取れないのはおかしいし⋮⋮別の言語なのかな、
ううむ。
⋮⋮まぁ別に、そんなに興味があるわけじゃないから別にいいんだ
けど、何か引っかかる。
どこかで聞いた事のあるような言葉な気がするんだけどなぁ⋮⋮。
⋮⋮ と、そ ん な こ と を 悩 ん で い る と、呪 文 み た い な の の 詠 唱 が 終
わったのか、さっきと同じ緑色の光がスタンのいる方角から部屋の中
に広がっていく。
110
!
そして部屋中に散らばった扉の破片を緑の帯が包み込み、スタンが
拾っておいたらしい出入り口に立てかけてある扉に向かって収束。
折れ曲がった木枠や、ひび割れ等が発光し、見る見るうちに修復さ
れていくよ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮僕は、その光景から静かに目を背けた。
今回のほかに、偶にネカネやアーニャが使ってるのを見たことがあ
るけど⋮⋮やっぱりダメだ。
こういう派手派手なエフェクトを見るたび、
︻魔法︼が如何に非現実
的なものであるのか思い知らされる。
現実感が、薄れていく錯覚を受けるんだ。
111
﹁⋮⋮ふむ、こんなもんじゃろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮そんな事を思う内に、どうやら修復が終わったみたいだ。
一息ついたスタンの声に背けていた背けていた目を戻すと、そこに
はドアが破壊される前と寸分変わらない姿で存在していた。
部屋の中にあった木片とか、木屑とかも全部跡形も無く消えてい
て、さっきまで散らかっていたとはとてもじゃないけど思えないよ。
蓑虫ぼーずよい﹂
│││本当、エフェクトの派手さを除けば起こる事象はリアルブー
トにそっくりだ。
﹁これで良いじゃろ
⋮⋮ほんと、人をおちょくるのが好きだね。この爺さんは⋮⋮
り向いて肩をすくめた。
の仕上げとばかりに開かれたままの扉を足で蹴り閉めて、こちらを振
椅子の背もたれに額をつけて憤っている僕を尻目に、スタンは最後
!
?
そうして僕のベットに腰掛けて、掌を僕に向かって差し出して来
る。
⋮⋮何を求めているのか察した僕は、知らずに握り締めていた水筒
をスタンに向かって力を込めてぶん投げた。
﹁っとっと⋮⋮なんじゃい、せっかく直してやったんじゃから、もー
ちっと労わったらどうじゃ﹂
﹁⋮⋮こ、こわしたの、アーニャ⋮⋮だし、っぼ、僕は、何もしてない。
⋮⋮労わったり、礼を言う、義理なんて、な、無いね﹂
⋮⋮本当は僕が押し倒した事による影響も少なからずあるんだろ
うけど、いちいち言わない。
アーニャがこの扉を壊したのは紛れもない事実だし、それにいっつ
もウザい程お姉さんぶってるんだからその責は全て背負ってもらお
何やらネカネに聞いておった状況よか、幾分
﹂
め。ワシがぼーず位の頃は、そりゃあ元気に外で遊んどったもんで│
││﹂
﹁⋮⋮ぐ、ぐくっ。そ、で、結果出来上がった惨状が、このド糞︵ドキュ
112
うじゃないか。ふひひ。
﹁⋮⋮ホントかのぅ
酷かった気がするんじゃがの
こんの糞ぼー
やりすぎでさ、ああ、あ、頭、スッカスカになってんじゃね
ひっ、白痴乙﹂
﹂
﹁│││ひょっひょっひょ、言うようになったのう
ずが﹂
﹁んふひひひ、ふひひっ、ふひ、ひ│││ギッ
?
﹁ったく、少しは他のガキどもみたいに外で遊んでこんか、引き篭もり
?
?
良い拳骨を貰ったけど、反省も後悔もしていない。
!!
ふひ
﹁あ、あんたの方が耄碌してただけだろ さ、酒とか、タバコとか、
?
?
ソ︶爺でございます、ふひっ﹂
拳骨の音がもう一回、僕の部屋の中に響いた。
﹁が⋮⋮かかか⋮⋮っぐ⋮⋮﹂
﹁ふん⋮⋮じゃがのうぼーず、真面目な話、いい加減外に出た方がええ
ぞい﹂
ズキズキと痛む頭頂部をさすりながら視線を上げると、拳骨を下し
た手を振りながらこっちを見下ろす目が二つ。
生え放題の眉毛に隠れたスタンの瞳が何時ものだらしの無い姿か
らは想像も出来ないような鋭い光を湛え、僕を見ていた。
それま
その真っ直ぐ見つめる瞳から逃げるように、僕は彼から目を逸ら
す。
⋮⋮⋮⋮﹂
クドクドと説教が続く。
﹂
⋮⋮また始まった、スタン印の説教地獄。
この老人、いつもは﹁面倒じゃ、面倒じゃ﹂とか言いながらしょっ
ちゅう人の精神を逆なでするような言動をしてるのに、こと説教とな
ると趣味なんじゃないかって疑うレベルで長話を始めるんだ。
普段ネカネやアーニャに何を言われても受け流している僕だけど、
113
﹁ぼーず、アーニャが帰ってきたときしか外出せんじゃろ
での一月近くは村に降りてこんかったしの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
達にまかせっきりと言う話じゃろ
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮別に毎日村の方に来い、とは言わんさ。じゃがの
せめて週
﹁食いもんの補充やら洗濯やら⋮⋮ぜーんぶ時折来るワシや他の老人
?
に一度はワシの所に│││酒場にでも顔を出してくれんかと
?
?
この状態のスタンから受ける説教は無下にすることは出来ない。
文句をつけようにも、言葉の端々に心配するようなニュアンスが伺
えるから、口が挟みにくいんだ。卑怯なことこの上ないね。
年寄りはこれだから嫌なんだ。拳骨だけで終わらせろよ、と舌打ち
一つ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ホレ、良く見たらぼーずのコート。何か分からんがベッタベタに汚
れとるじゃないか。少しは綺麗に使うようにしてじゃなぁ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁確かに村の連中の中にはぼーずに辛く当たる輩も居るのは確かじゃ
わい。じゃが、それでも心配しておる者も居って⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ネカネやアーニャは元より、ウェストやエルザ、コンのとこの娘っ子
それにワシも⋮⋮⋮⋮﹂
その聡明さを別の部分に
114
もぼーずの事を心配しとるようじゃぞ
﹁⋮⋮⋮⋮誰だよ﹂
中々聡いようじゃし別に構わんじゃろ
﹁本 来 な ら ば 三 歳 児 に す る 説 教 で は な い の か も 知 れ ん が、ぼ ー ず は
唄にして意識が落ちても不思議じゃない。
⋮⋮なんだかんだ言っても三時間しか寝ていないんだ、説教を子守
子の背もたれに頭をくっつける。
とりあえず僕はそう妥協する事にして、何時眠ってもいいように椅
けどね。
まぁ、おかげでディソードの事から意識を逸らせるのはありがたい
│││説教、長くなりそうだなぁ
眠が足りなかったかと溜息をつく。
僕は頭の中を走り抜ける頭痛をこめかみに指を当てて抑えつつ、睡
人物の名前を挙げながら、したりげな雰囲気で説教を続けるスタン。
やっぱり痴呆でも始まっているのか、所々僕とは面識の無い﹁筈﹂の
?
?
振り分けてくれればワシらもちっとは⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
│││徐々に視界が空ろになって行き、頭に霞がかかって行く中│
││僕はふと自分が着ているコートの端に目が行った。
ネカネの作ってくれたサンドイッチ、その中身のソースがべったり
とこびり付いた、そのコートの裾の部分にかかれた刺繍││︻ネギ︼
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
僕は何故、これを抵抗無く着られているんだろう
そう、思って。混濁しそうになる意識の中で、もう少し深く思考し
ようとして│││
﹂
﹁こりゃ、聞いとるんかバカタレ﹂
﹁ごが⋮⋮っ
⋮⋮説教は、まだ続くみたいだ。
115
?
││脳天に落とされた拳骨で、疑問が拡散していった。
!
第6章 追加現実
│││││││││夢を、見ている。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮気づけば僕は、青と白の世界にいた。
何処までも続くような、広く、高い、青い空。そしてそれをくすみ
の無い白い雲が彩りを加えていて。
暖かな太陽は優しい光を放ち、頬をなでる風はとても穏やかで、眠
くなるような心地よさを運んでくる。
﹁│││⋮⋮﹂
足元に広がるのは、まるで鏡面のように澄んだ湖。
僕の足を中心に波紋を広げるそれは天空の青と白とを映し出して、
それが無ければどちらが空なのか分からないほどだ。
上を見上げても、下を向いても空、空、空│││⋮⋮
見渡す限りの青空。何時までも続く穏やかな空間に僕は立ってい
た。
ここは何処で、どうして僕がここに居るのか。そんな疑問は一切浮
かぶ事は無く、ここに居るのが当然だと思っていて。
何も不安に思う事は無く。
何も期待する事は無く。
何も負うべき義務は無く。
何者にも侵される事も無く。
そしうして何をするでもなく、僕はただそこに立ち続ける。
目を閉じて、穏やかな空気を感じ続けるんだ。
⋮⋮安息だけが、そこにはあった。
││││││││││││夢を、見ている。
116
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ふと背後に気配を感じて、僕は閉じていた目をゆっくりと開き、そ
の気配へと振り向く。
⋮⋮すると僕が振り向いたその先には│││剣が、水面に突き刺
さっている姿があった。
│││剣、なのかな。
突起も、飾りも、余計なものは一切付いてないシンプルなシルエッ
トと│││そして、それに隙間無く巻きつく茨の姿。
もはや剣とは呼べないかもしれない姿をしたそれは、表面から覗く
葉脈のような半透明のガラス部分を脈動させ、赤い明滅を繰り返し。
金属のようにも、有機物の様にも見える繊細さと。思わず息を呑ん
で見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせていた。
それに覚えるべき苛立ちは、今の僕には無い。
117
それに関する記憶も、今の僕には無い。
それに対する理解も、今の僕には無い。
﹂
⋮⋮だから、それに内包されている意味も、今の僕には分からない。
﹁⋮⋮⋮⋮
他の茨が金属の如き質感を持っているのに反し、それはカビだらけ
でに枯れていた。
それはまるで水をやり忘れた植物のように光彩を失って、見事なま
くなっているから。
だって、その三本の内の一本は千切られたように根元の部分から無
⋮⋮いや、伸びていた、のが正しいね。
本の茨が剣を中心に+の字に伸びているのが分かるよ。
その茨が続く先には例の剣が在り│││僕のほかにも三つ、合計四
あるものと同種のものらしき茨が、何時の間にか巻き付いていた。
腕を持ち上げてみると、肘の先から二の腕にかけて⋮⋮直ぐ其処に
⋮⋮それを見ているうち、僕は右腕に違和感を覚えて。
?
の紙のよう。触れただけでパラパラと風に乗って散っていく。
この青空に埋め尽くされた清清しい空間にはあまりにも不釣合い
だ。
││││この茨の先に居た奴は、一体何処に行ったんだろう
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮剣の方へ目を向ける。
僕の茨と、その千切れた物を除いた二本の茨は、それぞれ対極の方
角に伸びていた。
その茨の蔓は、僕のそれを加えてTの形に展開されていて、空の向
こう│││水平線の彼方へと続いている。
それぞれの先に何が在るのか⋮⋮あまりにも遠すぎて僕の視力で
は伺う事が出来なかったよ。
│││その光景はまるで二つに分かたれた道筋のようで、中間に居
る僕に進むべき道を選べと言っているみたいだった。
﹁⋮⋮⋮⋮立て看板、とか﹂
それならせめて、どっちに行けば何があるのか位は書いていて欲し
い。そう思うけど、やっぱり別に関係ないかもしれない。
どちらを選ぶか、なんて。それを決める時は、今じゃない気がした
から。
﹁⋮⋮⋮⋮、﹂
そうして剣を見つめたまま何をするでもなく突っ立っていると、右
腕の茨が脈動し始める。
最初は弱弱しく、次に激しく。まるで、息を吹き返した心臓が再び
動き出すように。
その脈動は僕の腕を締め上げる勢いで激しさを増し、同時に赤い光
118
?
もその輝きを強めて行くけど⋮⋮何故か、痛みは一切無かった。
かなりきつく締め続けられているはずなのに、痛みどころか圧迫感
も感じない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
また、疑問。
僕以外の物も同じなのかな、と光を追って再び視線を剣の方角に向
けると│││やはりと言うべきか、そこには同種の光景が繰り広げら
﹂
れていて│││
﹁⋮⋮⋮⋮
⋮⋮いや、違う。少しだけど、一本だけ赤い光が脈動するタイミン
グがずれている。
その光景はまるで、茨の先にある何かが僕と︻もう一人︼に何かを
送り込んでいるようにも見えて。
現金な話だけど、それを意識した瞬間、僕はその赤い光が脈動する
度に、自分の中に送られている何かの感覚を理解した。
その感覚はとても独特なもので、説明が難しいけれど│││︻僕︼の
中に、
︻ぼく︼が追加されている。あえて言葉にするなら、そんな感じ
だ。
﹂
⋮⋮普通ならば、嫌悪するべき出来事のはずなんだろうけど│││
﹁⋮⋮く、ふ⋮⋮ひひ⋮⋮
それだけで、︻僕︼が︻僕︼であることが磐石となるんだ。
新しい︻ぼく︼が出来上がっていく事を、
︻僕︼が認識出来ている。
かった。むしろ妙な安心感を抱いて、安堵の溜息をついたよ。
│││だけどそれを理解した僕は、その感覚に何の疑問も抱かな
!
119
?
加えて流れ込んでくるぼくの中には、何の感情も付属されていなく
て。
攻撃も、侵食もされることも無く。
強く強く、どこまでも強固な一線が僕たちの間には存在しているん
だ。
⋮⋮だから、自分が脅かされる事が無いと確信できて│││その事
に、酷く安心する。
そうして、
︻僕︼と︻僕︼の妄想と、不特定多数の︻彼ら︼の妄想を、
彼│││或いは彼女は。ただ、並べ続けていく。
感情は無く、言葉も無く。意思も無く。あるのは唯、事務的な意識
だけ。
それがそいつにとって幸せな事なのかどうか⋮⋮僕には、判断する
事は出来ないけど。でも、僕にはどうする事も出来やしない。
だって、あの茨の先にあるものは│││⋮⋮
﹂
なっていた。
自分が何を思っていたのか、安心していたのか。その全てが砂のよ
うに崩れ落ち、風化し、消え去って。
そして、自分が理解していたという事すらも。僕が、
︻どちら︼だっ
たのか、さえも。
全部全部、跡形も無く僕の中から消え去って。
│││││││││全ては、一瞬の邂逅。
そうして、世界は、再び元に戻る。
│││││││││僕は、夢を見ている。
120
﹁⋮⋮⋮⋮
?
我に返った瞬間、僕は自分が何を理解していたのかを理解できなく
│││⋮⋮あるものは⋮⋮
?
⋮⋮気づけば僕は、青と白の世界にいた。
何処までも続くような、広く、高い、青い空。そしてそれをくすみ
の無い白い雲が彩り、暖かな太陽が優しい光を放ち。
頬をなでる風はとても穏やかで、眠くなるような心地よさを運んで
くる。
足元に広がるのは、まるで鏡面のように澄んだ湖。
僕の足を中心に波紋を広げるそれは天空の青と白とを映し出して、
波紋が無ければどちらが空なのか分からないほどだ。
上を見上げても、下を向いても空、空、空│││⋮⋮
見渡す限りの青空。何時までも続く穏やかな空間に僕は立ってい
た。
どうして僕がここに居るのか、そんな疑問は一切浮かぶ事は無く、
ここに居るのが当然だと思っていて。
何も不安に思う事は無く。
何も疑う事は無く。
何も負うべき義務は無く。
何者にも侵されることも無く。
そうして何をするでもなく、僕はただそこに立ち続ける。
目を閉じて、穏やかな空気を感じ続けるんだ。
⋮⋮安息だけが、そこにはあった。
│││││││││いや、彼は、
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ふと背後に気配を感じて、僕は閉じていた目をゆっくりと開き、そ
の気配へと振り向く。
⋮⋮すると僕が振り向いたその先には│││剣が、水面に突き刺
さっている姿があった。
│││剣、なのかな。
突起も、飾りも、余計なものは一切付いてないシンプルなシルエッ
121
トと│││そして、それに隙間無く巻きつく茨の姿。
もはや剣とは呼べないかもしれない姿をしたそれは、表面から覗く
葉脈のような半透明のガラス部分を脈動させ、赤い明滅を繰り返し。
金属のようにも、有機物の様にも見える繊細さと。思わず息を呑ん
で見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせていた。
⋮⋮その姿に覚えるべき苛立ちは││││││
│││││││││││彼は夢を、見続ける。
│││││││││││それは、無限に繰り返す。
│││││││││││記憶も何も、引き継がずに。
│││││││││││彼が、その手に︻妄想︼を受け入れるまで、
ずっとずっと、続いていく。
│││││││││││そう、それを手に取るまで、永遠に。
その世界は、ずっと│││││││││││││││
■ ■ ■
│││ピリリリ、リリリ。
電子音。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
│││ピリリリ、リリリ。
│││ピリリリ、リリリ
電子音。
電子音。
122
単調なリズムを刻む、電子音。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
何時も通り、電球の光も外からの光も無い、カーテンを閉め切った
真っ暗な部屋の中。
机の上に置かれたPCのディスプレイに灯る唯一の光源に顔を焼
かれながら、僕はその音を聞いていた。
何の変哲も無い、ただ適当に高音を組み合わせただけの音。機械に
しか発する事の出来ない無機質な音。
だけど無意味という訳じゃなくて、それは確かな意味を持って鳴り
続けていた。
そして、微かな安堵と大きな苛立ちとを持って、僕の耳朶を打ち続
ける。
│││Call、Call、Call⋮⋮
その音が鳴り響くたび、そんな文字と、とある人名とが発信源から
浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返して。
オレンジ色の光をチカチカと明滅させながら、まるで僕を呼んでい
るみたいに。
│││そう、まるで自分の事を手にとってくれ、と言わんばかりに
その音を鳴らし続けていた。
﹁⋮⋮⋮⋮誰だよ⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮まぁ、つまりは電話の呼び出し音な訳だけど。
電話に関しては碌でもない記憶しか無いから、呼び出し音を聞いて
いると苛々してくる。
僕は机に置かれたPCに向かい合った体勢のまま、直ぐ隣に置かれ
ている喧しい音を鳴らしている電話の子機を見つめて。
﹁│││っげ⋮⋮﹂
123
そのオレンジに光る画面に映っている送信者の名前を見て、思わず
小さくうめき声を上げた。
│││着信:ネカネ。ネカネ・スプリングフィールド。
⋮⋮僕の最も苦手とする人間の名前が、そこには表示されていたか
ら。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮この時代、社会人でも携帯電話を持っている人間は少なかった
はずなんだ。多分向こうは公衆電話か、噂の魔法学校にでも備え付け
てある電話でも使ってるんだろうね。
個人所有の電話で無い以上、この電話にネカネの名前が表示される
訳は無いんだけど⋮⋮でも何故か、しっかりくっきり黒いドットで表
124
示されている。
もしかしたら、持ち主の魔力とか何だかを感知して色々しているの
かもしれない。だってほら、電話の裏側に刻まれてる如何にもな魔方
陣が淡い金色に光ってるし。
魔法使い⋮⋮ふむ。生活用品に魔法を使うのはありえない事じゃ
ないだろう。
少しは自重しろといいたい。僕の精神的な平穏のためにも。
⋮⋮でも、でもさぁ。こういう電子機器にまで魔法とか、何か違く
ね
まさかこのPCにも魔法的な何かがあったりとかしないよね
PCを撫で回して確認。
﹁⋮⋮な、なるほど、分からん﹂
まぁそれはともかくとして、電話だ。
│││取るべきか、取らざるべきか。
﹁⋮⋮はぁ⋮⋮﹂
?
?
当然僕としては迷わずこのまま居留守を使う道を推奨したい⋮⋮
のだ、が。今後のことを考えると取って置いた方がいいかも知れない
とも思う。
後で居留守︵今思ったけど僕は基本的に引き篭もってるから留守の
場合が無い。それなのに居留守って。馬鹿か︶を使ってたことがばれ
て、またネカネに泣かれるのも困る。
⋮⋮以前なら幾らネカネが泣こうとも我関せずを貫いて居たんだ
ろうけど⋮⋮。
が、かといって。彼女からの電話を取るのも躊躇せざるを得ない。
恐怖的な意味で。
何か用件があるならそれを早く済ませてくれればいいのに、どうも
ネカネは僕と長く喋りたがってるみたいで、どんな些細な事からでも
会話を膨らませようとして来るんだ。
⋮⋮こっちはあんたの一挙手一投足にびくびくしているって言う
のに、何を話せと。この前のお茶の時だって相当無理してたのに。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぅ⋮⋮⋮⋮⋮﹂
│││ピリリリ、リリリ。
│││ピリリリ、リリリ。
僕がそんな事をうじうじうだうだあーだこーだ悩んでいる間にも、
喧しく電話は鳴り続けてる。
早く留守電にでもなればいいのに、そういう設定でもしてあるのか
一向に留守電サービスに変わる気配が無い。
⋮⋮いい加減諦めて切っても良さそうな物なのに、中々に執念深く
て本当嫌になるね。
どうせ話す内容なんて、何月の何日には帰ってくるとか、ちゃんと
ご飯食べてるかとか、そんな事ぐらいしか話題無いのになぁ⋮⋮。
ベースには電話なんて設置されてなかったし、七海に︵強引に︶勧
められるまで携帯電話すら持って無かった僕。
125
外部の人間︵ネットの向こうの奴等︶からの連絡は主にメールが中
心だった僕。
そんな人間との会話のキャッチボールなんて弾むわけ無いんだし、
﹂
それを期待する方が間違ってると思うんだけど。
﹁⋮⋮そこんとこ、どう、思います⋮⋮
│││ピリリリ、リリリ。
│││ピリリリ、リリリ。
魔導電話︵仮︶に尋ねてみるけど、返ってくるのは当然ながら電子
音。でも心なしか﹁はよ取れや﹂と切れ気味な感じに聞こえてきたの
は気のせいでしょうか。
だってほら、電話の裏側に刻まれてる如何にもな魔方陣が濃い赤色
に変わったし。
│││ピリリリ、リリリ。
│││ピリリリ、リリリ。
│││ピリリリ、リリリ。
﹂
│││ピリリリ、リリリ。
﹁⋮⋮ああ、もう⋮⋮
ればいいんだろ
に向かう事もできやしない。
僕は微細に震える右手を、胸中から湧き出るヤケクソの感情で押さ
え込んで、ゆっくりと伸ばす。
そうして充電器に設置されていた電話をそれに輪をかけてゆっく
りと握り締め、深呼吸。浅くなる呼吸を整えながら、じっくりと指を
這わせていく。
126
?
⋮⋮分かった、無駄な時間稼ぎはもう止めるよ。取る。取るよ。取
!
止むことの無い電子音にいい加減苛々が限界だよ。集中してPC
!
﹁⋮⋮はぁー⋮⋮っ、は、ぁー⋮⋮っ﹂
まずは♯のボタンに親指が触れ、次に9、それから5、そして1。保
留のボタンに指の腹が引っかかり、その進行が一瞬止まってまた再
開。
僕の指が通話ボタンへと近づくごとに、徐々に視界に映り込んで来
るそれが異様な雰囲気を放っているような感覚が強くなって、血の気
が引いていき親指に血が通わなくなっていくよ。
⋮⋮あ、ちょっと気分が悪くなってきた。
﹁⋮⋮っぐ、ぎ、ぎ⋮⋮ぎ﹂
視界が歪み、脂汗が湧き出る。眼球はふらふらと焦点を失い揺れ動
き、涎が粘つく。
の形を維持したままスピーカーを右耳に押し当てた。
⋮⋮未だに続いてる電子音が鼓膜の傍で鳴り響いて、その煩さに軽
く頭痛がするよ。
さらに、口元のマイクに反射する僕の吐息の音が電子音と合わさっ
て不快な旋律を奏でてる。不快指数20%増し。
│││そうして、そんな不協和音をBGMにして、
127
噛み締めた下唇から血が滲み、口内に鉄の味が広がっていって。口
の中が生臭くて不快指数が10%増しだ。
電話に出ようとするだけでこの有様。七海のアレやらセカンドメ
ルトのソレやらが余程深いトラウマになってるみたいだ。
⋮⋮もうメールでいいじゃんかよぅ⋮⋮この際魔法とかメルヘン
﹂
技術使ってやってもいいからぁ⋮⋮
﹁⋮⋮ん、ぎ⋮⋮ぃぃ⋮⋮
!
そんな呪詛を心の中で吐きつつ僕は通話ボタンに指を乗せ、その手
!!
﹁⋮⋮ぅ、ぉぉお。ぉおぉぁあッ
│││擦れた声
て│││
﹁││││││ッ
﹃早
﹄
く
電
﹂
話
に
﹂
で
な
い
﹁││││││ッツェァアァーーーーーーーーーーーッ
轟いたのはアーニャの怒声。
﹂
よ
バ
るソプラノヴォイスが貫通。ぶち破れる鼓膜とぶっ壊れるカタツム
リ。
僕の聴覚機能を根こそぎ抉り取ったその声は、狭い室内に反響して
僕の平衡感覚をも完全に破壊した。
僕は堪らずもんどりうって椅子ごと左方向へと倒れこみ、どたんば
たんと喧しい騒音を奏でる。僕自身には聞こえなかったけどさ。
⋮⋮今度はPCを巻き込まないで済んだみたいだけど、その代わり
﹂
なのか何なのか左肩を変な風に床に打ち付けたみたいだ。左肩周辺
に鈍い痛みが走ってるよ。
﹁お⋮⋮おご、おご、ご、ご⋮⋮
!
128
カァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さ
萎縮しそうになる声帯から無理矢理声をひねり出し、自身を鼓舞し
!!
僕は、勢いを込めて通話ボタンを押し込
!!
通話ボタンを押し込んだ瞬間右の鼓膜から左の鼓膜まで突き抜け
!?
!!
﹄
﹃さっきからずーっとまってたのに
どうせ部屋から出ないでしょっ
何で出ないのよっ
!
あなた
!
あなたに文句いいた
でもネカネおねえちゃん、タクが電話
﹄
倒れた椅子を頼りに立ち上がり、その途中に手を伸ばし電話を回収
だふら付いてる頭を抑えて左右に振って。
とりあえず火病を起こしてるアーニャの事は一旦さて置き、僕はま
﹁⋮⋮ぐ、く﹂
得。こんな事になるんだったらはやく出てれば良かったよ、くそ。
最悪なコンディションの中、僕の冷静な部分が感情を無視して納
りを表していたという訳でしたか。
⋮⋮なるほど、あの魔方陣の赤い色は電話機ではなくアーニャの怒
ほどにアピールしてるよ。
ドット絵の方も両手を上下に振り回して、怒っている事をあざとい
てくる。
は届いたらしく、ぷんすかと可愛い擬音の付きそうな声でそう反論し
搾り出すような声、かなり小さな声量だった筈けどアーニャの耳に
くて代わってもらったの
に出てくれないって泣きそうだったからっ
﹃わたしも一緒にいたのよ
﹁な、なん⋮⋮でぇ、ッカネの、筈じゃ⋮⋮﹂
⋮⋮もちろん黒いドット絵で。
怒っている姿が映し出されていたよ。
いた子機の表示画面に、デフォルメされたSDサイズのアーニャが
頭を動かし涙の滲む瞳でその方角を見てみると、こちらの方角を向
た電話の子機からアーニャの文句が垂れ流されてくる。
耳と、肩と、頭の奥。三つの痛みに耐えている僕に、頭の横に転がっ
!?
する。何か手の中からぎゃんぎゃん叫び声がひっきりなしに響いて
129
!
!
!
くるけど、僕はそれをスルー。
そして椅子を起こそうと背もたれの部分に指を引っ掛けようとし
たけど⋮⋮片手が電話で塞がってる事に気づいて、手を引っ込めた。
⋮⋮三歳児の筋力では椅子を持ち上げるのにも結構な力が要るん
だ、片手だけでどうにかできるとは思えないね。
し ょ う が な い か ら 椅 子 は そ の ま ま に 放 置。小 さ く 聞 こ え る ア ー
ニャの喧しい説教を聞き流しつつ部屋の隅に置いてあるベットに向
かい、仰向けに寝っ転がった。
﹄
⋮⋮まだバランス感覚がおかしい。見上げる天井がゆらゆらと揺
わたしの話きいてるの
らめき、車酔いに近い感覚を受けるよ。
﹃│││だから、ねぇちょっと
﹁⋮⋮き、聞い、てるよ⋮⋮﹂
* *
* + うそです
∀`︶E︶
n ∧︳∧ n
+ ︵ヨ︵* じゃあさっきわたしが何て言ったか﹄
あるん⋮⋮っじゃないの
﹂
﹃ネカネ︻お・ね・え・ちゃ・ん︼
﹄
﹁そ⋮⋮それはもう、良いから。⋮⋮ネ⋮⋮ッ、ネカネ、から。何か話
﹃⋮⋮ほんとにぃ
!?
ど、それを堪える。だって言い返したらまた面倒くさい事になるのは
別にお前には関係ないじゃないか、と口をついて出そうになるけ
僕のネカネへの呼称にまたも噛み付き、大声を出す。
!!
?
﹄
130
!
Y Y * ´
?
目に見えて以下略。
﹃もー⋮⋮
!!
⋮⋮アーニャへの返答を無言のままで避けていると⋮⋮⋮⋮やが
て諦めたのか、通話口の向こうで溜息の音が聞こえた。
ちらりと電話の表示画面へ目を向けてみると、SDアーニャも溜息
を吐く様な動作をしていたのが目に付いたよ。
﹃⋮⋮帰ったとき、おぼえてなさいよね﹄
最後に不貞腐れた声音でそう言って、アーニャの声が途絶えた。忘
れた。
ノイズのような音が混じり、次にアーニャと誰かが会話する声が
うっすらと聞こえて│││電話の裏側の魔方陣が放つ光が淡い金色
へと戻る。
﹂
131
﹁え、あ、ちょっ│││
そして│││
アーニャと何を話しているのは分からないけど、とりあえず深呼
憂鬱な気分で溜息をひとつ。凝固した身体が弛緩する。
⋮⋮来た。来てしまった。
フェクトが出てて、それに耳を傾けている感じだ。
サイズのネカネが映っていたよ。何か画面外から物言いみたいなエ
ぎこちない動作で電話を見れば│││やっぱりというべきか、SD
い合う声。
なり。くぐもって聞こえてくるのは、アーニャとネカネが何事かを言
声が聞こえた気がしたけど、直ぐにまたノイズが走り彼女の声が遠く
そうして一瞬アーニャより少しだけ大人びた声が│││ネカネの
│││ザリッ
﹃あ⋮⋮えーと⋮⋮ネ│││﹄
!
吸。どっくんどっくん煩い程に脈動してる心臓を感じながら、今のう
ちに精神だけでも落ち着けておく事にする。
⋮⋮僕がネカネと話す時は何時もこんな感じだ。
自分でも怖がりすぎと思わないでもないけど、これでも随分と良く
なったほうだと思う。だって吐いたりしてないし。
というか、これは電話越しっていう事も結構関係しているんじゃな
いかな。⋮⋮うん、多分。
お姉ちゃんだけど⋮⋮聞こえてるかしら
﹄
僕は思考を明後日の方角へと散らしつつ、深呼吸を続ける。そして
│││
﹃え、と⋮⋮タクミ
﹁⋮⋮う、ん。⋮⋮き、きこ⋮⋮聞こえる⋮⋮﹂ ば僕の恐怖心が邪魔をする。
これ以上離れようとすればネカネが追ってくるし、近づこうとすれ
るべきだろう。
ちょっとぎこちない感じがあるのはまぁ⋮⋮仕方が無いと割り切
着いた感じでの会話が出来た。
⋮⋮今度は大丈夫。必要以上にテンパる事も無く、僕基準では落ち
アーニャとの話が終わったのか、ネカネの声が再び耳に届いた。
?
│││僕とネカネの関係は、こんな感じでぎこちなさが目立つくら
風邪とか、ひいてない
﹄
いが、歩み寄れる/逃げ出さない限界点なんだ。
﹃その⋮⋮げ、元気
?
なら、良いのだけれど⋮⋮⋮⋮﹄
﹁う⋮⋮うん。まぁ、⋮⋮な⋮⋮っんとか⋮⋮﹂
﹃そう⋮⋮
﹂
﹃⋮う、ん⋮⋮⋮と⋮⋮⋮⋮﹄
﹄
﹁⋮⋮⋮⋮っちは
﹃えっ
?
132
?
?
﹁⋮⋮⋮⋮⋮ん⋮⋮﹂
?
﹁っそ⋮⋮⋮⋮そ、っち⋮⋮は⋮⋮﹂
?
﹃
﹄
⋮⋮あ、ぅ、ええっ、私⋮⋮お姉ちゃんのほうは大丈夫
と気を付けてるし⋮⋮えと、アーニャも元気だし⋮⋮
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮そ、そう。⋮⋮⋮⋮なら⋮⋮⋮⋮﹂
う、ね
﹄
﹁⋮⋮⋮⋮ん⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮えと、それで⋮⋮その﹂
﹁⋮⋮⋮⋮う、ん﹂
﹃⋮⋮⋮⋮その⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹄
﹃ご、ご飯とか⋮⋮ちゃんと食べてるの
晩って、食べてる
ちゃん
その、欠食⋮⋮えと、朝昼
﹃ええ、わた⋮⋮お姉ちゃん達なら、心配ないから⋮⋮⋮⋮ありがと
!
ある、けど﹂
﹃⋮⋮そ、そう⋮⋮ちゃんと食べなきゃダメよ
ちゃうから⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮ん﹂
﹃ええ⋮⋮⋮⋮。⋮⋮⋮⋮えーっと⋮⋮⋮⋮﹄
?
﹄
?
﹃え
⋮⋮⋮⋮あの、何て
﹄
﹁⋮⋮ぇ⋮⋮ぅ⋮⋮⋮ぁ、ッコー⋮⋮ラ⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮、何か、ある⋮⋮
﹃⋮⋮ え と ⋮⋮ 何 か、欲 し い 物 と か、買 っ て い け る か な、っ て
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぇ⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮その時に、何か⋮⋮﹄
﹃⋮⋮あ、お姉ちゃんとアーニャ、近いうちに帰れると思うのだけれど
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぅ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
身体とか⋮⋮壊し
﹁⋮⋮っい、いち、一応⋮⋮は。⋮⋮うん⋮⋮⋮⋮偶、に⋮⋮抜くこと、
?
?
?
?
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮ぅ⋮⋮ん⋮⋮⋮﹂
﹃あ⋮⋮うん。⋮⋮ちゃんと、買っていくわね﹄
﹁⋮⋮コーラ、っが、良い⋮⋮⋮⋮買って、くるん、っなら﹂
?
133
!
!
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮その、他には⋮⋮
﹁⋮⋮⋮⋮特に、無い⋮⋮﹂
﹃そ、そう⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮ん⋮⋮⋮⋮﹂
﹄
﹃⋮⋮⋮⋮その⋮⋮⋮えっと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮っぅ⋮⋮﹂
﹃⋮⋮その⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
⋮⋮⋮⋮これはひどい。
明確に壁を感じる会話。僕とネカネの両方が、お互い違う感情から
どもり、上手く話す事ができない。
会話の内容を選択するのに時間がかかって、沈黙の時間が多くて気
まずい雰囲気が半端じゃないよ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
何時までも続く沈黙。直接顔をあわせての会話よりも間が持たな
い。
⋮⋮僕の電話への苦手意識も大概だけど、どうやらネカネも電話
⋮⋮というか、機械関係が苦手みたいだ。
そう言えばPCを買って貰った時も、機種の指定からプロバイダの
設定まで全部商人の人に任せきりだったね。
本人的には色々調べて頑張ってたみたいだったけど、どうしても分
からなかったみたいだったよ。涙目でカタログ読み込んでたネカネ
テラモエス︵現在主観︶
⋮⋮最終的に型遅れのPCが届いた時に、僕は激怒して割と酷いこ
134
?
と言っちゃった記憶があるけど⋮⋮今となっては悪い事したと思っ
てる。
基地外じみた言動して、気を遣ってくれてるのに酷い事言って、物
をねだったと思ったら届いた物に文句を言う。まるでDQNじゃな
いか。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
⋮⋮というか、なんで電話なんかして来るんだろう。お互いに電話
が苦手だっていうんなら、手紙でも良いじゃないか。
多分電話してくるのは、僕の声を聞きたいとかそんなこっ恥ずかし
い理由なんだろうけど⋮⋮それなら確か、手紙に魔法をかけた奴でも
同じ様な事が出来るって話だし。
考えを巡らせる。
︵⋮⋮この部屋に電話
︶
?
電話が苦手な僕の部屋に
酔っ払ったスタンから聞いた
機会が苦手なネカネの家に
?
疑問。
何で
?
135
何でも、自分が喋る姿を立体映像にして手紙に籠めるとか何とか
⋮⋮ホログラムみたいなやつかな
話だから良くワカンネ。
くても│││
﹂
⋮⋮⋮⋮な、なにかしら
﹁⋮⋮⋮⋮あれ
﹃
﹄
とにかくそんな便利な物があるんなら、無理して電話なんて使わな
?
それに反応してネカネが問いかけてくるけど、僕はそれを無視して
?
?
ふと、声が漏れた。
!
わざわざ
それ了承したの
僕が
?
あるのはラジオだけで、テレビも無いのに。
⋮⋮置く
?
て⋮⋮作業用の机の上には、光を放つPC。
│││それが、この部屋にある全て。
﹂って│││﹄
?
************
│││なら、今実際に握ってるこの電話機は
さっきの﹁あれ
│││この電話、何時置かれたっけ
﹁⋮⋮ね、ぇ﹂
﹃あ⋮⋮タ、タクミ、どうしたの
?
﹂
﹁⋮⋮ こ、こ の ⋮⋮ 家 に ⋮⋮ さ。⋮⋮ っ で、電 話 な ん て、あ っ た
?
?
ベットがあって、布団があって、達磨ストーブがあって、椅子があっ
薄暗い室内、埃の積もった棚にダンボールの山。
************
間に置くはず無いよ。
拒否するね。PC以外の外部からの被アクセス方法を僕が自分の空
⋮⋮それは無い。もし僕の部屋に電話を置こうとすれば、絶対僕は
?
⋮⋮え、ええ。でなければ、今こうしてお話できてないし│
⋮⋮⋮⋮っけ⋮⋮
﹃⋮⋮
?
を孕んだ物に聞こえた気がした。
?
﹃⋮⋮いえ、何でもないわ。ちょっとこめかみがピリッとしただけだ
﹁⋮⋮な、何⋮⋮、何か⋮⋮あ、ったの⋮⋮
﹂
│││耳に当てた電話機から聞こえるネカネの声が、一瞬何か痛み
││っ﹄
?
136
?
?
から﹄
﹁⋮⋮⋮⋮そ、そう⋮⋮⋮⋮﹂
﹃それで⋮⋮その、何で今になって電話のことなんか⋮⋮
﹄
﹁⋮⋮⋮⋮ん⋮⋮ちょっと、きに、気に⋮⋮なって⋮⋮﹂
﹃⋮⋮
﹄
それを目で追っていくと│││机の上から床に落ち、部屋を斜めに
そこから黒いコードが延びていた。
あって、中にあるのは銀色の金属の突起。側面の一部に穴があって、
四角形をしたプラスチック製の置物、その真ん中に子機を置く溝が
の充電器を見る。
疑問の雰囲気を出すネカネをよそに、僕は首を曲げてPC横の電話
?
横切る形でベットの裏に回り込み、コンセントへと向かってる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮床に、落ち
?
************
片が砕け散る音が響くあたり、その拡散具合が分かるだろう。
一見何も落ちてない場所に見えても、靴を一歩踏み出す度に木の欠
が広範囲に渡ってばら撒かれてて、割と酷い有様だ。
足元にはアーニャが壊した扉の残骸が散らばっており、細かい木片
き出す。
僕はベッドの上から降りて、のろのろとPC前の椅子に向かって歩
************
コードなんて、床に這ってたっけ⋮⋮
?
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
137
?
いくら思い起こしても、僕はこの部屋に電話を置いた記憶が無い。
それどころか電話の姿を見た記憶も無ければ、それを使った記憶す
らも無くて│││
﹁⋮⋮っ﹂
⋮⋮いや、ある。あるよ。やっぱりある。
ネギの記憶には、僕が魔法学校にいるアーニャやネカネ、スタンと
電話で会話してて、こう、今と同じくこの部屋で、子機を握り締めて
│││
││││││ザリッ
﹂
﹄
138
﹁⋮⋮っぎ⋮⋮
﹃⋮⋮タクミ⋮⋮
そうだ、居間の、暖炉の横に置いてあった電話機で│││
違う、やっぱり使ってたのは子機じゃなくて、親の方だった。
﹁あ⋮⋮え⋮⋮ぇ﹂
⋮⋮いや。
││││││ザリッ
置に電話を置く奴なんている訳が、
ここ、元は│││僕が引き篭もる前は物置だったんだ。わざわざ物
だって子機が設置されてたのって、この部屋じゃないか。
│││いや、やっぱり無いよ。
?
!
************
居間へ続く扉を開いて、今は沈黙している暖炉を通り過ぎる。
暖炉の中にはまだ新しい木切れが燃えやすいよう、キャンプファイ
ヤーの時に燃やすアレみたいにかっちり組まれていて、直ぐに使える
ようにしてあった。
﹂
************
﹁⋮⋮あれぇ⋮⋮
⋮⋮あったっけ
確か無かった気がするけど。
│││記憶の混乱。
頭の中がごちゃごちゃになってぐるぐる回り、訳が分からなくな
る。
僕の記憶と、ネギの記憶に│││いや、︻僕の覚えているネギの記
憶︼と、︻今覚えているネギの記憶︼にズレがある。
今までに体験してきた出来事と昔に体験していた出来事の辻褄が
合わないんだ。情報量が増えている。
│││増えているのに、昔の事が│││ネギの記憶が、しっかりと
思い出せないのは、何でだろう
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
時みたいだった。
⋮⋮それはまるで、僕の︻設定︼としての過去を思い出そうとした
という場面が思い出せないんだ。
︻電話をしていた︼という記述はあるんだけど、
︻何処でしていたのか︼
⋮⋮それは例えるならば、文字と映像の関係に似ているよ。
?
139
?
?
﹁⋮⋮何、で﹂
│││何で、この部屋に電話があるんだ
んだ
﹃ネギ
もしもし
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何かあったの
﹄
⋮⋮だけど僕は、その違和感を不快には感じていなくて│││むし
思考能力が低下して、まともに物を考えられなくなってるよ。
くて頭の中はぐちゃぐちゃ。
確かに混乱はしている。自分の記憶に違和感を抱き、訳が分からな
⋮⋮でも実際は、心は穏やかに凪いでいた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
│││僕が︻ネギ︼となってしまった直後の様に、ね。
秘密を知ったときの様に。
僕がニュージェネに巻き込まれたときの様に、僕が梨深から自分の
グダと考え込んだり思いつめたりするんだろう。
⋮⋮普通なら、普通の僕なら、記憶の混乱を不気味に思って、グダ
ベットに寝転がった体勢のまま、天井の木目を眺める。
耳元から二人の声が聞こえてくるけど、僕はやっぱり無視をして。
︶﹄
│││なのに、どうして僕は今までそれを疑問に思っていなかった
う。
│││僕が覚えてるネギの姿と、今記憶されてるネギの情報が、違
る限り記憶にはそんな情報は無かったはずだ。
│││ネギの記憶には電話を使ってた記憶はあるけど、僕が覚えて
?
﹃︵ちがうってばおねえちゃん、ネギじゃなくて、タークーミー
?
ろ、その違和感を認識している事に大きな安心感を抱いていて。
140
!
?
?
?
﹂
⋮⋮えと、何で。って⋮⋮何がかしら
﹁⋮⋮⋮⋮何、で
﹃え
⋮⋮何でだろう
﹄
ネギとしての立場には、僕のディソードについてはあんなにも激し
い拒否感を抱いているのに。
どうして僕は、記憶のズレって言う本来忌避すべきはずの、僕の存
在を揺らがせるような事態を受け入れていられるのだろう
﹃
⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮イミフ、なんですけど﹂
⋮⋮矛盾してるじゃないか、そんなの。
│││違和感が生じている事に、違和感を感じていない。
在が脅かされるという恐怖は感じていないんだ。
感じて発狂さえしかけたというのに⋮⋮あの時とは違って、自身の存
過去、僕が妄想だった事が分かった時には、自分が崩れていく様に
?
昔の事を、ネギの事を思い出そうとする度に僕の頭を鈍い痛みが走
り抜ける。
ズキズキと、ジクジクと。ネットをやりすぎた日の痛みとは別の鈍
痛だ。まるで︻ネギ︼の過去の事を思い出そうとするのを︻何者か︼が
阻止しようとしているみたいだよ。
僕は目を閉じて、何時かのネカネの様にこめかみに左手を当てる。
目を閉じた事で、より痛みがはっきり認識できるようになったよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
どくん、どくん、と心臓に合わせるように脈打つ痛み│││だけど、
その痛みを好ましく思っていて。
そうして僕はその痛みを感じ続ける。
141
?
?
?
?
⋮⋮頭痛がする。
!!
仰向けのまま、目を閉じて。安らかな気分に浸りながら、しんみり
と。
右腕の電話のことなんか忘れて、ネカネの事も忘れて。
│││僕はただ、心地良さを感じていたんだ。
⋮⋮数秒後。
僕の﹁イミフ﹂の一言に傷ついて泣いちゃったらしいネカネを見た
アーニャがまた大声で叫んで、今度こそ僕の三半規管を完膚なきまで
に叩き壊すその時までね。
難聴になったらどうしてくれるんだよ、くそ。
142
第7章 帰還
│││メルディアナ魔法学校。
そこは拓巳らの住む山間の村より離れたウェールズの街中にある、
その名の通り魔法使いのための学校である。
木造の校舎と、石造りの廊下。そして入学式や卒業式の行われる大
聖堂。
それぞれ学年別に分かれた教室のほか、図書館や運動場。更には寮
施設まで揃い踏み。しかし校舎自体は然程大きくは無く、周囲に張ら
れた認識阻害の結界と合わさりウェールズの街中にごく自然に馴染
んでいる。
更に加えるならば、魔法の授業を行う際に起こるであろう不測の事
態を予測して、内外からの衝撃・魔法による効果を無効化する結界も
同時に張られているため、外に魔法関係の機密が漏れる可能性も限り
なく低い。
おそらく、一般人でその場所を魔法学校⋮⋮いや、何か特別な学校
だとすら見破る者は皆無に等しいだろう。
しかし旧世界に住む魔法使い達⋮⋮地球に住む魔法関係者にとっ
てはこの学校ほど有名な魔法学校は存在せず、毎年多くの見習い魔法
使い達がこの学校に入学しようと願書や紹介状を手に訪れているの
である。
それにはやはり、この魔法学校に通っていた魔法使いの中に、︻英
雄︼ナギ・スプリングフィールドの名があるという事が大きいのだろ
う。
⋮⋮事実としては︻通っていた︼というだけで︻卒業した︼という
訳ではないのだが⋮⋮まぁ校長自体も︻スプリングフィールド︼の血
族に連なる実力者であり、設備も教師の質も魔法学校としては結構な
上位に位置している。
卒業生に実力が付くのは間違いが無いため、ミーハーな者達が興味
本位で入学したとしても特に後悔はしないだろう。
学校側としても特に何か対策をする気も無いらしく、生徒が増える
143
のならばそれで良しと放置している状態だ。
さて、そんなメルディアナ魔法学校だが│││その人気とは裏腹に
倍率は低く、むしろどんな境遇にある者でもやる気さえあれば入学は
可能である。
入試試験は基本的な学力と人間性を調べるのみ。点数による合否
判定は無し。犯罪歴があろうとも︻魔法を学びたい︼という気持ちが
あれば、色々と制約は付くものの十代後半の年齢でも原則OK。
さらに遠方からの生徒のための寮設備を始めとして、金銭に余裕の
無い生徒に対しては奨学金制度や生活支援、教材の貸し出し。果ては
バイト先の斡旋まで請け負っている。
│││魔法とは、一歩間違えれば命に関わる技術である。
独り善がりな鍛錬を続けたところでそれが実を結ぶことは稀であ
り、最悪周りを巻き込んで暴走。甚大な被害を出してしまうかもしれ
ない。
そのため魔法についての知識を請う事は、魔法を使うものにとって
最早義務でもある。魔法を使う際の心得、制御技術、呪文⋮⋮。
⋮⋮良い所の名家などではその家独自の特殊な魔法体系を築き、一
子相伝に近い事を行っている場合もあるが、多くの魔法使い達はそう
ではない。
個人の才能に左右される魔法という技術を、個人で完璧に制御でき
るまで修める事はほぼ不可能に近い。
だからこそ魔法学校という場所が存在し、暴走の危険を少しでも減
らすために魔法を学ばせるのである。
そこに集う多種多様の魔法教師達が、同じく多種多様の生徒達に対
応する。生徒達は自分にあった師を見つけ、自分に最適な魔法を学ん
で行く。
全ては﹁魔法﹂を正しく使用する人間を育てるため。﹁魔法﹂を正し
く理解する人間を育てるため。
│││魔法使いに﹁魔法﹂を教える。メルディアナ魔法学校は、そ
の意識が他の魔法学校より少しだけ高いのだ。
どんな境遇の者でも、努力すれば皆等しく魔法についての知識を修
144
めることが出来る学校│││それが、メルディアナ魔法学校校長の目
指す学校だった。
⋮⋮その代わり、努力の足りない人間が授業についていくことが出
来ずに中退。他の魔法学校へと転校して行くというケースがままあ
るのだが。それはさて置き。
そうして入学した魔法生徒達は、大まかに分けて三つのグループに
区分けすることが出来る。
│││︻才能のある者︼
︻普通に学校生活を楽しむ者︼
︻サボり落ち
ぶれていく者︼の三つだ。
そして、
︻才能のある者︼の内、努力をする精神も兼ね備えて居るも
のは、より早く魔法社会に飛び込めるよう修学期間を縮めることが出
来る。
│││ネカネ・スプリングフィールドは、その︻才能のある者︼の
内、努力をする精神も兼ね備えた少女であった。
ネカネは入学当初より優秀で、将来を有望視されており教師の信頼
も厚かった。
その為以前から修学期間の短縮を勧められていたが、当時所属して
いたクラスの委員長であった為に、責任感の強い彼女はそれを辞退し
ていたのである。
⋮⋮しかし、弟に異変が起きた事を契機として彼女は修学期間の短
縮を決意。
現在は普通のクラスとは別に学年や年齢を無視した特進クラスに
纏められ、密度の濃い授業を受けていた。
故郷の村の外れにある離れにて、一人で引き篭もっている弟に出来
る限り寂しい思いをさせたくないから。
追い詰められた様子の彼の傍に居てやりたいと思っているから。
⋮⋮そして何より、自分自身が弟と一緒に居たいと強く思っている
から。
│││勉強して、勉強して、勉強して。
一分一秒でも早く卒業し、弟と一緒に過ごすため。
一分一秒でも長く休暇を取り、弟の傍に行きたいとの思いで。
145
│││勉強して、勉強して、偶にネギ分を取り、また勉強。
そう│││全ては彼女の愛する弟のため。だからこそ、彼女は才能
に胡坐をかく事無く努力し続けられるのだ。
⋮⋮まぁ、︻才能のある者︼には癖のある者が多い。
教師すらをも凌駕する才を持つ代わり、良識と言う物をどこかに投
げ捨てているような連中ばかりなのだが⋮⋮そんな中でやっていけ
るのも、弟への想いの深さ故なのだろう。
科目は医療魔法や付与魔法といったサポート中心の物に絞り、魔道
具の製作や錬金術についても学び。
卒業後は修行を経て弟と二人暮し、医療魔法使いとして村で活動し
ながら、自作した魔道具や錬金アイテムを商人に売却しつつ穏やかに
暮らしていく事が当面の彼女の夢である。
未だ十代の前半である少女の思考としては似つかわしくないのか
もしれないが、それだけ弟の事を│││ネギの事を想っているという
146
証左であろう。
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮まぁ、ちょっと度が過ぎている感じもし
なくは無いが。
│││嗚呼、早くネギに会いたい。
│││早くネギの顔を見たい⋮⋮
既に錬金魔法と医療魔法の系統においてはネカネに適う者など学
にまで至っていたりなんかして。
と、言うか。このブーストの所為で彼女の実力は既にどえらい領域
勉強にもより一層の力が入るというものである。
ているような気がするため、彼女のボルテージは天井知らず。
腸の思いで︶自重していたのだが、最近は彼が歩み寄りの姿勢を見せ
以前ならば、ネギがネカネを完膚なきまでに避けていたために︵断
の。
彼女の頭を覗き見る機会があるならば、中身はおそらくこんなも
!
校内所か世界中の魔法使いを含めても存在しないレベルにまでその
年にして既に達している始末。
その為ネカネは学校が認める限度を越えたより一層の修学期間の
短縮を希望しており、さっさと見習いの修行に行かせろと実の祖父を
せっついていたのであった。
││││││ネカネ・スプリングフィールド。
とどのつまり、一言で言えば。筋金入りのブラコンなのだった。
⋮⋮ちなみに。
同じくアーニャもネカネを見習い頑張っては居るのだが⋮⋮如何
せん入学して未だ一年目。
そ の 頭 角 を 現 す に は、も う 少 し の 時 間 が か か る の か も し れ な い
⋮⋮。
*********************
│││冬も終わりに近づいた2月の半ば。ウェールズの町には未
だ寒さが残っていた。
街道には雪が溶けずに残ったまま。街中を歩く人々は皆がコート
やマフラーなどの防寒具を身に付け、歩道に積もった雪を踏みしめ歩
いていく。
建物の隙間を縫う風も冷たさを含み、首筋を撫でるそれらに人々は
襟元を正さずにいられない。
⋮⋮おそらく昨夜にでも雪が降っていたのだろう、ふと見上げれば
街灯の上にも雪が積もっており、照明部分を覆い隠していた。
そして日差しに炙られ柔らかくなったのか、積もった雪がずるりと
滑り下に落ち。街道の雪と混ざって僅かにその総量を増していく│
││
│││そうした冬の残滓が強い時期にあって、メルディアナ魔法学
院はそれとは逆に浮かれた空気に包まれていた。
2限目の終盤、あと何分もしないうちに正午の鐘が鳴るだろうとい
147
う時間帯。
生徒達は皆が皆、大なり小なりそわそわと身じろぎを繰り返し、落
ち着き無く過ごしていた。
教室にある丸時計に注視して、午前中最後の授業が終わるのを今か
今かと待ちわびているのだ。
ある者は机に向かいながらも目線だけは時計に注ぎ。
ある者はさり気なさを装いつつも、チラチラと目線を時計に彷徨わ
せ。
そしてまたある者は、未だ授業中にも拘らず既に勉強道具を仕舞い
つつ、強い視線を時計に向かって照射中。
それには授業を行っている魔法教師も微笑ましげに苦笑を零し、中
には少し早めに授業を切り上げる者も居た。
カチ、カチ、カチ⋮⋮
時計の長針がゆっくりと時間を刻み、短針がそれに輪をかけた速度
148
で12の数字に向かっていく。
生徒達はそれを目を皿にして見守り、教師達はそれをみて呆れたよ
うに肩をすくめて。
そして│││
カーン⋮⋮カーン⋮⋮カーン⋮⋮
遊びの予定、帰省の予定、魔法修行の予定、大掛かりな魔道具の製
いのだ。
はり学生。甘美なる長期休暇の前にはどうしても浮かれざるを得な
幾ら﹁立派な魔法使い﹂を目指すべく集まった者たちといえども、や
登校が強制されるのだが休みは休みに変わりはない。
終業式や卒業式などの学校行事があるため、春休み中でも何日かは
と冬休みに続く記念すべき長期休暇の幕開けの日なのである。
今日というこの日はメルディアナ魔法学校の終業日であり、夏休み
時は2月の半ば、即ち│││春季休暇の始まる月。
げたのだった。
│││鐘が鳴り、教師からの号令を終えた瞬間、生徒達は歓声を上
!
作への取り組み⋮⋮。
生徒達は教師達の連絡事項や諸注意などを聞き流しつつ、休暇中の
予定に思いを馳せて。
友人達と予定を話し合い、或いはスケジュールの書かれた手帳とに
らめっこしつつ、思い思いの過ごし方を夢想する。
それは全ての学科、学年変わりなく。優等生も、落ちこぼれも。
暇
│││そして、ネカネやアーニャにとっても変わりないのであっ
た。
﹂
﹁│││ああ、ネカネ君。君は今日の放課後は開いているかな
﹂
であるかな
﹁はい
?
出来れば君にはその話し合いに参加して貰いたいと。加わって貰
るのだよ。
びにでも出かけようとね。そう、皆で遊びに行こうかという計画があ
﹁うむ、せっかく春休みに入ったことであるし、級友全員でどこかに遊
男子生徒は手に持ったステッキをくるりと回し、話を続ける。
は、彼は仲の良い友人と位置づけられている生徒であった。
他の級友連中の濃いキャラクターに振り回されている彼女の中で
年は少し離れている物の、彼自身は気さくで紳士的。
を除けば極めて常識人であるネカネとは相性の良い存在である。
色々とおかしな生徒ばかりの特進クラスにおいて、彼は弟関連の事
的まともな部類に入る人間だ。
如何にも英国紳士といった風貌のその級友は、クラスの中でも比較
たネカネは、クラスメイトの男子生徒にそう声をかけられた。
例に漏れず浮かれた雰囲気の充満した室内で帰宅の用意をしてい
特進クラスの教室内。
?
いたいと思ってね。﹂
149
?
もはや癖になっているのか、もってまわった言い回しで彼はネカネ
にそう提案する。
⋮⋮クラスメイトの中には、今学期いっぱいで卒業してしまう者も
居る。この計画はおそらく、そんな彼らへの思い出作りを目的として
いるのだろう。
彼女としても、その様な計画があるのならば喜んで力になりたいと
は思うが│││
﹁⋮⋮ごめんなさい。私、今日中に実家に帰るってネギに│││弟に
言ってありまして。だから放課後に残るとなると、バスが⋮⋮﹂
⋮⋮そう、既に以前電話した時、今日この日にネギの下へと帰ると
約束してしまったのだ。
ネカネの故郷は山中にあるため、帰るために出るバスの本数が少な
く、一本逃せば最悪到着時間が深夜になってしまう。
確かに深夜であろうと﹁今日中﹂は﹁今日中﹂であろうが、時間が
遅くなればそれだけ弟に心配をかけてしまうかもしれない。心配を
かけてしまうかもしれない︵二回目︶。
最近は少しづつ態度が軟化してきた弟だが、そういう屁理屈を捏ね
ればまた硬化してしまうかもしれない。約束を破るなど勿論論外だ。
自他共に認めるブラザーコンプレックスであるネカネがそのよう
な不手際を許せるだろうか否許せるわけが無い︵一人反語︶。
そのため大変申し訳ないとは思うが、長引く恐れのある話し合いに
参加することは出来ないと答えた。
﹁⋮⋮ふむ、そうかね。まぁそれならば仕方無し。ああ、仕方が無いと
も。私としても無理強いはしたくは無いのでね﹂
まぁ出来れば、彼らを纏めるのを手伝ってもらいたかったのだが。
男子生徒はネカネに聞こえないようにそう呟いて、春休みに入った
事で騒がしいクラスの中をぐるりと見回した。
150
ネカネもそれに釣られて、彼の目線を追いかける。
とある筋骨隆々の男子生徒は、小柄な男子生徒と殺し合いにも似た
喧嘩を繰り広げ。
とある色黒の男子生徒は、腐乱死体の生徒と︻あふあふ︼。
とある四本腕の男子生徒は、それぞれの手に持ったジャパニーズ・
ニホントウに打ち粉を塗し。
とある男子生徒は、小学生にしか見えない女子生徒にちょっかいを
かけて吹き飛ばされ。
それらを戒めるはずの自称クラス委員長は、机の上をお立ち台とし
てエレキギターを掻き鳴らし、耳の長い女子生徒に引っぱたかれて先
程の男子生徒と共に窓の外へと吹き飛んでいった。
惨状。
これで全員が全員成績優秀者であり、その能力においては教師すら
をも上回っているというのだから救われない。
もう魔法使いの世界も長くないのでは無かろうか。
﹁⋮⋮⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁⋮⋮いや、なに。気にする事は無い。気にする事はないとも﹂
ふっ⋮⋮と、ニヒルな笑みを浮かべ男子生徒はサムズアップ。
ネカネは心の底から申し訳なく思ったが、やはり弟の事が第一だ。
今日の話し合いは無理だが、それ以外の段取りは誠心誠意手伝わせ
てもらうと男子生徒に告げ、荷造りの終わったカバンを手に立ち上が
る。
そして最後にもう一度謝罪の言葉をかけ、寮に帰省用の荷物を取り
行くべく教室の出口へと向かい│││
﹁│││ああ、そうだ。少し待ちたまえ﹂
ふと、何かを思い出したかのように呼び止める男子生徒の声を受
け、足を止める。
151
振り返ってみると、男子生徒は懐をごそごそとまさぐり、何かを取
なんですか
﹂
り出そうとしてるようだった。
﹁
﹂
い﹂
せっかくだ、バスの中でゆっくりと。そう、ゆっくりと読み解くとい
﹁│ │ │ 此 処 と 向 こ う、二 つ の ネ ッ ト で 検 索 し た 物 を 纏 め た 物 だ。
りと黒文字で表記されている。
パソコンから印刷されたと思しきその書類の表紙には、題がしっか
││彼女へと手渡した。
男子生徒はその光景に苦笑一つ漏らし、懐から紙の束を取り出し│
と見守るネカネ。
完全に男子生徒の方角へと向き直り、その一挙手一投足をそわそわ
る人間の方が何かと都合が良かった、と言う事もあった。
別に村人に頼んでも良かったのだが、滞在期間を考えると学校に居
よう頼んだのである。
ネットに詳しそうなこの男子生徒に軽くでもいいから調べてもらう
そのためクラスの中で一番親しく、よくPCゲームで遊んでおり
法では如何せん限界があった。
ネカネ自身も書店や図書館等で調べてはいたのだが、アナログな方
置き去りにしていたが、彼の言葉でその事を思い出す。
これまでにあったネギとのあれやこれやですっかり記憶の彼方に
そう。確かに以前、彼女はこの男子生徒に一つの頼み事をした。
ネカネの顔つきが、真剣な物へと変わる。
﹁
﹁うむ、以前に君が言っていた弟君の名前の事なのだが│││﹂
?
│││その紙に書かれた題は、﹁ニシジョウタクミという名につい
ての情報﹂
152
?
!!
それは、彼女の愛する弟がある日を境に突然名乗り出した名前の調
査書であった。
*********************
│││故郷へと向かうバスの中。
その後部にある座席に、ネカネとアーニャは二人並んで腰掛けてい
た。
レトロな雰囲気を漂わせるバスは、山中にあるにしてはそれなりに
舗装されている道路を進み。
時折石か何かを轢いているのか不規則に車内を揺らしながら、目的
地へとひた走る。
窓の外に見えるのは、青の少ない枯れた木ばかり。よくよく見れば
枝の先に芽が生えてきた事が分かるだろうが、その景色は結構なス
ピードで流れさって行き、それを確かめることは出来なかった。
バスの内部に居るのは、運転手とネカネたちを含めた三人だけだ。
流石に故郷がこんな辺鄙な山の中にある者は少ないらしく、また社
会人にとっては今日が平日だった事も幸いしてかバスの中は寂しい
ものである。
﹁はてさて、タクの奴は元気にしてるかな∼﹂
バスの窓際の席に座るアーニャは、春休みに入った事と自分の家に
帰れる事が嬉しいのか、上機嫌で窓の外を眺めつつ鼻歌を口ずさみ、
タクミ│││ネギの事に思いを馳せる。
彼女はまるで出来の悪い弟を案じる姉のような表情で、いつも彼に
対して浮かべている怒りの表情はなりを潜めていた。
顔をあわせれば喧嘩ばかりのアーニャだが、それでも一応ネギの事
は気にかけているらしい。
彼女は本当はクラス全体での予定があり、もう少し後の日にちに帰
郷する筈だったのだが、それを蹴って帰郷を優先させた事からもその
153
事が伺える。
⋮⋮しかし幾ら窓の外を眺めていても、見える物は枯れ木ばかり。
アーニャはやがて飽きたのか、隣に座るネカネに何かお話をしても
らおうと考える⋮⋮が、ネカネは何やら難しい顔で書類に目を通して
おり、我がままを言うのも気が引けた。
﹁⋮⋮タクってば、どうせまたインターネットのゲームでオカマやっ
てるんだろうな∼﹂
チラッ
⋮⋮そう擬音が付きそうな素振りでもって、ネカネにとってちょっ
と看過できないであろう発言をするが│││当の本人は男子生徒か
ら預かった書類を読む事に夢中になっているらしく、何の反応も返っ
てはこない。
アーニャはその様子を構って欲しげな横目で見つめるものの、真剣
に読み物をしているネカネの邪魔をするのも申し訳ないので、再び窓
の外を眺める事にした。景色は、やっぱり木ばっかりでつまらない物
だったけれど。
⋮⋮時には我慢する事も、正しきツンデレに必要な事柄である。
│││ニシジョウタクミ。
それはネギの様子がおかしくなったと同時、彼が名乗りだした正体
不明の名前だ。
推測するに、日本風の名前。ネギの発音から﹁ニシジョウ﹂までが
名前で、
﹁タクミ﹂がその姓だと考えられ│││いや、日本風だから逆
の可能性のが高いか。
まぁとにかくその名前はある日突然何の脈絡も現れ、ネギは何処か
らその名前を仕入れてきたのかが全くもって分からないのである。
家に置いてある本の中で日本を取り扱った物はないはずだし、an
imeもmangaも家には置いてない。
ラジオで日本関係の特集をやっていたのかとも思ったけれど、ネギ
154
は基本ラジオを聞かないのでその可能性もゼロに近い。
テレビはまだ家には無いし、村の中に日本人や日本かぶれの住人が
居るわけでもない。
│││本当に、何も無い場所から突如現れたその名前。
何故かそれが今のネギにとって大切な物になっているのだ。
ネギに直接聞いても﹁⋮⋮ぼ、僕の、なま、名前だよ、⋮⋮そそ、そ
れ以上でも以下でも、ない﹂としか返ってこず、要領を得ない。
アーニャにそれとなく聞いても﹁えーと、何だっけ⋮⋮確か︻僕は
彼じゃないけど、僕はにしじょうたくみなんだよ︼とか言って泣いて
たような⋮⋮わかんない﹂と曖昧で。
スタンに聞いても﹁︻聞けばどうせアンタも僕を狂人扱いするだろ
うから言いたくない︼⋮⋮だそうじゃ﹂とお手上げ侍。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮うーん﹂
155
最初は、ネギが考えた創作の登場人物か何かの名前かもしれないと
思った。
何かの影響で自分がその人物だと思い込んでいるのだ、とも。
しかし、それにしたって疑問が残る。
昔のネギは活発で、明るくて、英雄に憧れていたヒーロー願望のあ
る子供だった﹃筈﹄なのだ。
そんな子供が、今のネギのような暗くて引き篭もりがちの人物を夢
想するだろうか
るし、何より自分の記憶にも思い当たる節は無い。
彼の遊び友達や面倒を見てくれていた村の人たちもそう言ってい
﹃筈﹄だ。
昔のネギが今のネギになったとき、それには何の兆候も無かった
る。
しかし、その場合はどんな事件が起きたのかという疑問が生まれ
ネガティブな人物に自分を重ね合わせた。という可能性もある。
勿論憧れが原因ではなく、何かの事件により負の感情が大きくなり
?
⋮⋮無い、﹃筈﹄だ。
﹁⋮⋮いたたた﹂
貧血の予兆か、ズキズキと痛みを発し始めたこめかみに指を当て、
ネカネは嘆息。
│八方塞、理由が全く見当たらない。
書店で日本関係の本を立ち読みし︵お小遣いが足りなかった︶、町の
図書館で調べてみたりもしたが、結果は芳しくなく。
結局、日本で使われているあまりメジャーでは無い人名という事以
上は分からなかったのだ。
⋮⋮そして、男子生徒から渡された旧世界編の書類にもそれ以上深
い情報は無かった。
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ﹂
書類に書かれているのは、ニシジョウタクミという名の著名人の
データだけ。
やれ音楽家だ、やれ漫画家だ、やれ芸能人だ、犯罪者だ⋮⋮。
それぞれ名前の漢字表記は違っているが同じ読みを持つ人物がず
らりと並ぶ。
並ぶ、とは言っても実際の数はそれ程多くなく、精精十数人程度で
あり│││その中にネギと関連付けられる物は無かった。
⋮⋮しかしそれでも無駄に細かくデータが記載されており、男子生
徒の細やかな配慮が書類の端々に垣間見える。
これは後で何かお礼をしなければなるまい。
ありがたいやら申し訳ないやらで何とも言えない気持ちになりつ
つ、ネカネは表紙に﹁旧世界編﹂と書かれたその書類をそっと閉じた。
そして足元においてある鞄にそれを仕舞いこみ│││そして、もう
一方の書類を取り出した。
表紙に書いてある文字は﹁新世界編﹂。
156
﹁新世界﹂とは男子生徒の言う﹁向こう側﹂の別称│││所謂、魔法世
界の事だ。
⋮⋮実はネカネは、この書類にこそ期待していた。
旧世界の事は散々調べつくした感のあるネカネだったが、まだ魔法
世界の事に関しては少しも調べては居なかったのだ。
いや、一応は魔法世界に居た事のある村の人や魔法学校関係者にそ
れとなく聞いた事はあったが、結果は芳しくなかったのである。
渡界に制限があり、こまめに行き来して調べられない、という事や
雑誌や本の類をこの旧世界に持ち込む事が禁止されている、という事
も調べ難い理由として挙げられた。
⋮⋮ ネ カ ネ が︻ま ほ ネ ッ ト︼と い う 魔 法 使 い 専 用 の 魔 法 世 界 イ ン
ターネットを使えないほどの機械オンチだった事が最たる理由だっ
たというのは、此処だけの秘密。
まぁとにかく。
ようやくもってバスが辿り着いた先。
﹂
アーニャとネカネの生まれ故郷である、山間に存在する小さな村。
その地に二人は降り立つ。
もう一ヶ月近くは帰って来ていないはずなのに、バス停のある場所
から眺める景色は二人の目には何ら変わっていない様に見えた。
157
﹁⋮⋮さてと﹂
溜息一つ。
ネカネは気分を入れ替えて、書類を開き目を通し始めた│││││
│
やっとついたーーーっ
*****************************
﹁│││よーっし
!!
曲がり角の多い細い道を抜け、幾つもの山を乗り越える事数時間。
!
しんしんと空を覆う雪の欠片も、それが降り積もり真っ白に染まっ
ている地面も、同じく白く化粧をした森の木々達も。
記憶にある景色と一つも変わり無い。
ふと見ると、アーニャは余程バスの中が退屈だったのか雪の結晶が
舞い降りる空の下を走り回り、地面に積もった雪に足跡をつけて遊ん
でいる。
⋮⋮この光景も、昔に見た記憶がある。
何時もは大人ぶっているけれど、こういう所を見るとまだまだ小さ
﹂
な子供なのだなぁ。⋮⋮ネカネは懐かしさと共に、そう思う。
﹁│││ほら、アーニャ。遊んでないで早く行きましょう
﹁あ、はーいっ﹂
ネカネのやんわりとした諌め言に帰ってくるのは元気な返事。
自分の物と、アーニャの分。二つの鞄を持って歩き出したネカネの
背を追いかけて、アーニャがとてとてと可愛らしい足音を立てて追い
縋って来る。
そしてアーニャがちゃんと自分の隣に追いついた事を確認した後
で│││ネカネは、どんよりとした厚い雲が覆う空を見上げた。
│││ニシジョウタクミ。
⋮⋮ネカネは空を見上げたまま、バスの中で読んだ書類の情報を思
い出す。
︵│││確かに、それならネギが名乗ってもおかしくはないと思うけ
れど⋮⋮︶
もしあの書類に書かれていた事が事実ならば、確かに﹁ニシジョウ
タクミ﹂という名をネギが名乗る事に一応の説明をつけることが出来
る。
子供が思いつきそうな妄想を予測し、本末転倒ではあるが︻今の︼ネ
ギの言動を無視すれば、結論にこじつける事が出来る。
158
?
⋮⋮だが、それでは﹁どうしてその名前を知っていたのか﹂という
疑問がまた生まれる事になる。
書類に記載されている事を見る限り、どうやったってネギがその名
前を知り得るはずがないのだ。結局頭の中の靄は晴れる事は無いだ
ろう。
⋮⋮彼女は、目の前に垂れる仮初の答えには飛びつかない事にし
た。
その理由としては、彼女の聡明な頭脳がまだ矛盾点があると判断し
た事。
且つ、自分達の側が納得できる理由付けだけで安易な答えを出す事
を善しとしなかった事。
│││そして何より、
︻昔︼のネギの型に当てはめて︻今︼のネギの
言動を全て無視する、という選択肢をネカネは取りたくなかった。と
いう事があった
⋮⋮昔のネギと、今のネギ│││確かに別人と言えるほどに、その
差異は非常に大きい。
村人は勿論、ネカネやスタンでさえ一時は何者かの変装であること
を、何者かが魔法でネギに憑依、又は精神を攻撃した事を疑った程だ。
結果を言えば、前二つの疑念はネギが以前の記憶を持っている事
と、ふとした瞬間に漏れ出る無意識の仕草にネカネとスタンが﹁ネギ﹂
を見た事で払拭され。
もう一つ残った疑念は、その当時に村の中に不審な人物が存在した
痕跡が無かった事。そもそも村を覆う結界を越える程に強力な精神
攻撃魔法が存在しない事から、その可能性を却下された訳だが。
とにかく、そのような騒動が発狂しかけていた拓巳の知らない所で
起っていた頃│││彼女は、昔のネギに戻って欲しいと願っていた。
︻今︼の様な、暗くて引き篭もりがちなネギではなく、
︻昔︼の明るく
て元気だったネギに│││﹁ニシジョウタクミ﹂ではなく、
﹁ネギ・ス
プリングフィールド﹂に戻って欲しいと、切実に。
159
⋮⋮拓巳は、ネカネが自分の事を必ず一回は﹁ネギ﹂と呼ぶ理由を
彼女の天然から来たものだと思っている。
だが真実はそれとは違う。
彼女の望む﹁ネギ﹂ではなく﹁タクミ﹂として振舞う弟への、ネカ
ネにとって精一杯の反抗であったのだ。
│││今は頑なに﹁ネギ﹂を拒んでいる﹁タクミ﹂だが、
﹁ネギ﹂の
名を呼び続ければ何時かは﹁ネギ﹂に戻ってくれるかもしれない。
彼女はその想いを胸に、敢えて彼の事を﹁ネギ﹂と呼んでいる。
ネギとなった拓巳の惨状を知っているが為、その身を案じて自分の
気持ちを抑えているだけで、本当は常に彼の事を﹁ネギ﹂と呼んでい
たかった。
│││﹁タクミ﹂という存在を認めたくなかった。
⋮⋮そう、拓巳の側に立って見れば彼女もまた、持っている感情の
種類は違えど村人と同じように拓巳に﹁ネギ﹂を押し付ける人間の一
人だったのである。
だが今の彼女はその想いが薄れてきていた。
否、
﹁ネギ﹂に戻ってきて欲しいと言う願い自体は変わらないのだが
│││ある時を境に、彼女にも﹁タクミ﹂を見る余裕が生まれたのだ。
大人ぶっているくせに、子供であるアーニャと本気の喧嘩をする
﹁タクミ﹂。結局は肉体言語に屈し、悔しそうに負け惜しみを言う﹁タ
クミ﹂。
小さなことですぐに腹を立て、背伸びをした怒り方をする﹁タク
ミ﹂。酔っ払ったスタンに絡まれ、迷惑そうに嫌味を言う﹁タクミ﹂。
そして言い過ぎて拳骨を貰って、涙目で文句を言う﹁タクミ﹂。
⋮⋮そして、ぎこちなくではあるが、自分と距離を詰めようしてく
れている、﹁タクミ﹂。
⋮⋮そのような姿を見るうちに、気付けばネカネは﹁タクミ﹂とい
う﹁ネギ﹂を否定する事は無くなっていた。
その全ては、今隣を歩いている可愛い妹分│││アーニャのおかげ
と言えるだろう。
触れれば壊れそうで、自分達では開ける事の出来なかった、弟の心
160
を覆うボロボロの扉│││それを問答無用に無理矢理蹴り壊し、自分
達の居る場所へと繋げてくれた彼女のおかげ。
アーニャが居たからこそ、ネギは﹁タクミ﹂のまま僅かにではある
が﹁ネギ﹂を受け入れる余裕が出来た。
それは﹁タクミ﹂を消そうとしていた自分達には出来なかった事。
なに
ネカネお姉ちゃん﹂
﹁ネギ﹂しか望んでいなかった自分達には出来なかった事だった。
﹁
送り。
⋮⋮そんな訳で、
﹁ニシジョウタクミ﹂についての答えを出すのは先
しれない⋮⋮と。
ネギの事を│││否、
﹁タクミ﹂の事を理解しなければいけないのかも
答えを出すためには自分は彼の姉として、彼の家族として、もっと
だからこそ、思う。
ギなのだ。
│││︻昔︼のネギは﹁タクミ﹂では無いけれど、
﹁ネギ﹂は今もネ
なくネギで。
│││︻今︼のネギは﹁ネギ﹂では無いけれど、
﹁タクミ﹂は間違い
事を契機に悟ったのだった。
う思い始め│││そして自分へと歩み寄ってくれたあの些細な出来
⋮⋮ネカネは、アーニャと触れ合う﹁タクミ﹂の姿を見るうちにそ
事だけを後悔し続けていたかもしれない。
そしてその理由を理解しないまま、どうしてと泣き叫び、
﹁ネギ﹂の
らをも殺していたかもしれない。
もし彼女が居なければ、自分達は﹁タクミ﹂だけではなく﹁ネギ﹂す
そう思う。
弟と同じく、赤い色素を持った彼女の髪の毛を撫でながら、本当に
⋮⋮本当に、この子には感謝しても仕切れない。
﹁⋮⋮ううん、なんでも﹂
?
男子生徒から齎されたその情報を結論にはせず、唯の一情報として
161
?
扱おうと結論付ける事にする。
彼女の調査は、まだ終わらないと言う訳だ。
﹁⋮⋮はぁ﹂
⋮⋮というか、もう調べられる場所が残っていない気がするのです
が。
流石に頑張ってこれだけ調べた甲斐あって﹁ニシジョウタクミ﹂の
情報はそれなりに集まったが│││何か、大事な部分がすっぽりと抜
けている。
﹁ニシジョウタクミ﹂とは一体何者なのか、男性なのか、それとも男
性っぽい名前の女性なのか、そもそも実在する人物なのかどうか。
何故﹁タクミ﹂は﹁ネギ﹂を嫌い、
﹁ニシジョウタクミ﹂を名乗るの
か。
し。それを見たアーニャが慌てて手を突っ張ってネカネの身体を支
える。
流石に軽いとはいえ二倍以上もある身長差は如何ともしがたいの
162
そして﹁ネギ﹂がどうやって﹁ニシジョウタクミ﹂を知ったのか、ど
うして﹁ニシジョウタクミ﹂と言う名にあそこまで固執するのか。
⋮⋮いや、そもそもネギの言う﹁ニシジョウタクミ﹂と、この書類
もう
何か返って答えへの道のりが長くなった気がす
に書かれた﹁ニシジョウタクミ﹂が同一人物である保証もないわけで。
│││ふしぎ
るわ
やめて
﹂
やったねネカネちゃん、解かなきゃいけない謎が増えたよ
!
わっ、わっ
﹁⋮⋮あっ﹂
﹁ぁわっ
ふらり、と。
!?
!
!
新たに襲い掛かる心労に軽い貧血を起こし、僅かにバランスを崩
!?
!
か、アーニャは顔を真っ赤にして踏ん張る踏ん張る。
⋮⋮もういいかなぁ。
このまま素直に﹁タクミ﹂と打ち解けていけば、その内教えてもら
えるかなぁ。
アーニャに支えられたまま、そんな事を思うネカネだった。
﹁む、ぐ、ぐぐ⋮⋮ぁーーーーーーっ、⋮⋮あっ﹂
がっくん、と。
一方アーニャ
支える手の力を一瞬抜いてしまったのかネカネの頭が傾いてしま
い、更に慌てて変な具合に力を入れてしまったらしく腕の筋肉からビ
キビキと不穏な音を立てていた。
真っ赤 ↓ 真っ青 ↓ 真っ緑と、女の子とは思えない表情をし
163
たアーニャの顔色が面白いように変わっていく。それでもネカネを
離さないアーニャの優しさに敬礼。
そんな、二人でのコント染みたやり取り。
ネカネは貧血により︵アーニャにとって︶絶望的な状況に気が付か
﹂
お、おも⋮⋮くないーっ。 ぜんっぜん⋮⋮
ず、虚ろな視線で空を見上げたままで│││。
﹁⋮⋮⋮⋮
﹁むぅぁぁぁぁ⋮⋮
│││次に飛行機だと思った。
│││ネカネは、最初はそれを鳥だと思った。
を発見したのだ。
│││未だ止まぬその雪空の中を、幾百もの黒点が浮かんでいるの
どんよりとした厚い雲。チラチラと降り注ぐ雪の結晶。
見ていた視線が、その一点で止まる。
重くないったらーっ﹂
!
?
﹂
│││そして最後に、魔法で飛んでいる人間だと思って。
﹁│││ッ
﹂
﹂
!!
あ、ちょっ、ちょっと
﹁│││アーニャ
﹁え
ごめんなさいっ
は、貧血とは別の理由で真っ青になった。
そのどれもが見当外れだったという事を認識し│││彼女の顔色
それらが視認できる距離にまで近づいた時。
!?
魔法完了までの時間は、瞬きするよりも速く。疾く。閃く。
化物と化していた。
音速に近い速度で飛ぶ対艦ミサイルすら視認し、生身で殴り落とせる
今の彼女は貧血気味の虚弱な身体を大きく超越し、その気になれば
極限の膂力とバネを彼女は纏う。
妙に異なるベクトルを持つ魔力を幾重にも流し、少女の身体で出せる
筋肉の繊維と全身に張り巡らされている神経系、その一つ一つに微
彼女だからこそできる、これ以上無いほどに効率化された強化魔法。
医療魔法を学び、魔法の制御法方精通し、人体構造への理解が深い
う。
││端から見れば、彼女自身が発光しているようにも見える事だろ
そして呟きと共に舞い散る光の粒子はネカネの身体を舞い流れ│
踏み込んだ地面が、爆ぜる。
│││肉体強化
し呪文を呟く。
を上げるが│││ネカネはそれを気にする事無く、懐から杖を取り出
急に持ち上げられ、投げ捨てられるネカネの鞄を見たアーニャが声
ニャを抱え走り出した。
ネは貧血だった事も忘れて身体を起こし、自分の鞄だけを捨ててアー
空の向こうからやってくるその姿が何なのかを理解した瞬間、ネカ
!?
!
!!
164
?
これ程の短時間でここまで精巧な魔力制御を用いた魔法を完成さ
せる者は、魔法学校の教師にも数人いるかどうかだろう。
その代わり攻撃系統の魔法は初歩の基本的なものしか使う事は出
来ないが│││それを補って余りある能力。
医療魔法と付与魔法、そしてそれに関連する系統においては他の追
随を許さないを能力を、ネカネはその年にして既に会得しているので
ある。
│││彼女は、紛れも無く天才だった。
勿論、腕の中に抱えるアーニャへ空気抵抗を軽減する魔法をかける
事も忘れない。
そうしてアーニャと彼女の鞄を抱えたままネカネは獣もかくやと
いうスピードで走り、村へと向かって全力疾走。
先程のバスなど目ではない速度。周りの景色が勢い良く流れ、閃
き、後方へと消えていく。
﹂
が見上げていた空を視界に捉えて│││
│││目に映ったのは、黒。
黒。
黒。黒。
黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。
165
﹁ね、ネカネおねぇちゃん⋮⋮
⋮⋮何を、見たのだろう
のだ。
い。穏やかな物とはかけ離れていて、彼女はその様子に恐怖を抱いた
自分を抱えて走るネカネの顔はさっきまでの間の抜けた⋮⋮もと
と気付いた。
抱えられているアーニャは事ここに至り、ようやく何かがおかしい
?
疑問に思ったアーニャは、抱えられた体勢のまま首を捩り、ネカネ
?
黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒。黒。黒││││││
│││黒。
それは角を生やし。
それは黒い翼を持ち。
166
それは黒い肌を持ち。
それは丸太のような腕を持ち。
それは鋭い牙を持ち。
それは大きな爪を持ち│││
﹂
│││そして、その者達の目には、何処までも深い凶気が宿ってい
て。
﹁│││∼∼∼∼∼∼∼ッ
■
⋮⋮ぐるり、と。黒の視線が彼女達を捉えた。
金切り声を上げ。
その光景を目にしたアーニャは、本能の感じる恐怖のままに大きな
││自分達の後ろから、村の方角へと押し寄せる悪魔の大群。
!?
⋮⋮誰もいなくなったバス停。
投げ捨てられた時に留め金が外れたのか、持ち主のいなくなった鞄
がその口を開けて中身を外気に晒す。
そして降り積もる白に徐々に覆われていく中│││それから逃げ
出すように、書類が一枚。
冷たい風に乗って、空高くへと飛んでいく│││。
﹃│││紅き翼リーダー、サウザンドマスターことナギ・スプリング
フィールドが、大戦後から皇女処刑事件までの極めて短い期間にだけ
﹁ニシジョウタクミ﹂なる人物の情報を求めていたという証言が││
│﹄
167
第8章 一人は、世界にとっての救世主
│││その日、僕は朝から言い知れない不快感を抱いていた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
何時もと変わらない、くそ寒い冬空。
カーテンから漏れ出る光は鈍色で、外は曇りか雨│││いや、この
寒さだと雪になってたかな。まぁ天気が悪い事には変わりは無かっ
たはずだ。
わざわざ窓の外を見に行く気は起きなかったから正確には分から
なかったけど、布の隙間から見える景色には雪が降ってたから、多分
そう。
そして狭い倉庫の中には、発露に濡れる木材の匂いが充満してて変
な感じだ。
決して臭い訳ではないけど特徴的ではある香り。程よく湿度を含
んだその空気が、僕の鼻腔の内側に一呼吸ごと張り付いてくるよ。
濃い木の香りと、僅かなカビの臭い⋮⋮。
⋮⋮部屋の隅に設置されてる達磨ストーブがフル稼働してるから、
その所為もあるんだろうね。
ストーブの上には水の入った薬缶⋮⋮に似た金属製の水差しが置
かれていて、しゅんしゅんと音を立てて水蒸気を上げているから。
ついでに部屋の中の湿度が高いせいか、何か部屋の隅っこ辺りから
カサカサと虫が蠢く音がして。
その音の大きさから、結構でっかい虫│││G様でない事を祈る│
││だと言う事が自然と知れて、げんなりした。
│││ただ、それだけの朝。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
168
何時も通りの朝、何時も通りの日常。
何処もかしこも何時もと同じ、何一つ違和感の無い普通の日。
一般人にとっては、これから何の変哲も無い一日が始まるはずの。
僕にとってはそろそろ仮眠を取るはずの時間帯。無色透明の朝の
一幕だ。
⋮⋮にもかかわらず、僕の心はざわざわと波を立てていて。何故か
非常に、落ち着かない。
﹁⋮⋮⋮⋮ちっ⋮⋮⋮⋮﹂
朝が過ぎて、昼ごろになってもそれは収まらなかった。
PCをしていても、ネットのページが閲覧できる様になるまでのラ
グに何時も以上に苛々して通常の数倍はストレスが溜まるし。
ネットゲームをやっても、画面の切り替わりは勿論、キーを叩く音
www﹂なんて最低なからかいを受けた。
169
にも一々苛々して集中できずに連続あぼん。パーティを組んだ奴に
﹁今日は生理
る吐き気。
たら良くないものが近づいてくる、という被害妄想。常に胸を圧迫す
何か行動を起こさないといけないって言う強迫観念。放って置い
を付け回していたそれに良く似ていたよ。
⋮⋮例えるならばその不安は、ニュージェネの起っていた最中に僕
の無い無駄な行動を繰り返していたんだ。
ろつき回ったり、意味も無く小屋の中を歩き回ったり⋮⋮なんの意味
その日の僕は、起動もしてないPCの前で呆けたり、部屋の中をう
したらいいのかも分からなくて。
そんな焦燥感溢れる感情が僕の中で渦巻いて。けど、具体的に何を
⋮⋮そう、何かを見落としている。
何 か に 気 が 付 か な き ゃ い け な い、何 か を や ら な く ち ゃ い け な い。
く寝付けないんだ。
ても、カチカチと時を刻む時計の音が焦りにも似た不安を煽り、上手
何にもやる気が起きなくなって仮眠しようかとベッドに横になっ
?
部屋の隅を見てみても視線は感じられなかったけど│││僕の内
側をかりかりと引っ掻く不安はまるで思考盗撮を受けていた時の感
覚に似ていて。確かめずにはいられなかったよ。
│││誰かの悪意が、近づいてくる。
何一つの根拠も無く、僕はそんな危機感を感じていたんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮くそ、くそ。な、何なんだ。⋮⋮くそっ﹂
そうして心の感じる苛々のまま頭から毛布をひっ被った僕は、ベッ
トの隅で身を縮めていた。
背後を警戒して部屋の角に背を密着させて、左右の視界も背後から
続いてくる壁で限定させて。前方だけを見据えられるようにした。
逆に言えば逃げ場のない場所に収まってしまったとも言えるけれ
ど、それよりも後ろを向いたら何かが居そうな感じがして怖かったん
だ。
ふと振り向いたら、そこには刃物を持った殺人鬼が瞳孔を光らせて
いたり、とか。
PCの画面が暗転したら、画面に何かが映っているんじゃないか、
とか。
いきなり腹から刃物が飛び出してきて⋮⋮苦しみつつ背後に首を
傾けてみたら、そこには僕に刃物を突き刺した優愛が目の配色を反転
させて微笑んでいたとか。
そういうネガティブな妄想が止まらない。妄想はしちゃいけない
とは分かってるんだけど、それでも止められないんだ。
⋮⋮他の人から見れば笑い話にしか映らないんだろうけど、僕に
とっては物凄い恐怖を煽る光景なんだよ。
あの頃│││ニュージェネ事件の序盤も序盤。事件の概要も将軍
の正体も何も分からなかった頃は、よくそんなネガティブな種類の妄
想トリガーを引いていたんだからね。
まぁ、その時の登場人物は優愛とか梨深とかだった訳なんだけど。
⋮⋮ニュージェネの時の事は今でも偶に夢に見る。
170
それは妄想と思い込みがごっちゃになった、タチの悪い悪夢だ。
優愛がまた変な勘違いをして、包丁を持って五段活用しながら迫っ
てくる悪夢とか。
梨深を悪魔女と呼んでた頃によく見てた、体中に杭を打ち込まれて
死ぬ悪夢とか。
﹂
⋮⋮最後の最後に受けた、あの拷問の時の事とか│││
﹁⋮⋮ぁぁぁああぁぁぁあぁぁ⋮⋮
│││思い出すうちに凄く怖くなってきた。一旦考え出すと際限
なく記憶が蘇って来る。
﹁⋮⋮くそ⋮⋮﹂
だめだ、だめだってば。もう何も考えるな。
これ以上考えを巡らせていたら、昔みたいにまた妄想への引き金を
引いてしまう│││
僕は目をきつく瞑って頭をぐしゃぐしゃと掻き毟り、被っていた毛
布をさらに目深に引っ張った。そうして、思考をあさっての方向に逸
らして、気を紛らわせようとした。
⋮⋮この前サンドイッチの具材塗れになったこの毛布だけど、今は
もう綺麗になってる。
以前に扉を直しに来たスタンの爺さんが、説教を終えた後にま⋮⋮
魔法。で、汚れを落としてくれたんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮っ﹂
何なんだ、何なんだよこのどうしようもない不安感は。
別にはっきり目に見えるような不安の影がある訳じゃないのに、何
でこんなにも情緒が不安定になるんだ。訳が分からない。
確かに僕は﹁ネギ﹂の事で慢性的な不安感・不快感を持ってるよ。酷
171
!
