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ジョージ・エリオットの小説(2)

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ジョージ・エリオットの小説(2)
ジョージ・エリオットの小説(2)
バ−バラ・ハーデイ 著
高 野 秀 夫 訳
第一章
ジョージ・エリオットは悲劇の試みが“...称賛,喜びと同様に憐れみ,
恐れを通して人間の神聖”を推し進める事を説明した。この主張は,マリ
オ・プラッツの“光彩を失った主人公,”E.S..ダラスの初期の『楽しい
科学』における“主人公の萎縮”よりも,エリオットの移り変わる人物の
性格概念にとって重要な導きとなる,と私には思われる。もちろんプラッ
ツは,特に,形式や言葉の詳細な検討や小説家の書き方の変化を探るより
も,一般化に関わっているが,しかしその一般化にはある弱点がある。つ
まり知性,感性,理路整然というよりは社会的地位に重きを置く形式であ
る。それを強調することで彼は,エリオットの人間素材の選択と新しい種
類の悲劇の試み,その両方における諸々の変化を見失っている。
プラッツが述べている様に,エリオットが中産階級の悲劇に関わってい
るということは,あらかた正しい。しかし,それは彼女の幾つかの小説だ
けである。彼女の悲劇の概念は変わりつつあり,ただ一冊の小説の中でさ
え,人間の絶え間ない変化や個性についての感じはかなりの多様性を持っ
ている。初期の物語には主人公らしくない主人公が中心的に,強調的に現
れている。だが,多分全く主人公的でない主人公と呼ばれる唯一の明らか
な例がエーモス・バートンとサイラス・マーナーであろう。二人とも長編
小説には現れていない。エリオットはしだいに英知と感性の唯一の源であ
る語りから離れ,同時に悲哀から悲劇へと移るのである。(社会階級よりは
限られた感情受容力で)悲劇においてまれな控え目な人物が,知性ある登
場人物に道を譲るのである。『ミドルーマーチ』や『ダニエル・デロンダ』
でエリオットは,カタルシスについての作者の洞察力を分かち合い,表現
する悲劇的人物を作り上げている。素朴な心がほとんどいつも現れている
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ジョージ・エリオットの小説(2)
ジョージ・エリオットの運命の分析は,称賛ではなく後悔を生み出す非主
人公的悲劇を含んでいる。しかし,その非主人公的人物は常に強い生命力
と社会的几帳面さを持ち,批評する人物として行動し,結局主題を強める
のに役立つぎりぎりの立場へと抑制されている。マリオ・プラッツは面白
く編集されたワーズ・ワース的人物のリストを公にしているが,ロザモン
ド・ヴィンスィとグウェンドレン・ハーレスが含まれる。ボブ・ジェイキ
ンやヘンリエッタ・ノベルのような人物にワーズ・ワース的な題材や扱い
を探すことは確かに役立つであろう。彼等の古本や盗まれた砂糖の贈物は
異なった方法で人間の交友の主題を実証している。もし主人公らしい感性
と,主人公らしくない控え目なものとの差違を見失うなら,その要点をも
見失うことになる。ジョージ・エリオットの悲劇的登場人物はシェイクス
ピアのと著しく違っていない。全く主人公的でない悲劇的なる人物は,後
の作品で総ての主題の重荷を背負うためではなく,むしろ主題を普遍化す
るためにいる。
初期の小説では,主人公らしくない悲劇的な人物がしつこく登場してい
るのは確かである。それらの人物は詳しく観察する価値がある。彼等の取
り扱いにより,ルイスもジョージ・エリオットも強調する性質,“鮮烈さ”
の問題が生じる。人物像が単調ではっきりと物が言えない苦しみを写した
ものならば,どうして小説に使われ得るのか。ジョージ・エリオットは称
賛と喜びを進んで軽視したが,その代わりに何を表わそうとしたのか。
ルイスは第三番目の随筆で“文学の成功の原理”(2 週間おきの雑誌)に
ついて,“芸術家における直観力の鮮烈さとその創造物の瑞々しさの鮮烈さ
とは想像力の唯一の試練である”と書いている。想像力はルイスにとって
必要欠くべからざる力であったようだ。ルイスはロマンティック批評に多
くを負っている。ルイスの“鮮烈さ”は物事の本性の形式的把握の結果と
して見られるようだ。誠実なつまらない積み重ねに総ての形式と鋭さを失
っている英国とドイツにおける“細目主義”についての説明で,アーノル
ド・ベネットに対するヴァージニア・ウルフの攻撃が予見される。マリ
オ・プラッツはまた“鮮烈さ”の言葉を使い,ジョージ・エリオットをヴ
ェルミーアに例えて一般化の細部を美化する方法を暗示している。“‘現実
主義’は直観力の鮮烈さを通し,もっと高度な例で内部の特質に到達し,
‘親密主義’になり,精神的解釈がなされている。しかも現実主義は繁栄と
平和の喜びを再現するので,楽しい絵画を大変俗っぽく保証するという雰
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囲気をみなぎらせており,毎日の生活の瞬時が永遠の暗示となる。”それは
ひどく“こんな風に”であり,エリオットの説明も通用しないであろう。
プラッツの“変容”を引き起こすのは,ジョージ・エリオット,プルース
ト両者の連想における崇拝である。これは悲哀や郷愁のわずかな感情的危
機の場合に正しいのであろうが,エリオットの悲哀の総ての領域をカバー
