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シルヴァーンとグルジスターンのモンゴル軍

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シルヴァーンとグルジスターンのモンゴル軍
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シルヴァーンとグルジスターンのモンゴル軍
北川, 誠一
北海道大學文學部紀要 = The annual reports on cultural
science, 32(1): 109-161
1983-11-05
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/33477
Right
Type
bulletin
Additional
Information
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Information
32(1)_PR109-161.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
ルヴァ i ン と グ ル ジ ス タ ー ン の モ ン ゴ
次
H ハン国初期のスイバ
H ハン国末のダルバンド防衛軍
第 四 節 ス ル ド す ス 部 の 軍 隊 と チ ュ ー バ lγ 家 の グ ル ジ ス タ ー ン 支 配
第三節トカルとクンチュクパル
第二節ケレイト部千人隊
第一節スニト部万人隊
第二章グルジスターンのモンゴル軍
第四節イル
干 第 三 節 イ ル u ハン国後期のスイバ
第 二 節 シ ル ヴ ァ l ン駐屯軍
第一節イル
第 一 章 シ ル ヴ ァ I ンのモンゴル寧
緒言
シ
第 三 章 シ ル ヴ ァ l ン日シャ l国 、 グ ル ジ ア 王 国 の 自 立
結語
北大文学部紀要
北
誠
ル軍
j
l
i
-109ー
目
シルヴァ l yとグルジスターンのモンゴル軍
ド
コ
一二五八年のアッパース朝、
一ご五六年のイスマ 1イ l
一二六O 年のシリア等に対する作戦終了後も、 モンゴリアに帰還することなくその
H ハン国を樹立した。
ハンの遊牧地と首府を取りまくよう
H ハンは、支配地をモンゴル人王侯諸将に分割することをおこなわず、土着民に対する徴税行政とモンゴル軍人
一旦住民にイル日ハンに対する叛意が認められた場合、真先に鎮圧に派遣されるのは、
H ハン国末期以後の地方政局分析の重要
第二に土着地方領侯、 名望家とモ Y1
コル人貴族聞の通婚によって地域的な閤閥が形成された点を挙げることができ
その地方に遊牧地を有する軍隊であったからである。
有形無形の庄力を加えていた。
第一に、軍隊は、 モ ン ゴ ル 人 の シ ャ ブ ネ ( ダ ル ガ チ ) 、 多 く イ ラ ン 人 の 知 事 、 徴 税 官 の 背 後 に あ っ 勺 土 着 民 の 動 静 に
社会的、経済的に重大な影響を及ぼした。
に対する指獄、統制とを厳然と区分していた。しかし、 それにもかかわらず、 モ ン ゴ ル 軍 の 駐 屯 は 、 土 着 社 会 に 政 治 的
イル
に、イラン各地に駐屯地を指定されたのである。
日ハンの夏冬の遊牧地の途中にあり、磨下のモンゴル軍は北西イランを中心に、
この国家の首府は、最初マラ l ガ、次にタブリ lズ 、 後 に 十 四 世 紀 に ス ル タ l ニエに置かれた。これらの都邑は、イル
ままイランに駐屯し続けた。フラグはシリアから帰還すると北西イランに木拠を定め、事実上イル
ル派、
一二五六年フラグけハンに率いられてイランに入った十万に及ばんとするモンゴル軍は、
ー
る。これは両者の政治的関係の原因よりは、むしろ結果であるにしても、 イル
な要素となった。
-110ー
緒
第三に、 モンゴル人は、単に軍人とその家族の集団であっただけではなく、基本的には自らの再生産のシステムを維
持 し て い た 牧 畜 民 で あ っ た 。 彼 等 は ガ ザ ン u ハンの改革に至る以前は、軍人としての給与を与えられなかったのみなら
ず、かえって飼育する家畜に税を課されていたのである。先住者によって農耕、牧畜が行われていた地域は、新たにモ
ンゴル人の遊牧地が設けられたため、大いに混乱や打撃を被ったであろう。
第四に、 イクタl制が実施され、 モンゴル軍人に農地の占有(より厳密には特定の農地の生産物に対する徴税権)が許
される以前はそーンゴル人は農地を有していなかった。従って、彼等は農産物と手工業製品を得るために、経済的にであ
ス官
ド
ク
-111一
れ経済外的にであれユルト内外の農村、都邑と流通上の関係を有していたとしなければならない。そしてイクタ l制実
﹃腹裏の地﹄
ス
施後は、両者の結びつきはいっそう強固になったであろうの
第五に、 モンゴル人のユルトの設定、及び彼等の定住農耕民化は、西アジア各地特に北西イランの民族形成史の重大
な要し素である。モンゴル正規軍中には多数のトルコ系部族が含まれていて、彼等の定着は、その地域住民のトルコ化過
程に一時期を闘したであろう。
以上のような観点からイルリハン国史を論述するには、最も基礎的な研究としてイル日ハン国各地のモンゴル語部族
Hウルスの
の分布を明らかにしなければならない。本田実信﹁イルハンの冬営地・夏営地﹂は、歴代イル日ハンの遊牧地を明らか
にし、北西イランのアッラ 1 ン、ムガlン、ァ!ゼルパlイジャlン、大アルメニアがフラグ
アlゼルパlイジ+)ンの地名からモンゴル語起源のものを収集し、
ノレ〉
。-ロロロ-ロ印) であることを証明するものである。これらの地方には、 モンゴル軍が重点的に配備され、 オルドを中心
ρ
(
に諸玉、諸部族の遊牧地が割当てられたと思われるが、本国論文はその個々には言及していない。
25
、ノルスキー ︿・冨宮。
北大文学部一紀要
は
H ハン朝の年代記に見えるものを対照したものであるが、ミノルスキーが用いた﹃イラン地名
オ イ ラ ー ト 。 ヨ 伴 、 ベ ク リ ー ン ∞ 岳 民 ロ ( 或 い は 宮 ・ 同2p 冨 ・ 同 氏 。 等 の 部 族 の 駐 屯 地 を 比 定 し た 。 こ の
シルヴァ lンとグルジスターンのモンゴル軍
ωロ戸︻凶ロ印、
研究は現在の地名とイル
辞 典 ﹄ の 如 き 大 規 模 な 公 刊 資 料 の 得 難 い 今 日 の ソ 連 領 及 び ト ル コ 領 諸 地 域 、 す な わ ち 伝 統 的 呼 称 に よ る ア ッ ラ 1 ン、ム
キプチャグ
H ハン両国関係と、
、 グルジ
﹂の前線防備と両国間の征戦を巡って、 シルヴァ l ン
H ハンは北辺に軍
H ハンがジョチに﹁モンゴルの軍馬の蹄の至る限り﹂の西方の地
H ハン固との係争地で前線であると
ガ l ン、シルヴァ I ン、グシュタスフィ l、大アルメニア、グルジスターンについては別の方法に拠らなければならない。
H ハン国は、チン、ギス
ところで、北西イランはイル日ハン固には本土でありながら、同時にキプチャク
いう事情にあった。キプチャグ
H ハン国軍の南下に備えたが、
を 与 え た と し て 、 ア ッ ラ l ン、ァ lゼルバ lイジャ l ン の 領 有 権 を 主 張 し た か ら で あ る 。 歴 代 の イ ル
隊を配置してキプチャク
/、
flレ l
l、
ノ:
ノノ
シルヴァ l ン と グ ル ジ ス タ ー ン の モ ン ゴ ル 軍 配
イル日ハン圏内の事情に注意を払いつつ、 イル日ハン朝、 チム
スターン地方守備軍の内、若干のものについては遊牧地を知ることができるのである。
小稿は、
ール朝のベルシャ語宮廷年代記、 現 地 の グ ル ジ ア の 年 代 記 に よ っ て 、
備、すなわち部族遊牧地設定一の状況について知るところを述べるものである。
なお、グルジスターンは、グルジア(ジョルジア)のベルシャ語名称であるが、十一一丁十四世紀のグルジア王国の領土
シルヴァ l ン 地 方 の モ ン ゴ ル 軍
は太古よりグルジア人が居住していたグルジア固有の領域とは異るので、ここではグルジスターンの称を用いた。
第一章
-112ー
イル
H ハン国第七代の君主ガザンーハンは、軍規粛清をめざすある勅令の中で
ヘ
ω
σ
ルーム何回目、ダルバンド Um円 ロ 円 で あ る
(℃白宮司、﹄¥﹀担問ω白hpHHFUHJ﹃ )
M
F
g一、キルマ l ン州内町宮山口、バグダード回ωmv仏間島、
我が国々の辺境は、 ホラ l サ l ン同町ロ吋山田一抑口、ファールス司
J
w
アィヤ l ル・パグル己目可帥吋∞m
p
と 述 べ 、 国 防 上 の 重 要 地 域 の 一 つ に ダ ル バ ン ド を 挙 げ て い る 。 ダ ル パ ン ド は 、 狭 義 に は 大 コ lカ サ ス 山 脈 が カ ス ピ 海 に
没する南北交通の陸路に存する一都邑名で、 いずれの側の軍陵も敵国に侵入するためには、先ずダルパジドを制して、
一一一六一↑!
Zロぬ印可は、ダルバンドを容易に突破してシルヴァ l ン地
1六 年 の 両 国 戦 役 の 概 略 を 記 し て 、 少 し く 戦 略 の 実 例 を 示 そ う 。
通過する必要があった。 また広義には、この周辺の地域、 さ ら に は シ ル ヴ ァ l ン地方全体を指した。今、
一一一六五
一二六二年夏、 キ プ チ ャ ク 日 ハ ヅ 国 軍 の 前 衛 ノ ガ イ
Hノ ヤ ン と 共 に 十 月
E の夏営地に居たが、二一六二年八月二O 目前衛として
アlラ 1 タ l グ と 仰 吋
ω山口同帥mvロ
円
一一月一四日、
Uハ
H ハン軍
-113一
先ず、
H ハンは、
シラムンはサマグル
でノガイ寧と衝突し、 撤退させた。
Rmg 近郊でノガイ軍を強襲した。
Iバラ i ン巴戸山σ
一一月二O 日シヤマハヘ出発し、翌月一一一月八日ダルバンド城を再占領した。イル
q H ノヤンの率るイル H ハγ軍増援部隊はシャ
ωEE帥
広
ω
}回目吋帥自国白川ノヤンを派遣し、自らも前線に向った。
方に至った。その時フラグ
シラムン
ぴ
丘
町
KF
七!十一月一四日、 シルヴァ l ン地方の主邑ジヤマハ
アパタイ
ラグはノガイ軍の跡を追って、
H ハンが同河左岸に現れた。イル
ン箪は一一一月一五日ダルバンド市の北で再度ノガイ軍に勝利した。シラムンとアパタイは追撃を続けてテレ〆グ河に歪
り、渡河してベルケのオルドを掠奪した。翌一二六三年一月一三日、ベルケ
MV
返 却 の 際 河 の 氷 が 割 れ 、 多 く の 将 兵 が 死 亡 七 た 。 こ の 敗 北 に よ っ て イ ル 日 ハ ン 軍 は 一 斉 に 退 却 し 、 フラグ自身は、パル
EE尺 経 由 で 三 月 二 三 日 夕 ブ リ lズに帰った。戦闘は自然に停止しい
ダ
北大文学部紀要
フ
年
一二六五年一月九日、 フラグは、 ウルミヤ湖東方のチャガドヮわ月岡山m
y
m
p
g の冬営地で死亡し、長子アバガが
シルヴァ lンとグルジスターンのモンゴル軍
次に、
汗位を継いだが、ベルケはこの間の政治的混乱に乗じて再度イル日ハン領に侵入した。この度の戦役にも先回と同じく
il
一一一月-目、 ノガイは戦闘中片目に矢を受けて負傷
ノガイが前衛として派遣された。同年七月一九日新ハンの弟ヤシュムト吋SFEE は 勅 令 を 奉 じ て ノ ガ イ 軍 撃 滅 の た
めにグル河を北に渡り、 ア ク ス l ﹀官白河で侵入軍を迎撃した。
シルヴァlンに撤退した。 アパガ自身もノガイ軍撤退後クル河左岸に渡ったが、ベルケ本軍の接近を知って、
H ハン国軍が、
一日一イルリハン領に侵入した場合、主要な会
H ハンにとってクル河こそが戦略上最も重要な地点であった。
E自国泊¥﹀旬52p口戸色。)、ゲルドマン可巾℃ L富H 田と読み、現在のアゼル
﹁クルデアン﹂を﹁同・円・ ι・
5帥ロ﹂と正して (
円ozgpHHFbc一佐口訳、第五巻、 入 l九頁)。アリザlデ博士は、自ら校訂したテキストで、
を設けた﹂、 と述べる (
ラン・ナウルロ弘同ロ(︿色白ロ)ロ
g ロ吋から、デシュト・クルディアンロgnEz間口吋門目片山口まで、広い堀に固まれた壁
ドlソンは、﹃集史﹄﹁アパガリハン紀﹂の記事に拠って、)一一六一一一年ベルケの撤退後﹁アパガはクル河の彼方に、ダ
戦はグル河付近でおこなわれたのであるから、 イル
意義は少く、 いずれの側も容易に突破し得た。 キプチャグ
この二度の戦役を見ると、ダルバンド域は最前線に位置する軍事上の要所ではあったが、ここの攻防が戦局に占める
至って病に倒れ、撤退の途中死亡した。
軍の抵抗に回れ、ティフリース寸日目印(トピリスィ寸E-20 付近での渡河を望んで北西に進んだものの、岡市近郊に
P
3E に引き返した。ベルケはアラス河合流点の近くでクル河渡河を計画したが、 rtノ レノ、 /ノ 、 .
