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横浜市大会作文集

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横浜市大会作文集
Human Rights
平成25年度
全国中学生
人権作文コンテスト
横浜市大会作文集
横浜市人権啓発活動ネットワーク協議会
横浜市・横浜人権擁護委員協議会・横浜市人権擁護委員会・横浜地方法務局
横浜市教育委員会
平成 年度
横浜市大会作文集
全国中学生人権作文コンテスト
25
は し が き
昭和二十三年(一九四八年)十二月十日に国際連合総会で世界人権宣言が採択されたことを記念して、
毎年十二月四日から十日まで人権週間が設けられています。
これにあわせて、人権尊重思想の普及高揚を図るための啓発活動の一環として、横浜市人権啓発活動
ネットワーク協議会と横浜市教育委員会の共催で「全国中学生人権作文コンテスト横浜市大会」を実施
しています。
本コンテストは次代を担う中学生に、人権問題についての作文を書いてもらうことにより、人権尊重
の重要性についての理解を深めるとともに、豊かな人権感覚を身につけてもらうことを目的としていま
す。
〇一六編に及ぶ多数の作品が寄せられました。
本年度は、一四一校、五八、
コンテストに寄せられた応募作品はいずれも中学生らしい感性に富み、人権問題について、自ら真剣
に考えて意見を述べたものばかりで、応募された皆様の真摯な姿勢には心を打たれるものがあります。
この作文集は、校内審査を経た七七七編から、一次審査で九三編、二次審査で五一編を選考し、さら
に最終審査で最優秀賞、優秀賞に選ばれた二五編を収録したものです。より多くの方々にお読みいただ
き、身近な生活の中で人権尊重の輪が広がることを願ってやみません。
終わりに、コンテストの実施にあたり多大な御尽力をいただきました、審査に関わられた先生及び多
くの関係者の皆様方に対し、心から感謝申し上げます。
平成二十五年(二〇一三年)十一月
横浜市・横浜人権擁護委員協議会・ )
横浜市人権擁護委員会・横浜地方法務局
横浜市人権啓発活動ネットワーク協議会
(
横浜市教育委員会
審 査 講 評
〇一六
今年で三十三回目となる全国中学生人権作文コンテスト横浜市大会に、市内一四一校から五八、
編もの作品を御応募いただきました。参加された各校の先生方におかれましては、熱心に御指導いただ
き、また審査にあたられましたことに厚く御礼申し上げます。
日ごろの自らの体験を通じて感じたこと、考えたことを人権の視点から見つめ直し、一つの作品とし
てまとめ上げた中学生の皆さんの意欲と努力に心から敬意を表します。応募作品数も年々増加しており、
また優秀な作品も数多く、主催者として大変頼もしく、嬉しく思います。
応募作品のテーマは、いじめなど子どもに関するもののほか、戦争と平和、環境問題、障害者、高齢
者など幅広い分野から寄せられ、審査員一同感心いたしました。特にこの一~二年、東日本大震災に起
因する人権問題をテーマとした作品も多く見られ、震災が、人を思いやること、助け合うことの大切さ
に改めて気づくきっかけとなったのではないかと思います。また、今年は、
「男女共同参画」をテーマ
とした作品が上位に選ばれたことが印象に残りました。
作品の多くは、家族や友人、地域の人との日常のふれあいの中での、ちょっとした気づきや、心の動
きを素直に表現しており、その感覚の鋭さにはっとさせられる作品もありました。
中学生の皆さんが人権作文を書くことで培った「人権の視点」を、これからも永く持ち続けてくださ
ることを願っております。
横浜市大会においては、校内審査を経た作品について、市立中学校教育研究会国語科部会の先生方に
よる一次審査、教育委員会事務局指導主事による二次審査を行い、最終審査で最優秀賞など各賞を決
定いたしました。最優秀賞のうち、
「みんなのために築く社会」
「小さな一歩」
「勇気の連鎖で『いじめ』
が消えた」
「言葉の重み」
「心のどこかで」
「あと少しの勇気」
「支え合いは大切なこと」
「祖父の笑顔」
を神奈川県大会の優秀賞として推薦いたしましたことを御報告申し上げます。
審査員の皆様には、御多忙の中、審査に御協力いただきましたことに改めて御礼申し上げます。
最後に、この作文集が、中学生のみならず、広く市民の皆様が人権について考えるきっかけとなれば
幸いです。
審査員長 坂 田 清 一
(横浜人権擁護委員協議会会長)
はしがき
審査講評
目 次
言葉の重み
か
な
かず は
く
横浜市立横浜吉田中学校………… 二
年 後藤 万葉……
み
もえ
横浜市立あかね台中学校………… 三
年 船曳 萌……
ふなびき
もも せ
横浜市立保土ケ谷中学校………… 二
年 百瀬 美来……
ご とう
横浜市立中山中学校……………… 一
年 大西 佳奈……7
おおにし
入選者紹介 …………………………………………………………………………………………………… 1
●最優秀賞(横浜市長賞)
みんなのために築く社会
●最優秀賞(横浜市教育長賞)
小さな一歩
●最優秀賞(横浜市教育長賞)
勇気の連鎖で「いじめ」が消えた
10
●最優秀賞(横浜人権擁護委員協議会長賞)
13
16
やまぎし
ぼ た
あん
はや と
か りん
み ゆき
さくら
みず き
横浜市立霧が丘中学校…………… 三
年 山本 瑞紀……
わ く つ ゆう た
横浜市立旭中学校………………… 三
年 和久津優太……
やまもと
横浜市立六浦中学校……………… 三
年 掛田 桜……
横浜市立上飯田中学校…………… 三
年 ブィグェン バンビ……
かけ だ
横浜市立鴨志田中学校…………… 一
年 中村 美幸……
なかむら
横浜市立菅田中学校……………… 三
年 久保田花梨……
く
横浜市立城郷中学校……………… 二
年 加藤 大翔……
か とう
横浜市立東山田中学校…………… 三
年 山岸 杏……
●最優秀賞(横浜人権擁護委員協議会長賞)
心のどこかで
●最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
あと少しの勇気
●最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
支え合いは大切なこと
●最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
祖父の笑顔
●最優秀賞
新しい自分へ 「心」の奥底の光
共に生きる サラダボウルの多文化共生
18
21
23
26
38 35 32 29
優秀賞
見えない障害
対等の立場とは
助け合い かしわ ぎ
しゅ り
横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校… 三年 柏木 柊璃……
く る しま
あい
横浜市立中川中学校……………… 三
年 久留島 愛……
ご とう
たい ち
横浜市立仲尾台中学校…………… 三
年 望月 由伸……
やま だ
横浜市立南希望が丘中学校……… 二
年 山田 まゆ……
横浜市立篠原中学校……………… 二
年 星 美玖……
み やま
ゆ い
横浜市立領家中学校……………… 一
年 御山 優衣……
もちづき
よしのぶ
横浜市立笹下中学校……………… 三
年 鈴木 巧……
つ や も も の
横浜市立青葉台中学校…………… 二
年 津谷萌々乃……
ほし
み く
横浜市立希望が丘中学校………… 三
年 笹澤瑛利華……
すず き
すが お
横浜市立谷本中学校……………… 二
年 鈴木 清生……
すず き
たくみ
横浜市立新羽中学校……………… 三
年 後藤 大地……
こん の
ま な
「差別」について考える ︱私の第一歩 横浜市立緑が丘中学校…………… 二
年 今野 真那……
さいとう
ち あき
横浜市立青葉台中学校…………… 三
年 齊藤 千晶……
ささざわ え り か
相手の気持ちを考える 障がいのある人と。 合わせる 人を思う気持ちが人を助ける
笑顔の未来へ ばあちゃん、長生きしてね
」 「かわいそう…。
見えない困難 二〇十一年三月十一日
参加校紹介 …………………………………………………………………………………………………… 78 75 72 69 66 63 60 57 54 51 48 45 42
応募状況 ……………………………………………………………………………………………………… 82
84
入選者紹介 ︵敬称略 氏名五十音順︶
か
な
奈
佳
おおにし
大西
かず は
.........................................横浜市立中山中学校 一年
横浜市立あかね台中学校 三年
................................................................
横浜市立保土ケ谷中学校 二年
..................
横浜市立横浜吉田中学校 二年
................................................................
みんなのために築く社会
最優秀賞(横浜市長賞)
ご とう
後藤 万葉 小さな一歩
く
もえ
心のどこかで
..............................................................横浜市立東山田中学校 三年
1
最優秀賞(横浜市教育長賞)
み
来 勇気の連鎖で
「いじめ」が消えた
美
もも せ
百瀬
最優秀賞(横浜市教育長賞)
ふなびき
船曳 萌
言葉の重み
最優秀賞(横浜人権擁護委員協議会長賞)
あん
山岸 杏
やまぎし
最優秀賞(横浜人権擁護委員協議会長賞)
● ●
はや と
加藤 大翔 あと少しの勇気
か とう
か りん
み ゆき
..............................................横浜市立菅田中学校 三年
.............................................................横浜市立城郷中学校 二年
最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
ぼ た
久保田花梨 支え合いは大切なこと
く
最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
なかむら
...................................................................横浜市立鴨志田中学校 一年
..................................................................横浜市立六浦中学校 三年
......................................................横浜市立上飯田中学校 三年
横浜市立旭中学校 三年
........................................
...................................................................横浜市立霧が丘中学校 三年
「
心」の奥底の光
新しい自分へ
中村 美幸 祖父の笑顔
みず き
つ ゆう た
2
最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
さくら
掛田 桜
かけ だ
最優秀賞
く
和久津優太 サラダボウルの多文化共生
わ
山本 瑞紀 共に生きる
やまもと
ブィグェン バンビ
● ●
る しま
しゅ り
あい
たい ち
ま
な
助け合い
く
い
横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校 三年
...................
...............................横浜市立笹下中学校 三年
....................................横浜市立篠原中学校 二年
..............................................................横浜市立青葉台中学校 二年
人を思う気持ちが人を助ける
............................................................................横浜市立谷本中学校 二年
横浜市立希望が丘中学校 三年
............................................
..........................................横浜市立青葉台中学校 三年
...........横浜市立緑が丘中学校 二年
..................................................................横浜市立新羽中学校 三年
............................................................................横浜市立中川中学校 三年
後藤 大地 見えない障害
ご とう
久留島 愛
く
柏木 柊璃 対等の立場とは
かしわぎ
優秀賞
こん の
ち あき
今野 真那 「差別」
について考える︱私の第一歩
さいとう
か
齊藤 千晶 相手の気持ちを考える
ささざわ え り
の
合わせる
笹澤瑛利華 障がいのある人と。
すが お
生
清
すず き
鈴木
も
たくみ
すず き
や
も
鈴木 巧
つ
み
津谷萌々乃 笑顔の未来へ
ほし
ゆ
..........................................................横浜市立領家中学校 一年
星 美玖 ばあちゃん、長生きしてね
み やま
御山 優衣 「かわいそう…。
」
3
● ●
よしのぶ
伸
由
もちづき
望月
まゆ
やま だ
山田
ま な
あきら
あいざわ
いい だ
相澤 真菜
入賞
曉
飯田
いけ だ
池田ひびき
まど か
おいかわ
なつ き
ゆ め
及川 円佳
おいやま
芽
結
生山
かわむら
み
河村 夏樹
きく ち
こうすけ
菊池満ちる
くり た
栗田 航輔
くろ だ
黒田あかね
見えない困難
横浜市立南希望が丘中学校 二年
...................................
..............................................................横浜市立仲尾台中学校 三年
二〇十一年三月十一日
...................横浜市立中川西中学校 一年
.........................................................横浜市立芹が谷中学校 三年
.......................................................................横浜市立山内中学校 一年
「ニセモノ」の自分を壊した先に
僕の恩返し
いじめについて
.........................................横浜市立港南中学校 三年
...................................................横浜市立松本中学校 三年
私の考えたいじめと人権
ある日の出来事から
.....................................横浜市立上の宮中学校 一年
...............................................横浜市立軽井沢中学校 二年
自分を信じて権利を守る
虐待をなくすために
横浜市立希望が丘中学校 一年
............................................
横浜市立美しが丘中学校 三年
.......................................
祖母の怪我に接して
当たり前で大切なこと
4
● ●
こんどう
近藤なつみ
さいとう
はるか
その一言で
優先席のいらない世界へ
横浜市立いずみ野中学校 三年
.............................
.........................................横浜市立領家中学校 三年
..........................................横浜市立日野南中学校 三年
........................................................横浜市立菅田中学校 三年
障がい者の差別と人権
........................................................................横浜市立市ケ尾中学校 三年
.............横浜市立富岡中学校 三年
..................横浜市立菅田中学校 二年
........................................................横浜市立矢向中学校 三年
.....................................横浜市立東山田中学校 一年
...............................................横浜市立南戸塚中学校 三年
........................................................................横浜市立市ケ尾中学校 三年
いつも心のどこかに
二人三脚
たがいに協力しあうこと
心のバリアフリー
『はだしのゲン』に対して思うこと
「十人十色」寄り添う気持ちを大切に
今も続く
横浜市立万騎が原中学校 二年
..................................