することはほとんどない。エリオットの特別な種類の主人公らしくない悲
劇は,鮮烈さによるが,どんな普通の意味においても変容によることがな
い。エーモス・バートンとへティ・ソレルは人間の不適切さについての誠
実な肖像であり“変容”ではない。
ありきたりのものの鮮烈化が働く幾つかの方法を持ち出す前に,エリオ
ットの教訓的な目的の本質について述べることにする。ルイスは真の鮮烈
さを否定しているものとして“細目主義”を攻撃しているが,エリオット
は,文学の真実の考えを否定しているものとして,感傷を責めている。エ
リオットはまたなだめるような社会の嘘の伴なった“目立つ婦人帽好み”
の小説の虚偽も攻撃している。またディケンズの感傷の歪みも攻撃してい
る。エリオットの主旨が最もはっきり述べられているのはウエストミンス
ター誌(1856 年)のラエルの『市民社会』についての論評である。それは
『エイモス・バートン』の書かれた年であり,明かに厳しい批評の思考の年
でもある。
私達が画家,詩人,小説家であろうとも,芸術家のお陰をこうむってい
る最も大きな恩恵は,私達の同情の広がりである。一般化や統計学に基づ
く訴えは,できあいの同情,すでに働いている道徳的感傷を必要とする。
しかし偉大な芸術家が語ることの出来るような人生の描写は,平凡な者や
我がままな者すら捉え,彼等に自分自身とはかけ離れたものへの感心をも
もたらす。それは道徳的感情の生の素材と呼ばれるであろう。
エリオットは自分自身の同情を登場人物に注入することで,読者の同情
をかきたてたいとは思っていなかった。ユージン・スーの理想化された無
産階級の一員と同じほど有害であるディケンズの“超自然的な,徳の高い
貧しい子供,職人”の虚偽について語る時,エリオットはその単純化の技
の無知をはっきり示しているが,しかし彼女の抗議は単なる美的なもので
はない。エリオットが嫌っているのは劇画ではなく,感傷的劇画なのであ
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ジョージ・エリオットの小説(2)
る。エリオットはショーのように貧しい人達への崇拝を拒否している。な
ぜなら,彼女は貧困の堕落をあまりにも知り過ぎているからだ。ディケン
ズは登場人物を社会の罠にかかった潔白な人,あるいは社会悪のグロテス
クな代表者として表わし,しばしば登場人物のなかに好んで自分の願いを
込める社会改良主義者である。エリオットは無口すぎて懇願できないでい
る,あるいはあまりにも魅力的でないため人を魅了できないでいる登場人
物を現実的に表わしている。ディケンズは社会の恐れを正しく示している
が,しかし人の心を動かすような小さなネル,オリヴァー・ツイストやジ
ョーの美しさ,弱さで時に巧みに同情のネジを曲げている。エリオットは,
この道筋において“高度な道徳や洗練された感傷が,厳しい社会状態,無
知,欠陥から生じていること”を知り,また,“あるいは労働者階級はどん
な人も他のすべての人の世話をし,自分自身をかばうことをしない。その
至福千年を思わせるような利他主義にただちに陥る状態にあるという惨め
な誤り”をも知った。
エリオットは,鈍感な,むっとさえする人で書き始めた。小説は中産階
級に,いかに他の半分の階級が生きるのかを示すことで,最も実践的な種
類の生活を広げている。以前も現在も,エリオットは,まさにこの広がり
の本質的なもので,つまり読者への要請の素材で読者をいやがらせていた
のも偶然ではない。クウォータリーの記者は『フロス河の水車場』の非文
化的な地方,『牧師補の諸相』のつまらない,取るに足らないシェパートン
の住民が好きではなかった。通常,美的拒絶は『ダニエル・デロンダ』の
ユダヤ人の部分である。それは真実であるが,しかし時に,それらの拒絶
は反ユダヤ人気質に“開化した” グウェンドレンの反響を偶然にももたら
す。“確かに彼はひとつの直感的識別力を持っていたと思う,”とヘンリ
ー・ジェイムズのパルチェリアが述べている。
読者を不安にさせるのは必ずしもつまらない素材,それ自体ではない。
それはしばしばエリオットの性格故に,熱烈に改宗させる行為である。つ
まりエリオットは魅力のない登場人物のままであり,変容させないとして
も,彼等のために語っている。エリオットの直接的批評は,ありきたりの
素材を強化する試みの重要な部分である。その技巧の程度はまちまちであ
るがしかし,作家の外面的訴えは遠ざけられたままの人物描写に,必要な
付随物である。読者と登場人物との関係は,ある点で決して親しくない。
なぜなら登場人物は魅力的でもないし,はっきりもしていないからである。
ジョージ・エリオットの小説(2)
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しかしそれは,ある面で身近すぎる同情を絶えず精力的に求めているから
である。エリオットは,控え目に使ったであろう読者への講演のなかで,
次のように述べている。“時と場合によるのだが,もしどんよりとした灰色
の目を通して見たり,静かな普通の調子で話す人の経験にある詩と悲哀,
悲劇と喜劇を私と一緒に知るようになるなら,言葉に出せないほどに得す
るであろう。”(エイモス・バートン,第 5 章)
問題と主題は普通の調子の声である。その直接の話しはジョージ・エリ
オットの主題の強化,増大の好ましい方法である。強化,増大は一般的に,
人物や物語の外で行われている。小さなネルの感傷的訴えは,エイモス・
バートンの外で行われている。その効果は,感傷を避けられないし,バー
