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11/20配布分

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11/20配布分
日本文法 A(担当教員:佐藤 佑)補足資料
2012.11.20 配布
☆小課題解説
問 1 この文はいくつの単語から成り、またいくつの文節から成っているか答えよ。
(17)単語
(8)文節
(単語の切れ目をスペース、文節の切れ目を/で示す。また、自立語を囲み線、付属語を波線で表し分ける)
和英辞典
/
を
/
買い
国語辞典
を
/
に
/
行っ
買っ
て
/
た
/
しまっ
太郎
た
が、
そうだ
/
うっかり
よ。
※「和英辞典」「国語辞典」はいずれも 1 語の合成語であり、単語レベルで「和英
辞典」「国語
辞
典」のようには切らない。
※「そうだ」は助動詞(付属語)であり、この直前に文節の切れ目は認められない。
問 2 この文の主部と述部を、そのままの形で抜き出せ。
主部
(
和英辞典を買いに行った太郎が
述部
(
買ってしまったそうだよ
)
)
※「和英辞典を買いに行った」は「太郎が」を修飾する修飾部であるが、それは主部の連文節の中で
起こっている(したがって、それも含めて「主部」である)ことに注意する。
※「主部」「述部」「連文節」については、授業レジュメの pp.6-7 を確認のこと。
問 3 補助の関係にある 2 つの文節を、そのまま抜き出せ。
(
買って
)
(
しまったそうだよ
)
※後述する「買い」の扱いによっては、「買いに 行った」も補助の関係と見なされる可能性がある。
※連文節の「補助の関係」については、授業レジュメ p.8 を参照のこと。
問 4 問 1 で分けた単語のうち、付属語であるのはどれか。すべて抜き出し、品詞も答えよ。なお、助
詞の場合、「格助詞」「副助詞」などの下位分類も答えること。
を(格助詞)、に(格助詞)、た(助動詞)、て(接続助詞)、そうだ(助動詞)、よ(終助詞)
問 5 問 1 で分けた単語のうち、名詞はどれか。すべて答えよ。また、それらを意味・用法によって分
け、どれがどれとどのように異なっているかを簡単に述べよ。
※「意味・用法によって」という文言に注意。この場合、複合語であるか単純語であるかは問わない。
※「買い」が動詞から名詞に転成したものであるか、それとも依然として動詞であるのかは、実は教
科書の記述だけで判断することのできない問題である。詳しくは授業で後ほど扱う。
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日本文法 A(担当教員:佐藤 佑)補足資料
2012.11.20 配布
○副詞「全然」にも、「全然大丈夫だよ!」のような言い方があるように思います。
→副詞「全然」については、現代語において否定表現と呼応しない使い方は誤用と考えるのが一般
的です。ただし、
「全然大丈夫」などについても「全然問題ない」などの代用と考えれば、根幹に
ある発想自体はそれほど間違っていないとも言えそうです(もちろん、誤用として扱われること
に変わりはないのですが……)。
○非飽和名詞の「パラメータの値」というのが何なのか、よくわかりません。これは飽和名詞の連体
修飾語とどう違うのでしょうか。
→たとえば「りんごを買った」と言われて、
「何のりんご!?」というふうに聞き返すのは、あまり
普通ではありません。
「りんご」はそれだけで、どういうものかが定まっています。これが飽和名
詞の本質です。
一方、
「表紙」のような名詞は、それだけで意味が定まっているとは言えません。たとえば、
「表
紙を汚してしまった」とだけ言われても、すっきりしない部分が残ります。それこそ、「何の?」
と聞き返さずにはいられません。たとえば「『こころ』の表紙を汚してしまった」というように、
その「表紙」がどういう本(あるいはノートなど、その他冊子の形の何か)の「表紙」であるか
が明らかにされなければならない、それが非飽和名詞の本質です。
飽和名詞である「りんご」も、非飽和名詞である「表紙」も、学校文法的に言うところの連体
修飾語ないし連体修飾部(節)を伴うという性質は有しています。しかし、実際には前者におい
