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Musashi University Working Paper
No.19 (J-11)
台湾成長の軌跡再考:1945-1990
2014 年 3 月 28 日
武蔵大学
東郷 賢*
<要旨>
本稿は途上国の経済成長に他国が与える影響を、1945 年~1990 年の台湾を題材に考察す
るものである。経済学の分野において、経済成長の決定要因としては、教育、制度など当
該国自身の説明変数が重要であるとされる。しかし、本稿では上記期間の台湾の経済成長
において米国の外交政策が決定的な(crucial)影響を及ぼしていたことを示し、経済学の
既存の主張に対し、反証の提示を試みる。
email: [email protected] 本稿は筆者が 2013 年度の研究休暇中に書いたもので、武蔵大学の寛大
な研究環境の提供に感謝いたします。また、研究期間中、代講でお世話になった加藤篤史、蟻川靖弘、両
氏にも大変感謝いたします。読者諸兄の忌憚ないご批判を頂ければ幸いです。
*
1.
はじめに
本稿は途上国の経済成長に他国が与える影響を、1945 年~1990 年の台湾を題材に考察す
るものである。経済学の分野において、経済成長の決定要因としては、教育、制度など当
該国自身の説明変数が重要であるとされる。しかし、本稿では上記期間の台湾の経済成長
において米国の外交政策が決定的な(crucial)影響を及ぼしていたことを示し、経済学の
既存の主張に対し、反証の提示を試みる。
経済学の分野において、経済成長の決定要因は、長い間多くの研究者によって探求され
てきた。現時点では、クロス・カントリー・データを使った計量分析(econometric analysis)
により、人的資本が重要であるとか、制度が重要であるとか、様々な結果が出ているもの
の、未だ誰もが納得できるような結論が出ているとは言い難い1。
本稿では 1945 年から 1990 年の台湾を取り上げ、経済学のみならず政治学の分野の既存
研究を考察しながら、上記期間の台湾の成長要因を探求する。なぜ上記期間の台湾を取り
上げたかと言えば、台湾はこの期間急速な経済成長を遂げ、農業が主体の経済から製造業
が主体の経済へ産業構造を転換した。しかも、製造業においても紡績などの労働集約的な
財が中心だったものを、コンピューターの集積回路などのハイテクな財が中心へと技術の
高度化を着実に遂げてもきた。それが台湾の 1945 年~1990 年を題材にした理由である。
また 1990 年は、国民大会で総統に初めて本省人が選ばれたという意味でも、台湾の統治を
考えるうえで、1つの区切りがついた年と考えることが出来る。
本稿の結論を少し紹介すれば、台湾の経済成長は、日本植民地の遺産の上に、優秀な経
済官僚が、米国の援助を使いながら、市場に介入しつつ実現したものと言えよう。しかし、
国民党政府は、第二次大戦中から大陸に存在し、米国から援助もうけ、同じ蒋介石が率い
ていた。なぜ、同じ政府が大陸では成長をもたらすことが出来ずに、台湾で成功したのか?
この点の考察が重要であると考える。
このような観点から、本稿では既存の文献とデータを中心に台湾の経済成長を考察する。
ケース・スタディによる分析は、あくまで当該国の分析であって、「経済成長」という一般
的な事象に対する分析にならないのではないか、との指摘もあるであろう。しかし、クロ
ス・カントリー・データの計量分析と、1 国のケース・スタディ―が補完的になって初めて
「経済成長」という一般事象の解明に役立つと筆者は考える。
また、経済学の見地からは「外国の影響を捨象して、経済成長をもたらす当該国の説明
変数を探求するのが経済学の目的である」との批判もあるであろう。つまり、我々は「も
1
詳しくは東郷(2009)を参照されたい。
1
し全ての他の変数が同じである」という条件の下で、成長をもたらす要因を探しているの
だと。しかし、外国の影響が「決定的に(crucial)
」重要であれば、その重要事項を無いも
のとして、経済成長を語ることにどれほどの意味があるのか?と筆者は思うのである。
本稿は歴史的な事実を踏まえながら台湾の経済成長の軌跡を分析するものであるため、
参考とした文献の中には、伝記や個人的な経験を語ったものがある(例えば江南 1989、カ
ー2006)
。これらの著作は個人の視点によるもので、公平でない可能性もある。また、台湾
のみならず米国政府が関連した資料(例えば Jacoby1966)も使用しているが、こちらも政
治的な配慮から記述に偏りがある可能性がある。この点については出来るだけ注意を払い
ながら、歴史の客観的「事実」を探り出し、それを一つの判断材料として経済成長のメカ
ニズムを考えていきたい。
また、本稿の中で日本の植民地政策について肯定的な点を指摘する箇所もあるが、筆者
は「植民地」を肯定する立場ではないことを改めて明言しておきたい。ある国が他の国に
支配されて良い筈がないことは明白である。但し、植民した国が行った政策のうち、経済
成長に貢献したものがあったとすれば、それを無視あるいは根拠なく否定することは学術
的良心に反すると思う。
さらに、本稿の記述の中で、
「台湾」という名称で「中華民国」政府について議論するが、
筆者は中華民国と中華人民共和国の政治的主張について個人的見解を持つものではないこ
とも明言しておきたい。両者の意見の相違については、両者の間で平和裏に解決するべき
と考えている。
本稿は台湾の 45 年間に及ぶ経済成長を、僅か 30 ページ足らずの小論文で分析しようと
する試みである。そのため、論理の飛躍や情報の不足があるかもしれない。読者諸兄の忌
憚ないご指摘を頂ければ幸いである。
それでは、以下次節で台湾の歴史の概略と経済パフォーマンスの紹介を行い、第 3 節で
は既存研究が明らかにした台湾の経済成長の特徴を述べ、第 4 節では台湾の経済成長につ
いて考察を行い、最後に本研究をまとめ、今後の研究課題について述べたい。
2.
2.1.
台湾の概略史と経済パフォーマンス
台湾概略史
台湾の経済成長の過程は、国民党が中国大陸で創設され、共産党との戦いに敗れ、台湾
に逃げてきた歴史を踏まえて理解するべきと考える。それは、大陸で統治および経済の改
善が出来なかった国民党が、台湾に移ってから 10 年程度の間に経済成長の基盤を形成し、
2
その後の高成長を実現できたのはなぜか、という点が重要であるからである。以下、1945
年から 1990 年までをいくつかの期間に分けて概観していくこととする。
(1)1945 年 8 月以前
日清戦争を終結するために結ばれた下関条約(1895 年 4 月 17 日、
Treaty of Shimonoseki、
正式名称は日清講和条約)により、台湾は日本へ割譲された。これにより 1945 年 8 月 15
日の日本の敗戦まで、50 年に及ぶ日本の台湾統治が行われることになった。日本が韓国を
併合したのが 1910 年であることから日本の台湾統治は韓国のそれよりも 15 年も長いこと
となる。
中国大陸では満州族によって建国された清を植民地化しようと欧米諸国などが進出する
なかで、中国を近代的な国家に変えようとする辛亥革命(Xinhai Revolution、第一革命と
も呼ばれる)が 1911 年~12 年に起こった。1912 年 1 月 1 日に共和制の中華民国(the
Republic of China)が樹立され、2 月には宣統帝(愛新覺羅溥儀、あいしんかくら ふぎ、
Aisin-Gioro Puyi)が退位したことにより清朝は滅亡した。これにより、中国で古代から続
いた君主制が終焉したこととなる。
この中華民国の初代臨時大総統(Provisional President)に就任したのが孫文(そん ぶ
ん、孫中山、孫逸仙という名もある、Sun Yat-sen )である。孫文は三民主義(San-min
Doctrine 或いは Three Principles of the People)を唱え、辛亥革命およびその後の中国の
政治的方針に大きな影響を与えた。三民主義は民族主義、民権主義、民生主義からなる(孫
1929)
。民族主義は漢民族による中国国家の独立を目指すもので、民権主義は主権在民によ
る民主主義のことである。民生主義は社会主義と等しいとされるが、人々の生活向上のた
め、中国に於いては大土地所有制の是正、資本家の活動の抑制を行うべきとの考えである
(孫 1929、p.186)
。
しかし、その後、清朝で軍人であった袁世凱(Yuan Shikai)が中華民国の第二代臨時大
総統に就任し、袁世凱打倒の第二革命が始まった。この革命は失敗し、孫文は日本に亡命
することとなる。1913 年 10 月に袁世凱は中華民国大総統に就任、さらには 1915 年には帝
政を復活させ自ら皇帝に即位したが、批判が激しくなり退位、1916 年に死去した。その後、
中国大陸は地方の軍人が独自政権を樹立する軍閥割拠の時代となっていく。
第一次世界大戦後の 1919 年 1 月~6 月のパリ講和条約でドイツから日本へ山東省権益が
譲渡されると、中国全土で排日運動(五・四運動)が始まる。亡命していた孫文は 1914 年
に東京で中華革命党を結成し、その後中国に戻り、1919 年には中華革命党を中国国民党へ
と改称した。また、コミンテルン指導の下、1921 年 7 月には中国共産党も結成されている。
3
このように軍閥が割拠し、混乱を極めた中国で、孫文の後継者として頭角を現したのが
軍人の蒋介石(しょう かいせき、蒋中正という名もある、Chiang Kai-shek)であった。
蒋介石は孫文と結婚した宋慶齢(そう
けいれい)の妹の宋美齢(そう
びれい、Soong
May-ling)と 1927 年に結婚し、国民党内での地位を確かなものにしていた。
宋姉妹は聖書販売などで財を成した宋嘉樹(そう
かじゅ、耀如(ようじょ)と言う名
