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小林一三ものがたり

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小林一三ものがたり
小林一三翁生誕 140 周年記念特集
小林一三ものがたり
20 年ころになると、南風を利用した帆掛け舟が登場します。
川を下るときの荷物は年貢米、煙草、生糸、木炭などで、上
小林一三(1873-1957 雅号
るときは塩が主で、その他は魚、畳表、油粕、干鰯(肥料)
、
は逸翁)は、1873(明治 6)年
瀬戸物、砂糖などでした。 に巨摩郡河原部村(現在の韮
富士川水運の発展とともに、韮崎宿は
崎市本町)の商家、布屋に生
物資の調達拠点として栄えました。明治
まれました。慶応義塾を卒業
時代はじめ、韮崎には米や塩の店、旅籠
後、三井銀行を経て関西で鉄
(旅館)
、雑貨屋、鍛冶屋、水車、菓子屋、
道事業に関わり、常に顧客本
馬のための宿などがありました。あちこ
位で、阪急、東宝、宝塚歌劇
ちの家の前には馬つなぎ石があり、いま
団などの創始者として知られ
も残っています。
小林一三特集
ています。
馬つなぎ石
2013(平成 25)年、小林一三
生誕 140 周年の記念すべき年
Ⅱ 一三のおいたち
を迎えるにあたり、韮崎市が
生んだ偉大な実業家・一三翁
1 一三の生まれた家
の生い立ちを紹介します。
一三は布屋という屋号②を持つ商家・小林家に生まれまし
た。布屋は、おそらく最初は商売で布地を扱っていたのでしょ
う。河原部村は南北に長く、北から上宿、中宿、下宿と呼ば
Ⅰ 一三の生まれる前の韮崎
れていました。布屋は江戸時代の終りには上宿に本家が、中
宿と下宿に分家③があり、製糸業、酒造業、金融業などを商い、
1 韮崎宿河原部村
広告
校正出し日 : 2013年1月17日
コマ広告
案件名
: シティマップ 韮崎市くらしのガイドブック
大昔、人々は山や丘の上といった高い場所で生活していま
商品コード : 8FJ16820A
したが、やがて川の流れが安定すると、河原やがけの下に移
割付番号 :027
ります。いまの韮崎の町の中心は、明治時代なかごろまで河
コード番号 :018
原部村と呼ばれていました。釜無川と塩川の河原にできた村
多くの人が働いていました。土地もたくさん所有し、収入も
校正出し日
: 2013年1月17日
校了
日
校了印
案件名
: シティマップ 韮崎市くらしのガイドブック
かなりありました。
②屋号…商人が商売のためにつける名前。
商品コード : 8FJ16820A
印
年③分家…本家から兄弟が分かれた家。
月
日
割付番号
:028
コード番号 :019
修正提出日
顧客名称 : 市川建設株式会社
◆布屋本家(一三が育った家)
だからです。
上宿にあり、地域の責任者とし
江戸時代、徳川幕府は主な街道に伝馬宿を置きました。伝
て年貢米の管理や騒動の調整役
、この原稿用紙に直接修正内容を記入しFAXしてください。
※修正がある場合は、この原稿用紙に直接修正内容を記入しFAXしてください。
年
月
日
馬宿とは、公用で使う馬を置く宿場①のことです。江戸から
場合は、校了日・校了印にご記入後、FAXしてください。
※校正に修正がない場合は、校了日・校了印にご記入後、FAXしてください。
なども担っていました。いまは
甲州に向かう道である甲州街道では、内藤新宿(いまの東京
残っておらず、跡地は「にらさき
2
FAX 055-252-9512
都新宿)が最初の宿場で、38 番目が韮崎宿でした。伝馬に
文化村」になっています。
顧客名称
: シャトレーゼ
対して、一般の人が使う馬を中馬と言い、韮崎宿は中馬が
活躍する商業の町として発展しました。河原部村が韮崎町
となったのは、1892(明治 25)年、韮崎市となったのは
1954(昭和 29)年でした。
①宿場…旅人が休む宿を中心に店や役場が集まる町。
2 富士川水運
江戸時代、
年貢の米を馬で江戸まで運ぶことは大変でした。
そこで徳川家康は、富士川で舟を使って駿府(いまの静岡)