河を再び渡りアラ l ン ﹀
グ
ノ
レ
一方故ボイル教授は、この﹁城柵 253﹂
パイジャン共和国イスマイル区(ライオン)に存する地名であると解した(﹀旬5
2phcsg-hF及。.5
匂 5・
誌
雲
町R
b
h
N
:
J円
↓
℃
・
ω
出)。すなわち、 アパガはグル河に直角に ﹁包塁(スィパ)﹂を設けたとする。
-114ー
し
﹂の西端にダラン日ナウルが存したものとする
(切。可 H0
・
Nい
Vて
おむと礼町、にたミ予℃・
の設置場所を明らかにし、 次にそこに配置された軍隊について論じよう。
H ハン国初期のスイバ
一二六二
i三年の戦役の後、
,
m
m
w
σ 円にアミ l ル H
uqm1
出
フラグは戦闘の一得聞を予想して、 全 軍 に 武 器 と 糧 稼 の 用
グ
ノ
レ
ω日ぴ山町
H﹂
の名、が見え、 マ ラ グ は 二 子 ヤ シ ュ ム ト を ス イ バ 以 南 の 地
一二六五年二月フラグの死が報じられると
とある。ここに言うダルバンドは地方名でシルヴァlンに同じであり、戦後一、二年の内にヤシュムトはこの地方を再
0
)、
ガトク冬営地に)到着した (
、
﹃
白
玄
%
。
・5
ヤシュムトは、彼に属していたダルパンドとアッラlンの諸王国におり、父の死から八日目に(フラグ、が残したチャ
方に置いたのである。また、﹃集史﹄には、
記)。既に一二六三年のことをゆ記した記事に﹁スイバ
gmy の岸に至るまでのアッラlンとアlザルバイジャlンをヤシュムトに託した(℃白自民泊¥﹀旬52PHF
スィパ ω
トゥダウン 叶ロ︻向者ロを、東辺ホラlサlン地方に長子アバガを派遣し、 更にダルバンド方面には、
意を命じ、 国境防備のためにシリア方面の前線ディヤlル・パクル、 ディヤlル・ラピlア
ラシlドッディlンによると、
アパガの事績を述べる前に、 フラグが防衛のためにとった処置を明らかにする必要があろう。
イル
﹃集史﹄﹁アパガ日ハン紀﹂ の記事に拠りながら、 比定された位置は異る。 先ず、
こEて
が、﹁グル河左岸に沿って﹂建設され、
AF)
ω切。、 ω吋 。
河防衛の要であった
τ
+
=
ス E
.,し
ー「
者
共
節
北大文学部紀要
一二六三年の戦闘終了後の記事に次のように言う。
び確保したのである。スィパはシルヴァlン、アッラ I ン両地方の聞に置かれたように察せられるが、グルジアの年代
HU-F
寸
一
コ
口
、
仏
、
司
- 1
1
5ー
第
ジルヴヲ lンとグルジスターンのモンゴル軍
ぴmw と名づけた。要す
それを戸スィパ 盟
nym凶冨ロ。ロ印。ロユすなわち白い河
①一 O 月が近づくと、 ヲラグはグルジアの隣国シルヴァ!ンのチャラン・ウスリ 4
H ハンの侵入を予期
L たのである。その時以来グルジア人とタタール人は一 O 月 か ら 、 夏 の 住 地 に 出 発
E 呼ばれる場所に行った。そこの流れの岸にテントに周らした固いを設け、
るにベルケ
gaz-Fgg。
する春までそこに留るようになった(切
τ
F
E
-勾同)。
② グ ル ジ ア 人 は 由 い 河 の ほ と ち に 柵 を 備 え た 囲 い を 設 置 し 、 既 に 述 べ た よ う に そ こ で 冬 を 過した (
-116ー
③一 O 月が来るとハン(フラグ)はスイバに行き、王(グルジア王ダヴィティ)はそれに伴われた。次の春彼はサコω20
一二六五年再びノガイに率られたキプチャグ日ハン国軍が侵入する
w
y 関即日 HV に行った (55﹂切戸)。
(スィヤ i フ・ク l フ ω m
巴
ぞ
、 シャマ
FmwmvEMC∞ロユ)とは、 トルコ一語のアタ一?ス lで
ス 4バが設けられたと言うチャラン・ウスリ(モンゴル語 h
ハ西方を流れる河川に他ならない。先述のように、
と、ャシュムトは七月一九日に出陣してグル河を渡ったが、﹃集史﹄には、
スイバで侵入軍を撃退するという所
(EE担問¥﹀量ωEPHF55
H ハンは、
アク・ス!と呼ばれているチャガン・ムランの近くで両軍は衝突した
とある。この戦闘でノガイが負傷、 キプチャグ軍は撤退したので、 イル
期の目的を達することができた。¥
フラグはアパガに先だってアク・ス 1 に城柵を設けたが、その年次は、先に引用した﹃集史﹄、 グルジア語年代記﹃モ
当時既にこの名で呼ばれた?であろうと思われる。またこの防御施設は、﹃モンゴル人侵永史﹄一に﹁テントに周ら
γJ
立、ル人侵入史﹄の記事から判断じ一ゼ-二六三年のことと見られる。またスイバなる語の元来普通名詞であることから
し
した柵﹂とあるから、極く簡略な、ものであっただろう。
て
次に﹃集史﹄﹁アパガ・ハン紀﹂には、ベルケ軍の撤退後の記事に
ω
ザ何回目同(印
ダ一フン・
F
P
) を設置し、深い堀を
六六四三二六五年一 O 月一三日 l一二六六年一 O 月一日)年、 アバガ日ハンはクル河のあちらの方面に、
ナウルから、 ガルドマlン同・吋-PEEM の平原まで、 グル河に接してスイバ
掘るように命じた。 モンゴル人とイムラlム教徒がその防衛のため駐屯し、 諸方面から隊商がその近くに来た。
九℃白自民泊¥﹀ 阿国ω白hpHHF]5hF)
H ハンは、彼等の軍隊と志気の大なることを知ったので、その世界を恐れさせる軍隊の侵入を妨げ
とある。また、﹃ヴアッサlフ史﹄には、
この後、 アバガ
るために、ダルバンドのこちら側に一城壁丘乱立を引いた(︿忍百円臼)
σ
m
w と呼ばれる所に実に一日行程の堀と他の聖壕を造った。そこには通路を守る軍隊が置かれ
とあり、 キリキア・アルメニアの王族にして歴史家のへトゥlム国己正百も(回出 10PNHAW)
日
。
アパガはスイバ
た
。
とある。ダラン・ナウルはアラス河との合流点に近いグル河下流域であり、 ガルドマlン(ゲルドマlン)は、 ア リ ザ I
デ教授が述べる如く、 アク・スl及びこれと平行してクル河に流入するギルドマン・チャイ﹁呂LH524
怠上流域の称
である。両者の距離は約五0 キロメートルで、 へトヮlムの記す一日行程に一致する。
﹃シャイフリウヴァイ
H ハン国のウズベク H ハンの侵入を阻止するためにアグ・スーに
グルジアの年代記は、 フラグのスイバとアパガのスイバについて何らの区別をなさず、 また、
ス史﹄には、 アブl・サイlド日山ンが、 キプチャグ
防衛部隊を設置した記事が見えるので(﹀伊ユ匂・ 53、 アバガのスイバは、 フラグのそれと同じくアク・ス l岸に建設
北大文学部紀要
'-117ー
H ハンの率る大軍がクル河左岸に到着する:と、
シルヴァ lγ とグルジスターンのモンゴル軍
J
一二六五年の戦役においてベルケ
されたとすることができる。
さて、
吋)
アバガ
H ハシは対岸に防衛線
ωve向 と 呼 ば れ る 堅 固 な
gwoZぷは、
を 引 い て 敵 軍 の 渡 河 を 妨 げ た 。 ア ル メ ニ ア 人 僧 侶 キ ラ コ ス ・ ガ ン ヅ ァ ケ ヅ ツ ィ 同 町 包S 由。山口b
双 方 は 、 向 き あ っ て 、 城 壁 と 堀 で 防 備 し た 岸 辺 に 布 陣 し た ( 凶 由 民 話 宮FNω
おじ気づいてその場所に布陣し、 シパル
と記し、 ア ル メ ニ ア 人 の ヴ ァ ル ダ ベ ッ ト ( 博 士 ) ヴ ァ ル ダ ン ︿ 問 。ωロ ︿mEm句作片山も
そこに置かれでいた(イル川ハーンの)軍隊は、
l
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0
4
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E
σ
ワカミ
司oeωHO)
と心
共が
に解
残放
︿明日)
王 子 モ ン ケ テ ム ル 冨αロ
サマグル
m
w
o
l、H,OH己
H 吋を、
オルジ
-118ー
聖 濠 を 岸 辺 全 体 に 沿 っ て 堀 上 、 げ 、 そ し て 防 備 の た め に あ ら ゆ る 種 類 の 用 意 を 整 え る の に そ の 冬 を 費 し た (UCEC?
芯F020σ
。
円
と記す。 ク ル 河 右 岸 沿 い に 防 御 陣 地 が 築 か れ 、 こ れ は ﹁ シ パ ル ﹂ と 呼 ば れ た の で あ る が 、 明 ら か に ア ク ・ ス 1 に沿って
設けられたスィパとは別のものである。
フラグのスイバは、 ノ ガ イ 箪 を 退 け る こ と が で き た も の の 、 ベ ル ケ 自 身 の 率 い る 大 軍 に 対 し て は 持 ち こ た え る こ と が
できなかった。 アパガは、 フ ラ グ の ア ク ・ ス l防 衛 策 を 受 け 継 ぎ 、 単 一 の 軍 事 基 地 に 過 ぎ な か っ た フ ラ グ の ス イ バ よ り
1
の
ハ国
ト事
スイバが築かれ、 ア パ ガ は
しさ
れ
た
の
で
(℃釦臣民、同¥﹀旬回目凶白hpHHHWHOAF)
Hノヤン、
はるかに大規模で、 ダ ラ ン ・ ナ ウ ル よ り ガ ル ド マ ン に 至 る 長 さ 約 五0 キ ロ メ ー ト ル に 及 ぶ 大 規 模 な 城 柵 を 設 け た の で あ
~.ド
H ハン紀﹂には、
ンら
る
。
。:ハ
t ン
﹃集史﹄﹁アバガ
ャタ
イ ノ
レ
H ハトゥンが駐屯し、
叩)
i ン同・吋・己・5ロロの平原までには、諸王子、 サマグル、
そ の 場 所 が 彼 等 の 冬 の ユ ル ト で あ る よ う に 命 じ た ( ﹀FZLω
H ハンはクル河の岸とダラン・ナウルからガルドム
てホラ i サ l ンに向い、その冬はマ lザンダラ l ンで過したとある。これと同じことを述べて、﹃シャイフ日ウヴアイス
史﹄には、
アパガ
モンケ一アムル、 ウルジャイ
一二五六年一一月生れ、当時一 O 歳であった。(忠臣民泊¥﹀旬52PH同 戸 巴U
S) 従ってモ
とある。 ウルジャイは、 フラグのハトゥンであったが、父の死後アパガが要っていた。 モンケテムルは、 ウルジャイが
生んだフラグの第十一子で、
ンケテムルは、何らかの国事の遂行を命じられたのではなく、 ウ ル ジ ャ イ の オ ル ド が ス イ バ に 留 め ら れ た の で 、 母 の も
一一一八
H
i
σ
c
g
a
d
g
A山岳E) であったサマガルが駐屯を命じら
とに存ったに過ぎないであろう。従って古参の大将軍(山居間
H ハンが反乱を企てたブカリチンクサン切
pomphvzw包ロ W の逮捕を命じると、ブカは自分の家から避れ
れたのは、国境防備のためというよりは、むしろオルド警護のためであったであろう。ウルジャイのオルドは、
九年アルグン
て 舟 で ク ル 河 を 渡 り ウ ル ジ ャ イ の も と に 保 護 を 求 め て い る の で (EEE¥﹀詰shpHFNHωlNE)、 ク ル 河 左 岸 に 置 か れ
ていたことが明らかである。
ラシ lドヅディ 1 ンは、スィメに﹁モンゴル人とイスラ l ム教徒﹂を置いて防備に当らせたと記すが、 フラグの時代
王ダヴィティを伴ってスイバに行ったが、
王はそこで冬を過した。春が戻ると彼等は出発した
と同じく、 グルジア兵も駐屯を命じられた。﹃モンゴル人侵入史﹄には、二一七O年 か ら 翌 一 二 七 一 年 と 思 し き 記 事 に
ハンは、
(切コ﹀由M
W
A
W
F
ω∞ AF)
この後、
が、王は腹の病に冒された。
北大文学部紀要
-119一
シルヴァ lγ とグルジスターンのモンゴル箪
とある。グルジア王ダヴィティ四世のみならず、 アバガもこの冬をスイバで過したとするが、 イル
H ハンの冬営地ダラ
H ハトゥンのオルドを防備する位置に設けられたのであるから、防御施設が築か
ン・ナウルがグル河左岸にあったことを想起すべきであろう。
スィパはクル河左岸のウルジャイ
モンゴル人、イスラム教徒、グルジア人の軍隊が駐屯を命じられていて、本土決戦の際には重要な戦略的拠慌たり
P
lI
ロ
F令
地
方
H ハン紀﹂には、
﹂れを国境の前線基地とは称し難く、 ここに第一線部隊が置かれていたとは考えられない。
シルヴァ l ン駐屯軍
:
.
,
)
2
ン〈
ア
タ
シ
トのユルトが置かれたのである。先に述べたようにフラグ生前に彼のユルトは、 シルヴァ l ン(ダルパンド)とア
47A
H
(EEE¥﹀﹂凶器室内LHFEN) 誰に彼の地位とユルトが受け継がれた
0lwロAmHハンの軍隊の小規模な侵入に対して、其々ブカ
一 二 八 八 年 及 翌 一 二 八 九 年 の ト レ ブ カ 斗2
一二七一年七月八日死亡した後
ッラ i ンであったから、この時ムガ l ンを得てアッラ I ンを失ったのである。これは、 ア パ ガ の 国 境 防 備 策 の 整 備 を 意
味しよう。
ヤシュムトが、
かは知られない。
-120一
第二節
ノ
レ
それでは、 ダルバンド防備の第一線部隊はどのように配置されていたのであろうか。﹃集史﹄﹁アパガ
ド
え
アバガは即位式の後、
ン
し
、
先ず、弟ヤシュムトを全軍と共に、 その辺境を敵から監視するために、
ノ
レ
と
は
、 ムガ l ンの地方に派遣した (
シルヴァ l ン
EEE¥﹀包ωEPHHFEN)
る
ダ
る、、
、 シルグァ 1 ン両州にヤ
とある。 アパガのキシュラ l グ の 地 に 定 め ら れ て い た ア ッ ラ l ン地方の東及び北東のムガ 1 ン
至
得れ
チシクサンとグンジュクバル
ρロ旦ロ門戸σ也、トヮカル吋国}内出とクンジュグバルが前衛とし乞派遣された
5・
(℃白臣民、白¥﹀﹂
Hヌl リ ン を グ ル メ ン ド 方 面 防
∞一 NNH) が、一地位からして彼等が辺境防備軍の指揮官であったとは考え難い。
ωEP F N C
一
口
ガザンはハンの位に即くと、多くの財政上の改革を実施したが、軍規刷新、辺境防備体制め強化にも意をつくじた。
先ず、コーカサス方面の防衛については、﹃集史﹄﹁ガザンけハン紀﹂に次のようにある。
(EE5H¥﹀詰ωSFHF お∞)。
(ガザン日ハンは)六九七年ズル・ヒツジャ月三日(一二九八年八月十二日)アミ l ル
備のためにアッラ l ン地方に派遣した
EEl ンに駐屯して冬営し常にその方面にいるように (
発令地はタゃフリーズでガザ γの次の冬営地はバグダードが予定されていい一一口。次に、四年後の七O 一年ズル・カアダ月(一
dwロで発布された勅令には、
Hヌl リンは、先に定めたとうり、軍と共にアッラ
七月)ウジャ l ン
l
アミ l ル
sr
~
、
、
.
