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多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)

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多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
立命館国際地域研究 第 21 号 2003 年 3月
25
<論 文>
多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
― ミシャレの世界経済認識と海外子会社把握に関する批判的検討 ―
関 下 稔
立命館大学国際関係学部教授
はじめに
企業内国際分業戦略に基づいて多数の国に子会社を設置して、世界大で生産活動を行い、グ
ローバルなレベルでの販売活動を展開して、利潤の極大化を図っている多国籍製造企業の存
在はよく知られており、それに関しては、さまざまな角度から極めて多くの研究がこれまで
なされてきた。筆者もその基本的な特徴に関して、最近、概括的に素描してみた1)。しかし、
そこでは包括的な展開の必要性と紙数の制約から、海外子会社に関しては、その本格的な展
開を別の著書に委ねることを約束した。そこで、そのための準備作業として、手始めに、今
後何回かにわたって海外子会社の意義や役割や位置づけなどに関して、総括的に検討するこ
とにしたい。
ところで、海外子会社は多国籍製造企業の興亡の帰趨を決めるほどの重要な意義を有するも
のでありながら、それを独自に分析、叙述したものは極めて少ない。何故そうなのかは憶測の
域を出ないが、これまではもっぱら親会社側の要因に焦点があてられていて、問題意識が十分
に研ぎすまされず、したがって研究がそこまで深まっていないこともその理由の一端にはあり、
その意味では、海外子会社に特別の意義を見いだすこと自体が実は卓見ではないかと、筆者に
は思われる。その点ではミシャレの視点とその展開2)は、この分野での先駆的業績として大い
に注目に値するものだと考えられる。そこで本稿はミシャレの問題意識とその海外子会社の位
置づけに関して主に俎上に乗せて、検討してみたい。
さて海外子会社を扱うとなると、それを企業組織論の立場から、いわば、ミクロレベルで考
えようとするのが自然であろう。しかし、ミシャレは案に相違して、これをマクロレベルの問
題として扱っている。これも興味を引かれた理由の一つである。というのは、多国籍企業の全
体構造を解明しようとすれば、世界経済の構造的枠組みの下でのその行動を追い、その中での
意義と役割を確定することが当然に必要になるからである。そしてこうしたマクロレベルでの
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
規定を受けたものとしてこそ、ミクロレベルの多国籍企業論は精彩を放つことになろう。とは
いえ、企業組織の発展段階としての海外子会社の位置と役割はそれ自体として検討に値するも
のであり、独自に深めなければならないので、それに関しても将来的には視野に収めていきた
い。そこで、これからの一連の論攷での展開の順序をあらかじめ提示しておくと、最初にミシ
ャレのマクロレベルからの接近に関して、これを本稿において詳細に検討し、次いで、その際
にミシャレが前提にしている、ストップフォードとウェルズの企業組織論的な、ミクロレベル
からの接近に関して、彼らが依拠しているチャンドラーの企業組織論も含めて検討し、最後に、
これらの批判的検討の上に、筆者の独自の見解を述べることを計画している。
1.ミシャレの世界経済認識と理論装置
この問題を扱うミシャレの基本的な姿勢は、「資本の国際化」ーその意味内容は行論の中で
厳密にしていくがーの枠組みに沿って原理的に多国籍企業や海外子会社の問題を考えようとす
る点にある。そこではマルクスとその後継者たち、すなわち、カウツキー、ルクセンブルグ、
レーニン、ブハーリンなどの見解にたいする批判的検討を中心に据え、それに加えて、主流派
経済学としての新古典派の基本的枠組みへの批判を展開し、その上で、自らの理論的立論を一
頃流行した中心ー周辺理論の枠組みに沿って展開している。そこで、最初にこうしたミシャレ
の基本的な枠組みに関して取り上げてみよう。
ここでのミシャレの基本的視点は、マルクスも、そしてその影響を受けてルクセンブルグも、
流通段階に主眼をおいて諸国民経済の相互関係、つまりは国際経済関係(あるいは範疇として
の「国際経済」)を見ていると理解していること、にある。国民国家体系で一旦一括りとされ
る資本ー国家形態での総括ーが国家の境界を超えて出ていくことに関しては、当然にマルクス
も視野に置いていたが、彼は自らの体系的な経済学の著述を構想して、有名な「経済学批判体
系」ーその一部が『資本論』に結実したがーのプランを作っているが、それによると、資本、
賃労働、土地所有の前半体系に対して、国家、外国貿易、世界市場を後半体系として位置づけ、
その本格的な展開を別の著述に置いていた。『資本論』が彼のプランのどの部分ー具体的には
「資本一般」にあたるか「前半体系」を包括するかーに該当するかをめぐっては、
「プラン論争」
が日本で大々的に行われたことがあったが、確定された結論は得られないまま、いつしか研究
者の関心から消えていった。筆者も、論争の主要な傾向を代表する見解である、現行『資本論』
は不十分ながらも、前半体系をカバーしていると考えているものの一人であり3)、それ以上に
はその後この課題に深入りしていない。
しかし、ここでミシャレが問題にしているのは、そうしたことではなく、マルクスの頭の中
にあるのは、国家を中継点として描いた資本主義の国際的な性格は、主として国境を越えた商
品流通、つまりは貿易を通じて結ばれた世界市場ー世界経済ではないーという枠組みだったと
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立命館国際地域研究 第 21 号 2003 年 3月
いう点にある。そしてそこから世界市場恐慌を資本主義の基本的な矛盾の爆発とその否定への
重要な契機と想定していたという。ミシャレは、マルクスの国際化の理解はあくまでも国境を
越えた商品流通、つまりは貿易に限定されていたこと、換言すれば範疇としての「国際経済」
に止まっていたと考えており、したがって、それが彼の時代の限界でもあったと結論づけてい
る。もちろん、ミシャレの主要な関心事はマルクスの構想のあれこれを詮索することではなく、
またマルクスの限界をことさらに指摘することにもない。そうではなく、現在の資本主義の国