まで運び、清水港からは大型船で江戸まで運ぶようにしまし
布屋本家
◆中宿分家(一三の部屋があった家)
中宿には分家がありました。
この家はいまも残っています。
江戸時代の終りころ、布屋本家の三男で、一三のおじいさん
である小平治が住んでいました。小平治は様々な芸術に親し
み、楳泉という雅号④を持っていました。
◆下宿分家(一三が生まれた家)
下宿にも分家がありました。一三はこの家で生まれ、2 歳
で家を継ぎます。土地と建物は、1909(明治 42)年に材
木店に売却され、いまは歯科医院になっています。
た。これが「富士川水運」と呼ばれ、笛吹川と釜無川の合流
④雅号…絵や書、歌(俳句、和歌、漢詩)、茶道など、趣味や
富士川の下りはおよそ半日でしたが、上りは 4 人がかり
する鰍沢河岸は大変にぎわいました。
芸術を楽しむときに使う、もう一つの自分の名前。ペ
ンネームのようなもの。
で 4 〜 5 日かけて人力で引っ張りあげました。それが明治
洋菓子・和菓子・アイスクリーム
建設業
3図E‐4
4図E―3
毎日のおやつに
さまざまな建設ニーズに対応いたします
お店に並ぶのは、添加物を控えた、山梨の原材料を使った自然派スイー
ツです。毎日の生活の中で安心してお召し上がりいただきたいです。
【業務内容】土木・建築・設計施工・住宅リフォーム
■韮崎市若宮3-8-13
■TEL:0551-22-5611 ■FAX:0551-22-5681
■営業時間/9:00∼21:00 ■定休日/1月1日
■韮崎市富士見2-15-35
■TEL:0551-22-4004 ■FAX:0551-22-4846
■営業時間/年中無休
シャトレーゼ韮崎店
12
年
市川建設株式会社
あり
2 子どものころの一三
なのだ」と理解し、少しずつ本家に居づらくなりました。
江戸時代の終り、
竜王村
(いまの甲斐市竜王町)
の丹澤家は、
関東で大人気のたばこ、竜王煙草を扱うお金持ちでした。そ
の丹澤家からは布屋にお嫁さんが何人も嫁ぎ、
1869
(明治 2)
年には、一三の父親が布屋の分家に婿入りします。
一三の少年期の前半は、自分は本家の子どもだと思って、
のんびりと育ちます。後半には、自分が居候⑤であることが
わかるようになりますが、一三はとても賢く、負けん気が強
かったので、自立の心が芽生えていきました。
◆両親の結婚、一三の誕生、母の死と父の別れ
一三が生まれる前、布屋の中宿分家では、父親と二人の女
の子が暮らしていました。姉が 14 歳のとき、父親が亡くな
ります。姉の方が一三のお母さんです。本家で 17 歳まで育
てられ、そのあと竜王村の丹澤家から婿を迎えて、下宿分家
に移り新婚生活を始めます。1870(明治 3)年に長女の竹
代が生まれ、
1873(明治 6)年に長男の一三が生まれました。
しかし、一三が生まれた年の夏、母親が 22 歳の若さで亡く
なります。その後父親も実家に戻ったため、生まれたばかり
の一三と姉は、布屋本家で育てられます。
2012年12月07日
年下のいとこの雅一郎を呼び寄せ、一三と遊ばせます。
また、中宿分家には、大叔父三男・小六が養子に入ってい
ました。小六は一三より 10 歳年上で、兄のような存在でし
た。小六は母親から「一三の面倒をみなさい」といわれてお
り、本家で居場所のなくなった一三に中宿分家の部屋と本を
与え、話し相手にもなります。
◆父親の伝言で未来がひらく
一三は負けず嫌いです。少し世の中が分かってくると、い
ずれは自分一人で生きていかなければならないと思うように
なりました。元気に小学校に通っていましたが、それはとて
も不安なことでした。
ある日、雅一郎の父親がやってきて、一三の別れた父親か
ら伝言を預かってきたと言いました。「お父さんは、子ども
たちを見捨てたのではない。理由があって 2 人の子どもを
残し、育ててくれるように叔母に頼んで家を出たが、お父さ
んはビタ一文持ち出していない。だから子どもたちは、大し
小林一三特集
⑤居候…家族ではない他人の家で一緒に生活させてもらうこと。
それを感じた大叔母は、実家の丹澤家から一三より 1 つ
た財産家なのだ。
」というものでした。そして、