/
ノ
レ
グ
ン
:
ヤ
は
u
(、吋白富民巾・
ユズ・アガチペロ N﹀myと か ら ア ッ ラ i ンの冬営地に一りその方面を防備するように
ク ト ル グ シ ヤ 凡 ぶ 任 命 し た の で あ る 。 従 っ て 、 彼 等 が 前 線 司 令 官 に 任 命 さ れ た と も 、 ガ ザ ン は シ ル ヴ ァ l ンを放棄して
北大文学部紀要
-121ー
O 二年六
一
一
民泊¥﹀旬国ω白hpHHFωAFMW)
i
8
ω
)、 同
と あ る 。 次 の ガ ザ ン の 滞 在 地 は メ グ ダ 1ドであった。この同じ時、クトルグシャ 105zmylω宮山討が、 グルジスター
ンの守護を命じられている。一一二O 三一年二三月ヌ lリンが任地アッラ l ンの冬営地で死亡すると
完 ノ
レ
三
との勅令が下った。ガザン J
ρ ジは、とりわけ、自分がアッラ I ンの冬営地に不在な折の留守居役として、 ヌlリン、
白 二
年一一月一一一一日(七O 二年ラピル・アッワル月末日)
.
.
ア
q
シルヴァ lンとグルジスターンのモンゴル軍
クル河の線まで後進したとすることもできない。
(-σ
σ
ω
∞
)
-wNO
山内同
(冨ロ田片山口出¥ロ
日吋
ωぞErE 吋 )
ムスタウフィ l の﹃心魂の歓喜﹄﹁地理編﹂には、 シルヴァ l ンについて
イクターとして多くの地方が、分割されている
とあり、 グシュタスフィ i の項にも
そこに住む軍隊のイクタ!として分割されている
が、﹃集史﹄
﹁ガザン
U ハン紀﹂には、
﹁シルヴァ l ン、ラグズィスターン
、 グシュタスフィーには、 モ ン ゴ ル 軍 人 の イ ク タ ー が 設 定 さ れ た こ と が 知 ら れ る 。 ま た 後 者 に
とあって、 シルヴァ 1 ン
品切)
/二)年冬、 ガザンリハンはクル河の北に巡行し、
の 山 中 で 狩 猟 を 行 っ た (勺曲目出泊¥﹀ 阿国 ω白hpHHFω
二
ニO
七O 一(
は、実際に箪陵が住んでいたと明記されている。
ところで、
FmwNF印式ロ﹂
μ
長 い 間 堅 固 な 山 中 に 潜 ん で い た ラ ク ズ ィ ス タ ー ン の 諸 将 は 、 その時、従い、自発的に降り来って、 心 か ら 服 従 し た
︿加)
と あ る 。 ま た ﹃ ヴ ア ツ サ l フ史﹄には、 七一八(一一一二八/九)年、 ジ ュ チ 日 ウ ル ス の ウ ズ ベ ク 日 ハ ン が イ ラ ン に 侵 入 し
た時
アミlル川タルムタlズ、吋H
.
E
B
N が、 同町回附拐の千人隊とともにラクザナ lト FmWN間口同門 の諸部族鎮圧と、
。
その方面守護のために派遣されていた (
︿
E2F ω切 )
とある。 ガ ザ ン の 治 世 期 に ラ ク ズ ィ ス タ ー ン ( ラ ク ザ ナ l ト ) に 対 す る イ ル 日 ハ ン の 支 配 権 が 伸 長 し た の で あ る 。 中 世 の
ア ラ ブ 語 、 ペ ル シ ャ 語 文 献 に 見 え る ラ ク ズ は 、 今 日 の レ ズ ギ FONm円:﹁]ゆ一ω
吋w h︼ゆω吋出国に同じである。現在レスギ人の大
部分は、ダルバンド以南のダゲスターンに住むが、孤立した居住域がアゼルパイジャン共和国北部に点在するところか
-122ー
ら 、 か つ て は 今 日 よ り は る か 南 方 に ま で 勢 力 を 広 げ て い た に 違 い な い 。 従 っ て ﹁ シ ル ヴ ァ l ンとラグズィスターン﹂の
J
、 グシュタスブィ l に
山々とは、 アゼルパイジャン共和国大コ lカサス地区の山地であろう。すなわち、 シルヴァ l ン
イクターを有していたモンゴル軍のヤイラ l クはこの地域に置かれ、従って彼等はクル河支流或いはスムガイト凸三時間
イル日ハン国後期のスイバ
白雪河本支流に沿って夏冬の移動を行っていたと思われる。これがダルバンド守備の第一線部隊であろう。
第三節
H ハン領に侵入した。イル
オルドの
シルヴァ l ンに来て、 クル河の岸に至るまで掠奪を行った。川の向う
H ハン側の第一線部隊
(nrq。叩凶器。PH︿ 二 出 品 佐 口 訳 第 六 巻 二 七 四 六 頁 出 。
t
s
z
y
H足立
エセンブカ(一一一二八年)と、相い継いで所謂西方の三ハンが死亡すると、イルリハ
ウルジュイトリハンの時代には、 モンゴル帝国のハン達の聞に和平と再統一の気運が生じたが、 ウルジェイト九一一ニ
一六年)、 トゥクタ(一一一二二年)、
HHHWω山
w
o
u 切。山、-P品
。
∞
)
。
ンとキプチャクリハンの閑に戦争が再開された
]﹁仏夕、・ wNW]50iH印吋"同}山門同
七一八(一三一八/九)年、ウズベク日ハンは自ら大軍を率いてイル
U ハンは、:::ダルバンドを過ぎ、
は敵軍の強大さを知って撤退し、オルドに情況を報告した。﹃シャイブ日ウヴァス史﹄には、
ウズベク
g
m
-
(KFF2
58
日 円 相 官 ロ 吋 ) は彼等の手に捕われた
・
﹃集史続篇﹄には、 アブ l サイドのもとには一千騎の兵士が残されていただけであったので、
側にいて渡ることのできなかった人々 (山岳宮山︿冨
とある。また、
小姓、牒馬引き、附加舵番等をクル河の岸辺に集め
σ5z
・e
人 々 が ク ル 河 の 岸 に 真 直 ぐ な 線 の よ う に 続 け て テ ン ト を 張 る よ う に 命 じ ( 司 包 -N十﹀
北大文学部紀要
-123ー
シルヴァ lンとグルジスターンのモンゴル軍
UFSE
手元に大軍がいるかのように見せかけ、 アミ l ルリチョパンハ
の援軍来着を待った、 と あ る 。 す な わ ち こ の 時
アブ1サイド日ハンにはf スイバ防衛の準備が整っていなかったのである。
アブ lサイドの存命中山ソズベグは再度イラン侵入を企てたが、﹃シャイフ日ウヴアイス史﹄には、 七三四(一三三一ニ/
四)年
Hハ
ン
このあと、 ウズベクの軍隊の音声が上がった。帝王はバグダードとディヤ l ル・ラピ l ルの軍隊の一団がその年ア
ッラ l ンに行き、 アク・ス l に駐屯するよう命じられた(﹀伊ユ 53
とある。依然としてアク・スーがすなわちスィパが国防上の重要地点であり、ここに兵力を投入してキプチャク
国 軍 の ク ル 河 渡 河 を 回 止 し よ う と す る 政 策 が 採 ら れ て い た の で あ る 。 こ の 時 、 ア ブ Iサイド自身もアッラ 1 ンに向った
が 、 ウ ズ ベ ク 軍 来 冠 を 待 た ず 二 ニ 三 五 年 一 一 月 一 七 日 カ ラ パ グ で 死 亡 し た 。 ア ブ 1 サイドに替ってアルパ・ケウン日ハ
U ハンがアブ
H ハンの軍隊が河岸に到着して
l サイドの諸国を欲していたのでダルバンドに軍隊を派遣していた。
ンがこの侵入に対処したが、﹃集史続篇﹄には、七三六(一三三五/六)年
その冬アルパハハンは、ーウズベグ
彼が装備の整った無数の大軍と共にクル河に到着すると、あちら側からもウズベグ
いた。渡ることのできる各所を占領し、諸方面より各々誉れある軍隊は、大将軍達と共にウズベグ日ハンの背後を
H ハンもまた軍隊を率い、対峠して下馬し
断ち、勇気を持って彼等を待一ち伏せるよう心せよと命令が下った(恒仰向広ム﹀可F 出回)
とあり、﹃シャイフリウヴアイス史﹄にも、 ウズベク日ハンは、
再びイランを日差し、ダルバンドを通過してグル河の岸に来た。 アルパ
一
・
∞
)
た (krF1 5
-124一
とある。 しかし、 この時にはアグ・ス lで侵入軍を迎撃することには触れられていない。
イル日ハン国末のダルパンド防衛軍
アブ i サイドの時代まで採用されていたスイバ防衛策は、 アルパ日ケウンの時代には採られなかったのである。
第四節
i
m
w
σ 当帥σ には切・吋-N-PE が(﹀FE・
回
仰
げm
5
0
)
アブ 1 サ イ ド リ ハ ン は 、 即 位 後 各 地 の 守 護 の た め に 部 将 を 派 遣 し た が 、 ﹃ シ ャ イ フ 日 ウ ヴ ア イ ス 史 ﹄ に は
︼V
H ハンの最初の侵入の際に-
アミ l ル日夕ルムタ iズ が レ ズ ィ ギ ス タ ー ン に 派 遣 さ れ
、 ふ、
・
ロ-E なる者がパ lブル・アッパーブすなわちダルバンド方面駐屯を命じられていたのである。
れ とあって切・司 - N
R
(
︿m
也子。 ωω)
Z
また、 ヴァッサ l フも、 ウズベク
ていたが、
(ウズベグの)軍隊の攻撃を知ったが、踏み留まる力を持たず、すべなくオルドに向った。途中その事件の連絡のた
yサl フ
は、
EUGj)
(
︿m
叩
民
Z
ガザン死亡時にガザンの大アミ l ル・クトルグシャーより数えて一一番目、 ウルジェイト即
めに前進していたアミ l ル N・
ロ-E は彼と出逢い(敵の)軍隊の大きさについて報告した
と述べる。ヴア
B-SN の名を挙げ、彼がガザンの近臣(宵宮山忽)であったと記す
位式には一四番目の高位の武将として斗・円肝
ω
G
u
A U0・品。∞"品吋一戸)。
︿向
また、 カ l シャ i =ーも、彼がガザンの
E
σ
側近で近侍(自己宮吋
であると述べ (D皆同戸山巳二本)、ウルジェイトの大将軍達ロ自白吋仰 alFσロ
N
5
1
m の一六番目に名を挙げて、 ウイグル人であ
北大文学部紀要
w
q,ゐ
RJ
(
F
E
w
m
v
)。
シルヴァ lンとグルジスターンのそソゴル軍
ると述べる
ρgvnE) の一人に N・ロ・牲の名を挙げ、(︿忠剖邸内七百叶)アブ lサイドの万人
またヴア γサl フは、 ガザンの鷹匠 (
55JSN)。 N-ロ・牲と∞・吋 -N-HM-mU は同一人物で
隊長の一人に斗・吋・ 5 B Nと共に切吋 --N-ロ-mU の名を挙げる(
あろう。
一三二七年のチューバ 1γ 一族の失脚後
チュ
H ハンと戦った部将(シャイフ H
・ロ牲がシルヴァ l ン州に派遣されており、
アブ l サイド H ハンの時代に二人の万人隊長、 H J 5・5 N 及び(∞・円・ ) N
・
円
前者が南、後者がグルバンド市に近い北部に駐屯していたのである。
﹃シャイブ日ウヴアイス史﹄には、
一三一ニ六年に再度侵入したウズベク
ダルバンドは EE︺刊に与えられた(﹀ V2uHUU)
とあって、人事の移動が行われたようである。
ρ凶吋帥即日)をイキンジの息子シャイフけチューバ I ンに与えた
PEb--gs
マ lリ 1 同町m
H
E昨凹)の中には、 イ キ ン ヂ の 名 は 見 ゑ
lパ l ンωげ曲目付甘口町国ぴ山口 ハヅジ l H ハムザ閣と官剖mgNmwy、 ハ
(gE帥ロム
﹀
町
立
・ 5∞)、同年ムハンマドリハンが即位すると
ないものの (
シルヴァ l ンと前衛の万人隊
(FE--E∞)
H ハンの在位の晩年に、﹃シャイフ日ウヴアイス史﹄には、
チューバ l ン朝のマリグ・アシュラフを
とあり、 この地方の軍隊が前衛の万人隊とよばれシャイフ日チューバ l ンは、 イ キ ン ジ の 息 子 で 彼 の 地 位 を 継 い だ こ と
が知れる。
またスレイマ l ン
イキンジの万人隊を与えられていたマリグ・アジュラフ
と呼び、 このマリク・プシュラフがタ事フリーズに入誠する際(一三四一二/四年)
-126ー
ヤlギ lパ ス テ ィ 1
4仰向日岡山切山由仲間シャイフ日チューバ i ンとアサイン・アパンガイ伺ロ白色ロ﹀σ
m
s
m
v
h
H
Wは
、
Hチューバ
カl ヴ l ス
l ンの万人隊は、 マリク・アジュラフの臨時下に編入され、 シルヴァ l ンか、ら移動
L2)
リク・アシュラフに合流した(笹山P
とある。すなわちシャイフ
したのである。しかし、 マリク・アシュラフはタ事フリーズに入城する前に彼らを殺した。
一三四六〆七年マリフ・アシュ一フブは、 シル、ヴァ l ンシャ I H カ lヴ l ス岡山ぎー町田腐懲の軍を出したが、
Ni
は、遠征軍阻止のためクル河の渡河点を固めたので、 マリク・アシュラフの軍隊は渡河できやす撤退した。また、 ウズベ
吋吋)。
クの子ジャニベク日ハンは、 一一一一五六/七年イランに侵入したが、イラン側軍隊の抵抗にあわずクル河を渡った(伺邑
EYH
-krσ 吋0・留品一﹀
グルジスターンモンゴル軍
Hウ ル ス 軍 の 侵 入 に 備 え ら れ た が 、 軍 隊 の 駐 屯 は
これらの事実は当時クル河左岸には、 モ ン ゴ ル 軍 が 存 在 し て い な か っ た こ と を 示 す も の で あ る 。
第二章
アク・ス l に設けられたスイバには、実戦部隊が配置され、 ジュチ
冬期間に限られたことは既に述べた。この地域は冬一日の平均気温零度前後と温暖であるが、七月には一平均気温は二五
度まで上昇するし、また、降雨量も少く、遊牧には不適となる。遊牧民はグル軍本支流を湖って冷涼な夏の牧地に移動
しなければならない。ここでは、ジュチ日ウルスに対してやはり第一線にあたるグルジスターン州(グルジア、ジョージ
ア)にユルトを持っていたモンゴル軍について述べ人間。
北大文学部紀要
-127ー
ー
マ
スニト部万人隊
シルヴァ lγ とグルジスターンのモンゴル軍
第一節
ω宮品目ロロを派遣した
﹃集史﹄﹁アパガ日ハン紀﹂には、 アパ、ガ即位後に行われた官職授与の記事に、
グルジスターンには、 チョルマグン同国吋BmmEE の息子シラムン
HCN)
サムツへ
rEgwyo
ロ
(℃白巴司、同¥﹀旬出
ω
ω
N
H
m
u
の領侯サルギス・ジャケリ
HW
ω
m凶コ弘田
とあって、 シ ラ ム ン リ ノ ヤ ン が グ ル ジ ス タ l ツに駐屯を命じられている。﹃モンゴル人侵入史﹄には、二一六九年夏、