もある)の娘で、宋慶齢の上に靄齢(あいれい)という姉がおり、宋美齢の下には子文(し
ぶん、T.V. Soong)という弟がいた。靄齢は孔子直系の子孫を名乗る財閥の御曹司孔祥熙(こ
う しょうき、Kung Hsiang-hsi)と結婚していた。宋一族と孔一族は上海経済界の有力な
家族であった。宋三姉妹はキリスト教徒でいずれも米国で教育を受け、宋子文もハーバー
ド大卒であった。
当時の中国の混乱した中で、蒋介石は党組織と軍組織を支配下に置くために多額の金を
必要とし、上海の銀行家・商人たちから資金を獲得する。他方、銀行家・商人の方でも資
金を差し出すことで、様々な利権を獲得していたと言われている。特に蒋介石と婚姻関係
でつながった宗家と孔家は強い利権を持ち、宋子文、孔祥熙は政府の要職にもついていた
(カー2006、p.80)
。
当時は、農村でも官吏、大地主などによる暴政がまかり通っていたと言われている。官
吏は税を任意に徴収し、アヘン窟や博打屋の管理をするものもいた一方、大地主の中には
気に入らない官吏を拉致するようなものもいたとのことである(江南 1989、p.57)
。
このような大陸の混乱と異なり、日本の統治下にあった台湾は着実な経済発展を遂げて
いった。もちろん、日本の台湾統治が台湾の人々に好意的に受け入れられたわけではない。
割譲された 1895 年から 5,6 年の間は日本統治に反対するゲリラ戦が行われ、双方の間で
残忍な殺戮が繰り広げられたとされる(ピーティ 1996、p.86)。しかし、明治政府は「銃と
棍棒」による植民地統治が日本への抵抗を永続させるだけで、効果的でないことを認識す
ると、道路網や通信設備などのインフラを整備し、土地改革(土地調査と地租の設定)を
行い、農業生産性の上昇を図った。このことにより、台湾の生活水準は大幅に改善し、社
会的安定が達成された。また、1930 年代後半から 40 年代前半にかけて、最初の工業化も
経験していたとされる(劉 1992、p.94)
。
(2)1945 年 8 月~1950 年
1945 年 8 月 15 日に日本が敗戦を受け入れたのち、蒋介石は陳儀(ちん ぎ、Chen Yi)を
台湾省行政長官として派遣した。この 1945 年から 1949 年までの間に台湾では陳儀によっ
4
て連れられて来られた国民党軍人らによる大規模な略奪、殺傷が行われた。
カー(2006)によれば、3 段階の略奪が行われたという。第 1 段階は中国軍の下級将校
によるもので、動かせるもの、監視されていなかったものは一瞬のあいだに中国兵の戦利
品となって持ち去られた。第 2 段階は、もう少し位の上の将校らにより、軍需物資や非軍
需物資が中国大陸に運ばれた。第 3 段階は、陳儀と彼の腹心らによって工業原料、貯蔵農
産物、日本人から没収した土地家屋財産などが略奪されたという(カー2006、p.132)
。
陳儀は 1947 年に台湾全土で極端な専売制度の施行を強行しようとしていた。専売制によ
って大きな利潤を懐に入れようというのである。そのような中、いわゆる「2・28 事件」が
起きる。
ことの発端は 1947 年 2 月 27 日の夜、露店で煙草を売っていた女性が、専売局の職員に
闇煙草を売っていることを咎められ、商品と現金を没収され、それに対し女性が抵抗した
ために、彼女はその専売局の職員にピストルでしたたかに頭を殴られ瀕死の重傷を負った。
その光景を見ていた台湾の民衆が怒って役人に迫ると、役人はピストルを撃ち、近くの警
察派出所に駆け込み、そのあとには女性と異なる死体が一体発見された。
翌日、約 2 千人の群衆が昨夜殺人を起した専売局職員の死刑と専売局長向けの嘆願書を
もって専売局本局に向けて行進を行った。しかし、専売局局長が不在とのことで、この行
進は陳儀台湾省長官公署に向かった。そこで、デモ隊にむけて国民党軍が発砲し、6 人の負
傷者が出た。
台湾の民衆からの反発が強くなると、陳儀はこの事件について紛争処理員会を設け、時
間稼ぎをしている間に大陸に援軍を求めた。
3 月 8 日の朝には重装備の大軍が台湾に上陸し、
台湾人の大虐殺を行った。特に指導者や学生たちが狙われたという(カー2006、pp.306-
363)
。Newsweek(1950)によれば、陳儀は 5 千人~1 万人の虐殺を行ったとされる。陳儀は
形式上この責任を取らされ、5 月 1 日に台湾を離れた。
台湾はこのような混乱のため、1948 年 12 月には、日本に譲渡された 1895 年以来の最低
の一人当たり年間生産となったという(カー2006、p.401)。つまり、植民地の間に上昇し
た生産水準が元に戻ったということである。
中国大陸における共産党との戦いで劣勢になった蒋介石は、台湾への退避のため注意深
い準備をした。まず、1948 年 12 月 29 日に陳誠(ちん せい、Chen Cheng)将軍を台湾
省主席として台湾に派遣した。陳誠は 1938 年から 1944 年まで湖北省の長官で、そこで土
5
地改革を試みたとのことで(Haggard and Pang 1994, p.54)
、そういう意味では国民の側
についた政策を実施する姿勢があったと考えられる。
次に浙江省主席になっていた陳儀を 1949 年 2 月に逮捕し、台湾に連れてきて 1950 年 6
月に銃殺刑に処した。陳儀の銃殺は 2・28 事件に対する台湾人の怒りを鎮める役割があっ
たのではないかと考えられる。
1949 年末に陳誠の後継者として呉国楨(ご こくてい、K.C. Wu)を台湾省主席に任命
したことはアメリカの信用を取り戻すための政策であったと考えられる。呉はプリンスト
ン大学で博士号を取った秀才で、アメリカから見れば信頼できる人選と映ったのであろう。
台湾省主席を退任した陳誠は 1950 年に行政院長に就任している。行政院(Executive Yuan)
とは日本の内閣にあたる組織である。
そうしたなか、1949 年には国共内戦に敗れ、蒋介石が大陸から台湾に逃げてきた。当時
の台湾人(本省人と呼ばれる)の人口は 600 万人で、流入した大陸からの人々(外省人と
呼ばれる)は 200 万人と言われている。
(3)1950 年~1972 年
米国は中国大陸において国民党に多大な援助を供与していた。しかしながら、その資金
の多くは孔家や宋家などによって私物化され、国民党政府の腐敗ぶりも著しいものがあっ
た。1945 年 4 月のルーズベルトの死を受けて大統領に就任したトルーマンは、ルーズベル
トと異なり台湾を見捨てるつもりであった。米国政府は、1949 年には China White Paper
(『中国白書』)を出版し、国民党政府の腐敗を公にした。さらに、1950 年 1 月 12 日にアチ
ソン国務長官が、アメリカが責任を持つ第 1 防衛線は、フィリピン―沖縄―日本-アリュ
ーシャン半島であると発表したときに、台湾はその中に入っていなかった2。
しかし、1950 年 6 月 25 日に朝鮮戦争が勃発して、米国政府の政策は 180 度転換する。
米国政府は積極的に台湾の支援に転じた。1951 年から膨大な援助が台湾に注入された。ま
さに、台湾での「逆コース(reverse course)」である3。
1954 年 9 月に中国人民解放軍が金門島の中華民国軍に対し砲撃を行い、第1次台湾海峡
危機が生じると、12 月 3 日には中米共同防衛条約(米華相互防衛条約、Mutual Defense
2
朝鮮半島も入ってはいなかった。このことが朝鮮戦争を生んだとも言われている。
「逆コース」とは、日本において GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の政策が朝鮮戦
争を境に、懲罰的なものから支援的なものに変更したことを言う。日本における「逆コー
ス」については、東郷(2013)を参照されたい。
3
6
Treaty between the United States of America and the Republic of China)が結ばれ、台
湾の安全保障が強化された4。
1958 年 8 月には中国人民解放軍が金門島(Quemoy Island)と馬祖島(Matsu Islands)
を攻撃し、2 次台湾海峡危機が発生したが、国民党は米国第七艦隊の助けを借りてこの 2 島
を取り戻した。10 月にダレス米国国務長官が台湾を訪れ、軍事ではなく政策で台湾人の支
持を得るように蒋介石を説得し、経済成長を促進できるなら、もっと援助を供与しても良
いと発言したとされる。
(Wang 2006, p.124)
1960 年 9 月 10 日には、Statue for the Encouragement of Investment(投資奨励条例)
が施行され、工業団地取得手続きの簡素化、外資の持ち株制限の撤廃、内国待遇の保証、
利潤送金規制の大幅緩和などが行われ、海外からの直接投資の流入が拡大した。
また、1965 年には高雄(Kaohsiung)に世界で初めての輸出加工区が設立され、直接投
資の流入がさらに加速するとともに、製造業品の輸出も拡大していった。
米国からの援助は 1965 年には終了するが、既に台湾の発展はこの時点で著しいものがあ
った。また、米国が 1965 年から直接介入したベトナム戦争に関するベトナム特需でも台湾
は多くの輸出を行ったとされる。
(3)1972 年~1988 年
1972 年 2 月にニクソン大統領が北京を訪問し、米中共同宣言を発表し、中華人民共和国
を事実上承認し、1979 年 1 月には国交正常化がなされた。既に、これ以前の 1971 年には
国際連合における中国代表権は中華人民共和国に移され、中華民国は追放されていた。
そのようななか、蔣介石の長男である蒋経国(しょう けいこく、Chiang Ching-kuo)
は 1972 年に行政院長、1975 年には国民党主席になり、1978 年に総統に就任と駆け足で出
