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イギリスとスエズ戦争
池田, 亮
一橋論叢, 121(1): 122-139
1999-01-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/11908
Right
Hitotsubashi University Repository
平成11年(1999年)1月号 (122)
第121巻第1号
一橋論叢
イギリスとスエズ戦争
はじめに
一九五六年七月、エジプト政府は英仏が領有していた
池 田
力を必要としていた。ところが、対エジプト戦争は、ア
メリカ側の反対を押し切って、しかもアラブ世論の敵意
を集めていた仏・イスラエルと共同で敢行されたのであ
った。これに対し、イギリスは一〇月末、フランス・イ
中東政策から著しく逸脱したものとして位置づけられて
これらの意味で、スエズ戦争は、当時のイギリスの対
る。
スラエルと共に対エジプト戦争を開始する。いわゆるス
結果、イギリスの中東での影響力は縮小する潮流にあっ
きた。即ち、第二次大戦後に高揚した植民地独立運動の
様々な角度・から研究されてきたが、とりわけ、イギリス
たが、スエズ戦争はこの潮流に低抗し、米ツに次ぐ大国
の確保に努めていた。しかしイギリスが単独でそのよう
といったアラブ親英諸国との関係維持によって中東権益
らエジプト側との交渉による問題解決に極めて積極的で
しかも、後述のように、イギリス政府は一〇月初めか
︵1︶
れてきたと言ってよい。
の地位を維持することを目的として敢行されたと解釈さ
な努力を行うのは既に不可能であり、アメリカ政府の協
てきたと言える。当時のイギリスは、イラクやヨルダン
政府が参戦を決定した動機は以下の理由から関心を集め
エズ戦争である。このスエズ戦争に至る過程に関しては
スエズ運河の国有化を宣言し、ここにスエズ危機が始ま
亮
122
(123) イギリスとスエズ戦争
使を選択させたのだ、という説である。この仮説の基礎
ことで影響カ後退を拒否すべきだとの利害計算が武カ行
交渉に伴う妥協を甘受できず、エジプト政権を打倒する
その理由として頻繁に指摘されるのは、エジプトとの
して戦争に積極化するため、先行研究はこの時期の方針
︵2︶
転換がなぜ行われたかに関心を払うてきた。
あった。にも拘わらず、イギリス政府は一四日から一転
争に巻き込まれることを恐れざるを得なかった。その時
と防衛条約を締結していたイギリスは、対イスラエル戦
ンヘの全面戦争を開始する兆候を見せていた。ヨルダン
いたことに起因する。一〇月前半、イスラエルがヨルダ
春以降ヨルダンとイスラエルの問で国境紛争が頻発して
るようになった。この﹁ヨルダン要因﹂は、一九五六年
後半からは、ヨルダン情勢が重要な要因として指摘され
多く見られるが、一次資料の公開が進んだ一九八○年代
て、対エジプト強硬策が主張されたことが、右記の政府
その調停を名目に英仏両国が軍事介入を行うという案を
フランス政府が、イスラェルにまずエジプトを攻撃させ、
︵3︶
にあるのは、一一周から開催された英保守党大会におい
の方針転換に影響を及ぼしたのではないかとの推論であ
プトと妥協するより戦争を行う方が、なぜ中東での影響
しかも、この仮説には次の疑問が残されている。エジ
は強く疑義を唱えざるを得ない。
に国内で高揚していたことを考えれば、これらの仮説に
た訳ではなく、また労働党を中心とする反戦世論も同様
ある。なぜなら、それまで試みられていた、交渉による
た後で考慮された一つの要因に過ぎないとの見解すら
ているとは言えない。ヨルダン要因は、参戦が決定され
行わねぱならなかったか、その必要性が十分に説明され