(∞円。印印
J
B
)
OF 一﹁ ω
ャガタイ家のテグデル王子がアバガに叛いた時、 グルジア、
M
m
ρ
σ ロは、
Hノ ヤ ン と 他 の ノ ヤ ン 達 を 配 置 し た
UFPHYK戸℃h 白﹁同国)
(﹀叶︽
φロロロ部の人で、 オゴタイ
U ハンがジャ一フ
1 ル γディ l ン Hホラズムシャ l
に同じで、現トルコ領のカルス地方の地名である。ここにシラ
自分の軍隊の先頭に、 ア ル タ ン ﹀ ユ 山 口 の 山 々 に 宿 営 に 行 く 途 中 で あ っ た チ ョ ル マ グ ン の 子 で 勇 敢 か つ 大 胆 な 戦 士
シラムン
とある川アルタンはアルダハン
ムンのヤイラ l グが存したのである。
シラムンの父チョルマグンは、 スニト
追 討 の た め 北 西 イ ラ ン に 派 遣 し た 探 馬 赤 軍 の 指 揮 官 で あ っ た 。 チ ョ ル マ グ ン 自 身 の ユ ル ト は 、 冬 営 地 が ム l ガ1 ン、夏
σ
4
ω ロ ( ギ ョ グ チ 十 のα
W
A
M
) 湖周辺の山地であり、また一二四二年ごろ彼に替って指揮官の地位につ
牧地がセヴアン ω
一二五三年にフラグを西アジアに派遣するとの詔勅を発布してトルキ
いたパイジュ 切 出 ] 即 日 ノ ヤ ン の ユ ル ト は 、 ア ラ ス 河 支 流 ア ケ ル KFW2河 流 域 で 、 夏 は 上 流 の ス イ ス ィ ア ン 虫 色mp地
F
区に湖り、冬はアラス流域に下った。 モンケは、
スタンからアゼルパイジャンに至る牧地を遠征軍駐屯に備えて封禁し、パイジュの部隊をアナトリア東部に移動させた
-128ー
チ
c
m
N一乱邑・ HHFcf
(
一
﹃
ロ4tE¥一
アナ
一方﹃集史﹄﹁部族誌﹂には、フラグはパイジュがル i ム
﹀
﹄
両
国
臼
白h
℃
pHHFN0・h
S
)。しかしこの時シラムンはパイジュと行を共にせず、
E
H
E
H
¥一
チョルマグンの子シラムンが治めた
トリアではなくグルジスターンに移動していたととが知れる。
H ハンの勅書の権威によって、
征服の功を誇ったので罰し
その万人隊をモンケ
とある。 シラムンはグルジスターンにユルトを置いたまま、 チョルマグン、パイジュに属していた探馬赤軍中の一万人
隊を率いたのである。
{MW
帥ロ)がシラムンの地位を継
﹃モンゴル人侵入史﹄には、ァ λ ガの弟モンケテムルのシリア遠征(一二七七年)軍中に﹁シラムンの息子同gmg﹂の
エブゲン開σcmg(ベルシャ語史料の﹀ず
-129-
名が見える(回BEE-FS3。この時には、
いでいたのであろう。
(℃即日sh¥
ENewE・52m円
エブゲンはアフマド・テグダルリハンの側近 (
日σ削 ロ ) の一入であって、
H ハン紀﹂には、クーデター成功の
ルグンリハン派部将のクーデター(一二八四年)の際には、アフマドの財産(ロm
y
g
A
) の管理を命じられていた
﹀
旬52PHHFE0・H
∞斗)。﹃集史﹄﹁アルグン
2 2 浜PECiNOO)
この後、 チョルマグンの子シラムンの子エブゲンは裁かれ、 アフマドの側近であったという理由で処刑された。(中
略)(アルグンいハンは)グルジスターンを自分の叔父アジャイ﹀芯可に与えた
一二八九年、 アルグンが
とある。すなわちエブゲン刑死後のグルジスターン駐屯軍統制のためフラグの第八子アジャイが派遣されたのである
山)
が、アルメニア人主教ステパノス ωZ℃ぜ
m
g
H
M
g の年代記七三四(一二八五年)の項には、
EmpHWAFm
﹀辻mロ が 死 亡 し た (出巳S
とある。アジャイがこの任にあったのは、約一年に過ぎない。また﹃モンゴル人侵入史﹄に、
北大文学部紀要
ア
シルヴァ 1ソとグルジスターンのモンゴル軍
イメレチア H5202に 派 遣 し た 部 将 ﹁ シ ラ ム ン
EE﹂(切円。印凹ZWF83
Hノヤンの子。。ロ宮
次に、﹃集史﹄﹁ガザン日ハン紀﹂には、パイド?を敗ってハンの位に即いたガザンは
の名が挙ザられている。
o
v のロロσ凶仏で処刑させた(℃白自国 h¥
チ ョ ル マ グ ン の 息 子 シ ラ ム ン の 息 子 パ 1イグ l ト切削可m
F
E をセゴンバド ω
一二九五年までは、 シラムン
Hノ ヤ ン の 諸 子 が グ ル ジ ス タ ー ン に 駐 屯 し 続 け て お り 、 父 の 軍 陵 の 指 揮 権 を 保 持
HHFω 呂一。戸︿同移民Z
C
)
白p
ωh
﹀﹄同国
とある。
ケレイト部千人隊
イル日ハン領内で破壊掠奪行動を続けていた時、
アルグンの身柄監視に当っていて、
-130-
していたものと思われるのである。
第二節
Hオグルが、
Env な る 者 と そ の 息 子 ﹀E ロ告白に属する種馬の群に行きあたった(∞円。印印兵
OZ25。
さて、﹃モンゴル人侵入史﹄には、先に述べたテグダル
彼の一分遺隊は、
ω
∞N)
千人の騎士を率いている
戸
と記し、ディミトリロ仲間長江二世王統治年間(一二七一ニ 1八九月)の記事に (
ロ
)
山
仏
﹂
。
。 N)
TW3 の 山 々 に 住 ん で い た ﹀ ロ 宮 口 の 息 子
ア ル タ ン と サ ム ツ へ の 聞 の ジ ャ ヴ ア ヘ テ ィ ア 同 雪 山W
について記し、ダヴィティ六世王在位中(一二九二一三一 O
)の記事に
H ハンの時代に要職にあったが、
k
r
gaz-FEAF)
山内何回ロの息子で、兄弟ブカをトゥカルに殺された ρ。
口
同B。
ロ
のE(∞
の名を挙げている。 また﹀日町内
H
m
g は、 アフマド
グ
ーデタ l側武将によって殺害された。
(
F
E
S
H
) すなわち、アリカン、グルムシ父子は、ベルシャ語史料の
KF1
伴氏の人で、
p 同HFHA山 斗 )
h-
や為、
ふれカ
R
E
﹀ロロ
﹃ヴァッサ l フ史﹄に
プラグリハンはクチュルの千人隊をアリナクに与えた
(℃白百戸且¥﹀"両国ω白hpHlr N
∞ω
v。﹃集史﹄﹁部族誌﹂には、彼は﹁メルキ
J﹀}FEEl﹀
-E2・ρU円ESEJOロ
門SUE-OロコHHZE に他ならない。
EWUN は
、 ピチクチとしてフラグに仕え、パ
アリナクの父吋巴向日吋或いは H,
彼等は、 ケレイト部
グダ Iド の 戦 利 品 接 収 に 当 っ た 百 人 長 で あ っ た
ト部同,
S
E
A
-口氏の人。ロの何回・円 の千人隊に属したが、
∞
∞
)
N
ouny・
円 が死亡するとアリナグはまだ幼少であったが、
(吋白富民P
ナクが、 シラムンの万人隊を治めていたとする理由まではないであろう。
巴
品
川g・0日
円
付
即
日p 切
k
の諸子は O酌円白山田宮間 E
MmFS i戸
召
ト﹃釘(芯円であった
mwHY
一二八九年の両戦役には見えないが、
﹁部族誌﹂には、
∞
)
一二八九年にはシラムンの子コンチパと
H ハトヲンを要ったから
(勺白自民泊¥﹀ 阿国ω白hpHlrNN
アリナグは一二八四年七月四日、 アルグンリハン側武将のクーデターに際して殺害された。﹃集史﹄
2
‘
kF
︼
日
ロ
一二八八、
とあって、 クルミシが父の地位を継いだ。彼がグルカン(附馬)であったのも、父の妻クジュク
であろう。 クルミシの名は、
共にイメレチアに派遣されている。 アルメニア人歴史家ステパノス・オルベリアンは、 ゲイハトゥリハンによって捕え
北大文学部紀要
-131-
(℃白臣民、白¥﹀己記叫白h
リ
とある。 ア フ マ ド は ア リ ナ ク に 娘 同 £ ERを与えて好適し
ア
m百二釦田 FW
グルジアの軍隊の長(冨ロ AAa
月 l-のロユ日)で勇猛果敢な武士アリナクを使者に指名し (︿忠明帥戸口∞)
回
何
てアルグンのもとに派遣した、とある。アリナクは、グルジスタly軍指令官の地位にあったのである。 しかし、
は
シルヴァ lンとグルジスターンのそ γゴル箪
吾EH凶の円(コSEEPω
a
o
J刊 に 連 行 さ れ た 大 千 人 隊 長 グ ル ム チ 同FC
我々の修道院タテフ同,E
切)
に勺いて記すので、 イ ル 川 ハ シ 交 替 の 政 変 に か か わ ら ず 、 千 人 隊 長 の 地 位 を 保 持 し て い た よ う で あ る 。 アルグン
H ハン
の死後、了ハン選出に関してオルドの重臣タガチキル、 クンチュクバル、 ト Pカル等が陰謀を一こ らし、諸部将もゲイハト
ヮ 支 持 派 と バ イ ド ゥ 支 持 派 に 分 れ た が 、 クルムシは、 ス ル ド ス 部 の チ ュ ー バ ン と 行 を 共 に し て ゲ イ ハ ト ヮ 支 持 に ま わ っ
ていた。右の事件はゲイハトヮの治世後期のことと思われる。
l ンとアリナクの息子クルミシ
Hグルカンは逃げ、
umy弘
m
qー 民 主 同 等 は 秘 か に ガ ザ ン に 臣 従 を 誓 い 、 ガ ザ ン 軍 が 接 近 す る と 軍 馬 の 調 教 を 口 実
トダチ切
HJ
や が て パ イ ド ゥ が ゲ イ ハ ト ? を 殺L て ハ ン 位 に つ き 、 ガ ザ ン と の 聞 に 争 い が 生 ず る と 、 タ ガ チ ャ ル 、 チ ュ ー バ ン 、 グ
ルミシ、 ブ グ ダ イ
Hチューバ
に持場を離れ、彼のもとに走った。﹃集史﹄﹁ガザン日ハン紀﹂には
トゥダジュ 、吋同門広一吉の万人隊に属L て い た ア ミ 1 ル
f
器EPHFEC)
(ガザン)の もとに至った(℃白巨s
h¥﹀凶
とある。 トヮダジュの父ドヮルパイロロユ)旦刊は、 ア パ ガ の 時 代 に デ ィ ヤ ル パ ク ル の 将 軍 で あ り 、 トゥダジュ自身は、ゲ
お一︿忠由民・ロ N)。 こ れ 以 後 グ ル ミ シ は 、
イわト Pの ヤ ル グ チ 、 パ イ ド ク の パ グ ダ Tド総督であった(吋白富民 PHON-N
ガザン西進、 ア ル ス ラ ン 日 オ グ ル 反 乱 軍 鎮 圧 、 グ ル ジ ア 王 ダ ヴ ィ テ ィ 六 世 反 乱 の 鎮 圧 、 ガ ザ ン お よ び ウ ル ジ ャ イ ト の シ
リア遠征に加わって功績を積んでいる。
(℃曲目出泊¥﹀旬国同町山
h
p
H
H
F
ω
A
F
M
W
)
じかL、 七O 一年ズル・カプミダ月三一二一O 二年六 l七月)ウ l ジャ l ンで発布した勅令には、 アミ l ルリヌ l リ l ンはア
ッラ l ンで冬営し
-132-
ら
れ
コlカ サ ス 山 脈 の 奥 地 に ま で 出 征 し て い る
アミ l ル日クトルグシ十 l は 、 寧 隊 を 率 い て グ ル ジ ス タ ー ン に 行 く よ う に
J
とある 。ガザン即位以後、グルジア関係の国事にはクトルグシャーが当り、
かち、早くより彼が、グルジスターン駐屯軍指揮官だったのであろう。
一
方
、 クルミシ自身は、 六九九︿一一一九九/一三OO) 年 の ガ ザ ン リ ハ ン 第 一 次 シ リ ア 遠 征 の 折 の ヒ ム ス 宮 ヨ ∞ の 戦
ハーフィズ・ア
Hオ グ ル 援
H ハンの時代、七一一一(一一一一一二/一二)年のシリア遠征軍右翼の将軍六名中第五番目に彼の名を記
司)。明らかに彼が万人隊長の地位にあることを示L ている。また、
・ω
闘 で 一 翼 を 率 い て い る ( ︿m
g民
ブル刊はウルジェイト
E
m包円
す一一(昌也制ム﹀σ門
口
・ 5e。また七一六(一一一一一六/七)年にウルジェイトがチャガタイ家のヤサウル J
区一
助のためにホヲ l サi ン に 派 遣 し た 四 万 有 余 の 軍 の 主 将 の 一 人 は ク ル ミ シ で あ っ た ( ︿ 忠 也F20lfo山田町帥包w N
回包削ム﹀σF
区一 ω包F280 この時代に万人隊長の位にあったものと思われる。
吋 H
次に、アブ J サイドがハンの位に即くと、﹃シャイフ uウ ヴ ア イ ス 史 ﹄ に は 、 有 力 な 部 将 が 各 地 の 守 護 に 任 じ ら れ た
が(﹀﹃門戸目。)
グルジスターンにはクルミシがいた
吋ロm
H
H 円四日﹄同 の息子ガザンと、 アミ I ル日ブ、カ
Hイルドルジ
処罰された高位の部将
H ハン侵入の際、出陣命令を受けながら従わなかった部将には、戦後
とある。クルミシはグルジスターン軍の総師の地位に就いていたことが知られる。
ところが、七一八(一三一八/九︺年のウズベク
Hア リ ナ ク の 息 子 ク ル ミ シ と ) ト グ リ ル ジ ェ
答刑が命じられたが、チューバ l ン H Yヤンは、この刑を峻厳に実施した。 ﹃集史続編﹄には、
の内、
アミ i ル
北大文学部紀要
~133 ー
Hチューバ
シルヴァ 1γ とグルジスターンのモンゴル軍
ロ仏・吋・官の三名は、今やアミ l ル
山﹀
Nl
σ吋
ロ
z
h
p
)
l ンは、我々を権力によって従えようと欲している。我々の父祖は決
m
して彼の父の旗臓の下に進軍したことはなく、却って彼より地位が高かった(但 昆
EHME、 前 デ ィ ヤ ル パ ク ル 軍
と謀り合い、 チューバ l ン殺害の計画を練った。彼等はチューバ l ンの副官トグマク、﹃ロm
E旦E 等を味方に引き入れ、この計画を実行に移した。彼等の軍隊は、 スルタニエに逃亡したチュ
司令官イレンジン H
田町mgyNω恥
)
、
(OU
H ハン軍に敗れた。捕虜となったクルミシは審問の後処刑され、彼の息子アブドルラフマンも父と
ω丘町宮に近いミナ l レ・ダル
ーバ I ンを追って前進したが、 アブ l サイドの支持を得ることができず、 ザンジャ I ン N
富E
m
w
g
u
m
w円でイル
日﹀耳F50、志茂一一一Ol二一良参照)
同じ運命をたどった。(恒住 -N!
