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第五十四巻 - 法然上人鑽仰会

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第五十四巻 - 法然上人鑽仰会
恒骨格十年五月=+ 白戸製=
第五十四巻
一
穂
便性経司回毎月
月号
一一回一日発行
図
昭和三十四年四月二十八日《岸 省符別扱承総 am艶〉第三-一五号
町利一ハ十三 年 三 月 二 十 五 日 印 刷
昭和穴十三年 三月一
1988-3
三月の 秀 句
、ー
彼
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じ
れ
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会
解
水
fこ
を
活
る
燃
な
会
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議
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、.
り
j嵐
j忌
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終
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阪
り
な
り
郁J
も
春
休
大
み
香
炉
土
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展
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1
T
J
やI
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金
子
右
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JII~
)
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:
-- 月号
呈
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=
ー
=
i
是 r." もろもろの局、昼夜六時に、
和雅の声を出だす。
一一『阿弥陀経』
目
一一一一法
次
話一一一一
お彼岸に思う ……・ …….... .・ H ・.. …………… 一一土
屋
光
道…- ・ ・ (2)
本
宣
丈…… (9)
布
村
哲
哉・ ・・・・・ (14)
基相さまざま.. .・ H ・ .. …・…・………… ...・ H ・- 福
時
瑞
江・ ・・・・・ (20)
《彼岸会館怨》
「節目」のある人生を ……...・ H ・-…..,・ H ・.. 岡
言 仏教掌鰭 =
ひがんえ
一一お彼岸行きの電車一一
東西宗教の交差点 ( 2 )
{事) (藷)
道・瀬幸雄氏逝去… …… ….. . ・ H ・... …….... ・ H ・..…..……… ...・ H ・ . (27)
{木) (下) (鐙) (ー)(鎗) (鍍) (集)く 12>
海と山の狭間で
…...・ H ・..………木
隆
-・・くお〉
……寺内大
宮 …… (35)
一一唱歌と登窃(2)一一
下
。。長篇連破小説。。
立ち止まるな善導第45回
~ tまの駅路
帰絵松話番述文
小林治郎画
表紙絵
-
1
ー
岸
して
、
やがて桜前線も北上して来ます。
「娘、さ暑さも彼斥まで」と申します。
回
喜びです。
、
、
れる春のこの季節感は 何度味わっても何と
も云えない婚しさであり まさに生命の張る
長い寒気も去って、底い陽光に天地が包ま
I C.、
、
日本人の心性を形成し
、
文化
'つ
( 屋ゃ
大
ET 光 3
;
:
:
t
筋 4、常ど
、
最近は
、
冷暖房設備が整い
、
~J.己う
、
、
、
、
ハウ
生命への感動を喪失しようとしてい
、
ます。これは日本の精神文化にとって由々し
な怖感
の鋭敏な感覚を忘れ
急速に進んでいます。そこに私どもは 、次第
に季節に 鈍感になって、先祖が持ち合せたあ
ひいては自然への盛か
は数%に 激 減し
今や総人口中 専業農家
さわっていたのに
自燃を離れて都市集中化が
た 。つ
ス の野 菜が一年中食べられるようになりまし
い昔は国民の九O%以上が農耕にたず
しかし
を特色づけて来た大切な遺産です。
土之
館
彼
在のお彼岸を迎えました。彼岸桜を初めと
先祖の泣産
お
外国にないこの敏感な季節感覚こそは、何
年年何百年来
- 2-
|法|
その魂を託し
、
き問題です。もっと心して我々の先祖が四季
、
新しい怠味
、
共に守り伝えて来た
、
「春よ来い、 早く
ことすら許されない。暗くて寒い長い
夜中 に
何度も何度も目覚めては
、
春到来の甚びが
来い」とどんなにか待ちたびたことでし ょ う。
折々に
、
、
、
今日の我々は 明治六年以来、
って
、
そ れ以 前
は旧暦でした。それは太陰太陽暦 で あ
いわゆる太陽暦を使ってい ます が
ところで
国民的祭日の内容をよく理解し
、
この冬の我慢がきついだけ
即ち
を盛って更に子孫へと伝承して行かなければ
立春から春分へ
我々の先祖が春に寄せる心
、
一層大きかったに違いありません。
、
今日
、
ならな い と 思 い ま す 。
さて
、
月と太陽との両方を考え合せた暦を用 い て い
春の到来を喜ぶ気持は
、
春を待ちわび
生きてゆく者にと
たのです。
、
日常生活は月のみちかけの周期を一月とし
一年を大月ハ三十日〉と小月ハニト九日〉とに配
想像するより遥かに大きく深かった。それは
春の前の冬というものが
、
それは草木はもとよりあ
って まことに耐え難い季節だったからです。
、
三十三年で一年進んでしまうこと にな
、
年の始めは次第に季節より進
、
列した。ところが
それだと一年は三五四日
太陽年に比べると約十 一日短かくな
寒い 冬 の 厳 し さ
らゆる生物にとって生命の危機の季節です。
る。このため
、
るハイスラム該国ではこの太陰府な今日でも使m し
んで
、
隙 間から風雪が吹込む姻立小屋、和末な麻の
ています〉。そこで閏年をおいて調節するよう
になり
ポロで身体をくるみ〈引物は上減晶腕だけ、怖や
木綿は室町時代以凶にはなかったて飢えをしのぐ
食物も底をつく。病んでも医薬はおろか休む
- 3-
季節を正確
ι t..
u
冬~ ~!処
、J
、J
w
またグレゴリ
U
Lゅんぷ
六月(小嶋灯、E
人)川
八月〈白露、以分)
十月ハ立冬、小叶〉
十二月 ハ小去、大京〉
、
「立春」から
陪も冬至在年柏とし、太
l
を正月元立と・日めたのが、今日行われ
スともなり、この冬至を起点として一大地創造の七円
郎復活、不散の太陽の祭りがイエス誕生のクリスマ
、
〆・、〆町、
立.?, IJf~
"r{"古や
小21持品
満 2 分主
、J ん、J ん
n、すなわ
ている太臨併です J
月月
立春とは、 どこやら在の気配がただよいは
する今年は二月十八日)
立春が年始正月であったから、年賀に「到
また日照時間の最も長い日と短い
、
、
在」とか「初志のお鹿び」と迎存の辞を件付い
ず
ち「夏至」と「冬至」でありました。こうし
て考え出されたのが、中国で成立した「二十四
しい目
年経ってもずれることのない基準となるのが
ねでした
春がはじまり、それがまた年の始まりでもあ
ったことです。ハ決代以前は冬至が一陽来複の年
そこで何より大事なことは
日本にも早く伝わったのです。
gz 露6 秋
になったが、太陰月はやはり季節とはなれて
ゆく傾きがあり、暦日と気候のずれは、三十
、
日以上には わたらないにしても 、十日か ら二
しかし、農 耕民族にとっては
このずれは、
ひいては収穫に大きな支障とな
と らえることは重要であり
、
、
十日 ほどのずれが生ずるのです。
に
農耕や 播種
大Z4ι 立'とM
たのです。ハ川院では以泌を合む朔叫の胡を一苅川と
- 4-
ったのでみヲ。
至 .