しかしこの仮説では、なぜイギリス政府が方針転換を
︵4︶
便乗した、との主張である。
イギリス側に提示したため、イギリス政府はその提案に
カ維持に有益だと言えるのだろうか。アラブの反英世論
問題解決の努カが実を結びつつある時に、なぜイギリス
る。しかし、保守党の見解が一〇月に入って強硬になっ
を硬化させることを考えれば、戦争は影響力維持のため
政府がその努力を放棄したのかが明らかにされていると
^6︶
は言えないからである。
︵5︶
には合目的的な手段だと言えるのだろうか。
右のような仮説は一九八O年代前半までの先行業績に
123
一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (124)
数多くなされてきたが、これはスエズ危機における英米
ることにある。従来、アメリカ政府の視点からの研究は
動機を、英米仏三国の政策の相互作用に注目して検討す
本稿の目的は、イギリス政府がスエズ戦争を決定した
理下に置くことを政府のスエズ政策の基本目的とするこ
七月二七日、イギリス閣議が召集され、運河を国際管
あった。
あり、国有化は西側への対決意思を鮮明に表したもので
︵7︺
と、そしてその目的達成のためには武カ行使も排除しな
程を検討したい。イギリス政府がスエズ戦争を、アラブ
政府の役割と英仏関係とを重視してスエズ戦争勃発の過
り緊急の目的はナセル政権の打倒である﹂ことも確認さ
心とするエジプト委員会設置が決定された。続いて﹁よ
作戦など機密性の高い議題を討議するために、首相を中
いことが合意された。またこの印の閣議において、軍事
︵9︶ .
関係が重視されてきたことに理由の一つがあると言える。
本稿では英米関係に加え、従来軽視されてきたフランス
世論から敵視されていた仏・イスラエルと共に行わねぱ
れた。
︵8︶
ならな・かった理由は、この英仏関係に求めることができ
一九五六年三月以来、イギリス政府は、ナセル政権が
のイギリス中東政策の基盤は、バグダッド条約によって
中東権益維持にと、って障害であると認識していた。当時
︵11︶
^10︶
ると考えるからである。そして最後に、より長期的な観
点から、イギリスの中東政策においてスエズ戦争がいか
なる意味を持うていたか、再検討を試みる。
親英アラブ諸国の結集を図ることにあったが、そのバグ
一九五六年七月二六目、エジプトのナセル︵o印昌巴
分の二はスエズ運河を経歯して供給されており、これほ
からである。また中東地域から西欧向け石油輸出量の三
ダッド条約の拡充政策をナセル政権が非難し続けていた
>g三z蕩ω2︶大統領は英仏資本の支配下にあったス
ど重要な運河通航に危害が及ぷのを防ぐため、ナセ・ル拠
ニ スエズ運河国有化宣言
エズ運河会社を国有化することを宣言した。スエズ危機
鰯が目標とされたと言える。
右記の閣内合意を得たイギリス政府のイニシアチブの
の開始である。国有化の最も直接的な原因はアメリカ政
府による七月一九日のアスワンハイダム建設援助撤回で
124
(125) イギリスとスエズ戦争
側の立場を要約し、ナセルを放置できず、軍事制裁の可
雲篶彗︶仏外相であった。この席でロイドはイギリス
○ブ︸︶米国務次官補、そしてピノー︵O∼委一竃
︵ω①∼⋮=o首︶英外相、マーフィー︵宛oσ①二Pζ⋮−
が二九日からロンドンで開催される。出席者は、ロイド
対提案がなされなけば、アラブ世論を反西側で結束させ、
をするにせよ、その前に国際会議や工ぶプト政府への反
解決されるべきだと判断された。更に、英仏が武カ行使
せるのは不可能であり、また可能な隈り間題が平和裡に
上、アメリカ自身が軍事作戦を行うことを議会に承認さ
開始する。まず、一一月の大統領選挙を控えている関係
︵旨巨句og雪U仁二窃︶国務長官を中心に対応の検討を