際的な性格、とりわけ、多国籍企業の問題を明らかにしていくことにあり、そのためには原理
的にどのような理論装置が求められるかを提示することにある。その点からいえば、マルクス
の展開にも、その枠組みを基に、一部突出した極端な展開を行ったルクセンブルグの主張にも、
それらを解明するヒントはないと、彼は考えている。
というのは、ミシャレによれば、マルクスは外国貿易を主に国内における利潤率の低下に反
作用する要因の一つ(輸入)、ならびに国内の過剰生産のはけ口(輸出)として考えていると
m
みているからである。さて前者の輸入に関してだが、マルクスによれば、利潤率は P ′= C+V
であるが、これが資本主義の発展とともに傾向的に低下することになることが、マルクスの体
系の重要な環であることはよく知られている。この場合、貿易によってその傾向に歯止めをか
け、逆にそれを高めようとすれば、安価な食料品の輸入が労働力の価値を引き下げ、その結果、
m
分子である V 、つまりは搾取率を高めることになるか、あるいは安価な原料の輸入は不変資
C
本(C)の価値を下げ、その結果、分母である資本の有機的構成 V の上昇が制限されることに
m
m
v
c
なるかである(何故なら、P ′= 。いずれにせよ、国内であ
1+ v と表現できるから)
c+v = れば、有機的構成の高度化が急速に進んで、搾取率をどう高めようとも、そこには自ずと限界
があるので、全体的には利潤率が低下せざるを得ないことが、海外からの安価な食料品や原材
料の輸入によって、それが相殺される以上の効果を発揮することになる。これが『資本論』第
3巻第 10 章で展開された、利潤率の傾向的低落に反作用する要因の一つとしての輸入の持つ
意味である。そして、ここから、後に、この安価な原材料や食料品を独立の海外企業からの輸
入によってではなく、海外投資によってそれらの部門を直接に押さえて、直接投資なり、証券
投資なりを経由して安定的に入手しようとするのが、資本主義のその後の発展にともなってで
てくる。
一方、輸出はこれも資本主義に内在する過剰生産の傾向の結果、閉鎖的な国内からの脱出方
策として論じられる。製品の販路としての輸出の役割は、ルクセンブルグのマルクス理論の解
釈によると、非資本主義市場の存在をその脱出路とした4)。したがって、対外販路は剰余価値
実現と、それによる資本循環追求の必然的な条件となる。加えて、マルクスの国際価値論と呼
ばれる輸出による超過利潤の獲得がある。先進国は輸出によって、たとえその商品の価格が競
争相手国もしくは国際価格に比べて低くても、その商品価値よりも高く売ることができる。同
様に、先進輸出国は、その相手国への輸出によって与える価値以上の価値を受け取ることが出
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
来るだろう。このように、先進国の輸出は、あたかも革新国と同じ立場に置かれるのであって、
その工業の高い生産性のおかげで超過利潤を実現することになる。不等価交換は、そのために
生産性の異なる、したがって不均等に発展した諸国間での国際貿易の法則として現れる。これ
が輸出の意味であると、ミシャレは理解している。
ここでミシャレが要約した国内過剰生産のはけ口としての海外市場という考えに関して、そ
れを非資本主義市場の存在に求めるルクセンブルグの考えに対しては、レーニンが『いわゆる
市場問題について』5)の中で、彼女と同様の見解を示したナロードニキの批判として、非資本
主義市場を前提にしなくても、国内での資本主義市場の高度化や深化によって、剰余価値の実
現は十分に可能であると説いた。そしてそのことを通じて、資本主義の限界を非資本主義的地
域ーつまりは植民地ーの存在に求めることの誤りを指摘した。この指摘は妥当なものである。
ただし、レーニンは資本主義の再生産、つまりはその剰余価値の実現は外国市場なしでも説明
することができるが、それと資本主義にとっての外国貿易の必要性ーないしは必然性ーは異な
るものだとして、その根拠を、別の『ロシアにおける資本主義の発展』6)において、資本主義
の歴史的前提としての外国貿易、資本主義の無制限拡大の産物としての外国貿易、そして資本
主義の部門間不均等発展の結果としての外国貿易、の三つの理由として、いわゆる資本主義に
とっての外国貿易の必然性を説いた。ただし、ここで説かれているのは、資本主義にとっての
輸出の意味に限定されている。
他方、マルクスの国際価値論はこれも国際価値論論争としてわが国で多くの論争が行われて
きたが、明確な結論を得られぬまま、論者がそれぞれに自説を披瀝するような形で沈静化して
いった。そこには、マルクスのそれに関する言及が断片的であることにも多分に起因している
と考えられるふしがある。論者によって細部における解釈の違いがあるが、その要諦は、マル
クスは、労働と資本が移動しないという条件の下では、リカードのように外国貿易は価値量不
変で使用価値量の増減のみに関係するとは考えず、不等労働量ー不等価交換ではなくてもーの
交換を通じて、先進国はより多くの価値の実現を図れること、それはあたかも国内における進
んだ労働の産物が一種の倍加された労働の成果のような役割を果たすーつまりは単純労働と複
雑労働との関係ようなものーのと同様のものであると考えていたとみられる。したがって、国
際間での価値の修正(モディフィケーション)と、進んだ国による遅れた国に対する国際間の
搾取が行われることになると、マルクスは示唆した。このマルクスの国際価値論はわが国ばか
りでなく、国際的にも多くの論争を生んできたことは上で述べたとおりである。
以上みたように、マルクスが構想した世界市場を舞台とした資本の国際化は、せいぜいのと
ころ貿易を通じた商品資本の国際化であった。それは産業資本主義の段階に基づいているもの
であって、独占資本主義とそれを基礎にした海外投資の活発化を反映したものではなかった。
これにたいして、レーニンの場合には、その後の資本主義の世界的な発展を受けて、資本の
輸出を新たに俎上に乗せている点で、ミシャレはこれを高く評価していて、レーニンが資本主
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義の国際化を帝国主義と結びつけ、他国への資本による支配の拡大・延長を重視していること
を特別に意義あることとして、「異なった経済的社会構成体間の経済的諸関係について、新し
い体系的アプローチへの道を開いている」7)と称讃している。レーニンの『帝国主義論』の新
しさは、要約すれば、独占資本主義、資本輸出、不均等発展の指摘にあるとミシャレはみてい
るが、それらは資本主義の独占段階の中心的観念を構成するもので、いわば『帝国主義論』や
