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51
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﹃
階 書 ﹄ 西 域 伝 、 ﹃周 書 ﹄ 異 域 伝
目
訳者 のまえがき
﹃
階書﹄ 巻八十 三西域伝
﹃周 書 ﹄ 巻 五 十 異 域 伝 (下)
52
56
.. ..
(下 ) の 訳 注
小
菅
谷
沼
仲
愛
男
語
訳者 の ま え が き
集 が 必 須 で あ った 。 斐 矩 は 辺 境 視 察 の た め 、 何 度 か 張 掖 、 敦 煌 に 派 遣 さ れ た 。 そ う し た な か で製 作 さ れ た のが 斐 矩 撰
を 担 当 す る 斐 矩 と は 、 む や み に 武 力 を も ち いず 、 策 略 に よ って 突 厥 勢 力 を 分 断 す る 方 針 を と った 。 そ のた め に は 情 報 収
維 持 の た め の大 事 業 を 抱 え て いた 。 武 力 を 行 使 し て 突 厥 を 圧倒 す る余 力 は な か った 。 階 の文 帝 と煬 帝 、 そ の も と で外 交
第 に変 化 し は じ め る 。 し か し ま だ 全 国 統 一し た ば か り の階 は 、 南 北 を つな ぐ 大 運 河 の改 修 、 万 里 の長 城 の改 築 な ど 統 一
年 )、 ふた た び 中 国 に 政 治 的 統 一が も た ら さ れ た 。 中 国 に統 一王 朝 が 出 現 す る と 、 東 アジ ア に お け る 南 北 の力 関 係 は 次
し か し 、 ま ず 北 周 が 北 斉 を 併 合 し て 華 北 を 統 一 (五 七 七 年 )、 つ いで 北 周 を つ いだ 階 が 南 朝 の 陳 を 併 合 す る と (
五 八九
ど う し て物 の不 足 を 憂 う こ と が あ ろ う (
但 使 我 在 南 両 箇 児 孝 順 、 何 憂 無 物 邪 )﹂ (﹃周 書 ﹄ 突 厥 伝 ) と 豪 語 し た と いう 。
供 し 、 皇 女 を 差 し 出 し て婚 姻 関 係 を 結 ん だ 。 当 時 の突 厥 他 鉢 可 汗 は ﹁た だ 、 わ が 南 方 に 二 人 の孝 行 息 子 が いる か ぎ り 、
北 周 、 北 斉 が華 北 を 二分 し て交 戦 し て いた 時 、 両 国 と も 北 方 遊 牧 民 族 の突 厥 に 支 援 を も と め 、 競 って多 額 の贈 物 を 提
が ど のよ う に変 化 す る か は 興 味 深 い。
対 外 政策 は ど う し ても 消 極 的 に な らざ る を 得 な い。 こ の分 裂 か ら統 一への過 渡 期 に お い て、 西 域 政 策 そ し て西 域 の歴 史
あ った。 こ の両 朝 は 中 国 中 世 の長 い分 裂 時 代 の 最 後 に位 置 す る。 中 国 の国 内 が 分 裂 し 、 内 部 で対 立 し あ う こ と にな れ ば 、
な い。 北 周 の統 治 は 西 暦 五 五 六 ∼ 五 八 一年 、 階 は 五 八 一∼ 六 一八 年 と 次 の唐 朝 約 三 百 年 と 比 較 す れ ば 、 短 命 な 王 朝 で
十 年 (六 三 六 ) 同 時 に完 成 し た 。 ﹃
北斉書﹄ (
唐 ・李 百 薬 等 撰 ) も 同 時 に完 成 し た が 、 西 域 に 関 す る 列 伝 は 作 成 さ れ て い
の訳 注 を 作 成 し た 。 ﹃
階 書﹄ (
唐 ・魏 徴 等 撰 ) と ﹃周 書 ﹄ (
唐 ・令 孤 徳? 等 撰 ) の編 纂 は ほ ぼ 同 じ こ ろ に 着 手 さ れ 、 貞 観
﹃
新 唐 書 ﹄ 西 域 伝 (小 谷 ・菅 沼 二〇 一〇 、 二〇 一 一) に ひ き つづ いて 、 今 回 は ﹃階 書 ﹄ 西 域 伝 と ﹃周 書 ﹄ 異 域 伝 (下 )
52
訳注
『
階 書』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
53
﹃
西 域 図 記 ﹄ 三 巻 と 章 節 撰 ﹃西 蕃 記 ﹄ であ った 。 ﹃階 書 ﹄ 巻 六 七 斐 矩 伝 、 ﹃旧 唐 書 ﹄ 巻 六 三 斐 矩 伝 に は 次 の よう に記 さ れ
る。
大 業初 (六〇 五∼ 六年 )当 時、 西域 諸 国 の人び と は張掖 (甘粛省 ) の中 国人 城塞 を 訪 れ、交 易を し て いた。 煬帝 は斐 矩を
張 掖 へ派遣 し て交 易事 務 を管 掌 さ せた。 斐 矩 は皇 帝 が将 来、 対外 政 策 を拡 大 し (
遠 略 )、 北方 遊 牧 民族 を平 定 した い (
欲呑
併夷 狭 )と 考え て いる ことを 知 り、 そ の機 会 に西 域諸 国 の風 俗 、地 理 ・地 勢 (
山 川険 易 )、君 長 や名 族 、物 産 や服 飾 に つい
て聴 取 ・観 察 した。 そ れ にもと づき 、 ﹃
西 域 図記﹄ 三巻 を 著述 し、 皇帝 に献 上 した (﹃
旧 唐書﹄ 巻 六 三斐矩 伝)。
な お そ の序 文 に よ ると 、 取 り 上 げ た 国 数 は 四 十 四 、 そ れ ぞ れ の 国 の服 飾 儀 礼 、 国 王 ・庶 民 の容 貌 を 模 写 し た 彩 画 図 を
付 し 、 そ れ と は ま た 別 に 戦 略 上 の 要 害 を 印 し た 地 図 を 作 成 し た と いう 。 ﹃西 域 図 記 ﹄ の完 成 年 に つ いて は 正 確 な 記 載 が
な いが 、 内 田 吟 風 の研 究 に よ れ ば 、 大 業 二年 (六 〇 六 ) と す る の が妥 当 で あ る (
内 田 吟 風 一九 七 三 " 一二 二)。 残 念 な
が ら 本 書 は 宋 代 に は 散 逸 し てし ま い、 現 在 で は 若 干 の断 片 が 引 用 文 献 か ら 知 ら れ る の み であ る。 た だ 、 そ の序 文 全 体 は
﹃
階 書 ﹄ 斐 矩 伝 に 載 せ ら れ て お り 、 同 書 ﹁西 域 伝 ﹂ 序 の冒 頭 も そ の 一部 で あ る。 し た が って本 書 が 西 域 伝 の主 要 な 材 料
にな った こと は 明 ら か であ る 。
同 じく ﹃
階 書 ﹄ 西 域 伝 の主 要 な 情 報 源 に な った も のに 、 章 節 の ﹃西 蕃 記 ﹄ が あ る 。 し か し こ の 書 も 散 逸 し 、 ﹃
通典 ﹄
辺 防 な ど に 一部 分 が 引 用 さ れ 、 保 存 さ れ る に と ど ま る。 ﹃
階 書 ﹄ 西 域 伝 の序 に ﹁煬 帝 時 、 遣 侍 御 史 章 節 、 司 隷 従 事 杜 行
(
六 一〇 ) に 西 方 巡 行 に出 か け 、 そ こ で 西 突 厥 可 汗 の処 羅 と 面 会 し よ う と 試 み 、 そ れ は 実
満 、 使 於 西 蕃 諸 国 ﹂ と 記 し て いる の が そ れ であ る 。 た だ 、 章 節 と 杜 行 満 ら の出 発 ・帰 国 が 煬 帝 治 世 の何 年 で あ った か の
明 言 が な い。 煬 帝 は 大 業 六年
現 し な か った 。 そ の時 、 章 節 が 可 汗 のも と に 招 致 に 派 遣 さ れ て いる の で 、 そ の こ ろ、 か れ ら は 西 域 への出 発 準 備 中 か 、
そ の途 上 に あ った の で は な いだ ろ う か 。 斐 矩 の ﹃西 域 図 記 ﹄ の情 報 に も と づ き 、 実 地 検 証 の旅 に出 た と 考 え ら れ る。
54
﹃陪 書 ﹄ 西 域 伝 の波 斯 国 (
サ サ ン朝 ペ ル シ ア ) 条 に は 、 煬 帝 が 朝 貢 を 促 す 使 者 と し て李昱 を 派 遣 し た こ と が 記 さ れ て い
(
掲 但 ) 条 に つぎ の よう な ﹃西 蕃 記 ﹂ の 一文 が
る が 、 李 豊 も 章 節 と 同 じ 一行 の メ ン バ ー であ った 可 能 性 が あ る。 一行 は そ れ ぞ れ 分 担 し て ペ ル シ ア やイ ン ド を 含 む 西 域
諸 国 を 歴 訪 し 、 情 報 の収 集 にあ た った と お も え る。 ﹃
通 典 ﹄ 辺 防 、 轍?
引 用 さ れ て いる 。 ﹁章 節 ﹃
西 蕃 記﹄ 云 。 親 問 其 国 人 、 並 自 称 把 聞 。 (章 節 が そ の国 の人 た ち に直 接 た ず ね る と 、 み な ロ を
そ ろえ て自 分 た ち は エフ タ ル (
把 關 ) であ る と いう 。)﹂ エ フ タ ル に つ い て さ ま ざ ま な 漢 字 表 記 、 出 自 説 が あ り 、 章 節 は
現 地 で エ フ タ ル人 を つか ま え 、 当 人 た ち が 実 際 に 何 と 発 音 し て いる か確 か め た の で あ ろ う 。 (ア フガ ニ スタ ン の西 北 部
バ ダ フシ ャ ン に は 現 在 に も ヤ フ タ ル と いう 地 名 が 残 って い る。 小 谷 仲 男 一九 六 六 "四 〇 〇 ∼ 四 〇 二 ) ﹃
階 書﹄ 西域伝 に
は そ の よう な 現 地 に 赴 い て収 集 し た 材 料 が 含 ま れ てお り 、 そ の内 容 に は 前 代 に 見 ら れ な い新 鮮 さ が あ る。 し か し 、 そう
し た 情 報 収 集 の第 一の目 的 は 先 に 述 べ た と お り 、 北 方 の遊 牧 民 族 、 と り わ け 突 厥 の動 静 を さ ぐ る た め のも の で あ った 。
次 に ﹃(北 ) 周 書 ﹄ 異 域 伝 に つ い て述 べ る 。 北 周 書 の外 国 伝 に 関 す る 列 伝 は 巻 四 十 九 、 異 域 (上 ) と 巻 五 十 、 異 域
(
サ サ ン朝 ペ ル シ ア) ま で の 十 力 国 で
(下 ) のみ であ る 。 東 夷 、 南 蛮 伝 に相 当 す るも のが 異 域 (上 )、 北 秋 、 西 戎 ・西 域 伝 に相 当 す る も の が 異 域 (下 ) に 載 せ
ら れ る。 今 回 、 訳 注 し た の は 異 域 (
下 ) の突 厥 を 除 いた 残 り の吐 谷 渾 か ら 波 斯 国
あ る 。 突 厥 を 除 いた のは 、 そ れ が 北 秋 に 属 す る の と 、 す で に 山 田 信 夫 (一九 七 二 "二九 ∼ 三 八 ) の 訳 注 が 存 在 す る か ら
で あ る。 な お、 異 域 伝 全 体 に付 さ れ た 序 と 、 巻 末 の ﹁史 臣 日 ﹂ は今 回 の 訳 注 に加 え た 。 ﹃
周書﹄ の取り上げ る西 域十 力
(五 七 七 年 )、 一番 大 き
国は、 ﹃
階 書 ﹄ 西 域 伝 の 二 十 三 力 国 に 比 べ て半 数 にも 満 た な い。 や は り 中 国 中 世 の 分 裂 状 況 を 反 映 し た と いえ る 。 そ の
中 に あ って ﹁吐 谷 渾 ﹂ が 他 国 に 比 べ て 詳 細 な の が 特 異 であ る 。 階 が 南 朝 最 後 の 陳 を 滅 ぼ し た 時
(
甘 粛 ) へ、 さ ら に そ こ か ら 江 南 の南 朝 へと 通 ず る 独 自 の交 易 ル ー ト を 開 拓 し 、
な 打 撃 を 被 る の が 吐 谷 渾 で あ る。 吐 谷 渾 は 青 海 地 方 に 拠 点 を 置 く 牧 畜 生 活 の 民 族 で、 地 の 利 に よ って 青 海 か ら 都 善
(ロ ー ラ ン) へ、 ま た 青 海 か ら 河 西 回廊
訳注
『
階書 』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異 域伝(下)の
55
そ れを 掌 握 し て いた 。 河 西 回 廊 か ら 北 朝 に行 く こ と も 容 易 であ った 。 背 後 に は のち の 吐 蕃 (チ ベ ット ) が 控 え て いた は
ず で あ る が 、 吐 谷 渾 が 健 在 で あ る限 り 、 シ ル ク ロー ド 交 易 には 参 加 でき な い。 北 魏 か ら 北 周 の時 代 が 吐 谷 渾 の全 盛 期 で
あ った 。
(
周 書 )﹄、 ﹃
階 書 ﹄ 吐 谷 渾 伝 の 訳 注 が 含 ま れ る。 ま た 、 ﹃周 書 ﹄ 異 域 (下 ) に つ い て は 、 ζ臼Φ5 国oく ︾口脅 ①妻ω
こ の吐 谷 渾 に 深 い思 い 入 れ を 持 って 歴 代 正 史 の吐 谷 渾 伝 を 英 訳 し た の が ζ oす Ω鋤訂 一
①一
冨 (
一〇刈O) であ る 。 そ こ に は
﹃北 史
(一㊤$ ) の英 訳 が あ る 。 そ れ は 異 域 (下 ) の突 厥 、 吐 谷 渾 を 除 く 、 残 り 九 力 国 に つ い て訳 注 し た も の で あ る。 護 濠 Nは
翻 訳 に 取 り 組 ん だ 理 由 を 、 中 国 人 が 書 き 記 し た 西 域 諸 国 の珍 し い記 事 そ のも のよ り も 、 そ こ に 反映 す る中 国 人 の伝 統 的
歴 史 観 の ほ う に よ り 興 味 が ひ か れ る と 説 明 す る。 私 た ち も 中 国 正 史 の西 域 伝 を 訳 注 し な が ら 、 そ れ が 私 た ち 外 国 人 に
と って 中 国 人 の 歴 史 観 や世 界 観 を 、 ま た そ の変 化 を 知 る格 好 な 史 料 で あ ると 実 感 す る の で 、 そ の見 方 に は 同 感 であ る 。
≦ 濠 Nが 翻 訳 の底 本 に し た の は百 柄 本 であ った 。 テ キ スト の校 勘 に苦 心 し た と いう が 、 ま だ 中 華 書 局 の ﹃周 書 ﹂ が出 版
さ れ て いな か った 時 期 で あ る。 今 、 中 華 書 局 本 ﹃周 書 ﹄ 異 域 (下 ) の校 勘 記 と ﹃
階書 ﹄ のそ れと比 較す ると 、 ﹃
周書 ﹄
校 勘 記 の ペー ジ 数 が 圧 倒 的 に多 い こと に 気 づ く 。
今 回 の訳 注 にあ た って私 た ち が 使 用 し た テ キ スト は 前 回 と 同 様 に 中 華 書 局 出 版 の標 点 本 (
階 書 一九 七 三年 版 、 周 書 一
九 七 一年 版 ) であ る。 そ の ほ か ﹃
歴 代 各 族 伝 記 会 編 ﹄ 第 二 編 下 、 中 華 書 局 出 版 一九 五 九 年 、 ﹃
中 西交通史 料彙編 ﹄第 五
冊 、 世 界 書 局 一九 六 九 年 、 余 太 山 撰 ﹃両 漢 魏 晋 南 北 朝 正 史 西 域 伝 要 注 ﹄ 中 華 書 局 出 版 二 〇 〇 五年 を参 照 し た 。
56
﹃
階 書 ﹂ 巻 八 十 三 西域 伝
西域 伝序
(タ ン グ ー ト )
(
と よく こ ん)
党項
(ト ル フ ァ ン)
吐谷 渾
高昌
康 国 (サ マ ル カ ン ド )
安 国 (ブ ハ ラ)
石 国 (タ シ ュ ケ ン ト )
疏勒
亀弦
焉誉
(
ホ ータ ン)
(
カ シ ュガ ル)
(
ク チ ャ)
(
カ ラシ ャー ル)
女国
干閲
23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12
﹃
階 書﹄ 西域 伝訳 注細 目
11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
鐙汗
(フ ェル ガ ナ )
(
ト カ ラ)
(エ フ タ ル )
吐火 羅
抱但
米 国 (マイ ム ル グ )
史 国 (キ ッシ ュ)
曹 国 (イ ス テ ィ ー カ ー ン )
(ア ン フ オ イ )
何 国 (ク シ ャ ー ニ ー ヤ )
烏 那局
漕国
波斯
(
プ ー、ピ ャー ユル)
(
カ ーピ シー )
(ペ ル シ ア )
穆 国 (ア ー ム ル )
附国
訳注
『
階 書』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異 域伝(下)の
57
西域伝序
前 漢 の時 代 にな って 、 初 め て 中 国 と 西 域 と の通 交 が 開 か れ た 。 当 初 、 西 域 諸 国 は 三 十 六 国 であ った が 、 そ の後 、 五十
五 の王 国 に 分 立 し た 。 前 漢 は 西 域 に 校 尉 と 都 護 の官 職 を 設 置 し 、 鎮 撫 に あ た ら せ た 。 王 葬 が 帝 位 を 纂 奪 す ると 、 西 域 諸
国 と の 通 交 は 杜 絶 し た 。 後 漢 時 代 に な る と 、 班 超 が 通 交 を 開 いた 西 域 諸 国 は 五 十 国 あ ま り と な り 、 西 は 西 海 (イ ン ド
洋 ・地 中 海 ) に ま で達 し 、 東 西 は 四 万 里 、 そ の間 の諸 国 が み な朝 貢 に や ってき た 。 そ こ で 再 び 都 護 お よ び 校 尉 を 設 置 し 、
共 同 し て西 域 の統 治 に あ た ら せ た。 そ の後 、 西 域 と の 通 交 は 杜 絶 し た り 、 開 通 し た り の不 安 定 な 状 況 と な り 、 後 漢 朝 廷
は 西 域 と の通 交 が 中 国 に と って重 荷 と な る こ と か ら 、 西 域 の官 職 も 時 に廃 止 し 、 時 に は 復 活 さ せ ると いう 事 態 と な った 。
魏 晋 以 降 にな る と 、 西 域 諸 国 は 互 いに 併 呑 、 攻 滅 し あ い、 詳 細 に 記 述 す る こ と が で き な い (﹃
西域 図記﹄序 、 ﹃
階 書﹄巻
六 七 斐 矩 伝 引 用 )。
(
ガ ン ダ ー ラ ・カ シ ミ ー ル) に 至 って瑪瑙 杯 を 入手 し 、 王舎 城 (ラ ー ジ ャ グ リ ハ) で は 仏 教 経 典 を 入
階 煬 帝 の治 世 (
六 〇 四 ∼ 六 一八) に な ると 、 煬 帝 は侍 御 史 の章 節 と 司 隷 従 事 の杜 行 満 を 西 域 諸 国 に使 者 と し て派 遣 し
た。 かれらは厨賓
手 した。また史 国 (
キ ッシ ュ) で舞 女 十 人 、 師 子 (ラ イ オ ン) 皮 、 火 鼠 毛 (ア ス ベ スト ) を 入手 し て帰 還 し た 。 煬 帝 は
ま た 聞喜 公 の斐 矩 に命 じ 、 武 威 と 張 掖 の間 を 往 来 し 、 そ こ を 訪 れ る 西 域 の 人 々を 中 国 へ誘 致 さ せ た 。
当時 、西域 には君長 (
国 王 ) を 有 す る 国 が 四十 四 存 在 し た 。 斐 矩 は そ れ ら の使 者 が 中 国 に朝 貢 す る さ いに多 大 な 利 益
を む さ ぼ ら せ 、 朝 貢 が 有 利 で あ る こと を 互 いに言 い ふら さ せ た 。 大 業 年 間 (六 〇 五 ∼ 六 一七 ) に は 、 連 れ だ って朝 貢 に
訪 れ る諸 国 の使 者 が 三 十 鯨 国 に の ぼり 、 煬 帝 は西 域 校 尉 を 設 置 し て使 者 の応 接 に あ た ら せ た 。 そ の後 ま も な く 、 中 国 は
大 乱 状 態 と な り 、 朝 貢 は つ いに 途 絶 え て し ま った 。 し か も 西 域 関 係 の記 録 が 多 く 亡 失 し 、今 、 記 録 の存 在 す る も の は 二
十 国 の み で あ る。
注
五 ∼ 一二 八 を 参 照 。
(
1 ) 斐 矩 に つ い て は ﹃階 書 ﹄ 巻 六 七 斐 矩 伝 を 参 照 。 彼 の 著 述 し た ﹃西 域 図 記 ﹄ 三 巻
(
とよく こん)
風 一九 七 三 " =
吐谷渾
(
宋 代 に散 逸 ) に つ いて は、 内 田吟
(ペ ル シ ア) の草 馬 を 手 に 入 れ て青 海 に は な ち 、 そ れ で 騙 (
あ し げ ) の 駒 を 産 ま せ た 。 そ の 駒 は 一日 に千 里 を 行 く 事 が
小 山 が あ り 、 そ の国 の 習 俗 で は冬 に な る と 雌 馬 を 小 山 の上 に は な ち 、 龍 種 の駒 を 得 る と 言 わ れ た 。 吐 谷 渾 は か つ て波 斯
も 終 了 し た。 吐 谷 渾 人 の性 格 は み な 貧 欲 で残 忍 であ った 。 大 麦 、 粟 、 豆 を 産 し た 。 青 海 は 周 囲 が 千餘 里 で、 そ の湖 中 に
犯 し た も の は 物 を 徴 発 さ れ て瞭 罪 し た 。 風 俗 は 突 厥 と 非 常 に似 て い る。 喪 服 の制 度 が あ り 、 葬 儀 が終 わ る と 服 喪 の期 間
公 や貴 人 は多 く 罧 羅 (べ き ら ) を 頭 に か ぶ り 、 婦 人 は 裾襦 (パ ン タ ロ ンと 丈 の短 い 上 着 ) を 着 て 辮 髪 に し 、 珠 貝 を つ
つ って髪 を 飾 った 。 そ の国 に は 常 税 が な か った 。 殺 人 を 犯 し た も のと 馬 を 盗 んだ も のは 死 刑 に 処 さ れ 、 そ れ 以 外 の罪 を
将 軍 が あ った 。 国 王 は 黒 絹 の帽 子 を か ぶ り 、 妻 は 金 の花 を 頭 に 戴 いた 。 そ の武 器 ・衣 服 は 中 国 と ほ ぼ 同 じ であ った 。 王