クルミシと謀議をはかったブカ・イルドルジは、 ホラサ l ン 太 守 時 代 の ウ ル ジ ェ イ ト に 仕 え て お り
(FE--50) と い う 以 外 に 出 身 は 知 れ な い が 、 万 人 隊 長 級 の
彼がハンの位に即いて後は、 七一二(二三二/一二)年のシャ l ム 遠 征 軍 右 翼 部 隊 六 人 の 部 将 の 最 後 に 名 前 が 見 え る
即
(恒邑N
h
F
)。カラウナスのチューバ i ンの息子
l krσZ・5
武将であったろう。彼は捕虜となり処刑された。
ωロWロユ凹
の子で、二一
一
口
戸
Kra-Edmv巳 の 反 乱 鎮 圧 の
ω
彼は万人隊長でないにしろ、少くともかなり上位の
の中にトグルルジェの名が見
hpHi--ωNmw
(℃白日宮、知¥﹀﹂阿国 白
Hオグル
H スクルチ﹀︺ロ
仰可の城塞に保護されたが追討軍に
主謀者の一人ガザンは、逃亡し、 グルジスターンのアミ 1 ル日アルクナ・吋 -A-D
一二九五年のアルスラン
F
k
r
σ円
打たれた(伺川町内日制l
F550 彼の父ドグルルジェは、 タング lト人アジュ
八九年のダルバンドの戦役出征者中にその名が見え、
ためクルミシ、チューバ l ン等と共に出陣したが負傷して、クルミシの患護を受けた
。
(︿忠明帥FSAFW勾
∞
)
。
。 またガザン日ハンの第二次シリア遠征に加わった﹁万人隊、千人隊の諸将﹂
NNMwω ω)
ぇ、﹁トグルルジェの千人隊﹂の語も見える
-134ー
地 位 に あ る 千 人 隊 長 で あ っ た よ う で あ る (志茂、
﹃ウルジェイト史﹄
一二三四頁参照)。
次にチューバンの副官であったトグマクについて、
(心曲目}岡山町Hfmv)
J 閃む口﹄川出向 であって
(出比円山 -wN lNφhH吋吋)、
∞
のウルジェイトの大アミ l ルのリストに
チューバンの家臣ではなく、身分上はイル
Hハ
ン
二二番、側近(日忠岡山) のアミ l ル
、 トヮグマ lク 叶 ED
52。君側(自己宮吋門知臣官官旦) にあるヒタイ人トカジ
・
W
開削﹄帥
ャク、吋wと昇一の息子。
とあるが実は父は
に直属する高官である。
トカルとクンチュクパル
日。帥
mgEh 志茂、
斗N
一二七 l八頁参照)。 ﹃ヴァッサ i フ史﹄には、
(JNmgppsω)
c
g
m
w
Bム
-135ー
イレンジンは、ヶレイト部のワンリハンの曽孫で、 イル日ハン家の婚族であり、 ウルジェイトの宮廷では第六番目の
EEE¥ ﹀旬 5 2 P H r N
高位を占めていた (
ジェイト死亡の時ごコ二六年二一月)
h-
LV 争れ
大 将 軍 イ レ ン ジ ン は グ ル ジ ア 人 の も と に (合吋関口吋}) 、
、
とあって、彼のキシュラ]グもグルジスターンにあったことを示している。すなわち、 グルジスターンにユルトを有し
ウ
σ伴身一日ノヤンの名が見える。
H ハン紀﹂には、﹁古参の大将軍
Hオ グ ル の 反 乱 鎮 圧 関 係 の 記 事 に ア パ タ イ ﹀
ていた有力な武将の四名まで、がクルミシと共に滅ぼされたのである。
第三節
一二六二年の戦役、 一二六九年のテグダル
彼はコンキラ lト氏人で、 フラグに従ってイランに遠征し、﹃集史﹄[アパガ
北大文学部紀要
ノ
レ
H
m缶詰﹂
l 山内
円
、
M
W
H
.
σロ
の一人に数えられている。息子達にナルブル Z
シルヴァ lンとグルジスターンのモ γゴル箪
Z
N
Z話
ヴトマン
︿耳目帥ロ、
一
Hハ
グトルグ・テムル
切
ロm
y
m
Fロ}内宮山口 U キラムン
、
口
山由
) アパタイ自身
hpHrω mrHHF∞ w 50。
(℃白巨国泊¥﹀旬甲山
ω白
。ロ己口問刷何回吋目白ロ円、があり、 ヴトマン、 ク ト ル グ ・ テ ム ル は 各 々 ブ ル ガ ン け ハ ト タ ン
トゥン 岡山岳吉岡ロ WV
帥仲 Uロをイル一川ハンの室に入れている
,
は、六七九年サフアル月(一二八O 年六月)に死亡したが H
E
由民PHHFEω)、﹃集史﹄﹁アルグンハハン紀﹂にハンは
、
(
ま た 、 そ の 時 、 ナ ミ l ル け グ ン ジ ュ ク パ ル CC旦ロρぴ 包 に 恩 寵 を 賜 い 、 祖 父 ア パ タ イ Hノ ヤ ン の 地 位 、 す な わ ち 中
22 災PNS)
Hウ ル ス 軍 侵 入 に 先 陣 を 命 じ ら れ て い る の も 、
ウルジタイはジャライル部のアグブカ
キシュラ!グがオルドと近かったことを示している。
H ハンに処刑された。
-136ー
-軍のアミ l ル の 職 を 与 え た
}
,
m
w
m
v
m
w
n
v
m
w トヮカル 叶即日内即日と共に国政を熊
とある。一アルグン、ゲイハトゥ、パイドゥ三代の治世期にタガチャル 、
、
円
一族がイルリハンの外戚であるばかりか、彼自身アル
( 叶 白 迄 浜 ク 一54)
。
断した万人陵長グンジュクパルはアバタイけノヤンの孫である。
グ ジ 日 ハ ン の 長 女 ウ ル ジ タ イ dgS︼刊を要った
彼のユルトは、﹃ヴア γサl フ史﹄に、 ゲ イ ハ ト ゥ が ハ ン 位 に 即 く た め ル l ム か ら イ ラ ン に 来 る と い う 情 報 を 得 る と 、
ヮを擁立しようとしていた
krg に行った(︿忠明 U F N勾)
ク シ ジ ュ ク パ ル は 逃 げ 、 熟 慮 の た め ア ラ タ lグ
九年のジュチ
, ン チ ュ グ バ ル は 、 バ イ ド す と 運 命 を 共 に し 、 ガザン
グ
u
ノヤンに与えられた屯由自民h¥﹀ 旬52PHHYENω 。
。
)
。
トゥ品川ルは、グンチュグパルと同じく、アルグン、ゲイハト夕、パイドゥ一二代にわたって宮廷で高い地位を得た武将
H
とあるので、 ヤイラ l クは大アルメニアに、 キシュラ l ク は 恐 く ア ラ ス 河 の 温 暖 な 河 岸 に あ っ た で あ ろ う 二 二 八 八 年 、
ノ、
5)
ρロ己門戸川山口
,仰向戸氏のウルグドヮロ叫mE
UEσ
E印
ロノヤンの息子イスブカ J
ロ σEA帥 Hクルカンに与えられ、彼が死亡
であった。﹃集史﹄﹁部族誌﹂の記載にはないが、﹁フラグ日ハン紀﹂には、 フラグの六女クトヮルカン
(吋白宮浜0
一
・
ドゥルベン
すると息子トヮカルが要った
A
M吋を要つ
ロロ凶叶日E
トゥカルがガザンの命令で処刑されると、 マング lト部のクトルグシャ I Hノ
H ハンの次女ウルジャテムル
とある。イスブカの没年は六六五 (一二六六/七年)であるが 32MRPE)、 イ ル 日 ハ ン 国 の 年 代 記 に ト ヮ カ ル の 活 動
(
吋
u
8
0
)。彼女は、
2V5・s
が述べられるのもこれ以降である。 またト?カル自身は、 アルグン
ている
ヤンル}再婚した。
ノ
r
ih
、
f ゲイハトヮの報復を恐れ、﹃集史﹄﹁ガザン
H ハン紀﹂には、
白浜
(斗白 V
mwwN@hF)
、
﹃ヴプ γ サ1 フ史﹄には、パイドゥが即位を望まないのか}知って、彼を擁立しようとしていたト Pカ ル と ク ン チ ュ ク
〆
︿・レ十
下ウカルはそれを不快としで引返し、家のあったゴルジスターン地方に行った
とある。また﹃モシゴル人侵入史﹄には、ダヴヰティ六世即位(一二九二年)間もなく
王ダヴィティのもとにアララットの山々に住むハン H官庁・)トヮカルのもとに行くように誘う急使が来た(∞円。回問。 F
]﹁ GHω)
とあり、 ト Pカルがガザン側の武将クルミシに殺されると
(FE428
王ダヴィティは、同じくオス人の諸侯パレジャン即日・ 0
丘
m
g に託されアテニ ﹀ZE に置かれていた(トゥカルの)
患子達、武器と財産の全部を引渡した
北大文学部紀要
-137-
は
シルヴァ lγ とグルジスタ lγ のモンゴル軍
とある。トゥカルのヤイーラ 1 クは、 グ ル ジ ス タ ー ン 州 の 南 部 で グ ル ジ ア 領 ア ル メ ニ ア の ア ラ ラ ッ ト 地 方 の 山 地 で あ る 。
FUM 凹
。釦円m
m
v、 カ ラ ポ グ OR協 定 町 、 カ バ ンρSE 等、
上流にアララット、アラ
コンキラト、 ド ゥ ル ベ ン 両 附 馬 家 の ユ ル ト が 存 し た が 、 彼 等 は 、 ガ ザ ン 登 酢 の 政 変 に よ っ て 除 か
ア テ ニ に キ シ ュ ラ l ク が あ っ た と は 思 わ れ な い が 、 こ こ は ト ピ リ ス ィ 北 西 約 六0 キロメートル、、、コリ地方の渓谷の村で
ある。
アラグス河上流に、
れたのである。
プラス河は、中流両岸にカラダグ
、 ムl ガ l ン の 温 暖 な キ シ ュ ラ ク を 有 し て
タ グ の ヤ イ ラ l ク 適 地 を 持 ち 、 中 流 域 に ナ ク チ ェ ヴ ァ γ、 下 流 に ア ッ ラ l ン
Hノヤン、
Hノヤンは、
Hオグル、
ω同日
H
(山田町山
スル、ドゥス
ウルグトヮリノヤンのみならず、 チ ャ ガ タ イ 家 の テ グ ダ ル
いた。今日もここにはシャフセヴアン、 ト ル コ マ ン 等 の 遊 牧 民 集 団 が 見 ら れ る 。 こ こ に は 明 ら か に 他 に も 多 く の 軍 隊 の
ユルトが設置されており、 ア パ タ イ
スルドヮス部の軍隊とチューバ l ン 家 の グ ル ジ ス タ ー ン 支 配
ュチ家の、 ト ゥ タ ル 、 パ ラ ガ イ 日 オ グ ル の ユ ル ト も 同 河 流 域 に 設 け ら れ て い た 。
第四節
ウルジェイト、 アブ l サイド両ハンの元帥(釦白山門包1
ZER円) で あ っ た チ ュ ー バ l ン
rAF一出切)
(℃白自国泊¥﹀同国国
白p
門町広部の人であった。﹃集史﹄﹁部族誌﹂
ωh
戸
一
ωロ丘町 WAUノ ヤ ン は フ ラ グ と と も に イ ラ ン に 来 て 、 ヤ ル グ チ 、 右 翼 の 千 人 隊 長 、 宿 営 の 武 将
スンジャグ
u
w
m
w 口 付 副 司 の 次 席 に 座 し た 。 彼 の 兄 弟 に ケ ブ テ ィ 同F 岱 Hノ ヤ ン 、 ア ラ テ ム ル
Hイ ル カ イ 同
、 ドゥダウン、吋ロ仏m
吋
日EE-E 仰E
E口、テムル日ブカ叶即日ロ吋回町内嗣仰があった
の
日付)を務めクケ
阿内命一N
w
m
イダチ﹀吋
三
止
。
。
とある。 スンジャクの兄弟中トゥダウン日バハドルは、
Hパ
冨州込山町
一二七七年四月、 アプルスターン﹀ぴ巳ロ∞片山口でスルタン
イ パ ル ス の マ ム ル l ク 朝 軍 と 戦 っ て 敗 北 し た 万 人 隊 長 で あ っ た 。 チューバ l ン は こ の ト ゥ ダ ウ ン の 子 マ リ グ
子 で あ る032%♂白品)。彼は、 ク ル ミ シ と 共 に ト ゥ ダ ジ ュ の 万 人 隊 に 属 し 、 パ イ ド ゥ と ゲ イ 川 ト ゥ の 支 持 者 の 間 で
ハン位が争われた時にゲイハトヮに組し、 ガ ザ ン が 挙 兵 す る と 逸 速 く そ の 幕 下 に 参 じ 、 バ イ ド ヮ 軍 と の 戦 闘 、 アルスラ
ン日オグルの反乱鎮圧に功績があったことは既に述べたとうりである。
彼の地位はウルジェイトが即位すると著しく引き上げられ、ガザンリハン以来のアミlルルリウヲヲーであったグト
∞
)
。
また、
Hチューバ
1ン
(切吋。回目ゆ
F ]﹁
一三O 七 年 の ギ ラ ン 親 征 軍 の 編
四個に編成された全部隊中の一つであった
HMY
ル グ ジ ャ ー に 次 い で 第 二 の 高 位 と ﹁ 大 将 軍 、 タ ジ 1 ク 人 と ト ル コ 人 の 総 帥 、 正 義 玉 (問自可E
N
5
m
w
s
z
a
ρ 包EBl
チューバ l ンの率るスルドゥス部の部隊は、
、
吋
帥 N持︿知、叶ロ吋w
S
E
C
4
F
e
) の称号を与えられている(心山田町帥
w 問V
成を見ると、
。ωouJ。
彼のユルトは、﹃集史続編﹄の既に述べたグルミシの反乱直前の記事に
アミ l ルリチューバ l ン は グ ル ジ ス タ ー ン 方 面 に 向 っ た 。 兵 士 は 各 自 の 目 的 地 に 向 っ た 。 ア ミ i ル
(叩即時山相﹀
は宮沢子アミ l ルいハサンを荷物(ロm可。。)と妻のもとに留め、自分は若干の騎士を連れてコクチェ・デンギス間同町宮
σF
AF)
吋E
吋目白 判
m 定に向った
Hチューバ
l ンのヤイラ 1 ク で あ っ た ガ ス レ ・ タ lグ
。凶印 ・
H 14山
寸帥A と ゴ ク チ ェ ・ デ ン ギ ズ に
仲
( 叫 仙mNl同
と あ り 、 後 に チ ュ ー バ l ン の 孫 マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ に 会 う た め に ル l Aよ り ナ ヒ チ ェ ヴ ァ ン 経 由 で カ ラ パ グ に 向 っ た 人
々は、
アミ l ル
北大文学部紀要
-139ー
の
シルヴァ lンとグルジスターンのモンゴル軍
σ
-NNN一民-wωωgmRDm FEN)
凶Z
円
ロ