かった頃は追い詰められすぎて発狂間際まで行った事もある。
⋮⋮でも最近はそれもある程度は落ち着いてきてるし、何より僕が
今もってる感情はそういう自己を揺らがせるような不安感じゃない。
内部からじゃなく、外部からの要素。
緩やかに崩壊していく自分への恐怖ではなく、他者から与えられる
悪意への恐怖。
野呂瀬や諏訪と相対していた時に感じていたものと同種の感情だ。
﹂
⋮⋮今回のそれは、相対する﹁敵﹂が見えていないから余計に怖く
感じているんだ。
﹁くそっ⋮⋮梨深ぃ⋮⋮っ
⋮⋮目を閉じてもさっぱり消えてくれない不安感。
僕の感じて居るそれは最早妄想を伴った恐怖となり、精神を圧迫す
る。
あの時抱きしめられた梨深の温もりを思い出して、何も考えないよ
う必死になって妄想を散らしてはいるけれど⋮⋮次から次に新しい
妄想が湧き出てしまう。
そして、もしかしたらそれらがリアルブートされてしまうんじゃな
いかって更に不安になって、二重の意味で恐怖が増大されていく。
│││恐怖が現実化してしまう。
│││将軍への負担が更に大きくなってしまう。
力が使えるって確証は無いよ。
⋮⋮でも、例の茨が僕の目には見えているんだ。何らかの力が残っ
ている可能性は、0%じゃない筈なんだ。
それらの事を考える度、ネガティブな妄想が輪をかけて肥大してい
く。
⋮⋮そうやって頭を抱えて居る内に、僕の目の前に何か人の気配が
あるような気がして。
扉を開けた音も何もなかったから、誰も居るはずが無いって事は分
かってる。その感覚は単なる被害妄想に過ぎないんだ。
172
!
そう理性は判断しているのに、感情が恐怖に戦きそれを﹁現実﹂に
﹂
しようとする。︻思い込み︼を︻妄想︼に昇華させ、
︻現実︼へと染み
駄目だ、だめ⋮⋮だぁ⋮⋮
込ませようとしてくる。
﹁⋮⋮っだ、駄目だ
!
︶
⋮⋮不安は、未だ消えず。
は恐怖も忘れ。純粋な驚愕を持って絶叫した│││
顔より数センチ先の至近距離に浮かんだ鷲鼻の糞爺の御尊顔に、僕
│││目を開けた先。
﹁││││││何が駄目なんじゃい、蓑虫ぼーずが﹂
そうして、僕は意を決して瞼を開き││││││そして、
うと決心をして。
何度も何度もそう自分に言い聞かせ、目を開いてそれを確実にしよ
僕が今感じている不安や恐怖は、全部が全部勘違いなんだ│││
この部屋には僕一人きりだ。
目の前には、誰も居ない。
⋮⋮そう強く思って、僕は自分の妄想を押しつぶす。
ない⋮⋮
︵リアルブートだけは、ギガロマニアックスの力だけは使っちゃいけ
心の中で必死に自分を否定したんだ。
僕はそんな自分の感情により一層の焦燥を抱いて。
!
前にこの扉を直した時にの、こっそり転移魔方陣を
*****************************
﹁いやぁのぅ
?
173
!!
埋め込んどいたんじゃ│││﹂
⋮⋮僕の心臓を止めかけたもかかわらず、何ら悪びれた様子の無い
爺│││酔っ払い糞爺ことスタンは、笑いながら僕にそう言ったよ。
何時も通りに口にはパイプ、頭にトンガリ帽子を被った魔法老人ス
タイル。
珍しく今日は酒の匂いをさせていなかったけど、その胡散臭い雰囲
気に変わりはなかった。
そして先程の悲鳴が面白かったのか、彼はニヤニヤとした意地の悪
い笑顔を僕に向けてきたよ。
PC前の椅子に腰掛けて、四つある足のうちの二本だけでバランス
を取りながらその顔を浮かべている姿は、僕に羞恥心と殺意︵配分3:
7︶を抱かせるには十分な光景だったね。
⋮⋮何かさ、スタンとは会う度にこんな感じになってる気がするよ
﹂
こ、っこれ、っ立派な、ははは、は、犯罪ぃ⋮⋮っ
くるのしんどいんじゃもん﹂
﹁もん、じゃねーよ
﹂
!
勝手にそんな物を仕込むのは犯罪だと思う。それもかなり悪質の。
抗議の意味も込めてスタンを睨み付けるけど、彼はそれを鼻で笑っ
て一蹴。
手に持ったパイプに口をつけ、煙を肺の中に吸い込み│││そして
僕を呆れたような瞳で見下ろしながら深く吐き出した。
部屋の中に充満する煙はタバコとは違う何か独特の香りがして、部
屋の中の木材の匂いを打ち消していくよ。
174
ね。もう鬼門と言って良いレベルなんじゃないかな。
│││いや、それよりも。
ば、バカじゃないの
﹁⋮⋮ひ、人の部屋の、ドアに、な、何てことし、しし、しでかしてく
れてるんだよ
!?
﹁えー、だってぼーずの様子を見に来るのにこんな村外れまで歩いて
!
僕は魔法世界︵︶の法律は知らないけど、それでも人ん家のドアに
!!
⋮⋮何時もは酔っ払ってる糞爺だけど、流石に魔法使いとしての年
季が違う所為か魔法に関しての知識はかなり深いものを持ってるら
しい。
特に日々の生活に使えるような極めて小規模でマイナーな魔法を
多く覚えてるみたいで、本人からの自慢話で良く聞かされるよ。
道端に落ちてる大き目の小石だけを狙って除く魔法とか、服に雪が
くっ付かなくなる魔法とか。
幾ら酒を飲んでも一瞬で酔いを醒まさせる魔法︵要約するとゲロを
吐かせる魔法︶とか、地味に役立つ物から本気で下らない物までその
種類は豊富だ。
この前、部屋の扉を直してくれた魔法もその一つ。
あんなの魔法使いを名乗るんなら誰でも出来そうなもんだと思う
とは違って、呪文一つで
けど、アーニャやネカネに聞く話だと、物を修復する魔法はこの村で
はスタンしか出来ない超高等技術らしい。
事前にそれなりの設備が必要な錬金魔法
構成物質を結合させたり組み替えるのは普通は不可能⋮⋮とか何と
かネカネは言ってたけど、良くワカンネ。
つまりはスタン爺さんは凄いって事らしいよ。うっそ臭ェー。
﹁嫌 じ ゃ っ た ら ち っ と は 村 に 顔 見 せ に 来 ん か い。そ う し た ら す ぐ に
とっぱらったるわい﹂
魔法使いの癖に何言ってるんだろう。
僕が村まで降りたがらない事を知っていてのこの台詞、何て自己中
心的な糞爺だろうか。
確かに村からこの家まで結構な距離があり老人にはキツイ距離で
はあるよ。
でも、彼らは魔法使いなんだ。
175
?
空飛ぶ箒とか、絨毯とか。体力に拠らない移動手段なんて腐るほど
あるに決まってるのに⋮⋮
!
﹁じゃからほれ、魔法を使った移動手段を│││﹂
﹁⋮⋮そういう事じゃ、ないよぅ⋮⋮﹂
僕はぐったりとしながらそう呟く。
⋮⋮何か、疲れる。
普段の僕ならば、この流れのまま拳骨を貰うまでスタンに反発し続
けるんだろうけど│││とてもじゃないけど今はそんな気分になれ
ない。
﹂
彼とのギャグシーンを続けるには、今の僕には心の余裕が足りない
んだ。
﹁⋮⋮
スタンもそんな僕の様子を見て、訝しげな表情を浮かべたよ。
何か物足りなさを感じているような、或いは自分の当てが外れたか
の様な。そんな感じだ。
そう、まるで。
︶
他愛も無い話で僕ともっとじゃれあって居たかったかのような│
││
⋮⋮
︵⋮⋮何だろう
⋮⋮気のせい、だろうか。
﹁⋮⋮っ、って、いうか、さ。な、何
?
僕は頭の片隅に浮かんだ違和感を投げ捨てて、彼にそう問いかけ
何しに来たんだよ﹂
何となく、スタンの様子に変な感じがある⋮⋮気が、する。
具体的にどうって訳じゃない。無いんだけれど。
違和感がある。
?
176
?
?
た。
⋮⋮自分から会話を求めるなんて、やっぱり普段の僕にはあんまり
似つかわしくない行動だったかもしれないけど、仕方が無い事とも言
える。
さっきまで感じてた│││いや、今も感じてる不安感を紛らわせる
ために、この人との会話を長引かせたかったんだ。
﹁予想では、さ。もっと、ああ、後だと思ったんだけど。⋮⋮来るの、
は﹂
実のところ、僕とスタンがこうやって顔をあわせる頻度というのは
そんなに多くない。
ネトゲ廃人の習性上、僕は寝る時間と起きてる時間が日によって違
うからね。起きてる時間とスタンが訪れる時間とがマッチングしな
い事が多々あるんだ。
スタンは食料とか洗濯物とかのアレコレがあるから最低でも週に
3回くらいは来てくれてるみたいだけど、訪れる時間は彼の気まぐ
れ。朝早くに来てくれる事もあれば、夜遅くに来ることもある。
僕の眠りが深いのかスタンが気を遣ってくれてるのかは分からな
いけど、僕が目を覚ましたらパイプの煙の残り香が漂ってた。なんて
事はしょっちゅうだ。
ランダムエンカウント方式のレア、といった所かな。
この前の遭遇も運が良かった︵悪かった︶様な物で、今回のように
二回連続でエンカウントするなんて相当珍しい事といえるだろうね。
⋮⋮しかも今回は、ワープっぽい魔法まで使ってと来た。
もしかすると何回か様子を見つつ、僕が起きてる時間を狙ってきた
可能性もある│││
⋮⋮なんて、まぁ。
︵もしそうだとしても、僕に会いに来た理由なんてきっとしょうもな
い理由だろうけどさ︶
177
まさか僕のSOSを察知した、なんて事は無いはずだ。結果的に僕
の不安と恐怖を多少なりとも和らげてくれた事には感謝してあげて
もいいけれども。
どうせ酒の肴としてからかいに来たとか、そんな理由に違いない。
│││そう、思ってたんだけど。
﹁⋮⋮ふんむ⋮⋮﹂
しかし、そんな軽い気持ちで投げかけた僕の問いに、彼はからかい
の言葉を返すでも無く溜息一つ。
そして先程とは違いしっかりと椅子に腰掛けて、足を組んだ姿勢で
僕を見つめてきた。
178
﹁⋮⋮な、なん、だよ⋮⋮﹂
急に変わった場の雰囲気に僕は困惑。
⋮⋮おふざけの雰囲気がなりを潜めたその瞳│││説教するとき
の目とは違う類の物みたいだったけど、居心地は良くは無い。
僕は殴られた頭頂部を毛布の上から摩りながら、視界に映るスタン
の頭部分を隠す様に毛布の端っこの位置を調整。
更に、その下の目を明後日の方向に逸らした。
﹁⋮⋮いや、まぁ、のう⋮⋮﹂
そして彼は何やら喉の奥に物が引っかかった様に。
何時もの良く喋る口をモゴつかせていて、毛布の下からは長い髭が
なんだろう。
小刻みに揺れている事が伺えた。
⋮⋮
ことの無い僕の目には、そのまごつきがとても珍しく映ったよ。
今までスタンの口から精神的にクる程のド直球な言葉しか聞いた
?
そして、さっきまで感じていた不安や恐怖、この雰囲気と合わせて
何か妙な違和感が僕を包み込んだ。
﹁│││﹂
⋮⋮毛布に隠れて顔は見えなかったけど、その言葉を告げられた時
に何故かスタンの不安が伝わってきたような気がしたよ。
迷い、とでも言ったらいいのかな。
これを告げることによって今の状態が壊れてしまうんじゃないの
か│││とか。そんな、現状が壊れてしまうかもしれない事に対する
不安。
唯の妄想なのかもしれないけど、僕は間違いなくその感情を感じ
取ったんだ。
﹂
179
﹁⋮⋮ そ れ よ り、の。先 の ぼ ー ず は 何 を そ ん な に 怖 が っ て お っ た ん
じゃ
ら答えようが無くて、結果、
﹁なんでもないよ﹂としか言えなかった訳
まぁ何に怖がっていたのか、なんて。そんなの僕にも分からないか
だ。
ないしね。それはナイトハルトかリーゼロッテに任せてればいいん
こんな微妙な空気の中で自発的に発言するなんて僕のキャラじゃ
その話題逸らしに乗ってやる以外の選択肢は無かった。
別に聞きただすほどの勇気も興味も無いし、その理由も無い僕には
⋮⋮明らかに話題逸らしだ。とは思うけれど。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
た。
僕に告げようとした答えを飲み込んだように、逆に質問を返してき
何から切り出した物か│││そう悩んでいるようにも感じた彼は、
?
だけれど。
⋮⋮﹃姿の見えない何かに怯えてました﹄とかまるっきりヤク中の
言葉だし。言える訳、ねーっす。
﹁何でも無い訳なかろうよ。あんなにも﹃駄目だァ、駄目だァ∼﹄なん
と、なっさけなく頭を振っておったじゃろ﹂
スタンはそう言って情けない表情と声音を作り、ワザとらしく首を
振り始めた。何時から見てたんだよ、この糞爺め。
僕の真似と思しきその仕草に米神がヒク付いたけど、自身の情けな
さを身にしみて自覚している僕としては何となく怒り切れない。
⋮⋮実際、さっきの醜態以上の事もしでかしたし、エスパー少年事
変以降はもっと酷くからかわれた事もあるんだよ。
だからそんな中途半端にからかわれても、不快感はあれど怒鳴るほ
どに僕の琴線は揺れなかったんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
で、痴呆の様に首を振るスタンを前に僕は黙り込む事しか出来なく
て、何とも言えない空気が更に深くこの場を包み込む事になった。
⋮⋮さっきまで確か似合ったはずの軽い空気は既に無くて│││
何となく、お互いが噛み合わない
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふぅぅぅ⋮⋮﹂
しばらくそんな感じでお互い黙り込んでいたら、スタンは何かを観
念したように溜息をついた。
毛布の下からこっそり覗いたその顔は│││さっきまでとは違っ
て鋭い物で、僕は反射的に毛布を被りなおしたよ。
180
⋮⋮そうして徐々に張り詰めた物になっていく雰囲気の中、水差し
の中で沸騰するお湯の音がやけに大きく響いた。
それは生死をかけた時のぴりぴりした緊張って訳じゃなくて。
例えるならば、優愛が本性を現した時。
例えるならば、夕焼けの中で梨深が僕という存在のネタばらしをし
た時。
そんな、僕の知らない﹁僕﹂が暴かれる直前の様な。胃の奥を掻き
毟る様な感覚│││。
﹁⋮⋮まぁ、そろそろ潮時じゃろ﹂
│││おちゃらけて流すのも、気付かない振りをするのも。
スタンはそう言って、意を決したように鋭い目を僕に突き刺した。
僕は感覚でそれを感じ取り、咄嗟に耳を押さえようとしたけど、間
181
に合わず。
彼の言葉は不気味な程に鮮やかに、僕の耳へと入り込み│││││
│
││││││聞こう。ネギ・スプリングフィールドとは、一体﹃何﹄
なんじゃ
⋮⋮彼は、訥々と語る。
ではないのぅ﹂
﹁最初に気付いたのは⋮⋮あー、何時だったか。まぁ、そんなに昔の事
*******
*****************************
スタンの背景に、茨の姿が混じった。
?
﹁村の酒場で昔馴染みと飲んでおった時に、ぼーずの昔の話になって
の。それはもう盛り上がっておった﹂
僕は、腕を中途半端に上げた姿勢で固まったまま、その話を聞いて
いる。
別に、何かショッキングな結論を聞かされたって訳じゃないのに、
どうしてか身体が動かないんだ。
恐怖で身体が強張ってる訳でもない、ただ純粋に│││酷く、緊張
している。
そして、そんな僕の事をスタンは目を逸らさず真っ直ぐに見つめて
いるのが分かった。
その目に込められているものは│││不安と、警戒と、ほんの少し
の敵意。
⋮⋮何故かは分からないけど、僕は感情でそれを理解し、感じ取っ
たんだ。
﹁やれ昔のお前さんは明るかっただの、ネカネが可哀想だの、アーニャ
はぼーずには勿体無いだの。そらもう悪しように堕とし放題でな。
そんな事を話してる内│││ワシはぼーずの昔話に、違和感を覚え
た﹂
スタンは話を一旦そこで切り、パイプに薬草を詰め足して、一服。
そうして疲れたように吐き出した煙が部屋の中を漂った。
雲の様に、靄の様に。
決まった形を持たないそれは千変万化を繰り返し、僕の鼻腔に何と
も言えない香りを運んでくる。
⋮⋮こめかみが、ジクジクと熱を持った。
﹁⋮⋮お前さんがどこどこを走り回っておった、どこどこで怪我をし
た、池に落っこちた、笑った、泣いた│││他愛も無い、何処にでも
あるような思い出話。
182
ぼーずが大人になった時にでもからかいのネタになるじゃろう、微
笑ましい悪戯の記憶じゃ。
⋮⋮ そ の 時 と も に 飲 ん で た 奴 等 は 皆 ワ シ と 同 じ 老 い ぼ れ 共 で の、
8・9人程度じゃったかのぅ⋮⋮
まぁ、ともかく全員がその話を覚えとっての、共に懐かしみ、盛り
上がった訳じゃよ﹂
﹂
﹁⋮⋮な、何、が。おお、おか、おかしいん、だよ。そんなの、何処に
でもある、った、ただの、飲み会の話じゃないか⋮⋮っ
有していたんじゃよ﹂
記憶を│││寸分違わず、ワシらは﹃同じ場所から﹄
﹃同じ視点で﹄共
﹁お前さんが走り回ってた姿を、笑って泣いてはしゃいどった全ての
彼は、言った。
みを叩くスタンの姿を赤みがかった視界の中に捉えた。
│││変わらず鋭い眼でそんな僕を見つめつつ、トントンとこめか
れを気にも留めず。
その所為で毛布がひらりとベッドの上に滑り落ちるけれど、僕はそ
こめかみを押さえるように頭を抱え込んだ。
彼の言葉が耳に届く度、僕は中途半端のままの腕を更に上げて両の
えとった事じゃ﹂
﹁│││おかしいのは、ワシら9人が全員その昔話を﹃同じ視点﹄で覚
⋮⋮頭が、痛い。なのに心は安定していく。そんな矛盾した認識。
で唇を突付く。
スタンは怒鳴る僕の様子を伺いながらも、溜息を一つ吐き。パイプ
!
⋮⋮彼が何を言っているのか理解出来ない僕の脳裏に、
﹃ネギ﹄の記
憶が走馬灯の様に流れ行く。
183
?
それはもう│││酷い頭痛と共に。
﹁⋮⋮ 何 度 も 確 認 し た。ワ シ ら が ボ ケ て る の か と も 思 っ て、魔 法 を
使って互いの記憶も確認した。⋮⋮しかし、結果は同じじゃ﹂
スタンが一言一言を発する度、僕の心は冷静さを取り戻していく。
今より幼いネカネが、僕の手をとり笑っている。
近づいてくる悪意は消えた訳じゃないのに。
アーニャが僕の頭を叩いて、それに﹃ネギ﹄が抗議して。
それ所か加速度的に近づいてきているのに。
﹁皆が覚えている﹃ネギ﹄に関する記憶は全て同一の物。会話の内容
も、ぼーずと二人きりでした秘密の約束とやらも、みーんな同じもの
なのじゃよ﹂
│││⋮⋮そして、この頭痛も皆共通。
⋮⋮おそらく、彼は今僕と同じ種類の痛みに襲われているのだろ
う。
一際強くこめかみを押し込み、痛みに耐えるような表情で、彼は
言った。
﹁⋮⋮前々から何となく、お前さんについての違和感はあった。
しかし、その違和感を追おうとすれば、それ以上深く考えようとす
ると例外なく頭痛が襲ってきよる。
まるで、お前さんには触れて欲しくないとでもいう様にな﹂
その言葉に思い出すのは、かつての記憶。
以前ネカネが家に帰ってきた時に、リビングで頭を抑えて苦しんで
いた彼女の姿。
その時は何時もみたいに貧血で苦しんでいた物と思っていた。
⋮⋮でも。
184
でも、もしかしたら。
﹁⋮⋮それが、どういう意味を持つか。分かるかの
﹂
スタンは僕にそう問いかけてきたけど、僕にはそれを理解する余裕
なんて無かった。
だって頭が痛い。何も理解できない。
泥遊びをして笑う僕。
でも、不安は。
転んで泣き喚く僕。
頭が、焼ける様に痛む。
さっきまでの不安は、嘘の様に消えていく。
友達と遊んでいる僕。
矛盾。僕に侵食する。
誰かにいたずらをしている僕。
心が、安定する。
それを見守る誰かが笑う。
矛盾。悪意が直ぐそこまで近づいていて。
誰かが、誰かが、思い出せない。
もう少しで。ノイズ。
笑っている。怒っている。軋む。
誰、か。 ﹃⋮⋮やった﹄
⋮⋮矛盾
が、軋む、ノイズ。記憶が、誰かが、痛い、ネギは、割れる、誰が
だれ、だ、だ、れがgggggggggggggg│││⋮⋮
⋮⋮彼は、そんな僕から目を逸らすようにして、言った。
﹁つまり│││﹂
⋮⋮止めろ。
?
185
?
誰が、誰⋮⋮誰が。視界に、悪意が、眼球を這う血管が浮かぶ。頭
?
言って。
言うな。
止めないで。言って。
言って、止めろ、止めて、言って、言って、言って│││
│││﹃言って、あげて﹄
││││﹃ネギ﹄とワシらとの記憶。
過去にあった思い出の全ては、作られた物という可能性が高い││
││││
│││唐突に、頭痛が消えた。
そうしてそれと同時に、スタンの背後にある茨が│││そして僕の
頭の中の何者かが。キチキチと異音を立てる。
それに触れろと、触れるなと。﹃二人﹄が﹃二人﹄、僕に対して相反
する意識を叩きつけてくるんだ。
⋮⋮僕は頭を抑えていた手を外し、目を逸らしたままこちらの様子
に気付かないスタンの背後に手を伸ばした。
﹁⋮⋮そんな事はワシも、仲間らも信じたくは無い。しかし、ぼーずの
│││⋮⋮﹂
まだスタンが何か言っていたけど、その時の僕は彼の言葉なんて耳
に入らない。
まるで誰かに誘導されているかのように手を伸ばし続けていたん
だ。
あれほど触れたくないと、見たくないと思っていた茨に自分から触
れに行くなんて、判断能力を欠いていたとしか思えないよ。
│││でも、僕は止まらない。
彼の背後にある茨からは、やっぱり不快感を感じるけど。
そんな事は全く気にする事は無く、僕は判断能力を欠いている状態
のまま、手を伸ばし続けて。
186
もう少しで手が届くんだと。もう少しで会話できるんだと。
僕と繋がる﹃彼﹄は、僕の意思を一時的に乗っ取って、唯只管に茨
へと触れようとするんだ。
そして、その指先が触れかけた││││瞬間。
﹂
﹂
││││││ズドォォォン⋮⋮
﹁│││
﹁⋮⋮ぁ⋮⋮ッ
我に返った。
家の外から響く爆音。
﹁⋮⋮⋮⋮は、ぃえ⋮⋮
﹂
地面が揺れ、パラパラと天井から埃が落ちる。
!!
頭に何かを乗せられた。
のろのろとした動作で、彼に向かって顔を向け│││ぽすん、と。
そのままぼうっとしていると、スタンの声が耳朶を打つ。
﹁⋮⋮ぼーずや﹂
はり、そこには確かな嫌悪感があって。
手を伸ばした姿勢のまま、ゆっくりと茨の塊を見たけれど│││や
全てが分からないまま、僕は僕に戻っていた。
今何が起こっているのか。
自分が今何をしようとしていたのか、何がしたかったのか。そして
?
﹂
⋮⋮いや、乗せられた。というか、被せられた、が正しいかもしれ
ない。
﹁え⋮⋮な⋮⋮
!?
187
!?
!!
突然視界が真っ暗になり慌てた僕は、焦りでおぼつかない手つきで
持って﹁それ﹂から頭を引き抜いた。
その内側に篭っていた濃い香りにふらつきつつ見てみると、それは
彼が何時も被っているトンガリ帽子だったよ。
⋮⋮さて、篭ってたのは整髪剤の香りか加齢臭。どっちかな。
﹁それを被ったまま、ここで大人しくしとれ﹂
後者だったら嫌だなぁ、とゲンナリしている僕をよそに、スタンは
懐から杖を取り出し呪文を一つ。
杖の先から光の粒子が迸り、僕の部屋のドアの中に入り込み│││
その中心から光の魔方陣が浮かび上がらせる。
なん、何なんだよ、あんた
な、なんん、何なんだよ
﹂
﹃ネギ﹄の記
もしかしてこれがさっき言ってたワープ魔法って奴だろうか。
んだ。
さっきの爆発音も気にはなるけど、それよりもまず│││
ちょっと⋮⋮
﹂
僕│││じゃない、ネギの記憶が作られたってどういうことだよ。
﹁ねぇ
!!
何やら安心したかのように先程まで纏っていたピリピリとした雰
囲気を解き、帽子の下に隠していたオールバックの髪を撫で付けた。
188
いや、そんな事より。
﹁な、ちょ、ちょっと
憶が、とか、この帽子、とかぁ
!
!
途中僕は色々とおかしくなっていたけど、話自体は一応聞いていた
そうだ、スタンの話はまだ途中じゃないか。
!
!!
そう叫びつつ追いすがる僕の姿にスタンは苦笑を一つ。
!
﹁│││続きは、全てが終わってからじゃなぁ﹂
その言葉を最後に、スタンは魔方陣へと一歩飛び込み│││光に飲
み込まれるようにしてその姿を消した。
彼の動きは流れるように滑らかで全く隙の無い、言ってみれば、戦
いに向かう者の動きだったと思う。
僕も慌てて魔方陣に手を突っ込もうとしたけど、その時には光は消
失済み。
木の板を叩く感触だけが伝わってきて、危うくつき指をするところ
だった。ファック。
﹁⋮⋮な、ん。なんだ⋮⋮﹂
そうして、僕一人きりとなった狭い部屋の中で。
スタンの言った言葉が、僕自身の行動が、漠然とした恐怖が僕の頭
の中をぐるぐると回っていた。
朝から感じていた悪意。
作られた記憶。
茨に触れようとした僕。
一つしかないネギの姿。
消えた嫌悪感。
そして僕は何が起こったのか何一つ分からないまま、彼が開いたと
思われるカーテンの外側、スタンが見ていた町の方角に目を向けて│
││
189
第9章 一つは、世界にとっての願望機
しんしんと雪の降り積もるイギリス、ウェールズの片田舎。
そのさらに外れにある深い森の中、そこかしこに溢れる木々に隠れ
るようにして存在する一つの村がある。
人口わずか数百人程の極々小さな村であり、現代において未だ行商
人が訪れるほどの閑散とした⋮⋮しかし決して過疎と言う訳ではな
い穏やかな村だ。
大人も、子供も、老人も⋮⋮数百人という人口から見れば、どの世
代も極めて適正値に近い人数が住んでおり、その男女比もまた同様。
世間に溢れる、後継者不足に悩むような土地柄とは一線を画す、極
めて﹁健康的﹂な村だった。
何故ならば、この地こそ魔法使いにとっての隠れ里。
とある人物を慕い集まった、一定以上の実力を持つ魔法使いたちに
よって作られた村なのだ。
高い実力を持つ彼らの中には、生活に役立つ魔法を習得するもの
や、様々な場所へとパイプを持つ者たちが居る。
それら使える力を全て用いて、この村は外敵から身を守るための結
界、ライフラインや交通手段など﹁魔法使い﹂が住みやすい場所へと
整えられているのである。
それは言わば、魔法使いのための村。
現代に生きる魔法使い達にとっては、これ以上は無いであろう最適
な場所であったのだ│││
│││だが、しかし、その姿も今や見る影も無い。
家は燃え、地は割れ、人々の怒号が辺りへと響き。
空を覆い尽くす程の無数の黒い大群が│││悪魔が村中を蹂躙し、
人を傷つけていく。
そして魔法使いたる村の住人達がそれを黙って見ている訳も無く、
各々が持つ魔法の杖や武器を駆使し応戦する。
戦いに慣れた老人達は、一人でも多くの村人を守ろうと立ち上が
190
り。
血気盛んな若者達は、一匹でも多くの悪魔を撃退しようと村中を駆
け回り。
そして村の女性達は、未だ戦う術を持たない子供達を抱きしめる。
そうして破壊された建物から上がる炎が空を紅く照らし、傷つきな
がらも戦う村人の声と悪魔の断末魔がひっきりなしに響き渡るその
空間⋮⋮
⋮⋮それはまさに地獄絵図、という言葉が相応しい様相を呈してい
た。
│││そんな、黒の大群が次々と降り行く村より少し離れた場所に
あるバス停の付近。
そこかしこに木々が生い茂り、枯れ枝と雪が降り積もる冬の森の中
で、一つの戦闘が行われていた。
た声。
﹄
その悪魔は目の前に佇む標的を害そうと手を伸ばした姿勢のまま、
違和感の生じる自らの胸を見下ろした。
視界に映るのは、黒い肌。強靭な筋肉と凱骨格に覆われた、正に筋
骨隆々と呼ぶに相応しい異形の身体。
凹凸のハッキリした逞しいそれは、拳打、銃撃、斬撃全てを弾き返
す剛の肉。
生半可な攻撃では傷一つ付かない筈のその胸筋に││ぽっかりと、
191
﹂
*****************************
**
﹁光の精霊1柱│││魔法の射手
│││凛、と。
﹃グ⋮⋮
鈴の音の様に澄んだ声と同時、彼の背から一筋の細い光が迸った。
!!
放たれるのは、何が起こったのか理解出来ていないかのような濁っ
?
小さな空洞が開いていた。
生命活動を続けるにおいて致命的な位置に存在する、穴。それは左
胸から背面の肩甲骨までを一直線に貫いており、向こう側の景色をく
り抜いていたのだ。
もし背中側より穴越しにそれを成した人物の姿を覗き見る者が居
たのならば、その悉くが驚愕の声を上げるに違いない。
││何故ならば。その穴に腕を突き入れていたのは、未だ14にも
満たないであろう可憐な少女だったのだから。
﹁はっ⋮⋮はっ⋮⋮﹂
緊張か、疲労か。
その少女は乱れた息を荒らげながら、鋭い目つきで目前に立つ巨漢
の悪魔を睨みつけ。
雪に埋もれた枯れ木を踏みしめ、綺麗に五指を揃えた手刀を、僅か
に煙を噴き上げる穴に向かって突きつけていた。
192
そう、少女││││ネカネ・スプリングフィールドは、その指先よ
り放った魔法攻撃により、偽りとはいえ生の脈動を刻む彼の﹁それ﹂を
寸分の欠片も残さず完全に吹き飛ばしたのだ。
﹃ゴ⋮⋮プ﹄
筋肉と凱骨格の隙間を縫い、糸を通すが如き精密さで放たれた一撃
が自分の命を刈り取った││
それを悪魔が理解すると同時。彼は喉奥から血液と声にならない
吐息を流し、思い出したかのように呆気なく絶命。
ネカネは彼が倒れる事を確認する前にその穴から手刀を引き抜き、
﹂
魔力によって強化された筋肉で持って跳躍。その亡骸を力の限り蹴
り飛ばした。
﹁│││りゃぁあッ
ぼぐん、と。
肉を打つ鈍い音が響く。
!!
衝撃を受けた亡骸は軌道上に存在した悪魔の一匹を巻き込みつつ
も地面と水平に吹き飛び、辺りの木々を折り砕き。
その角に急所でも貫かれたのだろうか。巻き込まれた悪魔もそれ
と一緒に、地に落ちる事無く空気に溶けるようにして霧散した。
⋮⋮言葉尻だけ見てみれば幻想的な最期に見えなくも無いが、実際
は血と肉の欠片を振りまいた、それはそれは醜悪なものであった。
加えるならば、今しがた殺害した悪魔は自分の故郷を襲う無頼漢が
召喚したものだ。例えどのようなことがあっても幻想的だなどと思
﹄
うことは絶対に無いだろう。
﹂
﹃キ、キサマァァァ⋮⋮
﹁│││ッッ
脳内に鳴り響く警鐘。
る。
︵く⋮⋮っ
︶
│││そして、流れ行く肘の部分に先程とは逆方向の肩を接地させ
│││未だささやかな胸を、その手首に密着させ。
に左肩を着け。
│││力を受け流すよう大きく身体を捻りながら、迫り来る拳の先
が放つ大岩のような拳を紙一重で受け流した。
彼女の背後から襲い掛かる、仲間が殺されてご立腹らしい別の悪魔
中で身体を瞬時に反転。
殺気とも言えるそれを感じ取った彼女は、蹴った勢いそのままに空
!
│││そして、肩に手をかけ一気に身体を引いて│││
まるでスローモーションの様に、引き伸ばされる知覚。
ネカネの身体は悪魔の丸太の如く太い腕に沿い、その黒い皮膚に触
れつつ回転。悪魔の巨体の上を勢い良く転がり上がり、擦れ違う。
それは、受身とは程遠い泥臭い動きであり、受け流しきれない力の
流れが展開している魔法障壁をすり抜け、ネカネの陶磁器のような肌
とそれを覆う服に幾筋もの小さい擦り傷を作る。
│││しかし、彼女はそれを気にも留めない。
193
!!
│││悪魔と視線を交わしつつ、上腕部分に自らの背面を沿わせ。
!!
﹃ナ⋮⋮ッ
﹄
自分の攻撃が受け流された事に驚いた悪魔が素っ頓狂な声を上げ
るが、その行動は中断させる事が出来ず。
ネカネは回転する勢いのまま、擦れ違い様に悪魔の首へと両足を伸
﹂
ばし、露になった白く柔らかな太ももでその頭を挟み込み│││
﹁│││やぁッ
│││ボキンッ
本動かす事も出来ない。
その耐久力は見上げた物ではある⋮⋮が、しかし。彼はそれ以上指一
流石は悪魔といったところだろうか、首が折れても意識を失わない
付け、膝を折る。
ては背後かもしれないが︶歩き出した後│││彼女を憎憎しげに睨み
頭部が背後を向いたその悪魔は、二・三歩正面に向かって︵彼にとっ
﹃⋮⋮カ、カカ⋮⋮ガ﹄
│││今度こそは、間違いなく。
を生み出していた。
如く巻きつく金色の髪と、風にはためくローブとが一種幻想的な光景
この凄惨な光景と対比するかのように、その小柄な体躯にリボンの
麗に地面へ着地する。
そして彼女の身体は悪魔の首を折った慣性のまま宙空を回転。華
足に伝わるその感触に吐き気を覚えるが、ぐっと堪え。
﹁⋮⋮っ﹂
の胴ほどもあるだろうその首を180度、いとも容易く折り曲げた。
加えて悪魔の身体から離れる瞬間の力も乗ったその一撃は、ネカネ
された魔力の流れによる強化。
カウンターによる勢いと、彼女の細い筋肉に宿った極限まで効率化
乗せてやれば、骨を折り外す事など造作も無い。
しかもそれが、元々稼動できる方向であったのなら│││少し力を
は意外に弱いものだ。
⋮⋮鋼の様に厚い肌や打撃の効き難い硬い筋肉も、曲げられる力に
!
!!
それは言わば﹁死なない﹂のではなく、
﹁まだ死ねない﹂といった風
194
!?
情であり。
﹁せぇぇぇえええええええいっ
﹂
その隙を逃さずに、自らの頭部を力いっぱい蹴飛ばしにかかるネカ
ネの姿を、その悪魔はただ見ている事しか出来なかった│││
***************************
│││悪魔。
モンスター、或いは鬼。国や地域によって各々個別の呼び方はあれ
ど名指す物はほぼ同じ。
本来ならばこの世界に存在しない、異界より引き出された人や動物
と異なる異形の者だ。
鋼の様に強靭な肉体。頭に鎮座する硬い角。背から生え出る大き
な翼。
並大抵の物ならば容易く噛み千切る牙に、如何なる物をも切り裂く
鋭い爪。
固体による差は多少あれども、その姿と質は正しく化物としての体
裁を誇っている。
しかし彼らの身体は純粋な肉体ではなく召喚主の魔力と依代によ
り構成されている。肉体を一定以上破壊されてしまう程のダメージ
を食らってしまうと、召喚主との契約が力尽くで破棄されてしまい、
彼らは異界へと還ってしまうのだ。
特殊な契約を結んだものや、強大な力を持つ上級悪魔はその限りで
はないのだが、それはさておき。
戦場における兵士に当たる、強力な使い捨ての駒。
それが彼らにとっての│││少なくとも、この旧世界に生きる魔法
使いにとっての悪魔という存在であり│││
﹂
195
!!
│││今現在、ネカネの故郷のあるこの地域は、その悪魔の襲撃を
受けていた。
﹁⋮⋮はっ⋮⋮はっ⋮⋮
!
ネカネは悪魔の頭部を蹴り飛ばした姿勢から戻し、拳を構え、足を
半歩開いた戦闘姿勢へと移行。息を荒らげつつ周囲を警戒する。
その戦闘姿勢は、彼女が参考にした少しイかれた友人達のそれより
も遥かに不恰好な物で、お世辞にも様になっているとは言い難がった
が│││その気迫だけならば凶悪な相貌を持つ悪魔にも負けては居
ない事だろう。
⋮⋮否、気迫だけではない。
端から見れば年端も行かぬ少女ではあるが、彼女が纏うオーラも見
た目と同じ儚げな物ではなく。
全身の筋肉繊維と神経系に沿う様に施した強化魔法。身体の上を
這い回る一本一本が異なるベクトルを持つ極細の魔力糸。
三桁は優に超えるであろうそれらが放つ圧力が、僅かながらに周り
の空間を歪ませ彼女の気迫に確かな視覚効果を与えているのだ。
一見か弱い少女にしか見えない誰もが未熟と評するだろう彼女の
その姿は、今この時に限っては達人のそれにも匹敵する存在感を放っ
ていた。
﹁敵は⋮⋮いない、わね﹂
筋肉と同じく限界まで高められた視覚と聴覚。
数百メートル先まで感知できるそれらが探るのは、周囲に存在する
悪魔の気配。
少なくとも直ぐ様エンカウントする範囲内には居ない事を確認し、
ネカネは警戒を解く。
勿論、身体強化の魔法は持続させたままだ。
この状況において一瞬の油断が最悪の結果をもたらすであろう事
は、いくら戦闘に疎い彼女といえども理解できていた。
そして、もし一度強化魔法を解いてしまえば、その瞬間自分は立ち
上がれなくなるであろう事も。
⋮⋮今のネカネの身体は、実のところ割といっぱいっぱいだった。
魔力の節約のため、且つ隠密性を重視し、仕方なしに行っている魔
力ブーストのかかった激しい肉体運動による疲労、神経の酷使や意識
の加速。
196
悪魔の襲撃による恐怖や、その殺害に対する精神の負荷に加え、心
臓のクロック数を上げ貧血を無理矢理押さえ込んでいるこの状態。
一旦魔法を解き緊張を緩めてしまえば│││後はもう、想像に難く
ない。
襲い掛かるのは極度の疲労。悪魔を手にかけた事による罪悪感、吐
き気。そして貧血。
少なくとも、一秒すら持たずに気絶できる自信が彼女にはあった。
⋮⋮今、その様な愚を犯すわけには行かない。
ネギを助けに行くため、自分が殺されないために、そして何より│
││
﹁│││アーニャ、一先ずは大丈夫よ﹂
﹂
│││そう、今この場には、自分が守るべき妹分が居るのだから。
﹁⋮⋮ね、ネカネおねえちゃん⋮⋮
戦いに巻き込まないよう認識阻害魔法をかけていた枯れ木の影か
ら、戦場の気配に怯えつつもそれを支えにして立ち上がるアーニャ。
その姿はまるで警戒心強い猫のようで、恐怖からか身体は小刻みに
震え、目の端には涙が溜まっており今にも泣き出してしまいそうだ。
彼女は何時もの気丈な姿とは正反対の│││か弱い少女という印
象を周囲に与えていた。
⋮⋮それもその筈、彼女は今、生まれて初めて命のやり取りをする
場に立ち、その瞬間を目撃してしまっているのだ。
加えるならば未だ4歳の女の子が、である。
普通の子供ならば、錯乱して泣き叫んだり、それを行った張本人で
おねえちゃん、傷だらけじゃない⋮⋮
﹂
あるネカネに怯えてしまっても不思議ではない筈であるが│││
﹁だ、大丈夫⋮⋮
!
後の一線は踏み留まり、あまつさえネカネの心配までしてのけている
ではないか。
流石に少し怖がっている様子ではあったものの、その目には彼女に
対する信頼と憧れが強く湛えられており、何時もの気丈さをほんの一
欠片ではあるが感じさせている。
197
!
しかしアーニャは恐怖により震え泣きそうではあれども、それら最
?
⋮⋮ネカネはその姿を嬉しく思い、安心させるよう﹁大丈夫﹂と一
言だけ告げ。優しく頭を撫でた。
彼女のアレンジした強化魔法は微弱ながら回復効果も付いている。
身体欠損や大きな裂傷となればそうは行かないが、骨折や小さな擦
り傷ぐらいならば、短時間で勝手に治療されて行くのだ。
⋮⋮まぁ、後日に筋肉痛やら成長痛やら肌の引きつりやらで大変な
事になるのだが、それは言わぬが花である。
︵それよりも⋮⋮問題はこれから︶
多少なりとも安心し緊張が削がれたのか、ネカネに抱きつき腹部に
頭を擦り付けてくるアーニャをあやしつつ、故郷の方角の空に目を向
ける。
上空。村があるはずの場所の真上には幾百もの黒い影が│││悪
魔が滞空し、輪を描き。次々と地上へと降下して行く。
ネカネとアーニャがいる、村より少しばかり離れた森の中からで
198
も、木々の間を縫い煌々と上がる赤い火の手と黒煙が灰色の空を照ら
している事が確認でき⋮⋮村で何が起こっているのかは一目瞭然だ。
結界の張ってある村まで辿り着ければ、スタン達と合流して何とか
なると思っていたのだが│││現実はそう甘くは無かったらしい。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思わず、アーニャを抱きしめた手に力が入る。
村人達を心配する気持ち、非常時に置かれて居る事による混乱、現
在進行形で故郷を焼かれている事への憎しみ。
︶
様々な異なる感情が彼女の胸裏で渦を巻き、その裡を乱し焦がして
いくが│││何よりも。
︵⋮⋮ネギ、タクミ⋮⋮
ただ、ただ、真っ直ぐに。ひたすらに。
が如何に危険な事かも顧みず。
自らの安全も、アーニャを連れたまま悪魔の集団の中に飛び込む事
へと走り出しそうになる。
もし、ネギに何かがあったらと考えるだけで、後先何も考えずに村
│││何よりも最も気になるのは、最愛の弟の安否。
!!
そう⋮⋮彼女の実の肉親である、最愛の弟の下へと│││
⋮⋮しかし、ネカネの身に掛かる魔法が彼女の心を強制的に沈静化
させる。
頭に上った血を貧血にならない程度に押さえ、脳内の分泌物を細か
く操作。
加速された意識の中、無理矢理に思考を健常な方向へと纏め上げ
た。
︵⋮⋮大丈夫、ネギの傍にはスタンさんが居るはず。だから、すぐにど
うにかなるとは思えない︶
そう、ネギの事を気にかけるのは自分だけではない。
村にはスタンを始めとして、自分より腕利きの魔法使いが多数在住
しているし、その他の村人達だって決して弱くはない。
怪我人の治療ならともかく、戦いに関しては自分よりも優れている
者も多数居るはずだ。
だから、必要以上に慌てる心配など無い│││
⋮⋮自分に言い聞かせるように胸中で繰り返し、逸る心を落ち着か
せる。
︵今、私がするべきことは⋮⋮アーニャを守ること︶
ネギの事も非常に気にかかるが、アーニャが居る今の状態で悪魔が
襲撃を行っている村まで戻る事は自殺行為│││否、むしろ心中行為
に等しい。
こうして森の中で息を潜めている間にも、悪魔達は続々と村へと降
り立っているのだ。ならば先程倒した悪魔のように、森を徘徊してい
る悪魔達も数多く居るはずだろう。
スタンと合流するためには、その悪魔の徘徊する森中をアーニャを
守ったまま移動し、さらに村中を襲う数多くの悪魔から逃げ切りスタ
ン達の下へと到着する必要がある。と言う事だ。
⋮⋮ネカネには、それら全ての目標を自分が達成できるとはどうし
ても思えなかった。
先の戦闘では難なく悪魔を撃退することが出来たネカネであるが
│││実際の彼女自身は戦いを生業とする戦士では無い、ただ魔法が
199
使えるだけの少女であるのだ。
戦場と化している村へと突っ込んでいって、目標を達成できるだけ
の適切な判断と行動を選択できる自信は無かった。
自分一人だけならば、肉体強化の魔法でもって相当の無茶をすれ
ば、スタンの元へと到達することが出来ただろう。
しかし、今アーニャが傍にいるのだ。彼女を守りながら行動しなけ
ればならない以上、その無茶も出来はしない。
│││ならば優先するべきは、護衛と逃走。
胸の中で泣いている少女を悪魔達から守りきり、山の麓にある町に
││祖父の治めるマギステル・マギの陣地内まで戻り、助けを請う。
それが、現状の彼女が出来る精一杯であるのだろう。
﹁⋮⋮っ﹂
⋮⋮私がもっと強ければ、ネギの元へと駆けつけられたのに。
もう少し戦闘に関して学んでおけばよかった、戦いに役立つ魔法を
﹂
﹂
!
更だ。
ネカネは抱きついているアーニャをそのまま抱え上げ、落とさない
様しっかりと抱きしめつつ森の中を走り出す。
後ろ髪を引く慙愧の腕を振り払い、込み上げる涙を抑え、ただ只管
に。
行く手を阻む木々を軽やかにかわしながら足を踏み込み、一気に加
速。アーニャに負担が掛からない様に、それと周囲の動向に細心の注
意を払いつつ、金の閃光となり森の中を駆け抜けていく。
200
覚えておけばよかった、級友達から敵と戦う術を教えてもらっていれ
ば│││
﹁きゃ
﹁││ごめんなさい⋮⋮
││今はただ、この状況から逃れることだけを考えろ。
は飲み込む。
そんな後悔が激情となって溢れ出そうになるが、それら全てを彼女
︵⋮⋮⋮⋮︶
!!
心が決まれば後は行動に移すのみ。一刻の猶予も無い現状では尚
!?
﹁お、お姉ちゃん
こっちは違うよ⋮⋮
﹂
!
れ以上先に進む事は出来ないの﹂
﹁な、なんで だって、さっきも黒い奴とか、ばーって倒したよ
!?
と希望を抱かせるのに十分だった。
││││なのに、なんで逃げるの⋮⋮
ね、お姉ちゃん
のに、なんで戻ろうとするの
﹁戻ろう
﹂
おじいちゃんもぉ⋮⋮
何で、何で⋮⋮
﹂
だって、パパとママが、タクだって、
﹁お、お願いだから、おねがい⋮⋮
﹂
?
!
﹂
⋮⋮きっと、自分は後でアーニャに責められるのだろう。詰られる
﹁⋮⋮⋮⋮ッ
その掠れた声は、ネカネの胸を容赦なく穿ち、精神をぐら付かせる。
流れ行く景色の中、ローブに顔を埋めたまま放たれる悲痛な懇願。
!
﹁⋮⋮アーニャ⋮⋮っ
!
ネカネならば、お姉ちゃんならば。きっと皆のところに行ける筈な
⋮⋮だからこそ、ネカネが逃走を選択した事が理解できない。
?
その勇姿は、彼女に﹁お姉ちゃんなら、あの黒い奴を何とかできる﹂
姿。
そんな中で、襲い掛かってきた悪魔を難なく討ち倒したネカネの
いは察している。
│曰く、黒い奴││に村が襲われており、彼らが危ないと言う事くら
ネカネ以上に現状の理解が出来て居ない彼女だが、それでも悪魔│
い友人なども在住しているのだ。
それも当然の事なのだろう、村にはネギは勿論、彼女の両親や親し
潤んだ目で見上げ、必死に村に戻って欲しいと訴えるアーニャ。
なら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい、ここまで連れて来たのは私なのに⋮⋮。でも、あ
た。
⋮⋮しかしネカネは立ち止まる事無く、目線だけを腕の中に向け
焦った声を上げる。
途中、自分たちが村から離れている事に気付いたらしいアーニャが
!
!
!!
201
!?
!
?
のだろう。
何故両親の元に行ってくれなかったのか、何故逃げ出したのか、何
故自分達だけが安全圏に居るのか。涙と鼻水を垂れ流した顔で縋り
付かれるのだろう。
先程まで抱かれていた信頼も、希望も、何一つ無かった事になって
しまう。それどころか憎まれる事になるかもしれない。
現状の把握できない子供だから仕方が無い⋮⋮そう片付けるのは
簡単だが、それでも結果的にネギを見捨ててしまう選択をした今のネ
カネにとって、たった一人。自分に残された守るべき者からそう思わ
れるのは、とても悲しく辛いものだった。
﹂
││そうなる位だったら、今からでも⋮⋮
﹁は、⋮⋮っは⋮⋮っ
息が上がり、足が、鈍る。
︵だから、だから、私はっ⋮⋮
︶
この状況から逃げだせなければ、そもそも﹁後﹂など無いのだから。
も、全てが終わった後にすればいい。
アーニャの気持ちを受け止める事も、悔やむことも、自身への責め
のことを考えて頭を悩ませても仕方が無い。
取らぬ狸の皮算用││とは大分違うかもしれないが、今助かった後
⋮⋮駄目だ。余計な事を考えるな。今は助かる事だけを。
音がして口内に鉄の味が広がった。
ふるふる、と頭を振り、乾いた唇を噛み締める。ぷつり、と小さな
再び、精神状態を操作。
﹁⋮⋮っ﹂
ネガティブな予想に目の端が震え、吐き気が込み上げて││
?
そうして身体強化魔法と認識阻害魔法を重ね掛け、ともすれば千々
れる。
⋮⋮ネカネはそれを強く抱きすくめ、袖の内側に隠してある杖に触
いが伝わってくる。
戻って欲しい、逃げないで欲しいと。その小さな身体から切実な思
胸の中からすすり泣く声が聞こえ、もがく振動が伝わる。
!!
202
!
!
に乱れる思考を一つに収束させる。
これ以上の強化は身体にかなりの負担を強いる行為となるが、自ら
を追い込む意味を込めて強行。
魔力と体力の消費がより一層激しくなり、悪魔を退けながら村に向
かうだけの余裕が無くなってしまった。これでもう、自分は逃げる事
に全力を注ぎ込む事しかできない。
﹁はっ⋮⋮はぁっ⋮⋮﹂
自分が動く事ができる時間は、感覚からしてあと一時間弱といった
所か。何時終わるかも分からない悪魔との戦いに身を投じれば必ず
途中で力尽き、アーニャ共々餌食になってしまうだろう。
しかし逃げるだけならばどうだ。一時間休む事無く、肉体強化が成
されたこの状態のまま、この速度のままで走り続ければ、森を抜けた
山の麓までは何とか辿り着く事ができる筈だ。
││それは正しく彼女にとってのタイムリミット。
203
村に向かう事も、自ら戦いに赴く事も。ネカネはノイズとなる選択
﹂
肢全てを、強制的に潰したのだ。
﹁ぁ、く、ううう⋮⋮
ネギの事、村の事、アーニャの気持ち、自分の気持ち。既に様々な
だが、ネカネは止まらない。
﹁はっ、っあ﹂
││そして、どれだけの負担がその身にかかっているのかも。
事だろう。
まりなく、どれだけの力がその華奢な体躯に宿っているかを伺わせる
彼女の軌跡に続き、残像の様に歪んでいく景色。その光景は異様極
に打ち出され、これまで以上に走る速度を増していく。
そうして地面を蹴り出す音が激しさと重みを増し、土塊が散弾の様
舞い、後方へと流れる景色に絡みいて空間を歪ませる。
和音。オーバーフローした魔力糸が行き場を求め唸りを上げて宙を
それは自らの身体の限界を無視して詰め込まれた魔力が放つ不協
温が上昇し、肌の色が薄桃色に上気する。
筋肉が、骨が、肌が。キチキチとした異音と激痛を奏で始めた。体
!!
﹂
ものを無視して居るのだ。今更身体の事を無視したとして、何の問題
があるだろう
﹁お、お姉ちゃん⋮⋮
らば、どうすれば良い
いのか
絶対に無事では済まないと分かっているのに
︶
!
﹄
﹂
﹃││おやおやぁ
間さんデスネー
自分達だけ助かろうナンテ、ズイブン薄情な人
││││そして、疲弊した精神は、それを見落としてしまった。
そうして更に加速すべく足に力を込め、踏み出して││││
最低限、周囲の気配を把握し、走る事に全能力を集中させる。
地を無くすように努めた。
自分自身に言い聞かせる様に心中で繰り返し、余計な思考をする余
︵逃げる、逃げる、逃げる⋮⋮ッ
自らの感情を押さえ込む度、心とも言うべき場所が磨耗していく。
それを繰り返す度に、少しずつネカネの視界が色を失っていく。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
く蝕まれそうになる度、精神状態を操作しその感情に蓋をする。
何度も生まれ続けるそれは悪魔の誘いのようにも思え。心中が甘
?
ネギを助けに行けば、自分とアーニャの願いのままに行動すれば良
?
冷静にさせた脳が自らの状態をそう判断し対処を訴えるが││な
││自棄。
只管に、足を動かし続ける。
の声はネカネには届かずに。
アーニャが只ならぬネカネの様子に不安げな声をかけるが、最早そ
?
?
そうして足元に広がる溶けかけの雪が飛沫を上げて舞い上がり、流
だ筈の地面が大きく波打つ。
ぱしゃり、と。何処と無く間抜けな音が辺りに響き渡り、踏み込ん
足元。響いてきたのは小さな女の子の声、そして、水音。
﹁││││、っ
?
?
!?
204
?
﹂
体化。驚くネカネ達を包み込んだ。
﹁きゃ⋮⋮ごぼっ
だった。
入った時には何も無かった為、油断していた⋮⋮
もう、嫌だ。
*******************
広がっていた。
白化粧が施されたその地面には、小さな水溜りが凍りつく事も無く
││人の気配が消え失せた、その場所。
ていく音。それだけだった。
後に残るのは遠くから響く喧騒の音と、枯れ木の間を風が吹き抜け
⋮⋮全ては、5秒にも満たない一瞬の出来事。
⋮
⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
それを抱きしめて││
胸の中に感じる温もりを守るように、或いは縋るように。ネカネは
上下左右、身体全体を包む液体の中で流され、平衡感覚を失った中。
﹁⋮⋮っ﹂
べきではなかった││そう後悔するが、それももう後の祭り。
この状況でとるべきだったのは、慎重さ。決して強行突破を考える
!
身体を包み込む冷水に脈を乱しながら、ネカネは歯噛みする。森に
︵││トラップ⋮⋮
︶
する事もできず。許されたのは、ただアーニャを抱きしめる事だけ
がり、加えて地面が液状化しバランスを崩してしまった状態ではどう
一時的に超人を凌駕した身体能力を持っていたネカネも、両手が塞
悲鳴を上げかけるアーニャの口に水が流れ込み、強引に声を潰す。
!!
どうして僕がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
205
!!
最早描写し飽きた感のある小部屋の中。
﹂
その部屋の隅っこ。ぐしゃぐしゃにシーツの乱れたベッドの上で、
僕は頭皮を掻き毟る。
﹁く、くそ、くそ⋮⋮
指に伝わるのは、頭皮ではない硬い布の感触。頭の上に乗せている
スタンから貰ったトンガリ帽子のものだ。
僕の頭全体を丸ごと覆ってしまうサイズのそれが、僕の指の動きに
合わせてシワを形作り、歪む。
借り物なんだから少しは大事にしないと。なんて声が心のどこか
から聞こえたけど、僕はそれを華麗にシカト。
恐怖、不安、混乱、そのほか諸々。頭の中を渦巻く激情のまま、よ
り一層の力を込めて帽子に爪を立ててかき回した。
八つ当たりだろうがなんだろうが、そんなの知ったこっちゃ無い。
こんな状況で帽子だけ寄こして消えた糞爺の持ち物に気を遣う必要
なんて無いじゃないか。
引っかき、引っ張り、押し込み、捻り、絞り。そうしてしわくちゃ
になった帽子がポトリと床に落ちて、立てた爪が今度こそ頭皮を引っ
かいた。
﹁っ⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮駄目だ、落ち着け。落ち着けよ、僕。大丈夫だ、まだ慌てるよ
うな時間じゃない。
そのピリッとした痛みに少しだけ我を取り戻した僕は、震える横隔
膜を押さえながら深く、息を吐き出した。
胸の奥はムカムカするし、性質の悪い吐き気もする。でも逃げてば
かりじゃいられない。
ギガロマニアックスである事を見ない振りしている僕にとって、目
﹂
の前に立ちはだかる現実は何処まで行っても現実のままなのだから。
﹁り、梨深ぃ⋮⋮
の名を呟いて、震える眼球を無理矢理動かし外を見た。
窓の外、大きな雪の粒を振りまく冬の空。
206
!
ともすれば錯乱しそうになる意識を抑える意味を込め、愛しい少女
!
そこにはどんよりと鈍色に濁ったぶ厚い曇が空一面を覆っていて、
その隙間から白い欠片が舞っていた。
一つ一つが僕の拳位もあるそれらは、ボサボサと音を立てて降り積
もり。見える限りの全てのものを白一色に染め上げる。
自重に耐え切れなくなったのか、時折屋根の上に積もっていた雪が
地面にずり落ちる音が聞こえて。僕はその度に深まる寒気を予感し
て、ぶるりと肩を震わせた。
外国の片田舎が作り出した美しき大自然、いやぁこれからはそうい
う事も考えて暮らして行きましょうねぇ。なんて。
⋮⋮まぁ、雪の間に変なものが混じってなかったら、そんな感じで
締められたかもしれないね。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カーテンの隙間から見える、その景色。
丁度村の真上辺りだろうか。空を舞う白い雪の乱舞に、ポツポツと
⋮⋮どころかワラワラゾロゾロザクザクドバドバと混じる黒いもの
がある。
それらは絶え間なく天から地へと螺旋を描き││遠目から見てみ
れば、まるで黒い竜巻が踊っているかのようだった。
⋮⋮それは良く見れば、蝙蝠に似た羽や尻尾の様な物が付いた生物
の形をしていて。その手足は身体に不釣合いなほどに太く、頭から細
長い角が生えていた。
人間とはかけ離れた容姿をしているしているにも拘らず、ギャー
ギャーと微かに聞こえる叫び声は耳を澄ませば人語に聞こえないこ
とも無くて││それは正しく化物、と呼ぶべき存在だった。
しかもダイナミック急降下を敢行する彼らは皆が皆村に対して攻
撃の意思を持っているいるらしく、建物に突っ込んだり口からレー
ザーを出したりして破壊活動を行っているんだ。
しかし村の奴らもされるがままって訳じゃないみたいで、時たま地
上から空に向かってレーザーっぽいのが放たれ、空を飛んでる黒い奴
らを吹き飛ばしてる。
一本、二本、三本と。光の筋が黒竜巻を貫通する度に、何やら小さ
207
い物体がその中から弾き出され宙に向かってぶち撒けられていて│
│ ま ぁ、そ れ に 関 し て は あ ん ま り 想 像 し な い 方 が 良 い ん だ ろ う な。
きっと。
│││化物と、魔法使い達の戦い。
現在、僕たちの居るこの場所はそんなポッター的な戦場となってい
るんだ。嘘だろ。
﹁⋮⋮ひ、ひひ、ひ﹂
思わず、気持ち悪い笑い声が唇の端から漏れる。
だってそうでしょ
なんかデーモン系の敵キャラっぽいやつが自由に空を飛び回って、
それで攻撃してきて。
爆音が一つ轟く度、空から地上にレーザーもどきが放たれる度。
雲を紅く照らす炎の光と共に遠目に見える建物が一つ、また一つと
煙と音を上げながら瓦礫の山に変わっていくんだ。
そして、それに立ち向かう魔法使いの村人達。まるでCG満載の
ファンタジー映画を見てるような気分になるじゃないか。
朝から感じていた恐怖と、さっきのスタンとのやり取りでおかしく
なっていた僕は、その光景を前にもう、何ていうか、笑うしかなかっ
た。
ね
ならPTコール
何が起こってるのか、全くもって理解
それぐらいなら梨深だって許してくれるよね
﹁⋮⋮ふひ、ひひひ⋮⋮﹂
で、実際、これ、何なん
?
今僕フリーなもんで。
防衛イベ
してくださればどのギルドにも行きますよ
あ、もしかして公式大型クエスト
不能なんだけど。
?
?
カマは大人しくおっ死んどけば良いんじゃない
ふひ、ふひひっひ
まぁ例外としてイライザの居るPTには入らないけどね。汚いネ
Tからは一人も戦死者を出さない自信はあるね。約束しても良い。
疾風迅雷のナイトハルトの名は伊達じゃないんだ、僕が加入したP
?
?
?
?
208
?
﹂
ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ⋮⋮⋮⋮
⋮⋮ひひ、ひひひ、ひ、ひ││││
何なんだよこれ
!
!
﹂
ネギになってからと言うもの、禄でもない事
!!
﹁⋮⋮ぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁ⋮⋮⋮⋮ッ
何なんだ
もう本当に嫌だ
くっそぉ⋮⋮
ばっかりだ
﹁くそっ
!
!
!
﹂
⋮⋮村の奴らがあいつらを撃退してくれる││なんて希望は、あの
る。
らだろうし、攻撃が一段落したらまず間違いなくこっちまでやって来
まだ見つかっていないのだって、デーモン達が村にかかり切りだか
つかってしまうはずなんだ。
数十キロも離れてるって訳じゃない。空から見渡されれば簡単に見
だって、いくらここが村から離れた場所にあるって言ってもそんな
る。
ない⋮⋮そんな事を考えると、心の奥底から恐怖が込みあがって来
あいつらが、村を襲ってる化物たちがこっちにやって来るかもしれ
貧乏ゆすりが止まらない。
﹁⋮⋮ぐ、っくくくく⋮⋮
安定を図るなんてキモい事をするくらいに。
それこそ、スタンの加齢臭だかコロンだかの香りに縋り付き精神の
いる僕は、もう色んな意味でギリギリだったんだ。
そして朝から感じていた不安感も相まって情緒が不安定になって
感。
││この小屋の外に渦巻く、悪意。容赦なく叩きつけられる圧迫
の時の僕にはそんな事を気にしている余裕は無かった。
端から見ればどこぞのザコモンスターのような出で立ちだけど、そ
にも留めず、身体に毛布をぐるぐると巻きつけた。
一呼吸ごとに濃い匂いが鼻腔に張り付いてくるけどそんな事は気
頭部から首元まですっぽり被る。
僕はベッドの端に落ちていたトンガリ帽子を乱暴に引っ掴み、再び
!!
!
209
!
光景を見る限り抱く事ができないよ。
だ っ て デ ー モ ン の 数 は 村 の 住 民 の 数 を 大 き く 凌 駕 し て る。エ ン
スーでの防衛イベントだって数十、数百のギルドが協力し合ってよう
やく達成できるんだ、あんな少数でどうにかできるなんて到底思えな
い。
││あの村は、まず間違いなく壊滅するだろう。そして、その次は
僕だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
だったら
⋮⋮村の奴らを心配する余裕なんて無かった。それよりも、自分の
方が心配だったんだ
だって、あいつらは魔法やらなんやらが使えるんだろ
相手を倒しきれなくても最低限逃げる事くらいは可能な筈じゃない
か。
話を聞く限りじゃ治癒魔法なんてのもあるらしいし、怪我したって
ケ ア ル と か ザ オ リ ク と か 回 復 L 3 と か で な ん と か な る だ ろ J K。
ファンタジー的に考えて。
││けど、僕には何も出来ない。
この雪の中を逃げる体力も、襲われた時に戦う術も無い。精神的な
問題でディソードも論外。出来る事があるのならば、それは見つから
ないよう居るかどうかも分からない神様に祈る事だけだ。
だってこちとら三歳児、人に頼らなきゃ生きる事もままならない弱
い存在なのである。救いの目のある村人より、どうしようもない僕の
現状を憂いたって良いだろう
無ければばザマァwwwとか言って笑ってたかもしれないよ。
⋮⋮まぁ、死亡フラグを立てていった酔いどれ老害の事は少しだけ
気になるけど。
記憶が作られたとか何とか意味深な事ばっかり言って、それで最後
は﹃│││続きは、全てが終わってからじゃなぁ﹄なんてさ。﹃この戦
いが終わったら俺結婚するんだ﹄と同レベルのフラグ強度だ。
210
?
ネカネやアーニャも今は居ないし、もしも僕に被害が及ぶ可能性が
何より、あの村には良い思い出が無かったからね。
?
村の奴らを逃がす為に敵を引き連れてマジカルに自爆、たった一人
の死亡者となって真実は永久に語られる事は無かった、とか。超あり
﹂
そうで怖いんですけど。
﹁く、くそ、くそ⋮⋮
この様子から言って、どうせスタンもあそこで戦ってるに違いない
んだ。あんな数の敵と、加えて嫌な奴らばっかりの村を助ける為に戦
いに行くなんて、どっかおかしいんじゃないの
﹁⋮⋮
﹂
││││部屋の扉が輝き始めたのは、そんな時だった。
そんな事を呟いて││
帽子の下の部分から手を差し込み、柔らかい親指の爪を齧りながら
爺極まりないな⋮⋮
さっき向けてきた敵意といい僕に気を揉ませる事といい、本当に糞
えたかったのかは分かったはずなのに。
で僕の事を守っていて欲しかったよ。そうすれば少なくとも何を伝
どうせなら他のご老人たちも呼び寄せて、村なんてほっといてここ
?
がして、僕はトンガリ帽子の先端を引っ張って目が露出するまで帽子
を引き上げた。
すると開けた視界に刺す様に強い輝きが入り込み、思わず目を眇め
てしまう。
それは先程見た光。スタンが帰る為に使用した、扉に埋め込まれて
﹂
いる︵らしい︶魔方陣が発する物だった。
﹁ふ⋮ふひひ⋮ひひ⋮⋮
た。
⋮⋮ん
入り込み、ストレスに苛まれていた精神が少々の落ち着きを取り戻し
⋮⋮彼が、生きて帰ってきた。その事実が安心感となって僕の心に
にキモい笑い声が漏れた。
噂をすれば影が差す、とはよく言ったものだ。そのタイミング良さ
!
あ、いや、嘘。全然落ち着いてないよ。マジでマジで。
?
211
!
!
帽子の内側、ベージュ色の生地が透過する光が一段と強くなった気
?
﹁⋮⋮ひ、ひ、な、何だよ。も、もう終わった、のか⋮⋮﹂
勿論、敗北&エスケープ的な意味で。
僕は何度も﹁やっぱり﹂と呟きながら薄ら笑いを浮かべ、部屋の中
を見渡し逃げ出す時に持っていく物を軽く一考する。
逃亡の為に戻ってきたと決め付けるのは少し早合点な気もするけ
ど、多分そういう事で合ってると思う。
扉に向けていた目線を窓の外にスライドさせてみたけど、黒い竜巻
は未だ村の上空に駐留したまま消える気配は無いんだ。
だったら、少なくとも敵をどうにか出来たって報告じゃない訳で。
まぁ、あからさまな負けイベントであった事は明白だもんね、しょう
がないね。
││加えて。
・戦況は多分極めて不利っぽい。
・ここには戦う為の物資とか、そんな物は何にも無い。
・あると言えば冷蔵庫の中身くらい。それか、僕。
それらの要素を踏まえた上で僕の所に来る理由││そんなの、ニア
﹃逃げ出すために僕を連れてく﹄位しか思いつかないじゃないか。
﹁⋮⋮ぱ、パソコン、くらいか⋮⋮﹂
僕は身体に纏わせた毛布をたどたどしい手つきで脱ぎ捨てた。歪
んだトンガリ帽子は何か頭の形に引っかかっていい感じにフィット
してたので、そのままで。
長い事貧乏ゆすりをしていた所為か痙攣する足を無理矢理動かし
て、ベッドの上を這いずる様にして机の方角に向かう。
この部屋の中で持っていくべきものは、愛用のノートPCだけだっ
た。今の僕の手には余る重さだけど、置いて行くなんて事は考えられ
ない。
︵さて、どんな台詞で煽ってやろうか︶
敗残兵たるスタンをどんな言葉で迎えてやるべきか。そんな事を
つらつらと考えつつ、PC周りのコード類を取り外していく。
そうして電源コードだけをポケットに突っ込んで⋮⋮後は、まぁ。
口惜しいけど諦める事にしよう。ルーターとかごちゃっとしたコー
212
ド類とか持って行けんし。
まぁ、最低限今やってるネトゲのオフが出来れば何とでもなる。
﹁よ⋮⋮と﹂
PCを落とさないようしっかり両手で抱え込み⋮⋮思い直して腹
と服の間に滑り込ませて、ズボンの腰紐で固定する。
そしてその上からコートを着込み、僕がPCを所持している事を隠
しておく。持っていることがバレてしまうと置いて行けと言われる
かもしれないからね。
僕は重い腹を引きずりながら、輝きを強める扉の前に移動した。
この位置からは見えないけど、窓の外からはまだ轟音が堪える事無
く響いてくる。あまり余裕の無い状態なのは確かだろうし、少しでも
扉に近い位置に居た方が良いだろうと思ったんだ。
﹂
僕はもうさっさとこんな戦地からはおさらばしたいのだ、だから早
く僕を連れ出して
﹁⋮⋮早く来い、早く⋮⋮
僕は鼓膜を小さく揺らす音に怯えながら、扉の表面に浮き上がった
魔法陣から草臥れた老人が出てくるのを待った。
一秒ごとに強さを増すその光は圧力を持って網膜を焼き、焦燥感を
も煽っていく。
││早く来てよ、あいつらが来ないうちに、早く
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何も言わずに、彼を待つ。
カタカタ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カタカタ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カタカタ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
んだ。
カタカタ、と。貧乏揺すりに合わせて腹部に仕込んだPCが音を刻
!
213
!
!
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カタカタ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
来るなら来るでさっさ
中々姿を見せないスタンに苛立ちを募らせながらも、ただ、ひたす
らに待つ。
⋮⋮焦らしプレイは得意じゃないんだ
と来いよ
ない。それもここを緊急避難場所とするぐらいに⋮⋮
﹁く、くそ。早くしてくれよぉ⋮⋮
﹂
だったので、見ない振りしてどっかに放り投げた。
そんな事をチラッと思ったけど、僕の脳内は既に脱出ムード一色
?
⋮⋮もしかしたら魔方陣の先は洒落にならない状況なのかもしれ
け。
貧乏揺すりは地団駄に変わり、苛立ちのままに床板に靴底を叩き付
!
カッ
﹁っうぇ
﹂
││││││││光。
扉に背を向けて││││
とりあえず、ベッドに座ってようかな。そんな事を考えつつ、僕は
ヒキオタの体力の無さを舐めんな。
⋮⋮ずっと貧乏揺すりをしていた所為か、何か足痛くなってきた。
目線をやったまま、早歩きで円を描くように、ぐるぐると。
滾る焦燥感を抑えきれず、ウロウロと落ち着き無く歩き回る。扉に
!
﹂
⋮⋮なんて擬音が轟いたと錯覚するほどに、一際大きく扉の魔方陣
え
が輝いた。
﹁え
⋮⋮スタン
?
と僕の目に先程とは比較にならない程の痛み││つまりは、光が突き
刺さる。
視神経を直接焼き切るような鋭い痛みに咄嗟に俯き、小さく呻いて
214
!
! !?
突如背後から出現した強力な圧力に、僕は思わず振り向いた。する
?
?
なんて冗談言ってられる余裕なんて無い。
両目を小さな手で押さえた。
これがバルスか
こえ始めていて││
││これ、なんか違う
﹂
何が起こったんだ
に問題が起こってませんように⋮⋮
││何だ
﹂
!?
おぇ⋮⋮﹂
﹁っが⋮⋮っほ、ぐ、は⋮⋮
﹁⋮⋮けほっ、けほっ
!
!
は背中なのに、何故か全身がキリキリと変な痛みを訴える。背骨とか
ごり、という音と、何か背中の真ん中がずれた様な感覚。打ったの
付けてしまった。
にバウンドしながら転がって、回転。机の足の部分に背中を強く打ち
僕はその衝撃に耐え切れず、近くにあった椅子を巻き込んで床の上
勢いでぶち当たる。
そして巻き起こる風が僕を吹き飛ばし、同時に背中に何かが物凄い
轟音と共に背後の扉が粉々に砕け散った。
﹁││っぐぁ
⋮⋮でも、少し遅かったみたいだ。
ベッドの端に足を引っ掛けたけど、その時の痛みも無視をした。
胸に沸き起こる恐怖と共に、只ひたすらに真っ直ぐに。その際に
ながらベッドの影に隠れようと走り出した。
その様子に只ならぬ気配を感じた僕は、まだよく見えない目を擦り
!!
だってそれに加えて、更にはピシピシと扉に罅が入るような音も聞
!
││次に映ったのは、水の濡れたローブが張り付いた、小柄な身体。
││まず映ったのは、赤い色素の混じった長い髪。
きた物体Xを追い、認識。
の涙でぼやける視界は無意識にその姿を││先程背中にぶつかって
キャパシティを超えた混乱と痛覚によりノイズの走る思考の中、僕
こえた。
しながら喘ぐ僕の耳にもう一つ。自分の物ではない咳き込む音が聞
そうしてそのあまりの痛みに息が出来なくなり、涙と涎を撒き散ら
!
215
!?
?
││そして最後に気管にでも水が入ったのか、必死になって咳をし
﹂
て水を吐き出し続ける幼い少女の歪んだ表情が映る。
﹁っ⋮⋮た、たく⋮⋮
││││僕の精神的な妹分にして身体的な姉貴分。自称幼馴染の
アーニャの姿が、そこにはあった。
216
?
第10章 一人は、人にとっての救世主
﹂
気が付けば、彼女は暗い激流の中にいた。
﹁││││
自らの周囲を巡るのは、身を切るような冷水。
未だ凍り付くまでは行かずとも、生命を凍死させるのには十分であ
ろう寒の極。
それまるで意思を持っているかのように蠢き、身体全てを包み込
み。容赦なくその少女の体温を奪っていく。
⋮⋮否、体温だけではない。
手を、足を、舌を、目を、五感を、臓器を。身体の自由だけでは無
く、彼女の持つ命の全て。
﹂
彼女が彼女たる全てのものを、それは奪わんとしていた。
﹁││⋮⋮
ぐるぐる、と世界が回り、冷水に揉まれる身体は前に後ろに回転。
少女を乱暴に振り回す。
そこから抜け出そうともがき、何度も足を蹴り出し身体の制御を取
り戻そうとするが、それも叶わず。
身体が衝撃を受ける度に必死に息を止めようと閉じていた口と、そ
れを抑える手が外れ。そうして口腔へと少々の粘性を持つ冷水がね
じ込まれ、食道と気道が凍て付くそれで満たされる。
﹁が。⋮⋮っぼ﹂
意識を犯す唐突な吐き気。脳の一部が焼きつき、硬く閉じた瞼の裏
が紅く染まり血管の模様を浮かび上がらせた。
体内に異物が入り込んだ事により、条件反射で咳き込み冷水を吐き
出すが││しかし、彼女の身を包んでいるのは今し方吐き出した物と
同じそれ。
咳き込む傍から体外に吐き出した以上の冷水が体内に雪崩れ込み、
肺の中身を押し出していく。
││もう、駄目かな。
内外から襲う寒気に思考さえも麻痺してきた彼女の脳裏に、そんな
217
!!
!
諦めの言葉が過ぎり││││その全身から力が抜け落ちた。
これ以上温度を奪われまいと。これ以上死へと近づくまいと筋肉
を固めていた意思が霧散し、手足が弛緩する。
彼女を襲うのは甘い痺れ。鈍い寒さと共に全身に巡って行くそれ
は、間違いなく死への足音だった。
うっすらと開いた彼女の視界が、徐々に白く染まっていく。
その白が視界全体を覆い尽くした時、自分は物言わぬ躯となるのだ
ろう。彼女はそう理解した。
││ごめん、なさい⋮⋮。
走馬灯。人が死ぬ間際に見るというそれすらも流れず、彼女の意識
は遠のき始め。
流す大粒の涙は水に混じり、消え。彼女は守れなかった事に謝罪を
して│││││
││││謝罪
守れなかったとは、誰のこと
ふと、苦しみと諦めで混沌に濁った脳裏を疑問が過ぎった。
今、自分は誰に謝ったのだろうか
だ
私はどうしてここに居る
私は何を守っていた
私は何故死にかけている
?
私は、私は、私は││││
?
?
ラと乾いた音を立てて空転する。
何故、何故
!
回らない、回らない、回らない⋮⋮
早くしなければ、早く至らなければいけないのに
!
!!
まるで部品の外れた歯車の様に。繋がらない思考と意識がカラカ
││果てしなく、焦れったい。
答えを出す事の出来ない自分の頭に苛付きが止まらない。
当にいいのか。
何を考えるべきなのか、何を考えたら良いのか。このまま諦めて本
回らない、回らない、回らない。
?
?
218
?
酸素が足りずぼんやりと鈍る思考の中、彼女は焦りを覚えた。
?
それは、怒りと呼ぶには余りにも小さい灯火。
しかしその感情の猛りは確実に彼女の身体に力を取り戻させる。
白く染まりかけた視界がゆっくりとその範囲を減らし、凍て付いた
﹂
全身を少しずつ。本当に少しずつ、暖め、溶かして。
﹁⋮⋮⋮⋮
︶
﹁││ッ
﹂
の空間の中で。只闇雲に首を巡らせた所で直ぐに見つかる筈も無く。
その身を激流に振り回され、その上数センチ先すらも見通せないこ
の中。
⋮⋮しかし、目に入るのは一切の光が入らない、どことも知れぬ水
を見回した。
未だ霞んだままの視界の中、彼女は感覚の戻らない首を回して辺り
胸から噴出すのは、焦り。
︵⋮⋮
││││そして、その腕の中に﹃彼女﹄が居ない事に気が付いた。
││││
刺し続ける痛覚が。触れる者を抱きしめる指先の感覚が戻って行き
それに付随し、手足の感覚が。水の冷たさを伝える温感が。身体を
た感情がそれを無理矢理押さえ込み、堪えさせ。
しかし、自分はここで終わるわけにはいかないと言う使命感にも似
も気を抜けば意識など一瞬で飛んでいくだろう。
未だ酸素は足りず、脳内の血管は絶えず悲鳴を上げている。少しで
!
﹄
冷水に濡れた身に纏ったその人物は││││
﹃││アーニャッ
瞬間。
少女││││ネカネの意識が、弾けた。
!!
!!
母からのプレゼントだと喜びながら見せびらかしてきたローブを、
足は力なく水中を漂い、少なくとも意識は無い様に見えた。
自分の半分程の身長、紅い色素の混じった頭髪。だらりと伸びた手
余りにも呆気なく激流に流されていくそれは、小柄な人影。
⋮⋮否、見つけた。
!
219
!?
白くぼやけていた視界は一気に焦点を取り戻し、開きかけていた瞳
孔が強い光を宿し、締まる。
酸素を求め焼け付いていた脳内は興奮により更に叫びを強め、より
﹂
一層の苦しみを彼女に与えるが││しかしそれすらも燃料とし、意思
の炉にくべた。
﹁││││││ッッ
ネカネの肌が、うっすらと光を帯びる。
身体を巡る幾百もの魔法糸が唸りを上げて回転し、ネカネの感じる
苦痛のままに猛り狂っているのだ。
彼女の身体が、意思が、心が。自信の感じる苦痛とアーニャへの想
いに溢れ、スパークする。脳神経とシナプスの箍が外れ、極度の興奮
状態へと陥った。
それは生存本能の上げる叫び。未だ完全には戻らない朦朧とした
意識を呼び戻す努力すらなく、ただ感じたままに魔力を行使。
全身の筋肉が膨れ上がり、只でさえ酸素の足りない身体が絶叫を上
げた。視界が黒くちらつき、表情が大きく歪む。
そんな極限状態の中、それも魔力のブーストを受け白熱した脳内に
﹄
響くのは、たった一つの言葉だけ。
││││即ち。
﹃アーニャを、助けろ││││
︶
痛みさえも無視をして。ただ見据えるのはアーニャの姿、その一
︵ゥ、あぁぁああっ
えていくが││ネカネはそれらを全てを認識して居なかった。
肉と皮の欠片、それと血液と油とが冷水に混じり、激流に流され消
かる。
ており、ただ腕を振り上げる動作だけでも彼女に大きな負担が圧し掛
それらの要素はネカネが振るう事の出来る力の上限を大きく超え
二重に施された強化魔法と、興奮により外れた脳のリミッター。
ず破裂したのだ。
の中ネカネが勢い良く振り上げた右腕、その指先が遠心力に耐え切れ
ぽん、と。間の抜けた音が水中を震わせた。纏わり付く冷水の圧力
!!
220
!!
!!
点。
﹄
ネカネは振り上げた腕に魔力を纏わせ、先程以上の勢いで持って振
ちょ、ま、ワアアアアアア
り下ろした││
﹃ノ、ノノ
││轟、と。水が猛る。
放した。
︵││││ッ
︶
らずに。振り下ろしたボロボロの右腕より纏わせていた魔力糸を解
傍から見れば自身の首を絞める行為だったが、しかしネカネは止ま
いていく。
る方向へと離れ離れに流されて││新たに産み出された大渦に近づ
そうして自身とアーニャの身体もまたその流れに巻き込まれ、異な
り、歪み。新たな流れを産み出して。
何者かに管理されていた筈の水の世界は音を立てて荒れ狂い、踊
響いてくるのは、水中に落とされる直前に聞いたものと同じ声。
残像すら見えない、その軌跡。それは激流を割り、渦を作り出す。
!?
!
舞い踊り││││
せずに駆け抜け、放射線状に、螺旋状に、時には直角にと縦横無尽に
金の軌跡を残す何本もの閃光は乱雑に流れ行く激流の中を物とも
に沿って打ち出され、空間内を奔る。
金色に輝く魔力の糸。淡い光を放つそれらは開いたネカネの五指
!!
ゥア⋮⋮
﹄
││││そして、世界に侵食した。
﹃あガッ
!
そして水の中を空間に潜り込むようにして金糸が消え、自分とアー
ニャの周辺を取り巻く水がぐにゃりと歪む。
ネカネは自分達を包み込む冷水が何者かが制御する魔法術式であ
る事を本能で察知し、自らの放つ魔力糸によって干渉を試みたのだ。
相手が制御出来ないほどに場を荒らし、その際に生じた隙に自身の
魔力を無理矢理ねじ込むというその手法。意識が朦朧としたまま、本
能で行動する獣となった今の彼女が行うには余りに複雑にすぎる技
221
?
小さな女の子の声が、響く。
!?
術だ。
やめ、入ってくルナ⋮⋮
しかし、彼女はそれを行使する。
﹃に、人間⋮⋮
││││術式解析。
││││魔力解析。
││││方陣解析。
││││呪文解析。
││││構成解析。
﹂
﹄
にも拘らず息が出来るようになる。急激に脳へと酸素が送り込まれ、
身体を覆う寒気と動きを阻害していた圧力が嘘の様に消え、水の中
﹁⋮⋮っは、ぁ
を流し込んで内部から破壊。その制御を乗っ取った。
彼女は組み上げられた既存の術式の基礎部分に干渉し、自らの魔力
ネカネが行ったのは、式の一部分を無理矢理自分の色に染める事。
界に関しては言わずもかな。
必要になる。それが三種類以上にも及ぶ効果を発揮するこの水中世
当然大規模な力を発現する魔法にはそれ相応の魔力の組み上げが
術媒体を通して現実へと投射するのだ。
そうして綿密に組まれたそれを魔法使い達は﹃魔法術式﹄と呼び、魔
を引き出し、自身の望む効果を齎す様に組み立てる。
自らの魔力を呪文に乗せて詠唱し、異界より﹃術式﹄と呼ばれる式
術式。
││││転移魔法︻現在、転移中︼
││││転移魔法の要素を発見。
││││捕縛魔法の要素を発見。術式一部削除。
││││攻性結界の要素を発見。術式一部削除。
吸収し、魔法糸より反映させるのみ。
津波の如く押し寄せる情報を整理する事も理解する事もなく、ただ
解析され送り込まれてくるが、今はそれも無意味な代物。
魔力糸と繋がった自身の脳に、この水で出来た極寒の世界の情報が
!?
少々の思考能力を取り戻し。鈍い頭痛と共に紅く血走った目に涙が
222
!
!
滲んだ。
彼女たちにとって害となる要素を魔法の中から排除し、術式を書き
﹂
換え自分にとって都合の良い物へと変化させたのだ。
﹁⋮⋮か、ふ。げぇ⋮⋮っ
﹂
じ、噛み締めた。
︵これじゃあ、アーニャを抱き寄せている暇すらも⋮⋮
︶
移自体を中断させる事が出来たのに││彼女は奥歯に苦いものを感
でバラバラ死体になる恐れもある。せめてもう少し時間があれば、転
既に転移が始まっている状態で下手に弄れば、それこそ転移した先
を書き換える時間的余裕がない。
震える身体を押さえつけ、息を整え思考する。残り一つ、転移魔法
﹁ぐぅ⋮⋮っ
││││転移魔法︻完了まで推定6秒︼
の気配あり︼
││││転移魔法、転移先。︻同パターン2、付近に敵性反応、複数
込んでいるようだったが││ネカネは未だ、止まらない。
アーニャの方に目も向ければ、彼女もまた咳き込み酸素を肺に取り
るように環境が書き換えた為だ。
こちらに危害を加える攻性結界の要素を排し、水中でも呼吸が出来
事はない。
かし先程とは違い、幾ら口を開いてもその中に冷水が流れ込んでくる
途端に大きく咳き込み、肺の中に溜まった水を吐き出すネカネ。し
!
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
鋭い痛みを訴え始めた右腕が、ミチリと嫌な音を立てた。
んな事は考えるまでもない。
ならばこのまま大人しく転移させられてしまえばどうなるか。そ
と察する事が出来る。
加えて送られてくる情報から、転移する先には何匹もの悪魔が居る
く代物であるとネカネは推測した。
せた上で何処かに││おそらく、悪魔の決めた転移場所へと連れて行
この水中の世界は、村の外に逃げ出そうとする人間を捕らえ、弱ら
!
223
!
限界まで加速された思考の中、遠目に見えるのはアーニャの姿。
どうやら彼女は今どのような状態に置かれているのかが分かって
いないようで、肺の水を吐き出そうとひたすら咳き込み続けていた。
⋮⋮転移した先、悪魔の蔓延る地に置いて、自分はどれだけの事が
出来るだろう。
彼女を守りながらスタンや他の村人を探し出し合流する事が出来
るか。彼女を守りながらネギの下に辿り着く事が出来るか。
少なくとも、今の壊れかけの自分ではどちらも不可能だ。何れにせ
よ待っているのは失敗の二文字だと確信を持って言える。
﹂
││││ならば、いっその事。
﹁ラス・テル。マ・スキル││
放たれるのは魔法の呪文。ネカネの腕から新たに数本の魔力糸が
飛び、彼女とアーニャの周辺へと接続される。
どうせ転移した先では同じ場所に出るのだろうが、今は距離が離れ
すぎている。そのため別個での魔法行使が必要となっているのだ。
⋮⋮彼女を助ける為とは言え、些か場を乱しすぎただろうか。自身
の暴走を省みつつ。へこみつつ。
そして術式の大部分はそのままに、転移先に設定されていた転移陣
だけを直ぐさま破壊。外界へ繋ぐ事の出来る他の陣を検索し││ネ
カネの耳に小さな女の子の絶叫が響き渡った。
おそらく魔族の子供だろう。この魔法を操っているらしきその子
に何故か致命的なダメージを与えてしまったらしいが、そんな事を気
にしている暇は無い。と罪悪感の一つすら無く切り捨てる。
目的は一つ、転移する先の変更だ。
転移陣は主に壁や床に埋め込まれて使用され、そこに飛ぶ為にはそ
れに対応した転移魔法を必要としている。
魔法と陣。どちらが欠けても発動せず、基本的に二つセットで使用
されているのだ。
その正規の転移陣ではない、別の場所にある陣に出口を移す。そん
な事が果たして可能なのかは分からないが、付近に使用されていない
転移陣さえ存在すれば理論的には可能なはずだ。
224
!
幾ら小さいとは言えここは魔法使いの村の近辺、転移陣の一つや二
つくらい存在すると信じたい。無かった場合は⋮⋮そこは、まぁ。気
合で何とか。
││つまる所は、粉う事なき大博打。
術式自体は余り弄っていない為バラバラ死体にはならないだろう
が、何処に出るかは分からない。
不安の残る対処だが、このまま手を拱いている時間は無いし、拱い
て手に入れられる未来も無いのだ。
少なくとも、このまま悪魔達のど真ん中に出るよりかは少しは生き
残る目も高いだろうとネカネは判断した。
﹄
ならば、例え博打であろうが出来る事をするしかない││
﹃ぃぎ⋮⋮い、イ⋮⋮
﹁⋮⋮っ﹂
ずきり、と。魔力糸から異なる魔力が逆流してくる感覚。
﹁く⋮⋮
﹂
││残りは、4秒。
りたいようだ。
奪われた制御を取り戻し、なんとしても目的の場所へと自分達を送
ていたらしく、脳内にちりちりとした違和感が走る。
この水の世界を作り上げた何者かの妨害か。どうやら死に損なっ
!
法。相手の攻撃から全ての制御を維持したまま、転移陣の書き換えは
不可能。
そして攻性結界と捕縛魔法の制御は手放す事等出来ない。奪取さ
れ復活させられてしまえば致命的な妨害をされる恐れがあるからだ。
││例えコンマ一秒以下の刹那だったとしても、部分的な術式一つ
﹂
乱されてしまえばそれで終わりなのだから。
﹁なら││
をその迎撃に回しアーニャだけでも他の場所に転移させる事にした。
せめて敵性反応の無い場所に。突然危険に陥る事の無い場所に、彼
225
!
自分とアーニャ、二つの転移術式ともう二つ。攻性結界と捕縛魔
!
ネカネは咄嗟の判断で自分を切り捨て、自身に向けていたリソース
!
女だけでも。
﹁⋮⋮ふ、ふふふ﹂
思わず自嘲の意味を込めた笑みが漏れ出た。
何が﹁守る﹂だ。何が﹁自分が出来る事﹂だ。あれほど意気込んだ
にも拘らず、この様だ。結果的には自ら手放し無事を祈る事しか出来
ないのだから。
ネカネは奥歯を砕かんばかりに噛み締め自らの無力感に苛まれる
が、今はそんな場合では無いと魔力を操作する事に集中する。
﹂
残り、2秒。
﹁⋮⋮⋮⋮
││││あった
どうやら殆どの転移陣は破壊されてしまい役割を果たせない状態
だったらしく、検索結果に上がってくるものは悉く機能停止状態に
陥っていた。
しかしたった一つだけ。無傷のまま待機状態となっている物があ
る。
ネカネは間髪入れずにその転移陣に魔力を繋ぎ、火を入れる。
相当な無茶をする事になる為に一回使えば完膚なきまでに粉砕さ
﹄
れてしまうだろうが、そこはそれ、緊急事態だということで許して欲
しい。
﹃ぎ、ぎぎぎィ⋮⋮お前、ダケでもッ
群がるそのどれもがまともな人とは言い難い姿形を持った、正しく
それは黒。それは角。それは牙。それは羽。それは爪⋮⋮。
の影があった。
激しい戦いの音が聞こえる住宅街から少し離れた広場の中に、無数
悪魔の襲来する村の中。
と。彼女がこの水中から外界へと飛ばされたのは、ほぼ同時だった。
││││そうして、ネカネがその転移陣にアーニャを押し込んだ事
﹁アーニャ、お願いだから無事で││﹂
!!