能性を認識させて初めて政治経済的圧力が実効性を持つ
中東から西欧への石油供給が中断される事態を招いてし
下、国有化への対応策を検討するための英米仏三国会談
との見解を述べた。またピノーは、ナセルの威信向上が
︵帖︺
まうと懸念された。
︵ 1 2 ︶
北アフリカでの親仏政権に悪影響を及ぼしていると強調
セルを軍事的手段で放逐することが不可欠であると主張
Oδ竃害邑=彗︶英蔵相はマーフィーと会談を持ち、ナ
イーデン︵>コ;昌<向o雪︶英首相とマクミラン︵=彗−
︵旧︶
を立案する決意を持っていることを伝えた。更に翌日、
を英仏側に伝えるべく、アイゼンハワー政権はダレス自
行使を阻止することにあったのである。このような見解
政府にとって最大の関心は、英仏による時期尚早の武力
︵蝸︶
して反対する意図は持っていなかった。即ち、アメリカ
敗に終わったならば英仏が武カ行使を敢行することに対
ただ、この時点でアメリカ側は、平和的手段が全て失
し、アメリカの支持を要請した。このように英仏両国政
身をロンドンに派遣することを決定した。八月一日、彼
しつつ、アメリカの参加がなくとも英仏両国が軍事計画
府は対エジプト戦争の決意を固めていたが、特にイギリ
はロイドとビノーに対し、他の手段が無くなった場合の
︵M︶
ス側はその際にアメリカ政府の支持が必要だと認識して
み武力行使が正当化されると述べ、 一八八八年のコンス
タンチノープル条約に基づいた国際会議を開催して国有
︵㎎︶
化問題を検討することを提案する。
︵H︺
いたと言える。
英仏の強硬な態度を知ったアメリカ政府も、アイゼン
ハワー︵〇三〇q;貝雲ω竃ぎミ彗︶大統領とダレス
125
第121巻第1号 平成11年(1999年)1月号(126〕
一橋論叢
が不可欠だったからである。
︵22︶
更に英仏両国はエジプトに対する制裁を開始し、軍事
的および経済的な圧力を行使し始めた。まず両国は、エ
ったと言ってよい。アメリカ政府が早期の武力行使に反
アメリ久政府の意思表示は、明確にイギリス側に伝わ
ジプトに対する経済制裁として、運河通航料を新エジプ
︵19︶
対であると悟ったイギリス政府は、国際会議案の受諾を
英仏が国際会議開催に同意したことは、むろん両者が
明した。
ナセルが譲歩しない場合は戦争が必要になるが、この場
き出す﹁一とと試みる。そして、こうした手段によっても
アメリカ政府の協力を得ながら、エジプトから譲歩を引
だろう。即ち、経済的および軍事的圧カを行使し、更に
ここで、イギリス政府の立場は次のように要約できる
仏軍が英軍の指揮下に入ることが合意された。
︵別︶
は対エジプト軍事作戦の準備に着手し、七月=二日には
う船舳に通達することを決定した。次いでイギリス政府
^鵬︺
ト当局ではなく旧来のスエズ運河会社に支払い続けるよ
決定した。イギリス政府にとっての懸念はソ連が国際会
議に出席することにあったが、にも拘わらずこのような
︵㎜︶
決定が下されたのは、アメリカの協力を得ることによっ
てソ連に対抗できると判断されたからであウた。翌同、
英米仏三国政府は、スエズ運河国有化に対する抗議とロ
武カによる解決を放棄したことを意味していなかった。
合の戦争であれぱおそらくアメリカ政府の支持を得名こ
ンドンにおいて国際会議を開催する意図があることを表
この会議で国際化案が可決されてもナセルがそれに応じ
とができる。
実はイギリス側では、この会議が危機解決に失敗したり、
ない場合、対エジプト武力行使が可能になるだろうと計
的価値を置いていたことと、イラク・ヨルダンといった
はなかったのである。その理由はスエズ運河に高い経済
つまりイギリス側にとって、戦争は最善の解決手段で
国際会議によるスエズ危機解決が失敗に終わった際に、
アラブの親英諸国との関係にあると考えられる。なぜな