てそれが任意のものでしかない(たとえば「青森のりんご」と言うことはできるが、
「青森の」と
いう連体修飾語はなくても困ることはない)のに対し、後者においては必要不可欠なものである
(たとえば「『こころ』の表紙」において、
「『こころ』の」という連体修飾語はないと困る)とい
うことが、単純に「連体修飾語」で一括して扱ってしまうと見えなくなってしまう、というのが
問題になりうるわけです。
他動詞に関して、「花子が壊した」とだけ言われてもすっきりせず、「何を?」と聞き返したく
なるのと同様、非飽和名詞も「表紙を汚した」だけでは「何の?」と聞き返さざるを得ないもの
です。その「何の?」に答えるものが、つまり非飽和名詞のパラメータということになります。
○「句」と「項」の関係がよくわかりません。
→両者は各々まったく別の概念です。
「句」というのは、たとえば単独の名詞ではなく連体修飾要素+名詞を「名詞句」と呼ぶよう
に、複数の単語(文節)の組み合わせを指します。それは、非飽和名詞や行為名詞と必須の要素
との組み合わせ(「『こころ』の表紙」「助手の採用」)もあれば、「昨日買った本」「とてもおいし
いパン」のような任意の修飾要素と名詞との組み合わせも含みます。
一方、「項」というのは、「助手の採用」における「助手の」など、動詞や行為名詞が必要不可
欠とする要素(学校文法においては連用修飾語/部、連体修飾語/部)のみを指します。つまり、
項というのは、名詞句の中ではごく一部(行為名詞を中心とするもの)の、それも修飾語・修飾部
だけを指すということになります。
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日本文法 A(担当教員:佐藤 佑)補足資料
2012.11.20 配布
名詞句
助手の採用
項
行為名詞
○「妻は私が買った本を先に読んでしまう」と「妻は私の買った――」の違いとして、後者は「私の
もの」という意味合いが出やすいように思うのですが、どうでしょうか。どちらも同じ意味という
ことになってしまうのでしょうか。
→ガ・ノ交替の成立条件については、必ずしも十分に明らかにされていないのですが、現代語の素
朴な感覚として「の」が連体修飾的であり、また往々にして所有関係を表すのに用いられるとい
う側面は、確かに否定しきれないものもあります。たとえば、「私が彼に譲った本」という場合、
「本」は「私」の所有物ではなくなっているわけですが、それと連動して「?私の彼に譲った本」
というのは多少許容度が落ちる感じがします。
○「多くの人」の「多く」は、なぜ名詞に転成すると考えるのか、もうひとつよくわかりません。
→まず、逆に「多く」が形容詞の連用形であり、名詞に転成してはいないというのがどういう場合
かを考えます。連用形というのは、読んで字のごとく、「用」言が「連」なる形ということにな
ります。つまり、連用形の後ろにくるのは、用言(動詞・形容詞・形容動詞)あるいは助動詞の
みということになります(名詞に付くのが基本の用法である助動詞「だ」は除く)。
一方、「多くの人」を見ると、「多く」の後ろに格助詞「の」が続いています。これは名詞にし
か続かないものであり、名詞と名詞をつなぐのが主な役割です。したがって、これが表れている
時点で名詞に転成している(「兵士の多くが捕虜になった」「新人の彼に多くを求めてはいけない」
などにおける「多く」と同じ扱い)ということになるわけです。
○連体修飾節の、限定と非限定の違いがよくわかりません。
○連体修飾節の限定・非限定は、英語におけるそれと同様に考えていいのでしょうか。
→2 つめのコメントにあるように、日本語の連帯修飾節における限定・非限定の区別は、英文法の
関係代名詞におけるそれとおおむね同様に考えて差し支えないものです。
たとえば以下のような関係代名詞を用いた文については、限定用法(上)と非限定用法(下)
とで訳し方を変えると習った人が多いと思います。すなわち、限定用法は関係節を先に訳し、先
行する名詞を修飾するような形にする一方、非限定用法の場合は関係節の内容を前置せず、順番
に訳すというような区別です。
I like the man who is kind to everyone.
→私はその、誰にでも優しい男の人が好きです。
I like Mr. Jones, who is kind to everyone.