226
!
!!
悪魔と呼ぶべき者達。
彼らは皆が皆楽しげに語らい合い、笑い合い。戦火の空気を楽しむ
ように思い思いに寛いで。
その者達の傍には、精巧な石像が幾つも積み上げられていた。
恐怖。
悔しさ。
憎悪。
怯え。
村人を模して作られたと思しきそれは、そのどれもこれもが負の感
情に醜く歪み。
﹄
﹄
それから漂う悲壮感は作り物を越え。命あるものが放つ生々しさ
を形作っていた。
﹄
おイ、どーしたんだヨ、オイ
﹃ぐ、あぅうううウウウ⋮⋮
﹃あめ子
﹃⋮⋮おなか、痛いノ
らぬ状況にある事が察せられ││││
しかし呻き声を上げる彼女の表情は苦悶に満ちたままであり、只な
の二体が心配そうに介抱をしていた。
その内、眼鏡をかけた少女の姿をした固体が腹を押さえ蹲り、残り
来るだろう愛くるしい容姿。
か。少なくとも相手の心に何とも言えぬ萌芽を芽生えさせる事は出
油断させる為なのか、それともただ単にその姿が気に入っているの
よって纏め、少女の姿を形作っているのだ。
本来は不定形の生物である彼女達は、液体状の身体を魔法術式に
││スライム、それが彼女達の種族の名。
通り。ぷるぷると柔らかくその輪郭を震わせているその姿。
身長は人間にあり得ない程に小さく、肌は色無くガラスの様に透き
らかに人ではない容貌をしていた。
強気、冷静、暢気と三つの異なる雰囲気を纏うその少女たちは、明
そして、石像の影から響く小さな女の子の声。
!
!
﹃す、こし⋮⋮トチッちゃいマ││││﹄
227
?
!?
ぱしゃん。
⋮⋮それが、彼女の辞世の句。
最後まで言葉を紡ぐ事無く、あめ子と呼ばれたスライムの身体が一
瞬だけ醜く膨れ上がり、勢い良く弾け。消える。彼女の飛沫は地面に
飛び散り、地面に大きな染みを作った。
その色は無色透明、ただの水に良く似た液体に見えたが││事この
場に限り、それは大きな血だまりにも見えて。
││自己崩壊。
魔法生物であるスライムは、高位の存在となればその身に様々な魔
法を宿している場合が多い。
使用する際に詠唱を必要としないそれらは、彼女達にとっての武器
でもあり⋮⋮しかし、それと同時に生命線でもある。
魔法と身体その物とが深く結合している為、陣や術式を破壊されれ
ばそれだけで魔力が暴走。抑えきれ無い場合、内側から弾け飛んでし
228
まうのだ。
﹂
彼女の死に様は、崩壊に至った者のそれだった。
﹁ぐ⋮⋮ッ
色の糸が立ち昇り、濡れていた服が小さな音を立てて水蒸気を上げて
体温が相当高くなっているのか。その丸めた背からは幾つもの金
が浮かび上がる。
らせる衣服が纏わりつき、その年にしてはメリハリの付いたスタイル
彼女が熱い吐息を一つ吐き出す度に、華奢な体躯には大粒の水を滴
﹁はぁー⋮⋮っ、はぁー⋮⋮っ﹂
影は、小さく幼い少女のものだった。
﹃一つの切り傷すらない﹄白魚のような指先に小さな杖を握ったその
金色の頭髪と、ピンク色に上気した肌。
蹲る。
バランスを崩しながらも地面へと着地し、ぜいぜいと息を乱しながら
彼女が死を迎える原因を作ったらしきその人影は、空中で1回転。
し、空中に放り出された。
││││そして、それと同時に一つの人影が彼女の腹より飛び出
!!
いた。
威圧感。
ただの人間でしかない筈の彼女の周りには、周囲の悪魔に負けず劣
らず。とてつもなく大きな気配が渦巻いていた。
﹄
﹃あ、あああああアァ
⋮⋮そんな絶望的な状況下に合って笑うその姿に、悪魔達は警戒し
を持った悪魔達が、敵意を持って包囲網を形成している。
そして鋭い爪や長い牙、一振りで大木すら折り飛ばせるような肉体
破壊された村の中で自分は一人、助けは遠く間に合わない。
願いが叶ったかのように。
すべき事を見つけたかのように。
自棄になったように。
││しかし、彼女は口角を吊り上げ、愉快そうに笑う。
﹁ふ、ふふふ、ふ⋮⋮﹂
であれば気が狂ってもおかしくない筈の光景。
人間である彼女にとって、見渡す限り絶望しかないこの状況。普通
れた村人達の姿を。
││そして、その悪魔達の椅子代わりとなっている石像││石にさ
む悪鬼達を。
││スライム達の声でこちらに気付いたのか、徐々に自分を取り囲
││戦火によって崩壊した村の光景を。
││守るべき少女を抱いていない己の腕を。
そしてゆっくりと顔を上げ、首をめぐらせ││││見る。
鬼の様にふらり、ふらりと身体を揺らしつつ立ち上がり。
しかし注意を向けられた﹃彼女﹄は、その視線を気にも留めず。幽
し戦闘態勢をとる。
眼鏡の少女が消えた事に強い怒りを感じた彼女達は、その人影に対
は深い友情が結ばれていたようだ。
残った二体のスライム。どうやら彼女達と今し方死亡した固体に
﹄
﹃⋮⋮おまエ、カ⋮⋮
!
た。
229
!
﹁恐怖の余りおかしくなったか﹂││本来であればそう嘲笑し、仲間を
殺したちっぽけな人間を縊り殺す所だ。
しかし、彼女の放つ気配がその殺意を押し留めさせる。
││││そうして、悪魔の視線を一身に受ける少女は、顔を天に向
け大きく口を開いた。
﹁ ﹂
轟くは、絶叫。
喉が張り裂けんばかりに叫び、喚き。辺り一帯を震わせるのは、切
なる想い。
人の名の様にも聞こえたそれは﹃彼女﹄にとっての鬨の声であった
のか。
彼女は同時に深く身を沈みこませ、足のバネに力を溜め込み。
し
て
よー⋮⋮
!
囲気としてはそんな感じだ。
﹂
﹂
や別に僕自身に不義理があって許しを乞うている訳じゃ無いけど、雰
その姿はまるで金色夜叉における貫一とお宮の名シーンの様。い
ニャ。そして彼女の腰の部分に抱きついて必死に押し留める僕。
小 汚 く 狭 い 小 部 屋 の 中、何 と か し て 外 に 出 よ う と し て い る ア ー
ぐいぐい、ぐいぐい。
!! !!
230
││││自らの体の何処かが壊れる音を聞きながら、それを解き
放った。
*****************************
****
││修羅場。
な
!
その時の僕たちを表現するならば、それが一番適切な単語だった。
﹁は
!
﹁む、む、りぃ⋮⋮っだ、っよぉ⋮⋮
!
振りほどかれまいと腕に力を込める度に、アーニャに纏わり付いて
いる濡れたままのローブが僕の顔に引っ付いて息を塞ぐ。最初はひ
んやりとした冷気しか感じなかったんだけど、長く抱きついていたか
何もしないでただ引っ張られるよりはマシだろう。
﹂
﹁おねえちゃん、も、あそこに居るはず、なのにぃ⋮⋮っ
﹁むり、むりむりっ⋮⋮むっむ、っむぅ、りぃ⋮⋮
がごんっ、ぎりぎり、ぎりぎり。
!!
﹂
みが走る。くそ、後で関節症とか変な事になりませんように
﹁む、ぅーーー⋮⋮っ
﹂
!
!
⋮⋮その代わり股関節と脛が大変な事になって、下半身に物凄い痛
でつっかえさせられるんだ。
ンチあるかないかのサイズだからね。本気で足を広げれば脛の辺り
如何に子供のコンパスが短いって言ったって、ドアの横幅は90セ
ニャ。僕はその入り口に足を広げて引っ掛けて最後の抵抗。
廊下の出入口、木製のドアを開けてリビングへと出ようとするアー
!
﹂
まぁ結局は一秒も持たずに引き剥がされる訳なんだけど、それでも
や取っ掛かりに引っ掛けて抵抗する。
しかし絶対に手を離す事はせず、唯一自由に使える足先を廊下の壁
まだ腹筋の無いやわらかな腹部へと食い込んで、とても痛い。
トにある埃と木屑を絡め取る。ついでに隠したままのノートPCが
殆ど床板に倒れ込んでる体勢の僕は、まるでモップの様に進行ルー
ずったままうっすらと埃の覆った廊下へと進撃。
モなのか。何時もの如く砕け散った部屋の扉を抜け、彼女は僕を引き
さっきまで光っていた魔方陣の影響か、それともアーニャの専用デ
ずるずる、ずるずる。
し、死んじゃうって、ってんだろぉ⋮⋮
い、か、な、きゃ、だ、め、な、ん、だ⋮⋮からぁっ
らか人肌程度にまで温まっていて凄く気持ち悪い。
﹁だっ、てっ⋮⋮
﹂
﹂
﹁外⋮⋮出てっ⋮⋮らぁ
!
﹁あ、ぎ、ぃ⋮⋮ッ
!!
231
!
!!
!!
ぐいぐい、ぐいぐい⋮⋮。
力任せに僕を引き離そうとするアーニャと、そうはさせぬと何とも
情けない格好で踏ん張る僕。
端から見れば﹁何やってんだこいつら﹂と写メられてトゥイッタら
れてしまう様な光景だけど、やってる本人達は大真面目だ
﹁く、く、ぅう⋮⋮﹂
ちらり、と。
痛みに涙が滲んだ瞳で、リビングの窓から見える景色を見た。
それはここに来てから見飽きた光景。
視界一杯に入る白。痩せた枯れ木が立ち並び、雪の降り積もるそこ
はまさに銀世界。
舞い散る雪は相変わらず寒そうで、僕は何時もの小部屋から外に出
ない決心を強める⋮⋮なんて。普段の僕ならそう言うんだろうけど、
今はそうも言っていられない。
ドアの角に押し付けられた脛と、限界まで開いた股関節。ついでに
力を入れすぎてピンと反り返った爪先が引きつり、激痛を訴える。
多分今の僕の顔は、目の前で布を振られる猛牛の様に真っ赤に染
まっている事だろう。鼻の穴とかも限界まで開かれているに違いな
232
││││何故なら遠くに見える空の下。スタン達が住む村の周り
には真っ黒な化物がぶんぶか空を飛びまわってて、村に対してのを破
壊活動を行っているんだ。
朝から続くそれはまだ終わる気配を見せず、薄く轟いてくるのは建
物の破砕音や、人の悲鳴らしきもの。そして何かの叫び声⋮⋮。
アーニャはそんな死線の渦巻く化物達の坩堝へと単身向かおうと
してるんだ。そりゃ必死になって止めざるを得ないよ。
⋮⋮排他的なキモオタの僕に相応しくない行為だとは自覚してる。
﹂
でも、それを無視できる様な器用な人間だったなら、僕はエスパー少
﹂
し・つ・こ・いぃぃ⋮⋮
年なんて呼ばれてなかった筈なんだ。
﹁⋮⋮くっ
﹁ぉ。ぉぉぅ、あ⋮⋮っぎぃ⋮⋮
!
食い縛る歯がギギギと嫌な音を立てた。
!!
!
い。
︵くそ、何で僕がこんな目に
︶
││なんであなたがここに居るの
部屋へ転がり込んできた時の事。
││そうして次に流れてくるのは、アーニャが扉を粉砕して僕の小
方に消えていく。
頭の中でそんな悪態が浮かぶけど、直ぐに痛みに流されて思考の彼
生⋮⋮
何で。どうして、どうしてこんな。僕が何をしたって言うんだ。畜
!
いつも勝ち気でツンツンしてるアーニャが、あんな不安そうに弱弱
の様子を見ているうちに何か異様な雰囲気を感じた。
最初はそんな罵倒の言葉しか浮かばなかった僕も、そんなアーニャ
しやがって。
い、後遺症が残ったらどうしてくれるんだ。逃げる為の手段をぶっ壊
じゃなかったのか。今日帰ってくるなんて聞いてないぞ。背中が痛
﹁なんでここに居るの﹂はこっちの台詞だ、君は魔法学校︵︶に居るん
みたいで、その真紅に透き通った瞳を涙で揺らめかせていたよ。
母を探す幼子の様に。切羽詰った様子の彼女は随分と混乱していた
それは何か失くしてしまったものを探すかの様に、逸れてしまった
りを見回した。
れたローブごと小刻みに振るえる身体を抱きしめ、キョロキョロと辺
況を把握したのか僕を投げ捨ててよろめいた。そして、体温を奪う濡
そうして彼女はしばらく僕を揺さぶっていたけど、やがて自力で状
││どうしよう、どうしよう⋮⋮
海老反ってた僕には、そんな突っ込みは入れられなかった。
ここは僕の部屋だからです。揺れで増幅された全身を覆う激痛に
揺さぶって。
何時もの通りキンキン声でがなり立てながら、僕の襟首を掴んで、
ニャは、息が整ったと同時に僕にそう詰め寄ってきたんだ。
びしょびしょに濡れた衣服を身に纏ったまま咳を続けていたアー
!?
!
233
!
しい態度を取っているんだ。そんなあからさまなACTがあって何
も気付けない程僕はギャルゲー︵ソフ倫︶をやり込んでない。
化物が襲撃してるっていう今の状況からすれば何らおかしな事で
﹂とか﹁あなたはわたしが守るんだから
﹂とか。
はないけど、それでも彼女なら虚勢の一つぐらいは張る筈だ。断言し
てもいい。
﹁全然怖くないもん
そんな感じでさ。
!
タクはここに居てっ。
││むぎゅっ
た刹那、僕の身体は激痛を無視して彼女の足首を掴んでいたんだ。
アーニャが化物どもに突っ込んで行く││その答えが脳裏を掠め
手を差し出したのは、殆ど無意識だったよ。
うなってしまうのかも。
るのかを察する事が出来た。そしてそれが成された場合に彼女がど
当然、そんな様子を観察していた僕は彼女が何処に行こうとしてい
いるかの如く、全力で。
化物達が跋扈する外界。そこに自分の探すものがあると確信して
瞬間。彼女は勢い良く駆け出したんだ。
││
捉えた。
けで││そうして、その震える真紅が窓を。正確にはその外の光景を
けれどそれをせずに、アーニャはただ怯えて周囲を見回しているだ
!
││何するのよ、バカタクっ
ンピングの豪雨が顔面と腕にどしゃぶった。
しく抵抗し始めた。一秒間に何連射してたかな、とにかく物凄いスタ
でも彼女はそんな絶叫に似た訴えに耳を貸さないばかりか、更に激
険を訴えた。﹁絶対に死ぬ﹂﹁ここで助けを待ってろ﹂って。
そう言って掴んだ手を振り解こうとする彼女に、僕は精一杯外の危
!
鼻は赤くはなれど血は垂れていなかった。リアルLUK高めですね。
直ぐに身体を起こしてこっちを睨みつけてきたけど、その小ぶりな
片が転がる床に顔を打ち付けて、無様な悲鳴を上げていたよ。
当たり前だけど、彼女はそれはもう見事に転倒した。砕けた扉の破
!?
234
!!
⋮⋮そんなになっても手を離さなかった僕ってマジ凄くね
めてくれても良いのよ
て││││
﹁ふんぬーーーーーーっ
﹂
﹂
腰が千切れる
﹂
わたしは、わたしはっ
なんでぇ
﹂
誰かたっけて
褒
慌てて追いすがり、ナイアさん宜しく這い寄ってその腰元に抱きつい
理矢理立ち上がって僕を装備したまま歩き始めた。僕は僕でそれに
アーニャは何時もと違って嫌にしぶとい僕に業を煮やしたのか、無
?
!!
﹁ごげ、ごげげげげ⋮⋮
結果ご覧の有様だYO
﹁何で、じゃまするのっ
﹁ぎ、ひぃっ⋮⋮なん、っでぇ
!!
!
!!
おねえちゃんが居ないと
﹂
しかしアーニャはそんな僕の惨状に気付く事無く、更に力と声を強
なって、なんかもう吐き気がしてきた。
腹 部 に 仕 舞 っ て あ る P C の 重 さ が ま た 良 い 感 じ の ア ク セ ン ト に
激痛︵Ver.γ︶が変な感じに混ざり合って、僕の思考をかき乱す。
的に激痛︵Ver.α︶が襲ってきて。ついでに背骨の辺りに留まる
そして引っ張られる事によって、脇腹とその内側にある内蔵を断続
てる。
かれそう。何か二の腕に突き立ててる爪がミチミチと変な音を立て
引っ掴むようにして抱え込んでいるんだけど、彼女の強い力に振り解
アーニャの腰。柳の様に柔らかく細いそれに、僕は自分の腕同士を
!
!
ネ、カネがぁっ な、何だっていうんだよぉ
!
!
める。
のっ
﹂
!
いや、あの貧弱な姉に何が出来るって言
?
﹁⋮⋮ぎ、⋮⋮ふひっ⋮⋮﹂
うんだ。どうせどっかで貧血でぶっ倒れてるに違いないだろ。
ネカネが居れば大丈夫
どうやら、彼女はかなりの錯乱状態にあるらしい。
!!
235
?
! !! ! !!
﹁だって、おねえちゃんが
﹁おね⋮⋮ッカネ
﹂
!?
﹁わ か ん な い わ か ん な い け ど、お ね え ち ゃ ん が 居 れ ば 大 丈 夫 な
!?
⋮⋮少し、嫌な予測が脳裏を掠めたけど、僕はそれを敢えて考えな
いようにした。とにかく、今はこのお転婆の事だから。
ここに飛ばされてくる前にネカネ関係で何かがあったのか、只管に
彼女の事を口にしながらアーニャは自由な両手を振り回す。
その度に身体が大きく揺られ、腕が外れかけた。というか、もうそ
日本語で、オゲッ
﹂
なら
だか
ろそろ筋肉の限界が近い。指の感覚がなくなってるんですけど。
﹂
黒いやつ、たおしてたっ
!!
みんな、
﹁ネカネがっ、居たところで 何も、出来ないって、っばぁ
ら、っらぁ⋮⋮
﹁そんなことないっ
﹁意味ワカンネッ
もう、無理ッ
びきり。全身を稲妻が貫いた。
⋮⋮無理
!?
あー
て行くんだ。
﹁あー⋮⋮
あー
﹂
﹂
おねえちゃんが││││﹂
あー⋮⋮ッ
﹁おねえちゃんが、居れば⋮⋮
!!
聞こえたのは、幼いしゃくり声。
﹁ひっく⋮⋮っぅ、う﹂
は直ぐに立ち上がって、僕の方に視線を向けたんだ。
僕だったらしばらく蹲って立ち上がれない程の事故。しかし彼女
込んで床に転げ倒れた。
方向の先にあったテーブルに激突。周りに置いてあった椅子を巻き
アーニャの方はいきなり身体が自由になった事で勢いのまま進行
んだ。息が出来なくなって視界がチカチカと明滅したよ。
た体が墜落。床に腹部から叩きつけられ、PCが胃の奥深くにめり込
僕の指はアーニャの勢いに耐え切れず弾け飛び、半ば宙に浮いてい
││そして、ついに限界を迎えた。
!
!
彼女が身動ぎをする度に、五指のHPが一本、また一本と0になっ
されていく。
げていて。少しづつ、少しづつ。アーニャの身体から僕の指が引き離
頭が、指が、腕が、腰が、足が、関節が。身体の至る所が絶叫を上
!!
!
!
タクも、わたしも、パパもママもたすけてくれるもんっ
!
!!
!
!
!
!
236
!!
!
痛みの所為か、それとも他の要因の所為か。その水晶の様に美しい
紅色の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。
真紅の湖面は揺らめき、波うち。今の彼女の精神状態を如実に表し
ているようで。落ちる雫は彼女の柔らかな頬を伝い、床に幾つもの染
みを作り出す。
││全身の痛みで意識が朦朧としていた僕は、不覚にもその不思議
な色合いに見蕩れてしまった。
﹁だ、大丈夫、だから。待ってて。おねえちゃんが居れば、きっと、きっ
と⋮⋮﹂
アーニャはそうやって僕が呆けているのを他所に、転がる椅子を押
しのけてふら付きながら立ち上がった。
そうしてうわ言の様にぶつぶつと何某かを呟きながら、駆け出して
⋮⋮っ
﹂
いった。倒れこんだままの僕を残して。
﹁⋮⋮
呟いたのはどちらの名前だったのか、なんて。そんなの、僕にも判
声の戻らない声帯が、去って行く彼女の名前を形作る。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
去っていってしまう後姿に、僕は最愛の人の姿を幻視して。
そうやって二つ縛りにした髪を振り乱して、手の届かない場所へ
ローブがはためき、僕の視界を擽った。
でも、当然ながら伸ばした指は掠る事すら無く。彼女の纏う暗色の
行っちゃ駄目だと、ただ、それだけを考えて。
あ の 時 よ り も 小 さ く て 短 い 手 足 を 蠢 か せ て、行 か な い で く れ と。
禄に動かない身体で、僕は必死に手を伸ばす。
上げられた魚介類の様に唇をぱく付かせる事しか出来なかったんだ。
さっきの墜落で上手く呼吸が出来ないままだった僕は、浜辺に打ち
た││つもりだった。だけど漏れ出るのは声にならない声だけで。
その姿に咄嗟に我に帰った僕は、彼女を呼び止めようと大声を出し
!!
断がつかなかった。
237
!
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうして僕一人しか居なくなった部屋に、乱暴にドアが開閉される
音が聞こえてきた。
きっと、アーニャが玄関から外に飛び出していったんだろう。
﹁⋮⋮もう、知るもんか⋮⋮﹂
ズキズキと痛む全身から力を抜いて、呼吸が出来るようになった口
腔から細長い息を吐き出し僕はゆっくりと目を閉じた。
強い倦怠感と疲労感が体中を包み込み、指の先から足の先まで鈍い
痺れが走る。
⋮⋮ も う、い い。勝 手 に す れ ば 良 い。一 人 で 化 物 達 に 特 攻 し て っ
て、一人で勝手に死ねばいいんだ。
こんなになるまで必死になって止めたんだ、だったら最低限の義理
は果たした筈だろう。後に何が起ころうが、それは僕の所為じゃな
238
い。彼女自身の責任だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
大体、何で僕はあそこまで必死になっていたんだ。所詮あいつも
﹃見覚えの無い知り合い﹄の一人だった筈だろう
我侭なガキ、死んだ方が清々するさ。
⋮⋮いや、違うな、死んだとしても構わないね。あんな自分勝手で
てた﹁ネカネおねえちゃん﹂と無事再会できたんだって。
別に帰ってこなかったとしても、どうせ、あれだよ。あいつが求め
だ。少なくとも帰ってくるつもりはあったんだから。
言ってたじゃないか。なら、無理して引きとめる必要も無かったん
ア ー ニ ャ ⋮⋮ い や、ア ン ナ っ て 呼 ん で や る。だ っ て 待 っ て て っ て
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ハルトはINTだって最高値だったんだからさ。
もうちょっと頭良くスマートに生きようよ、僕。疾風迅雷のナイト
節介を焼く必要・理由共に全く無かったんだ。
西条拓巳としての僕とは何の関わりも無いただのガキ、そんな奴にお
ネギとしての記憶の欠片。僕の記憶に無い記憶の登場人物の一人。
?
自分の我を通して、相手がそれに沿わなかったら暴力を振るってく
るバカ。そんなガキは後顧の為に居なくなっておいた方が良い。
やったじゃないか、世界の未来はまた一つ綺麗になったよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうさ、そうだった。あの子は何時だってそうだったよ、僕の為だ
とか何とか言って無理矢理やりたくも無い事をやらせようとして来
てた。
糞寒い中外に連れ出そうとしたり、僕を馬鹿にする奴らと遊ばせよ
うとしてきたり。ああ、そう言えば殴られたり蹴られたりした事も
あったっけね。
あの時は本当に痛かった、頬の辺りに小さいひっかき傷が痕になっ
て残ってるよ。
﹁⋮⋮っ⋮⋮﹂
口を開けば僕を小馬鹿にするような事しか言わないし、何かとネカ
ネと親しくなるよう命令するし。だから怖いって言ってんだろ。
少しでも文句をつけたら拳が飛んで、意見を言えば脚が飛ぶ。ああ
いうのを鬼女って言うんだ。
やる事成す事マイナスばかり。僕の益になった事なんてただの一
つも在りはしない。
それにツンデレって事も減点ポイントだ。二次元ならともかくと
して、三次元でのツンデレなんてゴミもいいとこだよ、本当。
﹁⋮⋮⋮⋮っぐ﹂
何がタクって呼んでやるわよ、だ。勝手に彼女と同じ呼称で僕を呼
ぶなよ。
その所為で、これだ。彼女に嫌悪感が抱けなくて、そんで無意味に
頑張って、傷ついて。
ああそうだ、僕が彼女を気にかける様になったのだって、元はとい
えばそれが原因だったんだ。
あの子が僕の事を﹁タク﹂って呼ぶから、僕を情けない奴って叱り
239
続けてくれたから。僕は僕のまま、情けないキモオタのままで居られ
て。
﹂
││││本当、迷惑かけられっぱなしだ。
﹁⋮⋮っあ⋮⋮ぎ⋮⋮
うとしてるんだ。
﹂
大事な事なので以下省略。
?
﹁はぁ、はぁ││くっ⋮⋮
﹂
彼女の独断行動による皺寄せが全部僕に来てますがな。
そんで肝心の僕はご覧の通り死んだ先で島流し。どうですかこれ、
とさ。見届けてないけど、きっとそうなってるに違いないんだ。
主人公たる彼がラストバトル終了後に彼女と妹と幸せになりました
結果彼女を助けに行った脇役は死んで、僕という道具を使った真の
かった以上大切な部分が致命的にズレていた。
まぁ実際僕にとってのヒロインだった訳だけど、僕が主人公で無
苦難を僕に振りまいてくれた彼女。
突っ込んでった先で敵にとっ捕まってヒロインを気取り、多大なる
るんだ。止めてくれよ、マジで。
善意の行動なのかもしれないけど、結果的に僕が迷惑を被る事にな
と被るんだよ。
何の説明も無いまま僕の下から離れてく、その行動。何となく彼女
﹁っは⋮⋮っは⋮⋮
バカじゃないの、バカじゃないの
僕自身が飛び込もうとしてるんだよ。君の所為で。
分かってるのか
僕があれだけ引き止めた化物だらけの世界に、
なんて暴挙に出て、雪の降り積もる外界に着の身着のままで飛び出そ
オタクにとっての生命線たるPCを服の下から無造作に放り出す
は壁伝いに立ち上がろうとしている。君を追いかけようとしている。
今だってそうだ。君を墜としまくってる思考とは裏腹に、僕の身体
!
引き戻してやるんだ。
もう嫌なんだよそういうの。色んな事が手遅れにならないうちに、
以上なく憤慨しているんだ。
僕自身はその結果にこれ以上なく納得しているけど、現状にはこれ
!
240
?
!
││だから勘違いとかするなよな。君を追いかけるのは、君の為
ツンデレ乙
じゃない。僕の為なんだから。
⋮⋮理由が苦しい
?
消えろ氏ね。
﹁⋮⋮⋮⋮は、ぁ﹂
そうだね、連れ戻したらどうしてくれようか。
?
ふひ、ふ
!
⋮⋮だから現実のガキは嫌いだっつってんだろバカ消えろ氏ねッ
ひひひひひ。
幸せになれるからさ。未来への先行投資、ナイスです僕
僕のマイサンは未だ休眠中だけど、その記憶さえあれば10年後に
論星来たんの││いや、年齢的にエリンたんのコスが良いかな。
とりあえずローターか何か使ってそのちっぱいでも虐める
勿
うるせぇリアルツンデレは市ねが僕の持論だっつってんだろバカ
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮本当に、死ぬほど面倒だけど。
⋮⋮本当に、死ぬほど嫌だけど。
⋮⋮本当に、死ぬほど死にたくないけど。
⋮⋮本当に、死ぬほど良くないけど。何かもう、良いよ、もう。
﹁││死んだら、絶対に恨んでやるから﹂
■ ■ ■
﹂
││彼女の頭の中は、混沌に満ちていた。
﹁はぁ、はぁ⋮⋮っ
先端が凍てついた赤毛に、雫を垂らすほどに水を吸った暗色のロー
れる声は小さく震え、凍えていた。
それは未だ年端も行かない幼い少女のもので。息と共に吐き出さ
る。
大粒の雪が降り積もる白銀の野原に、一つの小さな息遣いが響き渡
!
241
!!
ブ。それらを身に纏う彼女は、何も持たない両腕で自らの肩をかき抱
き、襲い掛かる寒さを堪えていた。
そうして、おそらく走っているつもりなのだろう。ともすれば転倒
しそうになる身体を往なし、細い足首を何度も雪原に埋めていく。
⋮⋮しかし、踏み出す一歩はまるで牛歩の様に重く、遅く。
頼りない身体を覆うローブにも風に吹かれて舞い踊る雪が張り付
き、手足の動きを阻害し動きを更に鈍らせて。
そして服の下の肌にその冷たさが伝わり、彼女の体温を更に奪って
行く。
直前まで命の危機に瀕し、体力、精神共に大きく減退していた彼女
にとって、それは余りにも辛すぎるものだった。
﹁は⋮⋮っあ⋮⋮﹂
ぼやけた意識の中、言う事を聞いてくれない体が震え、引き攣った
吐息が放たれる。
このままでは、彼女が目的とする故郷の村にまで辿り着くなど夢の
また夢。数刻もしない内に意識を失い倒れてしまう事だろう。
しかし、そんな状況にあっても彼女は未だ歩みを止める様子は無
く。
﹁⋮⋮ぇ、ちゃん⋮⋮﹂
掠れた声。寒さに根の合わない歯が、姉貴分の少女への妄信とも言
える信頼を吐き出した。
幼い少女││アーニャの脳裏には、未だその雄姿が強く焼きついて
いる。
あの空一面を覆い尽くす程の黒の大群。おぞましい気配を放つ彼
らから、自分を抱えて守ってくれた姉。
こちらを補足して襲いかかろうとする黒い化物を森を影にしてや
り過ごし、時には純粋な身体能力で逃げ切り。
それでも追い縋って来た者や不意に遭遇した者達と戦い、難なく
屠った彼女。
それは普段の優しくて柔らかい彼女の姿とは正反対で、アーニャは
その姿に憧れにも似た感情を抱いた。
242
そして﹁大丈夫﹂と言って抱きしめてくれる彼女の腕の中で、アー
ニャの信頼と憧れはそれまで感じていた恐怖や不安と融合し、肥大化
していったのだ。
││おねえちゃんは、本当は凄かったんだ。強かったんだ。
化物との戦いの後、傷だらけの身体だった事を心配したけど、それ
も目の前で直ぐに治っていった。
それはつまり、絶対に負けないという事。どんな化物でも打ち倒
す、自分たちを助けてくれるヒーローなんだ。
だから、彼女と居ればあの黒い奴らが幾ら来ようとも恐れる事は無
い││。
⋮⋮それは子供が描く絵空事。縋るものを見つけたアーニャの心
が錯覚した、虚像の英雄。
突然の危機に不安定になっていたアーニャには、言葉の裏側に張ら
れた虚勢を見抜く事が出来なかったのだ。
243
度を越えた信頼。
彼女に根付きかけていたそれは危うさとなり、村に向かう事無く逃
げ出そうとした姉自身に向けられる事となる。
││そして失望へと変わる瞬間に、それは弾けた。
即ち、命を脅かされた上で姉と離れ離れになった事によって。
﹁⋮⋮おねぇ、ちゃん⋮⋮﹂
突如放り込まれた苦痛の世界。アーニャにはその時何が起こった
のか分からなかった。
姉に抱かれていたと思ったら突然苦しくなって、寒くなって。気が
付いた時には彼女の姿は何処にも見えなくて。
そうして、目の前には自分が守ってあげなければならない存在が寝
転がっていたのだ。
││彼女の頭は、混沌にかき混ぜられた。
おねえちゃんが居ない。皆を助けてくれる存在が居ない。
わたしが守らなきゃいけない男の子が目の前に居る。でも、わたし
どうし
?
じゃ何も出来ない。おねえちゃんじゃないと守れない。
どうしていないの どうしてわたしはここに居るの
?
て、どうして、どうして⋮⋮
今までに絶対的な信頼を向けてきた存在が傍にいない。その事実
は容易く彼女の心を食い破り、焦りと恐怖を植えつけた。
本当なら、その場で泣き喚きたかった。ただ座り込んで、喉が裂け
るまで彼女の名前を叫んでいたかった。
しかし目の前に彼が居る以上、そんな事は許されない。
今まで彼に年上として接してきたアーニャのちっぽけなプライド。
それが最後の一線を踏み留まらせたのだ。
そうして不安感から辺りを見回し、濛々と黒煙を上げる村の姿を視
界に納めた時、彼女は思い至る。
自分の都合のいい妄想を元に作り上げた、紛う事なき真実の光景。
その時の彼女は、それを間違いなく幻視し、そして確信した。
││あの村の中。化物達の世界の中で彼女は戦っている。と。
瞬間、彼女は走り出した。
妄想に歪んだ思考の中で、たった一つ。図らずも現実と合致してい
た、自分が信じた答えへと向かって。
身に危険が及ぶなど考えもしなかった。何故ならば姉があそこで
戦っている以上、こちらに化物が向かってくる事などありはしないの
だから。
そう、姉の││ネカネのところに行けば、全てが解決する。黒い化
物達も、壊れた村も、全部。全部。全部││││
⋮⋮自分でも違和感は感じたが、それを妄信するしか彼女には出来
なかった。
﹁⋮⋮あ、う⋮⋮﹂
どさり、と。
身体を芯から冷やす寒さにとうとう耐え切れなくなり、雪原の上に
膝をつく。腿の辺りまで雪の中に埋まり急激に体温が低下するが、彼
女の感覚は最早それを痛みと認識していた。
地面に手を突いて必死に立ち上がろうとするものの、下半身に力が
入らない有様では動く事すら侭ならず。そんな自分の醜態に涙を流
した。
244
!
﹁っく、う、う⋮⋮﹂
それは寒さの為でも、恐怖の為でも、悔しさの為でもない。
彼女自身にも良く分からない感情が渦を巻いて胸を焼き、熱く濁っ
た涙が足元の雪を溶かしていく。
﹂
⋮⋮早く、行かなければ。早くネカネの下に行って、そして⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮
そして、どうすればいいんだろう
ネカネがヒーローであるならば、自分が何もしなくとも皆を助けて
違う、わたしはタクを、おねえ
くれる筈なのだ。わざわざ呼びに行かずともいい筈で。
﹂
ならば、わたしは何をしている
ちゃんを。
﹁⋮⋮ぁ⋮⋮ぅ⋮⋮
?
│││わたしは、何をしているのだろう
い痺れが走り、視界がぐらつく。
く纏める事が出来なくなっている。脳の奥底からジンジンとした鈍
身体の震えが止まらない。寒さに思考がやられたのか、考えをうま
気持ち悪い感触に耐え切れず、彼女はゆっくりと上体を起こした。
中途半端に開いた口から雪の欠片が潜り込み、口内を冷やす。その
そうして気が付けば、雪に顔をつけていた。
?
る事は無く。ただぼんやりとそれを観察しているだけで。
見るにおぞましい光景ではあったが、アーニャは悲鳴の一つも上げ
てはっきりとした筋肉となって。その体積を増していく。
湿り気のある音を立てながら黒点は幾重にも組み合わさり。やが
幻聴、なのだろうか。
を組み上げる。ミチリミチリと肉が鬩ぎ合う音が彼女に耳に届いた。
四方へと伸びきったそれは捩れ、歪み、絡みつき。人間の四肢と頭
れ。徐々に一つの明確な姿へと変貌を遂げていく。
ぐるぐると淀むその黒色はまるでスライムの様に蠢き、引き伸ばさ
それは何処までも黒く。暗く。冥く。
一つの黒点が産まれた。
そんな疑問が鎌首をもたげた瞬間││彼女のぼやけた意識の中に、
?
245
?
?
││││そうして、筋骨隆々の黒い化物の形を成したそれは、確か
な現実感を伴って彼女の眼前へと降り立った。
﹁ぁー⋮⋮﹂
妄想か、現実か。感じている世界が曖昧になっていく。
目の前に居る黒い化物は、彼女が感じていた疑問が形を成した物な
のか、それとも実際に目の前に立っているのか。ぼやけた意識ではそ
れを判別する事など出来はしない。
││身体が震えているにも拘らず、寒さは既に彼女の中から消えて
いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
呆けたように雪中へ座り込むアーニャに向かい、その黒い化物は大
きく拳を引き絞る。
硬く握り込まれたそれはまるで重機の様に大きく、重く。彼女の細
い身体を叩き潰さんと血管を浮かび上がらせた。
⋮⋮しかし、アーニャはそれに何の反応も返さない。
寒さで鈍った思考は彼女から恐怖という感情を奪い去り、只の人形
へと仕立て上げていたのだ。
今の彼女の意識にあるのは唯一つ││即ち、ネカネへの妄想にも似
た信頼。
この期に及んでも彼女は未だに信じていたのだ。ネカネが助けに
来てくれると。目の前の化物を排除してくれると。
﹃││││﹄
小さな呼気と共に、引き絞られた漆黒の豪腕が唸りを上げた。
それは正にバリスタの如く。矢の様に鋭いそれは風を裂き、雪の欠
片を砕き。血と臓腑の花を咲かせんとアーニャに向かい、迫る。
当然、ネカネが駆けつけてくるはずも無い。これより先に待ってい
るのは己の死、ただそれだけ。
しかし彼女は霞んだ視界の中、身動ぎ一つせず目の前の化物の死を
確信していた。
あの時の様に、ネカネが化物の首を飛ばしてくれる。殺してくれ
る。最早避けようの無い死の間際、そんな妄想をぼんやりと考えてい
246
て││
﹁││ぅあっ
﹂
何が起こったの
だろうか。
││何
一瞬が永遠に引き伸ばされた。音すらも意味を亡くした末期の世
に大きく歪み。後悔と自身への怒り、そして死への恐怖に彩られた。
自らに迫る、その圧力を伴った気配を認識した瞬間、彼の表情は更
れた。彼女の居た場所に放たれる暴力の塊に向かって。
その言葉を最期に、アーニャに注がれていた視線は首ごと左に注が
事も敵わず、只一滴の露と消え。
涎塗れの口元から何某かの言葉が漏れるが、その想いは誰に伝わる
﹁││││﹂
ら体液を撒き散らしていた。
きな瞳からは大粒の涙を流し││その他諸々。顔面の穴という穴か
その表情は笑みとも恐怖ともつかない形に歪んでおり、充血した大
崩して地に膝を突いていて。
彼はアーニャを突き飛ばした手を伸ばした姿勢のまま、バランスを
││そして、自分より一回り小さく華奢なその身体。
││自分の着ている物とは対照的な、明るいベージュ色のローブ。
││自分と同じ紅い色素の入った、ボサボサの頭髪。
き飛ばした原因を視界に捉えた。
先程とはまた別種の混乱の中で彼女は無意識に首を上げ、自分を突
?
が雪深くに埋まった。固い土の上で無かっただけ、不幸中の幸いなの
地面に背中を打ちつけ、その勢いにより大きく首が振られて後頭部
ていない雪の中へと飛び込ませる。
その衝撃は体重の軽い彼女の身体を突き飛ばし、まだ踏み荒らされ
﹁あ││っぐ﹂
意打ちだった。
│││だからこそ、自らの身体に走ったその衝撃はこれ以上無い不
?
界で、彼の右腕││こちらに向かって伸ばされたままの手の指が、微
かに動く。
247
?
その指先は嫌悪感を湛え、悲しみを湛え、嫉妬を湛え。ありとあら
ゆる悪感情を纏わせていて。
しかしそれを振り切るように。生への執着という極めて原始的な
本能のまま、彼は目には見えない﹃それ﹄を握り込んだ。
そして彼の腕、ベージュ色のローブに覆われた二の腕が何かに巻付
かれた様な痕跡を生み││││
﹁││ぎ、﹂
﹂
││││それら全て。黒い塊が、彼の一切を押し潰した。
﹁ぁえ⋮⋮
え
﹂
?
│
﹂
たアーニャを強制的に現実に引き戻すには十分なものであり│││
余りにも簡単に、そして呆気なく行われた残酷な光景は、呆けてい
と、遠くに落ちる千切れた四肢。それだけだった。
そうして後に残ったのは、中身が全て吹き飛んだ﹃彼だったもの﹄
げ、溶かし。グロテスクな絵画を描き。
未だ熱を持ったままの彼の破片は、辺り一帯の雪を赤黒く染め上
とその中身が寒空の下にぶちまけられた。
構成する全ての部品が千々に乱れて散らばって。そうして破けた皮
身体一杯に詰まっていた血液と、砕けた骨と、破裂した臓腑。人を
遅れて破裂する。
きつけられた彼の身体は醜くたわみ。その反対側が大きく膨れ、一瞬
未だ現実を認識できない彼女を他所に、黒い塊││化物の豪腕を叩
﹁⋮⋮え
が、凍えきった体に少しの活力を与えたのだ。
ネカネの事も、寒さの事も。全て纏めて吹き飛んだ。彼の血液の熱
せる。
びちゃり、と。熱い飛沫が彼女の頬に飛び散り、その意識を覚醒さ
?
﹁⋮⋮あ、あ⋮⋮あ││││││
!!
248
?
││││﹃彼﹄が無残な最期を遂げた。
その事を理解した瞬間、少女の金切り声が曇天の空に木霊した。
249
第11章 一人は、人にとっての願望機
曇天。
今にも泣き出しそうな鈍色に濁った雲が、病室の窓から見える景色
を覆っている。
おそらくもう少しもすれば雨が降り出すのだろう、雨の日特有の気
だるい雰囲気が一足早く訪れて、病室全体を包み込んでいた。
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
窓の外に見えるのは、倒壊したビルの群れ。
根元から折れ曲がり、周囲を巻き込むようにして崩壊しているその
姿は、まるで世界の終わりを表現しているかのようで。
僕の好きだった、夕暮れの光を受けて輝いていた景色の面影なんて
何処にも無かった。
無残にも砕け落ちた瓦礫の山が噴煙を上げ、割れたアスファルトか
らは水が溢れ出して。潰れた家屋の隙間から炎がその姿を覗かせて
いた。
そこかしこで上がる悲鳴が窓ガラスを透過して僕の耳に届き、より
一層の罪の意識を自覚させたよ。
││これが、お前の罪だ。お前の所為でこの惨状がある。
僕の壊れかけた耳に、そんな声が木霊した。
それは僕の﹃敵﹄の声に良く似ていて、邪悪な気配が鼓膜を突き破っ
て脳に侵食していく様な錯覚を受けたよ。
そうして、すぐに外に飛び出して、あそこで苦しんでいる人達を一
人でも良いから助けたい、と強く思った。だって、僕にはその義務と
力があるんだから。
⋮⋮でも、それは出来ない。してはいけない。
今ならば、全てが収束へと向かっている今ならば、
﹃敵﹄の事なんて
気にせずに自由に外を出歩けるのだろう。
擦れ違う人達に偽装を施す事も、僕の隙を伺っている人達の目を誤
魔化す事もしなくていい。それは、とても楽な事だった。
皮肉にも、今のこの惨状が僕にとって最も動きやすい状況となって
250
いるんだよ。
だけど、身体がもう動かない。車椅子に乗る体力すら、今の僕には
無かったんだ。
頭も、手も、足も。逸る気持ちとは裏腹に、満足に動いてくれなく
て、ただ横になっている事しか出来なくなっていたんだよ。
満足に動けない身体に不満を持つ事には慣れているつもりだった。
でも、これ程の気持ちを抱いたのは久しぶりだ。
もし、君の力を保つという役目が無ければ、僕は発狂していたかも
分からないね。
﹃⋮⋮お兄ちゃん⋮⋮﹄
傍らに座る妹が、そんな僕を心配そうな瞳で見つめていた。
先程まであの瓦礫の山に身を置いていた彼女は、血と砂埃に塗れた
手で僕の干乾びた腕を握ってくれた。
愛しむように、慈しむように。強く握ればそれだけで崩れてしまい
そうな程に弱弱しいそれを、優しく、力強く。
まるで触れ合う部分から、彼女の想いが僕に流れ込んで来ているよ
うで。常に強い負荷がかけられている僕の身体に、ほんの少しの活力
を与えてくれるんだ。
﹃⋮⋮あ⋮⋮﹄
そうして両方の手で握ろうとして││彼女の片腕は空を切った。
⋮⋮僕と繋いでいる左手とは反対側の腕。彼女の右腕には、手首か
ら先が存在しなかったから。
今に至るまでの事件の中で、彼女の右手は失われていたんだ。
﹃⋮⋮ご、ごめんね。私ったら⋮⋮﹄
その事を今まで失念していたのか、彼女は悲しげな表情を浮かべた
後に決まり悪げにぎこちなく笑い、差し出しかけた右腕を引っ込め
る。
そして失われた右手の分も込めるかのように、僕の手を握る力を僅
かに強めた。
僕はそんな妹の様子に、酷く悲しい気持ちになった。
感じたのは、彼女を巻き込んでしまった事による後悔の念。そし
251
て、守りきれなかった事に対する憤り。
僕が君を生む前に彼女の記憶を消したのは、
﹃敵﹄の目を欺きたかっ
たからだけじゃない。僕という重荷から解放されて、幸せに暮らして
欲しいという思いからだった。
こんな寝たきりの僕を健気に看病してくれた、妹。とても優しくて
大好きだった彼女を、歪んだ妄想が渦を巻く世界に巻き込みたく無
かったんだよ。
⋮⋮しかし、結果はこの通り。
妹は本人の意思とは関係なく幸せを奪われ、右手を切り落とされ
た。そして覚醒してしまった以上、彼女はとても辛い過去から逃げる
事すら出来なくなったんだ。
勘違いしないで欲しいけど、その責任を君に求めようなんて気持ち
は一切無い。
君がどれ程彼女の事を想ってくれたか、どれだけ頑張って彼女を救
252
い 出 そ う と し て く れ た の か。僕 は 全 部 見 て い て 理 解 し て い る か ら。
むしろ感謝すらしているんだよ。
││悪いのは、僕だ。
全ては、見通しの甘かった僕の責。妹に危機が迫っている事を知り
ながら、手を打つことの出来なかった僕の罪なんだ。
だから、君が罪悪感や引け目なんて持つ必要なんて無いんだ。叶う
事ならば、全てが終わった後も、君は彼女の兄で居てほしい。
⋮⋮そんな事を願うのは、傲慢、なのかな。
﹄
そう思考しながら妹と手を繋いでいると││
﹃⋮⋮ぁ⋮⋮
ぐん、と。
とする度に受け取ってきた、君の存在。その証。
それは、君が力を振るう度に感じていたもの。君が君としてあろう
ただ酷い倦怠感だけが僕の全てを包み込む。
そして今まで感じていた苦痛が全て無かったかのように消え去り、
た意識が持って行かれそうになった。
僕の身体にかかる負荷がより一層強さを増し、必死に繋ぎとめてい
?
││││そうか、もう、終わるんだね。
唐突に、そう理解する。
君が力を振るえるように思考盗撮すら控えていたから、細かい状況
は分からない。けれど、繋がりを通して感じる君の激情は、間違いな
く僕の心に響いているんだ。
││流れ込んでくる。﹃彼女﹄を想う君の気持ちが。
││流れ込んでくる。人から外れた大きな力が。
││流れ込んでくる。﹃敵﹄の上に立っているという優越感が。
││
││││っ
﹄
││流れ込んでくる。世界の敵となる事を決めた、君の決意が││
﹃││、││
!
﹃││││
﹄
を書き換え、不可能を可能にする、おぞましい力が。
しかし、僕達にはギガロマニアックスと呼ばれる力があった。現実
勿論、声なんて出る訳が無い。僕の肺は既に機能を止めている。
だから僕は、ひび割れた唇を動かし、彼女に最後の言葉を伝えた。
﹃⋮⋮││││﹄
ど残っていない事を悟ったよ。
人間として生きられる時間が、彼女の兄でいられる時間が、もう殆
も。僕は何一つ感じる事が出来なくなって。
声だけじゃない。彼女が握る手の暖かさも、頬に落ちる雫の冷たさ
だ。
は、彼女の意思を受け止める事のできる全ての機能を失くしていたん
しかし、残念だけど、その声は僕に届く事は無い。もはやこの身体
霞む視界の中、妹が何かを呼びかけている姿が映る。
?
ハンカチが巻かれている右手を僕の目の前に差し出した。
鋭 利 な 刃 物 で 断 た れ た ら し い そ の 綺 麗 な 断 面 は 完 全 に 出 血 が 止
まっていないらしく、今現在もハンカチを赤く濡らし続けていて。
﹄
││その痛々しい傷跡に、僕は自らのディソードを差し向けた。
﹃││
253
!
そして彼女は、僕が直接脳に送った声に従い、断たれた断面に白い
?
妹は驚き、目を丸く瞬かせる。
!
それも当然の事だろう。何も無かった筈の空間に、突然茨のような
ものが出現したのだから。
││僕のディソード。
金属のようにも、有機物のようにも見える繊細さを持つそれは、彼
女の傷跡へと││失われた右手の先へ、巻き付いていく。
蛇の様に蠢き、くねり。シュルシュルと音を立てて、ゆっくりと。
まるでそこに右手があるかのように何も無い虚空へと絡み付き、彼女
の失われた形を再現する。
それは遠めに見れば義手の様に見えたはずだと思う。茨の趣味の
悪さに目を瞑れば、の話だけれど。
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
傍から見れば不気味な光景である筈のそれを前にして、妹は身動ぎ
一つしなかった。それどころか、愛しいものを見るかのような優しげ
な瞳で、そっと頬を付けてくれた。
⋮⋮きっと、僕を信頼してくれているのだろう。そう思うと、心が
暖かくなったよ。
││そうして、茨が彼女の右手の形に整った後。その表面から覗く
葉脈のような半透明のガラス部分が脈動し、赤い明滅を始めた。
それは、僕の命の灯火。
地獄に落ちる前にやらなければいけない事、その姿。
││││妄想を、した。
﹃││││⋮⋮﹄
そして力を使った負荷が僕の身体を蝕み、必死に繋ぎ止めていた意
識が更に深く沈みこむ。
視界の端が真っ白に染まっていき、心臓の鼓動が遅くなっていくの
が分かった。
││死への、足音。僕の行動は、それをより早めたんだ。
君には悪いと思ったけど、そこは許して欲しい。僕の、最後の妄想
だから。
﹃ ⋮ ⋮││ ﹄
大粒の涙を流す妹の顔が、白い闇に覆われていく。
254
身体が鉛を吸ったかのように重たくなって、指先から熱が失われて
いく。
動きを止めた心臓が、重力に引かれて背中側へと落ちていく。
僕の身体が、骸となって果てていく。その感覚。
││││けれど、凄く穏やかな気分だった。
自分がこれから死に望む事も、歩んできた道程に意味があったと分
かっているなら││恐怖なんてあまり感じない。
後悔も、罪悪も。それこそ山ほど残している。
僕さえ居なければ色んな人が不幸になる事も無かったんだって、何
時も心の何処かで思っていた。
││でも、最後に僕は君を生み出すことが出来た。﹃敵﹄の野望を打
ち砕く事が出来た。
取り返しの付かない過ちを犯した僕が、それを正す為の礎となって
死んで逝ける。
これは、とても幸せな事なんじゃないかと思う。
妹や、
﹃彼女﹄の事は気がかりだけど、僕は君が見ていてくれると信
じているよ。
だって君は、正真正銘。彼女たちにとっての大切な人なのだから。
││そうして、何も見えなくなって。何も聞こえなくなって。
﹃││﹄
僕は、意味の無い夢を見た。
夢の中の僕は何の力も持たない只の子供で、普通に遠足に行く事が
出来て。
学校に行って、勉強を頑張って、運動を楽しんで。普通に女の子を
好きになって。
彼女達だって、そうだ。﹃敵﹄に捕まって拷問を受けたり、研究材料
にされたりなんて事は無くて、皆幸せに生きていて。
そして高校生になった皆は、青空の下で笑い合うんだ。僕も、彼女
も、誰も彼もが。
││そんな、幸せな夢を。見た。
そうして、僕は。感覚のなくなった筈の掌を﹃両手で﹄握り締めて
255
くれる誰かの温もりを確かに感じながら。
永遠に、その意識を失った││
﹄
││││││││筈、だった。
﹃││││ッ
今まさに生命活動を終えようとしていた僕の身体が、跳ねる。
君との繋がり。未だ断たれぬそれを伝って流れ込んでくるのは、凄
まじいほどの力の奔流。
轟音を上げ、閃光を放ち。痛みすらをも伴い僕の全身を舐め上げ
て、ガラクタとなった身体に無理矢理エネルギーを送り込む。
﹄
﹄
いや、送り込むなんて生易しいものじゃない。それは正に蹂躙とい
う言葉が相応しい程の物。
ねぇ
﹃あ⋮⋮ッ、あぁああああああッ
﹃どうしたの
!!
僕を蹂躙する﹃力﹄に、身体が耐え切れない。プチプチと妙な音を
われるそれは、目的も無い単なる反射の様なものだったから。
身体を抑える事なんて出来なかったよ。僕の意思とは無関係に行
られた魚の様に跳ね回る。
そうして肩を捻り、足を振り回し、寝ていたベッドの上を打ち上げ
んなどうでも良い事を考えたよ。
しまったかもしれない、なんて。どこか冷静なままだった思考が、そ
⋮⋮ここ数年は大声なんて出した事が無かったから、喉を傷つけて
とした血液が流れ出た。
身体の至る場所に血管が浮き出て、ひび割れた肌の隙間からどろり
肺が空気を求め、声帯を大きく震わせる。
しかし全身を痙攣させる僕はそれに気付かず、機能を失ったはずの
た。
突然の僕の変貌に妹は驚き、身を乗り出して僕の身体に抱きつい
!!
256
!?
!?
立てる脳が、そう判断した。
﹄
﹃あ││あ││あぁああああああああああああああああああ││││
﹄
﹃きゃあ
僕は身体が訴える本能のまま、血塗れの腕を病室の天井に向かって
突き出した。
それに一泊遅れて服の下から茨が射出され、天井に激突。着弾地点
を中心として、放射状に広がり部屋全体を覆い尽くす。
赤く明滅していた葉脈は、これ以上無いほどにその輝きを増してい
て。光の圧力に耐え切れず、ガラス部分に無数の罅が入っていった
よ。
﹃敵﹄と戦っていた時だって、これ程の力を発した事は無い。その時に
行使していた力は、そう断言できる程に凄まじい物だったけれど││
││まだ、足りなかったみたいだ。
││バリン、と。一際大きな異音が辺りに響き渡った。
それは、僕のディソードが自壊する音。
病室を覆い尽くしていた茨は、自らの内に絶え間なく流れ込む力を
往なす事が出来なかったんだ。
﹄
瞬く間。砂の様に崩れ去ったその欠片が病室の中を漂って、まるで
粉雪の様に光を反射し輝いた。
﹃っぁ、ああっ⋮⋮あ、あ、あ⋮⋮
僕は私となり、私は﹃それ﹄になり、
﹃それ﹄は僕となり、そして僕
乱す。
異なる妄想は、反発し合い、主張し合い。僕の中を自分勝手に掻き
││││傲慢と、無感情と、そして、君。
別の存在が混じっている事を理解したんだ。
そうして自分の荒い息が耳の中を木霊する中、僕は僕の中に何か、
も。全く気にならなくて。
背中を揺さぶる妹の手も、肩に食い込んだ爪も、唇を噛み締めた歯
様にベッド上に丸まった。
声にならない声を漏らしながら、僕は両手で肩を抱き寄せて、亀の
!!
257
!?
!!
は僕となる。
入れ替わり、立ち代り。上書きに次ぐ上書き。思考の果ての僕は、
次の思考の果てを経て、思考の果ての僕は、思考の次の僕に至る。
ドクドクと鼓動を刻む心臓がやけに耳障りで、思考を邪魔するそれ
を砕いてしまいたい衝動に駆られる││俺が、貴様が、夢を、梨深を。
私を。
夢見るは世界、管理された世界、幸せな世界、あったはずの世界、誰
かの世界を、並べて、並べて、並べて。
情報が足りない、知識が足りない。何が起こっているのか僕にも分
からなくて、器を求めて逆流する。
分からない、分からない、分からない、分からない。情報を。梨
僕は彼であり、俺は彼でありたくない。﹃それ﹄はどうしてここに居
る
深、梨深。
嫌だ、死にたくない。死ぬ訳には行かない。世界の為に、夢の為に。
その為に全てを捧げて来たというのに。ざけんな、氏ねよボケナス。
ひ、ひ。
なのに、私は、何で、こんな、化物に、子供に、童貞に、凄いんだ、
ざまあみろ、ふひひ、ひひ、ひ。
それが望み。妄想された世界。それが、望みなら。管理された世界
を、幸せな世界を、あったはずの世界を、小さな世界を、現実として。
エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、
エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー。不可能。
引きこもれば良い、妄想力は凄いんだ、自閉しろ。私はまだ思考で
き る。寄 こ せ、肉 体 を。エ ラ ー、実 現 の 為 の 情 報 を。っ 深 ぃ、僕
は、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ││││││。
世界を、梨深の││誰かの││私の││あったはずの、それを││
││
炸裂した。
││││そうやって、膨れ上がり、混ざり合った妄想が、僕の中で
!!
258
?
﹃││││││││ッッ
﹄
食い縛った歯の隙間から、獣のような絶叫が迸る。
行き場をなくした﹃力﹄が僕の中で荒れ狂い、唸り、猛り。
未だ顕現させたままだった茨の中を無理矢理圧し通り、唯一繋がる
外界へと。それが抱く望みを果たせる可能性のある、唯一つの場所に
向かって進んでいく。
例えるならば、細いホースの中をサッカーボールが通り抜けるよう
な感じ、だろうか。
それは僕の身体の中身を頭からくり抜かれる様な苦しみで、今まで
感じていた苦痛とは比較にならない程のものだった。
そうして限界を超えた痛みに耐え切れなくなった僕の視界は、先程
とは逆に真っ黒に染まっていく。
﹃⋮⋮ぁ⋮⋮﹄
││││ぷつん、と。
急速に掠れていく意識の中、僕の中で暴れていた力が、唯一つの繋
がりを除いて跡形も無く消え去った。
凄まじい喪失感と、安堵。二つの相反する感覚が僕を包み込み、途
轍もない疲労感が襲い来る。
脱力し、瞬き一つ出来ない身体が、糸の切られたマリオネットの様
にシーツの上に広がった。
﹃││││﹄
耳元で叫ばれているそれは、妹の声だろうか。耳鳴りが酷くて判別
する事が出来ない。
熱を持ち、ギチギチと細動する筋肉が。激流の様に全身を巡る血液
が。激しい生命の鼓動が僕の脳に刺さり、ノイズを撒き散らしてくる
んだ。
それは長らく感じていなかった、生の証。遠い昔に失っていた筈
の、僕の夢。
取り戻す事を諦めていたそれが、僕の身体の上で疼いていたんだ
よ。
││そしてその代わりに、僕はとても大切なものを、永遠に、失っ
259
!!
たんだ。
けれど、それを嘆く間も喜ぶ暇も無く。
妄想の終わる、テレビの電源が切れるような感覚と共に。
僕の意識は、完全に闇に落ちていった││││⋮⋮⋮⋮
■ ■ ■
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
暗い世界の中で。チャンネルを、回す。
■ ■ ■
病室の中に、二つの影があった。
一つは、ベッドの上から上体だけ起こした、今にも折れそうな痩身
260
の男││つまりは、僕。
そしてもう一つは、長い黒髪を腰まで垂らしたモデル体型の女性
だ。
決して友好的とは言い難い関係の僕達は、お互いを挟んでピリピリ
とした雰囲気を放っており、何ともいたたまれない空気が病室の中を
漂っていた。
彼女が抱くのは、僕に対する強大な敵意。愛する家族を失った原因
を作った仇への、強烈な憎悪。
それは確かな圧力を持って。暗く光る眼光という形で、僕の心を責
め立てる。
││お前の所為で。
││お前の所為で
││お前の所為でッ
まれるだけの事を、僕は彼女達に施したんだ。
でも僕には、その視線から逃げられる権利は持っていない。そう憎
が折れそうになる。
彼女の心に宿る、深く濁った感情が直接精神に叩きつけられて、心
!!
!
﹃⋮⋮正直に言って、私はお前をこの手で殺したいと思っている﹄
そうやって僕を睨み付ける彼女の口から、険の篭った声が放たれ
た。
﹃私達を奪う原因を作ったお前を、世界の可能性を殺したお前を。﹁こ
れ﹂でズタズタに引き裂いてやりたかった﹄
吐き捨てるように言い放ち、彼女は自らの右手を振り上げ、僕の頭
へと突きつける。
その手の指は、見えない何かを握り込むかのように丸められ。そう
して伸ばされた腕は、まるで大剣を掲げているようにも見えたよ。
⋮⋮いや、彼女は実際に大剣を持ち、僕の頭に突きつけているのだ
ろう。
彼女がほんの少しでも力を込めれば、ほんの少しそう思えば。僕の
命はその瞬間に散らされるんだ。
││目には見えない青い刃が、眉間を深く貫いている。
彼女の握る掌の先、何も視認できない空間に、僕はそんな光景を幻
視した。
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃⋮⋮フン﹄
しかし何も反応を返さない僕に、彼女は鼻を一つ鳴らし、突きつけ
ていた腕を大きく振るい、下に降ろす。
そうして不機嫌そうに、病室に備え付けられていた椅子に乱暴に腰
を下ろし、足を組んだ。勿論、僕を睨みつけたまま。
彼女が纏っている高校の制服。そのスカートがヒラリとはためき、
白い太ももが一瞬だけ露になった。
﹃だが、残念ながらそれは出来なくなった。何故か分かるか﹄
﹃⋮⋮彼の為、だね﹄
﹃││ああ、そうだ﹄
終始憎々しげだった彼女の表情に、ほんの一片。暖かいものが混じ
る。
それは出来の悪い弟を見るような、愛する人を想う乙女のような
⋮⋮とても、複雑な表情で。僕はそれに少しだけ見蕩れてしまった。
261
﹃アイツは、私との約束を守ってくれた。あの男の妄想を殺し、全てに
決着をつけてくれた﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃⋮⋮それなのに、私がアイツの守ったものを殺してしまっては、恩知
らずも良い所だろう﹄
彼女はそれを最後に片手で顔を覆い、背中を丸めて俯いた。
その姿は、涙を抑えているようにも、衝動的な行動に走ろうとする
身体を無理矢理押さえつけている様にも見えて。
⋮⋮彼女は一体何を思って、どんな葛藤を抱いているのだろう。
知りたい、とは思ったけれど。僕にはもうその術は無い。
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
そうやって暫く俯いていた彼女だったけど、ある程度は心の整理が
付いたみたいだ。
大きな溜息と共に、覆った手の隙間に見える片目を開き、その鋭い
瞳を僕に向け、告げる。
彼女が僕の下に来た、その理由。
││││アイツは今、何処に居る。
その凛とした声色には僅かな陰りも無く、病室の白い壁に反射し
た。
■ ■ ■
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
チャンネルを回す。
■ ■ ■
﹃│ │ │ │ 早 く 教 え て く れ な ー い ー と ー、も ∼ ∼ ∼ っ と ド カ バ キ グ
シャー、しちゃうのらー♪﹄
262
楽しそうな、それで居て怒りを滲ませるという矛盾した声が、ベッ
ドから転げ落ちた僕の耳に届いた。
﹃⋮⋮う、ぁ﹄
殴られた頬が、じくじくと鈍い痛みを発する。
病室の硬い床に打ち付けた後頭部が、未だ生え揃わない頭髪と擦れ
て小さな音を立てたよ。
││殴られたんだ、僕は。それも、力の限り全力で。
﹃ぐ⋮⋮﹄
突然の衝撃に朦朧とした意識を、頭を振ってハッキリさせて、震え
る腕をつっかえ棒に上体を持ち上げベッドの端に縋り付く。
まるで崖を上るかのような体勢になって、弱ったままの筋肉がミチ
リと嫌な音を発したよ。
そうして苦労して目線を向けた先には、明るい髪色をツインテール
に縛った小柄な少女の姿があった。
彼女は思い切り僕を殴った拳を摩りながら、ニコニコと楽しそうに
笑っていた。
しかし、その表情に温度は無く。冷たい笑顔と言うのは、ああいう
表情の事を言うのだろうか。ぼんやりと濁った思考の中で、そんな事
を思ったよ。
﹃き、みは⋮⋮そうか、彼女からか⋮⋮﹄
﹃知りたかったーら、貴方に聞けって言われたのら﹄
僕がその事を皆に知らせる前に、どうして彼女がそれを知っている
のか。一瞬疑問に思ったけど、彼女と関わりの深い女性の事を思い出
して、納得。
自分で伝えないのは、おそらく僕に対する嫌がらせの様なものなの
だろう。殴られる事まで予想していたのか分からないけれど。
││嫌われてるなぁ。
溜息を一つ吐き。腕に力を込め、自身の身体を引き上げる。
まだ立ち上がる事さえ困難な身体に鞭を打ち、必死の思いでベッド
の上に体重を乗せる。そしてシーツを皺になるまで握り締め、しがみ
つき。荒い息を立てながら這い蹲った。
263
﹃⋮⋮っ、ごめん、僕は││﹄
﹃⋮⋮聞きたくないのら﹄
息を整え、縺れる口を必死に動かして最初に謝罪を告げようとした
けれど。にべもなく一蹴されて、遮られ。
彼女は僕の声を聞きたくもない、と言った風情で耳に手を押し当
て、イヤイヤと首を振った。
││笑顔を消し、涙で濡れた目で僕を睨みつける。
﹃帰 っ て き た ら、い ∼ ∼ ∼ っ ぱ い ス キ ス キ し た か っ た の に。い ∼ ∼
∼っぱいありがとうしたかったのに﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃なのに、帰ってきたのは、貴方のほう﹄
苦しんでいた自分を救ってくれた、君。
苦しむ原因を間接的に作り出した、僕。
﹄
全てが終わった後で帰ってきたのは、彼女が望んだ君では無くて。
﹃そんなのの言葉なんて、絶っっっ対に、聞きたくないのら⋮⋮っ
││君を、返してくれ。君に、会わせてくれ。
言葉と態度の節々に、そんな痛々しい程に大きな君への想いが見え
隠れして、心が締め付けられる。
今にも涙を流しそうな彼女の様子に、何かを言わなければならない
衝動に駆られたけど││でも、何と言えばいい
るのはそんな言葉ではないのだろう。
求めているのは、情報だけ。僕自身の言葉なんて、彼女にとっては
塵芥以下なんだ。
﹃⋮⋮彼が今、何処にいるか。だったね﹄
﹃うぴぃ﹄
言葉から一切の感情を消し、ただ情報を伝えるだけに努める。
﹃⋮⋮これは、僕の感覚と知識、そして聞かされた情報に基づいて妄想
した、ただの推測だ。まずは、それを理解して欲しい﹄
﹃妄想なーら、慣れてーるよ﹄
264
!
言い訳にも似た後悔は幾らでも口に出来るけど、彼女達が望んでい
こんな筈ではなかった、本当は僕が居なくなる筈だった。
?
彼女は頷きを一つ返し、間延びした口調で応じる。
しかしその軽い空気とは裏腹に、目には真剣な光が宿っていて。僕
は小さく身動ぎして姿勢を直し、口を開く││││
■ ■ ■
﹁⋮⋮﹂
彼が殴られたシーンは面白かったけれど、それだけだ。不快な事に
変わりは無い。
チャンネルを、回す。
■ ■ ■
﹃まず、あの時に彼に何が起きたのか。君は何処まで聞いているのか
えっと⋮⋮﹄
で、流しておく。
っていう機械を壊して、ニュージェネを起こし
﹄
彼女はニュージェネの真相からは比較的遠い位置にいたからね、正
確に事件を把握していなかったとしても何らおかしな事じゃない。
﹃それで⋮⋮⋮⋮その、爆発に巻き込まれてしまって││﹄
265
な﹄
﹃え
﹃うん、そうだね﹄
ていた真犯人を、その⋮⋮倒しちゃったんですよね
?
順序が逆ではあるけれど、わざわざ訂正するほどの事ではないの
?
﹃確か⋮⋮ノアⅡ
わせて、何やらお嬢様と言った印象を受けたよ。
彼女が纏う高校制服、きちんと校則通りに整えられているそれと合
それはおそらく、考え事をする際の癖の様なものなのだろう。
当てた。
の細い眉をハの字に垂らしながら、彼女はかけている眼鏡の弦に指を
重病者用の個室だからこそ置く事の出来る上質な椅子に腰掛け、そ
ベッドのすぐ横に備え付けられている安楽椅子。
?
﹃││彼は、行方不明になった﹄
途中で彼女の声が震える気配を感じ、君を﹁死んだ﹂と表現される
前に咄嗟に言葉を遮る。
それを確たる言葉として発せられるのは、お互いの為にならない気
がしたから。
﹃⋮⋮行方不明、ですか﹄
﹃そう、行方不明﹄
﹃私、どうしても分からないんですよね。どうして皆がそれを断言で
きるのかが﹄
彼女はそんな僕の様子に、納得のいかない表情を浮かべ。目を逸ら
しながらそう告げたよ。
それも当然の事。爆発に巻き込まれた人間が消えたんだ、ならばそ
の被害者は死亡し、木っ端微塵に吹き飛んだと考えるのが普通だろ
う。
﹁行方不明﹂と言い張る僕らの方が、本当は間違っているんだ。
﹃別に、断言してる訳じゃないよ。ただ、その可能性があると言うだけ
で。居合わせた当人も、最初からそう思ってた訳じゃないしね﹄
﹃⋮⋮まぁ、確かに涙とか鼻水が凄い事になってましたけど﹄
⋮⋮その可能性を示唆されるまでは、妹と一緒に号泣して手が付け
られなかった。
良く分からない理由で互いに殺し合おうともしたし、諌めるまでに
どれ程の寿命が縮んだ事やら。
彼女の様子を思い出して、げんなり。凄まじい疲労感が湧き上が
り、また以前のような皺だらけの老人に戻りそうになった。
﹃⋮⋮皆、信じたいんだ。彼が生きている可能性を。彼が存在してい
る世界を﹄
﹃ええ、それは分かります。だって、私も││││﹄
■ ■ ■
これ以上彼女の言葉を聞きたくなくて、無理矢理チャンネルを回し
266
た。
﹁⋮⋮やめてよ、そういうの﹂
君は。あれだけ僕の事を疑っておいて、犯罪者扱いしておいて、今
更何を言うつもりなんだ。弁えてくれよ、最低限、僕の気持ちを汲み
取って。
本当にやめて欲しいよ。どんだけチョロ
確かに僕は最後の時には君の事を許したけど、何。それで好感度爆
上がりとか言うつもり
いんだよ。
﹂
他の奴らだってそうだ、今更好意なんて見せられてもどうすれば良
いんだよ。
﹁⋮⋮遅、すぎたんだ。腐ってやがる⋮⋮
■ ■ ■
事だ﹄
﹄
﹃そう。彼の愛しい想い人、爆発の現場に居合わせてしまった彼女の
﹃⋮⋮邪神に囚われし黒騎士の、無事﹄
れが何か、分かるかい
﹃そうして薄れ行く意識の中で、彼は一つの妄想をしたんだ。⋮⋮そ
留まる事は無く。空調の風に流されていく。
折れた茶色の板からふわり、と病室の中に甘い香りが漂い、しかし
チョコレートを齧る。
目を瞑ったままの彼女は、その言葉に僅かに眉を顰め、持っている
されたまま、消え行く事しか出来なかったんだ﹄
至った彼でさえどうにも出来なかった。ただ呑み込まれ、衝撃に翻弄
﹃そ れ は 人 の 身 体 か ら 外 れ、ギ ガ ロ マ ニ ア ッ ク ス と し て の 最 極 地 に
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
のものが﹄
た。周りの建物全てを瓦礫の山にして、大きなクレーターを作るほど
﹃ノアⅡが破壊された時、周囲には膨大なエネルギーが撒き散らされ
!
君がノアⅡを破壊すると決心した、最大の要因。
267
?
?
消え行く間際に伝わってきた幾つもの妄想のうち、一番大きな物が
彼女を案じるそれだった。
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
彼女は、顰めたままの眉に不機嫌さを加え、ゆっくりと瞼を開きこ
ちらを見た。
その目はあからさまな嫉妬心を込めた物だったけど、それは僕に重
なる君に向けられたもので。僕自身を見る視線に温度は無かったよ。
︵人気者だね、君も︶
﹁続きを言って﹂彼女は一言たりとも言葉にはしなかったけど、そう
思っている事は明白に感じられる。
僕はそれに苦笑を一つ、ベッドのリクライニングを少し倒して話が
しやすいように環境を整え。そして、続けた。
﹃君も知っている通り、彼の想いは彼女を無事に生還させたよ。⋮⋮
けれど、その妄想が、彼を行方知れずにさせたのさ﹄
268
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃彼が彼女を助ける為に行ったこと││││結果から言えば、それは
﹁ノアⅡから溢れでたエネルギーと身体とを混ぜ合わせる﹂という物
だった﹄
きっと、エネルギーに溶かされていく身体から、そういう妄想に
至ったんだろう。僕には、それが残念でならなかった。
﹃幸運だったのか、それとも不幸だったのか。その妄想は成功し、彼は
反粒子の塊となっていた身体をノアⅡと同化させ、膨大に猛るそれを
全て押さえ込んだ﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃流石に物理的な衝撃や、それ以前に撒き散らされた物はどうにもな
らなかったみたいだけどね﹄
そう言って、一息。
僕はベッドに背と後頭部を預け、長いため息を吐いた。
﹄
﹃⋮⋮そうして、彼は﹁彼ら﹂になったんだ﹄
﹃⋮⋮
ポツリと漏れたその言葉。
?
あの時、
﹁彼ら﹂が逆流してきた時の苦痛を思い出し、一瞬だけ手が
痙攣を起こす。
反粒子の蓄積による自己崩壊の苦しみには慣れていたけど、あの時
のそれは今までの物とは一線を画していた。
生の終着点が遠のき、以前よりも色付いた世界を生きている僕に
とって、その記憶はトラウマに近いものとして刻まれていたんだよ。
恐怖をごまかすように身体を起こし、彼女に視線を向けて、続ける。
﹄
﹃そもそも、押さえ込まれたエネルギー⋮⋮ノアⅡから放たれたそれ
は、一体何だったのだろう
﹃││それは、
■ ■ ■
チャンネルを回す。
⋮⋮不快、不快、不快
じゃないか。
それとも、走馬灯ってやつ
ね、君は
だとしたら悪趣味な記憶をお持ちだ
せ殺されるんだ。だったら、何を知ったところで無意味極まりない
ネギだった僕はアーニャを助ける為に殴られそうになってて、どう
う、終わったんだよ。
確かに僕は自分に何が起こっていたのかを知りたかった。でも、も
いか、今更掘り起こして何の意味があるんだよ。
もう良いだろ、僕はもう消えるんだ。だったらそれで終わりじゃな
?
?
せるんだ。止めてよ。止めてくれよ⋮⋮っ。
■ ■ ■
﹃⋮⋮ノアⅡ、それは人工的に作られた、機械仕掛けのギガロマニアッ
クス。ある男を除き触れる事も出来ず。Ir2の電磁波にその男の
269
!
何で、今になって、こんな。何だ。何なんだよ。何でこんなのを見
!
妄想を乗せて、ただ発信するだけの存在。それに意思は無く、感情も
無く。あるのは命令を遂行しようとするプログラムだけ。
生体では無い故に事故崩壊の危険が無く、パーツを取り替え続けれ
ば何百年だって存在し得る。永久機関すらをも備えた、望まれる限り
永遠に稼動し続ける悪夢の具象化だ﹄
﹃その程度の事は知っている、私も随分と調べ回ったからな﹄
嘲る様にそう言い放ち、苦々しく口元を歪ませた。その名を聞くだ
けでも苦痛なのだろう。
それもその筈だ。彼女の愛する家族は、ノアⅡ完成の為の礎として
犠牲にされているのだから。
﹃⋮⋮けれど、僕は思うんだ、ノアⅡは本当は生きていたんじゃない
かって﹄
﹃⋮⋮どうやら、お前は滞留した反粒子と一緒に脳細胞も吹き飛ばさ
れたらしい。いい医者を紹介してやろう﹄
⋮⋮あの人を引き合いに出された事に少しだけ腹が立ったけど、そ
れに反論をする権利は僕には無い。聞かなかった振りをして、続け
る。
﹃確かに、ノアⅡの身体は無機物で出来ているし、ギガロマニアックス
としての能力は、電磁波とプログラムで作られた紛い物。思考誘導に
よる洗脳装置がその正体だ﹄
﹃そこまで分かっているのなら││││﹄
﹃││だけど、それが引き起こす現象は、僕らの妄想とそう変わらない
んだ。ただ、そこに至る経緯が違うだけで﹄
彼女の言葉を遮って言い切った。
■ ■ ■
チャンネルを回す。
270
││脳の問題なら、彼以上にお似合いの医者は居ないんじゃないか
なぁ
?
そう挑発し、僕を睨みつける。
?
﹄
何度も何度も記憶が前後し、流れが理解できなくなっていく。
■ ■ ■
﹃えっ、と⋮⋮
﹃ノアⅡは妄想が出来たんだ。自分自身のそれじゃない、
﹁敵﹂の││
野呂瀬達の妄想をそのまま、という形だったけれど、紛れも無く自身
﹄
の﹁意識﹂でもって妄想を行っていた﹄
﹃⋮⋮自意識が、あったと
アックスとして存在するなど不可能なのだから。
﹃でも、例えそうだったとして、それが何になるんですか
││﹄
はた、と。
にし││
││その程度の事さえ出来ないのならば、機械の塊がギガロマニ
を現実に反映させられるだけの思考能力は生成できていた筈なんだ。
だの人形のようなものだったとしても、与えられた命令││妄想││
それが電磁波とプログラムで組み上げられた、意思も感情も無いた
を擬似的な回路で再現していた。
人間であるギガロマニアックスを模したノアⅡは、人間の脳の機構
﹃少なくとも、それに似た物はあったと確信を持って言えるよ﹄
?
チャンネルを回す。
■ ■ ■
まったんだ﹄
て い た、リ ア ル ブ ー ト 寸 前 の 妄 想。そ し て、彼 は そ れ と 混 ざ っ て し
﹃そう、あの時発せられたエネルギーの正体││それはノアⅡが行っ
﹃あの、もしかして⋮⋮﹄
に、恐る恐る視線を向けてきた。
彼女は何かに気付いたかのように言葉を止め、こちらを伺うよう
?
271
?
■ ■ ■
﹃ノアⅡを破壊した時に、彼はとあるモノを武器にした﹄
﹃⋮⋮邪神の、使途⋮⋮﹄
﹃そう、この世界で唯一ノアⅡに接触できる男││││野呂瀬 玄一。
ディソードから放たれた反粒子の﹁巳﹂に貫かれた彼は、その身を剣
としてノアⅡに突き立った﹄
ノアⅡを守る為の防御機構が、逆にトドメの一撃となった。なんと
この時、ディソードを通じて何人もの意識が││妄
言う皮肉だろうか。
﹃分かるかい
想が、一つに繋がったんだ﹄
﹃⋮⋮グラジオール、邪神の使途、そして⋮⋮私の ■ ﹄
﹃││それと、彼と繋がっていた僕自身。だ﹄
■ ■ ■
チャンネルを。
■ ■ ■
﹃最初に、ノアⅡと接触できる唯一の存在だった野呂瀬の妄想が流れ
込んだ。死を前にした彼は、屈辱と共に自らの夢見た世界を妄想した
んだ。こんな筈じゃなかった、こんな結末は認めない⋮⋮ってね﹄
﹃その妄執ともいえる強い思いを受けたノアⅡは、主の妄想を叶える
べくリアルブートしようとしたんだ﹄
﹃うん、図らずも彼らの最終目的を実行に移してしまったんだよ﹄
﹃当 然、そ れ が 成 功 す る は ず も 無 い。ポ ー タ ー の 数 や 事 前 の 準 備 と
いった要因とは別に、その直後にノアⅡそのものが破壊されてしまっ
たんだから﹄
■
■ ■ ■
272
?
⋮⋮もう、止めてくれ。
■
■ ■ ■
﹃でも、一度放たれた妄想││Ir2の電磁波は止まらなかった。永
久機関が仇になったんだろうね﹄
﹃完全に壊れ切るまでの僅かな間で組み上げられたそれは、最早止め
られる段階には無く││暴発し、件のエネルギーとなって撒き散らさ
れた﹄
﹃そうして本来ならばサードメルト以上の惨状を引き起こす筈だった
エネルギーは、先程話した通り、彼の最後の妄想によって防がれる事
になる﹄
■
﹃しかし、リアルブートの流れは止まらない。何故なら、彼もまた野呂
瀬とは別の世界の創造を妄想していたから﹄
﹃││最愛の人が傷つく事の無い、ささやかな幸せのある世界を﹄
■ ■ ■
もう、
■
■ ■ ■
■
﹃猛る力を押さえ付けられ、行き場の無くなった妄想は、リアルブート
できる道を探した﹄
﹃そして、見つけたんだ。そう、彼と僕との繋がりだ﹄
﹃それを辿って逆流してきた妄想は、自らをリアルブートする為に僕
のディソードに流れ込んだ。身体の許容量なんて無視してね﹄ ■
273
﹃世界最高峰の二人のギガロマニアックスがその命を賭して描いた妄
想と、世界全土に影響を齎すノアⅡのエネルギー。幾ら僕でも、そん
なのに耐え切れる訳が無かったんだよ﹄
■ ■
﹃僕は内側で暴れるそれを制御できず││全部、持って行かれ■た﹄
■
■ ■ ■
■ 嫌だ。
■ ■
■ ■ ■
■ ■
■
﹃描いていた妄想﹄
﹃僕自身と現実とのズレ﹄
﹃ギ ガ ロ マ ニ ア ッ ク ス と し て の 力﹄ ■ ■■
■
﹃そして、身体に滞留していた反粒子。良いものも、悪いものも、全部。
押し寄せてきた妄想に巻き込まれ、ディソードを通って何処かに消え
てしまったんだ﹄
﹃⋮⋮何処か、それは、現実世界の他の場所って意味じゃない﹄
■ ■■■
■ ■
﹃僕の身体はもう、世界を作るなんて大掛かりな妄想をリアルブート
する事には耐え切れないし、そもそもギガロマニアックスの力を失っ
た時点でそれも不可能になっている﹄
274
■ ■
﹃だから、その前の段階││││つまり、ディソードがディラックの海
に干渉した時点で、僕はその反動の大きさに耐え切れず、全てを放棄
してしまったんだ﹄
■
﹄
﹃⋮⋮よく分かんねぇけど、あいつが、俺のダチが居なくなっ
たのはテメェの所為って事かよ
■ ■
■ ﹃⋮⋮すまない、何度殴って
も良い。ただ、今は、■﹄ 止めてよ
﹃では、その妄想は何処に行ったのか﹄ ■
■ ■ ■ 聞きたくない
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ﹃奇しくも、世界を望む妄
想が三つ、揃ってしまったんだよ﹄■■■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■■ ■ ■ ■ ■
止めてくれ
■ ■■ ■ ■ ■■ ■■﹃そんなの、現実世界では無理だろうね。でも、ディ
ラックの海の中なら■■■ ■ ■ ■ ■ ﹃争いの無
い、管理された世界﹄
聞きたくない、そんな真実なんて ■■ ﹃あったはずの世界﹄
■■ ■
■ ■ ■ ■ ﹃さ さ や か な 幸 せ の あ る 世 界﹄ ■ 幾 ら な
んでも世界その物は無理だろうけど、心象世界 ■ ■ ■ ■ 妄 想 な ら ■ ■ ■ 界を構成するための知識なら、日々ディラックの
海に干渉してくるギガ■ロマニアックス達から得れば良 ■ ■
275
!?
■ 止めてよ、止めてくれよ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 思 考 盗
撮 ■ ■■ ■ ■■ ■■ 嫌だ、嫌だよ■■■ ■■ ■
■ 象世界なら、どうかな ■ ■ ■ ■ ■■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ あ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ や め て ■ あ
■■ ■ ■ ■ <負担も少ない所か、無いに等しい ■ ■ ■ ■ ■ あ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ あ あ
あ ■ ■■■あ 最低限、妄想でき
る機関があれば あ
■■■ ■ ■ ■■
■ ■ ■ あ あ あ あ ■ ■ ■ あ ■ ■ ■ ■■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■■■■■案外、ディ ■ 海の中には ■ 誰か ■ の脳髄やノ
アⅡ ■ 機 ■ が、漂っているのかもしれな
あ■
■
﹃││││そう、彼は今、ディラックの海の中に浮かんだ妄想の世界。
三人と一基のギガロマニアックスが作り出した心象世界に居るんだ
よ﹄
あ、
276
﹁ああああああああああああああああああああああああああああああ
﹂
ああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああッ││││││
││振りぬいた茨だらけの睡蓮が、風を切り、空間を切り。彼の世
界を裁断した。
277
!!
第12章 Re;
死の間際、野呂瀬玄一は自らの野望が成就した世界を視た。
死の間際、西條拓巳は咲畑梨深が生きている世界を視た。
死の間際、ニシジョウタクミはIr2の式が無い世界を視た。
そして、ノアⅡの無意識││感情を持たないそれが、三つの世界を
観測し、認識していた。
全ては死にかけた奴らが描いた、くだらない妄想。ただ、それだけ
ひひひひひ⋮⋮っ﹂
の話だったんだ。
﹁ふ、ひひ⋮⋮
凄いよね。アインシュタインをも超えた僕と、アインシュタインと
並び立った彼。そして、アインシュタインの一歩手前に留まった男。
世界で見ても確実に五本指に入るような上位ギガロマニアックス
三人が、委細は違えど同じタイミング、それも死の直前と言う人が最
も念を濃くする場面で、世界を渇望したんだから。
﹁ひひひひひひっ、ふひ、ふひひひひひひ⋮⋮﹂
最初にノアⅡが受けたのは、自身の主にして鍵たる野呂瀬の妄想。
そして次に僕。相反する二色の妄想が混ざり、猛り。思念の激流を産
み出した。
それはノアⅡの身体が失われた後も、彼、或いは彼女の意識を動か
し続けるには十分すぎるものだったんだ。
幸か不幸か、僕は全てを纏めて取り込んだみたいだからね。ノアⅡ
の放つ電磁波もそのままの状態で混ざりこんだんだろうさ。
そうして繋がりを辿っていった先。唯一身体とディソードを持っ
たままの彼の力を利用して、炸裂。僕達二人の妄想が混ざった世界を
リアルブートしようとしたんだ。
可能不可能関係なく、ただ愚直に動き続けるそれは、もしかしたら
一種の暴走状態だったのかもしれないよ。
⋮⋮でも、駄目だった。将軍が僕達の炸裂に耐え切れず、ギガロマ
ニアックスとしての力を放り出してしまったんだ。
その衝撃は将軍からギガロマニアックスとして得てきたもの、失っ
278
!
てきたもの、全てを巻き込み、一切合財奪い取り。
僕達は││ディソードを通してディラックの海に干渉していたそ
﹂
の妄想は担い手を失い、現実世界に辿り着く寸前で置き去りにされた
んだ。蜘蛛の糸を掴んだカンダタの様にね。
﹁ひぃひひひひひひっひっひっひ、ひ、ひ、ひぃひひひひ⋮⋮
そうして放り出された妄想は、本当なら何も成せないまま消えて行
く筈だった。反粒子の波の中に呑み込まれて、二度と浮き上がって来
ない筈だった。
まぁ、当たり前だ。世界をリアルブートするなんて、人間に可能な
範囲を大きく飛び越してる。
僕らがどんな化物であったとしても、どんな強い想いを持っていた
としても。人間程度の妄想じゃそんな大それた事なんて出来やしな
いんだ。
ノアⅡだって同じだ。それが出来るのは人々を洗脳した上で未来
に望む世界を作り出すだけで、現在に望む世界を創り出せる訳じゃな
いんだよ。
⋮⋮ところが、ここで想定外の事態が起こった。
リアルブートされる寸前の密度を増した妄想の一部が、ディラック
﹂
の海の中で周囲共通認識を発生させてしまったんだ。
﹁ひ、っひっ、ひひぃ⋮⋮ふひひひひひひひっ⋮⋮
呂瀬、ついでにノアⅡ。この四つのものが混ざってた。
将軍は、ただ妄想を巻き込まれただけだから除外。野呂瀬も同じよ
うな感じだから除外する。
意識と呼べる程に確立していたのは、人間を辞めてジョジョってた
僕と、強迫観念にも似た妄想に動かされていたノアⅡのそれ。意識モ
ドキだとしても、それが二人分あれば周囲共通認識は発生する。
じゃあ、その共通認識で妄想がリアルブートされるとしたら、一体
﹂
それは何処に顕現されるだろうか。
﹁ひ、ひ││││
279
!
何度も言っている通り、あの時存在した妄想の塊は、僕、将軍、野
!
││││答えは、妄想が混在する混沌の渦中、だ。
!!
それは、まるでマトリョーシカ。
僕達は、ディラックの海の中に浮かぶ妄想の中にまた違う妄想をリ
アルブートするなんて、物凄く器用な事をやらかしてしまったんだ
よ。
おまけに何をまかり間違ったのか、僕の意識と呼ぶべき妄想の欠片
がその世界に放り込まれた訳だ。
⋮⋮何て、下らない真相。
﹂
﹁ふひひひひひひひひひひひひひひひ、ぃぃひっひひひひひひひひっ
ひいいっひひ
反粒子の詰まった空間の中で、器の手を離れた妄想が存在し続けら
れるのか。という疑問はあるよ。
けれど、脳みそを破壊されても蘇り続けた反粒子の塊である僕が混
ざっていて、尚且つ身体が無いから自己崩壊を起こす心配も無かった
んだ。相性はこれ以上無いほどに良い筈だろう
る全ての人間も、全部そう。僕と同じ、妄想で出来た作り物。
の人間たちも、ネギと言う人間も。それどころか、この世界に存在す
木も、空も、雪も、建物も、アーニャも、ネカネも、スタンも、村
取ったんだよ。
介して、そいつらの知っている事、知っているつもりだった事を読み
ノアⅡは、そんな幾千幾万のギガロマニアックス達のディソードを
去未来の区切りが存在しないと言う事で。
間だ。それはつまり、干渉してくるギガロマニアックス達には現在過
ディラックの海は、時間や場所の影響を受けない、独立した虚数空
││思考盗撮。
構成に足りない知識と情報は、全て外から補える。
妄想を産み出し続けてるんだ。
からの妄想を遂行すべく、世界を構築し続ける。妄想の世界の中で、
そして、今もノアⅡの妄想は続いてる。野呂瀬の要素を持った僕達
馴染んでしまったとしてもおかしくなんて無いんだ。
それを考えれば、決して不可能とは言い切れない。海の一部として
?
僕らのご同輩には、アインシュタインを始めとした歴史に名を連ね
280
!!