に は 城 郭 は あ った が 、 吐 谷 渾 人 は そ の中 に は 住 ま ず 、 水 と 草 を 追 い求 め て移 動 し た 。 官 職 に は 王 公 、 僕 射 、 尚 書 、 郎 中 、
北 周 に か け て の時 代 に 、 吐 谷 渾 は は じ め て 可 汗 を 称 し た 。 伏 侯 城 を 都 と し た 。 そ れ は 青 海 の西 十 五 里 の地 に あ った 。 城
白 蘭 山 に 限 ら れ る数 千 里 の 地 に と ど ま った (
現 在 の青 海 省 東 部 )。 そ の後 、 吐 谷 渾 の名 を と って 国 名 と し た 。 北 魏 か ら
仲 が 悪 く 協 力 でき な か った の で、 吐 谷 渾 は 西 に移 動 し 、 朧 (
朧 山 ) を 越 え て 、 甘 松 山 (甘 粛 省 ) の南 、 挑 水 の西 、 南 は
吐 谷 渾 は 、 も と も と 遼 西 の鮮 卑 の徒 河 渉 帰 の子 で あ る。 渉 帰 に は 二 人 の子 が あ り 、 長 男 が 庶 子 の吐 谷 渾 、 嫡 子 が次 男
の若 洛 魔 で あ った。 渉 帰 が 亡 く な った 後 、 若 洛? が 継 承 し て 部 衆 を す べた 。 こ れ は 慕 容 氏 であ った 。 吐 谷 渾 と 若 洛 魔 は
m
訳注
『
階書 』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異 域伝(下)の
59
でき た 。 そ れ で こ の駒 を ﹁青 海 馳 ﹂ と 言 った 。 葎 牛 (ヤ ク ) が多 く 、 饒 銅 、 鉄 、 朱 沙 (
朱 ) を 多 く 産 し た 。 そ の土 地 は
郵 善 (ロ ー ラ ン)、 且 末 (チ ェル チ ェ ン) を 兼 併 し て いた 。 西 北 に は 流 砂 が 数 百 里 あ り 、 夏 に は 熱 風 が 吹 い て、 旅 人 を
傷 つけ 死 亡 さ せ た 。 砂 風 が吹 く 時 、 老 いた ラ ク ダ が あ ら か じ め こ れ を 察 知 し 、 首 を 引 い て、 いな な く と 、 他 の ラ ク ダ が
(
位 臼五 三 五 ∼ 五 九 一) は 、 北 周 時 代 に し ば し ば 辺 境 に 侵 攻 し た 。 階 の 開皇 初 年 に も 兵 を 率 い て弘
集 り 、 口 と 鼻 を 砂 の中 に埋 め る 。 人 は こ れ を 見 て熱 風 の到 来 を 察 し 、 絨 毯 で 口 と 鼻 を お お って 熱 風 の災 いを 避 け た 。
吐 谷 渾 の王 の呂 夸
州 (
甘 粛 省 ) に侵 攻 し た 。 高 祖 (
文 帝 楊 堅 ) は 、 弘 州 の地 が 広 漠 と し て いて 人 も 荒 々 し い の で 、 弘 州 を 廃 止 し た 。 そ し
て 文 帝 は 上 柱 国 の 元 譜 に歩 兵 ・騎 兵 数 万 を 統 率 さ せ て吐 谷 渾 を 討 伐 さ せ た 。 賊 (11吐 谷 渾 ) は 国 中 の兵 を 徴 発 し て こ れ
こ
を 迎 え 撃 った が 、 曼 頭 か ら 樹 敦 に 至 る ま で吐 谷 渾 の甲 騎 (11鎧 づ く め の騎 兵 ) が と だ え な か った 。 吐 谷 渾 の河 西 総 管 、
定 城 王 の鍾 利 房 、 太 子 の可 博 汗 が 、 あ い前 後 し て 応 戦 し 、 階 の軍 勢 を 拒 んだ 。 元 譜 は何 度 も 吐 谷 渾 軍 を 撃 破 し 、 捕 虜 ・
斬 首 は 甚 だ 多 か った 。 呂 夸 は 大 いに 恐 れ 、 親 衛 隊 を 率 い て遠 く に 逃 亡 し た 。 吐 谷 渾 の名 王 (
異 姓 の王族 )十 三人 は、
各 々 の統 べ る と こ ろ の部 落 を 率 い て降 服 し た 。 文 帝 は 、 高 寧 王 の移 薙 哀 が 吐 谷 渾 人 の人 望 を 得 て いた の で彼 を 大 将 軍 と
な し 、 河 南 王 に 封 じ て 降 服 し た吐 谷 渾 人 を 統 べ さ せ た 。 そ の他 の吐 谷 渾 人 にも そ れ ぞ れ官 職 ・賞 与 を 与 え た 。 し か し 、
こ れ よ り 何 ほ ど も 経 過 し な いう ち に 吐 谷 渾 が ま た 侵 攻 し た の で 、 旭 州 刺 史 の皮 子 信 は 出 撃 し て こ れ を 食 い止 め た 。 け れ
ど も 賊 (11吐 谷 渾 ) に よ って撃 破 さ れ 、 皮 子 信 は 戦 死 し た 。? 州 総 管 の梁 遠 が 、 精 鋭 を 率 い て吐 谷 渾 軍 を 撃 破 し 、 千 絵
の首 級 を あ げ る と 、 吐 谷 渾 は 奔 走 し た 。 し か し 吐 谷 渾 が ま た 廓 州 に侵 攻 し た の で 、 廓 州 の 兵 が こ れ を 撃 退 し た 。
呂 夸 は 吐 谷 渾 王 の位 に あ る こ と 百 年 であ った が、 し ば し ば 喜 怒 哀 楽 に よ って太 子 を 廃 し て 殺 害 し た 。 そ の 後 、 太 子 は
廃 さ れ る こと を 恐 れ 、 呂 夸 を 捕 え て 階 に降 服 し よ う と 謀 り 、 階 の辺 吏 に 援 軍 を 要 請 し た 。 秦 州 総 管 の河 間 王 弘 は 兵 を 率
いて吐 谷 渾 太 子 に 呼 応 し よ う と 許 可 を 求 め た が 、 文 帝 は これ を 許 さ な か った 。 太 子 の陰 謀 は 露 見 し 、 父 の呂 夸 に 殺 さ れ
60
(
五 八 六 )、 鬼 王 詞 は 父 親 か ら誅 殺 さ れ る こ と を 恐 れ 、 部 落 一万 五 千 戸 を 率 い て階 に 帰
た 。 呂 夸 は末 子 の嵬 王訶 を 太 子 に し た 。 畳 州 刺 史 の杜粲 は 、 そ の隙 に 乗 じ て吐 谷 渾 を 征 伐 し た いと 請 願 し た が 、 文 帝 は
こ れ も 許 さ な か った 。 開 皇 六 年
順 し よう と 謀 り 、 使 者 を 朝 廷 に 派 遣 し 、 軍 隊 を 出 し て迎 え に来 て く れ る よ う に 請 願 し た 。 文 帝 は侍 臣 に向 か って 、 ﹁吐
谷 渾 の風 俗 は 中 国 と 異 な る 倫 理 観 で あ り 、 父 に は慈 愛 の心 が な く 子 も ま た 不 孝 で あ る。 朕 は 徳 を も って人 に 諭 し て いる 。
どう し て悪 逆 を な す も のを 助 け よ う か 。 私 は 当 然 、 道 義 を も って彼 ら を 教 化 す る だ け で あ る ﹂ と 言 った 。 そ し て、 鬼 王
詞 の使 者 に 向 か って言 った 。 ﹁朕 は 天 よ り 命 を 受 け 、 四 海 を 撫 育 し て き た 。 す べ て の人 民 を 仁 義 に よ って、 お 互 い に向
き 合 わ せ る事 が 朕 の 望 み であ る 。 ま し て 、 父 子 と し て の天 性 が あ れ ば 、 ど う し て互 いに 親 愛 し な い こと が あ り え よう か 。
吐 谷 渾 の王 は嵬 王訶 の父 であ り 、嵬 王訶 は吐 谷 渾 の 太 子 であ る 。 父 親 に 不 正 が あ れ ば 、 子 が こ れを 諌 め る べ き であ る。
も し 子 が 諌 め ても 父 が 従 わ な い の であ れば 、 近 親 や親 戚 や内 外 のも の に 命 じ て遠 ま わ し に 諭 さ せ る べき で あ る 。 そ れ で
も だ め な ら 、 泣 い て 王 を 導 く べ き で あ る。 人 に は み な 情 が 備 わ って お り 、 必 ず 感 じ 入 り 悟 る は ず で あ る。 密 か な は か り
ご と や 非 法 に よ って 、 不 孝 の名 を受 け る べ き では な い。 あ ま ね く 広 が る 天 のも と 、 みな 、 す べ て朕 の臣 妾 で あ る 。 各 々
が善 事 を な せ ば 、 朕 の 心 に叶 う ので あ る。嵬 王 はす で に 親 愛 の情 が あ って、 朕 に 投 降 し た いと 望 ん で い る。 朕 は た だ 、
王嵬
を 教 化 し て臣 下 ・父 子 と し て の法 を な さ せ た いだ け であ る 。 遠 方 に 軍 隊 を 派 遣 し て悪 事 を 助 け る よ う な こ と は で き
な い。﹂ 文 帝 の言 葉 を 聞 いて 、嵬 王訶 は 階 への帰 順 を や め た 。 開 皇 八 年 (五 八 八 )、 名 王 の拓 抜 木 彌 が 千 絵 家 を 率 いて帰
化 し た いと 請 願 し てき た 。 文 帝 は 言 った 。 ﹁あ ま ね く 広 が る 天 のも と 、 み な 朕 の臣 下 であ る 。 荒 遽 を 服 属 さ せ た と い っ
ても 、 いま だ に 風 教 を 知 ら な い。 朕 の撫 育 は 仁 と 孝 を 根 本 に し て い る。 吐 谷 渾 の賊 は 暗 く 狂 って いる 。 妻 子 は 恐 怖 を い
だ き 、 と も に階 への帰 化 を 希 望 し 、 自 ら 危 亡 を 救 お う と し て いる 。 し か し 、 夫 に叛 き 父 に背 く も のを 受 け 入 れ る わ け に
は いか な い。 ま た 、 そ の本 意 が 、 ま さ し く 自 ら 死 を 回 避 す る こ と に な る な ら ば 、 も し いま 拒 め ば 、 こ れ も ま た 不 仁 であ
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
61
る。 も し 、 も う 一度 請 願 し てく る な ら ば 、 朕 は た だ 慰 撫 す る にと ど め よ う 。 そ し て 彼 ら 自 身 で 解 決 す る こ と に任 せ 、 軍
隊 を 出 撃 さ せ て応 じ る 必 要 は な い。 吐 谷 渾 王 の妹 の夫 や 甥 が 自 発 的 に 来 た いと 望 む な ら 、 そ の意 に任 せ る のが よ い。 こ
ち ら か ら 進 ん で亡 命 す る よう に 誘 わ な い。﹂
こ の年 、 河 南 王 の移 弦 哀 が 亡 く な った の で 、 文 帝 は河 南 王 の弟 の樹 帰 に命 じ て河 南 王 の衆 を 統 べさ せ た 。 階 が 陳 を 平
定す る (
五 八 九 年 ) と 、 そ の 後 、 呂 夸 は 階 の こ と を 大 い に恐 れ 、 険 要 の 地 に 逃 亡 し 、 決 し て階 に侵 攻 し よ う と は し な
か った 。
開 皇 十 一年 (五 九 一)、 呂 夸 が 亡 く な り 、 息 子 の世 伏 が 即 位 し た 。 世 伏 (位 "五 九 一∼ 五 九 七 ) は 兄 の子 の無 素 を 派
遣 し 、 表 を 奉 って 藩 屏 と 称 し 、 特 産 物 を 献 上 し て 娘 を 後 宮 に 献 上 し た いと 請 願 し てき た 。 文 帝 は、 傍 に いた 縢 王 に 向
か って 言 った 。 ﹁こ れ は 至 誠 (
ま こ と ) で は な い。 た だ 計 を 急 い で いる だ け であ る 。﹂ そ れ か ら 文 帝 は 無 素 に 言 った 。
﹁朕 は 吐 谷 渾 の王 が 娘 に命 令 し て 朕 に仕 え さ せ た が って い る こ と を 知 って い る。 し か し 、 も し 、 吐 谷 渾 王 の請 願 を 認 め
て 娘 を 後 宮 に 入 れ た な ら ば 、 他 の国 も こ れ を 聞 い て、 こ の よう な や り 方 を 真 似 し よ う と す る であ ろ う 。 一つを 許 し 、 一
つを 却 下 す る 。 そ ん な こ と を し た ら 不 公 平 と いう も の であ る 。 も し 、 み な の請 願 を す べ て 許 し た な ら ば 、 こ れ は 良 い方
(
位 u五 九 七 ∼ 六 三
(五九 六 )、 光 化 公 主 を 世 伏 に 降
法 で は な い。 朕 の希 望 は 、 彼 ら が 安 養 に自 在 に生 き る こと に あ る。 どう し て娘 を 集 め納 め 入 れ て後 宮 を 満 た す こと が で
(
五 九 二 )、 刑 部 尚 書 の宇 文 轍 を 遣 わ し て吐 谷 渾 を 慰 撫 し た 。 開 皇 十 六年
き よ う か 。﹂ そ う 言 って文 帝 は と う とう 無 素 の請 願 を 許 さ な か った 。
開 皇 十 二年
嫁 さ せ た 。 世 伏 は 上 表 し 、 公 主 のこ と を 天 后 と 称 し た いと 言 った が 、 文 帝 は 許 さ な か った 。
翌 年 、 吐 谷 渾 内 で大 乱 が お こ り 、 国 人 は 世 伏 を 殺 害 し て弟 の伏 允 を 吐 谷 渾 王 に し た 。 新 王 の伏 允
五 ) は 使 者 を 派 遣 し 、 王 を 廃 立 し た こと を 陳 述 し 、 専 命 の罪 を 謝 し 、 彼 ら の風 習 に 従 って 光 化 公 主 を 妻 に し た いと 請 願
62
ヱ
し て き た の で、 文 帝 は こ れ を 許 可 し た 。 こ れ 以 後 、 吐 谷 渾 か ら の朝 貢 は 毎 年 行 わ れ 、 国家
き た の で、 文 帝 は そ の こ と を 非 常 に 憎 んだ 。
(
階 ) の様 子 を 聞 き た だ し て
煬 帝 が 即 位 す ると 、 伏 允 は息 子 の順 を 入貢 さ せ た 。 こ の こ ろ 、 鉄 勒 (テ ユル ク ) が 塞 を 攻 め てき た の で 、 煬 帝 は将 軍
の爲 孝 慈 を 敦 煌 か ら 出 撃 さ せ 、 鉄 勒 の襲 撃 に 備 え さ せ た 。 爲 孝 慈 は 、 戦 った が 敗 北 し た 。 鉄 勒 が 使 者 を 派 遣 し て煬 帝 に
謝 罪 し 降 服 を 願 った の で 、 煬 帝 は 黄 門 侍 郎 の装 矩 を 遣 わ し て鉄 勒 を 慰 撫 さ せ 、 そ し て鉄 勒 に 吐 谷 渾 を 攻 撃 し て 誠 を 尽 く
す よう 遠 ま わ し に 諭 さ せ た 。 鉄 勒 は そ れ を 承 諾 し 、 兵 を 率 いて吐 谷 渾 を 襲 撃 し て 大 い に こ れ を 打 ち 破 った 。 伏 允 は 東 に
逃 走 し 、 西 平 の国 境 地 帯 を 保 持 し た 。 煬 帝 は ま た 観 王 雄 を 澆 河 よ り 出 撃 さ せ 、 許 公 の宇 文 述 を 西 平 か ら 出 撃 さ せ て観 王
を 援 護 さ せ て大 い に伏 允 を 破 った。 伏 允 は 遁 走 し 、 吐 谷 渾 の部 落 のう ち 来 降 す るも の は十 万 飴 人 、 六 畜 は 三 十 絵 万 頭 に
も 及 ん だ 。 宇 文 述 は 時 を お か ず に伏 允 を 追 撃 し た の で 、 伏 允 は恐 れ 、 南 に 逃 走 し て 山 谷 の 間 に 逃 げ 込 ん だ 。 こ のた め 吐
谷 渾 の故 地 は空 と な り 、 西 平 の臨 完 城 以 西 、 且 末 以 東 、 祁 連 山 以 南 、 雪 山 以 北 の、 東 西 四 千 里 、 南 北 二千 里 は 、 み な 階
す の領 地 に な った 。 煬 帝 は そ の地 に 郡 県 と 鎮 戍 を 設 置 し 、 天 下 の罪 の 軽 い罪 人 達 を そ の地 に 移 し て 住 ま わ せ た 。 煬 帝 は 、
順 を 階 に 留 め て吐 谷 渾 に 帰 さ な か った 。 一方 、 逃 亡 し た 伏 允 は自 分 で食 料 を 調 達 す る こと が で き ず 、 部 下 数 千 騎 を 率 い
て党 項 (タ ン グ ー ト ) に亡 命 し た 。 煬 帝 は 順 を 立 て て吐 谷 渾 の王 と し 、 玉 門 ま で順 を 送 り 出 し て、 吐 谷 渾 の余 衆 を 統 べ
さ せ た 。 ま た 、 大 寶 王 の 尼 洛 周 を 補 佐 役 に任 じ た 。 し か し 、 順 の 一行 が 西 平 にま で 来 た と こ ろ で部 下達 が 尼 洛 周 を 殺 し
た の で 、 順 は 帰 国 す る こと が でき な か った 。 大 業 の末 、 天 下 が 乱 れ た の で 、 伏 允 は そ の隙 に吐 谷 渾 の故 地 を 回復 し 、 し
ば し ば 河 西 に侵 攻 し た 。 そ のた め (
煬 帝 の置 いた ) 郡 県 は これ を 防 御 す る事 が でき な か った。
吐 谷渾王 の系 図 (
在位年 )
呂 夸 (五 三 五 ∼ 五九 こ
ラ主
2↑
一. 世伏
(
五 九 一∼ 五 九 七 )
﹃
資 治 通鑑﹄ 巻 一七 八 よれ ば開皇 十 七年 (
五 九七 ) のこと。
﹃資治 通鑑﹄ 巻 一七 七 によ れば 開皇 十 一年 (
五九 一) のこと。
) ) 宮!ラ
伏 允 (五 九 七 ∼ ∼ 六 三 五 )
世伏 の名 は、 太宗 李世 民を 忌 み、 ﹁伏﹂ とな って いる。
順 (六 三 五)
後 藤 勝 一九 五 六 "二七 、佐 藤長 一九 七 八 の第 三章 ﹁吐 谷 渾 におけ る諸根 拠 地﹂ (二三五 頁) を参 照。
曼 頭 と樹敦 は 、青 海 の南 にあ る曼頭 山と 樹敦 城 のこと 。佐 藤長 一九七 八 の第 五図 ﹁吐谷 渾 関係略 図 ﹂ を 参 照 。
﹃周書﹄ 巻 五 〇吐谷 渾伝 では ﹁必要 な時 には 富豪 や商 人 に課税 し た﹂ とあ る。
﹃
晋書﹄ 巻 九 七吐谷 渾伝 では ﹁慕容? ﹂。
) ) ) )
ト6写?写!一
﹃
階 書﹄ 巻 二四食 貨志 、 巻 二九地 理志 にも 見え る。
﹃
資 治 通鑑﹄ 巻 一八 一によ れば大 業 四年 (
六 〇 八) のこと。
) ) す
党 項 羌 は 、 三 苗 の後 裔 であ る 。 そ の種 族 に は 、 宕 昌 、 白 狼 が あ り 、 み な? 猴 (サ ル) の族 であ る と 自 称 し て いた 。 東
党 項 (タ ング ー ト)
) 訳注
63 『
階 書』 西域 伝 、 『
周書 』 異 域伝(下)の
64
は臨 挑 、 西 平 に 接 し 、 西 は 葉 護 (西 突 厥 ) と 対 立 し た 。 そ の 地 は 南 北 の長 さ 数 千 里 で、 山 谷 の間 に 暮 ら し て いた 。 姓 ご
と に 分 か れ て 部 落 を な し 、 大 き い部 落 は 五 千 餘 騎 、 小 さ い部 落 は 千 餘 騎 であ った。 楚 牛 (ヤ ク) の 尾 や 粘 握 (羊 ) の毛
を 織 って家 屋 (テ ン ト ) を 造 った。裘 褐 (
皮 衣 と 粗 い繊 維 の着 物 ) を 着 用 し 、 毛 織 物 を は お って上 着 に し て いた 。 そ の
(ヤ ク )・羊 ・猪 (ブ タ ) を 飼 育 し て食 用 と し 、 農 業 を 知 ら な か った 。 そ の風
風 俗 は 武 力 を 尊 び 、 法 令 が な く 、各 々が 生 業 を な し て いた が 、 い った ん 戦 争 が あ れ ば 、 互 いに 集 って き た 。 夫 役 と 租 税
が な く 、 お 互 いに 往 来 し な か った 。 楚 牛
俗 は淫 ら で卑猥 で、 上 も 下 も 淫 乱 で 、 諸 蛮 の 中 では 最 も 甚 だ し か った 。 文 字 が な く 、 た だ 草 木 の成 長 を 観 察 し歳 月 を 記
し た 。 三 年 に 一度 集 会 を し 、 牛 と 羊 を 殺 し て 天 を 祭 った 。 人 が 八 十 歳 以 上 で亡 く な れ ば 、 立 派 な 死 に方 を し た と いう こ
と で親 戚 も 泣 か な か った 。 し か し幼 く し て 死 ぬ と 、 大枉 と い って 親 戚 達 が 一緒 に悲 し ん で泣 いた 。 楽 器 に は 琵 琶 ・横 笛
が あ り 、 缶 を 叩 い て節 を と った 。
北魏 から北周 にかけ て、党項 はしばしば中 国辺境を襲 撃した。 高祖 (
文 帝 楊 堅 ) が 北 周 の 丞 相 であ った 時 、 中 原 に事
変 が 多 く 、 こ れ に 乗 じ て党 項 は 大 いに 略 奪 を 行 った 。 蒋 公 の梁 容 は 、 す で に 王 謙 を 平 定 す ると 、 軍 隊 を 還 し て党 項 を 討
伐 し た いと 請 願 し た 。 し か し 高 祖 は 許 可 し な か った。 開 皇 四 年 (五 八 四 )、 党 項 の 千 餘 家 が 階 に 帰 化 し た 。 開 皇 五 年
(
五 九 六 )、 党 項 は ま た 会 州 (甘 粛 省 ) に侵 攻 し た。 高 祖 は 詔 を 下 し
(五 八 五 )、 拓 跋 寧 叢 ら が 各 々部 衆 を 率 い て 旭 州 (甘 粛 省 ) に 至 り 、 内 附 し た 。 高 祖 は 拓 跋 寧 叢 に 大 将 軍 の位 を 授 け 、
部 下 達 に も そ れ ぞ れ 官 職 を 授 与 し た 。 開 皇 十 六年