到着したと記す。 チューバ l ン の ヤ イ ラ l グ は ゴ ク チ ェ ・ デ ン ギ ズ ( デ ニ ズ ) す な わ ち セ ヴ ン 湖 の 岸 に 存 し た の で あ る 。
Hウ ヴ ア イ ス 史 ﹄ に
ま た オ グ ル 1 グ を 置 い て い た キ シ ュ ラ l グは、 オ ル ド に 近 い ク ル 河 岸 だ っ た ろ う 。
吋0
ω
)
﹀円B
m
Hロ と グ ル ジ ス タ ー ン の 支 配 権 を 与 え ら れ て い た シ ャ イ
F
E
H
U
N
)
1ド は グ ル ジ ス タ ー ン を 降 し た (
(
k
p
H
Mr
H)
円 E
クルミシの反乱後、 グ ル ジ ス タ ー ン 軍 の 総 帥 の 地 位 に つ い て は 、 ﹃ シ ャ イ ブ
H マブム
シ ャ イ プ リ マ ブ ム lド を グ ル ジ ス タ ー ン に 派 遣 し た
或いは、
シャイフ
とあり、﹃集史続編﹄に
アミ l ルけチューバ l ン の 息 子 達 の 中 に ア ル メ ニ ア
F
円
ロ
∞ωunrωω自民ρω
NlFKFσErH
プリマフム lド が い た ( 明 邑F
∞
・
である。
とあって、 チューバ l ン の 第 四 子 シ ャ イ ブ け マ フ ム iド に 与 え ら れ た の
lドの地位は、 ガ ザ ン の グ ル ジ ア 軍 指 揮 官 で 、 ガ ザ ン と ウ ル ジ ェ イ ト の ア ミ l ルル・ウマ
(KFFZUEU)
k
r
FY
チ ナlパ l ン が 一 三 二 七 年 に 失 脚 す る と 、 シ ャ イ プ リ マ フ ム lド も 捕 え ら れ 、 処 刑 さ れ た (
円 E T 司 邑Z
v
w
N
l即﹀σ
EC
一ωωSROmロ2・E) が、
H マフム
グ ル ジ ス タ ー ン は グ ト ル グ 円 シ ず 1 の息子イクパ l ル 日 ジ ャ ー に 与 え ら れ た
とあって、 シャイフ
ラ ー で あ っ た ク ト ル グ シ ャ ! の 息 子 イ ク パ ル シ ャ l に与えられた。
と こ ろ が 、 同 じ く ﹃ シ ャ イ フ リ ウ ヴ ア イ ス 史 ﹄ に 、 七三四(一一三三ニ/四)年冬、 アブ l サ イ ド 日 ハ ン が バ グ ダ ー ド で
-140ー
冬営中
アミ l ル
吋)
Hシ 十 イ フ ハ ハ サ ン は グ ル ジ ス タ ー ン 方 面 に 行 く よ う に と の 勅 令 が 下 り 、
(
σ
a
w
H
q
アミlルはその方面に赴いた
(
ω
m
B
ω 円宮出向凶Y5J三宮市出)。ァ
ω帥仲間切符との聞になしたスルカン(・シラ)
ω2
-MgaES)
(FE453、 グ ル ジ ス タ ー ン で は 、 チ ュ ー バ l ン 家 の 人 々 の 勢 力 が 強 大 と な る 。
ベグ
Mハγの娘サティ H
。
とある。ジャライル部のハサン(大ハサン﹀がグルジスターン軍の指揮を命じられたのである。しかし、彼は間もなくル
-ム総督に転じ
チューバ l ンが、ウルジェイトゥ
は 、 大 ハ サ ン が グ ル ジ ス タ ー ン に 派 遣 さ れ た 時 に 母 と 共 に ア ッ ラ 1 ンのカラパグにいた
Hケ ウ ン を ハ ン 位 に つ け た 。 し か
L、 七三六(一三三五/六)
ブ l サ イ ド が 死 亡 す る と ( 一 三 三 五 月 ) 、 彼 は ウ グ ラ ン ジ 口 対 日 丘 ウ ル ト ゥ グ シ ャ l d円
ZAω ﹃帥町、ラシ lドウずデ-ィ l
ンの子ギャ l スッディ 1 ン ・ ム ハ ン ヤ ド 等 と 企 っ て ア ル バ
(担問片山lNi
r
σ円
山k
UiuEUEC)。 ジ ャ ラ イ ル 朝 の 大 ハ サ ン は 、 ア リ l ・パ lドシャ l に 抗 す べ く ム ハ ン マ ド を 擁
年ム l サ1 宮回目仙一を支持するオイラート部のアリ l ・
パ lドシャ l の 軍 に ア ル パ が 敗 れ る と ス ル カ ン は グ ル ジ ス タ I
ンに逃げた
(K戸町吋
。
rgAF)
して挙兵すると(一三三式年)、彼は大ハサンに組し、勝利の後カラパグの入口からグルジ九タlンの入口までを与え一ら
れた
N
一三三八年チューバ 1 ン家のハサン(小ハサン)が大ハサンをパグ、ダ Iド に 追 っ た 時 も タ フ リ ー ズ に 留 ま り 、 実 母 サ テ
ィ ・ ベ グ が 即 位 す る と 、 小 ハ サ ン 、 ア リ l ・ ウ ク ラ ン ジ 、 ウ ル ド ゥ ブ カ と 共 に ア ミ l ル職を与えられた(笹山P E S。
こ の 間 も ス ル カ ン の ユ ル ト は グ ル ジ ス タ ー ン に あ っ た が 、 七四一(一一一一四O / 一)年にはイラ l ク ・ ア ジ ャ ミ ー を 与 え ら
}
E・5∞一一山由日常宮口︻凶Y50)。
﹀
れて、ライに去った (
北大文学部紀要
-141ー
シルヴァ lン?とグルジスターンのモ γゴル軍
r 思。﹃集史続編﹄には、
叩仙防相 l-k可
この依奴スレ
か つ て の グ ル ジ ス タ ー ン 総 督 シ ャ イ フ 日 マ フ ム Iドの子ピ l ル ・ ア サ イ ン は 、 大 ハ サ ン の 武 将 で あ っ た が 、 大 ハ サ ン
gmr
と 小 ハ サ ン と の 聞 に 戦 闘 が 生 じ た 時 に は 後 者 に 味 方 し た ( ﹀ 宵F
イマ 1 ンをハンに擁立した小ハサンは、
、 アッラ l ン、ム iガ l ンと自分の従兄弟でシャイフ・マフム一 Tドの
ァ lザルパ lイジャ l ン
イラク・アジャミ l、
4
m
w
b
m
w円 色 白 円 仰 ︿ 釦 吋 仏 ) 。
山山内回一打
1ドの子のピ l ル ・ ア サ イ ン が グ ル ジ ス タ ー ン に い た が 、 小 ハ サ ン に こ こ を 聞 け
アミ l ル日ピ l ル・アサインは、 能う限りの多勢の者とともにカルス心川町 ω
子ピ 1 ル ・ ア サ イ ン と 兄 弟 達 が 持 っ て い た ル l ム に 至 る ま で の グ ル ジ ス タ ー ン を 把 握 し 、 所 領 と し た ( 仏ω 門ACσ 印山 1
伊丹問的目白吋口同
H マフム
地方に向った(恒段目畑 l山﹀σF
吋 N
O∞)
とある。この時までシャイフ
仲門同J
(目印}円円四J
H
1・
∞
ω・N
O∞
∞
]
忘
)
。
wNE
H
一
}M
ハ
リ ・
E
m
v
m
g、ドアハ l ンロ民
わたしカルスに移動したのである。彼の兄弟達とは、シ l ル l ン印庄司即ロ、チャマガ i ン
。 ピ l ル・アサインはこの後ファールス総督を命じられたが、在任中小ハサンによって
∞ω
)
(-σ
川広島町宮であろう
毒殺された
小ハサンが暗殺された(一三四三年)後、息子のマリク・アシュラフが北西イランの支配権を得たが、﹃集史続編出一には
(
F
E
N
N斗 )
七四人(一三四七/八)年、 ア lザルパ lイジャ I ンのカラパ lグに大アミ l ル で 、 大 軍 を 擁 し て グ ル ジ ス タ ー ン に
居たアミ l ル・ジダ lイ同・仏∞句、が全馬群と共にマリフ一・アシ一年ラフのもとに来た
とある。 マリグ・アシュラフは、 カ ラ パ グ の 冬 営 地 か ら ダ ブ リ lズ に 向 う 途 中 、 本 営 に 伺 候 し た 高 位 の 武 将 で グ ル ジ ス
(FE--)
他に知ると
ターンを支配していたジダイを、 この後謀殺し、彼の従者を掠奪させた。ジダイについては、 七四四(一三四三〆四)年
にスルカンがマリク・アシュラフと争った時後者に組し、 ス ル カ ン の 戦 列 を 破 る 功 を 上 げ て い る
-142-
ころはない。考え得ることは、彼、がマリク・アシュラフの譜代の臣ではなく、同盟者であって、 マ リ フ ・ ア シ ュ ラ ブ の
Uノ ヤ ン の 子 孫 、 ア リ ナ ク 、 グ ル ミ シ
Hアシュ一フフは将来彼が自己の権力の敵対者となり得ると考えて除いたの
H ハン圏中後期に、グルジスターン軍の司令官であったシラムン
統治権内の異質な要素であったので、 マリグ
であろう。イル
日グルカン父子等は政変叛乱の際に処刑され、オルドの重臣であったトゥカル、クンチュクバルも失脚した。チューバ
、 アミ l ル Hジダイがこの地方にい
ー ン 朝 の 時 代 に は 、 ソ ル カ ン リ シ ラ 、 ピ I ル・アサインの子シャイフ日マフム lド
、 グルジア王国の自立
シ ル ヴ ァ l ン け シ ャ l園
たが、彼らも次々と移駐、謀殺を被ったのである。
第三章
歴代イル日ハンがシルヴァ l ンとグルジスターンに配備した軍隊は、次第に配置転換、領袖の没落等部族編成改変の
理由となるような事情に至ったことは既に述べた。
﹁その方面に定められていた諸放の守備隊と前衛が減少し、
﹂こは辺境であるので彼等はこの
﹃集史続編﹄には、 グ ル ジ ス タ ー ン の セ ヴ ア ン 湖 に 近 い 一 城 塞 に 龍 城 し て い た ア ミ i ル Hガザンの反乱が鎮圧された七
二O( 一一ニ二O〆一)年冬
そのころ箪隊から、
為常に危険にさらされている。兵員に不足が生じ、軍人が(定数より)少いのは望ましくない﹂。という報告があっ
(gEE)
で あ る 大 副 官 (E5SFムぴ CN
ロ
円
尚
一
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となるように決定した(恒邑-可制ム﹀ぴ円。・ 5
0
)
た
。 スルタ l ンリアブ i サイドは彼等の言を取り上げ、 全軍がその方面に行き、 またスルタ 1 ンの命令によってそ
3
の州の知事
北大文学部紀要
-143-
シルヴプ lンとグルジスターンのモンゴル軍
‘
UNNEω
mwEmzg岳の年代記七二一(一一三二/二)年
とある。また、 ア ブ ド ル ラ ザ グ ・ サ マ ル カ γディ I 長E mアH
の項には同じことが、
oe辺 境 軍 の 減 少 が 報 告 さ れ た の で 、 兵 員 の 再 配 備 、 新 た な 任 命 に よ ら な い で 各 地 方 軍 の 司 令 官 は そ の ま ま 留 任 す
と命じ
、 その方面の軍隊な充分であるように、スルタリ1 y uウ ル ジ ェ イ ト ゥ の 命 令 に よ っ て そ こ に あ っ た 知
スルタ ivJは
事 ( 宮EE) は 、 そ の 地 方 の 司 令 官 QRBElEロロ抑) であ忍ように、また諸地方の情報を集めるように、
(
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B
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A
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F
ω
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)
とある
N ハンを擁立して、北西イラ
γの支配権を得たジャライル朝のシャイフ・ハサンは、一一三一己八
Hベクに、
l ンに、 ムl ガ l ンとパ l ルl ン 回 常 国 ロ の 千 人 隊 を 自 分 の 息 子 ユ 1 スフ・シャ l に与えた。
-144ー
る ζと 、 情 報 集 収 に 意 を 用 る 等 の こ と が 命 令 さ れ た の で あ る 。
ところで、 マブム Iド
Hウヴアイス史﹄には次のようにある。
ωFR同 司 と ド ヴ ィ ン ロ4E をナフチヴァ l ンに至るまでアクジ lkrw出 の 息 子 ハ サ ン
年醒下の部将にユルトを分配したが、﹃シャイフ
シャルール
Hチューバ
5AF)
Hジ ダ イ が い た は ず で あ る が 言 及 さ れ て い な い 。 と こ ろ が チ ュ ー
a
リーズに入城じ新王朝の一基礎が置かれた七四人
バ1 ン 朝 の マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ の 支 配 権 が 確 立 し て 、 彼 が タ フ
ω
ω
B
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-山口弘 fNNAF)
七/AV年
、 ア ブ ド ル ラ ザ ク ・ サ マ ル カ ン デ ィ lは (
、
、
〆
v
先に述べたピ l ル・マフムードの諸子、及びアミ I ル
シルヴァ l ン に シ ャ イ フ 日 チ ュ ー バ ン が グ ル ジ ス タ ー ン 東 部 に は ス ル カ ン が 派 遣 さ れ た の で あ る 。 グ ル ジ ス タ ー ン に は
(﹀回同吋戸
シャイフ
バ グ の 入 口 か ら グ ル ジ ス タ ー ン の 入 口 ま で を ア ミ 1 ルリスルカンに、 シルヴァ 1 ン と 前 線 を イ キ ン ジ ZE︺の息子
カ
一
一
一
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一
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た