世して行った。蒋経国が行政院長に就任してから 2 か月後、蒋介石は肺炎を患い、その後
殆ど公の場には姿を現すことなく 1975 年 4 月に死去する。
蒋経国は、蒋介石と彼の最初の妻である毛福梅(もう ふくばい)の一人息子として 1910
年に生まれるが、幼少期は蒋介石とは殆ど一緒に暮らしたことはない5。蒋介石は多忙であ
ったとともに、上海で陳潔如という女性と同棲していて家庭を顧みない生活であった。蒋
1979 年 12 月 16 日失効。
1927 年に蒋介石とは離縁、1939 年に日本軍の空爆で死去。蒋介石は 1927 年に
宋美齢と結婚。
4
5毛福梅は
7
経国は長じて、ソ連にある孫文を記念するために設立されたとする孫逸仙(孫文)大学(モ
スクワ中山大学とも呼ばれる)に入学する。この大学は、孫文を記念するというのは建前
で、実際は中国の革命幹部養成が目的であり、鄧小平などもここで学んだとされる。つま
り、蒋介石の息子、蒋経国は父とは異なり共産主義者であったということである。蒋介石
が 1927 年 4 月に共産党に攻撃を加えた時は、蒋経国は父親である蒋介石を激しく非難する
声明文を発表している(江南 1989、p.32)
。
蒋経国はその後、赤軍指揮官養成所であるトルマトコフ軍政学院に学ぶ。そのあとは電
機工場に見習い工として勤め、やがて技師、副工場長と出世し、孤児のファーニャという
女性と結婚する。ファーニャは後に蒋方良(しょう ほうりょう)という中国名を名乗るこ
とになる。
蒋経国は 1937 年に中国に帰国し、父である蒋介石と和解、国民党に入党し、綱紀粛正で
手腕を発揮し、
「蒋青天」と呼ばれるようになった。青天とは公正な役人に対する愛称のこ
とである。
蒋経国は台湾に移ってからは、政治部主任、救国副主任職などを歴任するほか、総統府
資料組長名義で特務機関組織を率い、反政府活動の抑圧を行っていた(江南 1989、p.163)
。
台湾は経済発展の裏で、蒋経国による厳しい監視がなされていたのである。
1979 年 12 月には美麗島事件(Kaohsiung Incident、Formosa Incident、Formoda
Magazine Incident などと呼ばれる)が起きた。美麗島とは台湾の別称である Formosa の
漢訳であり、この名を冠した雑誌主催のデモが政府によって弾圧され、民主活動家黄信介
らが投獄された事件である。当時の台湾では国民党以外の政党の設立は禁止されていたた
め、雑誌『美麗島』を発行することで、反国民党の人々は実質的な政治活動をしていた。
2000 年から 2008 年まで民主進歩党出身初の総統となった陳水扁(ちん すいへん、Chen
Shui-bian)はこの事件に関し、弁護士として、黄信介の弁護を担当していた。
また 1984 年 10 月 15 日には、いわゆる江南事件が発生した。これはヘンリー・リュウ
(Henry Liu、劉宜良、りゅう ぎりょう、ペンネームは江南、こうなん)という米国に帰
化した中国人がサンフランシスコの自宅ガレージで暗殺された事件である。彼は蒋経国の
伝記を書いており、それが暗殺の原因とされる。蒋経国の次男である蒋孝武の命令で、国
防部軍事情報局が派遣した台湾のやくざ組織により殺害されたとされる。国民党は米国の
裁判において江南の未亡人に 150 万米ドルの慰謝料を支払い和解している(伊藤 1993、
p.186 および日本経済新聞 1990 年 10 月 27 日 8 ページ)。
8
1985 年 8 月 17 日にはレーガン大統領と米国議会は「1986-87 年度外務授権法案
(Foreign Affairs Authorization Act)」を通すことで、台湾の民主化を推進するように国民
党政権に圧力をかけた(伊藤 1993、p.186 および Jacobs 2012, p.16)6。具体的には、Sec.807
Democracy on Taiwan で、台湾の民主化の進展が米国の支援につながると述べている。
このような経緯を背景に、蒋経国は 1985 年に「蒋家から後継者を出さない」ことを宣言
し、民主化を進めていく。1986 年 9 月 28 日には民主進歩党が結成される。当時は、まだ
戒厳令下であったため結党は非合法であったが、蒋経国はこれを黙認した。そして、1987
年 7 月 15 日には戒厳令そのものも解除されている。
(4)1988 年~1990 年
1988 年 1 月 13 日に蒋経国が病気で亡くなると、本省人である李登輝(り とうき、Lee
Teng-hui)が総統に就任した。日本統治時代に生まれ、岩里政男(いわさと まさお)とい
う日本名を使用し、日本語にも堪能であった彼は、京都帝国大学農学部に学び、台湾大学、
ア イ オ ワ 州 立 大 学 を 経 て 、 1957 年 か ら Sino-American Joint Committee on Rural
Reconstruction(中米農村復興聯合会)で働いた。1965 年にはロックフェラー財団農業開
発評議会とコーネル大学のジョイント基金による奨学金を得てコーネル大学に留学し、
1968 年に農業経済学の Ph.D.(博士号)を取得している(上坂 2001、p.102)
。李登輝は、そ
の後台湾大学教授を経て政治の道に進んでいった。
1988 年当時、李登輝は副総統であったので、総統が死去した場合、副総統が総統に就任
することは自然の流れであった。しかし、これはあくまで蒋経国が残した任期 2 年の臨時
的なものという見方もあったようである。ところが、1990 年の国民大会で総統に李登輝が
再選されて、ここに晴れて本省人による台湾の統治が実現されたわけである。
2.2.
経済パフォーマンス
次に利用可能な長期データから台湾の経済パフォーマンスを評価することとしたい。本
稿は 1945 年から 1990 年までの台湾の経済成長を分析の対象とするが、当該期間の高い経
済パフォーマンスを評価する意味でも、経済データは最新時まで掲載しておく。
(1) 成長率
行政院経済建設委員会(Council for Economic Planning and Development, Executive
Yuan)の統計資料 Taiwan Statistical Data Book 2012 によれば、1952 年から 2011 年ま
での台湾の GDP 成長率はグラフ1のとおりである。
Jacobs 2012, p.16 では Foreign Relation Action となっている。本文は下記のサイトから
閲覧可能。https://www.govtrack.us/congress/bills/99/hr2068/text
6
9
グラフ1:台湾GDP成長率
15.00
%
10.00
5.00
-5.00
1952
1955
1958
1961
1964
1967
1970
1973
1976
1979
1982
1985
1988
1991
1994
1997
2000
2003
2006
2009
0.00
(出所)Council for Economic Planning and Development (2012)
成長率が最高値となったのは、1978 年の 13.5%であり、いままで大きく下がったのは第
一次石油ショック後の 1974 年 1.9%、2001 年-1.7%、2009 年-1.8%となっている。1970
年代は特に成長率が高かった時期で、石油ショックの影響のあった 1974 年、75 年をのぞ
くと 1970 年~79 年の成長率は年平均 11.7%と非常に高いものであった。
(2) 失業率
次に失業率であるが、1952 年の 4.37%から減少傾向にあり、1970 年代は石油ショック
の影響の年を除き、低い値を維持し、1980 年には 1.23%と最低値となる。しかし、1994
年頃から増加に転じ 2009 年には 5.85%、2011 年でも 4.39%と高い値を取っている。
グラフ2:失業率
1952
1955
1958
1961
1964
1967
1970
1973
1976
1979
1982
1985
1988
1991
1994
1997
2000
2003
2006
2009
7
6
5
4
%
3
2
1
0
(出所)Council for Economic Planning and Development (2012)
(3) 物価
消費者物価の上昇率は、1960 年は 18.5%であったが、その後低下傾向にあり、それを越
えたのはどちらも石油ショックの影響によるものと考えられる 1974 年の 47.5%と 1980 年
10
の 19.0%の 2 回だけであった。台湾の経済の特徴として物価上昇率の低さが挙げられる。
グラフ3:消費者物価上昇率
50
40
30
% 20
10
2011
2008
2005
2002
1999
1996
1993
1990
1987
1984
1981
1978
1975
1972
1969
1966
1963
-10
1960
0
(出所)Council for Economic Planning and Development (2012)
(4) 貿易
輸出(f.o.b.価格)は 1952 年の 1 億 1,600 万ドルから増加傾向にあり、2011 年には 3,082
億ドルにまで増加している。輸入(c.i.f.価格)も同様に増加傾向にあり、1952 年は 1 億 8,700
万ドルであったものが、2011 年には 2,814 億ドルに達している。
グラフ4:輸出と輸入
250,000
200,000
150,000
100,000
50,000
0
-50,000
1952
1955
1958
1961
1964
1967
1970
1973
1976
1979
1982
1985
1988
1991
1994
1997
2000
2003
2006
2009
百万USドル
350,000
300,000
輸出(f.o.b.)
