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韓国・大邱教育大学校との姉妹校提携が実現!! 宮城教育大学 国際

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韓国・大邱教育大学校との姉妹校提携が実現!! 宮城教育大学 国際
環
第 2 号
(1)2001年11月26日発行
目 次
宮城教育大学
国際交流ニュース
第 2 号
2 0 0 1 年 1 1 月
◆本学、韓国・大邱教育大学校と姉妹校提携
◆特集Ⅰ 中国研究 ∼ 現代中国の教育事情ほか ∼
◆特集Ⅱ エセックス大学 ∼ 姉妹校 その二 ∼
◆教育の現場から ―「環」創刊号を読んで ―
◆コラム ボリビア・リベラルタのこと
◆国際交流三題
韓国・大邱教育大学校との姉妹校提携が実現!!
国際交流委員会
訪問団の来学 10月15日(月)、韓国・大邱(Taegu) 教育大学校から
鄭潅総長、孫錫洛教授、李起兌企画係長の3人の訪問団
が、本学との姉妹校提携に関する協定書調印のため来学
した。同15日には、学長への表敬訪問、協定書調印式、
学長主催の歓迎会、16日(火)には、今後の具体的な交
流についての実質的な意見交換、図書館・附属センタ
ー・附属学校等の訪問、17日(水)には、国際交流委員
会主催の歓迎夕食会を行い、翌18日に帰国の途についた。
本学は、これまでアメリカ・ミネソタ州のマカレスタ
ー大学、中国・長春の東北師範大学、イギリスのエセッ
クス大学、ペルーのロス・アンデス大学、オーストラリ
アのセントラル・クィーンズランド大学との間で姉妹校
提携をしており、学生の留学、
教職員間の交流を行ってきた
が、韓国の大学とは今回が初
めてであり、何よりも最も近
い隣国の大学との間で姉妹校
提携が実現したことは、長い
間待たれていたものである。
この度の協定書調印を契機
として、これからともに、次
の時代を担う子供たちを教育
する教員を養成する大学とし
て、学生や教員間の交流が深
められることをのぞみたい。
センターの崔明淑教授から交流希望の申し出の連絡があ
ったのを受けて、本学の横須賀薫学長が本学の姉妹校提
携の希望を伝えるべく雪江美久教授と渡部勝彦教授及び
渋谷幸雄学生課課長補佐を大邱教育大学校へ派遣した。
ここで双方の意思が確認されたことを受けて、本学では、
国際交流委員会で協定書の案文を作成し、教授会での審
議を経て、今回の調印にこぎつけたものである。
今後の交流について 訪問団との具体的な話し合いの中で、両大学の積極的
な交流をすすめること、また、できることから早急に取
り組むことが確認された。大邱教育大学校では来年3月
から本学の学生を受け入れる用意がある旨が表明され、
本学からも、できるだけ早
く送り出す準備をすすめる
こと、また授業料の相互不
徴収を制度化すること、本
学では外国人留学生に対す
る受け入れ体制が整ってい
る旨の説明をした。
また、学生の留学交換に加
えて教員間の研究交流も大
きな課題である。初等教育
はいかにあるべきか、国際理
解教育、環境教育、情報教育、
さらにまた、それらを含む
カリキュラムの開発や、歴
提携にいたる経過 史教科書の共同研究などが、
すすめられることが期待さ
大邱教育大学校は朝鮮半島
協定書に調印する鄭潅総長(左)と横須賀薫学長(右)
れる。また、附属学校間の
の南部(釜山の北方135km
交流も課題である。子供た
の位置)の中心部、人口250万人を擁する大邱市にある。
ちの作品の交換や児童・生徒達の交流などもいずれなさ
その歴史を溯ると、1950年3月に大邱師範学校として創
れることになろう。
設され、62年に慶北大学校併設の2年制の教育大学とし
離日前夜には、訪問団と本学の教員、職員、それに韓
て改編され、82年に4年制の大邱教育大学(昇格)とな
国からの留学生等、40人余の参会者を得て、盛大な歓迎
り、93年に大邱教育大学校と改称、95年に大学院を設置
会が催された。ここでも国際交流とは、人と人との交流
した。現在は学部学生2400人余、大学院生250 人、教員
を通した心の触れ合いが、なによりも大事であることを
88人を擁する初等教育(小学校)教員を養成する大学で
感じさせられるものであった。
ある。卒業生はほぼ全員が小学校教員となり、就職率は
国際交流委員会としては、両大学間の交流のシステム
100%であるという。
作りに鋭意努力するつもりであるが、他方で交流そのも
本学との交流の話は、昨年8月、韓国芸術文化団体総
のは、教員、職員、学生ひとりひとりの自発的な関わり
連合会大邱広域市会の使節団が宮城県芸術協会における
が不可欠である。今後、より大きな交流の輪が広がって
日韓国際交流企画として仙台市を訪問した際、韓国の伝
いくことを期待したい。
統音楽楽器を本学に寄贈したい旨の話から始まった。ま
(本郷隆盛 本学教授 社会科教育講座)
たそれに加えて同年10月大邱教育大学校・初等教育研究
(2)2001年11月26日発行
特集Ⅰ
中国研究−①
環
第 2 号
上海師範大学との交流及び
「中日学校体育教学交流」に参加して