﹃シ十
アIザルバ lイジャ l ン と イ ラ ク ・ ア ジ ャ ム と ア ッ ラ l ンとム l ガ l ン と グ ル ジ ス タ ー ン の 一 部 と グ ル デ ィ ス タ I
ンとトルクマ I ンの諸部を武将に分け与え、 必要な園事を定めた
Hウ ヴ ア イ ス 史 ﹄ に は 、 同 年 バ グ ダ ー ド 遠 征 に 失 敗 し た マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ は ( ﹀ 宮 内
FHa13
と記ナ。 シルヴァ 1 ンには言及されておらず、 グ ル ジ ス タ ー ン も 一 部 の み が 分 配 さ れ て い る だ け で あ る 。 ま た 、
イフ
、 キプチ・7 4ク草
シルヴァ 1 ン
a
リーズに入城した。彼は百一践の飢えた狼をア lザルパ lイジャ l ンとアッラ l ン に 放 し た 。 彼 等 は 各 人 が
再びタ フ
J
、
望 む と こ ろ の こ と を 行 い 、 住 民 は 命 か ら が ら 国 を 捨 て た 。 あ る も の は ギ I ラl ン
原に行き、 い く ら か の 者 は グ ル ジ ス タ ー ン に 行 っ た
とある。すなわに、 シルヴァ l ン と グ ル ジ ス タ ー ン は マ リ ク 日 ア シ ュ ラ フ の 放 っ た 百 頭 の 狼 す な わ ち 徴 税 吏 か ら 自 由 で
h
z
m ぴ 釦 F N S l出。)
あったのである。(の?﹀旬5
2pω 司
(﹀日同門F E O )
マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ の 子 ア ヒ ジ ュ l ク ﹀ WF4uoが 父 の 旧 臣 を 糾 合 し
また、マリク・アシュラフの領土を占領したジュチけウルスのジャ﹄一日ベクの子でイラン総督に任命されていたベル
ディ日ベクが本国に撤退(二二三五年)すると、
て、支配権を樹立したが、﹃シャイブリウヴアイス史﹄には
彼 は ア { ザ ル パ lイジャ l ンをアシュラフ朝の武将達に分割し、亡一各人に一地方を与えた。アミ l ル日シャ l ・ラ l
フダ i ル問削げ弘常をコクヂャク同己内宮町、ピ l ルr
uア サ イ ン と 共 に ア ッ ラ l ンに遣した
と あ る 。 ァ l ザルバ lイジャ l ンとア yラl ン以外については言及されておらず、 シルヴァ l ン と グ ル ジ ス タ ー ン に は
アヒジュ i クの支配権は及ばなかったもののようである。一
T
、 グ ル ジ ス タ ー ン 両 地 方 か ら モ ン ゴ ル 寧 が 移 動 し た ζとによって、 モンゴル 人政権と一土着地方政権との
シルヴァ l ン
北大文学部紀要
,-1
4
5ー
シルヴプ lンとグルジスターンのモンゴル軍
関係はどのように変化したであろうか。これらのモンゴル寧はジュチリウルス軍の侵入に対する防衛箪としての役割を
i ン日シャーがオルドに伺侯したこと
H
果したと同時に、占領軍として、駐屯する地域に混乱が生ずればただちに出動して鎮圧掃討を行う機能を有したからで
ある。
H ハンがイランに到着した時、当時のシルヴァ
大コ l カ サ ス 山 脈 が カ ス ピ 海 に 没 す る シ ル ヴ ァ l ン地方は一二世紀よりキスラ l ニl 同日田円削ロ日朝のシルヴァ I ン
シャ l の支配下にあった。プラグ
Hシ ャ ! の 行 動 が 見 え る よ う に
は知られるが、その後一一一一三0 年 代 に 至 る ま で の シ ル ヴ ァ 1 ンの動静を示す史料はきわめて僅'少で、かろうじて君主シ
ルヴアン・シャ l の 系 図 が た ど れ る に 過 ぎ な い 。 ベ ル シ ャ 語 年 代 記 に 再 び シ ル ヴ ァ l ン
なるのは、 チューバ I ン朝の時代になってからである。
z
σ 包の息子で、父に代って実質上君主の地位を与えられ
その最初は、 七四五(二一一四四/五)年ケイコパ Iド 同 包a
マリク・アシュラフが臣下の一武将を処刑するのを目撃して恐れ、本国に逃げ帰ったのであるが、これ
ていたカ Iウス開削門戸田がカラパ lグのマリク・アシュラフのオルドに伺候した記事である。
カ lウスは、
は、七四七(一三五六/七)年、 七四人(一三四七/八)年の二度にわたるチューバlン朝のシルヴァlン遠征の原因とな
った。 ア ブ ド ル ラ ザ ク ・ サ マ ル カ ン デ ィ ー は 、 最 初 の 遠 征 に つ い て
Hシャ
(明即時同制IF
﹀宵F 時点
1軍は、 ア シ ュ ラ ヲ 軍 の ク ル 河 渡 河 を 阻 止 し た こ と を 述 べ る 。 二 回 目 の 遠 征 軍 は ク ル 河
ω
ω 目白吋告白門戸
カ lウスが河岸に来たので、 ア シ ュ ラ フ に は 、 事 が 成 立 な か っ た 。 彼 等 は 互 に 和 を 結 ん で 、 離 れ た (
NNω)
と記して、 シルヴァ l ン
は越えたものの、 カ lウ ス を 捕 え る こ と も 殺 す こ と も で き ず 、 各 地 を 荒 掠 し た に 過 ぎ な か っ た
-146-
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吋門戸川
州
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マリク・ブシュラヲはシルグァ l ンに駐屯軍を持たなかったから、遠征軍の武力のみによってはジルヴァ l ン・シャ
ーを支配することは既に困難になっていたのである。七四五年カ lウス来朝の折、マリク・アジュラフが、彼に
全 き 栄 誉 を 与 え 、 金 糸 の 帯 、 帽 子 、 金 飾 り の 剣 を 下 賜 し 、 毎 日 彼 に 接 見 の 名 誉 を 授 け た ( 司 邑 制 ム ﹀ 耳 FNNU)
マリグ・アシュラフの子アヒ lジュ lクが父の残党を集めて支配権を打ち立て、 アッラ l ンを自己の武将に与
のはこの理由によるものであろう
次に、
えた時、 ガ ン ジ ャ のω丘町凶の住民はカ!ウスに救援を求めた。カ lウスは息子ヌ l ルダル Z位三一山門を派遣した。 シルヴ
ァl ン軍、がクル河のジュ lイ・ノウでチューバ l ン朝の軍隊を敗り、 アラス河まで進撃した後、両者の間で和平が結ば
れ、ヵ l vスはシルヴァ l ン、アヒ lジュ i クはカラパグに一民った (﹀げ門戸冨。)。すなわちこの時、シルヴァ l ン Hシ
Hウヴアイスの懲罰遠征を惹起した(七六八日一一三ハ六/七年)。しか
Hウ ヴ ア イ ス の 時 代 に 二 度 に わ た っ て カ ラ パ グ に 遠 征 し 、 多 く の 住 民 を 捕 虜 と し て
ャ1は、チューバ!ン朝の権力から完全に独立していたのである。
また彼は、 ジャライル朝シャイフ
シルヴブ I ジ に 連 れ 帰 っ た 。 こ れ は 、 シ ャ イ フ
し、遠征には成功したものの、ウヴアイスは、ヵ lウスに七六五(二ニ六三/四)年以来の臣従関係の再確認を求めたに
すぎなかった(﹀旬国shpω認18。
一方、 グルジスターンは、 アッラ I ンの側面に位置してカフカ l ス山中のダリヤル峠を押え、 シルヴァ l ンと共にイ
ルリハン国本土防衛の騎壁であった。 主都トピリスィにはモンゴル人の総督(シャフネ日ダルガチ Vが置かれて治安維持
に、イラン人徴税官守山口) が税務に当った。また、本稿に述べたごとく多数の一モンゴル人がこの地方の内部にユルト
北大文学部紀要
-147ー
シルヴァ lン一とグルジスタ iγ のモンゴル寧
を割当てられていたが、彼等は占領軍であって、一旦反乱が起これば、最初に動員された。従って、一イル民ハンの権力
が弱まり一、 タル一河流域のそン、ゴル軍兵力一に減退を見始めたアブ I サ イ ド の 治 世 期 以 降 、 グ ル ジ ア 王 国 め 政 治 的 活 力 は 飛
躍的に高まった。﹃モンゴル人侵入史﹄には次のように記されている。
付 イ ラ グ の モ ン ゴ ルλ の間巴分裂が生じたので、 ギオルギの目。括一凹光輝王(在位二ニ一四?J 一三四六年)は、 グルジ
中略)
ァ、からタタール人を追放した。或る者は策略によって、 ま た 或 る 者 は 武 力 で 、 総 て 彼 の 領 土 か ら 姿 を 消 し た on
彼 は 軍 隊 を 集 め る と ラ ン (アッラ 1 ン) に 入 っ た 。 そ こ で は 何 の 抵 抗 に も 逢 わ な か っ た 。 そ こ か ら シ ル ヴ ァ ン に 行
-148ー
(切吋。曲師ゆPHWAWAF0130
Hシ 十 l に 対 す る の と 同
ア
き、勝ってティフリ系(トピリスィ)に帰った
ω彼の支配権は次第にモウカン(ムガン)、ヲン、ソムヘト ωs
z
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( アルメニア)に固まった。それらは彼に定期
。w
Uジャヲは彼の
的 に 貢 納 を 納 め た 。 彼 の 領 土 内 に タ タ l ル人は残っていなかった。全グルジアは秩序が整﹀えられて法の下に臣服
ニコプスィアからデルベンドに至るまでのロ 1カサスの住民、ランーョモウアカン、 シルヴアン
QEa--G
品
∞
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。
シルヴァlン
グ ル 河 左 岸 を 制 圧 す る こ と が で き ず 、 少 く と も 王 の 晩 年 、 す な わ ち チ ュ ー バ l ン朝の時代、 グルジスターンに
モシゴル人の支配権が及んでいなかうたことは既に述べた。
人は、
で正確であるかは、他の史料をの対比を必要とするが、アブ l サイドの晩年より混乱と分裂に陥ったイランのそシゴル
、 ホーガ l v、 ア ル メ ニ ア に 宗 主 権 を 及 ぼ す よ う に な っ た と 記 さ れ て い る 。 グ ル ジ ア 語 年 代 記 の 記 事 が ど こ ま
ッラ l ン
モンゴル軍がグルジスターンから押し出され、 グルジア壬は、最盛期タマラ女王の治下と同じく、 シルヴァ 1 y、
属臣であった
し
ジャラ]イル朝は、 グ ル ジ ア 壬 に 対 す る 宗 主 権 を 保 持 す る こ と が で き た が 、
t
土
様、それはほとんど名目的なものであった。(のF
Fmgm)
、 グルジスターンのモンゴル軍は、兵員の不足をきたしていたが、イアル
アヅ l サイドの末年にシルヴァ l ン
H ハン国
が崩壊して、有力武将が塊備のハンを次々と擁立する時代になると両地方のモンゴル軍部隊は各地に転戦を余儀なくさ
れ、あるいは内紅によって解体された。こうしてモンゴル人がクル河の北から去った後、 シルヴァ l ンとグルジスタ l
一時的に遠征軍を派遣する以上のことは不可能であったので、両国に宗主権を認めさせるのみに甘んじな
ン は 自 治 あ る い は 独 立 を 取 り も ど す こ と が で き た 。 チ ュ ー バ 1 ン朝、ジャラ千ル郭は、 グル河以北には駐屯軍を置くこ
とができず、
-149'
-
ければならなかった。
革問
H ハン国の対ジ見ヂ・ウルス防衛の中心であったスイバは、最初にフラグが設けた陣地で、アパカは一二六五年、
北大文学部紀要
ア兵、 ムスリム兵とともにモンゴル兵が冬期間駐屯していたが、 ア ブ ド ・ サ イ ド の 末 年 に は 、 こ の 方 面 に お け る 人 員 の
乙 れ を 恒 久 化 す る と と も に ア ク ・ ス i下 流 の ダ ラ ン ・ ナ ウ ル か ら 上 流 の ガ ル ド マ ン ま で 延 長 し た 。 当 初 怯 こ こ に グ ル ジ
イル
た寧陵の遊牧地と領袖の出身、経歴について知るところを述べたものである。
バンドの前線を防備するためシルヴァ I ン地方に駐屯する軍隊、グルジスターンのグル河、アラス河流域に置かれてい
れていたそ γゴ ル 軍 に 着 目 し 、 ク ル 河 支 流 ア ク ・ ス l に 沿 っ で 設 け ら れ た 要 塞 ス イ バ と そ の 駐 屯 軍 に つ い て 、 ま た ダ ル
本稿はイル H ハ ン 国 の モ ン ゴ ル 人 部 族 遊 牧 地 分 布 解 明 の 観 点 か ら 、 北 辺 防 備 の た 一 め に タ ル 河 、 ア ラ ス 河 流 域 に 配 置 さ
結
シルグァ 1γ とグルジスターンのモンゴル軍
不足が深刻な問題となり、 イ ル ・ ハ ン に 取 っ て か わ っ た チ ュ ー バ l ン 朝 の マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ の 時 に は 、 ス イ バ も そ の
背後のクル河岸も全く無防備のまま放置されていたので、 ジ ュ チ ・ ウ ル ス の ジ ャ ニ ・ ベ 夕 日 ハ ン は 住 民 の 支 持 も あ っ て
容易に北西イランを占領できた。
その死後
シルヴァ 1 ン地方とムガ 1 ン地方には、 フ ラ グ の 晩 年 ヤ シ ュ ム ト ・ オ グ ル が 派 遣 さ れ 前 線 地 域 の 防 備 に 当 っ た 。 ガ ザ