輸入(c.i.f.)
収支
(出所)Council for Economic Planning and Development (2012)
輸出から輸入を引いた貿易収支は、1964 年に一度黒字になるものの、1952 年から 1970
年までは継続的に赤字であった。それが 1971 年以降は石油ショックの影響と考えられる
74 年と 75 年を除くと毎年黒字を計上し 2011 年には 268 億ドルの黒字を計上している。
(5) 外貨準備残高
11
その結果、外貨準備残高は 1969 年末には 3 億 9,500 万ドルしかなかったものが、2011
年末には 3,855 億ドルまで増加した7。グラフ 5 は対数表示で、外貨準備残高の増加率をわ
かりやすくしたものだが、1969 年以降 1973 年までに急増し、また 1980 年から 1987 年頃
まで急増していることがわかる。
グラフ5:外貨準備残高
1,000,000
US million $
100,000
10,000
1,000
100
10
1969.03
1972.03
1975.03
1978.03
1981.03
1984.03
1987.03
1990.03
1993.03
1996.03
1999.03
2002.03
2005.03
2008.03
2011.03
1
(出所)Central Bank of the Repiblic of China (Taiwan)
(6) 財政支出
次に財政支出全体に占める国防費、経済開発、社会保障の比率を見てみよう。グラフ 6
は 1955 年がデータの取れるもっとも古い年で、5 年ごとに 1975 年まで表示し、1979 年か
ら 2005 年までは 1 年ごとにデータが取れる。
0.60
0.50
0.40
0.30
0.20
0.10
0.00
FY 1955
1965
1975
1980
1982
1984
1986
1988
1990
1992
1994
1996
1998
2000
2002
2004
比率
グラフ6:財政支出シェア
Defence
Development
Social Security
(出所)Council for Economic Planning and Development (2007)
外貨準備残高は中央銀行(Central Bank of the Repiblic of China (Taiwan))のデータによる。
2013 年 10 月の残高は 4,156 億ドル。
7
12
これをみると、1955 年、1960 年は財政支出の半分が国防費に当てられていることがわか
る。しかし、その後急激に国防費の比率は減少し、経済開発に関するものが増えている。
1993 年頃から経済開発に関する比率は低下し、それと引き換えに社会保障関係の比率が増
えていることがわかる。
(7) 援助受入額
米国から台湾へ実施された援助は 1951 年から 1968 年までの累計 1,482 百万ドルで、
1951
年から 54 年までが 375 百万ドル。グラフ 7 を見てもわかるとおりに、その多くがノンプロ
ジェクト援助である。
US$ million
グラフ7:米国援助受入額
400
300
200
100
0
Non-project Assistance
Project Assistance
(出所)Council for Economic Planning and Development (2007)
以上を簡潔にまとめるならば、近年の失業率の高さを別にすれば、まさに素晴らしい経
済パフォーマンスと言えるであろう。
3.
既存研究の成果
台湾経済の成長要因として、既存研究ではいくつかの事柄が挙げられている。以下では、
その点を、既存研究を示しながら論じていきたい。
3.1.植民地の遺産
日本の台湾統治時代の経済パフォーマンスを肯定的に評価する研究としては、ピーティ
(1996)がある。ピーティによれば、
「植民地当局による近代化努力が、物質的な面では顕
著な成功をもたらしたことを見ると、台湾は西洋の植民地とは別格である。」
(ピーティ 1996、
p.105)とのことである。
13
ピーティが指摘するのは、土地改革である。清朝の下で土地の所有権が不明確で、徴税
もでたらめだったものを、植民地政府は 1898 年から 1903 年にかけて、土地調査と登記を
行い、地価を設定した。これにより、土地の売買や徴税が容易となった。地租が固定され、
きちんと徴収されたことで、地主の手元に残る収益が上昇し、農業の生産性も向上したと
する。これが農産物の商品化を加速し、農業生産の拡大を生んだとされる。また、1920 年
代までには道路網も通信網も整備され、教育も提供された。
第一次大戦が生じると、西洋からアジアへの工業製品輸出が激減したため、日本が中国
や東南アジアの需要を充たすため輸出を拡大し、植民地への輸出が不足することになり、
台湾でも工業化が進んだとしている(ピーティ 1996、p.210)
。
ピーティ(1996)以外でも、日本統治の間の台湾の発展については肯定的な意見が多数
ある。カー(2006)は、著書の初めで第二次世界大戦の中国戦線で日本軍と戦ったウェデ
マイヤー陸軍中将が、1947 年 8 月 17 日に国務長官あてに書いた文章を載せているが、そ
の中で「日本政府は辺鄙な田舎にまで電気を引き、立派な鉄道と自動車道路を敷いた。ま
た八割以上の住民が読み書き出来るという事実は中国大陸の状態と全く相反するものだ。」
(カー2006、p.v)としている。Jacoby(1966, p.71)も台湾の持続的成長は、崩壊しつつあ
る清(Manchu government)から下関条約で帝国日本が台湾を取得した 1895 年から始ま
ったとしている。
以上から、日本統治下の台湾において、教育や社会インフラの整備が行われ、経済成長
が実現されたと理解するべきであろう。日本人研究者の手によるものであるが、
Mizoguchi(1979, p.95)では 1911 年から 1938 年の間の台湾の実質国内総支出(GDE)の年
成長率は 3.80%と推計され、日本の 3.36%より高かったと報告されている8。
3.2.スーパー・エリート官僚
台湾の経済発展において、非常に優秀な官僚のグループが大きな役割を果たしたことは
よく知られている。Vogel(1991)は著書の中の1つのセクションを割いて、その重要性を示
している9。Vogel (1991, p.26) によれば、1950 年代と 60 年代の台湾で経済官僚の最高位
44 人のうち、43 人が大学卒、そのうち 52%は米国で、9%はヨーロッパで学部卒以上の学
位(advanced degree)を取得していたとされる10。つまり、国際的な水準の教育を受け、
かつ英語を十分に操る一群の優秀な官僚たちが台湾にいたということである。彼らは様々
Mizoguchi(1979, p.95)では同期間の韓国(Korea)の成長率も 3.80%とされ、日本より
も高かったとしている。
9 Vogel (1991, 24-29)、邦訳ではヴォーゲル(1993, 36-43)
。
10ヴォーゲル(1993, p.39)では adavanced degree の訳は博士号となっている。
8
14
な要職を歴任し、時には兼職し、台湾の経済運営をしていった11。
第二次大戦中に中国は優秀な若い科学者や技師を米国やヨーロッパに派遣し、戦後の発
展に役立てようとしたが、結果的には彼らの多くが台湾に移り経済発展に貢献したことに
なる(Vogel 1991, p.26)
。
代表的なのは、尹仲容(K.Y. Yin)と李國鼎(K.T. Li)である12。1949 年に各省庁の台
湾工業化努力の協調を図るために台湾生産事業管理員委員会(Taiwan Production Board、
TPB)が創設されたとき、委員長は陳誠(Chen Cheng)で副委員長が尹仲容であった、陳
誠が軍人出身で 1949 年には台湾省主席、1950 年から行政院院長(首相に相当)であった
ことを考えれば、実際のところは尹仲容がこの委員会の中心だったと思われる。
尹仲容は 1950 年には中央信託局(Central Trust of China)の総裁になり、生産事業管理委
員会が経済安定員会(Economic Stabilization Board、ESB)に吸収されると、そのなかの工
業委員会(Industrial Development Council、IDC)に招集され議長となった。李國鼎はこの
工業委員会で 1953 年から尹仲容の下で働き、頭角を現していく13。尹仲容は 1954 年には
経済部長(経済大臣に相当、minister of economic affairs)にも就任し、一度に 3 つのポジ
ションに就くこととなった(Wang 2006, p.91)
。
工業委員会は米国の援助を使って台湾の産業の発展及び民営化を実現する組織で、台湾
の外貨を流出させる輸入財の中で、自国で発展させうる分野を探し出し、育成した。尹仲
容は議長として、米国に提供してもらった綿および綿糸を使って台湾の織物産業(textile
industry)を育て、米国のプロジェクト・ローンと見返り資金(counterpart fund)で、プ
ラスチック
(PVC Plastic)
、
化学繊維
(man-made fiber)、ガラス(glass)、
セメント(cement)
、
肥料(uric fertilizer)産業などを育成した(Wang 2006, p.93)
。
尹仲容が行った民営化のなかで大変興味深いのは、1954 年創設の Formosa Plastic のケ
ースである。彼はプラスチック産業の民営化に際し、台湾で一番資金を持っている人間を、
台湾銀行を通じ探しだした。その人物はコメの卸をしていた王永慶(Yongqing Wang)で、彼
Haggard and Pang (1994)の Table 1 は 1949 年から 1963 年の間で、限られた人々が経
済官僚の重要職に就いていた事実を示している。
12尹仲容は英語表記では K.Y. Yin の他に Chung-jung Yin あるいは Zhongrong Yin とも記
され、李國鼎は K.T. Li の他に Kuo-ting Li、Kwoh-Ting Li あるいは Guoding Li とも記さ
れる。
13工業委員会は Vogel(1991)では Industrial Development Council と記されているが、
Wang(2006)では Industrial Development Commission と記されている。李國鼎の業績に
ついては Wang(2006)に詳しい。
11
15
に私財 50 万米ドルを提供させ、それに米国からの融資 67 万米ドルを合わせ Formosa
Plastic を創設させた。Formosa Plastic は、今日では世界最大の PVC とプラスチック会社
であるが、尹仲容の強い働き掛けが無ければ、今日の Formosa Plastic は無いと言われてい
る(Wang 2006, p.95)
。尹仲容はその後、1963 年に亡くなっている。
李國鼎は工業委員会で尹仲容の下で働いた後、1958 年から 1963 年までアメリカ援助協
議会(Council for the United States Aid、CUSA)の事務局長(secretary general)にな
り、1965 年から 1969 年までは経済部長、1969 年から 1976 年までは財政部長(財務大臣
に相当)
、1976 年から 1989 年までは無任所大臣(minister of state without portfolio)を
務めた(Vogel 1991)
。
李國鼎は 1910 年に南京に生まれ、1934 年には英国のケンブリッジで物理学を学んでい