算されていたのである。他方、フランス政府においては、
︵”︶
だと考えられる。なぜならフランス側にとって、対エジ
ら、戦争が勃発すれば一時的にせよ運河通行が遮断され
イギリス政府が武力行使に出ることが期待されていたの
プト軍事作戦を展開するとすればイギリスとの共同介入
126
(127) イギリスとスエズ戦争
る危険が高く、かつアラブ世論の反発を受けることが不
中東での影響カの伸張を図ることにソ連の目的があった
化を承認することでイギリスの影響力後退を加速させ、
ト政府に提示する任務を遂行する五ヶ国委員会を選定し、
た。ロンドン会議は、この案を一八ヶ国案としてエジプ
メリカ案はインド・ソ連などを除いて基本的に承認され
と考えられる。会議全体の一致は見られなかったが、ア
︵27︶
可避だからである。後に見るように、これらの理由から
イギリス政府はフランス政府ほどは戦争に積極的になれ
なかったのである。
三 ロンドン会議とスエズ運河利用国団体
日、ダレスはアメリカ案を提出したが、その主な内容は、
は、ソ連やアジア諸国を合めた二二ヶ国であった。一九
ンでスエズ運河に関する国際会議が開催された。出席国
化はソ連・インドから支持を受けたのであり、イギリス
きるものだったと言える。だが、国際会議において国有
府に求めるものであり、英米仏三国政府にとって満足で
この一八ヶ国案はスエズ運河の国際管理をエジプト政
閉会した。
第一に、自由で国際的な海路としてのスエズ運河を維持
英米仏三国政府の声明を受け、八月一六日からロンド
し、発展させる。第二に、スエズ運河管理をいずれの国
れていなかったと言える。一八ヶ国案が拒絶された場合
政府内においては、ナセルが簡単に譲歩するとは想定さ
と通航料のうち公正な額をエジプトに払い戻すために、
いう選択肢であった。
に想定されていたのは、問題を国連安保理に付託すると
︵25︶
の政治からも分離する。第三に、エジプトの主権の尊重
運河を経営する国際委員会︵エジプトも参加する︶を設
立する、というものであった。このアメリカ案に対して
独で武カ行使をした場合に、国際世論により正当化され
その理由として第一に、安保理での審議がないまま単
︵26︺
インド代表のメノン︵穴募す§ζ彗昌︶外相は、運河
﹁アメリカ政府の完全な支持を得るためには、武カ行使
る可能性が低いからであった。さらに閣議は八月末には、
︵28︺
とする案を提出し、ソ連代表のシェピーロフ︵冒ま巨
の前に安保理に付託することが望ましい﹂との合意に達
管理を国際委員会ではなくエジプト当局に委ねるぺきだ
■穿Φ旦oく︶外相から賛意を得た。このように、国有
127
平成11年(1999年)1月号(128〕
第121巻第1号
橋論叢
両国政府の好戦的態度を抑制しなければならなくなった。
このような結論に達した以上、ダレスはより一層英仏
が譲歩すれば、イギリス側にとって問題は解決すると言
現にナセルは一八ヶ国提案に対して好意的ではなかった。
していた。また、仮に安保理での審議結果を見てナセル
︵”︶
える。
五ヶ国委員会は九月三日にナセルと一回目の会談を持っ
︵糾︶
案を構想し、四日にその概要をイギリス側に伝えた。
国団体︵ω毒NO竃巴⊂竃易.>ωωOo訂ごO貝以下OoO⊂>︶
思わしくないとの報告を受けたダレスはスエズ運河利用
国提案を拒絶することを正式に声明した。交渉の進捗が
︵33︶
たが、この交渉は決裂し、九目に至ってナセルは一八ヶ
第二に、安保理付託を行うことにより、スエズ問題に
関してイニシアチブを保持し続けることが極めて重要だ
とイギリス政府が認識していたからである。安保理付託
︵珊︶
を行わない隈り、アメリカ政府もしくはエジプト政府が
国連に問題を付託する可能性があると推測されていた。