そのための準備としての『帝国主義論ノート』8)、あるいはそれ以外のところーたとえば綱領
論争などーでの断片的な言及を含めて、「帝国主義論体系」とでもいうべきものを構成する、
レーニンのこの対象にたいする一大体系の中の中核部分を構成しているものである。だが同時
に、それをレーニンが貨幣資本に限定して述べていて、資本と資本輸出の概念があいまいなま
まだとして、それにはミシャレは不満を表明している。
そこで問題は資本輸出の取り扱いにあることになるが、これは、資本主義の国際性ないしは
世界性認識にあたって、産業資本主義段階ないしは資本主義一般を対象とするマルクスの「国
際経済」範疇から、帝国主義の古典的な段階を対象とするレーニンの「世界経済」範疇への、
一大旋回の基軸とでも表現すべきほどの、画期的な意義を有する大事な要素である9)。このこ
とではミシャレはレーニンの優れた貢献を強調していることはすでに述べたが、しかし、ミシ
ャレによれば、ここでの問題は、レーニンが資本の輸出を貨幣資本の蓄積とその過剰の延長と
して、もっぱら貨幣資本の輸出に限定して扱っている点であるという。そしてこの諸資本の輸
出(exportations
des
capitaux)を介して、資本主義生産様式が支配する世界経済体制の
形成を漠然と想定していたという。だがミシャレによれば、大事なことは資本主義的生産関係
そのものの国際的な拡大にあり、それは資本輸出(exportation
du
capital)として捉えら
れるべきものであるとする。というのは、「貨幣資本の輸出は帝国主義的・・過程ではない」10)
からである。つまりここでミシャレが強調したいのは、世界的な規模での価値増殖過程の展開、
つまりは資本主義的生産様式そのものの世界的な拡張と波及である。資本の一般的範式は周知
のとおり G − W − G ´で表せるが、ここでの鍵は特殊な諸品としての W にある。それは、そ
の使用価値が交換可能な価値の源泉となり、かつ、その消費で労働の実現、したがって価値の
創出を可能にするような特別な商品、つまりは労働力商品の存在である。労働力はその価値の
再生産に必要な価値以上の価値を生み出す。したがって、世界的な規模での価値増殖過程の展
開、つまりは資本主義的生産様式の世界大での展開こそが、この場合に大事になる。それは、
貨幣資本などの諸資本の輸出ではなく、資本の輸出そのものを意味することになるというのが、
ミシャレの主張である。
ところで、大事なことは資本主義的生産様式の世界大での展開にあるというミシャレの主張
は理解できるが、そのことは、資本輸出をもっぱら貨幣資本の輸出としてレーニンが描いてお
り、それが彼の限界であるということになるだろうか。あるいはレーニンは本当にそうみてい
たのだろうか。レーニンの『帝国主義論』にはもう一つの大事な概念として金融資本があり、
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
それを産業資本と銀行資本の融合・癒着として考えている。そして産業独占と銀行独占の結合
は巨大な金融寡頭制を生むことも指摘している。ところで、金融資本概念はむしろヒルファー
ディングの方が先だが、しかしその金融資本把握が銀行資本偏重的で流通主義的であると指摘
したのは、他ならぬレーニンである。現代の多国籍製造業を中心に据えて、単一企業による生
産の世界的な展開をみようとするミシャレの意図はわかるが、親会社と子会社との関係は海外
直接投資という貨幣資本を通じて、たとえば株式所有などの形でのネットワークで結ばれ、ま
た利益の環流も貨幣資本の形態でなされている。その結果、膨大な富が本社に蓄積されてくる。
そしてその富をさまざまな形態で保有し、再投資し、増殖し、かつ権力行使の源泉=基礎力と
して使っている。そう考えると、製造業多国籍企業の世界大での生産活動は資本としてのその
全体像の一部でしかなく、それを全面的なものにしていくには、さらに多国籍金融コングロマ
リットとでも名付けるべき金融資本概念への上向が必要になる。近年の M & A 旋風をみれば、
そのことに合点がいくだろう。つまり、金融資本という、より包括的な資本の行動の一環とし
て、資本輸出も生産活動の国際的な展開もみていかなければならないのではないだろうか。そ
の意味ではミシャレのこの理解とレーニン解釈は大いに疑問である。
またレーニンは資本家集団の国際的な結合と協調を当時華やかであったシンジケートやカル
テルやトラストを例にとって描いているが、その結果、将来的には世界的な単一のトラストの
形成に至ることもあることを指摘して、それを「世界的集積体」と表現している。それはどう
見ても、世界的な規模で生産活動をしている企業体をイメージしたものである。もっとも、レ
ーニンの時代には、そうした現象の出現はごくわずかの例外的なものであったかもしれないが、
これは現代の多国籍企業の原型だと考えても良いだろう。しかもそうした資本家団体の世界市
場の経済的分割と列強による植民地の分割とを相対的に区別しながら、かつ植民地分割が最終
的に世界戦争に至る当時の構造から、経済的分割が将来それに取って代わる可能性も示唆して
いる。そうすると、レーニンがもっぱら貨幣資本の国際化だけをイメージして世界資本主義な
いしは資本主義の国際化ー正確には世界経済範疇ーをみていたというのは、どうみてもミシャ
レの曲解ないしは誤解としか思えてならない。
とはいえ、ミシャレの問題意識を尊重すると、こうした過程が展開される特有の場としての
世界経済は、その中心が生産の国際化にあることになるが、それは生産過程の「脱領土化」、
つまりは資本が所属する国籍に関わらないところでの生産の展開を表している。これは発達し
た資本主義的中心部から遅れた地帯への、価値形成の場の転換を意味することになる。マルク
スが眼前にみていた国際経済は剰余価値の国際間の移転によって支配されていたが、レーニン
が描かんとした世界経済は「価値創出の非地方化」11)によって特徴づけられると、ミシャレは
説く。そしてこの価値創出の脱地方化の意味するものは、「同一の技術構成をもつより高い剰
余価値率の地帯への、搾取の場の移動による経済的基礎の拡大再生産と非地方化された生産単
位のコントロールによる所有関係の擁護とを同時に可能ならしめる」12)ことだと指摘している。
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したがって、国家間関係ではなく、単一の世界経済体制、ないしは世界資本主義の成立こそが
そこでの要諦になる。そしてこうした世界経済理解の嚆矢はブハーリンの先駆的な業績 13)に
あると述べている。
この指摘は大事であり、筆者流に理解すれば、要するに多国籍企業の生産・流通・蓄積の「領