数見 隆生
9月20日から26日までの1週間、私と田中新治郎
訳を介して実践授
助教授、そして仙台と埼玉の小学校教諭2人の計4
業をした。他の三
名は、上海の2大学の訪問と「中日学校体育教学交流」 人は体育の授業を
に参加するため出張した。また山口県と福岡県から
公開した。私はこ
別の所用も兼ねて参加した4人の大学教師とも現地
れまでの中国体育
で合流し、ほぼ同一行動をとって中国側と交流する
を規律や体力づく
こととなった。
りを意識した訓練
私にとっての探訪意図をもう少し具体的に述べる
的なイメージでと
と、次の3つの目的があった。
らえていたが、中 ③日本の保健授業に興味を示す中国の小学4年生たち
一つは、上海師範大学の体育・衛生学院からの要請
国教師2人の授業
で、日本の健康教育に関する情報提供と改革の質疑に
はともに音楽をバックにしたリズムのある動きや創
応じることであった(写真①)。上海でも少子化の影
作的要素を取り入れた「楽しい体育」を志向していた。
響等で大学が統廃合を迫られており、従来の体育学院
しかし運動量(体力面)への配慮も捨て切れず、45
(師範大学体育学部)が他大学の衛生学院やリハビリ
分の授業の中に多目的なねらいと要素が混在し、一
センター、附属診療所を取り込み1998年に「体育・衛
つの課題を追求する深まりのあるものにはなってい
生学院」に拡充したとのことだった。近代化や一人
ないように感じられた。それは一方で伝統的な指導
っ子政策の副産物
(原則)との関係を整理できないまま新しいものを取
で青少年の健康問
り入ようとしている過渡的な現象のように思われた。
題も急激に変化し
日本の教師(埼玉の山内基弘)が行なった体育の
てきている。郡部
マット運動の授業は、課題を発展的に追究・展開し
には寄生虫や貧
ていくものであり、入場時は硬かった中国の子ども
血、栄養不良等が
たちもたちまち授業にとけこみ集中していった(写
残存する一方、肥
真②)。中国の多くの教師たちからも賞賛を受けた。
満や近視の子、体
また、通訳を介して行なった保健の授業にも、中国
力低下、心の問題 ①上海師範大学の体育・衛生学院の先生たちと
では見られない授業として関心を集めた。内容は、
など健康問題の現
便秘や下痢をした時のさまざまな経験を出させなが
代化も急速に進行している。また高齢化社会を迎え
ら、どうしてそういうことが起こるかを消化器の仕
る中で成人病も急速に広まりつつあり、これまでの
組みや働きの原理とのからみで納得させていく「考
スポーツや身体鍛練を中心とする体育学院から健康
えさせる保健授業」の展開であった。これまでしつ
教育をも重視する体育・衛生学院への脱皮をはかっ
け的な衛生指導を受けていた子どもたちにとって、
ている最中なのである。健康教育の重要性に関して
自分の経験をもとに考え、さまざまな手作り教具や
は共通理解が急速に広がっているものの、それをど
資料をもとに身体の科学を学び取っていく授業は初
う発展させ、展開していけばいいのか、日本の健康
めてのようで、どの子も興味を示し活発な発言と思
教育の情報と教訓を得たいというものであった。
考をしていた(写真③)。日本の教師の行った体育と
二つ目の目的は、本学と東北大学に留学経験のあ
保健を参観していて、良い質の授業であればどの国
る上海体育学院の肖煥禹教授が中心になって組織し
の子どもでも、通訳が介在していてもすばらしい反
た小・中の体育教師、教育委員会職員、大学の学校
応を示すものだと強く感じさせられた。
体育関係教官等約300名と日本から参加した私たち8
三つ目の目的は、日本の保健室に相当する場(中
名との「中日学校体育教学交流」に参加し、日本の
国では医務室とか衛生室と呼んでいる)や養護教諭
学校体育と健康教育に関する情報提供をし、交流す
に相当する職種(日本の校医とは異なる3年間ほど
ることだった。この会では田中助教授も体育の学習
衛生学院で学んだ「校医」と呼ばれている人)につ
指導要領の変遷と課題について講演し、また、特筆
いて取材することであった。上海第三小学校の校長
すべきことは、中国と日本からの二人ずつの小学校 (女性)が配慮して下さり、自校の「校医」や保健も
教師が授業を公
担当している体育教師、近所の学校でのベテラン
開 し 、 そ れ に 基 「校医」等を集めていただいた。かつて長春市でも同
づいて事後検討
様の取材をしたことがあるが、子どもの健康実態や
を行うという試
子どもの健康保障の体制がどのように配慮されてい
みだった。仙台
るか、「校医」の職務の実態も含め、また新たな状況
から同行した日
が把握でき、大変有意義な探訪の旅であった。
本の小学校教
今後、こうした交流をどう継続し、発展させられ
師・千葉保夫は
るか模索していきたい。
保健の授業を通
(本学教授 保健体育講座)
②日本の体育授業に集中する中国の小学4年生
第 2 号
中国研究−②
環
(3)2001年11月26日発行
現代中国の教育事情
∼応試教育・素質教育・研究性学習∼
島森 哲男
9月中旬の約10日間、文部科学省の科学研究費補助金に
います。そうなのだとは思いますが、その一方でふだんの