トン自身は単に訴えかけることから免れているのである。
フィールディングも洗練されていない曖昧な人物を使っているが,洗練
さには特に興味を持っていないようである。彼の強調は感性よりは場面に
置かれている。しかしトムやジョセフの声を補足する必要がある時,自分
自身の注解を使っている。彼における登場人物,物の態度はエリオットの
ものとは大変違っている。彼は同情的ではなく,皮肉を強調するために口
を出すが,しかし読者の期待を皮肉的に拒否することは,しばしば同情の
ごまかしの訴えとなる。しかしエリオットの不明瞭な人物の使用は,外の
解説の必要を生み出す。エリオットの人物は,ジェイン・オースティンの
普通のどの人物よりも遥かに不明瞭であるので。
小説の登場人物は自己表現的で,分析的な傾向になってしまっている。
アーノルドの心と心の対話が,主な主題となっている。不明瞭な人物は,
勿論生き残った。彼はヘミングウェイの強い静かな主人公のなかに存在し
ている。そこでは洗練さが,しばしば行動のなかに内包されており,時折
『老人と海』のように全く排除されている。彼はブルーム,プルーフロック,
チャーリー・チャプリンのように,エリオットの試みた種類の訴えに大変
近いものを創り出したが,“ちっぽけな人物”に留まっている。『アダム・
ビード』においてエリオットは,単純化に偉業を与える方法で,ジョイス
やチャップリンの神話創造に近づいている。エリオットは初期の物語にお
いて,主に控え目な表現,才能のなさ,単純さに興味を持っている。エイ
モスはアダム・ビードやブルームのように一般化されていない。彼はちっ
ぽけな人間の特別な同情を呼ぶ例として留まっている。
エイモスは多分,自分自身を説明し分析できない登場人物の一人である。
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ジョージ・エリオットの小説(2)
彼の訴えは気の小さい感性と無能さにある。エリオットは彼のために,分
析と説明をしなければならない。この分析は,感情の訴えと大変よく結び
付いている。その訴えは事実不明瞭さのためになされており,それで自動
的な節約が生じている。
登場人物と創造者とのギャップを埋めることは,必ずしも満足できるも
のではない。なぜ説明と分析が,登場人物の外で与えられるべきでないの
か。これについてははっきりとした理由がないようである。しかし同情に
訴えることは,美的な限界を超えるところまでに至らないという結果をも
たらす。エリオットはそれを疑うことなしに限界に挑戦しているが,しか
しそれは明らかに現代の多くの読者の感情に触れる繰り返しの語りの工夫
である。私はすでにぼんやりとした灰色の目に訴える例を述べてきたが,
それは代表的なものである。幾つかの過ちを犯す読者に対する頓呼法であ
る。繰り返され,誇張され,過度の興奮を伴なったものである。充分に詳
細に述べられたものになっていないので,誇張の様相を呈している。つま
りエイモスには,(アダムやブルームのように)一般的叙述の重さに耐える
ほどに充分に大きく誇張した性格が,ほんのわずかしか与えられていない。
それは全く,実に見事に私達があてにしている時に,去ってしまう。
(1)
その訴えは穏やかに避けられないものになるにつれて冷えてしまう。しか
しその鮮烈な懇願は,読者と登場人物のギャップのみならず,一般の知識
人と単純な人とのギャップを埋めるための意味を持っている。この一般的
主張が,特別な物語だけでなくどこでもなされているのは,それが全く平
凡だからである。
それにもかかわらず,その方法は時に成功している。多くの機転と技で,
特殊から一般化へと変わることができる。それは事実,感傷で意味付けら
れるであろう特別な場合の誇張を避けることができる。その直接的な語り
のほかの例を見てみよう。
牧師補エイモス・バートンは,私達のように最後の章で述べられている
会話を立ち聞きしなかったことは,彼にとって幸せなことであった。本当
に自ら自分自身に示す自分の絵と,隣人の心に作った絵とを比較するとい
う機会で自分の満足が高まる私達にとって,一体どんな致命的なものがあ
るのか……。ところでありがたいことに,私達を有用にし,愛想よくさせ
る幻想が少し残っている。私達は,友達が自分達をどのように思っている
ジョージ・エリオットの小説(2)
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のか,正確には分からない。この世はまさに,私達が装おうとしている姿
や,私達の背後で何が起ころうとしているのかを表わす鏡としてはできて
いない。可愛い親しい幻想の手助けで,私達は自分自身が魅力的であるこ
とを夢見ることができるし,私達の顔は冷静にふさわしい様子になる。ま
た,他人が自分の才能を誉めてくれることを夢見ることもできるし,私達
の優しさは乱されないし,私達が多くの良いことをしているという夢も見
ることが出来る――だが,ほんの少ししか成し遂げていないのである。
(2 章)
ここには確かに絶叫的な気持良さがあるが,しかし走り書きの論評とし
て私は,それが感傷を避けて,ある威厳に達していると思う。作家の論評
がなされた時,その真の働きはよりはっきりと目に見えるのである。
この働きは,登場人物の明瞭さに欠ける代償である。作者は登場人物の
作られた惨めな点に,無邪気に注意を向けるのである。エリオットの強調
は,後退をもたらす同情を見事に呼び出すことがない時,誇張となって,