.......................................................................横浜市立錦台中学校 二年
個性を認め合える社会へ
ゆう か
齋藤 優果
しま だ
りく
べ もえ か
マララさんから学んだこと
佐藤 由梨
ゆ り
遥
助け合っていけば
さ とう
島田
港
すね や
が
強矢
そ
ね
曽我辺萌香
ね
だいどう
音
希
大道
ま な
た がわ
き の
田川 満菜
と ざわ ゆ
戸澤由起乃
なる み
ないとう
内藤 成美
ひ なみ
なかむら
ゆ り
中村 日南
にしがみ さ
じゅん
西上小百合
ひらばやし
平林 純
5
● ●
りん か
星 凜佳
ほし
曲渕 百花
もり
やま だ
み
ひろ こ
さ き
もも か
森 美沙季
まがりふち
山田 寛子
...................................................横浜市立戸塚中学校 二年
...........................................横浜市立市場中学校 三年
......................................横浜市立汲沢中学校 三年
.......................................................................横浜市立港南中学校 三年
高齢者の身になって
悲しい言葉
「ありがとう」を伝えたい
「元気」に好きなことを
6
● ●
最優秀賞(横浜市長賞)
みんなのために築く社会
おお
横浜市立中山中学校 一年
にし
か
な
大 西 佳 奈
私には、夢があります。英語を使って、自分の知らない世界、外国や文化の違う国の事を知って、
それを他の人に広げる仕事がしたい、という夢です。少し、まだ具体的ではありませんが、通訳、翻
7
訳のような仕事について、今いる世界よりもっと大きな世界を知りたいです。小学一年生の頃、父の
仕事の都合で、アメリカに半年住んでからだんだんとふくらんできたこの夢について、最近私はいろ
いろ と 考 え る よ う に な り ま し た 。
数年前、少し昔の日本について聞いた時、昔は「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という考え
があった事を知りました。当時はかなり男女で地位の差があった様ですが、まだ小学生だった私はそ
れを現実とは遠いもの、今とは関係ない事として思っていました。
それが、私が五年生の頃、急に身近な事になりました。私の母が仕事に復帰したのがきっかけです。
その時、初めて母のこれまでについて詳しく聞かせてもらいました。
母は、大学を出て小学校の先生になったそうです。ところが、三年ほど経ち、父の仕事の関係で神
奈川に移ることになり、先生をやめなければならなくなりました。私が生まれてからもいろいろな所
● ●
を転々として、そのうち弟も生まれ、それからはずっと家の事や私たちの事を見てくれていたそうで
す。だから今思えば、私にとっての母は家で話を聞いてくれたり、身の周りの事をしてくれた記憶が
ほとんどです。優しくて、困った時にはいつも助けてくれた母が大好きだったし、そのおかげでアメ
リカでの貴重な経験もできたんだ、と初めて気付きました。
そして私が五年生になり、母がもう一度先生を始めると、大きく変わった事がたくさんありました。
弟の幼稚園のボランティアにはほとんど行く事ができないし、弟が代休の日には、保育園の一時預か
りを利用します。午前中だけのお仕事とはいえ、一段といそがしくなりました。今でもそうですが、
母は学校であった事などをよく私に「どう思う?」と聞いてくれます。その頃はよく、
「ボランティ
8
アなどを休む時、理由を分かってもらうのが難しい事がある」と言っていました。他にも、勤務時間
が短いため先生どうしの情報が伝わらなかったり、周りの人からは「シフトを調整すればある程度都
合がつけられる」と思われがちだったり、大切な保護者会へ出席できず、近所の知り合いの人に連ら
く事項を伝えてもらう事があったり、たくさんの方面での役割をしていて、大変そうだな、もっと何
とか な ら な い か な 、 と 思 い ま し た 。
「もっとよくしよう」
でも、もう一度先生になった母は楽しそうでした。毎日、授業の事を考えて、
と工夫していくことが、とてもやりがいがあるそうです。今まで、本当に先生をしている姿を知らな
かった私は、うれしくなりました。母の「社会の中の姿」を見ているようで、これまでずっと私たち
私にも変化がありました。朝のいそがしい時間帯に、昔はあまりする事のなかったお風呂そうじ、
の面倒を見てくれた事に改めて感謝したくなりました。
● ●
お弁当つめ、ゴミ出しを始めるようになり、「みんなで協力しよう」
と思うようになりました。
その中で、
私は父が果たしてくれていた役割にも気付きました。以前から、朝や休日の家事は父と母が分担して
やっていたし、母が仕事を始めてからは、学校や行事の「保護者の方」として父が何度も行き、弟の
バスの見送りをしたり、一生懸命にしてくれました。今思うと私が小さい頃から父は私を公園につれ
て行って遊んでくれたり、最近「イクメン」という言葉ができる前からそれを当たり前だと考えてい
たと 聞 き ま し た 。
それから三年経って、弟も大きくなり、最近はとても順調です。しかし、周りにはまだまだいろい
ろな理由でやりたい事を始められていない人たちがいます。そのために大切な事を、私はこう考えま
9
す。
まずは、周りの環境です。保育園があった事で、母はとても助かりました。それから、個人に合っ
た時間や内容の仕事があると、登録している人に紹介してくれる機関。男性が休みをとりやすいシス
テムの会社などがあると「やってみようかな」と思う人が増えると思います。
そして、何よりも大切なのが社会の人々の意識です。昔の私のように、一人の人間である女性が仕
事を始められない事に違和感を覚えていない人は、すべての人に一度ずつしかない、輝くチャンスを
思い出してください。男性が家や地域に協力することも「社会に参加する」ことです。
これからの未来は、私の未来、私たちの世代の未来でもあります。多くの人が自分の夢を叶えられ
る社会にするための第一歩として、今、意識を変える時です。
● ●
最優秀賞(横浜市教育長賞)
小さな一歩
ご
横浜市立横浜吉田中学校 二年
とう
かず
は
後 藤 万 葉
10
夏休みに引越しをすることになり、荷物の整理をしていたところ、プラスチックのケースに入った
点字器と点字新聞、そして点字の手紙が机の奥からでてきました。
私は、小学生のとき点字クラブに所属していました。点字器は、そのとき買ったものです。点字を
習う機会はなかなかないと母に勧められ、軽い気持ちで選んだクラブでした。
身近に点字を使える人がいなかったので、点字クラブに入るまでは、エレベーターや切符の自動販
売機などで点字を見かけることはあっても、それらは、私にとって何の意味も持たない、ただの凸凹
でし か あ り ま せ ん で し た 。
点字は横二列、縦三列、計六個の凸凹の組み合わせで、かなと数字やアルファベット、そしていろ
いろな記号を表します。現在の点字が確立されるまで、さまざまな苦労があったことを学び、まず、
かなの練習からはじめました。点字には規則性があるので、五十音や拗音などはすぐに打てるように
なりました。それから、隣の市にある盲学校を訪問する時に渡す手紙を書くことを目標に、文章を打
つ練習に移りました。点字には漢字がないので、文字を書くのとは違い、ちょっとしたあいさつを打
● ●
つのにも、とても苦労したことを思い出します。
いよいよ盲学校を訪問する日が来ました。音声機能付きのパソコンや図書室に並ぶ点字の本を見学
し、学べる環境が整えられていて様々な工夫がされていると感じました。私は勝手な先入観で、盲学
校の生徒さんは皆、大人しくてあまり運動はしないのではないかと思っていましたが、体育館には私
の小学校と同じような設備があり、トランポリンもあることに驚きました。
私が手紙を交換したのは、一年生の男の子でした。手紙には、好きなことは運動で、かけっこが大
好きだと書いてありました。休み時間はトランポリンで遊ぶそうです。
11
私は、すいか割りをした時のことを思い出しました。目が見えないと、怖くて、目の前に障害物が
ないとわかっていても、なかなか一歩が踏み出せなかったことを。目が見えないなんて、なんて大変
な生活だろうと、心のどこかで同情していたことを。でも、私が接した方たちは、皆、明るくて、生
き生きとしていて、とても活動的でした。手紙をくれた男の子は、当時同じ一年生だった私の弟より
もよほどしっかりしていて、大人びて見えました。
知らないということから、勝手なイメージを抱き、知らずに過ごすことで、そのイメージがふくら
んでいってしまうことはとてもつまらないことだと学びました。勇気を出して知る努力をすることに
より、私自身の世界も豊かになるのだと思いました。
私が踏み出した一歩は、本当に小さな一歩でしかありませんが、今までは意味を持たなかった自動
販売機の凸凹も、点字を学んだ今では、立派な意味のあるものとなりました。今まで気にも留めなか
った階段のスロープや歩道にある凸凹の重要性もわかるようになりました。気づかせてくれた点字ク
● ●
ラブに、そして交流した皆さんに感謝をしたいと思います。
世界中で起こっている宗教的な対立も、私には、今、実際に戦っている相手のことが憎いというよ
りも、過去の歴史的な因縁に縛られて、先入観だけで戦っているように思えてなりません。相手と分
断されていて、相手のことが全く分からないから怖い。知らないからこそ、悪い噂も信じてしまう。
私も、知らない人の悪い噂を聞き続けていたら、やはり悪い人なのだと思い込んでしまうでしょう。
戦う前に武器を置いて、少しでも交流することができれば、きっと分かり合えるのに。敵で、凶悪だ
と思っていた人にも家族がいて、大切な人がいて、平穏な暮らしを望んでいるのは同じだということ
も分かるのに。他の宗教を理解するということは、私が想像するよりも大きな大きな勇気が必要にな
12
るのでしょう。でも、個人個人が小さな一歩を踏み出すことにより、少しでも歩み寄ってほしいと願
わず に い ら れ ま せ ん 。
小学校卒業以来、使う機会がなくなってしまい、机の奥にしまいこんでいた点字器。でもこの点字
器は、私が何気なく暮らしていた本当に狭い世界から、一歩を踏み出すきっかけをくれ、一歩を踏み
出す大切さを教えてくれたものです。今後、きっと役に立つことがあるだろうと、いや、きっと役に
立たせようと誓い、引越しの荷物の中に大切に入れました。
● ●
最優秀賞(横浜市教育長賞)
勇気の連鎖で「いじめ」が消えた
もも
横浜市立保土ケ谷中学校 二年
せ
み
く
百 瀬 美 来
13
私は小学校低学年のころ、口数が少なく引っ込み思案で、おとなしい性格でした。そんな性格から
か友 達 も 多 く あ り ま せ ん で し た 。
クラスのリー
ある日いつものように学校に行くと、私に声をかけてくれた人がいました。その人は、
ダー的存在で、そんな人から声をかけられたのがすごくうれしかったのを覚えています。その人とは、
次第に仲良くなり、お互いの家を行き来するまでになりました。しかし、
仲良くなってから半年がたっ
たころ、思いもしなかったことが起こりました。
朝、学校についていつものように「おはよう」と声をかけました。いつもなら返事がかえってくる
のに、その日は返事が返ってきませんでした。
「あれっ。おかしいな。聞こえてなかったんだろうな。
」
と思いました。そう信じていました。しかし次の日も、その次の日も返事はありませんでした。
その頃から「いじめ」が始まりました。そのいじめは、日を重ねるごとにエスカレートしていきま
した。クラスのみんなから無視をされたり、悪口を言われたり、叩かれたり、けられたりしました。
でも、両親や先生には言うことができませんでした。その他に頼れる友達もいなかった私は、毎日が
● ●
辛く て と て も 長 く 感 じ ま し た 。
そんな生活が一ヵ月ほど過ぎたある日、いつものようにけられて、悪口を言われていたときある人
が「やめなよ。」と言ってくれました。その人の言葉にとても救われました。そのおかげで、その日
から 私 は い じ め ら れ な く な り ま し た 。
しかし、今度は私を助けてくれたせいで、その人がいじめられるようになりました。私は、何度も
あの時に言ってくれたように「やめなよ。」と、言おうとしました。しかし、またいじめられるのが
怖くて言うことができませんでした。そんな自分が情けなくて、
自分に腹が立ちました。
その時初めて、
あの時に言ってくれた「やめなよ。」という言葉を言うのにどれだけの勇気が要ったか、初めて分か
14
りました。これではいけないと思った私は、いじめられるのを覚悟して「やめなよ。
」と言いました。
すごく怖かったし、それまでで一番、緊張したかもしれません。でも清々しい気持ちでいっぱいでし
た。 前 と 違 っ て 私 の 隣 に は 仲 間 が い ま し た 。
いじめられた日々は、すごく辛く嫌な思いをたくさんしました。自分に自信が持てなくなったりも
しました。たくさん傷つきました。体についた傷は治っても、心についた傷は一生消えません。やっ
た方はいつか忘れることが出来てもやられた方は、いじめられた人にしか分からない、辛さや痛み、
苦しみを一生忘れることはできないのだと思います。でもそのおかげで私は、本当の友達を得ること
ができました。悪いことを否定できる強い意志を持つことができました。
今も日本には、いじめられている人がたくさんいます。私よりもっとひどいことをされて、もっと
苦しんでいる人がたくさんいます。それを誰にも言えずに、一人で抱え込んでいる人がたくさんいま
● ●
す。いじめをなくすのは、簡単なことではありません。いじめをなくすためには、自分がされて嫌な
ことを人にしない。相手の立場になって考える。思いやりの心を持って行動する。相手を認める。違
いを受け入れるなど一人一人の愛と勇気ある行動が必要だと思います。決して簡単なことではありま
せん。でも、勇気ある行動をあなたから始めることで、私のようにいじめられた人も勇気がわいて、
15
愛と勇気の連鎖が起こり、世界は変わると信じています。
いつかいじめがなくなることを願い、世界が笑顔で満ち溢れることを祈っています。
● ●
最優秀賞(横浜人権擁護委員協議会長賞)
言葉の重み
横浜市立あかね台中学校 三年
ふな
船
びき
曳 もえ
萌
16
最近、学校内でのいじめによる自殺が増え、問題になっています。特にそれが多いのは、心身共に
大き な 成 長 を す る 時 期 で あ る 中 学 生 で す 。
そこで私は、中学生同士で交わされる「言葉」について調べ、実際に自分を当てはめて考えまし
た。調べてみたところ、中学生の間では、「死ね。
」や、
「うざい。
」や、
「消えろ。
」などの直接的な表
現を含む言葉が多く飛びかっているという事が分かったと同時に、自分を当てはめて考えてみると、
確かに普段の学校生活でも、友人との会話の中で、ふざけながらそのような言葉を多く使っている
人を多く目にしていると思いました。私はその時、特に「死ね。
」という言葉を耳にした時、ものす
ごく不快感にかられます。どうして友達同士の会話の中にそんな言葉を出すのか、私には理解出来ま
せん。たとえ、「死ね。」と言った本人は、相手は仲の良い友達だから、このくらい大丈夫だろう。と
思っているとしても、百パーセント相手がそう受け取るとは限りません。きっと顔では笑っていて
も、心の中では嫌な思いをしている人も絶対にいるはずです。私だって、たとえ友達同士でも「死
ね。」と言われたら嫌な気持ちになります。それに私には大好きな祖父がいたのですが、今年の一月
● ●
に脳出血で亡くなってしまいました。祖父は、私にとっては産まれた時から十四年間、ずっと私の事
を可愛がってくれた、たった一人しかいない大切な人でした。そんな大好きな祖父が亡くなってし