たが、1937 年に日中戦争が勃発したため、母国のために働こうと帰国し、1948 年に台湾に
移り、上述のとおり経済の要職を歴任し、「台湾の経済奇跡の父(Father of Taiwan's
Economic Miracle)
」あるいは「科学技術の父(Godfather of Science and Technology)
」
(Wang 2006, p.201)と呼ばれている。
李國鼎が成し遂げたことは数多くあるが、代表的なものとしては以下のことがある。1960
年に Statue for the Encouragement of Investment(投資奨励条例)を施行したこと、1965
年に高雄に輸出加工区を作ったこと、1980 年に新竹科学工業園区を作ったこと、1986 年に
Taiwan Semi-Conductor Manufacturing Corporation (TSMC)を創設したことがある。投
資奨励条例と輸出加工区の創設は、台湾への直接投資を促進し、台湾の電器産業を育てた。
新竹科学工業園区は、ハイテク企業の育成に大いに貢献し、その中から TSMC など有名企
業が育っていった。
李國鼎の仕事ぶりを表すエピソードとしては以下のものがある。1つは米国の電機メー
カーGeneral Instrument(以下、GI と略す)の台湾への投資の話である。GI の部長であ
る Shapiro 氏は、台湾で製品を組み立て米国に輸出しようと 1964 年に台湾を訪れ、李國鼎
と話をした。彼は生産の許可を迅速(1 か月以内)に出してもらうことは可能か、また保税
倉庫(bonded warehouse)のアイデアも告げ、その可能性についても問い合わせた。李國
鼎としては GI が生産していた製品は、是非とも台湾で生産したいものであったので即答し、
わずか 1 か月間で許可をだすばかりではなく、Industrial Development and Investment
Center を通じて工場用地を世話し、工場建設も支援した。GI は台湾で生産する初めての米
国の電気会社となり、300 人を雇い生産を開始した。GI は 1992 年には 5,200 人を雇うま
でに発展した。GI の成功により、その後には、RCA、Zenith、Motorola と言った米国の
有名企業が続くこととなった(Wang 2006, pp.151-152)
。GI の誘致が台湾の電気産業の拡
16
大につながったことは否めない。
もう 1 つの有名な話は、TSMC の創設のエピソードである。李國鼎は TSMC 創設に必要
な人と資金を獲得した。彼は当時行政院長であった兪国華(Guohua Yu あるいは Kuo-hwa
Yu)を説得し、1986 年に大規模な半導体企業を創設することを決定。行政院の Development
Fund から 1 億米ドル(資本の 48.3%)を出させ、オランダのフィリップスなどに残りを出
させて TSMC を創設した。また、中国大陸出身で、スタンフォード大学で博士号を取り、
Texas Instruments の副社長まで勤め上げた Morris Chang(張忠謀)を説得し、TSMC の
社長に迎えいれたことである(Wang 2006, pp.216-218)
。
以上、台湾の経済発展に尹仲容、李國鼎ら少数の優秀な官僚たちが果たした大きな役割
を見てきた。しかし、ここで大きな疑問が生じる。大陸時代の国民党政府は腐敗しており、
国民から搾取し、資本家と結託し、甘い汁を吸う典型的な途上国政府であった。それが、
なぜ台湾ではそうならなかったのか?またエリート官僚たちは、なぜ自分の懐を潤すこと
を考えず、国家のために尽くしたのか?この問いに対する答えはあとで考察する。
3.4.米国の援助
台湾 の経済成 長において米 国援助が 果たした役割 について 記した研究は 少ない 。
Jacoby(1966) は こ の 分 野 の 代 表 的 な も の で あ る が 、 こ の 本 は 米 国 の Agency for
International Development(AID、国際開発庁)に依頼されて、カリフォルニア大学ロス
アンジェルス校のビジネス・スクールの dean(校長)である Neil Jacoby が著したもので
あるため、政治的な影響を受けている可能性に留意する必要がある。
米国は第二次世界大戦中から中国の国民党政権を援助し続けてきた。しかし、大陸では
米国の援助が横領あるいは横流しされ、本来の目的を果たしていなかったことは数多くの
文献に記されている。それが、台湾においては、本来の目的を全うし、経済成長に大きな
貢献をしてきた。ここでは、如何に米国の援助が台湾の経済成長に貢献してきたか、また
何故米国の援助が台湾で効果を発揮したのかを、Jacoby(1966)を中心に他の文献も参考に
して、出来るだけ客観的に記していくこととしたい。
米国の援助を受けた途上国で、台湾が一番初めに発展し、援助から卒業した。同時期、
韓国も米国の援助を大量に受け入れていたが、韓国に比べ台湾の方が援助を有効に使って
いたとされる。援助の有効性の決定要因を考察する意味でも米国の台湾向け援助のレヴュ
ーは重要である。
日本が真珠湾攻撃を行って以来、米国は日中戦争を戦っていた蒋介石を支援することを
17
決め、援助を始めたが、蒋介石は逆に米国の足元をみて巨額の援助を引き出していった。
例えば、中国のいうような条件で米国の援助が供与されなければ、日本と独断で和平を結
ぶと米国に示唆したことが知られている(Department of States 1967, Volume 1、p.2)
。
米国の援助が供与されるなか、国民党政府の腐敗や傲慢さの話が次第に米国政府にも知
れ渡るようになり、米国政府は第二次大戦後の 1949 年にアチソンが国務大臣になると The
China White Paper を発表し、国民党政府の腐敗の現実を米国国民に伝えることとした。
つまり、この白書の出版により、米国政府は中国と今後関わることは止めた、との意思表
示を行ったのである。
実際、それまでに国民党に渡った米国の援助については 110 百万ドルから 59 億ドルとい
う数字まであり(Department of States 1967, Volume 1、p.11)、具体的な金額はわかって
いない。その一方で、中国の国外公的資産は 1947 年 6 月 30 日時点で 327 百万ドル、個人
所有の外貨は少なくとも 600 百万ドル、最大で 1,500 百万ドルといわれ(Department of
States 1967, Volume 2、p.770)
、米国の援助の必要性に対する疑問、また米国の援助が個
人資産に化け外国に還流していたのではないかとの疑問が生じた。
米国の援助は具体的にどのように供与されていたのか?第二次大戦の末期、戦後の復興
を担う機関として United Nations Relief and Rehabilitation Administration(UNRRA、
国連救済復興機関)が計画されたとき、蒋介石夫人である宋美齢の弟の宋子文は「中国人の
尊厳」を持ち出して、援助物資の法的管理は一切中国人の手に委ねられなければならない
とし、国民党政府は UNRRA のカウンター・パートとして Chinese National Relief and
Rehabilitation Administration(CNRRA、シンラ、中国善後救済総署)を組織した(カー
2006、p.200)
。
この中国での措置は UNRRA にとっては例外的で、欧州では UNRRA は援助受入れ国と
協力しながら、救援物資が最終用途に届くまで管理権を持っていたが、中国ではその権利
は援助受入れ側に委ねられたのである。
当時の中国では宋美齢の一族が中国の倉庫業と船運業を独占しており、UNRRA の救援
物資が荷揚げされ、入れられる倉庫は宋一族の所有物であった。カー(2006、p.203 脚注)
によれば、UNRRA の援助物資である缶詰が倉庫に入れられたとたんに、倉庫の反対側の
端から持ち出され、市場で販売される様子が見受けられたという。このような援助の着服
は台湾においても同様であったとされる(カー2006、pp.203-211)
。
このような国民党政府の腐敗、援助の着服等が、米国政府の国民党への態度を変化させ、
18
上で述べたような 1949 年の中国白書の出版とつながっていくのである。更には国民党軍が
共産党軍に負けて台湾に敗走した結果、1950 年 1 月には、トルーマン大統領とアチソン国
務長官は台湾の国民党政府軍に軍事援助もアドバイスも今後与えないとし、台湾を西太平
洋の米国の第一防衛線の外に置いた。つまり、国民党軍を見捨てたということである。
しかし、1950 年 6 月 25 日に朝鮮戦争が勃発すると、米国は態度を 180 度転換する。日
本で「逆コース」が採られたのと同様に台湾に対する政策も変更された。トルーマン大統
領は第 7 艦隊を台湾海峡に派遣し、再度国民党政府にコミットし、7 月に援助を再開するの
である(Haggard and Pang 1994)
。冷戦の激化が国民党政府を救ったと言ってよい。しか
し、米国政府も今度は援助の供与方法を変えた。
具体的には、台湾における米国の援助組織として U.S. AID Mission to China を設けた
( Jacoby 1966, p.57 )。 1951 年 には こ のミ ッシ ョ ン の指 示 に より 前述 の Economic
Stabilizing Board(ESB、経済安定委員会)が設立された。この委員会の会議に、ミッション
の米国人は正式なメンバーではなかったものの、参加していた。
1950 年代の初めの台湾の問題は高インフレと膨大な軍事費であったため、米国からの援
助は当初、この 2 つの解決が目的であったとされる。援助によって基礎物資を提供し、イ
ンフレを抑えるとともに、膨大な軍事費を維持できるように援助を提供した。
1951 年には 57%もあった消費者物価上昇率も 1953 年には 4.5%まで低下し、1950 年代
の半ばには、インフレは終息した(Jacoby 1966, p.32)。インフレが終息すると、次に経済
発展が目的となった。そこで、1958 年には Economic Stabilization Boad が解散され、
Council for the United States Aid(CUSA、アメリカ援助協議会)と Joint Sino-American
Commission on Rural Reconstruction(JCRR、中米農村復興聯合会)が援助プログラムの
管理の役割を引き継ぐことになる。
1958 年は第 2 次台湾海峡危機があった年であり、米国の援助政策の変更の背景に、この
事件があったと考えられる。即ち、米国が台湾の安全保障については面倒を見る代わりに、
台湾を経済発展に専念させ、反共の砦として確立させるというものである。
実は CUSA と JCRR は 1948 年に創設された機関であった。1948 年は米国議会で China
Aid Act が通過し、5 億ドルが中国の復興と発展に割当てられた年であり、その援助を管理
実施する機関として CUSA と JCRR が創設されたのである。つまり国民党政府が台湾に逃
げてくる前に既にこの 2 つの機関は存在していたことになる。しかし、この 2 つの機関は
大陸では殆ど成果を上げることが出来ず、台湾において機能するようになった。
19
CUSA は米国の援助で支援するプロジェクトを選定し、援助を使い、そのプロジェクト
の実施を監督する国民党政府からは半独立の組織で、援助資金は政府の外で管理されてい
た。CUSA 職員の給与もそこから出されたため、他の一般の官僚の給与よりも高く設定で
き、優秀な人材を集めていた(Jacoby1966、pp.60-61.)