しっかりしたものをもたらし,妥当な一般的なものへの広がりを表わすも
のとなるのである。登場人物は話しの枠内に置かれることで,美的にしっ
かりとしたものになることが述べられる。その主題が,ゆっくり慎重に取
り扱われ,社会の一例として一次的に,試みに表わされることで,一般化
がなされているのである。
一般化への動きは,最後の手本として,別の形式的な工夫,つまり枠組
や合唱コーラスで認められる。ルイスがウエストミンスター誌の記事“芸
術における現実主義:最近のドイツ小説,”の中で,“つまり商人は会計課
の雰囲気を持っていなければなならないし,馬蹄は馬屋の臭いがしなけれ
ばならない,”と主張しているが,そこでルイスが,その記事の中で要求し
た正確で詳細な現実主義で,現実的な社会描写へとしっかり築き上げるコ
ーラスには,それ自体を表わす多くの人達の混雑した場面が与えられる。
これらの場面は,また,主題や人物の強調に重要な役割を果たしているの
である。
コーラスには,主題の叙述の働きが与えられていない。つまり,少なく
とも初期の物語にはない。その働きは間接的である。背景としての役割や,
等しく自立した代理人としての役割は別にして,そのコーラスは,また,
形式的機能を持っている。『エイモス・バートン』から『ミドルマーチ』に
至る社会の集合的個性が,諸々の関係を築いたり,破壊したりして,思い
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ジョージ・エリオットの小説(2)
がけない代理人として行動している。語り手の声のように,コーラスは主
役の進路を邪魔し,悲劇的に叙述するうえで重要となっている語りの皮肉
の源となっている。人で混雑した場面は,エイモスが大写にされている場
面と切り離されているので,私達は,私達自身の読者的見解の皮肉的優越
感で,誤解した人から誤解した大衆へ,自己認識している人から認識して
いない社会へと変わるのである。『エイモス・バートン』と『ジャネットの
悔恨』では,その働きは交替する。『ギルフィル氏の愛の物語』では,コー
ラスが物語の枠組を占め,主人公は差し込まれた物語を占める。その効果
は,おおよそ同じである。私達は暗がりの一発から真実へ,独立したもの
から安楽な大衆の暖かさへ,緊張から偶然のユーモアへと移るのである。
一人の人の悲劇は,総ての人の喜劇である。『牧師補の諸相』や『サイラ
ス・マーナー』において,いや,ほとんどどの作品においてもはっきりと
はしていないが,通常一人の悲劇が総ての人の悲劇となる時がある。社会
の強さと弱さ(偶然のつぶやきで破壊し,親しみのある微笑で治す力)は,
物語の進行中に直接現れ,対立し,分離する行動形態で劇的に構築される。
それは D.W.グリフィスの『イントレランス』における緊張と不明瞭な
論評の創造のようである。
そのコーラスにおいて,エリオットは,最初の偉大な懐疑主義作家とし
て,ジョイス,
E.M.フォスター,そしてヴァージニア・ウルフのよう
な後の作家達にとってと同じように,孤立と結合の主題に対する形式的相
関物を提供している。そして大衆の見解と,内部の心理の対照は『戦争と
平和』における歴史の力と個人の生活との対照の構造的皮肉のようなもの
を作っている。
そのコーラスは,普通の主人公を解放する。つまり,形式的に対照的に
開放するのである。そのコーラスの論評は,一種の好奇心の緊張や,平坦
な物語に不審そうな向上的刺激を与える。その“そして本当に何が起こっ
ていたのか”という永遠の質問となる。しかし,エリオットの主題の叙述
を,額面通りに捉えることは危険である“ぼんやりとした灰色の目”の文
には裏表がある。事実彼女は,自分の素材をぼんやりとした灰色の目で,
普通の調子で抑えていない。確かに人間の平凡さはあるが,常に普通の行
動のなかに現れるという記述は正しくない。『牧師補の諸相』は物語の理解
の素晴らしい例であるが,ドイツの叙事詩のように大げさな記述に頼って
いる。光彩に欠ける主人公は,時に劇的に照らし出された背景に現れるの
ジョージ・エリオットの小説(2)
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である。
エリオットは,愚かな女流作家や彼女達のメロドラマが嫌いであった。
また,文明開化した生活の普通の出来事が最も恐ろしい危機へと強められ
る大げさな叙述に関しても,自分とはかけ離れた感傷的試みについても,
軽蔑的に語っている。しかし小さな事件を大げさに騒ぎ立ててはいないが,
依然として騒ぎを起こしている。『エイモス・バートン』にはミリーの死,
『ギルフィル氏の恋の物語』には不義理な愛人に対するティナが試みた殺害
と彼女自身の死,『ジャネットの悔恨』ではデンプスターとトライアンの死
がある。ジョージ・エリオットの現実主義は,激しい危機を排除する種類
のものではない。人工の山を縮めて,ゴシック調の山作りを笑ったジェイ
ン・オースティンと違い,エリオットはメロドラマと同様に沈黙しがちに
なることを攻撃し,日々の生活の愚かな営みと同様に,あさましさと暴力
を示さなければならなかった。
エリオットの暴力の扱いは,時にトライアンの死のようにありきたりだ
が,その死はルイスがドイツ小説で攻撃した種類の悲哀と,そんなに違っ
てはいない。明らかに読者の涙を誘うものだが,その試みは次の叙述から,
全く必然的,根本的に来ているわけではない。
安楽椅子(彼は最後まで座っていたのだが)に座った青白く消耗した姿.