「お父さんは、
すごい財産を持って小林家に婿入りしたんだよ。その財産を
そっくり君たちに残して家を出たのだから、君はそれを好き
なように使い、好きな勉強して、立派な大人になりたまえ。」
韮崎市くらしのガイド と言いました。迷っていた一三の心に光が射しました。
◆少年期の前半―本家の子だと思い込む
8FJ16820A
布屋本家の当主は、一三にとっておじいさんの弟(大叔父)
◆慶應義塾を知る
029
年 月 日
です。その妻の房子も、父親と同じ丹澤家から嫁いでいまし
1885(明治 18)年 11 月に、12 歳で小学高等科を卒業
129
た。竹代と一三は大切に育てられ、厳しくしつけられます。
した一三は、
翌年、
山梨県八代村の「成器舎」という私塾(私
サントリー酒類
5 歳の一三は、公立小学韮崎学校に入学します。当時はきち
立学校)に入学します。成器舎は加賀美平八郎という人がつ
んとした校舎のない時代で、蔵前院というお寺で勉強しました。
くり、東京から優秀な先生を招いて英語・数学・国語・漢文
年 月 日
2 年後にいまの韮崎小学校の場所に校舎が完成して移ります。
など、当時の新しい教育を行い、山梨県中から子どもたちが
一三は、体は小柄でしたが、とても頭がよく、元気でリーダー
集まっていました。一三は学校の宿舎に住んで学びます。こ
FAX
055-252-9512
シップのある子どもでした。友だちもたくさんいて〝ぼうさん〟
こで福澤諭吉⑥がつくった東京の学校、慶応義塾のことを知
と呼ばれて慕われました。ぼうさんとは、尊敬する子どもの呼
り、そこで学びたいと考えるようになりました。翌年、一三
び名で、そう呼ばれるのは韮
は腸チフスという伝染病にかかり、成器舎を退学しますが、
崎で一三だけでした。一三は、
慶応義塾への夢はふくらむばかりでした。
【確認事項】写真:
布屋本家の大叔父夫婦のこと
⑥福澤諭吉…思想家・学者。
「天は人の上に人を造らず、人の下
画像が粗くなっていますが、
このままでよろしいでし
ょうか?
を〝おじいやん〟
〝おばあやん〟
に人を造らず」という文章で知られています。1 万
ご確認よろしくお願いいたします。
円札に描かれています。
と呼び、自分は布屋本家の子
どもだと思っていました。
韮崎小学校
◆少年期の後半―居候を意識する
ところが、本家の子どもたちが成長してくると、「おばあ
やんは、あんたのおばあやんではないよ」と言われるように
なりました。それがくやしくてその子を泣かすと、その子の
父親からひどく怒られました。
一三は、自分の祖父母と母親は亡くなり、父親は家を出て
行ってしまったことを受けとめると、「自分はこの家の居候
3 学生時代の一三
几帳面な一三は、慶応義塾生のときに使ったお金を細かく
記録しています。それによると、月平均 15 円ほど使ってい
ました。慶応義塾の 2 年後輩の松永安左エ門が、月 7 円あ
れば何とか 2 人が暮らせたと書いていますので、経済的に
は恵まれていたようです。
サントリー白州蒸溜所・天然水南アルプス白州工場
北杜市
工場ご案内は下記までご連絡ください
〒408−0316 山梨県北杜市白州町鳥原2913−1
(休業日をのぞく)
TEL 0551−35−2211 9:00∼16:30
休業日 年末年始・工場休業日
(臨時休業あり)
13
◆慶応義塾に入学
◆三井銀行本店に入り、大阪支店に異動
1888(明治 21)年 1 月 13 日、一三は慶応義塾を目指
小林一三特集
広告
して東京に向かいました。小六が付き添ってくれました。甲
州街道をひたすら東に、笹子峠、小仏峠、八王子へと歩き、
3 泊 4 日かけて東京の神田明神下の親戚の家に到着しまし
た。しばらく芝居見物を楽しみます。
2 月 13 日に、慶応義塾に出向きました。赤レンガの校舎
が並ぶ校内には、本を抱えた学生がたくさん見え、まだ春の
遠い風に海のにおいをかぎました。その日は受付だけ済ませ
ると、他の受験生と一緒に教師の家に連れていかれ、そこで
1 泊しました。そして翌日、福澤諭吉の面接を受け、その日
のうちに入学を許可され、晴れて慶應義塾生になったのです。