主ー寸
、.〆、J
r‘、〆町、
〆『、〆角、
間の設の型
、
月月月J]
太陽の運行の中で一年中で昼と夜の長さの等
すなわち「春分」と「秩分」であり、
そこで 、自 然の季節にも合うし 、しかも何
れ十
は一九七五
節気」でした。
'avL-ap
4
正月ハ立省、雨水〉
・ぃ・・
ehv
三月〈約明、殻雨)
四二
、
、
いよいよこれを境いにして
じめる意味です。その前日が「節分」で冬の寒
さが下 り つ め て
、
あったのです。
、
今日「お目出とう」という挨拶を 誕生口
、
とか成人式や結婚式に相手に向ってたけ云い
立春を過ぎれば
臨気が上向きに転ずる日で
、
、
、
生かされて いる
と
段々とこの 一緒に天 地 に充
その感動の表白だったのです。最
地への感謝と讃嘆であり
、
、
l
いよいよ
存分と高揚す
危険な冬を脱した
正月
その存の盛りが存分で
この立存年始の再びが
まったのではないでしょうか。
、
、
Gl
、
新しい良明作業の始動の忙しさ
生命の根額たる太陽と先祖 を祈った。
、
瑞々しい生命の充実感
、
安培と感謝
の中に
、
ちて来た春気をことほぎ祝う気分が薄れてし
近のお正月には
いう実感
、
針生命をお互いに窓ぐまれた その天
この春の生命のよろこびを共に
お正月だけはお互いに云い合いまま
ますが
あ
春の到来を
、
受け
「余寒なおきびしい」伎であります。冬至年
、
立春年始は気温という暖気の転換点に
す。それは
、
始が日照時間という光りを基準にしたのに対
して
一年で一番寒い時に
春を求 め た と 云 え ま し ょ う 。
こ うした
、
喜んだのであります。しかしよく見れば
れほど固かった位・もふくらみ 新しい穿もは
や新しい生命の働きを開始している。そもそ
そして
確かなものになった
も「生 」 と い う 文 字 は 象 形 文 字 の 土 中 よ り 双
葉が芋生えた形です。わが国で誰もがお互 い
あります。そこに立
、
それこそ天地の「めぐみ(むとで
る一連の意識があった。
目玉が 山
に「お 日 出 と う 」 と 挨 拶 す る の は
るので は な く 天 地 自 然 に い つ し か み な ぎ る 蒋
気にうながされて発芽する「お芽出とう」の
、
意味で あ り ま す 。 そ の 芽 が ふ く ら む の が 「 め
ぐむ」で
- 5-
、
やがてお彼岸という仏教儀礼
そうした民俗、年間習俗の土壌の上に仏教の
種が定着して
の形で定着し伝承されたのです。
浄土教の流布
彼岸という言葉は、党 rz
のm
波羅蜜多
れ、先祖供養が営まれた。中でも有名たのは
、
春秩の
大阪四天王寺の彼岸会で、西門念仏と呼ばれ、
その西門か極楽の正東に対するから
、
平安末期には上息や
彼岸にこの間から溶日を拝すれば、必ずや極
楽に往生出来ると信じ
て念仏した。後白河上皇も毎年接政関白等を
公卿衆が陸続として集り、院や坊に宿をとっ
伴として詣でたことが『玉業』その他の日記
、
33 E S の音択で、凡夫が煩悩に袋持されて
に出ている。これは『間経』に説く「口想
きて
迷うこの汚れた点襲世界を此岸といい。生死
の海を越えて、-J
突消ふげの叶:一内の停に達する
悦」にも世 り、時パ一羽大師の『観品私』には
ゐ S
ことを到彼岸と .う
A。仏教の到彼岸には本来
吾 、秩分 には
「その日正束より出でて直面
、
季節はないが、我々の先祖はこの恭分の日と、
に没す、阿弥陀国は日投処に当りて真西に十
ー
ti
-
l
うだる よ う な ♂ 暑 か ら 爽 か な 涼 し い 秩 へ の 転
万憶測を趨過す」とある。阿弥陀仏の極楽の
念仏往生の結紋を得さ
、
、太陽が真東より昇って、真西に沈む中道
の時とも説く。ともかく、忘れてならないの
く
修行に最適な時節であり、昼夜の長さが等し
すという。また、この日はポからず特からず
、
換に当る枚分の日を選び、その前後三日づっ、
所在を衆生に示して
の行
計一週間を彼作会とし、咋ら仏事法更を営ん
n
各寺で早くから不断念仏や巡礼、巡拝が行わ
その起源に三諸説あるが、仏教行事として
算であ り ま す 。
だ。これはイントや中国にない日本独
,
odFa-
は
、
日本の浄土教の民間伝おに果した彼岸会
の役割はまことに大きかったことです。
、
仏教行事としての彼伴会
心回を耕す
、
特に春を迎えた喜び
、
生命への
段切民族としての我々の先祖
いずれにしても
、
の受け 皿 に は
の宗教 意 識
、
、
托鉢のために
、
、
鉢を
、
ある一人の婆羅門の仕
、
一日 朝はやく、世尊は 衣をつけ
とり
事場に趨かれた。丁度額まきの忙しい時で
かの境地門は、人々に食事を分配して いる折
、
、
排し
、
種まく
。
しかる
なんじも
、
種をま
であった。釈尊はその場にいたり その傍に
立った。それ見て、かの婆羅門は云った。
、
「沙門よ われらは自ら田を排し
、
簡をまいて
、
世尊は答えて云った。
、
き、しかる後に食する。沙門よ
、
、
、
、
、
し
かの婆羅門は
牛も引かず
、
、
、
しかる後に食するのである」
「婆羅門ょ われもまた
これに対して
後に食するがよい」
畏敬があって、その根元である太陽と祖先へ
この品作業開始あるいは収
また、自ら聞を井し
、
の感訓ぷ嘆の行事があったのであります。
我々の組先が
、
穫前のまことに一日とても暇の惜しい時に
わざわざ前後一週間を聖日とし、太陽を拝み
念仏を称えて往生極楽を発願
緋し積まいて
、
、
世噂は鋤も持たず
先祖を供養し
極め
だが
、
する彼学会を年中行事として伝承して来たこ
まことに素晴らしい智忠であり
かも排し種まくという窓味を
、
解することが出来なか
、
H
われもまた耕し
った。
とは
、
積まくれHというが わ れ らはいまだかつて
、
「沙門ょ なん じ は
て質の高い民族的文化遺産と云えましょう。
原始経典に『耕回』と題する著名な経があ
ります。
7-
四
なんじの耕す姿を見たことがない。なんじ
守
、
釈尊は古った。
の鈎はいずくにあるか。なんじの牛はどこ
にいるか」
、
信仰はわが 播く種である。智
かく 間 わ れ た 時
「婆F 門よ
、
行いて退くことなく
什践
今日の日本はまことに豊かになっ
、
、
も る
わたしの回におけろ除草である。精進
た意において悪業 をま
恵はわたしの耕す鋤である。身において、
、
口 において 、ま
は
はわが 牛 であって
し かくのごとく私は種をまいて
行いて悲しむことがない。かくのごとく私
は緋
、
の呆 を収挫するのである」
。
、
今、
e
、
農業も自由化を迫られ いよいよ減少傾
思う に
ル」
て
、
向にあります。何千年と培われて事た先祖の
伝承されて来た彼岸の行山市も形
心 は失われ
骸化しようとして います。
しかし
、
、
、
、
我が心田を耕して
精進に勤めて
、
、
、
よき収磁を果
よき信仰の仏種を播い て
荒 れ果てた
それを福田とし
怒業を除草し
さねばなりません。そしてその仏性を開発し
、
の彼岸に托 し た
物質文明はあっても
、
精神
彼岸会を仏教本来の意味
祖先の残した
、
、こ
仏種を成長させるには称名念仏の中に如来様
の無量光明と 無量寿生命のお育てによらな
、
ければなりません。
今と そ
願行を再生復活し
、
に新生させる好機ではないでしょうか。
今の日本には
、
、
誇 るべき先
まさに「耕す」ことです。今こそ菰の
文化はなきに等しい。文化 (カル チ ャー〉 の原
語は
荒田を福田に変える彼 岸 会にし
祖伝来の美風を伝承して行きたいもの です。
、
今もなお深い怠味を持っている
春彼岸菩提の種を播く日かな
この歌は
ようです。
、
- 8-
、
「
節
目 」の ある人生
人生にはいろいろな節目がある。その節目
を
、
、
元日
、
一
、
ホ業
、
就職
、
結
誕生日、今問がわりなどがある。
、
継続的なものとして
入学、進学
その後の人生 か大きく変ることさえ
いかに乗り切るか、いかに気持を切り換
るかで
ある。
一般 的 に は
、
婚などが挙げられるし
は
、
さらに個人的な節目を設け それを気持の切
すでにこの節目を三十五向
、
私の節目は存の彼岸
り換え時としている人もあると思う。
、
この観点からすると
である。そして
京
芸 本2
雇旦ん
躍韓交L 主
住
_ -- う
.
.
_
;
J.__ じ
院
~キー
望書
区
、
父達成は輪禍で
詮
、
、
父の死をどの
平生に反っ
、
志の彼岸を迎えた。母に手を引
の色か辺りに和まず
、
、
異様に映った。その 時、
mたばかりの父の基は土
かれ墓参した U 即.m
し
sz
た。そして
葬儀が終え、弔問の人か帰り
ように受けとめるべきか理解できなかった。
小学校の二年生であった訟は
不帰の人となった。 hHき逃げ事故であった。
脳内出血のため即死の状態であった。当時、
昭和 二十六年三月 十 四日
以上も経たことになる。
東 問主
母の鳴哨の戸が静寂を破った。そして
ー
9
-
-- 彼岸会 随 想--
を
、
、
教えて/」
「な ぜ 死 ん で し ま っ た の
、
ばよいのか
、
どう生きていけ
て
、
街には寧があふれている。まさに車なく
しては世を過ごせない時代となった。
いる。いわ φる交通戦争の犠牲者である 事
兄弟
、
実 昨年も一万人に近い人が輪禍で逝ってい
そのかげで、人生が芯転する人が増加して
大黒柱の
、
ように縫ったか覚えがない。ただ
、
悲嘆にくれる例
母の戸が聞えた。私がその場をどの
「本当に頼むわよ、皆で助け合って、残った
る。一瞬にして愛しの子の
、
という
者が互 い に が ん ば る し か な い ん だ か ら ね 」
姉妹の尊い命を奪い取られ
、
と、私を慰めつつ、自分自身にいい聞かせて