よる研究で、中国の上海・蘇州の小中学校・幼稚園を視察
授業は「素質教育」、放課後は「応試教育」、受験科目は「応
調査してきました。
試教育」、非受験科目は「素質教育」などと割り切ったりもし
いま中国では改革開放政策のもと、社会が経済的にめざ
ているようです。
ましく発展し、それにともなって教育に対する関心も、と
昨年、一昨年、中国にいったときには、北京や大連の大
みに高まってきています。中国ではご存じのように子ども
きな書店には素質教育コーナーができていて、本棚いっぱ
は一人っ子ですから、両親と祖父母、合計6人の期待はそ
いに素質教育関連図書があふれていたのですが、ことし上
の一人っ子に集中するわけです。子どもの将来の成功・出
海の書店では、コーナーはあるものの本の数は少なく、ど
世が両親・祖父母の未来を左右することにもなりますから、 うなってしまったのかと不思議でした。定着したというべ
当然、6人の大きな期待が1人の子(孫)に集まることにな
きか、出尽くしたというべきか、よくわかりませんが、
「素
ります。少しでもいい学校に入れようと、無理をしてでも
質教育」の発祥の地と目される上海・蘇州の小中学校を訪問
上海市内にマンションを買う。そうすれば子どもを市内の
しても、素質教育という言葉はほとんど耳に入ってきませ
学校に通わせられる。そうして小学校時代から少しでも差
んでした。
をつけて、いい高校いい大学に進めるような条件づくりに
かわってしばしば耳にしたのが「研究性学習」
(イエンチウ
励みます。経済的にもそれが可能になってきました。
シンシュエシ)という聞き慣れない言葉でした。上海市浦東
大学進学率は日本に比べてまだずっと少ないですから、 新区の進才中学北校では潘裕翼校長がその実践の課題や方
競争はとんでもなく熾烈です。大学受験のための教育は徹
法、評価基準の問題点などを率直に語ってくれました。従
底しています。それが教師の腕の見せ所。授業でも放課後
来の私たちの視察では行く先々で成功例ばかり聞かされる
の課外授業でも、時には家に呼んでも一生懸命教えて教え
ということが多かったものですから、今回、問題点まで率
て、大学に入れてやろうとします。中国には日本の予備校
直に語ってくれたことは驚きであり喜びでした。その率直
のようなものがありませんので、それぞれの高校の教師が
な言葉から、新たな
最後まで面倒を見ます。こうした大学入試に焦点を合わせ
教育に全身全霊で取
た徹底した受験教育を、中国では「応試教育」といいます。
り組んでいるという
それが前記のような社会状況の中でエスカレートして、 気迫とエネルギーが
受験する者としない者、都市の受験校と農村の非受験校の
ひしひしと伝わって
格差の拡大などの弊害が生じ、その反省から80年代の半ば
きました。
ごろに、教育の在り方を考え直そうという動きが出てきま
「研究性学習」とい
した。はじめは教育の先進地域である上海や蘇州あたりで
うのは「素質教育」の
授業改革の試みが出てきたわけですが、やがて政府がそれ
延長線上にあって、
にお墨付きを与えるようなかたちで、90年代にいっきに全
そのひとつの具体的 「研究性学習」の報告をする生徒たち(中2)
国的な運動になってきました。
な方法論ないし実践形態として生まれてきたものだと思わ
「応試教育」ではなく、生徒の素質を高め、国民の素質を
れますが、日本の「総合的な学習の時間」によく似ている感
高める教育ということで「素質教育」と名づけられ、全国的
じです。中2の生徒たちがわざわざ私たちのためにその成
な研究集会が開かれ、各地からの実践報告が次々と出版さ
果を報告してくれました。自分たちの関心や趣味に基づい
れました。「素質教育」、英語に訳せばQuality Educationだそ
て、例えば地域の環境問題に取り組んだり、中国と西洋の
うですが、知識偏重の「応試教育」ではなく、
「応試教育」に
音楽の違いを比較したり、紙を使った斬新なファッション
よって失われた教育の本質的な部分を回復しようという試
をくふうしたり、ほんとうに真剣にまた楽しげに発表して
みであることは確かです。しかしその具体的な中身を理解
くれました。
するのはなかなか難しく、生徒一人一人の個性を重視した
こういう生き生きとした教育が、一方で要請される「応試
り、地域の特性を生かしたりと、さまざまな試みがなされ
教育」とどのように共存し、高めあっていけるのかが、今後
ており、受け取り方も一様ではないようです。
の大事な課題になっていくでしょう。
私たちが90年代に吉林省内の学校を訪問してよく見せら
「応試教育」
「素質教育」
「研究性学習」という動きは日本の
れた、絵や書道やダンスや暗算などの課外の実践も、個性
近年の教育行政の動きとよく似ているように思います。し
重視の「素質教育」であったと思われますし、農村地域の農
かしまったく重なるものではもちろんありません。たった
業や園芸に取り組んだ授業や実践も、地域の特性を生かし
10日の視察ではまだよくわかりませんが、やはり中国的な
た、ひとつの「素質教育」であったと思われます。それは
特質が生きていると思います。私たちはそういう海外の教