まったと聞いた時は、本当に辛くて涙が止まりませんでした。お葬式の時、
「ああ…死んじゃうって
こういう事なんだな。」と思いました。どれだけ願っても、どれだけ自分が代わってあげたいと思っ
ても二度と目を開けてはくれません。あんなに温かかった身体も、氷のように冷たくて、
「死」とい
うものがどういうものなのか、私はその時痛い程分かりました。
「死ね。
」と言う言葉は軽々しく口に
してはいけない、と心の底から思いました。だから私は、学校生活の中で、この言葉を聞くと本当に
不快になります。「死ね。」と軽々しく口にする人は、
「死」という言葉の意味を理解もしていないの
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によく言えるな、と心から軽蔑します。喧嘩をしてイライラしたらすぐに感情に任せて「死ね。
」と
言ってしまう人も少なくないと思いますが、それが悪化した結果、耐えられなくなり自ら命を絶って
しまう人も沢山います。そうなってしまった時にはもう遅いのです。どれだけ自分の言葉を悔やんで
も現実は変わりません。その人の生死を左右する権利なんて誰にもない、私はそう思います。
自分が思っている以上に言葉というのは重みがあるものだという事を、私は大好きな祖父の死を通
して知りました。いじめが増えている今、もっともっと沢山の人がその重みを自覚し、周りの人の事
を思いやる心を持たなければなりません。自らの言葉に責任を持つ事の出来る人が増えたなら、皆が
気持ち良く生活出来る、きっと今以上に良い社会を創っていけると私は強く思います。私達にはその
義務 が あ る の で す 。
● ●
最優秀賞(横浜人権擁護委員協議会長賞)
心のどこかで
山
やま
横浜市立東山田中学校 三年
私もみんなと同じではないか︱。こころのどこかでそう思った。
ぎし
岸
あん
杏
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私には、生まれつき知的障害のある年子の兄がいる。そのため、兄の通う養護学校や福祉施設、障
害者施設などに行くこともあり、障害のある人々は私にとって身近な存在である。
「障 害 者 差 別 」 と い う 言 葉 を よ く 耳 に す る 。
「差別」とは何だろうか。私は「差別」という言葉を辞
書で調べてみた。するとそこには、「偏見などによって差をつけ、一方を他よりも価値の低いものと
して扱うこと。」と記されていた。
「障害者差別」という言葉
私は、生まれたときからずっと障害のある家族と暮らしているせいか、
にとても敏感だ。障害に対して間違った認識をしていたり、
「障害」という言葉を面白半分で使って
いる人がたくさんいることを私はとても悲しく思う。また、そのような場面を目にすると心が痛む。
「差別」はなぜなくならないのだろうか。それは、
「障害」に対して間違った認識をしている人がた
くさんいるからだと私は思う。障害のある人々は、みんなが簡単にやっていることを難しいと感じる
ことが多いかもしれない。でも、みんなと同じように生活している。一日一日を一生懸命生きてい
● ●
る。しかし、障害のある人々を「みんなとは少し違う人」と思っている人がたくさんいるのではない
だろうか。そのような間違った認識をしていることが「差別」なのである。そして、その間違った認
識が、また新たな「差別」につながるのである。また、その「差別」は意識的にしていることより、
無意識のうちにしていることの方が多いと私は思う。つまり、
「差別」をしていることに気がついて
いない人がたくさんいるということである。「差別」をしていることに気がついていない人が一人で
もいる限り、「差別」は続いていく。永遠に終わらない。まずは、一人一人が「差別」をしているこ
とに気がついていくということが、「差別」をなくす第一歩なのである。
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「差別」がな
また、障害のある人々の存在を気にかけて生活をしている人が少ないということも、
くならない原因の一つであると私は思う。私は、身近に障害のある人がいるため日頃から障害のある
人々を気にかけて生活しているが、身近に障害のある人がいない人は、そもそも障害のある人々の存
在をあまり知らないのではないだろうか。しかし、みんなが障害のある人々の存在を知り、気にかけ
て生活するだけでも、「差別」がなくなることにつながっていくのではないだろうか。そのような一
人一 人 の 「 心 」 が と て も 大 切 だ と 私 は 思 う 。
私は、友達との会話の中でよく「兄弟いる?」と聞かれることがある。そのとき私は「お兄ちゃん
がいるよ。」と答える。そして、兄に知的障害があるということを少しだけ説明する。しかし、友達
にそのことをそれ以上深く尋ねられたことは一度もない。なぜだろう。尋ねにくいからなのか、よく
理解できていないからなのか、それともあまり興味がないからなのか。しかし、
「兄弟いる?」とい
う質問に、毎回少しためらっているような自分もいた。知的障害のある兄のことを堂々と言えない私
● ●
︱。それは、心のどこかで兄を「差別」しているからなのではないだろうか。知的障害のある兄の存
在を知って、相手がどう反応するか、どう思うかなどを心のどこかで気にしている自分がいた。
私は、障害のある人を見かけるとつい目で追ってしまう。しかし、そのようなとき、もしその人が
困っていたとしたら、私はその人に何かをしてあげられるだろうか。気になって目で追ってしまうの
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に、 私 は 何 も し て あ げ ら れ な い と 思 う 。
私もみんなと同じではないか︱。心のどこかでそう思った。そんな自分を変えていきたい。
● ●
最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
あと少しの勇気
加
か
横浜市立城郷中学校 二年
とう
藤
はや
と
大 翔
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僕の弟は生まれつき目が見えません。弟が生まれたのは、僕がまだ三才の時でした。だから、見え
ないとはどんなことなのかまだ理解できていませんでした。
弟は重度の障がいのため話すこともできません。いまも何かしてほしいことがある時は、赤ちゃん
のよ う に 泣 く だ け で す 。
たまにどうして泣いているのかわからない時もあります。でもそれが、弟の精一杯の意思表示なの
で、僕も一生懸命考えて弟の気持ちがわかるように努力しています。
そんな弟ですが、母は「こういう子だからこそ、人一倍感じ取る力があるはず。だから自分は隠さ
れてしまうような子どもなんだとこの子が思わないように、なるべく外に出して育てる。
」と言って、
よく 弟 を 外 へ 連 れ 出 し て い ま す 。
外に出るとみんな義眼が珍しいからか、弟のことをジロジロ見ます。でも母は堂々としていて「こ
の子は大ちゃんっていうの。目が見えなくて、お話しもできないんだけど、お友だちが大好きだから
お友だちになってね。」と声をかけていきます。このように母は同じ年頃の子や犬の散歩で毎日見か
ける人などに、どんどん話しかけていき、どんどん友だちが増えていきました。
● ●
僕が弟と歩いていると、あちらこちらから「大ちゃんだ」と声がします。弟も呼ばれるとニコっ
と笑います。ある時など犬の散歩途中の人が連れていた犬が弟をペロっとなめたら弟も犬をペロっと
なめ返していたことがあったのには驚きました。僕の弟はどうやら犬ともお友だちのようです。
そしていつの頃からか、弟の誕生日には、ご近所の大人や子どもがみんなで来て、玄関で大きな声
で「ハッピーバースデー」の歌をうたってくれるようになりました。その時、弟はジーっと耳を澄ま
せて聞いていたり、時には満面の笑顔で、その場でクルクル回り踊りだし、喜んで聞いていたりする
こと も あ り ま す 。
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そんな弟の笑顔を見ていると、障がいも一つの個性で、不自由はたくさんあるけれども、周りの人
たちが弟のことを思い、考え、そして行動してくれることで、こんなにも幸せになれるのだというこ
とに気付きました。こうやって「相手を思う気持ち」と「行動」こそが、健常者と障がい者の垣根を
無くし、共に生きていける社会を作っていくのだろうと確信しました。
この「相手を思う気持ち」は何も障がい者に対してだけのものではありません。普段、僕たちが友
人との関わりの中で何気なく考えていることでもあります。ただ相手が障がい者となると「もっと何
かをしてあげなくては。」と考え過ぎて気が引けてしまいがちです。確かに不自由が多い人たちです
から、そう思ってしまう気持ちもわかります。でも相手を思う気持ちがあってもそれを行動に移さな
ければ伝わりません。ましてや知らない人に声をかけるのは勇気がいるでしょう。
僕は弟の笑顔を見ていると幸せな気持ちになれます。相手を思う気持ちと、それを行動に移す勇気
を出すことで誰かが笑顔になれるのなら、きっとその家族も僕のように幸せな気持ちになれると思い
ます 。
● ●
最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
支え合いは大切なこと
く
横浜市立菅田中学校 三年
ぼ
た
か りん
久保田 花梨
二〇一一年三月十一日、とてもとても大きい地震がありました。そう、東日本大震災です。私は当
時、宮城県に住んでいました。三月十一日、いつもと変わらない同じ生活を送っていました。ところ
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が、十四時四十六分にとてつもなく大きな地震がありました。すぐに校庭に避難し、学校の近くに住
んでいる人たちも避難してきました。私たちの学校は高台にあったため、学校から町全体を見ること
がで き ま し た 。
三時半が過ぎた頃、「ゴーッ」という音と共に大きな津波が私たちの町にやってきました。町は津
波にのまれ、色々な建物と共に人間も流されていました。私は家族が心配で心配で仕方ありませんで
した。家族は無事なのか、いつ会えるのかということばかり考えていました。
次の日、お母さんが迎えに来てくれました。お母さんに聞くと運良く全員無事だったそうです。そ
れから私とお母さんと弟はお母さんの実家に避難し、お父さんと祖父母は高台にある大きな建物に避
難しました。避難できて家族に会えたのですごく安心しました。家族と少しでも会えなくなると寂し
くなり、改めて家族は世界で一番の宝物だと思いました。安心しすぎて、これから過酷な生活が始ま
● ●
ると は 思 っ て い ま せ ん で し た 。
町のほとんどは、津波で流されてしまったのでガス、水道、電気、そして食料がありません。食料
を買うためには隣町まで行かなくてはなりませんでした。隣町に行くためにはガソリンが必要です
が、 他 の 皆 も 同 じ 生 活 を し て い る た め 、 ガ ソ リ ン ス タ ン ド に ガ ソ リ ン が 無 い と い う こ と が あ り ま し
た。水は近くの山から水が出ていたので困りませんでしたが、ガスが使えないため、火は葉っぱを燃
やして起こしました。そういう生活が約一ヶ月続きました。
私たちの町、南三陸町には、たくさんの人が訪れてくれました。アイドルやお笑い芸人そしてオー
ストラリアの首相など、さまざまな人たちが訪れてくれて、私たちを励ましてくれました。こんな遠
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いところにわざわざ来てくれたことに私は感動しました。でも、もっと感動したことがありました。
私と同じ一般の人が訪れてくれて、私たちに食料や衣服をくれ、募金に協力してくれたことです。私
たち被災者のために色々な人が募金に協力し、色々と支援してくれました。そして、あるサイトでみ
たのですが、ある国の人たちは月収の半分を私たちのために募金してくれたそうです。
この経験を通して私たちは幸せ者だなと感じることができました。国内だけでなく、海外からも私
たちを応援、そして支援してくれる人がいます。このことをあたりまえと思わず、感謝しなければい
けません。そして人は支え合っていかなければいけないと思いました。
また、お互いに協力し、支え合うのはこういう場面だけではありません。バスや電車などでお年寄
りに席を譲ることも支え合うことだと思います。もっと身近でいうと家族です。子供を育てるには両
親の支え合いが必要です。私たちは両親に支えられているから今の生活ができると思います。
● ●
今回の地震、東日本大震災では被害はとても大きなものでした。あの頃の町は、瓦礫しかありませ
んでした。ですが、あれから約二年半経った今は瓦礫の数は減り、色々な建物が建っています。これ
も人々が支え合って生きてきたからではないでしょうか。だから、瓦礫だらけだった町も復興して
いっ た と 思 い ま す 。
今回の地震で学んだことがたくさんあります。家族の大切さ、ガス、水、電気の大切さなど、たく
さんのことを学べましたが、一番印象に残ったことは支え合うことの大切さです。
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どんな人でも一人で生きていくのは不可能だと今回の経験を通して思いました。支えてくれる人が
いるから私たちは普通の生活が送れます。家族で支え合うことはもちろん。家族以外の人でも支え合
うことができたら、日本という国は今よりも素敵な国になると思います。
● ●
最優秀賞(横浜市人権擁護委員会長賞)
祖父の笑顔
「もうおじいちゃんとはどこにも出掛けたくない。
」
横浜市立鴨志田中学校 一年
なか
中
むら
村
み
ゆき
美 幸
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この言葉は二年前の夏、母方の祖父母の家に帰省した際に私が口走ってしまった言葉だ。両親と姉
が急用で外出し、祖父母と三人で過ごす事になった日の私自身の思いやりのなさが原因だった。外出
す る 両 親 と 姉 を 玄 関 先 ま で 見 送 っ た 後、 私 は 特 に す る 事 も 無 く 居 間 で ぼ ん や り と テ レ ビ を 眺 め て い
た。するとつまらなさそうにしている私を見かねたのだろう。突然祖父が「美幸、おじいちゃん達と
遊園地にでも行こうか?」と声を掛けてきてくれた。遊園地が大好きな私は二つ返事で「行きたい。
」
と答え、まだ外出の準備が整っていない祖父母をせかして車の後部座席に乗り込んだ。この、ともす
れば自己中心的になりがちな私の性格が後々祖父を傷付けてしまう事になるなんて、その時の私は思
いも し な か っ た 。
祖母が運転する車で和歌山にある小さな遊園地に着いたのは、開園時間を一時間程過ぎた頃だっ
た。全てのアトラクションに乗るつもりで意気込んでいたのに、祖父がトイレに行くという。一番人
気のジェットコースターに向かって直ぐにでも駆け出したかった私は、
「先に一人で行きたい。
」と祖
● ●
母に訴えた。しかし見知らぬ場所で何かあっては大変とたしなめられ、渋々祖父を待つ事にしたの
だっ た 。
一つ目のアトラクションを乗り終え次に向かって歩き出した途端、再び祖父がトイレに行くとい
う。「ほんの数十秒前に済ませた筈なのに…。
」暑さと待ち時間で苛立ちが積っていた私は、
「どうし
て何回もトイレに行くの?それでなくても歩くのが遅いから時間が掛かって嫌なのに。もうおじい
ちゃんとはどこにも出掛けたくない!」と、祖父に酷い言葉を吐いてしまった。ハッと我に返った私
だったが、素直に謝る事は出来なかった。勿論祖父に対して酷い事を言ってしまったという後悔の気
持ちもあったが、それ以上に自分は悪くないという気持ちの方が強かったからだ。気まずい気持ちの