Hアヵ、
アブ l ・ サ イ ド の 時 代 に
γ 日 ハ ン 期 に は ジ ル ヴ ァ l yと グ シ ュ タ ス フ ィ l に 多 く の モ ン ゴ ル 軍 イ グ タ lが設けられ、 ヌ!リン
はクトルグ・シャーがナ判ごフ i ン に 駐 屯 し て ダ ル バ ン ド 方 面 防 備 の 最 高 司 令 官 を つ と め た 。
一 三 三 六 年 ま で に は そ の 子 シ ャ イ フ ・ チ ュ ー バ ! ン に 与 え ら れ た が 、 シャ d・フ・チュ
一三四三/四年ア lゼルパ lイジャ l ンに移動し、 シルヴァ l ンの防備は放棄された。
一一一二九年にはイキンジ、
は 、 北 に ザ ン ギ l、 南 に タ ル ム タ lズ 二 人 の 万 人 隊 長 が 派 遣 さ れ て い た 。 前 衛 万 人 隊 と 呼 ば れ て い た シ ル ヴ 7iy駐 屯
軍は、
ーパ l ンは、
スイバの西南グルジスターンのモンゴル軍は、前線に近いグル河水系域に駐屯するものと、首都に近いアラス河水系
域にユルトを有したものとに二分される。グル、シスターン地方軍とみなせるのは前者である。グルジスターン軍司令官
ド
、 イ ク バ ル ・ シ ャ l、 大 ハ サ ン 等
の地位は、 シ ラ ム ン 、 プ リ ナ ク 、 ク ト ル グ シ ャ l、クルミシ、 シャイ aフ・マフム l、
i
が次々 と う け 継 ぎ 、 特 定 の 家 柄 が 独 占 す る こ と は な か っ た 。 チ ュ ー バ l ン朝が成立すると同家のスルカン、 ピI ル・フ
サイン、、同家外のアミ l ル ・ ジ ダ イ 時 が こ の 地 位 に あ っ た が マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ の た め に 除 か れ た 。 こ う し て グ ル ジ ス
タl りずにはマリク・アシ会ブフに対抗し得る強力なモンゴル軍は存在しなくなった。
ま た ア ラ ス 河 水 系 域 に は 、 コ ン ギ ラ ト 氏 、 ド ル ベ ン 氏 、 旧 ケ レ イ ト 王 家 の 三 附 馬 家 が あ っ た が 、 いずれも解体された。
モンゴル軍移動の後、 シルヴァ lγ と グ ル ジ ス タ ー ン の 土 着 政 権 は 独 立 の 途 を 歩 き だ し た 。 シルヴァ i ンではシャマ
-150ー
ハと一シキ lパラ i ンの、領主 HUEB(自色野)であったカ l ウ ス が 伝 統 あ る シ ル ヴ ァ 1 ン・シムア l の王号を称し、グルジ
スターンではグルジア王ギオルギ光輝王、が西グルジア、 クタイスィ同ぺ包回目地方の王国と西南、グルジアのサムツへの一ア
ヘラ lト の ク ル ト 朝 、 南 イ ラ ン の ム ザ ッ
タ ベ ク 領 を 統 合 じ た 。 両 国 は イ ル リ ハ ン 国 の 後 継 者 間 家 で あ る チ ュ ー バ l ン朝、ジャライ l ル 朝 に 対 し て あ る 時 は 宗 主
権を認めて従属し、ある時には公然と敵対さえした。
、 グルジア王国が、
これは、 イ ル 日 ハ シ 国 崩 壊 後 の シ ル ヴ ァ l ン・シャ l圏
H ハン国のモンゴル系、
トルコ系の軍隊と彼らの家族は長く遊牧生活を捨てず、 イ ル 日 ハ ン に よ っ て 指 定 さ れ た
ファル朝のようにモンゴル・トルコ系の遊牧部族をも政治的、軍事的に掌握して成立した政権ではなかったことを示し
ている。
イル
夏 冬 の 遊 牧 地 の 聞 を 移 動 しk。 彼 ら は 職 能 的 戦 士 集 団 で は な く 、 家 族 と 家 産 を と も な い 、 再 生 産 の 体 系 を 有 し て い た 。
牧地をめぐっての定着農民および先住遊牧民との関係、また穀物と手工業製品供給のための農村および都市との交流
は、社会経済史、社会史上の興味あるテ l マであるとしても、本稿で用いた史料と方法では、知ることができない。特
にヒューマン・エコロジーの商からの実態は同時代史料からは分析できず、後世の実地調査にもと寺ついた研究から類推
するに留まろう。
H ハン閣の一等市民であったから、彼らの領袖はイル日ハン一族と通
一種の貴族階級を形成し、様々な官制の要路を占めた。従って千人隊、万人隊の指揮権と部族支配権の継承をイ
モンゴル人は単に軍人と言うだけでなく、 イル
婚し、
ルリハン圏全土について明らかに一すれば、イルリハン国政治史の多くの側面が現れてくるであろうし)それ以降のイラン
政治史の展望も聞かれるであろう。本稿に述べた地域に関しても、建国以来の集団が次第に解体あるいは移動して、最
北大文学部紀要
-151ー
シルヴァ lγ とグルジスターンのモンゴル寧
終 的 に は チ ュ ー バ l ン 朝 、 ジ ャ ラ イ l ル 朝 に 対 抗 し 得 る 勢 力 が 残 ら な か っ た 事 情 を 示 す ζとができたのである。
しかし、それに先だっ一て千人隊、万人隊そのものの制度的研究が必要であると思われる。この人事、組織、がどのよう
門部)
であったかの具体的全体像を示さないで、特定の個人の昇進、降格等の記事を追っても、国家組織に関する知識は得ら
11
ンの四名、ル l ム 、 デ ィ ヤ ル バ ク ル 、
H ハンの
れないであろう。本稿で仮にシルヴァ 1 ン軍、グルジスターン軍と呼んだものの姿が明瞭でなレのもそのためである。
i-
岳
山m
l山口出首席問)中、ホラ!サ
ここに記した軍隊は、北西イランに駐屯していたものの極一部にすぎない。一例をあげれば、ウルジェイト
l ぴ自己品
宮廷の二五名の大将軍吉自民問 山
方として数えられる場合もある。
イル川ハン閤の国家構
的呼称であるが、ダルパンドとグシュタスフィーが別個の地
連邦アゼルバイジャン共和国の北半、クル河以北の地の歴史
H ハン国の全土について、また軍隊組織の全体について同様の検当を行レ、
バ グ ダ ー ド の 計 五 名 を 除 い た 一 六 名 中 の 四 名 ( チ ュ ー バ l y、 イ レ ン ジ ン 、 タ ル ム タ lズ 、 ト ゥ ク マ ク ) に つ い て 言 及 し
たのみである。イル
民国)、ジョージ
﹁司可ω
(2) フラグの時代にホ lジャ・アズィドズ(同町項削官メ一位 N)
造 と 土 着 社 会 支 配 体 制 を 飾 服 す る こ と は 今 後 の 努 力 に 期L たい。
設
(1) グルジスターンは、グルジアハ℃︺三 γ
アハ開ロm
-の冊。円阿佐)、自称 岳民守冊目。)のペルジャ語の表
ω
(
現である。イル Hハン国の
〆ルジスターン州は、セルジュ!
がトビリスィ(ティフリース)の徴税官公色目)であったこ
また、ジャライル部人ブグン∞口m
v口ロがグルジスターンの
とがあり(∞gZ2・呂田・日目ω一℃曲目
E¥﹀量 ωh
由p
ロ
岡
、
∞
∞
﹀
、
?一朝以前とは漂って、グルジア・パグラト朝の領土から成っ
lム地理学の習慣では、西部グルジアをグルジアの他の地域
シャブネ田町田町ロ仰であることがあったハ勺曲目民﹄¥﹀﹄5 h
白 P
町4
Hi--呂
8
0 イル Hハン国は両職によって支配地の行政的掌
ており、大アルメニア州の 一部も含んでいる。また、イスラ
岡
山 N﹀と称する
σ ・ MMmw円G ﹀σ広
と区別してアブハ ズハ﹀E
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ハ窓口忠25・ミ ENF
go またーシルヴア一 l ンは今日のソ
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カデミー歴史学研究所合貝は、 ζのあたりには多く
の遺跡があり、発掘しなければ特定は線難であると述べた。
lリlンにダルバンド、パグ I、アッラlンの守護を命じ元、
士山茂論文、一一二一一
1444
六頁、八三│五頁を参照せよ。
(日間山ヌ Iリン、クトルグ・シャl両者の出自経歴については、
と記す(︿自由RS30
(U) この語は中世アルメニア認には見られない。モンゴル・ト
g、ま
ルコ立話の¥帥¥・¥田町¥は、アルメニア諸に入る際相互に交替す
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る 亡 が あ り ( 例 忌-mZ55ロロ人名﹀﹀口出・ ω山
サイドの側からバルミヤ lズ 切Rsq貯 が 数 部 隊 の 兵 士 と
(初)﹃集史続篇﹄にも﹁これに先だって、スルタ I ン・アブ l
た 7 ルメニア語字母宮ハ無音の y) とE
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っているから、東部方一百では田町g R と表記される。すな
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ても、志茂碩敏氏が
論文を発表されるはずである。
ω) チョルマグ
(お)ヌワイリ lは、タズ吋田 Nがクルミシの有していたタパリ
(明
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N が正しい。彼の出自について
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共にその方面に派遣されていた﹂とある︿恒削品川ム﹀可申'
がよく似ている。また、デ品ロリエ訳の転写は西部方言によ
Hノヤンは一二七七年春にトゥグ、ト?ダウンの
わ ち た 包σ田沼である可能性がある。
両武将がアプルスターンで戦死した後、ルームに派遣された
(日)サマグル
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u-EPSIB﹀メングテムルも一二八二年にそ I スルで死亡
した(℃白自国﹄¥﹀﹄5 白
hpロpge
(一二七六/七
(時}ヘヲ lトの君主シャムスッディ lン・グルトは、六七五
北大文学部紀要
-155ー
とするが、タパリスターンは、明らかにグ
(qozgp 同︿・忠 NWロ 佐 口 訳
シルヴァ l yとグルジスタ l ソのモ γゴル寧
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系タlンの指揮権を継いだ
(グ)ルジスターンの誤りである。
第六巻二九六頁
(
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) カIウ メ は カ ラ パ グ に 侵 入 し て 多 数 の 捕 虜 を も た ら し た
ーへの周辺、ミ ンゲチ fウ:ル湖の北岸の三個所で、いずれも
規模な遊牧が行われているのはトピリスィの南方、アハルツ
ついて述べられている。これによると現在グルジア園内で大
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法にもとやついた部隊編成は崩れていたように思える。アブl
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(お)ポアゼルパイジャン・ソヴィエト社会主義共和国におけるそ
補註
隊、万人隊の司令官の地位の継承関係を次図に示した。
(幻)本稿で知り得たグル唱シスターンにユルトを有していた千人
﹃東洋史研究﹄二一七巻二号、二一六頁参照一)。
ジ ア 研 究 ﹄ 一 七 、 二 六 頁 、 羽 田 正 ﹁ サ フ ァ ヴ ィ i朝の成立
か(関野英二﹁モグ Iリスターン遊牧社会史序説﹂﹃西南ア
-、隊の呼称が兵員の実数を一示し得なくなったからではあるまい
の部が用いられるようになったのは
サイドの後区千人隊(へザ l レ﹀にかわって部隊(コショシ)
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る。また、伊豆・巨白富民h
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王国がクル河中、下流に多数のキプチャク人を入植させたと
タル河本流域である。
が、これはかつてセルジュ lク朝の支配から脱したグルジア
たろうと思われる。モンゴル遊牧民の移住、ジュチ日ウルス
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(お﹀イル日ハン国末には、国初に存在したであろう厳密なム l進
同じく、シルヴァ l ン各地の荒撫地に植民させるためであっ
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寧の侵入によって、シルヴァlンの農村は荒廃し人口も減少
していたと推定できるからである。
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付記本稿の骨子は、一九七八年十一月、アジア文化研究
会で発表し、列席された士山茂碩敏氏、花田字秋氏に御批判を
いただいたので、ここに謝辞を述べる。
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