このように、イギリス政府にとって、武力による解決で
あるか否かに拘わらず、あくまで問題解決のイニシアチ
ジレンマは、アメリカが英仏による戦争に支持を与えれ
︵別︺
という危機感を強めていた。この時にダレスが直面した
た場合に、英仏両国が軍事侵攻を開始するのではないか
他方、アメリカ政府は、ナセルが一八ヶ国案を拒絶し
歩を引き出すことを目的としていると認識されていたの
りωO⊂>は、経済圧力をエジプトに行使することで譲
制裁であり、アメリカ船がωO⊂>に通航料を支払うこ
^㏄︶
とになればその効果は更に増すと考えられていた。つま
として第一に、OoO⊂>はエジプト.に対する一種の経済
ーデン首相はωOC>設立を宣言する。受諾決定の動機
イギリス政府はOoOC>案受諾を決定し、=一日にイ
︵朋︶
ばアラブ世論を反西側にしてしまい、反対すれば西側同
である。第二に、エジプトが英仏船の通航を拒絶するこ
ブを握り続けることが前提だったと言える。
盟内に大きな亀裂を作りかねない、ということだった。
とによってその圧力に報復した場合、英仏がエジプトに
も﹁安保理付託を行った後であれぱ﹂アメリカ政府の支
︵37︺
対して武力報復を行うことが想定されており、その場合
しかし三〇目に至りダレスは、平和的手段を尽くした後
であっても、英仏による軍事行動を支持すぺきではない
︹拠︺
との結論に達した。
128
(129) イギリスとスエズ戦争
持が得られるという判断がイギリス側にはあったのであ
る。
ところが、翌二二目のダレス声明はイーデンを大きく
憤慨させることになる。ダレスは記者会見の席で、
︵鎚︶
ωOO>をエジプト政府が拒絶して加盟国船舶の通航を
妨害したとしても、アメリカ政府は対エジプト武力行使
︵靱︶
には同調しないことを宣言したのである。
しかもアメリカ側は、アメリカ人所有の船舶が
ωO⊂>に通航料を支払うよう指示を出すのに消極的で
あづた。アメリカ側の認識でも、そのような行為がエジ
プト側からの英仏船通航を拒絶するという報復を招く可
能性が高く、英仏がそれに対して武カ行使ではなく船舶
のケープ迂回を容認するという立場を許容しない限り、
承認できないのであった。これに対してイギリス側は、
ケープ迂回作戦を、そこから生じるコスト増の負担が重
︵ 刎 ︶
く、かつエジプトヘの圧力行使にはならないという理由
抱き始めた。前述のようにフランスはイギリス側の同意
ったため、イスラエル領内の基地−から軍隊を派遣すべく、
がなければ対エジプト軍事作戦を展開できない立場にあ
フランス軍部がイスラエル軍部との接触を開始した。
1 ︵〃︶
とはいえ、フランス政府はイギリスとの共同歩調が依
然として望ましいと考えていた。それは仏イスラエルニ
国で対エジプト攻撃を行うには軍事的にリスクが高く、
やはりイギリスの協力を得ることが望ましいと判断して
いたからだと言える。このためピノーは、スエズ運河問
︹蝸︶
題を安保理に付託すべきだとのイギリス側の見解に同調
︵μ︶
することをイギリス側に伝えたのである。
えず念頭に置加れていた選択肢の一つであり、ωOC>
前述のように、イギリス政府にとって安保理付託は絶
案を受諾するにしてもその方針を変更することは考えら
れていなかった。だがイギリス政府にとっての問題は、
この時点でもアメリカ政府が安保理付託に反対していた
ことにあった。アメリカ側は、安保理付託が開戦の口実
に過ぎないという疑念を抱き続けており、それ故支持を
−から拒絶していたのである。
他方フランス政府は、ωO⊂>をイギリス政府が受諾
︵価︶
与えなかったのである。
スエズ危機解決にあたりイギリス政府がアメリカ政府
して対エジプト侵攻を延期したことにより、イギリス政
︹刎︺
府が実際に対エジプト攻撃を行う意図があるか、疑念を
9 .