「応試教育」だけが教育だというような風潮に対して、それ
育の動きを研究しながら、ふりかえって日本の教育をじっ
以外の部分に光を当て、個人や地域のコンプレックスを克
くりと考えてみる必要があるでしょう。ほんとうにこれで
服し、生き生きした教育を再生させる力になったと考えら
いいのかと。
れます。とくに地方や農村地域においてこの教育改革の試
中国には「十年樹木、百年樹人」
(十年先を見込んで木を植
みは歓迎され、積極的に実践されたということができるで
え、百年先を見込んで人を育てる)という言葉があります。
しょう。
「教育は百年の大計」ともいいます。目先の効率にとらわれ
しかし受験生を抱える親にしてみれば、
「素質教育」なんか
ることなく、遠い将来を見据えて教育に取り組んでいる今
やっていてだいじょうぶなんだろうか、もっと「応試教育」 の中国の姿勢は、私たちも真剣に学ばなければならないと
をしっかりやってくれなければ困る、という反応になりま
思います。
す。ある人は「素質教育」は「応試教育」の対立概念ではなく、
(本学教授 国語教育講座)
「応試教育」も包括する大きな教育の理念、理想であるとい
環
(4)2001年11月26日発行
中国研究−③
第 2 号
内モンゴル民族学校を訪ねて
上空からみたフフホト付近の景観
本年6月下旬、環境教育実践専修の大学院生ソド
スチンさんの調査に同行し、中国の内モンゴル自治
区を訪れた。全日程8日間という短期間の滞在では
あったが、同自治区の区都フフホトを基点に、その
北に広がる大青(ターチン)山地や草原地帯を巡り、
彼が修士論文のテーマに取り上げている、この地域
の砂漠化の実態を見て歩いた。
この旅の途上、フフホトにあるモンゴル民族学校
を表敬訪問する機会を得た。ソドスチンさんのかつ
ての職場だそうで、突然の我々の訪問にもかかわら
ず、校長先生を始め皆さんが快く応対して下さった。
一方の客側、特に私の態度には大いに問題ありで、
前の晩、白酒という、この地方の40度くらいある酒
を飲み過ぎ、応接室に通された時点では、まだフラ
フラの状態であっ
た。さぞかし呆れ
られていたことで
あろうが、お土産
・・・
に持参したこけし
などをお渡しして
和やかに歓談、学
校の概要について
説明をいただい
フフホトの街並み
た。
1952年に設立された、自治区政府附属のこの学校
には、保育園から高校までが揃っている。学年は小
学校が5年、中学4年、高校3年。生徒数は1590名、
内モンゴル自治区全域から集まってきているため、
その大半が寮生活を送っている。モンゴル語で授業
をしている唯一の学校なのだそうだが、小3になる
と中国語が加わり、さらに中1から外国語の授業も
始まる。外国語は選択制で、日本語も選べる。モン
ゴル語と文法が似ていて学び易いというのが、日本
語導入の理由だそうだ。しかし日本語を習得しても
あまり役立てる道がないのか、近年は英語に人気が
集まっているらしい。
西 城 潔
校長先生のお話
を伺った後、中学
1年の地理の授業
を見学させてもら
う。生徒数は約50
名。一週間後に期
末試験があるとか
で、これまでの授
業内容の復習を
フフホト市モンゴル民族学校応接室にて。左か
や っ て い た 。 ま ら3人目の方が校長先生、右端の女性は同校の
ず 教 師 が 、 壁 に 日本語教諭。
掛けてある世界
地図を使い、どこかの国を指し示す。続いて生徒全
員が一斉に、国名や人口、主要な資源について答え
るというやり方であった。元気が有り余っているの
か、我々を意識してハッスルしているのか、皆ほと
んど絶叫に近い大声を張り上げていた。中学・高校
の地理では環境問題も取り上げていると聞いた。ど
のような内容の授業が行われているのか、いずれ機
会があれば見学させていただきたいと思う。
その詳細を記す余裕はなかったが、今回の内モン
ゴルで見て回ったような砂漠化現象は、この地で暮
らす人々にとっては決して本や映像の世界の出来事
ではなく、生活への直接的脅威となり得る切実な問
題である。そうであれば、学校教育においても、授
業の題材として積極的に取り上げられていておかし
くはない。だがこの問題が授業等でどう扱われてい
るのか、確認することはできなかった。今回の訪問
をきっかけに、いずれは内モンゴルの砂漠化のプロ
セスについて本格的な調査を試みたいと考えている
が、単なる学術調査に終わらせることなく、できれ
ば現地の学校教育にも成果を還元できるような形で
研究を進めていきたいものである。
(本学助教授 社会科教育講座)
中学1年の地理の授業風景(フフホト市モンゴル民族学校)
環
第 2 号
特集Ⅱ
エセックス大学
(5)2001年11月26日発行
イギリスとの出会い
宮城教育大学 生涯教育総合課程 国際文化専攻 3年 加藤 香子
ローマ植民の歴史を物語るローマ城壁に囲まれた、イ
ともあった。日本社会では他人に公表することさえ難し
ギリスで最も古い町コルチェスター。野生のリスやウサ
いが、イギリスはそうではない。同性愛者であると自他
ギが走り回る、大自然に囲まれたキャンパス。そんな古
共に認めた上で、ごく自然に生きていくことのできる社