る偉人達が沢山居たらしいからね。情報には事欠かなかっただろう
さ。
魔法とか何やら、ファンタジーの存在だってその一部分に過ぎない
んじゃないかな。
不特定多数のそいつらの中には、英雄の存在と、それを信奉する人
間達を視ていた奴が居たんだろう。
魔法の存在を信じ込んでいた奴も、魔法世界︵︶が存在すると思い
込んでいた奴も、化物が存在すると洗脳されていた奴だって。
神を狂信してた奴も、裏世界︵︶の存在を疑っていた厨二病患者も。
ひょっとしたら宇宙人とか火星人を本気で居ると思ってた奴も居た
かもしれない。
そんなくだらない妄想に犯された、人間失格の連中が思い浮かべて
いる絵空事を、ノアⅡは全て﹁知識﹂として受け取って。正しい事も
間違っている事も関係なく、全てを世界の公式として取り込んだ。
281
人間ならリアルブートが不可能だったそれらも、思考がぶれる事も
反粒子の負担も感じる事も無いノアⅡの無意識なら。加えて心象世
界なんて閉じた世界でなら不可能じゃなくなるんだよ。
││││﹃世界五分前仮説﹄
バートランド・なんちゃらが提唱した、
﹁世界が五分前に、全ての実
在しない過去を住民が覚えていた形で出現した﹂という仮説からなる
哲学的思考実験の一つ。
﹂
今回起こった出来事は、図らずもそれを実現したんだ。流石に、五
分前って事は無いだろうけど。
﹁ぴひひひひ、ひ、ひ、ひ⋮⋮
懸念されるのは野呂瀬の望んだ﹃争いの無い管理された世界﹄だけ
随する未来に達成されるんだ。存在させる理由なんて一つも無い。
ついでに、僕の望んだ﹃梨深が生きている幸せな世界﹄もそれに付
んだからね。
だって彼らが居なければ、将軍が後悔し続ける事態なんて起きない
のは、将軍が﹃自身の罪の無い世界﹄を望んだからだ。
あの世界に希テクノロジーや紳光、三百人委員会が存在しなかった
!
ど││││それはもう、何らかの理由で潰えているんだろうね。
僕の腕から伸びる茨のうち、枯れている一本を見る限り、きっとそ
の筈だ。
はてさて、今の僕は、ディラックの海に浮かんでいる筈の僕達は、一
体どんな姿形に成っているんだろうね
かな
妄想だけの実体の無い姿 それとも僕の最期の時の様な塵の姿
?
ひひぃ
ひ、ひ、ふひひひひひひひ││││
﹂
!!
それだけの要素を揃えるなんて、殆ど奇跡に近いよ。きっと二度と
状。
タイミング。あり得ない程の異常な現象が重なって起きた、この現
子の塊になってた僕、僕と繋がっていた将軍、将軍が力を放り出した
上位のギガロマニアックスの一致した妄想、感情の無い意識、反粒
││││そんなの、知りたくも無いし知る機会も無いけど。
かな、若しくは永久機関を積んだノアⅡの機構かも知れないね。
将軍が言ってた通り、反粒子の中に脳みそと心臓が浮かんでいるの
?
同じ事なんて起こらないだろうね。
﹁ひひひひぃ
!
1996年時に三歳ならば、2010年時の西條拓巳の年齢
たー﹂で終了っすよ。
しただとか哲学的な感じで彼是して苦しんでたのが、﹁全部妄想でし
見なよ。あれだけぐだぐだ悩み続けて、僕は誰だ自己の安定がどー
来ててもおかしくない。
的にも一致するし、まだ登場してない﹁物分りのいい妹﹂だって、出
ねぇ
それに魔法やら何やらが肉付けされてリアルブートされれば││
消え去った直後ぐらいに。
ば、どこかで聞いた事のある設定だ。具体的に言うなら妄想の七海が
﹁優しい姉と、彼女候補の幼馴染がいる、イケメンの僕﹂、考えてみれ
と、それに混入した僕が合わさってしまった結果なんだろうね。
ああ、そうだ。僕が﹁ネギ﹂になったのも、そんな馬鹿どもの妄想
!
││││もう、笑いが止まらない。馬鹿らしくて、アホらしくて、冗
282
?
?
市ねっ
死ねぇ
何なんだよぉ
!
今更、馬鹿じゃ
談みたいで、糞みたいで。惨め過ぎて、本当、嫌になる⋮⋮
ねぇ、氏ねよぉ
﹁││ひ、ひ││││んっだよぉ
ないの
﹂
!! !
⋮⋮けれど、無理矢理に記憶をぶち込まれた僕の妄想が、あるのか
測だと。全てを力いっぱい否定したかった。
そんなの、僕は絶対に認めたくなかったんだ。将軍の妄想だと。推
した黒い奴も全部全部。全てがみんな、嘘っぱち。
村人も、ネトゲで触れ合った奴らも、あの化物達も、僕を殺そうと
スタンの説教も。
ネカネの優しさも。
アーニャの糞ガキっぷりも。
美味しかったサンドイッチも。
ストーブの暖かさも。
冬の寒さも。
木材の湿った匂いも。
から出来た存在だった。
││今まで居た場所が、会話してた人達が。みんな僕と同じ、妄想
の頭はもう破裂寸前でまともに動こうとしていなかった。
本当はもっと酷い言葉とか嫌味とかを言ってやりたかったけど、僕
杯。
て、感じたまま、浮かんだままの悪意を無加工で投げつけるのに精一
涙を飛ばし、涎を飛ばし。笑いすぎて掠れた声を無理矢理絞り出し
を傾ける余裕なんて無い。
何かブツブツと言葉を話してるみたいだけど、今の僕にはそれに耳
﹃││││││││﹄
浮かべたまま立っている将軍に支離滅裂な罵声を浴びせた。
んで、顔中から体液を流して笑い転げていた僕は、胸糞悪い薄笑いを
青い空を映す湖面、動く度に水の音を上げるそれに背中から倒れこ
!
!
彼の心象世界。青と白の空間の中。
!
どうかも分からない脳が。これを真実だって認めていて。
283
!?
心と理性とがズレている。僕はそれを自覚していたけれど、何もす
る事が出来ず。ただ延々と喚き続ける事しか出来なかったんだよ。
そん、そんなの、そんな、して、
どうしたら良いのか。何を思えば良いのか。それすらも、今の僕に
は分からなかった。
これっ⋮⋮
!
お、おか、おかしいじゃない、っか、こんなのぉ
﹁だって、こんなっ
﹂
何になるんだよ
⋮⋮
!
何の為に
ぼく、僕は、っあ、あんな、あんなぁ⋮⋮っ
││千々に裂かれた心が、大きな悲鳴を上げている。それがはっき
ないのが如実に分かる有様だ。
は先程と同じ笑みのままで、情緒が全くといっていいほど安定してい
僕は土下座の姿勢で蹲り、涙を流して嗚咽を漏らす。しかし顔の形
う将軍に当たらずには居られない。
ディソードに触れて﹁自覚しなかった﹂僕が悪いんだろうけど、そ
ば、ここまで乱れる事は無かったんだ。
欲しかった。皆と言葉を交わす前に教えて欲しかったよ。そうすれ
どうせなら、僕が﹁ネギ﹂としてリアルブートされた瞬間に教えて
!
!
りと自覚できた。
﹁んの為に
﹂
!
感じていた苦しみに、過ごして来た時間に何の意味があった
味があった
最後の最後でアーニャを助けた事に、何の意味があったんだ
?
﹂
!!
間と、その結末。
滑稽なピエロだったにも程がある。
!!
││凄まじいまでの、虚無感。
しね。しね、よぅ⋮⋮ッ
!
⋮⋮そうやって泣いていると、腕から垂れる枯れた茨が、涙に歪む
﹁⋮⋮っぐ、っぞぉ⋮⋮
﹂
ニュージェネの時や梨深の時とは違う、正真正銘に無価値だった時
﹁な、何の、何の意味も、無かったじゃないか⋮⋮
全部全部、妄想だったって言うんなら、そんなの。
?
?
284
!!
僕が居た事に、成した事に。あの世界に存在した事に、一体何の意
!!
視界の中に入った。
無残な姿を晒すそれは野呂瀬の残滓。果たされなかった世界の残
骸だ。
多分、僕もあと少しもすればこの枯れた茨と同じ末路を辿るんだろ
う。打ち砕かれた妄想は消滅し、そしてノアⅡと将軍だけが世界に残
るんだ。
⋮⋮どうせなら、何にも知らないまま。アーニャを助けられた少し
の安堵を胸に、死への恐怖に塗れたまま居なくなりたかったよ。
そうすれば、少なくともこんな場所に来て、彼の記憶を見る事も無
かったんだからね。
││けれど、現実/妄想はこれだ。
ほんの少し﹁生きたい﹂なんて思ってしまったばっかりに。生への
執着を抑制できずディソードを掴んで、将軍を自覚してしまったばっ
かりに。
憤りや憎しみ、嫉妬や悔恨。その八つ当たりにも似た負の感情は、
僕の意識をここに呼んだ張本人。未だ一人で何かを話し続けている
将軍へと向けられた。
僕を生み出した親にして、全ての元凶。
憎むべき存在だった彼の居る場所に向かって、震える足、力の入ら
ない腕に力を込め、立ち上がり。茨で繋がったディソードを引き摺っ
たまま、ゆっくりと近づいていく。
一歩、また一歩。足を踏み出す度、長い事忘れていた青年の足の長
必要なかったんだよ
﹂
さに四苦八苦。何度もよたよたとバランスを崩しかけて、それがまた
僕を苛立たせた。
﹁そんな、あんな記憶、僕はいらなかった
!!
﹃⋮⋮││で、僕は、君にしてあげられる事が余りに少ない事に気が付
!
285
知りたくも無かった真実とやらを突きつけられて、絶望と混乱の中
な、にが、何が、したかったんだよ、きみ、っ
で死んでいく事を強制された。
﹂
﹁⋮⋮くっそ、くそ⋮⋮
はぁ⋮⋮
!
そうして、やり場の無くなった感情。
!!
いた﹄
﹁素直に死なせてくれれば良かった
﹂
君には、現実を生きている君
には、何の関係も、無い、無かったんだからな
﹃僕には、おぼろげに君の存在を感知できるだけで、君が何をしている
のか察知する事は出来ないんだ。だから││﹄
噛み合わない会話。
前のめりに倒れそうになる身体を必死に往なし、将軍に向かって叫
び続けるけど。僕の言葉は彼に届いていないようだった。
どんなに大声を張り上げても、どんなに泣き喚いても。将軍はその
薄ら笑いを止めず、視線も何処かあさっての方向に向けられたまま喋
り続けるだけで。
それは、無視や聞き流してるのとは違うように思えたよ。
何というか、予め記録されている言葉をただ再生されているだけの
様な。映像や動くマネキンを相手取っている様な違和感だ。
││不愉快、極まりない。
僕の姿が目に入っていないかのように、聞きたくも無い声を吐き出
っぐ
ら湖面に突っ込んだ。
﹂
バシャンと水が弾ける音が周囲に響き、遅れて打ちあがった飛沫が
着水。雨音にも似た響きが僕の鼓膜を揺らす。
水の冷たさも、痛みも感じない。今の僕にあるのは、もどかしさと
情けなさ。大きな喪失感と、虚無感。それと、将軍への憤りだ。
﹃││僕は既にギガロマニアックスの力を失って││││君には感謝
しても仕切れない││││例えそれが偶発的なものであっても││
││﹄
僕には、彼が何を考えているのかが分からない。
毎夜毎夜、この将軍の心象世界の夢を見させて、ディソードを取る
ように仕向けて。
結局、僕は最期まで気付か無かった訳だけど、何のためにそんな事
286
!
!
し続けるその姿が、目障りな事この上ないんだ。
﹁こ、の⋮⋮ッ
!
暴れる感情のまま走り出そうとして、失敗。足を縺れさせて、頭か
!!
をしてたんだ
自分の記憶を見せる為
を伝えたかった
僕の現状を教える為
それとも感謝
?
⋮⋮どれにしてもありがた迷惑の余計なお世話だ、反吐が出る
?
?
う
﹁ぎ⋮⋮ひひっひひひ、ひ。っし、っし、ょう軍ん⋮⋮ッ
ただ││殴りたいんだよ、僕は
未だに何かぐだぐだ言ってるけど、もうそんなん知らん。
﹃⋮⋮だから、僕は、君にあげられる唯一のものをあげようと思う﹄
んだ。
がそう告げたけど。それすら僕は無視をして。腕と足に力を溜め込
何処の東映版マーベルヒーローだよ、なんて思考の冷静だった部分
も無視をして、格好悪く走り出す体勢をとった。
血走る目をギョロ付かせ、蜘蛛の様に四つん這い。バランスも何か
たい、と強く思って。
僕が抱いている負の感情の全てを乗せた一撃をお見舞いしてやり
そうして消える前に、せめて一発。
﹂
話を聞く気も無いんだ。だったら耳を傾ける義理も意味も無いだろ
どうせあと数刻もしない内に僕は消えるし、向こうは向こうで僕の
湧き上がる怒りのまま、僕は将軍の言葉を聞かない事に決めた。
!
?
彼は、言う。
ふと、将軍の視線が。僕を貫いた気がした。
﹃││そう│││﹄
そうして、力いっぱい湖面を蹴りだそうとして││││
顔はぐちゃぐちゃなんだ。気にする程の事じゃない。
軽く吐息を吐き、歯を食い縛る。口の端から涎が垂れたけど、既に
だった筈だ﹄
﹃それは多分、君が一番望んでいたもの。君が欲しがって止まない物
!
287
!!
?
﹃││そう、ニシジョウタクミの身体と││西條拓巳としての人生を、
僕は君に捧げたいんだよ﹄
││││││││がぎ、り。
僕の思考が、鈍い音を立てて止まった。
﹂
*****************************
***
﹁││は、⋮⋮え
思わず、呆けた声を漏らした。
今正に走り出そうとしていた身体は溜め込んでいた力を失い、再び
土下座に似た四つん這いの姿勢へと形を戻して。
僕はただ、先程から変わらず飄々とした様子の将軍を見続けること
しか出来なかった。
そしてやはり認識していないのだろう。そんな僕の様子に目を向
ける事も気付く事すらもなく、彼は続ける。
﹃さっきも言ったと思うけど、僕はもうギガロマニアックスとしての
力の大部分を失っている。あるのは、君との繋がりだけ。そっちの存
在は感じられるけど、こちらから自由に意思を伝える事は出来なく
なってるんだ。そうだね、精々夢として記憶を見せるくらいだ。出来
てるって確証は、無いけれど﹄
﹁ぁ⋮⋮あ、え﹂
﹃今こうやって話している事も、本当に君に伝わっているのか、凄く不
誰も見てないと良いな﹄
安だ。⋮⋮傍から見れば、僕は誰も居ない病室で独り言を言ってるよ
うに見えるかな
将軍は、そう言ってくすりと笑う。
以前と比べて表情が豊かになったように感じるのは、余裕が持てる
ようになったのか、それとも皺が無くなったからか。判断がつかな
い。
288
?
?
﹃⋮⋮とにかく、もし、この声が届いているのなら、その世界から妄想
を切り離し、繋がりを辿って僕の下に来て欲しい。
そしてギガロマニアックスの力で脳細胞を作り変えて、
﹁君﹂をイン
ストールすればそれで終わり。僕は僕じゃない、君に成るんだ﹄
││君は西條拓巳として、誰でもない一つの個として生きる事が出
来るんだよ。
その一言は、僕の心深くに染み込んだ。
﹃だから、こんな貧弱な身体だけど、どうか君に││││﹄
ザリ、と。
それを全て言い切る事無く、大きな雑音と共に彼は突然動きを止め
││その身体中にノイズを走らせた。
まるでテレビの砂嵐みたいに、アニメでよく見るホログラムの様
289
に。彼の姿が激しくぶれて、掠れて。人の形を無くしていって。
そうしてそのまま数十秒した後、突然将軍の姿が正常に戻り││再
び僕の脳内に彼の記憶が送り込まれてくる。
流れるのは、崩壊した渋谷を眺めている光景、七海の右手をリアル
ブートした時の記憶。
どうやら、将軍は同じ記憶を何度もリピートしているらしい。既に
一度見た景色が、頭の中に広がって行くよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんな最中にあって、僕は何の反応も返す事無く、ただ凍りついて
いた。
先 程 ま で 感 じ て い た 怒 り も、嘆 き も、絶 望 も。綺 麗 さ っ ぱ り な く
なって。酷い困惑が頭の中を埋め尽くしてるんだ。
そうして、先程の言葉が延々と木霊する。
││僕が、現実に帰れる
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
自然に産み出された人間としての身体で。設定じゃない、正真正銘
それも、彼に産み出された妄想人間として、じゃなく。
?
の一として。
西條拓巳として、会いたかった、僕を知っている人たちの所へ││
││
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮それは正に、悪魔の誘惑だった。
この世界。最早死を待つしかないこの状況から、皆の居る現実世界
に帰ることが出来る。
それだけじゃない、将軍に成り代わるって事は、たった一人の、正
真正銘の西條拓巳として、梨深の傍に居られる権利を得られるって事
で。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうだよ、それに七海だって、僕を本当の兄貴に見てくれるように
なる。
血の繋がりの無い妹というのも捨て難いけれど││胸を張って﹁本
当の家族﹂という関係になれるんだよ。
││皆の所に帰れて、大切な存在の隣に堂々と居られる。
それは僕がネギとして存在していた時に、何度も願った夢。これ以
上無い位に強く欲した場所だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮半ば、無意識の内に。
ず る ず る、と。四 つ ん 這 い の 状 態 の ま ま、身 体 を 将 軍 の 下 に 引 き
ずっていく。
暗闇の中、彼の記憶に染まった景色の中、一つだけ。人の形に揺ら
めく光に向かって。
それは街灯によって来る害虫の様に、屍骸に群がる意地の汚い獣の
様に。みっともなく、浅ましく。
その姿には、たった一片の誠実さすらも無かった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
││││セナの声が、聞こえる。
﹃アイツは、私との約束を守ってくれた。あの男の妄想を殺し、全てに
290
?
決着をつけてくれた﹄
﹁⋮⋮ふ、ひひ⋮⋮﹂
││││こずぴぃの声が、聞こえる。
﹃帰 っ て き た ら、い ∼ ∼ ∼ っ ぱ い ス キ ス キ し た か っ た の に。い ∼ ∼
∼っぱいありがとうしたかったのに﹄
﹁⋮⋮そ、そうだ⋮⋮僕は⋮⋮﹂
││││優愛の声が、聞こえる。
﹂
﹃ええ、それは分かります。だって、私も││││それを、望んでいま
すから﹄
﹄
帰ってきて欲しいって、ね、願
﹂
﹃⋮⋮よく分かんねぇけど、あいつが、俺のダチが居なくなったのはテ
メェの所為って事かよ
﹁ひ、ひひ⋮⋮ふひひひひひ⋮⋮
を正当化するには十分な光景で。
脳内を流れた、僕を想ってくれてる彼女達の姿。それは自身の行動
そして感じたのは、不謹慎な優越感。
視界が開き、再び白と青の世界に戻る。
!
291
﹁⋮⋮っぼ、僕は、っあ。のぞ、望まれてるんだ⋮⋮
││││あやせの声が、聞こえる
!
﹃⋮⋮グラジオール、邪神の使途、そして⋮⋮私の拓巳﹄
﹂
﹁っし、将軍よりも、誰よりも⋮⋮
わ、れて、るんだ⋮⋮
!
││││三住くんの声が、聞こえる。
!
!?
一センチ前に進む度、腕の力が増していく。早く将軍の下に辿り着
こうと、精神が昂ぶって行く。
そうして、徐々に将軍へと近づいて行くんだ。
涙を流したまま、涎を垂らしたまま。だらしの無い笑みを浮かべた
表情に、どろりと濁った光を湛えた目で。
僕は見た。彼らの隣で笑っている自分の姿を、楽しげに談笑してい
る、僕の幸せを。
僕じゃ掴めなかった光景。彼だけが掴む事の出来た光景。
いつか夢見た現実/妄想に、何度も望んだ願望に。今なら、触れる
ことが出来るんだ。
﹁⋮⋮っあ、あ﹂
茨の巻きついた右腕をゆっくりと持ち上げて。引っ張られた胸筋
に肺が押し潰されて、声が漏れた。
未だバランス感覚は取り戻せなかったけれど、そんなの、最早些細
な事だ。
あれ程難しかった立つという動作を、歩くという動作を。僕は全て
吹き飛ばして。
││そして、気が付けば、僕は将軍の前に腕を伸ばした姿勢のまま
で立って居て。
﹁⋮⋮は、はは⋮⋮﹂
帰ったら、まず何をしようか。
梨 深 に 会 っ て、七 海 に 会 っ て、三 住 く ん に 会 っ て。そ の 他 大 勢 に
会って。僕は何を伝えよう。
好きだって言おうか、ありがとうって言おうか、僕と友達で居てく
れた事を感謝しようか。
言いたい事が、言ってほしい事が山ほどある。
そんな、幸せな、夢。
胸に溢れる幸福感に、指先が震える。
さぁ、帰るんだ。
僕には、帰りを待ってくれてる人が、沢山居るんだから。
そうして、伸ばした腕が、指が。未だあさっての方向に喋り続けて
292
﹄
いる彼の姿に重なって││││
﹃││││タクッ
││││最後に、その声を聞いた。
﹁っ、﹂
ぴたり。将軍に触れかけていた指が止まる。
僕の耳朶を打ったのは、聞きなれた少女の声。
聞いているだけで安心するような、鈴が転がるように綺麗なその音
は││││果たして、誰の物だったろうか
﹁⋮⋮、⋮⋮っぐ、ひ⋮⋮﹂
出来なくなっていた。
心の底から望んでいる筈のその一歩が、どうしても踏み出すことが
事ができるのに。
目の前の将軍に触れれば、それだけで終わりなのに。皆の所に帰る
⋮⋮体が、動かない。
摩擦を生む。
昂ぶっていた心がざわざわと漣立ち、小さな苛立ちが僕の心の中で
ができなくて。
口の中ではっきりと呟いた筈のそれは、やはり自分でも聞き取る事
そうして呟いたのは、一人の少女の名前。
﹁││││﹂
なかったんだ。
僕の名を呼んだのが、一体﹃どちら﹄だったのか。何故か判別でき
?
﹃⋮⋮││までで、僕は、君にしてあげられる事が余りに少ない事に気
が付いた││﹄
293
!
ふらり、と。喋り続ける将軍から距離を取るように。一歩、二歩。
バランスを崩しながら後ろに下がり。
そうして立っていられなくなった僕は、水面に音を立てて尻餅をつ
いた。
後に生まれたのは、もう何度目かも分からない雨。
それは湖面に幾つもの小さい波紋を描いて、そこに映る僕の姿を乱
し、隠して。
││そして、波紋が止んだ後、そこに映っていた顔は。
﹁⋮⋮ふ、ひひひ、ひひ、ひ⋮⋮﹂
全身から力が抜け、糸が切れたかのように頭が下を向き。呻き声に
も似た小さな笑い声が、口の端から垂れていく。
それは今の僕の心情を表すかのように墜落し、垂れる僕の体液と一
緒に湖面の中に沈んでいって。其処に映っている情けない笑い顔に
ぶち当たる。
﹂
294
即ち││泣き笑いをしている三歳のガキの、顔に。
﹁ぃ、ぇっひぇっひぇっひぇ、ぃひ、ひぃぃ⋮⋮
消え。
││ただ感じるままに、何一つ思考せず。感情の迸りを、口に出す。
オタの、嫉妬に塗れたプライドの発露。
正常な判断とは程遠い、理屈も道理も何も無い、惨めで卑怯なキモ
だから、これから喋るのは、何の意味も無い、戯言なんだ。
⋮⋮君、の。君の思う、通りに、なんて。さ、させるもん、かよ﹂
﹁⋮⋮っあ、ああ、あぶ、危なかった⋮⋮よ⋮⋮
そ、そんっ。っな
胸に溢れた幸福感も、見ていた筈の夢も。全ては飛沫と共に弾け、
思考も、下すべき判断も。何もかもが出来なくなってる。
何をどうすれば良いのか、どうして何を成せば良いのか。回すべき
自分が何を感じているのか、何を思っているのかは勿論。
││僕の心は、顔と同じでもうぐちゃぐちゃだ。
ちも合っているんだろうし、どっちも間違っているんだろう。
それは、笑い声だったのか、それとも悲鳴だったのか。きっと、どっ
横隔膜が引き攣って、気味の悪い声が無意識に発せられた。
!
!
自分、自分
⋮⋮水面に映る小さな手から続く大きな手が、湖面を握り締めるよ
うに指に力を入れた。
﹁そう、そうやって。ぼぼ、僕を、嵌める気。なんだろ
が。っぐ。罪滅ぼし、とか、そんな感じで。気持ち良くなろうとし、っ
てる。だけの。オナニーを、手伝わせる、気、なんだろ﹂
ホモォとか、マジキモイ。粘つく口内が、そんな言葉を転がした。
そうして未だふら付く足を酷使して立ち上がろうとするけど、上手
く行かなくて。まるで生まれ立ての小鹿のような有様を晒してしま
う。
立とうとしてはずっこけて、立とうとしてはずっこけて。
そんな事をグダグダやっていると、三週目に入ったのか、三度崩壊
した渋谷と七海の姿が目の前に広がった。
﹁ほ、ほらこうやって。なんか、し、死にかけで、
﹁かわいそうな僕﹂、っ
を、演出して。見せて。ゆう、誘導してるんだ。都合の良い、ように
さ﹂
バランスを取ろうと手を振り回していると、指先に何かトゲトゲし
たものが引っかかって。掴み。
そして不思議と痛みを感じないそれを見ないまま、その先っぽを湖
面に突き刺して、杖代わりに利用した。
握った掌から度を越えた嫌悪感が僕に襲い掛かるけど、今更そんな
ものを感じた所でどうなる訳でもない。僕の心は既に、それに反応で
きる段階じゃなくなっているんだから。
﹂
あんな、さく、っさ、サクラも使って、準備の良い、事
﹁ぼ、僕を、君の所に、行かせる様に。僕を、コントロール、っす、る。
為に⋮⋮
だよねぇ⋮⋮
そう切って捨て、ぐるぐると回る視界の中に、将軍の姿を映し込む。
彼は未だにぶちぶちと意味の無い発言を繰り返していて、見てるだ
けで心象的不快指数MAX。
もし、僕が、それ、誘いに乗ったり、したら。将軍
﹁っで、も。僕は、騙されない。騙されるもんか。ふひ。だって、だっ
て。そうだろ
?
295
?
次々に僕の事を想ってる風な発言をしてくるイカレポンチどもを
!!
!
を、消して、殺してしまったら││﹂
││そんなの、梨深が、七海が。泣くじゃないか。
それは、僕が一番望まない事だった。
君を大切に思ってくれる人、君が生きている事を喜んでくれた筈の
﹂
死ぬ
死ぬ、前に
!
人。僕が君を殺すのは、彼女達に対する禁忌にも等しい裏切りなんだ
﹂
!
よ。
消えろよぉ
!
!
死ぬ
﹁本末転倒、だろ。そんなん⋮⋮ ぼぼ、っくはぁ
梨深がぁっ、梨深を、想って
っいぃぃひひひぃ、っい、言ってやるぞ、死ぬ
前にっ
!!
四週目。崩壊した渋谷と七海の姿が広がる。
﹁││っせぇんだよぉ
!!
!
!
くそっ
象世界。
﹁っそ
り、梨深の、出てく
﹂
僕に、余計な躊躇
ひ
る記憶を見せなかったのは、そう言う事、だろ
!
ひひひ、ひひっ
いを、与えなくする。為ぇ
!
と涎を振り散らしながら、笑い声を響かせながら。
足を縺れさせ、歪な回転を描いて。
くるくると、くるくると。
!
ぃ
﹁ざ、残念だったねぇ し、し、疾風迅雷のっナイトハルトがっ
﹂
そ ん な、そ ん な、幼 稚 な 策 に 嵌 る と 思 う て か い ひ ひ ひ ぃ
ひぃっぃぇっひぇっひぇ
!
!
!!
覚悟なんて無い。決心なんて無い。
の姿を睨み付けた。
││そして、僕は回転を止め。先程以上にふら付いた足取りで、彼
!!
雨の中、傘を持たない女の子が踊る様に、ぐるぐる、ぐるぐる。涙
そうして振り回した勢いのまま、僕の身体はグルグルと回転する。
!
ひ、ふ、ひひひ、ひひっ
後に戻るのは、この世界だ。彼と梨深の思い出の場所、青と白の心
し。将軍が飽きずに送りつけてくる記憶を切り裂いた。
世界が暗闇に包まれていく中、僕は棒を握った腕を大きく振り回
!
?
!!
296
!
!
!
戻るなんて、シ
ただ心の感じるまま、勢いに任せて。君の言う事を聞きたくない、
なんて情けない我侭を通して。
子供の様に、駄々を捏ねてるだけなんだ。
っし、らない
!!
此処に、妄想だらけの、世界にっ、い、居る、まま⋮⋮で⋮⋮ッ
﹁││だから、僕は、僕は⋮⋮っ
ラネ
﹂
!
喜んでくれるの
笑ってくれるの
?
の顔なんか、見たくない。声も、聞きたくない⋮⋮
僕の残した負
﹁も、もうこんな、ふざけた事、出来なくしてやるんだ。僕はもう、君
ギガロマニアックスとしての力の欠片。
金属の様にも、無機物のようにも見える繊細さを持つ、将軍の妄想、
いや、正確には、その右腕から伸びている茨。
│ディソードをしっかりと握り直し、将軍へと向ける。
ぼたぼたと落ちる涙を気にも留めず、僕は右手で握った棒を│││
あげるよ。こ、このまま、君を残すのも、腹が立つしね﹂
﹁⋮⋮ふひ、ふひひ。き、君の、残ってる力は、僕が全部、貰っといて
││││
彼女が本当の笑顔を向けてくれない世界で生きていくよりも、僕は
彼女の涙を見るよりは。
彼女の悲しそうな顔を見るよりは。
⋮⋮だったら。
る人間に、親愛の情を持ってくれる訳が無いんだ。
当たり前だ。自分の大切な人を奪って、尚且つそのガワを使ってい
て言える。
例え笑顔を見せてくれたとしても、それは作り笑顔だと確信を持っ
││││僕には、とてもそうは思えない。
?
⋮⋮けれど、僕が将軍を犠牲にして向こうに戻って、それで梨深は
の居る世界に戻りたいと強く願ってる。
今すぐ前言を撤回して、現実世界に、梨深の、七海の、三住君の。皆
⋮⋮良い、なんて。口が裂けても言えやしない。
!
債を抱えて、エスパー少年として、恥を晒しながら生きていけば良い
!
297
!!
んだ⋮⋮
﹂
そうして、僕の意思に応じて。ディソードを覆っていた茨が、動き、
蠢き、開き、奔り。
﹂
まるで薔薇のように、中心の剣の部分を核として││ディソード
が、咲いた。
﹁⋮⋮⋮⋮っ
│。
﹁⋮⋮、っ⋮⋮ぅ
﹂
力を誇示するように、見せしめとするように。高く、高く、高く│
僕は、それを高く掲げた。
﹁⋮⋮お、お別れだよ、永遠に﹂
││真っ赤に、揺らめく。
僕の高揚する心とリンクして、柄の部分に宿る禍々しい炎の意匠が
畏怖を感じさせるかのような流麗さを持ち合わせ。
魂が吸い取られるかのような、清純なる悪意と。
絢爛さは露ほどもなく。
夢幻なる気品に満ちて。
今にも折れそうな繊細さと。
く。
嫌悪感の漂う茨の中から出てきたそれは、剣と呼ぶにはあまりに長
!!
﹁っ⋮⋮つ、伝えといて、よ。暴力女1号に、ガルガリ君ソーダは、こ
││自覚しないまま、口の端が歪んだ。
とも、赤い髪をしていたようにも思えて。
それが誰だったか、なんて。僕には分からなかったけれど。少なく
でも、ほんの一瞬だけ、誰かの影が見えた気がしたのは確かだ。
くて。
ある筈の物も、人の脳髄も、機械の塊も。何も何も、見える事は無
いる訳でもない、極めてフラットな蔓。
見えたのは、一本だけ続いている茨。枯れている訳でも、明滅して
所とは反対側へと、首を傾けた。
⋮⋮ふと、呼ばれたような気がして。背後へと、僕と将軍の居る場
?
298
!!
れ以上無いほど不味いよねって﹂
意識を、将軍に戻す。
そうして、湖面に映る、蒼い睡蓮を振り上げた﹃僕﹄が、同じよう
に口を動かした。
それは、僕から彼に送る最後にして最大の嫌がらせだ。
﹁痛々しい暴力女2号に、ぶちゅぶちゅさんって正直センス最悪だよ
ねって﹂
﹁メンヘラ女に、チョコレートほど邪心に染まり切ったものなんて無
いよねって﹂
こんな事をしたって、何がどうなる訳でもないって分かってる。け
れど、それでも。
やはり僕は彼の事が大嫌いなんだ。僕だけが貧乏くじを引くなん
君って誰だったっけ
って﹂
て許さない。君だけがハッピーエンドに至るなんて許せない。
﹁ヤンデレ眼鏡に、あれ
﹁キモウトに、これから引きこもるよ僕って﹂
││だから、せめて。彼女には、伝えて欲しいんだ。
思い浮かべながら。ずっとずっと、泣き続けるんだ。
││手に入ったはずの夢を見ながら、隣に居られた筈の彼女の姿を
││悔やんで、悔やんで、悔やみ続けて。
たんだって。
││何であの時帰らなかったんだ。何であの時将軍を殺さなかっ
││僕はきっと、この選択を死ぬまで後悔し続ける。
﹁││僕の、好きだった彼女に││﹂
大きな躊躇いと共に、最後の言葉を紡いだんだ。
そうして、それを最後に、僕は一旦口を閉じて。
れば良いんだよ。
││││だから、精々。皆から総スカンされて、フルボッコにされ
?
││僕の言葉を、西條拓巳としての最後の言葉を。あの日言えな
かった、感謝の言葉を。
299
?
﹁││││あ、ありがとう、って⋮⋮ッ
﹂
そうして、僕は。全身を震わせて、泣きながら、憤りながら。勢い
良く剣を振り下ろし││││
茨の欠片が、宙を舞った。
│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │
│││⋮⋮、ブツン。
300
!!
第 1 3 章 E m p t y b o t t o m o f t
he ;chaos
アーニャにとって、ネギことタクは最初から情けない存在だった。
女の自分より強い男の子の癖に運動は苦手だし、すぐ泣くし、背は
小さいし。何をするにも文句を一通り言ってから、しかもこっちが無
理矢理急かさなければ行動しない。
頭は凄く良いみたいで、時々自分でも分からないような言葉を使っ
てくる。けれど、それに説得力が全く無い。
やること成すこと喋ること、人を小馬鹿にしてるようにしか思え
ず、だと言うのに一人では何も出来ない口だけ男。
誰かしっかりした人││例えばそう、学校でクラス委員をやってい
る自分とか││が付いていなければ、すぐに駄目になってしまう、手
間のかかる弟。そんな感じ。
村の人達は皆何故か、タクの事を﹁昔とは違う﹂﹁根暗になってし
まった﹂等と言うけれど、そんな事は無い。
何時頃からの付き合いだったかはハッキリしないし、物心が付く前
の記憶はあやふやだ。
けれど彼女にとっては、タクは始めからタクだった。男の子の癖に
頼りない、守ってあげなきゃいけない子であったのだ。
││アーニャは、
﹃拓巳﹄を﹃不調﹄として認識してはいなかった。
彼がわんぱく小僧だった頃の記憶もなく、明るかった頃の記憶もな
く。にも拘らずネギの事を知っていて、それに疑問を持っていなかっ
た。
どんよりと濁った雰囲気で、気持ち悪い笑い声を上げる拓巳││ネ
ギの事を、当然の事だと受け入れていたのだ。
それは幼さ故なのか、それともその単純で純粋な性格の所為なの
か。はたまた、彼を思う何者かの所為だったのか。今となっては知る
術は無い。
ただ、彼女はネギをネギのまま││拓巳のままで認識していた事だ
301
けは確かだった。
⋮⋮だからこそ、彼女は現状に違和感を覚えていた。
彼女自身は何がどうとは言葉に出して説明は出来なかったけど、今
の彼を取り巻く状況がおかしい事は何となく察していたのだ。
そして、それを何とかしようと頑張った。
それは、ネギを弟分と認識している姉貴分としての義務。年上であ
る自分がやらなきゃいけない責務であると思い。
いや判断に困る︶したのだろう。彼女は、それはもう燃えに
元よりガキ大将気質、まとめ役としての素質を持っていたのも災い
︵幸い
燃えた。
周囲の大人達に言い縋り、彼の姉であるネカネや、村で一番偉い
︵と、思っている︶スタンに相談したり。
何やら沈んでいるネギに発破をかけ、しっかりしなさいと何度も呼
びかけたりもした。悪口を言う同級生を諌めたりもした。彼女はそ
の小さな身体で、可能な限りの出来る事をしたのだ。
⋮⋮しかし、結果は芳しくは無く。
幾ら彼女が彼は以前からああだった、変わっていないと伝えても、
大人達は皆首を振るばかりで信じようとしてくれない。皆一様にし
て、﹁以前のネギに戻って欲しい﹂と呟くばかり。
それ以外の答えを認めようとせず、決まった型に││設定に、彼を
押し込めようとして。
そうして、彼女の与り知らぬ所で発狂寸前まで錯乱していたネギ
は、自室と言う名の物置に引きこもって出て来なくなってしまったの
である。
⋮⋮最初こそは、そこまで追い詰められてしまった彼に同情し、村
の住民たちへの憤りを強くした。
村人に抗議したり、彼らがネギに会いに行こうとするのを妨害した
りもしたが││││ネギの行動を見ている内に、その怒りは彼自身に
向けられる事となった。
元より友好的とは言い難かった態度だったが、ここ最近は更に悪化
したらしく。我侭も言い放題の、好きなことをし放題。
302
?
ネカネに当たり、スタンに当たり。訪れてくれた医者や老人たちに
も酷い事を言って追い出した。結果、少なかったとは言え彼を助けよ
うとしてくれた存在が一人、また一人と離れていった。
様々な物を強請り、色々なものを欲しがり。そうして遂には、パソ
コ ン な ん て 高 価 な も の ま で 買 わ せ て し ま っ た と い う 話 で は な い か。
自分だってまだ持ってないのに。
そのくせ届いたそれに対して喜ぶでもなく感謝するでもなく。そ
れどころか文句と罵声を飛ばして、方々を駆け回り苦労したネカネを
更に傷つけたと来たもので。
⋮⋮そして、ある日。リビングでひっそり泣くネカネの姿を目撃し
たアーニャは、溜まりに溜まったフラストレーションを爆発させた。
確かに周囲を取り巻く環境も悪かったかもしれない。多くの原因
は村人達のほうにあるのだと、うっすら理解できている。
けれど、自分を真剣に想って頑張ってくれたネカネやスタンに対し
て、その対応は余りにも酷過ぎるんじゃないか。
せめて彼女達には、もう少し優しく接して欲しいと強く思って。
密かに憧れているネカネの為に義憤に駆られた彼女は、ネカネがス
タンが話し合いに外出している中、ネギの住む小部屋の前に仁王立
ち。
閉ざされた扉を何度も殴りつけながら、ネギに向かって大声を張り
上げた。
ここを開けろと、姿を見せろと。言いたい事があるから顔を見せろ
と。
⋮⋮しかし、返事はキーボードのタイプ音。ただそれだけで。声ど
ころか、他の反応の何一つも返される事は無く。
いい加減意地になっていたアーニャも、それにムキになって扉を叩
き続けた。彼の名を呼び続けた。
⋮⋮一体どれほどそれを続けたのだろうか。
彼女の小さく柔らかい手が赤く腫れ、叫びすぎて喉が痛み。そうし
て疲れ果て、涙さえ滲みかけていた所に││彼の呟き声が聞こえたの
だ。
303
﹃⋮⋮用意出来るのは、紐か、包丁。だけ、か⋮⋮﹄
﹄
││││朧気に。その意味を察した瞬間、彼女はとうとうぶちぎれ
た。
﹃││この、馬鹿ぁぁぁぁッ
怒りのまま猛った魔力を足に纏わせ、炎へと変換。
あらん限りの力を籠めて扉を蹴り飛ばし、強引に部屋の中へと押し
入った。
そうして、衝撃音を気にも留めずに、どんよりとパソコンを眺めて
いたネギの下に歩み寄り。首根っこを掴んで怒鳴りつけたのだ。
いい加減にしろ、皆がどれだけあなたの事を考えているのか、わた
しだって心配してるのに、どうしてその気持ちを無視するのか。
もっとしっかりしなさい、嫌な事がったら言え、悩みがあったら相
談しろ。ネカネおねえちゃんを大事にしなさい。
﹄
あらん限りの叫びを、その未だ少ない語彙に乗せ。何度もつっかえ
ながらも、彼に対する想いを吐き出し。叩きつけ。
何時も、いつもぉ⋮⋮っ
││そして、何の前触れもなく、彼の目が血走った。
﹃││っる、さいんだよぉ
!!
いの全てを屁理屈で論破し、無に帰した。
心配も、優しさも、何もかもを解体し、打ち捨て、踏みにじり、侮
蔑して。それだけに収まらず、ネカネやスタンの事まで悪し様に落と
す始末だ。
何時もの鬱々としたどもり様とは比べ物にならない程に速く、流暢
に。
ネットスラングから故事成語まで、幅広い表現を流用し相手に反論
の機会を与えないそれは、正しく罵倒の嵐と表現するに相応しく。
⋮⋮アーニャは、ネギの言っていた事を半分も理解できなかった。
単語の意味、言葉の中に出てきた人の名前らしきもの、言葉の裏に
304
!!
何が気に障ったのか突然アーニャを遮り絶叫したネギは、彼女の想
!
隠された感情。それを読み取り理解するには、彼女は未だ幼すぎたの
だ。
故に、彼の叫びの中で分かり易かった部分││つまりは、罵倒から
なる悪意しか受け取れず。彼女はそれに大きなショックを受け、感情
のコントロールが出来なくなった。
そして多くのものを否定され、怒りと悲しみに満ちた心の中。アー
ニャは荒れ狂う激情に任せネギの頬を引っぱたき││││
││後は当然、大喧嘩。騒ぎに駆けつけてきたスタンの説教を二人
並んで受ける事になったのだ。
それからだ、彼女がこれまで以上にネギに││タクに干渉し、あか
らさまな姉貴面をするようになったのは。
喧嘩の禍根は殆ど無かった。それは、お互いの胸中を吐き出し合っ
た事が良かったのか、それとも最後にタクの感謝の言葉で締まった所
為か。
酷い暴言を吐いた気まずさも、暴力を振るってしまった罪悪感も。
互いにそれ程大きくはなく。結果的にその喧嘩が、アーニャとタクの
距離を大きく縮めるきっかけとなったのだ。
以降、アーニャは事あるごとにタクの部屋にまで突撃して行くよう
になり、彼の手を掴んで振り回す様になった。
少しでもタクがしっかりシャッキリする様に彼是と口を出し、ネカ
ネやスタンとの仲を取り持とうともしたり、色々と彼の世話を焼くよ
うになった。
何度も彼に文句を言われ、何度もそれに怒鳴り返し。論破され、殴
り返し。嫌味を言われ、蹴り返し。
傍から見れば、決して﹁仲良し﹂には見られない光景だったが、そ
れは本人達なりのコミュニケーションだったのだろう。何となく、そ
の関係は楽しそうに見えて。
││そんなアーニャだからこそ、タクの事は何でも知っていると
思っていた。
ネカネよりも、スタンよりも。彼と一緒の時間を長く過ごしてきた
分、自分の方がより深く理解できていると自負していた。
305
情けない事も、臆病な事も、性格が悪い事も。運動が出来ない事も。
喋るのが苦手な事も、笑い方が気持ち悪い事も、こっそりと人の不
幸を喜んでいる事も。
現実の女の子を嫌っていて、パソコンの中の女の子に夢中な事も。
ゲームでは女の子の振りをしてオカマをしている事も。
表に出すのはもっぱら悪感情だけで、その他の明るい感情は心の奥
底に仕舞いこんで中々出してこない事も。
そして、偶に感謝の言葉を言ったと思えば、それに余計な贅肉が
くっ付いていて凄く分かり辛くて。それを見逃すと不機嫌になった
り。
本当、人間としては駄目駄目で。なのに、何処かあったかくて。
││││全部、全部。彼の沢山の悪い所と、ほんの少しのいい所を。
全て知り尽くしていると思っていた。
****************************
││ぼんやりと。思考に霧が掛かっていた。
﹁││は、ぁ﹂
曇天。
遠くに破壊音の鳴り響く、雪の降り積もる雪原の中。寒さに震える
声帯が、無意識に意味の無い音を漏す。
口元から吐き出される息が白くたなびき、空気中に溶けて、消え。
それと共により一層体温が下がっていく錯覚を受け、ひときわ大き
く体を震わせた。
﹁⋮⋮はっ、はっ⋮⋮﹂
身体の半身以上を冷たい雪の中に埋めたアーニャは、そんな大きく
震える体を引き摺って、周囲一帯に飛び散った肉片を集めていた。
赤黒く溶けた雪を掘り起こし、その下に隠された﹃部品﹄を持ち上
げて。器状に広げた、お気に入りのローブの中に放り込み。
霜焼けと凍傷で、まともに動かす事すら敵わない両腕を使い。服が
306
穢れていく事も気に留めずに。
それはナメクジの様に遅く。正確さの欠けた緩慢な動きで。
寒気に晒され、冷たく固まった筋肉を。
砕かれ潰されミンチ状になった肉と、黄ばんだ油の纏わり付いた骨
を。
折れた骨片が薄い皮膜を貫いて、どろりとした中身が零れ出る破裂
した内臓を。
何故集めるのか、それをどうしようというのか。目的も、意味も。
何一つ把握せず。
ただ衝動のまま、只管に。光の消えた目から感情の欠片を流しつ
つ、それらを腹に掻き抱き。頭を潰された虫の様に蠢き続ける。
││肺のような物を、拾った。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
にちゃり、くちゅり。
手を動かす度に湿った音が響き、指の間を何か白い糸が引いて。
本来ならば激しい不快感を感じるはずのその粘性の感覚すら、今の
彼女には感じる事が出来なかった。
否、むしろ。これが彼のものだと思えば、もっと触れていたいとさ
え思う。
⋮⋮ 壊 れ た の は、感 覚 か。そ れ と も 心 か。自 身 に 判 断 す る 術 は 無
く。
未だすぐ近くに居るはずの化物も、村が襲われている事も。何もか
もが、今の彼女にとって思考するに値しないものだった。
そして彼女の胸を穿つのは、途轍もなく大きな喪失感だけ。
自らの半身を失ったかのような、取り返しの付かない罪を犯した、
その痛み。
││腸のような物を、拾った。
﹁⋮⋮ぅ、くぅ⋮⋮﹂
そして、そのむせ返るほどの強い臭気に思わずえづき、必死に吐き
気を堪えて。
噛み締めた唇がプツリと切れ、暖かい血液が溢れ出す。
307
それは顎を伝って肉片に降り落ち、直ぐに混ざり合い、同化し。ど
こまでが自分の物で、どこまでが彼の物だったのか。判別が付かなく
なった。
⋮⋮わたしは、何をしていたのだろう。何がしたかったのだろう。
もう何度目かも分からない、その疑問。
幾ら考えても答えの出ないそれが、回らない思考の中で空転を続け
ていた。
つい先程まで抱いていたネカネへの憧憬は、彼と共に木っ端微塵に
砕かれていた。
ヒーローなど居なかった。憧れていた筈の姉は、決して超人ではな
かった。そんな当たり前の事に、全てが手遅れになった今になって気
付き、思い知らされ。
⋮⋮ならば一体、どうすれば良かったのだろう
彼と共に、あの小屋で隠れて居ればよかったのだろうか。何もしな
いのが正解だったのだろうか。
そうすれば、少なくとも彼が血の華になる事は無かったはずだ。
悔恨、憤り。そういった負の感情が心に瞬間的に湧き上がるが、直
ぐに罅から外に漏れて行く。
そして、そんな事を思っている間にも、身体は自動的に動き続けた
ままで。
││折れた脊髄を、拾った。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
殺されたいと、そう思い。
未だ近くに存在する筈の、タクを殺した黒い化物。憎むべきそれの
放つ剛拳で、自分も彼と同じように成りたい。
そう思って、周囲を観察しようとする。何故化物が未だ自分を生か
しているのか、無防備を晒す自分を殺さないのか。という事も、少し
ばかり気になったのもあった。
⋮⋮ し か し、ど う し た 物 だ ろ う。そ ろ そ ろ 限 界 を 迎 え て い た 身 体
が、新たな命令を受け付けてくれない。
首が回らず、身体も薄すぎる意思を反映してくれず。惰性のままに
308
?
蠢き続けるだけ。
心身の、不一致。
まるで、頭と身体が別々の生き物になった様だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
││そうして、彼女は。その方角に視線だけを回した。
││そうして、彼女は。新たに見つけた、雪に埋まる﹃部品﹄に、意
思の無いままその手を伸ばした。
特に何の意図も無く自然に行われたそれは、余りにも気安い物で。
特に何の意図も無く自動で行われたそれは、余りにも軽い物で。
憎悪も、悲しみも、願いも。何一つ感情を映さないその目が、少し
離れた場所に立つ人影を視界に納める。
憎悪も、悲しみも、願いも。何一つ感情を湛えないその指が、少し
深く埋まり込んでいるそれに、触れる。
そして彼女の眼球は、化物が居るはずの其処に立つ、蒼い剣を携え
それらを認識した瞬間世界がひび割れ、砕け散り。目には見えない
ガラス片となって、周囲一帯へと飛散した。
色の無い風が、音の無い衝撃が。見る事も触れる事も出来ないそれ
らを乗せ、髪の間をすり抜けて背後へと過ぎ去って行く。
﹁え⋮⋮﹂
雪が、空が、空気が、寒気が。
309
た彼の姿を捉え││││
そして彼女の腫れ上がった掌が、何の変哲も無い子供だった彼にあ
﹂
る筈の無い、中ほどで折れている長い角の欠片を掴み││││
﹁││え
﹁││││ぅあッ
!?
││││甲高い、音。
﹂
││││瞳孔が、音を立てて収縮する。
?
彼女が認識できるありとあらゆる全てが捲り上がり、裏返り。その
内部から現れる現実を新たに認識した。
周囲を彩っていた赤黒い血の痕跡が、掻き抱いていた肉片が。肌と
ローブを穢していた粘液と血液とが││全て、黒に染まる。
それは、既に先程まで求めていた彼の肉片ではなかった。
ローブの中に納まるそれは、何処までも黒く、暗く、冥く。おぞま
しくも醜悪な気配を放つそれは。
彼女の身体に張り付いた部分から凄まじいまでの悪意を伝えてく
﹂
る、その存在は。
﹁⋮⋮││
アーニャの罅だらけの心に、突発的な嫌悪感が湧き上がる。
間欠泉の様に、噴火の様に。
緩慢だった体が、何も感じなかった心が、何一つ考える事の出来な
かった思考が。悪意の拒絶という極めて原始的な防衛本能に従い、熱
を持ち、廻り。
抱えていたローブを振り払い、その中に入っていた﹃部品﹄を全て。
空中へと投げ出した。
││それは、黒い塊だった。
骨も、内臓も。全て。途方も無い嫌悪を湛えた漆黒となり。その存
やぁああああああっ
﹂
在の根本から、全て別の存在へと││黒い化物のそれへと変わってい
たのだ。
﹁││ゃ、やぁっ
!!
れた指を、雪に擦り付ける。
││気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い⋮⋮
凍傷を引き起こし、指が紅紫色に腫れ上がっている事も気にも留め
!
のを尻目に。彼女は必死の形相で自身の手を││黒い血と粘液に塗
そうして宙に放り投げたそれらが順に雪の上に落ち、埋まって行く
くこの汚らわしい物を手放したかった。
先程まで抱いていた執着は、既に微塵も無い。今はただ、一刻も早
思い至った瞬間、彼女は大きな悲鳴を上げた。
自分が今まで集めていた物が、唾棄すべき存在の物だった。それに
!
310
!!
ず、ただ只管に。爪の間にまで入り込んでいるそれを擦り落とそうと
﹂
して││││
﹁⋮⋮
ふわりと。黒が、溶けた。
べっとりと指先にへばり付いていた化物の血が、爪の間に入り込ん
でいた粘液が。まるで空中に溶けるようにして消えていく。
否、それだけではない。服に付いた物も、周囲の雪に染み込んでい
た物も。そして先程投げ捨てた臓器や骨も、全てが始めから無かった
かの様に消えていって。
⋮⋮その現実感の無い光景にしばし目を奪われていたアーニャは、
やがてゆっくりと顔を上げた。
大きく目を見開いたまま、先とは違った理由で思考を停止させたま
ま。
自分の認識が改められる前に、もう一つ。決してある筈の無い姿が
あった、その場所に。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
││彼女の目に、僅かながらの期待と希望が灯る。
それは逃避にも似た、感情の光。
自分が見た物に間違いが無かったら。
今まで集めていた﹃部品﹄が、彼の物ではないのならば。
﹂
殴られ、破裂した痕跡が全て消えてしまったのなら││それは、つ
まり。
﹁││││
﹁⋮⋮タ、ク⋮⋮
﹂
もあった筈なのに、金縛りのように身体が凍り付いて動かない。
駆け寄る事も、その名を叫ぶ事も。したい事、やるべき事は幾らで
││しかし、それ以上に。彼女は、目を奪われたのだ。
く。
罅だらけの心に温かいものが流れ込み、世界が急速に色付いてい
驚愕はあった、嬉しさもあった。
││そして、彼女は見つけた。
!!
?
311
!?
││彼女は、﹃タク﹄の事を何でも知っていると思っていた。
基本的にクズな事も。本当は優しいという事も。良い所も悪い所
も、全部。
それは幼い心が描く、独占欲にも似た優越感。彼が、自らの掌で包
み込める大きさだと勘違いした││しかし、確かに想いの伴ってい
た、強い思い込み。
││彼女は、知らなかった。
極寒の白の中を事も無げに佇む、怯え一つ無い無機質な彼の姿を。
夢幻なる気品に満ちた、身の丈の何倍もある蒼い長剣の姿を。
今までに見た事も無いような、どこまでも痛々しいその表情を。
知っていた彼の、知らなかったその姿に。
アーニャは強烈に惹き付けられて、気付けば目を離す事が出来なく
なっていたのだ。
*****************************
*
││││あの青と白の世界から、この妄想だらけの世界に帰ってき
た僕が感じたのは、途轍もなく大きな喪失感だった。
それは、上半身に大穴が開いたような。脳の真ん中を刳り貫かれた
ような。最早痛みをを感じる隙も無い致命傷。
穴から流れ出るのは、彼女と会えるチャンスを永遠に不意にした後
悔と、それを善しとした自分への憤り。
そんなドロリと濁った負の感情が、思考の中を流れていくけど││
僕自身は、何も感じる事が出来なかった。
脛まで埋まった雪の冷たさも、アーニャを追いかけた事による疲れ
も。化物に感じた恐怖や焦りも、今や全ては意識の外だ。
感情が虚脱した状態のまま、指一本動かす気力も湧いて来ない。
⋮⋮化物の末路と、近くにいる筈のアーニャの姿を探す気にもなれ
なかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
312
今となっては、あのまま化物に殴られて死ぬべきだったかな、と思
う。そうすれば、後腐れ無く生き恥を晒す必要も無かったんだから。
⋮⋮ け れ ど、そ れ だ け は ど う し て も 嫌 で。絶 対 に 死 に た く な い と
思ってしまった。
理由は簡単、将軍への嫉妬。ただそれだけだよ。
何で将軍が生きているのに、僕だけが死ななければならない。
向こう側で彼は梨深と七海とキャッキャウフフしてるというのに、
どうして僕だけむっさい筋肉お化けに殴り殺されなきゃいけないん
だ。不公平だろ、そんなの。
ここに意識が戻った瞬間。一秒未満の刹那の中でそう思って。気
付けば、ディソードを使用した後だった。
我ながら、何処までも現金で、ガキで、クズで、意地汚くて。救い
ようの無い駄目男だと自覚せざるを得ないね。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
僕がやったのは、諏訪と殺し合った時と同じ事。
肉体に受ける筈だった暴力を、傷を。第三者の認識を通して反転。
妄想攻撃として、結果だけをそのまま返してやったんだ。
⋮⋮代償として、かなりショッキングな光景をアーニャには見せて
しまったみたいだけれど、それは勘弁願うしかない。
あの時、化物の拳は既に軽く鼻先に触れていたんだ。あれ以外の方
法では僕は助かる事は無かったし、それに付随して彼女だって死んで
いた。
僕が野呂瀬との殺し合いで持っていた不死塵の能力は、既に世界に
吸収されて失っている。
正真正銘、連コ不可。他の奴らと同じ、残り一機しか僕は持ってい
ないんだよ。
そうして、僕が死んだ後で次に狙われるターゲットが誰か。そんな
の、考えなくたって分かるだろ。
⋮⋮ああ、そうか。そう考えれば、僕はちゃんと彼女を助ける事が
出来たんだね。
もしディソードを掴む事が無かったら、僕はあのまま死んで居て、
313
化物は生きているままだった筈で。
あの世界に行って将軍を自覚したからこそ、僕は再びギガロマニ
アックスとなってアーニャを助ける事が出来た。だから、彼の提案を
蹴った事には少しばかりは意味があったんだ。
⋮⋮妄想の世界に、そんな価値があるのか分からないけどね。
でも、まぁ。そう思えば、少しだけ気が楽になった気が││
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
││いや、ごめん嘘。やっぱだめだった。
何を考えても、何を思おうとしても。全然心に波風が立たない。
後悔の感情はある。憤りの感情もある。けれど、それが心と繋がら
ないんだ。
どこかの配線が千切れているのかな。意識が無色を保ったまま、何
物にも染まろうとしない。
心が、死んでしまったのだろうか。
こえてきた気がして。
殆ど無意識に、顔をそちらに向けた。
││アーニャだ。
僕が生死を賭してまで助けたかった彼女が、其処に居た。
﹁⋮⋮ぁ⋮⋮ぇ⋮⋮﹂
何故か少し離れた場所に居た彼女は、半ば雪に埋もれつつペタンと
女の子座りをしていて。唯でさえ大きな瞳をせいいっぱい大きく見
開いて、僕を凝視していたよ。
信じられない物を見るように、ありえないものを見るように。微か
に熱の宿った真紅の目で、寒さの所為か赤く腫れた手や耳も気にせ
ず、唯ひたすらに。
何時もの気の強い彼女なんて、何処にも居なかった。其処に居たの
は、ただ一人の。寒さと恐怖に震えているだけの女の子で。
314
⋮⋮もし、そうだったら楽でいいよね。そう思った。
﹂
││││⋮⋮タク⋮⋮
﹁⋮⋮
?
そうして、ただただぼーっと突っ立っていると、風に乗って声が聞
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アーニャの顔は、涙と鼻水の跡で酷い物だったよ。しかも寒気の所
為で所々凍りついて、正直見てられない状態になってた。
けれど、僕はそれを汚いと感じなかった。それどころか、僕のため
に泣いてくれたのかもと思って。少し、嬉さを感じた。
⋮⋮彼女がそんな有様になっているのも、人間の身体が破裂した妄
想を見た事で取り乱したからだって分かってるさ。
あの光景は完全にCERO Zを飛び越してたからね。僕がどう
こうじゃない、単純にグロ画像を見せられてパニックになっただけな
んだ。
││でも、彼女が逃げずにここに居てくれた。たったそれだけの事
が、胸に開いた大穴をほんの少し、埋めてくれて。埋まってしまって。
﹁⋮⋮⋮⋮、﹂
きっと、沢山泣いたんだろう。怖がったんだろう。誰か助けてと泣
き叫んで、恐怖に塗れた顔をしていたんだろう
そうして、ただ腰を抜かしていただけかもしれない。呆然としてい
ただけかもしれない。逃げそびれていただけかもしれない。
マイナスの理由は幾らでも考えられるけど、それでも僕は嬉しかっ
たんだ。アーニャが傍に居てくれた事に、戻ってきて、一人きりじゃ
なかった事に。
⋮⋮あの時僕の名を呼んでくれた彼女が、僕を見てくれている事
に。
││暖かい感情が、僕の心に色を齎してくれたんだ。
﹁⋮⋮違、う⋮⋮﹂
ぽつり、そう呟いて。空を見上げた。
見えるのは、天高くから舞い降りる大きな雪片。それは鈍色の空を
斑模様に染め上げて、何とも言えない風情を作り出し。
侘び寂びとか、僕は良く知らないけど。何となくそんな単語が脳内
を過ぎって││││
﹁││違う﹂
315
﹂
瞬間、僕の思考が、熱を帯びた。
﹁違う、違う、違う⋮⋮
左手で頭皮を掴み、がりがりと掻き毟る。
アーニャがこっちを見ている事なんて、頭の中から消えていた。
さっき抱いてしまった感情が。アーニャから貰った暖かな気持ち
が。胸の大穴に﹃火﹄となってくべられて。
そうして活性化した粘つく黒い感情が音を立てて流れ出し、僕を飲
み込んだ。
﹂
無色透明だった僕の心が、激しく泡立つ黒い粘液に犯され、塗りつ
ぶされ。
﹁何で、なんっでぇ⋮⋮
それは悔恨。
それは憤怒。
それは嫌悪。
それは自傷。
こんな、こんな筈じゃ、無かっ
猛り、荒れ狂うそれは最早痛みさえも伴って、身体の内側を蹂躙し、
ぼ、僕は、違くて
ける掌に伸ばされて、肌に血化粧を施した。
⋮⋮いい感じに締めてごまかそうとするなよ。僕が望んだのは、こ
んな結末じゃないだろ。
アーニャを助けた事に小さな満足感を抱いて、この世界をちょっと
だけ綺麗に思うとか、そんなんじゃないんだよ。
﹁あ、ぁぁ、ぁ、ぁ、ぁああ、あぁぁ、⋮⋮っぁ、ぁ、ぁ﹂
││なんて事をしてしまったんだ。僕は。
こんな事になるつもりなんて微塵も無かった。
316
!
!!
爪が頭皮を切り裂いたのか、赤い線が額から垂れ。頭を掻き毟り続
!
嬲り。
﹂
﹁││違うのに
たのに
!
そう叫んで、一筋。
!!
僕はただ、将軍の思い通りになることが嫌だっただけで、この世界
に居続けたいなんて思ってなかったんだ。
本当は、プライドも何もかも捨て去って、皆の所に帰りたかった。
梨深の所に、七海や三住くんの所に、どんな形でも良いから戻りた
かった。
誰が泣くとか、泣かないとか。そんなのも、どうだって良かったん
だ。良かった筈だったんだよ。
なのに、心のどこかでは﹁これで良かったんだ﹂なんてバカボンに
ぼくが⋮⋮っ
﹂
考えれば、かんっ、みん、みんなの、
考えてる僕も居て。それが気の狂いそうな程に腹立たしくて、辛く
て。
僕は
﹁か、帰れたかもしれないのに
とこ⋮⋮っ
!
!
それを、一時の感情とくだらないプライドでふいにして。こんな結
だから。
そうすれば、少なくとも帰れる機会はいくらでも継続してた筈なん
無かった。ただ僕がその不快感を我慢できればよかったんだ。
⋮⋮そもそも茨を断ち切る必要も、将軍とのリンクを亡くす必要も
も良かったと。今になって思うんだ。
現実に帰るためなら、どんなクズになっても。どんな化物になって
││確かに存在したはずの、最初で最後だったあのチャンス。
なかったんだ。
に不幸と障害と早死にしか訪れない外法だったとしても、それで構わ
でも、今となっては、現実に帰れるのならそれでも良かった。未来
たいとは思うさ。
確かに、彼と身体をシェアリングするなんて真似は絶対に御免被り
たように思えてならない。
将軍の脳を二つに増やしたりとか、二重人格とか、色々と手があっ
軍を殺さずに下の世界へ帰る方法が見つかったかもしれない。
もう少しよく考えれば、もう少し冷静になれば。もしかしたら、将
!
果になって。全部が手遅れになった後で、考えを翻して、今更嘆いて
いる。
317
!!
││ほら、やっぱり後悔しただろ
⋮⋮
﹂
分かってたんだよ、そんな事
て。相反する感情が鬩ぎ合い、荒れ狂い。
どうすれば正解だったんだ
何処のフラグを立てればよかった
何をすれば、トゥルーエンドに到達できたんだ
分からない、分からない。分からない、分からない⋮⋮ッ
⋮⋮く、ぐ、っ⋮⋮
掴んでいた事を忘れたまま。
﹁、っぐぅ
﹂
?
て。僕は混乱の衝動のまま、反射的に腕を振った。左手で、髪の毛を
頭の中がこんがらがって、強い後悔と憤りに押し潰されそうになっ
!
?
心の中に、この結果に満足している僕がいて。後悔している僕がい
さっきまで感じていた虚脱感なんて、最早見る影も無かった。
吐息と共に血の混じった唾液が飛んだよ。
どうやら知らない内に口内を噛み切ってたみたいだ。吐き出した
唇を引き攣らせて、愚かな自分を笑おうとするけど、上手く行かず。
﹁っく、くくっ。くふ、ひ、ひ、ひ⋮⋮ッ
?
?
?
││これから僕は、何をすればいいんだろう
れ落ちそうになる身体を必死の思いで支えてるんだ。
それは、寒さの為じゃない。負の感情に翻弄されて、ともすれば崩
震える身体を抱きしめた。
僕は荒い息をつきながら、ゆっくりと腕を下ろして。感情の猛りに
﹁⋮⋮っく、は⋮⋮ぁ﹂
増した気がする。鬱陶しい事この上ない。
⋮⋮さっきの引っかいた傷が広がったのか、額に垂れる血液が量を
禿げるかな、なんて。くだらない心配事が脳裏を過ぎったよ。
態だった頭の中がリセット。多少なりとも冷静さを取り戻せた。
そうして、その鋭い痛みに一瞬だけ視界が真っ白に染まり、飽和状
毛が引き抜かれた。
ブチブチ、と。激痛と一緒に小気味の良い音がして。無理矢理髪の
!!
まともに働かない頭で、そう思考したけれど⋮⋮当然、それに答え
?
318
!!
!
なんて出る筈も無い。
つい先程自分がやった事に後悔してる最中なのに、次に行う行動な
んて考えられる訳が無いだろう
しかし、その時の僕にはそんな簡単な事すら分からなくて。唯ひた
すらに思考を回し続けて。
何度後悔に押し潰されそうになる度、何度憤りに叩き潰されそうに
なる度。
僕は血を流す唇を強く噛み、噛み切って。その痛みでさっきみたい
に無理矢理思考を戻して、同じ事を考えようとして、また失敗する。
その繰り返し。
⋮⋮そして、ローブを掴んだ指。
繰り返していく度に緩んでいくその隙間から、零れ落ちた髪の毛が
一本。寒風に吹かれて雪の間をすり抜けていって││││。
﹄
││││丁度、その時だ。僕達の耳に、何かの羽ばたく音が聞こえ
てきたのは。
﹃││││﹄
﹃││││、││││
黒い化物。
恐竜のような、人間のような。よく分からない姿をしたそいつら
は、どうやら空中で僕達を見つけたらしく、一直線にこっちに向かっ
てくるみたいだ。
互いに何某かの言葉を掛け合いながら、楽しそうな雰囲気を滲ませ
ている。
││何をしに来たのかなんて、考えるまでも無い。
﹁⋮⋮ぁ、ぁ⋮⋮﹂
アーニャの悲鳴にも似た呻き声が聞こえ││ドスン、と。
怯える彼女の事なんて関係なく、奴らは僕達の直ぐ目の前に音を立
てて降り立った。その衝撃で砂埃ならぬ雪埃が吹き付けて、思わず目
を眇めたよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
319
?
黒い翼を震わせて、村のある方角から意気揚々と飛んできた、その
!
そうして立っていたのは、見上げるほどの巨体。
漆黒の肌に、鋭く尖った顎と角。筋骨隆々の上半身。素っ裸な筈な
のに下半身には性器が無くて、その代わりに尻尾が生えていた。
丸っきり、ゲームとかに出てくるモンスターそのままだ。
﹄
││││﹄
﹃││、││
から。
れる事は無く。
覚えておく価値も意味も、何一つ無いんだ
﹂
辞世の句とも断末魔とも呼べない意味の無いそれは、最後まで紡が
何故か、僕の意識に強く残ったその言葉。
││ずるり。
﹃まぁ、精々楽しませ││││﹄
││││││いい加減に、僕も限界を迎えた。
向いて││││
そうして、僕が見蕩れた真紅の瞳が、助けを求めるようにこちらを
い化物にトラウマを持ったのかな。よく、分からなかった。
余程話している内容が下種な物だったのか。それとも、ただ単に黒
振って拒絶の意思を見せていた。
禄でも無い事を喋ってたみたいで、恐怖に慄く表情で弱弱しく顔を
だ。
でも、どうやらアーニャは彼らの言葉をちゃんと聞いていたよう
﹁││ぅ、やぁぁ⋮⋮
?
!
でも、別に良いだろ
⋮⋮何て喋ってたかなんて、一々覚えていないよ。
ら僕達に嫌な色合いの視線を向けてきて。
まるでご馳走を前にしたピザの様に、彼らは愉快そうに談笑しなが
かべた。
そいつらは僕達子供を目の前にして、舌なめずりにも似た仕草を浮
﹃││││
?
││愉しそうにアーニャに向かって手を伸ばしていた化物の身体
320
!
﹄
が、音も無く、ズレた。
﹃││││、
﹂
﹁え││
彼は彼女を押し潰す事無く、黒い血煙となって吹き飛んだ。
││赤く脈動する茨が、鞭の様に撓り。それを細切れに裁断して。
﹃お││ぶ﹄
││││
そうしてバランスを崩した上半身が、アーニャの方角へ倒れこんで
半身から離れていく。
呆けた表情のまま、斜めに切られた上半身が、重力にしたがって下
本人には、何が起こったか分からなかったみたいだ。
?
僕の心が悪意に歪み、溶け落ちて。正しき行為への道筋を、間違っ
ぐるぐると、熱に浮かされた思考が回る。
﹁お前ら、が。来たから⋮⋮﹂
止めるべき理屈も、必要も。あるはずが無いんだ。
観的に見て正義の行いだったから。
だってそれは、一応正しい事だったから。こいつらを殺す事は、客
る事なんて出来やしない。
自分でも、最低な事をしてるって分かってたさ。でも、それを止め
れだけの理由。
そして、それをしても構わない奴らが出てきたから、そうした。そ
したかった。
行き場の無い感情を、誰かに押し付けたかった。暴力的な形で発散
⋮⋮それは、間違いなくただの八つ当たりだったよ。
﹁⋮⋮⋮⋮お前ら、が﹂
││怨嗟の声が、静かに響く。
立った足跡。それだけ。
後に残るのは、ゆっくりと空気に溶けていく下半身と、彼が降り
アーニャと、もう片方の化物の呆けた声が、響いて。
﹄
﹃ヌ⋮⋮
?
た思考で黒く穢していく。
321
?
⋮⋮そうだ、そうだよ。
本当なら、僕は今もぐだぐだ悩んでたままで居られた筈なんだ。
暖かいジメッとした部屋でネットをして、何時も通りネトゲをし
て。
本当の事なんて何も知らずに、ただ漠然と不安がってるだけで良
かったんだ。
なのに、お前らが村を襲ったから、アーニャを襲ったから。こんな
事になって。
スタンもネカネも居なくなって、僕が一人で何とかするしか無く
なって。
お前らが僕を殺そうとしたから、茨を掴んで将軍と会う羽目に陥っ
て。僕は世界の真実︵笑︶を知る事になって。
││お前らなんだよ。
僕 が 帰 れ な く な っ た の も。梨 深 達 と 永 遠 に 会 え な く な っ た の も。
あッッ
﹂
付く茨のガラス部分とが、赤く、強烈に脈動し。
右腕より射出された茨の一本が、地中深くに潜り込み││そして、
咲く。
地面の下でその数を増やした茨が、何十、何百と僕の背後の地面か
ら飛び出して。土塊を撒き散らし。
それは互いに絡みつき、拠り合わせ。やがて無数の棘の鱗を持つ巨
大な﹁巳﹂となって、僕を守るように滞空した。
││例えるならば、神話におけるヤマタノオロチの如く、ヒュドラ
322
全部。
全部、全部、全部、全部全部、全部全部全部全部⋮⋮
││││││││お前らの、所為だ⋮⋮ッ
!!
﹁│ │ │ │ ぁ、ぁ、ぁ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ
!!
噴き上がる怒りのままに、握り締めたディソードの意匠と柄に巻き
リアルブート。
!!
の如く。
意思を持った生物の様に、憎むべきそいつを、殺されるべきゴミを。
眼球の無い視線で睨み付け││
﹃⋮⋮あ、ぶぎゅ、ぐ﹄
瞬間、そいつは喰われていた。
餌に殺到する何匹もの巨大な﹁巳﹂に呑み込まれ。意味ある言葉、血
飛沫、何一つ残す事無く。
束ねられた茨の中で磨り潰されて、焼き尽くされて、千切られて。
空気に溶ける暇も無く、完全に消滅したんだ。
罪悪感なんて、そんな下らない物は欠片も無かった。それどころ
か、まだ足りないとさえ思って。
⋮⋮アーニャは、僕をどんな目で見たのかな。気にはなったけど、
はぁー⋮⋮っ
﹂
それを確かめる勇気は無かった。
﹁はーっ⋮⋮
﹂
!!
││││行け
ているような錯覚を受け、薄く、口角が釣りあがった。
感じたのは、後ろ向きな優越感。ディソード越しに彼に命令を下し
場所を指し示し。
その一念だけを持って、僕は右手の睡蓮を掲げ。指揮者の様にその
苦しみを与えてやりたい。
僕をこんな目に合わせた原因を作った奴に、僕と同じかそれ以上の
﹁っく⋮⋮ぅ⋮⋮ぅぅぅぁぁぁあああああああ
唇から血と涎を垂らしながら、搾り出すように大声を張り上げた。
沸騰し、泡立つ思考の中でそう考えて。
││あいつらは、まだまだあんなに居る。
これまでに殺してきた三匹なんか物ではない数の、それ。
だ。
遠目に映るのは、当然舞い散る大粒の雪の中を飛び回る化物達の姿
き動かされるままに空を見上げる。
そうして昂ぶる感情を抑えきれず、僕は呼吸を荒らげて。衝動に突
!!
そうして茨の巳は僕の命に従い、解けて。雪の舞い踊る空の下を
!
323
!
奔った。
その光景は遠目に見れば巨大な噴水に見えた事だろう。何度も枝
分かれを繰り返し、その度に細くなりながら。幾つもの閃光となって
村の方角に飛んでいく。
いや、村だけじゃない。少しでも何かの意識を感じた場所に、その
茨は雨の様に降り注ぐんだ。
森に、山に、湖に。それは望めば望んだだけ、何処までも伸びて。範
囲を広げていく。
﹂
││そして、チャネルを開いた。
﹁ぐッ│││││
││死にたくない。
││殺してやる。
││助けて。逃げるな。
│ │ 何 処 に 行 っ た。も う 一 匹 残 っ て る。腕 を や ら れ た。死 ね、死
ね、死ね。
││奴は何処に、死ね、嫌だよ助けて、守るから、何なんだこの女
は、死に掛けているはずなのに何故動ける、もう嫌だ俺は、増援がき
中々骨の
やがった、もう少し楽しんでもいいだろう、少し齧っても。
助けて死にたくない俺が殿を糞が何で生きてやがる茨
い喰っても死にはしねえだろ嬲って殺すほれもっと逃げろグギッ糞
いつの地下からドラム缶が嫌だ嫌だ石になりたくないちょっとぐら
が切れたあぐぁ杖が美味いな喰うのは久しぶりタバコが煙いおいあ
ぼーずワシはここで終わりのようじゃごめんなさい助けられない腱
逃げるんだよここからこのままでは計画が崩壊する俺が引きつける
ん足が石になっていく解呪もできやしねぇ何でそんなあなた逃げて
こで果てろ封印の瓶を魔力が足りねぇ死にたくないよぉ母さん父さ
死ねよ村から出て行け猿かあの女は子供達の所へは行かせる物かこ
こってる何もみえねぇぞ逃げるな少しここで待ってて直ぐ戻るから
ある老人だがしかし少し足りない首が飛んだ糞がやりやがる何が起
?
324
!!
がいい気になりやがって悪魔がいきなり死んだ私の最後の魔法だ消
動かない今の内に血が一
えろ消えろ36匹抜き狂ってやがるうお何だこりゃ助かったのか数
が減った補充せねば何で俺は死んだんだ
﹁
﹂
﹂
合う糸を遡っていった先に存在した、複数の核。
この場に蔓延る、幾つもの悪意を結ぶ収束点。蜘蛛の巣の様に絡み
││そして、最後に見つけたんだ。
気になって。
⋮⋮けれど、僕の気は晴れなくて。それどころか、ますます惨めな
いい気になってたそいつらを蹂躙し、陵辱し、苦しみを押し付ける。
い不愉快な悪意を間引くんだ。
村人を助ける為じゃない。ただ、目障りだったから。見るに耐えな
ある化物は、妄想で精神その物を磨り潰してやった。
ある化物は、股下から脳天まで貫いてやった。
ある化物は、腕を潰した上で胸を切り裂いてやった。
ある化物は、胴体を半分に割った。
ある化物は、単純に首を飛ばした。
の思念を見つけた傍から引き裂いて、消して行く。
そうになるけれど、僕はそれを必死に堪え。引っかかる悪意││化物
あのスクランブル交差点の時の様に、渦巻く黒い感情に押し潰され
﹁う、っぐ、くぅ⋮⋮
てる余裕なんて無かった。
何人か見た顔が過ぎった気がするけど、この時の僕はそれを判別し
人々の悲痛な叫びと、それを愉しむ畜生どもの笑い声。
拡散したディソートを通して流れ込んでくるのは、極限状態にある
光景、思念、悪意、混沌。
杯だ指一本死ね死ね死ね嫌だ死にたく無い││││
?
村より大分離れた場所に別々に存在したそれらは、人の形をしてい
た。人の姿をしていた。
角 も 爪 も、羽 す ら な く。き ち ん と 肌 色 を し た、そ こ ら 中 を 暴 れ ま
325
!
森の中に三つ、湖の畔に一つ、山中にある廃屋に一つ。合計五つ。
!!
わっている化物とは似ても似つかない正常な人型。
暗色のローブを被り手に杖を持ったその姿は正しく魔法使いと呼
ぶべき物で、彼らは次々と数を減らしていく化物に慌てふためいてい
る様だった。
﹂
そして、その足元には何やら光を放つ魔方陣のような物が幾つも
あって。
││││それが心底、癪に障った。
﹁││││死、っぃねよぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ
絶叫。
﹂
﹁ぉ ぉ お ぉ ぁ あ あ あ あ あ あ ぁ ぁ ぁ あ ぁ ぁ あ あ ぁ ぁ あ あ あ ッ │ │ │ │
真っ赤に染まった。
⋮⋮事実と何一つ符合しない言い掛かりが僕の脳を焼き、視界が
れているのか││││
白昼堂々と厨二病の格好をした気狂い達に、僕はこんな目に合わさ
あんな妄想の塊に、魔法なんてふざけた設定に奪われたのか。
か。
僕の未来は、僕の幸せは。あんな陳腐な光によって閉ざされたの
!!
涙とは違う熱が目の端から流れ落ちるのを気にも留めずに、思い切
りディソードを振り抜いた。
それは決して子供の貧弱な筋力では不可能な速度で閃き、唸り。音
速すらをも超え、蒼い帯を生み出して。
距離も、方角も、数も、雪も、木々も、森も。全てが消える。僕を
邪魔する現実は、その全てが妄想に伴い捻じ切られ、無かった事にな
るんだ。
そうして開けた視界の中、紅の炎の意匠が、蒼い睡蓮の光が。空間
その物を切り裂いて││││
│ │ │ │ 白 い 大 地 に 五 つ の 大 き な 裂 傷 が 刻 ま れ。そ の 場 に 飛 び
散った血液と臓腑が、両断され光を失った魔方陣を、赤く、汚した。
326
!
八つ当たりによる責任転嫁、それしか出来ない濁った思考の中で。
!!
﹂
*****************************
﹁⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮
パリン。と。
化け物の気配が次々と消えていくのを尻目に、役目を終えた茨がガ
ラスの割れた時のような甲高い音を立てて砕け散る。
村に向かった物も、森と湖に飛んでった物も。僕のディソードを残
して、全て元の形が分からない位に粉々に。
そうしてその一粒一粒が、曇天からうっすらと差し込む日差しと村
から上がる炎に妖しく煌き、風に吹き散らされて雪に混じって消えて
いくんだ。
⋮⋮幻想的、と言えなくも無い光景だったけど、将軍の欠片だと考
えると嫌悪感しか浮かばない。
吸い込んだら呼吸器官がえらい事になるかな。と一瞬だけ思った
っ ざ、ざ ぁ。ざ ま ぁ み ろ
ざ
けれど、まさかこの状態になってまでリアルブートは維持出来てない
ひ ひ っ
!
だろうと思い直す。
﹁ひ ⋮⋮ ひ っ、ひ っ
﹂
!!
た。
握り締めたディソードには伝わらなかった、人肉を切り裂く感触を
想像して笑おうとするけど、上手くいかないんだ。
人を切り殺した事に対して笑おうとか、我ながら屑だなぁと感じる
けど、どうせ野呂瀬や諏訪を殺した時点で僕は殺人犯なんだ。
それに何より今さっき殺した奴だって妄想なんだからね。構う事
なんて無い筈だろ
笑えよぉ
﹂
⋮⋮ そ う、自 分 に 思 い 聞 か せ て。碌 に 動 こ う と し な い 肺 を 膨 ら ま
ひ、ひ、わら、笑えよクソッ
!!
せ、横隔膜を震わせる。
﹁ひ、ひひっ
!!
327
!
それはどう見ても、息を引き攣らせた喘息患者にしか見えなかっ
まぁ、ざ、ざ⋮⋮
!
!!
?
けれど、駄目だった。
!
化物を撃退した爽快感なんて、微塵も沸かなかったんだ。
ディソードを振り回して、地団駄を踏んで。必死になって笑おうと
しても、やっぱり無理で。
それどころか、どれだけ頑張っても笑顔を浮かべることのできない
自分がとても惨めに思えて、表情が醜く歪んで行くんだ。笑顔とは、
まるで逆の方向にね。
唇から流れ出た血が混じったのか、それとも本当に目から血が流れ
ているのか。薄赤色の雫が、ぽたぽたと白い雪に桃色の点を付ける。
⋮⋮分かっている。分かっているんだ。
確かに化物達も、その原因だった魔法使いモドキ達も。倒されるに
相応しい惨状を引き起こした敵キャラさ。
村を壊しまくって、アーニャと僕を殺そうとして、その他にも酷い
事を色々やってたんだろう。殺したところで誰も文句なんて言いや
しない存在だ。
328
でも、それだけだ。もし彼らが襲ってさえこなければ、僕は将軍と
会う事も無かっただろう。けど、最終的に判断を下したのは僕。
向こうの世界へ││梨深の所に帰らない選択肢を選んで、﹁梨深の
泣く事をしたくない﹂とか変に格好をつけた事による自業自得。
﹂
││全部、僕が選んでやった事なんだよ。
﹁⋮⋮くそ、くそぉ⋮⋮
れたままで。
西條拓巳として存在することも許されず、ネギの設定を押し付けら
妄想に塗れた、妄想しか存在しないこの場所で、僕は、ずっと。
か。
僕はこれからあと数十年もこんな場所で過ごさなきゃいけないの
││心が、濁る。
ただ、酷い郷愁の念だけが、僕の心を覆っていたんだ。
うでも良かった。
脛から膝頭までの広範囲に鋭い冷たさが広がるけど、そんな事はど
もう喚く気力さえも無くなって。積もった雪の上に膝を付いた。
凄く情けなくて、馬鹿みたいだ。
!
僕の事を誰も知らない、知りようの無い世界で││││
﹁⋮⋮⋮⋮ひっ、くふ⋮⋮⋮⋮ああ││﹂
⋮⋮そう、だね。もう、それでも良いのかもしれない。
呟いて、ゆっくりと手元に視線を向ける。
僕の右手に納まっているディソードが、蒼く、淡い光を発していた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
考えてみれば、僕がこんなに苦しんでいるのは、僕が西條拓巳であ
り、ネギじゃなかったからなんだ。
僕でありたいという思いと、僕をネギにしようとする環境。
周囲の設定と﹃僕﹄が噛み合っていなかったが故、互いの間に不愉
快な摩擦を起こしていた。
⋮⋮なら、もう良いんじゃないかな。
元々僕は﹁何時か帰れるかもしれない﹂という可能性に縋ってここ
まで生きてきたんだよ。
だったら、将軍との繋がりを断ち、元の世界に帰る事も西條拓巳に
成る事も出来なくなった現在。僕が僕に執着する必要なんてあるの
だろうか。
残したくない物は、何一つ無いんだ。
これから先、苦しみしか得られないと分かってる道筋を、わざわざ
進む事なんて無いんじゃないのかな。
﹁⋮⋮ひ、ひひっ﹂
さっきとは違う、自然な笑い声を響かせながら。僕は蒼いままの
ディソードを両手で掴み直し、持ち上げて││その刃を首元に当て
た。
勿論、リアルブートはしないままだ。そんな事をしてしまえば物理
的に首が落っこちてしまうから。
⋮⋮本当は逆手に持って由緒正しきハラキリスタイルにしたかっ
たけど、刃と腕の長さ的な問題で諦める。
││そうさ、全ては僕だけが消えれば済む話だったんだ。
それは、肉体的な死という意味じゃない。言うなれば記憶の死、人
格の死。
329
西條拓巳が消えて、ネギだけになれば。混じり込んでる僕の意識だ
けを取り除けば、在るべきものが在るべき場所にピタリと嵌って、全
て上手く事が運ぶようになる。
梨深達に会えない事を嘆く必要も、寂しがる感情も。今受け取って
いる全てのストレスから僕は解放される。ネギとして違和感無く振
舞えるようになる筈だ。
僕だけの精神だけを消す事が出来るのかどうか不安が残るし、そん
な繊細な操作が素人ギガロマニアックスに可能なのかも分からない。
でも、それでもし失敗しても構わないんだ。どうせ廃人か無気力人
間になるだけだろうし、死ぬ訳じゃないからね。現状を認識できなく
なるなら、むしろ望む所とも言えるよ。
││これが成功すれば、以降の人生は異物たる﹃僕﹄ではなく、設
定通りの﹃ネギ﹄が主観になって進む事になる。それは、極めて正し
い道筋なんじゃないのかな。
330
⋮⋮少なくとも、ヒキオタの僕よりはね。自分が脇役レベルなのは
良く知っている事柄さ。
﹁⋮⋮そ、そうだよ。っそ、れに。今まで、散々、その設定で苦しい思
いをしてきたん、っだ⋮⋮。だった、だったら﹂
これから訪れる絶望も、面倒事も。全て﹃ネギ﹄に押し付けさせて
貰おうじゃないか。
︶なんて設定も絡んでいると来てる
村がこんなになって、化物たちが襲ってきて、住民の殆どが生死不
明。更に魔法とか英雄の息子︵
んだ。
﹁⋮⋮、⋮⋮は、﹂
るんだって事になっちゃうけど。
まぁ今更それを言っても、化物を殺しまくった恩知らずが何言って
さ。
良いかもしれないね。消えるきっかけを与えてくれて有難う。って
⋮⋮あぁ、その点に関しては、僕は化物たちに礼を言ってやっても
よ。
これから僕が相当面倒くさい事になって行く事は想像に難くない
?
ディソードを持つ手がカタカタと震える。
首筋に当てた蒼い刃が、振動する度に微細に肉を透過して、よく分
からない気持ち悪さが首筋に広がった。
⋮⋮恐怖は感じていない筈だから、これはただ単に寒さに震えてい
るだけだろう。
溢れる涙も、食いしばった唇も、合わない歯の根も全部そう。ただ
の生理的反応に過ぎない。
誰かの顔が浮かんだ事も、名を呼ばれた事も。全部気のせい。雪の
寒さが見せた幻だ。
││そして、乱れそうになる思考を一つに纏めて強く念じる。僕と
いう存在の消去を、ネギという存在の確立を。
⋮⋮あれ程嫌っていたネギを確立させるって言うのも皮肉な話だ
けれど、今の僕にとってはそれが最善。これから続く苦しみから開放
される、死以外の唯一の手段なんだ。
﹂
331
そう自分に強く言い聞かせて、固く目を瞑って。
そして、叫んだ。
﹁││││││││││││││││││っ
それは意味の無い言葉の羅列だった筈だ。
自分を殺し、ネギを産む。そんな強い想いを込めて。
うに、手首を勢い良く振った。
││││そうして、腕に力を込めて。胸に留まる何かを振り切るよ
ような言葉を発したのか把握できていなかったんだ。
⋮⋮少なくとも、このときの僕には自分がどういった意図で、どの
にも聞こえたかもしれないね。
もしかしたら、聞くものによっては歓喜の声にも、助けを求める声
何を言ったのか。なんて。そんなのは覚えていない。
間を揺らし続ける。
掠れた声で放たれたその絶叫は不快音となって空に轟き、周囲の空
獣の雄叫びのような、擬音のような、人には理解し得ない音。
!!
何時の日か考えたものとは大分違うけど、自殺という最低な行為を
する羽目になった事に嘲りの感情が心を過ぎり。しかし、それを深く
考える時間は無く。
先程人を殺した蒼い軌跡が、今度は僕の首に吸い込まれていくん
だ。
早く、速く、閃く。刃自体が意思を持ったかのように、鮮やかに、自
動的に。
﹂
僕を、西條拓巳をこの世界から消去すべく、ただ、真っ直ぐに突き
進み││││
﹁や、だぁ⋮⋮
││││どすん、と。
背中に勢いの付いた何かが圧し掛かり、中程まで首に埋まりこんで
﹂
いた刃が、止まった。
﹁ぁぐっ⋮⋮
揺れ、体が前方に吹き飛ばされそうになった。
何者かに組み付かれたみたいだ。もし地面に膝を付いていなけれ
ば倒れ込んでいたかもしれない。
そうして、突然の事に混乱していた僕の視界の端に、赤紫に腫れ上
がった手が映り込んで。
僕の物よりも一回り大きいそれらは両手首を握り締め、刃をこれ以
﹂
上動かないようにガッチリと固定していた。
﹁⋮⋮、⋮⋮だ⋮⋮っ
が流れる。
⋮⋮僕の背中、何かが押し付けられたその場所から、小さな呟き声
!
332
!!
背中を圧迫され、衝撃でうめき声が漏れる。見ていた景色が前後に
!?
それは嗅ぎ慣れた乳臭さと、ほんの少しの汗の匂いと一緒に、僕の
嗅覚と聴覚を刺激して。一人の少女の姿を思い起こさせて。
﹂
││その人物の名なんて、言うまでも無い。
﹁⋮⋮やだ、やだ⋮⋮
僕の手首を両腕で掴み、鼻先を肩甲骨に擦り付けていた彼女は、嘆
願するようにずっとそう呟き続けていた。
冷たい体を震わせて、涙と鼻水を押し付け僕のローブを汚しなが
ら、唯一途に、只管に。
近くで観察してみても、やっぱりいつもの気丈な彼女じゃなかっ
﹂
た。弱弱しい嗚咽を漏らしながら首を振り続ける彼女は、まるで僕み
たいに情けなく、無様で。
﹁⋮⋮ぇ、なん⋮⋮で。っ⋮⋮
﹁ゃだ、やだ⋮⋮やだ⋮⋮﹂
││ディソードが、見えて、る
ディソードが見えているって事は、つまりはそういう事なんだろう
だって、そうじゃないか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁やだ、やだやだや、だ⋮⋮や、やぁ⋮⋮﹂
切れて居なかったのかな。なんて思った。
そうして、そんな様子を眺めながら││││結局、僕は彼女を守り
け。振り返っている僕に視線を合わせてくれる事すらないから。
彼女は僕の声に反応する事無く、さっきと同じ反応を繰り返すだ
僕の言葉が伝わっていたのかは怪しい所だ。
⋮⋮まぁ、この様子を見る限りじゃ、もし口が回っていたとしても
が何一つ発せない。
らなかったみたいだ。驚きと疑問の感情だけが先行し、具体的な言葉
僕はそう言葉にしたつもりだったけど、咄嗟のことに口が上手く回
?
?
たって事じゃないか。
肉体的には無事だったとしても、だって、そんなの。
333
!!