て 朧 西 の軍 隊 を 出 動 さ せ て こ れ を 討 た せ 、 党 項 を 大 い に打 ち 破 った 。 党 項 は ま た 、 互 いに 部 衆 を 率 い て降 服 を 請 願 し 、
階 の臣 妾 に な り た いと 願 い、 子 弟 を 派 遣 し て入 朝 さ せ て 高 祖 に 謝 罪 し た 。 高 祖 は彼 ら に向 か って 言 った 。 ﹁帰 って 、 な
ん じ ら の父 兄 に語 る が よ い。 人 と し て 生 き るた め に は 定 住 し て、 老 人 を 養 い子 供 を 育 て る 必 要 が あ る。 郷 里 に戻 った と
思 った ら 出 てま た 行 き 、 そ のよ う な こ と で 郷 里 に 恥 じ な い のか 。﹂ と 。 こ れ 以 降 、 党 項 の朝 貢 は 途 絶 え な か った 。
注
(
1) ﹃
北 史 ﹄ 党 項 伝 は ﹁開 皇 元 年 ﹂ に な って い る 。
高 昌 (ト ル フ ァン)
高 昌 国 は 、 前 漢 の車 師 前 王 庭 の こ と で あ る。 敦 煌 を 去 る こ と 十 三 日 の行 程 で あ る。 東 西 は 三 百 里 、 南 北 は 五 百 里 で、
四 方 に は 大 き な 山 が 多 く あ る 。 昔 、 前 漢 の武 帝 が 軍 隊 を 派 遣 し て 西 方 を 討 伐 し た 時 、 軍 隊 が疲 弊 し て、 そ のう ち の最 も
(カ ラ シ ャー ル ) が 掘 恒 (エ
高 昌 の都 城 の周 囲 は 千 八 百 四 十歩 の大 き さ であ った 。 宮 殿 の居 室 に は 、 魯 の哀 公 が 孔 子 に 政 治 に つ い て問 う て いる場
な った 。 麹 嘉 が 死 ぬ と 、 息 子 の堅 が 即 位 し た 。
し た 。 麹 嘉 は 第 二子 を 派 遣 し て 焉 耆 王 と な し た 。 こ れ 以 降 、 麹 嘉 は 初 め て強 大 と な り 、 ま す ま す 国 人 が 服 従 す る よ う に
フタ ル) に 打 ち 破 ら れ た 。 焉 耆 の民 は自 ら 統 治 す る こ と が で き ず 、 麹 嘉 に 主 君 に な る べき 人 物 を 派 遣 し て ほ し いと 請 願
な った 。 茄 茄 の王 が高 車 に殺 さ れ ると 、 ま た 麹 嘉 は 高 車 に 臣 従 し た 。 丁 度 そ の と き 、 焉 耆
擁 立 し た 。 麹 嘉 は字 を 霊 鳳 と い い、 金 城 郡 楡 中 (甘 粛 省 蘭 州 ) の人 で あ った 。 即 位 す る と 、 ま た 茄 茄 (
柔 然 ) の臣 下 に
北 魏 に帰 順 し た 人 は 、 し か し 、 み な 故 国 を 恋 し が って東 に 移 動 す る こ と を 願 わ ず 、 と も に 馬 儒 を 殺 し 、 麹 嘉 を 王 と し て
と し 、 輩 顧 と 麹 嘉 の 二 人 を 左 右 の 長 史 に し た 。 太 和 二 十 一年 (四 九 七 )、 馬 儒 は ま た 北 魏 に遣 使 し て 帰 順 を 請 願 し た 。
が 立 った が 、 従 兄 の首 帰 に殺 さ れ た 。 首 帰 は 自 立 し て高 昌 王 に な った が 、 ま た 高 車 (テ ユル ク ) の阿 伏 至 羅 に殺 さ れ た 。
そ こ で 、 高 昌 の人 々 は 敦 煌 の 人 の張 孟 明 を 主 君 と し た 。 太 和 二 十 年 (四 九 六 )、 孟 明 が 国 人 に殺 さ れ た の で、 馬 儒 を 王
困 窮 し た も のが 、 高 昌 の地 に 定 住 し た の であ った 。 こ の 地 に は 漢 の時 代 の高 昌 塁 が あ り 、 そ れ に よ って 国 名 と し た 。 初
ユ め 、 和 平 元 年 (四 六 〇 )、 蠕 蠕 (柔 然 ) が 閾 伯 周 を 擁 立 し て高 昌 王 と し た 。 太 和 初 (
四 七 七 )、 伯 周 が 死 ぬ と 息 子 の義 成
訳注
『
階 書』 西 域 伝 、 『
周書 』 異 域 伝(下)の
65
面 が描 か れ て いた 。 国 内 に は 十 八 の 城 が あ った 。 官 吏 に は 、 令 サ が 一人 、 そ の次 に 公 が 二人 、 次 に左 右 の衛 、 次 に 八 人
(パ ン タ ロ ンと 丈 の短
の長 史 、 そ の次 に 五 人 の 将 軍 、 そ の 次 に 八 人 の 司 馬 、 次 が 侍 郎 、 校 郎 、 主 簿 、 従 事 、 省 事 が いた 。 大 事 は 王 が 決 し 、 小
事 は 、 王 の長 子 と 公 が 評 議 し て決 め 、 文 書 は使 用 し な か った 。 男 性 は 胡 服 を 着 用 し 、 婦 人 は裾 儒
い上 衣 ) を 着 け 、 頭 上 にま げ (髷) を 結 った 。 高 昌 の風 俗 や 政 令 は 中 国 と ほ と ん ど 同 じ であ った 。
従 った 。
う よ う に命 令 し た が 、 伯 雅 は 長 い こと 、 突 厥 の命 令 に 従 わ な か った。 突 厥 が強 要 し た ので 、 伯 雅 も やむ を え ず 、 こ れ に
開 皇 十 年 (五 九 〇 )、 突 厥 が 高 昌 の 四 城 を 打 ち 破 った の で 、 高 昌 か ら 二 千 人 が 中 国 に 逃 げ て き て帰 順 し た。 麹 堅 が 死
ヨ ぬ と 、 息 子 の伯 雅 が 即 位 し た 。 伯 雅 の祖 母 は も と も と 突 厥 可 汗 の娘 で あ った 。 父 親 が 死 ん だ の で 、 突 厥 は そ の風 俗 に従
は 往 来 す る 時 に は 、 そ の多 く が 伊 吾 (ハミ ) 路 を 利 用 し た。
そ の多 く は 死 ぬ か行 方 知 れず と な った。 お そ らく 、 こ の歌 声 や泣 き 声 は 、 魑 魅 魍 魎 の た ぐ いで あ ろう 。 そ こ で、 商 人 達
人 畜 の白 骨 を 目 印 に し て進 む 。 道 中 で は 、 あ る 時 に は 歌 声 や 泣 き 声 が 聞 こえ る が 、 旅 人 が こ れ を 頼 り に進 ん で行 く と 、
武 威 の西 北 か ら 近 道 が あ り 、 砂 漠 千 絵 里 を 越 え る と 、 四 方 は 荘 然 と し 、 小 道 の形 跡 も な い。 行 き た いと 望 む も のは 、
境 界 で あ った (﹃魏 書 ﹄ 巻 一〇 =局昌 伝 、 ﹃
北 史 ﹄ 巻 九 七 高 昌 伝 )。
り 、 山 の北 七 十 里 の所 に は貧 汗 山 (ボ グ ド ・オ ラ ) が あ り 、 夏 でも 積 雪 が あ った 。 こ の山 の 北 が 鉄 勒 (テ ユル ク ) と の
に 知 ら れ な い辺 鄙 な 場 所 で放 牧 し、 外 敵 の略 奪 を 避 け た 。 そ の場 所 は 高 昌 の貴 族 し か知 ら な か った 。 北 に は 赤 石 山 が あ
であ った 。 ブ ド ウ (葡 萄 ) 酒 を 多 く 産 し た 。 こ の国 の俗 は 天 神 に仕 え る と 同 時 に仏 法 を も 信 仰 し た 。 国 中 の羊 馬 は 、 人
羊刺 (
刺 蜜 ) と いう 名 の草 が あ り 、 そ の上 に蜜 が 生 じ 、 味 は と ても お いし い。 朱 の よう な 赤 塩 を 産 し 、 白 塩 は 玉 のよ う
そ の地 は 石 磧 が 多 く 、 気 候 は 温 暖 で 、 穀 物 や 麦 が 一年 のう ち に 二 度 稔 り 、 養 蚕 に適 し 、 五 果 (
果実 )を多く産出 した。
66
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
67
ざ
煬 帝 が 帝 位 を 継 承 す る と 、 諸 国 を 勧 誘 し て朝 貢 さ せ た 。 大 業 四 年 (六 〇 八 )、 高 昌 は 遣 使 朝 貢 し 、 煬 帝 は 高 昌 の使 者
を 非 常 に 丁 重 に待 遇 し た 。 翌 年 、 伯 雅 が 来 朝 し た 。 伯 雅 は高 句 麗 遠 征 に 従 軍 し 、 中 国 に帰 還 す る と 宗 室 の娘 華 容 公 主 を
ら 嬰 った 。 大 業 八 年 (六 一二) 冬 、 伯 雅 は 高 昌 国 に帰 り 、 国 中 に命 令 を 下 し て 言 った 。 ﹁そ も そ も 、 国 を 治 め 、 人 を 養 う
のは 、 保 全 を も って貴 き と し 、 国 を 安 寧 に し 、 政 治 を お さ め る のは 、 万 民 を 救 う 事 を も って 偉 大 と な す 。 か つて わ れ わ
れ は 荒 野 に 暮 し 、 国 境 は 檸 猛 な 夷 秋 に 連 な り 、 人 々は な ん ら 怪 し む こと な く (同 人 無 答 )、 蛮 族 の風 俗 に 従 って 被 髪 左
妊 し た 。 いま 大 いな る 階 帝 国 が 統 治 し 、 天 下 は 統 一さ れ 、 あ ま ね く 天 と す べ て の地 は 、 等 し く 同 化 に向 か わ な いと こ ろ
は な い。 私 は す で に そ の和 や か な 風 に浴 し 、 大 き な 感 化 を 共 有 に し た いと こ いね が う 。 庶 人 以 上 は み な 、 辮 髪 を 解 き 、
左 妊 を や め る べ き であ る 。﹂ 煬 帝 は 伯 雅 の言 葉 を 聞 く と喜 び 、 こ れ を 非 常 に良 い事 で あ る と 考 え 、 詔 を 下 し て言 った 。
﹁徳 を 顕 彰 す る こと は 聖 人 や 哲 人 の尊 ぶ と こ ろ で あ り 、 誠 を 明 ら か に し善 を 遂 行 す る のは 、 古 典 の尚 書 が 後 世 の人 々 に
教 え 示 す と こ ろ であ る。 光 禄 大 夫 ・弁 国 公 ・高 昌 王 の伯 雅 は 、 見 識 と 度 量 に 遠 大 な 経 略 が あ り 、 気 持 ち は 寛 容 で あ る 。
そ の忠 誠 心 は す で に著 し く 、 清 ら か な 節 義 は 遠 方 ま で 行 き 渡 っ て い る。 伯 雅 は も と も と 中 華 か ら 出 て、 西 方 の地 で歳 月
を 送 る こ と に な った 。 過 去 に は 多 く の 困 難 が あ り 、 猿 戎 (匈 奴 ・柔 然 ) に迫 ら れ 、 し ば し ば 窮 し て冠 冕 を 壊 し 、 髪 を
切 って胡 服 を 着 用 し た 。 わ が 大 階 が 天 下 を 統 一す ると 、 階 の教 化 は 多 く の夷 秋 た ち を な び か せ 、 徳 は 四 方 に 加 わ った 。
伯 雅 は 砂 漠 を 越 え 、 険 阻 を も の と も せ ず 、 贈 物 を 奉 って朝 廷 に や って来 た 。 古 の制 度 に 礼 儀 正 し さ を 見 、 威 儀 の盛 典 を
(
前 の記 録 ) よ り 輝 いた 。 そ こ で、 (高 昌 に ) 衣 服 と 冠 の 具 を 賜 い、 製 造 の規 格
(
式)
慕 った 。 こ こ に お いて か れ は 冠 冕 の紐 を 重 ね 、 辮 髪 を 解 き 、 左 妊 を や め て裳 裾 を 引 き ず った 。 蛮 族 の風 習 を 改 め 、 中 華
の風 習 に 従 い、 そ の 仕 義 は 前 載
を 頒 布 し よ う 。 階 は 使 者 を 派 遣 し て そ れ ら を 部 領 し 、 送 り 届 け よう 。 綾 絹 の服 を 着 た姿 や 車 服 のき ら び や か な さ ま を 見
れ ば 、 人 々 は夷 秋 の藍 毛 の服 を 脱 ぎ 捨 て、 ふ た た び 中 国 のよ う な 礼 儀 正 し い冠 帯 の国 に も ど る で あ ろう 。﹂
し か し伯 雅 は 以 前 か ら 鉄 勒 (テ ユル ク ) に 臣 従 し て お り 、 鉄 勒 は 常 に 重 臣 を 派 遣 し て高 昌 国 に滞 在 さ せ て、 商 胡 (ソ
グ ド 商 人 ) が 商 売 の た め に高 昌 を 往 来 す る と 、 こ れ に 課 税 し 、 徴 集 し た 税 金 を 鉄 勒 に 送 って いた 。 従 って伯 雅 が 国 民
に 下 し た 命 令 は 中 国 を喜 ば せ は し た が 、 高 昌 は 結 局 、 鉄 勒 を 恐 れ て、 決 し て風 俗 を 改 め な か った 。 こ れ 以 来 、 伯 雅 は 毎
の墓 誌、 文書 か ら復 元 し、 そ の間 に は改革 に失敗 し た麹 伯 雅父 子 が家 臣 の張 雄 らと とも に、高 昌 国を 出奔 し て西突 厥 の
研究 者 であ る呉 震 (
呉 震 一九 八 一) は、 現在 忘 れら れ て いる高 昌 国 の義 和年 号 (
六 一四∼ 六 一九年 ) を ト ル フ ァン出 土
とす る、 煬 帝、 斐矩 な ど の意 図が 読 み取 れ る。 し かし 鉄勒 の支 配 力 が勝 って、 こ の改 革 は失 敗 した。 ト ル フ ァン文 物 の
が ﹁解 辮 削妊 令 ﹂ であ る。 階 の煬 帝 は詔を 出 し てま でそ れを称 賛 す る。 西域 諸 国 から徐 々に 北方 遊牧 民 族を 閉 めだ そ う
す るや、 国を 挙げ て遊 牧 民族 の風 俗を 廃止 し 、中華 の風俗 に従 う よう にと命 令 を 下し た (延和 十 二年 11六 =二年 )。 そ れ
(6)高 昌 国王 の麹伯 雅 は息 子 の文泰 を 伴 って階 に入朝 し、 約 四年 間、 中国 に滞 在 し、 華 容公 主 も降 嫁 され た。 伯 雅 は帰 国
華容 公主 を嬰 った (﹃
階 書﹄ 巻 四煬帝 紀 )。
(5) 麹 伯 雅 は大業 八 年 (
六 一二) 三月、 煬帝 に従 って第 一次 高句 麗 遠征 に 同行 し (﹃
資 治通 鑑﹄ 巻 一八 一)、 同年 十 一月 、
(4) 嶋 崎昌 一九 七七 b "三 三二。
(3) 嶋 崎昌 一九 七七 b n三 三〇∼ 三 三 一。
え て いる。
(2) 李 錦繍 ・余 太 山 二〇〇 九 二 〇 〇は 、 ﹃
通 典﹄ 巻 一九 一辺 防七 車師 伝 に ﹁
太 和 二年 ﹂と あ る のを ﹁二十年 ﹂ の誤 りと 考
(1)年 号は ﹃
魏書 ﹄ 巻 一〇 =局昌伝 と ﹃
北 史﹄ 巻九 七高 昌伝 より 補 った。
注
年 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 朝 貢 し た 。
68
訳注
69 『
階書0西 域伝 、 『
周 書 』 異 域伝(下)の
統葉 護 可汗 のも と に亡命 し て いた と推 定 す る。張 雄 の墓 誌 から 六 一九 (
延 和 十 八)年 に西 突厥 の後 ろ盾 によ って、麹 伯
雅 が復位 し たと推 定 す る。 そ の後 、義 和 の偽 年 号 は消去 され 、延 和年 号 に戻 され た形跡 が あ ると いう 。
康 国 (サ マ ルカ ン ド)
康 国 は康 居 の後 裔 で あ る。 か れ ら は 絶 え ず 移 動 し て生 活 し た の で、 一定 の住 地 が な か った 。 し か し 漢 代 以 来 、 途 絶 え
る こ と な く 存 続 し た。 そ の王 は 本 来 の姓 が 温 であ り 、 月 氏 人 で あ った 。 か つて は 祁 連 山 の 北 方 の昭 武 城 に居 住 し た が 、
匈 奴 に撃 破 さ れ た た め に 葱 嶺 (パ ミー ル高 原 ) を 越 え て西 方 に 遷 移 し 、 そ の地 で 国 を 保 持 す る こと と な った 。 昭 武 の支
庶 た ち は そ れ ぞ れ 独 立 し て王 と な り 、 そ れ ゆ え に康 国 (
サ マル カ ンド ) 周 辺 の諸 国 は みな 昭 武 を 姓 と し 、 そ の出 自 を 忘
ユ れ な いよ う に し て いる 。 康 国 王 の字 は 代 [世 ] 失 畢 (
シ シ ュピ ー ル) で あ り 、 そ の人 柄 は温 厚 、 寛 大 で 、 よ く 民 衆 の心
を 掌 握 し て いる 。 そ の 妻 は 突 厥 の達 度 (タ ルド ゥ) 可 汗 の娘 で あ る 。 薩 宝 水 (
ザ ラ フ シ ャ ン 河 ) に臨 む 阿 禄 迫 城 が 康 国
の 都 城 であ り 、 城 内 は 人 ロ稠 密 で あ る。 三 人 の大 臣 が お り 、 共 同 し て国 政 に携 わ る。 そ の王 は 索 髪 (辮 髪 ) に し 、 そ
の 上 に 七 宝 金 花 の冠 を 戴 く 。 衣 服 は 綾 羅 、 錦 繍 の白 畳 を 着 る。 王 妃 は 讐 を 結 い、 そ の上 を 黒 い スカ ー フ で覆 う 。 一般 男
子 は勇髪 (
断髪 )し、錦 抱を着 る。
(
ブ ハ ラ )、 小 安 国 、 那 色 波 国 (ナ サ フ)、 烏 那 易 国 (ア ン フ ォ イ
康 国 は 強 国 と し て有 名 であ り 、 西 域 諸 国 の多 く が康 国 に 帰 順 す る 。 米 国 (マイ ム ルグ )、 史 国 (キ ッ シ ュ)、 曹 国 (
イ
ス テ ィ ー カ ー ン )、 何 国 (ク シ ャ ー 二ー ヤ )、 安 国
﹀昌α聾 色 、 穆 国 (ア ー ム ル ) が み な 康 国 (
サ マ ル カ ン ド ) に 従 属 し て いる 。 康 国 に は 胡 律 (ソグ ド 語 の法 典 ) が存 在
し、厭祠 (
ゾ ロ ア ス タ ー 教 寺 院 ) に 安 置 さ れ てお り 、 裁 判 の際 に 取 り 出 し て 判 決 を 下 す 。 重 罪 は 一族 を 死 刑 に、 次 に 重
い罪 は 本 人 を 死 刑 にす る 。 賊 盗 は 足 切 り に処 す 。
70
康 国 の人 び と は み な 彫 り の深 い顔 立 ち で (
深 目 高 鼻 )、 ほ ほ 、 あ ご の ヒ ゲ (
髪 、 髭 ) が 濃 い。 商 業 に 長 じ て お り 、 諸
外 国 の商 人 た ち は 交 易 の た め に こ の 国 に 集 ま って く る。 康 国 の楽 器 に は 大 小 の太 鼓 、 琵 琶 、 五弦 、 笙 篠 、 笛 が あ る。 婚
姻 、 葬 制 は 突 厥 と 同 じ で あ る 。 国 家 の祖 廟 が 建 立 さ れ て お り 、 六 月 に 祭 礼 を 行 う 。 こ のと き は 周 辺 諸 国 も み な 祭 礼 に 参
加 す る 。 康 国 は 習 俗 と し て仏 教 を 信 仰 し 、 ソ グ ド 文 字 (胡 書 ) を 使 用 す る 。 気 候 は 温 暖 で、 五 穀 (
麦 、米、 粟、黍 、
(
大 鹿 の皮 )、 概 髭 (毛
豆 ) の栽 培 に適 す る 。 人 び と は 菜 園 で 農 作 業 に精 を 出 し 、 果 樹 も 繁 茂 す る。 家 畜 に は ウ マ、 ラ ク ダ 、 ラ バ 、 ロ バ、 コブ
ウ シ が あ り 、 黄 金 、 鏡 沙 (砲 砂 、 塩 化 ア ン モ ニ ュウ ム系 薬 石 )、 甘 松 香 、 阿 薩 那 香 、 念 悪 、 廉 皮
織 の 敷 物 )、 錦 、 畳 を 産 出 す る。 ブ ド ウ (葡 陶 ) 酒 が 豊 富 で あ り 、 富 家 で は 千 石 の量 を 醸 造 す る 。 そ れ ら は 何 年 た って
(
3)
も 腐 敗 す る こと は な い。 大 業 年 間 に は じ め て使 者 を 派 遣 し 、 特 産 品 を 献 上 し た が 、 そ の後 は 途 絶 え てし ま った 。
注
(1) ﹃階書 ﹄西 域伝 ﹁
康 国 ﹂ は、 それと ほ ぼ同 じ文 章 が ﹃北史﹄ 西 域伝 ﹁康 国 ﹂ に、ま た ﹃
北史 ﹄ から 転載 した ﹃
魏 書﹄ 西
二 四 二) の康 国 条注 6を参 照 。 そ の後、 吉 田豊 は ﹁昭 武﹂ に つ いて の自 説 を ﹃ソグド 人 の美
域伝 ﹁
康 国 ﹂ にも 採 用さ れ てお り、 そ れぞ れ の テキ スト に若 干 の異同 が あ る。 ﹁昭武 ﹂ に ついては 、 ﹃
新 唐書 ﹄ 西 域伝 訳
注 (
小 谷 ・菅沼 二〇 =
術と 言 語﹄ (
吉 田 二 〇 一 一"五 三∼ 五 五 ﹁昭 武 の謎 ﹂) のなか で要約 す る。 ソグド 人 が甘 粛省 祁 連山 の北、 昭武 城 か ら匈
奴 によ って追 放 され 、葱 嶺を 越 え て現在 の住 地 に遷移 し たと いう のは 、大 月 氏 の西遷 の歴史 を 借用 し た中 国側 の作り 話
で、 歴 史的 事実 では な い。 吉 田豊 が 推定 す る よう に、 ソグド 人 が ﹁昭武 ﹂ と いう発 音 に近 い名前 の祖先 あ る いは 英雄 を
共通 に伝 承す る こと から、 そ れを 中国流 に解 釈 した も のであ ろう 。 こ の説 の初 見 は ﹃
階 書﹄ であ る。
(2)王 名 の ﹁代失 畢 ﹂ は 唐太 宗 の李 世 民 の諦を 避 け て表 記 す るも の で、 本 来 は ﹁世 失畢 Q。旅O旨﹂ であ る。 上 記 の ﹃北史 ﹄
﹃
魏書 ﹄ では ﹁世夫 [
失] 畢﹂ と表 記す る。 岡本 孝 一九 八四 u八〇 ∼ 八三を参 照 。