同時入学者は 70 数名、一三は予科に編入にました。
一三は、本が好きで文章を書くことが得意でした。1890
(明治 23)年 4 月、初めて書いた「錬絲痕」という小説が
故郷の山梨日日新聞に掲載されました。このころから小説家
になりたいと思うようになります。また、芝居も大好きでし
たので、時間があれば芝居小屋や歌舞伎座によく出かけまし
た。
慶応義塾では福澤諭吉から直接教えを受け、「不関心」
「独
立独行」を学びます。「不関心」とは、やるべきことに集中
し、他にまどわされない精神のことです。「独立独行」とは、
自分の考えを信じて自ら行動することです。一三は生涯、こ
校正出し日 : 2013年1月17日
の精神を忘れません。
案件名
: シティマップ 韮崎市くらしのガイドブック
コマ広告
1893(明治 26)年の元旦を布屋本家の家族と迎え、明
けて 4 日に鰍沢河岸に向かい、東京へと出ました。今度は
1 人でした。
三井銀行では東京本店秘書課勤務となり、月給は 13 円で
した。そのころ三井銀行は、全国に支店を広げていました。
本社で採用された人たちが、次々と地方に配属されていきま
す。
それを見て一三は、
「どうせ行くなら京都か大阪がいいな」
と思っていると、
大阪支店から人員補充の要請がありました。
それに応募して、9 月から大阪支店勤務となります。
大阪支店では、金庫係の辞令をもら
いました。支店長は高橋義雄といい、
慶応義塾の先輩です。すらりと背が高
く、着物姿で出勤していました。高橋
支店長は、初めて女性を行員に雇った
ことで知られていました。
三井銀行で働いていたころの一三
◆運命の人、岩下清周との出会い
高橋義雄が東京の三井呉服展(いまの三越百貨店)に移る
と、後任の支店長に岩下清周という人がきました。一三は、
野心家の岩下にひかれます。岩下は三井銀行の幹部とうまく
校正出し日
: 2013年1月17日
校いかず、三井銀行を辞めて北浜銀行を設立しました。
了
日
校了印
一三は岩下について行きたかったのですが、高橋にすすめ
案件名
: シティマップ 韮崎市くらしのガイドブック
られて三井銀行に残り、名古屋支店に移ります。ここで我
商品コード : 8FJ16820A
印
年 慢したことが、一三に大きなプラスとなりました。この後、
月
日
割付番号
:032
一三は結婚します。
コード番号 :079
商品コード : 8FJ16820A
◆慶応義塾を卒業
割付番号 :031
一三は慶応義塾で経済を学んでいましたが、友人によると
コード番号 :021
修正提出日
小説ばかり読んでいたそうです。それほど本が好きで、書く
顧客名称 : シミズヤ
顧客名称 : 清水屋
ことも大好きなので、小説家への希望が強くなりました。で
も現実を考えると不安もありました。現在もそうですが、小
2 鉄道の仕事をはじめる
、この原稿用紙に直接修正内容を記入しFAXしてください。
※修正がある場合は、この原稿用紙に直接修正内容を記入しFAXしてください。
年
月
日
説を書いて生活していくことは大変なことです。そこで一三
場合は、校了日・校了印にご記入後、FAXしてください。
※校正に修正がない場合は、校了日・校了印にご記入後、FAXしてください。
は、卒業したら新聞記者になろうと思いましたが、それはか
体は小柄でしたが度胸があって、「胆大心小⑦ 」を座右の
2
FAX 055-252-9512
ないませんでした。三井銀行から内定をもらい、1892(明
銘⑧としていた一三は、ここぞといった場面で大きな勝負に
治 25)年末に故郷・韮崎に戻ります。
出ます。銀行を辞め、激しく変わる社会の中で「事業経営」
の将来をとらえたアイディアを考え、きちんと整理して相手
に伝えます。そのうえ、積極的に行動して実績をあげ、少し
ずつ信用を得ていきます。
Ⅲ 一三がした仕事
⑦胆大心小…大胆でいて、しかも細かく注意を払うこと。
⑧座右の銘…心の中に覚えておいて、自分の励ましにする言葉。
1 銀行で働く
三井銀行(いまの三井住友銀行)には、20 歳から 34 歳
まで勤めました。はじめは東京本店に勤め、大阪支店→名古
屋支店→大阪支店→東京本店と変わります。その間に結婚