何が﹁勘弁してもらおう﹂だよ。そもそも最初っから駄目駄目だっ
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ぃ、やぁ⋮⋮やだ、からぁ⋮⋮﹂
再び襲い掛かってきた無力感のまま、衝動的にぐいぐいと腕を引っ
張ってみるけど、ディソードはピクリともしない。
細い││と言っても僕よりは太いんだけど││彼女の腕の何処に
そんな力が秘められているのか、肘も手首も硬く固められていて貧弱
な僕の力じゃ一センチたりとも動かなかったんだ。
⋮⋮そして、尚もディソードを動かそうとするその行動に危機感を
大きくさせたのか、彼女は更に深く僕の体に縋り付いてきた。
ゾンビのように背中を這い上がり、攀じ登り。腕に手を絡みつかせ
て背後から抱きつくような姿勢になって、肩口にその頭部を置いて。
感じたのは、湿った髪の感触と、互いの体液で濡れた頬が擦れ合う
不快感。
涙と、血と、鼻水と、涎と。顔から流す事の出来る体液全てが交じ
り合って、ぬちりと粘性のある音を立てた。
││││居なくなっちゃ、やだ。
⋮⋮そんな、切実な声が。すぐ近くから鼓膜に染込み、脳みそを犯
していく。
﹁⋮⋮なんで、邪魔、するんだよ﹂
﹁やだ、やぁ、ぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何も、知らないくせに。分からない、くせに⋮⋮﹂
﹁お願い、やだ、居てよ、居て⋮⋮よぉ⋮⋮﹂
噛み合わない、整合性も無い、慮りも無い。ただお互いの思ってい
る事を投げ合っているだけの、会話とも呼べない言葉の応酬。
そんな無駄で力の無い言い合いをしているうちに、圧し掛かる彼女
と体を支えていた薄い腹筋が死に、バランスを崩してうつ伏せに倒れ
てしまった。
彼女の体が僕に覆い被さって、胸を圧迫。蛙が潰れたかの様な醜い
呻き声が漏れた。
⋮⋮背中にかかるその重さが、まるで何かを暗喩しているようで、
妙な気分になったよ。
334
おまけにその衝撃で持っていたディソードが手から離れて、背景に
溶けるようにして消えていく。
新しくディソードを引きずり出そうにも、僕の腕は未だガッチリ押
さえつけられたままで動かないし、振り解こうにも奇襲からの︿組み
付き﹀だし何よりSTRとSIZの値が足りてないからロール自体自
動失敗だし、何かもう、最悪だ。
言葉は、続く。
﹁君だって、その方がいい、だろ。僕なんかより、元気なネギの方が﹂
﹁やだ、やだ、やだ⋮⋮﹂
やだ、やぁっ
﹂
﹁⋮⋮だから、消えさせて、よ⋮⋮そんな、﹂
﹁││やだっ
てくる。
を勢いに任せて無理やり押し付け、そのまま致命的な部分に突き刺し
現状を正しく認識しないまま、自分の想いだけを伝えてきて。それ
﹁見てる、から⋮⋮ちゃんと、今度は、みんな知る、から﹂
蹴飛ばしてくれて。
Xデーの時も、思考に煮詰まった時もそう。手遅れになる前に僕を
に。正確にその人にとっての重要な何かを穿つんだ。
何も知らないはずなのに、根本的な事は何も察せていないはずなの
⋮⋮思えば、何時だって彼女はそうだった気がするよ。
﹁⋮⋮やだ、死んじゃ、やだ⋮⋮﹂
││呆然とした僕を他所に、続く。
けて。一瞬思考に空白が生まれた。生まれてしまった。
⋮⋮だというのに、その大声と一緒に大切な何かを貰った錯覚を受
泥の如くに嫌うそれ。
リア♀がよくやる、自分に都合の悪い発言を封じる汚い術。僕が汚
何の事は無い、ただのヒステリックな金切り声だ。
一際大きい声が鼓膜を揺らし、耳鳴りが僕を襲った。
!!
そうして何故か、その度に僕は何だかんだ色んな意味で酷い事にな
335
!
るんだ。
ベクトルが違うだけで、殆ど強盗殺人だよね。ああ、やだやだ。
﹁⋮⋮おねがい、だから。居て、そばに⋮⋮おねがい、おねがいだから
⋮⋮﹂
ほら、今回だってそうだ。僕を殺そうとしてきてる。
しかも何か耳に口を近づけて、何時ものぶち切れモードとは違う、
必死な感情を込めて囁く様にと来た。
卑怯だよそんなの。僕の心がこれ以上無いほどに壊れかけてる今、
そんな事をされたら。
何も理由が無いからこそ、僕が居る意味が無いからこそ僕は消えよ
うとしていたのに。こんな、こんなの││││
﹁だから、おねがいだから、ね、居なくならないでよ、ねぇ│││││
│││﹂
││││││││││││﹃タク﹄
全部受け入れて。深い諦観の念と共に地面で頬を押し潰す。
そうして背中にかかる重みも、擦り付けられる彼女の体液も、僕は
投げ出した。
活力全てが無くなって、今度こそ完全に全身が弛緩。五体をぶらりと
彼女を振り払う気力も、ディソードを追う気も。体を動かすための
⋮⋮力が、どっと抜け落ちた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
336
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁タク、やだ、やだぁ⋮⋮﹂
⋮⋮未だ耳のすぐ隣で聞こえるうわ言をBGMとして、僕はゆっく
りと目を瞑る。
と言っても、何かを考えるためじゃない。何も考えないためだ。
後悔するのも、悲しむのも、自己嫌悪するのも。もう、何もかもが
面倒臭くなったんだ。
勿論、まだ心には黒い淀みが澱となって沈殿してるし、消えたいっ
て衝動も無くなってない。
いきなり全てを諦められるほど、僕は人間が出来ないんだ。
⋮⋮でも、何と言うか、まぁ。
そういう複雑な事を考えるのは、後で良いかなと思って。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
きっと、そんな意味じゃ無かったんだろう。彼女はディソードの事
337
を知らないから、唯単純に自殺を止めたつもりなんだ。
だから、居なくならないでって言葉も、死なないでって意味なんだ。
僕が消えるとかネギが産まれるとか、そんなの考えもしなかったに違
いないよ。
だと言うのに、君は何でそんなに的確なんだ。当てずっぽうだとし
ても命中率が高すぎない
⋮⋮﹂
たくないと強く思う。
頭皮は痒くなるし、何か変に生暖かいし。正直、長く触れ合って居
さっきの頬のときと同じく不快としか表現しえない感触だったよ。
ぐじゅり、と。体液と雪で湿った髪が擦れ合い、絡み合う。それは
つ吐いて頭を右側に││肩口に在る彼女の頭部へと寄せた。
なんて本当に詰まらない野次を頭の中で飛ばしつつ、僕は溜息を一
でる癖に。
どうやら僕達のご同輩にはなりたくないようだ、もう片足踏み込ん
﹁やだ、やだ、やだ⋮⋮
﹂
﹁⋮⋮ひ、ひ。案外、ギ、ギガロマニアックスに、向いてるのかもね
?
!
││けれど、何故か心が凪いでしまって。
﹁⋮⋮君の、所為だからな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ゃ、ゃあ⋮⋮や⋮⋮﹂
﹁こ、これから僕が、っ感じる。嫌な事は、全部。君が引き止めた所為、
なんだ⋮⋮﹂
﹁やだ、や、っ⋮⋮﹂
やっぱり会話は成立しないけど、それで良かった。
寒さの所為か、心労の所為か。徐々に薄れていく意識の中で、僕は
彼女に恨み言を吐き出し続ける。
君の所為だと、君のおかげだと。憎しみとも感謝ともつかない中途
半端なそれを、今度はこっちが耳元で囁いてやるんだ。
﹁⋮⋮君が、望んだから。君が、ネギじゃ、無くて⋮⋮僕が良いって、
言う⋮⋮から﹂
﹁⋮⋮やだ、や、ぁ⋮⋮﹂
﹁だ⋮⋮から、仕方なく⋮⋮僕は、僕のまま⋮⋮﹂
段々と、僕達の声に力が無くなっていく。
いや、もしかしたら僕の耳が遠くなっただけかな。まぁ、どうでも
いい事だ。
││これはただの雑音。見苦しくも下らない言い掛かりに過ぎな
いのだから。
﹁││あ││から││って、⋮⋮││﹂
﹁││││だ、や││││⋮⋮﹂
そうして最後には何もかも分からなくなって、僕の意識は暗闇に落
ちていく。
それは不自然なほどに急速に、理不尽なほどに深く。僕を暗黒の世
界へと誘うんだ。
本来ならば何かしらの恐怖を感じるべき場面なのかもしれないけ
ど、それに抗うという発想すら浮かばなかった。
今日は色々な事があり過ぎた。背中の彼女の事も、凍死の危険性
も。その時の僕には瑣末な事に過ぎなくて。
ただ、只管に眠かった。面倒な考え事から一刻も早く逃れたかっ
338
た。
││││だって、明日もまた僕は僕のままで居なくちゃならないん
だ。やってられないよ、全く。
﹁││││﹂
そして、最後。完全に意識を飛ばす寸前、僕は何某かの言葉を呟い
た。
殆ど口の中で転がす様に、息遣いにしか聞こえない程の小ささで。
囁き、呟き。
それはあの時と同じ言葉、気づけば彼女に放っていた、
﹃彼女﹄に言
えなかった想いの塊だ。
篭っていた感情が同じかどうかは知らない、でも、その重さは同じ
くらいだったと思う。
僕はそれを、届かなければ良いなと願って││││そこで、僕は完
全に暗闇へと落ちた。
心臓が甘く痺れ、それが指先に広がって、背中の重みに圧されて全
身が地面に埋まっていく。そんな錯覚。
嫌悪感は沸かなかったよ。むしろ、まるで僕と言う存在がこの世界
に定着させられているかのようで、何となくいい気分になったんだ。
⋮⋮後に何が起こったのか、彼女は反応を返してくれたのか、覚醒
しかけた彼女の精神状態はどうなったのか。僕は何一つとして知り
得なかったけど。
それでも、何だか悪い事にはならないような気がした。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
頬に落ちた雪の欠片が肌の上で溶け、滑り落ちていく感触が強く印
象に残って。
僕の記憶は、そこでぷっつりと途切れた。
││││その時の僕の身体は。決して、笑顔は浮かべていなかった
筈だ││││。
339
終章 result
身体が欲しいと願い、それが叶えられた。ただ、それだけの話なの
だ。
││││記憶が、あった。
それは本当の自分とは違う、もう一人の自分。
決して知り得る事の無かった筈の、強固にして薄弱の意思。
夢のような、幻覚のような。不定形で不確かのそれは、自覚の無い
ままに強迫観念としてそれを蝕んでいった。
││││記憶が、あった。
それはもう一人の自分とは違う、本当の自分。
決して揺らぐ事の無かった筈の、固められた意思。
何時から存在したのかは分からない。けれど疑う余地も無いそれ
は、自らの指針であり行動原理でもあった。
⋮⋮本来ならば、相反し、反発し合い。互いを犯し合っていく筈の
二つの意思。
しかし、彼らは意外にも拒否反応を起こす事無く、自然に融合し受
け入れ合っていた。
﹁世界に救済を﹂
そのたった一つの目的を果たす為に存在する彼らは、ある意味では
これ以上無い程に似通った存在だったのだ。
侵食し合い、融合し合い。細かな差異はあれど、それは誤差の範囲
であり。直ぐに馴染んで消えて行く。
互いが互いの思考回路に良し悪し問わず影響を与え、汚染した。
壊れぬ筈の物を壊し、生きる筈の者を殺し、死ぬ筈の者を生かし、産
む筈の者を産まず。世界の結末を妄想により歪ませて行き⋮⋮そう
して、だからこそ彼らは致命的に失敗したのだ。
彼らが辿った道程は、枯れた茨のその向こう。
結果的に彼らはその目的を果たす事無く敗れ去り、どうしようもな
い巨悪として蓄積される事に相成った。
340
真意を明かしたものは皆消えさり、他人に新たに理解される事は無
く。彼ら自身もただ惨めに消滅した。
彼らは叫んだ。互いの人格に引きずられ、憎悪と妄想に取り付かれ
た彼らにはそれしか出来なかった。
成功したはずの逃走も、説得も。何一つ行う事が出来ないまま叫び
続けるしかできなかったのだ。
││またなのか。二度も自分は敗北するのか
途轍もなく大きな屈辱に貫かれながら、彼らは互いの敵の名を叫び
続けた。
発狂し、冷静さを取り繕う事も無く、血に塗れ瀕死の身体を引き
摺って。
それは喉が擦り切れ、命の灯火が消えるその瞬間まで止む事が無
かった。
││││その憎悪の絶叫は、その場に居合わせた人間達の記憶に断
末魔として強く刻まれて。後に救国の英雄と呼ばれた彼らの内、最も
力の強い存在が興味を抱いた。
そうして、それが呼び水となったのだ。
妄想の中で漂い続けるだけだった、それ。ただ世界の外で認識し続
けるだけだった彼が、強烈な憎悪と好奇心により引っ張られ、十数年
という長い年月をかけ、ゆっくりと手繰り寄せられ。
彼の敵となる筈だった彼らの居ない世界の中に、異分子として混ざ
り込み、生れ落ちた。
好奇心を抱いた者は、とある鶏頭の英雄。
憎悪を抱いた者は、とある陳腐なラスボス。
││││全てはとうの昔に決着し、終了し、世界設定として定着し
た前日譚である。
■ ■ ■
341
!!
││││ごくり。
誰かが息を呑む音が、部屋の中を木霊した。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そこにあるのは、頬と指の先にガーゼを当てた僕。
そして、全身を余す所無く包帯でグルグル巻きにされた人間の姿
だ。
││││沈黙が場を支配し、奇妙で微妙な空気が漂う密室空間。
僕達二人は、そんな緊迫してんだかしてないんだか良く分からん意
味不明な空間に放置されていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮何と言うか、まぁ。いろいろと酷いの一言に尽きる。空気や状
況もそうだけど、包帯人間が酷い。ほんと酷い。
彼女は頭の先から指の先まで、肌が露出している所なんて一箇所も
無い。肘も膝も、曲がる場所なんてないんじゃないかってくらいガッ
チガチに固められてる。
強いて覗いている所を上げるとするなら、今朝ようやく血色の回復
した唇くらいだろうか。いやそれを肌に含めていいのかは分からな
いけど。
そうして身体はベッドに括り付けられ、ギプスの嵌められた両腕と
両足が横に備え付けられた木製のスタンドから吊り下げられていて。
加えて点滴袋と、良く分からない魔方陣の刻まれた容器から伸びた
管が包帯の隙間に潜り込んで、中の薬品を体の中に送り込んでいるの
が分かった。
⋮⋮まるでギャグ漫画みたいなその光景。傍から見れば随分と不
気味で間抜けな姿だけど、幾らオタクで不幸大好き@ちゃんねらーの
僕でもまったく笑う気になれなかったよ。
まぁ当たり前だ。それが出来る程に心臓に毛が生えていたら、ある
程 度 は 当 事 者 と し て で も ニ ュ ー ジ ェ ネ を 楽 し め て い た は ず だ し ね。
モニタの向こう側と現実は違うって事だ。
342
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そして、僕はそんな彼女に対して銀製の道具を突きつけていた。
それは僕の手に馴染む細長い棒状。先っぽがくるりと丸められて
器状になっていて、内側には僕が抱えている木製の器と同じく何やら
どろりとした存在で満たされている。
液体とも固体とも付かないベージュ色の何かが、周りを覆う銀に反
射しぬらぬらと妖しい光を放つんだ。
そうして僕は何の忌避感も無く、罪悪感も無く。それをしっかりと
握り締め、彼女に向かって突き出していて││││││
⋮⋮まぁ、単なるスプーンと摩り下ろしリンゴなんだけど。描写っ
て大事ね。
ともかく、僕はそれを彼女の口元にゆっくりと近づけて行く。
﹁⋮⋮⋮⋮、⋮⋮⋮⋮﹂
343
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
互いに無言。
ここに運ばれて来た当初とは違い、水気と赤味の戻っている唇は、
僕の指先と同じくプルプルと小刻みに震えている。
何故、どんな感情で震えているのか。正確に察することは出来な
かったけど、部屋に漂う雰囲気から何となく僕と同じ感じだっていう
事は分かった。
多分、彼女も緊張しているんだ。
僕達二人がこんな事をするなんて、以前では考えられなかった事だ
から。
││きっと僕を知る人物がこの光景を見ていたなら、ニヤニヤ笑い
ながら囃し立てて来るに違いあるまい。
﹂
⋮⋮そんな事を考えている間に、スプーンの背が彼女の唇に触れ
ッ⋮⋮ぁぅぅぅ⋮⋮ッ
た。
﹁
!!
彼女はその冷たい感覚に驚いたらしく、びくりと全身を震わせて│
﹁ぁ⋮⋮と。ご、ごめ⋮⋮﹂
!
│体を襲う痛みに呻き声を上げたよ。
予め何か一声かけるべきだったかと罪悪感を抱いたけど、謝るとお
互い萎縮し切ってしまう気がして、口にしかけた謝罪が止まった。
もしそうなったら、僕達は何も出来ないままになるかもしれない。
少し焦りつつどうした物かと悩んでいると、痛みが引いたのか彼女
はフンスと︵多分鼻息︶包帯を揺らし、大きく口を開けた。くすみ一
つ無い白く綺麗な歯並びと、唾液に濡れた柔らかそうな舌が覗く。
⋮⋮ふむ。そこに入れろ、と。ふむ、ふむ。棒状のモノを。ふむ。
ど ろ っ と し た 液 体 の 滴 る イ チ モ ツ を。唾 液 の 溜 ま る 暖 か な 口 腔 に。
ふむふむ、ふむ。ふひ。
まぁ、ともかく。
﹁⋮⋮ぁ、あー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あー﹂
今度こそ妙な失敗を犯さないよう、細心の注意を持って再びスプー
ンを近づけていく。
片手に持っていた木の器を机に置き、静かに、ゆっくりと。中身を
こぼさない様に、銀の部分が余計な所に触れないように、慎重に慎重
を重ねて。
二人分。緊張に塗れた吐息が部屋の中に木霊した。
⋮⋮いやはや、何をそんなにビクついてるんだろうね。自分でも少
しおかしくなって。
そんな取りとめも無い事を考えて居る内に、スプーンの先端が彼女
の口に入り込み││││そっと、舌の上に摩りリンゴを乗せた。
﹁んっ⋮⋮﹂と。彼女は少し驚いた様だったけど、今度は身体を動かす
ほどに驚いた様子は無く。
口を閉じ、リンゴを味わうように僅かに顎を動かして居るのが分
かったよ。
⋮⋮そうして、どの位の時間が経っただろうか。
10秒か、20秒か。いや、もしかしたら分単位で過ぎていたかも
しれない。気分は漫画界最強のツンデレの批評を待つ板前の気分だ。
そんな意味の分からない重圧の中、僕はベッドの横に置いてある椅
344
子に座ったまま、身動ぎ一つ出来なかった。
││そうして、ごくりと彼女の細い喉が上下する。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しかし彼女は何の反応も反してくれる事は無く。沈黙が辺りを包
み込んだ。
⋮⋮心臓が、変な風に痛む。
何と言うか、重役相当の人の面接を受けているような胃と腸が爛れ
る種類の嫌な感じだ。そんなのした事ないけど。
そうしてそっと胃を押さえ。這い寄る緊張感を持て余していると
││││蚊の鳴くような声で彼女が何か呟いた様な気がした。
な、何││﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ぉ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮へ
場が動く兆候を逃す事無く、僕はつい反射的に彼女の声に返事を返
し。
この重苦しい雰囲気が変わるのならば何でもいいと、身を乗り出し
て唇に耳を寄せ││││
﹁││││おりんご、美味しいよぅ⋮⋮﹂
﹂
││││空気が死んだ音を、聞いた。
﹁は⋮⋮、っあ
し、ベッドの上部に設置されていたナースコールを引っ掴んで一年半
ともあれ、そんなブラクラを至近距離で目撃した僕は勿論の事混乱
な光景だよね、これ。
⋮⋮全身ミイラ女の顔が咲く。ちょっとしたグロ画像よりもアレ
うにして顔中をピンク色に染め上げていく。
を覆っている包帯を伝い、あちこちに伝染。目の部分から花が咲くよ
涙腺の刺激と一緒に傷が開いたのだろうか。それは瞬く間に彼女
染みが湧き出した。
そして、その直後、彼女の丁度目元の辺りからじんわりと薄紅色の
!?
345
?
のゲーム経験に任せて連打した。
おそらく、今頃ナース室は大変な事になっているのではなかろう
か。
﹁っちょ、おまっ。目、目が﹂
﹂
分かったから、お、おお落ち、
﹁うっ⋮⋮く、タク、タクミの、ひっく。食べさせてっ、く、れた、お
りんご⋮⋮っう、おいし⋮⋮っ
﹂
﹁ぁあああああ、わ、わかった⋮⋮
落ちつ、つっ⋮⋮
聞いた話では住民の殆どがこの病院のある町││ネカネ達が通っ
しまうんだ。
みたいだけど、数字で見るとどうしても﹁こんなものか﹂と見下して
確かに魔法とか似非ファンタジーがある分視覚的には派手だった
の数字は陳腐に過ぎた。
しつぶされて死んでいた大量の人間。それを目撃していた僕には、そ
倒壊したビルや、地割れを起こしたアスファルト。そしてそれに押
いたのかもしれないね。
サードメルト時の渋谷の惨状を体験していたから、感覚が麻痺して
いのか、僕にはよく分からなかったよ。
⋮⋮最初に聞いた時、この数字が騒動の規模に対して多いのか少な
それがあの事件で出た犠牲者の数らしい。
重軽傷者72名、内意識不明者24名、死者18名。
****************
重症だったネカネが目を覚ました日の昼の出来事である。
││││化物の襲撃から今日で六日目。ミイラ女││今回一番の
態になったのだった。
んでくるまで騒ぎ続け。何故か僕だけが怒られるという理不尽な事
そうして、僕とミイラ女は重篤患者用の個室に慌てた医者が飛び込
!
!!
ている学校のある、まぁまぁ都会的な町││に一時的に移り住んでる
346
!
と言う話だし。少なくとも壊滅的なダメージは負ったと予想できた
さ。
でも、それでも。僕は村と住人達が蹂躙された事に関して悲しみも
憤りも沸いてこなかった。
⋮⋮単純に、僕が村に対してあまり深い思い入れを抱いていなかっ
たからなのかもしれないけどね。
多分、死んだ村人の遺体やその遺族達を目の前にすれば何かが変
わったとは思うよ。彼らの悲しみや憎しみを目の当たりにすれば、少
しは実感も湧いたかもしれない。
しかし残念ながら、僕がこの病院で目を覚ましてから出歩いたの
は、同じく運び込まれていたアーニャと先述のネカネの病室くらい。
廊下ですれ違う奴らもみんなバタついていて、僕に構ってる暇なんて
無さそうだった。
基本病室に引きこもっている僕を訪ねてくる奴も今の所スタン以
外は居ないし、村人との接触は最低限に抑えられていたんだ。彼らの
想いなんて、届くはずも無い。
⋮⋮まぁ、うん。死亡者の欄にアーニャの両親や見知った老人達の
名前が無かった事に少なからず安堵はしてやった。僕としてはそれ
で十分だと思うんだけど、どうだろうか。
ナイトハルト﹁大丈夫だ、問題ない﹂
ですよね。疾風迅雷のナイトハルトが言うんだから間違いないで
すよね。
⋮⋮で、現状の話。
二度と元の世界に帰れない事に暴走し、勢いと八つ当たりで全てを
薙ぎ払い、気絶した後。
雪原で倒れていたアーニャと僕は、その数十分後に探しに来てくれ
たらしい村の奴らに保護されて、あの場所から数時間かかるこの町の
病院に送り込まれたそうだ。
僕は指先と耳先の凍傷、何時なったか分からない右目の毛細血管の
破裂と比較的軽症だったけど││アーニャと、遅れて運び込まれてき
たネカネはそうも行かなかったみたいだ。
347
元から村に居た僕よりも、たまたま帰ってきてた二人のほうが重傷
だったとか、嫌な皮肉だよ。
アーニャは僕のものよりもっと酷い凍傷と、極度の体温の低下。
発見された時には、身体全体をがくがく震わせていてかなりヤバ気
な状態だったらしい。
魔法的ご都合主義で何とかなったみたいだけど、一時期は指を切断
する選択肢も出てたって話だ。僕にはそういう性癖は無かったから、
何とかなって良かったよ。本当。
まぁそれだけなら軽症って事で済んだんだろうけど││││問題
だったのは、心の方。
黒い化物に追われて、殺されかけて、挙句の果てに僕が破裂した光
景を見てしまった彼女は、酷いトラウマを持ってしまったらしいん
だ。
⋮⋮そのため、現在は隔離病棟で療養中。高科先生に似た雰囲気を
348
持つ医者にお世話になっている。
ネカネの方はさっきの様子を見れば分かると思うけど、凄まじいの
一言に尽きる。
村の中心、化物達が蔓延っていた筈の場所で発見された彼女は、全
身の骨という骨は砕け筋という筋はぶち切られ。内臓は凄まじい負
荷を受けて内出血を起こして破裂する寸前の超瀕死状態。
あと少しでも発見が遅れていたら、死んでいてもおかしくなかった
そうだ。何したらこんな事になるんだ、マジで。
両眼も辛うじて視神経が繋がっているだけで、その他の管は軒並み
破裂し断裂状態。先程のやり取りも失明の危険があったらしく、その
辺りの事を激しく怒られたよ。僕の所為じゃないのに。⋮⋮無いよ
ね
⋮⋮正直、一ヶ月近く昏睡状態で居てもおかしくない傷だよね。
だ。
そうして六日目の朝││今日の朝、朝食の前に意識を取り戻したん
の全身ミイラ状態のまま五日間眠り続けた。
幸い、魔法使いと医者の頑張りで何とか一命を取りとめ、彼女はあ
?
何かもう﹃貧弱で病弱な姉﹄の姿がフェイクみたいに思えてきた。
そんな目に合っても大して心の傷を負っていない事がその疑惑に拍
車をかける。
もうワカンネ。
あ、いや。あの怪我だらけの有様を見る限り貧弱なのは間違ってな
いのか
⋮⋮え
﹁らしい﹂とか﹁そうな﹂とか、伝聞系の表現が多いって
んじゃないかな。
歩けるまで回復するとの事で、とりあえずは一安心と表現してもいい
まぁ、このまま魔法パワー全開での治療を続けていれば二ヶ月弱で
?
悶絶していた。
歩いていた僕は、曲がり角でばったり会ったスタンに拳骨を食らって
有難い説教をかましてくれたヤブ医者の愚痴を言いながら廊下を
!
さんは﹂
﹂
﹁ぐ、ぐぎぎぎ⋮⋮ぎ、ち⋮⋮ちが⋮⋮
⋮⋮
僕の所為じゃ⋮⋮ないのに
﹁││せっかくネカネが目ぇ覚ましたというに、何やっとんじゃお前
る、クソ爺ことスタンその人だよ。
││││目の前で呆れた表情を浮かべながら僕に拳を振り上げて
一人しかいないじゃないか。
誰にって、彼女以外で僕にそんなことしてくる奴なんて、そんなの
たかと思ったね。
けてきて、嫌がる僕を他所に耳元で大声で叫ばれたんだ。鼓膜が破れ
ベッドの上でどんより縮こまってた所にアーニャよろしく押しか
ない、無理やり聞かされた物だ。
ああそうだよ、今までの事は全て又聞き。それも僕が尋ねた訳じゃ
そんなの当たり前だろ、実際殆ど人から貰った情報なんだから。
?
ネカネの病室から追い出された後。
!!
349
?
どうやら騒ぎを聞きつけていたらしい。僕の顔を見るなり﹁またお
前かしゃーねーな﹂みたいな溜息を吐かれたのが最高にイラっと来た
ね。
﹁⋮⋮く、くそ。せっかく、人が歩み寄りを見せれば、これだよ。よ、
世の中クソだな﹂
﹁今までの態度が態度じゃからなぁ、ネカネにとっては夢のような話
じゃったろうて﹂
││ただでさえ、色々あって心が弱ってたじゃろうしの。感極まっ
てもおかしか無いじゃろ。
彼はそう言って、松葉杖を脇に挟み入院服の懐を弄り始める。多
分、タバコか酒を探した無意識の仕草だったのだろう。
途中でここが禁煙禁酒の徹底されている病院であり、そもそも入院
服にそんな物を仕込んでいなかった事に思い至ったのか、はたと気付
いた様な顔で手を戻したよ。
咄嗟に返事をする事が出来なかった。
彼の体罰に怯えた訳じゃない。そんなのは既に慣れっこだからね、
350
そしてその動きのまま、
﹁またそれかよしゃーねーな﹂みたいな呆れ
顔 で 溜 息 を 吐 い て い た 僕 の 頭 を 流 れ る 水 の 如 く 自 然 に 引 っ ぱ た き。
少し気まずげな様子で髭をいじくり始めた。
﹁確かにワシも見舞いに行ったれとは言ったが、流石に﹃あ∼ん﹄とは。
﹂
ネカネもぼーずも随分と積極的になったもんじゃ﹂
﹁⋮⋮おい⋮⋮お、おい⋮⋮
らした。
﹁⋮⋮ん
何じゃね﹂
を上げて│││﹁っ⋮⋮﹂││彼の顔を直視した瞬間、直ぐに目を逸
僕は痛みに滲んで来た涙を拭き、左目でスタンを睨み付けようと顔
言われるんだよ。
気まずいからって安易に暴力に走るなよ、こんなんだから老害って
今の一連の流れで僕が殴られる要素なんてあったか。
!
その姿を不審に思ったらしいスタンが声をかけてきたけれど、僕は
﹁⋮⋮、いや⋮⋮﹂
?
今更臆する必要も無い。
⋮⋮見ていられなかったのは、包帯の巻かれた彼の頭部。白の隙間
から覗く、無機質な石となったその容貌。
それは耳の先から額の中程、鼻筋を通るようにして唇のすぐ上まで
を侵食し、彼の顔の右半分を石仮面へと変貌させていた。
そうして、敵を││おそらく化物を││睨み付けた険しい表情のま
ま、時が止まったかのように固められているんだ。
││彼もまた、事件で大怪我を負った一人だという事だ。アーニャ
やネカネとはまた違う方向性で、ね。
何でも石化魔法とやらの所為らしい。顔の他にも右手の中指とか
右足の脛から先とかが石になっていて、ここが魔法使い専用の病院
じゃなきゃとてもじゃないけど出歩けない様相だ。
とりあえずは時間をかければ大体は治るって話だから、大して心配
はしていないんだけど││││包帯の隙間から僕を射抜く、敵を睨み
うだけど、特に何を言うでもなく。
今更ながら自分のやった事の恥ずかしさに赤面し始めた僕をから
かう事に意識を向けたようだった。
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、頭に肘を乗せて体重をかけな
がら寄りかかってくる。頭半分石化してるからクソ重いんですけど。
﹁ひ ょ っ ひ ょ っ ひ ょ、多 分 ネ カ ネ も 冗 談 の つ も り だ っ た ん じ ゃ ろ う
なぁ。お前さんが乗っかって引っ込みが付かなくなってしもうただ
けで﹂
351
付けた状態で固まっている灰色の眼光がまるで僕を責め立てている
ように感じて、どうしても気後れしてしまう。
⋮⋮スタンは何時も通りで変わらないから、僕の被害妄想なんだろ
うけど。
﹂
﹁⋮⋮べ、別に僕から言い出した訳じゃ、無い。ネ、ネカネの方から、
﹂
ああ、﹃あ∼ん﹄か、﹃あ∼ん﹄をか
言い出して来たんだ﹂
﹁⋮⋮
﹁れ、連呼すんなよぅ⋮⋮
?
何時もとは違う、突っかかって来ない態度に彼は違和感を覚えたよ
!
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁せめてもーちっと段階踏んどけばなぁ、少しは違ったと思うんじゃ
がのぅ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁まぁ、何じゃ。あれじゃよ、身の程は弁えとけっちゅーこっちゃな。
スタンは松葉杖をつっかえ棒に
コミュ症が付け上がるから碌な、﹂
僕は勢い良くしゃがみ込んだ
して転倒を防いだ
!
て砕けたらどーしてくれるんじゃ。ぷんぷん﹂
﹁⋮⋮く、くそ⋮⋮何だよ、僕が悪いのかよ⋮⋮
﹂
!
﹁お
⋮⋮何じゃ、もう終いか﹂
たら腹が立った。
目立った反応は返さず。何故か残念そうに僕を見送るその視線にや
⋮⋮少しは取り乱す事を期待したけど、彼は少し眉を上げるだけで
音が響く。
い様に陳腐な報復としてつま先を右脛に当て擦った。コツン、と軽い
僕は胸に湧き上がる苛立ちのまま、スタンの横を通り過ぎ、すれ違
啓示と思って、さっさと忘れる事にしよう。
しく排他的であるのが一番だ。今回の事は星来たんが与えたもうた
やはり自分のキャラに合わない事はするもんじゃないね、僕は僕ら
善意の行動だったはずなのに、何なんだよこの結果は。
がって⋮⋮
皆して説教しや
﹁お、とと⋮⋮身体のバランスが崩れてるんに、酷い事するのぅ。倒れ
!
⋮⋮
﹂
﹂
そうフラグを吐き捨てて早歩き、僕は振り返る事無く廊下の角を曲
がろうとして││││
﹁││││聞かんのか
線で僕を射抜いていて。
そうして首だけを傾げてスタンの方を見れば、何やら試すような視
ぴたり、と。背後から投げかけられたその言葉に、足を止めた。
?
352
!
﹁も、もう、付き合ってられるか。僕は、お見舞いに行かせてもらう
?
!
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮何を
なんて。聞き返す必要は無かった。だって、心当たり
は幾らでもあったから。
あの事件は何だったのか、何故あんな事が起こったのか。化物達は
何者だったのか、僕の殺した奴らは誰だったのか、そして││││あ
の日、スタンは何を言おうとしていたのか。
この約一週間、僕はその一切を誰にも尋ねていなかったんだ。スタ
ンが聞かせてくれなかったら、被害状況すら知らないままだったかも
しれないね。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮もしかしたら、彼は僕の事を怪しんでいるのかもしれない。
僕は、あの時自分がやった事を誰にも伝えていなかった。当たり前
だ。そんな事を言っても誰も信じてはくれないだろうし、信じたら信
じ た で 面 倒 な 方 向 へ 話 が 転 が っ て い く の は 目 に 見 え て る か ら ね。
態々地雷を踏みに行く趣味は無いよ。
唯一の目撃者であるアーニャも詳細は把握していないだろうし、今
はそんな事を伝えられる状態じゃない。錯乱が収まったとしても﹃幻
覚﹄の一言で片付けられてしまう可能性が高いだろう。
⋮⋮おや、期せずして二人だけの秘密が発生してしまったようだ。
ちっとも色気を感じないけど。
ともかく、そんな今の状況では、村人達には何が起こったかなんて
知る術は無く、まったく理解していないはずなんだ。
突然襲ってきた化物達が、同じく突然現れた茨によって消し去られ
た。リアルブートされたディソードは誰にでも視認できるようにな
るから、おそらく村人の中ではそんな認識になってるんじゃないか
な。
それに加えて、僕が殺した人間の死体。それが発見され事件の原因
だと分かれば、当然魔法使い達も││スタン達も必死になって調べざ
るを得ない筈だ。どんな些細な綻びも見逃さないくらいにね。
思い返してみれば、最後に別れた時の様子からしてスタンは僕の事
353
?
に何か気付いてた感があった。
その内容次第では、当事者にも拘らず事件に興味の薄い僕に何か疑
いの目を持っていても不思議じゃ無い。
﹂
﹂
⋮⋮まぁ、でも。正直、僕にとってそんなのはどうでも良いんだけ
ど。
﹂
で
﹁⋮⋮で
﹁⋮⋮
﹂
?
うもない程に事実でもあるんだ。
⋮⋮ ギ ガ ロ マ ニ ア ッ ク ス の 力 で 村 の 復 興
村 人 の ケ ア 僕 が
まぁ、ぶっちゃけ体の良い言い訳なんだけど、残念ながらどうしよ
は別に。今の僕に何も出来る事が無いという事も挙げられる。
それは村に思い入れがない事や、面倒事を避けたいという気持ちと
⋮⋮僕は、今回の出来事のあらましに興味を抱いていない。
も、何も。違わない﹂
んなの、今までと何も変わらない。僕が、僕として暮らしてくのに、何
ぶか、引き篭るか。そのどちらかしか無いじゃないか。っそ、そ。そ
﹁い、いやだから。僕みたいな、ガキに。で、出来る事なんて、泣き叫
﹁⋮⋮ん
スタンの残った左目、僕と同じ境遇のそれがぱちくりと瞬いた。
きょとん、と。
﹁││それ、聞いた所で。何か意味あんの
だって、そうだろ
?
?
?
んだ、だったらそれで最終イベントは終了だろう
つ。よ、余裕を持ってる場合にすればいい。んだ⋮⋮﹂
⋮⋮のは。そ、そうなんなきゃいけない奴が、その気になった時。且
﹁し、真実とか。秘密とか。謎、現実。そそんな、面倒な事を抱え込む
それはさておき。
⋮⋮ネカネとかに何か頼まれたらDLCに繋がるかもしれんけど。
本道。今更赤ミームを聞いて立てられるフラグは、もう何もない。
││今の僕の目の前にあるのは選択肢じゃなく、エピローグへの一
?
知るかよそんな事。少なくともあの黒い化物はどうにかしてやった
?
354
?
?
?
そう、それが一番いい。将軍との邂逅で、それを思い知ったよ。
あの時も、今回も。力が無かったにも関わらず知らないといけなく
て、知らなきゃ幸せだった事が多すぎた。
││そして、その全ては既に手遅れに行き着いて。だから僕は、こ
れ以上何も聞かない。聞きたくない。
このまま口を噤んでいれば、スタンがどう思おうともそれは疑い止
まりにしかならないんだ。何もしなければ何も起こらない。
僕が何とかしなきゃいけなかったニュージェネの時とは違い、進ん
で事件に関わっていく必要なんて今の所無いんだからね。
││君子危うきに近寄らず、キモオタ現実に近寄らず。僕らしくて
大変よろしい。
﹁⋮⋮むぅん﹂
そうして何やら腑に落ちない様な表情で目を細め、長い顎鬚に指を
埋めて、わしわしと引っかく。
355
何かを思い出すかのように、或いは何かを忘れようとするかのよう
に。彼の眉間には深い皺が刻まれ、眉が逆八の字に歪んだ。
﹁もうちっと、真っ直ぐに向き合えんものかのぅ﹂
⋮⋮そして、ぽつり。
﹃何かもう、ええわ﹄みたいな呆れた表情で僕を見つめ、おざなりに嘆
息。
ひらひらと手を振りながら松葉杖に体重をかけて体を倒し、妙なバ
ランス感覚でふらふらと身体を揺らし始めた。
その姿は不貞腐れた子供の様にだらしなく、彼の精神年齢が如何に
何も、無いの﹂
低いかが如実に分かる事だろう。
﹁⋮⋮そ、そっちは
⋮⋮何となく気恥ずかしくなった僕はそれに一つ鼻を鳴らし、今度
と似合わないウィンクをしたよ。
彼は何故か皮肉めいた笑みを浮かべながら、そう呟いて。ばっちん
じゃろなぁ。
││ぼーずが情けないままであるなら、当分思い出す意味も無い
﹁さて⋮⋮あった気もするが、忘れたの﹂
?
こそ振り向く事無く歩き出した。
勿論、挨拶なんてしないままだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あー、馬鹿らし馬鹿らし⋮⋮﹂
⋮⋮でもまぁ、あれだけ言われたまま一矢報いずに去るのも癪であ
る。
角を曲がった先、背後で未だぶちぶち言っているスタンが歩き去っ
ていく音を確認し││││僕は廊下の壁面に設置されていた非常電
話が変化した睡蓮の剣に軽く触れ、妄想した。
それに禁忌めいた縛りは存在しない。将軍との繋がりが絶たれた
以上、彼の事を気にする必要も最早存在しないないのだから。
﹂
そうして思い浮かべるのは、唯一つ││││。
﹁││││おっひょぉう
どんがらびったん。
﹃突然重心のバランスが崩れ﹄ずっこけて、床に﹃肉﹄を打ちつけたら
しい彼の悲鳴を聞きながら、僕はひっそりとほくそ笑んだ。
**********
アーニャの居る病棟は、僕の病室から少し離れた場所にある。
受付を通って、幾つかの廊下を通り過ぎ、幾つもの扉を通った先。
病院の中を何度もくねくねと曲がってようやく辿り着ける、簡単には
外に出られないような奥まった場所。
持ち込むものや面会できる時間も厳しく制限された││言っては
なんだけど、精神が不安定になっている患者を押し込める牢獄と言っ
たところだ。
聞いた話では、怪我の治療をする医師や魔法使いは勿論の事、白魔
法使い的な人や精神科医、カウンセラー等多くの専門医が詰めてお
り、かなり充実した施設らしい。
⋮⋮隔離病棟。精神科医。カウンセラー。
いや、うん。何かもう、まぁ、あれだ。ギガロマ的に凄まじく不吉
356
!?
な語群ではあるよね。
というか、魔法使い︵︶が絡んでいる時点で野呂瀬達のあれやこれ
やよりも胡散臭さでは上では無かろうか。いや、あれはまた別のおぞ
ましい何かか
ともあれ、怪我と錯乱というデュアルショック状態のアーニャは、
その一番景色の良い病室で眠っているんだ。
瞼の裏という﹃黒﹄の見える事の無いように、カーテンを大きく開
け日差しをその小さな身に浴びながら。
部屋を漂う埃が日の光を反射したのか、キラキラとしたエフェクト
もかかっているその姿はまるでどこぞの御伽噺に出てくる眠り姫の
ようだった。
⋮⋮ただし、安眠できてない方の奴。
やはり、あの時の光景は彼女の心に大きな傷を付けていたらしい。
閉じられた目の下には薄いながらも隈が出来ていて、ハの字に顰めら
れた眉は眉間に皺を形作り。苦悶の一歩手前の表情で魘されていた。
﹁⋮⋮じゃあ、静かにね﹂
﹁⋮⋮ど、うも﹂
左目しか使えず、少しバランス感覚を崩している僕をここまで案内
してくれた看護士に一言告げ、後ろ手にドアを閉める。勿論、音を立
てないようにゆっくりと。
そうしてきちんと閉まったのを確認した後、僕は足音を立てないよ
うにしてそっとアーニャに近寄っていく。
⋮⋮普通はこんなにもデリケートな環境に三歳児を、しかも一人っ
きりで放り込むなんて馬鹿な真似はしないんだろうけど、そこはそ
れ。ギガロ☆マジカルで一発である。
こんな便利な力が使えなくなってしまった将軍はさぞかし不便な
思いをするはずだろう。そう思わなきゃやってらんね。
少々うんざりとした気分になりながら、ベッド横の椅子を引いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ぅ⋮⋮あ⋮⋮﹂
なるべく音を立てないように気を付けたつもりだったけど、アー
357
?
ニャは人の気配を察知したみたいだ。
怯えるように、求めるように。掠れた声を漏らしながら、弱弱しく
首を動かして身動ぎをする。
起きてしまうかと一瞬体が固まったけど、どうやら僅かに寝返りを
打っただけだったようで、ほっと一安心。
何か碌でもない夢を見ているのか、閉ざされた瞼の裏で眼球がピク
ピクと痙攣しているのが分かったよ。
﹁⋮⋮アーニャ﹂
僕はそんな彼女の姿に痛々しい気持ちを感じながら││││そっ
と、頬に手を伸ばした。
起こさないよう慎重に、皹だらけのガラスに触れるが如き繊細さを
もって。僕の掌が子供特有の柔らかな肌を包み込む。
指先が目の横に触れた瞬間、彼女は一瞬だけ大きく身動ぎをしたけ
れど⋮⋮やはりその目が開く事は無く。
悪夢に魘されたまま、不規則な寝息を立て続けていた。
││あの時の経験から、彼女は﹃黒い物﹄に対する強い恐怖を覚え
ている。
化物の黒。血の色の黒。
黒色を見る度にそれらを思い出し、錯乱。夜の帳にも怯えて碌に眠
れなくなってしまったそうだ。
そうして遂には今みたいな明るい内に眠るようになって、昼夜が逆
転。しかしそれでも完全に眠る事は出来ないみたいで、数時間毎の覚
醒と睡眠を繰り返している。
そのため、僕は未だ覚醒状態のアーニャには会えていない。
会いに行っても今みたいに面会できる時間中は寝てるし、何より彼
女付きの精神科医が対面するのはもう少し待ってあげて欲しいって
言うんだ。
せめて錯乱の兆候が無くなってから。心に巣食う恐怖心がある程
度薄れてからにしたほうが、彼女の精神に負荷を与えないで済むとの
お達しだった。
一応、眠っている最中。短時間ならお見舞いに来ても良いとの事
358
で、僕は眠っている彼女の顔を眺めに来るのが日課となっていたん
だ。
⋮⋮まるで質の悪いストーカーだ。そう考えて自嘲する。
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
そうして僕は彼女に謝罪の言葉をかけようとして、失敗。中途半端
に口を開いたまま、何も言えずに口腔を閉じる。
⋮⋮分からないんだ、彼女に何を言うべきなのか。
残 酷 な 光 景 を 見 せ て ト ラ ウ マ を 負 わ せ て し ま っ た 罪 悪 感 は あ る。
今だって自責の念は溢れ出てるし、申し訳ない気分でいっぱいさ。
けれど、それとは逆に僕は彼女を責めているんだ。お前が余計な事
を言わなければ、僕は今頃消えられていたのに、って。
││傷つけてしまったという確固たる罪と、楽になれる道を奪った
という身勝手なエゴ。相反する二つの感情が、謝罪という正しき行為
を邪魔していた。
﹁⋮⋮⋮⋮は﹂
﹁ぁ、ぁ⋮⋮﹂
彼女を見つめたまま、僅かに吐息を漏らす。
それは溜息とも言えない様な、僅かな呼気。
こんな子供一人にすら満足に気持ちを伝えられない自分の情けな
さにうんざりとした。
⋮⋮いや、それだけじゃない。彼女を助けられる力を持っているの
に、それを行使しようとしない臆病さ加減にもだ。
そう、僕にはアーニャを今すぐにでも回復させる手段がある。
妄想の力、心と現実を捻じ曲げるギガロマニアックスとしての力。
将軍が七海にやったように、その力を使って辛い記憶を消してしま
えばそれだけで彼女は救われるんだ。
村が襲われた記憶も、僕が吹き飛んだ記憶も。何もかもを無かった
事にすれば、また以前のような気丈な彼女が戻ってきてくれる。
こんな所に隔離される必要も無くなって、全部が全部元通りになる
んだ。
⋮⋮なのに、僕はそれを絶対にしたくないと思っている。
359
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思い出されるのは、僕が意識を失う寸前。
ぐちゃぐちゃに乱れきった思考の中で、アーニャが僕にかけてくれ
た言葉にも満たない短い単語。
││││﹃タク﹄
⋮⋮何の事は無い、何時も呼ばれている僕の名前だ。
記憶を消したとしても、きっと同じく呼んでくれる筈の、それ。
たった二文字の言葉を放ってくれたという事実を、忘れて欲しくな
かった。
勿論、状況が状況だったしアーニャがその事を覚えてくれているか
は疑わしいよ。
でも、例えそうだったとしても。もし本当に記憶を消してしまった
ら、無かった事になってしまうんじゃないのか。彼女だけじゃなく
て、僕も﹃以前の僕﹄に戻ってしまうんじゃないのか。
それを考えると、どうしてもその気に成れなくて。それどころか忌
避感すらも沸いてしまうんだ。
││││アーニャの為じゃない、このキモオタは自分自身のためと
いう最低な理由で彼女の治療を拒んでいるんだよ。情けなさ過ぎて
涙が出てくる。
﹁⋮⋮周囲共通認識は、二人以上の人間が揃って初めて出来る事柄な
んだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だからあの時の事を覚えている君が居なければ、僕は僕で居られな
い。きっと、駄目になって消えてしまう﹂
﹁ん⋮⋮⋮⋮﹂
そうして感じている負の感情をごまかすように、小さな声で話しか
ける。
それはまるで、浮気のばれた恋人に言い訳をする駄目男。或いは非
のある自分を正当化しようとしてる駄目人間
まぁ、実際はそんな色気のある関係ではないんだけれど、概ねは間
違っていない筈だ。
360
﹁⋮⋮あの時、君は言っていたよね。僕の事を見てるって。僕の事を
知ってくれるって﹂
﹁⋮⋮ぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮だったら、頼むよ。お願いだから⋮⋮﹂
彼女は僕の言葉に何も言わない。先程までと変わらず、ただ魘され
ているだけだ。
頬に当てた掌からは、柔らかい感触と一緒に高めの体温が送られて
きて、それが何らかの意思を伝えて来るようにも感じられて││││
﹂
││││僕は目を閉じて、彼女と心=妄想をシンクロさせる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ぅ⋮⋮⋮⋮
流れ込んでくるのは、僕やネカネが破裂して化け物に食われている
イメージ。
いや、僕らだけじゃない。スタンをはじめとした村人達や両親。彼
女の知っている全ての人々が、黒の化物に惨たらしく殺害されていく
んだ
身 体 が 醜 く 撓 み、臓 器 が 吹 き 飛 び。一 面 の 雪 景 色 を 醜 く 汚 し て。
アーニャの視界を粘ついた血液の色││つまりは、赤の混じった黒へ
と染め上げて行き。
そうして徐々に世界が真っ黒に染まっていって、最後にはアーニャ
は一人孤独に発狂し、絶叫する。そんな夢だ。
││││それはあまりにも醜悪で、残酷で、陰惨な悪夢。
﹁っ⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮改めて僕が仕出かしてしまった事に大きな罪悪感を抱くけれ
ど、唇を噛み締めて堪え。妄想を叩きつけてその光景を改変する。
アーニャを苛む悪夢そのものを削除し、新たな夢を構築。黒に犯さ
れる彼女の世界を浄化し、青と白の世界を││将軍と梨深の思い出の
場所を創造するんだ。
そうして彼女の傍に僕やネカネ、ついでにスタンの姿を寄り添わ
せ、悪夢とは真逆の穏やかな世界を描き出し。彼女の心に重ねて。
﹁⋮⋮ぁ⋮⋮﹂
361
?
すると、彼女から安堵の溜息の様な物が聞こえた気がした。
左目を開けて確認してみると、先程までの魘されていた表情が嘘の
ように消え、安らかな寝息を立てていたよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮それはただの気休めかもしれない、根本的な解決策とは程遠い
一時凌ぎに過ぎないのかもしれない。
今日のアーニャにこうした所で、どうせ明日の彼女はまた同じよう
に苦しむ事になる。今見た夢を忘れ、新しい悪夢に犯されるんだ。
場当たり手法、いたちごっこ、ミストさん。言い方は色々あるけど、
根本的解決には程遠いって事は共通してる。
⋮⋮けれど、今の僕にはそれしか出来ない。
もっと良い方法があるのは知っている。取れる手段があるのも分
かってる。
でも、それでも、僕は。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
僕は深い眠りに落ちたらしいアーニャの頬から手を離し、パイプ椅
子の背もたれに体重をかける。
そうして首だけを回し、病院の窓の外││憎らしいほどに晴れ渡る
青い空と、その下に広がる鬱陶しい町並みを眺めた。
見えるのは、街中を歩く人々の姿。一人一人が考え、決断し、行動
している光景だ。
﹁⋮⋮⋮⋮ひ﹂
それを見ているうちに無意識に口の端が歪み、お馴染みのキモい吐
息が漏れ出る。
⋮⋮将軍は、この世界を妄想によって作られた心象世界だと言っ
た。
木々も、人も、歴史も、何もかも。見聞きでき、感じられる全てが
妄想の産物だと。そう言った。
ギガロマニアックスに精通している君が言うんだ、きっと、それは
正しい事実なんだろう。
どうしようも出来ない程に、どうにも成らない程に、ね。
362
││││けれども、まぁ。
﹁⋮⋮ふぅ⋮⋮﹂
僕は溜息を一つ付き、窓の外から目を逸らし、視線を天井に上げる。
そうして思い出すのは、僕の心の奥底に巣食う彼らの事だ。
││おりんご、美味しいよぅ⋮⋮。
│ │ ま ぁ、何 じ ゃ。あ れ じ ゃ よ、身 の 程 は 弁 え と け っ ち ゅ ー こ っ
ちゃな。コミュ症が付け上がるから碌な││。
思い思いに行動し、僕を焦らせ、僕を苛立たせる彼ら。
ノアⅡがどんな妄想と情報を捏ね合わせたのかは分からないけど、
本物の人間と同じ位に面倒臭くて僕を振り回している事に変わりな
いじゃないか。
この世界だってそう。毎日毎日クッソ寒いし、願った所で突然暖か
くも成らないし、村人は冷たいし、僕が僕として振舞う事さえ許され
ていなかった。
││そして、目の前の女の子の記憶一つすら好き勝手に弄れていな
い。
幾ら妄想から造られた心象世界だと言っても、これじゃあ煩わしい
現実と余り変わらないじゃないか。妄想なら妄想らしく、もう少し融
通を利かせてくれたって良いんじゃないのか。
﹁⋮⋮く、クソゲー過ぎるでしょう、マジで⋮⋮﹂
⋮⋮まぁ、実際帰れなくなってここで暮らしていく事になった以
上、僕にとってはここが現実とならざるを得ない訳だけど。
将軍との繋がりを絶ち、生きる事を選んだ僕にとって、この世界は
もう元の場所に戻る為の繋ぎじゃなく無くなっているんだ。
故郷の村を失い、みんなは怪我だらけで、幼馴染は僕自身が傷つけ
て。面倒そうなフラグが乱立中。
そんなリセット必須のイベントだらけにも拘らず、逃げ出す事も許
されていない現実世界となっていて。
⋮⋮これから。こんなボロボロの現実で暮らしていかなきゃなら
ないと思うと、僕は心底死にたくなったよ。選択を撤回して、マジで、
本当に、クイックロードしたい。
363
﹁⋮⋮ぁー﹂
納得したくない﹃現実﹄を認識し直した事による絶望感と共に、天
井に向けていた視線をアーニャに戻し、彼女の顔の横に倒れ込む。
本当はベッドの端に額を乗せる程度の筈だったんだけど、片目の視
力が極端に落ちてる所為で目算が狂ったのか、思っていたよりも彼女
の近くに飛び込んでしまい、一瞬ヒヤリとしたよ。
しかし先程のシンクロの影響かアーニャは穏やかに眠ったままで、
起きる様子は欠片も無く。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
彼女の顔が近くにあると言うこの状況に、あの時の様子を幻視し、
再び口の端が歪み。同じようにゆっくりと目を瞑った。
⋮⋮今ならば、謝れるかな。そんな事を思って。
僕は感情に任せたまま再び口を開き││││そして、やはり言葉が
出てこない事に落ち込んだのだった。
││││そうして。
窓から差し込む日の光が僕の瞼の裏側を焼き、暖か過ぎない冬の陽
光が僕達二人を呑み込んで。
僕は燻った心を持て余し、アーニャは久しぶりの安眠を貪り続け
る。
⋮⋮こんな何処までも噛み合わない僕達は、何時までこの関係で居
ら れ る の だ ろ う。そ ん な 事 を 考 え か け て、直 ぐ に 止 め る。今 考 え る
と、多分ドツボに嵌るだろうから。
時間は幾らでもあるんだ。だったら、面倒な考え事は明日以降に回
せばいい。明日にもその気にならなかったら、また明後日。それが駄
目ならまた次の日に。
蟠りも、謎も、憤りも、後悔も、懺悔も、全部誰かに押し付けて、先
の未来に持ち越して。キモオタはキモオタらしく、後ろ向きに生きて
行くんだ。余計な事を考えず、今はただ彼女に対する罪悪感だけを抱
いてればそれでいい。
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ﹂
溜息を付いて目を開き、顔を上げて眠る彼女の横顔を眺め。
364
そうして安らかな寝顔を見ているうちに、僕は予感した。
それは確信。
それは真実。
僕はこれから先もずっと。こうやって情けなさ極まる逃避を続け
るのである││││││││。
365
エピローグ ある少年の休日
︻将軍︵人物︶︼
││││││││││││││││
将軍︵しょうぐん︶は、日本のフィギュア原型師。年齢、性別、出
身地共に非公開。
﹃ブラッドチューン The ANIMATION﹄の第一話放送直
後、星来オルジェルの1/8スケールフィギュアを製作元である5p
bに送付。
そのオリジナルとは思えない程の圧倒的な完成度の高さに製作ス
タッフが痛く感動し、公式ブログ内にて紹介された事から広く認知さ
れるようになる[1]。
アニメのワンシーンを基にした、しかし実際には描かれていない構
図や表情を造り出す事に定評があり、まるでファンの妄想を形にした
かの様な出来からアニメスタッフの間からは﹃妄想将軍﹄
﹃分かってる
将軍﹄の愛称で親しまれていた[2]。
先述の経緯からか後に正式にフィギュア原型師として採用され、星
来オルジェル、エリンフレイ・オルジェル、セドナ三名のフィギュア
が将軍名義で発売されている。
極端に露出が少なく、将軍というペンネームと熱狂的なブラッド
チューンのファンという情報以外は一切不明であり、5pb側も情報
を公開していないため謎の多い人物である[3]。
︻代表作︼
││││││││││││││││
・星来オルジェル︵Nitroplus限定通販︶
・星来オルジェル.覚醒後ver.アナザー︵Nitroplus
限定通販︶
・エリンフレイ・オルジェル︵Nitroplus限定通販︶
366
・セドナ︵Nitroplus限定通販︶
・キラリ&ピンクうーぱ︵Nitroplus限定通販︶
・すーぱーそに子・サムライ☆コンデンサ装備ver.︵Nitro
plus限定通販︶
・疾風迅雷のナイトハルト︵個人製作︶[4]
・大和天使リーゼロッテ︵個人製作︶[5]
︻脚注︼
││││││││││││││││
1.^ ファンブックのインタビューによると一話に付き一体が
毎週欠かさず送付され、その数は話数と同じ全26体にも及んだとの
事。そのため週刊将軍と呼んでスタッフ達も楽しみにしていた。
2.^ 現在では﹃俺たちの将軍﹄と呼ばれている。
3.^ 5pb/Nitroplusによるラジオ企画で広報担
当者がゲストとして参加した際、将軍を﹁彼﹂
﹁食べちゃいたいくらい
イケメン﹂という発言をしていた事から男性である事が伺えるが、詳
細は不明。
4.5.^ 元 は 大 規 模 M M O R P G﹃エ ン ス パ イ ア・ス ウ ィ ー
パー・オンライン﹄の超有名プレイヤーの一人。本人達の発言では、立
体化の許可は出しているとの事。将軍との関係は不明。
︻関係リンク︼
││││││││││││││││
・木島││││⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮
⋮
・
367
■ ■ ■
││││何か、情けない夢を見た。様な気がした。
﹁⋮⋮ふぁ、ふ⋮⋮﹂
窓の外からちゅんちゅんとスズメの鳴き声が響く早朝。
ベッドに身体を縛り付けんとする睡魔を振り解いて上半身を起こ
した僕は、顎が外れるくらいに大きな欠伸を漏らしたよ。
時計を見れば、朝の七時。
何時もと同じ起床時間だったけど、今日は休日だしもう一時間位寝
ていても良かったかな。何だか少し勿体無い気分になった。
⋮⋮布団の暖かさが、穏やかな魔力を発している錯覚を受ける。
﹁⋮⋮いや、やめよ﹂
このまま二度寝をしてしまいたい欲望に駆られたけど、それをした
ら大幅に寝過ごしてしまう事になるだろう。
今日は友人達と出かける予定が入っているし、それは余り良くな
い。起きてしまったものは仕方が無いと諦め、大人しく起きる事にす
る。
﹁⋮⋮ふんっ﹂
眠気を吹き飛ばすように、気合を一発。
被っていた布団を小さく跳ね上げ、まだぼんやりとしている重い頭
を引き摺ってベッドから降りて、伸び。
喉の奥から呻き声に似た声が漏れ、幾らか思考がはっきりとした。
そうして、ひたひたと裸足の足音を立てて部屋の隅にあるクロー
ゼットへ向かう。
乱雑に放り込まれた衣類の中から長袖のシャツとスラックスを取
368
り出し、パジャマを脱ぎ捨て身に着けて。そして最後に冬の間愛用し
ていた半纏を被り、部屋のドアを開けて廊下に出た。
暦上は既に春とはいえ、まだ少し肌寒いからね。僕は肉も薄いし、
これくらいの厚着で丁度良いんだよ。
﹁⋮⋮あ、おはよ。お兄ちゃん﹂
﹁うん、おはよう﹂
リビングに着くと、既に妹がソファに寝転がり寛いでいた。
背の中程まである長髪をそのままに、長袖のトレーナーとスウェッ
ト姿の彼女。
その目線の先にあるテレビには何か野菜のようなキャラクターが
体液を撒き散らしながら暴れまわるアニメが映っていて、挨拶の時も
そこから目線を外さなかったよ。
何を
﹂
と聞きかけて、夕食の時の事を思い出す。
⋮⋮そういえば、部下がヘマをしたとか何とかで愚痴ってた気がす
るね。
僕は得心を一つし、妹から意識を外し台所に向かう。
そしてお茶碗を取り出し、ご飯をよそり。戸棚から取り出したお茶
﹂
漬けの素を振りかけリビングにとんぼ返り。朝食の準備だ。
﹁お母さん待たないの
?
369
⋮⋮この春から高校生二年生になるというのに、まったく色気の無
い姿である。
﹁お父さんとお母さんは
たー﹂
﹁仕事
休みなのにこんな早く⋮⋮﹂
﹁んー、お母さんは何か町内会の当番で出かけて、お父さんは仕事行っ
?
﹁昨日の夜に言ってたじゃん﹂
?
?
﹁うん、今日はほら、友達と早くに出かける予定だから﹂
これまでも何度か同じ事があったけれど、母が帰ってくるのは決
まって8時か9時位だったからね。それを待っていては友達との集
合に遅れてしまうよ。
妹の疑問にそう返しつつポットからお湯を注ぎ、テーブルに着いて
お茶碗を傾ける。
﹂
緑茶の香りの混じる熱い即席スープが舌先を潤し、後から梅の風味
を纏った白米が僕の口内に流れ込んだ。
109とか行く
?
どこ
まぁ、行くんじゃないかな。多分﹂
﹁え、お兄ちゃん、今日出かけるの
﹁う、うん
?
もきっと││││
││⋮⋮ん
﹁⋮⋮109
﹂
﹁ねえ、それナナも付いていって良い
ねぇねぇ﹂
人で一緒に出かける時は、高い確率でそこに行くからね。だから今日
今日出かけるメンバー。僕と、幼馴染の少女と、あともう一人。三
突然食いついてきた妹に面食らって、少しどもりつつも肯定する。
?
﹁やった
ナナもちょっと買い物したかったんだぁ﹂
﹁⋮⋮まぁ、大丈夫じゃないかな。一緒に行くのも何時もの二人だし﹂
拒否は許さないと雰囲気が語っている。
⋮⋮提案、とは言ったけれど、彼女の目には活発な光が宿っていて、
何か違和感を覚え、首を捻る僕を他所に妹はそう提案してきた。
?
?
?
⋮⋮買い物がしたいんなら一人で行けば良いんじゃないかな。
370
?
そう言って、彼女はにっこりと笑った。
!
そう思ったけど、そこはきっと女の子ならではの彼是があるんだろ
う。と思考停止。
まぁ妹も二人とは仲が良いし、連れて行けば皆喜ぶだろう。悪い事
なんて何も無い。そう結論付けた
﹂
﹁分かったよ。じゃあ遅れないように準備をしておいてね﹂
﹁えーっと、何時出発
﹁とりあえず九時⋮⋮いや、八時半には出るかな。散歩がてらに歩き
で﹂
﹁八時半か⋮⋮じゃあまだまだ大丈夫だね﹂
妹は部屋の壁にかけられている時計を確認し、テレビへと向き直っ
た。
そうやってのんびりするから、何時も出かける直前になってからバ
タバタするんだよ。
⋮⋮なんて本音はおくびにも出さず、お茶漬けを啜りながら同じく
番組に目を向ける。
画面の中では、主人公︵どうやら侍らしい︶がUFOみたいな変態
機動を駆使して敵をボコボコにしていた。
﹂
基本アニメを見ない、しかもかわいい物好きな妹の趣味には合わな
これ、面白いの
そうな番組だけど、彼女の視線はその雄姿に釘付けだ。
﹁⋮⋮﹃ねぎぼうずのあさたろう﹄⋮⋮
?
い﹂
﹁⋮⋮そうかなぁ⋮⋮
何となく引っかかる物を感じながら、僕は静かに食事を続ける。
くっているのだけれど。相変わらず彼女の趣味は謎である。
どう見てもちょっと気持ち悪い見た目で、加えて主人公に殴られま
﹂
いて面白いよ。それに敵の侍さんも何か可愛いし、ゲロカエルんみた
﹁んー、ナナも初めて見たからお話は良く分かんないけど、グリグリ動
?
371
?
?
﹁⋮⋮わー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうして、後は特に会話はなく。
結局、僕と妹は番組が終わるまで席を立つことは無かった。
*************
││東京都、渋谷区。
まだ冬の残り香が僅かに漂う肌寒いビル街の中を、僕達は歩いてい
た。
幾多のビルが立ち並び、あちらこちらで電光が輝く賑やかな道。
もうそろそろ花の咲き誇る季節になったにも拘らず、立ち並ぶ街路
372
樹の先端で膨らんでいる花の蕾は、未だ咲く気配を見せず硬いまま。
寒さを一層引き立てていた。
木の種類がそういう物なのかもしれないけれど、何となく寂しく
思って。早く咲かないかなと待ち遠しい気分になる。
そうして周りに響くのは、多くの人々の雑踏。
休日の所為か、お昼時に近くなってきた所為か。家を出た頃にはま
だ疎らだった人込みが密度を増し、それなりにくっ付いていなければ
直ぐに離れ離れになってしまいそうだった。
目的地の近くにあるスクランブル交差点に近づくにつれ、それが顕
著になっていたよ。
⋮⋮って、んだよ掲示板かよ﹂
﹁⋮⋮あ、FESだ﹂
﹁え
らさまにがっかりした。
僕の友人││同じクラスの男子生徒が驚愕と共に反応し、そしてあか
僕の隣をくっ付いて歩く妹が、無意識と言った風情で上げた声に、
!?
少し後ろを歩く彼の姿は見えなかったけれど、肩を落としているの
が手に取るように分かったよ。
FESと言うのは、最近メジャーデビューした人気ゴシックバンド
﹃ファンタズム﹄のボーカルの名前だ。
その圧倒的な歌唱力を誇る彼女はマイナー時代から相当な人気を
誇っていて、彼はその時代からのファンなんだ。
⋮⋮彼女の歌に惹かれているのか、それとも容姿に惹かれているの
か。さて、どっちだろうね。
僕は立ち並ぶビルの一角に映る、容姿端麗な美少女が歌っている姿
を眺めながら苦笑した。
﹁たはは、本当にFESの事好きだよね。この前もライブ行ってたし﹂
﹂
﹁ん、ああ。まぁ歌もそうだけどあんだけ美人だしな、俺がチェックを
欠かす訳ねぇじゃんよ
﹁うーん⋮⋮何だろう⋮⋮何か上から目線な様な⋮⋮﹂
そして、彼の隣を歩いていた僕の幼馴染の少女はその返事に呆れた
ように半眼。少量の軽蔑の混じった視線を向けた。
幼馴染は﹃そういう事﹄に対してはそれなりに硬い方だからね。可
愛い女の子を見ればすぐさま目を付ける彼の姿勢に不満があるのだ
ろう。
しかし彼はそんな事を気にも留めずに朗らかに笑い続けるだけで、
後ろめたさを感じさせず。清清しい程のナンパ男ぶり。
白い歯輝く無駄なイケメンフェイス。丁度すれ違った双子の姉妹
どうよ、今度二人
のうち、眼鏡をかけた方が目を奪われていたのに気付いて何となくイ
ラっと来たよ。
﹂
﹁あ、勿論ナナちゃんもチェック対象の一人だぜ
きりで遊ばね
?
な﹂
373
?
﹁いやちょっとちょっと、実の兄の前で妹を口説かないでくれないか
?
﹁⋮⋮ん
私は
﹁ねー、私はー
﹂
﹂
か刺されそうだし﹂
﹁んー⋮⋮ナナもちょっと遠慮したいかな。先輩と仲良くしてると何
﹁うわひっでぇ。それがダチに言うことかよオイ﹂
ら来てよ。そうすれば考えてあげない事も無いからさ﹂
﹁まぁどうしてもと言うなら、その爛れきった女性関係を清算してか
としての接触は禁じさせてもらいたい。
妹を任せるには少々の不安が残るため、兄としての権限で友人以上
こと女性に関してはすこぶるだらしが無いのだ。
背が高い、格好良い、優しい。そんな三拍子揃っている彼だけれど、
うときのように手を顔の前で振った。
の間に身を乗り出して首を突っ込んできた彼を押し返し、犬を追い払
自分の名を呼ばれなかった幼馴染が首を傾げるのを横目に、僕は妹
?
│
﹁⋮⋮
﹂
彼を放置し、何となくFESの映る電光掲示板へと目を向けて│││
そうして﹁割かしマジなんだけどなぁ⋮⋮﹂と呟きながら押し黙る
子を見せつつも困った顔で辞退した。
妹もそんな彼の事を良く分かっているため、満更でもないような様
?
いものを感じた。
それは以前彼女をテレビで見たとかそういう物じゃない、もっと身
近で現実感を伴ったもの。
一度も会った事なんて無い筈なのに、彼女の一挙手一投足が僕の記
憶を││あるはずの無いその扉を叩いて、鳴らし。こめかみに頭痛が
374
?
何となく、既視感。今も画面の中で歌っている彼女に、何か懐かし
?
迸る。
﹂
⋮⋮そういえば、今日見た夢に彼女に似た人物が出てきたような気
どうかした
が││
﹁
⋮⋮のだ、が。
かない振りをして、勤めて平静を装った。
そうして背後から僕を覗き込む幼馴染の不思議そうな視線に気付
を向く。
言う情けない夢を思い出した僕は、無理やり目線を掲示板から離し前
⋮⋮﹃四・五人の女性の地雷を踏み抜き、寄って集って殴られる﹄と
﹁⋮⋮いや、何でもないよ﹂
?
分かった、お前も俺と同じでFESの事を⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ははぁん
?
そこは様々な人々の思念が混じり合い、一瞬の混沌を作り出して。
スクランブル交差点。
││こめかみの痛みは、何時の間にやら消えていたんだ。
きながら、僕は必死になって幼馴染に言い訳を始めた。
その様子に妹がくすくすと笑い声を上げるのを恨めしい気分で聞
な感じがして。
無いのだけれど⋮⋮何となく、彼女にそう言った誤解を受けるのは嫌
別に幼馴染が怒っても、説教を受けるくらいで大きな被害は無い。
わっていく事をひしひしと感じ、僕は物凄い勢いで首を振る。
スケコマシの頓珍漢な言葉を受けて、幼馴染からの視線の色が変
﹁いやいやいやいやいやいやいや﹂
﹂
﹁⋮⋮⋮⋮んー
?
数多の人間が交差し、通り過ぎ、縁とも言えない様な薄い糸を摩り合
375
?
わせる場所だ。
信号待ちをしている今でも、歩道で塞き止められている人を見れ
ば、どれだけ多くの人数が集っているのかが簡単に分かったよ。
そうして人に囲まれて立っているまま少し視線を上げれば、僕達の
目に飛び込んでくるのは周りの建物に切り取られるようにして一際
目立っているビルと、それに書かれた109の文字。
今日の目的地。友人と妹が行きたがっていた巨大ファッションビ
ルだ。
天高く聳え立つその建物の内部には、幾つもの服屋や雑貨屋。お洒
落なカフェやレストランなど若年層に人気の店が詰めこまれており、
渋谷を代表するスポットの一つになっている。
そのため﹃今時の女の子﹄をやっている妹や幼馴染、女の子と遊び
たいが為に自分を磨いている友人は事ある毎にここに来たがるんだ。
⋮⋮僕としてはファッションには余り興味を惹かれないんだけど、
そうな顔でそう尋ねてきて。思わず間抜けな弁解をしてしまった。
376
仲の良い友人達と一緒に店を見て回ったり、幼馴染や妹の艶姿を見る
のは楽しく思う。
時々妙な衣服を進められる事もあるけれど、それもまた一興。僕は
彼女達とここに来る事を毎回楽しみにしていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮けれど、今日は何だか違和感がある。
それが一体何なのか。特にはっきりとした点を指せる訳じゃない
けれど、何か前と違う気がして。
良く分からない疼きが胸奥を焦がし、何となく落ち着かない。
﹂
ああ、何でもないよ。ただくしゃみが出そうだっただけ﹂
﹁⋮⋮お兄ちゃん、調子でも悪いの
﹁え
?
﹃109﹄の文字を見つめている僕を不審に感じたのか、妹が少し心配
?
⋮⋮言ってしまった以上、くしゃみの演技の一つでもすべきだろう
か。
鼻をひくひくさせながらそんな事を思っていると、肩に肘を置かれ
た感覚。
振り返ってみれば、友人が僕にもたれかかってニヤニヤと嫌らしい
笑みを浮かべていた。好みの女の子を見つけた顔である。
﹁なぁ、見てみろよあの子。すっげー美少女﹂
そう言って彼が指差した先を見てみると、妹らしい小さな女の子と
手を繋いだ黒髪の女性と、その隣を歩くツインテールの女の子の姿が
あった。
三人とも美少女といって差し支えない容姿をしていて、仲睦まじく
談笑していたよ。
ビシィ
﹂
﹂
!! !
﹂
377
彼 は そ ん な 彼 女 達 に 声 を 掛 け よ う か 掛 け ま い か 迷 っ て い る よ う
﹂
だった。怪しい光を瞳に灯しながら、ブツブツと何かを呟いている。
﹁あの人は知ってるけど⋮⋮隣の娘は始めて見るな、何処の学校だ
﹁もー、またそうやってナンパみたいな事するんだから。ビシィ
﹁いやちょっ、何で僕まで、あたっ﹂
を得ない。
⋮⋮彼と、彼が寄りかかる僕に向かって。理不尽であると言わざる
擬音を言いながら、チョップをぽこぽこと叩きつけて来た。
そしてやはり琴線に触れたらしい。幼馴染が最早癖となっている
?
!
﹁はっはっはっは、まぁそう嫉妬すんなよ。いてっ、お前もあと少しで
ビシ
及第点に届⋮⋮いてぇっ
﹁ビシ
!
止めとけば良いのに、無駄に彼女を煽る友人の所為でチョップの力
!
が5割増くらいに上がった。とんだとばっちりだよ。
腕で頭をガードしつつ、他の通行人に被害を与えないよう最小限の
動きで逃げ惑う。
﹁││あ、青になったよ﹂
そうして我関せずと一歩離れた位置で見守っていた妹の声を皮切
りに、僕と友人は交差点へと飛び出した。
信号が変わり、次々と横断歩道に踏み出してくる通行人よりも一歩
先に、チョップの嵐から逃れ早く対岸の歩道へと辿り着くべく全力で
走る。
﹂
⋮⋮勿論、向かいから歩いてくる人が近くなったら元に戻すつもり
だけど。ぶつかったら危ないしね。
ちょっと待っ﹂
んな事を宣言し、先程見かけた女の子の方に方向転換。スキップでも
するかのような身軽さで走り去っていった。
⋮⋮やはり彼には妹は任せられないね。今改めて確信したよ、まっ
たくもう。
そして追いかけてきている筈の幼馴染の方を見てみると、突然明後
日の方向に走り出した彼に一瞬驚いたようで。
しかしその意図が分かったのか、後ろを付いてくる妹に何某かを告
げた後猛ダッシュで彼の背中を追いかけて行ったよ。
⋮⋮どうやら僕に関しての危機は去ったようだ。彼の命運を祈る。
﹁はぁ⋮⋮、あ﹂
後ろからのんびり歩いてくる妹の姿を眺めつつ、安堵を乗せた溜息
378
﹁⋮⋮よっし、せっかくだから声かけてくるわ
﹁ええ
!
どうやら決心がついたようだ。僕の少し前を走っていた友人がそ
!?
を一つ吐き。
そして、自分が交差点を渡る集団から一人突出していた事に気がつ
いた。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮恥ずかしい。
交差点の中心付近に一人だけと言うこの状況。今更ながらに子供
の様な事をしてしまったと羞恥心が湧き上がる。
﹁⋮⋮うあああ﹂
何だか周りの人々が僕を注視しているような気がして、妙な呻き声
を上げた。
僕は赤くなった顔を手の甲で隠しつつ小走り。早く対面に渡って
しまおうと109の方角に振り返って││││
379
﹂
││││彼らの姿に気付いたのは、その時だった。
﹁⋮⋮ん⋮⋮
分になったんだ。
僕はここに居てはいけない、それに気づいてはいけない。そんな気
たかのような、罪悪感を伴った居心地の悪さ。
それはまるで、立ち入りを禁止された聖域に足を踏み入れてしまっ
はどうしようもない﹃ズレ﹄を感じていて。
を歩く妹たちも。何一つとして変わっていない筈なのに。何故か僕
特に何かが変わったという訳じゃない。前に見える通行人も、後ろ
ふと、周囲に感じる違和感が大きくなった。
?
││そうして、そんな歪な空間の中。彼らは、交差点の中心を歩い
ていた。
人数は二人。長身の男性と、外国人の小柄な少女だ。
年は多分、僕と同じ位だろうか。男性のほうはフードを目深に被っ
ていたから顔は分からなかったけれど、少女のほうは遠目に見ても
はっきりと分かるくらいに可愛らしい顔立ちをしていたよ。
少し険の入った釣り目勝ちの瞳には紅色の綺麗な光が宿り、西洋人
特有の白い肌とすっと通った鼻筋。赤の色素が混じった髪の毛はツ
インテールに纏められ、小柄な身長と相まってまるで人形のようだ。
僕の友人たるスケコマシが居たら、間違いなく声をかけていただろ
うね。
少女は隣を歩く男性の腕に抱きついていて、白い頬をうっすらと赤
く染めていた。表情は恥ずかし気に歪んでいて、まるでお化け屋敷の
中を歩くカップルを連想させたよ。
その様子から彼らは恋人か若しくは仲のいい友人同士にある事が
察せられたけれど││その姿に感じられるはずの甘い雰囲気が少な
い事が、少しだけ気になった。
⋮⋮例えるならば、共依存。だろうか。互いに互いを拠り所にして
いるような、そんな不安定な印象を受けたんだ。
まぁ、妄想なんだろうけど。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
二人はゆっくりと、しかし真っ直ぐに僕に向かって近づいてくる。
勿論、彼らが僕に用があるなんて思ってはいないよ。お互い逆の方
向に進んでいくうちに、僅かな一瞬だけ袖が触れ合うだけだ。
そうは分かっているんだけれど、彼らが││特に男性の方が。僕を
見つめているような気がして、場の空気もあり非常に落ち着かない。
フードで視線は隠されてるのに、自意識過剰も良いところだよ。
380
﹂
さっきまで忘れていた気恥ずかしさを思い出し、僕は進む速度を速
めた
﹁⋮⋮
そうして彼らとの距離が縮まるにつれ、男性のズボンのポケットか
ら人形のような物が覗いている事に気がついた。
それはどうも美少女フィギュアのようだった。
肩から下はポケットで隠れていたけれど、きっとあざといポーズを
気にはなったけ
とっているんだろう。黒いズボンの布地が歪な形に歪んでいたよ。
⋮⋮なんでそんなの持ち歩いているんだろう
ど、初対面の人にそれを尋ねる理由もなく。
﹁⋮⋮え
怨嗟。
﹂
││││擦れ違う寸前、何か声を掛けられた気がした。
﹁││││││││﹂
僕は彼の横を擦れ違おうと、一歩左に踏み出して││││
?
?
﹁え、あの、今││、ぁ
﹂
様々な負の感情を乗せた一言が、僕の耳朶を妖しく揺らし。
悔恨。
羨望。
悲しみ。
?
381
?
そして、慌てて振り返って確認しようとしたけれど││││そこに
はもう、誰も居なかった。
先ほど擦れ違った男性も、彼に抱きついていた少女も。
確かに存在した筈の彼らが、まるで煙のように消え去っていて。
必死になって首を振り目を動かしても、見えるのは他の通行人だ
け。彼らの痕跡すら見つける事が出来なかったよ。
﹂
それとも白昼夢
﹁⋮⋮な⋮⋮えぇ
幽霊
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮一体、何だったんだ
何が起こったんだ
?
﹁何やってんの
いや⋮⋮今、ここに居た二人は⋮⋮
﹂
?
よ﹂
こんな所で立ち止まってないで早く渡っちゃおう
そうして立ち尽くしていた僕の服を引っ張って、一緒に歩き出す。
周りを通り過ぎていく通行人に混じって、妹が僕に近づいてきた。
どうやら、驚いている内に追いつかれたようだ。
は雑踏に飲み込まれていった。
時もと変わらない﹃107﹄の文字を眺めて││││そして、僕の体
疑問と驚愕でうまく働かない頭のまま、ぼんやりと視線を戻し。何
?
ていて。いつもの見慣れた景色、見慣れた空気に戻っていたんだ。
││そうして気付けば、辺りを包んでいた違和感も跡形も無くなっ
恐怖や怯えという負の感情ではなく、純粋に驚愕していたから。
僕は突然起きた非常識な事態に混乱し、立ち止まってうろたえた。
?
?
?
382
?
誰も居なかったじゃん。お兄ちゃんが一人で何かわたわたやっ
﹁え
﹁
?
てただけだよ﹂
?
⋮⋮嘘をついている様子の無い妹のその言葉に、僕はそれ以上何も
言えなくなったよ。
彼らの姿も、かけられた声も、その感情も。僕ははっきりと覚えて
いるのに。
状況が、妹が。彼らが最初から居ないと言っているんだ。
⋮⋮本当に、訳が分からなかった。
﹂
﹁⋮⋮ねぇ、それ⋮⋮﹂
﹁え
そうして頭を抱えていると、妹が僕の手を指差して何とも微妙な表
情をしている。
は
﹂
何だろう。そう思ってその視線を辿ってみれば││││
﹁⋮⋮え
!?
││││それが何で、いつの間に僕の手に
じるような、不思議な雰囲気を持つ精巧な美少女。
触った事も、見た事も無い。けれど見ていると何故か懐かしさを感
のポケットに入っていたそれと同じ物だったはずだ。
物を持ち。そして何故か全身に細かい傷が付いているその少女は、彼
面積の少ない黒っぽい衣装を身に付け、片手には折れた武器らしき
それは、先ほど見た彼が持っていた物。
フィギュアが握られていた。
僕の右手。何も持っていなかった筈のその掌の中に、一体の美少女
?
なってきた気さえもして││││
消えた二人の事も含め分からない事が多すぎて、何か逆に冷静に
まるでスリの逆バージョン。本当に、何が起こったと言うんだ。
ろう
これをしっかりと握っていて、しかもその事に気付いてなかったんだ
彼らから盗った覚えも、握らされた覚えも無いのに。どうして僕は
?
383
?
?
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、ん
はた。と。
﹂
唐突に我に返り、今の状況に気が付いた。
││往来の最中。露出の激しい少女の人形むき出しのまま持って、
歩きながらもそれをじっと眺めている僕。
⋮⋮あれ、これはちょっと。まるで僕が﹃場を弁えない困った奴﹄の
ような⋮⋮。
先程とは別種の混乱と焦りにだらだらと脂汗を流しながら、先ほど
から無言の妹へ油の切れたブリキ人形の如く、ゆっくりと顔を向け
た。
﹁⋮⋮うひゃー⋮⋮﹂
﹁え、いやあの﹂
予想通り、彼女はそんな僕を冷たい視線で射抜いていたよ。
じっとりと淀んだ視線が僕を嬲り、胃がきりきりとした痛みを訴え
始めた。
そして摘んでいた服をそっと離し、スススと音も立てずに距離をと
り始め。さっさと交差点を渡り切るべく足取りを速めて僕を置いて
行ってしまった。
⋮⋮心なしか、通り過ぎる通行人の方々も冷たい目をしているよう
な気が。
僕は思わず焦り、取り乱し。必死の思いで彼女に追い縋った。縋ら
ずを得なかった。
﹁いや、その、違うんだよ。これはそういうアレじゃなくて﹂ いやもうほんとに違
﹁お兄ちゃん⋮⋮ううん、そうだったのは良いんだけど、わざわざ外ま
で持って来るのは⋮⋮﹂
﹁そうだったのって何がどう﹃そう﹄だったの
!?
384
?
うんだってば⋮⋮
﹂
白
しどろもどろ。右手にフィギュアを持ったまま、回らない舌で弁解
をしようとするも上手く伝えられない。
そもそも一体、どう伝えればいいのだろうか。
どっちも意味が分からないよ。
幽霊の二人組みに会って、美少女フィギュアが出現しました
昼夢が正夢になりました
?
!
大切な││﹂
﹁そんな大切な物だったら、外で見ないでよ
﹂
て
﹂
良いから早くしまっ
﹁あの、あのさ、何ていうか、そう、よく知らないけど、きっと、何か、
選択肢を消し去っていたんだ。
そんな良く分からない執着心が僕の心を犯していて、捨てると言う
││このフィギュアは、﹃もう﹄手放してはいけない。
よりも。
焦っていた事もある。余裕が無かったって事もある。しかし、それ
は欠片も思い浮かばなかった。
も置きに行こう。とか言えば良かったのかも知れないけど、そんな事
⋮⋮後から思えば、道の途中で拾った事にして道路の縁石の上にで
のに、気の利いた言い訳なんて出来る訳がないんだ。
僕自身何がどうしてこうなっているのか原因からして分からない
?
い出し、慌ててショルダーバックの中に突っ込んで││││そして、
過ちに気付く。
⋮⋮仕舞えと言われて迷いなくバッグに入れてしまった以上、最早
言い逃れは出来ない⋮⋮
﹁⋮⋮うーん。これはちょっと報告、かなぁ﹂
!
385
!
!?
彼女の言葉に僕は未だフィギュアを握り締めたままだった事を思
││うわぁ
﹁え
!
?
﹁ほ、報告
え、誰に
を回転させた。
ねぇちょっと﹂
僕は友人達と合流するまでにどう妹の誤解を解くべきか、必死に脳
全く意味の分からないその一言がグルグルと耳の中を残響して。
││││││││リア充、爆発しろ。
こ れ は、 き み が も っ て ろ よ
そうして、先程の名も知らぬ男性に囁かれた言葉が脳裏をよぎる
妹にそれは止めてと縋り付き。
パニックになり涙すらも滲んできた僕は、何やら物騒な発言をする
?
││││世界のどこかで、陰鬱な笑い声が響いた気がした。
386
?
Chaos;an onion HEAD Chu☆
ぶつくさ少女現る現る 編
りっぷ
怪奇
しまう。こっちがズレていると表現するのは、とてもじゃないが納得
しかし私はそんな自分や理解を示さない周囲に憤り、酷く傷ついて
う。クラスに大抵一人は居るお調子者のポジションだ。
まぁ、それだけならば単なるお騒がせと切り捨てる事ができるだろ
ぎ立ててしまうのだ。
簡単に言えば、皆が当然と思う事象を異常と感じ、無駄に大きく騒
共感できない病に冒されているらしい。
私という存在は、目の前に広がる﹁異常﹂という名の現実を他者と
⋮⋮異常。そう、異常だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
識できる、完膚なきまでの﹁異常﹂なのだから。
当然のごとく唾棄される社会問題、万人が││私を含め皆が自然に認
何故ならば、それは現実的な問題だからだ。この現代社会において
ただろう。
図っていた訳では無い。いや、むしろそうであったら逆に救われてい
勘違いしないで欲しいが、別に虐待や虐めを苦にしての現実逃避を
たのだ。肉体的にでは無く、精神的に。
しかし、そう思わなければ当時の私は壊れてしまうかもしれなかっ
葉である事は否定しない。私自身もそう思うよ。
やたら自分を特別だと思いたがる子供が発するには、些かマセた言
ていた気がする。
少なくとも中学生になる前、小学校中学年の時には既に口癖となっ
たろう。
⋮⋮私が自分にそう言い聞かせるようになったのは何時からだっ
││私は、普通だ。
!
できなかった。
387
!
何故私だけが気づく 何故皆は分からない
何故、何故、何故⋮⋮。
?
何故気にしない
く崩すまでに至ったのだ。ならそれはもう無理って事だろう
しかし、しょうがない。周囲に併合しようとした結果、体調を大き
からな。
私が好きなマンガやアニメ作品でも、そんな奴は敵役として出てくる
まぁ、それが良くない事だというのは何となく分かってはいるよ。
見下すようになったのだと思う。
う。周囲に理解を求めることを止め、ただ理解できない生物であると
おそらくそれはある種の諦めであり、同時に驕りでもあったのだろ
私は自らの精神が平坦になっていく感覚に気がついた。
私は普通だ、私は普通だ、私は普通だ。何度も何度も呟き続ける内、
までの経験で容易く想像できていたから。
せるようにはしない。そうした所で無駄に突っかかられる事は、これ
無論、口には出さない。出したとしても呟く程度に収め、人に聞か
幼かった私はそう言い聞かせる事で精神の均衡を図ったのだ。
私は普通だ。おかしいのはお前らであって、決して私では無い││
で、まぁ。だからこその口癖って訳だ。
﹁⋮⋮私は、普通だ﹂
精神病、なのだろうか。そう思いたくはないけれど。
を吐いたのは確かである。
数の黒い穴が開いていた⋮⋮と言うのは流石に盛り過ぎであるが、血
原因は勿論度を超えたストレス。レントゲンで写された胃には無
ある程だ。
そ小学生という身軽な立場でありながら、胃潰瘍で入院しかけた事も
そう落ち込み、悩んだ事は一回や二回では済まないと思う。それこ
?
否、人だけじゃない。私が住む街も、国も、物理法則だって皆どこ
として認識しないアホどもこそが本当の異常。
││私は普通なのだ、おかしいのは私じゃない。﹁異常﹂を﹁異常﹂
めない。多分、大人になっても、絶対に。
例え客観的にはこっちが間違っているのだとしても、それを私は認
?
388
?
かが狂ってる。まともなのは私だけなんだ。そう、私だけ。
⋮⋮もし私も││長谷川千雨も﹁異常﹂に染まれたのなら、どれ程
気楽に生きられるだろう
どこか。心の片隅でそう思いながら、私はゆっくりと窓の外を見
る。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
私の住む街。そこに広がるモダンな町並み。その中央に鎮座する
天を突く程に巨大な大樹││世界樹。
明らかに﹁異常﹂でありながら、世界から﹁普通﹂と目されている、
それ。
⋮⋮私の呟きは、今日も止まりそうになかった。
■ ■ ■
﹁⋮⋮あぁ、だっり﹂
冬の終わり、春の手前。
もう3月も近いというのに未だ寒さの残る街道を歩きながら、私は
欠伸と共に呟いた。
涙に滲む視線の先には幾つもの大きな建物が聳え立ち、それぞれの
目立つ場所に設置されている大時計が日光の光を反射し燦然と輝い
ている。
ヘタしたら県の五分の一程度を占めるほどに広大な敷地、その中に
おける私の通う女子校エリアの校舎郡である。
││ここ、麻帆良学園都市はとてつもなく大きな街だ。
女子中等部だけではなく、幼稚園から大学まで。その生徒達を収め
る寮施設は勿論、数多くのグラウンドや商業施設等もあり、全て含め
れば東京ドーム一個二個の面積では済まないだろう。
日本でも、いや、海外から見ても異常な程に広い世界最大級の学校
まぁ家庭の事情としか言えんのだが、何となく
389
?
施設。学生の学生による学生の為の街。そんな場所に私は居るのだ。
⋮⋮何でだろう
?