12
一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (130)
の支持を極めて重視していたにも拘わらず、その反対を
無視して安保理付託を決断したのはなぜか。実は九月一
三日のダレス声明によってイギリス政府は、ωOζ>に
^蝸︺
よってエジプトから譲歩を引き出すこ土もできず、さり
とて武力行使にもアメリカから支持を得られないという、
いわば手誌まりの状況に陥ってしまったのである。従っ
て安保理付託は、開戦の口実を作るか、エジプトから譲
歩を引き出すために、アメリカ政府の協力なく局面の打
開を図ることを目的としていたと言える。そして、アメ
リカ政府の次に協力を求められたのが、フランス政府で
あった。
さて、ωOd>設立の準備は着々と進められていた。
その結果、ロンドンで第二回スエズ運河会議が開催され、
九月二一日に第一回会議でスエズ運河国際化に賛成した
︵〃︶
一八ヶ国がOoOC>設立に同意した。そしてこの直後、
︵蝸︶
二二日に英仏両国政府は、ダレスと協議することなくス
フランスとイスラエル両
エズ運河問題を安保理に付託する。
四 スエズ戦争
前述の通り、九月後半から、
国の軍部は対エジプト共同軍事作戦を準備していた。フ
ランス内閣は、第二回ロンドン会議開催中にイスラエル
︵㎎︶
との共同軍事作戦について検討することを決定した。次
いで、一〇月二日からイスラエルを訪問したフランス軍
部の使節は、イスラエル基地設備がフランス軍に適合的
であることを確認した。当時イスラエルは、中東におけ
︵50︶
るエジプトの威信向上と、ヨルダンとの国境紛争激化と
により安全保障上の不安を増大させていた。イギリス空
軍の参加なしにフランスとのみ対エジプト攻撃を敢行す
ることは、イスラエルにとってリスクの高い行為であっ
た。しかし、エジプト攻撃の際にフランスの協力を得る
ことができるのは大きな利点であり、このような状況認
︵引︺
識に基づいて、この時期イスラエルのベン.グリオン
︵Uミ己零目−o弓一昌︶首相も仏・イスラエル共同作戦
︵㎝︶
へと傾斜していった。
他方、イギリス政府内では安保理審議の過程でエジプ
ト側が譲歩を行うのではないかという期待が持たれ始め
ていた。前述の通り、安保理付託は開戦の口実作りとい
う測面を持っていたが、もしエジプトが十分な譲歩を行
うのならイギリス側としても戦争の必要性は無かったの
130
(131) イギリスとスエズ戦争
である。九月二五日のエジプト委員会には、インドのメ
ノン外相が提示したωOC>との妥協案に、ナセルが関
心を示しているという情報が伝えられていた。だが一方
︵53︺
で、この情報はイギリス政府をジレンマに陥らせた。な
で可決されたが、第二部についてはソ連が拒否権を行使
した。
だが、エジプト側の見せた譲歩ば英仏問の認識の相違
を顕在化させた。なぜなら、交渉継続による解決を望む
ロイド英外相に対し、ピノー仏外相は交渉継続を望んで
一〇月五目、国連安保理τスエズ運河問題の審議が始
れた結果、﹁六原則﹂に基づいてエジプト側と交渉を続
否決されたことは大きな問題ではなく、第一部が可決さ
いなかったからである。イギリス側にとっては第二部が
︵朋︺
まった。この審議過程で明らかになったのは、エジプト
けることに希望を託すことができた。それに対してフラ
ぜなら、安保理付託を共同で行ったフランス政府が、交
︵ 別 ︶
渉に積極的ではないと認識されていたからである。
側が大幅な譲歩の姿勢を見せ始めたことであった。一〇
ンス側の認識では、第二部の否決は、外交手段による解
続が可能だった訳ではない。実は交渉継続は、経済制裁
ところが、イギリス政府にとって、無条件に交渉の継
決の途が開ざされたことを意味していたのだと言える。
日に至ってファウジ︵ζ筆ヨo巨﹃螂冬邑エジプト外
務総長の提示した﹁六原則﹂について交渉に応じ始めた。