..
痩せてほとんど透き通った手が,歓迎のあわただしさを伝えるために差し
出された時...まさに依然として好奇の優しさで満ちている灰色の目...
あらゆる要求に応える注意深い黒い目を持った優しい女性.
..(27章)
ここに悲哀を誘うあまりにも多くの,はっきりとした努力がある。しか
し,エリオットは別の死の場面も作り,全く読者の残酷な経験の拡充をな
しており,ゾラのように書くことができる。
(3)事実,デンプスターの死
は(アルコール中毒による)振戦せん妄症の狂乱のイメージにおいて『居
酒屋』に相応しい場面の長さによって,匹敵される。ここに,現実的な死
の床がある。
彼女の髪はすべて蛇だ...黒い蛇だ...ヒューヒュー音をたてている...
俺を行かせてくれ,俺を行かせろ...彼女はその冷たい腕で俺を引きずり
たいと思っている。彼女の腕は蛇だ...大きな白い蛇だ...私に絡みつく
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ジョージ・エリオットの小説(2)
だろう...彼女は私を冷たい水の中に引きずり込みたいと思っている...
彼女の胸は冷たい...それは黒い.
..それはみんな蛇だ。(22章)
暴力は平凡と隣り合わせであり,興奮の文脈に平凡なものがあり,静け
さと単調さの文脈に危うさが生じる。しかし概して『牧師補の諸相』にお
いては,まさに大変危うい機会はほとんどないし,主題にも関わっていな
い。本当の主題の危機は,全く理解されている。『エイモス・バートン』に
は物語の要があり,伯爵夫人の訪問についての村人達の感傷的な誇張があ
る。噂話をしている村人達は,最悪なもの,金のかかる客に耐えるエイモ
スの困難を不正な激情と間違える。つまり,反応と出来事,仮定と真実に
は,きわめて皮肉なものがある。その影響において,ノーサンガー寺院に
対するキャサリン・モーランドの反応と似ていないことはない。外見と真
実の対照は,一種の控え目な記述や語りの漸降法を作るが,直接,性格の
控え目な記述と関わっている。最もよい例であるエイモスのような人達は
“罰よりも大きな過ちに陥りがち”であるのは,心が狭く鈍感だからである。
普通の人の普通の生活が行動の中のロマンティックな誤解によって強調さ
れる。
『エイモス・バートン』においては,ミリー・バートンの死に見られる別
の控え目な叙述がある。普通の控え目な叙述ではない。その死は,一つの
例外的強調として長々と感傷的に,そしてかなりありきたりに表わされて
いる。物語のその部分を感傷的と述べることができる人なら誰でも,完全
に無視しなければならない強調である。ミリーの死の語りと主題がともに
物語の中心にあることが,私にとってこの物語が他の二つの物語に優ると
思える理由である。他の二つの物語は,主題と語りの隔たりが大きいから
である。ミリーの死はエイモスの個人的な危機であるが,しかしそれは社
会の争いの主題におけるクライマックスでもある。
サイラス・マーナーのように,エイモス・バートンは社会的孤立から融
和へ移る。だが,物語の励ましの皮肉は,ミリーの死によってもたらされ
た皮肉と逆のものである。彼は人間関係で挫折する時に,気付かずに流浪
者のようになっていた村人と関わりを持つようになる。その気が付かない
ことが,エイモスにとってなくてはならない特質である。エイモスの職業
上の関係,個人的悲劇の両方で,彼はほんの部分的にしか反応していない。
その反応のなさが子供達にも当然充分に表われている。“彼等はママが病気
ジョージ・エリオットの小説(2)
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で,パパが大変不幸に見えるので泣いた。しかし,多分次の週では,物事
はまたもとのようになるだろうと思った。
”(8 章)しかし“エイモスはベッ
ドの傍に膝まづき,妻の手を握った。彼は,自分の悲しみを信じなかった。
それは悪い夢だった。彼は,いつ妻が亡くなったのか,分からなかった。”
このページには,大人の反応に予測される差異はなく,類似がある。短か
く簡単な文章には,抑制された不明瞭さの感動的な効果がある。再び,エ
イモスがシェパートンから離れるのを心配した時,強調は悲劇的激情の不
足にある。“その墓から別かれることは,ミリーとの二度目の別れであるよ
うに思われた”というのは,エイモスが自分の心と過去との総ての物質的
な結びつきにしがみつく人であったからである。彼の想像は生き生きとし
ていないし,彼には実際の認知の刺激が必要であった。後で墓において
“彼はあたかも,自分自身の総ての幸せな過去と不幸な過去が現実であるこ
とを確認するかのように,墓石の文字を何度も読みながら,しばし立って
いた。”もし不幸という言葉が省略されていたなら,ありきたりの墓場の場
面になるだろう。それは悲劇の道具不足を知らせるものである。“私達がた
だ災難しか目にしない所で,詩人は私達に悲劇を見せる。”(成功の原理)
エリオットは,登場人物にとって,大き過ぎる悲劇を見せていると言える
だろう。同情への主張は,直接悲劇的反応によってなされるのではなく,
悲劇的反応不在のためになされなければならない。惨めさは,受難者達が
悲劇的機会に応じない方法にある。光彩の欠けた悲劇の主人公に,特別な
文脈が与えられるのである。
