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マルコの福音書 12章35節から44節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日の

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マルコの福音書 12章35節から44節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日の
マルコの福音書
12章35節から44節
e-聖書研究会 奥田 昭
1、本日のメッセージの箇所はマルコの福音書12章35節から44節からです。お読みいた
します。今日はこの箇所から、「真実を見る眼」の主題テーマで、聖書からの教えを学びた
いと思います。お祈りをいたします。
2、最初から私事で恐縮ですが、4人目の孫ができました。赤ちゃんってかわいいですね。
特にその目は格段です。あの目で見られたらたまりません。なんでも見透かしているような
目、曇りもない目、すばらしいですね。私たち人間のからだには神様さまから、たくさん良い
ものが与えられています。この中で日常生活のために非常に大切なもので、ベスト5を挙げ
なさいと言われれば多くの方はその一つに「目」をあげられるのではないでしょうか。残念な
ことに目のご不自由な方もおられますが、大変なことと思います。さて、その目ですが、神様
はなぜ目を二つ与えられたのでしょうか。すこし考えてみようではありませんか。私はこのよ
うな結論を得ました。まず、片よってものを見ないため、すなわちこころに公平さをもたせる
ためでないかと思いました。もちろん碧眼の方がの片よってものを見ているわけではありま
せん。公平さということの大切さを学ばせるためといったほうがよいかもしれません。次、右
左あることによってバランスよく見るためと思います。すなわち調和のこころをもつためでは
ないかと。公平や調和に加え、次が一番大事だと思うのですが、ひとつは外側、ひとつは内
側を見るためにあるのではないかと思います。心眼という人もいますが、要は外と内側を見
ることを学ばせるためではないかと考えました。しかし、もっとも大切なこの働きは、その働き
をするときはいつも曇っていて見えないという弱点があります。人の内側はよく見えない。し
かし、イエスさまはちがいました。今日はそんなことを中心に学んでいきたいと思います。
3、現代はインスタント時代です。それは考える世界に及んでいます。なにかむずかしいこと
にであっても、すぐにその回答が用意されています。すこし、ゆっくり考える、これを聖書を読
む世界でもしてみたいと思います。イエスさまが宮で教えておられたときに、「律法学者たち
はどうして、キリストをダビデの子というのですか」言われました。説教の最中にそのはなし
の関係があったかもしれません。この聖書の箇所は、祭司長、律法学者、長老、パリサイ派、
サドカイ派との争そい、それは宗教論争でしたが、それを終えられていわばその締めくくりと
して、律法学者に代表される、「キリストをダビデの子」とするという意見に対して、問題を投
げかけられたのです。この質問はすこし難しいことかもしれません。イエスは「律法学者たち
はどうしてキリストをダビデの子というのですか。」とされました。これは他の福音書の同じよ
うなところから、言いなおせば分かり易いかもしれません。それは、マタイの福音書の22章
42節で、おなじくイエスが「あなたがたはキリストについてどう思いますか、かれは誰の子で
すか」すなわち、「キリストは誰の子ですか?」がイエスのことばでした。律法学者たちは、聖
書、これは当然旧約聖書ですが、そこから、キリストは、かつてのユダヤの王であったダビ
デの家系から生まれると、理解していたのです。すなわち、我々の同じように肉体の家系、
肉の家系として、キリスト、救世主がくると理解していたのです。それは同時に救い主は地
上の王として、地上の解放者としてくるとしていたのです。それに対して、イエス様はたして
そうか、聖書にそのように書いてあるかと、会衆に聞く形で、教えたのです。そして、旧約聖
書、詩篇の箇所を引用されました。詩篇110篇1節です。ダビデの作と言われています。
「主は私の主にいわれた」これは、聖書を初めて読まれる方には大変わかりにくい言葉です。
さきほど少し考えようといいましたのはこの箇所のことです。むずかしいですね。なぜなら、