き良き町にあるエセックス大学で、私は1年間の留学生
会がそこにはあるのだ。異文化に1年間身を置くことで、
活を行った。
イギリスと日本の社会や文化の違いに気づくと同時に、
大学の授業では、留学生はどの学部から、どの授業を
日本という国について客観的に目を向けることができた。
履修することも可能だったので、私は社会学と言語学の
また、留学1年を通して、ヨーロッパを巡る旅をした。
2つの学部から授業を履修した。授業形態、進め方など
リュック一つ背負って、安宿を転々としながら、食パン
の授業全般に関して、日本の大学と異なる点が多々あっ
を片手に歩き回った。その中で、最も印象に残っている
た。まず、1つの授業が、数百人規模で行われるレクチ
国はドイツである。東西ドイツの境界線を、いとも簡単
ャー形式の授業と、10数人規模に分か
に 行 き 来 で き る 現 在 。「 A R B E I T
れてレクチャー内容の復習・補足を行
MACHT FREI」(働け、されば自由に
うクラス形式の授業との2つから成り、
なる)の標を掲げ、ナチス人虐殺のお
その両方に出席することによって初め
ぞましい過去を後世に語り継ごうとす
て、授業の1つのテーマを理解したこ
る収容所跡地。過酷な歴史を生き抜い
とになる。また、授業時間は50分であ
た人々の様々な思いが交錯する場に、
り、その限られた時間内でいかにして
21世紀を生きていこうとする私は出会
生徒に教えるか、先生方は下準備を怠
った。あれほど鳥肌が立つような思い
らない。そのため、授業は要点の押さ
を味わったのは生まれて初めてであっ
えられた完成度の高い内容であり、テ
た。
左から5人目が筆者
ンポ良く進んでいく。生徒も集中力を
大学に入った頃から抱いていた留学
持ち、真剣に授業にのぞんでいた。(居眠りしている学生
の夢。今その夢を実現し終えたことになる。次はどんな
を目にしたことはなかった。)
目標に向って進んでいこうか、今は次なる夢を模索して
非常に貴重な経験となったのは、寮が多国籍な人種で
いるところだ。1つ言えることは、この1年間の留学を
構成されていたため、イギリス人だけでなく、日本だっ
終えた今の自分は、当然だが、もはや1年前の自分では
たら出会えなかったような国籍の人と知り合うことがで
ない。世界情勢の動向に敏感になり、テロ事件が他人事
きたことである。一方で、毎日共同生活を行っていく中
とは思えなくなった。また、毎日の生活に対する価値観
で、お互いの生活習慣の違いに気づくことがあった。例
も変化した。この1年が今後の私の人生にどう生かされ
えば、私の出会ったイギリス人の大半は皿を洗った後、 ていくのか。留学を終えた瞬間が夢の終わりではなく、
洗剤の泡を流さず、そのまま乾燥させ、再びその皿を使
これからがまた新たなスタートだと思っている。
用する。寮内で大きな問題にはならなかったが、自分が
その皿を使って食事をすることは最後までできなった。
また、大学にはゲイやレズビアンのためのサークルがあ
ったり、教授がゲイであることを授業の中で公表したこ
違うということを知る
宮城教育大学 生涯教育総合課程 国際文化専攻 3年 大友 智恵
イギリスから帰国して、ここ日本での生活も早3ヶ月。
まだ少し、日本に慣れきれずにいる反面、あそこで過ご
した時間が、もう遠い遠い昔のようにも思えます。本当
に自分があそこにいたのか、もう夢のような気さえ起き
てきます。それだけ、イギリスでの留学生活は、私にと
って非日常的なものだったのだと思います。
私の留学先エセックス大学は学部生、院生合わせて約
6000人のうち、4000人は留学生、つまりイギリス国外か
らの学生であり、世界各国から集まった人達との出会い
は、留学前には予想もできなかったほどに、私に大きな
影響を与えました。
課題に追われ忙しく過ぎた1年はあっという間で、自
分にとっての留学を深く考えることはありませんでした
が、今こうして思い返すと、多民族・多文化の中での生
活を通して、私は“違うということを知る”意味がわか
ったような気がします。
言葉はもちろん、目や髪や肌の色も違う人達と話し、
誰もがそれぞれに異なる歴史や背景を持っていることを
知り、それを尊重することを知りました。“違うことを知
る”というのは、自分とは異なる点を自分と同じように
仕向けたり、自分の意見に相手を同調させたりすること
ではなく、相手との違いをごく自然なものと受け容れて、
(6)2001年11月26日発行
環
第 2 号
理解することでした。
までにはない素晴らしい充実感を私に
フラット(寮)の騒音で眠れぬ夜
与えてくれました。その中で得たかけ
が続き体を壊した時、いくら言って
がいのない友人は、これから先きっと、
も静かにしてくれないフラットメイ
私の大切な支えとなるでしょう。
トを責めるのをやめ、自分が部屋を
帰国して日本での生活を再開した今、
引っ越すことに決めました。また、
テロ事件を始め、国際情勢がこれほど
ユーゴスラビアのコソボ紛争で人が
まで身近に感じられたことはありませ
亡くなるニュースに喜ぶ、パレスチ
ん。世界中にいる友人を思うととても
ナ出身の友人の話も、最後まで聞く