。Haggard and Pang (1994)によ
れば、
CUSA および JCRR の職員は通常の政府職員の 5 倍の給料をもらっていたとされる。
上述の李國鼎は CUSA の事務局長を務めていたし、本省人で初めて総統になる李登輝は
JCRR で働いていた。両機関が優秀な人材を集めていた証である。
ESB、CUSA、JCRR の会議には米国援助機関の職員が座っており、会議は英語で行われ
ていたという(Haggard and Pang 1994)。つまり、台湾の経済政策は援助供与国である米
国の監督下に行われていたということである。
直 接 投 資 を 受 け 入 れ る た め に 積 極 的 に 活 動 し た Industrial Development and
Investment Center は 1959 年に CUSA の下部組織として創設された。このセンターが工
業団地や輸出加工区を作り、外国企業の誘致を行った。援助資金は、直接投資を呼び込む
ために使われたわけで、生産的な使われ方をしたと考えられる。
1963 年 に は CUSA は Council on International Economic Cooperation and
Development(CIECD)に再組織化された。これは米国の援助が終わるのを見越して、外
国投資を受け入れるためとされる。
JCRR は米国の援助資金を使用して農村開発を行った機関である。大陸時代は大地主が国
民党の支持者だったので、農地改革が出来ずにいたが、台湾では農地改革を行い、農業の
生産性を高めたことが知られている。Jacoby(1966, p.62)では JCRR は U.S. AID Mission
の農業部門で、台湾の実際の農業省であったと記している。JCRR は台湾政府から距離を置
いていたので、専門性の高い中国人、米国人を雇うことが出来、1949 年-53 年の農地改革
も助言し、モニターしたほか、農業組合の効率化、民主化も行ったとされる。
Jacoby(1966, p.38)によれば米国の台湾向け援助は 1951-65 年で 1,465 百万ドル、平均
して 1 年 1 億ドルと高額であった14。この間、台湾の総投資の 34%は米国の援助によるも
のであったという。
米国の援助が注がれた先は、電力部門が最大で、総額 71 百万ドル。その結果、1952 年
1953 年-63 年だと台湾への援助は 11.2 億ドル。同期間、韓国への援助は 29.4 億ドル、
タイへの援助は 2.7 億ドルであった(Jacoby 1966, p.156)
。
14
20
から 62 年までに電力量は 3.5 倍となった。この電力の最大の需要者は、肥料工場で、他に
は紡績、セメント、製紙などの成長産業であった(劉 1992、p.103)
。
1962 年に米国で台湾向け援助を近い将来終了する決定がなされた(Jacoby 1966, p.218)
。
1964 年の米国議会で、Foreign Aid Bill の審議がなされ、「援助のサクセス・ストーリー」
が必要となり、台湾が選ばれた。1964 年 5 月に、1965 年 6 月 30 日以降は農産物の援助を
除き、新たな援助がコミットされないことが宣言された(Jacoby 1966, p.229)
。米国は当
時、台湾からの輸入品に対して非公式の割当を課していた(衣料品、砂糖、マッシュルー
ムの缶詰など)が、援助の停止と引き換えに、これら割り当てを解除したとされる(Jacoby
1966, p.237)
米国の援助が 1950 年 7 月に再開されたことについて、尹仲容は「タイミングよく与えら
れた米国の援助は、死にかけた病人に対するカンフル剤のようだった。」と述べている。
(Haggard and Pang 1994)。台湾の経済発展における米国の援助の重要性がよくわかる発言
である。
Jacoby(1966, p.83)でも 1951 年以降の台湾経済の急成長は、日本植民地時代に育成され
た人間の態度、技術、制度(具体的には農協、公的企業、信用組合、独占体制)などの基
礎の上に、米国の援助があって可能になった、と評価している。
Jacoby(1966, p.148)はまた、USAID が台湾政府に発展のための望ましい政策を採らせる
ように強く影響を及ぼしたことを認めつつ、それが可能であったのは、米国と台湾が共通
の関心をもっていたからだと述べている。しかし、この発言は政治的な配慮からの発言で
はないか。国民党政府は当初大陸回復が主たる目的で台湾の発展は視野に入っていなかっ
た、それが第 2 次台湾海峡危機でダレスが訪台し、経済発展を主たる目的にするように促
し、それに援助をつけることで、政策を誘導していったと考えられる。
3.5.市場メカニズム vs 政府介入
経済学の分野において、東アジアの経済成長が、市場メカニズムによるものと主張す
るグループと、政府の介入によるものと主張するグループが激しい議論をしてきたことは
よく知られている。東アジアの中でも台湾は地場中小企業の数が多いことから市場メカニ
ズムによって成長したとの主張がなされることが多い。要は多くの企業が市場で競争しな
がら国際的競争力を得て、自由貿易で輸出を伸ばし、高成長につながった、というストー
リーである。
しかし、実際には台湾政府が様々な市場介入を行ってきたことは事実である。上で見た
21
ように、李國鼎を中心として経済官僚が様々な政策を実施し、外資を呼び込み電気産業を
育て、新竹工業団地などを作りハイテク産業をも育ててきた。また、確かに中小企業の数
は多いが、燃料、化学、金属などの川上部門は当初国営企業によって運営され、中小企業
が中間財コストを抑えることのできる環境は整備されていた。
このような政府の介入の事実が積極的に取り上げられなかった背景としては、中小企業
経営者の多くは本省人で、政府官僚の中心は外省人という構図の中で、中小企業経営者は
自らの成功に対する政府の役割を過小評価しがちだったことも十分に考え得る。また、冷
戦構造の中で、米国の学者が市場主義の有益さを主張し、台湾出身の学者も外省人による
政府の政策の評価に前向きでなかったという要素もあったのではないかとも思われる。
以下では、既存の参考文献を紹介しながら、台湾の経済成長の過程について、どのよう
な市場介入が実施されてきたのかを明らかにしていく。
台湾の経済成長について「市場メカニズム」対「政府介入」の構図の中で、「政府介入」
の事実を明らかにし、市場メカニズムによる発展というストーリーに反証を提示した代表
的な研究と言えば、Wade(1990)であろう15。著者の Robert Wade は現在 London School
of Economics and Political Science の Department of International Development の教授
であるが、世界銀行で 1984 年から 1988 年まで働いた経験も持つ。彼は VictoriaUniveristy
で経済学の学士号を取得し、その後 Sussex University で社会人類学の Ph.D.(博士号)を
取得した。経済学者というよりは社会人類学者であり、社会人類学の手法で台湾の経済成
長の過程を検証した、と言えるであろう。
Wade(2004)は例えば、台湾製造業が中小企業によって発展したという主張に対し、1971
年と 1981 年の製造業生産の約半分は従業員 500 人以上の企業によって生産され、従業員
100 人以下の会社によって生産されたのは製造業生産の僅か 4 分の 1 でしかなかったこと
を示し、台湾の製造業が中小企業によるものというのは誇張である、との見解を示してい
る(Wade 2004, p.68)
。
輸出産業の川上部門である合成繊維とプラスチック産業について、Wade は以下のとおり
に紹介している。台湾における合成繊維の生産は、公営企業による 1957 年のレーヨン生産
に始まる。この公営企業は、米国企業と国内企業数社による特別な合弁会社で、この企業
の成功により、台湾政府の合意を順守する姿勢や、投資環境の評価が高まり、後の政府が
指導し、外国企業と国内企業を結びつけるモデルとなった、としている(Wade 2004,
その後、
新しい Introduction をつけた revised version の Wade (2004)が出版されており、
本稿では後者を参考とした。
15
22
pp.90-91)
。
プラスチックに関しても、1957 年に政府によって設立されたポリ塩化ビニール工場
(PVC)
が、王永慶に受け継がれたことは本稿の李國鼎のところで紹介した。1966 年になるとポリ
塩化ビニール製造会社は4つに増えていたものの、いずれも生産規模が小さく、中間財も
輸入に頼っていて非効率であったこと、さらに国営の Chinese Petroleum Corporation(中
国石油公司)は PVC の中間財であるエチレンの生産余力があったことから、この 4 つの会