『アダム・ビート』では,普通の人物をかなり大写しにしている。アダム
は一般化された普通の人物で,しかも才能があり,誠実で,瑞々しい感性
を持った普通の人である。彼はエイモスと同じような素質で描かれてはい
ない。しかしへティ・ソレルについては,エリオットの批評家が認識して
いる通りである。つまりエディンバラ・レヴーで『ダニエル・デロンダ』
を批評しながら,へティについては,次のように書いている。
歴史あるいは小説の両方において,ひどい激情や災難に直面する時,ほ
とんどの場合,問題を処理し争うほど充分に優れた性格を持っている。し
かし,エリオットは,その巨大な影を理解することさえ不適当で,まさに
不満でどうしようもない,弱々しい,子供っぽい人物の様子で,傍観者を
ぞくぞくさせる最初の作家である。
(1876 年 10 月)
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ジョージ・エリオットの小説(2)
へティを悲劇の主人公にしないことで,悲劇に関しては概して,人間性
の一般化を図っている。つまり“中心人物のどうしょうもない弱さから,
深さと厳格な力が増すのである”と,批評家は言っている。 “無垢で価値
のない,取るに足らない人達が,最も致命的な渦巻きに瀕してどうしよう
もなく横たわっている時,その無力の人達の総ての世界”に,主人公的で
ない悲劇の核心が光を投げかけるのである。
へティを無垢と呼ぶのは,多分厳密な意味では正しくないであろう。ひ
どいエゴイズムにとってさえ,あまりにも小さ過ぎるエイモスと比較して,
へティは,自己と無私の道徳的問題とまさにより積極的に関わっている。
エイモスのような人にエリオットは,次のように問うている。“まさに彼等
の取るに足らないことにも,悲哀はないのか。彼等が分かち持つ人間性の
輝かしい可能性と,曖昧な偏狭な存在との比較に,悲哀はないのか。”へテ
ィのエゴイズムは,彼女の想像力が小さい故に,首尾一貫した自己愛がひ
どく強調されている。
彼女の狭い想像力の断片は,未来に関して作り出すことの出来る誤って
決められたぼんやりとした絵にしかすぎない。しかし彼女はどの絵におい
ても,素晴らしい服を着た中心人物となる。つまり,キャプテン・ドニソ
ーン大尉はすぐ傍らにいて腕をまわし多分接吻してくるであろう。そして
総ての人が自分を称賛し羨やむ。特にメアリー・バージはそうである,と
いうのは,彼女の新しいプリントのドレスは,自分のきらきら輝く衣装に
比べて,ひどく浅ましく見えるからである。
(15 章)
ヘティの空想の生活によるエゴイズムは,ほとんどこれほどひどく残酷
に表わされることがなかった。しかし輝かしい日の苦しみのイメージとし
てへティが後の章で表わされる時,憐れみの皮肉が和らげられている。へ
ティの感性の表面的論議は突然,へティの考えや行為の論評による繰り返
しへとそれ自体抑制される。彼女の夢,小さな夢は,彼女を駄目にした。
しかも“たまたま事が起こって恐れから解き放されるであろう,という盲
目的な曖昧な望みさえも,彼女を見捨ててしまった。”
(35 章)彼女は絶望
的であり,想像したり予想することができないし,悲劇が振りかかって来
るまで,悲劇をまともに見ることができないのである。彼女は,それを信
じることができない。“少年,少女達にとって,自分達も死んで行くことが
ジョージ・エリオットの小説(2)
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信じられないように,大きな不運が実際に自分達にも振りかかってくるこ
とも信じられないのである。
”
(35 章)
これは取るに足らない人間の悲劇である。激しい怒りや忍耐を伴なった
悲劇を約束するオディプス王やリア王とは違い,エイモスとへティのどう
しようもない旅は,意識の誠実な流れで表わされている。もはやそれ以上,
分析も説明もいらない。ただ“彼女の可哀相な狭い考えは,もはやはっき
りとした希望へと溶け込むことなく,明白な恐れの冷気で押し潰されるの
である。これから起こるであろうことについては,同じく子供っぽい,疑
わしいイメージを繰り返すだけである。
”
へティは自殺を企てる。エリオットは,彼女の狼狽のつまずき,それ自
体の反応を表現したり,説明したりできない心のつまづきの動きを表わし
ている。それは,全くとういうわけではないが,ほとんど動物的意識への変
形である。
つまり――総ての人が近づけない――冷たさ,暗さ,そして孤独の恐れ
は,長い期間の周期でより増大してしまったのである。それはほとんど,
あたかも彼女が既に死んでしまい,自分が死んでいるのを知り,再び生き
たいと望んでいるかのようであった。しかし,違うのである。彼女はまだ
生きていた。恐ろしい跳躍もしていなかった。奇妙な矛盾した憐れさと狂
喜を感じた。つまり彼女には,あえて死と直面しようとしなかった憐れさ
があり,さらにまだ生きている,また再び光と暖かさを知り,狂喜を味わ
うことになる。彼女は行きつ戻りつして,体を暖めた。目が夜に慣れるに
つれて,周りのものが分かり始めた。つまり垣根の暗い線,何かの生き物
――多分,野ネズミ――が芝生を急いで通り過ぎる素早い動きが分かり始
めた。もはや暗がりが,彼女の行動を妨害するとは感じられなかった。彼
女は野原を横切って歩き,垣根の階段を越えることができると思った。そ