憤りを感じざるを得ない。
﹁ふん⋮⋮﹂
遠目に見える校舎の周囲には少なくない人影が集り始めており、皆
一様にそれぞれの校舎へと向かっていた。
チラリと時刻を確認すれば投稿時間にはまだ余裕があったが、そろ
そろラッシュ組の第一陣が駅に乗り込んだ頃だろう。あの常軌を逸
した混雑具合を思い出し、身震い一つ。自然と歩む速度が早くなる。
﹁もっと早く出らんねーのかね、あいつら﹂
自転車やバイクは勿論、スケボーやローラースケートを始め数多く
の学生達がありとあらゆる移動手段を駆使する麻帆良名物﹁通学ラッ
シュ﹂。
果たしてその中にやむを得ない事情を持つ者は何人居るのだろう。
お前らもう少し早起きしろよ。
﹁ふぃー﹂愚痴と一緒に口内で温まった吐息が吐出され、白い靄となり
390
乾いた空へと立ち上る。その際眼鏡が曇り、逆に冷たい息で吹き冷や
す。
ここ最近で随分と慣れた仕草だ。それだけ寒い日が多かったとい
う事でもあろう。だから何だって話だが。
﹁さて、と﹂
まぁ、そんな事はどうでも良い。損を被るのは﹁普通﹂の私では無
く﹁異常﹂なあいつらなのだから。
自分の通う女子中等部の校舎に到達し、ローファーから室内靴に履
き替え思考も変える。ああ、思考に割いた脳細胞が無駄に疲弊したよ
﹂
うだ。何と勿体無い事か。
﹁あ、おっはよー長谷川
なる。
ない間柄だが、一年の時から同じクラスで過ごせば少しの馴染みには
明るく元気で気さくで活発。私の質とは正反対の大して親しくも
た。同じ2│Aに所属する明石裕奈だ。
そうして下駄箱を閉め終えた瞬間、肩口より喧しい声をかけられ
﹁ん⋮⋮ああ、おはよう﹂
!
個人的にも﹁普通﹂の範囲内に居る彼女は嫌いではない。ちらりと
視線を向けた後、義務的に挨拶を返した。
﹁ふんふーん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮で、そのまま立ち去るつもりだったんだが、何故か明石は私の
隣に付いて歩き始めた。まぁ向かう先は一緒な訳だから、人懐っこい
コイツはそうするよな。
裕奈も特に要件のある様子でもないし、無言で居るのは︵おそらく
一方的に︶何か気まずい。仕方なくこちらから適当な話題を振ってや
る。
﹁あ ー、何 か こ の 時 間 に 一 緒 に な る の っ て 珍 し い な。確 か バ ス ケ 部
ああうん。今日もそうだったんだけどさ、何か早めに切り上
だったよな、朝練あっただろうに﹂
﹁え
げろってコーチから言われちゃって﹂
﹂
﹁ふぅん、何かやったのか
?
?
﹂
の方が大きく、教師からの説教や注意は褒められる事よりも多く日常
⋮⋮だが、それと同時に問題児集団でもある。むしろそちらの配分
持っていると思う。
スメイトの半数以上はどっかの大会で賞を取れる程の突出技能を
確かに、私のクラスにはやたら優秀な奴らが多い。おそらく、クラ
には捉える事は出来なかった。
そう言って裕奈は考えこむが、私としてはそんなポジティブな意味
﹁私も知らないんだけど、何だろね。誰か賞とったとかかな﹂
﹁重要な連絡
に戻っとけ、だってさ﹂
﹁失敗とかじゃなくて、何かウチのクラスに重要な連絡行くから早め
クラスメイトのよしみでスルーしてやろう。
彼女は焦ったようにぶんぶか頭を振る。⋮⋮今回は いやまぁ、
出た言葉だったが、どうやら違ったようだ。
裕奈の天真爛漫さならあり得ない話ではない。自然に喉から滑り
﹂
﹁や、今回は何もないって
!
?
391
?
茶飯事だ。
どうせ今回もその類だろうな。裕奈とは対照的に一層気分が重く
なり、私は溜息を吐いた。
そうして辿り着いた教室。裕奈が率先して開いた扉をくぐれば、そ
こでは結構な数のクラスメイトが談笑していた。
バスケ部が早上がりならば、他の部活も同じという事だろう。何時
もは遅刻ギリギリまで来ていない奴も居て、少し新鮮な気分だ。
私は裕奈に挨拶をして別れ、自分の机に着席。鞄からノートPCを
取り出し日課である通販サイトやニュースサイト巡りを開始する。
本来ならば咎められるべき行動なのだろうが、この学校はパソコン
の持込を禁止していない。ここだけは自由な校風︵笑︶に感謝である。
﹁⋮⋮特に、なんもねぇか﹂
通販サイトには目欲しい物は無く、ニュースサイトもまた同様。や
反射的に視線が向く。
﹂
392
れ何処其処で事故があった。それ何処其処で人が死んだ。有名会社
の汚職発覚、国会議員応援会の賄賂が云々⋮⋮。
画面には社会的に結構な重大事が連なっていたが、私の興味を引く
ようなものは無い。まぁそれらを知る事は情報強者である為に必要
ではあると思うが、何が悲しくて朝っぱらから鬱にならなきゃいかん
のか。
そうして一つ一つサムネイルの画像を指さしつつ、面白そうな記事
﹂
を探している││と。
﹁ん⋮⋮
これで完璧
!
ような││
﹂
﹁││よーし
﹁
!
なかったが、ネズミのような何かがこちらに向かって手を振っていた
単なる見間違いだろうか。一瞬しか見えなかった為良くは分から
││ふと、画面の隅で何かが蠢いた。ように見えた。
?
それを確認しようと目を凝らした瞬間、甲高い大声が鼓膜を揺らし
!
するとそこではクラスの問題児として名高い鳴滝風香、史伽姉妹と
春日美空が満足気に頷いている姿が目に映る。何やってんだあいつ
ら。
疑問のまま彼女らの視線の先に目をやれば、そこには教室の扉の隙
間に黒板消しを挟む超古典的なブービートラップから始まるえげつ
﹂いや、ますます分からん。ホント何やってんだ。
ない罠の連鎖が仕掛けられていた。
﹁⋮⋮
﹂
﹂
?
﹁普通﹂はトラップ仕掛けてる鳴滝姉妹達を止めるもんなんじゃない
﹁⋮⋮いや、ちげぇだろ﹂
長の雪広に咎められ何やら言い合いを⋮⋮⋮⋮、
彼女は何時もと違い落ち着きのない様子であり、それをクラス委員
礼を言い、何となく件の神楽坂を見た。
綾瀬はそのまま読書に戻り、話を続ける気は無さそうだ。私は軽く
﹁へぇ、神楽坂のねぇ⋮⋮﹂
の知り合いだそうです﹂
﹁まぁ今朝早く神楽坂さんが話してただけですからね。何でも昔から
﹁私、初めて聞いたぞ。それ﹂
あるのだろう。
では真面目で通っている奴も口にしているのでそれなりに信憑性は
これがオチャラケた奴らでの間だけだったならともかく、クラス内
る。
らから﹁クラスに新任の先生が来るらしい﹂との言葉が聞き受けられ
ほら、と綾瀬が促すままに周囲へ耳を傾ければ、確かにあちらこち
﹁ええ、結構噂になってるですよ﹂
﹁新任の⋮⋮先生
ちらり、と光の薄い瞳がこちらを向く。
る私を見かねたのか隣席で読書をしていた綾瀬がそう囁いて来た。
そうして頭の中でクエスチョンマークを増やしていると、首を傾げ
﹁え
﹁⋮⋮きっと、新任の先生をイタズラで迎えようとしてるんでしょう﹂
?
のか。仮にもその新任教師と知り合いだって言うんなら尚更さ。
393
?
やっぱあいつもどっかおかしいのかもしれない。そう思いつつ、私
はPCへと目を戻そうとした。のだが。
﹁、っと﹂丁度良く始業のベルが鳴り、手早くPCを折りたたみ机の中
へと突っ込み始業の準備。
⋮⋮それと新任教師とやらも少しは気になり、先の違和も後回しに
してぼんやり扉の方角へと意識を向ける。ミーハーだと笑うか
いや、これは﹁普通﹂なこったろーよ。
﹁⋮⋮んー﹂
八割方﹁気づかなかった振り﹂の側に触れている天秤をちょっぴり
はてさてどうしたものやら。
し か し 目 立 っ て ま で 真 面 目 ぶ る の も 私 の キ ャ ラ じ ゃ な い し な ぁ。
であったら連帯責任か何かでこちらに被害が及ぶ可能性もある。
先生が引っかかれば空気が悪くなるかもしれないし、もし厳しい人
そして、そこに仕掛けられたトラップを解くか否か、少々思案。
?
来たみたいだよ
︶
﹂
多分︶内に誰かが声を上げた。残念、タイムリミットだ。
︵ひひひ、スタート
の布石として使用するのだ。
むしろそのポピュラーさを利用し、相手を油断させ意識を逸らす為
い。
思いつくような使い古された案であるが、奴らはそこで思考を止めな
まず教室の扉を開くと黒板消しが落ちる。これは古今東西誰でも
である。
鳴滝姉妹のイタズラは、中学生の考えるものとは思えない程に狡猾
*
聞いた。
││ガラリ、と。鳴滝姉妹の小さな合図と共に、扉が滑り開く音を
!
394
ぐらつかせつつ、軽く眼鏡を押し上げた。
﹁⋮⋮あ
!
そうして迷っている︵自分を正当化する振りだったかもしれない、
!
その本命は床近くに仕掛けられたロープであり、それに足を引っ掛
やっ
ける事で転倒を誘い││追撃に水入りバケツと吸盤矢からなる悪辣
なコンボを展開する。
⋮⋮いや、どう考えてもイタズラの域を大きく越えてねぇ
ぱ止めとくべきだったかな、これ。
︵私は知らん、なーんも知らん︶
﹂
││数瞬、目を奪われた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
戻した。
不発に終わったのだろうか
私は恐る恐る目を開き、視線を元に
ても。何も聞こえず静かなものだ。
罠に引っかかった教師の悲鳴も、それを見たクラスメイトの囃し立
⋮⋮しかし、待てども何も起きない。
﹁⋮⋮⋮⋮
揺らし⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
揺らして。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
た。
極めて健康に悪そうな早鐘の鼓動が、体の内側から鼓膜を揺らし
て新任教師が穏やかな人であるよう祈りを捧げる事しか出来ず。
逸らした目を閉じ、耳を塞ぎ。完全なる普通人である私には、せめ
?
うな。何だ、キマシタワーの建築か
﹁││ええと、その﹂
彼女は扉の前で困ったような表情を浮かべながら、右手の黒板消し
カとかイギリスとかそっち系だろう。
を見る限り明らかに日本人では無さそうだ。よく分からんがアメリ
滑らかな金の髪に真っ白な肌、均整のとれたモデル体型。その容姿
?
多分他のクラスメイトも大なり小なり彼女に見惚れているんだろ
立っていたのは、世にも美しい女の人だったからだ。
理 由 は 簡 単。罠 が 仕 掛 け ら れ た 場 所 │ │ 開 け 放 た れ た 扉 の 前 に
?
395
?
を掲げて私達と床のロープとで視線を往復させている。どうやら鳴
﹂
滝姉妹の罠は敢え無く防がれ、その上看破されてしまったらしい。
﹁⋮⋮まぁ、とりあえず入りましょうか。大丈夫
﹁え、えっと⋮⋮はい。これくらいなら⋮⋮﹂
│﹁⋮⋮ん
﹂
﹁皆おはよう。もう知っている人も居るだろうけど、突然だけど今日
く手を打ち声を上げた。はた、と教室の空気が元に戻る。
そうして女性が教壇まで辿り着き﹁はい、注目﹂しずな先生が大き
鳴滝姉妹が青ざめているのが目についた。メシウマ。
そんな人に罠を仕掛けた事に今更ながら気が咎めたのか、視界の端で
どうも女性は完全な健常者という訳では無いのかもしれない。⋮⋮
よくよく見ればロープを跨ぐ動きもどこかぎこちない気もするし、
的なデザインの松葉杖のようなものが左の肘に装着されている。
今気づいた。さっきは扉の影に隠れて見えなかったが、確かに機能
︵あれは⋮⋮松葉杖、か
︶
い指導教員のしずな先生の声を受け、ゆっくりと室内へと踏み込み│
女性はそのまま暫く迷った風だったが、その後ろに控えていたらし
?
それって担任が変わるって事ですか
高畑先生は││﹂
からこのクラスを担当する先生が一人増える事になりました﹂
﹁あの
!?
ぞ﹂
﹁は、はい﹂
途中上げられた生徒の声をいなしつつ、しずな先生はにこやかに女
性を促した。
彼女は緊張した様子でかけている丸眼鏡を軽く押し上げ、一歩前
進。私達﹃28人﹄を見渡し、流暢な日本語でこう告げた││││。
﹁││今日からこのクラスの副担任をさせて頂く事となりました、ネ
カネ・スプリングフィールドです。これからよろしくお願いします﹂
396
?
?
﹁はいはい、その辺りも詳しく説明するから落ち着いて。⋮⋮さ、どう
!
第一種接近遭遇 編
麻帆良女子中等部校舎、最上階。
好奇心旺盛な生徒達ですら滅多に訪れないその場所に、麻帆良学園
長の執務室はあった。
広大なスペースに気品ある調度品。そこにある全ての物が上質な
物ばかりであり、高貴な雰囲気が漂っていたが││女子中等部という
位置的なミスマッチが本来あるべきその鋭さを削いでいる。
そして、そんなどこか緩んだ室内に二つの人影が立っていた。
一人は四十代程度に見える老け顔の男。そしてもう一つは最早人
かどうかも怪しい風貌をした老人であった。
喩えるならば、日本妖怪の総大将ぬらりひょん。異常に長い後頭部
と節ばった手足、蓄えられた豊かな髭と妙な貫禄がそれを想起させ
た。
397
その老人は男から某かの報告を受けているようで、濃い色の茶を啜
りつつ耳を傾けている。
﹁││ふむ、ではネカネ君に関してはそう問題は無いようじゃの﹂
﹂
﹁ええ、むしろ僕以上に良くやってたと思いますよ。女の子ですし、
いっその事担任を任せちゃっても良かったんじゃないですか
﹁これこれ、あのクラスの担任は高畑君じゃろうに﹂
せて支障を与える訳にもいかん﹂
﹁まぁ、それに彼女の本業は医療魔法士じゃ。あまり慣れない事をさ
一つ。
その事が分かっているのか老人もそれ以上は何も言わず、咳払いを
ば、クラスその物を放置したままだったかもしれない。
中等部全体の指導教員であるしずな先生のサポートを受けなけれ
た。
の出張が多く、クラス担任とは名ばかりと言っても過言ではなかっ
しかし高畑の言い分も分からない訳ではない。彼は仕事上海外へ
る。
高畑と呼ばれた男の冗談交じりの言葉を軽く咎め、老人は苦笑す
?
﹁単なる付き添いという事もありますが、体の事もありますしね。余
り重いのはいけませんか﹂
﹁うむ。何より儂の腰もお世話になっとるからの。ちと甘くともバチ
は当たらんて﹂
││魔法。成人をとうに越えた男性二人が話す話題としては不釣
り合いなものであるが、感じるべき違和は極自然に受け入れられてい
た。
老人││││麻帆良学園都市学園長、近衛近右衛門は高名な魔法使
いである。
日本における魔術師集団、関西呪術協会の長を代々務める近衛家に
生まれながらも相反する西洋の魔法を極めた奇人であり、その流れを
汲む関東魔法協会の頂にまで上り詰めた老獪。
かつて魔法世界で勃発した大戦にこそ参加しなかったものの、残し
た逸話は数知れず。日本や諸外国を始め、魔法世界にも影響力の及ぶ
正真正銘の偉人である。
⋮⋮そして当然ながら、そんな大物が学園長を務める麻帆良が極一
般的な学校である訳も無し。
普通の生徒が普通の生活を送るその裏で、地球で活動する魔法使い
達への支援も行う。麻帆良とは魔法世界側にとっての拠点の一つで
あった。
とは言っても一般生徒を軽んじている訳では無く、むしろ気づかれ
ない範囲で魔法を利用しての生活支援も行っている。
魔法という常識外の存在の秘匿や多少の融通はあれど、驕りや傲慢
は少ない。半ば一方的ではあるが、魔法世界と現実世界が共存した場
所とも言えよう。
呪術的な防御結界も施され、物理的にも政治的にも簡単に手を出す
事の出来ない一種の不可侵領域となっていた。
その多くは良識ある優秀な魔法使い達のおかげだが││彼らを集
め、教えを説いたのはこの老人。
近衛近右衛門の名は、関係者の間では畏怖と信頼を持って轟いてい
るのだ。
398
﹂
﹁いやー、にしても若い子の治療は良いのう。一層腰が元気になりよ
る﹂
﹁⋮⋮それ、セクハラになりません
⋮⋮まぁ、今現在においてはその貫禄は大分デチューンされている
ものの。さておき。
﹁ま、とにかくやってけそうなら何よりじゃ。高畑君も先輩教師とし
て指導するのじゃぞ﹂
﹁すぐに追い抜かれそうですけどね。⋮⋮それで、学園長。あの娘の
事なんですが⋮⋮﹂
先程までと打って変わり、真面目な様子で高畑は言い淀む。
その顔には困惑とも悲痛ともつかない表情が浮かんでおり、余り良
い報告ではない事が伺えた
﹁⋮⋮うむ、芳しくないかの。やはり﹂
﹁ええ、ちょっと⋮⋮どころじゃないですね。かなり﹂
ポリポリ、と。高畑は後頭部を引っかきつつ、気まずげに目を逸ら
す。
学園長も予め想定はしていたようだが沈んだ様子であり、重苦しい
雰囲気が室内へと充満。精神的に作用する重力が二人の心を押し潰
した。
そうして暫く言葉の無いまま数刻が過ぎ。やがて高畑が大きく溜
息を吐き、学園長へと向き直る。
﹁やっぱり、今からでもイギリスに戻してあげるべきなんじゃないで
すか。幾ら試練といえど流石に﹂
﹁そうは言ってものぅ。本人がやる気である以上、儂らに出来るのは
そのサポートくらいの物。そして現時点ではこの状況が最善と言わ
ざるを得んのじゃよ﹂
﹁⋮⋮ 強 が っ て は 居 ま す が、二 人 と も 絶 対 に 離 れ な い で し ょ う し ね
⋮⋮﹂
もし引き離せば、壊れてしまう││高畑はそう呟いて再び大きく息
を吐き、学園長の机に置かれた書類へと目を向ける。
そこには今しがた話題となっていたネカネ君││ネカネ・スプリン
399
?
グフィールドの写真が貼られた詳細情報が記載されており、その下に
もう二枚別の書類が重ねられていた。
一枚は赤毛の少女の写真が貼られた物。そしてもう一枚は写真の
貼られていない、先の二つに比べ随分と情報量の少ない物。高畑は学
園長に断りを入れ、その二枚を手に取った。
最早何度読み返したか分からない物であるが、それから与えられる
感情は何一つとして変わらず胸を刺し、色褪せる事もない。
﹁⋮⋮出来る事なら、強くあって欲しい物です。彼女も、彼も﹂
﹁うむ、六年前の傷は未だ痛みを保っとるようじゃ。潰されぬよう、少
しでも癒えるよう。我々で支えねばならんの﹂
二人はそう頷くと、心の裡で改めて決意を固める。
││アンナ・ユーリエウナ・コロロウァ。ネギ・スプリングフィー
ルド。
そう名前の書かれた二枚の書類が、高畑の手の中でカサリと揺れ
た。
*
﹁よーし、じゃあ長谷川はこの飾り付けよろしくねー﹂
ぱさり。差し出した掌の上に、折り紙で作られた飾りが乗せられ
る。
まぁよく幼稚園児が作っているような輪っか状の紙を繋げたアレ
だ。よく見れば糊付けや紙の切り口等作りが甘く、ガキどもの作るそ
れと同じように手作り感満載の一品。
﹁⋮⋮﹂一応物づくりが趣味の内に入っている私としては妙な憤りが
込み上げるが、無駄に論争する意味もないのでグッと我慢。素直にク
ラスメイトからの指示に従う事にする。
︵よくやるよな、こいつらも︶
私が何をしているのかと聞かれれば、歓迎会の準備と答える。
今日から新しく赴任したネカネ・スプリングフィールド先生を快く
迎えるため、ささやかながらパーティを開くのだそうな。
400
込めたら折れそうだよあの人
上手く言えん。
﹄
﹄
ともかく不思議な雰囲気と魅力のある先生だと言う事だ。ううむ、
すぎないというか。
うだが、パッと見隙がないというか││優しさは感じるのだが柔らか
しかしあいつらの騒ぐ気持ちも分からんでもない。容姿の事もそ
騒げりゃ何でもいいんだろう、きっと。
美形ではあったが男じゃないのにテンション高かったなぁ。まぁ
出し、軽く頭痛。
⋮⋮やめよう。自己紹介後に起こった喧しい質問責め情景を思い
﹃え、あの、皆おちつ、﹄
何か力
正直面倒臭い事この上ないが、クラスの殆どは乗り気であるよう
だ。祭り好きも良い加減にしろよ全く。
︵⋮⋮にしても、ネカネ先生ねぇ︶
﹄
日本語ペラペラ
知的美人
窓際に飾りをペタペタしつつ、今日の事を思い出す。
美人
﹃││外国人の先生だああああ
﹃何人
!
﹃え、何歳ですか ってか包容力凄い感じるのに儚いよ
!
何か言った
﹂
﹁⋮⋮ま、それでも普通っぽいから良いけどな﹂
﹁え
?
そう返し、次の作業へと移る。
確かに外国人という事や、松葉杖を突くような身体障害があったり
と﹁普通﹂では無い要素はある。
しかしそれは﹁異常﹂と呼ぶべきものではなく、まだ現実的な要素
のはずだ。というか、それらを﹁異常﹂だなんて言ったらその方が﹁異
常﹂だろうよ。
それに担任では無く影の薄い副担任。赴任時期的にもおかしい所
はなく、私としてはそれ程気を割く必要性もない。
﹁⋮⋮ふぅ、こんなもんか﹂
401
!
!?
!
!
!?
?
いいや別に。どこからか耳ざとく聞きつけてきたクラスメイトに
?
そうこう考えている内に飾り付けが終わり、手持ち無沙汰と相成っ
た。
教室を見回しても特に手伝いを必要とするところは無いようで、こ
れで仕事は終わりという事にして良いだろう。多分。
罪悪感に駆られているのか鳴滝姉妹と春日が人一倍ちょこまか動
いているのを眺めつつ、手近な椅子に腰掛けホッと一息。休憩タイ
ム。
頬杖を付きぼーっとする。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ふと、今朝の事が気になった。
そう言えば先生の言がある前に、パソコンの画面に変なものを見た
ような気がしたんだっけ。
唐突に思い出した衝動のまま鞄からPCを取り出し確認してみた
が、気になる物は見受けられない。サイトの新しいギミックだったの
﹂
たい訳でもなく、ただ周囲に迎合したまま手伝っていただけだ。
それを抜けられる免罪符を利用が出来たのなら、それを使わない手
はあるまい。私は告げかけていた言葉を取り消し、裕奈の疑問にノッ
402
だろうか、まさかウイルスなんて事は無いだろうけど。
﹁⋮⋮無いよな
これをきっかけにすればこの場から抜けられる
?
別に私としてはネカネ先生と触れ合いたい訳でも歓迎会を楽しみ
んじゃないか
る。⋮⋮待てよ
焦りかけた私の様子に疑問を持ったらしい裕奈に返しかけ、止ま
﹁ああいや、何でもな││﹂
﹁どったの長谷川ー、何かソワソワしてるけど﹂
する。ううむ、情報強者として情けない。
次々と心当りのような物が浮かび、ちょっぴり不安になりPCをさ
るな。安心とは言えんか。
思えば入れておいた先生はちょっと前に期限が切れていた気もす
ないし。いやでも、迷惑メールとか結構来てるよな。
や、別に変なサイトとか⋮⋮見てなくもないが、じっくりとは見て
?
?
た。
余裕て言う
﹁いや、少し心配事があってさ。ちょっと落ち着かないというか⋮⋮﹂
﹁ふぅん、そうなんだ。⋮⋮あ、じゃあ歓迎会どうする
か、時間とか﹂
ちょっと抜けさせて貰っていい
空気読まずにスマンけどさ﹂
﹁そこら辺は大丈夫だと思うんだが││││、⋮⋮いや、悪いけど一応
?
余ったお菓子取り置きしとくよー
﹂
!
な飲食店やカフェを含んだ食堂棟、電気屋まで存在し、
﹁学生に必要と
販売しているものも多岐に渡り、文房具やスーパーは勿論、本格的
を見ているととてもそうは思えない。
棟﹂との事らしいが、街道に沿って様々な種類の店舗が立ち並ぶ光景
学生手帳に書かれた文言では﹁広大なスペースに立てられた購買
麻帆良にはそれなりに大きな商店街がある。
た。
に見つからないよう身を縮こませ、足早に階段へと向かったのだっ
危ない危ない、こりゃもう少ししたら時間切れだったな。私は彼女
には気づいていないらしい。
行く役の神楽坂と、件のネカネ先生だ。何やら会話をしていてこちら
廊下の奥から二つの人影が向かってくるのが見えた。主賓を呼びに
そうして他のクラスメイトに捕まらなかった事に安堵していると、
らに手を振る裕奈への挨拶もそこそこに静かに教室から抜けだした。
いい具合に話の流れをコントロール出来たと私はほくそ笑み、こち
がって断る事である。
⋮⋮上手に嘘をつくコツは、一旦相手の提案に乗りかけつつも残念
﹁おっけー
﹁本当だよ。まぁとりあえずネカネ先生によろしく頼む﹂
らしょうがないね。準備だけで終わるなんて災難ですにゃあ﹂
﹁多分平気だと思うけど⋮⋮うーん、残念だけど切羽詰まってるんな
?
思われる品﹂を販売してくれている。大抵の物はここで買い揃える事
が出来るだろう。
﹁⋮⋮さて、到着と﹂
403
!
で、まぁ。今回私が用があるのはとある電気屋。電球を始めとした
生活用品からPC機器まで幅広い品を取り揃えている私行きつけの
店だ。
⋮⋮何を買い求めるのかって これまでの流れからウィルス対
策ソフト以外ねぇだろ。
本当は学外のそれ専門の店やネットで見繕った方が良いんだろう
が、外出許可を得るには予めの申請が必要だし、通販は届くまでにラ
グがある。
一先ずはチェックが出来るソフトがあればそれでいいと妥協し、い
そいそと店の扉を潜った。
﹁パソコン関係は確か二階だったよな⋮⋮﹂
電球、掃除機、暖房器具。それらが並んだコーナーを抜け、エスカ
レーターに乗って上の階へ。
少しばかり探すのに手間取ったものの、会計ソフトやネトゲのパッ
ケージが並んだ棚に目当ての物を発見。暫く値段と性能を見比べ睨
めっこ。
スタンダードな先生か、それとも安価な別の奴か。うーむ、悩みど
﹂
ころである││││と。
﹁⋮⋮
﹁ん、あ
﹂
逆なでし、物凄く気持ちが悪い。
?
いる。
││目の前にある棚の並びが、先程までとほんの少しだけ変わって
││そして、気づいた。
無性に落ち着かない精神の中、私は何かを探すように周囲を見渡し
何だ、何なんだこの感覚は⋮⋮
かし小骨が喉に引っかかったが如く些細でイラつく違和感が神経を
自分でも何がなんだか分からないし、
﹁普通﹂ではないとも思う。し
かが、気づかない内に変わったような雰囲気がしたのだ。
何がと聞かれると非常に困るのだが、何だろう。私の気づかない何
?
404
?
⋮⋮何か、小さな違和感を感じた。
?
﹁⋮⋮⋮⋮
﹂
会計ソフトとウィルス対策ソフトの間にあった、とあるネトゲの
パッケージが消えていた。
咄嗟に自分の持ったソフトのパッケージを確認するが、当然それは
違うもの。床にも、棚の裏を覗いても落ちてはいない。
見間違えじゃない、さっき確かにあった事は確認していた。視界の
背景でその存在を主張していた。他の客も周りにおらず、誰かが取っ
た気配も感じなかったのに、消えている⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮は
カツカツとローファーを
﹂けれど瞬きの後には既に跡形もなく消えており、何も見えな
⋮⋮こりゃ精神科じゃなく眼医者か
い。
﹁⋮⋮
がして足を止めた。
││そして、立ち去るその一瞬の間。何か蒼い棒が視界を過った気
﹁││││﹂
とレジに向かう。
私は咄嗟に値段の安い方のソフトを棚に戻し、早くこの場を去ろう
かな。
この上なく不気味な事象と映っていた。やっぱ精神病のケがあんの
しかし﹁普通﹂を信条とする私にとっては、その小さな﹁異常﹂は
細な出来事だ。
⋮⋮取るに足らない。それこそ勘違いで済ませられるレベルの些
悪寒が背筋を駆け上がる。
﹁⋮⋮うーわ、キッモ﹂
?
*
﹁ウイルス、無きゃ良いけどなぁ﹂
気を取り直しての夕方。
小学生から大学生。幅広い年代層の学生が歩く街道を進みながら、
405
?
鳴らしながら、気分の悪さに胃元を抑えた。
?
?
手に持ったビニール袋に目を落とす。
その中身は先程適当に選んでしまったウィルス対策ソフトだ。結
局は使い慣れたものを買ってしまった訳だが、まぁ別にいいよな。値
段より安全だ。
とりあえず心配事はなくなったと息を吐き、女子寮への道を辿っ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
違う。
⋮⋮そうして静かに歩いていると、どうしても気になる物が目に入
る。
走り込んでる部活人
ツッコミたいが、違う。
死ねとは思うが、違う。
不良を武力で抑えこんでる指導教師
いちゃこいてるカップル
ネットで見る外の世界はもっと落ち着きがあった。もっと狭く現
でさえも、私の学んだ﹁普通﹂とはかけ離れている。
否、それだけじゃない。この街は規模も常識も住んでいる人間の質
もっと騒げよ、静か過ぎる。
││おかしいだろう、世界樹という奇異な存在に対しての反応が。
ず、である。
ない。年に何回かは一般にも麻帆良の門を開いているにもかかわら
もまるで誰かに隠匿されているかのよう小さく大きな噂になる事も
それなのにこの街以外では大して知られておらず、ネットでの扱い
るべきモノの筈だろう。
らかにそんなレベルじゃない。世界遺産として厳重に管理されて然
私以外の殆どはこの木の事をすげーすげーと持て囃しているが、明
的であると同時、極めて幻想的な存在だ。
脈打つ木肌に、幾百幾千と別れる枝の先に咲く瑞々しい大葉。神秘
気に入らない。ああ、気に入らない。
﹁⋮⋮チッ﹂
以上に高く聳え立ち、今もなお夕陽の光を遮っている世界樹の事だ。
││この麻帆良の象徴とも言える大木。東京タワーと同等かそれ
?
実的なものだった。こんなトンチキ塗れのノーテンキワールドじゃ
406
?
?
なかった筈なんだ。
つ ー か さ っ き の 指 導 教 員 も 何 な ん だ よ 普 通 に 生 徒 殴 っ て ん じ ゃ
ねぇよそれよりカップル諌めろよ頭湧いてんのか。
何故皆は﹁普通﹂なんだ。何故皆は﹁異常﹂を疑問に思わないんだ。
何故、何故、何故⋮⋮⋮⋮。
﹁んぐっ⋮⋮﹂
ぎち、と。唇を噛み締め目を逸らす。さらりと揺れた明るい色の髪
先が、瞼を軽く擽った。
⋮⋮世界樹という大きな﹁異常﹂を見ていると、過去に無理やり押
し込めた感情が熱を持つ。それも嫌いな部分だ。
私 一 人 が 騒 い で も ど う に も な ら な い 事 は 嫌 と い う 程 知 っ て い る。
何時ものように見ないふりして生きればいい。
唇の裏で鉄錆の味を感じつつ、私は最後に世界樹を睨みつけ││目
を逸らし。以降は視界に入れないよう明後日の方向を見ながら早足
いやそんなバカな。
?
407
で歩く。
あーやだやだ。常識人はつれーわー、マジでー。
⋮⋮そんな愚にもつかない強がりで自分を慰める姿はさぞ滑稽な
事だろう。何かもう逆に悲しくなり、大きな溜息が漏れだした。ちく
しょー。
﹂
暫く鬱々とした気持ちを抱え、のたりぺったり足を引きずる。
﹁⋮⋮あん
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
くには見当たらない。無人占い機ってか
看板を見る限り占い屋の一種だろうか。しかし店員らしき影は近
トである。
﹁占います﹂と描かれた看板が置いてあるだけの店とも呼べないセッ
単なる木箱に白い布を被せた簡素な台の横に、やたら綺麗な字で
⋮⋮出店
いや、それ程上等なものじゃないな。
ものがあるのに気がついた。
何時もはただ街路樹が整然と並んでいるだけの道に、出店のような
そうして商店街を抜け、人気も薄くなった折。
?
?
﹁⋮⋮変なの﹂
まぁ気にはなるが、強い興味は引かれない。私はそのままそれらを
スルーし、通り過ぎ。
﹂
﹁⋮⋮、⋮⋮、⋮⋮﹂
﹁うおわっ
││すれ違いざま、箱の影に隠れるようにしゃがみ込んでいる影を
﹂
発見し思わず飛び退いた。
﹁な、何だ⋮⋮
て﹁普通﹂の奴がする事か
相手は体を震わせ泣いている子供だ。それを見捨てるのが果たし
⋮⋮だが、なぁ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮大丈夫、大丈夫だもん⋮⋮﹄
歩き去る。
利口だろう。誰が好き好んで面倒を背負い込むかよ。鼻を鳴らして
こら駄目だ。﹁普通﹂ならば、このまま近寄らず知らんぷりするのが
わ。横の占い屋セットを見ながら声を漏らした。
﹁うーわ﹂何というか、言動や状況から色々と厄介事が透けて見える
らかに尋常ではない様子。
ながら必死に太陽を眺め続けていた。ぽろぽろと涙も零れており、明
彼女は何かに怯えたように体を縮め、英語で某かの言葉を呟き続け
﹃明るい、大丈夫、明るい、大丈夫、明るい、大丈夫、明るい⋮⋮﹄
なくもない。おそらく、将来は相当な美人になるんじゃなかろうか。
着ている真っ赤なローブが神秘的な雰囲気を放っているように感じ
ツインテールに纏められた赤い髪と少し尖った赤い瞳が特徴的で、
人の少女のようだ。
いやあんまりにも小さくて気付かなかったが、よくよく見れば外国
?
と向かった。
﹁⋮⋮はぁ﹂私は足を止め、大きな溜息を一つ。身を翻して少女の前へ
れに一人泣いてる女の子とか、見に覚えがありすぎてどうにも、ねぇ。
私としてはどうしてもそうは思えないし││思いたくはない。そ
?
408
!?
まぁ最悪、巡回している指導教員に押し付ければ何とかなるだろ
どこか体調でも悪いのか
﹂
う。頭をポリポリ引っかきつつ、柔らかさを意識して声をかける。
﹂
﹁あー、と。なぁ、どうしたんだ
﹁
うっせーこれでも頑張ってんだよ。
?
れたことに驚き身体を跳ねさせた。
少女はどうやら私の存在に気づいていなかったらしく、声をかけら
⋮⋮どこが柔らかいって
?
そして恐る恐る私に視線を向けると、その動きを止め││
﹃くろく、ない﹄
﹁んぁ
﹂
何て
﹂
﹄
うわ、ちょおッ
﹃││く、黒くないっ
﹁え
!
?
﹁おいどうした
マジでどこか悪いのか
なぁ
﹃もーやだぁ どこ見回しても黒髪ばっかりぃ
﹄
﹂
﹂
ニッポン、アジ
ちょっと落ち着け、服が濡れるッ
うとしない。つかホントに力強ッ
の何処かで諦めの声を聞いた。
即ち││││ああ、やっぱり厄介事だった。
﹂
ホント、ホント怖かったぁ
﹃ネカネお姉ちゃんはお仕事だし、タクと一緒じゃダメだし
﹄
ああもう良いから一旦離れろッ││││
うかどっちにも頼っちゃダメだしぃっ
⋮⋮
﹁ネ、タク、何
!
!!
!
色鮮やかな夕焼けの中、少女の泣き声と私の怒鳴り声が空へと轟き
?
てい
そしておしくら饅頭にも似たやり取りをしている中で││私は心
!
半ば錯乱した少女を必死で宥めようとするが、聞く耳持たず離れよ
!
アなんてもうやだぁ
﹁いや英語分かんねぇから
!?
!
!?
ぎゃーすかぎゃーすか、じたばたわちゃわちゃ。
!
!
!
!?
の高めの体温が制服越しに皮膚を温める。いやそれはともかく。
その力と言ったら子供とは思えない程に強く、押し付けられた少女
突然瞳に活力を取り戻し、勢い良く抱きついてきた。
!?
?
!?
!
409
?
!
消えていく。
それは延々と響き続け、暫くの間止むことがなかったそうな。ド畜
生。
410
千雨ってツンデレの括りで良いのかな 編
││アンナ・コロロウァ。通称アーニャ。
一通り騒ぎ終え何とか平静を取り戻した少女は、流暢な日本語でそ
う名乗った。
﹁ん﹂
﹁⋮⋮どうも﹂
件の場所からそう離れていない、道沿いに設置されたベンチ。
隣に座るアンナに近場の自販機で買ってきたオレンジジュースを
差し出せば、彼女は存外に大人しく受け取った。
先程の取り乱し様が嘘のようだ。自分でも恥を晒した自覚はある
のだろう、必死に取り繕っているようだが頬の赤みまでは消せていな
い。
まぁそこを突っついてからかうような趣味はないので、私も買って
きたコーヒーを開け﹁⋮⋮、⋮⋮﹂ずに鞄に仕舞い込み、そっとベン
チの影に隠しておく。
いや、何かヤな予感がして。分かんないけど。
﹁えっと。チサメ、だっけ。さっきはゴメンナサイ、色々失礼な事し
ちゃって﹂
﹁⋮⋮や、まぁ、それは別に良いさ。何か被害被った訳じゃないしな﹂
精神的な疲労は兎も角として、怪我を負った訳でもないのだ。
むしろよく考えれば、直前まで背負っていた憂鬱な気分を誤魔化し
てくれた分利益があったと言ってもいいんじゃなかろうか。涙で濡
れた制服と合わせても差し引きプラスだ。もうそんな感じで考えと
こう、めんどくせぇ。
そう︵自分にも︶言い訳するとアンナはホッとしたように顔を綻ば
せ、微妙な重さを持った空気が多少なりとも軽くなる。私も幾分気が
楽になり、胸のつかえを吐息と共に吐き出した。
と言うかネカネ先生とかもそうだが、外国人が流暢に日本語喋る
のって凄まじい違和感だな。アクセントまで完璧じゃねぇか。うち
のクラスにも中国からの留学生が﹃一人﹄居るが、見習って欲しいも
411
んだ。
それはともかく。
﹁⋮⋮で、それより何であんなとこで蹲ってたんだ
ら病院まで連れてってやるけど﹂
﹁別にそういうのじゃない⋮⋮けど、その⋮⋮﹂
﹁あー、良い良い。言いたくないんなら別に﹂
具合悪いんな
言いにくそうに言葉を詰まらせるアンナを手を振って制した。
気にならないといえば嘘になるが、あまり言いたくない事柄だとは
﹂
嫌でも察せられる。私としても厄介事に率先して首を突っ込みたい
訳ではないし、無理に聞き出す必要もない。
﹁とにかく、腹が痛いとか体弱いとかそういうのじゃ無いんだよな
﹁う、うん。違うわ。身体はなんともない﹂
﹁そか、それなら││⋮⋮、⋮⋮﹂
一人でも大丈夫か、という言葉が喉元で止まる。
気づけば無意識の内に指先が制服に向かい、先程アンナの涙で濡れ
?
﹂
私はぶへぇと溜息を一つ。一先ず面倒を見てやることを決心し、後
頭部をガシガシ掻き回しつつ立ち上がった。
あーもう、面倒臭いし厄介だとは思うが仕方ない。ここで見捨てた
ら後が気になって眠れなくなりそうだし、出来る限りは付き合ってや
るよ畜生め。
﹁え⋮⋮でも、私まだやらなきゃ⋮⋮﹂
﹁何を。またさっきみたいに踞んのか﹂
﹁ぬぐ﹂
アンナは私の言葉に図星を突かれたようにたじろぎ、涙の跡が残る
412
?
た部分へと触れていた。まだ乾ききっていないそこはしっとりと湿
り、冷たい感触を伝えてくる。
⋮⋮いや、これダメじゃね。一人で残すの。
うん、ここから十分くらいかしら﹂
﹁⋮⋮アンナ、お前ここから住んでる所近いのか
﹁え
?
三十分以上なら指導教員に押し付けられたんだがな。
﹁⋮⋮分ーかった、なら家まで送ってく﹂
?
瞳でこちらを睨みつける。
まぁどうせこれっきりの縁だろうし、何を思われようが別にいい。
私は無言のまま鼻を一つ鳴らし、ぶっきらぼうにアンナへ片手を差し
出した。
出来る事なら取らないでくれると楽なんだけどな││そんな碌で
もない事を考えながら。
﹁⋮⋮むぅ⋮⋮﹂
しかし、そんな願いは届く事は無く。アンナはしばし悩んだ後ぷ
いっと顔を背け、それでいておずおずと小さな手を私のそれと重ねあ
わせた。
可愛げがあるんだか無いんだか、良く分からんガキだよ。全く。
*
家まで十分くらい││初めは直ぐに送り届けられるだろうと高を
括っていた私だったが、その予想は大きく外れる事となった。
﹁⋮⋮なぁ、歩きにくいんだけど﹂
﹁お、送るって言ったのチサメなんだから、きちんとエスコートする
のっ﹂
何か分からんがコイツ、他の通行人とすれ違う度に強く私に抱きつ
きやがるのだ。
当然その度に私の歩みは乱れ、必然的に牛歩となる訳で。しかも先
の様なツンケンした態度とは裏腹に、抱きついている間はアンナは小
さく震えて居るのが分かり、文句を言うにも言いにくい状態だ。
のたのたと、のたのたと。既に歩き始めてから十分はとうに越して
いる。何なんだコイツは、強がってるくせに人見知りかっつーの。
﹁⋮⋮私ね、ニッポンには修行に来たの﹂
そうしてアンナと二人手を繋ぎ、微妙に気まずい雰囲気の中で家路
を歩くその道がすら。彼女は沈黙の多かった空気を入れ替えるため
か、ポツリポツリとそんな話をし始めた。
⋮⋮私としては無駄話するよりさっさと歩けと尻を蹴っ飛ばした
い所だったが││まぁそこはグッと堪え。気分を変える為にその話
題に乗ってやる事にする。
413
﹁修行って、お前の年で
そら。
何のだよ﹂
卒業課題って事は、コイツは既に小学校を出た中学生って事か
にしては子供っぽすぎるような。
じゃあ
?
けてこいってか
んなアホな。
﹁⋮⋮つまりコネか。卒業課題だってのに﹂
﹁むぐ⋮⋮まぁ、言ってみればそうなんだけど││、っ
﹂
てくれて、やりやすいだろうってマホラを紹介してくれたのよ﹂
﹁それで私の幼なじみのお爺ちゃん││学校の校長先生が気を利かせ
と苦心している間にも話は続く。
軽く混乱しつつもアンナの話を噛み砕き、
﹁普通﹂の範囲に収めよう
もしれんけども。
じゃなくストリートパフォーマンスの一種としてやらせれば合法か
見 聞 を 広 め さ せ る 一 環 ⋮⋮ 後 で レ ポ ー ト で も 書 か せ る
商 売
⋮⋮いやでもそもそも占い師ってなんだよ。客と話して詐術でもつ
日本に無い種類の学校があって、飛び級みたいなシステムってんなら
ああいや、でも海外じゃ日本と教育制度が違うんだっけ
やっぱあのセットってお前のだったのね││じゃねーよ。何じゃ
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
もそれをやってたの﹂
の課題が﹃暫くの間日本で占い師として修行する﹄って事で、さっき
﹁占い師よ。私の通ってた学校は卒業した後課題が出るの。それでそ
?
た。
く。するとその意味を誤解したのか、アンナがビクリと肩を震わせ
何となく気恥ずかしさを感じ、誤魔化し混じりに大きく溜息を吐
浮かべて歩き去る。何か良からぬ誤解を受けた気がする。
通り過ぎる女子高生はその様子を微笑ましげに眺め、口元に笑みを
し、アンナは例によって私の影に身を潜めた。またかよ。
⋮⋮ と、そ こ ま で 語 っ た 時。向 か い か ら 歩 い て き た 通 行 人 に 反 応
!
﹂
414
?
?
?
﹁⋮⋮私。昔ちょっとあって、黒いのが苦手なの﹂
﹁あ
?
﹁黒いもの、ブラック、ヘイ、キライ﹂
﹁いや聞き取れなかったって訳じゃねーよ﹂
一体何の話だ││と胡乱に思ったが、そういえばと振り返ってみれ
ば先程の女子高生は綺麗な黒髪をしていた。
私は明るい髪色だから安全圏と
⋮⋮つまり何か。さっきから抱きついてきたのは黒髪に反応して
いたと言う事か
﹂
ずげな表情で目を逸らす。大体合っているというこったろう。
﹁⋮⋮ゴキとかなら分かるけど、髪の毛も
﹁イ、イギリスでは少なかったし殆ど何とも無かったんだもん
だこっちでは⋮⋮﹂
﹁あー、まぁ一面真っ黒だよなぁ﹂
た
そのまま確認の意味を込めた視線を落としてみれば、アンナは気ま
?
に変えられなかったのか
﹂
﹁お前なんで日本に来た││って、ああそうか、課題な。それ他の場所
黒ばっかりで、無理で、わかんなくなって。結局あんな所で⋮⋮﹂
﹁⋮⋮占いも、本当はもっと人の多い所でやる筈だったんだけど⋮⋮
前に思い当たっとけ、とは酷な話かね。
一人二人なら我慢できるといえど、数が揃えば無理だったと。来る
うかアジア圏である以上黒髪も相当数存在する。
こういうとこも嫌いだ、生物学的な常識はどこ行った︶、日本││と言
この街では割とカラフルな頭をした連中が多いとはいえ︵麻帆良の
!
?
返事を返し、何となく納得っぽいものをする事にした。所詮場繋ぎの
まぁ色々と事情があるという事だろう。私は﹁ふぅん﹂と気のない
はいけない事を口走った、という風情だ。
言いかけた言葉を途中で飲み込み、会話が途切れた。どうも言って
⋮⋮、っ⋮⋮なんでもない﹂
﹁私の事じゃない。ついてきてくれたタクとお姉ちゃんにとって││
﹁⋮⋮いや、どこがだよ。お前にとっては地獄じゃねーか﹂
﹁⋮⋮ここが、一番安全だったから﹂
がそう言うとアンナは目を伏せ俯き、握る手に力を込めた。
どうせコネを使うんなら、そこら辺までコネれば良かったのに。私
?
415
?
会話だしな。
しかし何故かアンナはそんな私を探るような目で観察し、少し警戒
﹂
した様子を見せる。ちょっと居心地が悪い。
﹁⋮⋮何だよ
﹂怪訝には思ったがわざわざ尋ねる程の事では無く、それきり会話
ね││││と。
?
も軽くなる。
?
ええと、そうね。私はよくこの水晶を使うんだけど││﹂
﹁⋮⋮なぁアンナ、お前占いってどんな事するんだ
﹁え
﹂
乗っていた重りが数を減らし、少々気分が上昇志向。心なしか足取り
こ れ な ら ア ン ナ を 送 り 届 け た 後 は 直 ぐ に 帰 れ そ う だ。私 の 心 に
家は女子寮の近くにあるらしい。
その道は私が何時も登下校に使っている道であり、どうやら彼女の
へ行く。
人差し指でさし示し、改めて道筋を確認。アンナの手を引きその先
﹁あ、うん。後はこの道を真っ直ぐよ﹂
﹁んで、ここを左でいいのか
﹂
的にあんま認めたくないが、これがコミュニケーションの力って奴か
多少なりともお互いの質が分かった為だろう、随分と気が楽だ。私
は途切れ黙々と歩く。けれどそこには先程の微妙な空気は無い。
﹁
だ。
そして何らかのお眼鏡に適ったのか、彼女は一転して気楽な様子
﹁││いいえ、べっつにー﹂
?
麻帆良に務める女性教師の寮は、生徒の寮のすぐ近くに建てられて
﹁⋮⋮教員寮じゃねぇか⋮⋮﹂
た。というか、これは。
アンナの家は女子寮のすぐ近く、歩いて5分もしない場所にあっ
背後を詰め襟の男子学生達が駄弁り、通り過ぎていった。
てやり。私達は和やかな雰囲気のまま、夕陽に染まった道を進む。
今ならある程度の無駄話も許せそうな気がして、敢えて話題を振っ
?
416
?
いる。
それは夜遊びする生徒の監視か、それとも生徒と教師のコミュニ
ケーション強化のためか。⋮⋮まぁ生徒の質を見る限り後者だろう
な。きっと。
とはいえ生徒側が自由に出入りできるという訳では無いので、私も
ここまで近くに来たのは初めてだ。別に悪いコトをした覚えもない
教師じゃないと入っちゃいけない場所
のに、無意味に周囲を警戒してしまう。
﹂
﹁なぁ、本当にここなのか
だぞ
ガシ、と。背後からスカートを摘まれ、強制的に歩みが止まる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
去ろうと気分よく歩き出し││││
さっさと帰ってPCを見てやるか。私は安堵の息を吐き、この場を
さて、色々と面倒ではあったが、これで気兼ねは無くなった。
つって。
れの挨拶もそこそこに背を向ける。これにてお役目御免なり、なん
恥ずかしげに頭を下げるアンナに軽く手を上げて、
﹁じゃあな﹂と別
おくよ﹂
﹁どっちかといえばついてきたのお前だけどな。まぁ礼は受け取って
てアリガトね﹂
﹁じゃあチサメ、ここまで来たら大丈夫だから。⋮⋮ついてきてくれ
りがハッキリと浮かぶが、確信はないので踏み込まないで置く。
⋮⋮外国人の女の子がお姉ちゃんと呼ぶような教師、ねぇ。心当た
れば間違いではないのだろう。
のカードを取り出した。教員寮で使われているカードキーだ。とな
挙動不審気味な私にアンナは不思議そうな顔をしつつ、懐から一枚
らってるの﹂
﹁間違ってないわよ。お姉ちゃんが先生で、一緒の部屋を使わせても
?
うーむ、何か嫌な予感。
振り向いてみれば、アンナが何やら必死な様子で上目遣いにこちら
を見あげていた。
⋮⋮まだ用があるの
?
417
?
﹁⋮⋮何だよ
﹂
﹂
だけどこれ以上はイケナイから、だから
!
い。
﹂
お願い
﹂
お金も取らないし、サービスするから ね
!
い。
⋮⋮仕方ない、子供にここまで請われて断れる奴は﹁普通﹂じゃな
︵これだからガキは、いやガキっつーか私⋮⋮ああもう︶
⋮⋮蹲り、涙を零していたアンナの姿が脳裏を過る。
灼いた。
りすりゃ良かった││とはやっぱり思えず、行き場のない憤りが胸を
面倒くさいのに手を伸ばしちまったなぁ。こんな事なら見ない振
ざりと天を仰ぐ。
最早悲壮感すら漂ってくるその様子に私はほとほと困り果て、うん
!
﹁と、とにかく
いいから常連になって欲しいの
!
﹁偶に来るだけなのに常連って矛盾してな、﹂
!
ずっと居ろって言うのじゃなくて、偶に来るだけで
を強く握りしめる。皺が寄ると振り払いたいがそんな雰囲気でも無
涙を滲ませたアンナは無力感と共にその語気を強め、更にスカート
⋮⋮
﹁もう頼っちゃってるの
う一人の何とかって奴に頼めよ。私関係ないだろ﹂
﹁そういうの、ついてきてくれたっていう﹃お姉ちゃん﹄とか⋮⋮後も
だ。黒髪じゃなきゃ何でも良いんか。
いたいのだろう。どうも懐かれた││というか、目をつけられたよう
多分、明日占いやってる所を見に来てくれとかそんな感じの事を言
ンナだったが、この時点で何となーく察した。
摘んだ裾を擦り合わせつつむにゃむにゃ要領の得ない事を呟くア
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮﹂
﹁え、あ、あのね。私明日も占い師するんだけど⋮⋮その⋮⋮えっと
?
!
﹁ちゃんと占うから
ねっ
!?
418
!
占いでサービスって何すんだ。
!?
私は﹁普通﹂だ。もう何度目かも分からない溜息を吐き、諦観の念
と共に彼女の頭に手を乗せる。サラサラの髪の毛が指先に絡まり、そ
の心地良い感触にほんの少しだけ苛つきが引っ込んだ。
﹂﹂
中央広場⋮⋮は無理だから、その外
居るんだからね
絶対だからね
﹁⋮⋮わーった。学校終わってからだけど、余裕があれば行ってやる。
だから離せ﹂
﹁や、やった
れの道辺りに居るから
││私とアンナ。これから長い付き合いとなる彼女との関係は、と
で深く息を吸い込んで││││
ああヤダヤダ。私はそんな自分を非常に情けなく思い、肺の限界ま
かそれを微笑ましいと思う自分がいる。
まるで鬼の首を取ったかのように喜ぶアンナに辟易しつつも、どこ
!
!
ても大きく、そして重たい溜息から始まったのである。
419
!
!
にょっきり 編
﹁││ええと、長谷川さん
少し良いかしら﹂
朝、SHRが終わってすぐ。
一時間目の授業の準備をしていた私の耳に、透き通った美しい声が
落ちた。
顔を上げればそこにあったのは声に相応しい美貌。副担任のネカ
ネ先生がこちらを見下ろしている所だった。
私は先の歓迎会に参加しておらず録に会話も交わしていないため、
距離感をうまく掴みきれていないのだろう。どこか緊張した雰囲気
が漂っている。
﹁⋮⋮はい、何でしょうか﹂
﹂
﹁その⋮⋮昨日の放課後、長谷川さんがアーニャを││アンナを家ま
で送ってくれた⋮⋮のよ、ね
楚な雰囲気出せんの
このクラスに居るとマジで疑問なんだが。
くてよかった﹂と柔和な笑顔がふわりと浮かぶ。何食ったらそんな清
すると先生はホッとした様子で胸に手を当て、
﹁ああ、人違いじゃな
だけを頭に入れ、素直にその通りですと頷いた。
︵ま、何でもいいや︶別に今考える事でもなし。繋がりがあるという事
ね。
とも家族関係では無いだろう。となれば地元での知り合いか何かか
血縁にしては顔の作りに結構違いがあるように見えるので、少なく
の関係があるらしい。
⋮⋮薄々分かってはいたが、やはりアンナとネカネ先生には何らか
る。
自信なさげに眉を寄せ、こちらの反応を伺うようにそう訪ねてく
?
たわ﹂
﹁はぁ。と言いましても、たまたま見かけて一緒に帰っただけですけ
ど﹂
﹁それでもアーニャにとっては凄くありがたい事だったと思うの。ほ
420
?
﹁あの子についていてくれてありがとう、長谷川さん。本当に助かっ
?
ら、あの子って強がってるけど脆い所があるから⋮⋮﹂
先生は俯き、その先の言葉を濁したが││まぁ言わんとする事は分
かる。おそらくアンナの黒色恐怖症の事を言っているんだろう。
⋮⋮それを把握し心配してるんなら、もうちょい何かしたらどう
だ。つーか帰らせた方が良いんじゃないか。そんな事を言いたい所
ではあるが、これに関して触れない方が良いんだろうな。
単純に部外者という事もあるが、私程度が考えつく事なんて既に分
かっているに決まってる。見る限りデリケートな問題であるようだ
し、下手な考えなんとやらだ。
﹁アーニャもお礼を言ってたわ、長谷川さんの事気に入ったみたい﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
んな可愛げ見せてたっけ。記憶に無い。
﹁それで、もし良ければなんだけど⋮⋮これからもアーニャの事、気に
かけて貰えないかしら﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あ、勿論無理にって訳じゃないの。あの子今は人の少ない広場の外
れで占い師やってるから、たまたま通りがかった時に手を振ってあげ
るだけでも││﹂
﹁や、あの。ダメとかいう事じゃなくて⋮⋮﹂
私が少し不機嫌になったのを察したのか、おろおろと狼狽えるネカ
ネ先生の言葉を遮り、うなじの辺りを軽く掻く。
まぁこれに関しては改めて先生に言われなくても、既に対応は決
まっているのだ。
さーて何と言ったらいいものか。私は﹁あー﹂とか﹁うー﹂とか要
領を得ない呻きを繰り返した後││興味津々な様子でこちらを伺う
クラスメイト達に聞こえないように、呟くように声を捻り出した。
﹁えーと││もう、約束をしちゃってるんで。⋮⋮す、よね﹂
⋮⋮チラ、と。
恐る恐る目を上げると、きょとんとしたネカネ先生と目が合った。
どうやら言葉の意味を測りかねているらしい。
どうせならこのまま分かんないままでもいいぞ。面倒だから、色々
421
と。
しかしそう思ったのがいけなかったのだろう。途端にその意味を
把握したのか、それはもう嬉しそうな笑顔が花開いたのであった。
⋮⋮こういうの、私のキャラじゃねーだろ。先生の居る手前口内で
鳴らした舌打ちが、食道の奥へと落ちていった。
*
﹁うすごす、ぷらむふ、だおろす、あすぐい。来たれ││おお、汝視界
﹂
のヴェールを払い除け、彼方の実在を見せる者よ⋮⋮││ちょっとだ
け﹂
﹁⋮⋮それ、絶対何か違くね
放課後の広場、その外れ。この辺りは大通りから外れているため人
が少なく、注目を浴び辛い場所だ。
約束通りに様子を見に来た私は、せっかくだからとアンナの占いを
受けてみる事にした。
少ないとはいえ、公の場で年端もいかぬ女の子に占われるというの
は中々に恥ずかしい物があったが、それはそれ。間近で見るとその手
法は割と本格的な物で、思わず感心してしまう。
︵何だ、結構ちゃんとやれてるじゃないか︶
目の前に置かれた水晶に手を当て、何やらそれっぽい詠唱を唱え。
手相や爪の形、虹彩など細かい所までつぶさに観察し、真剣に占って
いる。
それが何の意味を齎すのかは素人の私には分からんものの、
﹁ああ、
占われている﹂という雰囲気だけは如実に感じる事が出来た。多分単
純な人間ならころっと騙されるのではなかろうか。いやそれは語感
が悪すぎるな。
とにかく、その姿には昨日の様な取り乱し様は見受けられず、少な
くとも私が訪れる以前に問題は起きなかったと見てもよかろう。朝
﹂
422
?
から感じていた胸の引っかかりが、少しだけ取れた気がした。
へぇ、どんな感じだ
﹁││と、結果が出たわよ﹂
﹁
?
そんな感じで何となく穏やかな気分のまま占いをぼんやり眺めて
!
いると、自信あり気ま声が聞こえた。
サービスしてくれると言っていたし、きっと日本で言う吉に相当す
る結果を出してくれて居るのだろう。
今 ま で く じ 引 き で い い 結 果 を 引 い た 事 な ん て 無 か っ た か ら な ぁ。
﹂
私はちょっぴり浮かれ気分でいそいそと身を乗り出し││
出たのはどれだ。あ
﹁⋮⋮とりあえず、魔除けとして以下の事を﹂
﹁受難か凶か、それとも不幸か
?
しょうがないじゃない、占いの結果でそう出ちゃっ
﹂
!
き当ててくれよ﹂
﹂
﹁占いはジャパニーズ・オミクジじゃないの
ありのままに視る物なのよ
ありのままの運命を
﹁サービスしてくれるって言ってたじゃねーか、だったらいい結果引
たんだから
﹁何すんのよ
強引に手を振り解かれた。
半ば八つ当たりのままにもちもちやっていると、流石に怒ったのか
何もしなくても綺麗な肌でいられるから楽でいいわなぁ。
勿論本気な訳がなく、ぷにゅぷにゅと。もにもにと。クソ、子供は
ほっぺを押し潰す。
に目を逸らしているアンナに詰め寄り﹁むにゅょえっ﹂その柔らかな
どうやら碌でもない結果が出たようだ。軽く青筋を立て、気まずげ
?
意できるのに﹂
﹁その辺りが日本人の悪い所よね。悪い結果こそ受け入れていれば注
わりゃしないか﹂
﹁⋮⋮ま、いいさ。悪い結果なら信じなきゃ良いだけだしな。何も変
いない所為なのかもしれんけど。
⋮⋮やはりイマイチ腑に落ちん。まぁ私があんまり占いを信じて
特別なものは何も無い。
じっくり観察するが、そこには私の顔が逆さまに映っていただけだ。
ありのままの運命とか言われてもなぁ。胡乱な視線を水晶に向け
を指さしてくる。
ビシリ。何かが矜持を刺激したのか、ぷんすか怒りながら私の鼻先
!
423
!
!
溜息と共に呟かれた私の言葉を聞き拾ったのか、アンナは不機嫌そ
うに鼻を鳴らした。
﹂
﹁朝に見た人達も皆そうよ。いい結果だと信じて喜んで、悪い結果だ
と信じないで忘れようとするの。腹立たしいったらありゃしない
﹁そりゃそうだろ。﹃普通﹄の人は大体そんなもんだ﹂
特に朝の星座占いや血液型占いが顕著な例だろう。あれは見てる
人の殆どがそんな感覚の筈だ││
そう伝えればアンナは更に髪を逆立て、むーむーと唸り始め。占い
は軽いものじゃないだの占星術の観点が云々だの、面倒極まりない事
を語り始めた。いや知らんがな。
一体何が彼女をそうさせるのか。元々占い自体好きだったとかか
ね。私は水晶の前に頬杖をつき、ぼんやりとアンナの言葉を聞き流
す。
﹂
⋮⋮悪い結果こそ受け入れて注意しろ、ね。
﹁⋮⋮なぁ、アンナ﹂
﹁だから││⋮⋮ん、何よ。話聞いてる
まぁ、そこまでの情熱があるなら無下にするのも収まりが悪いし
な。
きまり悪げな気分を隠し何でもないような風にそう問いかけると、
アンナは一瞬驚いたような表情を浮かべた後、ニンマリと意地の悪い
笑みを浮かべた。ヤな顔。
﹁え ー、ど う し よ っ か ぬ ぁ ー。チ サ メ っ て 占 い 信 じ て な い み た い だ
すぃー、教えても意味ないんじゃぁ││﹂
﹂
ウソウソ チューリップ
ホントに
チューリップが魔除けにな
!
すれば、アンナは慌てた様子で押し留めてくる。
そうそう、ガキは素直が一番だ。根性ひん曲がりすぎると私みたい
424
!
そこまで言うん
?
ならとりあえずやっとくから、やっぱ教えてくれよ﹂
﹁さっきお前が言いかけてた魔除けって何なんだ
?
﹁そっか、なら良いや。占いサンキュな私はこれで﹂
﹁わー
るって出てたわ
!
!
顔といい言葉といいあんまりにもムカついたんで席を立つ振りを
!
!
になるぞ。うるせぇ。
まぁそれはさておきチューリップか、また変わったもんが出てきた
な。花言葉は何だっけ
﹂
リップ﹂
?
線だけをこちらへよこす。
﹁だから、私が買ってチサメに渡せば恥ずかしく無いでしょ
?
が││││
﹁⋮⋮だ⋮⋮ダメ⋮⋮
︵これだもんなぁ︶
﹂
正直私としてはさっさと帰って﹃趣味﹄に興じたい所ではあるのだ
う。全くもって傍迷惑な話である。
多分一種の安定剤というか、支え的な物にされかかっているのだろ
リップの話をダシに、少しでも時間を稼ぐつもりなのだ。
コ イ ツ 単 純 に 私 を 自 分 の 近 く か ら 離 し た く な い だ け だ。チ ュ ー
た。
チラッチラッ。そんな擬音が聞こえてきそうな仕草を見て、気付い
といけなくなるけど⋮⋮﹂
﹁まぁ私はもう少し占いやらなきゃだから、ちょっと待って貰わない
﹁いや。そりゃそうかもしれんが﹂
﹂
半眼になってそう問うと、アンナは何故か焦った様子で身を引き視
何を言っているんだお前は。
﹁⋮⋮あん
﹂
﹁ね ぇ、良 け れ ば 私 が 代 わ り に 買 っ て き て あ げ ま し ょ う か。チ ュ ー
ちた顔を近づけてくる。
今度は何だ。私が尋ねるよりも早く身を乗り出し、どこか期待に満
るのが目に付いた。
は保留かな││そう呟いていると、アンナが何故かソワソワとしてい
種ならなんとも思わないんだけども。言わせておいて悪いがこれ
﹁⋮⋮
わざわざ買うのも恥ずいしなぁ⋮⋮﹂
﹁チューリップ⋮⋮家の周りには咲いてないか。かと言ってこの年で
?
?
425
!
不安を帯びた目を潤ませての上目遣い。そんな顔をされちゃ断り
づらい事この上無し。
はいはい分かった、分かりましたよ。
私は諦めたように手を振り占い屋のセットから離れると、向かいの
﹂
ベンチにどっしりと腰掛けた。ある程度は待ってやるというポーズ
だ。
﹁⋮⋮
アンナはその様子に嬉しそうな顔をすると、張り切って客の呼び込
みを始めた。とは言っても水晶に手を掲げて何やら神秘っぽい雰囲
気を撒き散らすだけだが。
しかし放課後という時間帯もある所為か、ミーハーな女子学生を釣
る事は出来るようだ。決して盛況とまでは行かないもののポツリポ
ツリと客が来る。
まぁその殆どはアンナの容姿││﹁外国人の小さな女の子が占って
くれる﹂という部分に惹かれてるんだろうな。カワイーカワイーと連
呼する奴らのまぁ煩いこと煩いこと。
すると今現在占われている黒髪の女子学生が身を乗り出し、怯んだ
アンナがこちらに助けを求める視線を送って来た。
無視するのもアレなのでチロチロと指を振って返しておくと、何や
ら裏切られたような表情を浮かべる。いや一人で頑張れやそれくら
い。
私は溜息を吐くとそれから目線を外し、PCを取り出し立ち上げ
る。アンナを待っている間の暇つぶしだ。
﹁さて⋮⋮﹂
麻帆良の各所にはLANケーブルの差し込み口が用意されている。
最近では徐々に公衆無線LANスポットに取って代わられているよ
うだが、この辺りはまだ有線規格のようだ。
マジで狂ってんのか︶にPC
ベンチの端に置かれている缶ジュースのゴミに擬態した差し込み
口︵何でこんなアホな形にしたんだ
﹁││⋮⋮っ﹂
のケーブルを繋ぎ、適当なサイトへとアクセスする││││
?
426
!
⋮⋮ふと、背後から視線を感じた気がした。
酷く湿った、陰鬱な物だ。それは確かな存在感を持って後頭部を抉
り、不快な寒気が背筋を走る。
しかし振り向いてもそこには誰も居らず、ただ街路樹が並ぶのみ
﹂
だ。通り過ぎる人間も獣も、誰も居ない。
﹁⋮⋮気のせい、か
﹂すると一瞬だけアンナが私を⋮⋮というより後方を眺め
できなかったが││││何かが、あった
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何かを見ていた
?
く、街路樹に下がる茨が風に揺れているだけで。
もう一度だけ、背後を向く。けれどやはりそこに気を引くものは無
?
客の対応に追われ、すぐに視線を外してしまった為その表情は把握
ていたように見えた。
﹁⋮⋮ん
私は寒気を追い払うように首筋を擦り、温め。正面へと顔を戻す。
⋮⋮気持ち悪い、気持ち悪い。
実際、既に視線は感じない。あるのは不快な感覚の残滓だけ。
?
⋮⋮心の中に不安の種が撒かれ、根を張った。そんな、気配がした。
427
?
憧れとトラウマは紙一重 編
││カツカツ、と。靴底が擦れる音がする。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
平日の昼。午後3時を過ぎる少し前。
普段ならば社会人で溢れかえる筈のこの時間帯は、麻帆良という学
生達の地において過疎の時間域である。
居るのは精々早退した学生や教師達程度のもので、街は静まり活気
は無い。多くの学校が放課後を迎えるまでの限定された静の空間│
│そんな場所を、彼は歩いていた。
年齢はおそらく10に届くかどうかと言った所だろう。ベージュ
色のローブを纏い、目深にまでフードを下ろしたとても小柄な少年
だ。
大人よりも大分小さな歩幅を使い、ゆっくりと、ゆっくりと。気怠
げに進んでいく。その足取りに覇気という物はあらず、ただ只管に憂
鬱な雰囲気だけが漂っていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
信号を無視し、横断歩道を無視し、無断で店の敷地を通り抜け。現
代社会における規則を全て無視。しかしそれを咎める者は何も無い。
そうして時間をかけて歩いた先、交差点の角を曲がった先にその店
はあった。
そこは取り立てて目立つ所の無い、清潔な雰囲気のインターネット
カフェだ。
麻帆良に在籍する学生達の中には個人用のPCを所持していない
生徒達も多く、そう言った者達の為に学校側から用意された共同施設
である。
放課後以降は賑わう場所であるが、今現在においては利用者は皆
無。受付に立つ店員が暇そうに欠伸をしながら、何らかの作業を行っ
ているだけだった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あ、いらっしゃいませー﹂
428
自動ドアをくぐり、店員から歓迎の言葉が飛ぶ。
しかしその中に疑念の影は何一つとして見受けられず、﹁平日の昼
間に私服の少年が訪れた﹂という違和感は極自然に受け入れられてい
る。
明らかに異常な事態ではあるものの、やはりそれを指摘する存在は
居ない。平然と受付を済ませ、案内された個室に入り││ここに来
て、ようやく少年はフードを取った。
赤の目立つ茶髪、同じく赤い色素の混じった虹彩。顔の作りも明ら
かに日本人の物では無い。
例え海外贔屓を差し引いたとしても、整っていると言って良い容姿
だったが││その昏い目付きと、下瞼に引かれた濃い隈が全てを台無
しにしていた。
卑屈にして陰鬱。世界自体を斜に捉えているようなその視線。
容姿の良さ、そして子供であるため幾分か和らいでいるものの、大
多数の人間は彼を見て多少なりともこう思う事だろう。
││││気持ち悪い、と。
﹁⋮⋮あぁ、やっぱり。個室は良い⋮⋮﹂
弱々しく、糸のように細い声が室内を反響した。
少年は安堵したかのように大きく深呼吸。ふらふらとPCの設置
された机に向かい、ソファへと腰掛け背を預け。疲れた様子で弛緩す
る。
よくよく見れば足が痙攣を起こしており、道中でそれなりに疲労し
ていたようだ。
﹁⋮⋮だ、大体、遠いんだよ。ここ。クソ、あの低スペPCさえ取り替
えられれば来なくても良いのに⋮⋮﹂
何やらブツブツと独り言を垂れ流しながら身を起こし、PCを起
動。店で設定されたIDを打ち込み、デスクトップを表示させる。
おそらく何度か来た事があるのだろう。その手つきには淀み一つ
無く、操作に慣れ切っている事が伺えた。
そうして完全に起動した事を確認した後、彼は持っていた鞄から小
さなパッケージを取り出し、中身のディスクをPCに挿入する。
429
それは発売間もないネットゲームの物で、やがてディスプレイに鮮
やかなゲーム画面が映し出され、荘厳なファンファーレが鳴り響く。
││現実では味わえない幻想世界での冒険、その扉が口を開けたの
だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しかし、少年は燦然と輝く﹁ゲームスタート﹂の項目には目もくれ
ず、ゲームのチャットルームを開きメッセージを送る事無く待機。机
の上に顎をのせた。
ズラズラとリアルタイムで更新されていく攻略情報。飛び交う質
問、パーティへの誘い、断り⋮⋮。少年は無言のまま、それら全てを
ガラス球のような目で眺め続ける。
30分が経ち、一時間が過ぎ。長い間続くそれは酷く空虚な雰囲気
を湛え、とても頭に情報が入っているようには見えない。
既に結果が出された、一切の希望の無い惰性。喩えるならば、それ
以上の表現は無かった。
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂小さく、しかししっかりと。少年が何かを呟いた瞬間、
幾つもの赤い光が室内を反射する。しかし光源となるものは部屋の
中には視認できず、ただ少年がマウスを動かす姿があるだけだ。
⋮⋮こう、こう。まるで心臓のように、脈動する赤が斑模様を作り
出す。
﹁⋮⋮そろそろ、だよな﹂
チラリ、と。少年は軽く時刻を確認すると、静かに目を瞑り何かに
集中した様子を見せた。それは今までとは違い、確かな想いの篭った
ものだ。
このネットカフェに来た意味の殆どは、今のためにあると言ってい
い。誰にも見られないこの場所ならば、少しは罪の意識を誤魔化せ
る。⋮⋮見られていないと、安心できる。
﹁また、最低野郎だ。⋮⋮い、いや。今回は違うし﹂
そう呟いて、苦々しい表情を浮かべ。
不安、心配、不信││類似する感情を胸裏に湛え、少年は第三の眼
を開く。意識が思考に溶け込み、ここではないどこかへと流れ、重な
430
る。
部屋を照らす赤い光が、より一層輝きを強めた││││
*
﹁⋮⋮っ﹂
ちり、と。後頭部に妙な違和感を感じた。
まるで誰かに見られているような、精神を圧迫する感覚。以前も感
じた、陰鬱な空気を伴った視線だ。
咄嗟に振り向いてみるが、やはりそこには何もない。こちらを見て
いる人も居らず、街路樹が静かに並んでいる。
どうしたの、チサメ﹂
⋮⋮気のせいならぬ木のせい、ってか。ああ下らね。
﹁
﹁⋮⋮いや、何でもない﹂
最早日課となったアンナとの時間。
占い屋としての活動を終え、セットを片付けながらこちらを見る彼
女に私は何でもないと手を振った。
いや実際何でもないんだよ。ただの錯覚っぽいし、実害がある訳で
被害妄想
﹂
ストレスでも溜まってんのかな、私。
もないし。ホント意味分かんねー。
自意識過剰
﹁││さてと、これでおしまい
?
﹁⋮⋮へいへい﹂
﹁さ、一緒に帰りましょ
﹂
なので、問題は無いのだろう、多分。
まぁアンナ曰くこの場所の管理人からの許可は得ているという話
片付けと呼んでいいのか疑問だ。
と一緒に付近のベンチの下に突っ込んだだけであり、果たしてそれを
と言っても土台にかけていた白い布をたたみ、分解した土台と看板
ンナが終了宣言を放つ。
そうして周囲を見回している私を他所に、片付けを終えたらしいア
!
?
!
431
?
とりあえず視線の事は気にしても仕方ない。私は最後にもう一度
だけ背後を振り向き異常が無い事を確認し、先を進むアンナの後を
追った。
その際ボリュームのある髪が左右に揺れ、周囲に赤い粒子を振り巻
く姿が目に映る。
⋮⋮せっかくだ。気分転換に前々から気になっていた事を聞いて
みよう。アンナの隣に立ち、その髪に手を這わせながら問いかける。
﹂
﹁お前、羨ましいくらい髪の毛サラッサラだよな。普段どんなケアし
﹂
そ、そう⋮⋮
てるんだ
﹁え
綺麗だよなぁ﹂
なんたって私の憧れなんだから
!
なってるに決まってんだろ馬鹿が。んな事は良い
?
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮前2つは分かるけど、強い
松葉杖突いてんのに
﹂
?
華奢で儚げな先生のイメージにそぐわないのだが、精神的にとかそ
?
﹁優しいし、綺麗だし、強いし。私も将来あんな風になれたらイイなぁ
んだよ。
らんのかって
⋮⋮発育的には私の勝ちだな。そこをガキと張り合って悲しくな
いのに思わず納得してしまった私の横で、アンナが無い胸を張る。
ネカネ先生が手入れしてるんならこの質も当たり前か。理由も無
﹁でしょう
﹂
﹁お姉ちゃん⋮⋮っつーと、ネカネ先生か。あの人もおかしいくらい
わ。殆どお姉ちゃんがやってくれてるもの﹂
﹁そ う 言 っ て く れ る の は 嬉 し い け ど ⋮⋮ 私 自 身 は 別 に 何 も し て な い
るっつーのに。
し て も ち ょ っ と 綺 麗 す ぎ や し ね ー か。私 だ っ て 結 構 な 気 を 使 っ て
肌も白いわスベスベだわ、幾ら子供+西洋人補正がかかっているに
り抜けるのだ。
ティクルも完璧。指通りも良いなんてもんじゃ無く、殆ど抵抗なく滑
誇張でも何でも無く彼女の髪は絹糸の様に滑らかであり、キュー
私の言葉に照れた様子を見せ、もじもじと毛先を弄くる。
?
?
?
432
?
ういう話だろうか。
思わず疑問の声を上げると、アンナは今までの表情から一転。ビク
リと肩を震わせ暗い雰囲気を滲ませる。ヤベ、地雷踏んだか
単に身体が弱いから杖突いてるとかそんな理由だと思ってたんだ
が、見当違いだったようだ。
慌てて話を逸そうと頭を回転させるが、彼女はそれ程取り乱した様
子は無く││そっと私の服の裾を握る。
⋮⋮その手が震えていたため地雷を踏んだ事は確かだろうが、ある
程度心の整理は付いていたようだ。不幸中の幸いなのかもしれんが、
何処に爆発物があるか分かんねーよコイツ。
﹁⋮⋮昔、事件があってね。沢山の悪⋮⋮悪漢に襲われた事があった
んだけど﹂
﹁悪漢てお前﹂
言葉のチョイス渋くね。いや海外の治安って悪い所は悪いって言
うし、悪漢が出る場所もあるかもしれんけど。
﹁とにかく、その時にお姉ちゃん達が凄い頑張って戦って、私達の事を
守ってくれたのよ。⋮⋮それで、ちょっと無茶しちゃったの﹂
﹁へ、へぇ﹂
﹁私 は 震 え て る だ け だ っ た。で も お 姉 ち ゃ ん は 傷 だ ら け に な っ て も
へっちゃらで、クルクル回ったかと思えば敵の頭をグリンってやっ
て。皆殴って、蹴っ飛ばして⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ほ、ほぉう⋮⋮﹂
⋮⋮これは、どうなんだ
気配がプンプンするんだが、このまま進めても大丈夫なんだろうか。
多分反応からしてアンナの黒色恐怖症の件にも関わってくるっぽ
いし、余り話させない方が良い気がする。つーか絶対そうだよ。
私は努めて呆れた表情をすると、強くアンナの髪を掻き回し。敢え
て大きな溜息をつくと見下すような口調で彼女の話を遮った。
﹁分かった分かった、綺麗で強いお姉ちゃんが凄いのは分かりました。
いいから服を離せ、歩きにくいんだよ﹂
433
?
真偽の程はさておいて、言葉尻を聞いてると色々と洒落にならない
?
﹁むぐっ⋮⋮あ、信じてないでしょ
﹂
んもー
﹂
!
ちゃったり
そりゃねーか。
挨 拶 代 わ り に 押 忍 と か 言 っ て み た り し た ら 意 外 と し っ く り 来
りそうだ。
た際の火事場の何とやらか。どちらにしろ今後先生を見る目が変わ
あの美貌の下には金剛羅刹が隠れているのか、それとも窮地に陥っ
画が浮かばん。
切ったネカネ先生。幾らかの誇張が入っているとしても、全くもって
大量の悪漢相手に大立ち回り、後遺症を負いつつもアンナを守り
︵にしても、今の話はマジなのかね︶
とにんともかんとも。
んのだ。そう思わなくもないのだが、初日のアンナの様子を思い出す
⋮⋮何でわざわざガキ一人と話すのにこんな気を使わなきゃなら
ても余計な質問はせず深入りしない方が良いだろう。
向こうが話題として振って来ない限りは話に出さず、例え出たとし
ている恐れがある。
うも先生はアンナの憧れと同時、トラウマらしきものと密接に繋がっ
お姉ちゃんは凄い、綺麗だ。⋮⋮そんな話だけだったらいいが、ど
︵⋮⋮こりゃあんまネカネ先生の話はしない方がいいかな︶
ようだ。私は悟られないようホッと息を吐いた。
その怒り顔には先程までの顔色の悪さは無く、どうやら気が紛れた
くる。
裾を摘んだ手を振り払い早足で進むと、怒ったアンナが追いかけて
﹁ちょ、ちょっと待ちなさいよ
﹁信じてる信じてる、クルクルでグリンな。それより早く帰ろう、な﹂
!?
││アンナに施しているという髪と肌の手入れ法。﹃趣味﹄の為に
﹂背中にポカポカと降る拳の雨から
も、それだけは何としても聞き出さねばなるまい。
﹁ホントよ、ホントなんだからー
退散しつつ、私はそう決意したのである。
!
434
!
﹁まぁ、いずれにしろアレだな﹂
?
右の瞼が震えるの 編
││この世には、絶対なる﹁美﹂という物が存在する。
宝石の如く輝く瞳。獣の如くしなやかな身体。華の如く綺羅びや
かな笑顔。
地球上のありとあらゆる﹁美﹂の部分を掻き集め、人の形に当て嵌
めたそれは正しく美麗美貌の体現者。
人類史上において空前絶後に容姿端麗であると同時に純情可憐で
才色兼備かつ解語之花、沈魚落雁であり天香国色が明眸皓歯で傾城傾
国才子佳人面向不背六六六六、ああもう何が何やら。
とにかく異性のみならず、同性にも支持される圧倒的美しさを誇る
その美しき者の名は││││
者。電子の海にて舞い降りた、この世ならざる純白の天使。
ろーーーーん
﹂
対象にする以上、動く数字はとても大きなものだ。当然人気になるに
言葉にするとシンプルではあるが、不特定多数のネットユーザーを
載する。
たセットと共に撮った写真をちょいちょい加工し、ホームページに掲
普段は余りしない化粧をして、高い服を着飾って。そうして用意し
まぁあれだ、所謂﹁ネットアイドル﹂と呼ばれる活動である。
私には、決して人に言えない類の趣味がある。
■
さぁ。
⋮⋮ 誰 だ。今﹁う わ っ﹂と か 言 っ た 奴。怒 ら な い か ら 前 に 出 ろ。
!!
435
さぁ皆の者、五体倒地し復唱せよ
!
﹁│ │ │ │ や っ は ろ ー ー ー ー 今 日 も ち う は キ ュ ー ト に ょ
!
!!
は相応以上の努力も必要な訳で、片手間に出来る事じゃない。
容姿の良さは元より写真技術、衣装やセットの組み合わせ、構図や
テーマの考案と凝り出したらキリなんてものは無く、そこは正しく魔
どっこいそうじゃないんだな、これが。まぁ
境と表現すべき界隈だ。
⋮⋮大げさだって
情弱には分からんだろうがよ。ヘッ。
さて、そんな中において、私は﹁ちう﹂というハンドルネームを用
いて一定の地位を築いている。
いや、一定どころじゃない。頂点だ。そう、私はネットアイドル界
のNo1の座に君臨しているのだ。
アクセス数は軽ーく1000万超、有志によるネットアイドルラン
キングでもぶっちぎりの第一位だ。これを頂点と言わず何と言う。
ホームページに訪れてくれている奴らもほれ、この通り。
キジョー ﹀ やっぱちうタンはカワイイなぁ
ブラック百 ﹀ 俺なんて歯も抜けそう。
ゴンベー ﹀ 今日もちうタンは最高だぜ、可愛すぎてハゲそう。
!
何時もカワイイって言ってくれて嬉しいぴょーん
!
多くの人が私の美貌を讃え、ひれ伏し、そして││私を認めて、共
感してくれる。最高の気分だ。
﹁⋮⋮⋮⋮ふふ﹂
結局の所、それがネットアイドルを始めた一番の理由なのだろう。
周りに自分を理解してくれる奴が居なかった。だからネットを介
した遠くの奴らに理解者を求め、そいつらを集めるために自分を磨
大 い に 結 構。こ れ
く。そしてその結果、私にはNo1になれるだけの素養があった。そ
ういう事だ。
⋮⋮ そ ん な 事 を し て も 信 者 し か 集 ま ら な い
?
436
?
風 ﹀ じゃあ俺は魂だ
﹁皆ありがとー
﹂
!
うっひょーこれだから堪んねぇ。
!!
までが││今でさえも周りは皆アホだらけだ。だったらネットの中
で位、私に都合のいい奴を侍らせてもバチは当たらんだろう。
確かに、日々私が主張する﹁普通﹂とは少し外れるかもしれない。し
かし考えてもみろ、ネットアイドルという存在に﹁異常﹂と言える要
素なんてあると思うか
もし数多居るネットアイドルの中に﹁東京タワーと同じくらい高い
巨木﹂が混じっていたら是非ッとも教えて欲しいもんである。私は自
らを﹁異常﹂であると宣言し、淫らな事でも何でもしてやろうじゃな
いか。
︵ま、ぜってーあり得ないだろうけどな︶
つまり私はまだ﹁普通﹂って訳さ。口内で呟き、マウスをカチリと
押し込んだ。
最早作品とも言うべき私の美貌が電子の海へとアップロードされ、
全世界に晒される。快感をも伴った一瞬だ。癖になるね、全く。
私は心なし頬を上気させつつ、早くもホームページの掲示板につき
始めたコメントを流し読み、無意識の内に口角を釣り上げる。腹底で
ホーッホッホッホ
﹂
生まれた笑いが横隔膜を震わせ、鼻息が自然と荒くなった。
﹁はっは、やっぱ私は女王様よなぁ
!
う
び、壮観な事この上なし。いやーん、ちうタンモテすぎて困っちゃ∼
フッフッフ、新作写真もまた大盛況。私を讃美する声がズラリと並
!
チュームにSF感のある衣装を散りばめた冒険作だ。色々と不安は
あったが、高評価で持って受け入れられたようで何よりである。
普段のストレスや最近のアンナ関連のアレやソレやが浄化されて
いくよう。気道の奥に絡まる何かが綺麗に解け、哄笑と共に溢れ出
す。
﹁⋮⋮と、いらっしゃーい﹂
⋮⋮しかしまぁ当然ともいうべきか、その中には称賛とは真逆のコ
メント││所謂アンチや変態のコメントも少なくは無い。
﹁ぶりっ子乙﹂
﹁カマトト女が、氏ね﹂
﹁肉壷わっしょい﹂その他多数。
437
?
今 回 は 何 時 も の フ ァ ン シ ー な 雰 囲 気 と は 違 い、ゴ ス ロ リ の コ ス
!
中には﹁今夜●●の詰まったゴムを送るよ﹂なんて下品極まりないセ
クハラコメントも有り、中々にジャンル豊かだ。
通常それらは私のファンに寄って通報処理され、予め組んでおいた
削除プログラムによって抹消される運命にある。一種の自浄作用と
言ってもいいだろう。
いやはや。当初は私も結構傷ついたもんだったが、幾度と無く繰り
返され対策する内にもう慣れ切った。今やどんなに酷いコメントで
も微笑ましい気分で見られるね。
まぁファンの方もあんまりほっとくと炎上の元となるので、良いタ
イミングでの管理が必要な訳だが││││
﹁⋮⋮ん﹂
ぴくり、と。流し読むコメントの中の一つに目が止まり、右の瞼が
震えた。
それはアンチでもセクハラでもない、極普通のファンが残したコメ
ントだ。
癖も面白みもない言葉だが、シンプルであるが故に私にとっての大
きな原動力となる言葉。即ち││││﹁何時も見ています、これから
も頑張ってください﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゆっくりと、背後を振り向く。
当然そこには誰も居らず、先ほど撮影に使ったセットとチューリッ
プの鉢植えが有るだけだ。部屋には私一人、他に気配がある筈も無
い。
何も、何も、何も││居ない。
﹁⋮⋮考えすぎ、なんだよな。きっと﹂
小さくそう呟いて、掲示板の鑑賞へと戻る。
応援、馬鹿丸出しの暴言、ウィットに富んだ小粋なジョーク。様々
なコメントを上機嫌に読み込み、気に入った物の幾つかに反応を返
す。こういうこまめな返信が人気を持続させるコツなのだ。
ああ、自尊心の満たされる至福の時間。私は間違っていないと再確
認でき、ささくれた心が癒やされる。
438
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹂
﹁何時も﹂
﹁い
﹁何時も見ています﹂﹁毎日拝見して頂いています﹂﹁いつも見てるぜ
﹂
﹁毎日見ても飽きないなぁ﹂
﹁何度だって見ちゃう
つも﹂﹁何時も﹂││││
﹁えー
大丈夫でしょ、適当にやってれば過ぎるんだからさ﹂
﹁うーわ嫌な事思い出させないでよー、せっかく忘れてたのに﹂
冬の寒い日々を越え、太陽が暖かさを取り戻し始めた時期だった。
⋮⋮そんな言葉が聞こえてきたのは、春の入り口。
﹁あ、そういやそろそろ期末試験の時期だねー﹂
*
ルを回し続けた。
⋮⋮私は努めてその文言を意識から外し、くるくるとマウスホイー
!
何故ならば、別にどんなに悪い成績を取ろうがペナルティなんて無
くやる気なんてものも存在しない。五十歩百歩も良いところだ。
成績としてはあいつらと同等⋮⋮もしくは少し上程度であり、同じ
る。
とは言っても、この件に関しては私も人の事は言えなかったりす
︵⋮⋮お気楽な奴らだな、全く︶
笑い合っている。
勉強をする気は無いらしい。グダグダと愚痴を漏らしながら、気楽に
彼女達はすぐそこまで迫った期末試験に憂鬱な様子だったが、特に
大会によく駆り出されているのを覚えていた。
か部活の他にチアリーディング活動をしていたんだったか、運動部の
柿崎、釘宮、椎名。いつも三人でつるんでいるクラスメイトだ。確
声の主をチラリと見る。
暖房が徐々に効き始めた教室の中、PCから顔を上げその脳天気な
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
?
いからだ。赤点も無ければ留年なんてものも無し。あいつらの言う
439
!
通り適当にやってれば過ぎていく。
特にこのクラスは私含めそんな考えの奴が多く、一年からずっとこ
ちらクラス全体での校内順位は最下位をぶっちぎっている有り様だ。
個人個人を見れば学年トップクラスに頭の良い奴は何人か居るの
だが、それ以上に数の多いバカが足を引っ張っている構図である。せ
ちがらいね。
﹂
今度のテストで最下位のクラスは解散し
﹁そう言えば、例の噂聞いた
﹁⋮⋮
﹂
私もPCを机に仕舞い込み、SHRに備えた。⋮⋮のだが。
が鳴り響き、クラスメイト達が慌てて席につく。
間にか結構な時間が過ぎていたようだ。キーンコーンと始業のベル
そうしてネットで良さそうな資料や服を漁っていると││いつの
えるだけで胸が踊る。
を馳せる。さて、次はどんなテーマのどんな衣装を用意しようか。考
私はあっさりとそう決めると、テストの件を忘れ趣味の事へと思い
うし、特に頑張る必要もないよな。
期末テストか。まぁいつも通りならそこそこの点数は取れるだろ
と判断しPCへと視線を戻した。
⋮⋮余りにも下らなすぎる話だったので、それ以上は聞く価値なし
イんじゃ││﹂
﹁そーそ、それそれ。いやーマジなんかねぇ、それだとあたしらもヤバ
て小学生からやり直し、ってやつ﹂
﹁噂って││ああ、あれ
?
時期的には最盛期を越え
その数は全部で6つ。私の隣席の綾瀬も居らず、風邪で休むには少
し多いように思える。
⋮⋮インフルエンザでも流行したか
たとはいえ、あり得ない話ではない。
﹁││やぁ、皆おはよう﹂
再試験は面倒くさすぎるぞ。
おいおい止めてくれよ、テスト週間に登校禁止とかさ。流石に後日
?
440
?
改めて教室を見回してみると、席に歯抜けが目立つ。
?
帰りがけに消毒スプレーでも買って行こうかと思案していると、教
室の扉が開き高畑先生が姿を見せた。何時も何時も出張ばかりして
いる彼にしては珍しい事だ。
ネカネ先生は
﹂
しかし今回は代わりにネカネ先生の姿が見えず、待てども待てども
教室内に入ってこない。
﹁あれ、今日は高畑先生だけですか
?
かに移した。
﹁合宿ぅ
ずるーい、何で明日菜達だけ││││あっ﹂
別勉強合宿をする事になったそうだ。突然の事で申し訳ないけどね﹂
﹁えー、ネカネ君の事なんだが、実は今居ない子達⋮⋮神楽坂君達に特
違いないだろう。何かやったのだろうか。
の様子を伺ってみると何やら気まずそうに肩を竦めているし、多分間
⋮⋮宮崎と早乙女、か
一瞬なのでよく分からなかったが、二人
真っ先に質問した朝倉に答えつつ、高畑先生はチラリと視線をどこ
てね。ネカネ君と今日休んでる子達にも関係する事なんだけど﹂
﹁ああうん、今日はちょっとSHRを始める前にその事で連絡があっ
?