が日常ごととなってしまった。悲しむべき事
その対策に頭を痛めている。
、
いた母の青葉が、今も耳底に残っている。そ
、
態だ。
、
行政当局も
、
して 在の彼岸を迎えるたびに
その意味合
いが変ったり、増幅したりして、生きる支え
、
、
、
、
抜本
し、都心から三十五キロ余りであるが 交通
、
私自身も 毎日車の世話になっている。勤
務している大正大学崎玉校舎は 県南に位置
ものだ。
的な対策が立てられるよう期待したいJ
く。いずれにしても深刻な問題だけに
車がスムースに走
現状の嵐制する方式から
、
、
となっている。こうして苦の彼岸は、私にと
ショソの発達は目覚しいもの
れる方式へと、法改正に取り組んでいると聞
l
って性般を入れかえる節目となっている。
モータリゼ
、
セカンド
がある。より速く より快適にと 自動車各
メーカーは、次々と新型車を投入し、購売意
欲を くすぐっている。保有台数も
、
ヵーを購入する時代となり 大幅に増加し
・
AU
ついつい
在籍しているが、このうち約二割。学生がそ
、
事情が決して良くない。そのため
その数
の利用者である。とくに夏休み以後
、
車での 通 劫 と な っ て い る 。 往 復 三 時 間 余 り か
すでに六年間通っているが、オーナー
は急増する。休問中に免宝引を取得したため
、
かり
γ と な る。
だ。
lズ
機会あるごとに「あまりスピード を 出すな」
頭を痛めるシ
日々交通量は
、
、
この時期は
通い慣れた道路ではあるが
「運転技♀を過信するな」と 学生たちに芦
故がないが、この六年間で三人の学生が落命
をかけることにしている。幸い今年度は 大 事
、
刻々変化する。
、
、
異なるし
、
かなり巧判制されたように思えてなら
肉体的な疲労はあまり感じないが
、
している。いずれもオートバイで
・
、
ほかの二件は
、
電柱
スピ
ガ
出
ー ド
一年間に
、
ー ドの
対向車線のダンプカ ー に
一件は無
ない。事故は
理な追越しをして
、
、
、
所腐の吉川警察署に講師を依頼
このほか軽度の作故の報告も
、
、
、
交通指導教室一を関いにり 校内掲示で啓
毎年
、
のバラ ン ス を 失 な っ た と き に 起 る の で は な い
衝突したもの
、
精神両面
だろうか。よく「出合いがしら」といわれる
し過ぎからハントルをとられ
、
これとて注意力が散没になっているがた
多分こうした肉体
が
レールに激突したものである。
、
めの事故といえる。
二 三件はある。大学では事態を深刻に受け
、
一方では、性能の飛限的な向上に 運転技
量がついていけない面もある。凶川玉校舎では
とめ
、
その立地条件から学生の車やオートバイでの
し
疲労は
精神的な
いろいろな条件も
あろう 。
ドライ バ ー と し て 占 、 利 用 頻 度 が 多 い ほ う で
、
通学を認めている。現在、一年生七百余人が
-11 一
己れの運転技此に
いわれて久しいが、
、
議したりしている。要は
にあまくない。受験
、
就職
、
、
すべ
世間はそんな
升任等々
、
たいと願望している。しかし
だれでものんびり、マイペースの生活をし
なくされている。
人でも追い越せと、
、
合ったマナーを心がけることが要求されるの
若人は、スピード感がなによりも魅力
だが
らしい。
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」と
てがサパイパルゲiムである。競争に勝つこ
とこそが人生であるといった風潮さえある。
まさにそのとおり
である。日常よく経験することであるが
歌するどころか、くたびれ
h
るために生きていることになりかねない。
こうしたことから、中町.のサラリーマン庖
に悪市環である。
きないために、さらに状態が恋くなる。まさ
いる。これでは責任ある仕事ができない。で
や動作、庇脱感などさまざまな龍状を訴えて
、
耽々ねらっている。なかには強引に割り込ん
事故を起した例を多く
、
に中心に精神疾忠を訴える人が急増している
庇視
これでは人生を
、
余
儀一
生く
活な
をい
分な車間距離を保っていると、必ず割り込ま
いう交通捺語があったが
つけ
でくるのもある。あげくのはては急ブレーキ
、
十
たた
という。身体上は何ら支障がないのに 頭捕
れるの一台でも追いぬいてとぽかりに
、
き負
である。これでは接触や追突事故を起すこと
必歪である。現に無品運転のhh
かM
追いぬいて
いっ た の も つ か の 間
見ている。
人生にもえるならば、絶えず駆足の生活を
していることになる。世は競争社会であると
- 12-
息、他。
急人&
きに
、
、
競争の社会 それをあおるかのような情報
止で小休止できる。
人生でも同様だ。出来るたけ多くの節目を
設定し、その折々に心身を休める。リフν
、
する、仏道修行の期間である。彼の伴(人生
彼岸会は、いうまでもなく六波羅蜜を実践
来るからである。
ことによって、人生目標の修正 徴調整が出
目を気分転換、一新の機会とする。そうする
ッ
過多の社会 まことに立しい時代となった。
よほど上手に気分転換をしないことには、ス
シュして、つぎなる目標に立ち向う。節目節
、
心身をいかに鍛えるかが肝要であ
トレスが増すばかりである。それを乗り切る
ために は
る。
、
換言すれば 節目のある生活をいかにする
かということになる。それも、単なる通過点
とするのではなく、中味のあるものとする。
反省すべき点は大
、
日い〉を目指して、一歩一歩〈同日〉を 着実
、
つぎの ス テ ッ プ に 向 け て
地
に歩む期間である。決して駆足ではなく
、
、
この一年を深く反省し 心身
シュし、つぎなる目標
y
に立ち向いたいと考えている。
ともに充電、リフレ
迎たるに当り
私自身も、節目の中で最重要な春の彼岸を
、
いに反省する。つぎなる飛躍への足がかりと
道に歩むことが肝心であり、そうすることに
それでもドライバー、車とも信号停
よって目標が達成されることになる。
捕えることである。
、
、
青信号にな
赤信号になれば、ル
車社会でいえば 信号がまさに節目である。
どんなに急いでいても
、
目的地に向ってスタートとなる。近時
ールに則って停止する。そして
、
、
交通事情の悪化からか、やたらと信号が
、
れば
は
多いが
- 13-
お
車
ー
哲三
これからは自由に自分の云いた
と思っている。
いことを云いしたいことをして過せる
さあ
った。
をして勉強に打ち込みゃっと大学へ入
云われ通しだった。それでも何とか我慢
哉ゃ
(話)
ー l
村吉
一(直)
震
先生 から 毎日のように「勉強々々」と
布宮
(教)
l ン
γ に入れると家を出た。
しても親からえ句は云われない。まして
大学生になった竜 一はどんな格好を
ステレオをカハ
竜一はいつものようにヘットホ
一( 判 )
…
…
彼
一アルバイトをして買ったオーディオ器械
は完全に自分のものだ。
の
事宗親からも
「もう大学生なんたから 自分のするこ
14 ー
-
ん
の世界を作る必需品なのだから。
中学高校と大学受験までは
両親や
自
き
ヵt
…なぜならばこれらの道具こそ
…
…
fJ
え
岸
分
ひ、
一
よ」
ドかも
ドら無
ドな関
るみたい。
パリパリパリ
l
自分のやっていること
ガラガラガラ
ウワ
オートバイにまたがったライオンが
l
その上歩く道路はゴミの山。空ピソ
!
これ以上大きく聞けられないといった口
l ウワ
からお布施の話を聞いてお金がなくて
もほどこしはできるんだと云われた。
だから四、五日前にも学校へ行く途
中のパスの中でお年寄りに席をめずった。
でほえているようだ。
ウワ
でも「ありがとう」の言葉もない。せっ
l
…
…
一
一
「このベルの音が聞こえないのか」
ンをつけて歩道を歩いていると
あまりにもうるさいのでヘッドホー
扱をしたみたいだった。それからはな
だれからも邪魔されたくないのた。
空 カソ食べ残し。プラスチックを食
と自転ぶの人にどなられる。
…
このようにみんなが耳をふさいで白
いゃぶり中味を引き出して喰い合う犬や
自分だけの世界を作るようにしている。
るべくへッドホlンをつけて口をっぷり
…
分のことだけを考えているから他人の
一
一
一
かくほどこしをしてあげたにの何だか
ングの上でゴリラと椅子を投げ合ってい
巨人の国からきたプロレスラーが
。
とには自分で高任を持って行動しなさい
と云われているし自分でもそのつもり
でいる。
ぃ,む
l
一
…
この前お寺へ行ったとき和尚さん
一
一
ドわに
…
一
すこ
一
- 1
5-
リ
ドらと
…一一....._.一一………・一一…ー……一-一一一一一一一一一-一-…一一……
.
'
.
.
.
猫はまるで人間の臓物を食い千切る狼
のようだ。
植木の中はゴミ捨て場。無残な猫の死
んでい
疫病 のつづい
守をむいてにら
体も横たわっている。自動車にはねられ
る。
たのであろうか
これでは戦乱飢鈍
た庁の都大路と変らないではないか。
目をふさぎたいがふきいだら最後こ
っちが自動車にベシャソコにされる。
l
ンをつけてしまえばいい。い
こうなったら一刻も早く電車に乗って
ヘッドホ
l
ンをつけると目をつぶった。
ゆったりと座席に身をしずめ
ホ
ヘッド
慣れた手つきでスイッチを入れる。
やがて湧き出るような振動と共に苛
の披がヰから脳髄へ流れ込むと竜一の
気持がそれを待ち受けていたかの如くに
合流して身体中に、は透して行く。
電車はひたすらに車輸をきしませ
乗客もそのリズムに身をまかせている。
ドアが開閉するたびに幾つかの足音が
して周囲で立ったり座ったりする気配
はする。
せっかくの気分をこわしたくないし余
が決して目を明けようとしない屯一だ。
計なものを見たくない。見れば自分だけ