社と中国石油公司および他の国営化学会社で合弁会社を作るように政府が強制したことが
紹介されている(Wade 2004, pp.91-92)
。
日本語で書かれた台湾の経済発展に関する研究では、台湾出身で東京大学大学院経済学
博士課程修了の劉進慶(りゅう しんけい)氏の一連の著書が代表的である。以下では、劉
(1992)を参考に紹介していく。輸入代替産業で、その後、輸出産業になった代表的な部
門として紡績産業とセメント産業があるが、これら産業の発展でも政府の介入は行われて
いた。
台湾の紡績産業の発展は、1948 年の国共内戦で国民党軍の敗色が強くなり、上海を中心
とする大陸の紡績資本が台湾に逃げてきたところから始まる。台湾政府は 1949 年より紡績
産業の保護育成にのりだし、3 つの政策を採った。第 1 は新規企業の参入を抑制し、過当競
争を防いだ。第 2 はアメリカの援助物資である原綿を政府が配給し、その際優遇為替レー
トで販売したため、紡績企業はコストを低く抑えることが可能になった。第 3 は「代紡代
織制」という制度を活用し、企業の資金不足を解消した。
「代紡代織制」は具体的には、政
府が綿花あるいは綿糸を業者に委託加工に出す、業者は製品にし、それを政府に納入する
と現物綿花あるいは加工賃を受け取る仕組みである。政府はその製品を市場で販売したり、
農家が生産したコメと物々交換をしたりした。また保護貿易も取られていたという。
その結果、紡績品の生産額は 1952 年に 10 億元であったものが、1954 年には 20 億元と
なり、初めて 500 万元の輸出が記録され、1963 年には生産額は 66 億元に飛躍し、輸出額
も 21 億元に至っている。つまり、台湾の紡績業は 1950 年代半ばには輸入代替を完了し、
輸出に転じたということである。ちなみに政府が 1957 年には新規投資の制限を解除したた
め、市場競争が激化、1958 年には生産過剰となる、その結果、政府は過大評価の為替レー
トを 46.8%切下げ、原料輸入許可を製品輸出実績とリンクさせ、輸出への圧力をかけた(劉
1992、pp.105-108)
。
次にセメント産業であるが、台湾はもともと良質な石灰石の産地であった。台湾政府は
戦後、戦前のセメント会社四社を官営の台湾水泥(セメント)公司一社に統合し、1953 年
23
に民営化した16。1957 年以降、新規参入があり、1963 年には合計 10 社の企業が存在した。
内戦非常時体制下の台湾でセメントは重要管制物資であり、販売管理規制が敷かれた。販
売対象について優先順位がつけられ、第 1 位が軍用工事、第 2 位が電力、水利、兵舎、第 3
位が生産、運輸交通など、第 4 位が一般消費であった。販売価格も軍用と民用で分けられ、
前者は後者のほぼ半分であった。この統制は実質的にはセメント企業にとって手厚い保護
となり、セメント工業も急速に成長した。
1952 年のセメントの生産量は 45 万トン、1957 年は 60 万トンであったが、1957 年の新
規企業参入以降急速に増加し、1958 年には 102 万トンと倍増近くになり、1964 年には 224
万トンに至る。輸出は 1952 年が 2 万トンと僅かであったが、やはり 1958 年に 27 万トン
に急増、1962 年に 48 万トン、1963 年には 98 万トンと倍以上の伸びを見せた。このセメ
ント輸出の急拡大に関してはベトナム特需が大きな要因と指摘されている。1958 年から
1964 年の集計で、セメントの輸出先はベトナムが 40.8%と最大である。この背景には米国
の地域調達規制政策から台湾が恩恵を被ったという指摘がある。(劉 1992、pp.108-110)。
1960 年代以降の台湾の輸出産業の発展は、2 つのグループからなっており、1 つは輸入
代替から輸出に転じた既存企業によるグループで、これは紡績アパレルやセメントなどが
該当する。もう1つは新興輸出加工業で、合板、プラスチック製品、電器電子などである。
1972 年には、紡績アパレルは 593 億元の生産を行い、その 66%を輸出、電気電子は 333
億元の生産を行い、その 59%を輸出、両者の輸出は同年の輸出の半分を超えている(劉 1992、
pp.121-122)
。この 2 つの産業の発展がいかに台湾の成長を支えたかがよくわかる。
電気電子産業は、1960 年の Statue for the Encouragement of Investment(投資奨励条
例)
、1965 年の輸出加工区の創設などにより外資の流入が急増した結果生じた新興産業であ
る。1960 年代に白黒テレビ、トランジスタラジオ、1970 年代にはカラーテレビ、テープレ
コーダー、電卓、1980 年代になると電子部品、半導体 IC の生産が中心であった(劉 1992、
p.123)
。
以上のように台湾産業の発展において、政府が様々な政策を採り、その結果、紡績、セ
メント、電気電子などの産業の成長を通じて台湾経済が成長した。しかし、このような民
間企業の育成は、国民党がその存在基盤としている孫文の三民主義の民生主義、すなわち
「私的資本を抑制し、国家資本を発展させる」の主張とは相反する政策である。このよう
な国民党の理想とする政策を捨てたのはなぜであろうか?
これは 1953 年の農地改革時に、地主から取り上げた土地の代わりに、この官営会社の株
式を地主に譲渡した。
16
24
4.
成長の岐路でどのような力が働いたのか
以上を考察すると、植民地の遺産の上に、発展志向のスーパー官僚が、米国からの援助
を使い、市場に介入しつつ、台湾の成長を実現したというストーリーが出来上がる。しか
し、その過程で、いくつか重要な岐路が存在したことが明らかになった。もし、その岐路
で異なる選択をしていたならば、台湾の成長過程は随分と異なったものとなっていたであ
ろう。その岐路において、どのような力が働いたのか?という点の考察が、台湾の経済成
長を考える上で重要である。
(1) 国民党は大陸回復をなぜあきらめたか?
蒋介石は 1949 年に大陸から逃げてきたあとも大陸回復に固執していた。ところが、ある
時期から大陸回復を実質的に諦める。この転換が無ければ、国防予算を減少させることは
なく、台湾の経済成長も今よりも低いものであったろう。この諦める契機はなんだったの
だろうか?
それは上述のとおり、第 2 次台湾海峡危機の後の米国国務長官ダレスの説得であったと
思う。米華相互防衛条約を締結し、第 7 艦隊を派遣することで、安全保障の懸念を逓減さ
せ、国内問題に専念させたのは米国政府である。国民党政府としては、台湾で力を蓄えて
いつか大陸を奪還する気持ちは、そう簡単に捨てられたとは思えない。この意味で、1958
年のダレス訪台は重要な契機であったと考えられる。
(2) 米国の援助がなぜ機能したか?
米国の援助は大陸では機能せず、台湾では機能した。これは、概略史のところで記した
通り、大陸では CNRRA を通じ、援助が横領、着服されたことが大きい。しかし、台湾に
移ってからは、政府から半独立の CUSA や JCRR などを通じて、援助が使用されたため、
米国政府の監視もあって、横領、着服などの機会が無くなったためと考えられる。
確かに CUSA の李國鼎は中国人である。彼のような優秀な官僚は大陸時代もいたであろ
う。しかし、そのような人々に自由に働く場所を提供できたのは、米国が CUSA や JCRR
の組織を作り、高給を払い、優秀な官僚を集め、彼等を政府の干渉から守ったことが大き
いと考えられる。この意味で、米国政府が 1950 年以前の対中国援助の供与方法を反省し、
1950 年以降は周到な仕組みを作り、台湾政府に援助供与を行ったことは重要なことと考え
られる。
(3) 民主化はなぜ可能になったか?
台湾が北朝鮮と異なる道を歩んだのはなぜか?北朝鮮では 1948 年以降、金一族による独
裁が現在まで続いている。台湾も、1945 年以降、蒋介石、蒋経国親子の政権が続いた。国
25
民大会で選ばれたと言え、政党は国民党しかなく、選挙とは名ばかりのものであった。当
然、台湾が北朝鮮と同じ道を進む可能性はあったのである。独裁政権が続けば、経済成長
にも大きなマイナス影響があったと考えられる。
蒋経国は実際、特務機関を率い、独裁政権に対する民主化要求活動を抑圧してきたこと
は上で述べた。もちろん、経済発展の重要性に理解も示し、経済官僚の行動を許可してき
たわけであるが、経済成長と民主化が別なものであると理解していた可能性は大きい。特
に蒋経国はソ連で教育を受け、共産党にも入党していたわけで、民主化をどの程度支持し
ていたかは疑わしい。
その彼が蒋一族の総統世襲を止め、国民党以外の政党を黙認し、戒厳令を解除したのは
なぜか?これは美麗島事件、江南事件と国民党政府の弾圧が続いたことに対し、米国が積
極的に干渉し、台湾民主化へ圧力をかけ続けたことが大きいと考えられる。
以上を考えると、台湾の経済成長の大きな岐路において、米国政府の果たした役割の重
要性が理解できる。
5.