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まま祖父の方をチラッと見ると何か言いたいような、それでいて悲しそうな眼差しで私の事を見てい
る。「そんな顔したって謝ったりするもんか。
」私は心の中でそう呟くとガイドブックに視線を移し
た。
す る と そ の 時、 こ れ ま で の や り 取 り を 側 で 静 か に 見 て い た 祖 母 が い つ に な く 強 い 口 調 で 話 し 始 め
た。祖父は数年前から難病に指定されている潰瘍性大腸炎を患っていて治療中である事。根本的な治
療法が確立していない為、発熱や下痢等の症状を繰り返している事。長期に渡って病気と付き合って
いかなくてはならないという事等々…。「だから謝りなさい。病気を我慢してでも美幸の喜ぶ顔が見
たかっただけなんだから。」祖母にそう言われてもまだ私の心は納得出来ずにいた。確かに病気の祖
父に酷い事を言ってしまったのは事実だけれど、それは病気だと知らなかったからだし、逆に知って
いたら絶対にそんな事は言わないと思ったからだ。謝る気配のない私を見て祖母が語った。
「美幸、
● ●
勘違いしているよ。おばあちゃんが貴方に謝りなさいと言ったのは病気のおじいちゃんに優しくしな
かったからじゃない。同じ人間として接する気持ちがなかったからだよ。子供から見れば私達年寄り
なんて歩くのは遅いし、物忘れはするし、すぐに疲れるし…。面倒なだけの存在かもしれない。だけ
どそんな人間は出掛けちゃ駄目なのかな?」私は返す言葉がなかった。祖母に指摘されるまで、自分
の浅はかな考えに気付かなかったからだ。病気であろうとなかろうと、普通の人と違っていようがい
まいが皆同じ人間であり、自由に生活を楽しみ生きる権利が平等にあるのは当然の事だ。それなのに
自分の思い通りにならなかっただけで祖父を否定し、傷つける言葉を吐いてしまった自分が情けなく
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て恥 ず か し く て た ま ら な か っ た 。
「おじいちゃん、ごめんね。」
私は心から謝った。そして今日という日が祖父母にとっても私にとっても楽しく思い出に残る一日
となるよう残りの時間は休憩の回数や歩く速さ等を考えて園内を周った。それは家族と行くいつもの
遊園地の過ごし方とは全く違ったけれども、誰もが笑顔になれる楽しい一日を過ごせたという意味で
は何 の 違 い も な い も の だ っ た 。
」と
帰る車の中で祖父が「せっかく来たのに体調が万全でなくて悪かったね。でも楽しかったよ。
クシャクシャな笑顔を浮かべながら言ってくれた。あの子供みたいな祖父の笑顔を私は一生忘れない
だろ う 。
「私も楽しかったよ。おじいちゃん、またどこかに出掛けようね。
」
● ●
最 優 秀 賞
新しい自分へ
「いじめをするような子に、嫌われてもかまわない。
」
かけ
横浜市立六浦中学校 三年
掛
だ
田
さくら
桜
29
そう思いはじめたのは、中学二年生の後期。傍観者だった私が、そんなことを思えるようになると
は、 自 分 で も 思 っ て い な か っ た 。
「傍観者」と辞書で引くと、「なにもせずに、ただ見ているだけ。
」と書かれている。私もその一人
だった。いじめられるのが怖かった。いじめられている子がいるのに、気づいていないふりをして行
動しなかった。そして、月日が流れるのと比例するかのように、その子の欠席日が増えていた。気が
つけば、教室で見ることも減ってきた。久しぶりに学校で見かけた時、お互いに一人でいた。今なら
と思い、「なにかあったら、相談してね。」と伝えた。その子は「ありがとう。
」と言って、どこかへ
行ってしまった。その日を最後に、学校で会わなくなった。それと同時に、友達がいじめをしている
んだよな。とふと思うと、私ももしかしたらいじめられることがあるかもしれないと思いはじめた。
そう思いはじめてから毎日のように、学校へ行くのが怖くなりはじめた。
そんなとき、私は部屋をそうじしていた。すると一枚の紙を見つけた。それは、小学校を卒業する
● ●
ときに、担任からもらったものだった。その紙には、先生のいじめや差別に対しての体験談がかかれ
てい た 。 読 ん で み る と 、 こ ん な 文 が あ っ た 。
「いじめられた子がいたら、あえて自分はその子のそばに近寄って、決して孤立させなかった。
」
涙がボロボロと顔を流れた。なんでなにもしなかったんだろう。後悔した。私にできること、学校で
できなかったことを、やろうと思った。早速、その子に電話した。
「も し も し 、 今 度 家 に 行 っ て 良 い ? 」
きっと、私のことおこっているだろうな。了解してくれないだろうな。と思っていたら、
30
「いいよ。待ってるね。」
と言われた。次の日、先生に相談にのってもらい、自分にできることを考えた。その結果、本当に微
力だ が 、 ノ ー ト を 届 け る こ と に し た 。
ノートを届けはじめて、十一ヶ月がたとうとしているとき、とある番組を見つけた。いじめを中心
とした番組だった。いじめをしてしまった子が、MCの高橋みなみさんと対談したり、いじめを受け
て自殺してしまった子の映像を見たりと、心がぐっとくるものばかりだった。番組に感想を送った
ら、ぜひ番組に出てほしいと言われた。収録したものをテレビで流し、私の思いが全国に伝わるかも
しれない。もしかしたら、誰かの心が少しでも変わってくれるかもしれない。逆に、いじめていた子
が見て、なにかあったら、怖いな。と、いろんなことが頭の中をぐるぐるまわった。中学の先生や、
紙をくれた小学校の元担任や、いじめられた子に相談した結果、私は出演することを決意した。収録
には、中学二年生〜高校三年生の約二十人の子どもが集まった。いじめたことがある子、いじめられ
● ●
たことがある子、そして傍観者といろいろな立場にいた子がいた。収録をすすめていき、私は今まで
この 作 文 に 書 い て き た こ と を 話 し た 。
「いじめをしている子に行動がばれて、いじめられたらどうしようと思わなかった?」
と質 問 を 受 け た と き 、 私 は 迷 わ ず 、
「どうしよう。と考えた時もありましたが、今はいじめをするような子に嫌われても、かまわない
と思っています。」
と伝 え る こ と が で き た 。
31
」と書きましたが、傍観者はなに
はじめの方で、「傍観者とは、なにもせずに、ただ見ているだけ。
もしないだけで、本当は「いじめを、やめた方がいいはず。
」と思っている人も多いと思う。一人だ
とできないことも、いじめ反対派の傍観者が集まれば、いじめている子に対抗できると思う。いや、
できます。私がかわることができたのだから。もう、友達同士で、グループつくって行動したりする
のやめようよ。自分の力を見せびらかすの、やめようよ。一人だとなにもできないから、まわりに仲
間をつれてるんでしょ。一番弱いのは、いじめをしている君だよ。いじめをはじめたのは、人間。で
も、いじめをとめたり、なくそうとしているのも人間。いじめをなくせるなら、なくそうよ。そろそ
ろ本気でなくそうよ。いじめも、傍観者も。なくしたいから続ける。ノートを届けることは微力だけ
ど、 な に か が か わ る は ず だ か ら 。
● ●
最 優 秀 賞
「心」の奥底の光
横浜市立上飯田中学校 三年
ブィグェン バンビ
この世の中には、人間という生き物がいる。その身体の中には、必ず「心」というものが存在す
る。心は自らがつくりあげていくもので決して誰かがつくることはできない。一体どのようにして心
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をつ く っ て い く の だ ろ う か 。
「お父さん、ベトナム人なのにどうして日本にい
私は日本で生まれた。けれど、日本人ではない。
るの?」「それはな…。」子どもの頃、私は父に疑問を問いかけた。その後の記憶は覚えていない。た
だ、単に不思議だった。それから、月日が経ち、中学生になり、また父に問いかけた。父はようやく
口を 開 け て く れ た 。 私 は 耳 を そ っ と 傾 け た 。
「一九六〇年十二月、ベトナム戦争が始まった。ベトナム共和国(南ベトナム)側とベトナム民主
共和国(北ベトナム)側との対戦だったんだ。でも、お父さんがいたベトナム共和国(南ベトナム)
側は戦争に敗れてしまったんだ」「えっ。ベトナム戦争ってベトナム対アメリカでベトナムが勝った
んじゃないの?」私はこう言った。「違うよ。ベトナムはベトナムでも北ベトナムと南ベトナムに分
かれていたんだよ。お父さんはアメリカに支援されていた南ベトナムにいて、北ベトナムに敗れてし
● ●
まい、首都だったサイゴンが陥落し、自由を失ってしまったんだ。そして、お父さんは南ベトナムを
離れることを決意し、インドシナ難民としてボートピープルとして、一九八九年九月午前三時、小船
で国を出たんだ。」「お父さん、生まれ育った国を出て悲しくなかったの?」私は、興味を持って聞い
た。父は「そりゃ、とても悲しくて辛かったさ。でも、しかたがなかったんだ。船に三十六人の人た
ちと乗り、食料は一日水が汚らしい小さい缶のカップに入っていて、米は一握りもしないくらい。何
よりも死ぬかもしれないとずっと恐れていたよ。小船での生活が一週間後、ある国についたんだ。そ
の国は、インドネシアだよ。船から降りる瞬間、まさにその一時が幸せだと感じたんだ。インドネシ
アでは、難民キャンプが行われ約三年間そこで過ごしたんだ。その後、お父さんは、たくさんの国の
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中 で 日 本 に 行 く と 決 意 し た ん だ。 同 じ ア ジ ア で 経 済 が 発 達 し て い て 自 由 で 安 全 で 平 和 に 暮 ら せ る と
思ったからさ。日本に来て東京都にある品川国際救援センターで日本語を教わったり、仕事を紹介し
てもらったりたくさん助けてもらったよ。日本に来てから二十年たった今、幸せに暮らせているんだ
よ。」
父は口を閉じた。そして、こう言った。「日本には本当に心から感謝している。
」と。
「どうしてこんなに辛い過去を生きて
父は過去のこと全てを明かしてくれた。しかし、私は思う。
きたのに、今は悲しみ一つ見せないのだろう。
」と。きっとそれは、
「心」のあり方なのだと思う。だ
れにも心がある。心は自らがつくり上げるしかない。父はきっと心の奥底の光を掴んだのだと。人生
は一度しかない。それを私たちはどう生きていくのか。
「心」の奥底の光を掴むことができるかは自
分次 第 だ と 私 は 思 っ た 。
● ●
もし私が父の身になっていたら、今は笑顔一つ見せていなかったかもしれない。父が今までの私を
ふり返らせてくれ、未来の自分について考えさせてくれた。これから、私は前を向いて真っすぐ生き
ていこうと思う。たとえ、壁にぶつかっても、自らの手で心の奥底の光を掴み、乗り越えていきた
い。 そ し て 、 心 か ら 笑 え る 人 生 を 送 り た い 。
人権侵害とは、「人が人らしく社会活動を送ること、生きること」が、何らかの人的要因によって
妨害されること。父はこの壁を乗り越えて今がある。私はこの先、外国人差別に直面する時が来るか
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もしれない。きっとその時は、父のことを思い出すだろう。世界には、何億人もの人がいる。けど私
は思う。全ての人が心の奥底の光を掴むことができると。
● ●
最 優 秀 賞
共に生きる
「こんにちは。」
山
やま
横浜市立霧が丘中学校 三年
もと
本
みず
き
瑞 紀
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私は思いきってドアを開けた。そこには想像していた通りの光景が広がっていた。車イスに乗った
人、横になったままの人…。私が思い抱いていた通りの障害者の方々がいた。私はとまどいを隠せ
ず、なかなか次の行動に移れなかった。(早く部屋に入らなくては)
(きちんと挨拶をしなくては)焦
る気持ちとは反対に、体がなかなか動かなかった。
「パチパチパチ」そんな私にその部屋の皆が拍手
をし始めてくれた。本当にびっくりした。けれど気持ちが落ち着き、私は自己紹介することができ
た。
中学二年生の冬のボランティア体験で私が訪問したのは、障害者施設。しかし障害者の方に、その
頃の私は偏ったイメージを抱いていた。常に誰かの助けを必要としたり、話していることがあやふや
だったりと…。自分自身でその施設を希望しておきながら、今まで一度も障害者の方と向かいあった
事のない私は、不安な気持ちが膨らむ一方だった。けれど、皆の温かい拍手に元気をもらい私は活動
に入 る こ と が で き た 。
● ●
スタッフの方の指示を受け、まずは障害者の方々とお話しをすることになった。皆、言葉を発する
ことが困難だったので(どうやって話をすれば良いのだろう?)と思っていたところに五十音表が運
ばれ、指で文字を指して思いを伝えてくれた。
「あなたがくることを、ずっとたのしみにしていました。
」
そう言われて少し照れくさかったが、とても嬉しかった。
「ありがとうございます。」
素直に私も言葉が出てきた。確かに時間はかかり労力もいるけれど、こうして会話ができる事が、私
には思いもよらない事だった。それからはゲームやスポーツの話、また同じ十代の女性とは、美容や
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洋服の話題で会話が弾んだ。他にも、スタッフの方が通訳して下さったり、二択にして意志を示した
り等、様々な方法で交流が進んだ。学校で友達と話している時と同じでとても楽しく、相手に障害が
ある こ と を 忘 れ る 程 だ っ た 。
その日の夕食時、私は自分の体験を家族に話した。すると母がこう言ってくれた。
「本当に素晴らしい経験をしたね。そうだ、次の休み一緒に出かけよう。
」
約束の日、母が連れてきてくれたのは、障害者の方々が働くカフェだった。そこでは、障害者の店
員さんが他の店員さんと協力して働いていた。私のテーブルに来てくれた店員さんも、たどたどしく
ゆっくりではあるけれど、一生懸命注文をとってくれた。本当に助けが必要な時だけ他の店員さんが
フォローしていた。その手助けはとても自然だった。以前の私だったら、なんとなく落ち着かず、十
分に食事を楽しめなかったと思う。でも、その日の私はいつもより温かい気持ちになり、心から楽し
● ●
く食 事 が で き た 。
今回の経験で気付いたこと。それは、障害のある人もない人も、何の変わりもない同じ人間である
ということ。何かしてあげなくてはという考えを持っていたこれまでの自分をとても恥ずかしく思っ
た。むしろ一緒にいると私の方が多くの事を教わり、自分の世界を広げることができた。また、本当
に必要であると思った時に、素直な気持ちで手をさしのべることが大事ということも教わった。少し
の勇気を出して一歩前に進むことが大切だと学んだ。
そして、一つの目標ができた。障害者の方が私達と一緒にいられる場、この間のカフェのような働
く場所であったり、会話を楽しめる場所であったり、何かを製作したりする場所であったり色々ある
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と思うが、そんな場所を作っていきたい。障害のある人もそうでない人も、共に支え合い生きていく
優しい社会を作りたい。それを実現するために積極的にコミュニケーションをとっていきたい。自分
の周りの人々にもこの思いを伝えていきたい。今回の体験を通して少しだけ成長できた今、心からそ
う思 う 。
● ●
最 優 秀 賞
サラダボウルの多文化共生
わ く
横浜市立旭中学校 三年
つ
ゆう
た
和久津 優 太
むせ返る香辛料の匂い、見たこともないような料理が並ぶ世界の屋台村、色とりどりの民俗衣装に