察したのか、慌てて口を噤んだ。
う ん。あ れ だ。今 居 な い 奴 ら は 概 ね そ う い う 連 中 な 訳 だ。ク ラ ス
でも有数のバで始まってカで終わる類の奴。
他の生徒達も大体理解したらしく、
﹁バカレンジャー⋮⋮﹂
﹁バカだ
から⋮⋮﹂
﹁ああ、あの五人だもんね⋮⋮﹂と口々に好き勝手言ってい
る。暗喩にした意味ねーじゃねーか。
まぁ確かにあいつらのいっそ致命的な学力ならば、特別に勉強合宿
が組まれてもおかしくはない。﹁納得﹂の二文字がクラスメイト全員
の頭上に浮かぶ光景を幻視した。
﹁と に か く そ う い う 事 だ か ら。し ば ら く ネ カ ネ 君 は 来 な い だ ろ う け
ど、君達も勉強頑張ること﹂
高畑先生は最後にそう締めくくると、続けて通常のSHRに入る。
ここ最近でネカネ先生に慣れ切った所為か、男の声で出席を取られ
る事に違和感を感じる。短期間でそれ程までに馴染んだという事だ
441
?
高畑先生の知らせに裕奈が抗議の声を上げたが││途中で何かを
!?
ろうか。
︵けど⋮⋮特別合宿だぁ
も⋮⋮︶
神楽坂達の成績が悪すぎたのか、それと
うか。テコ入れが必要なくらい切羽詰まってる
││そう言えば、例の噂聞いた
今度のテストで最下位のクラスは解
?
︶
?
上げたのだった。
に。切なる願いを心に湛えながら、高畑先生の点呼にのっそりと手を
ああ畜生、もしダメだったとしても私だけは情状酌量されますよう
頑張った方が良いのか
⋮⋮どれだけの効果があるか分からんが、一応私もそれなりに勉強
メー。私はぐったりと頭を抱え、項垂れる。
ウ ッ ソ だ ろ オ メ ー。無 い っ て 確 信 で き ね ー と か エ ヴ ィ ン だ ろ オ
︵⋮⋮でも、ここって麻帆良なんだぜ⋮⋮
喧嘩売ってる。まともな学校なら絶対にそんな事は││││
ねーわ。流石にねーわ。それが本当ならば今の教育制度に全力で
唐突に先ほど聞いた会話が思い出され、思わず呟き首を振る。
﹁⋮⋮いやいや、まさかまさか﹂
もヤバイんじゃ││
││そーそ、それそれ。いやーマジなんかねぇ、それだとあたしら
散して小学生からやり直し、ってやつ。
││噂って││ああ、あれ
?
?
もしそうであるならば、今の状況って結構ヤバかったりするのだろ
える。情けない事極まりないが。
ぼれだ。流石に見かねた教師連中が何らかの手を回しても当然と言
ありえない、とは言い切れん。端から見れば私達は質の悪い落ちこ
か
⋮⋮2│Aの試験結果連続最下位の件が問題視されて、その対策と
?
?
442
?
私を見るな 編
﹃ささぬへ。お姉ちゃんと一緒に少し出かけています、帰ってきたら
またよろしくお願いします。 アーニァ﹄
﹁⋮⋮ ア イ ツ 日 本 語 話 す の は 上 手 い け ど、書 く の は 苦 手 み た い だ な
⋮⋮﹂
そんなこんなで学校が終わり、放課後。
何時も通りに広場の外れに赴いたものの、占い屋は休業状態。赤毛
のツンツン娘の姿は影も形も無かった。
代わりにというべきか、ベンチの下の占い屋セットと一緒に一通の
手紙││と言うよりメモだな。が置かれており、ヘッタクソな文字で
上記の事が書かれていたのだ。ささぬとアーニァって誰だよ。
多分ネカネ先生と一緒にバカレンジャーの特別合宿に付き合って
いるんだろう。果たして連れて行く意味があるのかは疑問だが、泊ま
りがけなら保護者として当たり前かと考えなおす。
⋮⋮そういやバカレンジャーと一緒に休んでた近衛とか綺麗な黒
髪なんだが、大丈夫かな、アイツ。ネカネ先生が居る以上問題は無い
だろうが、そこはかとなく不安である。
﹁⋮⋮よし、帰っか﹂
アンナが居ないのならばこの場所に用は無い。私は鼻を一つ鳴ら
すと、手紙を鞄に放り込み歩き出した。
⋮⋮しかし、何だ。最近は毎日のようにここでアンナの様子を眺め
ていたから、急に無くなると調子が狂うな。
私的には面倒事を回避でき、自由に使える時間が増えて嬉しい事の
筈なのに。どことなく物足りなくて落ち着かない。多分多少なりと
も情が移ったんだろうとは思うが、それが何となく気に入らない。
﹁ったく﹂私は大きく息を吐くと、ガリガリと後頭部を引っ掻きながら
家路を辿る足を早めた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮後頭部。途中にあったバックミラーで背後を確認するが、当然
誰も居ない。
443
だから考えすぎだって││そう笑い飛ばそうとしたが、どうしても
笑顔を作れなかった。
*
そうして家に帰り、一心地。
何時もより相当に早く帰れたおかげか精神的な余裕があり、逆に何
をすればいいのか迷う。
普段の私ならば迷いなく制服を脱ぎ捨て﹁ちう﹂モードに突入すべ
き所ではあるが、今は期末テストの直前だ。今朝の事もあり、流石に
ちょっと抵抗があった。小学生からやり直しは嫌だからなぁ。
﹁⋮⋮しゃーねー。やるか、勉強﹂
二・三時間を試験勉強に当て、その後で﹁ちう﹂になろう。それな
らバランスが取れる筈。
私は鞄から教科書類を取り出し机に広げ、勉強の用意をする。気分
を出すため制服のまま、科目は苦手な国語と日本史だ。
理数系に関してはクラスのトップ連中の足元くらいには及ぶのだ
が、文系がちょっと駄目なんだよな。特に日本史とか、数百年前の何
時何時に何があったとか一々覚えてらんねーよ。
﹁現代ニュースなら詳しいんだけどなぁ⋮⋮﹂
日本史と変わってそっちになんねーかな。なんねーよな、わーって
るよちくしょー。
私は溜息を零し、用意した紅茶を飲みつつ日本史の教科書を開く。
途端年号やら将軍の名前だかが目に飛び込んで来て、何かもう早くも
イヤになる。
まぁやると決めた以上はそれなりに頑張るけども。ブツブツと愚
痴を垂れ流しながら授業の復習を開始した。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
かち、こち。かち、こち。
無言の時が過ぎる中、壁かけ時計の秒針が妙に大きく部屋に響く。
普段は気にもしない小さな音だが、静寂の中だと目立つものだ。
444
しかしそれは決して煩いものでは無く、今においてはむしろ集中を
助ける種類の音だった。
単調なリズムが一種の催眠効果を促し、余分な思考が切り落とさ
れ。徐々に、静かに。意識が直線化し、教科書の中へ引きこまれてい
く⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
かち、こち。かち、こち。
試 験 範 囲 の ペ ー ジ に 書 か れ て い る 重 要 な 文 章 に マ ー カ ー を 引 き、
ノートに写し。口内で幾度か呟き脳みそへと定着させる。色々な場
所でよく見る効率的な勉強法。で、あるらしい。
私としてはその効果を実感する機会は少ないのだが、ネットでの情
報を見る限り確かな効果があるそうだ。何度もそれを繰り返し、教科
書を捲る。時計の音の中に紙とシャーペンの芯が擦れる音が混じり、
独特な空気が部屋の中に漂った。
⋮⋮腹の底がどっしりと重くなり、無駄な事を考えられなくなるこ
の感覚。私は結構好きだったりする。
特 に 最 近 は │ │ 必 要 も 無 い の に 気 に し て し ま う モ ノ が 多 い か ら。
尚更だ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、﹂
かち、こち。かちり。
時計の音は、只管に続く。一つ鳴る度、意識が沈む。二つ鳴る度、腹
が据わる。音は延々と繰り返し、私を更なる深みへ誘った。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
﹁││ん、く﹂
⋮⋮どれ程の時間が過ぎただろう。吸い込んだ息が無意識に漏れ、
私は我を取り戻した。
疲労感に大きく伸びをすれば、丸めていた背骨がミリミリと音を発
し頭蓋骨の中で反響する。
﹁⋮⋮結構、やったなー﹂
445
気づけば試験範囲の部分は殆どノートに写されており、右手が微細
に震え軽い痺れを訴えている。うーわ中指の第一関節あたりがペン
の形に引っ込んでやがる。気持ちわりー。
﹂その長針の進み具合に思わず変な声が出た。
そうして手首を振るついでに凝り固まった首を回しつつ、時計を確
認してみると││﹁あ
どうも私はかなりの時間集中して勉強していたらしい。自分でも
ビックリである。
﹁ここまでやれば、後は軽い見返しと再復習だけでいいだろ﹂
少なくとも、日本史に関してはそれで十分の筈だ。
所謂一夜漬けの手法ではあるが、何か基礎公式がある訳でも無し。
私も日々授業だけはまじめに受けているのだし、テスト前の勉強とし
ては概ね問題無いだろう。
さて、これからは自由時間だ。
私は疲れを溜息と共に吐き出し、
﹁ちう﹂モードに入ろうと制服のボ
タンを外し纏めていた髪を解き││││
││││ちり。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮ピク、と。右瞼が震えた。
見られている。
!
動悸が早まり、肺が萎縮し。髪留めを摘む指に力が入る。まただ、
﹂
また、あの視線だ。陰鬱で、気持ちの悪い、あの視線⋮⋮
﹁││││ッ
もう
﹂私は言い様の無い苛立ちにぐしゃぐしゃ
消え失せ、後に残るのは静寂のみだ。
﹁∼∼ッ、ぁあッ
!
なんかじゃ絶対無い。
んがある。ここまで何度も何度も感じたのなら、それはもう気のせい
スルーしたい。勘違いだと断じたい。でも幾ら何でも限度っても
⋮⋮いい加減、頭がおかしくなりそうだ。
せ、抱きしめる。
と髪を掻き回し、魔除けになるというチューリップの鉢植えを引き寄
!
446
?
振り向く、しかし誰も居ない。視線の気配も一瞬の間に嘘のように
!!
﹂
││││見られていたんだ。姿の見えない、誰かから。
﹁⋮⋮お、おい。誰か⋮⋮居んのか
恐怖と不安に取り乱しそうになる衝動を理性で押し込め、隣室の奴
らに聞こえないよう声を抑えて呼びかける。
常識的に考えてあり得ない事は分かっている。外ならともかく、こ
こは家の中だ。ちゃんと戸締まりもしていたし、隠れる場所も限られ
ている。現に姿も気配も無かったんだ。居ないんだよ、現実として。
⋮⋮なのに視線を感じた事が薄気味悪くて仕方ない。奥歯を噛み
締め、怖気を耐える。
﹁くそっ⋮⋮何なんだよ、一体﹂
そもそも、見られているとしてその理由は
﹁⋮⋮⋮⋮
﹂
う物は││││⋮⋮⋮⋮。
そう、全てにおいて意味が全く分からない。私にも心当りなどとい
うのも不可解だ。
ならば幾らでも隙はあった筈なのにそうせず、ただ見ているだけとい
表は地味を演じているし、言いたか無いがボッチでもある。襲うの
?
⋮⋮心当りなら、ある。あった。
思い出すのは、
﹁ちう﹂に向けられた応援の言葉。私が求めて止まな
かった肯定の言葉。
﹂
││何時も、見ています。頑張ってください。
﹁⋮⋮ハ、ハ。そんな筈、無いだろ⋮⋮
それが持っていた意味が、全く別の醜悪な何かへと変化していく。
認識が裏返る。心の均衡が崩れる。私が信じ、享受していたもの。
が、目線はPC画面に絡みつき離れない。
私の正体はバレてないんだから││││⋮⋮震える声で否定する
?
447
?
バッ、と。思わず自宅用PCの画面を見た。
!
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁普通﹂に考えてそんな筈は無いんだ。しかし、それを信じ切れない自
分が居る。
⋮⋮暗い画面に反射し、映る私の顔。そこには疑念の感情が強く混
じり、酷く歪んで見えた。
││私を、見るな。
448
手を繋ごう 編
3学期の修了式が近づき、三年生への足音が間近に迫ったその日。
私達の教室は妙な静けさに包まれていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何というか、浮かれ気分を無理やり押し込めたようなソワソワした
感じ。
あちらこちらで嬉しそうなヒソヒソ声が飛び交い、非常に落ち着か
ない。PCにも集中できず、無意味にマウスカーソルを彷徨かせる。
﹁⋮⋮あ、先生が来た﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうこうしている内に教室の扉が開き、何かの箱を抱えたネカネ先
生が入ってきた。
先生も先生ですました表情を浮かべ、何も言葉を発さない。クラス
449
メイト全員の視線を受けながら先生は教卓の上へと箱を置き、私達を
見回した。
一人ひとり、真剣な目で。⋮⋮私はそっと、眼鏡の奥で視線を逸ら
す。
﹁ひっ﹂
﹁あうっ﹂
﹁ニン⋮⋮﹂
﹁あわわわ﹂
﹁うう⋮⋮﹂何故かバカレン
ジャーも視線に大きく肩を震わせたのだが、合宿中に何かあったんだ
ろうか。﹁強い﹂というアンナの言葉を思い出す。
﹁⋮⋮ん、こほん。えー⋮⋮﹂
ともかく、そうしてタップリと良く分からん間を取った後、ネカネ
先生は咳払いを一つ。
﹂
﹄
大きく息を吸い込んだかと思うと、勢い良く眼前の箱を開け放った
││││
﹁││皆、学年トップおめでとう││
﹃││やったああああああああああああああ
!!!
!!
!
ドッ、と。ネカネ先生が心からの笑顔を見せた瞬間、それに呼応し
﹂その威勢たるや教室全体を揺らすほどのもので、私
2│A全員が喜びの声を上げた。
﹁うるっせ⋮⋮
は思わず耳を塞ぐ。
視界の端を何かがパラパラ落ちたかと思えば、それは天井からの埃
だった。どんだけ煩いんだよお前ら。先生も意外とノリ良いし。
︵まぁ⋮⋮騒ぎたくなる気持ちも分かるけどもさ︶
心の中でひっそりと呟きつつ、教卓の上へと目を向ける。
その天板の上には、先ほど箱から取り出された光り輝く一つの像が
鎮座していた。つい先日行われた学期末試験││その学年一位を記
念したトロフィーだ。
そう、何とこのバカ集団。何処をどうまかり間違ったのか総合成績
学 年 ト ッ プ に 咲 き 誇 り や が っ た の で あ る。明 日 世 界 終 わ る ん じ ゃ
ねーか、これ。
﹁いやー、にしてもまさか一位取れるとはねー。精々ブービー位だと
思ってたのに﹂
﹁全くです。それもこれもネカネ先生のおかげ、と言った所ですわね﹂
高畑先生はどうした。と言うのはまぁ置いといて。
未だガヤガヤと喧しい教室の中、聞こえてきたクラスメイトの誰か
の言葉に私もこっそり同意する。
他の奴らはともかくとして、クラスの重りと言っても過言では無
かったバカレンジャーの成績を引き上げるとは、並大抵の事じゃな
い。
私を含め多くのクラスメイトは自力で好成績を残した訳だが、それ
を抜きにしたって尊敬に値する。見ろ、あの何時も無表情なザジです
らパチパチ拍手してんだぞ。
今度皆で学年トップおめでとうパーティやろうよ
﹂
450
!
!
多分次回は元通りになりそうですから、今しかできな
﹁ねぇ、そうだ
﹂
﹁そうです
﹂
!
あれ、もしかして私達貶められてる
?
いですー
﹁⋮⋮
?
!
!
テンションの上がった鳴滝姉妹の提案に神楽坂が眉を顰めるが、殆
どの奴らは賛成らしい。やろうやろうと盛り上がり、今後の予定を話
しだした。
もうSHRの時間に入っているのにこんなに騒がしくて良いのだ
ろうか。疑問に思いつつネカネ先生を見てみれば、ニコニコと穏やか
に笑ったまま特に口を出す気は無いようだ。
次の時間は先生の担当する英語だし、今日くらいは自習って事で許
してくれるのだろう。私は降って湧いた自由時間を有効利用するた
め、改めてPCへと視線を戻した。
まぁ、あれだ││とりあえず、話し合いもパーティもどうぞ勝手に
やってくれ。正直私はそれどころじゃないんだよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮落ち着き、意識を切り替えれば。冷たく戻った体温が周囲の熱
気と摩擦し、幾らか気分が悪くなる。
﹂
本日のストリートパフォーマンス時間が終わり、アンナと一緒に占
い屋セットをかたしていた私は、後頭部を抉る例の感覚に掠れた声を
絞り出した。
451
しかし皮肉な事にこの騒がしい雰囲気が一種の安心感を与えてく
れて、言い様の無い苛立ちが腹の底から湧き上がった。
﹁⋮⋮ッチ﹂
││ストーカーの対処法。
あー、バカバカしい。ディスプレイに浮かんだその文字を見つめ、
それと分からぬように舌打ちを鳴らす。
視界の端を、鼠のような何かが横切った気がした。
*
││ちり。
何か言った
﹁⋮⋮来やがったな﹂
﹁え
?
放課後、アンナの占い屋。
?
途端隣で水晶を磨いていた彼女が怪訝な声を上げるが、それに答え
られる余裕は無い。何でもないと軽く手を振るだけに止め、努めて視
線に気づかない振りをする。
最近気づいたのだが、どうもこの視線はアンナと一緒に居る時間に
感じる事が多いような気がする。
も し か し て 狙 い は 私 で は な く ア ン ナ な の で は な い か │ │ そ う も
思ったものの、それだと先日家で感じた視線と矛盾してしまう。彼女
が狙いなら、私の家を見る必要はなかった筈だ。
一番現実的なのは、全てが私の勘違いとする事だ。しかし残念なが
ら現在進行形で薄気味悪い感覚は続いており、これを錯覚だと断じる
のは無理そうだった。
︵どこだ⋮⋮どこに居やがる⋮⋮︶
⋮⋮見られている。作業の手はそのままに、目だけ動かして周囲を
確認。どこかで見ている筈の誰かを探す。
不思議そうな目をするアンナを誤魔化しつつ、その手を取って歩き
出す。彼女は少し驚いたようだったが、すぐに笑みを浮かべ手を握り
返してきた。
そしてそのまま何時も通りに歩き出し││はた、と気付く。
452
こういう時眼鏡って便利だ、視線の在処をある程度隠す事が出来る
から。絶対想定された機能じゃないけど。
木の影、ベンチの裏、道の向こう。ちりちりと感じる視線の元を追
でもそう
い、様々な場所にこっそり目を向けるが││しかし、やはりというべ
きか人影は無かった。
⋮⋮いや、隠しカメラという可能性は残っているのか
いうのから視線って感じるものなのだろうか。
﹂
全に姿を隠せるカメラが有るとも考えにくいし、どういう事なんだ。
私の部屋もあれから探し回ったが、結局見つからなかったんだ。完
?
?
マジで。
もう片付け終わったけど、どうしたの
あ、ああ。何でもない、じゃあ帰るか﹂
﹁⋮⋮チサメ
﹁
?
気づけば、全ての部品をベンチの下へと押し込んでいたらしい。
!
︵⋮⋮
︶
⋮⋮何で私は、手ぇ握ったんだ
か
それはそれで極めてヤな話だ。畜生。
?
て。
﹂
﹁あー、その、だな。最近さ、妙な視線を感じないか
﹁⋮⋮視線
﹂
ぬ︵社会的だ肉体的だ何だと関係なく、ただ、死ぬ︶為出来ないし、さ
⋮⋮何と言ったらいいものか。ちう関係の事は説明すると私が死
よ。視線の中に追求の念が混じり、思わずそっと目を逸らす。
気圧され﹁あー﹂だの﹁えー﹂だの口ごもってしまった自分の愚かさ
こういう時こそ﹁何でもないよ﹂と言えれば良かったのに、それに
だ。
てくる。その視線に射抜かれていると心の中の何かが緩んできそう
アンナも私に違和感を抱いたのか、心配そうな目でこちらを見上げ
﹁⋮⋮ねぇ、チサメ。やっぱり何か心配事でもあるの⋮⋮
﹂
もしかして、自分でも分からない領域で相当に追い詰められてると
だから。一人で歩ける子供は歩かせた方が一番いいだろうに。
い。アンナが泣いていたならともかくとして、今は元気いっぱいなん
殆 ど、無 意 識 の 内 の 行 動 だ っ た。ら し く な い。極 め て 私 ら し く な
?
?
鼻息荒く、頬を染め。キョロキョロと忙しなく辺り見回す。まるで
た。
それを聞いたアンナは突然眦を釣り上げ、苛烈に周囲を威嚇し始め
﹁オイ、どうした﹂
﹁ぐ⋮⋮むむむ⋮⋮﹂
⋮⋮のだ、が。
い調子で打ち明けた。
さなければ大丈夫だろう。そう思い、大した事じゃない風情を装い軽
本当なら子供にこんな話をするべきでは無いんだろうが、詳しく話
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
がどうにも気になってな﹂
﹁ああ、何かドロッとした感じのやつ。気のせいかもしれないが、それ
?
453
?
?
警戒心の強い小動物のような、随分と可愛らしい仕草だ。
⋮⋮もしかして、居るかも分からない下手人を捕まえようとでもし
てくれてんのか
べ、別にそんなんじゃ無いわよ。ただ⋮⋮感じ取れない程の
﹁うん
﹂
強さとか、私の鈍さとか、凄ーくムカついただけ﹂
﹁え
﹁⋮⋮ありがとな。お前のお陰で視線は散ったよ、強い強い﹂
の意を伝えておく。
私は未だ周囲を警戒しているアンナの頭を乱暴に撫で、一応の感謝
特定なんて出来そうもなかったんだ、消えてくれた方が有難い。
⋮⋮余計な事を、とは言うまいさ。どうせこのままじゃ視線の主の
︵⋮⋮消えた、な⋮⋮︶
これまでから分かりきってる事だ。
そしてそんなバレバレの行動をすればどうなるか││そんなのは
あって緊迫感がまるで無し。何ともはや微妙な気分である。
うーん。嬉しいっちゃ嬉しいんだが、良く分からん微笑ましさが
?
い や ま さ か な。即 座 に
を呟いているが、こちらにはちんぷんかんぷんだ。
⋮⋮ 視 線 の 正 体 に 心 当 た り が あ る と か
る。
﹁⋮⋮なぁ、もしかしてさ。視線の事何か知ってんのか
?
ホッとする。
!
何かを書き始めた。
げると手を離し、懐から手帳とペンを取り出すと近くの壁を机にして
そうして暫くそのまま唸っていたが、やがて﹁そうだ
﹂と声を上
いいのか迷っているだけみたいだ。⋮⋮分かっていたとはいえ、少し
その表情に焦りは見えども悪意は見えず。単純にどう説明したら
ロ中空に彷徨わせる。
疑問に思った私が問いかけると、アンナは困った様に片手をウロウ
﹁うーん、知ってるっていうか何ていうか⋮⋮﹂
﹂
否定しようとするが││それには少し、彼女の様子や言葉が引っかか
?
454
?
﹁またって、そんなに信用無いのかしら⋮⋮﹂アンナはブツブツと文句
?
﹁⋮⋮手帳って。随分準備いいな﹂
﹂
﹁お姉ちゃんが持っておきなさいって渡してくれたの。イザって時に
電話番号とか書いてあるからって││よし、出来た
︶が描かれており、いかにも﹁ザ・魔法陣
﹂といった感じ。
見えた。簡単な円の中に星とアルファベットを崩した文字︵なのか
受け取って見てみると、それは赤いインクで描かれた魔法陣の様に
えたアンナがそのページを破り取り、私に向かって差し出してきた。
流石ネカネ先生。その準備の良さに感心していると、何かを書き終
!
﹁もし私が居ない時に気持ち悪い視線を感じた時は、これを握って私
満々な表情で無い胸を張った。
何じゃこら。困惑しながらアンナへと目を向けると、彼女は自信
返しても透かしてみても変わった部分はナッシング。
その他には何も描かれておらず、完全に単なるメモの切れ端だ。裏
!
﹂
攻撃に関しては負けないし、余計な
を強く思って。本当は電話に付けるものだけど、想いはちゃんと届く
から助けてあげられるわ﹂
﹁⋮⋮誰が助けてくれんの﹂
﹁勿論私に決まってるでしょ
シュッ
!
?
事する気持ち悪い奴なんかこうよ、こう
シュッ
!
なのかもしれないが││どっちにしろ現実的な助けにはならなそう
ああ、しかしこの紙はもしかすると占い的に意味のあるおまじない
似たようなシチュエーションがあったとか、きっとそんな感じだ。
多分アンナは、何かのアニメや漫画の話と混同しているんだろう。
︵ま、こんなもんだよな。﹁普通﹂︶
笑い声と一緒に溜息を吐く。
⋮⋮こーりゃ頼りになるこって。どっと疲労感が押し寄せ、乾いた
気がした。
堂に入ったものであり。拳の先に殴り飛ばされる誰かの姿が見えた
武道でも齧っているのか、その勢いたるや武術の素人の私が見ても
繰り出すアンナ。
まるでシャドウボクシングの如く苛烈なパンチやキックを中空に
!
455
?
だな。即興書きの魔法陣を見て、軽く笑う。
﹂
まぁ嬉しい事には変わりなし。私は頼りになる魔法陣様を大切に
鞄へ仕舞い入れ、アンナの頭をポンポンと叩いた。
私の剣でチリチリパーマにしてやるわ
﹁はは。じゃあ頼りにしてやるよ、イザって時は頼んだぞ﹂
﹁任せときなさい
﹁ケン⋮⋮拳でどうやって燃やすんだよ、全く﹂
辿る。
⋮⋮もし、この時の約束が無かったらどうなっていたのだろう
?
やっぱガキだな。そうしてそのまま雑談しつつ、ゆっくりと家路を
!
後日全てを知った後、ふとそんな事を思う時もあるが││まぁ、今
の私には関係の無い話である。
456
!
だうとはーとだーくおーが 編
多分中学生くらいだろうし﹂
﹁最近さ、ちうタン更新少ないね。忙しいのかな﹂
﹁テストか何かじゃない
﹁いや、今の時期的に春休みだろ。旅行か
何か行ってるんじゃねーの﹂
﹁そんなイベントあったら何かメッセージ残してくと思うんだけど
なぁ﹂
﹁ま、詮索はよしとこうぜ。最低限のネチケットだ﹂
﹁ちうタンの正体は栃木県宇都宮市の女子高生だよ、俺見たもん﹂
﹁言ってる傍からこれでござる﹂
﹁適当な事言うなって、本気にする
奴居るんだから﹂
﹁きっと事故で見られた顔じゃ無くなったんだろ。いい気味だ﹂
﹁もしくは特定されて●●されたのかもしれ
んぜwww﹂
﹁引くわ﹂
﹁ちうタンのキツキツ肉壷焼きおいちかったおwww﹂
﹁ スンマセン、
直ぐに片付けます
Д`︶
∧︳∧
︵
︵ ・ω・`︶
︵ つ旦O
と︳︶︳︶
﹁まーた何時ものお客さんかよ、削除先生お願いしやーす﹂
457
?
Lノ ︵︳◎ニ◎ニ◎ニ◎ ﹂
/ / / │// /
│= / /\
/ =ヽニ︶∧ニ︶∧
│=≡ /\\/\\
|| ||
││=≡ / ヘ
´
﹁通報ボタン十六連打、俺のマウス無事死亡﹂
﹁削除先生﹃らめええええこわれちゃうにょ
ほおおおおおお﹄﹂
﹁儲サンちーっすwww今日も信仰ごくろうさんでーーーーっす
wwww﹂
﹁ホントうぜーバカが多くなってきた
な﹂
﹁有名になるって辛い事よね﹂
﹁ネットに顔晒してるって事は、つまりヤられる覚悟
できてるって事だろw﹂
﹁見てろよ、絶対特定してやっからwwwスーパーハッカー友達
だからwww俺www﹂
﹁友 人 は ス パ ハ カ。そ ろ そ ろ 使 い 古 さ れ て き た よ
なー﹂
ゾ☆﹂BANG
︻降臨☆︼
﹂
﹁キターーーーー ﹂ ﹁先生だーーー
結婚してくれー
﹀︵削除対象コメントです︶
﹁ザマァ﹂
﹀︵削除対象コメントです︶
﹀︵削除対象コメントです︶
﹂ ﹁先生ーー
﹂ ﹁キタ
俺だー
﹂
﹁残念ながら見えまっすぇーんwww﹂
﹁多分これ今PCの前で歯ぎしりしてんだろなw﹂
!
458
﹁そ ん で お 前 ら に 見 せ て や る よ グ チ ャ グ t っ
tっっっっっっっっっっっっっっっっっっt﹂
﹁お
?
﹀ ︻☆まじかる♪でりーたー︼﹁わるーいコメントは削除しちゃう
?
!
﹀︵削除対象コメントです︶
!!
!
!
!
﹀
︻☆まじかる♪でりーたー︼
﹁いい加減やり過ぎなので天罰てきめ
ん☆﹂︻アク禁完了☆︼
﹁あ、切れたw﹂
﹁良 か っ た、こ れ で 解 決
ですね﹂
﹁でもまぁ、実際何もないと良いけどな﹂
負 け な い で く れ よ ー
﹁こんな奴も結構居るからなぁ、ちょい不安だ。特定
何 時 も 見 て る か ら な ー
ダメ、ゼッタイ﹂
﹁ち う た ー ん
﹂
!
俺だー
﹂
!
結婚してくれ
我等鼠の七部衆もみておりますぞー
﹁何だよ七部衆ってw﹂ ﹁ハハッ﹂
﹁ちうたーん
││││⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮
⋮
・
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
!
││通常、麻帆良は凶悪犯罪の類とは殆ど無縁の街である。
*
⋮⋮しねーよ、と。そう一言だけ、呟いた。
!
﹁ちう様ー
﹁俺も見てるぞい、更新はよ﹂
!
!
傷害、窃盗、暴行、殺人││連日世間を騒がせている胸糞悪い出来
459
!
事も、この学園都市では全くと言って良い程起こりえない。殺人は元
より、それ以下の犯罪であってもだ。
学園都市に住む学生達に﹁そういった性質﹂を持っている者が少な
いという事もあるのだろうが、最たる理由としてはセキリュティの強
固さが挙げられるだろう
とは言っても、街中に監視カメラが張り巡らされていたり、学舎に
入るのにも一々認証が必要なシステムがある等といったものでは無
い。
無論それらも高いレベルにはあるが、もっと原始的な人力に寄るも
のの功績が大きい。
││学園広域指導員。学園警備の大半を担う教師達の事を、私達は
そう呼んでいる。
西に困っている生徒がいれば急行し、東に泣いてる生徒が居たら駆
けつける。北に悪事をしそうな生徒がいれば未然に防ぎ、南に暴走す
460
るメカがあれば問答無用に大撃破。
簡単に言えば物凄く強い見回り先生、と言った所か。自分でも何
指導員に武力
言ってんだかわからんけども、そうとしか表現できないので仕方な
い。つーかメカって何だよマジでさぁ。
これって﹁普通﹂教師が兼任する仕事じゃなくね
求めてそれが発揮される学校施設ってどんな世紀末よ
惨な事件は起きない。
本当に、全くもって、概ね、安全なのだ。ここでは大体において悲
ノーカンだろう。
おっ始めたりもするが、それも五分あれば指導員に制圧されるので
ま ぁ 血 気 盛 ん な 奴 ら が ス ト リ ー ト フ ァ イ ト し た り 抗 争 モ ド キ を
囲内では胸糞の悪い話は聞かないし、いじめ等も無い。
そう、麻帆良の治安は極めて安定している。少なくとも私の知る範
たい事なので余り批判できないのが困り所だ。
実際問題効果はあり、か弱い女子中学生である私にとってはありが
通﹂を求めるのが﹁異常﹂なのだと諦めた。
⋮⋮そう考えた事も一度や二度では済まないが、今更麻帆良に﹁普
?
?
怯える対象なんて殆ど無い。安心して学生生活を送る事が出来る。
実際に小学校からここに居る私が言うんだ、間違いない。
⋮⋮間違いない、筈なのに。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
キョロキョロ、と。視線だけで周囲を伺いながら、買い物帰りの街
道を歩く。
時は春休みの真っ最中。場所は商店街の真っ只中。それなりに広
い道を小学生から大学生まで広い範囲の学生達が入り乱れ、密度の濃
い人の奔流を作り出す。まるでどこかのテーマパークのようだ。
あちこちで浮かれた雰囲気が放たれていたりもして、皆が皆長期休
暇を喜び堪能している事がありありと伺える。年代が違えど学生の
本質は変わらないってこったろう。
しかし、そんな賑やかな場所において、むしろ私の警戒心は高まっ
ていた。
例えば、それと分からぬ内に特定の場所へと誘導させるため、とか。
今現在私の周囲を歩いている多くの学生達が、本当は視線の主の仲
間であり、それとなく私を囲い込んで進行方向を限定している。とか
││⋮⋮。
461
︵⋮⋮無い、よな。視線︶
友人と連れ添い歩く学生、イチャつきながら歩くカップル、それら
を微笑ましげに見る指導員。その全てに含みがあるように見えて仕
方が無い。
例 の 視 線 │ │ あ の 陰 鬱 な 視 線 の 主 が こ の 中 に 居 る の で は な い か。
そんな考えがどうしても捨てられないのだ。
無論、被害妄想だとは自覚している。現に今は見られていない訳だ
し、周囲には視線の主は居ない。これは確かだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮だが、本当にそうなのか
い。そんな可能性はないのか⋮⋮
居ないから見ていないのではなく、近くに居ながら敢えて見ていな
?
例えば、私に気付かれないように。例えば、私を油断させるために。
?
﹁⋮⋮は⋮⋮﹂
もし連れて行かれたら、罠
早まる鼓動が鼓膜を揺らし、眼球が微細に震える。
もしそうであったら、私はどうなる
にハマったら、その先で私は何をされる⋮⋮
││﹁ちう﹂に向けられた、幾つものコメントが脳裏をよぎる。
﹁││っ﹂
体の芯から寒気が昇り、思わず両手で肩を抱く。持っていた紙袋が
腹部に当たり、軽い音を立てた。
考え過ぎだ。ただの妄想だ。そう自分に言い聞かせるが、悪い想像
を止められない。最悪に至るケースを否定出来ない。
││あの陰鬱な、気持ち悪い視線が忘れられない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂ゴクリ、と。硬い唾液を嚥下して。私は意を決して足を止
め、人の流れを堰き止めた。
﹁おっとと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
すると周りの学生達は突然の事に驚き、目を丸くして数瞬こちらを
視線を這わせてみても、こちら
眺め││特に何も言う事無く、歩き去っていく。
怪しい動きをする者は居ないか
てぞろりと進み、新たな流れに変わっていった。
1秒が経ち、2秒が経ち、3秒が経ち、4、5、6││││10秒
が過ぎても、何もない。⋮⋮﹁普通﹂、だ。
﹁っ、はぁ﹂
だから、被害妄想なんだってば。
あー馬鹿な事をした。頬に上がる熱を感じながら、安堵混じりの溜
息を吐いた。
⋮⋮この頃何時もこの調子だ。常に心の何処かで視線の事を気に
かけ続け、それを感じなかったら感じなかったで安心するどころか
﹁何かの前触れなんじゃないか﹂と一層不安に陥ってしまう。ちょっ
と神経細すぎるだろう。
大丈夫だ、身バレもしてないし、街の治安はすこぶる良い。そうさ、
462
?
?
を囲おうと動きを止める者は誰一人として居ない。人々は私を避け
?
長谷川さん
﹂
大丈夫なんだ、安心しろ。何も起こる筈なんて無いのだから││││
﹂
﹁││あら
﹁
?
﹂
あ、っと、どうも。⋮⋮偶然ですね、こんな所で﹂
﹁ええ、そうね。長谷川さんもお買い物
?
無い。
?
⋮⋮ふふ、ありがとう。でもこのくらいなら大丈夫よ、軽いも
﹁えっと⋮⋮荷物持ちます
﹁え
別れるまでは持ちますけど⋮⋮﹂
⋮⋮別に現状1人が心細いとか、そんな理由では無い。無いったら
何より身障者であるのだし、可能な限り付き添うのが﹁普通﹂だろう。
流石に先生相手に﹁偶然ですねハイさようなら﹂は失礼だろうしな。
いその隣を歩く。
るまいさ。さり気なく紙袋を背に回し、適当に誤魔化しつつ流れに従
正確にはコスプレ用の小物素材なのだが、馬鹿正直に言う必要もあ
﹁まぁはい。服の買い出しに、ちょっと﹂
?
﹁ネカネ先生⋮⋮
が弛緩していくのが分かった。
の手に買い物袋が握られている。⋮⋮その柔らかい雰囲気に、警戒心
どうやら私と同じく買い物の途中だったらしく、杖を突く手とは逆
通るような青い瞳││ネカネ先生だった。
恐る恐る振り返ってみれば、目に映るのは流れるような金髪と透き
ビクリ。突然背後から声をかけられ、身が竦む。
?
?
か軽く補足説明をしてくれる。
﹁ほら、もうすぐ大停電があるでしょ
混む前に早めの用意をしと
そう思いながらビニール袋を見ていると、私の視線に気がついたの
⋮⋮にしても、懐中電灯ねぇ。先生目も悪いっぽいし、夜間用かな。
かりました﹂とだけ返しておく。
池だけ。確かにこれくらいなら私が持つまでもなさそうに見え、﹁分
その中に入っていたのは、小さな懐中電灯とそれに使うであろう電
を掲げてみせた。
私の提案をネカネ先生は笑って辞退し、軽く持っていたビニール袋
のばかりだもの﹂
?
463
!
こうかと思って﹂
﹁⋮⋮あぁ、そう言えばプリント貰いましたね。もうすぐでしたっけ﹂
大停電。
麻帆良全域の電気供給が一部施設を除き強制的に止まり、短い時間
都市としての機能がほぼ完全に停止する。毎年2回ずつある大規模
メンテナンスの日だ。
正直それどころでは無かったので忘れていたが、そうか、そろそろ
だったっけか。
脳みその片隅に追いやられていた記憶が蘇り、めんどくせーと心の
裡で呟いた。私も準備しないとなぁ。
蝋燭⋮⋮いや、せっかくだしアロマキャンドルでも買ってみっか
な。こんな時でもないと蝋燭なんて使わないし││││と。
﹁⋮⋮あれ﹂
﹁どうかした
﹂
﹁いえ、そう言えば先生蝋燭買って無いんですね。懐中電灯で代用す
るんですか
﹁⋮⋮え、えーと⋮⋮そ、そうなのよ⋮⋮ね。あはは⋮⋮﹂
特に深い意味の無い、思いつきが滑り出ただけだった。
しかしネカネ先生は気まずげに口篭ると、後ろめたい物があるかの
ようにそっと視線を逸らす。あれ、何かマズイ事言ったか私。
そうして訳が分からないまま先生を見ていると││やがて﹁長谷川
さんなら、アーニャ知ってるし⋮⋮﹂と呟き、観念したかのように喋
り始めた。
⋮⋮いや別に問い詰めてた訳じゃ無かったんだけどな。嘘がつけ
ない質なんか、この人。
﹂
﹁⋮⋮ 他 の 子 達 に は 内 緒 に し て 欲 し い ん だ け ど、私 達 停 電 の 間 は 寮
じゃなくて別の場所で過ごす事になってるの⋮⋮﹂
﹁はぁ﹂
﹁それでその場所が⋮⋮えっと、非常用の電気が通る所で⋮⋮ね
﹁⋮⋮あー、成程。アンナの件もありますもんね﹂
ネカネ先生の言葉を全て聞くまでも無く、大方察した。
?
464
?
?
停電とくれば当然大きな明かりが無くなる訳で、そうなると闇が濃
くなり黒色恐怖症のアンナが酷い事になる。
おそらく学園長にでも頼み込み、特別な計らいを受けたという事だ
ろ う。も し か し た ら 学 園 長 の 方 か ら 提 案 が あ っ た の か も し れ な い。
あの人スケベ爺って噂だし。
先生の足の件もあり私としては妥当な判断だと思うが││まぁあ
んまり吹聴する事でもないのか。事情を知らずに見れば贔屓とも受
け取られかねんし、後ろめたさを感じるのも分からんでもない。
﹁皆には不便をかけるのに、私達だけズルい事して申し訳ないとは思
うんだけど⋮⋮﹂
﹁いえ、まぁ⋮⋮私じゃなくても責める事は無いと思いますけど﹂
相応の理由もあるし、うちのクラスの連中なら恐縮せずとも大丈夫
そうなもんだが。
そう言うと先生は少しだけ茶目っ気を出し﹁じゃあ大っぴらに自慢
﹁え﹂
指導員の手伝い⋮⋮
その身体で暗い中歩くの
?
アーニャにはタクミが付いてるから、私は外を守ら
言葉のチョイスがどっか変だよな。日本語を勉強する過程で何かズ
つーかそもそも白薔薇男爵て何の事すか。アンナの﹃悪漢﹄といい、
が分からないですね。
そう言って﹁むん﹂とやる気を露わにする先生だが、ちょっと意味
ないと﹂
名だったのよ
﹁あら、私だって黒⋮⋮じゃない、白薔薇男爵って呼ばれて地元では有
ついてやった方が⋮⋮﹂
﹁いや⋮⋮やめといた方が良いんじゃ無いですか。それよりアンナに
?
465
しちゃおうかしら﹂等と冗談を言う。いやぁ、それは流石に顰蹙買う
と思います。あいつらでも。
﹂
﹁まぁ私は停電中殆どその部屋に居ないと思うから、大目に見てくれ
仕事か何かあるんですか
ると嬉しいわ﹂
﹁居ない⋮⋮
?
﹁ええ、広域指導員の見回りをお手伝いしようかなって﹂
?
?
レたのだろうか。いやそうじゃなくって。
どこから突っ込んだものやら││かける言葉を探る私の様子を見
て、先生は穏やかな笑みを浮かべた。
﹁心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ、他の先生と一緒だし、す
ぐに﹃終わらせる﹄から﹂
﹁⋮⋮はぁ、まぁそれなら何もいいませんけど﹂
﹃終わらせる﹄に言い知れぬ気迫を感じたのだが、気のせいかな。アン
ナの﹃強い﹄という評価が脳裏をよぎる。
ともかく、本人がそういうのなら大丈夫なのだろう。私は溜息を一
︶
つ吐き、一先ず納得する事にした。
︵⋮⋮
⋮⋮ふと、違和感。
先程ネカネ先生は自分は外を守るだ何だと言っていたが、それだと
物騒な意味が付随するように思える。
まるで、そう。何か﹃敵﹄となるようなものが居るかのような物言
いだ。確かに夜歩きする不良くらいは居るだろうが、学生のノーテン
キ加減を考えるとそこまで悪質なものではない気もするし、はて。
﹁││さて、じゃあここでお別れね。付き添ってくれてありがとう、長
谷川さん﹂
﹁、え、あ、はい﹂
そうして考えこんでいる内に、どうやら分かれ道に当たったらし
い。その道は教員寮に続くものとは別だったが、多分他に用事がある
という事だろう。
先生はニッコリと微笑み手を振って、コツコツと杖を突きつつ静か
に歩き去っていく。
﹁││、││﹂
﹁⋮⋮ああ、はいはい﹂
⋮⋮かと思いきや、少し進む度に何度もこちらを振り向きパタパタ
手を振ってきたりして、どことなく子供っぽい印象を振りまいてく
る。良いから前向いて歩けよ、転ぶぞその内。
ともあれ、私もそれに対して適当に手を振り返しつつ││先ほど途
466
?
切れた考えを繋ぐ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮思えば、大停電で都市機能の殆どが停止するという事は、防犯
機能も相応に低下する事を意味している。
つまりそれは一時的に治安が悪くなるって事だよな
内部はまだ良いさ。ここの学生はアホばかりだが、質の悪いアホは
少ない。しかし外からの悪意に関しては││││
﹁⋮⋮アッホくさ﹂
鼻で笑い、思考を打ち切る。
そんな筈があるものか。例え麻帆良だと言っても、子供を預かる教
育機関である以上はそこら辺の警備に手は抜かないだろう。
ネカネ先生も言っていたが、指導教員だって見回りをするのだ。心
配する事は無い。無いんだ。無いんだっつーのに。
﹁んっとに、最近ダメだな。どーも﹂
考える事考える事、全てネガティブな方面に向かってしまう。
被害妄想、自意識過剰。考え過ぎだと言い聞かせてもそれらは決し
て止まらない。今だって心の何処かをじわじわと侵食し、犯してい
る。
﹁⋮⋮くそ﹂そうこうしている内に視界からネカネ先生が消え、私は再
び一人になって。焦りにも似た苛立ちを感じ、後頭部を掻き毟りなが
ら足早に家への道を行く。
大停電。その単語が、脳裏に反響して離れない。
467
?
ちうタン、ファンに愛されちゃう 編
4月初頭。
春休みの時期が過ぎ、新年度を迎えて早数日。アーニャは何時もの
広場の外れに陣取り、占い師としての活動を行っていた。
桜の咲き誇る街路樹の一つを背に控え、自作のセットに腰掛け客を
待つ。時たま目の前に置かれた水晶に手を掲げ、それっぽい雰囲気作
りも忘れずに。
⋮⋮しかし周囲の鮮やかな景色や暖かくなってきた気候により、と
もすれば眠り込んでしまいそうな穏やかな空気が漂っていた。
﹃そ れ っ ぽ い 雰 囲 気﹄な ど 作 る 端 か ら 消 し 飛 ん で い く こ の 有 り 様。
アーニャもそれを分かっているのか、水晶に掲げる手つきもどこか適
当な動きである。
﹁お客さん、来ないなぁ⋮⋮﹂
くぁ、と。欠伸がてらにそう呟く。
雰囲気云々の件は置いておくにしろ、麻帆良という場所の性質上、
学校が授業を行っている時間帯は客入りが酷く少なかった。
一時間に一人来れば良い方で、酷い時には三時間待っても誰も来な
い時がある。そりゃやる気等出ようはずも無い。
もう少し広い場所。大通りや中央広場辺りにでも出れば違うのだ
ろうが││今の状態でそこに行くのは自殺行為だろう。背筋を小さ
な寒気が昇り、頭を振って追い出した。
︵⋮⋮今日、チサメと会えるかな︶
そうして暇する間に考えるのは、日本に来て初めて出来た友人││
チサメの事だ。
普段は放課後の鐘の後そう時間を開けずにこの場所へとやって来
る彼女だが、今日は早めに店を畳むつもりである為会えない可能性が
高い。
一応時間の許す限りはここに居るつもりであるが││さて。チサ
メの学校が何かの間違いで早終わりになってくれる事を祈るばかり
である。
468
︵ニホンに来てから二ヶ月と少し。最初はとんでもない所だと思った
けど、チサメと知り合えたのは良かったわね︶
あと、サクラもすごく綺麗。足をブラブラ振りつつ頭上を見上げ、
そこに広がる桜色の雨を眺めた。
││元々、彼女は日本に来る筈では無かったのだ。
メルディアナ魔法学校を飛び級で卒業した後、ロンドンで占い師を
する事。それが本来彼女に課された課題であったのだから。
しかし6年前の冬に起こったある事件により心に深い傷を負い、黒
色に異常な程の恐怖感を抱くようになり││││加えて、幼なじみで
ある少年と離れる事が出来なくなった。物理的にも、精神的にも。
一日二日顔を合わせない程度なら問題は無い。しかしそれ以上と
なると精神が不安定になり、酷い錯乱状態に陥ってしまう。これは少
年の方も同様であり、ある意味では一心同体と表現する事も出来た。
含む意味合いは全く違うものだったのだが。
││アーニャを1人でロンドンへと送り出す事は、即ち彼女と少年
を間接的に殺す事。それを理解した大人達は大いに頭を悩ませる事
となった。
卒業後に課題をこなす事は決定事項だ。それを成さねばアーニャ
の目指す﹃立派な魔法使い﹄にはなれず、一人前とは見なされない。
ならば少年もロンドンへと同行させればどうだろう││そのよう
な意見も一部あったが、少年も少年で魔法関係者にとっての超重要人
物であり、おいそれと外の世界に出せば敵対勢力から危害を加えられ
る危険性がある。
かと言って魔法学校付近では勝手知ったる土地故修行にならず、占
い師から他の目的に変えたとしても意味は無い。半ば八方塞がりの
状況。
そうして議論の末アーニャの卒業取り消しの話すら取り上げられ
たその時、メルディアナ魔法学校長が一つの案を提示した。
││日本の麻帆良学園都市、修行地をそこに変える事としよう。
⋮⋮麻帆良学園都市は、物理的にも政治的にも手を出しにくい場所
469
である。
確かにあの場所ならば、例えアーニャと少年が共にあったとしても
ほぼ安全に修業を続ける事が出来るだろう。今回の場合においては
一応の最適解と言えた。
ならば、何故すぐに挙げられなかったのか。それには既に麻帆良が
孕んでいるとある姫巫女の事が関わっているのだが││まぁそれは
それとして。
最終的にアーニャと日本行きに乗り気だった少年、そして心配のあ
まり無理やり割り込んできたネカネ・スプリングフィールドは、英国
の地を立ち麻帆良へと降り立ったのである。
││のだ、が。これには致命的な落とし穴があった。そう、日本人
という人種は一般的に黒髪を持っていたという事だ。
先述の通り、アーニャは黒色恐怖症である。飛行機から降り立った
直後には空港に溢れかえる黒の群れに錯乱し、すぐさま少年へと泣き
ついた。少年もネカネも大混乱である。
どうして誰も気付かなかったのか、それを責めるのは酷だろう。灯
台下暗し、頭髪という余りにも身近な問題であった為多くの者が見逃
していたのだ。さもありなん。
しかし他にこの案以上のものなどある筈もなく、アーニャとしても
これ以上他所に迷惑をかける事は憚られ。精一杯の強がりを胸に麻
帆良での修行を開始する。
外国人の身体的特徴、女の子の占い屋という特異性。周囲から目立
つ要素を抱えながらも彼女は必死に頑張り、そして││大量の黒髪の
学生に群がられ、心が折れた。それはもうポッキリと。
錯乱しかけた彼女は咄嗟に自らの持つ少々特殊な力を用い、学生達
の認識を弄り。人の少ない場所へと逃げ込んだ。
そして明るい太陽を見つめながら、自分に暗示をかけて居た所││
││彼女に、チサメに話しかけられたのである。
︵⋮⋮チサメが黒髪じゃなくて良かったなぁ。畳み掛けられてたら、
きっとダメになってた︶
これまでの経緯を思い出し、改めてそう思う。
470
勿論、チサメの事は外見だけでなく人間的にも大好きだ。ぶっきら
ぼうで無愛想だが何だかんだと優しいし、一緒に居て凄く楽しいと感
じられる友人だ。
しかしもし彼女に何かしらの﹁黒﹂が配色されていたとしたら、お
そらく今のような親交は無かっただろう。
それどころかアーニャの心は完全に挫け、強く拒絶した上で今頃は
幼馴染のように引き篭もっていた可能性が高い。自分でも認めたく
はないが、自分の事だからこそハッキリと分かる。
﹁あーあ。格好とか関係なくトモダチになりたかったなー⋮⋮﹂
⋮⋮本当に、嫌になる程根は深い。
アーニャが軽く溜息を吐くと、落ちる桜がふわりと舞った。くるく
ると不規則な軌道を描き、ゆっくりと空を流されていく。
それが何となく面白く、気晴らしに暫し花弁を吹き続ける。すぐに
飽きた。
まぁいいか。
?
471
﹁⋮⋮あ、もうこんな時間﹂
そうしてあーだこーだと暇を潰し、まばらな客に対応している内に
時は過ぎ。気付けば店を畳む時間帯に差し掛かっていた。
何だか酷く無為な時間を過ごした気がする。修行とは何だったの
か。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮来ないかなー
﹁えーと、チ、サ、メ、へ⋮⋮﹂
モ、と言う奴だ。何か違うかな
一応予め知らせてはあった気もするが、所謂コンナコトモアロート
だけ残しておく事にしよう。
以前とあるトラブルで外泊する羽目になった時のように、書き置き
い立ち、メモ帳とペンを取り出す。
と、いそいそと占い屋セットを片付け始め││﹁あ、そうだ﹂ふと思
残念、時間切れである。アーニャはがっかりしたように首を落とす
か学生の1人すら見受けられない。
何時もチサメがやって来る方向に目をやれど、そこには彼女どころ
?
一文字一文字、丁寧に。前とは違い少しは字も上手くなったのだ、
もう下手っぴなどとは呼ばせない。
アーニャは書いた文字を見直し、しっかりと書けている事を確認。
満足気に頷き、占い屋セットと共にベンチの下へと隠しておいた。
メッセージの託し場所としては雑ではあるが、何時も一緒に片付け
を手伝ってくれるしきっと気づいてくれるだろう。
﹁えへへ⋮⋮じゃ、また明日ね﹂
最後に一言手紙に向かって笑いかけ、アーニャは足早に走り去る。
その足取りは軽く、明るく。変わらぬ明日が来るのだと、極自然に
夜は明けるのだと。そう信じ切り、何の気負いも無いものだ。
⋮⋮そうして、誰も居なくなった広場の外れ。
ちらり、と。舞い降りた桜の花弁がベンチの下に滑り込み、手紙に
桜飾りを施した。
││ちさめへ。停電に備えて、今日は早めに帰ります。また明日会
おうね。 アーニヵ。
*
﹁うーん、惜しい﹂
放課後。何時もの場所、何時もの時間。
ベンチの下から見つけた以前よりも少し読みやすくなった手紙に
目を通した私は、その残念な間違いに苦笑いを零した。
もう少しで間違いゼロだったんだがなぁ。そう呟けば添えられて
いた桜の花弁が吐息に吹かれ、道に積もるそれらと混ざり消えてい
く。
一応は前日に早く帰るとは聞いていたものの、どうせ帰り道の途中
なのだ。ついでに覗きに来てみたのだがまぁ正解だったらしい。手
紙見なかったら見なかったで多分スネるしな、アイツ。
﹁⋮⋮後で文字の書き方でも教えてやっかね﹂
正直僅か10歳前後にしてほぼ日本語をマスターしている奴に教
472
える余地があるのかは微妙であるが、これを見る限りどうも小さい
﹃ャ﹄が苦手なご様子だ。
前よりは上手くなっているとはいえ、その辺りの繊細な部分はまだ
まだという事だろう。間違いを指摘した際のアンナの様子を想像し、
軽く口元が緩む。
﹁⋮⋮さて﹂アンナが居ないのならば、長居する理由も無い。
私は肩に落ちていた桜の花弁を手紙に落とし、鞄に突っ込み歩き出
す。とっとと帰ってゆっくりしよう。
﹁⋮⋮停電、か﹂
⋮⋮アンナの手紙にも記されていた、その単語。
それを思うだけで、アンナへの微笑ましい気持ちなんて消え失せ
る。心が何処か暗い場所へと沈んでいくような││そんな気がした。
本日午後八時から十二時まで。麻帆良のほぼ全域で電気が止まる。
?
はもう落ち窪んだものだった。
﹁⋮⋮クソ﹂
笑顔の奴らとすれ違う度、言い様のない苛立ちが心の奥底から湧き
出てくる。
どうして彼らはあんなにも呑気に笑えるのだろう。何故停電とい
うネガティブな現象を楽しめるのだろう。心の底から理解不能だ。
473
年に二度ある大停電、その一回目だ。
電化製品は使えない、真っ暗で何も見えない、ついでに停電中の外
出は禁止されていたりと字面で見れば不便極まり無いのだが、それと
は反対に街は明るい雰囲気を持っていた。
あちらこちらで笑い声が響き、時には﹁楽しみだ﹂
﹁ワクワクする﹂
等という声まで聞こえてくる。まぁ学生からしたら一種のイベント
のように感じるんだろう。
ボッチ
うちのクラスでも友人の部屋でお泊り会だの蝋燭パーティだのと
あ
喧しかったし、何とも人生楽しそうな奴らである。⋮⋮私
だって言った筈だが
?
ともかく、そんな浮かれポンチな街中にあって││私の心中はそれ
?
たった四時間という短い間とはいえテレビもPCも使えないし、電
灯を始め明かりだって完全に消えてしまう。それだけならまだしも
警備上に穴だって出来かねないんだ。
﹁普通﹂だったら楽しさよりも不便に対する苛立ちとか不安の方が大
きい筈なのに。こうまで感性が違うとなると、最早別の生き物のよう
に見えてくる気もするよ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カツカツ、と。短い間隔で道を叩くローファーが鬱陶しい音を奏で
る。
向かいを歩く奴らとすれ違い、駄弁る学生達を追い抜いて。さり気
なく周囲を警戒する事も忘れない。眼鏡を直す振りして視線を隠し、
チラリと辺りを伺った。
不審な動きをする者は居ないか。こちらを囲むような集団は居な
いか。春休み中にもそのような奴らには遭遇した覚えはないが、どう
474
しても不安が拭えない。
⋮⋮それに、例の視線も何時どこで来るか分からないのだ。せめて
最低限の心の準備だけはしたいと思い、
﹂
││瞬間、首筋に寒気が走った。
﹁││││ッ
﹂咄嗟に振り向き、目を走らせる。しかし近くの建物の
う﹂では無く﹁長谷川千雨﹂である今の私に価値は存在しないのだ、こ
そうさ、考えてみれば││いや、考えるまでもなく当然の事。﹁ち
を抜いた。
違いと言う事なのか。私は一先ず警戒心はそのままに、腹に入れた力
⋮⋮後頭部を灼くあの感覚は、無かった。それはつまり単なる思い
景だ。
て去っていく。何一つ悪意の介在しない、ごく平和な麻帆良の日常風
右も、左も。こっちを見てる奴など居らず、思い思いに歩き、そし
い。
窓ガラスやカーブミラーでこっそり確認してみても、怪しい存在は無
﹁⋮⋮っくッ
誰かに見られているような気がした。
!?
!
ちらに注意を払っている者なんて誰一人としている訳が無い。
今現在私を見てる奴なんて、ガラスに映る私自身しか居ないじゃな
いか。自意識過剰、自意識過剰││口元で何度も繰り返し、自分に言
い聞かせ。逸る精神を落ち着かせる。
静かに、自然に、深呼吸⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮しかし、そうして気分が鎮まると嫌な事が頭に浮かんで来てし
まう。
止めども止めどもキリがない。ネガティブな思考が脳を満たし、腐
敗させ。ドロドロに溶けたそれが心へと降り落ち黒く穢した。
確かに﹁長谷川千雨﹂は無価値であるが、
﹁ちう﹂の方には価値があ
る。もし、誰かに﹁ちう﹂だとバレていたら。誰かに特定されていた
ら。
そしてその誰かが私のシンパでは無く、アンチの内の誰かだった
ローファーを打ち鳴らした。
*
﹂
475
ら。いや、シンパであっても、気持ちの悪いストーカじみた男だった
ら。あの視線の纏っていた陰鬱な空気が、
﹁そういう﹂類のものであっ
たら││
﹁⋮⋮き、っしょ﹂
⋮⋮客観的に見て、特定された可能性は凄まじく低い。それこそ砂
漠の中で砂粒のコーティングをした顆粒砂糖の一粒を見つけ出すよ
うな、それ程の低確率。
そん
あり得ない。絶対に、万が一でもない限りあり得ない。⋮⋮そう、
思っているのに。
大停電のこの日が、その万が一に当たるのではないか││
﹁⋮⋮これまでだって、平気だったろうが⋮⋮
な考えが頭にベッタリとこびり付き、酷い悪臭を放っている。
?
意 識 し て 呟 き、思 考 を 打 ち 切 り。私 は 唇 を 噛 み 締 め な が ら、強 く
!
そうして隠れるように街を歩き何とか無事に女子寮まで辿り着け
たのだが、私の他に生徒の姿は見えなかった。
まぁ放課後になって一番に教室を飛び出してきたのだ。途中アン
ナの所に寄ったとはいえ、他の奴らはまだどこかで道草を食っている
という事だろう。
一応は何人か他のクラスの奴らはうろついているが⋮⋮今の私の
精神状態では、それに安心を見出せ無かったようだ。逆に不安が大き
くなり、足早に部屋へと走る。
私の部屋は女子寮の二階、階段を上がってすぐ近くの場所にある。
無論、火事や地震での建物の倒壊の事さ。それ以
もし何か非常事態に陥っても、逃げる事は容易だ。
⋮⋮非常事態
外の事など何も無い。そうだろう
﹁⋮⋮ただいま﹂
自室のドアを開けて呟くものの、当然ながら返事は無い。まぁ一人
部屋なんで当然だけど。
本来、この寮ではルームメイト制度が推奨されている。何せ中学生
だ、安全的にも生活的にも複数人で生活した方が良いという先生方の
判断だろう。生徒手帳にもそんな感じの事が書いてあった。
しかし私に関しては部屋割りの際の抽選でペアが出来ず、一人部屋
と相成ったのだ。当時は趣味の事もあり幸運だと喜んだものだが、今
となってはどうなんだかな。むしろ不幸であったような気さえもす
る。
私はしっかりと扉に鍵をかけた事を確認し、ゆっくりと室内を進
む。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂他人の気配は無い。玄関の鍵は私が開けるまでかかった
ままだったから誰かが入り込んでいるとは考えにくいが、どうしても
疑いは持ってしまう。
⋮⋮結局どの部屋にも怪しい部分は見つからず、ようやく一心地
だ。家ってもっと安心するもんじゃないっけ
︵停電になるまで残り四時間近く、か︶
さて、何をして過ごすべきか。
?
476
?
?
何時もならそれだけの時間があれば﹁ちう﹂になってハッスルして
る所だが、最近はいまいちその気になれないでいる。⋮⋮写真をアッ
プするのに、多少の恐怖感が付随するようになったからだ。
おかげで更新頻度も激減し、多くの時間が取れた春休み中にも上げ
た写真は1・2枚程度。ネット界の女王としてあるまじき怠惰であ
る。
⋮⋮まぁそれでもネットアイドルランキングは堂々の一位のまま
なので、特に焦りなどは無いんだがな。ちう様の威光は凄いだろう、
ハッハッハッハッハ。あーあ。
つーかわざわざ今日﹁ちう﹂の姿を晒すとか、んな事出来るか。そ
んなの自殺行為もいいとこで││││
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゴン、と手近な壁に頭をぶつける。
⋮⋮ だ か ら、何 で 襲 わ れ る 事 前 提 な ん だ よ。部 屋 の 中 な の に﹁晒
す﹂って表現は違うだろう。思考がおかしい。さっきから私の意思と
は無関係に疑心暗鬼が止まらない。
証拠も確証も何一つ無いのに。そんなに不安か、そんなに襲われた
いのか。いい加減にしてくれよ、本当に。
﹁⋮⋮シャワーでも浴びて、頭切り替えよ﹂
熱い湯か、冷たい水。どっちか浴びればリフレッシュにはなる筈
だ。
大浴場が開くのは通常六時からだが、今日は停電の影響で少し早ま
ると聞いている。今から行けば長く待たずに開くだろう││私は楽
観的にそう考え、着替えの入ったタンスを漁り始めた。
││かち、こち。時計の針が刻む音。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
時間は、緩やかに過ぎる。
結局、頭が湯立ち皮がふやける程風呂を楽しんだとしても、何も変
わらない。多少意識はスッキリしたが、私の心は腐った脳みそに塗れ
異臭を放ったままだ。
477
延々と自問自答
八時に近づく度に焦りが生まれ、座する臀部を引っ掻いていく。こ
のままここにいて良いのか 私は安全なのか
が繰り返される。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮二つ隣の部屋に、私の声は届くのか
増大する。
気付けば反対側の部屋からも人の気配は無くなっており、不安感が
去ったようだ。
へ と 去 っ て い く。ど う や ら 隣 室 の 住 人 が お 泊 り 会 の 会 場 へ と 急 ぎ
隣の部屋からドタドタと慌ただしい音が聞こえ、廊下を通り何処か
時計を見ればもう七時半、何だかんだと時間は経っていたらしい。
廊下に設置されたスピーカーから放送が聞こえてきた。
そうして何もかもやる気が無くなり、PCを落とした途端││寮の
徒の皆さんは部屋に待機し、翌日まで││││﹄
燭を始め火の取り扱いには細心の注意を払うようお願いします。生
﹃││⋮⋮です。30分後には電気の供給が一時的に止まります。蝋
ザイクとか、直接表現しちゃいけない類の、何かに。
││しかし、今日に限ってはその構図が何かと被る。伏せ字とかモ
ホを匿名の誰かと共に叩く快感は現実世界では得難いものがある。
それは私の精神構造と親しい物で、特に﹁異常﹂な事をしでかすア
ティが淘汰される類の﹁普通﹂があった。
か。あそこもあそこで決して褒められた場所ではないが、マイノリ
いいとこДちゃんねるで顔も知らぬ誰かと雑談するくらいだろう
に趣味ってあんま無いんだな。
の為という意識が大きい。改めて思えば、私ってネットアイドル以外
アニメや漫画も好きではあるが、どちらかと言えばコスプレの衣装
しい物が無ければ熱中するもんでも無し。
まぁニュースサイト巡りは半ば日課のような物だし、通販サイトも欲
⋮⋮PCを起動し、お気入りのサイト巡りをしても気は晴れない。
?
夕食はカロリーメイトで済ませてある。腹一杯にはならず、そのく
鍵はかけた。カーテンは閉めきった。扉の隙間もピッチリ閉めた。
?
478
?
せカロリーだけは取れるんだ。何があってもすぐ走れるし、満腹感か
らの眠気も無い。
準備は万全⋮⋮⋮⋮問題は、無い筈だ。
﹁⋮⋮よっ﹂私はテーブルの中央に並べたアロマキャンドルの一つに
火を点け、部屋の隅に移動し毛布を被った。
蝋燭を点けるにはまだ早いかもしれないが、十個以上は買ってある
し一晩分には事足りるだろう。
精神を落ち着ける作用のあるという森林の爽やかな香りがふわり
と漂い、散っていく。勿論、それは何の意味も果たしてはくれないの
だが。
⋮⋮かち、こち。時計の音が大きく響く。
﹁⋮⋮七時、四十二分﹂
後、十八分。
﹁⋮⋮⋮⋮七時、四十九分﹂
後、十一分。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮七時、五十五分﹂
五分。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
一分。そして。
﹁⋮⋮っ﹂
ぶつん、と。何一つの予兆すら無く、寮から││いや、街から明か
りが消える。
⋮⋮たったの四時間、されど四時間。短くて、とても長い時間が始
まった。
*
蝋燭の照らす闇の中は、嫌に静かだ。
冷蔵庫やテレビ。常に何らかの音を発している機械が完全に止ま
り、電池式の時計の音だけが続いている。
⋮⋮いや、よく耳を澄ませば上階の方で騒いでいる連中の声が微か
479
に聞こえない事も無い。ほんの僅かに鼓膜を擽る程度のものだが、今
の私にとっては他人の存在が感じられて有りがたかった。
﹁私、も⋮⋮﹂
もう少し歩み寄る気持ちがあれば、友人としてあの場に誘われてい
たのだろうか││││そんな事を考えかけ、首を振る。
努力はしていた。それこそ胃に穴が空く程に頑張っていた筈なん
だ。しかしその結果が今の私という事は、どうしようもならなかった
という事だろう。
⋮⋮というか、
﹁こっちが歩み寄る﹂んじゃなくて﹁あっちがマトモ
な感覚を身につける﹂、が正しいよな。アホなのはアイツらで、私は
﹁普通﹂なんだから。
どうやら私は思った以上に心細さを感じているらしい。じっと蝋
燭の火を見つめ、心に熱を取り込もうと試みる。まぁ、プラシーボ的
な感じで。
﹁⋮⋮あぁ、そうだ﹂
ふと友人という単語で思い出し、毛布を被ったまま壁伝いに移動。
窓際に置いてあった鉢植えを抱え込む。
それは以前アンナと一緒に買ったチューリップだ。流石に時間が
立った所為か赤い花弁は所々茶色く萎れていたものの、きちんと世話
をしていたお陰かまだ最低限度の美しさは保っていた。
﹁よっ﹂私はその鉢に貼り付けてあった紙切れ││例の良く分からな
い魔法陣の書かれたそれを外し、ポケットの中へと放り込んでおく。
アンナ曰く魔除けとお助けアイテムらしいから、持っておかねばな
るまいさ。彼女の得意げな笑顔を思い出し、軽く笑みが浮かんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
かち、こち。かち、こち。
⋮⋮三十分が経った。
一本目の蝋燭が四分の三くらいまで減少し、溶けた蝋が湖となり炎
の明かりを反射する。
⋮⋮少し早い時間だが、寝てしまえば不安感を感じなくて済むかも
しれない。そうは思っても、眠気なんて欠片も感じていなかった。
480
蝋燭の火を灯したまま寝る事は出来ない。かと言って消してしま
うのも怖い。アンナの黒を怖がる気持ちが少しだけ理解できた気が
する。
何より、寝ている間に襲われたらどうすればいい⋮⋮
﹁っ、やめろ
﹂
中、もしくはその後だったりしたら、
鎖されるだけならまだ良い、もし⋮⋮もし﹁好き勝手﹂されている最
違和感を感じて目が覚めたら、手遅れの状態だったら。逃げ場を封
?
⋮⋮
﹁何度言い聞かせれば気が済むんだ⋮⋮
ない。
?
﹂
﹄
が、こちらを見て呟いている。
⋮⋮ P C だ。暗 が り の 中、電 源 の 切 れ た P C の モ ニ タ ー に 映 る 私
すと、その音源はすぐに分かった。
誰かに。侵入されたのか││大きな恐怖が身を灼くままに首を回
唐突に脳内へと声が響いた気がして、顔を上げる。
﹁ッ
﹃││本当に
る事だろう。断言したっていいね。絶対。絶対││
えるハメになる。ここ最近の私は未来の私に黒歴史として処分され
そして後日に﹁何であんな馬鹿な風に考えてたんだ﹂とか羞恥に悶
な用心してたって無意味に終わるんだ。
労のまま終わったじゃないか。今回だってきっとそうなんだよ、こん
今まで何か起きたか
どれだけ不安に思おうが、結局取り越し苦
けて、日常的に地味である事を意識してるんだ。どうだ、何も問題は
その辺はよく心得ている。心得て実践もしている。伊達眼鏡をか
きだろう。
そりゃネットアイドルやってる以上は、その手の用心はしておくべ
いい加減、しつこいんだよ。
﹂
⋮⋮ 単 な る 妄 想 だ。そ ん な 事 は 分 か っ て い る、分 か っ て い る の に
二の腕に爪を立て、怖気の走る想像を打ち切る。
!
?
481
!
!
!
﹄
﹃何も無い、何も無い、何も無い││煩い程に繰り返してそう思い込も
うとしているけれど、どうしてそう思えるんだ
⋮⋮幻覚、なのだろうか
?
﹄
﹄
?
││眼球達は、ゆっくりとその包囲網を狭めている。
﹁⋮⋮お、おい。やめ、ろよ⋮⋮﹂
﹃あーあー。もしかしてちうタン正体バレちゃったぴょーん
先程と変わらず空虚な物だ。
⋮⋮光が、無い。目が死んでいる。
?
でーもー、それが無いって事
﹃﹁普通﹂さー、アンチだったら晒すよねー
晒してちうタンの生活
を変えながら、笑い、嗤い、微笑う。しかし明るい声音に反し、瞳は
ネコミミ、スク水、バニー、学生服。﹁ちう﹂は次々と衣装とポーズ
?
?
ネットに晒されてないんだよね☆ これってどう言う事かにゃー
﹄
でも
うに血管を浮き上がらせ、黒い瞳孔に粘性ある淫情を孕むそれら。
アイドルに群がる観衆、或いは餌へと群がる羽虫。興奮したかのよ
浮かんでいるのだ。
あざといポーズを決めている。そして、その周りには幾つもの眼球が
映っている場所も変わり、何時か撮影したセットの物となっていて
姿へと変わった。
そう吐き捨てたモニターの私の姿がチラつき、一瞬後には﹁ちう﹂の
自宅でも感じた。⋮⋮それがどういう意味か、分かってんだろ
﹃三十には届いていない。だが、確実に十は越えてる。しかも一回は
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
前はそれを何回感じた
たじゃないか。一回二回なら気の所為だったかもしれない。だが、お
﹃実際、私は見られていた。陰鬱な、絡みつくような視線で見られてい
か、出来ない。
い感情に貫かれ、目を逸らす事すら出来ない。⋮⋮言葉を聞くだけし
﹁⋮⋮⋮⋮﹂声なんて出せるものかよ。私は驚愕とも恐怖とも付かな
る。そこに悪意は無く、ただ事実を口にしているだけだと直感する。
モニターの中の﹁私﹂は酷く空虚な瞳を湛え、淡々と語り続けてい
?
めっちゃくちゃにして笑うよねー
?
482
?
はぁ
他に先駆けてナニかヤりたい事があるのにゃーん
﹄
そうしてその黒い人影は、ちょうど眼孔の部分に先程の眼球を二つ
くくてぇ││﹄
﹃例えば今日とか☆ 闇夜に紛れて迫るにはうってつけでぇ、バレに
のだ。
てるように見える。下腹の異様に膨れた、所謂肥満体型と呼ばれるも
頭があり、胴があり、手足があり││おそらくそれは、人の形をし
の見ている前で盛り上がり、何かの形を成していく。
⋮⋮酷く、不快な現象だ。糸を引き、気泡を生み出すその液体は私
い粘液が溢れ出した。
ボコボコ、と。粘着質な音を立てて、
﹁ちう﹂を取り囲む眼球から黒
?
﹂
露出し、再び﹁ちう﹂を視界に捉え。べたり、べたりと。不安定で、緩
やめろって言ってんだろ⋮⋮
慢な動きで彼女へと群がり││││
﹁や⋮⋮やめろ
!!
目を逸らす暇も、何かを思う暇なんて無い。次の瞬間にそれは映し
然映像が乱れた。
ザリ、と。今まさに黒い人影が﹁ちう﹂に触れようとしたその時、突
絶望にしゃがれた声。
⋮⋮先程までの声とは全く違う。言葉の明るさに反し、血に掠れ、
﹃││いやーん、ちうタンモテすぎて困っちゃ∼う☆﹄
││││だが、少し、遅かった。
掴み、モニターへと被せようと振りかぶる。
ならば取れる方法は一つだ。私は手近に脱ぎ捨ててあった衣服を
女の私ではモニターを割る事も出来ない。
電源は入っていないのだから、コンセントを抜いても意味は無い。
ていた鉢が転がる音が聞こえたが、今は気にしていられない。
私は堪らず立ち上がり、モニターを遮ろうとPCへと走った。抱え
その先を映すな。
!
出され、私の眼球に認識を強制する││。
483
?
﹁⋮⋮あ、ぐ、く⋮⋮
﹂
路地裏。暗い、暗い、場所で。
そ れ が 動 く。そ れ は 泣 く。そ れ は 吐 く。そ れ は 果 て る。散 る。失
う。││死ぬ。
モニターに映る﹁ちう﹂は黒に貫かれ、白濁をぶち撒けられていた。
穴という穴が埋め立てられ、湿った音と共に内側から押され膨らんで
いた。
﹁ひ、あ﹂彼らには、煮詰められた情念だけしか感じない。希望など無
い、極めて陰惨で、悲惨で、救われないもの。その光景は私の想像す
る最悪のケースの物で。
││そんな、理解を拒む世界の中。
﹂
﹁ちう﹂を囲み、崩れた笑みを浮かべる無数の黒が││││ぐるんと一
斉にこちらを向く。
﹁ッ││││││ッ││││││││
い。
⋮⋮叫んだ、のだろうか。その時の事は、正直な所全く覚えていな
!!
ただ││自分の喉から血の香りが立ち昇っていた事だけは、強く記
憶に刻まれていた。
484
!
咲き誇る炎の華 編
大停電。
施設の大規模メンテナンスにより、午後八時より十二時までの四時
間の間、麻帆良のほぼ全域で通電が止まる日である。
住宅街、商店街、道路、校舎。何時もは夜でも明かりの灯っている
それらの場所から光が消え、闇の帳が深く落ちる。
しかし、当然ながら完全に機能が停止する訳では無い。幾つかの場
所⋮⋮動力室や救護室、学園長室を含む一部の部屋、その他数点。都
市にとって重要である場所には非常用の電力が通り、通常機能するよ
うになっている。
もし緊急を要する案件や、病人等が出た際にいち早く対応する為
だ。幾ら麻帆良が魔法使いの為の街だとしても、やはり魔法では全て
を補う事は出来ないという事だろう。
││そして、アーニャもまたその内の一部屋で夜を過ごしていた。
女子中等部校舎より程近い体育館だ。この建物は災害時に避難場
所として使えるよう設計されており、独立した電気機構の他、寝具や
シャワーなどの設備もある程度は揃えられている。
流石に一階部分は運動場としての役割が大きい為に少人数での宿
泊には不向きであるが││二階部分には幾つかそれなりの広さを持
つ個室もあり、アーニャ達は今日一日に限りこの場所で寝泊まりする
事を許されたのだ。
⋮⋮黒を怖がるアーニャと言えど、カーテンで夜暗を遮り複数の灯
りを点けていれば錯乱には至らない。
夜間での使用も想定され、至る所に照明の設置されている体育館
は、彼女にとってはむしろ普段の教員寮よりも夜という地獄をやり過
ごすに最適な環境であった。
加えてその様子を見た学園長が気を利かせ、一階の大半を占める運
動場部分の照明も点ける事を許してくれたおかげでアーニャの気分
は上がり調子。
運動場を駆け回り、一緒に泊まり込む事となった幼馴染を振り回し
485
と。
﹂
﹂
スポーツを楽しんだりと、停電という事態にも反しおよそ六年ぶりと
なる﹁楽しい夜﹂となっていた││││
││のであるが。
﹁││││こぉんの、エロタクゥゥゥーーーーーーーーッ
カッキーン
﹁││││ッへぇンィぎギゃぁぁあぁぁああああああああッ
!!
﹁楽しい夜﹂の残滓は欠片も無く、随分とお怒りの様子だ。
つり目がちの紅瞳を更に釣り上げ、ぜぇぜと息を切らし。そこには
から怒気を吹き出している。
その対面上には大きく足を振り抜いた姿勢のアーニャが屹立し、頭
激突、ズルズルと力無く地に落ちた。
バウンドしながら吹き飛び、転がり。衝撃波をまき散らしながら壁に
﹁ご、ぐひっ﹂赤い髪を振り乱し、口端から悲鳴を漏らしながら何度も
んで行く。
それはそれは爽快な音が体育館に轟き、ひとつの人影が勢い良く飛
!?
﹂
いきなり、こんなぁ││││﹂
これ見なさいよ、これ
﹁⋮⋮な、何。なんっ、でぇ⋮⋮
﹁なんでも何も無いわよ
!
!
お そ ら く 内 向 的 な 性 格 な の だ ろ う。タ ク ミ は 無 体 を 働 い た ア ー
由には⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そ、それが。ぐ。何だって言うんだよ。ぼ、僕がっ、蹴られる理
いてはその相手を必要とせず燦然と輝いていた。
⋮⋮本来は通話中にしか発揮されないその魔法陣だが、今現在にお
たポピュラーな技法の一つである。
感情の機微を光の強弱で伝える。魔法使い達の間では生活に根付い
魔力と電波を重ね合わせる事で通信状況を良くし、且つ通話相手の
電話に刻む事で通信補助の効果を齎す魔法の一つだ。
その背面には鮮やかな紅による魔法陣型の彫り物が施されている。
た。
抗議の声をピシャリと遮り、アーニャは懐からPHSを取り出し掲げ
蹴られた部分を抑え、よろめきつつ立ち上がる幼馴染││タクミの
!
486
!
ニャに抗議の視線を向けようとしたが失敗し、明後日の方向を睨みな
がら文句をつける。
その情けない様子に呆れるでも無く、彼女は先程と同じ怒りを滲ま
﹂
せたままズンズンとタクミへと近づいていく。ビクリと彼の肩が跳
ね上がった。
﹁え、あの⋮⋮ちょ、ホント何⋮⋮
つく。
﹂
⋮⋮ヤバイ。何かマジで怒っている。情けない悲鳴を上げ、尻餅を
い事を悟った。
ここに至りようやくタクミは彼女が単に癇癪を起こしただけでは無
その迫力たるや6年前のXデーに感じたそれと同等以上のもので、
ニャ。
つ い に タ ク ミ の 目 の 前 に 立 ち、仁 王 立 ち で そ う 問 い か け る ア ー
││どういう事か、分かる
れが﹂
感じたら私を想って﹄って伝えてあるの。⋮⋮で、今光ってんのよ、こ
﹁それで、この魔方陣を渡した相手には││││チサメには、
﹃視線を
﹁で、でっていう。つか想いとかクサ杉﹂
の代わりになるから﹂
持ってれば電話に付けなくてもちょっとだけ使えるの。想いが電波
﹁⋮⋮ 魔 法 に 疎 い あ ん た は 知 ら な い か も し れ な い ど、こ の 魔 法 陣 は
?
弁護士を、成歩堂を要求││
!
と。
﹂
回避し、そのままこの場からの逃亡を試みる││が、しかし。運動能
力でタクミがアーニャに勝てる筈も無く、呆気無く襟首を捕まれ引き
寄せられた。
お互い額をごっつんこ。女人の敵を見るかの如き苛烈な視線が至
487
?
!
ま た チ サ メ を 覗 き 見 し て る っ て 事 で し ょ う
﹁し、しらない⋮⋮僕は無罪だ
﹂
﹁│ │ あ ん た が
がぁぁぁぁ
ズッドーン
﹁ぃいひいいいいいぉあああッ
!
床板を踏み抜かんばかりに強く振り降ろされた足を必死に転がり
!
!?
!!
近距離から打ち込まれ、純粋な恐怖がタクミの身を炙る。まるで蛇に
睨まれたカエルのようだ、誰かたしけて。
﹂
﹂
た、確かに前はみ、見てたけど
今
﹁⋮⋮前は、わ、わたしが心配だったっていうから許したけど、今回は
⋮⋮
﹁ちょまぁッ、ま、待ってよ
は何言ってんのか、ま、マジで意味ワカンネッ⋮⋮
嬉しそうに彼女の事を語るアーニャは鬱陶しかったものの、心の支
初めは取るに足らない事だと思っていた。
の出会いである。
⋮⋮しかし、そんな中で誤算が一つ。そう、長谷川千雨とアーニャ
が公になる確率は必然的に0であったのだ。
あった。否、そもそもアーニャの感知能力の低さからして、彼の行動
と意気込むアーニャの思いもあり、当初それは秘密裏に行うつもりで
捻くれたタクミの性格、そしてこれ以上周囲に頼らず修行を終える
駆け付けられるように気を配る。
を使い、こまめにアーニャが占い師として活動する様を観察。すぐに
自らに宿る超能力めいた異能││ギガロマニアックスとしての力
だ。
番近くで見てきた彼は、どうしてもアーニャを放って置けなかったの
癒えぬ傷跡が残っている。黒に苦しみ、ふとした事で取り乱す様を一
六年前に故郷を悪魔達に襲撃されてからこちら、彼女の心には未だ
ニャの事を心配しての事だった。
⋮⋮と言っても、それは悪意あっての事では無い。ただ純粋にアー
い先日まで長谷川千雨を監視していた。
││タクミ。西條拓巳、或いはネギ・スプリングフィールドは、つ
焦りは重なり積もって行く。
どれだけ言い訳を弄そうとも彼女の目から疑念が晴れる事は無く、
用を得る事は難しい。
わたと手を振って宥めようと試みるが││やはり、前科がある以上信
感情が昂ぶる余り涙まで滲み始めたアーニャに慌て、タクミはわた
!
えになる物があるというのはそう悪いものでは無い。むしろ心配事
488
!
!?
!
が減る分歓迎すべき事とも思えていた。
││これなら、そんなに心配しなくても済むかもしれない。
幾分か気も軽くなり、試しに長谷川千雨と戯れるアーニャの様子を
覗いてみたのであるが││その時に何故か、一緒に居た千雨の方に視
線を気取られてしまったのだ。うそーん。
︶
︵⋮⋮ ま さ か チ ー ト 染 み た こ の 僕 が 遅 れ を 取 る と は 思 わ ん だ ろ 常 考
⋮⋮
以降、長谷川千雨はタクミにとっての警戒対象となった。
ギガロマニアックスである彼の気配を読み取ったという事は、千雨
も同じギガロマニアックスである可能性があったからだ。同族の力
は同族にしか感知できない。つまりはそういう事である。
⋮⋮基本的に、ギガロマニアックスに碌な奴は居ないと言って良
い。
一度精神的に強い負荷を受けている事が覚醒条件となっている以
上、どれだけまともに見えようともその精神構造には何かしら致命的
なマイナス面が存在する為だ。
二重人格、メンヘラ、暴力癖、人の話を聞かない、身勝手な人類救
済願望、その他色々。タクミの短い生で関わってきた者だけでも癖の
あるものばかりであった。
も し 千 雨 に も そ れ に 準 ず る 何 か が 秘 め ら れ て い る と し た ら │ │
⋮⋮その推測が正しいとは限らないとはいえ、もしアーニャに害する
類の物であったとすれば、何かが起こった後では後悔してもし切れな
い。
しかし千雨を友人として気に入っている彼女にそんな事を話せば、
反感を買いフレイムキックで蹴っ飛ばされるに決まっている。さぁ
どうするか。
︵││なら、バレないように監視するしか無い。そうして何か事が起
こった場合に、止めるしか無い︶
タクミは密かにそう決意︵そこに至るまでの粘つく思考回路は割
愛︶し、アーニャの観察という目的に千雨の監視も加え、最近までそ
れを続けていたのである。多量の不審と微量の嫉妬を胸に、それはも
489
!
うじっとりと。ねっとりと。
本当は思考盗撮が行えれば一番苦労が少なかったのだが、千雨はそ
の気配に敏感出会った為に﹁監視﹂という名目では難しく││何より
タクミ自身がそれを忌避していた為に実行する事は無かった。
⋮⋮まぁ、結局は千雨の告げ口によりアーニャに察知され、
﹁心配し
てくれたのは嬉しいけどチサメのプライバシーが云々﹂と照れ隠しも
交えこっ酷く説教されたのであるが。
﹂
﹁││いや、でも、もっ。もうホントに監視とか止めてる⋮⋮っからぁ
ホントにぃ
﹁⋮⋮むぅー﹂
る。
﹂
﹁⋮⋮ほんっとにあんたが何も知らないんなら、これはどういう事
ものすごーくピカピカしてるんだけど⋮⋮
理由で光っているのだろう
鮮烈な赤い光に目を眇め、考える。
この魔方陣が光っている理由がタクミでは無いとしたら、一体何が
呟く彼を他所に、しかしアーニャの表情は晴れないままだ。
全く、とんだとばっちりだ││自分の行動を棚に上げてブツブツと
クミは大きく溜息を吐いた。
一応は信じる方向に傾いたらしいアーニャに適当に返しながら、タ
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
か、そんな感じじゃないのかよ⋮⋮﹂
﹁だ、だから知らないって⋮⋮何か、僕じゃない他の奴に見られてると
!
?
を正しながら発光する魔法陣を突き付け、念を押すように問いかけ
を掴む力を緩めタクミを地面へと下ろし。そうして律儀にその襟元
その必死な形相にようやく信じる気になったのか、アーニャは襟首
だ。他に心当りがない以上は否定を続ける事しか出来ず。
今更その事で彼女に文句を言われたとしても、それはもう過ぎた事
タクミは、今現在はアーニャの言に従い千雨の監視を休止していた。
しかしながらその際に行われた肉体言語により完全に躾けられた
!!
しくは自然と私を思い出してくれたとか。﹁⋮⋮えへ﹂そうであった
渡した紙切れを手に持ったまま、試しに私を思い浮かべてみた。若
?
490
!
ら嬉しいと少しだけ頬が緩みかけるが││脈動する光の激しさは、そ
のような穏やかなものでは無いように思えた。
太陽のように大きく発光したかと思えば、すぐに蝋燭の火よりも小
さくなり、不安定に瞬いている。
それは見ているだけで不安になってくるような、切羽詰まった感情
の発露だ。例えるならば││││そう、恐怖や焦りを想起させる信
号。
⋮⋮まさかタクミの言う通り他の誰かに見られており、私に助けを
求めている。とか││
﹂
﹁⋮⋮ね、ねぇ、タク。あんた前にチサメの部屋まで﹃見た﹄のよね⋮⋮
た。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂そう考えた途端、決して小さくない不安が鎌首をもたげ
?
﹂
﹁んぐ、く⋮⋮言っとくけどっ、ああ、あれは着替えが始まりそうに
なってすぐ止めたから、ノーカン⋮⋮﹂
﹂
﹁じゃあ⋮⋮その、ちょっとだけ、様子見てくれない⋮⋮
﹁││は、はっ
?
い事に﹂
﹁良いから
後でチサメには私から謝るから、無事かどうかだけ
﹂
││それは、剣と呼ぶにはあまりに長く。今にも折れそうな繊細さ
それを掴み、ズルリと引き抜く。
そうして何も無い中空へと小さな右手を這わせたかと思うと││
は泣き言を漏らしながらも顔を上げ。
アーニャの必死な様子にただ事ではない何かを感じたのか、タクミ
!
﹁⋮⋮い、いや、何で。それだと僕が蹴られた意味とか、よく分かんな
に変わっており、軽く引いた。
その顔色は血の気の引いた青とバツの悪さを湛えた赤の複雑な色
にタクミは素っ頓狂な声を上げ、思わずアーニャの顔を見る。
それはつまり覗けという事か。今までの言葉とはまるで逆の頼み
?
﹁⋮⋮⋮⋮な、何なんだよぅ⋮⋮ホントにぃ⋮⋮﹂
お願い
!
!
491
?
と、夢幻なる気品に満ちていた。
絢爛さは露ほどもなく、魂が吸い取られるかのような清純なる悪意
と。畏怖を感じさせるかのような流麗さを持ち合わせていた。
唯一柄の部分に巻き付いた茨が不釣り合いに見えるものの、不思議
とこれ以上無い程の││まるで完成されたパズルの如き調和を見せ
ている。
⋮⋮タクミのディソード。ギガロマニアックスがギガロマニアッ
クスである証。妄想を行使する為の鍵が、今ここに顕現したのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
身の丈の何倍もあるそれを握りしめ、タクミは心の裡へと意識を溶
かし、沈める。茨の蕾が赤い光を放ち、体育館の中を斑に染める。
これまで行ってきた監視のお陰で千雨の家の位置は既に分かって
いた。後はチャネルを開き、繋げ。第三の目の役割を持たせた茨の一
本を顕現させるだけで良い。
492
タクミと﹁世界﹂との繋がりは未だ切れていないのだ。詳細な情報
さえ把握できていれば、あらゆる物事を観測し続ける﹁世界﹂を利用
し、この程度は容易いものであった。
そうして彼は以前のように茨を差し向け、千雨の部屋を覗き見る。
視界を共有するため茨の一本をアーニャの腕に巻き付け││外が停
電中である事を考慮し、彼女の視界にだけ薄緑のフィルターを掛け│
│心を重ねた。
﹁││開け﹂
長い睫毛が目元を擽るような感覚。粘着質な音と共に妄想の眼球
が瞼を開き、焦点の定まらない視界がタクミの脳を突き刺して。
っていうか何これ、緑っ﹂
誰も、居ない⋮⋮﹂
新たに繋がった存在しない視神経を辿り、虚数の情報が流れ込む。
﹁⋮⋮
﹁⋮⋮どういう事
えており、人の気配は皆無。別室からも物音は何一つとして聞こえ
どこかに隠れている様子は無かった。停電に伴い全ての灯りが消
れなかった。
⋮⋮しかし、開いた目に映ったのは無人の一室。千雨の姿は捉えら
?
?