れからまさに次の野原で,ハリエニシダの小屋が羊舎の近くにあるのを覚
えていると思った。もしその小屋に入れば,暖かくなるであろう。彼女は
そこで夜を過ごすことができるであろう。羊の子が生まれる時に,アリッ
クが夜を過ごしたことがあったからである。
(37 章)
私達は,閉所恐怖症的理法で,狭い心の鈍い動きや不慮の飛躍へと抑制
される。メロドラマの誇張による叙述の代わりに,悲劇的な主人公不在の
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ジョージ・エリオットの小説(2)
悲劇についての控え目な叙述がある。ホプキンズのように,エリオットは
悲劇的低音の楽器とも異なるビオールを知っている。彼女はそれに,悲劇
の調子を押し込んで,その不適切さを表わしている。
(4)
唯一の他の控え目な悲劇はサイラス・マーナーで,彼の反応はある点で,
エイモスやへティよりも息詰まる感じである。なぜなら,エイモスは抑え
られた感情を見せており,へティは思慮のないすさまじさへと押し込めら
れているからである。サイラスは彼等の無垢を分け合っているが,しかし
彼等のエゴイスティックな罪は分け合っていない。彼の悲劇は回顧として
表わされているが,時に強梗症を見せる。彼の悲劇は,非悲劇的な行動で
つまらないものになるほどである。つまりそこでは“過去の象徴が総て消
えてしまったので,夢想的になっており,現在が記憶と結び付いていない
ので,また夢想的である。”へティのように,サイラスも抑制された生活を
している。
ショック後の最初の行動は,織機の仕事であった。彼は絶え間なく仕事
を続けた。ラヴィロウにやってきた現在,なぜ自分がオズグッド夫人の予
想よりも速くテーブル用白布を済ませるために夜遅くまで働かなければな
らないのか,そのことについて自分自身に問いかけることはしなかったし,
仕事で得る金を前もって考えることもなかった。サイラスは,何も問いか
けることなしに,純粋な衝動で蜘蛛のように布を織っているようであった。
総ての人の仕事は,着実に追及すると,それ自体このように終わり,人生
の愛のない割れ目に橋を掛ける傾向がある。サイラスの手は,織機の杼
(ひ)を投げることで満足し,彼の目は布の小さな目が自分の努力のもとで
完成されるのを見て,満足していた。空腹の叫び声をあげた。サイラスは
孤独のうちに,朝食,正餐,そして夕食を準備しなければならなかった。
井戸から自分自身のために水を汲み,やかんに火をかけなければならなか
った。これらの刺激は,すべて織機と共に,彼の人生の糸を紡ぐ昆虫のよ
うに,躊躇しない生活に変える手助けとなった。
(2 章)
その単純な人物は単に,悲劇的反応ができないばかりではなく,悲劇的
打撃でさらにより無気力でものが言えなくなっている。その人事不肖の反
応は,あきらかにドラマでは容易に表わせないが,後の作品のほとんど総
てに繰り返されている。マギー,ドロシア,グウェンドレンは,敏感な人
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物である。彼女達は,悲劇に応え育てられているが,みんな弱々しい反応
の時期を過ごしている。激しい人生の危機で,人生が衰弱したり,非現実
的に思えるのである。それはまさに,非主人公的な悲劇を書くという事だ
けではなく,差し迫った人生の危機を避けて,悲劇が人生に満ちることを
示す方法である。
これらは控え目な叙述の二つの方法である。つまり,悲劇と悲劇の主人
公とのギャップについての主張があり,しかも危機の絶頂においても,悲
劇を見せることへの拒絶がある。それにもかかわらず,エリオットがメロ
ドラマを避けていると言及するのは,不正確であろう。控え目な行動と同
様に,誇張された行動がある。私はすでに,トライアンの死を述べたが,
へティの恩赦状を持って処刑場へ馬に乗って走るアーサーの厚かましい例
がある。手荒さや興奮が,メロドラマのように,あるいは誇張しているよ
うに私達の心に響くところでは,形式的,扇情的行為ではねつけらえてし
まうという理由があり,ありきたりの心と,ありきたりの出来事が装飾的
に,繊細に扱われているといる理由もある。不できな危機が,控え目な文
脈ゆえに,特に顕著となっている。この種のメロドラマ的危機は,そんな
にありふれてはいない。時に短く区切られて,控え目な叙述は,漸降法の
慎重で上出来な話で返ってくる。ティナは短刀を握るが,決して用いなか
った。グウェンドレンでは罪の意志で,行為ではない。だが,願いと行為
の違いは誇張されていない。しかし,表面的なメロドラマは,行為と願い
の基準をなす平坦な部分に対する,多分,熟慮したものではないであろう
が,一種の間接的な償いであろう。平坦な部分は『ロモラ』の例を除いて,
総ての小説に表われているが,『牧師補の諸相』,『アダム・ビード』や『サ
イラス・マーナー』の一部に,主な特徴的叙述があるだけである。エリオ
ットは悲劇で悪戦苦闘している普通の人から,普段の生活で悪戦苦闘して
いる非凡な男女へと移る。その普通の人は,今なお存在するが,ほかの人
の騒ぎのぎりぎりのところにいるのである。
例えば,彼の描写はほとんどいつも,牧師補に付随している控え目な叙
述で繰り返されている。エリオットの総ての小説は,牧師補の主題が“白
い古風なネクタイの小説”と呼ばれるもののなかで感傷化されたものでな