身を包んだ人たち。偶然立ち寄った国際交流のお祭りで、はしゃいでいる幼い弟と対照的に、私はそ
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の活気に圧倒された。ここは本当に日本なのだろうか。客は日本人が多いが、屋台村の店番は外国人
が多 い 。
ふと、屋台の中の小さな女の子に目が行った。浅黒い肌に大きな黒い目。弟より少し小さそうに見
えるから、幼稚園児くらいだろうか。きっと、屋台の店番の外国人女性の娘なのだろう。女の子も民
俗衣 装 を 着 て い る 。
すると、私の視線に気づいたのか、女の子と目があった。しかし、彼女はとまどったような表情を
見せ、すぐに大人の陰に隠れてしまった。じろじろ見ていた私の印象が悪かったのだろうか。その
時、 弟 が 、
「あ、屋台の中に子供がいるよ。おーい。」
と言いながら手を振った。すると、なんと女の子は笑顔で弟に手を振り返してきた。驚いて、弟に、
● ●
知り 合 い な の か 尋 ね る と 、
「知らない。でも、同い年くらいの子だから、友達じゃん。だから手を振っただけだよ。
」
とす ま し て い る 。 私 は 、 さ ら に 続 け た 。
「どこの国の子かな。変わった服だよね。」
「わかんない。でも友達は友達だよ。」
と、弟は国籍なんて全く意に介さない様子だ。
突然、罵声が聞こえた。隣り合う屋台の男性同士が外国語で口論を始めたのだ。身振り、手振りも
交えての大論戦は、いつ掴み掛ってもおかしくない状況、のように見えた。しかし、急に二人は笑顔
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で握手し、肩を叩きあい、何事もなかったかのように屋台の仕事に戻った。そのあっけらかんとした
態度に、私は唖然とした。日本人なら、あそこまで他人と激しく口論することはまずないし、その相
手とあっさり和解することなんてあるだろうか。
私は 興 奮 し て 、 弟 に 、
「外国の人って、すごいけんかするんだね。」
と声 を か け る と 、
「けんかじゃないでしょ。お話しあいでしょ。学校の先生がね、意見が違うお友達がいても、叩いた
り蹴ったりしてけんかしないで、納得するまでお話しあいをしなさいって言ってたよ。おじさんたち
も同じじゃないの。日本人のおじさんだって、きっと同じだよ。
」
と平 然 と し て い る 。
● ●
その時、私は弟の真っ白い心に、はっとした。幼い弟は人を国籍や見た目で判断したりしない。人
間をただ人間として捉え、正しいことは正しいと評価し、友好的な心を持っている。屋台の女の子
は、それを見抜いていた。だから、弟には笑顔で手を振ったのだろう。
一方で私はどうだろう。いつも国籍を気にして、容姿や服装、行動などで、日本人とのちょっとし
た違いに大きな特殊性を見出そうとし、そういう視点で人を捉えていた。これは恥ずべき態度であっ
たと 、 初 め て 気 づ い た 。
最近は、日本に暮らす外国籍の人が増えてきて、町で見かけることも多くなった。そうした人たち
を異質な存在と捉えることなく、心を開いて、一人の人間として交流しようとする心が大切なのだ。
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国際化とは、単に日本人が海外に出かけていくことだけをいうのではない。日本に暮らす人々が、異
質なモノを認め、多様な文化を受け入れる心を持つ、そんな心の中の内なる国際化こそが、他文化共
生社会を作るのだ。そのような、違いや個性を認め合う社会は、日本人にとっても暮らしやすい社会
であ る に 違 い な い 。
多様な文化的背景を持つ人々が同じ社会の中で共存していくことは、よくサラダボウルに例えられ
る。サラダボウルの中の具材が、混ざりあわず、しかし、それぞれの良さを生かしながら一つの皿の
中でサラダを形づくっていくように、同じ社会の中で、人々が個性を尊重しあって共生することを指
す言葉だ。私達の地域が、そしてこの国が、そんなサラダボウルとなりうるよう、一人ひとりが心の
屋内イベントの会場を出たところで、屋台の女の子を見かけた。半ベソで、きょろきょろしてい
中の内なる国際化に努め、他文化共生社会を作っていかなくてはならないのだ。
● ●
る。国籍なんて関係ない。「迷子の女の子だ」だ。勇気を出して声をかけた。
「屋台に戻れなくなっちゃったのかな。」
女の 子 は か す か に 頷 い た 。
「よし。じゃあ、案内してあげるよ。」
私は右手に女の子の手を、左手に弟の手をとった。女の子も弟も、同じ日本、同じ地球というサラダ
ボウルに暮らす子供たちだ。二つの小さな手からは、同じぬくもりを感じた。女の子は、私の手を
ぎゅっと握った。私も、ぎゅっと握り返した。心と心が通じ合ったような気がした。私は高らかに宣
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言し た 。
「さあ、手をつないで一緒に行こう。僕たちはみんな、友達だからね。
」
● ●
優
秀
賞
対等の立場とは
ぎ
しゅ
り
柏 木 柊 璃
かしわ
横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校 三年
私の母は十万分の一の確率で選ばれた人である。
42
あれは私が中学一年生のある頃からだった。突然母がちゃんと歩きにくくなったり、足を引きずる
ようになった。そこで私達家族も心配して病院に行くようにすすめ、病院で調べてもらったが結局原
因が分からないままだった。しかし約一年後、私が中学二年生の十一月頃病名がやっと分かり、それ
は治 る こ と が 困 難 と さ れ る 難 病 だ っ た 。
しかし私は難病だと分かってから母が辛い、苦しいと言った姿を見たことがない。それは「二度と
走れることはない。」と言われた時も、「確率は二分の一で失敗したら肩から下は動かなくなる。良く
て車イス生活だ。」と言われた手術を受ける前日でも。だがそれはただ私が知らないだけで、人知れ
ず泣 い て い た の か も し れ な い と 私 は 思 っ た 。
手術の結果は見事成功に終わった。そして私は母のことを強い人だと思った。しかし手術は成功で
も、完治したというわけではない。それでも母はリハビリを続け、足を引きずるが、また歩けるよう
になった。後日、ふとした時に母から手術を受ける前にあった話を聞いた。
● ●
辛いと感じなかったが、歩いていて道をよけられたのは悲しかったのだと。そして何より傷付いた
のは あ る 言 葉 だ っ た の で あ る 。
「かわいそうに。」
難病になることがかわいそうな事なのか、と母は私にそう言った。しかし病気になって悲しいことば
かりではなかった、と別の話も聞かせてくれた。
それは難病だと判明し入院のため、続けていた仕事をやむなく辞めた日の帰りの電車での出来事で
ある。突然隣に座っていた見知らぬ男性が声をかけてきた。
「私は以前あなたに励まされた。」と。
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母は何のことかと驚いたが、その男性の話を聞いた。その男性が励まされたというのは、母が仕事の
仲間と一緒に帰っている時に、その仕事の仲間を母が励ましている言葉をたまたま聞き、一緒になっ
て励まされたというのだ。その言葉は「そこが限界だと諦めたら終わり。私は上手に歩けないけれ
ど、限界だと思わないようにしている。」と仕事の仲間にかけた言葉だった。その男性も仕事で失敗
して大変落ち込んでいる時で、その時に母のその言葉を偶然聞き、もう一度頑張ろうと思えた、励ま
されたと何度もお礼を言われたのだと母は私に話した。
私は母から一つ目の話を聞き、かわいそうという言葉はその人自身、母がとらえたような意味など
無くただ素直に同情という気持ちで言ったのではないかと思った。しかし二つ目の話を聞き、そうか
母が悲しいと感じたのはこういうことだったのかと分かったのである。その励まされたという男性
は、母のその難病を限界に思わない強さそのものに励まされたのだ。けれどその「かわいそう」はそ
● ●
の男性のように対等の立場に立っているからこそ出るような共感の言葉ではなかった。
「かわいそう」
というこの言葉が出る人は、無意識の内に差別をしているがため、母と対等の立場に立っているので
はなく違う立場に立っているのだと気づかされたのである。
難病になることがかわいそうなのか。人と違うことがあるのが悲しいことなのか。なぜそれだけで
違う立場に立ってしまうのか。私は違う立場などではない、どんな人であろうと対等の立場にあるべ
きだと多くの人に知ってもらいたい。考えてほしい、自分の行動や言葉は相手と対等の立場にいるか
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らこそ成り立っているのかを。そして願わくば、対等の立場に立つことが当たり前となり、私のこの
ような疑問を持つ人がいなくなるような無意識の差別の無い社会になってほしいと思う。
● ●
優
秀
賞
助け合い
く
横浜市立中川中学校 三年
る
しま
あい
久 留 島 愛
「おじいちゃん最近、ものわすれするようになってきちゃったって。会話していてもすぐに言葉が
出てこないらしいの。」
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一年程前母からこう聞かされた時、私はショックでたまらなかった。
私の祖父は現在七十八歳。自慢のおじいちゃんだ。いつも笑顔で優しいがとても真面目でもある。
私が遊びにいった時はたいてい、一人で黙々と家のそうじをしていることが多い。夕方、子どもたち
が帰った後、近所の公園のそうじをよくしていた。家族という枠を越え、困っている人には誰にでも
優しくする。本当にすばらしいおじいちゃんだ。普段、自分のことについては多くを語らない祖父だ
が、一度だけ中学生になった私に子どもの頃の戦争の話をしてくれた。
「町中に火の粉がとんだんやで。ほんで、弟のことおぶって、妹の手引いて、走って逃げたんや。
」
祖父がこのような話をしてくれたのは初めてだったから少し驚いた。いつもの穏やかな祖父の姿から
は想像もできない恐ろしい話だった。そして私は、おじいちゃんが生きていてくれて本当に良かっ
た、 と 心 か ら 思 っ た 。
● ●
そんな、大好きなおじいちゃんが、もしもこのままものわすれが進み、私のことを忘れてしまった
らどうしようと不安に思った。祖父は大阪に住んでいるので、そう頻繁には会えないが、私たちが遊
びに 行 く と い つ も 笑 顔 で 、
「よ う 来 た な ぁ 」
と迎えてくれた。そして重たいスーツケースを軽々と持ち上げて運んでくれた。そんな元気な私の祖
父も、確実に年を重ね、老いていたのだ。分かってはいたが、それがものわすれという形で表に出る
と、やはりショックだった。母からそのことを聞いたあと、私は祖父と電話で話をした。
「おじ い ち ゃ ん 、 元 気 ? 」
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と私 が 聞 く と 、 祖 父 は
「ああ、元気やでぇ。でもなぁ、おじいちゃん、頭が悪いねん。
」
と言った。その後、妹も祖父と話をしたが、やはり祖父は同じことを言ったらしい。祖父は、自分が
ものわすれしてしまうことを、とても気にしていたのだ。そう分かった時、私はとても悲しかった。
母から祖父のことを聞いた時、私もとてもショックだったが、一番つらい思いをしているのは祖父な
のだ、と気がついた。大阪に住んでいるいとこが休日に会いに行ったり、東京に住んでいるいとこが
手紙を書いて送ったりと、親せき皆で祖父を元気づけた。
その半年後、祖父母が私の家に遊びに来てくれた。祖父は以前よりも、よく話し、よく笑うように
なっていた。トイレの場所を間違えてしまうことが何度かあったが、祖父の笑顔と優しさは変わって
いなかった。会話中、祖父が言葉を忘れてしまった時は、祖母が上手くカバーしていた。また、祖母
● ●
は耳が悪いため、電話の音や玄関のチャイムの音に気がつかないことがある。そんな時は、逆に祖父
が祖母をカバーしていた。そして祖母は嬉しそうに、
「二人 で 一 つ や ね ん 」
と言っていた。お互いの欠けている部分を埋め合っているその助け合いの姿に、私はとても感動し
た。もしもこの先、祖父が私のことを忘れてしまっても、私の祖父に対する大好きという気持ちは一
生変 わ ら な い 。
人は誰でも年をとる。年をとれば、ものわすれをしたり、体が不自由になったり、子どもがえりを
することもある。生活の中で困ることが確実に増えてくるだろう。しかし、人間として生まれてきた
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以上、そうなる可能性は誰もがもっている。もちろん私たちもだ。だからこそ、お年寄りを大切に
し、年をとることで出来なくなってしまったことがあれば、私たちのような元気な若者が手助けする
べきだと私は思う。町で困っているお年寄りを見かけたら、勇気を出して声を掛けてみる、
「助け合
い」の第一歩である。私も、自分ができることから少しずつ始めていきたい。そして、このような
「助け合い」がお年寄りに対してだけでなく、様々な場面で町中に広がっていき、今よりも更に明る
い世 の 中 に な れ ば 良 い な と 心 か ら 思 う 。
● ●
優
秀
賞
見えない障害
横浜市立新羽中学校 三年
ご
後
とう
藤
たい
大
ち
地
障害と言って思い浮かぶのは、車いすの人や目に見えて手足が不自由な人、視覚障害の人などだと
思います。テレビなどでよく見る「五体不満足」を書いた乙武さんも、その一人でしょう。しかし、
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呼吸機能、心臓病、聴覚障害など体の内部に障害や疾患があっても、見た目は健常者と変わらない
「 見 え な い 障 害 」 も あ り ま す。 そ の よ う な 内 部 障 害 内 部 疾 患 で 苦 し ん で い る 人 も 世 の 中 に は た く さ ん
います。見えない障害を持つ人達は、障害がある事が見て分からない為、電車やバスの優先座席、障
害者用の駐車場、障害者用トイレなどを利用する時に周囲から誤解を受けたり、必要な手助けを受け
られなかったりするなど、辛い思いをしている事も多いと思います。
僕は、病気の為に、もしかしたら歩けないかもしれないと生まれる前に言われていたそうです。僕
と同じ病気の友達の中には、実際に車いすの子や、足に装具を付けて歩いている子がたくさんいま
す。僕は生まれてから四回の手術を受けて、毎週足のリハビリに通ったおかげで、普通に歩いたり
走ったりできるようになりました。しかし普通の人と全く同じというわけでもなく、できない事や苦
手な事があります。足を支える力が弱いので急に押されたりしたら転びやすいです。また片足立ちや
● ●
しゃがむ姿勢などもとりづらいです。僕が幼稚園や小学校低学年の時には、転んだり階段から落ちた
りしないか両親はとても心配したそうです。運動会の時に教室からいすを外に運び出す時は、先生や
友達にお願いして運び出してもらいました。僕が足が悪いのを知らない子から何で自分で運ばないの
と聞かれた事もありました。もし僕が誰が見ても足が悪いと分かる状態だったら、このような質問を
受けることは無かったと思います。見えない障害は、自分から説明しないと分かってもらえないんだ
なと 思 い ま し た 。
僕の友達で簡単な装具を付けている子がショッピングセンターの障害者用の駐車場に止めた時のこ
とです。横で知らない人に「この駐車スペースは、あなたのような普通の人が使うから本当に使いた
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い人が使えなくなるんだ」と言われその子のお母さんが「その中の一人なんです」と返したそうで