ず、暗い静寂だけが部屋を満たしている。
目立つものといえば、乱雑に散らかった衣服や鉢植えとテーブルの
上に並べられた蝋燭くらいの物だろう。その数はおよそ十個、中心に
ある半ばまで溶けた一つだけが僅かに白煙を立ち昇らせ、夜風に吹か
れ揺れていた。
⋮⋮夜風
│
しか思えない。
た者が持ち去ったか、或いはガラスその物が全て溶け落ち消滅したと
ず、泥のような汚れが付着しているだけで綺麗なものだ。これを成し
しかも内外含め窓の周囲には切り取られたガラスの類が見当たら
ナー等の器具では決して不可能な現象である。
その他に目立った外傷は無く、焦げ跡もヒビ割れも無い。ガスバー
いている。
かに残ったガラス片はその断面が泡立ち凝固し、金属部分にこびり付
おそらく何か高温の物で無理やり焼き切ったのだろう。窓枠に僅
常な光景だ。
⋮⋮一目で分かるものではない。しかし把握してみれば、極めて異
﹁││││﹂
﹁これ、は⋮⋮﹂
くり抜かれ、夜街へと続く空洞が穿たれていた。
││開いていたのは、窓枠の中身。ガラス部分のみが広範囲に渡り
のだ。窓枠はしっかりと噛み合い、鍵も固く閉じられている。
単なる閉め忘れだと思っていたそれは、しかし確かに閉まっていた
その光景に息を呑む。
﹁⋮⋮
﹂
⋮⋮この時間帯に不用心な。そう思いつつ何気なく観察し│││
揺れ、少量の風が吹き込んでいる事が分かる。
ふと見れば、居間の窓が一つだけ開いていた。緩やかにカーテンが
﹁⋮⋮窓が、空いてる﹂
?
⋮⋮その理由を除外し、現実的に考えれば前者であるが⋮⋮タクミ
493
!?
には後者であるように思えてならなかった。
││リアルブートした、ディソード。高温の刃で全てを焼き切る彼
の剣ならば、この状況を作り出す事も不可能ではないのだから。
そして、剣を持つ候補は現状一人しか居ない。タクミの抱いていた
疑惑が確信へと変わった。
﹁⋮⋮ねぇ、アーニャ。これ、何があった⋮⋮のかな﹂
茨を通して同じ光景を見ている筈のアーニャに声をかける。
窓の穴から抜けだしたのか何なのか。少なくともこの部屋で何か
物騒な事態があったのは確かだろう。けれど、それがどのような物な
のかが予想できなかった。
しかし千雨と一番近くで接していた彼女ならば、もしかしたら現状
に関する心当りの一つでもあるかもしれない││そう期待しての問
﹂
いかけだった、のだが。
﹁⋮⋮⋮⋮
返事がない。彼女の性格であれば、どういう事だと詰め寄られても
おかしくない筈なのに。
疑問には思ったものの、まぁ静かなのは良い事だ。わざわざ視界を
﹂
元の体育館の中に戻し確認する必要も感じられず、他に何か異常は無
あ、っづァッ
いかと茨を動かして。
﹁ッ
!!
突如現れた火柱がタクミの半身を炙り、その火傷する程の熱により
強制的に意識が引き戻された。
第三の目が途切れた事による急激な現実回帰。眼球がグルグルと
周り突発的な吐き気を催し、状況が把握できずに混乱する。
⋮⋮何だ、何が起こった。タクミは酷く明滅する視界に耐えつつ、
﹂と、間抜けな声が漏れる。
咄嗟にアーニャの方へと視線を向け、
﹁⋮⋮へぁ
けだった。
そこには既に誰も居らず、焼け焦げた茨の欠片がただ舞っているだ
彼の隣。先程までアーニャが居た場所。
?
494
?
││││瞬間、火花が散る。
!?
*
走る。
﹁はぁ、っぐ、⋮⋮
﹂
走る、走る、走る。只管に、走る。
目指す物も辿り着きたい場所も無い。本能的に感じる恐怖と危機
感のまま、全力で足を動かすのだ。
私はインドア派なんだよ。そう愚痴りたい所だったが、そんな文句
﹂
など思い浮かびもしない。││ただ、逃げるだけ。
﹁く⋮⋮は、っく、そっ⋮⋮
﹁ひ⋮⋮ッ
﹂
性を帯びた目でもって、襲う隙を伺っている。
そう││﹁ちう﹂の衣装を身に纏った私を、無様に逃げ惑う私を。粘
だ。
た。そこかしこに立ち並ぶ建物の影から、誰かがこちらを見ているの
⋮⋮ 傍 目 に は 何 も 無 い か も し れ な い。け れ ど、私 に は 分 か っ て い
の足音と荒い息遣いが建物の隙間に反響し、溶けていく。
かす毎に視界と擦れる洋服のフリルだ。それ以外には何も見えず、私
目に映るのは、夜の闇に包まれたモダンな町並み。それと身体を動
痛い程に酸素を求める肺をいなし、背後を振り返る。
!
線と一瞬だけかち合った。
その気持ち悪さに肩が跳ね、バランスを崩しかけ蹈鞴を踏む。慌て
て壁に手をつき立て直し、擦れた指先に痛みを感じつつ走り去る。通
りの角を曲がっても減速せず、少しでも前へと進むのだ。
⋮⋮そうして脳裏をよぎるのは、つい先程自室のPCモニターに
映ったおぞましい悪夢。醜く穢れ、画面越しにも分かる程の悪臭に溢
﹂
れた、あの。あの││
﹁⋮⋮∼∼∼∼ッ
!
⋮⋮嫌だ。もし捕まればきっと私は次の﹁ちう﹂になる。
!!
495
!
││ぎょろり、と。流れ去る塀の隙間から突然眼球が覗き、私の視
!
逃げろ、逃げるのだ。目的地など無くていい、あんな目には逢いた
くないだろう。だったら走れ。あいつらの追ってこない場所まで、走
れ。走れ走れ走れ││走れ
﹂喘ぎを漏らし、硬い地面を踏みつけて。私は心の内側か
何故逃げるって
夜街を逃げ惑っていたのだ。
面を脱ぎ捨てていた。モニターに映っていた﹁ちう﹂の姿そのままに、
件の映像を見た瞬間に意識が飛んで、気付いた時には既に千雨の仮
を私は知らない。
いつの間に着替えたのか、どうやって部屋から出たのか。その一切
回っていた。
私は﹁長谷川千雨﹂では無く﹁ちう﹂となり、真っ暗な麻帆良を走り
││││おそらく、もうすぐ午後九時になるかどうかという時刻。
ら響く声に従い、限界を無視して更に足を速めた。
﹁⋮⋮っぐ
!
かも把握しないままに追われている。
!
車の往来を無視し
︵くそっ、何で。何でこんなになってるんだよ⋮⋮
どうして、何がどう作用すればこうなるんだ
?
だから知らない
そ ん な も の は 知 ら な い。そ の 目 的 は そ ん な
事知る訳が無い。どこから出てきた
?
!
に。一刻も早く、早く
!
逃げるのだ。奴らの視線の届かない場所へ、手の届かない安全地帯
そして、今できるのはそれに対する場当たり的な行動だけだ。
し か し 彼 ら の や り た い 事 だ け は こ れ 以 上 な い 程 に 理 解 し て い る。
?
奴 ら は 何 者 か
が混乱で満ち満ちる。
んて許容できない。即ちこれは紛れも無い現実であり、だからこそ脳
幻覚や妄想の類では決して無い。﹁普通﹂の私が﹁異常﹂をきたすな
ゆる意味で﹁異常﹂な事態。あっていいのか、こんな事が。
訳も意味も分からず記憶も無い。明らかに﹁普通﹂ではない、あら
て街道を横断しながら、そう毒突く。
︶
は。誰かに││そう、あの﹁ちう﹂に群がっていた黒い男達に、何も
そんなのは決まっている。追われている、追われているんだよ私
?
?
496
!!
﹁⋮⋮だ、誰かぁ
を求める。
⋮⋮しかし。
誰か、はっ、たすけっ⋮⋮
︵何で、誰も来ない⋮⋮
︶
﹂
切実に願い。何度も、何度も、何度も、何度も。声を張り上げ、助け
に知っている奴らの顔を浮かべながら、誰でもいいから助けてくれと
アンナ、ネカネ先生、高畑先生、裕奈、綾瀬、その他大勢。無意識
際気にしていられない。
正直この﹁ちう﹂の格好を見られるのは自殺モノの羞恥だが、この
けど、今の私に出せる全力の声量だ。
上げた。息も絶え絶え、声は掠れて声量も足りなかったかもしれない
止まれば捕まる││そんな強迫観念にも似た焦燥の中、私は大声を
!
﹁⋮⋮ッ
﹂
は、私は。
い な い の に。何 故 出 て く れ な い、助 け て く れ な い。こ の ま ま で は 私
幾ら停電といえど、外出禁止令が出されている以上は誰か居るに違
いものの、その程度は分かる。
筈なんだ。世界樹の位置から土地勘を得るなんて器用な事は出来な
雰囲気から言って寮のある居住区からはそう離れていない場所の
なのか把握出来ては居ない。西区か、東区か、それとも北区か。
確かに今までがむしゃらに走り回った所為か、私は現在位置がどこ
されており、反応も梨の礫。
れなかった。通りすがりに建物の壁を叩き扉を引っ張っても皆施錠
無機質な街並は闇の静けさに包まれたまま、人の気配すらも感じら
!?
助けが来たのか。そんな希望に縋り咄嗟にその方向に目を向けた
﹂
が││すぐに見なければ良かったと後悔する。
﹁⋮⋮っぁ、何⋮⋮
最初はそれが何なのか見当すら付かなかった。しかしそれが大き
れ、不快な音を立てて蠢いている。
近場にあった倉庫のような建物。その扉の隙間から黒い粘液が漏
?
497
!
⋮⋮ベタリ、と。何処かで物音が響いた。
!!
く波打ち、震えだし││その中から大量の血走った眼球が姿を覗かせ
た事でその正体を悟った。
││あれは、人の形を成す前の黒い男だ。常識や物理法則を無視し
た事象にも関わらず、極自然に、疑いなく、決定的にそう確信してい
た。
⋮⋮後から思えば、こんな思考ができた時点で私は既に﹁普通﹂で
は無かったのかもしれない。混乱や焦燥で言い訳できる範囲を超え
ているのだから。
しかし当時の私にとってはそれは紛れもない真実だった。恐怖に
身体が震え、身が竦む。そうしてすぐにこの場から離れようとして│
﹂それは決して大きな音では無かった。しかし全方位から
│││瞬間、ギシリと一斉に周囲から何かが軋む音を聞いた。
﹁うわっ
響いたそれは私の頭を多方向に揺らし、数瞬の間思考能力が停止す
る。
⋮⋮そして注意力の散漫の末に訪れるのは転倒であり。気付けば
って、ぇ⋮⋮
﹂
足が縺れた私の身体は投げ出され、地面に向かって飛び込んでいた。
﹁││っぐ
れるような異音と共に人の形を作っていく。頭があり、胴があり、手
みちり、みちりと。それらは私の見ている前で、筋肉の繊維が結ば
い粘液が溢れ、次々と盛り上がり、変形しているのだ。
周囲の建物の扉から。今まさに入ろうとしていた通りの先から黒
黒、だ。黒い粘液が私を取り囲もうとしている。
﹁⋮⋮は、﹂
り回し││││
私は慌てて身を起こしながらも、何があったのかと周囲に視線を振
走る。折れ曲がっていないのが不思議な程だ。
⋮⋮腕が痛い、掌が熱い。指の一本を動かす度に妙な感覚が神経を
が、気にする精神的余裕は無い。
を転がった。その際無意識に握りこんでいた掌から紙切れが落ちた
の為か完全にとは行かなかったようだ。身体を打ち付け、少しの距離
咄嗟に手を突いて衝撃は和らげられたものの、全力疾走中の出来事
!
498
!?
!
足があり││出来上がるのは先程自室のモニターで見た光景と同じ、
肥満体型の男の姿。
目玉から粘液が溢れたか、粘液から目玉が溢れたか。その程度の違
いはあったが、きっと些細な事だろう。彼らは少しの間眼球をギョロ
付かせているだけだったが、やがて私を捉えた順にゆっくりと近づい
てくる。
気持ちが悪い。精神が犯され、嫌悪に陵辱されていく。
﹁か、ひゅ⋮⋮はっ、は﹂
最早声すら失くした私は、必死に逃走を再開しようと足掻き、足掻
き、足掻く。
しかし一度止まってしまった足は中々言う事を聞いてくれず、ただ
酷い疲労に悲鳴を上げるだけだった。ガクガクと震え、壁に体重を預
けなければ立つ事すら覚束ない。
いや、足だけじゃなく全身が悲鳴を上げている。滝のように流れる
499
汗は睫毛を濡らし、痙攣する肺は酸素すら満足に吸い込めなかった。
ともすれば吐瀉物を撒き散らしそうだ。
﹂
⋮⋮限界なんだ。私は、既に。
﹁⋮⋮や、だ。いやだっ⋮⋮
それはつまり、声が聞こえる程の近さにまで黒い男達が迫ってきて
辛いものだ。
⋮⋮誰かのメッセージが聞こえる。ノイズ混じりの酷く聞き取り
見見みみmm││⋮⋮。
特定して。ちうタンの。見てる。俺は見て、見てい、ちう。見て。見。
│ │ │ │ ち う タ ン だ。ち う タ ン。何 時 も 見 て る。、液 の 詰 ま っ た。
無い気分になるが、そんな思考はすぐに淘汰されていく。
可憐な衣装が擦り切れ、フリルが千切れボタンが飛んだ。一瞬勿体
えつけ。ズルズルと地面を這い進む。
私は唇を噛み締め、疲労とは別の意味で痙攣する身体を必死に押さ
相手なんて絶対に嫌だ⋮⋮
嫌なんだ、まだ14なのに、好きな人も出来てないのに、あいつら
けれど、止まる事はしたくない。
!
!
いるという事だろう。しかし背後を確認する勇気は無く、私は反射的
に目に付いた路地裏へとボロボロの体を引きずった。
暗く、細い道だ。先は見通せなかったが、よく目を凝らせば向こう
側に道が繋がっているのが分かる。
幸運にもその先にはまだ奴らは見えず、逃げ道としては最適だ。一
﹂
筋の光明が見えた││││そう、おもったのだ。が。
﹁⋮⋮あ⋮⋮
││路地、裏
ふと、嫌な予感が背筋を走り。それ以上進む事を本能が拒否し、入
り口から少し進んだ所で。牛歩の足が止まった。
そうだ、自室で見たあの映像。あれに映っていた場所は確か、この
ような暗い所では無かったか
│
││││無数の瞳と、目が合った。
﹁⋮⋮⋮⋮は⋮⋮⋮⋮﹂
早く解かなければ捕まる。焦る気のまま背後を振り返れば、
るだろう。
を飲み込んでいく。おそらく手で触れようものならより拘束は深ま
無理矢理に動かそうとも粘液は外れる事は無く、むしろより深く足
を拘束しその場へと固めていた。
慌てて目を落とせば、いつの間にか這いよっていた黒い粘液が足首
その事に気づき、急ぎ路地を抜けようと踏み出した足が、動かない。
﹁││うぁッ
﹂
││││この状況は、まるであの光景のリプレイじゃないか│││
み上がり一つの絵を描く。
路地裏に入った事⋮⋮積み木を組み上げるかの如く、様々な予感が積
⋮⋮私が﹁ちう﹂の格好をしている事、黒い男達に追われている事、
この辺りで。
の路地のだったような気がする。そして彼女が倒れていたのは、丁度
﹁ちう﹂のインパクトが強く、良くは覚えていない。だけど、確かにこ
?
黒が。あの粘液が。路地の入り口一杯に広がり、詰まり。そこに浮
500
?
?
!?
?
かぶ無数の眼球がこちらを見つめていた。
向こう側の景色なんて見えない。黒は私の身長を越え、建物の大き
さを越え、見上げるままに天まで昇り、夜空へと融け合い一つのもの
となっていて。
⋮⋮否、もうそれは夜空じゃない。そこに浮かぶ星の一つ一つまで
もが血線の走った眼球に変貌している。
20か、200か、2000か。多分﹁ちう﹂のホームページの訪
問者数と同じ数。降り注ぐ視線の全てに情欲が宿り、私が、
﹁ちう﹂が
囚われる様を望み、見つめているのだ。
﹁は、はは⋮⋮は﹂
もう、何の罵倒も悲鳴出ない。
笑うしか無いというのはこの事だろう。心に大量に絶望の泥が降
り注ぎ、しかし反対に表情には笑顔が浮かぶ。
私には知る術は無かったが、それは奇しくも先の﹁ちう﹂が浮かべ
ていた同じものだった。目から光が消え、感情が壊死し消えていく。
⋮⋮おそらく、あの映像は今の光景を映していたんだ。この無数の
眼球をカメラとし、﹁ちう﹂の、私の未来を撮っていた。
あり得ない。そう思っているのに、それを私の中で真実とする気力
が沸かない。端的に言えば諦めたのだろう││誰かに助けられる事
も、自力で助かる事も。﹁普通﹂すらも諦めた。もう、逃げられない。
﹁⋮⋮あは、は﹂
広がる黒が小さく千切れ、男を産んで。その全てが私に向かって手
を伸ばす。距離はもう目と鼻の先だ。
意思とは関係なく未だ足が抵抗を続けていたが、意識的に止めさせ
る事も出来無い。感情がぶっ壊れ、現実をモニター越しに眺めてい
た。
そうして無数の眼球の中に、怯えた私を││数刻前の自分自身の姿
を見る。
幻覚か、妄想か。何れにせよ状況はループし、眼球を通じて現在と
過去は繋がった。後の展開は決定事項であり。流れ作業にも等しい。
﹁⋮⋮う、ぁぐっ﹂
501
足を、腕を、頭を、腿を、肩を、腹を。男の腕に掴まれ、地面に押
さえ付けられる。彼らの一挙手一投足に粘着質な音が響き、不快感を
強く煽った。
彼らが見下ろす。涎のように粘液が垂れる。止めろ、キモい、嫌だ。
嫌だが、しかし││何かが出来る筈も無く。零れた涙が黒に溶け、消
えた。
⋮⋮さて、あの映像の﹁ちう﹂は最後に何と言い残していただろう。
確か、明るい声で我が身の魅力を嘆いていたような気がするな。
ハハ、お気楽なこって。そうバカにしたかったが、今なら彼女の気
持ちがよく分かる。それ以外にどうしろってんだ、こんなん。
﹁ぁは、ふ。ぃ、いや。ち、ちうタン⋮⋮は、あはっ☆﹂
私は黒に浮かぶ眼球、その中に居る過去の自分達に向かい、空元気
を振り絞った。
どうしてそんな事をしたのか、私にも分からない。だけどまぁしょ
502
うがないんじゃないのかな。私は奇妙な義務感を抱きながらも、﹁ち
う﹂の言動をトレースしようと試みる。
⋮⋮そうさ、ファンに愛されていると思えばそう悪い事でも無い。
アンチも特定厨も居ない。﹁ちう﹂を求めてる時点で、どんな奴だろう
がそれはファンなのだ。
自己愛による自己暗示。最早思考すらおぼつかない私は大きく、明
るい笑顔を浮かべ││││嫌悪と諦観を置き去りにして、彼らの事を
受け入れた。
││││││
して肌がざらついた。
││まず服が破られ、素肌が晒される。外気は冷たく、生理現象と
けるだけで。
ああ、終わりだ。終わるのだ。虚ろな瞳で、私はそれをただ眺め続
し、まるで獣のように私の身体に群がっていく。
⋮⋮ す る と、そ れ が 分 か っ た の だ ろ う。彼 ら は 歓 声 の ノ イ ズ を 発
!!!!!!!!!
││腕を上げられ、二の腕から腋の窪みをなぞられる。擽ったさな
ど感じない、黒い粘液が肌に付着し悪寒が走った。
││足を開かれ、無数の腕が腿を這う。気持ちが悪い。気持ちが悪
い。気持ちが悪い。
⋮⋮そして、その手が徐々に位置を変えていく。同時に、腋を嬲っ
﹂
ていた指先も。ゆっくりと、じりじりと焦らすように、蛇の舌をも連
想させる手つきで移動し、そして││││
﹁│││││ォォォオオオオオオアアアアアアアアッ
と大きな衝撃と熱風が舞い踊り、男達の手が離れ。拘束が
﹁っ、きゃ、っうわぁッ
﹂
││││誰かの絶叫と、轟音。それらがその一切を吹き飛ばした。
!!
顔を上げ、
﹁⋮⋮、あ
﹂
⋮⋮何だ、何が起こった。詰まった息を咳に変え、地面に手を突き
取り戻す。
たような音が響き、世界が急速に色付き始め。腐った脳が一部機能を
﹁っぐ﹂壁に背をぶつけ、声が漏れる。その際頭の中でスイッチが入っ
た。
外れた私は当然それに耐えきれる筈も無く、呆気無く地面を転がっ
ドン
!?
⋮⋮あれは何だと問いかけようとも、声は出ず。答えは火の粉とし
﹁⋮⋮な、ん﹂
た。
す炎の巨塔。先程まで黒のあった場所全てに、紅き灼熱が顕現してい
││││煌々と、轟々と。激しく燃え盛り、赤い光と熱を撒き散ら
れる。
た。﹁ちう﹂を忘れた。忘れ、忘れ、忘れ忘れ忘れ│││そして、見惚
私 は 不 快 感 を 忘 れ た。男 達 を 忘 れ た。恐 怖 を 忘 れ た。諦 観 を 忘 れ
⋮⋮それを見た瞬間に晒した間抜け面は、生涯一のものだろう。
?
503
!
て還る。
どうやらそれは天から落ちてきたらしい。黒と眼球の空には切り
裂かれた延焼痕がハッキリと残り、焦げ滓となった眼球が粘液の中へ
と沈み、消える。
焦げ付く悪臭は殆ど無かった。未だ燃え続ける炎の渦が回転し、手
近な男達を巻き込みながら大気をかき混ぜているのだ。彼は次々と
﹂
その数を減らし、炎の燃料にくべられていく。
﹁は、はは⋮⋮
﹂
も││││
﹁⋮⋮ちゅー、りっぷ
﹂
見様によっては、舞い散る火吹と合わせチューリップのような形に
はその隙間から溢れているようだ。
近からガラス状の巨大な花弁を3枚ずつ咲かせている。どうやら炎
両手に握られたその二つは腕の外側を覆うように刃が流れ、肩の付
意と。赫怒を感じさせるかのような苛烈さを持ち合わせていた。
絢爛豪華にその身を誇り。魂が燃え尽きるかのような、清澄なる善
と、灼熱なる血気に満ちていた。
││それは、剣と呼ぶにはあまりに歪。今にも砕けそうな脆弱さ
ている小さなもの。
のような、華のような。良く分からない武器らしきものを構え、俯い
それは⋮⋮何と言ったらいいのだろう。真っ赤な籠手のような、剣
付くのが遅れたようだ。
風に揺られる赤い髪が炎に混じり、違和感無く溶け込んでいた為気
﹁⋮⋮
そう、人のような影を見つけた。
⋮⋮そうして暫しの間目を奪われていると、巨塔の根本に何か⋮⋮
温かい││。
物ではない。眩い、ああ、ああ、歓迎すべき事だとも。何て、綺麗で
吹き抜ける熱風が眼の表面を軽く焼く。熱い、しかしそれは不快な
!
﹁普通﹂の思考では無いし、到底信じられる事では無い。顔も服装も、
呟き、もしやと思い当たる。
?
504
?
火炎の逆光で良くは見えないのに、どうしてそうと決められよう。
⋮⋮しかし、赤い髪と小柄な体格、そして彼女自身が語った言葉に
より、半ば確信を持って理解した。してしまった。
││││
﹂
││││任せときなさい 私の剣でチリチリパーマにしてやる
わ
﹁⋮⋮アンナ、なのか
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
﹂
ただ、どうしようもなく頼りない。それこそ怯える子供のような小
く、錯乱しそうな程に脆く。凛々しさも笑顔も無かった。
自らの吐き出す炎に照らされた彼女の顔は、泣きそうな程に弱々し
﹁││⋮⋮チ、サメぇ⋮⋮
くりと俯いていた顔を上げた。
⋮⋮その恐る恐るの呟きが聞こえたのか、人影は││アンナはゆっ
り捨てるには現状との一致が多すぎる。
冗談だと。私を元気づけるための方便だと思っていた。しかし、切
!
!
さな声音で、私の名前を噛み解したのだ││││
505
?
!
黒 編
││六年。それが、アーニャが耐え続けている時間だ。
あの雪夜の日。自らの故郷が焼かれ滅ぼされた日から、アーニャの
心は黒に犯され続けている。
今でだって忘れない。空を埋め尽くす悪魔達、姉貴分と共に居た時
の事、そして││タクミが肉袋となり弾けた光景。
黒とは、即ち記憶なのだ。寝ても覚めても日常的にアーニャの意識
を喰らい、精神を苛み続ける悪夢の、悪魔達の色。
それらはふとした事で蘇り、強制的に追憶のトリガーを引かせる。
中でも特に強い影響力を齎すものが視覚情報からの刺激││つまり、
黒い物を見る事だった。
⋮⋮当時に想い、体験した感情の全てが一斉に蘇り、一瞬の内に自
身の心を食い潰す。それはとても怖い事で、彼女にはまだ耐える事の
﹂
可愛らしい服は無残に破れ、目を赤く泣き腫らし、驚いたようにこ
506
出来ない痛みだ。故に錯乱し、泣き叫ぶ。
現在においては少しは改善されたとはいえ、健常になったとは言い
﹂
難い。日本に来た当初の様子からも、それは明らかの筈だった。
││だと、言うのに。
﹁ふーっ⋮⋮ふーっ⋮⋮
﹁⋮⋮ア、アンナ⋮⋮
める力を自覚するには十分な時間だったのだ。
剣││即ち、ディソード。六年という時間は、彼女が自らの裡に秘
りを照らすおかげだろう。
けたいという願いと││そして、自らの握る双剣から噴出する炎が辺
この場所まで辿り着き多少なりとも耐えられているのは、千雨を助
瀉物の跡さえある。
上に無い程に最悪だ。事実その表情は苦悶と恐怖に満ち、衣服には吐
夜闇の色、そして周りに並ぶ黒い男達。彼女にとって現状はこれ以
アーニャは今、その黒の中に居る。
!
そうして前を見据えたアーニャの目に、千雨が映った。
?
ちらを見つめている彼女。その姿を見れば、一体どのような境遇に
﹂
あったのか子供といえど薄々ながら察せられる。
﹁⋮⋮ち、チサメ。チサメに⋮⋮っ
轟、と。眼の奥で炎が燃え荒ぶ。
赫怒を司るディソードへと流れ一層に盛った。
!!
︵この粘ついた、黒い、黒っ
同じ黒⋮⋮
︶
││おそらく、彼らは肥大化した妄想の結晶だ。
別に、アーニャは男達の正体を朧気に把握していたのだ。
その事に躊躇は無かった。義憤や箍の外れかけた理性の問題とは
花弁より噴き出す焔華が舞い踊り、彼女にとっての﹁恐怖﹂を殺す。
アーニャが腕を振るう度、その目測とは全く違う場所で男が死ぬ。
達の物だ。
悲鳴が聞こえた。両断され、焼却され、この世界から消え失せた男
││││ッ
に対し望んだ結果を強制する。
しかし彼女にとっては関係ない。理屈も法則も全ては無意味、現実
出した拳のような、何もかもが滅茶苦茶な一閃だった。
距離も、狙いも定まらない。癇癪を起こした子供が苦し紛れに繰り
││地面を踏みしめ、未だ残る黒い男に刃を振るう。
﹁││チサメにっ⋮⋮酷いことするなァァァッ││
﹂
それは確固たる怒りだ。噴き上がる激情がアーニャの意思を炙り、
!!
!
そしてその可能性があるのは││タクミの証言から言って、
﹁素養﹂
み出したもの。
きっと彼らもそれと同じ、何らかの理由で追い詰められた人間が生
じ黒なのだ。
る今だからこそ分かる。この男達は悪魔ではないが、あの時の黒と同
ディソードを手に入れ、ギガロマニアックスとしての見地を得てい
とは違うものだった。
意識に現れ、悪魔の形を取った粘着く黒点。あの個体だけは他の悪魔
⋮⋮思い出すのは、あの雪の日に見た光景。追い詰められた自分の
確信はできないが、この妄想の主はおそらく千雨自身なのだろう。
!
507
!!
﹂
を持つのであろう千雨である可能性が高い。⋮⋮あの時の自分と同
じだ。
﹁ぅ⋮⋮ああああああああああッ
自身の過去を焼き尽くすかのように、彼女は更なる雄叫びを上げ
る。両肩の先に開く六枚の花弁が大きく展開し、一際強大な炎が吹き
出した。
赤く、紅く、明く。灼熱の風が鮮烈に周囲を照らし、黒を焼く。恐
れる対象を退けているという事実が恐怖に屈しそうな心を鼓舞し、ほ
んの少しの活力を生み出すのだ。
同時に加速度的に体力と精神力が消耗していくが、止める訳にはい
︶
かなかった。もし止めればその瞬間に自分は終わると、そう理解でき
ていた。
︵もっと、あ、あかるくしなきゃ⋮⋮今なら出来るんだ、私に⋮⋮ッ
て。そして、トリガーを引いたのだ。
覚しない域で事実を予測し、鋭敏な恐怖心がそれを目聡く嗅ぎつけ
だからこそ夜闇の中へも飛び込んだ。根拠の薄い情況証拠から自
の力がある。
アーニャは﹁黒﹂を││﹁悪魔﹂を倒し過去の自分を助け出せるだけ
それは一種の代替行為なのだろう。昔の無力な自分とは違い、今の
出来事と重ねてしまっていた。
分や村人達。他の細かい部分も含め、アーニャは様々な要素を過去の
例えば、大量の黒い男達は悪魔、襲われてしまった千雨は過去の自
⋮⋮似ているのだ。六年前の環境と。
無く、戦い続ける事を選んでいる。
げ去る事を選ぶべきだった。しかしアーニャの頭にはその選択肢は
本当に千雨を助けたいのならば、男達を殺すよりも彼女を連れて逃
嫌悪により視野狭窄に陥り、柔軟な物の考えが不可能となっていた。
彼女はある種暴走状態にあると言ってもいい。度を越えた恐怖と
える事もしない。
吐き気が昇り、涙が溢れるのが分かる。しかしアーニャはそれを抑
!
記憶の逆流に心を呑まれ、過去と現在、千雨と自分を重ね。思い込
508
!!
みという名の答え/妄想が花開く。理屈ではなく、トラウマ染みた義
務感が今のアーニャを動かしていた。
⋮⋮或いは、タクミへの贖罪の意味もあったのかもしれない。
妄想の中とはいえ、彼を殺したあの黒い悪魔がアーニャの心から生
﹂
み出されたモノとするならば、それはつまりそういう事なのだから。
﹁││燃えろぉぉおおおおおおおッ
力を込めた地面が爆ぜ飛び、アーニャの身体が空を舞う。
大きく薙いだ灼熱の刃が数十の男達を纏めて裁断し、追随する赤火
が灰すら残さず蒸発させて。路地の壁面が真っ赤に染まり、深い焦げ
跡を刻んだ。
六年前と同じ、暴走による最適解への到達。それを成した本人はや
はり自覚の一つも無いまま、只管に殺戮を敷いていく。
今ならば、絶対に負けない。
かつて幻視したヒーローのように。自分を助けてくれたネカネや、
青い剣を構えたタクミのように。今度は私がその役目に就いてみせ
る。
そう心が叫ぶままに剣を振り回し、焔華を舞い散らせ、そして││
⋮⋮そして、その果てに何が待つのか。狂乱と混乱と錯乱、その淵に
立つアーニャは終ぞ気付く事は無い。
││││黒い男が全て無くなった時、自分は何を燃やせば良いのだ
ろう
され尽くし、夜闇を照らす礎となっていった。
*
﹁⋮⋮何だ、これ⋮⋮﹂
ポツリ。小さく掠れた声が漏れる。
眼前で展開されている常軌を逸した光景。まるでどこかのアニメ
に出てくるようなド派手な殺陣を目の当たりにした私は、半ば思考停
止の状態にあった。
509
!!
⋮⋮再び生まれた、自覚しない域での予測。それは恐怖と共に燃や
?
今日一日でトンデモな目には遭ってはいたが、その中にあってもこ
﹂
れはピカイチだ。服の破れを抑える事さえ忘れ、ただ見入る。
﹁わぁぁぁああああああッ
││││ッ
⋮⋮もしかして、ソレか
ソレが鍵だったのか
問題アンナに助けられている以上、それが如何に﹁普通﹂より逸脱し
正直、あんな落書きで何が起きるとも思えなかったものの││実際
の可能性は極めて高い。かもしれない。
転倒したおかげで何処かへと行ってしまい確かめる術は無いが、そ
紙切れは握っていた気がする。
衣装が﹁ちう﹂のものに変わっているとはいえ、思い返せば某かの
?
守り代わりの魔法陣が書かれた紙切れを突っ込んでいた気がする。
が││││はた、と思い出した。そう言えば、ここにはアンナ特製お
余りに突飛な出来事に動揺しているのか。最初はそうとも思った
いた。
ふと気付けば、無意識の内にポケットを弄り回していた自分に気付
﹁⋮⋮ん﹂
険を察知して││││と。
約束通り、こんな暗い闇の中にも関わらず。何をどうやってか私の危
⋮⋮多分、アンナは私の事を助けに来てくれたのだろう。数日前の
持ったように私の周囲を避けているようにも思えた。
燃やされ、断たれていくのは黒い男だけで、むしろ炎自体が意思を
そしてそれに伴い撒き散らされる炎は私に火傷の一つも与えない。
夜空に軌跡を刻んでいるようだ。
縦横無尽に地や壁を蹴る彼女の輪郭に大きな威圧が帯を引き、まるで
⋮⋮にも関わらず、様になっているように見えるのは何故だろう。
は微塵も感じられない。
身体をぶん回すだけの見苦しい類のものだ。何時かのような洗練さ
そこにはアクション映画のような美しい動作は無く、ただ力任せに
無き声が悲鳴を上げる。
アンナの絶叫と共に両腕の剣が振り抜かれ、その度に黒が散り。声
!!
?
510
!!!
た理論だろうが否定する事は出来ないのだろう。
何せ剣から炎を出したり、軽々と男をなます斬りにするような奴
だ。他にどんな技を持っていたとしてもおかしくは無い。八面六臂
の大立ち回りをする彼女を呆然と見ていると、心の底からそう思う。
﹁⋮⋮は、ぁ﹂そうして彼女を見ていると知らず膝の力が抜け、ぺたり
と座り込んだ。膝と尻を打ち付け、鈍い痛みが走る。
オイ、何だ。一体どうした。思わず焦り、無理やり足を動かそうと
するが上手く力が入らない。
いや、それだけじゃない。腿も、腰も、背中も、頭も。どこもかし
﹂
こも凄まじい倦怠感に包まれ、状況と裏腹に酷く安心した心境に││
││
﹁⋮⋮安心⋮⋮
エスパーか
どっち
⋮⋮安心、しているのだろうか。私は。こんな﹁異常﹂の真っ只中
において随分とまぁ気楽なものだ。
つーかホント何なんだよ、これ。魔法か
?
﹁⋮⋮っぐ、⋮⋮き﹂
し、感情が弾けた。思考が掻き乱され、抑えが効かない⋮⋮
││私は、私を散らさずに済んだのだ。その事実をようやっと自覚
になかったが、それでも良いと思えた。
も止め処なく溢れ出る。その一つとして満足の行く答えは出せそう
﹁う、く﹂張り詰めた精神が緩んだのか再び涙が流れ出し、同時に疑問
にしたって﹁普通﹂じゃない。いや、今更の話だけどもさ。
?
ただでさえ今まで散々な醜態を晒していたのだ、せめてハリボテ
そうなったら後はへたり込んで喚き散らす事しか出来ないだろう。
きる。
僅かに残っている理性でさえもなし崩し的に砕けてしまうと予想で
それは単なるプライドだった。しかしここで取り乱してしまえば、
み、その痛みで強引に涙を止める。
けれど、最後の一線は越えさせてなるものか。血が出る程に唇を噛
!
511
?
だったとしても冷静さを取り繕っていたかった。
燃や
⋮⋮鉄錆の香りを舌で転がし、嗚咽と一緒に飲み込んで。私は残っ
遅い
!
た涙の筋を拭い、そうして改めてアンナの姿を睨んだ。
﹂
﹁ラ・ステル・マ・スキ⋮⋮る、るあ、あああああっ
さなきゃ、もっと、明るく⋮⋮
││││ッ
!
来るのだろう。
いやそ
良く分からない不安が心中をよぎるものの、だからと言って何が出
︵⋮⋮良いのか、このまま放っておいて︶
自身がよく知っている。
素人考えなんだろう。精神がそんな単純な構造をしていない事は、私
思う。しかし炎で照らせるのならば問題ないような⋮⋮というのは
おそらく黒、というか闇の中で行動するのが怖くて仕方ないのだと
無く、恐怖に対する怯えが大部分を占めていた気がする。
思い返せば、現れた時もそうだ。彼女の顔には勇ましさなど微塵も
顕著に分かった。
へと変わっていくのだ。多少なりとも落ち着いて観察すると、それが
しかし男達が減っていく毎、アンナの表情は逆に切羽詰まったもの
る事くらいは理解できる。
私に﹁異常﹂の事は良く分からないが、それでもこの場が優勢にあ
︵⋮⋮でも、何だ。あまり良い空気⋮⋮じゃない、よな︶
やらないが。
らしそうになる。無論、そんな恩知らずな事は﹁普通﹂じゃないので
﹁異常﹂に対する理不尽さが胃の奥から湧き上がり、思わず舌打ちを鳴
⋮⋮一体私がどれだけ必死に逃げ回っていたと思ってるんだ。
間の問題だろう。
くその数を減らしている。この調子で行けば、完全に殺し切るのも時
あれ程、それこそ空や道を覆い尽くす程にあった男や眼球達は著し
す。つくづく﹁異常﹂な光景だ。
一体、また一体と。次々と呆気無く男達が燃え上がり、夜闇を照ら
!!
あの炎の中に飛び込んで﹁止めて﹂とでも叫んでみるか
?
512
!!!
んな理由も力も無いだろうが、何言ってんだお前。
どうするべきか。どうしたら良いのか。考えている間にも事態は
進む。荒れ狂う炎により黒い男は既に殆どが駆逐され、残りは十人も
居ない。
ざまぁみろ、いい気味だ、助かった。本来ならばそう歓迎し喜ぶべ
きなのだが││今の私には、消滅していく彼らの姿が何かのカウント
ダウンのように思えてならなかった。
︵あと、八人││いや、七人、六、五⋮⋮︶
そうやって数えているうちにも、人数は次々と減っていく。
激しい炎がアンナの身体に巻きつきそのまま突貫。最早単なるカ
﹂
カシと成り下がっていた男達を貫通し、大きな風穴を開けた。⋮⋮あ
と、四人。
││││
﹁⋮⋮⋮⋮ッらあァっ
﹁⋮⋮⋮⋮﹂⋮⋮本当に、放置しておいて良いのか
に増える気配も感じられない。打ち止めなんだ、きっと。
う。その死体は炎を吹き上げ、闇に溶け。残る﹁黒﹂は唯一人、新た
おそらく、彼らにも何が起きたのか理解できないままだっただろ
れ、一人が風船のように弾けて死んだ。
しかし瞬きする間に一人が縦に裂かれ、一人がサイコロ状に裁断さ
ンナに、それを好機と見たのか三人の男が手を伸ばす。
地面に火炎くゆるブレーキ痕を残しながら着地し体制を整えるア
!
らせながら何かを知らせようとしてくれているようで││││
機械的。およそ生物とは思えない姿をした彼らは、その尻尾を赤く光
その刺激を送る者は、鼠の形をしているように思えた。流線型で、
隅を突いているのだ。
じ取っている。共鳴、同調。そうとしか表現出来ない何かが、意識の
だが、この焦燥は何だ。私が把握していない領域で、心が何かを感
も当てられない。
任せておくべきだ。見逃して後日また現れたなんて事になったら目
あの黒い男達が私にしようとした事を考えれば、このままアンナに
?
513
!!!!
││⋮⋮赤
﹂
﹂
その色は、今まさに彼女が振るっている剣の、
﹁││もっと、明るくしてよおおおおお
﹁
││││ッ、││││ッ
も、少し遅かったらしい。
するとアンナはそれに反応し、ピクリと肩を震わせたが││││で
﹁っ﹂
た。
ともかく私は何事かを叫び、アンナの気を引いた。それは確かだっ
シンクロを起こしていたのだろうと思う。
務感のような、そうでないような何か。多分、不完全ながら意識的な
しかし心の中では、何か大切な物が回っていたような気がする。義
だ。
たのか。後の私は覚えておらず、何度考えても良く分からないまま
⋮⋮彼女を止めようとしていたのか、それとも他に何か目的があっ
い手を伸ばす。
一度活が消えたおかげでバカになった身体を引きずり、届く筈の無
││それを見た途端、私はアンナの下へと這いずっていた。
﹁││││﹂
うになっていた。何時もの心優しい彼女からは考えられない所業だ。
炎により酷く嬲られたのか、男の手足は完全に燃え尽きダルマのよ
に止めを刺そうとしている所だった。
ハッとして視線を向ければ、丁度アンナが刃を振りかざし、残る男
される。
いつの間にか裡に埋没していた意識が、甲高い絶叫によって引き戻
!!
?
光景にも見えなくもない。あくまで炎だけに限定すればの話だが。
⋮⋮聞くに堪えない断末魔のノイズさえ無ければ、ある種幻想的な
し。彼らの醜悪さとは裏腹の煌々とした灯りを振りまいた。
炎の中でみるみる内に男の身体が溶けていき、美麗な赤を作り出
み、激しい熱風が吹き荒れる。
その動きに過敏な反応を見せた焔華が一息に男の肥満体を包み込
!!!!
514
!
﹁⋮⋮あ、あ﹂
意識せず、情けない声が漏れた。私を脅かす﹁黒﹂は消えたにも関
わらず、何か致命的な失敗を犯したような気がしてならない。
私はこれで追われる事も襲われる事も無くなったというのに、何
故。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それを成したアンナはどこか呆然とした様子で動きを止め、炎を眺
め佇んでいた。先程までの苛烈さが嘘のような静けさだ
燃え尽きた。そのような表現が脳裏をよぎる。
五秒、十秒と時が過ぎ。私は歓声も彼女への礼も言わず、ただその
﹂
姿を眺め続けているだけで││││。
﹁あ、や、やだ。やだ⋮⋮
突然、アンナが弱々しい声を上げた。
ふらふらと覚束ない足取りで徐々に勢いを弱める炎へと近寄り、慌
てて双剣を突き刺した。再び六枚の花弁が一斉に開き、溢れる焔華が
切っ先に集う。
注ぎ火、とでも言えばいいのだろうか。どうやらアンナは男を燃料
とした炎を消したくないようで、必死に火力を注ぎ込んでいる。
⋮⋮しかし、注げども注げどもその勢いは回復しない。それも当然
の事だろう、既に男の欠片は焼却しきっており、灰すらも残っていな
いのだから。
アンナもそれは分かっている筈なのに、炎を止める事は無い。││
﹂
双剣の発する炎が、少しずつ弱くなっているにも関わらず、だ。
﹁⋮⋮お、おい。アンナ
これまでとは質の違う﹁異常﹂
流石に不審に思い、戸惑いつつも声をかけるが、どうやら聞こえて
いないようだ。泣きそうな声音で某かを呟きつつ、六枚の花弁を更に
大きく開き炎を呼ぶ。
だがやはりその勢いは弱く、小さくなっている。荒れ狂う激しさは
微塵も感じられず、ゆらり、ゆらりと不安定に明滅を繰り返すのだ。
515
!
﹁やだ、やだよぉ。燃やしたのに、何で、なんで⋮⋮﹂
?
そして、それに付随しアンナの様子も異常をきたし始めた。呼吸が
段々と不規則になり、額には玉の脂汗。立っている事も難しいのか、
足から力が抜けたかのように膝を屈する。
まるで双剣に生命力的な何かを吸い取られているようだ。その刃
自体も軋むような異音を発しており、明らかにヤバそうな雰囲気。
まずい。良く分からないが、何かが確実にまずい││そう思った私
アンナ、アンナ
﹂
は未だ抜けたままの腰を引っ張り、彼女の下へと急いだ。地面と擦れ
る膝が痛い。
﹁おい、大丈夫か
だやだやだ﹂
を込め││││
﹁││││いやだぁぁぁあああああああああああああああああっ
﹂
││瞬間、絶叫が轟いた。
﹁ぅ、あっ
﹂
!!
背に指が届くのだ。私は最後のひと踏ん張りと、擦り傷の痛む手に力
彼我の距離はもう五メートルも無い、あと少し頑張ればその小さな
声は変わらず届かない。ならば触れる事さえ出来れば。
﹁くっそ、やっぱ聞こえてねぇか⋮⋮
﹂
﹁な、何で暗く、全部倒したのに、やだ、暗い。くろいぃ⋮⋮やだ、や
!
!
の中心を突き抜ける。
思わずバランスを崩しかけたが、元より倒れているような状態なの
で然程影響は無かった。不幸中の幸いとはこの事だろう。
くそ、今度は何だ⋮⋮
言葉を、失った。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
た砂埃とを唾液に絡めて吐き出し、咄嗟に閉じた目を、開け、て
もう大抵の事じゃ驚かねーぞ││││私はそんな悪態と口に入っ
!?
516
?
パキン、と。ガラスの割れるような音が響き、色の無い衝撃が身体
!?
﹂
﹁あーッ
││
あー
ああああっ、ぁあっああぁぁ、ああああぁぁぁッ
!
?
アンナが蛇蝎の如く嫌う、その色。
れた漆黒の炎。
そうして隙間より溢れ出るのは暖かみの何一つ無い、嫌悪の凝縮さ
て開ききり、筋の切れた肉のように開閉機構を失っていた。
⋮⋮刃には、黒い血管のような筋が這い。六枚の花弁が限界を越え
﹁⋮⋮黒い、火
﹂
灼熱の紅は今や濁った黒へと変わり、真っ暗な闇を吐いていた。
││││あれ程美しく、明るく周囲を照らしていた光は最早無い。
噴いていた双剣の方。
べきという見本のような様子だったから。問題なのは、先程まで炎を
いや、そこまでは予想の範囲内だった。模範的な錯乱とはかくある
のように丸まって只管に叫び続けている。
怖いのだろう、嫌なのだろう。彼女は頭を抱え振り乱し、ダンゴ虫
私の視線の先。そこにはアンナが大声を上げて錯乱していた。
!
剣はそれを自ら生み出し、彼女の心を炙っていた。
517
!!
助けてそして助けられ 編
や だ ぁ ぁ ぁ ぁ あ あ あ ぁ ぁ
││剣の暴走。ふと、そんな言葉が浮かんだ。
﹂
﹁や だ あ あ あ あ ぁ ぁ あ あ あ あ あ ぁ あ あ
あぁぁぁぁぁ
いるようだ。
︵くそ、近づこうにも
︶
どうやら剣を投げ捨てるという発想が出来ない程に錯乱しきって
るものの、しかし未だ双剣を持っている以上それが離れる訳が無い。
彼女は激しく身体を動かしながら黒い炎を振り払おうと試みてい
﹁異常﹂な炎である事が伺える。
すら付いていない。こちらにも熱風は届いておらず、熱を持たない
身体を焼かれ苦しんでいるのかと思ったが、彼女の衣服には焦げ目
音だ。
あの黒い男達が発したノイズのような、聞き苦しい事この上ない騒
鳴の枠に収まっては居なかった。
否。声量に声帯が耐え切れないのか、掠れしゃがれたそれはもう悲
黒い炎に巻かれ、アンナは更に大きな悲鳴を上げる。
!!
﹂
?
あれが何者だったのかは分からないが、あそこまで徹底的に焼き尽
した。
アンナが助けたかった私は既に救われ、黒い男達は一人残さず全滅
ない。
⋮⋮いや、冷静に考えれば本当は見ている意味さえ無いのかもしれ
﹁⋮⋮見てるしか、無いのか⋮⋮
そこにはさっきまでの弱々しさは無く、音を立てて燃え盛る。
を増しアンナの身体を包み込んでいく。
出来る事は何一つとして思い浮かばず、戸惑う内にも黒い炎は勢い
消され届かない。
かった。かと言って呼びかけようにも、私の声はアンナの絶叫にかき
振り回される刃は鋭く、加えて炎に阻まれ近づく事は出来そうにな
!
518
!!
くされればもう現れる事は無いだろう。楽観的な憶測であるが、鮮烈
な殲滅風景がそんな確信を与えてくれている。
││つまり、私一人が助かるだけなら余計な首を突っ込む必要なん
て無い。心の中で、悪魔にも似た何者かが囁いた。
︵そうだ、何もやれないなら逃げたって、別に⋮⋮︶
確かにアンナがここに来た事に関しては、このような状況に陥った
私に原因があるのかもしれないさ。
しかし私には今何が起こっているのか全く把握出来ていないんだ
ぞ。何が正しいのか、間違っているのかも分からない。どうしろって
んだ、マジで。
大体、このままこの場に留まって危険が及ばないとも限らないん
だ。だったらアンナには悪いがさっさと逃げた方が身の為であり、彼
女の成し遂げたかった事にも沿う筈だろう。
⋮⋮いや、もしかしたらこれも何か意味があるのかもしれないぞ
例えば⋮⋮そうだ、あの黒い炎に包まれたらテレポートみたいな感
分からんけど。
じで家に帰れるとかどうよ。非常識この上ないが、もう何でもあり得
るんじゃねーの
﹁⋮⋮っぐ、く﹂
は止まらないながらも何とか歩ける程度には回復していた。後は家
に向かって歩くだけ。
帰り道は分からないが││まぁ、夜明けまでには見つかると思いた
い。
とにかく、もう私を脅かす奴は居ないんだ。これにて私が体験した
﹁異常﹂は終わりとしようじゃないか。
こんな﹁異常﹂だらけの状況なんて放り捨てて、大人しく部屋に帰っ
て寝てしまえ。一晩の悪い夢として忘れちまえ││││それが利口
﹂
な選択であり、力のない一般人が持つべき﹁普通﹂の思考。その筈だ。
⋮⋮その筈、だよな
﹁ぁぁぁぁ⋮⋮ぁぁ、う、ぇ、ああぁぁあぁっ、あ、ぁ⋮⋮
!
?
519
?
多少時間が経った所為か抜けた腰も半分くらいはハマり直し、震え
力を込め、壁に縋り付くようにして立ち上がる。
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アンナの苦しむ声が、聞こえる。
彼女の身体は激しく燃える黒に完全に包まれ、刃の振り方も大分緩
慢になっていた。
その姿は見えないものの、僅かに声が聞こえてくる。しかしそれは
今にも途切れてしまいそうな程に小さく、儚いものだ。聞き様によっ
ては泣いているようにも感じられる事だろう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮違う、嘘をついた。聞きようなんて選ぶべくも無く、それは確
実に泣き声だった。
怖くて不安で、半ば狂いかけながら必死に藻掻き、誰か助けてと泣
いている子供の││││。
﹁││⋮⋮⋮⋮ッ﹂
││そうだよ。泣いているんだよ。アンナは。
︶
だけ助かろうとするなんざ、とてもじゃないが﹁普通﹂とは呼べんだ
ろう。常識的、人道的に考えて。
⋮⋮さて、これらを踏まえて﹁普通﹂である私は何をするべきか。
﹂
﹁│ │ 決 ま っ て ん だ ろ。手 を 差 し 伸 べ て、泣 き 止 ま せ て や る ん だ よ
⋮⋮
まる音がした。
それは覚悟、若しくは決意と呼ぶべきものだろう。少なくとも私の
520
ぎり、と。唇を強く噛む。先程噛み切った傷が開き小さくない痛み
を発するが、それがどうしたと切り捨てた。
︵⋮⋮泣いている子供を見捨てて逃げるのが、﹃普通﹄か
いいや、違うね。
いていたアンナに手を差し出したんだ。
︵助けて貰った恩を忘れて逃げ出すのが﹃普通﹄か
いーや、それも違うよな。
︶
思い出すのはアンナと初めて会った時。私は﹁普通﹂だからこそ泣
?
魔法陣に、そして今。これだけの事をされながら知らんぷりで自分
?
呆れる程に簡単な自問。鼻で笑って自答すれば、カチリと何かが定
!
中の戸惑いは消え去り、やるべき事が見えた。気がする。
﹁異常﹂への恐怖、困惑、嫌悪。それら全ての負の感情を腹の底に封じ
込め、力を込めて鍵をかけ。私はアンナの下へと一歩踏み出し、壁伝
いにゆっくりと近づいた。
﹁ぁぁああ、ぁぁぁぁっぁぁぁあぁぁ⋮⋮﹂
既にアンナはすぐ近く。振られる剣の風圧と、それに乗る炎の嫌悪
感が鼻先に飛ぶ。
⋮⋮刃と炎、後者は熱を感じないとはいえ正直どっちも当たりたく
は無い。しかし黒い男達にされそうになった事を考えれば、痛い方が
幾らかマシだ。
私は挫けそうになる心を奮い立たせ、刃の動きを見極めて││││
﹂
思い切り、壁を押し出し彼女の方角へと倒れ込んだ。
﹁││っ
途端、私の身体を黒い炎が包み、衣服と肌を炙る。
この際火傷の一つくらいは覚悟はしていたが、幸いながら身体が焼
け爛れるような事は無かった。やはりさっきも感じた通り、熱を持た
ない﹁異常﹂な炎であるようだ。
⋮⋮が。
﹁、っぐ、おぇ﹂
その代わり度を越した嫌悪感が体中を駆け抜け、際限なく嘔吐感が
駆け上る。鳩尾の辺りがヒクつき、気を抜いたらカロリーメイトを吐
き出しそう。
肌では無く意思を焼く、全く持って趣味の悪いこった。アンナはこ
んなものに巻かれていたのかと腹が立ち、視界が遮られる中を必死に
﹂
なって手を這わせ。赤いローブの端が視界を擽り、咄嗟に掴む。
﹂
ぁぁぁぁぁっぁああああああああああああああ
﹁ぐ⋮⋮あ、アンナッ
﹁││ッ
取り戻し、必死に私を払い除けようと再び剣を振り回し始めた。
おそらく私の事も分からなくなっているんだろう。機敏な動きを
ンナは肩を震わせ思いっきり泣き叫ぶ。
そうして双剣に当たらないよう細心の注意を払い抱きしめれば、ア
!!
!
521
!!
!!
﹁ぐお、まっ、ちょぉい
マジで死ぬ
﹂もう私も必死だ。刃が髪の先を削ぎ、耳の
すぐ横を掠める度に心臓が縮む。誰か助けて
!!
お、落ち着け
﹂
ほ、ほら、私の髪を見ろ
﹂
黒くないから安心し│
やだ、やだやだやだやだやだ
黒はもう居ない││いや、周りは夜だけ
﹂
離して、離してぇ
とにかく落ち着け
│││ぉわッ
﹁大丈夫だから
やだぁぁああああ
﹁やだぁあぁぁ
ど
﹁アンナ
えつけ、彼女の耳元で呼びかけ続ける。
││だが、決して離すものか。少ない体力を根こそぎ使い腕を押さ
!
!!
ち付けた。一瞬息が止まり、目の中に星が散る。
!
以上の事も。
まれる事だろう。いや、あの男達を切り飛ばす鋭さを見る限り、それ
このままでは防御姿勢を取る暇も無く私の両目に一文字の傷が刻
動かせない。意識に身体がついて行かないのだ。
か。そんな淡い期待を込めて腕を動かそうとするが、鉛のように重く
もし刃と顔の間に腕を差し込めれば、骨で止まってくれるだろう
させられ、音を立てて血の気が引いていく。
末期の時間と言う奴だろうか。迫り来る刃が嫌にハッキリと認識
た。
⋮⋮ ゆ っ く り と。流 れ る 時 が 遅 く な り、体 感 時 間 が 引 き 伸 ば さ れ
只々見ている事しか許されない。
ども後の祭り。咄嗟にかわせる程の反射神経など私にある訳も無く、
少しの間身を伏せ、様子を見てからにすりゃ良かった││そう思え
呪った。
││││目前まで迫った刃の光が瞳を舐め上げ、私は己の迂闊さを
︵あ、やば︶
づきながら、もう一度飛びつこうとすぐに身を起こし、て。
くそ、女の子なんだからもっと非力であってくれよ⋮⋮
そう毒
ブン、と子供らしからぬ力強さで私は弾き飛ばされ、背中を強く打
!
!
!
!
!
︵なんで、なんで││︶
522
!? !
!!
!!
!
焦りに煽られ思考が散る。無駄にクロック数の上がった脳が助か
る道を模索するが、何も出ない。出る訳が無い。
まぁ、確かにある意味では現実的な話だ。善意の行動が裏目に出る
なんて良くある事だし、ネットを漁れば救いようもない胸糞話は幾ら
だって転がってる。
﹁普通﹂な私にはぴったりな結末といえるだろう。⋮⋮だけど、だけど
もだ。
││││私は﹁普通﹂だ。だからこそアンナを助け、泣き止ませな
きゃいけない。なのに、それを成す事も出来ず死ぬだって
おかしいだろう、そんなの。私は﹁普通﹂なのに、そうで在る為の
行動が取れない等あってたまるか。だとしたら、私は﹁普通﹂じゃな
くなってしまう。
つまり﹁異常﹂だってのか、私は。
⋮⋮違う、そんな事があるものか。﹁普通﹂だからこそ今私は殺され
ようとしているんだ、
﹁異常﹂である筈が無い││いや、だったらアン
ナを泣き止ませる事が出来る筈で。
︵わたし 私は、何で││││︶
分からない、纏まらない。思考が乖離し、矛盾する。
既に刃は睫毛の先に触れている、もう私の余命は幾ばくかも無いだ
ろう。
ああ、嫌だ。死にたくない。アンナを、アンナを助けなきゃ、私は。
心臓の音が嫌に煩い。恐怖、混乱、焦燥。幾つもの荒ぶる波が私を
揺さぶり、視界すらもが覚束なくなる。
︶
││││刃に映り込む炎の黒が、ぐにゃりと歪んだ。
︵⋮⋮私は、﹃普通﹄で。だけど今、立場は⋮⋮
そうして黒のあった場所に、何かを見た。
来た、鼠のような幻覚だ。
総勢7匹。無意識下の領域、私の気づかない/気づこうともしない
523
?
流線型であると同時に機械的。これまでも度々私の視界を擽って
!
場所に顕現した彼らは皆一様に熱り立ち、何やら慌てた様子でこちら
に向かって手を振っていた。
⋮⋮手招いて、いる
︵⋮⋮そうだ、今の全部が﹃異常﹄に統一されているのなら。私の言う
﹃普通﹄とは、つまり︶
思考が、価値観が裏返り。私が忌避していたものと溶け合ってい
く。
それはとても不愉快で、気分の悪い現象だった。しかし、私が﹁普
通﹂で在る為には││アンナの手を取る為に必要な事なのだと、本能
に近い部分で理解していた。
︵⋮⋮は、は、は︶
刃が眼球に触れ、粘膜が熱で溶かされ行く中。私は虚ろな意識で嗤
い、刃の中の鼠達へと手を伸ばす。
無論、実際に出来る訳が無い。単なる比喩表現であり、そうするの
は妄想の中の私自身。言い換えるならば一種の自己肯定、認識作業の
ようなものだ。
それに気付けば﹁異常﹂となり、しかし無視したままでは﹁普通﹂で
居る事を許されない。何と嫌な矛盾だろうか。熱せられた瞳孔が収
縮し、泡立つ脳に彼らの虚像を描き出す。
⋮⋮本当は、ずっと前から知っていた。﹁普通﹂を口癖にしたあの日
から⋮⋮一度心が罅割れた時からずっと。彼らが﹁異常﹂であったが
故に、認識する事を拒み続けていただけ。
││でも、今となっては抜かねばならない。掴まなければならな
い。﹁普通﹂の為に振るうべき﹁異常﹂を。心に仕舞いこんでいた矛盾
の塊を││彼らを。
︵⋮⋮わ、私は。私は⋮⋮︶
しっかりと、誤魔化しの一つ無く鼠達を見定めろ。
認めるのだ。死にたくなければ宣言し、彼らの事を肯定しろ。アン
ナの手を取り、﹁普通﹂を成したいのならば││早く、速く、疾く
︵ああ、ああ。私は⋮⋮そうだよ、ずっと前から私は││││︶
!
524
?
││││﹁異常﹂を、その手に携えていたんだ。
⋮⋮パキン、と。
それを認めた瞬間、私にとって大切な何かが圧し折れて。同時に、
時の流れが正された。
*
﹂
││甲高い、極めて異質な音が耳元で弾け。私の鼓膜を破壊する。
﹁││ッ
驚き、僅かに肩が竦んだ。
まるで高周波がぶつかり合ったかのような、若しくは共鳴している
かのような。極めて聞き取り辛く、しかし聞くに堪えない嫌な音。
それは一種の圧力を持って私とアンナの身体を強く撃ち、色の無い
衝撃がその芯を突き抜ける。吹き飛ばされないのが不思議なくらい
の代物だ。
﹂
その音は⋮⋮そうだ、私の目前に止まる刃から放たれているようで
っそ⋮⋮
││││
﹁⋮⋮
!!
い出し、咄嗟に身体を背後に引く。剣の追撃は無く、身体も動いた。
いや、強い痛みが無いのなら今はそんな事どう
刃の発する熱が目に伝わったのか、妙な違和感を感じる。
失明しかけたか
だっていい。それよりも⋮⋮
私は視力の低下を考慮に入れず目を擦り、朧気ながらもその視界を
!
?
ち う 様 が よ う や く 我 等 を 認 め 自 覚 し て 下 さ っ た ー
取り戻し││││そして、それを捉えた。
﹃う お お お ー
﹄
!
525
!?
全身が総毛立つ。今まさに眼球が両断されようとしていた事を思
!
﹃我等妄想精霊郡千人長七部衆、今こそお役立ちの時な
!
りぃー
﹄
﹄
﹄
﹄
﹃我等の地味なロビー活動がようやく実を結んだ
のだぁ
﹃でもいきなり結構なピンチであるが
﹃我等ってば色々と軽いのが売りですのんが
のであるが
﹄
﹃ひぃぃぃちう様早く逃げちくり∼∼
﹁⋮⋮何だ、こりゃ﹂
﹄
﹃STR極振りの刃物食い止めるとかマジつらたんな
!?
!?
︶
?
﹁││うオぉっ
﹂
﹁ぅ⋮⋮ぁぁああああッ⋮⋮
﹂
こから逃げるように後退り││││
理解不能にして意味不明。私は混乱した頭のまま、無意識の内にそ
出来ない。ええとつまり、何がどうなってんだこりゃ。
だが、私の頭は疑問ばかりが次々と湧き出て、うまく思考する事が
︵えっと、何だ。何が、なに⋮⋮
がらも剣を押し込み続けていた。危険はまだ、そこにある。
錯乱状態のアンナはそれに気づいていないようで、騒音に苦しみな
らしながら必死に逃げろと叫び続けている。
発光する尻尾を黒い刃に擦り合わせ、例の甲高い音と小さい火花を散
おそらく私を助けようとしてくれているのだろう。鼠達は皆紅く
現できるものだった。
人語を解する彼らは余りに﹁異常﹂であったが、大体の造形はそう表
流線型で、機械的。丁度拳程度の大きさだ。羽も無いのに飛行し、
││何、と言われても鼠であるとしか言えない。
!!
!?
!!
しただろう、一個二個の痣で済んだら御の字だ。
堪らずもんどり打って倒れて込む。今日一日でもう何度身体を強打
目の前を刃が掠り、弾き飛ばされた鼠達が私の身体にぶち当たり。
り合いを振り切った。
ブン、と。音に耐え切れなくなったアンナが強引に身を捻り、鍔迫
!?
526
!
!
﹂
﹄
﹄
﹃ぎゃー、ちう様に当たったー
﹄﹃でもちょっと幸せー
﹃やっぱ力押しはダメですたーー
﹃ごめんなさーーい
﹁っぐ、うるせ、どけっ
﹄
!!
けを考えろ⋮⋮
疑問だ何だ、そんな事に思考を割くくらいなら、
﹁普通﹂を成す事だ
るのなら、刃と拮抗できていたこいつらしか居ない。
取った﹁異常﹂達へと目を向けた。この場を何とか出来る可能性があ
﹁⋮⋮っ﹂私は奥歯を噛みしめるとアンナから目を逸らし。鼠の形を
ていない。
が現れようと、私は何も成していない。事態はこれっぽっちも変わっ
⋮⋮ああ、さっきの衝撃で少しは頭がハッキリした。どんな﹁異常﹂
見ていられない程に、汚い惨状。
黒に塗れて泣き叫び、吐瀉物を零し、恐怖に悶え。同じ女としては
││そうしてぼやけた視界の先に、未だ苦しむ彼女の姿を見た。
﹁⋮⋮ぉ、え⋮⋮ぁ、⋮⋮﹂
を起こす。そうだあいつは、アンナはどうしてる。
私の身体の上で騒ぐ正体不明の鼠を押しのけ、ほんの少しだけ身体
!!
!!
﹃││あいや、皆まで言わずとも伝わっておりますとも﹄
﹃我等はちう
﹄
様の一部であり﹄
﹃自衛する為の剣﹄
﹃ちう様の望む事ならば﹄
﹃何だっ
て叶えてみせまするー
私は鼠達に頷きを一つ返すと、徐ろに立ち上がった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
れると。そう思ったのだ。
疑わず、額面通りに受け取って。アンナを助けられると、
﹁普通﹂であ
多分、色々起こりすぎて麻痺していたのだろう。鼠達の言葉全てを
の私は奇妙な確信を感じていた。
段の私ならばそんなツッコミの一つも入れているのだろうが、この時
そんなアバウトな返しをされても何一つ伝わらねぇよ││⋮⋮普
自信満々に手を挙げる。
お前らは何だ、何が出来る。そんな端的な問いかけを遮り、彼らは
!
527
!
!
﹁⋮⋮ね、鼠。お前らは、何が││﹂
!
途中の動作なんて最早必要無い、私がそうであると願い/妄想した
のであれば、それは須らく事実となり得る。震える二本足で地面を踏
みしめ、アンナを見据えるのだ。
﹃逆に、我等自身の事も伝わっている筈です﹄
﹃自己愛と、讃美﹄
﹃それ
らは矛盾しないのです﹄﹃つまりはこれは自問自答﹄﹃我等の答えを、ち
う様は全て知っている﹄
││妄想する。
鼠達が離す言葉の意味は、全く理解できていない。しかし心とも言
うべき場所にストンと落ち、驚く程簡単にその全容を把握した。
⋮⋮ゆっくりと右手を掲げ、彼らの内の一匹を掴む。
鼠は私の指の感触に擽ったそうな様子を浮かべていたが││すぐ
528
にその身体を変化させ、鼠の形を捨て棒状の物となる。ガラスとも陶
器とも付かない質感のそれは驚く程に手に馴染み、自然と強く握り込
んだ。
﹁││││﹂
││妄想する。
言葉は無く、仕草もない。
しかし鼠達は私の意を正確に汲み取り、一斉に右手の先へと集って
いく。そうしてそれぞれが個別の形状に変化し、組み合わさり。一振
りの剣を形作るのだ。
⋮⋮剣。そう、剣だ。アンナの持つそれと同じ、美しくも醜悪な﹁異
常﹂の権化。
﹂
﹁普通﹂の私には致命的な程に似合わない、唾棄すべきそれを││││
抜き、放つ。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ
種幻想的な光景を作り出し。私の掌にその存在を主張する。
不可視のガラスが音を立てて割れる。0と1の燐光が飛び散り、一
!!
││それは、剣と呼ぶには有機的に過ぎ。過度な虚飾に塗れると同
時、絶対なる普遍さを湛えていた。
虚数の波を刃紋に刻み。魂すらをも偽るかのような、無垢な陶酔
と。慈愛を感じさせるかのような然光を持ち合わせていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その異様な雰囲気に私は思わず目を見張り││そして、すぐに眉を
寄せる。
確かに纏う空気は異様なもので、目を奪われる程のものだ。しかし
陳腐な飾り付けが全体に渡り施されており、どこか魔法少女のステッ
キを思い起こさせる。﹁ちう﹂の格好とも合わせて、まるでコスプレ小
道具だ。
雰囲気と存在の矛盾。浮かされかけた思考に水を差され、イマイチ
雰囲気に乗りきれない。
鼠は何も言わないまま、剣の姿でじっと沈黙しているだけ。何が正
しいのか、何をするべきなのか、答えは誰も教えてくれない。
││だから、私は私の知る唯一の方法を取る事にする。
︵言葉は届かない、多分喧嘩しても負ける。なら、手っ取り早い方法
は︶
││││妄想、するんだ⋮⋮
ならば、何だって出来る筈だ。どんな馬鹿げた事でも、きっと。頭
︵さっき鼠達は、私の望む事を何だって叶えてくれると言っていた︶
居ないんだ。好き勝手を思い切りやらせて貰う。
破れた服から乳房が露出し揺れるが、どうせ見ている奴なんて誰も
捻る。
私はしっかりと地面を踏みしめ、構えた剣を下げつつ限界まで身を
!
529
︵⋮⋮って、そんなのは良いんだよ︶
頭を振って、意識を正す。
それと
その気になれば成せるような気はするが、さっ
ともかくとして、私はこれで何をする。アンナを切るか
も彼女が持つ剣を
?
きの様子から言って下手に手を出せばやられるのはこっちだろう。
?
の中の私が嗤うが、すっこんでろと蹴っ飛ばす。
﹂
今更﹁普通﹂ぶるんじゃねぇぞ。﹁異常﹂なら﹁異常﹂らしく、どん
な荒唐無稽でも受け入れてみせろ││
﹁う、ぉぉぉっおおおおおおあああああああああッ
﹂
込むかのようにしてその中へと消えていく⋮⋮。
!
打ち鳴らす││
﹁││いい加減もう帰るぞ、アンナッ
﹂
拍、大きく大きく手を広げ。様々な感情が迸るまま、思い切り柏手を
後は合図を送るだけ。私は蹲るアンナに視線を戻し﹁だから﹂と一
落ち、後には静寂が残る。
6つ、5つ、4つ、3、2、1││そして0。全ての青が地上へと
﹁⋮⋮ウンザリなんだよ、こんな﹃異常﹄。私だって泣きてーよ⋮⋮
﹂
しかし彼らはコンクリートや建物に叩きつけられる事は無く、溶け
様を晒さない筈が無いのだから。
ば非常に不穏な光景だ。あのように高い場所から鼠が落ちて、惨い有
見てくれだけなら美しいと表現できなくもないが、常識的に考えれ
に、信号機に、自転車に。それこそ雨のように降り注ぐ。
訳も無し、彼らは私の命に従い上空より周囲一帯に拡散。近隣の建物
それは幾百幾千もの鼠達だ。剣になれたのならその逆も出来ない
のように宙に散る。
私の声を合図として剣その物が分解し、無数の青い光となって花火
││そして、弾けた。
﹁││いけッ
転し、月の光を反射して。雲を裂き、高く高くへ舞い上がり。
物理法則も何もあったもんじゃない。世の理を無視した軌道で回
事とは思えない程に空高くへと飛んで行く。
そんな事。そうして投げ捨てられた剣は、非力な女子中学生の成した
剣の用途としては明らかに間違っているんだろうが、私が知るかよ
り剣を振り上げ││そのまま空へとぶん投げた。
胸に燻る様々な火種を絶叫という形で開放し。下から上に、力の限
!!
!
!!
!
530
!!
││││ズドン
﹂
私の小さな掌が発する音を掻き消して、周囲に凄まじい炸裂音が響
き渡った。
﹁ぁ││ぅ、きゃっ
雷の様に、或いは爆発のように。とてつもない轟音が響き、腹の底
を激しく揺らす。
流石にアンナの耳にも届いたらしく、随分と可愛らしい悲鳴が上
がった。焦点がずれ瞳孔の開いていた瞳が締り、盛る黒炎が幾分かは
﹂
散らされる。どうやら少しは我を取り戻したらしい。
﹁⋮⋮ぇ、ぅ。なに、が⋮⋮
わり付いた黒を祓っていくのだ。
光、光、光、光光光││光。無数の灯りが彼女の全てを包み込み、纏
し、溢れんばかりに発光する。
にペンライト。周囲に存在する光るもの全てが限界を無視して稼働
その他にもテレビやPCの画面、電子レンジ、ゲーム機に暖房器具
球の光。
││アンナの身体を光が包む。それは立ち並ぶ建物から漏れる電
た外灯のもの。
││アンナの顔を光が照らす。それは電力が切れ置物と化してい
のライトだ。
││アンナの目に光が映る。それは道端に放置されていた自転車
﹁││あ⋮⋮﹂
と思ってやがる。
││何て事は、許さない。こちとら一体何の為に﹁異常﹂を自覚した
そうしてふらふらと周囲に目をやり、再び暗闇を見て錯乱する││
?
⋮⋮はぁ停電中。ほぅ動力が何だって
?
531
!
!?
全ッ然聞こえないし知らないね、それはアンナを泣きやませるとい
う﹁普通﹂に必要な理屈じゃないんだ。出来たんだから良いんだよこ
れで。
まぁあちらこちらから生徒達の騒ぐ悲鳴のような声が聞こえてく
るが⋮⋮幼気な少女の心を救う為、ちょっとばかし我慢してもらお
﹂
う。私を助けてくれなかった報いとも言う。
﹁⋮⋮あ、明るい⋮⋮よ⋮⋮
そうして光を認識したアンナの目から、一筋の涙が溢れる。
既 に 顔 は 色 ん な 液 体 で グ チ ャ グ チ ャ に な っ て い た か ら 分 か り 辛
かったが、光の反射でそれに気付いた。
周囲が明るくなった事で、完全とまでは言わずともある程度精神が
安定したのだろう。彼女は呆然としたように光を見つめ、僅かに笑み
を浮かべ。ふっと全身の力が抜けたように弛緩し、握りしめていた剣
を取り落とす。
それはまるでミルクに溶いたチョコレートの一欠片のように空に
溶け、光に紛れ消滅した。⋮⋮穏やかな、表情だ。
﹁⋮⋮⋮⋮ハ﹂
私は溜息と笑みが混ざったような吐息を一つ。ともすれば崩れそ
うになる足を強引に押し出し、前に進む。
振り回される刃も行く手を阻む黒炎も無く、驚く程に何事も無くア
ンナの傍へと近づけた。あんなに苦労してたのが嘘みたい。泣ける
わ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮路地の入口で惚けたままの彼女は、私が直ぐ隣に立っているの
に気づかないようだ。
一心不乱に光を見つめ、ポロポロと涙を流し続けており││││
﹁おら﹂
﹁っ、きゃ﹂
コツン、と軽く拳骨を落とし、注意を引く。
アンナに助けられたとは言え、その後の事を鑑みればこれくらい
やってもバチは当たらんだろう。
532
!
ともあれ、彼女はびっくりした様子で頭を抑えこちらを向くが⋮⋮
改めて見ると本当にひどい顔だ。土砂降りというか洪水というか、可
愛らしい顔が台無し。
ハンカチ持ってなかったっけ。ポケットを探りかけ││だから今
の私は﹁ちう﹂の格好してるんだって何度思い出せばさぁ。
⋮⋮ ま ぁ ど う せ こ の 服 私 の じ ゃ な い し、破 か れ て ズ タ ズ タ だ し、
﹂
こっちでも良いか。私はあっさりとそう思い直し、ぶっきらぼうに手
を差し出した。
﹁ぇ⋮⋮チ、サメ
﹁ん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
いきなり無言で差し出された手にアンナは戸惑った様子だったが、
やがておずおずとその手を取り││││﹁わぷっ﹂思い切り彼女を引
き寄せ、抱きしめる。
ちょうど腹の部分。布の破れていない場所に顔を押し付け、ゴシゴ
なにすっ⋮⋮、ぅ⋮⋮⋮⋮﹂
シと乱雑に体液を拭ってやった。ああ、ヘソに湿った感触が。
﹁むぐ、ちょっ⋮⋮
人しくなりされるがまま。むしろゆっくりと私の背に手を回し、強く
抱き締め返してきた。
⋮⋮私も私で彼女の背中をポンポンと叩き、その呼吸を整えてや
る。
﹁⋮⋮助けてくれて、ありがとうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮う、ん。⋮⋮ご⋮⋮ごめん、なさい⋮⋮﹂
﹂
﹁何で謝んだよ。つーか泣くなって﹂
﹁⋮⋮うん、うん⋮⋮
︵こっから、どうやって帰ろうかなぁ︶
今は。
⋮⋮まぁいいや、しばらく好きにさせとこう。つーかそれよりも、
ながらも、しかし悪い気分がしないのが困りモノだ。
せっかく色々捨てて頑張ったのに結局これかい。半ばウンザリし
!
533
?
最初こそ藻掻き拘束から逃れようとしていたようだが、途中から大
!
ここがどこだかも分からず、服は﹁ちう﹂だしヤバイ感じに事後状
態。しかもこんな騒ぎを起こしてしまったとなれば、次第に外に人が
出てくるだろう。
誰にも見られず帰り道を見つけて帰るなんて無理ゲーも良いとこ
﹂
ろで、それに付随し起こるだろう騒ぎを考えるだけで憂鬱な事この上
ない。
⋮⋮だけども、まぁ、うん。
﹁ぅ、っく⋮⋮ち、チサ、メぇ⋮⋮
泣いている子供を泣き止ませる││私の目
目を焼く程に強い光に包まれ、腕に少しばかりの力を込めて。私は
⋮⋮疲労感に溜息が漏れる。
﹁⋮⋮はぁ﹂
指した結果なのだから。
だってそうだろう
る思考を放棄し、アンナを宥める事に神経を注ぐと決めた。
とりあえず今は良いか。そんな事。私は待ち受ける面倒事に関す
﹁ああはいはい、思う存分くっついとけ﹂
!
万感の思いを持って、何時もの言葉を呟いた。
││やっと、﹁普通﹂だ。
534
?
エピローグ Chu☆りっぷ
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
だ。
﹂という音も聞こえてきたりして、まぁ中々のカオスっぷり
本人は﹁こんなの全然へっちゃらよ⋮⋮
﹂と宣っておられたが、手
は生まれたての子鹿のように頼り無さ過ぎる状態となっていたから
流石に殺陣からの錯乱で心身ともに消耗しきったのか、アンナの足
がゆっくりと歩く。
そうしてそんな過剰な光に照らされる街道を、アンナを背負った私
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮まさしく、私の狙った通りに。
感情が渦を巻き、夜とは思えない程に光と活気に満ちている。
人は走り、慌てふためき。怒鳴り声から笑い声までありとあらゆる
街はお祭り状態。
しかもそれが複数、至る場所で聞こえてくるというのだから、もう
だ。
﹁チーン
よ く よ く 耳 を 澄 ま せ ば テ レ ビ の 音 や 電 子 レ ン ジ が 何 か を 温 め た
している事に混乱しているのだろう。
多分、電気が通っていないのにも関わらず、勝手に電子機器が暴走
ぎゃーぎゃー、と。周囲で誰かが騒ぐ声が聞こえる。
!
の原因の殆どは、やはり私の背中で光を眺めるアンナの握る紅い双剣
混乱している事、慌てている事。それらも勿論あるのだろうが、そ
気づかないようだ。
あるものの││しかし、街を駆けずり回る生徒達は、そんな私達には
のたのた、てくてく。この慌ただしさの中では目立つ振る舞いでは
まぁ、聞くまい。
をしてくれている。どんな方法で現在位置を把握しているのか⋮⋮
今では唇を尖らせながらも大人しく私に身体を預け、帰り道のナビ
大人しくおんぶさせて貰った。
を繋いで歩けば市中引き回しもかくやという無様な状態になった為、
!
535
!
のおかげなのだろう。今だからこそ、素直にそう思えた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
今の私は﹁ちう﹂では無く、制服姿の﹁長谷川千雨﹂である。
何をどうしたのか、再びアンナが剣を握った途端にいつの間にやら
衣装が入れ替えられていたのだ。
⋮⋮正直理解不能の極地ではあるが、助かったのは事実だ。流石に
乳を放り出して街を歩くなんてコスプレどころの話じゃない。
改めて見ればアンナの服も吐瀉物の跡が消えていたり、道行く人も
不自然にこちらを避けていたりしているようにも見える。⋮⋮他に
も何かしてるんだろうな、きっと。
││チラ、と自然に背後へ目が向いた。
﹁⋮⋮な、なによ﹂
﹁いーや、別に﹂
するとアンナの視線とかち合い、見合う。
私の瞳から発せられる疑問光線を感じたのか、どこか落ち着かない
様子だ。ある程度は状況も落ち着いたし、彼女も色々聞かれるのだろ
うと構えていたのかもしれない。
︵⋮⋮つか聞きてーよ。本当は︶
アンナの持つ双剣、炎、私の鼠、視線、黒い男、今の状況、魔法陣、
その他色々。
聞きたい事、問い詰めたい事はそれこそ山のようにある。おそらく
一度封を破り詰問すれば、全てに納得がいくまで止まらないに違いな
い。
今だって平静を装っているが心の中は一杯一杯なんだ。一刻も早
く何らかの結論を出したい││そうは思っているのだが。
︵弱った子供に迫るとか、﹃普通﹄はしねーよな︶
もう散々﹁異常﹂に染まりながら何を言っているんだという話だが、
これが私なので仕方ない。
長年に渡り積み上げられた性分は、例え圧し折れようとも瓦礫と
なって残るのだ。そう簡単に何もかもが変わって堪るものか。
﹁⋮⋮ねぇ、本当は沢山聞きたいんでしょ、チサメ﹂
536
﹁あ
﹂
││と、そう考えている内に、アンナの方からそんな言葉がかかっ
た。
どこか弱々しく、不安げな声音だ。何を知っているのかは知らない
が、そんな態度を取る程の都合の悪い情報があるとも受け取れる。
⋮⋮嘘が吐けない奴だな、全く。私は軽く息を吐き、首を振った。
﹁⋮⋮そりゃあるさ、むしろ聞きたい事ばっかりだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁でも、今は良いや。疲れそうな話は明日に回して、さっさと帰って寝
ちまおう﹂
私もちょっと落ち着く時間が欲しいからな││││そう9割本音
の混じった気遣い言葉を返すと、アンナは私の肩に頭を預けた。
もごもごと言いづらそうに何事かを呟き、猫のように髪の毛を擦り
つけてくる。あざとい。
﹁⋮⋮あの、ね。じゃあ一つだけ、言っとく﹂
﹁⋮⋮何を﹂
﹁││チサメが前から感じてたっていう視線。それ、タクが⋮⋮私の
幼馴染がやってた事⋮⋮なの﹂
││││⋮⋮⋮⋮。
ピタリ、と。一瞬歩みが止まりかけ、すぐに再開。何事も無かった
かのように足を動かす。
同時に心の中に何かもう﹁わー﹂ってな感じに湧きだすものを感じ
たが、とりあえず抑えこみ。居心地悪そうに身じろぐアンナを努めて
冷静に見返した。
﹂
﹁⋮⋮あー、と。じゃあまぁ、こっちも一つだけ言うが⋮⋮⋮⋮何で、
今それ言うんだ
?
﹂
﹁だ、だってこれから私の家││じゃない、体育館まで送ってくれるん
でしょ⋮⋮
﹁そうだけど﹂
?
537
?
チサメも剣持ってるみたいだし、そ
そりゃ当然だ。このまま一人で帰らせるとか、サディスティック鬼
畜生の行いだ。
﹁じゃあ、その⋮⋮会うでしょ
ように言葉を繋ぐ。
﹁え、えっと、違うのよ
とかじゃなくて、私が心配なだけだったみたいで
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁
﹂
﹁││はぁぁぁぁ⋮⋮﹂
﹂
あ、でもチサメの気がすまないんなら、5・6発しばいても││﹂
﹁そ れ に そ の 事 に つ い て は ち ゃ ん と 私 が 懲 ら し め て あ げ た か ら
アイツはチサメにエッチな気持ち持ってた
むっつりと黙りこむ私に不穏なものを感じたのか、アンナは慌てた
おけと。つまりはそういう事だろうか。
剣やらキュピーンやらの意味は分からんが、様々な意味で覚悟して
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
うなると多分キュピーンて分かっちゃうと思うから⋮⋮﹂
?
アンナが身を震わせる感覚が背中に伝わる。
⋮⋮どうやって見てたんだとか、じゃあ黒い男達は何だったんだと
か。言いたい事は色々あるが、今問い詰めてもしょうがないんだろう
な。
このままアンナを送り届ければ自動的にそのタクとやらとご対面
するそうだし、全てはその時当人にぶつけてやろう。
私 は と り あ え ず そ う 結 論 づ け、力 を 入 れ て ア ン ナ を 背 負 い 直 す。
﹁わひゃあ﹂と小さな悲鳴が首筋に当たった。
﹂
﹁別に、そんな物騒な事はしねーよ。拳骨の一発は落とすかもしれな
いけど﹂
﹁⋮⋮怒ってないの
﹁⋮⋮確かに結構││つーか、かなり嫌な思いはしたけどさ。でもそ
の中でそれはまだ優しい方なんだろうか。まぁさておいて。
⋮⋮いや、怒ってない奴は拳骨を落とさないと思うんだが、アンナ
?
538
!
!
?
心に蟠る何かを吐き出すように、一際大きな溜息を一つ。ビクリと
!
れはお前の為だったんだろ
﹂
﹂
擦っている気配が感じられた。
﹁何だよ。私が幼馴染に酷い事しないか、そんな不安だったのか
﹂
﹂
き、コテンと一層深く私にもたれかかる。眠いのか、ぐしぐしと目を
私がきっぱりとそう言い切るとアンナはホッとしたように息を吐
筈だ。そうに違いない、つかそう決めた。
が、少なくとも不安による幻覚や恐慌状態になる事だけは避けられた
⋮⋮いや、それであの黒い男達が出なくなっていたのかは知らん
ば、私も視線の事と絡めず平穏無事な日々を⋮⋮。
あいつらが貞操の不安を煽るような下品なコメントを残さなけれ
う。
い奴が居たとするならば、それは不特定多数の﹁ちう﹂アンチ達だろ
詳しい事は全く把握出来ていない私であるが、そう感じる。もし悪
事だよ﹂
﹁簡単にいえば、私もお前もタクってのも全員運と間が悪かったって
﹁⋮⋮どういう事
タンの掛け違いってやつなんだろうな﹂
﹁多分、今回起きた一連の出来事は、誰が悪いとかじゃねー。単なるボ
理由だけを見れば至極﹁普通﹂の事と納得してしまうのだ。私は。
あのクッソ気持ちわりー視線やらその手段やらは別にしても、行動
ていた理由も何となく察せられる。
そして彼女の事を大切に思って居るとするならば││まぁ、私を見
把握している筈だ。
タクが幼馴染であるのなら、アンナが黒色恐怖症である事は絶対に
は﹂
﹁なら⋮⋮正直あんま良い気分はしないが﹃普通﹄の事なんだよ。それ
﹁⋮⋮ホントかどうかは分からないけど、そう言ってたわ﹂
?
﹁ううん、チサメはそんな事しないと思ってたけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮けど
?
かったって聞いてた、から⋮⋮﹂
539
?
﹁⋮⋮タクの知ってる剣持ってる人達って、殺し合いになった人が多
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮一体どういう奴なんだ、その幼馴染。
というか今更だけど、アンナの言う﹁剣﹂って火を吹いていた双剣
とかあの鼠達の事で合ってるよな。
まぁ武器か、アンナのは切れ味は良かっ
魔法かそれとも超能力か、良く分からん力を持った得体の知れない
武器である。いや武器か
まさか漫画によく出る選ばれし者の聖剣
たみたいだし。瞼を軽く擦り、思う。
⋮⋮それで殺し合い
とかそんな感じで、バトルロワイヤルが云々って少年誌的なもんじゃ
ねーだろな。だとしたらゴメンだぞ、そんなの。
急激に不安になった私は、もののついでと詳しく聞こうと首を捻っ
た。のだが。
﹁⋮⋮ん⋮⋮ぅ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
当のアンナがうとうとと船を漕いでいるのを見て、開きかけた口を
閉じる。
目は半開き、時折ふらつく頭を起こしているので完全には眠って居
ないのだろうが、おそらく直に夢の世界へ旅立つ事だろう。
流石にそんな彼女に物騒な話を持ちかけたくはない。私は渋々と
捻った首を前へと戻し、黙って歩くこと事にする。あぁモヤモヤする
⋮⋮
ふと気づくが、既にアンナの指先は垂れ下がり、地面を指さしてい
る。
⋮⋮彼女のナビに頼らず、私は目的地に辿り着けるのだろうか。雰
囲気的には中等部近くに居るっぽいのだが、夜と街の混乱の件が合わ
さってまだよく場所を把握出来ていない。
案内図がどっかにあれば助かるんだけどな。私はキョロキョロと
辺りを見回し、大型の看板が無いか捜索した。
││その、瞬間。
﹁││んむ﹂
540
?
?
﹁⋮⋮あ、てか道案内⋮⋮﹂
!
﹁ん
っと﹂
ちゅ、と。頬の辺りで何か柔らかいものを感じた。
ぷにぷにとした、瑞々しい感覚だ。何だ何だと該当箇所に視線をや
れば、そこにはアンナの気の抜けた舟漕ぎ顔があった。
どうやらアンナの顔と私の頬とがタイミングよく重なったらしい。
所謂ほっぺにキスという奴だ。いやんラキスケ。
⋮⋮まぁ実際はさっきの吐瀉物の匂いが微かに漂って来るので、そ
んなに可愛らしいものでもないのだが││と。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮ああ、何だろう。凄く下らない事を思いついた。
アンナの持っていたあの双剣、最初それを見た時私は何と表現し
たっけ。
│
彼女の赤毛と、刃の曲線と花弁に当たる部分と、炎。そう、全て合
わせたそれらはまるで││││。
│
﹁⋮⋮チューリップの、ちゅうリップ。なんつって﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、
⋮⋮ひゅうと一陣の風が吹き、辺りの気温を1・2℃下げた。つま
先から髪の先まで寒気が登る。
いやー、こんなにつまんねー事が言えるとは自分でもビックリだ。
どうも私には噺家の才能は無いようだな。いや別に欲しかねーけど。
誰も聞いては居なかったとはいえ、みっともない恥を晒した事に顔
から火が出る。一先ずこの場から離れとこうと、スタコラサッサと歩
き去った。
﹁⋮⋮いや、でもそう考えると、あながち占いは間違ってなかったんだ
よな⋮⋮﹂
そうして、チラリと微睡むアンナを見る。
私がアンナと出会ってまだ間もない時、彼女は私に魔除けとして
541
?
チューリップを勧めてきていた筈だ。
その時は単なるおまじないだと思っていたが、中々どうして。全て
が終わった後に見てみれば、何とも的を射た結果と言わざるを得な
い。
まぁわざわざ買った鉢の方は正直役に立ったとは到底言えないが。
しかし。
﹁⋮⋮こっちのチューリップには、まぁ助けられたかな﹂
くしゃり。アンナの髪に頬を擦り、呟いた。
⋮⋮さて、そうなるとさっきのキスも何かの加護があるように思え
てくるから不思議だ。
交通安全か、危険回避か。幾分か心が軽くなった気がして、我なが
ら現金なもんだと呆れるね。基本的にそういうのは信じてない⋮⋮
つっても全体的に今更か。
無意識の内に苦笑が漏れ、意図せず肺が震えた。﹁⋮⋮ぅあ﹂その際
眠りかけのアンナが声を上げてずり落ち、慌てて背負い直してバラン
スをとる。
﹁⋮⋮とりあえず、早く送ってってやるか﹂
最後にそう呟いて、夜闇を照らす街の中をより進む。
相も変わらず喧騒は消えず、人の声が耳を突く。アンナはよくこん
な中で眠れるなとある種感心するが、逆に明るく騒がしいからこそ安
心しているのだろう。
⋮⋮私の背中だから、とは思い上がり過ぎかね。流石に。
﹁まぁ、だからさ││﹂
そうして最後に振り返り、さっきから視線を向ける誰かへと言葉を
紡ぐ。
道行き慌てふためく生徒達は誰も私達を見ていない。しかし色々
と﹁自覚﹂した所為なのか、奇妙な確信を持っていた。そして私の後
頭部に例の感覚が無いとすると、その対象はつまり││。
﹁⋮⋮へ﹂私は軽く鼻を鳴らし、生ぬるい温度を視線に乗せて。一言。
││心配しないで待ってろよ、と。
542
陰鬱気に舌打ちを鳴らすクソガキに、からかうようにそう告げた。
543
Fly UP