し、子どもが生まれ、生涯の恩人たちとも出会います。また、
時間があれば俳句をつくり、茶道の道具や美術作品のコレク
ションも始めます。
ガソリンスタンド
しばらくして、北浜銀行頭取の岩下清周から、
「国有化さ
れる鉄道の整理を手伝ってほしい」と頼まれます。鉄道の国
旅館
4図C-3/2図A-5
4図C―3
創業・弘化二年
株式会社シミズヤ
14
◆初めて鉄道の仕事に関わる
1907(明治 40)年 1 月、銀行を辞めた一三は、家族 5
人で東京から大阪に戻ります。ところが運悪く、日露戦争の
影響で世の中が大恐慌⑨となり、仕事がありません。
清水屋旅館
セミセルフ韮崎SSは灯油配達や高級手洗い洗車もしています。
セルフ韮崎北SSは深夜0:00まで営業しております。
韮崎駅から徒歩5分。各種合宿やビジネス・観光の拠
点、大小宴会などにご利用ください。
■
【セミセルフ韮崎SS】韮崎市本町1-6-1 ℡0551-22-1325
【セルフ韮崎北SS】
韮崎市一ッ谷2036 ℡0551-22-2427
■営業時間/【セミセルフ韮崎SS】7:00∼21:00【セルフ韮崎北SS】7:00∼深夜0:00
■定休日/年中無休(セミセルフ韮崎SSは元旦と韮崎市制祭の日は休み)
■韮崎市本町1-6-5
■TEL:0551-22-0024 ■FAX:0551-23-0116
■チェックイン・アウト/チェックイン/15:30 チェックアウト/10:00
■URL:http://www.shimizuya-inn.com/
あり
あり
年
有化とは、全国あちこちで開発された民間の鉄道を、国が買
収して国で運営することです。一三は、その仕事を引き受け
ました。そして、その鉄道の事務所がある大阪の池田に向か
いました。池田に着いて驚きました。そこには丘のような五
月山があり、七里岩のある故郷の韮崎にとても似ている風景
でした。
⑨大恐慌…良い経済の景気が、急にとても悪くなること。
3 鉄道会社を中心にいろいろな仕事をする
「不関心」
「独立独行」を心に刻んだ一三は、自分を信じ、
大きな責任を背負って鉄道開発に取り組みます。徹底した合
理化と無駄のない投資、そして優れた判断力と行動力で、箕
面有馬電気軌道を無事開業させます。それでも手を休めず、
人々が楽しみを求めていることを感じ取り、次々と沿線開発
を展開します。
◆沿線開発をスタート
1909(明治 42)年、一三は故郷韮崎によく似た風景の
池田を、第 2 の故郷と決めて引っ越します。
鉄道建設の責任者となった一三は、毎日のように事務所に
泊まり込み、不眠不休で懸命に仕事に集中しました。そのお
る状況でした。
かげで、1910(明治 43)年 3 月 10 日、予定より早く箕
それを知った一三は、池田から梅田までの路線の予定地を
面有馬電気軌道が開業します。
2 度歩いてみました。そして、沿線の土地を住宅地として分
開業のめどが立つと、いよいよ沿線開発です。とにかく多
譲販売⑪することを考えました。混みあった都会や工場地帯
くの人に電車を利用してもらいたいのです。考えた住宅地開
に住むよりも、環境のよい郊外に住めること、分割払い⑫と
発は順調に進みました。日本ではじめての会社の PR パンフ
いう方法で、気軽に土地を買えるアイディアでした。
レットをつくり、配布して話題になりました。仕事も忙しく
一三は、その考えを岩下清周に話します。そして、東京に
なり、
故郷からいとこの雅一郎とその家族を呼び寄せ、
手伝っ
いた親戚や大阪の友人らに頼み、売れ残っている株のうち、
てもらいます。少年期によく遊んだ雅一郎は新聞記者になっ
見事に 1 万株ほどを売りさばきます。残りは北浜銀行が引
ていました。
き受けることになり、岩下の後押しもあって一三は、箕面有
2012年12月06日
馬電気軌道の発起人になりました。新しい鉄道会社の設立メ
韮崎市くらしのガイド 一三はまず、大阪の
箕面に動物園をつく
ンバーの一人になったのです。
8FJ16820A
り、雅一郎に園長を頼
⑩株式…会社をつくるときにいろいろな人からお金を出してもら
033
年 月 日
みました。次に、駅を