→私はジョーンズさんが好きです。なぜなら彼は誰にでも優しいからです。
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日本文法 A(担当教員:佐藤 佑)補足資料
2012.11.20 配布
しかし、実際にはこのような訳し方をしなければ意味が通らないということはまったくなく、
以下のような訳でも理解に支障はないと言えます。
私は、誰にでも優しいジョーンズさんが好きです。
つまるところ、日本語において修飾の関係が限定か非限定かの差は、形だけで区別されるもの
ではない(文の構造としてはまったく同じであっても、被修飾名詞の種類によって限定になった
り被限定になったりする)ということを押さえておくのが大切なわけです。
○「昨日買ったやつ」
「彼が言ってたやつ」などの「やつ」も、準体助詞と考えることはできないので
しょうか。
→「やつ」は代名詞「奴」との関係が、まったくなくなっているとまでは言いにくいものがありま
す。そもそも少なからず俗語的なので、国語教育で取り上げるにはふさわしくないという問題も
ありますが、学校文法の枠組みに当てはめるならば形式名詞ということになると思います。
○「上位の概念」というのがよくわからないのですが、上位=抽象的という解釈でいいでしょうか。
→具体的か抽象的か(≒目に見えるか否か)の違いではなく、範囲が広いか狭いかということが問
題になります。「こと」というのは、結局のところ「もの」でも「ところ」でもない、「もの」と
いうのは「こと」でも「ところ」でもない……というように、きわめて消極的な定義しかできな
いというのが、形式名詞の「意味」の脆弱性とも言えるものです。
たとえば、「何か食べるものが欲しい」と言った場合、「もの」ありきでそのうち「食べられる
もの」という限定(パラメータの充足)が行われるというよりは、
「食べたい」という欲求がまず
あって、それの対象が提示される、という流れが認められます。これは、名詞がまずあって、そ
の意味の外延が個々に決定される非飽和名詞とは異なり、何か食べたい、その何かとは「こと」
でも「ところ」でもなく「もの」
(=具体物)である、ということを表しているに過ぎないという
わけです。
○「ところ」は「もの」「こと」に比べると、普通名詞的な性質を有しているようにも思えます。
→まず、形式名詞とされるものは、ほとんどの場合は連体修飾を受けないと用いること自体ができ
ないということに注意してください。これは「もの」も「こと」も「ところ」も同じです。
ただし、形式名詞も、ある決まった文型の中で、連体修飾要素なしで用いられる場合も、一応
はあります。
ものがものだけに、運搬には細心の注意を要する。
ことと次第によっては、計画は一から練り直しだ。
ところ変われば品変わる。
とはいえ、
「りんごがなった」
「計画を練る」
「グラウンドへ移動する」のような普通名詞の表れ
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日本文法 A(担当教員:佐藤 佑)補足資料
2012.11.20 配布
る様々な構文について、「*ものがなった」「*ことを練る」「*ところへ移動する」というように形
式名詞を用いることはできない場合がほとんどです。こうしたことからも、形式名詞が普通名詞
とは区別されることになるわけです。
○内の関係と外の関係、NP といった術語についても、生徒に教えるべきでしょうか。
→内と外の関係については、一口に連体修飾語と言っても色々ある、ということで、いくつか例を
挙げる程度のことはしていいと思いますが、その名称まで導入する必要性はあまりないと思いま
す。また、”NP”に関してはそれこそ言語学の中でもやや偏ったものの見方なので、国語の授業
で教える必要はまったくありません。
○「現地に赴く考え」は「考えで(=考えを持って)現地に赴く」と考えれば内の関係とも言えるの
ではないでしょうか。
→「現地に赴く考え」は、「これから現地に赴く」という考え(計画)を意味します。一方、「考え
で……」とすると、ある考えに基づいて赴く、ということが確定済みだということになってしま
い、意味がずれてきます。また、
「*現地に赴いた考え」のように過去の形を作れない点も、
「昨日
買った/明日買う本」など内の関係を表す他の名詞句とは性質を異にする部分です。
○先週の補足プリントについて、
「B 党はわずか 5%しか占めなかった」の何がまずいのかわかりません
でした。
→「占める」というのは、一定の(全体において無視できないレベルの・影響を持つレベルの)割
合に達している状態を表します。すなわち、「量が大である(少なくとも、小ではない)」という
含意を生むわけです。したがって、5%という少ない割合にとどまる場合には使いにくくなるわけ
です。また、これは肯定的な表現であるため、
「○○しか○○ない」という文型とは相容れないと
いうことも指摘できます。
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