他人事とは思えず、自分はこれまで井
左から5人目が筆者
ことを覚えました。理解に苦しむ時、
の中の蛙であったこと、世界がこれほ
結局は人間と文化の違いを受け容れることができるかど
どまでに近いことを思い知らされます。これは、日本を
うかでした。
出て、あの国際的なエセックス大学での1年なくしては、
これは、どれだけ相手の立場になって物事を考えられ
得られなかったものに違いありません。自分と“違う”
るか、ということでもありました。一旦“違うことを知
人間に実際に会って目を見て話し、生活を共にして初め
る”ことを覚えると、自分が日本人であることや相手の
て知るものなのだと思います。
国籍は問題ではなくなり、お互いが“一人の人間である
こと”を認識します。こうして築いた人間関係は、それ
教育の現場から ∼『環』創刊号を読んで ∼
宮城県 宮城野高等学校教諭 後藤 彰信
最近思うことであるが、生徒のなかに、自己を厳しく
見つめることを避け、将来に向けての目的意識を自ら形
成していくことを先延ばしにしようとする傾向と、留学
という手段によって軽やかに日本文化という枠を乗り越
え、異文化を体験し、自己を見つめ直そうという傾向
(どちらもまだマイノリティーに属するが、後者は受験な
どの制約がはずれれば明らかに増えそうな気配である)
が、生じているように思う。これらは、現代社会の価値
観の拡散的な多様化のなかで、そうした状況に対して生
まれた二つの傾向ということができると思われる。つま
り浮遊的に多様な価値のなかでその時々に適当なものを
選び取りつつ生きるか、そのなかから確かな価値を異文
化の尺度を参考にしつつ選び取ろうとするかということ
である。してみれば、いま学校教育に求められているの
は、本郷先生が創刊号の「論説」のなかで指摘されてい
るように、生徒個々人が〈他者と向き合い、自分と向き
合う〉力を身につける手助けをすることだと思われる。
さて、私自身は社会科の教員として日本史を生徒に教
えているわけであるが、社会科教員の仕事とは、歴史を
地理を、政治を、経済を、倫理を講じることで、生徒
個々の等身大の価値意識とはレベルを異にする価値の体
余 録
宮城教育大学で学ぶ留学生たち
2001年10月現在、宮教大には63名の研究生・学部学
生・大学院生・教員研修留学生が学んでいます。内訳は
中国が42名で3分の2を占め、韓国が8名、それに台湾(2)
カンボジア(1)、ホンジュラス(1)、アルゼンチン(1)、
メキシコ(1)、オーストラリア(1)、ベトナム(2)、モ
ンゴル(3)、フィリピン(1)です。そのうち、女性が45
名で全体の7割を占めています。自分の未来を自分の力
で切り拓こうという強い意欲を感じさせられます。留学
系が存在することを学ばせることだと考えている。そし
て、それを学ぶことで自己の価値意識というひとつのモ
ジュールがはじめて大きな体系性のなかでの位置を獲得
し得るのだということを教え、その作業はこれから生徒
自身が学問の世界へ進んでも、また社会に出て働くこと
になっても、継続していく必要があるのだということを
知らしめることだと思う。つまるところ、教員こそが、
学問や社会の新しい動向に敏感であり、自己の価値意識
を問い直し、それを鍛えていくべきなのであろう。
以上のようなことからすれば、まず教員を志す学生に、
また広く教育に携わろうとする学生に、国際交流の場が
十分に与えられていることが実に大きな意義をもつ。
思うに教員養成系の大学で、これほど国際交流に力を
入れている大学があるだろうか。このことは、広く世に
知られてよいことであると思うし、端的には受験生たち
にも知ってほしいことがらのひとつでもある。こうした
重要な情報を受験生にも直接伝えられる方法が講じられ
るべきだと思うし、その意味で今回の『環』の創刊はま
ことに意義深いものであると考える。
生の受け入れやお世話は、留学生委員会が担当していま
すが、国際交流委員会としては、これからは留学生の生
活上の条件整備、就学上の充実、学生との交流の充実に
向けて何ができるかを考えていくことが課題だと考えて
います。また留学生を外から受け入れるだけでなく、海
外留学に関心のある学生を海外に送り出し、国際的な体
験を積む機会を整えることも大きな課題です。秋には、
日本語スピーチコンテスト、「留学生を囲む会」などが計
画されています。奮って御参加下さい。
(国際交流委員会)
環
第 2 号
(7)2001年11月26日発行
ボリヴィア・リベラルタのこと
青木 守弘
三世の代に入っている今日である。高地のラパスにおい
南米・ボリヴィアでの鉱物資源の研究協力を目的とし
ても、東部低地のサンタクルスでも、また、アマゾン低
た5ケ年間にわたるJICAプロジェクト業務に従事し、早
地のトリニダードの訪問に際しても、特別気負うことが
いもので終了後約十年が経つ。先立って、しばらくぶり
なかったのである。ところが、今、日本にあって振り返
でボリヴィアを訪れる機会があり、懐かしい標高4000メ
ートルのアンデス・アルティプラノの地に降り立った。 るとき、遠く隔たった距離がそうさせるのか、現地にあ