い、将来会社がもうかれば、出した金額に応じて利益の
020
つくった兵庫県の宝塚
分配を約束する仕組み。会社は株式証券という書類を出
谷櫻酒造
資した人に発行する。
の武庫川左岸の埋立地
⑪分譲販売…広い土地を小さい区画に分けて売ること。
を買い取り、宝塚新温
年 月 日
⑫分割払い…いまの「住宅ローン」のことです。土地や家を買う
泉として様々な施設を
お金を借りて、長期間かけて少しずつ返していく方
箕面動物園
建てました。
小林一三特集
◆鉄道経営のアイディアマン
国に買収された鉄道の資本家たちは、新しい鉄道の認可を
得ていました。箕面有馬電気軌道という、のちに阪急電鉄と
なる会社です。ところが、都会ではなく田舎を走る路線とい
うことで人気がなく、発行した株式⑩が大量に売れ残ってい
FAX
055-252-9512
法。一般の人が家を買えるようになりました。それ
までは都会では家を借りるのが普通でした。
◆人生最大の勝負
ところが発起人たちはまだ、「やはり田舎路線だから、経
営はうまくいかないだろう。やめようか」という不安を抱い
ていました。そこで一三は、「私に建設工事から運営まで、
すべてまかせてください。もし失敗しても、皆さんには絶対
に損はさせません」と言い切りました。34 歳のときです。
これが、生涯で最も大きな決断でした。大きなリスクを背
負いました。知名度も経験もない一三に、発起人たちは不安
そうでしたが、それを契約書できちんと残すことで賛成して
もらいました。10 月の会社設立総会で、一三は専務⑬ に選
ばれました。
⑬専務…会社で社長を助けて働く役員のこと。
◆宝塚少女歌劇の設立―「清く、正しく、美しく」
ある日一三は、
東京の帝国劇場で歌劇⑭『熊野』を見ました。
それを少女にさせたらどうだろうかと考え、世界のどこにも
ない女性だけの劇団と歌劇の学校をつくり、先生として東京
から作曲家の安藤弘・ちゑ子夫妻を招きました。
1914(大正 3)年 4 月 1 日、第 1 期生 16 名による宝塚
唱歌隊(宝塚少女歌劇の最初の名前)の第 1 回公演が上演
されました。演目は『ドンブラコ』という桃太郎の歌劇でし
た。歌劇は温泉に入る人は無料で見られ、日を増すごとにそ
の人気が高まり、新聞でも話題になりました。
当時は、女性が社会で活躍することにまだ理解のない時代
でした。また、
「少女に歌わせるとは」とか、
「少女の肌を見
せるなんて」などの批判もありましたが、一三は「清く、正
しく、美しく」を大切に、親しみやすく、しかも芸術性の高
い興行を目指して、自ら 22 作もの作品を書きました。さら
北杜市
15
Ⅳ 人生を楽しむ一三
に、安い料金で、たく
さんの観客が見ること
逸翁とは一三の雅号です。1936(昭和 11)年 6 月、自
ができるようにと、4
千人が入れる宝塚大劇
場をつくりました。東
京にも東京宝塚劇場 ⑮
宅裏に雅俗山荘という洋館を建てました。もう充分働いたの
で、これからは、雅俗山荘(いまは小林一三記念館)にこれ
まで集めた美術品や茶道の道具などを並べ、友だちを呼んで
楽しもうと考えたのです。一三は、生涯に大臣を二度務めま
をつくりました。
宝塚大劇場
した。終戦後は、よく近所を散歩し、たまに夫婦や家族で宝
⑭歌劇…オペラのこと。せりふではなくて、歌でストーリーが進
塚歌劇を観劇し、茶道を楽しんでのんびりくらしていました。
⑮東京宝塚劇場…略すと「東宝」となります。今日まで続く映画
入ってからずっとつけていた日記も、まるで小説のようにい
小林一三特集
む演劇。
会社の東宝はここから始まりました。
◆北浜銀行事件と一三の決断
少女歌劇が生まれた 1914(大正 3)年、一三を支援して
くれた岩下清周に思わぬ難題が降りかかります。北浜銀行に
支払い停止という問題が起こり、岩下は頭取を辞職したので
す。これは一三にとって大事件でした。
恩人の岩下が追い込まれたことは大変心配でしたが、北浜
銀行は箕面有馬電気軌道の主要取引銀行で、かつ筆頭株主で
した。もしも北浜銀行がつぶれた場合、せっかく軌道に乗っ
てきた箕面有馬電気軌道も危うくなります。北浜銀行が持つ