く,その主題として,色々な変化を含んでいる。作品の牧師補達は福音主
義小説のオルランドのように,貴婦人ぶった愚かさで,エリオットが退け
た(英国国教会の)牧師補に対する惨めな答えをしているだけではない。
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ジョージ・エリオットの小説(2)
彼等はまた,普通の生活の主題に対する変化を伴っている。しかし,役割
は複雑である。ヴァージニア・ウルフの小説の主人公のように,牧師補は
社会の結合と交友の例であり,象徴としても表わされている。牧師補生活
の諸相は,調和と関連を生み出す主権上の象徴を作り出しているが,通常
皮肉的な注解を伴っている。なぜならば私達の関心は,通常職業的祈りと,
個人の生活との隔たりに,静かに同情的に引き付けられてしまうからであ
る。つまり性質や,強調においては異なっている。バートンは職業におい
て失敗したが,家庭生活ではかなり人との接触がある。ギルフィル氏は牧
師として成功しているが“恋物語”では失敗している。この事は,彼の務
める教区民からさえ孤立し離れている人物として表わされ,物語の合唱風
の枠組の中で強調されている。彼の人生は二つの視点から見られる。合唱
風の人物達の述べる中でみられるが,現在のもととなっている枠組の隔離
されたもののなかにおいては,直接的には見えにくくなっている。さらに
私達を,見知らぬ,言い当てられない過去へ連れ戻し差し込む物語の中に
も見られる。トライアンも職業的には成功しており,ジャネットの社会復
帰の発動者となっている。彼はケンプ・アーウィン,サヴォナローラ,フ
ェアブラザー,ガスコンという多くの子孫の良き指導者である。トライア
ンとジャネットの関係は,主題を磨く代わりに,傷をつけている。的外れ
の好ましくないロマンスについては,不愉快な言及に染まっている。トラ
イアンの描写では,人生の失敗の告白で,人間性が与えられているけれど
も(またそれは挿入の語りで,短いものであるけれども),皮肉と感動の控
え目な叙述に欠けている。ひどい無能故に,エイモスを主人公として非悲
劇的にしているのは,控え目な叙述である。また,自分自身,ロマンスの
ぎりぎりのところにおり,そのロマンスも終わり,それを隠していること
で,ギルフィル氏が非悲劇的になっているのも控えめな叙述である。
平凡さが,その控え目な出来事と人物の中にあるが,それは生き生きと
した平凡なイメージであり,平坦な現実的表現ではない。それは竜頭蛇尾,
皮肉,孤立したメロドラマ,集団と意見との変化する形式的対照で,活気
付けられるのである。現実的な物語が鮮烈さを引き出す形式的構成もある。
それは古い劇の繰り返しの工夫である。『牧師補の諸相』の形式構成が,諸
相を一つの関連した全体と考えるなら,それは,後に対立法に出会うとこ
ろで,連続の“対比”を用い挿話的となるが,通常,次々に読む現代の読
者にとって,類似した繰り返しの効果が生じる。素朴なものと控え目な叙
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述の悲劇の繰り返しは,主題にスポットライトを投げかけている。また,
厳しさの代わりに,柔軟さをももたらす手助けとなっている。登場人物に
は,変わる余地を残し,教訓に力を添える目立った類似がある。エリオッ
トにとって,主題が人物の総てを占めてしまうことは,めったに感じられ
ない。エイモスは自分の鈍感と不注意が,純粋な個性の印象で現れるが,
素朴な人以外の何者でもない。ギルフィル氏には変化がある。目立たない
平凡さは,致命的出来事によって老年にもたらされた結果である。ジャネ
ットは,ギルフィルほどありきたりではない感性で,振れ動いている。中
心人物とは別に,物語には多くの素朴な人達の描写がある。『アダム・ビー
ト』や『サイラス・マーナー』における主人公らしさの欠如,それは,唯,
一つだけの主題とはなっていない。それが重要なのである。しかもそれは
偉大で,複雑な主要な部分の一つにしか過ぎない。登場人物の正しさは,
概してその語り手の正しさである。主題のテーマは感じられるが,物語全
部の世界が主題を証明する単純な目的のために創られたとは,感じられな
い。単純化に関するディケンズの方法は,エリオットのものではない。エ
リオットのは物事の本性の姿にできるだけ接近し続けるという想像表現の
一方法である。彼女の語りの世界の中には,その構成単位の他に,現実的
虚構の自由な生活が最も良い形態で見られる。つまり,その生活は,劇的
でもロマンティックでもない。諸々の人生の断片の表現においてさえ自由
であり,つまりその生活は,発達した直観力を見事に,勢力的に強調する
ことでできているのである。
【注】
1)直接的な話は実際に連続した要約で述べられるべきであり,それは第二部の導入のと
ころにある。
『ブラックウッド誌』
(1857年, 2月)
。
2)これは必ずしも 19 世紀小説の常連読者の反応ではないが,しかし普通の大学生の反応
にしばしば見られる。
3)それはキングスレイの『アルトン ロック』における壮大な羨望状態の異常な場面の
ようなものである。
4)ヘティについてのさらなる議論は第三章を参照。
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