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異 域伝(下)の
71
(3 ) ﹃通 典 ﹄ 巻 一 一三 西 戎 伝 、 康 居 国 条 に は 、 煬 帝 に よ って 西 域 に派 遣 さ れ た 章 節 の 報 告 書
﹃
西 蕃 記 ﹄ 中 の康 国 伝 が 引 用 さ
﹃西 蕃 記 ﹄ に 言 う 。 康 国 人 は み な 商 業 に長 け て お り 、 男 子 が 五 歳 に な る と 、 読 み 書 き を 学 ば せ る。 少 し 理 解 で
れ て い る 。 ﹃西 蕃 記 ﹄ は 散 逸 し て 現 存 せ ず 、 階 代 ソ グ ド 人 の習 俗 を 伝 え る 貴 重 な 遺 文 な の で 以 下 に 翻 訳 し て 補 足 す る 。
章節
き るよ う にな る と、商 売 のやり 方 を習 わ せ、 利益 を 得 る ことが 最善 であ ると 教え る。彼 ら は歌 舞 、音 楽を 好 む。 六
月 一日 を 一年 の 始 ま り と し 、 正 月 に な る と 、 王 お よ び 庶 民 は み な 晴 着 に き か え 、 散 髪 し 、 髭 を 剃 る 。 都 城 の 東 の 林
間 に お い て 、 七 日 間 に わ た っ て 騎 射 の会 を 催 す 。 最 終 日 に 的 上 に 一枚 の金 貨 を 置 き 、 射 当 て た 者 が 一日 だ け 王 位 に
つく こ と が で き る 。 彼 ら の 習 俗 は 天 神 を 信 奉 し 、 熱 心 に崇 拝 す る 。 か れ ら は 神 の 子 が 七 月 に 死 ぬ と い い、 そ の 骸 骨
が 見 つか ら な い た め 、 信 者 た ち は そ の 月 に な る と 、 み な 襲 のあ る 黒 衣 を ま と い、 は だ し で歩 き 、 胸 を 打 ち 、 大 声 で
(
訳 者 注 "こ れ は 古 代 メ ソ ポ タ ミ ア 起 源 の ↓鋤旨 旨⊆N神 の 死 と 復 活 の儀 礼 で あ り 、 ペ ン ジ
泣 き 、 涙 を 流 し て 悲 し み あ う 。 男 女 の 大 人 た ち 三 百 か ら 五 百 人 が 野 原 に 散 ら ば っ て、 神 の子 の 骸 骨 を 探 し ま わ る 。
七 日目 にそ の儀式 を 止 める
(院 ) が あ り 、 そ の な か に イ ヌ を 飼 育 す る 。 死
ケ ン ト 壁 画 の ﹁哀 悼 図 ﹂ が そ れ を 表 現 す る と さ れ る )。 都 城 の 郊 外 に は ま た 別 に 二 百 戸 余 り の集 落 が あ り 、 そ こ に住
む 人 び と は も っぱ ら 葬 儀 を 取 り 扱 う 。 特 別 に 囲 い の あ る 大 き な 建 物
者 が 出 る た び に、 出 か け て行 って 死 体 を 引 き 取 り 、 そ し て 院 内 に 運 ん でイ ヌ に 食 べ さ せ る 。 肉 が 食 べ つく さ れ る と 、
骨 を 集 め て 、 埋 葬 す る 。 棺 、 郭 は 使 用 し な い。
安国 (
ブ ハラ )
安 国 は 、 漢 の時 の安 息 国 (パ ル チ ア) で あ る 。 王 の姓 は 昭 武 氏 で、 康 国 王 と 同 族 で あ る。 王 の字 は設 力 登 で、 妻 は 康
国 の王 女 で あ る 。 都 城 は 那 密 水 (ザ ラ フ シ ャ ン河 ) の南 に あ り 、 城 壁 は 五 重 であ り 、 周 囲 を 流 水 が 巡 って い る。 宮 殿 は
72
み な 平 屋 根 で あ る。 王 は 黄 金 の ラク ダ の 玉 座 (
金 駝 座 ) に坐 り 、 そ の高 さ は 七 、 八 尺 であ る。 王 は政 務 に 臨 む と き 、 つ
ね に 妻 と 向 か い合 って 坐 り 、 大 臣 三 人 が 国事 を 評 定 す る 。 風 俗 は 康 国 と 同 じ であ る が 、 た だ 姉 妹 や母 ・娘 を 禽 獣 のよ う
に 互 い に妻 と す ると こ ろ が 康 国 と は 違 う 。 煬 帝 が 即 位 後 、 司 隷 従 事 の杜 行 満 を 西 域 に 派 遣 し 、 杜 行 満 は 安 国 に至 り 、 五
色 の塩 を 得 て 帰 国 し た 。 安 国 の 西 百 餘 里 の 所 に 畢 国 (パ イ カ ン ド ) が あ り 、 お よ そ 千 餘 家 。 畢 国 に は 君 長 が お らず 、 安
国 が 畢 国 を 統 治 す る。 大 業 五 年 (六 〇 九 )、 使 者 を 派 遣 し て 朝 貢 し た が 、 そ の後 、 朝 貢 は 途 絶 え た 。
石国 (
タ シ ュケ ン ト )
石 国 は 、 薬 殺 水 (ヤ ク サ ル テ ス 河 、 現 在 のシ ル ・ダ リ ア) の そ ば に位 置 す る 。 都 城 は 四 方 十 餘 里 であ る 。 王 の姓 は 石 、
名 は 浬 であ る 。 国 城 の東 南 に 家 屋 を 建 て、 そ の中 に台 座 を 置 く 。 正 月 六 日 と 七 月 十 五 日 に は、 王 の父 母 の火 葬 し た 遺 骨
を 黄 金 の甕 に 盛 り 、 台 座 の上 に安 置 し 、 そ の周 り を 巡 り 、 花 や香 、 色 々 な 果 物 を そ の上 にま き 散 ら す 。 王 は 臣 下を 率 い
て祭 礼 を と り お こ な う 。 こ の儀 式 が終 わ ると 、 王 と 夫 人 は 家 屋 か ら 出 て別 の帳 (テ ン ト ) に入 る 。 臣 下 た ち も つづ い て
入 り 、 並 ん で座 り 、 宴 会 が 催 さ れ 、 そ し て祭 礼 は 終 了 す る 。 粟 と 麦 を 産 出 し 、 良 馬 を 多 く 産 す る 。 こ の 国 の習 俗 は好 戦
的 で 、 か つて 西 突 厥 に叛 き 、 そ の た め 射 置 可汗 は 軍 隊 を 出 動 し て 石 国 を 滅 ぼ し た 。 特 勤 の旬 職 に 石 国 の統 治 を 行 わ せ て
いる。 石 国 の南 六 百 里 の所 に 鐙 汗 国 (フ ェル ガ ナ ) が あ り 、 東 南 六 千 里 のと こ ろ に瓜 州 (
敦 煌 ) が あ る。 旬 職 は 大 業 五
年 (六 〇 九 ) に 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た が 、 そ の後 、 ふ た た び 朝 貢 し て は来 な か った 。
注
(1) 西突 厥 の射置 可 汗 (
六 一一∼六 一九) のこ と であ る が、 石国 を 滅 亡 さ せた のは、 か れが 処 羅 可汗 (五八 七 ∼六 一 一)
の小可 汗 と し て石国 の北 (千泉 ) に駐 屯 し て いた時 、 つまり 西 突厥 特 勤 の旬 職 によ る大 業 五年 (六〇 九) の朝 貢 以前 の
訳注
『
階 書』 西 域 伝 、 『
周書 』 異 域伝(下)の
73
女国
こと であ る。 西突厥 の小 可汗 制 に つ いては ﹃
階 書﹄ 巻 八十 四西 突厥伝 、 処羅 可汗 の条 を参 照。
女 国 は 、 葱 嶺 (パ ミ ー ル ) の南 に あ り 、 代 々女 性 が 王 と な る 。 王 の姓 は 蘇 蹴 (ス ン パ )、 字 は 末 羯 で 、 王 位 に あ る こ
と 二十 年 であ る。 女 王 の夫 は 、 金 聚 (スヴ ァル ナ ゴ ト ラ) と 号 し 、 政 治 に は 関 与 し な い。 国 内 の成 年 男 子 は 、 た だ 戦 争
に 従 事 す る こと だ け を 務 め と す る 。 山 上 に 城 を 築 き 、 四 方 は 五 ∼ 六 里 で あ り 、 戸 数 が 一万 あ る 。 国 王 は 九 層 の楼 閣 に住
み 、 侍 女 数 百 人 が 仕 え 、 五 日 に 一度 政 務 を 執 り 行 う 。 ま た 小 女 王 が お り 、 共 同 で国 政 を 担 当 す る。
そ の俗 は 婦 人 を 尊 び 、 男 性 を 軽 んず る が 、 性 格 は 嫉 妬 深 く な い。 男 女 は みな 顔 に 色 を 塗 り 、 一日 のう ち 数 回 、 塗 り か
えた。 人は みな被髪 し (
ざ ん ば ら 髪 )、 皮 革 で靴 を つく り 、 課 税 は 定 ま って いな い。 気 候 は 全 般 に 寒 く 、 弓 矢 に よ る狩
猟を生 業とす る。真 鍮 (
鍮 石 )、 朱 沙 (
朱 )、 癖 香 、 葎 牛 (ヤ ク)、 駿 馬 、 蜀 馬 を 産 す る 。 と り わ け 塩 の産 出 が 多 く 、 常
に 塩 を 天 竺 に 運 ん で 販 売 し 、 数 倍 の利 益 を 得 る 。 ま た 、 し ば し ば 天 竺 ・党 項 と 戦 争 を す る。 女 王 が亡 く な ると 、 国 中 か
ら 金 銭 を た く さ ん集 め 、 そ の金 銭 で亡 く な った 女 王 の 一族 の 中 か ら 賢 女 二人 を 求 め 、 一人 を 女 王 と な し 、 も う 一人 を 小
女 王 と す る 。 貴 人 が 死 ぬ と 、 そ の皮 膚 を 剥 い で、 金 の屑 (
金 粉 ) を 遺 体 の骨 や肉 と 混 ぜ 合 わ せ て瓶 の中 に置 き 、 そ れ を
埋 葬 す る。 一年 た つと 、 ま た 皮 を 鉄 器 に入 れ て埋 葬 す る 。 こ の国 の俗 は 阿 修 羅 神 (ア シ ュラ ) に仕 え 、 樹 神 を 祭 る 。 正
月 に は ヒ ト あ る いは サ ルを 犠 牲 に し て祭 祀 を お こ な う 。 祭 り が 終 わ る と 、 山 に 入 って 祈 る 。 す る と 雌 雑 の よ う な 鳥 が
や ってき て手 の ひ ら に の る。 そ の腹 を 破 り 、 腹 の中 を 調 べ見 て 、 粟 が あ れ ば 、 こ の年 は豊 作 であ る が 、 砂 石 な ら ば 、 こ
の年 は 災 厄 が あ ると 言 う 。 そ れ を鳥 占 いと いう 。 開 皇 六 年 (五 八 六 ) に 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た が 、 そ の後 は途 絶 え た 。
(﹃新 唐 書 ﹄ 西 域 伝 、 ﹁東 女 国 ﹂ と そ の 訳 注 ︹
小 谷 ・菅 沼 二 〇 一〇 H九 二∼ 九 四 ︺ を 参 照 )
74
焉耆
(
カ ラ シ ャー ル)
焉耆 国は、白 山 (
天 山 山 脈 ) の南 七 十 里 の と こ ろ に都 城 を 置 き 、 漢 代 以来 の旧 国 で あ る 。 国 王 の姓 は龍 、 字 は突 騎 と
いう 。 都 城 は 二 里 四 方 で 、 国 内 に は 九 つの城 が あ り 、 勝 兵 千 餘 人 を 擁 す る。 そ の国 に は 大 綱 (法 律 ) が な い。 そ の 国 の
(
あ し ) を 売 って 利 益 を 得 る 。 東 は高 昌 (ト ル フ ァン) か ら 九 百 里 、
俗 は 仏 典 を 奉 り 、 婆 羅 門 (イ ン ド 人 ) に似 る 。 婚 姻 の 礼 は 中 国 と 同 じ 。 死者 は 火 葬 に付 し 、 服 喪 の期 間 は 七 日 間 で あ る 。
男 性 は 髪 を 切 る (勇 髪 )。 魚 、 塩 、 蒲 (が ま )、 葦
西 は亀 弦 (ク チ ャ) か ら 九 百 里 の距 離 に あ る。 周 囲 は み な 砂 漠 であ る 。 東 南 は 瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 二 千 二百 里 の距 離 に 位
(
ク チ ャ)
置 す る 。 大 業 年 間 中 に使 者 を 派 遣 し て 特 産 物 を 献 上 し た。
亀薙
亀 弦 国 は 白 山 (天 山 山 脈 ) の南 、 百 七 十 里 のと こ ろ に都 城 を 置 き 、 漢 代 以 来 の旧 国 で あ る 。 国 王 の姓 は白 、 字 は蘇 尼
唖 と いう 。 都 城 は 六 里 四方 で 、 勝 兵 数 千 人 を 擁 す る 。 風 習 と し て殺 人 を 犯 し た 者 は 死 刑 、 強 盗 は 片 腕 、 片 足 を 斬 る。 習
(
カ ラ シ ャー ル) と 同 じ 。 国 王 は 頭 に緑 帯 を 巻 き 、 そ れ を 後 ろ に垂 ら し 、 黄 金 の師 子 座 に 坐 る。 土 地 に は稲 、
(マメ)、 麦 、 饒 銅 、 鉄 、 鉛 、 廣 皮 (大 鹿 の皮 )、 概 號 (
毛 織 の敷 物 )、 鏡 沙 、 塩 緑 (石 緑 、 天 然 の眼 病 薬 )、 雌 黄
俗は焉耆
粟 、菽
(
敦煌 )か
(
顔 料 、 丹 薬 )、 胡 粉 、 安 息 香 、 良 馬 、 封 牛 (コブ ウ シ) を 多 く 産 す る 。 東 は焉 耆 か ら 九 百 里 、 南 は 子 關 (ホ ー タ ン ) か
ら 千 四 百 里 、 西 は 疏 勒 (カ シ ュガ ル ) か ら 千 五 百 里 、 西 北 は 西 突 厥 の王 庭 (牙 ) か ら 六 百 餘 里 、 東 南 は 瓜 州
ら 三 千 一百 里 の距 離 に 位 置 す る 。 大 業 中 に 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
注
(
1 ) 当 時 の ク チ ャ国 王 蘇 尼 姪 の本 名 は ブ ラ ー フ ミ ー 文 字 の ↓o葺 惹 で あ ろ う 。 そ れ は キ ジ ル千 仏 洞 第 六 六 ∼ 六 七 窟 か ら 出 土
した ブ ラー フミー写 本 中 (
H
し
O島Φ同ω
一〇ωO "N刈) や キ ジ ル 千 仏 洞 第 二 〇 五 窟 の ク チ ャ 王 夫 妻 像 に 付 さ れ た ブ ラ ー フ ミ ー 文 字
の 題 辞 で確 認 さ れ る。 ま た そ の 王 妃 の名 が Qりく昌 pぢ嘆 筈 冨 で あ る こ と も 判 明 し た 。 (
} くoづ い① Ooρ 俸 中 妻 巴房 畠 巨 鼻
一ゆG。ω "NO
。NO)
疏 勒 (カ シ ュガ ル )
(フ ェル ガ ナ ) か ら 千 里 、 南 は 朱 倶 波 (カ ル ガ リ ク) か ら 八 ∼ 九 百 里 、
∼ 九 里 四方 で あ り 、 国 に は 大 き な 城 が 五 つ、 小 さ な 城 が 数 十 あ り 、 勝 兵 数 千 人 を 擁 す る。 そ の国 の風 俗 は仏 法 を 尊 び 、
子 關 国 は 、 葱 嶺 (パ ミ ー ル) の北 二百 餘 里 のと こ ろ に都 城 を 置 く 。 王 の姓 は 王 で、 字 は卑 示 閉 練 であ った 。 都 城 は 八
干 聞 (ホ ー タ ン)
遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
東 北 は 西 突 厥 の王 庭 (牙 ) か ら 千 餘 里 、 東 南 は 瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 四 千 六 百 里 の距 離 に位 置 す る。 大 業 年 間 中 に 使 者 を 派
い、 東 は亀 茲 (ク チ ャ) か ら 千 五 百 里 、 西 は 鐙 汗
黄 (
顔 料 、 丹 薬 ) を 多 く 産 出 し 、 毎 年 、 常 に そ れ ら を 突 厥 に 献 上 す る 。 南 に は 黄 河 が あ り 、 西 は葱 嶺 (パ ミ ー ル) に 沿
小 さ な 城 が 数 十 あ り 、 勝 兵 二 千 人 を 擁 す る。 王 は 黄 金 の師 子 冠 を か ぶ る 。 そ の土 地 は 稲 、 粟 、 麻 、 麦 、 銅 、 鉄 、 錦 、 雌
足 の指 は み な 六本 あ る 。 子 供 が 生 ま れ 、 指 が 六 本 な いと 育 てな い。 都 城 は 五 里 四 方 で あ り 、 国 内 に は大 き な 城 が 十 二、
疏 勒 国 は 、 白 山 (天 山 山 脈 ) の南 百 餘 里 の と こ ろ に都 城 を 置 き 、 漢 代 以 来 の旧 国 で あ る 。 そ の王 の字 は 阿 彌 厥 で 、 手
訳注
「
階 書』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
75
僧 尼 が 最 も 多 く 、 王 は 常 に斎 戒 を 行 う 。 城 の南 五 十 里 のと こ ろ に賛 摩 寺 が あ り 、 羅 漢 比 丘 の比 盧 施 が 建 造 し た と 言 わ れ
置 す る 。 大 業 年 間 中 に使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
シ ュケ ン ト ) か ら 五 百 里 、 東 北 は 西 突 厥 可 汗 の王 庭 (牙 ) か ら 二千 餘 里 、 東 は瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 五 千 五 百 里 の距 離 に位
(
朱 )、 金 、 鉄 が 豊 富 であ る 。 東 は 疏 勒 か ら 千 里 、 西 は 蘇 対 沙 那 国 (スト ゥ ル ー シ ャナ ) か ら 五 百 里 、 西 北 は 石 国 (タ
あ る 。 都 城 は 四 里 四方 で あ り 、 勝 丘ハ
数 千 人 を 擁 す る。 王 は 金 羊牀 に坐 り 、 そ の妻 は 頭 に金 花 飾 り を 戴 く 。 そ の 地 は 朱 沙
鐙 汗 国 は 、 葱 嶺 (パ ミ ー ル) の西 五百 餘 里 のと こ ろ に 都 城 を 置 く 。 昔 の渠 捜 国 であ る。 王 の姓 は 昭 武 、 字 は 阿 利? で
汗? (フ エル ガ ナ )
(1)桑原 騰蔵 一九 六 八 "二五 五∼ 二六 四参 照。 賛摩寺 と 比盧 栴 に つ いては ﹃周書﹄ 干 閲国条 の注 1を参 照。
注
大 業 年 間 中 に 、 し ば し ば 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た。
は 朱 倶 波 (カ ルガ リ ク ) か ら 千 里 、 北 は 亀 茲 (ク チ ャ) か ら 千 四 百 里 、 東 北 は 瓜 州 か ら 二 千 八 百 里 の距 離 に 位 置 す る 。
る 。 園 林 が多 く 、 山 か ら は 美 し い玉 が た く さ ん取 れ る 。 東 は 郵 善 (ロー ラ ン) か ら 千 五 百 里 、 南 は女 国 か ら 三 千 里 、 西
人 に 見 ら れ た ら 、 そ の年 は穀 物 が 実 ら な いと 言 わ れ る 。 土 地 に は 麻 、 麦 、 粟 、 稲 、 五 果 (種 々 の果 実 ) が多 く 産 出 さ れ
金 の鼠 冠 を か ぶり 、 王 の妻 は金 花 を 頭 に 戴 い て いる 。 王 の 頭 髪 は 人 に は 見 せ な い。 干 聞 の慣 例 と し て、 も し 王 の頭 髪 が
る 。 石 の上 に は、 辟 支 佛 (
独 覚 ) の仏 足 跡 が あ る 。 干 閲 の西 五 百 里 のと こ ろ に 比 摩 寺 が あ り 、 老 子 が こ こ で ブ ッダ を 教
化した と伝え る (
老 子 化 胡 成 佛 之 所 )。 こ の国 の風 俗 は 礼 儀 が な く 、 大 勢 の盗 賊 が は び こ って いる 。 王 は 錦 の 帽 子 と 黄
76
訳注
『
階書 』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
77
吐火羅
(
ト カ ラ)
吐火 羅国は、葱嶺
(パ ミ ー ル) の 西 五 百 里 のと こ ろ に都 城 を 置 き 、 据 恒 (エ フ タ ル ) と 雑 居 す る 。 都 城 は 二里 四 方 で
あ り 、 勝 兵 は 十 万 人 で、 み な 戦 闘 に 習熟 し て いる 。 そ の俗 は 仏 教 を 信 奉 す る 。 兄 弟 で 一人 の妻 を 共 有 し 、 代 わ る代 わ る
寝 所 を 共 に す る。 一人 が 寝 所 に 入 る た び に 、 扉 の外 に自 分 の上 衣 を か け 、 し る し と す る 。 子 がう ま れ ると 長 兄 の 子 に な
る 。 そ の 山 の穴 の中 に 神 馬 が お り 、 毎 年 、 雌 馬 を そ の穴 の 所 に 放 牧 し てお く と 、 必 ず 名 馬 を 産 ん だ 。 南 は漕 国 (カピ ー
(エ フ タ ル)
シ ー ) か ら 千 七 百 里 、 東 は瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 五千 八 百 里 の 距 離 に位 置 す る。 大 業 年 間 中 に 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た。
揖但
把 恒 国 は烏 済 水 (オ ク サ ス 河 ) の南 二 百 餘 里 のと こ ろ に都 城 を 置 く 。 大 月 氏 の種 族 であ る 。 勝 兵 五 ∼ 六 千 人 を 擁 す る 。
こ の国 は 習 俗 と し て戦 闘 が 得 意 で あ る。 以 前 、 国 が 滅 亡 に追 い込 ま れ た 時 、 突 厥 は 通 設 (吐 屯 ) の 字 詰 を 派 遣 し て、 そ