域」がこれまでの国家の「領土」とは相対的に異なるものとして形成されてくることを意味し、
そこでは垂直統合的な、ピラミッド型企業組織構造が国を跨ってートランスナショナルにー形成
されてくる。そしてそれを繋ぐものは、多国籍企業の企業内国際分業体制であり、企業内技術移
転と企業内貿易と企業内資金移動のメカニズムとルートである。その結果、国民国家の領土的枠
組みとは異なる多国籍企業の独自の支配領域が形成される。このように理解されよう。だが今日
の海外直接投資の動向をみていると、先進国から後進国への古典的な形態での直接投資の流れば
かりでなく、先進国相互間での投資の相互浸透現象もあり、そしてまた途上国から先進国への逆
流現象もでている。そうすると、それを説明するためには、世界的な規模での遊休貨幣資本の滞
留と過剰、そしてその結果としての海外投資という問題も独自の検討課題として論じる必要があ
るし、生産の場としての先進国相互間の関係を市場シェアをめぐる世界的な寡占間競争というフ
レームワークを使って検討することも必要になるだろう。あるいは先進国多国籍企業と途上国地
場企業との間のさまざまな企業間提携のメカニズムも研究対象になろう。
また、ブハーリンの業績は単一の世界経済の成立を宣言した先駆的なものとしての意義は認
めるが、彼がそこから極端な強調と一面化に陥って、帝国主義の専一支配、あるいは純粋帝国
主義を主張したことについては、理論的にも実際面からも行き過ぎではないだろうか。実際に
は古い資本主義の「上部構造」として帝国主義は存在していて、帝国主義の成立によって資本
主義の古い部分が完全になくなるわけではなく、また古い資本主義を全て作り替えることがで
きるわけでもない。その基底には常に古い資本主義が依然として残っている。そうした両者の
関係を「資本主義一般の上部構造としての帝国主義」という見地から捉えたのがレーニンであ
る。筆者もこの見地を支持するものである 14)。またこれに関連して、こうした企業活動と資本
の世界的な拡大と深化を組織された資本主義と考えるヒルファーディングや有名なカウツキー
の超帝国主義論 15)などもあるが、これらも競争と独占の間の二律背反的な関係や資本主義の
根本的な矛盾関係ーたとえば生産の社会的性格と取得の私的独占的形態との間などーを複合的
に捉えることに失敗しているもので、古い資本主義と最新の帝国主義との複合的で重層的な関
係を立体的に描く視野を持ち得ていないことになる。
2.海外子会社の形態、性格、役割
以上、ミシャレの海外子会社論の前提として、彼の世界経済認識に関するその主要面を紹介
した。そこで、今度は本題である海外子会社の問題に入っていこう。ここでは海外子会社の形
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
態、性格、位置、役割などに関して、順次、考察していこう。
まず第1に、海外子会社の形態をミシャレは中継子会社と工場子会社に二分類している。企
業活動の国際化はまず輸出から始まるとミシャレは考える。そうすると、その次に来るのは、
この輸出に関連した海外子会社の設置であり、それは仲介業務を担当する独立の会社に代わっ
て、自己の販売子会社を海外に設立するようになる。これが「中継子会社」(filiales-relais)
である。ただしそれは自社の生産した製品の販売に主要に従事することになる。しかし生産の
国際化が進めば、本格的な生産の脱領土化が海外での生産単位の設置を通じて行われ、それを
自己の子会社で行う段階が来る。それが「工場子会社」(filiales-ateliers)である 16)。この工
場子会社は親会社の世界大での生産活動の一部として機能するもので、単独で自立して存在す
るものではない。つまり企業内国際分業体制の中に内部化された、全組織体制の一環として位
置づけられるものである。なおミシャレは海外子会社をこの二つの形態に分けているが、筆者
はこの中間に生産子会社の形を装った「商業子会社」や不動産投資や金融活動に専念する「不
動産子会社」や「金融子会社」が存在すると考えているが、それらについては別途論じる予定
である。
そこで、この工場子会社に関して、少し深めてみよう。前節でみたように、ミシャレの多国
籍企業論展開の要点は資本制的生産様式の世界大での拡張ー彼の言葉では生産過程の「脱領土
化」ならびに「価値創出の非地方化」ーにある。つまり一企業の生産過程が一国内に終始せず、
多国間に跨り、その結果、価値の創出過程が世界大で展開されることになる。そしてその最大
の要因は極端に低い労働コスト国の存在である。これら、資本、労働の世界的な階層的偏在と
調達上の格差の定在は、それを活用できる多国籍企業に絶好の機会を与えることになる。そこ
で活発化する生産の国際化は二つのことをもたらすことになる。一つは価値創出と価値実現の
場の空間的分離である。もう一つは同一技術構成下での異なる価値構成の活用である。
まず後者の同一技術構成下での異なる価値構成の活用に関して考えてみよう。このことは、
別の言葉で表現すれば、企業内内国際分業とは何かということであるが、多国籍企業の企業内
国際分業の特徴は先進国に本社のある多国籍企業の優れた技術水準や機械・設備を使って、生
産過程の一部を途上国の安い労働力とドッキングさせることにある。これが同一技術構成下で
の異なる価値構成の活用という意味である。周知のように、マルクスは資本の有機的構成とい
う言葉を使ったが、その内容は技術構成と価値構成とからなり、両者には一定の照応関係があ
り、両者が相まって、全体としての資本の有機的構成を形作っている。そして、資本主義の発
達はこの有機的構成の高度化をもたらすことはよく知られている。しかし、各国間の競争力は
技術構成の高度化で主に表現される要素に帰着せず、逆に価値構成の高さがその優位性をもた
らすことがしばしばある。たとえば、後発国からの安い製品の輸出は技術構成の高さではなく、
この価値構成の高さを反映していることがしばしばあるからである 17)。そして一国内で生産が
完結する限りでは、一企業内、一国内での両者の分裂は起こりにくいが、生産過程が一国内で
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完結せず、一つの資本の支配下で複数の国に跨って生産が展開される場合ーつまりここでいう
多国籍企業による生産の脱領土化がある場合ーには、両者の分離が起こりうる。多国籍企業は
その高い技術構成と低い価値構成とを組合せるばかりでなく、低い技術構成と高い価値構成と
をも組み合わせることによって、この迷路から脱出できる。具体的には資本集約的な工程は先
進国で、労働集約的工程は途上国で行うという使い分けである。