す。それでもその男の人は納得しないのかずっとその車の横でその子が降りるのをまっていたそうで
す。その子のお母さんが車を降りてその子が降りるのを手伝っているとその男の人は「なんだ、まぎ
らわしいな」と言って自分の車に戻っていったそうです。その話を聞いた時、人を見た感じで判断を
してはいけないという事がよくわかりました。たしかに、世の中にはずるをして障害者用の駐車ス
ペースにとめている人もいるでしょう。それに対し正義感で注意しようとしていた気持ちはわかりま
す。しかし、その中で本当に利用したい人もいるのにこの話の男の人のように注意してしまうのはひ
どい事かもしれません。しかし、僕が通っている病院の障害者用の駐車スペースは、一見普通の人が
利用していますが誰もその人に注意はしません。それはみんなが、その人が車イスの人を迎えに来て
いる と 思 っ て い る か ら だ と 思 い ま す 。
● ●
このような話しから考えてみると「見えない障害」に接するのは実はすごく難しい事です。誰が見
ても障害があると分かる人に対しては一般の人は手助けが必要かを考えます。しかし「見えない障
害」をかかえている人達は自分からそうと言わないと分かってもらえません。自分から説明するのも
難しい事です。だから周りの人が「もしかしたらそうなのかな」という気持ちを持てばさらによい世
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の中になると思います。自分も一人の経験者として何かできることがないかを考え実行していきたい
です 。
● ●
優
秀
賞
「差別」について考える︱私の第一歩
今
こん
横浜市立緑が丘中学校 二年
の
ま
野 真
な
那
「人権作文」に取り組むにあたって、「差別」というものについて改めて考えてみました。
「差別」
とは何でしょう。「ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、
51
その違い。」…
「差別はよくないことだ。」そのような認識はあります。しかし、この世の中から、すべての人類の心
の中から、「差別」を消し去ることは難しいと思います。
私の小さな体験を紹介します。小さい時から知っている親せきの女の子がいます。私の母親とその
子の母親がいとこ同士で、私の兄も含めて兄弟そろって家族ぐるみで付き合っています。私は末っ子
で下に兄弟がいないので、五歳年下のその子を妹のように思って、いつも楽しく遊んでいました。あ
る時、母親から、その子についての話を聞かされました。小学校への入学を機会に、ある種の「発達
障害」があることがわかり、週に何回か小学校とは別に「ことばの教室」に通うことになった、とい
うことでした。確かに、今思えば、一緒に遊んでいて、しゃべり方や身ぶりが「幼い」感じがしたよ
うな気がしました。でも、それは、その子の個性であって、むしろ「かわいい」感じがして、私は好
● ●
きでした。私は、この話を聞いた時、自分の心の中に何かもやもやとしたものが残っていることに気
がつきました。その時は、それが何なのかよくわからないまま、やり過ごしていましたが、今わかる
の は、 そ の よ う な も や も や と し た 気 持 ち が、
「差別」の芽のようなものに育っていくのではないか、
ということです。「自分」とは違う「何か」、「自分の基準」とは違う「何か」を持っているヒト、モ
ノ…。それらに対して作ってしまう心の壁、いやそんな大げさな作りではなくても、心の柵、とでも
言っ た ら い い で し ょ う か 。
「真那ちゃん、
その後、その子に再会する機会がありました。その子の笑顔は以前と変わりません。
真那ちゃん。」と言って、私を慕ってついてきました。その時、私は、ハッと気がつきました。
「心の
52
柵」を作るのも、とりはらうのも、自分次第なんだということを。
前にも述べたように、「差別」を「すべて」なくすことは、難しいと思います。それは、この世の
中には、いろいろな人間がいて、すべてのものに歴然と、ある「基準」があり、
「違い」があり、ま
た社会生活上、それに差をつけて、区別することは、時には必要なことだと思うからです。
「差別はよくない」というタテマエ論、でも実際の社会では存在する、女性差別・障害者差別・職
業 差 別、 そ し て そ こ に 発 生 し て く る「 人 権 問 題 」
。十三歳の私には、テーマが大きすぎてよくわかり
ま せ ん。 し か し、 そ の タ テ マ エ と 現 実 の 中 で、 実 は 大 人 達 も 迷 っ て い る の で は な い か と 思 い ま す。
「差別をなくそう。」中学生一人が声高に叫んだところで、現実は何一つ変わりはしないと思います。
でも、気付くこと、考えること、意識することをやめてしまったら、何も始まらない。
「心の柵」を
取り除く。容易なことではないと思います。一人一人の心の中はその人のものだし、時とともに、変
● ●
わっていくものだと思うからです。でも、私はこの作文に取り組むにあたって、その大切さに気付く
ことができました。それだけでもよかったと思います。ここから、何を意識してはじめるかが重要な
こと だ と 思 い ま す 。
53
いろいろ調べてみよう。理解しようという気持ちを持ってみよう。偏見や構えを取り除いて向き
合ってみよう。難しいとは思うけれど、それが第一歩だと思うからです。
今度、会う時には、もやもやとしたものがなくなり、とびきりの笑顔であの子に会えるといいな、
と思 い ま す 。
● ●
優
秀
賞
相手の気持ちを考える
横浜市立青葉台中学校 三年
さい
齊
とう
藤
ち
千
あき
晶
「小
私の身長は一五一センチです。小学校入学して計った身長は九十四センチでした。そのため、
さいね」や、「チビ」など言われ最近になると「縮んだんじゃない」と何回も言われます。他人から
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みると確かに小さいと思いますし、私のように身長の低い人もたくさんいます。言っている人は気に
なりませんが、言われた側はとても気になります。
「まだ伸びるよ」と言われますが、気にしている
こと は 気 に し て い る の で す 。
小さい頃から身長が低かったため、小学二年生の時に「幼稚園生?」と科学館で実験をしていた大
人の人に言われ、四年生の時に休憩所にいた人に「二年生?」と言われ、さらに六年生の時には「四
年生?」と言われました。実際の年齢よりもマイナス二歳年下に見えてしまう私はそのたびに「早く
伸びないかな」とずっと考えてしまうのでした。朝会で並ぶ時も一番前、運動会でも一番前、さらに
一番前なことにより「見やすくて写真を撮りやすいからいい」と父親にも言われ、写真を撮られるこ
とが嫌になったりと、様々なことがありました。
一番嫌だった思い出は小学二年生の秋ぐらいのことです。音楽の授業で歌を歌っていました。する
● ●
となんと「小さい秋」という歌を歌うことになりました。私は小さかったのでその題が出た時に一列
目の一番うしろのろうか側に座っていた私を、何人かが振り返って見た記憶があります。先生が「は
い、歌いましょうね。」と言い、クラスが歌いはじめたらもうその後は最悪でした。同じ列の前の方
に座っていた数人が「小さい秋、小さい秋、小さい秋、見ーつけた」という歌詞に、
〝ち〟をつけ足
していたのです。すると、「小さいちあき、小さいちあき、小さいちあき、見ーつけた」となって、
その繰り返し。幼かった私にとって大ダメージでした。私はいつのまにかしくしく泣いていました。
隣に座っていたNちゃんは、とても優しくはきはきした性格だったのですぐに、
「先生、ちーちゃん
が泣いています。」と先生に大声で伝えました。すると、先生は「どうしたの?」と聞いたので、N
55
ちゃんは「小さい秋」のことを説明しました。
その担任の先生は、とても大がらで優しくて、そして時にはものすごく怖い先生でした。その先生
はその時にこんな話をクラス全員の前で話しました。
世界にはたくさんのいろんな人がいます。先生は大きいし、ちあきさんは小柄です。でももっと小
柄な人もいて、もっと大きな人もいます。もし同じ立場になったらどうですか。自分は何もしていな
いのに、外見のことでみんなに言われたら、とても傷つくと思います。みんな同じ人です。いつも相
手の こ と を 想 っ て 行 動 し ま し ょ う ね 。
もう七年前の話なのであまり詳しくは憶えていません。しかし、先生は〝相手の気持ちを考える〟
という大切なことを教えて下さいました。涙はいつのまにか止まっていましたし、なんだかすごく学
べた よ う な 気 が し ま し た 。
● ●
今、私が大切だと思うのは〝相手の気持ちを考える〟ことです。いじめなど数多くの問題がありま
すが、ケンカにしても一回冷静になって、自分が言ったことが相手をどんな気持ちにさせているかな
ど考 え る 必 要 が あ る と 思 い ま す 。
「小さいちあき」を歌っていた本人たちはもう覚えていないと思います。しかし、私はそれによっ
て〝相手の気持ちを考える〟ということを頭に置くようになりました。身長は低いですが、それは私
の一 つ の 個 性 だ と 思 っ て い ま す 。
この世界にはたくさんの様々な人が住んでいます。けれど皆、いくら違っても同じ人なのです。自
分とは違うから、と外見だけで決めつけるそんな人がいたら考え直してほしいと思います。今、ケン
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カしている相手、いじめている相手、相手が自分を見てどう感じているのか、もう一度考えてみたら
どうでしょうか。きっと目の前の世界が、一気に変化していくと思います。
● ●
優
秀
賞
障がいのある人と。
ささ ざわ
横浜市立希望が丘中学校 三年
え
り
か
笹澤 瑛利華
「ねえねえねえ、遊ぼう。」
私の幼稚園では、お昼ご飯を食べ終わった人から休み時間、という決まりがあった。この言葉は、私
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の友だちの女の子が、毎日お弁当を食べ終わったらすぐ言ってくれていたものだ。彼女とはよく一緒
に遊んでいた。しかし、彼女には私たちと少しちがうところがあった。それは「ダウン症候群であ
る」という所だ。ダウン症候群とは、染色体の異常で起こる病気で、運動能力や知能の発達に遅れが
生じる。でも私のまわりのみんなはそんなことあまり気にしていなかった。彼女はだれよりも思いや
りがあり、だれよりも明るく前向きで、みんなから好かれていた。
だから、彼女のことはみんなで助けていた。しかし、だんだん助ける、というより「全部やってあ
げる」という行動に変わってしまっていた。彼女がやろうと思えばできそうなことも、みんなが先に
やってしまっていた気がする。そんな状況に気付いた先生は、帰りのあいさつの前にこう言った。
「みんな、『助ける』って何だと思う?先生は、どうしてもできないことを少し手伝ってあげることが
助けるってことだと思うんだ。できることまで全部やってあげるのは、何も助けになっていないんだ
● ●
よ。逆にその人の成長を止めてしまうことになるんだよ。
」
私は、よく覚えている。それ以後、先生の注意を受けながらも、みんな上手に彼女と付き合ってい
ける よ う に な っ た 。
私が先生から学んだのは、「助けることのむずかしさ」だ。自分は助けているつもりでも、それは
相手の伸びる能力も止めてしまっているのかもしれない、と思った。それから私は、何があっても相
手のこともちゃんと考えるように気をつけた。先生からは、助けることのむずかしさと相手を思いや
るこ と の 大 切 さ を 学 ん だ 。
58
ある日、ダウン症の彼女と他に三人ほどの友だちと、それぞれのお母さんとで遊園地へ行った。そ
の遊園地には地面から小さい噴水が出てくる、夏限定の遊び場があった。そこでみんなで遊んでいた
ら、五十歳から六十歳くらいの男の人が、暑いねぇ、みんな何歳?、などきいてきた。そして、その
人と 少 し 話 を し て い た ら 、
「みんな、その子と遊んであげて偉いね。」
と言われた。その子とは、ダウン症の彼女である。私はその発言を不思議に思った。なぜ偉いのか。
私 た ち の 間 に は、 何 と も 言 え な い 不 満 の よ う な、 怒 り の よ う な、 と に か く 嫌 な 空 気 が 流 れ て い た。
きっと、その男の人は軽い気持ちで言っただけだろう。本当に偉いな、と感心したのかもしれない。
しかし私には理解ができなかった。私たちは彼女と「遊んであげている」わけではないのだ。一緒に
きっと、その男の人のように、障がいのある人に偏見がある人もいると思うが、少しでも偏見がな
いる と 楽 し い か ら 遊 ん で い た の だ 。
● ●
くなればいいな、と思う。障がいがあるだけで他には私たちと何も変わらないことを、私は幼いころ
59
に学べて良かったと思う。これからも、どうしても困っているときは優しくサポートし、それ以外で
はあたたかい目で見守っていけるようにしたい。
● ●
優
秀
賞
合わせる
横浜市立谷本中学校 二年
すず
鈴
き
すが
木 清
お
生
60
音は人と似ていると思います。人はそれぞれ好みも違うし、性格も違います。音も高さや質はみん
な違って、合わせるのはとても大変なことです。
わたしは中学生になって、吹奏楽部に入部しました。小学生のときに演奏をきいたのがきっかけで
す。楽器のことなんてなんにも知らなかったけど、そのときの先輩方の演奏は耳に響くというより心
に響いてくるような、本当に迫力のある感動する演奏でした。今でも低音楽器のたくましい音、金管
楽器のつきぬけるような音、木管楽器のなめらかな音色それぞれでできるハーモニーをよく覚えてい
ます。どの部活でもそうかと思いますが、吹奏楽は、特に一つになって合わせることが大切だと思い
ます 。
中学一年生の四月、初めて楽器をもって、なにも考えずにただがむしゃらに吹いているばかりのま
ま、楽しければいいやと思っているだけでした。そんな状態で参加した合奏はバランスもめちゃく
ちゃ、音一つも合わない演奏で、あこがれていた先輩の演奏とはかけ離れたものになってしまいまし
た。そのとき顧問の先生に言われたことがあります。
● ●
「周りの音をよく聞きなさい。よく聞いて周りの音の中にそっとはいるようにしなさい。低音には
支える土台の役割がある、中低音はベースとメロディーをつなぐ役割が、高音にはメロディーをつく
る役割、パーカッションにはリズムを保つ役割がそれぞれある。そのそれぞれの違う音をよく聞い
て、合わせなさい。」
そのときはまだよく分からなかったけれど、一年間練習してきて、少しずつ「合わせる」ということ
を感 じ ら れ る よ う に な っ た と 思 い ま す 。
七月二十六日、全国吹奏楽コンクール地区予選がありました。わたしの部活では県大会に出場する
のがずっと目標で、昨年も先輩方がくやし涙をながしているのを見てきました。だから今年こそは、
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と意気込んで練習に取り組みました。音のはいりときり、細かいリズム、音程、音のニュアンス。最
初は自分のことしか考えられていなくて、ばらばらだった演奏が、隣の人の音、他のパートの音、バ
ンド全体の音に耳を傾けられるようになるにつれて、合うようになっていきました。
本番当日、舞台袖では緊張で泣いてしまいそうになる人もいました。そのぐらい一人一人が責任を
もって音をだし、音楽をつくるからです。指揮者が指揮をふり始めました。全員が一点に集中して、
ていねいにていねいに演奏しました。最後、舞台上でわたしは、一つになったと心から思いました。
本当に感動する演奏は、聞いている人だけでなく吹いている自分たちにも伝わるのだと思います。
その日わたしたち吹奏楽部は、十年ぶりに県大会出場を決めることができました。