(
-)
(
2)
の国 (
据 但 ) を 強 奪 し た 。 都 城 は 十 餘 里 四 方 で、 寺 塔 が 多 く 、 み な 黄 金 で飾 ら れ て いる。 兄 弟 は妻 を 共 有 す る 。 婦 人 で
夫 が 一人 の ば あ い は、 一本 角 の 帽 子 を か ぶ る 。 夫 の兄 弟 が 大 勢 いる も のは 、 そ の 人 数 の分 だ け 帽 子 に 角 を つけ る 。 南 は
漕 国から千 五百里、東 は瓜州 (
敦 煌 ) か ら 六 千 五百 里 の距 離 に 位 置 す る。 大 業 年 間 中 、 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し
た。
注
(
1) エフタ ル の滅 亡 は西 方史 料 か ら西 暦 五六 二∼ 五六 七年 間 の こと と考 え られ 、 ﹃
階 書﹄ の こ の記事 は、 ﹃
周 書﹄ 喩 燵伝 に
﹁明帝 二年 (
五 五八 )、拉 遣 使 来献 。後 為 突厥 所 破、 部落 分 散 、職 貢遂 絶 ﹂と あ る のと 同 じ で、と も に エフタ ル の滅亡 に
ついて の中 国 側 の記 録 であ ろう 。
m
(
2 ) 吐 火 羅 国 と 把 恒 国 に 記 述 さ れ る 一妻 多 夫
(
Ooζき 傷曼 ) の 風 習 は 、 慧 超 ﹃往 五 天 竺 国 伝 ﹄ 安 国 条 よ る と 、 ﹁其 吐 火 羅 、
乃 至 厨 賓 国 、 犯 引 国 、 謝 風 国 等 、 兄 弟 十 人 、 五 人 、 三 人 、 両 人 、 共 嬰 一妻 、 不 許 各 嬰 一婦 、 恐 破 家 計 ﹂ と あ り 、 ア フ ガ
ニ ス タ ン 、 特 に ヒ ン ド ゥ ク シ ュ山 脈 の北 側 に 住 む 人 び と に と って 広 く 一般 的 な 風 習 で あ った こと が わ か る。 慧 超 伝 は そ
れが 主と し て経 済 的な 理由 であ ると 解釈 す る。 最 近、 こ の地 域 から バ クト リ ア文 字、 言語 の皮革 文 書 が多 数出 土 し、 そ
(
ω一
bP
ωー
ノ
<一
=一
PbP
ω NOOO "ωbOI
らQ窃)。 そ れ
(
西 暦 三 四 二 年 ) を も ち 、 上 述 の史 料 を 裏 付 け る も のと な った 。 一妻 多 夫 は エ フタ ル に 特
の ひ と つ に 兄 弟 二 人 が 一人 の 妻 を娶る と いう 内 容 の 結 婚 契 約 文 書 が 解 読 さ れ た
は 一 一〇 年 の バ ク ト リ ア紀 年
徴 的 な 風 習 と さ れ 、 そ れ は エ フ タ ル が こ の地 に進 出 し 、 土 地 の 風 習 に 染 ま った た め と 考 え ら れ て き た が 、 む し ろ エ フ タ
ル 人 が ア フ ガ ニ ス タ ン北 部 、 こ と に バ ダ フ シ ャ ン 山 中 に 拠 点 を 持 つ遊 牧 民 の 出 自 で あ った か ら だ と 考 え た ほ う が よ い
(
小 谷 一九 六 六 "四 〇 〇 ∼ 四 〇 二 )。
米 国 (マイ ム ルグ )
米 国 は 那 密 水 (ザ ラ フシ ャ ン河 ) の西 に都 城 を 置 く 。 そ こは か つ て の康 居 の地 で あ る 。 国 王 は 存 在 し な い。 城 主 の姓
(
キ ッシ ュ) か ら 二 百 里 、 東 は 瓜 州 (敦 煌 ) か ら 六 千 四 百 里
は 昭 武 で 、 康 国 (サ マル カ ンド ) の王 の庶 子 で 、 字 を 閉 拙 と いう 。 都 城 は 二 里 四 方 で あ る 。 勝 兵 数 百 人 を 擁 す る。 西 北
は康国 から百里、東 は蘇対沙 那国か ら五百里、 西南は史国
(
キ ッ シ ュ)
の距 離 に位 置 す る 。 大 業 年 間 中 にし ば し ば 特 産 物 を 献 上 し た 。
史 国
史 国 は、 独 莫 水 (カ シ ュカ ・ダ リ ア) の南 十 里 の と こ ろ に都 城 を 置 く 。 か つて の康 居 の地 であ る 。 王 の姓 は 昭 武 、 字
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
79
は 遡 遮 で、 同 様 に康 国 王 の庶 子 で あ る 。 都 城 は 二里 四 方 であ り 、 勝 兵 数 千 人 を 擁 す る。 習 俗 は 康 国 と 同 じ 。 北 は 康 国 か
ら 二百 四 十 里 、 南 は 吐 火 羅 か ら 五 百 里 、 西 は 那 色 波 国 (ナ サ フ) か ら 二 百 里 、 東 北 は 米 国 か ら 二 百 里 、 東 は 瓜 州 (
敦
煌 ) か ら 六 千 五 百 里 の 距 離 に位 置 す る 。 大 業 年 間 中 、 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
(
ザ ラ フシ ャ ン河 ) の南 数 里 のと こ ろ に 都 城 を 置 く 。 か つ て の康 居 の地 で あ る 。 王 は存 在 せず 、 康 国 王
曹国 (
イ スティーカ ーン)
曹 国は那密水
が 息 子 の鳥 建 に統 治 さ せ て い る。 都 城 は 三里 四 方 であ り 、 勝 兵 千 餘 人 を 擁 す る。 こ の国 に は 得 悉 神 が 祀 ら れ て お り 、 西
ユ 海 よ り 以 東 の諸 国 は み な こ の神 を 崇 拝 す る。 こ の神 に は 金 人 と 金 製 の破 羅 (
鉢 ) が あ る。 鉢 の大 き さ は 幅 、 高 さ と も に
五 尺 で 、 上 下 に バ ラ ン ス が と れ た 形 で あ る。 毎 日 、 ラ ク ダ 五 頭 、 ウ マ十 頭 、 ヒ ツジ 百 頭 を 犠 牲 に し て神 を 祭 る 。 常 に千
人 が こ れ を 食 べ ても 尽 き な い。 東 南 は 康 国 (サ マル カ ンド ) か ら 百 里 、 西 は 何 国 (ク シ ャー ニー ヤ) か ら 百 五 十 里 、 東
は 瓜 州 (敦 煙 ) か ら 六 千 六 百 里 の距 離 に位 置 す る 。 大 業 年 間 中 に 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
注
(
1 ) ソ グ ド 人 の神 ﹁得 悉 ﹂ を ↓9喜 忽oげ (タ ク シ チ ュ) 神 と 最 初 に 正 し く 判 読 し た のは 芝 ◎φ 缶Φ口巳昌oq 一⑩象 であ る。
国①昌三⇒oΩは ソグド 語 ﹁
古 代 書簡 ﹂ に、Zき 巴く雪 住舞 (
ナ ナ女神 の僕 )、日爵 房胃げく9・巳 爵 (タク シチ ュ神 の僕) と いう ソグ
ド の人 名 があ る こと から、 ﹁得悉 (
↓鋳 冨回
oゴ)神 ﹂を ナ ナ女 神と 関係 深 いソグド の神 と考 え たが 、そ の神 格 に ついては不
明 とし た。 タ クシ チ ュ ・ヴ ァンダ ク 臼蹄 げ繊魯 くき O艮 の名前 は、 そ の後 イ ンダ ス河 上 流 のギ ルギ ット 渓谷 の岩 石刻 文 にも
数 例見 つか ってお り、 また 焉耆 七 個星 郷出 土 の銀 器 のひ と つに ﹁(
こ の鉢 は) タ クシ チ ュ神 に属す る﹂ と いう ソグド語 の
刻 文が 判読 され た (
林 梅村 一九 九 入 二 六 〇∼ 一六 三)。 ﹃階書﹄ 曹 国条 に は ﹁得悉 神 ﹂ の記述 に続 いて、そ の祠 には ﹁金
:1
何国
人 ﹂ 像 お よ び 大 き な ﹁金 破 羅 ﹂ が あ る と 記 す 。 金 製 神 像 が タ ク シ チ ュ神 の 像 で あ る か 、 本 尊 と し て の ナ ナ女 神 像 か わ か ら
(
ぴ餌讐 鑑 げ⇔) が 存 在 し た と 記 す 。 サ マ ル カ ン ド 征 服 後 、 そ れ ら の 偶 像 は 放 り 出 さ
(
七 一〇 年 )。 そ こ
﹃
西 蕃 記 ﹄ (六 〇 五 ∼ 六 〇 六 年 頃 ) に基 づ く と 思 わ れ る が 、 そ の百 年 後 、 イ ス ラ ー ム ・ア ラ ブ の将 軍 ア
な い。 タ ク シ チ ュ神 の神 格 と 図 像 の探 求 に つ いて φ ζ 鉾 ωげ艮 帥 即 Ω器 器 け (
一㊤OO
。) が 詳 し い。 ﹃
階 書﹄ 曹 国 の記事 は章節 、
杜行 満 ら の見聞 録
(
びp旨 寧 口緯 ) と 神 々 の家
ミ ー ル ・ク タ イ バ が サ マ ル カ ン ド を 攻 撃 し た 時 、 そ の遠 征 途 上 ザ ラ フ シ ャ ン 河 沿 い の集 落 で 宿 営 し た
に拝 火寺 院
(
小 谷 仲 男 一九 九 七 "五 三
れ 、 装 身 具 は 剥 奪 さ れ 、 つ い で燃 や さ れ た 。 偶 像 の 一つに は 、 そ れ を 汚 す 者 は だ れ で あ れ 生 命 を 落 と す と 言 い伝 え ら れ た
も の が あ った が 、 ク タ イ バ は 人 び と の 制 止 を ふ り き って 、 自 ら の手 で そ れ に 火 を つけ た と いう
∼ 五 四 )。 そ の偶 像 が イ シ ュテ ィ ー カ ー ン (西 曹 ) に祀 ら れ て いた ﹁得 悉 神 ﹂ であ った 可 能 性 が あ る 。
(
b拶脅 & 鉢 ) で あ り 、 ナ ナ 女 神 あ る い は 得 悉 神 の祠 堂 に 供 え ら れ た 大 き な 酒 器 の こ と で あ ろ う
一∼ 一四 参 照 )。
(2 ) 金 破 羅 は 金 製 の 破 羅
(票 鴻 生 一九 九 八 二
(
ク シ ャ ー 二 ー ヤ)
何 国 は 、 那密 水 (
ザ ラ フ シ ャ ン 河 ) の南 数 里 のと こ ろ に都 城 を 置 く 。 か つて の康 居 の地 で あ る。 王 の姓 は 昭 武 で、 同
様 に康 国 王 の 一族 であ り 、 字 は敦 で あ る。 都 城 は 二 里 四 方 であ る 。 勝 兵 千 人 を 擁 す る 。 王 は 金 羊 座 に 坐 る 。 東 は 曹 国 か
ら 百 五 十 里 、 西 は 小 安 国 か ら 三百 里 、 東 は瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 六 千 七 百 五十 里 の距 離 に 位 置 す る 。 大 業 年 間 中 、 使 者 を 派
(ア ン フ ォイ )
遣 し て 特 産 物 を 献 上 し た。
烏那易
訳注
81 『
階書 』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
烏 那 禺 国 は 鳥 激 水 (オ ク サ ス 河 ) の西 に 都 城 を 置 く 。 か つて の安 息 国 (パ ル チ ア) の 地 であ る。 王 の姓 は 昭 武 で、 同
様 に 康 国 の 一族 で 、 字 は 仏 食 であ る 。 都 城 は 二 里 四 方 で あ る。 勝 兵 数 百 人 を 擁 す る 。 王 は 金 羊 座 に 坐 る。 東 北 は 安 国
(
ブ ハ ラ) か ら 四 百 里 、 西 北 は穆 国 (ア ー ム ル) か ら 二 百 餘 里 、 東 は 瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 七 千 五 百 里 の距 離 に 位 置 す る。
大 業 年 間 中 に 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
(
オ ク サ ス河 ) の西 に 都 城 を 置 く 。 同様 に安 息 国 (パ ル チ ア) の 故 地 であ り 、 烏 那 掲 の隣 国 で あ る。 王
穆 国 (ア ー ム ル )
穆 国は烏濤水
(
敦煌 )から 七千七
の姓 は 昭 武 で 、 同 様 に 康 国 の 一族 で 、 字 は 阿 濫 密 で あ る。 都 城 は 三 里 四 方 であ る 。 勝 兵 二 千 人 を 擁 す る。 東 北 は 安 国
(
ブ ハラ ) か ら 五 百 里 、 東 は烏 那 易 か ら 二 百 餘 里 、 西 は 波 斯 (ペ ル シ ア ) か ら 四 千 餘 里 、 東 は 瓜 州
(
ペ ルシ ア )
百 里 の距 離 に位 置 す る。 大 業 年 間 中 に 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
波斯
波 斯 国 (
サ サ ン朝 ペ ル シ ア) は 達 局 水 (テ ィ グ リ ス河 ) 西 側 の蘇 藺 城 (セ レ ウ キ ア) に 都 城 を 置 く 。 す な わ ち (
漢
代 ) 條 支 国 の故 地 (メ ソポ タ ミ ア南 部 ) で あ る 。 王 の名 字 は庫 薩 和 (ホ ス ロ ー 二 世 ) であ る 。 都 城 は 十 餘 里 四 方 、 二 万
餘 人 の勝 兵 を 擁 し 、 象 に 乗 って戦 う 。 こ の国 に は 死 刑 は な く 、 刑 罰 と し て は 手 足 の切 断 や家 財 の没 収 、 あ る いは 髪 を 剃
り 、 あ る い は首 に 木 牌 (
罪 を 記 し た首 枷 ) を か け て罪 人 であ る こ と の標 識 と す る。 人 が 三 歳 以 上 にな れ ば 、 人 頭 税 (口
銭 ) 四 文 を 出 さ せ る 。 こ の国 で は姉 妹 を 妻 と す る 。 人 が 亡 く な る と 、 遺 体 を 山 に捨 て、 一ヵ月 間 喪 に 服 す 。 王 は 金 花 冠
を か ぶ り 、 黄 金 製 の 師 子 座 に 坐 り 、 髪 の上 に 金 片 を つけ て 飾 り と し た 。 錦 抱 を 着 用 し 、 そ の 上 か ら 瑛 狢 を つけ て飾 る
(﹃周 書 ﹄ 異 域 伝 )。 こ の 国 は 良 馬 、 ラ バ
(
ガ ラ ス )、 獣 醜
(ダ イ ヤ モ ン ド )、 金 、 銀 、 鍮
(
毛 織 の 敷 物 )、
(顔 料 、 丹 薬 ) を 多 く 産 出 す る
(﹃魏 書 ﹄ 西 域
(ト リ カ ブ ト )、 訶 黎
(サ フ ラ ン )、 蘇 合
(
毛 織 の 敷 物 )、 號 鋭
(ル ビ ー )、 金 剛
(
大 騙 )、 ラ イ オ ン (師 子 )、 白 象 、 ダ チ ョ ウ の 卵 、 真 珠 、 頗 黎
(
石 緑 、 天 然 の 眼 病 薬 )、 雌 黄
(ナ ッ メ ヤ シ )、 附 子
(
朱 )、 水 銀 、 薫 陸 香 、 轡 金
(
糸 の 細 い 布 )、 概 號
(赤 色 の 大 鹿 の 皮 )、 朱 沙
(
綿 ?)畳 、細布
(
水 晶 )、 念 悪 、 呼 洛 羯 、 呂 騰 、 火 斉
(は が ね )、 錫 、 錦
(
綿 布 )、 檀 、 金 縷 織 成 、 赤 廉 皮
(
真 鍮 )、 銅 、 鑛 鉄
(
號 珀 )、 珊 瑚 、 瑠 璃 、 璃 璃 、 水 精
石
護 那、越諾布
(
樹 脂 )、 青 木 香
(ド ン グ リ )、 塩 緑
(
樹 脂 ) な ど の 香 料 、 胡 椒 、 畢撥 、 石 蜜 、 半 蜜 、 千 年 喪
香
(
か り ろ く )、 無 食 子
(
サ サ ン朝 ペ ル シ ア ) を 征 服 す る こ と が で き ず 、 こ れを 間 接 的 に 支 配 (
鵜 鷹 ) す る の み で あ る。 波
勒
(1)
(
サ サ ン朝 ペ ル シ ア ) は 中 国 に使 者 を 派 遣 す る こ と に 貢 物 を 献 上 す る 。 西 は 海 (イ ン ド 洋 ) か ら 数 百 里 、 東 は 穆 国
書 ﹄ は馳 (ラク ダ)、 ﹃
周書 ﹄ では 大騙 (ラ バ)と 馳、 ﹃
通典 ﹄ は大 騙を 脱落 し て いる。 白象 はイ ンド のも のであ って、 ぺ
史 )﹄ は産 物名 羅 列と 別 の文章 のな か で記 述 し ており 、 そ のほう が自 然 であ る。 ま た ﹃
魏書 (
北史 )﹄ と 比較 す ると、 ﹃
階
そ れが正 し い判断 だ った と思 わ れ る。 産 物名 の最初 に挙 げ られ る良 馬、 大騙 、師 子 、白 象、 大鳥 に つい ては、 ﹃魏書 (
北
しそ の後 の ﹃
中 国正 史 西域 伝 の訳 注﹄ (
内 田 一九 八 〇 二 七) では、 ﹃
魏 書﹄ 西域 伝 の原文 と し て採 用 し た。 結果 的 に は
そ れら が ﹃魏書 ﹄ 本来 の原文 であ るか 、 ﹃
周 書﹄、 ﹃階書 ﹄ の原文 であ る のか判 断 に迷 った (
内 田 一九 七 一 一九 七 )。 し か
﹃
通典 ﹄ 西戎伝 にも継 承 され る。内 田吟風 は散 侠 した ﹃
魏 書﹄ 西 域伝 の原 文を ﹃北史﹄ 西 域伝 か ら復 元す る にあ た って、
(1)波 斯国 産物 名 の羅 列 は、 ほぼ 同じ内 容 が ﹃
魏書 ﹄ 西域 伝、 波斯 国 条 にあり 、 それ が ﹃
周書 ﹄ 異域伝 、 ﹃
階書 ﹄ 西域 伝、
注
る 。 煬 帝 は 雲 騎 尉 の李 呈 を 派 遣 し て波 斯 と 通 好 し 、 波 斯 の使 者 は 李 呈 に 従 って階 に特 産 物 を 献 上 し た 。
(ア ー ム ル) か ら 四 千 餘 里 、 西 北 は 佛 秣 (ビ ザ ン ツ) か ら 四千 五 百 里 、 東 は 瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 一万 千 七 百 里 の 距 離 にあ
斯
伝 )。 西 突 厥 は 波 斯
m
訳注
83 『
階 書』 西 域 伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
(ラ イ オ ン ) は ペ ル シ ア 国
(
陀 )羅 国 胡 王所 献 。 ⋮⋮ 獅 子者 、 波斯 国 胡 王 所献 也 。為 逆 賊 万侯 醜 奴 所 獲、
ル シ ア に は ふ さ わ し く な い。 内 田 吟 風 が 指 摘 す る よ う に (
内 田 一九 七 一 日九 八 )、 ﹃
洛 陽伽 藍 記﹄ 巻 三 に ﹁
永 橋 南道 東 有
白 象 、 獅 子 二坊。 白 象 者、 永 平 二年 、 乾
留 於 冠 中。 永安 末 、醜 奴破 滅 、始 達 京師 ﹂ とあ り、 白 象 はガ ンダー ラ国か ら献 上 さ れ、 獅子
八 ∼ 一九 に 詳 し く 注 記 さ れ て い る の で参 照 さ れ た い。
か ら 献 上 さ れ た も の で あ った 。 そ の よ う な こ と か ら 白 象 は ペ ル シ ア (
波 斯 国 ) の特 産 に 混 同 さ れ た の で あ ろ う 。 な お 波
斯 国 の特 産 品 の内 容 に つ いて は 内 田 一九 八 〇 二
漕国 (
カ ーピ シ i)
ユ 漕 国 は 葱 嶺 の北 にあ る 。 漢 の時 の尉 賓 国 で あ る。 王 の姓 は 昭 武 で、 字 は 順 達 であ り 、 康 国 王 の宗 族 で あ る 。 都 城 は 四
里 四 方 であ る。 一万 人 餘 の勝 兵 を 擁 す る。 国 法 は 厳 格 で、 殺 人 と 強 盗 は み な 死 刑 と な る 。 そ の 国 は 淫 祠 を 祭 る。 葱 嶺 山
ソ
に順 天 神 と いう も の が あ り 、 儀 式 は 非 常 に華 美 であ る 。 祠 堂 は金 銀 の延 べ板 で屋 根 を 葺 き 、 銀 で 床 を 造 り 、 参 拝 者 は 一
日 に 千 餘 人 あ る 。 祠 堂 の前 には 一匹 の魚 の背 骨 が あ り 、 そ の ト ンネ ルを 通 って騎 兵 が 出 入 り す る 。 国 王 は金 魚 頭 冠 を か
ぶ り 、 金 馬 座 に 坐 る。 こ の地 は、 稲 、 粟 、 豆 、 麦 、 饒 象 、 馬 、 封 牛 (コブ ウ シ )、 金 、 銀 、 鎮 鉄 (は が ね )、 髭 髭 (毛 織
の敷 物 )、 朱 沙 (
朱 )、 青 黛 、 安 息 香 (
樹 脂 )、 青 木 香 な ど の香 料 、 石 蜜 、 半 蜜 、 黒 塩 、 阿 魏 、 没 薬 、 白 附 子 を 多 く 産 出
す る 。 北 は 帆 延 (バ ー ミ ヤ ー ン) か ら 七 百 里 、 東 は劫 国 か ら 六 百 里 、 東 北 は 瓜 州 (
敦 煌 ) か ら 六 千 六 百 里 の距 離 に あ る 。
大 業 年 間 に使 者 を 派 遣 し て 特 産 物 を 献 上 し た 。
注
(1)﹁在 葱嶺 之北 ﹂、 ﹁康国 王之 宗族 ﹂と す る のは、 ソグ ド諸 国 の曹 国 (
イ スティ ーカ ー ン) と混 同 したた めと おも わ れ る。
(
2 )漕国 の順 天神 と いう のは ﹃
大 唐 西域 記﹄ 巻 一、迦 畢 試国 条 に ﹁
萄 那 (スー ナ) 天神 ﹂ と あ るも のと 同 じ。 同書 巻 十 に
よれば 、 こ の天神 は漕 矩陀 国
(
現在
六 三 ∼ 一七 七 参
(
ザ ブ リ ス タ ン、 現 在 の ガ ズ ニ) に 祀 ら れ て い る 神 で あ り 、 ﹃階 書 ﹄ が カ ー ピ シ ー 国
の カ ー ブ ル 近 辺 ) を 漕 国 と 表 現 し た の は 、 そ れ に よ る 混 同 の結 果 と お も わ れ る 。 桑 山 正 進 一九 九 〇 二