C
このことをもう少し説明してみると、資本の有機的構成 V は技術構成(R T)と価値構成
(Rv)に分けられるが、先進国にある親会社(RT1)と途上国の海外子会社(RT2)とで、その
技術構成は同一である(R T1 = R T2)が、価値構成は親会社(Rv 1)よりも海外子会社(Rv 2)
のほうが高い(Rv1 < Rv2)。技術構成が同一なのは、親会社の生産設備や機械をそのまま対価
なしに子会社へ移転させれるからである。ところが、海外子会社では労働コストが安いため、
価値構成の面では圧倒的に子会社側が高くなりうる。もちろん、ここでは多少現実的でない想
定を行っている。それは一つには、親会社の最新の機械設備がそのまま海外子会社へ移転され
ることは考えにくく、実際にはすでに使用済みの旧式の機械が移転されることがほとんどであ
ろう。もう一つには、海外子会社の労働者が本社の労働者と同一の技術水準や熟練度に到達し
ているということも考えにくく、同一水準に到達するには、一定の訓練と時間的経過ー習得時
間ないしは模倣時間ーが必要となろう。もっとも前者のほうはその企業全体の競争条件によっ
て、新鋭機械の移転度合も決まるので、最新鋭の機械を子会社に移転させてでも競争条件のア
ップを狙うか、それとも旧式の機械を移転させて、安い労働コストに依拠するかは、一概には
いえないだろう。しかし、一定のタイムスパーンをとってみれば、親会社から子会社への機械
設備の移転は必ず生じるだろう。また後者に関してはどの程度の期間内で同一水準に到達する
かだが、それには作業の性格や内容にも規定されてくる。これらは企業内技術移転のシステム
として、多国籍企業の内部化された枠組みとルートを通じて、秘匿された情報として移転され
ていく。
そこで、もう一つの要素である生産工程の分割と配置が登場してくる。多国籍企業は全体の
生産過程(P)を分割した上で、親会社側には資本集約的工程(Pc)を、そして子会社側には
労働集約的工程(PL)を配置するのが通常である。そうすると、親会社から子会社への機械・
設備の移転もし易いし、労働者の訓練も容易である。そしてこの過程が進むと、労働集約的工
程を担う労働者は途上国の子会社でのほうが入手し易く、かつその質も高いということになる。
何故なら、そこでは豊富な労働力が互いに競い合っているからである。一方、先進国の親会社
では労働集約的な工程を担う労働者は逆に入手しにくく、また低質のものしか残っていないと
いうことになる。そこではむしろ労働者は資本集約的な工程を担う労働者ー技術者や科学労働
者も含めてーが豊富に存在している。
以上を全体としてまとめてみると、技術構成は RT1 ≧ RT2 であるが、価値構成は Rv1 < Rv2 と
いう関係が親会社と海外子会社の間に成立してくる。そして、生産工程が資本集約的工程と労
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
働集約的工程に分割され、前者が親会社に後者が子会社に割り当てられる。そうすると、多国
籍企業全体の有機的構成はどうなるかという問題がでてくるが、ここではその問題を直接論じ
るよりも、資本の有機的構成の高度化と搾取率の関係をまず考えてみよう。前節でも述べたが、
この点では資本主義の発展は有機的構成の高度化を急速に進めるので、搾取率をどう高めても、
結果的には利潤率の傾向的低下を止めることができないという問題がある。そこで、有機的構
成の高度化が進んでも利潤率の低下をくい止めることが可能になるための秘策は、海外子会社
におかれている労働集約的工程での搾取率を高めることである。それは価値構成の高いところ
でこそできることである。その結果、親会社側の剰余価値率(m′
p)よりも海外子会社側の剰
、全体としての剰余価値率を高め、その結果、そ
余価値率(m′
s)の方が大になり(m′
s)
P < m′
れが利潤率にも反映されることになる。利潤率の傾向的低落への反作用には、まずこの条件が
必要になる。そしてこのことが成立するための第2の条件は、先に述べた価値構成の傾向が技
術構成の傾向よりも強く作用し続けることである。つまりは労働集約的作業工程部分が途上国
にある子会社側に移転され、かつそこに生産の重点がおかれるようになることである。そして
第3の、最後の条件は、この海外子会社の技術構成と価値構成が当該生産部門ないしは作業工
程におけるそれと競争的な現地の地場企業よりも高く、かつ搾取率も高く、したがって生産性
も高いことである。これは多国籍企業の企業内技術移転効果の発揮と捉えられるものである。
あるいは多国籍企業の企業内技術移転効果が多国籍企業と地場の独立企業との間の企業間技術
移転効果よりも大であると言い換えてもよいだろう。
そうすると、多国籍企業の全体としての有機的構成はどうなるかだが、上の条件を維持して
いこうとすると、子会社に移転される労働集約的工程部分の価値構成の高さに依存する限りは、
親会社側の資本集約的工程の技術構成の高さの比率は相対的には低く押さえられる傾向を持つ
だろう。しかし社会全体の技術発達の度合やそれが競争に与える影響を考えると、長期的には
技術構成の高さが価値構成の高さを凌駕し、途上国での生産を不利にしていくことになろう。
つまり有機的構成の高度化は趨勢的には食い止めることができず、ここでみた労働集約的工程
での搾取率の高さに依拠したやり方は、一時的な反作用の域を出るものではないだろう。その
結果、最終的には無人化ないしはロボット化に至る長い行程が用意されることになる。それは
全世界レベルでの産業発展や工業水準のレベルアップをもたらすことになる。つまりは世界の
平準化の過程の進行である。
なお先に利潤率の傾向的低落に反作用する要因の一つとして、海外からの安価な食料品や原
材料の輸入をマルクスが考えていたことに触れたが、このことを海外投資によって確保しよう
とする資本の運動が、植民地獲得やその維持と結びついて熱狂的な植民地熱を生み、そこへの
海外証券投資を活発化させたことはよく知られている。こうした輸入による原材料、食料品の
安定的確保は本国での利潤率の傾向的低落に歯止めをかけるが、生産の国際的展開にあたって
は、植民地の独立化という新たな条件の下で、今度は多国籍企業の世界大での生産体制の一環
立命館国際地域研究 第 21 号 2003 年 3月
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に組み込まれることになる。世界的な調達コストの軽減化の一翼を担って、そのコスト競争上
の要因に転化する。そして生産過程全体の統合化の進展は、範囲の経済性の発揮とも相まって、
原材料、中間部品、完成品アセンブリーを全て自社内組織で世界大での配置を通じて行う統合