音は人と似ていると思います。人はだれ一人と同じではありません。それと同じように、吹く人が
違えば音色も違うものになるのです。その音を合わせることはとても難しいです。けれど、周りをよ
● ●
く見て、そっとなかに入れば感動するほど合わせることもできます。
いじめ、差別、悪口はどうしておこるのでしょうか。わたしは、みんなで音楽をつくるようになっ
て気づいたことがあります。それぞれの音にはそれぞれの役割があり、ときには「合わせる」ために
耳を傾けなければいけません。それはわたしたちも同じではないでしょうか。人はそれぞれ違いま
す。違うけれど一人も無駄ではない音の中の一つです。自分ばかりががむしゃらに主張していては、
いつまでも合うことはないと思います。気づいたら立ち止まって、周りに目を配ることが大切なので
62
はな い で し ょ う か 。
わたしはこれからも、もっともっと「合わせる」ことを大切にしていきたいです。
● ●
優
秀
賞
人を思う気持ちが人を助ける
すす
横浜市立笹下中学校 三年
鈴
き
木 たくみ
巧
「おじいちゃんとおばあちゃん生きてるって!」母方の祖父母の無事が確認できたのは、あの東日
本大震災から六日後の三月十七日のことでした。それは僕の小学校の卒業式前日でした。大震災後
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ずっと安否不明で、両親のただならぬ雰囲気に何も聞けずに、じっと心の中で無事でありますように
と願うばかりでした。生存の報告を受けてから、母は、もしかしらダメかもしれないと覚悟し始めて
いたと言いました。僕達は家族皆で、よかったよかったと涙を流しながら喜び合い、笑顔で翌日の卒
業式 を 迎 え る こ と が で き ま し た 。
母の実家は、宮城県気仙沼市にありました。震災後の航空写真を見ると、二つの方向からは海の
水、一方向からは川の水が押し寄せてきたことがわかります。遊びに行っていたころは、川はそばに
ある事は知っていましたが、建物があるので、直に海が見えることはなく、そんなに近くにあるとは
全然意識していませんでした。実際、震災の時も、祖父母も近所の人達も、海や川がどんな状態に
なっているのか全くわかっていなかったそうです。停電だったので、テレビからの情報もなく、警報
もよく聞こえず、ただ尋常ではない地震だったので、津波が来るかもしれないからと、近くの鉄筋の
● ●
建物に逃げて、階段を上ろうと足元を見たら水が来ていたという、本当に間一髪で助かったそうで
す。
その後、屋上から、周りの建物や自分の家が津波によって流されていく光景を目の当りにし、よう
やく状況がわかったようです。翌日には、上空にヘリコプターが飛んでいるのが見えたので、屋上か
ら皆で手を振り、助けを求めると同時に、近くの家の中に閉じこめられている人を発見したので、そ
れを大きな身振りでヘリコプターの人に教えたりしたのだといいます。救助されるまで三日かかりま
したが、それまで見ず知らずの他人同士がお互いの体調を気づかい、はげまし合いながら過ごしたそ
うです。いよいよ自分達が救助される時も、心臓病の持病のある人や妊婦さんを優先的に乗せたそう
64
です 。
僕は、この話を聞いて、自分が生きるか死ぬかという極限状況の中、こんなにも他人を思いやれる
のかと胸が熱くなりました。祖母は、その時は無我夢中だったからと言いますが、周囲を海に囲ま
れ、自分の家が流されるのを見たりしたのですから、どんなに恐ろしく、怖く、絶望的な思いをした
ことでしょう。他人よりも自分が助かることを一番に考えてもおかしくないと思います。最初に自分
をヘリコプターに乗せてほしいと、しかし、そこで、誰も取り乱すことなく、救助を待ち続け、弱い
人を優先させることができる人達は、本当に立派です。いざという時に、どう行動できるかで、人間
性が わ か る の だ と 思 い ま し た 。
同じく宮城県の仙台には、伯母が住んでいます。津波の被害はまぬがれましたが、ライフラインは
ストップし、しばらくは大変な生活を送ったようです。物資が不足しているため、スーパーにも長蛇
● ●
の列で、ようやく中に入っても一人何点までと決められていたそうです。伯母は、食料がうまく手に
入らない友人に、そこまでして買った物を分けてあげたり、自分の家の電気が復旧すると、ご飯を炊
いて渡したり、電気を使わせたりしたそうです。この事もまた非常に人間として立派で、自分の伯母
であ る こ と を 誇 ら し く 思 い ま す 。
被災地の人々が、物資がなく、ライフラインの復旧も進まず、いつ元の生活に戻れるかわからない
不安な日々の中、お互いを思いやり、助け合っている時に、被災していない人の供給が滞っていたの
で、確かに今後の生活への不安はあったと思いますが、そこには自分が助かればいいという「欲」が
含まれていたのではないでしょうか。同じ日本に全てを失い、困っている人が何万人もいるのだか
65
ら、さらに少しでも物が行き渡るように、自分達も少しくらい不便でも我慢しよう、協力しようと一
人一人が思ったら、買い占め、騒動は起こらなかったのではないかと思います。復興税を関係のない
事に使っている人達もそう考えたのなら、あのような使い方はしなかったでしょう。
被災地もそれ以外でも、もちろん皆が同じような行動をとっていたわけではないと思います。しか
し、僕は、今回の事で常に、自分のことだけを考えるのではなく、相手のことをいたわるように心掛
け、いざという時に恥ずかしくない行動がとれる人になりたいです。
● ●
優
秀
賞
笑顔の未来へ
つ
横浜市立青葉台中学校 二年
や
も
も
の
津谷 萌々乃
私は尋常性白斑という皮膚の病気を持っています。二才の終わり頃に突然、発症しました。白斑
は、自分で自分の色素を失くしてしまう病気です。私の場合、それが右目の周りに出ていて、その部
66
分だけが他の皮膚よりくっきりと浮いたように白くなっています。
初めは母もすぐ治ると思ったそうですが、白い部分が増えていったので近所の皮膚科で診察を受け
ました。そのときに白斑ということが判明したのです。病院で塗り薬を処方していただいたのです
が、幼かった私は顔に薬を塗るのを嫌がり、困った母は、私が眠った後に薬をそっと塗っていたそう
です 。
でも、病気は良くなりませんでした。母の知り合いの方が、この病気の研究を続けている大学病院
の先生を紹介して下さって、私が五才のとき、母に連れられて、その大学病院を訪れました。先生は
「治るからね。心配しなくていいよ。」と優しく話して下さいました。その時の私の顔は、いつもの笑
顔よりずっと嬉しそうにニコニコしていたそうです。
私のように、突然に白斑が発症した場合は、現在でも原因が解明されていません。また、痛みや痒
● ●
みがないし他人に伝染もしない為か、白斑の研究をされている医師はとても少ないのです。日本で数
人しかいない、白斑の研究をしている先生を母が探し出してくれたことや、母は仕事をしていて体が
疲れているのに私が熟眠するまで待ってから毎晩薬を塗ってくれたことを思うと、とても深く心配し
てくれていたんだと、今はよく分かります。母は、病気そのものへの心配と、少しだけ他人と違うこ
とで、私がいじめられたり、差別されたりすることがないかを心配していたのだと思います。
「なんでここ、白いの?」とよく質問されました。そ
幼稚園のときは、友達に目の周りを指され、
の度に説明しなくてはならなかったので、大変だったのを覚えています。
67
小学校では、母が先生に病気のことをよく説明してくれたので、担任の先生がクラスのみんなに私
の病気のことを話して下さいました。そのおかげで病気のことを質問して来る友達はほとんどいませ
んでしたし、「大丈夫?」と心配してくれた友達もいました。
「それなら、
母は私と同じ病気の人と何人も会ったことがあると話してくれました。私はそのとき、
安心した。」と言いましたが、私自身が実際に同じ病気の人と会ったことがなかったので、本当は不
安で 少 し 怖 か っ た で す 。
でも、中学生になって偶然に同じ病気の人と出会ったのです。同じ部活の一つ年上の先輩です。優
しい先輩なので、病気のことも話し合うことが出来ます。こんなに身近に一緒に頑張れる同じ境遇の
人が い て 、 私 は と て も 心 強 く な れ ま し た 。
病気のことについて自分なりに考えてみたとき、
「なぜ私が原因不明の病気になってしまったのだ
ろう。」と悩んだことはあります。でも、人はマイナスに考えていては前に進むことが出来ないと思
● ●
い直し、これは私の一つの個性だと思うようになりました。これから先、大変なことが起きても、こ
の病気と共にしっかり前を見て、人生を歩んで行きたい。強い人間になりたい。と今は思っていま
す。
私は白斑の病気になって、家族や友達や先生など、周りの人たちの有難みを知ることが出来まし
た。友達は私の病気を理解してくれた上で、一緒に遊んだり、笑い合ったり、時には一緒に悩んでく
れました。私の病気を理解して下さった周りの方々には、心から感謝しています。
68
母はいつも明るいので、心配している素振りを全く見せません。私が病気のせいで卑屈にならず、
自分の病気を受け入れられたのも、母が明るくいつも見守ってくれているおかげだと思っています。
人はみんな平等です。病気や境遇で差別したり、偏見をもったりすることはあってはならないこと
です。でも、実際にはこの世の中から差別や偏見が完全に無くなることはないと思います。けれど
も、少しずつ減らして行くことは出来ると思います。そのために、人と人が助け合うような、みんな
がそのような心を持つことが良いのではないでしょうか。困っている人がいたら声をかけてみる、そ
の人の立場になって考えてみる、など身近なことから始めてみることが大切だと思います。私ばかり
お世話になるのではなく、自分も社会や人のために役立てることを考え、行動して行きたいと思って
います。この病気が私にそう気付かせてくれました。
● ●
優
秀
賞
ばあちゃん、長生きしてね
「美玖ちゃん、よく来たね。」
ほし
横浜市立篠原中学校 二年
星
み
く
美 玖
69
駅で祖母が笑顔で迎えてくれた。一年半ぶりの秩父。祖母の元気な姿を見て、私はなんだか嬉し
かっ た 。
私の祖母は、六十四歳。日本の百名山を踏破しようと、祖父と日本全国を旅し、登りまわってい
る。いつも明るく元気で、孫たちをいろいろな所に連れていってくれる。だが、時々、無茶をしてけ
がをする。私はそんな祖母が大好きだ。そして、心配でもある。もし、事故などで大けがをしたら…
母は看病に行くことができるのだろうか。恐らくそれは無理だろう。母は働いているし、家も遠いか
らだ 。
今年の夏、祖母の近所の一人暮らしをしている八十五歳のおばあさんに会った。昨年、その方は、
ヨガの帰りに心筋梗塞を起こして倒れたそうだ。幸い近くに知人がいたから助かったものの、家だっ
たら死んでいたかもしれないとおっしゃっていた。私は改めて、人との関係の重要さを実感した。一
緒に聞いていた祖母も、「もしものときは、一番近くにいる人が頼りになる。
」と、言っていた。私
は、祖母に突然命の危険が起きることなど、想像したことがなかった。また、祖母が老後や万が一の
● ●
こと を 考 え て い る こ と は 意 外 だ っ た 。
祖母は、私が生まれた頃からヘルパーをしている。今も週に二・三日は働いている。訪問先の方が
祖母が来るのを待っているから、辞められないそうだ。仕事では、加齢や病気などで今までできてい
たことができなくなった人の家事や身の回りのお世話をしている。祖母が話を聞くだけでも相手の方
は元気になることを話して聞かせてくれた。祖母は、人の役に立てるヘルパーの仕事に張り合いを感
じて い る よ う だ っ た 。
高齢者が一人きりの生活を送らないようにあるものが、老人ホームなどの介護施設や、ホームヘル
パーなどの在宅介護サービスだ。それらは、身体の不自由な高齢者の方々が、安心して生活できるよ
70
うに補助するものだ。介護が必要な人は、介護保険を使って、介護サービスを安く受けられるのだ
が、そのような保険や、施設に入るお金の余裕がなくて、七十代、八十代になり、介護を受けたくて
も受けられない高齢者も少なくないようだ。しかも、介護施設には、ある程度自立していないと入れ
ない 施 設 も あ る 。
私はこのように、高齢者の中に経済的な面や、身体の状態で介護を受けたくても受けられない人が
いる こ と は 、 不 平 等 だ と 思 っ た 。
しかし、高齢者の中には、「住み慣れた家から離れたくない。介護がなくても一人で生活できる。
」
と、自ら介護を受けない人もいることを、八十五歳のおばあさんが教えてくれた。私は、誰でも老人
ホームに行ったり、在宅介護サービスを受けたりすることが嬉しいことだと思っていたが、そのよう
な高齢者の気持ちを聞き、皆が助けてもらうことを望んでいるとは限らないことに気付いた。
祖母が介護サービスについてどう思っているのか気になり、私は、
● ●
「ばあちゃん、病気になったりして、介護が必要になったらどうするの?」
と、 尋 ね て み た 。 す る と 祖 母 は 、
「大事な畑もあるし、家族に迷惑をかけたくないから、できるだけ長く自分の力で生きていきたい。
」
と答 え た 。 さ ら に 付 け 加 え て 、
「 万 が 一、 介 護 が 必 要 に な っ た 時 は、 自 分 の し た い こ と が で き る よ う な 介 護 サ ー ビ ス を 受 け た い。
」
と、言っていた。祖母らしいと思うと同時に、寂しくないのかなと思った。本心では、家族を頼りた
い気持ちもあるのだろう。もし私が一緒に暮らしていたら、話し相手をしてあげられるのに。という
71
思い が 心 に 浮 か ん だ 。
地域でお年寄りを支えあう社会が理想という祖母は、住み慣れた場所で、周りの人との繋がりを大
切に暮らしている。全ての人が老後を安心して心豊かに過ごすためには、離れていても家族と心が繋
がっていること、そして、近所の人や社会との繋がりが大切だと祖母は教えてくれた。
人は皆、年を重ね老いていく。祖母もいつか介護を受ける側になるかもしれない。家族や周りの人
が高齢者を思いやり、その方がどう思っているのか、何を望んでいるのかを理解し、ささいなことで
もできることから手を差し伸べていくことが大切だと思う。
私には何ができるのだろうか。今の私にはできることは少ないが、手紙やメールなどで、日常の出
来事などを伝えることはできる。そばにいなくても、気持ちだけは届けることができる。また、祖母
が心配しないように、毎日を元気に過ごしていく。私も祖母を見習って、地域の方に挨拶や小さな親
切をするなどして、自分ができることから繋がりをもち、お互い住みやすい環境を作っていきたい。
● ●
優
秀
賞
「かわいそう…。
」
横浜市立領家中学校 一年
み
御
やま
山
ゆ
い
優 衣
私には、間欠性外斜視という目の障害があります。疲れたり、眠くなると、焦点が合わなくなり左
右の目が違う方向を向いてしまいます。四才から通院しはじめ、小学校二年生の時に手術をしたの
72
で、今は落ちついています。立体的に物を見ることが少し苦手で、遠近感がとりづらいのです。母は
弟たちにも同じ病気があるのではないかとても心配していました。二年前、下の弟が検査に行き、弱
視だということがわかりました。両目で0・2しか視力がなかったのです。今では眼鏡の治療にもな
れて、あまり不自由なく元気に生活しています。
」と言います。
「かわいそう。
」という言葉を
私や弟の目のことを知るとみんな、「かわいそうだね。
辞書でひいてみると、「あわれで、気の毒だ。
」とありました。確かに、通院しての長時間の検査も大
変でしたし、手術も怖くて終わったあともとても痛かったです。今でも目が疲れやすく、見えづら
かったりもします。目の見え方は他人にはわからないので、理解してもらえないつらさもあります。
「どこを見ているかわからない。」とか、「本当は何でもないんじゃない?」とか、何度も他の人から
言われ嫌な思いもたくさんしました。でもそれは、
「かわいそう。
」ということになるのでしょうか?