れば気にもかけないなんでもないことにこだわっている。
現地にあって当初体験した感動はすでに風化し遠い記憶
在任中、残念ながらリベラルタの町に足を踏み入れるチ
になっていたが、以前、こだわっていた思いを再び呼び
ャンスはなかったし、もちろん、自分の血が残る筈もな
おこすこととなった。
いのだが、もし、仮になんらかの状況で血が残され、パ
いささか古くなり、いつ頃かは定かではないが、月刊
ンドやベニのようなアマゾン奥地の隔絶された地域であ
雑誌「歴史読本」の短編記事に、ボリヴィア・奥アマゾ
った時のことを考えると、背筋が寒くなるような気さえ
ンのリベラルタのことが述べられている。見落とすほど
するのである。日本人である父親と生き写しの姿をして、
の短い紀行文ではあるが、この「文化は女性が残す」と
アンデス越えに西の空を見上げている情景を想像したり、
いう表題の文章は、読むほどに考えさせられる。リベラ
また、裸足で無心にフィエスタ(祭り)で踊り興じてい
ルタの町には日本人の血が入った日本姓のボリヴィア人
る場面を思い浮かべてしまう。事実、ラパスの町でもと
が数多くいて、日本的文化と習慣を全く残さないで、現
きおり名前がでてくるほどに日本人とウリ二つの顔をし
地に根を下ろし、たくましく生活しているということで
たボリヴィア人に出会うことがある。もちろん、これは
ある。これは奥アマゾンを探検した向一陽氏の著した
同じモンゴロイドとして、顔姿が似ているのは当然のこ
「アンデスを越えた日本人」−中公新書―を読み、訪れる
とで、私の思い過ごしなのだが、このような妄想を抱い
機会のあった新聞記者によるものである。私も以前、こ
ては、いてもたってもいられないような、そんな感じす
のマドレ・デ・ディオス川(聖母の川)を下る探検記を
ら抱くのである。
読んで胸おどらせたことがある。戦前、海外移民の先陣
同様なことは戦後の日本にもあったことであるし、人
をきったペルー移住の血気盛んな日本人青年達がいた。
間社会そのものが、いわば血と血の混じり合いで成り立
しかし、農奴同様の過酷な労働に夢破れ、集団で雪のア
ち、伝達されてきたのである。国境を越えた血の混じり
ンデス・アリコマ峠を越え、当時ゴム景気にわくボリヴ
合いは今日の国際社会の中では当たり前のことで、私は
ィア・奥アマゾン域に入って一攫千金の夢を追ったので
必要以上に神経質なのかもしれない。むしろ、この種の
あった。リベラルタの地には日本人村が作られ、現地の
発想そのものが批判されるものを含んでいよう。ただ、
文化を継承する女性との間で日本人の血は受け継がれる
こととなった。長期・短期、幾度となく出入りしたプロ 「文化は女性が残す」という短篇を読んで、言いようのな
い胸騒ぎと興奮を覚えたのも事実であり、これほどまで
ジェクト在任中は、彼らの血を受け継いだ混血の子孫た
ちと触れ合う機会があったし、また、今回の滞在でも、 に<血>というものの存在を重く、そして、崇高なもの
わざわざ探し訪ねた親しい日系の友人もいたのである。 として受けとめている自分に驚く。このことは、その後
のチリのプロジェクトなども含め、足かけ17・8年間、
にもかかわらず、おそらくは最後になるであろうボリヴ
JICA国際協力事業にかかわり、常々「国際化……、国際
ィア滞在を終えた今、「文化は女性が残す」という短篇を
理解……」などと口にすることはあっても、日本という
思い返し、私はなんとも落ち着かない胸の高鳴りを感じ
閉鎖的環境の中で知らず知らず身につけてしまった島国
ている。
古今東西、混血の歴史はどこの国にもあることだし、 根性が抜けきれていないことを物語っているのであろう
か。
そもそも中南米文化はいわば混血によって成り立ってき
(本学教授 理科教育講座)
た文化である。また、戦後、日本人の移民もあり、その
血はボリヴィアの地に同化し、すでに日本語を話さない
編 集 後 記
創刊の第1号には各方面からいろいろなご意見
を頂戴いたしました。皆様はいかがでしたでしょ
うか。宮城野高校の後藤さんから寄せられた感想
を紹介します。第2号の冒頭は本学と大韓民国・
大邱教育大学校との間でとりかわされた姉妹校提
携のお知らせです。本号特集は中国関係の交流記
事で、これまで長期間にわたり姉妹校として交流
実績のある中国・東北師範大学との共同研究の成
果については島森さんに、そして、先に中日学校
体育教学交流で出張した数見さんからはその報告
を、そして先頃、内モンゴルを訪れた西城さんに
はその紀行文を寄せていただきました。また、同
じく姉妹校の英国・エセックス大学への留学を終
えた二人の学生には帰国間もないところのホット
な寄稿をお願いしました。長い間、南米で国際協
力にかかわってこられた青木さんには当時を振り
返った思いを寄せていただきました。今、宮城の
山々は紅葉の真っ盛り、青空の下、太陽に照らし
出された山々の色あざやかさは見事なものです。
今日、蔵王山頂からは初冠雪の知らせ、冬将軍も
山々に待機中です。みなさま、風邪などを引かぬ
ようご自愛ください。
宮城教育大学
「国際交流ニュース」編集委員会
委 員 本郷隆盛、青木守弘、猪平真理、
島森哲男、武元英夫