企業のメリットを生みだす。したがって、本社所在国への輸入による利潤率の傾向的低落への
反作用としての面は弱まわざるを得ない。
さて、もう一つの、価値創出と価値実現の場の空間的分離に関してだが、これは多国籍企業
のブランド支配と巨大消費都市の出現と結びついている。多国籍企業はそのブランド力を利用
して、標準化された商品を画一的なイメージに基づいて生産、販売することを目論むが、その
結果、一方では生産技術の同質化と、他方では消費行動の画一化が促され、そしてそれらが世
界的な規模で統合化された企業組織の下で展開されることになる。このことは子会社への生産
設備の移動・配置を含む技術移転を容易にし、子会社における労働者の技術習得時間(あるい
は模倣時間)を短くさせることに大いに寄与することになる。
まず生産現場は世界大に分散するが、それらを結び合わせているものは、技術の統一性であ
る。自社の技術体系の下で、統一性を維持するためには、製品の標準化が大事になる。そして
この生産面での論理が消費面に波及することになるが、製品の標準化は消費の画一化を促し、
それは大量宣伝によって、消費者に商品や企業にたいする固定イメージを植え付けることにな
る。ここでブランド力が大事になる。その結果、世界中で画一化された嗜好に基づく消費の画
一化・同一化現象が幅を利かせるようになる。つまりは大量生産、大量宣伝、大量消費、そし
て大量廃棄の枠組みとそれに取り巻かれた生活が単に「文明諸国」と巨大都市ばかりでなく、
世界の隅々にまで浸透することになる。これがグローバリゼーションの一大奔流である。そし
てこのグローバリゼーションの流れは標準化を中心観念に据えることになるが、そうすると、
次第にそれは標準化で結ばれたネットワーク網を作り上げることに進む。各単位を独立のユニ
ットとし、それらの間を自由自在に分離・結合できる組織、それはもはや単なる統合化された
だけの組織ではない。情報と技術のネットワークを世界中に張りめぐらし、ブランドで武装し
た巨大な知識集積体がそこに誕生することになる。こうした傾向は先に述べた子会社への技術
移転を容易にし、子会社における労働者の技術習得時間とその内容を楽にさせることになろう。
ただし、こうした多国籍製造企業の世界的な影響力を過大に評価して、かつてのブハーリンの
ように、多国籍企業の「専一支配」や「純粋多国籍生産体制」を展望することは正しくないだ
ろう。多国籍企業の進めるグローバリゼーションの動きは、それに反発するアンチグローバリ
ズムの諸々の動きを生みだし、そして両者の競争・対抗・軋轢の激化は、同時に多くの多様性
や柔軟性や多質性を随伴してきている。その中には、古い資本主義の伝統も含まれている 18)。
ところで、ブランド力の確立には、宣伝効果に基づくイメージ操作が大事だが、それだけで
はない。商品そのものの「固有価値」も大いに与っている。なおここで「固有価値」といった
のは、商品の価値は従来の使用価値と価値ーつまりは労働の成果ーの統一物としてばかりでな
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
く、それに加えて、その商品の持つ社会的有用性や個体的特質などの諸々の効用を加味した総
体だと考えられるからである。それは使用価値という概念には収まりきれないものであり、商
品が与える信頼、安心、保証、ステイタスなどのシンボリックなイメージを全て具現している
ものである。そうすると、研究開発力、技術力、企業の組織力、イメージ創出などの宣伝力、
販売能力ーあるいはその他それに関連するものを含めてマーケティング能力と言い換えてもよ
いーデザイン能力、情報機能などの全ての知的活動が全体として統合され、かつそうした総合
力としての力が、こうした商品の「固有価値」を生み出すためには極めて大事になってくる。
したがって、単なる宣伝工作ばかりでなく、こうした知的活動の全体が商品の「固有価値」を
生み出しているといった方が正確であろう。あるいは「固有価値」をそれを生みだす知的創造
活動の面からとらえれば、それを「創造価値」と呼んでもよいだろう。そしてそれらの総体は
知識資本という範疇に括られるものだともいえる。さらにはこれらがその企業の存在する拠点
に蓄積されているか否か、そしてまたそうしたものを育てる「風土」や「気風」(ミリュウ)
がその地にあるかどうか、それを外部効果として利用できるかどうかなどが、企業の発展のた
めには、さらに求められる。これはクラスター形成の問題として、現在、注目を浴びているも
のである 19)。そうすると、価値創出と価値実現の空間的分離は脱空間的な仮想企業を生み出す
のではなく、本拠地の空間的特性ー知的集積地ーと、海外子会社の空間的特性ーモノ作りの拠
点ーそれにタックスヘイブンなどの金融・財務上の空間的特性を持った SPE など、を情報の
ネットワークで結んだトランスナショナルな一大企業組織を生み出しているということにな
る。したがって、それぞれの空間にはそれ独自の意味が与えられている。たとえこうした企業
にバーチャル(仮想空間)という言葉を冠したとしても、その意味するものは、ミラージュ
(蜃気楼)のような幻ではなく、上にみた実体をもったものであることを忘れてはならないだ
ろう。
以上が、ミシャレのいう海外子会社の2形態から出発して、その性格や役割や意義に関して
立ち入って検討した内容だが、同時にミシャレは多国籍企業自体の発展過程を以下の5つの類
型に分類している。そこで第2にその問題に関して考えてみよう。ミシャレは歴史的な企業の
発展を踏まえて、以下のように分類している。まず前史としての輸出企業。これは固有の意味
での世界経済の中に登場してくるものではなく、その前史を彩るものである。したがって、多
国籍企業の前提になったものと考えてよいだろう。次は《端緒的》多国籍企業。これは二重性
をもっている。一方では石油会社、鉱業会社、銀行やその他のトラストなどの雑多な企業であ
り、第一次産業に属している。他方では生産国際化への導入部として、工業への原料、食料品、
エネルギーを供給するものでもある。多くは天然資源の賦存に規定され、それに沿って配置さ
れる。ここでは、金融に媒介された植民地領有時代の帝国主義列強の海外進出を念頭に置いて
いると考えてよいだろう。三つ目に商業戦略実現型多国籍企業である。これは輸出代替による
生産の国際化に照応するものである。また中継子会社との関連性も強い。これは戦後植民地が
立命館国際地域研究 第 21 号 2003 年 3月
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独立して以後、輸入代替工業化から輸出志向工業化戦略に展開する時期での途上国側の外資導