照。
に か ぶ せ 、 獣 皮 で 遺 骸 を 覆 う 。 故 人 の 子 と 孫 は 実 泣 せ ず 、 甲 冑 を 着 用 し て 剣 舞 し な が ら 、 ﹁わ が 父 は鬼 に取 ら れ た 。 わ
を 吹 く 。 人 が 死 亡 す る と 、 喪 服 の 制 度 は な く 、 遺 骸 を 高 い ベ ッド の上 に安 置 し 、 死者 の衣 服 を 洗 い清 め 、 兜 と 鎧 を 遺 骸
兄嫁 を 妻 に す る 。 子 や弟 が 亡 く な る と 、 父 親 と 兄 が そ の未 亡 人 を 自 分 の 妻 と す る。 歌 舞 を 好 み 、 笙 を 吹 き な ら し 、 長 笛
こ の国 の 人 び と は 敏 捷 で、 剣 術 に 習 熟 す る 。 漆 の皮 で 兜 や鎧 を 造 り 、 弓 の長 さ は 六 尺 、 弦 は 竹 で造 る 。 大 勢 の母 親 や
酋 長 が 取 り 次 ぐ 。 罪 の重 いも のは 死 刑 、 罪 の軽 いも のは 牛 で罪 の償 いを す る 。
ず 門 にか ん ぬ き を か け 、 盗 賊 の 侵 入 を 防 ぐ 。 附 国 に は 二 万 餘 の戸 数 が あ り 、 指 示 、 号 令 は王 か ら 出 る。 嘉 良 夷 の政 令 は 、
∼ 三 歩 四方 の広 さ に な る 。 そ の形 状 は 仏 教 の層 塔 に 似 る 。 一階 に小 さ な 門 口を 開 き 、 内 側 か ら 上 の 階 に の ぼ る。 夜 は 必
丈 の高 さ が あ り 、 階 と 階 と の 間 隔 は 一丈 あ ま り 、 木 材 で 階 を 仕 切 る。 家 屋 の基 礎 は 三 ∼ 四歩 四方 、 最 上 階 に な る と 二
を 好 む 。 そ れ ゆ え 家 屋 は 石 を 積 み 重 ね て造 り 、 復 讐 の危 険 か ら 身 を 守 る 。 家 屋 の高 いも の は 十 餘 丈 、 低 いも の は 五 ∼ 六
南 北 八百 里 、 東 南 千 五 百 里 であ る 。 王 都 に は 城 柵 が な く 、 川谷 の近 く に あ り 、 山 険 に 依 拠 す る 。 国 の 習 俗 と し て は 復 讐
ず つ異 な り 、 お 互 いに 統 一し よ う と し な い。 人 び と に は 姓 が な い。 附 国 の王 は、 名 字 を 宜 糟 と い い、 そ の国 の大 き さ は 、
が お り 、 そ こ に居 住 す る種 族 は 自 ら 酋 長 に ひ き いら れ 、 附 国 に 従 属 す る 。 そ の 風 俗 は 附 国 と 同 じ で あ る が 、 言 語 は 少 し
附国 (
プ i 、 ピ ャ ー ユ ル)
ユ 附 国 は 、 蜀 郡 (四 川 省 ) の 西 北 二 千 餘 里 の所 に あ る 。 漢 の時 代 の西 南 夷 であ る 。 そ の東 部 に 嘉 良 夷 (ロ ロ、 カ ロ族 )
84
訳注
85 『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
れ わ れ は 鬼 を 殺 し て怨 みを は ら し た い﹂ と 叫 ぶ 。 そ の他 の親 戚 は 三 度 実 泣 し 、 そ し て止 め る 。 婦 人 は 突 泣 す る 時 、 必 ず
両 手 で 顔 を お おう 。 死 者 を 出 し た 家 は 牛 を 殺 し 、 親 族 は 猪 と 酒 を 贈 り 、 と も に 飲 食 し て 遺 骸 を 埋 葬 す る。 死 後 十 年 に 大
葬 を 行 う 。 大 葬 に は 必 ず 親 戚 や賓 客 が 集 い、 犠 牲 に使 用 す る 馬 は数 匹 な いし十 匹 に お よ ぶ 。 祖 父 の位 牌 を 立 て て礼 拝 す
る 。 そ の国 の風 俗 は 皮 で帽 子 を 作 り 、 形 は 丸 く 鉢 の よう で あ る 。 あ る も の は罧 羅 (べき ら ) を か ぶ る 。 衣 服 は 主 と し て
毛 織 物 や 皮 衣 を 着 用 す る。 牛 の脚 皮 を そ っく り 剥 ぎ 取 って 靴 を 作 る。 首 に は鉄 の鎖 を 懸 け 、 手 に は 鉄 輪 を 通 す 。 王 と 酋
長 た ち は金 製 の首 飾 り を つけ 、 胸 の前 に は 直 径 三 寸 の黄 金 の花 を 懸 け る 。 附 国 の土 地 は高 地 であ り 、 気 候 は 涼 し く 、 風
が 強 く 、 雨 は 少 な い。 小 麦 と 青 梁 (ハダ カ ム ギ ) が よ く 育 つ。 山 か ら 金 ・銀 が産 出 さ れ る 。 白 雄 が多 く 生 息 し 、 川 に は
嘉 魚 が お り 、 そ の 長 さ は 四 尺 、 細 か な 鱗 が あ る。
大 業 四 年 (六 〇 八)、 附 国 の 王 は 素 福 ら 八 人 を 使 者 と し て 派 遣 し て入 朝 さ せ た 。 翌 年 に は 、 王 は ま た 弟 の息 子 であ る
宜 林 に嘉 良 夷 の民 六 十 人 を 率 いさ せ て朝 貢 さ せ た 。 附 国 は 、 良 馬 を 献 上 し よ う と す る が 、 道 が 険 阻 で通 れ な いた め 、 山
道 を 開 拓 し て朝 貢 し た いと 朝 廷 に請 願 し た 。 し か し 、 煬 帝 は 、 開 拓 の た め の 工事 が 人 民 を 疲 弊 さ せ る と 言 って 、 許 さ な
か った 。
嘉良夷 には河 (
鴉 瀧 江 ?) が あ り 、 そ の広 さ は 六 十 ∼ 七 十 丈 であ る。 附 国 にも 河 (
金沙 江?) があり、広 さは百餘丈
で あ る。 と も に南 に 流 れ 、 皮 袋 の舟 で渡 河 す る。
附 国 の南 に は 薄 縁 夷 が あ り 、 風 俗 は 附 国 と 同 じ であ る。 西 に は 女 国 (西 チ ベ ット ) が あ り 、 そ の東 北 に は 山 が 数 千 里 、
長 く 連 な っ て い て、 党 項 (タ ング ー ト ) に 接 し て いる 。 そ の 間 に 羌 族 が 散 在 す る。 大 左 封 、 小 左 封 、 昔 衛 、 葛 延 、 白 狗 、
向 人 、 望 族 、 林 毫 、 春 桑 、 利 豆 、 迷 桑 、 碑 薬 、 大 破 、 白 蘭 、 叱 利 摸 徒 、 那 蔀 、 當 迷 、 渠 歩 、 桑 悟 、 千 稠 と いう 国 が あ り 、
そ れ ら は み な 深 い山 や 険 し い谷 に あ り 、 大 君 長 は いな い。 そ の風 俗 は党 項 と ほ と ん ど 同 じ で 、 吐 谷 渾 、 ま た は 附 国 に従
属 し て いる 。
こ れ ら の国 々 は 大 業 年 間 に 朝 貢 にき た 。 そ こ で 、 西 南 の辺 境 地 帯 に 諸 道 総 管 を 設 置 し 、 これ ら の国 々を 遠 方 よ り 管 轄
し た (﹃
北史﹄ 巻九十 六と ﹃
通 典 ﹄ 巻 一八 七 辺 防 三 に、 ほ ぼ 同 様 の附 国 伝 が あ る)。
注
(1) 附国 に つ いて は、 チ ベ ット人 が自 ら の国 を ﹁プ ー ︼
Woα﹂と 呼 ん で いた こと から、 附 国を そ れ に当 て、吐 蕃 の前 身 とす
る考 え 方 があ る。 確 か に階代 の記録 に は吐 蕃 の名 は見 え ず、 附 国 のみ があ り、 唐 代 の記 録 には 附国 の名 が消え 、 吐 蕃 が
登場 す る。 日本 では佐 藤 長が そ の意見 に賛 成 し (
佐 藤長 一九 七 八 "一七七 、 三八七 ∼ 三九 六)、 山 口瑞鳳 は本 来附 国 がチ
ベ ット東 部 のカム地 方を 呼 ぶ名称 であ ったと し て賛成 し な い (
山 口瑞 鳳 一九 八 三 u二〇 〇∼ 二 二五)。 山 口 は附国 の位 置
を そ のよう に考 え て、 本 文中 の附国 を 流れ る 河を 金沙 江 (
揚 子江 の上 流) と し、 また 嘉良 夷 を 流れ る 河を鴉 朧 江 に 比定
す る。佐 藤 は附国 を吐 蕃前 身と す る立場 か ら、 そ の南 に位 置 す ると いう 薄 縁夷 をブ ー タ ンに比定 す る。
呈 し て煬 帝 の心 を 揺 り 動 か し た の で、 煬 帝 は自 ら 玉 門 関 の外 に 出 征 し 、 伊 吾 (ハミ )、 且 末 (チ ェル チ ェン) に郡 を 設
も の で あ る 。 煬 帝 は 領 土 拡 張 の野 心 が あ り 、 秦 ・漢 を お お い凌 こう と し た 。 ち ょう ど そ のと き 斐 矩 が ﹃西 域 図 記 ﹄ を 進
と を喜 び 、 臣 下 が 軽 生 (生 命 を 軽 ん じ る) の節 に 殉 じ た こと に よ る 。 こ れ は 、 皇 帝 が好 む こ と を 下 が 知 って過 度 に行 う
う とした。万 死 (
死 ぬ 可 能 性 が 甚 だ多 い事 ) の地 に身 を 投 じ て 一撰 千 金 の 功 を 求 め た 。 みな 、 主 君 が 遠 来 の客 が多 い こ
が筆 を 投 げ 捨 て て西 域 に赴 いた 。 あ る 人 は多 く の宝 物 で 夷 秋 を 誘 って こ れ と 結 び 、 あ る 人 は剣 で も って夷 秋 を 征 服 し よ
そ れ に刺 激 さ れ て 好 奇 心 の強 い臣 下 が 輩 出 し た こと に よ る。 最 初 に 張 審 が 西 域 への道 筋 を 開 き (繋 空 )、 そ のあ と 班 超
史 臣 (
編 者 ) が 論 評 す る 。 いに し え より 遠 方 の夷 狭 の地 を 開 拓 し て絶 域 に 通 じ る に は 、 必 ず 雄 略 の皇 帝 が 世 に 出 て、
86
訳注
『
階 書』 西 域 伝 、 『周書 』 異 域 伝(下)の
m
(ロ ー マ) の明 珠 を 求 め 、 條 支 (ペ ル シ ア
置 し 、 そ の結 果 、 玉 門 関 の右 (西方 ) の流 砂 の地 域 に 及 ぶ ま で戦 争 で不 安 が 広 が った 。 も し 北 秋 の脅 威 が な く 、 東 夷 に
勝 利 を 収 め た な ら ば 、 き っと 輪 壼 に守 備 兵 を 設 け 、 烏 塁 の城 塞 を 築 き 、 大 秦
湾 ) か ら 駝 鳥 の卵 を も た ら し 、 東 西 を 往 来 し て 物 資 を 輸 送 し よ う と し た で あ ろ う 。 い った いどう や って、 そ の疲 弊 に 耐
え ら れ よ う か 。 いに し え の哲 王 (
賢 明 な 王 ) の 統 治 方 法 は 、 四 方 五 千 里 が中 国 王 朝 の安 寧 に つと め る べき 地 であ り 、 そ
れ よ り 外 側 の要 服 ・荒 服 の地 域 に は 干 渉 し な か った 。 ど う し て皇 帝 の威 徳 が 加 え ら れ な い こと が あ ろう か。 そ れ は お そ
ら く 四方 の夷 秋 に か か わ って 中 国 を 疲 労 さ せ な いた め で あ り 、 つま り 無 用 を も って有 用 を 害 し な いた め で あ った 。 と こ
ろ が秦 は 五 嶺 に駐 屯 し 、 漢 は 三 つの 辺 境 に干 渉 し た た め 、 あ る 時 は行 路 で飢 え 死 にす る も の が大 勢 お り 、 あ る 時 は 戸 口
が 半 減 し た 。 階 王 室 は 強 盛 を 侍 ん で、 ま た も や 青 海 で 吐 谷 渾 に翻 弄 さ れ て 狼 狽 し た 。 こ れ も み な 一人 (
煬 帝) が道 を
(
秩 序 正 し さ ) の 意 味 を よく 考 え 、 西 域
(
徳 のあ る 王 者 に 現 れ る瑞 祥 ) の貢 物 を 求 め な け
失 った た め に 、 億 兆 の民 が そ の毒 に苦 し む こと に な った の で あ る。 も し も 即 叙
諸 国 に よ る 都 護 の 設 置 の請 願 を 固 辞 し 、 千 里 を 走 る 馬 を 返 上 し 、 白 狼
れ ば 、 西 方 の七 戎 と 東 方 の九 夷 は 中 国 の徳 風 を 慕 い、 いく つも の通 訳 を 介 し て 中 国 に や って来 る だ ろ う 。 仮 に遼 東 (
高
句 麗 遠 征 ) の敗 戦 が あ った と し ても 、 ど う し て江 都 の災 いに 及 ぼ う か。
..
﹃周 書 ﹄ 巻 五十 異 域 伝
(
下)
(テ ユ ル ク ) [
省略 ]
﹃
周書 ﹄ 異域伝 (
下) 訳注細 目
突厥
(
ト ルフ ァン)
(
とよ く こん)
高昌
(ロ ー ラ ン)
吐谷渾
都善
(カ ラ シ ャ ー ル )
(ク チ ャ )
焉耆
亀茲
波斯
安息
粟特
噺腱
干閲
(ペ ル シ ア )
(
ブ ハラ)
(ソ グ ド )
(エ フ タ ル )
(ホ ー タ ン)
異 域伝 (下)跋 、付 異域 伝 (
上 )序
11 10 9 8 7
た 。 治 所 は 伏 侯 城 で 、 青 海 の西 十 五 里 の場 所 に あ った 。 城 郭 は あ った が 、 こ れ に は 住 ま ず 、 常 に テ ント で生 活 し 、 水 や
に吐 谷 渾 の名 前 を 氏 と し た 。
吐 谷 渾 か ら 伏 連 簿 に 至 る ま で十 四 世 代 であ った 。 伏 連 箒 が 亡 く な る と 、 息 子 の夸 呂 が 即 位 し 、 初 め て自 ら 可 汗 と 号 し
いた 。 慕 容 魔 は 人 を 派 遣 し て吐 谷 渾 を 詰 問 し た 。 す る と 吐 谷 渾 は 怒 り 、 自 分 の部 落 を 率 い て遼 東 を 去 り 、 抱 牢 で停 止 し 、
こ
自 ら 君 長 にな った 。 孫 の葉 延 の時 に な って書 伝 を 良 く 調 べ 、 い に し え で は 王 の父 親 の字 を 氏 と な し た こ と を 知 り 、 つ い
吐 谷 渾 は 、 も と も と は遼 東 の鮮 卑 、 慕 容 魔 の庶 兄 で あ った 。 初 め 吐 谷 渾 の馬 と 慕 容 魔 の馬 が 戦 い、 慕 容 魔 の馬 が 傷 つ
吐谷 渾 (
と よく こ ん )
6 5 4 3 2 1
草 を 追 い求 め て 牧 畜 を 行 った 。 そ の地 は 東 西 が 三 千 里 、 南 北 が 千 餘 里 であ った 。 官 職 に は 、 王 公 、 僕 射 、 尚 書 、 郎 中 、
将 軍 の号 が あ った 。 夸 呂 は 髪 を 後 ろ に た れ 、 ひ と 束 ね に し た ま げ を 結 い、 毛 飾 り と 珠 を 髪 に飾 り 、 黒 絹 の帽 子 を か ぶ り 、
金 の師 子 座 に 坐 って いた 。 彼 の妻 は恪 尊 と 号 し 、 織 り 成 し た 裾 嬬 (パ ン タ ロ ンと 丈 の短 い上 着 ) を 着 用 し 、 大 き な 錦 の
砲 を 着 て、 辮 髪 を 後 ろ に た ら し 、 頭 に 金 の花 を飾 って いた 。
吐 谷 渾 の男 性 の衣 服 は 中 国 と ほ ぼ 同 じ で、 多 く は 罧 羅 (べき ら ) を 冠 に し て いた 。 ま た 、 絹 の帽 子 を か ぶ って いた 。
ま ず 、 辺 境 地 帯 の多 く が 吐 谷 渾 の攻 撃 に よ っ て被 害 を 受 け た 。 西 魏 の廃 帝 二年
(
ヤ ク) を 産 し 、 鳥 は 鶏 鵡 が多 か った。
(
五 五 三 )、 太 祖 (
西 魏 の丞相宇 文泰 )
大統年 間 (
五 三 五 ∼ 五 五 一) 中 に 、 夸 呂 は ふ た た び 遣 使 し 、 馬 ・羊 ・牛 な ど を 献 上 し た 。 し か し 侵 攻 と 略 奪 は な お 止
そ の多 く が 駿 馬 で あ り 、 世 間 で は ﹁青 海 駿 ﹂ と し て 知 ら れ て いる 。 そ の地 は 葎 牛
こ の雌 馬 を 収 め ると 、 馬 は み な 子 を 孕 ん で お り 、 子 を 産 む の で 駒 を 得 る こ と が で き る 。 こ の駒 を 龍 種 と 号 し た 。 龍 種 は 、
周 囲 は 千 餘 里 で、 湖 の中 に小 さ な 山 が あ った 。 毎 年 の冬 、 湖 が 凍 った後 、 雌 の良 馬 を こ の 小 山 の上 に 置 き 、 翌年 の冬 に
多 く 、 た だ 、 か ぶ ら と 大 麦 だ け が 取 れ た 。 そ のた め 、 吐 谷 渾 では 貧 し いも の が多 く 、 豊 か な も の は少 な か った 。 青 海 の
し た 。 弓 矢 で狩 猟 す る こと を 好 み、 肉 や 乳 製 品 を 食 糧 と し た 。 ま た 農 耕 も 行 った 。 そ の 国 の北 の境 界 は 気 候 が 寒 い時 が
者 は ま た み な 遺 体 を 埋 葬 す る。 葬 儀 が終 わ る と 服 喪 の期 間も 終 わ った 。 そ の国 の人 々 の性 格 は 欲 深 く 、 平 気 で 人 を 殺 害
が 、 そ れ は 突 厥 の 風 俗 と 同 じ であ った。 婚 姻 の方 法 は 、 貧 し く て財 物 を 蓄 え ら れ な いも のは 、 女 性 を 盗 ん で 逃 げ た 。 死
頭 を す っぽ り つ つみ 、 高 い所 か ら 石 を 投 げ て罪 人 を 撃 ち 殺 し た 。 父 親 や 兄 が亡 く な ると 、 父 の後 妻 や 兄 嫁 達 を 妻 と し た
れ 以 外 の罪 を 犯 し た も の に 対 し て は物 で 瞭 罪 さ せ 、 罪 の程 度 を 考 え て 杖 刑 に処 し た 。 人 に 死 刑 を 下 す 時 に は 必 ず 絨 毯 で
女 性 は み な 連 珠 の紐 で髪 を 束 ね 、 そ の 珠 が 多 いも の ほど 身 分 が 高 か った 。 武 器 に は 弓 ・刀 ・鎧 ・矛 が あ った 。 そ の 国 に
(
3)
は 常 税 が な く 、 必 要 が あ れ ば 富 豪 や商 人 に 課 税 し て賄 って いた 。 刑 罰 は 、 人 を 殺 し た も のと 馬 を 盗 ん だ も の は 死 刑 、 そ
訳注
『
階 書 』 西域 伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
..
90
は大 軍 を 率 い て姑 蔵 (武 威 ) に 至 った 。 夸 呂 は 震 撚 し 、 西 魏 に使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。 こ の年 、 夸 呂 は ま た
遣 使 し て斉 氏 (北 斉 ) に も 通 好 し た 。 西 魏 の涼 州 刺 史 の史 寧 は、 吐 谷 渾 の使 者 の帰 還 を 伺 い知 る と 、 軽 装 騎 兵 を 従 え て
涼 州 の西 の赤 泉 で使 者 を 襲 撃 し 、 僕 射 の乞 伏 鯛 板 、 将 軍 の雀 播 密 、 商 胡 (ソグ ド 商 人 ) 二百 四 十 人 、 駄 馬 と ラ バを 六 百
頭 、 も ろも ろ のあ や ぎ ぬ や 絹 糸 を 数 万 獲 得 し た 。 西 魏 の恭 帝 二 年 (五 五 五 )、 史 寧 は ま た 突 厥 の木 汗 可 汗 と と も に夸 呂
を 襲 撃 し、 こ れ を 破 って妻 子 を 捕 虜 に し 、 珍 し い宝 物 や 諸 々 の畜 獣 を た く さ ん 獲 得 し た 。 そ の事 に つ い て は、 史 寧 伝
(﹃
周 書 ﹄ 巻 二 八 ) に 詳 しく 記 す 。 武 成 年 間 (五 五 九 ∼ 五 六 〇 ) の 初 め 、 夸 呂 は ま た 涼 州 に 入 冠 し 、 刺 史 の是 云 寶 は 戦 死
し た。 そ こ で、 賀 蘭 祥 、 宇 文 貴 に 詔 し て 軍 勢 を 率 い て こ れ を 討 た せ た 。 夸 呂 は 広 定 王 と 鐘 留 王 を 派 遣 し て こ れ を 拒 み
戦 った が 、 賀 蘭 祥 ら は 吐 谷 渾 の軍 勢 を 打 ち 破 り 、 広 定 王 ら は 逃 走 し た 。 賀 蘭 祥 は ま た 、 吐 谷 渾 の挑 陽 、 洪 和 の 二 つ の城
を 攻 め落 と し 、 挑 州 を 設 置 し て帰 還 し た 。 保 定 年 間 (五 六 一∼ 五 六 五 ) 中 に夸 呂 は 、 前 後 三 回 、 遣 使 し て特 産 物 を 献 上
(
五 六 七 ) 五 月 、 吐 谷 渾 は ま た 使 者 を 派 遣 し て来 献 し た 。
し た 。 天 和 年 間 (五 六 六 ∼ 五 七 二) の 初 め 、 吐 谷 渾 の龍 洞 王 莫 昌 が 民 を 率 いて 降 服 し た の で、 そ の地 を 扶 州 と な し た 。
天 和 二年
建 徳 五 年 (五 七 六 )、 吐 谷 渾 は 大 いに 乱 れ た 。 高 祖 (武 帝 宇 文 琶 ) は 皇 太 子 に詔 し て吐 谷 渾 を 征 伐 さ せ 、 北 周 の軍 隊
は 青 海 を 渡 って伏 侯 城 に到 達 し た 。 夸 呂 は 逃 亡 し 、 皇 太 子 は 残 った 民 を 捕 虜 に し て帰 還 し た 。 翌 年 、 夸 呂 は ま た 遣 使 し
て 献 上 品 を 奉 った 。 宣 政 年 間 (五 七 八 ) の初 め、 そ の趙 王 の 他 婁 屯 が や って来 て 降 服 し た 。 これ 以後 、 朝 貢 は つ い に途