やな音を聞くこともいやなものを見る
こともな
の世界が消滅してしまうから無理をし
。
竜一は幸い座ることができた。
「さあこれから一人だけの世界になれ
てでも目をつぶる。
い
るぞ」
- 1
6-
ly
と連続音をたてて電車は
まわりに誰もいなくなったようだ。
ゴーッゴ
トンネルへ入った。
コロコロコロカラカラカラ
妙な音がする。床でしているようだ。
それはあっちへころがりこっちへと
ろがっている一個の空カンらしい。その
虚しくさびしげな智きはまるで妖怪の
笑い声だ。
時い車内のあちこちでがラス玉のよ
と光るものがある。時々
y
その中でひときわ大きい目玉が白
オ
ly
。」
たすけテ
10」
いはーをむき出して抱一の喉へとびかかっ
l
てきた。
「ギャ
「だれか l
竜一は声にならない叫びをあげて目
をあける。
電車は長いトンネルをぬけて明るい
ウフウフウフウフ。」
光の中へ出た。
「ウウウウ
マシュマロのようなやわらかいその戸
はどこかで聞いたことのあるような
うにキラリ
それらは屯一の方をそっとうかがうよう
速い昔の竜一の声に似ている。
にあびた菜の花品が車窓を流れてゆく。
車内は眠くなるようにのどかで空
気は黄金に染まっている。
外は一面の黄色だ。春の日をいっぱい
にまばたく。
しばらくするとひとつひとつのガラ
ス玉が竜一に近ずきやがて取りかこま
れた。それはするどい猫の目だった。
ゴロゴロとのどを鳴している。
一げー
まぶしいその光の中に座っているのは
っかりと慈しみの糸で結ぼれているから
素早い親の動作だ。日には見えないがし
よく見ると空カンと猫だちだ。
ちらへ向って一生懸命におじぎをしてい
るものがある。
か。そのかわり車両のすみの席からこ
い。気がつかない内に下車したのだろう
いつの間にかさっきの親子の姿はな
た。大きく目を開いて車内を見渡す。
はしなかった。ヰをふさごうとしなかっ
む一はもうふたたび目みつぶろうと
て走りつづける。
電車は相変らず子供の笑い声を乗せ
「ウフウフウフウフ。」
竜一は自分を忘れて見つめている。
だろう。
自の簡の席にいる親子ずれと屯一だけ。
ガラソとしてだれもいない。
「ウウウウウフウフウフウフ。」
父親と母親のあいだにちょこんと座
っている子が声をたてて笑った。そのた
びに父親の指か子供の首すじをくすぐる。
「ウフウフウフウフ。」
戸にあわせて母親がほほずりをする。
屯一も一緒に裕けこんでしまうあた
たかい吠界だ。
「あぶないつ/・
。」
トから落ちそうになっ
l
竜一がおもわず声を出しそうになった
のは子供がシ
たからだ。
一瞬のことながらそれよりも早く父
親と母親の手が伸びている。そのなんと
- 18-
竜一が言葉をかけると空カンや猫か
「なんだ君たちも乗っていたのか」
「よろしくお願いします。」
「じゃあ何が必要なんですか」
「この事舗は『喜 んで与えよう車』です
から他人のためになることを喜んですれ
ばいいのです。それでいいのです。そう
すれば自然にうれしいお彼岸に着きます。
あとの車輔は『喜んできまりを守ろ
う草』と『喜んでがまんしよう車』と
『喜んで努力しよう車』『喜んで考えよ
という照れ臭そうな答えが返ってきた。
んだ。
う車』そして『心の喜びを得ょう車』
きた車掌が帽子をとり大きな声でさけ
戸が聞いてニコニコしながら入って
「毎度ご乗車ありがとうございます。
です。どの車輔に乗り換えてもかまいま
学校の帰りの電車の中で何気なく席
をゆずっている竜一を見た人がいたかも
ぶり直して出て行った。
車掌は竜一に侠拶すると相子をか
せんからどうぞ喜んでおつとめください。
この電車は六輔編成でお彼岸まで行ぎま
す。」
竜一がどぎまぎしながらたずねた。
「ぼくお彼岸までの切符を持っていない
んですが。」
「この電車は切符もお金もいりませ
しれない。〈おわり〉
車掌は首を横にふりながら云った。
ん。」
値
一
一
…
…
伽
ん
一
一
…
…
- 1
9-
ら
差点
宇品
方もご存知と思う が 、私 たち倒信徒にとって
ところで、私たちが親しみをこめてお客り
する一家の惑の形は、普通は台石のよに石塔
、
、
俗に土飽頭と呼ばれる皇族
、
の立てられたものが一番多いようだ。もちろ
ん 内くは武家の芸のように 、地 水火風空の
五大を型どった五輪塔や 土を堆く積んだ塚
の形そのままの
や諸大名の 奥つ誠、 また僧侶の基石に多い卵
20 一
-
x
欠かせないのは、 お彼岸の墓参である。束ぷ
j工え
ま
辺りでは、「何 を考えていますか」という花
、
瑞を
の
言葉の彼岸桜も、そろそろ岱が綻びかけて
。
嶋主
デ守
さ
吹く風は少々肌寒くても、もう気持はすっか
り春である
f長マ
宮小
墓相
教
(
2
)
一一 一 月 は 春 の 彼 岸 月 、 こ の 由 来 に つ い て は 誕
ぎ
西
、
総本山知恩院 ・法然上人御刷
世にお僧として仰がれる方々は、
塔も見 ら れ る 。
さらに
11
| |
その代表的なものであ
る法
特別に社殿を構えた御廟が建立される知
。恩
、
院の奥深く、労至立の一米のU上に仰がれ
然上人の御刷は
本瓦葺きの荘厳
るう。ここに、上人のご遺骸が奉安され
、
怠たちにロ品念仏関祖のご遺徳
ているのだ。宝形造り
、
、
さわしく
また
、
、
わが問オベラ界の
世耕的なプリマトンナであっ
μ々の形をしている。
高野山の奥の院には
最近では企業の PR
も かねた
テレビド
、
ロケッ トや、
数々の有名な供養塔が建てられているが
ラマでお馴染の武田信玄をはじめとして
、
た三揃環 K 史の場合は、その当り役にふ
草分けで
であろうか。例えば
にさえなってきた。これも西欧化の一端
一般庶民の聞でも多種多様自由に装飾的
こうした基の形や建て方も 、近年で は
を末長く 偲 ばせて下さっている。
な件は
,
の,
u
死者を葬り
の合わさったもので
、
ベアリングを型どった従業只の慰2m も見受
基という英語の
の ggug からラテソ語の
ssg
ピラミ
、
、
、
フ-フ
上で倣つ
gg q
、
いろ
日本でも 品 碑の形や相がさまざまな
21ロッバにもその形体には
ま
墓碑を示ずが
zsg は
と変化して
ンス語の gsz-gszzも、語源はギリシ語
、
たところという意味である。
、
面向いことに
けられる。これも世相の変造の証だろうか。
このように死者 を葬り、その遺徳を顕彰す
るのは
、
古代エジプトのヒラミ vドをはじめ
イソドでは、すばらしい仏舎利塔が
として
。
、
各地で訪れる人 びとを圧倒している
ように
さて
り「塚」のことである。
元来の語源学的な意味では 、小 さな丘 、つ
は墓石
できたものだ。とくにフラソス語の
まことに言い得て妙というほ
52ZE
墓穴を指し、
、
ッドは四角錐形の塔のことで、これを金字塔
、。
と称す る の は
tE
4MMMH刈
φ BV
、
党問弘H山
余談は抜きにして、 そもそも釈尊のご遺骨
を奉安し荘 厳する仏舎利格の可とは
,ハ2
ハ03〉を昭品川源
、
っても立
いろと変わったものが多い。もともと大理府
Y トのストゥl
んなところだから、それらは俗と
、
、
、
死後
人聞は死後
髭魂は肉体から離れ 、大方 は天国へと昇天す
の復活を信じている。つまり
キリスト教下にあるヨーロッパ人は
派な芸術作品になっているものすらある。
J
サンスクリ
この「山携が
私たちが供養
、
のような良い古村に.極まれて 石像彫刻の盛
包廟などと訳されるが
・
、
としている。「高くぷわ札る」の怠で、カ股
円塚
・
一番身近に使われているのは
として唱の後ろに立てる学研誌であろう。
それなら程の方ばどういうことか、この漢
字の起源はヰうという字の語源「莫」と「土」
、
- 22-
の眠る、通称
るのは、フラソスの詩人ポール
・
ヴァレリ
!
こうした基地で、私の印説に一番残ってい
復活し、またその笠魂と結ぼれるとされてい
るだろう。しかし肉体は、世の終わりに再び
る。そのために土葬である。したがって墓石
南フランスの地中海泊いのセ
H
さな町にある。詩人はこの小さいが活気のあ
トクという小
をた、日本に比べて墓参りをするものが少
る漁港に生まれ、死後もここを安住の地に選
l
海辺の基地内である。そこは
も長方形をしているのが一般だ。
ないと思われがちだが、教会の裏庭にある墓
った
、
シュー
って
一一一郎駅〉
、
」ハ向井
!
真夏の陽光のもとに円く鋭く光る海
、
、
限下に地中海を見下す小高い丘の基地に立
E
海は限るわが唱々を守って
にわななき:::そのほとり忠実な
「あまたの大理石はあまたの亡箆の上
、とく
んだのだ。そして数々の名作のなかで
毎週日曜日にミサにあずか
地などで は
に珠玉の一篇として名高い『浜辺の墓
地』と
、
帰りに 、 そ れ ぞ れ の 家 族 が 訪 れ る か ら 、 ど こ
題された長詩の中で次のように轟っている。
またベートーヴェン
ヌ
の家の基も競ってきれいな花で飾られてい
九wo
基地と言えば、寓話作家のラフすンテl
や詩人 の ミ ュ ッ セ 、 美 し い ピ ア ノ 曲 を 数 多 く
、
残したショパンなどの眠るパリのベ!ルラシ
lズ基地や
ェ
ベルト と い っ た 大 作 曲 家 の 必 で 有 名 な ウ ィ ー
詩人は
、
遠とを文学に凝集させたのだ。詩人の基は
これで見事な若想を得て、時間と 永
い。まさにそニュメンタルな場所で、日本か
何のてらいもないごく普通の基で、基石の抑制
ンの中央基地などは、公園基地の名に恥じな
らの観光客で賑わうところだ。
23 ー
-
、
、
これらの見事な大理石像は
、
突
との彫像に関して岩被告店発行
も 曾う
かつリアルに彫り起こされていて
一見して驚脱おくあたわざるuとで
たまたま
ほかはないものだ。
H
、