● ●
目の障害がわかって、両親、祖父母が一生懸命治療について調べてくれました。病院も探し、何度も
検査に通い、周りの人に私の目のことを理解してもらえるよう説明してくれました。お医者さんも、
看護師さんも、検査技師さんも、ボランティアさんも、学校の先生も、友達も、その友達のお母さん
方も、数えきれないほどのたくさんの人が、私を心配し応援し、励まし、治療のために動いてくれま
した。目のことがなければ出会わなかった人に、たくさん出会うことができたのです。そうした人達
に支えられていたおかげで、私は、目のことばかりを気にしている生活をせずにすんだのかもしれま
せん。目を使うことは少し苦手でも、耳を使って音楽を聴いたり、ピアノを弾いたりするのは、とて
も楽しくて、好きです。テレビで、障害のある人が、夢を叶えるためのチャレンジをする番組をよく
73
見ます。どの人も、たくさんの人々に支えられながら、素晴らしい才能を発揮し目標に向かってい
きます。私が想像できないような努力をしている姿に感動してしまいます。障害がある分「努力する
力」が強いように思えます。体に完璧な機能がないことは「かわいそう。
」なことではありません。
たとえできないことがあっても、他のできることで十分補うことができます。そして、そこにいつの
間にか支えてくれる人の輪ができるのです。温かい心に触れ、喜び、感動することで、優しさを身に
つけ、豊かな心をもてる、むしろ幸せなことではないでしょうか。
私より、もっとつらい人はたくさんいるでしょう。私の目は、障害というほどのものではないかも
しれません。障害があっても幸せだなんて言ったら、怒る人もいるかもしれません。しかし、私は前
向きに生きたいと思うのです。私は私の目を通じて、人の冷たい目があることを知り傷ついたけれ
ど、つらいことを乗り越える力を得ました。そして、それ以上に、私を支えてくれるたくさんの人達
● ●
の心の温かさを知り、強く明るく生きる力を手に入れたように思います。これからは今まで私に力を
くれた人達への感謝の気持ちを忘れずに、自分の夢に向かって努力し続け、いつか恩返しができるよ
うな人になりたいです。また、困っている人や、助けを必要としている人がいれば、応援し、寄り添
74
い、支えになりたいです。どんな人も、一人ではうまく生きられません。だから、どんな時も、一人
ではないということを忘れず、私も温かい人の輪の中の一員であり続けたいと思っています。
● ●
優
秀
賞
見えない困難
望
もち
横浜市立仲尾台中学校 三年
づき
よし
月 由
のぶ
伸
僕たち家族が横浜に移り住んで五年目になり、春休みに初めて祖母が名古屋から遊びに来てくれま
した。祖母は四年前から糖尿病が悪化して網膜症となり、右目がほとんど見えなくなってから、遠出
75
の旅行をしなくなってしまいました。でも、今年は横浜に来てくれました。本当に嬉しかったです。
僕が知っている祖母は、右目が見えなくても、料理・洗濯などの日常の家事が普通にできて、生活
をするにはあまり不自由することなく暮らしているのだと僕は思っていました。でも滞在中に祖母か
らいろんな話を聞いて、僕が思っていた祖母とは違っていた事に気付いたのです。
祖母から聞いた話は、発病前の視力は両目一・二でしたが、ある日突然に右目が真っ暗になってし
まったそうです。何ヶ月か治療していくうち、大きな物の輪郭が分かるまで回復し、そして不自由な
がらもだんだん日常生活もできるようになりました。しかし祖母は最初は近所の人や友人たちに右目
が不自由なことは言えなかったそうです。なぜなら障害があることで、人から特別な目で見られるの
では な い か と 恐 れ て い た か ら で す 。
しかし一人で外出したとき、道の段差がわかりづらいため転んで大怪我をし、また乗りたいバスの
● ●
行き先が見えず、なおかつバスの乗り降りする際の歩道に移るとき何度もつまずいて怖い思いをした
そうです。そんな日が続く中、こんなことではいけないと思い勇気を出して、バスを待っている隣に
いた人に「私は目が見えづらいので、来たバスの行き先を教えてください。
」とお願いしたら、その
人は親切に教えてくれ、そしてバスに乗る際に段差があることを伝えてくれ、手を差し伸べてくれた
そうです。見ず知らずの人がやさしく手助けをしてくださったことが本当に嬉しかったそうです。
このことがあってから、祖母は自分の障害を隠さず、いろんな人々に助けられ、不安も無く行きた
いところに行けるようになったそうです。そして今では周りの人々に手助けをしていただき、老人会
の活動やイベントに参加したり、友達とカラオケ教室に通ったり、近所の人達と家庭菜園を楽しんだ
76
りし 活 発 に 前 向 き に 暮 ら し て い ま す 。
僕は、この話を聞いて、祖母がよく見えていた目が急に見えなくなってしまった時はすごく不安で
怖かったことだろう、本当に辛かっただろうと、悲しい思いが込み上げてきました。そして、こんな
に辛い思いをしているのに、気付いてあげられず、十分に思いやることがなくて本当に申し訳なかっ
たと反省しました。いつも明るく優しく、弱音をはくこともなく前向きに生きている祖母を今まで以
上に 尊 敬 し ま し た 。
祖母の滞在中、一緒に鎌倉に行きました。そのとき混んでいる電車やバスに乗ったとき、祖母が
立っているといつも誰かが声をかけ席を代わって座らせてもらいました。おかげで祖母は怪我をする
祖母が受けた多くの手助けと同じように僕も多くの人の手伝いがしたいと思いました。でも手助け
こともなく、観光を楽しんでいました。僕は本当に嬉しかったし、人の優しさが身にしみました。
● ●
しようと思っても、なかなか声をかける勇気がなく、できなかったこともありました。困っている人
を見過ごしたことも沢山あったと思います。だから最近僕はなにか困っていそうだなと思うと、その
人のそばに寄り添い、何に困っているのか様子を見るようにしました。それで声をかけたり、その人
から話してくれたりして、少しずつ手助けできるようになりました。
できることなら、困ったと思ったら、SOSを発信してくれて、その近くにいる人が誰でも手助け
できれば一番良いことだと思いました。そうなれば遠く離れて住んでいる祖母を含め、誰もがもっと
安心して暮らせると思います。僕もまた、これから「困ったアンテナ」を鍛え、寄り添って手助けし
77
ていきたいと思っています。そして祖母に親切に手助けしていただいた沢山の人々に本当に感謝して
いま す 。 あ り が と う ご さ い ま す 。
● ●
優
秀
賞
二〇十一年三月十一日
横浜市立南希望が丘中学校 二年
やま
山
だ
田 ま
ゆ
78
二〇十一年三月十一日、午後二時四十六分、三陸沖で最大震度七のとても強い地震が発生しまし
た。 東 日 本 大 震 災 で す 。
この大地震の影響で九メートルを超える大きな津波が東日本に押し寄せました。この津波は、堤
防を乗り越え陸に上り、東日本の多くの地域に被害をもたらしました。家を失った人や海に命を
奪われてしまった人。東日本大震災で命を落としてしまった人の数は現在確認されているだけでも
一万五千八百八十三人にのぼり、そのほとんどは津波の被害を受けた人だと言われています。
その他津波の被害を受けたものはたくさんありますが、その中で一番注目されたのは原発事故。東
京電力の福島第一原子力発電所に海水が入り込み非常用炉心冷却装置が動かせなくなってしまったの
です。また、この場所の一号機と三号機にて爆発が起こり、人体に影響のある放射性物質が放出され
てしまいました。このことで福島の原子力発電所の近くでは避難指示が出され放射性物質の放出は大
きく ニ ュ ー ス や 新 聞 に 取 り 上 げ ら れ ま し た 。
東日本大震災のおよそ二ヶ月後、私はボランティアをするために福島県にある祖父母の家を訪ねま
● ●
した。祖父母の家は幸い沖から離れた場所にあり、津波の影響もなく、避難区域にも指定されません
でした。しかし祖父母の家に着いたとき私は祖母にこんなことを言われました。
「福島に来て大丈夫なのか。放射能で友達に避けられないか。」と。
私はこの時、福島および私たちの暮らす日本がどんな状況におかれているのかということを身にし
みて感じました。それは大きな地震が起こったということだけではありません。この福島に住んでい
る、東京電力で働いているというだけで、それと関わるのを拒む人がいるということでした。一番辛
いの は そ の 拒 ま れ て い る 人 だ と い う の に 。
79
私はこの差別とも言える問題をどうすれば私たちの手で改善できるのか考えました。しかし、これ
は人それぞれの考え方の問題のため、解決方法を思い浮かばせることが出来ませんでした。
翌日、私は福島県いわき市にあるボランティアの特設施設へ向かいました。そのとき私が行ったボ
ランティアは津波の影響で家に入り込んだ砂の除去作業でした。その時私は、とても悲しい現実を目
にしました。海岸からおよそ二百メートルほどの所まで全て平野で何もなかったのです。きっとここ
には想像も出来ない程の大津波が来たんだろうと思いました。私はこの瞬間、一つだけ解決方法を思
いつきました。それは他の面からその人達を支える、元気づけるということです。このボランティア
に来ている一部の人だけでも、被災地の人にとっては、大きな励みになっているのではないかと思い
ました。それならばボランティアを続けることがとても大切なんだと感じたのです。
その後、私は様々なボランティアをしました。支援物資の整理、持ち主不明の写真の砂のふき取り
など 、 計 十 回 の ボ ラ ン テ ィ ア を し ま し た 。
● ●
そんな中、年末になり二〇十一年の「今年の漢字」が発表されました。二〇十一年の漢字は〝絆〟
でした。選ばれた理由はもちろん東日本大震災があったからです。私はこの漢字が選ばれたことを
知ったとき、とても嬉しくなりました。被害を受けた人を想っている人は〝一部の人〟では無かった
ので す か ら 。
80
東日本大震災で出来た被災地の人々、家族を失った人の傷が無くなることは難しいと思います。し
かし仮に心の傷が癒えたとしても私たちはそれを忘れてはいけません。決して東日本大震災で起こっ
たことを忘れない、それが私たちにとって一番大切なことなのです。
● ●
81
● ●
区〕共
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
校)
平
楽 中学校
蒔
田 中学校
南
中学校
永
田 中学校
六 ツ 川 中学校
藤 の 木 中学校
〔港 南 区〕港
南 中学校
上 永 谷 中学校
笹
下 中学校
野
庭 中学校
港南台第一 中学校
芹 が 谷 中学校
日 限 山 中学校
日 野 南 中学校
丸 山 台 中学校
東 永 谷 中学校
南高等学校附属中学校
土 ケ 谷 中学校
田 中学校
井 原 中学校
谷 中学校
菅 田 中学校
井 中学校
ケ 峯 中学校
騎 が 原 中学校
〔保土ケ谷区〕保
宮
岩
西
上
新
〔旭 区〕鶴
万
岡
金
沢
浦
道
柴
岡
東
沢
木
希望が丘
上 白 根
左 近 山
都
岡
旭
南希望が丘
今
宿
本
宿
若 葉 台
旭
北
〔磯 子 区〕根
岸
浜
岡
村
汐 見 台
洋光台第一
洋光台第二
森
〔金 沢 区〕金
六
大
西
富
富
西
並
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
82
参加校紹介(
■横浜市立
〔鶴 見 区〕市 場
潮 田
末
吉
鶴 見
寺 尾
矢
向
上 の 宮
〔神 奈 川 区〕浦 島 丘
栗 田 谷
六 角 橋
神 奈 川
松
本
錦 台
菅 田
〔西 区〕老 松
岡
野
西
軽 井 沢
〔中 区〕
港
横浜吉田
大
鳥
仲 尾 台
本
牧
進
〔南
● ●
141
釜
小
〔港 北 区〕城
新
日
大
篠
樽
日
新
〔緑 区〕田
中
十
鴨
霧
東
〔青 葉 区〕山
谷
青
み
美
す
奈
緑
も
利 谷 中学校
田 中学校
郷 中学校
田 中学校
吉 台 中学校
綱 中学校
原 中学校
町 中学校
吉 台 西 中学校
羽 中学校
奈 中学校
山 中学校
日 市 場 中学校
居 中学校
が 丘 中学校
鴨 居 中学校
内 中学校
本 中学校
葉 台 中学校
た け 台 中学校
し が 丘 中学校
す き 野 中学校
良 中学校
が 丘 中学校
え ぎ 野 中学校
あ
鴨
市
あ
〔都 筑 区〕中
茅
中
都
川
荏
東
早
〔戸 塚 区〕大
戸
舞
境
豊
汲
深
秋
南
〔栄 区〕本
上
桂
西
ざみ
志
ケ
かね
野
田
尾
台
川
崎
西
田
和
南
田
渕
正
塚
岡
木
田
沢
谷
葉
塚
郷
郷
台
郷
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
飯
庄
小
〔泉
区〕岡
中
泉
上
い
領
〔瀬 谷 区〕瀬
南
東
下
島
戸
山 台
津
和 田
が 丘
飯 田
ずみ野
家
谷
原
瀬 谷
野
瀬 谷
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
中学校
ろう特別支援中学校
盲特別支援中学校
■その他
横浜国立大学教育人間科学部附
属横浜中学校
ご協力ありがとうございました。
83
ケ
川
田
山
戸
本
● ●
応募状況
【1】推移
年度
19
20
21
22
23
24
25
応募校数
143
140
141
144
142
143
141
作品数
45,079
43,289
45,282
48,947
51,492
55,824
58,016
【2】テーマ別内訳
女性問題をテーマとした作品
815
子どもに関する問題をテーマと
した作品
24,344
2,355
高齢者問題をテーマとした作品
障害のある人に関する問題を
テーマとした作品
3,930
同和問題をテーマとした作品
166
アイヌの人々に関する問題を
テーマとした作品
216
社会の国際化に伴う人権問題
をテーマとした作品
2,087
HIV感染者・ハンセン病患者等に
関する問題をテーマとした作品
403
犯罪被害者等に関する問題を
テーマとした作品
433
差別問題一般をテーマとした
作品
2,214
9,511
戦争や平和をテーマとした作品
3,536
環境問題をテーマとした作品
プライバシー問題をテーマと
した作品
652
東日本大震災に起因する人権
問題をテーマとした作品
職業差別をテーマとした作品
マスメディアと人権をテーマ
とした作品
2,752
337
464
その他人権の尊重をテーマと
した作品
3,801
84
● ●
●平成25年度全国中学生人権作文コンテスト横浜市大会
〈第一次審査員〉
横浜市立中学校教育研究会国語科部会の先生方 38名
〈第二次審査員〉
横浜市教育委員会事務局指導主事 7名
〈最終審査員〉
横 浜 市 人 権 擁 護 委 員 会 会 長
坂 田 清 一
横浜市人権擁護委員会第一ブロック委員
新 田 弘 子
横浜市人権擁護委員会第二ブロック委員
中 村 正 俊
横浜市人権擁護委員会第三ブロック委員
石 原 昌 信
文
業
吉 富 多 美
横 浜 市 P T A 連 絡 協 議 会 会 長
栗 原 秀 泰
横浜市立中学校人権教育推進協議会会長
細 山 洋 子
教育委員会事務局健康教育・人権教育担当部長
斉 藤 慶 彦
市民局人権・男女共同参画担当部長
池 戸 淳 子
筆
横浜市人権啓発活動ネットワーク協議会
横浜市内における人権啓発活動を、関係機関の協力のもとに総合的かつ
効果的に推進するために平成 12 年 9 月に設立。
構成:横浜市・横浜人権擁護委員協議会・
横浜市人権擁護委員会・横浜地方法務局
平成25年度
全国中学生人権作文コンテスト
横浜市大会作文集
平成25年11月
横浜市市民局人権課
T EL 045(671)2379
横浜市教育委員会事務局
人権教育・児童生徒課
T EL 045(671)3250
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