本ニュースレターは、7月、10月、2月の年
3回発行します。
ご意見・ご要望は下記のところまでお寄せく
ださい。
宛 先 〒980-0845 仙台市青葉区荒巻字青葉
宮城教育大学 総務課総務係
TEL 022-214-3430
FAX 022-214-3309
環
(8)2001年11月26日発行
国
際
交
留学生と一緒
7月7日に実施された留学生ハイキングに参加しまし
た。留学生と一緒の旅行は、私にとっては実に16年ぶり
の楽しい出来事でした。まず、私が改めて驚いたことは、
留学生の皆さんが日本語がきちんと話せるということで
した。留学生といえば、英語で話すのが当たり前と思い
こんでいたこともあり、日本語を上手に操る本学の留学
生に感心し、新鮮な驚きを覚えました。
今回のハイキング
は奥松島が中心でし
たが、天候にも恵ま
れ、遊覧船で行った
美しい嵯峨渓、絶景
の松島から栗駒山や
蔵王連峰まで眺める
ことができた大高森
山頂、さらには奥松
嵯峨渓遊覧船で盛り上がる留学生たち
第 2 号
流
三
題
島縄文村、藤田喬平ガラス美術館などバラエティに富ん
だ内容でした。日本三景の一つである松島は、誰でも知
っている有名な場所ですが、今回の奥松島の旅は、彼ら
にとって日本の美意識や価値観、文化・習慣などについ
て知ることができる、思い出深い旅となったようでした。
短い時間ながら、日頃の大学生活から離れて、リラック
スした雰囲気の中で、目を輝かせて楽しんでいる留学生、
それを見守る指導教官や事務職員の姿を微笑ましく拝見
しているうちに、あっという間に時間が過ぎていきまし
た。留学生の一人一人の苦労話やいろいろな悩みなどに
ついて今回はなかなか聞くほどの時間もありませんでし
たが、自分の国を離れ仙台の地で暮らしている彼らの苦
労を思いつつ、これからも留学生と一緒にいる機会をつ
くって、彼らが少しでも心安らかな留学生活を送り、良
い思い出とともに帰国できるよう応援していきたいと思
います。次回は11月に蔵王方面の予定と聞いており、今
度は元留学生の妻や3人の子供たちを含め家族全員で参
加し、留学生交流を進めていきたいと思っています。
(大村浩志 本学会計課長)
日豪交流職員 マクドナルドさん来学
9月10日(月)午後、オーストラリア教育・訓練・青年省
と文部科学省の交流職員として来日しているリネット・マ
クドナルドさんが宮城教育大学を訪れました。横須賀学長
への表敬訪問では、大学交流協定を結んでいるセントラ
ル・クィーンズランド大学との交流等について話し合われ
ました。また、その後、本人の研究分野である日本におけ
る英語教育について、本学の板垣信哉教授及びクルックス
講師と意見交換が行われました。なお、文部科学省からは
大臣官房国際課企画調整室の植村事務官が同行しました。
(大村浩志)
第9回国際事情セミナー報告
前期授業修了間近の7月24日に上記セミナーが開催さ
れた。講師は本学研究員として来日中の中国東北師範大
学教育科学学院副院長の張明先生、題目は「現代中国の
特殊教育∼その現状と課題∼」であった。張明先生は教
育心理・特殊教育がご専門で、2001年4月東北師範大学
に設立された国家レベルの研究所「特殊教育研究所」の
充実発展をめざして研究活動をされている。
先生のお話の一部を紹介すれば、中国の2000年人口の
推算が12億、そのうち障害者が6500万人であり、特殊教
育の義務教育段階
(6∼14歳)の対象に
は750万人の盲、聾、
知的障害、肢体不自
由等の子ども達がい
る。このほとんどの
障害児は普通学校か、
普通学校に設置の特
殊学級で教育を受け
張明先生の講演会の風景
(写真は左から、吾妻副学長、植村事務官、マクドナルドさん、
横須賀学長、松本図書館長、筆者)
ており、盲学校などの特殊教育学校に在学する生徒は37
万1千人、(肢体不自由児と病弱児は普通教育で対応)と
いう。そしてこのところ盲、聾、知的障害児の平均総就
学率は60%であり、北京のような大都会が90%であるの
に対して、地方には0∼10%程度の所もある。中国の近
代の多難な歴史と文化大革命は特殊教育の発展をも大き
く妨げていたのだ。
しかし、1990年の「中華人民共和国障害児者保障法」
と1994年の「障害児者教育条例」によって障害児者が教
育を受ける権利が保障され、現在は「障害児者事業計画
網要2001∼2005年」にあって、急速な発展のただ中にあ
る。
こうした現状から、今後の課題にいたるお話は、中国の
特殊教育を担おうとされる張明先生の多大な熱意と真摯
な姿勢を感ずるものとなり、また、広大な隣国の大きな
進展のエネルギーを身近に触れるものともなった。折り
しも日本の特殊教育は大きな転換期を迎え、21世紀は統
合教育を推進する方向性が打ち出されている。私共も新
たな特殊教育の構築には、張明先生のような謙虚な心に
立ち返って努力をする必要があるのだろう。張明先生に
は今後ますますのご健闘とご活躍をお祈りしたいと思う。
(猪平真理 本学助教授 障害児教育講座)
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