という意味から〔墓石の上の〕横臥像と訳さ
モンプラン廻りをしたときのこ
に微細に
に細い彫線で FEa 〈曲目bミと刻まれているの
H の仰のと
れているが
H
所
変われば品変わる
、
イタリーに行くとこの良相は一変する。
、
がゆか し か っ た 。
、
しかし
おり
かつて私が
とだ。 ス イ ス 、 フ ラ ン ス の 国 境 に 近 い ア オ ス
授が、専門の解制学の見地から非常
への意志」と題して、東京大学の養老菰司教
の雑誌『図書』の本年 一月号に 「骨と基と生
ちょうど家の 形をした基を見たことがあ
い一文を寄せられている。
タという町を パスで通過したところ 、そこで
これはイタリー独特のもの だそうで 、大きい
もちろんこうした
る。
ものなら二位敷はあろ うか 丈もかなり蒔く
三角に尖った屋風がのっ ていた。い かにも 家
前にも述べたように
、
、
、
フランスの
トコンプの大修道院
私にまた別れの感慨を
l
復活を信じるキリスト
、
彫像をい仙の上に飾るのは
に興味深
族思いのイタリー人らしく、死後も家の形そ
教の教義によるものだ。しかし
で出会ったジザンは
サヴォワ地方にあるオ
は、死ん だ姿をそのまま 彫 刻して石 棺 の上に
h に、細長く広かるプルジェ湖畔に、ひっ そ
それはフランスと言ってもアルプス山脈の
味わわせた。
ところで、 ヨーロッパの貴人や高僧の基に
、
のものが墓所になる のだろう。
、
置くものが多 い。おそらく 宅 に納めた姿をう
Z58 ロC と呼んでいる。横たわった
つしたものに違い ない。これをフランス語で
ジザン
24 ー
-
りと
、しか も堂々と建てられたベネディクト
して聖堂に眠っていた。
なかでも、ひときわ私の目を引きつけたの
まだ幼少の身でこの世を去った王子のも
、
王子も天使も汚点
これほど美しくも
なおも現世に引きとめておき
悲願の象徴のようにも
、
スペインのグラナダの大
さ
、
は
、
会の古い修道院の中である。かつてこの地方
の領主で、フランス王家の一族でもあったサ
こよなく美しいその桜姿
、
一つない純白の大理石で、とくに両手を合わ
せて 祈る清純な顔かたち
表れを誘う墓石は、他に類がないであろう。
しかし、それはこの王子の復活を願うよりも
、
天折の王子を傷む気持が余り に強くて、この
姿そのままに
、
ないと願う人びとの
見えたのである。
これにひきかえ
、
聖堂に横たえられたアラゴン王フェルナンド
とカスティラの女王イザベルのジザンは
すがにスペイン統一の偉業をなしとげた英雄
だけあって、壮観というより豪快な趣きがあ
25 ー
-
のであった。四人の天使に高々と支えられた
女王イザベルの墓所一一
ヴォワ公一門の人 び とが、 美しい横臥像と 化
一一一久へイ γ主フェルナンドと
まだ中は空だと説明されても 、何だか実感が
ラブ人に占領されていたス ペイソを 、回数か
カタコンブの初期キリスト教。教者の墓 所の
思うに、これはロlマ郊外の地下に広がる
湧かなかった。
ら開放し、一四六九年の結前によってカトリ
形を豪単純欄にしたとでも評したらよいのだ
、
ックの王国を打ち立て 今日のスベイソ玉問
カタコソプのような本当の暮らし
見てきた ものの 、今ここでしみじみと心にひ
人間の終着の形として、いろいろな基相を
、
びととそ
このジザソの真下に、つ
遺骸を納めた棺は
こ
い基に眠るのかも知れない。
、
まり地下の聖所に、その象訟である王冠とと
スペインであつながら
ι刻など一切飾らない、打って変わ
びくのは、法然さまのお言葉である。
伶大な師仰の往生の近いことを感じた弟子
のような
留
った基・もある。それは落というより遺体安
、
、
これも後のスペ
そのうちの一つは婦人用で
上下回段に金で装飾された的が納
、
た。
跡である。」
(つづく)
「念仏を修するところは、すべてわが遺
場所を尋ねると、上人は次のように答えられ
信空は、法然上人に、上人の遺跡となるべき
リアル宮殿のなかで
壁に四列
イソ主家の墓所であった。やや円形をなした
エスコ
ように棺を棚に収めたものだ。私が見たのは
所とでも呼びたいような、棚に行季でも置く
ところで、同じ
もに安置されているという。
、
ろうか。しかし無名の、強い信仰に 殉 じた人
、
の基礎 を 築 い た の だ 。 ま た 、 こ の 主 と 女 王 の
この 二 人 は 、 そ れ ま で 国 土 の ほ と ん ど を ア
。
められ て い た が
26 ー
-
る
「
」
FJi
2E
.2SEiz--ZE--SEiz--i!-E
制)
一(
…
…「 引
・I
-iTSEiz--i-;isissi--E
・
道瀬幸雄氏逝
|『浄土』誌の編集長とし
ら親しまれた道瀬幸準氏がこの二月九日一
去
て活躍
i
、
野正服、中村弁康両師の教化を受け 折
・
…
(四 一六修作)で逮捕される。転向後は真
一戦前の『誌
浄編
土集
』長として読者か一
m
一うされた。…
は愛されて 長男にもその一字をもらい
下に
わる。ことに刷上寺法主大島徹水 AH
か舟
ら創を
刊し
た…
『伶土』ょの稿集にたずさ
…〈火)に逝去された。八十三歳の天
全
…道順氏は僧侶ではなかった。早稲田実
「微」沢と命名していのであるハ城在、一
女たちから恭われ幸福な半生を送った。
、
戦後は横浜で英語塾をひらき 若い男
、
叩業では野球選手として甲子園に出場して
後に首相となった三木武夫氏らと…
担建築土〉。
、
一いる。そのあと明治大学へ進み 、野球を…
…離れ
、
、
いずれもジャーナ
彼は左翼政治運動へ没頭してゆく次。
男…
幸太君は小学館、長女一美さんは週
…弁論部で活践する。三木氏が渡米したこ
一ろ
刊主『平凡』勤務と
、昭和四年の四月第三次共産党大検挙… リストで父業を継いでいる。
回無産者新聞の締集にたずさわっていた
一が
- 27-
is
l
i--iiji!
で
、
それも完全な訳詞ではなかった。外国語に犠能な人も少なかった
、
「段々」にしたところで 母国スベイソを離れると、トイツではトイツで、アメリカ
けた物から入ったが
、
、
ことだから許されたのであろうが、むしろ音符も何も知らなかった国文学者や歌人が 西
洋の楽曲を足踏みオルガンや手風琴のような楽器を何度も何度も繰り返し弾いてもらっ
- 28-
i
ち
l
間
ー
一一・ L 、
狭
…U
一
昨
引位
日
い…
一um仙一日…
隆?
の
-m 歌と蛍稲 (2)|
下主
山
ではアメリカで、それぞれ勝手な歌詞をつけて歌っていたのだから、原曲に即した訳詞と
いうのは不可能に近かったに違いない。者作権法という制度が確立していなかった時代の
し
木2
と
日本の明歌の成立については、前号で軽く触れた。初めは外国の旋律に独自の歌詞をつ
海
て、耳から覚えて歌詞をつけていったのであるから、全く原曲とは異なった駄が出来上っ
たとしても、その努力は賞設に価する。戦後、同じような現象が音楽界に起こっている。
敵性音楽だったジ十スを鑑頭に、外国曲が占領軍と共にとっと流れ込んできたが、未知
物を貧袈に疲収した明治初期と、抑圧されていたものから解放された昭和二十年の時点で
は、環境も状態も全く異なっている。にも拘わらず、受け入れる側はといえば、奈良時代
から異文化を迎え入れ、それを自家薬館中の物にしてきた新し物好きの精神はいささかの
衰えも見せず、いまだに新しいリズムの政収に扱々としているのである。あれからもう半
世紀近く経っているのに、なぜ日本独特のリズムや旋律を持った唱歌や童謡が生まれない
のか、私は不思議でならない。
O
・ルソ i作曲、柴
田情旭川・稲以千穎作詞。「蛍の光」ハ原名〉CEF
ω苫
ぬg
、加部厳
一-Fのdれ且)|ドイツ民滞
、
伺)
0 ωcgg
里見装作詞。「庭の千草」〈原名吋ZC え MN80『
市町一反の経伝のハラ』
アイルラン
i〉
.J『d
ド民謡、里見義作詞。「故郷の空」〈原名 nog-2H
事初完〉 l スコットラ γド民溝、大
OC
和田建樹作詞。「あはれの少女」ハh名
m 。 53 安帥白昨日目
030 『故郷の人々巳l フォスター作
|スコット作曲、作詞者米洋。「船子」〈阪名目 N0〈4て OC『∞ O白骨『紛J
をげよ』〉|ライト作曲、
失作詞。「仰げば尊し」|スコットランド民品、作品者未
。ハ
「ぽ名〉コ己E申E
2詳
女」
久しき tHh)ス
lコットランド民
稿 、作詞者来詩。 「沼か虫か」〈仮名 回付与さロ官官E23
pa て‘.‘.かい
「見渡せば」 QHm
んで同いての方がよく知られている)|ジヤン・ジヤック
それはさておき、明治時代明歌に採用された外国曲を拾ってみると、「蛾々」の他に、
29 ー
-
『主
人は冷たき土の下にち l フォス
ω毛足仲田 og 伸 『楽
しき我が家 』〉|ピショ
ロ 8585905a
、師
曲、大紀田建樹作詞。「旅泊」〈勝添え作詞『灯
h台
の守
方が知られている)|イギリス民
大
s.和田建樹作凋。「春風」〈原点引s宮
ター作曲、加藤議消作詞。「航生の宿」 (原名 Zogタ
PEg- 異色白
og 開 ga
宮之宮市司〉|オ
I ドウェイ
ッフ作曲 、里見義作 詞。「秋のあはれ」(讃美歌((日本では二九一餐))『主に任せよl
汝が身をち
、
鳥居悦作詞。「旅愁」ハ原名
いんど‘,eゅ,けい
マラン作曲
、
、
作曲、犬童球漢作詞。「故郷の廃家」ハ原名宮a
司g 「 OE22 ミ国 080〉|へイス作曲 犬童
球渓作詞。「野なかの藤被」(原詩ゲi。
テシュ ーベルト作曲の幽も著名〉l グェルナ I作曲 近
藤朔風訳詞。「美し夢
ーベルトの子守唄』 の方が
」 ハ原名巧広宮巴包 『子守唄』内藤沼訳詞の『シュ
震唱された〉l シューベルト作曲
。
、
「夜」〈歌ゐ広鮮の射手』より〉 |ウエlパ!作曲 、与 謝
詩原
FOH巴
aはハイネの作〉