箕面有馬電気軌道株を他の電鉄会社が引き取った場合、経営
権が移ってしまいます。そこで一三は、箕面有馬電気軌道株
を他社に渡さないよう北浜銀行の幹部に頼みます。すぐに北
浜銀行から株を引き取ってほしいという連絡がありました。
一三は自ら大きな借金をして株の約半分を引き取り、残りを
日本生命などの会社に引き取ってもらいます。
◆それからの事業
その後の一三は、時代の変化に柔軟に対応した判断力で、
次々と会社を設立し、鋭い経営感覚とスピードのある行動力
で、様々な会社の再建にも尽くします。発電や映画、劇場、
野球、ホテルなどの仕事もしていきます。大阪での仕事が評
価されて、東京での仕事も頼まれています。また、俳句や茶
道の造詣を深め、多くの友人ができます。
特に、この期間にたくさんの書き物をしました。三井銀行に
きいきと書き、また、世の中の様子にもついてくわしく書い
ています。
◆最後の帰郷
1950(昭和 25)年 6 月 15 日、一三は一通の電報を受
け取りました。故郷の竜王村から家族で大阪に移り、箕面動
物園や宝塚歌劇の経営を手伝ってくれた、いとこの雅一郎が
亡くなったという知らせでした。雅一郎は山梨に戻り、竜王
村の村長になっていました。1936(昭和 11)年、一三は
私費 12 万円を投じて甲府に甲府宝塚劇場を建設していまし
た。その時雅一郎に「社長になってくれないか。そして経営
が安定したなら、姉にその経営権と全財産を譲ってほしい」
と頼みます。それを受けて実行してくれた、とても親しいい
とこです。
1951(昭和 26)年 8 月、映画会社・東宝の社長に戻っ
た一三は雅一郎の妻が病気だと聞きます。そこで 11 月 25
日(日)
、
妻と長男の嫁の 3 人で、
新宿から準急に乗りました。
甲府から車に乗り換え、竜王の雅一郎の妻を見舞うとすでに
回復しており、近所に住む姉の家もたずねてみるとみな元気
でした。それから韮崎に行き、なつかしい親戚の人たちにも
会い、七里岩の上にある布屋本家のお墓に参り、写真をとり
ました。これが故郷に帰った最後、78 歳のことでした。
これが、一三が手がけた主な事業と大臣就任です。
大正 7 年 宝塚音楽歌劇学校を設立、初代校長となる。
昭和 2 年 阪急電鉄の社長となる。
昭和 3 年 東京電燈(現東京電力)副社長となる。
昭和 4 年 阪急百貨店を開業。
(日本初のターミナル・デパート)
昭和 8 年 東京電燈(現東京電力)社長に就任。
昭和 9 年 東京宝塚劇場完成。阪急電鉄会長となる。
昭和 11 年 東宝映画配給株式会社を設立。
昭和 12 年 東宝映画株式会社を設立。
昭和 13 年 東京に第 1 ホテルを開業。東宝の会長となる。
昭和 14 年 日本軽金属株式会社設立、社長に就任。
昭和 15 年 第 2 次近衛内閣で商工大臣となる。
昭和 20 年 幣原内閣で国務大臣となる。
昭和 31 年 新宿コマ・スタジアムと梅田コマ・スタジアム
を設立、社長となる。
16
従弟 雅一郎
最後の帰郷
韮崎・七里岩の布屋墓地で
◆ 84 歳で亡くなる
1957(昭和 32)年 1 月 25 日、一三はいつものように
妻と食堂で夕食をとりました。一三は自分の部屋で翌日の茶
会の準備をしていました。用意が終わると急に苦しみ出し、
息を引き取りました。心臓喘息でした。1 月 31 日には宝塚
大劇場で宝塚音楽学校葬が行われました。集まった人々は
約 4 千人で、一三がいつも歌劇を見ていた指定席「
『ろ』の
23」だけは空席でした。
Ⅴ 一三に学ぶ
一三が偉人と言われるのは、もちろん事業家としてのすば
一三の言葉
らしい実績からですが、茶人としても一流でした。
①成功の秘訣は独創と努力
と行動力、そして時代の変化を見抜く力があったからです。
ているが、
「努力の店に不景気はなし」。不景気ならばいっ
事業家として成功したもっとも大きな理由は、強い精神力
一三は天才ではありません。人よりも多く勉強し、努力し、
考え、実行しました。朝は誰よりも早く仕事につきました。時
間をとても大切に考え、効率的に時間を使い分けています。土
曜日の夜行列車で東京に行き、早朝から会議に出て深夜に大