「主が」「主に言われた」とあるからです。二つの「主」が出てきます。なんですか?こんな疑
問がでてきませんか。これはこうです。最初の「主」は父なる神、天地創造の神のことです。
次に、「私の主」は、「私」これはダビデですね。この詩篇の作者がダビデだからです。次の
「主」は父なる神様ではなくて、ダビデがしたい求めている主。これは救い主、すなわちキリ
ストです。したがって、最初と次の「主」はちがうのです。したがって「私の主」とは、「ダビデ
の子である主すなわちキリスト」ということになりますね。ダビデの子、ダビデの家系に生ま
れたキリストは、主、すなわち神ということですね。言いかえれば、「ダビデの子であるキリス
トはダビデの主である」ということですね。「主」という言葉は「神さま」に対してしか使いませ
ん。いよいよ分かり難くなってきたというために、このように言い換えます。ダビデは詩篇で、
「父なる神は、ダビデの子孫からでるキリストは、主すなわち神である、と言われた」これが
第1節です。
4、次に2節からは「わたしが、あなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右
の座についていなさい。」
「わたし」は父なる神様、「あなた」は救い主、キリスト、「敵」はサタン、すなわち世の終わり
が来て、サタンがキリストに降伏して、足の下に従わせるまで、すなわち世の終わりが来る
まで、父なる神の右の座にキリストはついている、というもので、すごい内容です。しかし、こ
こでは第1節が問題です。さきほどこれは、イエスはだれの子ですかという質問の答えだと
言いました。「ダビデの子であるキリストはダビデの主である。」簡単にしますと、「キリストは、
主、神、イエス」であるということです。律法学者は、キリストは地上の救い主としてくると理
解していました。しかし、何百年まえに、ダビデは救い主は、神としてこられると歌っていた、
とイエスは解説したのです。こんなすごいことを、なぜ、ダビデは歌えたのでしょうか。それは、
イエスは冒頭、「ダビデ自身、聖霊によって」とあるように、こんなことがわかるのは、人間の
能力を超えて聖霊によらねばできないことなのです。ともあれ、イエスが、「救い主は神とし
てくる」と言ったことに対して喜んできいていたのです。イエスは自分は神の子であると言わ
れたのは、これが最初ではありません。何度のそのことを明らかにしましたが、多くのものは
理解しませんでした。いや、できなかったのです。
5、次にイエスは、キリストを地上の王ととらえる律法学者に対して、「気をつけなさい。」と言
われました。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」律法学者は聖書は
よく研究していました。しかし、肝心なところ、自分にとり不都合なところは、避けて聖書のも
っとも大切な部分は守っていませんでした。そんな彼らの偽善を赦せなかったのです。彼等
は人の目のみ気にしていました。外側にだけこころを遣っていました。
彼等は外側のみ飾りました。長い衣をまとうとは、学者や裕福な人が威厳を示すために、好
んできたものでした。彼等は宴会の席では上席が好きでした。虚栄心と尊大な態度の表れ
でした。やもめの家を食いつぶしていました。彼等は専門の法律家の地位を利用して、豊か
なやもめの訴えを処理して、その財産をかすめていたのでした。かれらは見栄を飾るために
長いお祈りをしていました。かれらはつきるところ外側だけを気にして、人の内にある偽善に
対して目を閉じていたのです。イエスは外側のみでなく、内側も見ていました。しかがって彼
らの偽善が赦せなかったのです。私たちはだれの目を気にしなければならないのでしょうか。
誰からの評価を気にしなければならないのでしょうか。賞賛は誰からえなければならないの
でしょうか。「あなたは行くところどこにおいても主を認めよ」私たちたちは、まず神の目を気
にして、生活しているでしょうか。それとも人の目や評価を気にして生活していないでしょか。
聖書の神を信じると、その人生が絶えず神の目を意識し、神の評価が気になるようになりま
す。人の目や評価は、たえず変わります。したがって、他人と比べたり、それにとらわれたり、
びくびくしたり、しなければなりません。しかし、神のそれは違います。「わたしの目には、あ
なたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」まったく平安の世界に住むことができま