絶えた。
注
(1) ﹃
晋 書﹄ 巻 九 七吐 谷渾 伝、 ﹃
宋書 ﹄ 巻九 六吐 谷 渾伝 によ れば 、 ﹃礼記﹄ に ﹁公 孫 之子 得以 王 父字為 氏 ﹂と あ る ので、 吐谷
渾 の名を 氏 にした とあ る。
訳注
91 『
階 書』 西 域 伝 、 『
周書 』 異 域 伝(下)の
(
五 三 〇 ∼ 四 )、 可 沓 振
(五 三 四 ∼ ? ) が 王 位 を 継 い だ と す
(
2)﹃
周 書 ﹄ 吐 谷 渾 伝 で は 伏 連 簿 が 死 ん だ 後 、 子 の夸 呂 が た だ ち に 即 位 し た と 読 め る が 、 ﹃
梁 書 ﹄ の河 南 伝 と 武 帝 本 紀 下 で
(
五 二 九 )、 つ い で 仏 輔
(
五 三 四 ∼ 五 年 ) に 当 た り 、 北 朝 と 吐 谷 渾 の交 流 が
(五 四 〇 ) に 東 魏 に 朝 貢 し て いる の で (﹃北 史 ﹄ 吐 谷 渾 伝 )、 そ の 即 位 は 五 三 四 年 以 降 、 五 四
は 、 伏 連 簿 の 死 後 、 そ の子 の 呵 羅 真
る 。 一方 、 夸 呂 は 興 和 二 年
〇 年 以 前 と な る 。 こ の よ う な 南 ・北 朝 史 料 の 相 違 は 、 北 魏 の分 裂 期
途 切 れ た た め で あ り 、 南 朝 の 記 録 の方 に 信 懸 性 が あ る 。 な お 、 ﹃
階書 ﹄ では 夸呂 を呂 夸と 記す 。
(﹃
階 書 ﹄ は 木 粁 可 汗 と 表 記 ) は 同 じ 五 五 五 年 、 エ フタ ル 遠 征 も 行 って いる 。
(3 ) 吐 谷 渾 の 常 税 に つ い て は 松 田 寿 男 一九 八 七 a "九 五 を 参 照 。
(4 ) 木 汗 可 汗
吐谷渾 王の系図
① 吐 谷 渾 (? ∼ 三 一七 )1 ⋮ ⋮1 ⑭ 伏 連 簿 (四九 〇 ∼ 五 二 九 )1 ⑱ 夸 呂 (五 三 五 ∼ 五 九 こ
高 昌 (ト ル フ ァ ン)
高 昌 は 、 車 師 前 王 の故 地 であ る 。 東 は 長 安 か ら 四 千 九 百 里 の距 離 に あ り 、 漢 の西 域 長 史 と 戊 己 校 尉 が 共 に 、 こ の地 に
治 所 を お い て いた 。 晋 は こ の地 を 高 昌 郡 と し た 。 張 軌 、 呂 光 、 沮 渠 蒙 遜 は 河 西 に 拠 点 を 置 き 、 み な こ こ に太 守 を 置 い て
高 昌 を 統 治 し た 。 そ の 後 、 閾 爽 と 沮 渠 無 韓 が 、 自 称 し て太 守 と な った 。 沮 渠 無 誰 が 死 ぬ と 、 茄 茄 (柔 然 ) が 無 誰 の弟 安
周 を 殺 し 、 閾 伯 周 を 高 昌 王 に つけ た 。 高 昌 に お いて 支 配 者 が 国 王 と 称 す る の は 、 これ よ り 始 ま った 。 閾 伯 周 の甥 の首 帰
は 、 高 車 に滅 亡 さ せ ら れ た 。 次 に張 孟 明 、 馬 儒 が 相 次 い で国 王 に な った が 、 二人 と も 国 人 た ち が 殺 害 し た 。 そ こ で国 人
た ち は 麹 嘉 を 推 戴 し て 王 と し た 。 麹 嘉 は 、 名 字 を 霊 鳳 と い い、 金 城 郡 楡 中 (
甘 粛 省 蘭 州 ) の人 であ った 。 も と も と は馬
儒 の右 長 史 で あ った 。 北 魏 の太 和 年 間 末
〇 =口
同昌 伝 )
(
四 九 九 ) に 即 位 し た 。 麹 嘉 が 死 ぬ と 、 息 子 の堅 が 即 位 し た 。 (﹃
魏 書﹄巻 一
(
役 所 ) が な く 、 た だ 毎 朝 、 宮 廷 に 集 って 諸 事 を 評 議 す る。 諸 城 に は そ れ ぞ れ 戸 曹 (戸 籍 を 司 る 部
麹 嘉 よ り 以 後 、 歴 代 の国 王 は 北 魏 のた め に 藩 臣 の役 目 を 務 め た 。 大 統 十 四年
(
五 四 八 )、 西 魏 の文 帝 は 詔 を く だ し て
穫 で き る。 養 蚕 に適 し 、 果 実 (五 果 ) が 豊 富 であ る 。 羊 刺 (
刺 蜜 ) と いう 草 が あ り 、 そ の上 に蜜 が 生 じ る。
刑 法 、 風 俗 、 婚 姻 、 葬 制 は 、 中 国 と 大 同 小 異 であ る 。 そ の 土 地 は 石 礫 が 多 い。 気 候 は 温 暖 で、 穀 物 と 麦 は 一年 に 二 回収
を 学 習 す る と き に は 、 み な ソグ ド 語 に 訓 読 し て理 解 す る。 税 金 は 銀 貨 で 徴 収 し 、 銀 貨 を 持 た な いも のは 麻 布 を 納 め る 。
(ソ グ ド 文 字 ) も 併 用 す る 。 ﹃
毛 詩 ﹄ ﹃論 語 ﹄ ﹃
孝 経 ﹄ を 有 し 、 学 校 に、 教 師 、 弟 子 (
生 徒 ) を 置 いて 教 育 す る 。 漢 文 書 籍
同 じ も のを 着 用 す る。 武 器 に は 弓 矢 、 刀 と 楯 、 甲 冑 、 槍 が あ る 。 文 字 も ま た 中 国 と 同 じ 漢 字 を 使 用 し 、 あ わ せ て胡 書
署 )、 水 曹 (
水 利 を 司 る部 署 )、 田曹 (
農 業 を 司 る 部 署 ) が あ る (地 方 官 )。 城 ご と に 中 央 か ら 司 馬 、 侍 郎 が 派 遣 さ れ 、
互 い に検 校 を 司 ら せ る 。 か れ ら の こと を 城 令 と よ ぶ 。 服 飾 に つ い て は 、 男 性 は 胡 服 を 着 用 し 、 女 性 は ほと ん ど 中 国 服 と
れども 、 みな曹府
が 、 事 案 が 終 了 す れ ば 、 そ れ を 破 棄 す る 。 籍 書 のほ か は、 文 書 案 件 を 長 く 保 存 す る こ と は な い。 官 人 に は 官 位 が あ る け
(
道 案 内 ) を 専 ら 司 る 。 大 事 は 国 王 が 決 め 、 小 事 は 世 継 ぎ (世 子 ) と 二人 の公 が 状 況 に 応 じ て 決 済 す る 。 評 議 記 録 す る
佐 す る 。 次 が 侍 郎 、 校 書 郎 、 主 簿 、 従 事 で、 位 階 は 次 第 に 下 り 、 諸 々 の 物 事 を 分 割 し て 司 る。 そ の次 が 省 事 で、 導 引
ある (
文 官 )。 そ の次 が 建 武 、 威 遠 、 陵 江 、 殿 中 、 伏 波 な ど の 将 軍 であ る (
武 官 )。 次 が 八 人 の司 馬 で、 長 史 が こ れ を 補
の次 が左 右 の衛 で あ る 。 そ の次 に 入 人 の長 史 が あ る 。 吏 部 、 祠 部 、 庫 部 、 倉 部 、 主 客 、 礼 部 、 民 部 、 兵 部 な ど の長 史 で
中 国 の宰 相 に相 当 す る 。 そ の次 に公 が 二人 お り 、 み な 王 子 が そ の 地 位 に就 く 。 一つは 交 河 公 、 一つは 田 地 公 であ る 。 そ
高 昌 の地 は東 西 が 三 百 里 、 南 北 が 五 百 里 で あ る 。 国 内 に は 全 部 で 城 が 十 六 あ る。 官 職 に は 、令 サ が 一人 あ り 、 こ れ は
92
訳注
『
階 書』 西域 伝 、 『
周 書 』 異 域伝(下)の
93
世 子 の玄 喜 を 高 昌 王 と し た 。 恭 帝 二年
(
五 五 五 ) に は 、 ま た 田 地 公 の茂 に 王 位 を 継 が せ た 。 武 成 元 年
(
五 五 九 )、 国 王
は使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。 保 定 年 間 (五 六 一∼ 五 六 五 ) の初 め 、 ま た 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た 。
敦 煌 か ら 高 昌 に 向 かう 時 、 砂 漠 が 多 く 、 そ の道 中 、 道 筋 を 明 示 す こと が でき ず 、 た だ 人 骨 や 獣 骨 、 駄 馬 の糞 を 道 し る
べと す る 。 ま た 途 中 に魑 魅 魍 魎 や 怪 異 が出 現 す る の で 、 キ ャ ラ バ ン (
商 隊 ) は往 来 す る時 、多 く が伊 吾 (ハミ ) 経 由 の
路 を 利 用 す る と いう 。
注
(ロ ー ラ ン )
(
1) 嶋崎 昌 一九 七七 a H二五 三∼ 三〇九 。
都善
都 善 は 、 いに し え の楼 蘭 国 であ る 。 東 は 長 安 か ら 五 千 里 の距 離 に あ る。 都 城 の 大 き さ は 一里 四 方 で あ る 。 そ の土 地 は
塩 分 を 含 む 砂 地 が多 く 、 水 や 草 が少 な い。 北 に は 白 龍 堆 (ク ム タ ー グ ) を 経 る 交 通 路 が あ る 。 北 魏 の太 武 帝 の時 、 沮 渠
安 周 に攻 撃 さ れ 、 都 善 の 王 は 西 に走 り 且 末 (チ ェル チ ェ ン) に逃 げ た 。 西 北 に は流 砂 が 数 百 里 あ り 、 夏 に は 熱 風 が 吹 き 、
旅 人 を 悩 ま せ る。 熱 風 の到 来 は 、 た だ 年 老 いた ラ ク ダだ け が 知 る 。 そ の ラ ク ダ は熱 風 が 来 る と 鳴 いて知 ら せ 、 他 の ラ ク
ダ ら は集 ま り 、 身 を 寄 せ合 って立 ち 、 口 や鼻 を 砂 の中 に 埋 め る。 人 は い つも そ れ を 砂 嵐 の前 兆 と し て 、 絨 毯 で鼻 と 口を
覆 う 。 熱 風 は非 常 に 速 く 、 し ば らく す ると 通 り 過 ぎ る。 も し 熱 風 の予 防 を し な いと 甚 だ 危 険 であ り 、 倒 れ 死 ぬ こ と が あ
る 。 (﹃魏 書 ・北史 ﹄ 西 域 伝 、 且 末 国 )。 大 統 八年 (五 四 二 )、 王 の兄 の都 米 が 民 を 従 え て降 服 し た 。
注
(1) ﹃
魏書 ﹄ ﹃
北 史﹄ 西 域伝 、 且末 国条 に ﹁
真 君 三年 (四 四 二)都 善 王比 龍避 沮 渠安 周 之 難、 率国 人 之半 奔 且末 、 後役 属 蔀
焉耆
善 。﹂ と あ り 、 ま た 都 善 国 条 に ﹁無 諌 後 謀 渡 流 沙 、 遣 其 弟 安 周 撃 郵 善 、 王 比 龍 恐 催 欲 降 。﹂ と や や 詳 し く 記 述 さ れ て い る 。
(
カ ラ シ ャ ー ル)
焉 耆国 は白 山 (
天 山 山 脈 ) の南 七 十 里 に あ る 。 東 は 長 安 か ら 五 千 八 百 里 の距 離 に あ る 。 王 の姓 は 龍 で、 前 涼 の張 軌
(通 典 に よ れ ば 、 張 駿 ) が 封 じ た (北 史 に よ れ ば 、 討 った ) 龍 煕 の末 裔 で あ った 。 都 城 は 二 里 四 方 で あ る。 国 内 に は 全
部 で九 つ の城 が あ り 、 国 は 小 さ く 民 は 貧 し く 、 綱 紀 や法 令 は な い。 武 器 に は 弓 、 刀 、 甲 冑 、 槍 が あ った 。 婚 姻 は 中 国 と
ほ ぼ 同 じ で、 死 者 は み な 火 葬 に付 す 。 服 喪 の期 間 は 七 日 が 満 ち て終 わ る。 男 性 は み な 髪 を 切 り (勇 髪 )、 首 飾 り を つけ
る 。 文 字 は 婆 羅 門 (イ ン ド ) と 同 じ 。 そ の国 の風 俗 は 天神 に つかえ 、 ま た 仏 法 も 信 仰 す る 。 二 月 八 日と 四 月 八 日 を 最 も
重 んず る 。 こ の 日 、 こ の国 の人 々 は み な 仏 教 の教 え に従 い、 斎 戒 し 、 善 行 を 修 め る。 気 候 は寒 いが 、 田畑 は 肥 沃 で あ る。
穀 物 に は 稲 ・粟 ・豆 ・麦 が あ り 、 家 畜 に は 駄 馬 ・牛 ・羊 が あ る。 養 蚕 を 行 う が 糸 は作 ら ず 、 た だ 綿 入 れ に あ て る。 人 び
と は ブ ド ウ 酒 を 好 尚 し 、 音 楽 を 愛 好 す る 。 南 は 十 餘 里 に海 (ボ ス テ ン湖 ) が あ り 、 魚 ・塩 ・蒲 ・葦 が 豊 富 で あ る。 保 定
四 年 (五 六 四 )、 王 は 使 者 を 派 遣 し て名 馬 を 献 上 し た 。
亀 茲 (ク チ ャ)
る 。 婚 姻 、 葬 制 、 風 俗 、 物 産 は 焉 耆 と ほ と ん ど 同 じ であ る。 た だ 気 候 は 少 し 暖 か く 、 焉 耆 と は 異 な る 。 ま た 細 競 (
糸の
片 足 を 切 断 す る 。 税 金 は 、 そ の人 が 所 有 す る 土 地 の広 さ に応 じ て徴 収 し 、 耕 作 地 を 持 た な いも の は 銀 貨 を 税 と し て納 め
の後 裔 で あ る 。 都 城 は 五 ∼ 六 里 四 方 で あ る 。 刑 法 では 、 殺 人 を 犯 し た も の が 死 刑 、 人 や 物 を 略 奪 し た も の は 片 腕 を 断 ち 、
亀 茲 国 は白 山 の南 百 七 十 里 に あ る。 東 は 長 安 か ら 六 千 七 百 里 の距 離 に あ る。 王 の姓 は 白 で、 後 涼 の呂 光 の立 てた 白 震
94
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異域 伝(下)の
95
細 い毛 織 物 )、 塵 皮 (
大 鹿 の皮 )、 概 饒 、 鏡 沙 、 塩 緑 (石 緑 、 天 然 の眼 病 薬 )、 雌 黄 (顔 料 、 丹 薬 )、 胡 粉 、 良 馬 、 封 牛
(コブ ウ シ ) な ど を 産 出 す る。 東 に輪 皇 が あ り 、 こ れ は 漢 の武 師 将 軍 の李 広 利 に よ って全 滅 さ せ ら れ た 所 であ る (﹃漢
書 ﹄ 巻 六 十 一、 李 広 利 伝 )。 そ の南 三百 里 の と こ ろ に 大 き な 河 が あ り 東 に 流 れ て い る。 計 戍 水 (キ ジ ル ・タ リ ム河 ) と
よ ば れ る が 、 こ れ が 黄 河 と な る 。 保 定 元 年 (五 六 一)、 王 は 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た 。
干 聞 (ホ ー タ ン )
干 聞 国 は葱 嶺 (パ ミ ー ル) の北 二百 餘 里 のと こ ろ に あ り 、 東 は 長 安 か ら 七 千 七 百 里 の 距 離 にあ る 。 都 城 は 八 ∼ 九 里 四
方 で あ り 、 国内 に は大 き な 城 が 五 つ、 小 さ な 城 が数 十 あ る。 そ の国 の 刑 法 で は、 殺 人 を 犯 し た も のは 死 刑 、 そ れ 以 外 の
罪 は そ れ ぞ れ そ の軽 重 に 従 って懲 罰 を 加 え る 。 そ の他 の風 俗 、 物 産 は亀 茲 と ほと ん ど 同 じ で あ る。 習 俗 と し て 仏 法 を 重
ん じ 、 寺 や塔 、 僧 や尼 が 非 常 に多 い。 王 は 最 も 信 心 深 く 、 斎 会 (
僧 衆 を 家 に招 待 ) を 設 け る と き は 、 い つも 必 ず 自 ら 水
ユ を ま き 、 箒 で 掃 き 清 め 、 食 事 を 給 す る 。 城 の南 五 十 里 の所 に は 賛 摩 寺 (
房9同日鋤) が あ る。 こ れ は 昔 の羅 漢 比 丘 の比 盧
旋 (
<母 08 葛 遍 照 ) が 、 こ の国 の王 の た め に覆 盆 浮 図 (
半 球 形 の仏 塔 ) を 建 立 し た と こ ろ であ る 。 そ こ に あ る 石 の上
に は 、 そ の辟 支 佛 (
独 覚 ) が 足 を のせ た 台 が あ り 、 両 足 のあ と (仏 足 跡 ) が いま で も な お残 って いる 。 高 昌 以 西 の諸 国
の 人 々は 、 そ の多 く が 深 目 で鼻 が高 い が、 た だ こ の 干 關 一国 だ け が 、 容 貌 は 胡 (ソグ ド 人 ) に 全 く 似 てお ら ず 、 中 国 人
に非 常 に 似 て いる 。 城 の東 二十 里 の所 に は 大 河 が あ って北 に流 れ てお り 、 樹 枝 水 (ユ ル ン ・カ ー シ ュ) と 号 し て い る。
こ れ が 黄 河 と な る 。 城 の 西 十 五 里 の所 にも 大 河 が あ り 、 達 利 水 (カ ラ ・カ ー シ ュ) と 名 づ け ら れ て いる 。 樹 枝 水 と と も
に北 に 流 れ 、 同 じ よ う に 計 戍 水 (タ リ ム河 ) に 合 流 す る 。
建 徳 三 年 (五 七 四 )、 王 は使 者 を 派 遣 し て名 馬 を 献 上 し た。
96
注
(
水 谷真
(﹃
洛 陽 伽 藍 記 ﹄ 巻 五 、 干 閲 条 )﹂、 チ ベ ッ ト 語 文 献 の ﹃
干 閲国 史﹄ (
寺本
(1 ) 賛 摩 寺 の創 建 と 比 盧 施 比 丘 に つ い て は 、 ホ ー タ ン の仏 教 初 伝 説 話 と し て、 ﹃
大 唐西 域記 ﹄巻 十 二嬰 薩旦 那国 条
成 一九 七 一 "三 九 六 ∼ 三 九 七 )、 ﹁宋 雲 の 旅 行 記
娩 雅 一九 六 一 "二 三 ∼ 二 五 、 霜 ・肉o葺 巨 = ○。○。幽 "b。ωO歯ら○
。) な ど に 記 さ れ て いる 。
燵? (エ フ タ ル)
嚇 燵 国 は 大 月 氏 の種 族 で、 子 關 の 西 方 にあ る 。 東 は 長 安 か ら 一万 百 里 の距 離 にあ る 。 王 の治 所 は 抜 底 延 城 (バ ル ブ)
で 、 そ れ が いわ ゆ る (小 ) 王 舎 城 であ る。 城 は 十 餘 里 四 方 で あ る 。 刑 法 、 風 俗 は 突 厥 と ほ ぼ 同 じ 。 そ の習 俗 と し て 兄弟
は と も に 一人 の妻 を 嬰 る (一妻 多 夫 )。 夫 に兄 弟 が いな い場 合 、 そ の妻 は 一角 の帽 子 を か ぶり 、 も し も 兄弟 が いる 場 合 、
(五 五 三 ) と 明 帝 二 年 (五 五 八 ) のと き
兄 弟 の数 の多 少 に 従 っ て帽 子 に 角 を 加 え る。 こ の 国 の人 々は 凶 悪 で荒 々し く 、 戦 闘 に 長 け る 。 干 閲 、 安 息 (ペ ル シ ア)
な ど の大 小 二 十 餘 国 が み な 噺 燵 に 従 属 す る。
大 統 十 二 年 (五 四 六 )、 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。 西 魏 の 廃 帝 二年
(ソグ ド)
に使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た 。 そ の後 、 突 厥 に 撃 破 さ れ て部 落 は 四 散 し 、 朝 貢 は つ い に途 絶 え た 。
粟特
粟 特 国 (ソグ デ ィ ア ナ の遊 牧 民 ) は 葱 嶺 の西 方 に あ る 。 お そ ら く 、 いに し え の庵 察 (ア ラ ン) で あ ろう 。 ま た の名 を
温 那 沙 (フ ー ナ ス タ ン ) と い い、 大 き な 澤 (ア ラ ル海 ) のほ と り を 根 拠 と し 、 康 居 (
キ ル ギ ス ・ス テ ップ ) の 西 北 に い
る。 保 定 四年 (五 六 四 )、 王 が 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書』 異 域 伝(下)の
97
安息
(安 国 1ー ブ ハ ラ )
(ペ ル シ ア) と そ れ ぞ れ隣 接 し た 。 東 は 長
(
五 六 七 )、 王 は 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た 。
安 息 国 は 葱 嶺 の西 方 にあ り 、 治 所 は 蔚 捜 城 で あ る。 北 は 康 居 と 、 西 は 波 斯
安 か ら 一万 七 百 五 十 里 の距 離 に あ る。 天 和 二年
波 斯 (ペ ル シ ア)
波斯 国 (
サ サ ン朝 ペ ル シ ア) は、 大 月 氏 の別 種 であ り 、 治 所 は 蘇 利 城 (セ レ ウ キ ア)、 漢 代 條 支 国 (メ ソポ タ ミ ア南
部 ) の故 地 に あ た る 。 東 の長 安 か ら 一万 五 千 三 百 里 の距 離 に あ る。 都 城 は十 余 里 四 方 で 、 戸 数 は 十 餘 万 、 国 王 の姓 は 波
斯 氏 であ る 。 王 は金 羊 座 に 坐 り 、 金 花 冠 を 戴 き 、 錦 砲 と 織 成 被 (
毛 織 の シ ョー ル) を 着 用 し 、 そ れ ら は み な 珍 し い珠 や
(シ ョ ー ル ) を 持 ち 、 そ の ふ ち は 織 り 成 さ れ て い る。 女 性 は 大 き な 上 衣
宝 石 で 装 飾 さ れ て いる 。 そ の国 の 習 俗 で は 、 男 性 は 髪 を 切 り (
勇 髪 )、 白 い皮 の帽 子 を か ぶ り 、 貫 頭 衣 を 着 用 す る。 貫
頭 衣 の 左 右 裾 に は ス リ ット が 入 る 。 み な 巾?