入策に照応するものである。四つ目はグローバル型多国籍企業で、これが生産子会社をもって、
低労働コストを利用して世界大での展開を行う本来的な多国籍企業である。こうした生産の国
際化に沿った海外生産型の多国籍企業をミシャレがもっぱら多国籍企業と考えていることは、
これまで繰り返し指摘してきた。最後は金融型多国籍企業。これは本社司令部が生産活動を行
わず、科学技術知識の販売とそこからの収入ーロイヤルティーに依拠するもので、コングロマ
リット型多国籍企業といったほうが適切なものである。また金融活動が中心になる金融資本の
特殊的形態で、生産の国際化とは直接に結びつかない。したがって、これをミシャレは生産型
多国籍企業の発展とは捉えていないようである。
以上の分類から、ミシャレが中心に置いているのは、いうまでもなく四つ目のグローバル型
多国籍企業である。その理由は生産の国際化にもっともフィットするものだからである。それ
は、これまでに述べてきたように、生産過程の脱領土化と価値創出の非地方化というミシャレ
の基本的枠組みに沿ったものであり、その結果、世界商品を生み出し、技術の同質化、製品の
標準化、そして消費の画一化への強い志向が起こるからである。ただしこれをグローバリズム
の勝利と見なしてはならないことについては、すでに上で述べた。しかしミシャレがこの枠組
みを堅持したいのは、それが多国籍企業の企業組織やそこでの権力基盤とも結びついていると
みているからである。とはいえ、コングロマリット型多国籍企業を一段低いものと考えるミシ
ャレの考えは、いささか疑問である。むしろ筆者はこれを多国籍金融コングロマリットという、
さらに上位の資本範疇への橋渡しをするものと考えたい。
そこで、第3に多国籍企業の組織構造に関して考えてみよう。それに関しては、ミシャレは、
親会社と子会社の組織関係が直接的で内部人格的な、いわば本社への従属関係を示す第一段階、
親会社の一特殊機関である国際部が作られる第二段階、そしてその解体と世界的な統合形態に
なる第三段階に、三段階区分している。第一段階は親−子間関係がインフォーマルでパーソナ
ルなもので、多分に恣意性が働き易い段階である。この段階では財務は親会社に完全に握られ
ているし、子会社の生産領域も少なく、販売も地方市場向けがほとんどである。つまり、どち
らかというと、生産機能と商業機能とが混在しているのが、この段階の子会社の実相だといえ
よう。第二段階は海外部門を統括する専門部としての国際部の設置であるが、これが作られる
ということは、企業全体の中での国際部門の比重の上昇を示している。子会社の活動の活発化
にともなって、逆に親会社への財務的な従属はかえって強まることになる。子会社は自己金融
するが、親会社へのマネーの移動はかえって増加する。そのため、会計標準も同一化され、監
査手続きも同一化されるようになる。このようにして、親会社のコントロールが強まり、国際
部はその仕事を一手に引き受けることになるが、しかしそれが皮肉なことに、次の段階に移行
するための国際部の解体と消滅を進めることになる。というのは、国際生産の進展は国際部に
代わって、地域本部の必要と、全世界的なレベルでの製品別管理の必要を高めることになるか
38
関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
らである。つまりは垂直的と水平的との双方での複合的な企業組織の展開と、集中・統合と分
権・分散の双方向性ないしは異なる機能を持つようになる。その結果、親会社とその衛星子会
社との間の新たな枠組みが財務、会計、生産、流通、研究開発、資金移動と投資などのあらゆ
る面で構築され、全体としては親会社への拘束がかつてなく強まり、集権化が基本となる。こ
こに第三段階が登場することになるが、それまでの国内と海外との二重組織が姿を消し、統合
された一大組織が現れる。それは価値創出の場と価値実現の場の空間的分離が地域別・製品別
管理体制として、二重構造の中に統合されることを意味する。かくて、統合本社には巨大な富
の集積、貨幣資本の蓄積がもたらされることになるが、そのことは他の多国籍企業でも実現す
るので、その結果、資本の過剰蓄積と国際的寡占間競争を激化させるという皮肉な顛末をもた
らし、それが今度は多国籍企業を新たな競争へと駆り立てることになる。そうなると、全世界
的な研究開発、新製品開発、ブランド確立、マーケティング活動、財務管理と投資活動、人事
政策などが大事になり、それを担う独自のスタッフが登場してくることになる。いわばグロー
バル企業戦略の担い手である。
ところで、こうした組織構造に関する考察は、多国籍企業の権力行使の問題を随伴する。した
がって、第4にこの課題の考察になるが、ミシャレはここでは権力側としての国際経営者と、そ
れに対抗する反権力側としての組合の国際組織を対抗させている。前者に関しては、企業多国籍
化の進展は海外子会社の責任者という新たな経営者を出現させた。これは輸出サービス部門の出
身者から多く採用され、責任者を含む中枢スタッフグループを形作っていたが、親会社からの派
遣はコスト高になるため、次第に現地採用が増加するようになる。それには円滑な人間関係の形
成や現地事情に通暁しているなどの付帯的な条件も加味されている。そうなると、本社と現地子
会社との緊密な情報交換が必要になり、子会社幹部の本社への忠誠心や帰属意識の陶冶が求めら
れる。そしてやがては多国籍企業としての共通の経営者意識や一体化、そしてさらには脱国籍化
とグローバルな経営者への昇華が求められてくる。しかし、多国籍企業本社幹部はほとんどが本
社所在国の国籍所有者で、子会社幹部はそこへの同一化を求められるので、そうした意味での文
化的統合であることを忘れてはならないというのが、ミシャレの主張である。
経営者は頻繁に国際的に移動し、交流し合っているが、多国籍企業の労働者は移動しない。
彼らは雇用地に止まっている。したがって、その要求と要求実現のための組織的行動は労働現
場のある国で行われる。しかし、子会社の経営者には自身で決定する権限が限定されているの
で、組合は多国籍企業全体の情報を掴むための調査、本社を含む他国にある子会社との連帯、
調整などの特別の努力が必要になる。しかし著しい賃金格差や労働条件の違いなどが統一的な
交渉や行動を困難にしている。そして場合によっては一部の要求獲得が特権的な取り扱いや労
働貴族化を生む危険が多いとミシャレは警告を発している。
最後に海外子会社の利益と資金の移動、つまりは貨幣資本の循環とその操作に関してである。
多国籍企業の金融上のソースは子会社の自己金融、銀行信用、金融市場、公的援助、金融参加
立命館国際地域研究 第 21 号 2003 年 3月