す。やすらぎです。恐れから解放されます。神を信じる者にとり、神の目は愛の目です。神
の目のなかにあるとき、平安があるのです。人ではなく、神の目を気にしましょう。
6、次に神殿献金する様子が描かれています。金持ちとまずしいやもめとがそれぞれの献
金をしました。金持ちは大金を、やもめはレプタ銅貨2つを投げ入れました。金持ちの金額
はわかりませんが、レプタ銅貨とは当時の最小のお金の単位でした。レプタとは当時の1日
の稼ぎの128分の1ということですから、1日一万円の稼ぎとすれば、78円ぐらいということ
になります。100円にも満たない額です。1日100円で生活できるかなーと疑問をもたない
でください。要は金額ではなく、貧しい人の1日の生活費でした。とにもかくにも少ない額でし
た。しかし、やもめが献金したのは、生活費の全部だったのです。それをイエスは知っておら
れたのです。それを見る目をもっておられたのです。そして「このやもめは、どの人よりもたく
さん」献金したと、誉められました。ふつう常識的には、たくさん献金したほうがえらい、立派
と感じ、評価するでしょう。しかし、イエスは異なっていました。見るところ、見る視点が違い
ました。なぜでしょうか。それは、「人はうわべを見るが、主はこころをみる」からです。ささげ
物には、いくつかの種類があります。まず、1、みかえりを求めるささげ物です。現世利益型
といってよいかもしれません。さしずめ日本だったら、神社仏閣にいって、賽銭箱にお金を投
げ入れるやりかたです。お金を入れた後で、どうかこれこれのことができますように、また、こ
れこれを奉げましたから願いを聞いてください。次に、2、他人に見せるためのささげ物です。
プライド型というべきでしょうか。見栄のため、自分の評価をたかくするためと言って良いと
思います。他人の目をきにしてなされるものです。今回の聖書に出で来る大金もちは、この
部類ではなかったでないでしょうか。3、最後は、このやもめのとった行動です。それは神に
喜んでもらう、神に感謝する献金です。彼女の献金は、神への応答型の献金といえます。こ
れが聖書的な献金のあり方です。神はまず、神ご自身が人間に祝福と恵みを与えられまし
た。献金はその祝福と恵みに対するお返しです。したがって、献金は自分が先に神にしてい
るように見えて、実のところ神さまの祝福が先にあるのです。聖書には、献金の奉げ方につ
いていくつかの記事があります。1、感謝をもって、2、人に見せびらかせない、3、収入に応
じて、4、みずからすすんで、5、おしみなく、6、喜んで等々です。これらはいずれも、神様に
対する応答です。なぜ、イエスさまは、金額のすくないやもめの献金を「だれよりたくさん投
げ入れました。」としたのでしょう。それは、かみさまにとり、ささげ物は、どれだけささげるか
によってではなく、どれだけ自分のものとして、残しておくのかが、基準だからです。イエスは
大金持ちの献金を否定しませんでした。しかし、大金持ちは、たしかにたくさんの献金をした
かもしれませんが、彼にとりその金額はたいしたことのないものだったでしょう。家に帰れば
財産は山のように残っていたでしょう。しかし、やもめに残っているものはなにもなかったの
です。だから、イエスはこころの中をご覧になったのです。彼女はその生活費のすべてをもっ
て、神に感謝したのです。やもめはなにも残さなかったのです。また、なくなってゼロになった
ら、神さまが与えてくださることを信じていたからです。信頼と感謝がありました。こんな話し
があります。ある方が教会で、残さない額の献金のはなしを聞いて、すぐ実行しました。すご
いですね。財布の中身全部を献金したのです。どうなったでしょうか。帰りの電車賃はありま
せん。その人は、礼拝後、家に帰るために、もちろん歩いてテクテク帰るために歩いていまし
た。どうなったでしょうか。答えはわかっていますよね。神さまは、その方の信仰をごらんにな
り、帰り道、教会の友人と出会いました。そして、電車賃をあたえられたのです。こんな話し
は、山ほどあります。もちろんぜんぶ奉げるという極端なことは、神様の声があり、それに従
うと言う場合だけです。神は私たちのある真実をご覧になります。けっして見落としたり、空
しく終わることはありません。「主は私を知っておられる。私の心の中にいたるまで、そのす
べてを知っておられる。」(詩篇139)
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