(
杉 )に、大 きな破 (
う ち か け ) を 着 用 し 、 髪 の先 端 を ま げ に 結 い、 背 中 の 後 ろ側 に 髪 を た ら す 。 頭 は 金 銀 花 で飾 り 、
五色 の珠 で 連 ね た 腕 輪 を 上 腕 に ま く 。
国 王 は 国 内 に 小 牙 (別 荘 ) を 十 餘 所 持 つ。 そ れ は 中 国 の離 宮 と 同 じ であ る 。 毎 年 四 月 、 王 は 外 遊 し 、 こ の 小 牙 (別
荘 ) で過 ご し 、 十 月 に な ると 都 に 帰 還 す る 。 王 が 即 位 す ると 、 諸 王 子 の中 か ら賢 明 な も のを 選 び 、 ひ そ か に そ の子 の名
前 を 記 し て文 庫 の中 に 封 印 し て いれ て お く 。 諸 王 子 と 大 臣 は み な 、 そ の名 前 を 知 ら な い。 王 が 亡 く な る と 国 人 は と も に
文 庫 か ら 書 を 取 り 出 し 、 そ れ を 見 て封 書 中 に 名 を 記 さ れ た も のを 、 直 ち に 国 王 と す る 。 他 の諸 王 子 は 、 そ れ ぞ れ 宮 殿 を
出 て、 辺 境 の任 地 に赴 く 。 兄 弟 は そ れ 以 降 、 互 いに 顔 を あ わ せ る こ と が な い。 国 人 は 王 の こと を 騎 噴 (
ωげ鋤げ鋤昌ωげ鋤び)
98
と 号 し、 妃 を 防 歩 率 (
び習 甑のぎ )、 王 の 諸 子 を 殺 野 (
ωげ魯 曼 習 ) と 呼 ぶ。 大 官 に は 摸 胡 壇 (
B謎 葛 鉾習 ) が あ り 、 国内
の獄 訟 を 司 り 、 泥 忽 汗 (σq磐 9<胃 ) は 庫 蔵 関 禁 を 司 り 、 地 卑 勃 (
臼b副ぎ ) は 文 書 と 庶 務 を 司 る 。 そ の次 が 遇 羅 訶 地
(
⇔薦 筈 巴 げ) で 、 王 の内 事 を 司 り 、 薩 波 勃 (
ω冨 喜 帥爵 ) は 四方 の兵 馬 を 司 り 、 そ の下 に は み な 属 官 が お り 、 事 務 を 分
ユ 担 す る 。 兵 器 に は 、 甲 冑 、 槍 、 円 陣 戦 用 の剣 、 弩 、 弓 矢 が あ り 、 戦 争 に は 騎 象 を前 列 に並 べ、 一頭 の象 ご と に 百 人 が付
き 従 う 。 刑 法 では 、 重 罪 のば あ いは 罪 人 を 棒 の先 に つる し、 弓 で射 殺 す る 。 そ の次 が 投 獄 であ り 、 新 王 が 即 位 す ると 釈
放 さ れ る。 罪 の軽 いも のは 、 鼻 そ ぎ 、 足 き り 、 も し く は 髪 き り の刑 に処 さ れ 、 み な 髭 を 半 分 剃 り 落 と さ れ 、 首 に 牌 を つ
け さ せ ら れ て 、 恥 辱 を 受 け さ せ る 。 盗 みを 犯 し た も のは 終 身 禁 固 の刑 に 処 せ ら れ る 。 貴 人 の妻 と 姦 通 し た 場 合 、 男 は 流
(
ゾ ロ ア スタ ー教 ) を 信 仰 す る 。 結 婚 の際 に は身 分 の貴 賎 を 選 ば な い。 だ か ら 、 多 く の夷 狭 の
刑 に処 さ れ 、女 は 耳 と 鼻 を 削 が れ る 。 税 金 は 、 所 有 す る 土 地 の多 寡 に応 じ て銀 貨 を 納 め る 。
そ の国 の 習 俗 は 火 厭 神
中 で は 最 も 醜 く 汚 ら わ し い。 庶 民 の女 は 年 が 十 歳 以 上 に な る と 、 容 色 の美 し いも のを 国 王 が こ れを 宮 殿 に入 れ て養 い、
勲 功 のあ った も の に分 け 与 え る。 死 者 が で る と 、 多 く は 屍 を 山 に 捨 て る。 喪 に服 す る 期 間 は 一ヵ月 で あ る 。 城 外 に は特
別 の集 落 が あ り 、 そ こ に 住 む 人 び と の み が葬 儀 を と り 行 う こと が でき る。 か れ ら は ﹁不 浄 人 ﹂ と 呼 ば れ る 。 不 浄 人 がも
し 城 市 に入 る 時 は 、 みず か ら 鈴 を鳴 ら し て 人 に知 ら せ る 。 六 月 を 年 の初 め の正 月 と し 、 七 月 七 日と 十 二月 一日 を 最 も 重
ん じ る 。 そ の 日 、 庶 民 以 上 のも の は 、 そ れ ぞ れ 互 いに 示 し 合 せ て 、 宴 会 を 設 け 音 楽 を 演 奏 し 、 歓 楽 を 尽 く す 。 ま た 毎 年
正月 二十日 には、それ ぞれが先祖 や死者を祭 る。
こ の国 の気 候 は 非 常 に 暑 く 、 家 に は 氷 室 が あ る。 こ の地 は砂 漠 が 多 く 、 水 を 引 い て灌 概 す る 。 五穀 と 禽 獣 は 中 国 と だ
(
ダ チ ョ ウ ) の卵 、 珍 珠 、 離 珠 、 頗 黎 (ガ ラ ス )、 珊 瑚 、 號 珀 、 瑠 璃 、 璃 璃 、 水 晶 、 琶 慧 、
いた い同 じ であ る が 、 た だ 稲 と 黍 と も ち あ わ だ け が な い。 こ の 地 は 名 馬 と ラ ク ダを 産 し 、 富 豪 は 数 千 頭 を 保 有 す る 。 ま
た 、 白 象 、 ラ イ オ ン、 大 鳥
訳注
『階書 』 西 域伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
99
(ダ イ ヤ モ ン ド )、 火 斉
(は が ね )、 銅 、 錫 、 朱 沙
(
赤 色 の 大 鹿 の 皮 )、 そ れ に 薫 六 、 馨 金
(ル ビ ー )、 鑛 鉄
(
毛 織 の 敷 物 )、 鋭 號 、 赤 肇 皮
(
真 鍮 )、 金 剛
(
毛 織 物 )、 概 饒
金、銀 、鍮 石
白畳、苗
(
朱 )、 水 銀 、 綾 、 錦 、
(ド ン
(
サ フ ラ ン ) ・蘇 合 香 ・
(か り ろ く 、 薬 用 果 実 )、 無 食 子
(﹃魏 書 ﹄ 西 域 伝 )。
(ナ ツ メ ヤ シ )、 香 附 子 、 訶 黎 勒
(
顔料 、丹薬)を 産出す る
(五 五 三 )、 王 は 使 者 を 派 遣 し て 特 産 物 を 献 上 し た 。
(石 緑 、 天 然 の 眼 病 薬 )、 雌 黄
青 木 香 な ど の香 料 、 胡 椒 、 華 撲 、 石 蜜 、 千 年 喪
グ リ )、 塩 緑
西 魏 の 廃 帝 二年
注
(1 ) サ サ ン 朝 ペ ル シ ア の行 政 組 織 に つ いて は 、 O筒 巨 Φ霧 窪 一〇念 n㊤刈山らO参 照 。
(2 ) 張 小 貴 二 〇 〇 二 n六 八 ∼ 七 五 。
史臣 (
編 者 ) が 論 評 す る。 四 夷 が 中 国 の災 いと な る こと は久 し く 、 と り わ け 北 秋 (
北 方 遊 牧 民 族 ) が 最 も 甚 だ し い。
む か し 嚴 尤 と 班 固 の 二 人 は と も に 周 お よ び 秦 、 漢 の対 外 政 策 が 最 善 で な か った と 考 え た 。 賢 者 た ち の 博 識 の議 論 と は い
ユ え 、 編 者 は か ね て か ら そ れ に疑 問 を いだ い て い る。
そ も そ も 昔 か ら 和 平 と 戦 乱 が 繰 り 返 さ れ る こと と 、 風 俗 に良 し 悪 し の変 遷 が あ る こと は、 中 華 も 夷 秋 も 変 わ り な い。
そ れ ゆ え に夷 秋 (
異 民 族 ) が 道 徳 に そ む き 、 仁 義 を 捨 て 、 傲 慢 に な る 風 潮 は 歳 ご と に拡 大 し 、 涯 陽 (甘 粛 省 平 涼 県 西
方 ) に ま で押 し 寄 せ 、 と き に は 北 地 郡 (
寧 夏 回族自治 区) に侵 入し、 かれ らが内 地 にはび こる傾向 は 日ごと に深刻 に
な ってき た 。 そ こ に お い て金 行 (周 ) か ら水 運 (
漢 ) へと 五行 の相 生 が お こり 、 中 国 と 夷 狭 と の雑 居 、 風 俗 の混 交 が 生
じ た 。 中 国 は 夷 秋 民 族 の本 情 が偽 善 であ る こ と を 知 り 、 ま た 夷 秋 は 中 国 の利 害 得 失 を 詳 細 に 聞 き 知 った 。 も し 中 国 が 夷
秋 と 誓 約 を 結 ば ず 、 こ ち ら か ら 出 か け て い って攻 伐 も せ ず 、 夷 秋 が 来 冠 し た 時 に の み 応 戦 し 、 夷 秋 が退 却 す れ ば 、 防 御
100
を 堅 固 にす る と いう こ と であ れ ば 、 敵 に余 力 が 生 じ 、 我 が 中 国 に は 平 穏 な 年 が な く な る 。 将 兵 は 奔 命 に 疲 弊 し、 辺 境 は
夷 秋 の侵 攻 に 苦 し む ば か り で、 霊 台 で戦 争 を や め、 仁 徳 と 長 寿 を 謳 歌 し た く ても 、 そ のよ う な こと が は た し て 可 能 であ
ろう か 。 そ の よ う な 策 は 秩 宗 大 将 軍 (
嚴 尤 ) の雅 説 や 護 軍 (
班 固 ) の誠 説 であ り 、 そ れ は 当 時 の状 況 に ふ さ わ しく と も 、
後 世 の世 に は 通 用 し な い。
だから こそ ﹃
易 経 ﹄ に は ﹁君 子 は 吉 凶 のき ざ し を 見 て直 ち に 行 動 す る﹂ と 言 い、 ﹃春 秋 左 氏 伝 ﹄ は ﹁君 子 は 時 勢 を 見
ヨ て動 く ﹂ と 言 う の であ る。 そ も そ も 時 は 得 失 に つな が る も の、 幾 (
き ざ し ) は 吉 凶 の 由 来 す る と こ ろ で あ る 。 ま し て中
国 の諸 王 朝 に は 統 一と 乱 世 と が 代 わ る が わ る起 り 、 夷 秋 の地 に は 勢 力 の 強 弱 が あ る ば あ い に お い て は、 夷 秋 を 服 従 さ せ
る か 、覇 魔 す る に と ど め る か 、 こ れ と 和 親 す る か 征 伐 す る か は、 時 勢 の状 況 に 応 じ て変 化 を 制 し 、 物 事 の き ざ しを 見 て
臨 機 応 変 に は か り ご と を 立 て る こ と にあ る 。 そ う す れ ば そ の 政 策 に は 手 抜 か り が な く 、 は か り ご と に良 策 が 多 く な り 、
人 面 獣 心 の夷 秋 が 中 華 に 服 従 す る の も 容 易 と な る 。 ま た 砂 漠 の北 で は 、 夷 秋 は 霧 散 し て 何 と 遠 く に 姿 を く ら ま せ る こ と
か 。 し た が って どう し て周 、 秦 、 漢 、 北 魏 、 そ れ ぞ れ の 対 外 政 策 の間 に優 劣 が あ ると いえ よ う か。
注
(
1) 嚴尤 の北方 遊牧 民族 に対 す る政策 論 は ﹃漢書﹄ 巻 九十 四 下、匈 奴 伝、 お よび巻 九 十九 中、 下 の王葬 伝 のな か に見え る。
班 固 の意 見 は ﹃
漢 書﹄ 匈 奴伝末 に付せ られ た ﹁寶 日 (
編 者 の論評 )﹂ にあ り、 班 固は嚴 尤 の主張 を妥 当 とす る。
(2) ﹃
易経 ﹄繋 辞 下 に ﹁君 子見幾 而作 (
君 子 は吉 凶 のきざ しを 見 て行動 す る)﹂ とあ る。
(
上)序
(
3) ﹃
春秋 左氏 伝﹄ 隠公 十 一年 に ﹁相 時而 動 (
時勢 を 見 て行 動 す る)﹂ とあ る。
付 ﹃
周書﹄ 異域伝
訳注
『
階 書』 西 域 伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
101
天 が覆 い、 地 が載 せ る所 は 非 常 に大 き く 、 ま た 日 が 臨 み 、 月 が 照 ら す 所 は非 常 に 広 い。 そ の こ と を 考 え る と 、 万 物 の
う ち で は 人 間 よ り も 禽 獣 の ほう が 多 く 、 両 儀 (天 地 ) の 間 では 中 国 よ り も 外 国 のほ う が大 き い。 郷 術 の説 に よ る と 、 論
怪 (
奇 怪 ・不 思 議 ) の 形 跡 は 、 ま こ と に繁 多 であ り 、 ﹃山 海 経 ﹄ を 参 照 す れ ば 、 奇 謡 (い つわ り ) の言 葉 は 一つど こ ろ
では な い。 周 公 や孔 子 が 出 現 し た が 、 怪 異 に つ い ては 語 ら な か った 。 そ の是 非 は 紛 ら わ し く 、 弁 ず る 事 は でき な い。 秦
の始 皇 帝 は 天 下 の 民 を 駆 使 し 、 み だ り に 武 力 を 用 い て遠 征 し 、 漢 の武 帝 は 強 盛 な 兵 馬 を も ち い て、 遠 方 の攻 略 に 励 ん だ 。
匈 奴はす でに (
北 に ) 退 き 、 匈 奴 の地 は す で に空 虚 と な った。 西 方 か ら 天 馬 (
汗 血 馬 ) が 中 国 に や って来 た が 、 中 国 の
(
秦) や劉氏 (
漢 )よりも
(
灼 熱 の南 方 ) と 朔 漠 (
北 方 の砂 漠 地 帯 ) は 、 地 が 中 国 内 地 と 外 部
民 は 更 に 困 窮 し た 。 こ れ に よ って わ か る こ と は、 雁 海 (
雁 門 関 北 のバ イ カ ル湖 ) と (
白 ) 龍 堆 (タ ク ラ マカ ン の砂 丘 )
は 、 天 が中 華 と 夷 秋 を 隔 て る境 界 であ り 、 ま た 炎 方
と を 限 る境 界 であ った 。 ま し て や 、 いま の時 代 は秦 や 漢 で は な い。 そ れ な の に、 野 心 は 廟 氏
は な は だ し い。 天 道 に 背 い て功 績 を 求 め 、 民 力 を 尽 く し て欲 望 のま ま に 行 え ば 、 そ れ は 顛 墜 の壕 (
転 落 のき ざ し ) であ
り 、 も は や後 戻 り は で き な い。 だ か ら 、 先 王 た ち は 教 え を 設 け て諸 夏 (中 国 ) を 内 と な し 、 夷 狭 を 外 と し た の で あ る。
昔 の哲 人 た ち は 規 範 を 垂 れ 、 徳 を 立 て る こ と を 美 事 と し 、 国 土 を 拡 張 す る こと を 卑 し ん だ 。 夏 の禺 王 の足 跡 は広 く 東 西
(
五 帝 三 王 ) の時 代 を 通 じ て 行 わ れ て き た 道
に 及 んだ け れ ど も 、 け っし て遠 方 の 海 や 流 砂 の砂 漠 を 越 え る こと は な か った 。 ﹃
礼 記﹄ の 王 制 に は 、 ﹁北 か ら 南 に行 く ﹂
と あ る が 、 わ ず か に穴 居 の交 趾 (ベト ナ ム ) に言 及 す る だ け で あ る 。 三古
義 は 、 ど う し て 百 代 の後 ま で尊 重 し な いで よ いも の か 。
北 周 は 喪 乱 の後 を 受 け 、 戦 争 に 明 け 暮 れ 、 武 功 に よ って 四方 を 定 め 、 権 道 (
臨 機 応 変 の方 法 ) に よ って 三 辺 を 安 ん じ
た。 しかし趙 、魏 (
北 斉 ) は 、 な お 強 硬 で あ る 。 そ こ で北 周 は 北 秋 と 婚 姻 を 結 ん で和 睦 し 、 武 庫 と 厩 舎 が 満 た さ れ て い
な か った の で 、 西 戎 と 通 好 し た 。 こ のよ う に し て徳 と 刑 が 整 備 さ れ 、 北 周 の名 声 は遠 方 に 及 ん だ 。 粗 布 や 藍 裏 (
毛 の皮
衣 ) を 着 た 外 国 人 が 諸 国 か ら 集 り 、 胡 人 の商 客 が 旗 亭 (は た ご ) に満 ち た 。 東 方 の攻 略 で は 三 呉 の地 (
揚 子江 下流域)
に及 ば ず 、 南 方 の巡 行 で は 百 越 と の境 界 で止 ま った け れ ど 、 北 周 の 国 威 が 恭 し く 心 服 さ れ 、 徳 風 教 化 が ゆき わ た る所 は
、昏 Φ録
9 0竃 曾
器 信 'd三 くΦ話 一
昌
oh
十 分 に広 い。 朝 貢 に や って来 る 四 夷 (
異 民 族 ) に つ い て は、 今 みな 以 下 に 記 す 。 道 の遠 近 や 物 産 、 風 俗 に関 し ては 、 前
代 の史 書 と 比 較 し て 、 時 に は 異 な る と こ ろ が あ る が 、 こ こ で は 当 時 の記 録 を 収 録 し て、 欠 け て いる所 を 補 う こ と にす る 。
注
o㌦ 昏 Φ き
(1)以 上 の文章 と ほぼ 同じも のが、 ﹃北史﹄ 巻 九十 四、 ﹁四夷 伝 ﹂ の序 に採用 さ れ て いる。
簿 Φ 隻 段 o鱒
﹃
階書﹄ 西域伝 と ﹃
周書﹄ 異域伝 に関 する参考文 献とそ の略号
旨恥職o旨防 貯
内 田吟風 一九 七 二 "﹁
魏 書 西域伝 原文 考釈 ・下﹂ ﹃
東洋 史 研究﹄ 第 三 一巻 第 三号。
長沢 和俊 一九 七 一 "﹃
法 顕伝 ・宋 雲行 記﹄ 平 凡社 (
東洋 文庫 )。
水谷 真成 一九 七 一 "玄 装著 、水 谷真 成訳 ﹃
大 唐 西域記 - 中国古 典 文学大 系 二 二﹄ 平 凡社 。
内 田吟風 一九 七 一 "﹁魏書 西域伝 原 文考釈 ・中﹂ ﹃
東洋 史 研究﹄ 第 三 〇巻 第 二 二 二号 。
内 田 吟 風 一九 七 〇 "﹁魏 書 西 域 伝 原 文 考 釈 ・上 ﹂ ﹃
東 洋 史 研 究 ﹄ 第 二 九 巻 第 一号 。
O巴罵O円巳曽勺﹃Φω
ω●
ζ 筥Φき 幻o︽ ﹀ 昌曾 Φ≦ 一〇㎝O "﹄ らqo§ 融 9㌦ ミΦ段 9§
史料 ・旅行 記に関す る研究
102
訳注
103 『階書 』 西 域伝 、 『
周 書 』 異域 伝(下)の
山 田信夫 一九七 二 臼﹁﹃
周 書﹄突 厥 伝訳注 ﹂ ﹃
騎馬 民族 史 21正 史 北秋伝 ﹄ 平凡 社 (
東洋 文庫 )。
内 田吟風 一九 七 三 "﹁階 ・斐矩 撰 ﹃西域 図記﹄ 遺 文纂 考﹂ ﹃
藤 原弘 道先 生古 稀記 念史 学仏 教学 論集 ﹄乾 。
長沢 和俊 一九 七九 "﹁章節 ・杜 行満 の西 使﹂ ﹃シル ク ・ロード史 研 究﹄ 国書 刊行 会。
内 田吟風 一九 八 〇 n内 田吟 風編 ﹃
中 国正史 西 域伝 の訳 註﹄ 京都 。
北村 高 一九 八〇 n﹁﹃
階 書﹄ 巻 八十 三西域 伝序 ・跋 訳註 稿 ﹂内 田吟 風編 ﹃
中 国正 史西 域伝 の訳 註﹄ 京都 。
桑山 正進 一九 九 二 "桑 山正 進編 ﹃
慧 超往 五 天竺国 伝研 究﹄ 京都 大 学人 文科 学研 究所 。臨 川書 店 一九九 八。
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往 五 天竺国 伝箋 釈 ・経行 記箋 注﹄ 中華 書 局。
余 太 山 二〇 〇五 u﹃
両 漢魏晋 南 北朝 正史 西域伝 要注 ﹄ 中華書 局 。
李錦 繍 ・余太 山 二〇 〇九 u﹃﹃
通 典﹄ 西域 文献 要注 ﹄ 上海 人民出 版社 。
小谷 ・菅 沼 二〇 一〇 "小谷 仲 男 ・菅 沼愛 語 ﹁﹃新唐 書﹄ 西 域伝 訳注 (一)﹂ ﹃
京 都女 子 大学 大 学院 文学 研 究科 研究 紀 要 ・史学 編﹄
九号 。
題 譜 ψ 閑○ヨ9
小谷 ・菅 沼 二〇 一 一"小 谷 仲 男 ・菅 沼 愛 語 ﹁﹃
新 唐 書 ﹄ 西 域 伝 訳 注 (二)﹂ ﹃
京 都 女 子 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 研 究 紀 要 ・史 学
編﹄ 一〇 号。
吐 谷渾 (
と よく こ ん)
和 田博 徳 一九 五 = ﹁吐 谷渾 と南 北両 朝と の関係 に つ いて﹂ ﹃
史 学﹄ 第 二五巻 第 二号。
な 臨 Φ 欺臼 ①ミ 簿 Φ期くΦ曾
後 藤勝 一九五 六 "﹁吐谷 渾 に関す る 二、 三 の問題﹂ ﹃
史 潮﹄ 第 五八号 。
]
≦9ρ Ω昏 ユΦ一
一
9一
〇刈O "憲 Φ ↓ 畑幽織昏q嵩ぎ § 昏 Φ﹀§ 昏⑳§ 謡
佐 藤 長 一九 七 八 "﹃
チ ベ ット歴史 地 理研究 ﹄岩 波書 店。
04 松 田寿 男 一九 八七 a u﹁吐谷 渾遣 使考 ﹂ ﹃
松 田寿 男 著作 集 四 ・東 西文 化 の交流 二﹄ 六 興出版 。
1
松 田寿 男 一九 八七 b "﹁
青 海 史論 ﹂ ﹃
松 田寿 男著 作集 四 ・東 西文 化 の交 流 二﹄ 六興 出版 。
周 偉洲 二 〇〇 六 H﹃
吐 谷 渾史﹄ 広 西師範 大 学出 版社 。
高昌 (
ト ル フ ァン)
蛙 .
暮
嶋崎 昌 一九 七七 a n﹁麹氏 高昌 国官 制考 ﹂ ﹃
階唐 時代 の東 ト ゥ ルキ スタ ン研究- 高 昌国史 研究 を 中心 と し て﹄ 東京 大学 出版 会、
二五三∼ 三 〇九頁 。
嶋崎 昌 一九 七七 b "﹁﹃
階 書﹄ 高昌 伝解 説﹂ ﹃
階唐 時 代 の東 ト ゥルキ スタ ン研究﹄ 東 京大 学出 版会 、 三 = ∼ 三 四〇頁 。
呉震 一九八 一u﹁麹氏 高昌 国史 索隠 -従 張 雄夫 婦墓 志談起 ﹂ ﹃
文物﹄ 一九 八 一年 第 一期。
關尾 史郎 一九九 三 "﹁﹁義 和政 変﹂前 史 ⊥ 局昌国 王麹 伯雅 の改 革を 中心 と し て﹂ ﹃
東 洋史 研究 ﹄第 五 二巻第 二号 。
康国 (
サ マルカ ンド)
岡本 孝 一九 八 四 "﹁ソグド 王統 孜ー オ "イ ーースミ ルノ ワ説批判 を中 心と し て﹂ ﹃東洋 学報﹄ 第 六 五巻第 三 ・四 号。
吉 田豊 二〇 一一 "曽布 川寛 ・吉 田豊編 ﹃ソグド 人 の美術 と言 語﹄ 臨 川書店 。
いま Φ﹃ρ 国Φ冒ユoげ 一〇ωO "芝 簿 興 ΦゆΦ貯 9、oqΦN霞 Ω①ωoぼ9 8 巷 創 O①o⑪q同巷 三 ①<8 0ω
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霊 戸 題尉 § 題 富 嵐9 融 箒 、§
亀茲 (
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中 Φ器 里⑦9 題 ﹄貯 幕 鑓む 気霞 壽 ⑦題 ⑦9 勘響 貸 切Φ§ 、遷 暮 学 ぴむ登くo区 P
訳注
105 『
階 書』 西域 伝 、 『
周書 』 異 域 伝(下)の
寺 本 娩 雅 一九 二 =
寺 本娩 雅訳
(
イ ステ ィ ーカ ーン)
﹃
干 閲 国 史 ﹄ 丁 子 屋 書 店 。 一九 六 一年 に 国 書 刊 行 会 よ り 復 刻 。
§ ミ 暮 o彗
o亀 ミ §
b賠㌧越 儀﹄§ 鳶 い貯 § ⑦b 刈H卜。曲 ㎝↑
桑 原 隅 蔵 一九 六 八 "﹁老 子 化 胡 経 ﹂ ﹃
桑 原 階 蔵 全 集 ﹄ 第 一巻 、 岩 波 書 店 。 初 出 は ﹃
芸 文﹄ 一 (
九 )、 一九 一〇 年 。
曹国
出Φ目 貯ひ
q℃芝 .φ 6 8 H > Qり£ α冨口ΩoP 切§
林 梅 村 一九 九 八 け﹁中 国 境 内 出 土 帯 銘 文 的 波 斯 和 中 亜 銀 器 ﹂ ﹃漢 唐 西 域 与 中 国 文 明 ﹄ 文 物 出 版 社 。
しu.ζ 胃 ω冨 評 俸 円 Ω諾 器 け 一〇〇〇。 " い① B旨 冨 侮Φ2き 餌9 霧 一、
胃辞αΦ一
9ω○ゆq岳き ρ ︾、融 ﹄ 隻陶職S 題 噂器 "9一
〇
。.
小 谷 仲 男 一九 九 七 "﹁ソ グ ド の 神 々 と イ ス ラ ム ・ア ラ ブ の 侵 攻 ﹂ ﹃西 南 アジ ア研 究 ﹄ 四 六 号 。
(エ フ タ ル )
察 鴻 生 一九 九 八 "﹃
唐代 九姓 胡与 突厥 文化﹄ 中 華書 局。
揖恒
頁 )。
小 谷 仲 男 一九 六 六 "﹁バ ダ フ シ ャ ン に お け る 玄 の 旅 行 ﹂ (
第 四 ・五 次 イ ラ ン ・ア フガ ニス タ ン ・パ キ ス タ ン 学 術 調 査 隊 予 報 )
﹃
東 方 学 報 ﹄ 第 三 七 冊 (三 八 九 ∼ 四 =
ω巨 ω芝 崖 pヨρ 客 b。OOO "し
u鷺 ヨ 冨自 b o§ § 魯 融 時o臼 ﹀♂、暮 9§ ム慧 働巨無 き N㌦ 卜Φ強 ㌧碧 儀 g § o臼甘 & § 臼 Φミ 9 0籠 oa
(
ペ ルシ ア)
一〇蔭砦
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