阪に戻り、翌日は何もなかったように会社に出社しました。ま
た、東京で仕事をするようになった時も、毎月大阪で開催され
る薬師寺会という茶会には、一度も欠席することなく、終わる
とすぐに夜行で戻りました。長期の欧米視察の時も、少しでも
自由時間があると街に出て、骨董屋を見てまわりました。
電車に乗る時は、いつも 30 分前にはホームに立ち、人々
の動きや駅員の態度などを観察しました。また、長距離の移
動では、仕事のアイディアを考えているか、俳句や短歌をつ
くっていました。
そんな一三は、今太閤の一人と言われています。天下統一
をした豊臣秀吉によく似た成功者という意味です。
そう「独創と努力」が必要。特に小資本で成功したいな
らば断然「努力」と「独創」である。
②学問は飯の種ではない 学校に行って学問をするということは、飯を食う材料
(よい会社に入るため)ではなく、人間としての教養を
身につけるため。
③信用の 3 条件
出世の道は、信用を得ることである。その第一は、正
直であること。しかし正直とは愚直(応用ができない)
のことではない。また、正直だけでもダメである。
小林一三特集
◆一三はこんな人
○天才的な経営力、文章力を持ち、多方面の知識が豊富。
○徹底した合理主義なので諦めも早い。
○幼い頃から大将の資質があり、負けず嫌いである。
○絶対にお世辞や嘘は言わない。
○かなり短気である。気に喰わないとすぐ注意する。
よく人を怒るが、根に持たずに自分からその相手に接する。
○几帳面で時間や規則には厳しい。
○頼まれると自ら実行する。
○人の能力を上手に活用し、発揮させる。
○遠い将来ではなく、少し先を見る目を重視している。
○度胸があり、ここぞといった所では勝負する。
○社会への貢献では、自分の名前を前面に出さない。
多くの人は「不景気だ !」といたずらにため息をつい
その第二は、礼儀を知ること。粗暴(らんぼう)な言
葉を使ったり、手荒なことをする人は信用されない。
その第三は、物事を迅速に正確に運ぶこと。頼まれた
ことを催促されるようでは信用されない。
④その道のエキスパートになること
サラリーマンに限らず、社会生活で成功するには、そ
の道でエキスパートになることだ。ある一つのことにつ
いて、どうしてもその人でなくてはならないという人間
になることだ。
⑤自分を補ってくれる人が必要だ
私は、勝手なことを言い、頭から憎まれ口も言い、物
を見極めてどんどん片付けていく性質である。このよう
な者には、その反対の、温厚な、無口な、重厚な、意志
の強い人が必要である。私はおしゃべりで悪口を言うが、
おしゃべりで悪口を言う人は嫌いだ。無口で重厚な人が
好きだ。つまり、自分の欠点を補ってくれる人が必要で、
夫婦間でも同じである。
⑥お茶(茶道)は、同志的結合の喜びである
人は常に自分を探し求めている。それゆえ、一生自分
一三の 4 つの信念
気持ちは強く大きく、
その上、
細かなこ
①
「胆大心小」
とへの配慮を怠らない。
やるべきことに集中し、
よその出来事や
②
「不 関 心」
他人の言うことや行動に惑わされない。
③
「独立独行」 自分を信じ、人を頼らずに行動する。
④
「大衆のために」 一般の人々が求めることに応える。
を探し得られぬ人もある。自分の一部を他人の中に見つ
けた時、これを同志といって喜ぶ。すなわちお茶(茶道)
は、茶室内に持ち込
まれる色々な美術品
や工芸品を通して、
本物や美しさに関す
る同志的結合を喜び
合うのである。
茶室「即庵」
最後の「同志」とは、心の通じた友のことです。友だちに、何か自分と共通するところが見つかると、より
強い関係になるということです。
「共通することの発見」は大切なことです。
一三は、茶人としても深い知識を持ち、人々が普段の生活の中で気軽に茶道を楽しめる「新茶道」を提唱し
ました。長い歴史と伝統のある茶道は、上流階級の文化でしたが、現在ではだれもが親しむことができます。
これも一三のおかげと言われています。
執筆 : 向山建生 [ 山梨大学客員教授 ]
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