近藤朔風訳詞。「ロ!レライ」〈
|ジルヘル作曲、近藤朔風訳詞
ドイツ民品、吉丸一ハ作詞
0
・:
・
コソグァ!ス作曲
、
杉谷代水作詞。「故郷を離
nでは
野晶子作詞。「七里ケ浜哀歌」|ガ 1 トソ作曲、三角錫子作詞。 「星の界」(讃英(
歌(本
l
=ここを二.いつくしみ探き友なるイエ九へ bl
るる歌」
などがあるが、いまなお歌い継がれている歌も少なくない。一番新しい「般郷を離るる
歌」でさえ 、七十 五年以上の命脈を保っているのだから大したものである。日本人好みの
J
クな 4
刊をメロヲィヲクに変えてし支った物もある)
哀調を帯ひた旋律ハ「故郷の空」のようにリヂミ
、
半ば意味が分からないにも拘わらず、ロ遊んでいるうちに分かったような気にな
ず
鳥風月をモチーフにした文語体の美文調の詞がなぜか心地よ
、く
私事を 言わせても
と 、花
らえば
-30-
ぴタ宿おの
~ま
十ヱヵ~
ぬぬ
夏は来ぬ
、
しのき
苗回音b 根
、
佐 々木信網作詞
小山作 之 助
、
その後次々と
、
31 ー
の烏t
豆 女‘豆
夏は来ぬ
来来
ぬ
ぐふ
玉山忍主垣
早交月のこ窓
苗ひ涼 r ,~た近
て注て匂
花関芦るび燕
咲
し川交る
き蛍て辺ひ軒
て飛の端
植にもに
うら
る賎与 す時2
植
し遠りく
ゑ水きく諜
わ鶏
む
た暗夏
る
すきは
来
-
って歌っていたような気がする。これは何も外国曲に限ったことで は なく
の月 ミ鶏な ち'飛の
、
の歌詞を見ても 習った頃は分らないことだらけだった。卯の花も時鳥も練も水鶏も、
なぜ賛が怠りを諒めるのか:::。間もなく、棟が栴慢の古名であることや、蛍が「蛍の光
卯五:水4 棟3 蛍橋
裳さ早卯
裾みもの
ぬだ来花
られ暗の
作り出された純国産の唱歌にも言えることである。例えば
作曲の「夏は来ぬ」、いまもよく歌われている歌だが、
四
五
、
、
所詮は空想の産物に過きず、とても他人様の鑑賞に堪え得るような
窓の雪:::」の蛍であることは理解できたが、卯の花と時鳥は概念としては分かっている
いまだに私は実物を知らない。従って舟の花や時鳥の俳句を作れと言われれば作
ものの
れないことはないが
句ができるはずはないのである。水鶏に歪つては 、姿 も暗き声も想像の埼外である。この
、
中学校の教科書は文部省出版の物と
・
、
民間で出
すでに差別用語という意識が豚胎し
歌を教わったのは何年生の時だったか覚えていないが、二番の賎の女は早乙女に改められ
、
小
ていたように思う。いつ改められたのか知らないが
ていたのであろうか。
明治五年に学制が頒布されてから
、
、
その御用掛を涼任し
、
アメリカ留学中師事したポスト γの音楽家メ!ソンを
園唱歌集」〈明・却〉の四冊であった。
稚
編〉
」「
ハ幼明
唱歌集初編」ハ明 -M〉「小学明歌集第二編」ハ明・日〉「小学唱歌集第三・口
、
招刑判して 音楽教師の養成と唱歌教材集の紺集に当たらせた。こうしてできたのが「小学
在職のまま
明治十二年、文部省音楽取調掛が伊沢修二の献言が設置され、伊沢は東京師範学校校長
教材であった。
とされた後も
年小学校令が公布されて「第十三条小学校ノ教科苔ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ル」
V 退)が出版されるまでは唯一の
m建樹 ・奥 M立
二十一年「明治明歌集」ハ大利
、
版されて文部省が適当と認めた物の中から、地方長官が任意に選べるようになっていたが
唱歌教育の教材は文部省管楽取調掛が編集した官版の「小学唱歌集」があるだ、
け十で九
32 ー
-
音楽取調掛には
、
宮内省雅学貨の上真行
、
ヒ
、
・ ミ
奥好義等が助教として入ってい た ので
、
・ ヨ
・イ
・ム
・ナ
、
ド
・ レ
ヒで表していたが
・
いや出発であったと時伺える。当時
・ フ
これは当然の帰結
ドの音階を
・
、
、
、
、
これ
・ ファ
って侮
雅学律に
、
と言
和声の普及 を阻んだのは事実である。私の子供の頃
、
・ ミ
らの集中には雅楽律旋法によって作曲された物ハ例えば郷三制の「四季の月」{{作詞者未詳))〉
も何山か収められている。伊沢の音楽理念は「東西二洋の音楽を折衷して新曲
るを
作」
こと
・シ
であったから
・ ソ・ラ
、
確かに和音
は第四音のヨ ハフよと第七管のナ〈シ〉が無く 後世これを「ナヨ抜き音階」
蔑的に提えているが
、
、
は 合唱と言っても総べて斉唱で 三部合唱 や四部合唱、輪唱などと言ったしゃれた唱法
は教えてもらえなかった。音楽教師が未熟だったことにもよるが 「ヨナ抜き音階」が影
響していたことは苔めない。
、
、
ホトトギス派の学生文や自然主義派の小 説に至って四十年前後には定着
、
「言文一致論」 砕いて苫えば話言葉で文指を由く
つまり現在の 口議文であるが 、明 治
十七年に国語学者物集高見が提明し、小説では山田美妙、二葉苧四迷、尾崎紅葉等が実践
して先鞭をつけ
、
した 。文語体で書く文章は 上 品で 、口 語体の文章は下品という先入観が 言文 一致を遅ら
彼は文学者の大和田建樹
、
、
佐々木信網
、
-』
e-
せたのである。唱歌の世界でも同じ考え方の人々が現れた。東京高等師範学校の教官だっ
-SSEn
厳谷小波、石 原和三
た田村庇蔵がその提唱者で
の感情に合った唱歌をという主張を貫いた。
郎、学習院教官の音楽家納所弁次郎等と結んで言文一致唱歌を創作し、子供の言葉で子供
3
3-
…
0 『
浄土 』表紙版画絵販売についてのご案内
うか
、
、
『浄土h誌の充実と継続のために 会員諸兄の皆さまの暖かいご支援とご高配を心よりお願い申し
『浄土』一一一月号をここにお届けいたします@
…ど
げます。
『浄土』表紙絵
よりはずっと大きく、約却価×羽田位の大きさですが
、
額縁の大きさ
…
、季節感に溢れた芸術味豊かな版画後一物が購入できるわけです。どう
OOO円というお求めやすいお値段で
、
、め
金て
二
のご好意を得て 豪華額縁に装丁して販売させていただいております。また木製の高級額縁代も含
小林先生
好評の『浄土』詑表紙版画絵は 再び格調高い小林治郎先生の作品を頂酷似することになりまし。た
、
一上
…
一五
、
ぞ娠容にてど注文願えれば掌いです。…
大きさの方は
で いえば却価 X卸価程の大変豪継な一相となります。…
…また 、
…
し現在のところ
、
l
、
一一lハ…
i
八一二八七
昨年度並びに一昨年度の紙術作子先生の版画絵も 正月号から十二月号までの在雌も充分に
ありますので、ふるってご注文願えれば率いです。
ハ
申し込み先 V 一寸
山東京都千代田区飯図矯一
法然上人鎖仰会振替ハ東京〉八
…
…なお限定以売のため、予定数に述しましたら、中し沢ありませんが
-34-
*************************セセセセセセセ
縁
の
、
いっこうにこたえなかった。
に明け暮れた。じきにきびしい寒気が襲って
きたが
この寒気が病身の議議和上へふりそそぐさ
、
おのれ一身の蹴どえなぞは問
まを思いえがいた。それをいささかでも防げ
るのであれば
題にならなかった。
、
白分は若くて能成なのだ と氷 m
訟をふくん
板や背中を防墜にして
、
と自覚することで
治同滋和上の病んだ身
、
、
だ裂風へ川町びかえしてやりたかった。この胸
をお守りしているのだ
熱い血気が体内を同流した。念仏をとなえる
35 ー
-
く 45)
-勾
7人令
路
…十…
駅
終南山の倍真寺で王徐明は臼がな念仏三昧
親
***な****************合会**********
戸にハリがこめられた。
H
夢魔 H であっ
ただ伎が恐ろしかった。独り作しの防以守
が、ではない。恐ろしいのは
書湧から授けられた中夜、後夜の往生礼讃
た。
「日中、日没、小夜とあれほど阿弥陀さまだ
ねた
けを芥がんできましたのに、かんじんの拶寝
「いつぞやもそんなことをぷっていました
にはさっぱり現れてくれませんか」
ね」
阿弥陀仏にくり返し礼拝を
「お山へゆけば変るものと期待していました
、
を朗々と唱訊し
のに、夢はいよいよ怒くなってまいります」
、
やったあと 結臨朕坐したまま安らかな念仏
ft
徐州引の拶には向ら
。
仏さまよりは」
「史生は、よほど人聞が好きなんでしょう。
-iv
、
藤滋は、しかし深く取り上げる綴子もな
とともに眠りへはいる。
そこまでは文句のつけどころがない。眠っ
。
〈、
B
、
たあとである砂の陀芥へはいりこんでゆ
以前もそうだったが
以前にもましてそ
「仏よりも人聞が好き::::・」
、
な場而が多かった。いや
、
いつも不快な劫防状加で
、
「位以の底で人間をMW
いているからこそがに
ざめは
一
怯剖
人間の内容が問魁ど。あの別天武后のよう
戻った
主徐切はこの J漉を反抑制しながら終市山へ
「仏よりも人間が好き・:・・・・・・」
りませんか」
現れてくるのです。それはそれで良いではあ
の淫らさが思どくなっている。世世間で
弘山
n
感がいっそう鮮明である。
だから
あったせっかく阿弥陀仏の世界から安らか
な依りへ投入しなから、そこには欲念の地以
が渦巻いていたのである。
この点について、一日神和原に抑却をたず
*******************************セ
べきであろうだが
ではなかった
ぐり遇った
うちに主徐切は遂に夢のなかで税減和ととめ
、
仏さまに近い尚徳な人
。
、
柔和な
夢の中で和上は明らかに生き
@
それもかつて出合った折の再現
その夢はどうなるので
語りかけこそしなかったが
。
本に現れた法然は
日
、
善滋の教えを信ずる余
、
善計時より五百年も隔てて 国も遠く離れた
心がぴったりと密若する思いであった。
安情は無 4
聞Jの説法を与えてくれる。お瓦いの
ていた
、
な女体が乱釦する人間際像はたしかに同聞東す