まとめ
台湾の 1945 年から 1990 年までの経済成長を考察してきたわけだが、
もちろん台湾の人々、
具体的には技術者、資本家、経済官僚、政治家が果たした役割が重要であったことは否め
ない。しかしながら、それ以上に、朝鮮戦争を契機とした米国政府の台湾に対する政策の
変更、巨額な援助および援助供与に伴い台湾の政策への顕著な介入、民主化への圧力など
が大きな影響を果たしてきたことは明らかである。
確かに蒋介石、蒋経国親子は本省人 600 万人、外省人 200 万人という人口構成の中で、
台湾で失敗したら自らの命の危険もあり、その意味で大陸での失敗を反省し、民衆の福利
厚生に気を配った、との解釈をする者もいる。しかし、台湾海峡危機の事例を見てもわか
るとおり、もし米国政府が守らなければ、恐らく台湾は共産党軍に侵攻されていたであろ
う。
米国政府の積極的な関与が無ければ、台湾の経済成長はあり得なかったであろう。しか
し、その際に疑問なのは、なぜ朝鮮戦争が生じたときに、「逆コース」に転じたかである。
アチソンの 1950 年 1 月の宣言では台湾は明らかに防衛線の外にあった。つまり、その時点
では捨てられていたのである。それが、1950 年 6 月に朝鮮戦争が生じたからと言って、防
衛することになったのは何故なのか?改めて冷戦構造の中でその存在価値を再認識したと
でもいうのか?この点については今後の研究課題としたい。
26
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Book 2012, Executive Yuan, R.O.C. (Taiwan).
28
<Annex> 表1:台湾、中国大陸、米国
年
1895
:
台湾
台湾、日本へ割譲される(4/17)
中国大陸
米国
1910
1911
辛亥革命(~1912)
1912
中華民国成立、孫文臨時大総統(1)
第二革命失敗、孫文日本へ亡命。袁世凱大総統
になる。
1913
:
1925
孫文死去(3)
:
1927
:
南京に国民党政府発足(4)
1937
:
盧溝橋事件(日中戦争おこる)(7/7)
1941
:
日本軍、真珠湾攻撃(12/8)
フランクリン・ルーズベルト(民主党)大統領死去(4/12)
トルーマン副大統領が大統領に。
1945
日本の敗戦。植民地支配終わる(8/15)
:
1947
トルーマン再選、マーシャル国務長官就任(1)
2・28事件
1948
1949
トルーマン・ドクトリン発表(3)
国民政府総統、蒋介石(5)
白色テロ(~1953年)
トルーマン再選、アチソン国務長官就任(1)
国務省『中国白書』発表(8)
中華人民共和国成立(10)
国民政府、台湾遷都(12)
戒厳令(~1987年7月)
1950
アチソン第1防衛線発言(1)
[朝鮮戦争起こる(6)]
1951
台湾への援助開始
サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約調印(9)
1952
日華平和条約(4)
1953
第1次経済建設4か年計画
1954
第一次台湾海峡危機(9)
米華相互防衛条約(12)
アイゼンハウアー(共和党)大統領就任(1)
ダレス国務長官就任(1)
公営企業民営化開始
:
1957
第二次経済建設4か年計画
1958
第二次台湾海峡危機(8)
蒋介石・ダレス共同声明
為替貿易改革(為替レート一本化、切下げ)
1959
ハーター国務長官就任(4)
1960
中ソ論争始まる(7)
蒋介石総統に3選
19項目財経改革措置
投資奨励条例制定(9)
1961
ケネディ(民主党)大統領就任(1)
ラスク国務長官就任(1)
1962
ケネディ暗殺され、ジョンソン副大統領が大統領に就任
(11/22)
1963
1964
1965
原爆実験成功(10)
輸出加工区設置管理条例
米軍、ベトナム北爆開始(2)
ベトナムへ戦闘部隊を大量投入(3)
:
1969
蒋経国行政院副院長就任
ニクソン(共和党)大統領に就任(1)
ロジャース国務長官就任(1)
中ソ両軍、珍宝島で衝突(3)
ニクソン大統領、グアム・ドクトリン発表(7)
:
1971
国連追放(10)
1972
蒋経国行政院長就任
国連参加(10)
ドルと金の兌換停止(8/15)
ニクソン大統領、中国を訪問(2)
日本と断交(9)
1973
十大建設スタート
田中首相訪中(9)
ベトナム和平協定締結(1)
キッシンジャー国務長官就任(9)
29
年
1974
1975
1976
台湾
中国大陸
蒋介石死去、蒋経国国民党主席就任(4)
周恩来首相死去(1)
毛沢東中国共産党主席死去(9)
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1984
1985
1986
1987
1988
米国
ニクソン大統領辞任、フォード副大統領が大統領に(8)
カーター(民主党)大統領就任(1)
ヴァンス国務長官就任(1)
十二項目建設計画
蒋経国総統就任
アメリカと断交(1)
美麗島事件
新竹科学工業園区開設
鄧小平、復活(7)
米中国交正常化(1)
マスキー国務長官就任(5)
レーガン(共和党)大統領就任(1)
ヘイグ国務長官就任(1)
シュルツ国務長官就任(7)
江南事件
蒋経国総統に再選、李登輝副総統就任
蒋経国、蒋家の総統位継承を否定
民進党結成(9/26)
電子製品が繊維製品を抑えて輸出1位
戒厳令解除(7/15)
大陸里帰り解禁(11/2)
蒋経国死去、李登輝総統職を継承(1/13)
台湾・韓国に対する特恵関税制度適用を解除
ブッシュ大統領(1)
ベイカー国務長官(1)
1989
第2次天安門事件(6)
1990
李登輝総統再選
注:( )内は月日。例えば、(4/17)は4月17日、(5)は5月。
30
<略語・専門用語>
CIECD :Council for International Economic Cooperation and Development、1963 年
に CUSA が再組織されたもの。
CNRRA:Chinese National Relief and Rehabilitation Administration、CNRRA=シン
ラ中国前後救済総署(これは UNRRA に対し中国が作ったカウンター・パート)
CUSA:Council for the United States Aid、アメリカ援助協議会、アメリカ援助運用委
員会、米援聯合(れんごう)委員会、米援委員会などの訳がある。中国語では美援運用委
員会。
CUSA は 1948 年に創設され、
米国議会は中国の復興に 5 億ドルの援助予算をつけた。
援助は 1949 年に停止になったが、
CUSA は 1950 年に再開した。Haggard and Pang(1994)
Economic Stabilizing Board(ESB):1951 年 3 月に経済と金融に関する特別委員会が結成
された。ESB はこの委員会が拡大したもの。ESB は5つの部門をもっていた。産業発展計
画、米国援助、財政政策(国営企業も含む)、農林漁業、物価の5つ。ESB は 1958 年に解
散された。これは、他の省庁と仕事が重なるほか、ESB が強すぎるということが理由であ
った。しかし、マクロ経済計画と援助の利用、IDC は CUSA に移管され、CUSA は経済計
画における第一の省になった。Haggard and Pang(1994)
Export Processing Zone:輸出加工区
Executive Yuan:行政院
Hsinchu Science-based Industrial Park:新竹科学工業園区
IDC:ESB の第 1 部門が輸入代替の主要部門。この部門の下に Industrial Development
Commission(IDC)が作られた。1953-56 年の第一次 4 か年計画の産業部門は、この機関が
実施した。Haggard and Pang(1994)
Industrial Development and Investment Center:K.T. Li が議長
JCRR:Sino-American Joint Committee on Rural Reconstruction
中米農村復興聯合
会あるいは農村復興委員会の訳がある。
Legislative Yuan:立法院
mainlander:外省人
National Resource Commission:国家資源委員会
Statue for the Encouragement of Investment:投資奨励条例、工業団地取得手続きの簡
素化、外資の持ち株制限の撤廃、内国待遇の保証、利潤送金規制の大幅緩和などからなる、
1960 年 9 月 10 日施行
TPB:Taiwan Production Board、台湾省生産事業管理委員会、Haggard and Pang(1994)
によれば、国営企業と日本政府から取り上げた資産を管理する機関。1953 年 7 月に
Economic Stabilization Board (ESB)に吸収された
UNRRA:United Nations Relief and Rehabilitation Administration、UNRRA=アンラ、
国連救済復興機関、中国名は国連前後救済総署
19-Point Program for Economic and Financial Reform:19 項目経済・金融改革
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<人名>
尹仲容:K.Y. Yin、Yin Chung-jung あるいは Zhongrong Yin
李國鼎:K.T. Li、Kuo-ting Li あるいは Guoding Li
李登輝:Lee Teng-hui
陳誠:Chen Cheng
<企業名>
Taiwan Semi-conductor Manufacturing Corporation (TSMC)
Formosa Plastic Group:台湾プラスチック・グループ、中国語では台塑集團
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