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の五つである。第1に自己金融は本国送金政策にかかっているが、それは海外進出年数、現地
での拡大見通し、地域特性などによって左右される。さらには技術特許料収入もそれに含めて
考えることも必要になる。第2に外部資金の利用は多国籍銀行との関係が強くなる。第3の国
際金融市場の活用は主にユーロ市場である。第4に内部流通は多国籍企業の場合には国際的な
流通になる。多国籍企業の最終目標は「グループのレベルで現実化される現金流動(キャッシ
ュ・フロー)の極大化」20)にある。金利、課税、為替変動、景気変動、資金需要など、このキ
ャッシュ・フローを移動させるための条件はさまざまにある。その中では情報を素早くキャッ
チして、柔軟に対処することが求められるので、垂直的ばかりでなく、水平的にも可動自由と
いう原則が必要になる。そして利益前と利益後のどちらでこの移動が起こりやすいかも検討材
料になる。利益前の移動は利益を最小にみせるために国家の法規制をくぐり抜けるためのもの
で、決済期間の延長、サービスや利子名目での支払い、振替価格を利用した操作などが、そし
て利益後の移転形態は配当、貸付の償還、間接的なスワップなどからなる。なおこれら金融・
財務活動をミシャレは二次的、副次的なものとみているようだが、筆者はむしろ、これらの活
動が副次的なものから主要なものに発展・転化していくとみており、そのことが多国籍企業の
活動と性格を変えていくと考えている。なお、これについては別稿で詳しく論じるつもりであ
る。
おわりに
以上、多国籍企業の海外子会社の意味と役割をその形態や機能を中心にして、それを包括的
に論じたミシャレの海外子会社論を基にして考察してみた。労働集約的工程を主に担う海外子
会社の役割は多国籍製造業の中で極めて重要である。ここでの価値の創出が本社の販売戦略に
沿って、世界中で価値実現していく。そしてその成果が膨大な利益となって回収され、資本蓄
積され、再投資され、拡大再生産の歯車が軌道に乗っていく。そして一大循環過程が形成され
ていく。その意味では海外子会社はこの再生産軌道の最重要の歯車の一つであり、それなくし
ては多国籍製造業は存在し得ないほどの意味を持つ。そのことの解明は基本的には行い得たと
確信している。ただし、海外子会社のさまざまな機能の全てを論じることはできなかった。と
りわけ、企業組織や財務戦略などの関しては、なお多くの検討課題を残している。それらにつ
いては、これに続いて、ミクロレベルでの検討をストップフォードとウェルズの研究成果を主
要な素材にして行う予定なので、そちらに委ねたい。
(2002 年 11 月 13 日脱稿)
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関下 稔:多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)
<注>
1)拙著『現代多国籍企業のグローバル構造ー国際直接投資・企業内貿易・子会社利益の再投資ー』文眞
堂、2002 年。
2)C.− A.ミシャレ『世界資本主義と多国籍企業』、藤本光夫訳、世界書院、1982 年。なおこれとは別
に、ドラピエールとの共著でフランスにおける海外子会社の実態と意義に関して論じた、ミシャレ、
ドラピエール『多国籍企業の子会社』野口祐監訳、木村迪子訳、慶応通信、1980 年もある。以下の展
開では、主に前者を中心にして検討し、後者を補足的に参照した。
3)詳しくは拙著『現代世界経済論ーパクス・アメリカーナの構造と運動ー』有斐閣、第 1 章、1986 年、
参照。
4)ローザ・ルクセンブルグ『資本蓄積論』(上・下)、長谷部文雄訳、青木文庫、1955 年。
5)V.I.レーニン『いわゆる市場問題について』、邦訳『レーニン全集』第 1 巻所収、大月書店、1953
年。
6)V.I.レーニン『ロシアにおける資本主義の発展』、同上、第3巻所収、大月書店、1953 年。
7)ミシャレ『世界資本主義と多国籍企業』前掲、67 頁。
8)『レーニン全集』第 39 巻、大月書店、1962 年。
9)筆者もレーニンが最新の資本主義の特徴を「世界市場」ではなく、「世界経済」として捉え、その主
な内容が商品輸出ではなく資本輸出にあることをロシア社会民主党の綱領問題に関するレーニンの考
えを中心にして論じたことがある。詳細は拙著『現代世界経済論』前掲、第3章、参照。
10)ミシャレ『世界資本主義と多国籍企業』前掲、99 頁。
11)同上、109 頁。
12)同上、135 − 136 頁。
13)N.ブハーリン『世界経済と帝国主義』西田勲、佐藤博訳『ブハーリン著作集』3、現代思想社。
14)筆者は「資本主義一般の上部構造としての帝国主義」というレーニンの考えをロシア社会民主党の綱
領論争を題材にして、詳細に検討したことがある。詳しくは拙著『現代世界経済論』前掲、第3章、
参照。
15)K.カウツキー『帝国主義論』波多野真訳、創元文庫。
16)ここでミシャレが使っている「中継子会社」と「生産子会社」の概念は最初はミシャレとドラピエー
ルの共著『多国籍企業の子会社』前掲、において採用されたものである。
17)低い技術構成と高い価値構成との落差という視点から戦前の日本資本主義の特質に迫った周知の成果
は野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』岩波文庫、1954 年、である。
18)グローバリゼーションの進展がその対立物としてのアンチグローバリズムの動きを加速化させるとい
うことに関しては、拙稿「グローバリゼーションの進展とアンチグローバリズムの試み」『世界経済
評論』2002 年8月号、で詳細に論じた。
19)企業配置の空間的特性に関しては、従来から経済地理学の課題として展開されてきたが、それを多国
籍企業の世界的な立地上の問題として展開したユニークな業績として、P.ディッケン『グローバ
ル・シフト』(上・下)宮町良広監訳、古今書院、2001 年、がある。ディッケンにはそれとは別に経
済地理学そのものの著書もある。ピ−ター・ディッケン、ピーター・ E ・ロイド『改訂版 立地と空
間』(上・下)伊藤喜栄監訳、古今書院、2001 年。さらに最新の経済地理学の動向を学説史風に紹介
したものに、矢田俊文、松原宏編著『現代経済地理学』ミネルヴァ書房、2000 年がある。またクラス
ターに関しては初学者向きに概説した山崎明編『クラスター戦略』有斐閣、2002 年、がでている。
20)ミシャレ『世界資本主義と多国籍企業』前掲、253 頁。
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