間が登場してきたら
あろうか。
そうだ。詩混和上だ。あの人と夢のなかで
お遇いで き るように想念の集中をはかればよ
いの ではないか。
王徐明はその晩、いつもどおり就寝前の修
り、遂にこの"夢感対面白を実現させてい
数行である
。
、
何処にいますのである
その阿惚柁仏とはどん
。
しかし
な疫をしているのか
たしかに浄土教は阿亦陀仏を伯仰するのが
。
訟を終えた。いつもだと正簡に安置した阿弥
る
、
その MW
か
、
陀仏のお木像へ熱い視線をあてるのだが 今
。
夜は静かに朕日した。古都和上の柔和な顔
優さしい戸に想念を集小した。
日中の残像が次々に現れてくる
、
か金属や木質で造りあげられた仏像である
三晩
、
こうした眠りをかさねている
願念仏集」で古いきる
。
、
、
、
その塊をこめ
る作梁は誌だ館事である と訟然は「選択本
仰の対象ともなり得る。だが
その仏像に魂が・』もっているとき
組依は
,
な口問削で品ってくれた片仔が μ 外で吹き荒
のか
のまま深い限りへ引きこまれた
、
削仰のnざめは災かで
。
れる鼠をおさえつけるように符きわたる。そ
、
。
もちろん淫らな拶成なぞ汁鱗もなか
拶こそ見なかったが
。
あった
った
二晩
一
- 37
****な**************女合会て':(*********
ー l
公し夫れ造像起椛を以て本願を為さ
符仏
な像
にぐ
はり
不過
可う
能こ
だと
のままだ。 そこへ
a
人の仰がなち現れる。 mM4
Z方ですか、と法然は問いかける。埠湾で
ある、と答える。「なぜ此処へ来られたので
すか」との問いに「お前の念仏が尊いのでや
ってきた」と答える。「それほど専らに念仏
、
しですか」?と念抑しをするが 持母は答えず
を唱えることは噂いのですか。往生は疑いな
盛をかき消し 、法然は拶からさめたという。
、
「念仏の片する
ろ:::」そこのすべてがわが遺跡だと滋
ll
混驚におきては、ただ念仏して弥陀に
いでいのものではなかった。
法齢、の市子明鷲の帥への必依ぶりもい怯みた
んじたからである。
閉したのも 、念仏市白川ぷによる心の結氷を点
と ζ
る。法然 が造像起繕よりも
「四方指南妙」は誌然の臨時け満場への制依渇仰ぶ
h 称名念仏の
だ
一行を以て、その本聞と
遊びたわむれる。さながら極楽浄土の風対そ
孔衡や酪鵡が矧き郷うてきて、限ドの河原で
知商の小宮に紫色の虫がかかり、 HA
の山中から
伎は山を投ってくる。中腹までくると、突
その法然はある夜こんな拶を見ている。
為せり。
ず、
りをこの「法然相一人夢却必」で制介してい
と白
めに造像起応等の詰行を以てはや』の本願とせ
法裁比丘の昔、
庶と
、
民め
染めの訟衣をまとっているが 、その下半身は
下お
ば、貧窮問乏の以は、にめて往生の盟〈み)
愚量産
金色に岬いている。
し
||然れば則ち弥陀加求
鈍い
を絶たん。然るは日立の者は少く、件以肢のち
は甚だ多し。
した
く有
:tt
う
、
。
平等の慈悲に催され、将く一切を併せんがた
-38-
す体
るがそ
セセ***女セセ*****************宅~******
たすけまいらすべしと、よき人のおおせをか
ぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
、
「欽民抄」で女白するこの「よき人」が師の
法然であることは古うまでもない。さらに視
Eは
m
、
ーー たとひ法然上人にすかされまいらせて
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔す
、
、
すかされたてまつり
、
||
浮湾
からず候か。
釈咋
li
法然
、
そして向分へと連
念仏信心の本質そのものだとさ
、
結してくる念仏の系
dを純鷲は明快に J いあ
てるのである。これは客観的な帥資相成の系
譜ではなく
え断言する。念仏は人間だけに持された願い
師の護満場和上を口ごと夜ごと思
、
だからである。
ヱ徐明は
、
この事実を是非告げておかねばならな
いえがくことで念仏生活に充実感をおぼえる
こと
39 一
-
べからず候。そのゆえは自余の行をはげみて
にもおちて候わばこそ
仏になるべかりける児が 念仏を巾して地以
、
とても地獄は一定すみかぞか
てという後悔も候わめ。いずれの行も及びが
たき身なれば
し。弥陀の本願まことおわしまさば釈尊の
説教虚言なるべからず。仏説まことにおわし
いと思った。突蕨の掻吏a泥鬼にである。能
虚言し給うべからず。
、
の念仏 M 仰は n分をとおして府われたものだ
書潟の御釈
まさば
が、口分がいま父ずいたことを彼が知る道県
、
らどとならんや。法、のおほせまことなら
常口調惜の御釈まことなら法
ば然のおほせ、そ
はなかったからである。
、
ば 判例鴬がゆすむね、またもてむなしかるべ
、
[~J
***-t.足セセ**************************
泥鬼はどこに潜伏しているのだろうか。
「いつぞやもうかがいましたね。白い路舵に
「白い路舵が現れるんです」
かけるのではありませんか」
主徐明は神和原へ出かけていった。
ほんと
またがった明者が、和上にねぎらいの古楽を
、
あのルメなら、きっと知っているであろう
でも K はロを割らなかった。いや
ですが、近ごろのは安をお見せになったあ
「いや、あのころは此方へ向って米られたの
だけ。
うに犬の所伝を知らないのだろう。ただ二,
u
と、ふり向きもしないでぐんぐん遠ざかって
ったとバえる。
入寂が迫ったことを暗示するような夢品目円だ
のではありますまいか」
「いよいよ丙万の同へわたしをお潟きになる
「逃.さかるのですか」
おしまいになる」
「酋市あたりで販布でも・・・・・・・・・」
毛皮や綿製品をセリ慌で商う露
と洩らした。
、
笑阪や西成人が多くこの業にたずさ
、
販布とは
天商で
わっていた。むしろ常織的な情相切であった。
、
泥巾泌が聾をくらますとすれば そこらの昨れ
へ投ずるとは世もが与えることである。
いま部滋があのころとは、「観無ハ以内対経」
の注釈「観経疏」を不限不休で占き上げた当
その晩、吉滋和上の傍らで一夜をすごし
た。主徐明が夢の話を告げたとき、誇都は散
時をきしている。「散善畿」の末尾で誌るす
後時に脱本しおわって、また吏に至心
にじけを要期し、日別に阿必陀経念品するこ
-|
のである。
笑んで、
「わたしも近ごろ、しばしば同じ夢を見ま
す」
と詰った。
「同じ拶とは?」
-4
0-
*
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*
夢
企ヒ
ロ
F量
旬、,
/
-
41 ー
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*
心に帰命すること、もつばら上の訟の如くに
後夜にかの仏何土の荘厳等の相を制組し、誠
と卜 q、阿弥陀仏を念ずること:一万編。初夜
按らしむ。
ず、斗んで以て義の後に中立し、聞を末代に
せずすでにこの初宮邸りて、あえて間政せ
嘗棺時が幾歳ごろ
、この「餓緩疏」を週述し
す。当夜に即ち一二日討の磁輸の近のほとりに独
り転ずるを見る。忽ちに一人の白き路院に乗
の太宗が大慈恩寺を建立し、そこへ「宝率五
岬峰、えたかは不明であるが、イソドから帰朝し
十采を飾り諸大悲を釆せ」て迎え入れたのが
るものあり。来たりすすんで勧めるを見る。
退転をなすことなかれ。この界は機感にして
大部の経典をもたらした玄英三歳のために唐
苫多し。わずらわしく貧楽せざれ」と。答え
点観二十二年企ハ四八〉の十二月である。士官徳
「
師はまさに努力し 、決定して往生すベし。
ていわく。「大いに賢必の好心の視識をこう
設疏」という伶梁を果たし終えていたからで
五十人的に持母も加わっている。すでに「観
、
むる。それがし、平命を賂となし あえて即時
した、と確ハ闘できるのであった。
願生釘としていよいよひとすじの迫を歩み出
き、帥もまた往生相を切花にするとあれば、
終市山で白分が静穏忠作黙の少をけ凡ていると
示する白い邸院を拶で比たという。五徐明は
それから 三十余午、丹羽は入寂への追を指
hcエv。
あろう。名指仰が一一一
、ト
六五
践のころと舵此で
慢の心を生.せず、一広々」と。
さらに第一一伐の伊は、点金色の体色をした
Lへ
阿弥陀仏とめぐり迎い、 mw
ご一伎には凶げ
し干
る箆しい道筋をしっかり見詰める。
ーーすでにこの相を如何おわって、すなわち
休止し、七日に至らず。上米所布の立相は、
本心は物の〈人 A〉ためにして己身のために
42 ー
-
*********************女**********
一刻も円十く突放人泥山地にこの鰐進法を伝控
、
ν
ことに似布陣却
王徐明は内市均へ出かけていった。
しなければならないと悶ぶった。
翌朝
いつに変らぬ紘わいである
ハ店〉が立ち技ぷ一州市は、七リ先りの山山け戸
泥鬼はどこにいるのだろう。突廠人の売り
もかますびしく、活気備畠であった。
子たちの績を一つ一つ見あらためながら主徐
、
、
ち皮のかげ
そこは戸阪にうず向く宅氏を前みkげた院
で、セリ売りするのは若い喰で
ω
で黙々と庇り上げ金を設えている到こそ、泥
鬼であった
逃げる、と主徐別が戸をかける仰に円十くも
た。
制刺客たちが友治から笑版人の腕をとらえてい
人泌みの途切れた小川の々
泥鬼は抵抗しなかった。院をとられたまま
、
へ去ってゆく。上徐川町も泊陪していった。
市場を出外ずれ
J におそわれた。界隈
不 b川なる感
切はしかし
、
へ全神経を集中していただけに 王徐明には
刺客の肱くような戸が伝わってくる。そこ
「成へ帰るんだ」
の炉踏を歩く計決のなかにニ人・人と限つき
の鋭い男たちが混じっているのに%ずいたか
らである。
仙紙から送りこまれた刺客にちがいない。そ
人めからしっかりおさえこまれて出鬼は沼
はっきりと聞きとれた。
市場を山ていった。追出する.主徐切は迷いを
れも相手は武戸市を裏切った泥山地であろう。
刺客たちも所伝を突きとめかねる純子だ。
探くする。
、
主徐明同一快に 物珍らしげに必り子たちの顔
しかし
あるか。
、
主徐別とても追われる身であっ
ここで飛び出 し て突阪人を奪い返すべきで
を一人づっ視きこんで歩いている。
、
刷判客たちが発見するより先に白分が気ずい
泥鬼を逃亡させなければならない。
主徐明のこの願いは空しく扱えた。
て
- .13-
**********セ****会**********合会合合会合
ll
、
もろもろの不善を具す。
あるいは衆生ありて、不苫の諜たる五
逆十悪をつくりて
た。R み合って同時に逮捕され、域内へ引か
れてゆけば泥鬼と運命を共にしなければなら
かくの如き怨人は思業を以ての依にまさに恵
に臨み持知設の阻ん吋に安慰し、ために妙弘を
まりなかるべし。かくの如き m人
m は命終の時
mと
道に肌して多劫を舵庇し、+討を受くるこ
ないであろう。
相相手は二人である。泥鬼と協力して彼らを
覚恰しなければならない。僻訂されることなの
説き、教えて念仏せしむるに過えり。この人
駆逐する予もある。たたしその場A、
H殺宵を
であろうか。
友告げていわく。「汝もし念ずること能わず
は苦にせめられて念仏するいとまあらず。持
えてきた。術士の影が各所でちらついてい
ば、まさに無民幻仏を称すぺし」と。かくの
迷っているうちに長安竣の巨大な駿践が見
る。刺客を殺して突阪人を奪注することも小
両足はぐんぐん泥鬼たちに
た。それが晩年に去り轡湾利上とめぐり遇え
h 人泥鬼は五逆十悪の所菜を吐きねてき
信山
足して、南無阿弥陀仏と称せしむ。
如く十晶子じに円をして絶えざらしめ、n十
h念を
、
時らめて、そのまま見送る決意をかためた
可能になった。
モ徐切だったが
近ずいていった。その足は、しきりと王徐明
の心へ議りかけてくる。
た,妙法を聴くことができた@しかし、なお
的世の悶必から陥れがましい生きざまは求め
どんな日的で泌鬼と会おうとするのか俗
砂ではない。人聞がぎりぎりでぶめる塊の問
得ない。岡信に制的伏していなければならな
「観無量寿経」でも明示している。
題ではないか。
経句に従えば『この人は去にせめられて念
、。
・・、
- 41-
**'1-ぇ*****************************
。
「わたしを天后のもとへ連れてゆきなさい。
捕吏の 一人が訊いた
が現れて称名の有難きを教える。阿弥陀仏の
「仲間というわけか」
この人と一絡に」
仏するいとまあらず」であろう。そこへ普友
お姿を見ることが出来ずともその御名をとな
--
」
すぐに悲しい限に変
、
なって和上に仕えている」
「知っている -ji
b
「天后さまがお前らにお会いになるかどう
品μ しゅ刈
.、、降、、。
神和原へ現れては傑子をうかがっていたにち
怯いて、うなずいた。おそらく ひそかに
、
称しているよ。母親は尼に
「母も子も無事にw
捕吏たちを無視して主徐明は言った。
えた。
つかしげに微笑んだが
現れた瞬間、王徐切に気ずいた突廠人はな
えるだけで必ず慈悲に浴し得るのである、
・と。
いま、その普友はお前、王徐明以外にあり
得ないではないか。域内の獄へ封じこめら
。
そして念仏をくり 返
れ、処刑を待つ 短 い明け謀れに必ず叢滋和上
。
明るく呼びかけていた。
捕吏は突然割りこんできた僧形の仲間に当
か」
惑しているようだ。そんな命令は聞いていな
「玄武般地下の石牢へぶちこんでおけばいい
いからである。
- 45-
のお姿を思いえがけよ
しとなえよ、と教えることが出来るはずだ
。
菩友王徐明よ。それをやらずしてお前は念
仏者と言えるのであるか
「ちょっと待ちなさい」
、
泥鬼たちに追いついた王徐切は恐れげもな
く
「あんたは誰だ」
;十 !
******会食会*********食会合会合令********
術史ならぬ王徐明白身が指凶する。
のだ」
「玄武殿の地下作だと?お前は悦だ
そんなところを知っているのか」
「ついこの間までお波で務していたんだ。そ
こへぷちこんでから天后へお何いを立てたら
良かろう。酷吏の泥鬼と吏生主徐切を捕らえ
てきましたとな」
「吏生王徐明か・・・・・・・・・」
おそらく彼
らが受 け た命令は泥山泌を街か
この指図に捕ん
山人たちは安清のえ加をつくっ
。
民体を組めておけ、というぐらいだったので
あろう。
。
盟みどおりヱ徐明は突匹以人と狭くるしい右
牢へ投げこまれた
「何でこんなことをしたんだ」
泥見は理解できぬといった眼差しを向けて
くる。
『あんたと話がしたかった」
「殺されてもいいんだ。死ぬ前に是非とも聞
「話をしてもこのまま殺されるぞ」
いてもらいたい括だ」
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比仏 H の問題
そこで E徐切は間々と阿弥陀仏川仰の必髄
を説いて聞かせた。とりわけ
を強制した。
英然とした阿弥陀仏を思いえがいても駄目
だ。最も近くて、毅縁の念仏者を常住坐臥に
観念 Hしてこそ我々の魂は救われる。
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「その波紋の念仏者が普滋和上であることは
πうまでもあるまい」
「和上のお安を朝な夕なに思いえがくのだ
な」
「そうだ。和上は阿弥陀さまの化身でいらっ
し干る。そのお姿を思いえがいて、阿鉱陀さ
まの御名をとなえとおしてこそ、わしらは真
実の生活が出来るというものだ」
「真実の生活といってもそれは幾口もない
「うむ・・・・・・・・・」
な」
- 46-
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らさらってきて峻内の周助の 一陥で州投し、
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まだった。無論、天后は彼らに会おうともし
届けられなかった。三日四日と放置されたま
則天武后からの沙汰は、なかなか石牢へは
「そうだ。あと幾刻も生きられぬであろう。
をハネられるかもしれん」
なかった。そんな過去を忘れてしまったので
「明日か明後日、いや今夜にでもわしらは首
だがな五逆十悪のわしらだ。最後の瞬間に真
あろう。
切ったあの男に刺客を送りこんだのよ。とこ
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マ,
少年慌良は、叔母の天后に呼び出された。
実の生きかたが出来たということだけで素晴
「とっくに死んでしまったと思っていたのに
別天武后は王徐明のことを告げた。
「わかってくれたか」
未だ生きていた んだよ」
「そうか、少しわかりかけてきたぞ」
しらいのではないかな」
「ただし、わしは普穏和上のお姿なんぞ思い
ろがその刺客は、あの男と仲良くなって両人
「いま、どこにいますか」
「わしは、あんたをこうしてじ っと見つめて
えがかんぞ。余りにももったいない」
いよう。主吏生よ。おのれの一身を投げうっ
そろって玄武殿の地下牢へ閉じこめられてい
「いいえ、もう終ったでしょう。わたしを裏
て教えてきてくれたあんたこそ、わしにとっ
「それが終ったとは?」
たんですって」
「もったいない?」
ては阿弥陀さまの化身だぞ。あんたを見つめ
とその足で玄武敏へ走った。
向たることぞ。偲良は天后の御前を退がる
た。そして刺客は処刑したはずよ」
「石牢の中で刺客には命令を遂行させまし
ながらわしは南無阿弥陀仏をとなえ続けよ
う」
善導から王徐明 、その 主徐明から爵吏泥鬼
へと、いまひとすじの念仏の 制はたわわみも
なく張りとおされたのであった。
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地下の石牢へ駆けつけると、そこは血の海
。
刑吏
だった。王徐明と泥鬼とが突っ伏して、こと
切れていた。お互 いが刃を湿っていた
から渡されたその刃で刺しちがえて果てたに
ちがいない。
しかし、二人とも安らかな死に顕だった。
の駅路をひたすらに歩み統けた
。
。
この見事な
あれからの数日間、彼らは阿弥陀仏への親縁
往生へたどりついたのであろう
ように一絡にお念仏をとなえましょう」
あの人たちの旅がつつがなく西方へ向います
普潟は戸外へ立ち出でた。狩後の小山へ登
った。刷仲良も従った。
西方の空に向って朗タと念仏をくりかえし
。
た。何博良も唱和した
そのあと苔滋は往生礼讃を請しはじめた。
まだ太陽も高く、日中礼讃だった。
しかし、苦務の戸は途切れがちになった。
悲しみのためではなさそうだ。体力が限界へ
を暗記してしまっている。淀みなく、若くみ
。
達していたのだ。でもそれを補う戸が新たに
事情がよくのみこめない揮良は、 翌 日神和
原へ菩穏を訪ねた
女性の戸だ。
おこっていた
「刺しちがえを強制されたようです」
していた。
(つづく〉
小山の麓で幼児が無心に穴をほじくりかえ
ずみずしい戸で、うたい続けてゆく。
「あとでゆっくり話してあげます。その前に
すか」
「白い臨駐の夢とは。それはどういうことで
くれる使者だったわけですね」
酪舵の夢、あれはあのこ人をお絡土へ滋いて
「とすると近ごろわたしがしきりに見る白い
僧形の泥鬼の妻。いまは往生礼設の全唱句
。
「そうでしたか。処刑されてしまったのです
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昭和六十 三年ニnz十五目印鍋昭和六十
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