相は、ハマーシヨルド︵O品=與昌昌胃ωδ0=巨︶国連事
︵肪︶
更に翌日、彼はその第三原則を承認する様子を示し始め
︵肪︺
続いて二二日に英仏両外相は安保理に決議案を提出し、
能だと認識されていた。即ち、フランス政府が共同戦線
いてエジプトに圧カを加え続けることによってのみ、可
や軍事的威嚇を通じ、フランス政府との共同戦線に基づ
その第一部でエジプト政府に六原則の遵守を求め、第二
る。
部でωO⊂>が直ちにエジプト政府と共同で運河経営に
れていたのである。従って、フランス側が交渉継続に冷
を離脱すれば、交渉を継続する基盤が失われると認識さ
︵59︶
あたることを要求した。つまり第二部は、交渉を継続す
ることなく、運河経営を部分的に国際管理下に置くこと
き付けたのだと言ってよい。
淡であったことは、イギリス政府に深刻なジレンマを突
︵馴︺
を目的としていたと言える。このうち第一部は全会一致
131
一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (132〕
フランス政府がイギリスにシャール︵ζ彗ま①O言■
寿︶将軍らを派遣するのはまさにこの時であり、これ
を契機にイギリス政府は方針を大きく転換させることに
だとすればイーデンは、エジプトとの交渉を継続しても
十分な譲歩を引き出せないと判断したのだ生言える。
第二にイーデンは、フランス政府が、たとえイギリス
に少なくともイスラエルヘの打診があったことは、シャ
入を行うという計画を披涯した。この計画に関し、事前
の戦闘を調停するという名目で英仏がエジプトに軍事介
前に、まずイスラエルがエジプトに侵攻を開始し、両者
首相とナッティング︵>目亭昌くz巨巨目oq︶外務次官を
だからである。現に、二五目の閣議においてイーデンは
軍がイギリス抜きで軍事侵攻を行うことが戦略的に可能
るが、イスラエル基地を使用できるとすれぱ、フランス
ランス軍による対エジプト攻撃には戦略的に不可欠であ
のではないか。既に述べたように、英領基地の使用がフ
けで対エジプト戦争を敢行する可能性が高いと判断した
の参戦がなくとも、一〇月末までにイスラエルと二国だ
︵舶︶
ールの口調から明らかであった。この情報を受けたイー
なる。 一〇月一四日、シ.ヤールらはロンドンでイーデン
デンの動きは迅速であった。彼はニューヨークに滞在中
﹁我々が対エジプト戦争への参加を拒絶した場合でも、
︵“︺
フランスとイスラエルが軍事行動をとる可能性がある﹂
︵㎝︶
︵ 6 0 ︶
のロイドに帰国を命じ、軍事作戦に関してフランス側と
と語っている。
失し、イスラエルと二国であっても対エジプト攻撃を敢
ランス政府がエジプトとの交渉を継続する意図を既に喪
このように、シャール案提示を受けたイーデンは、フ
の交渉に臨むことを命ずる。以後数回に渡り英仏イスラ
エル三者間で秘密協議が行われ、二四日のセーヴル協定
において、対エジプト攻撃に関する三国問の合意が達成
された。
︵62︶
行する決意を固めつつあると読みとうたと考えられる。
そしてそれ以後二四日までの三国間の交渉で、イギリス
シャール案は、イーデンにとっていかなる意味を持っ
ていたのか。第一に、この時点でのフランス政府による
側は、フランスとイスラエル両国の決意の堅固さを確認
したのではないか。
軍事作戦提示は、フランス側の、交渉を打ち切りと対エ
ジプト開戦に進もうとする明らかな意志表示であった。
132
(133) イギリスとスエズ戦争
仏.イスラエルニ国が攻撃を開始した場合、いかなる帰
では、イギリス自身が参戦を決定したのはなぜか。
トは最後通牒を拒絶し、これに対して英仏両国は三一日
後通牒を発した。自国に対する侵略を開始されたエジプ
時間以内に運河地帯から一〇マイル以上撤兵するよう最
にエジプト空爆を開始した。セーヴル協定で想定された
結に繋がると推測されていたか、資料は存在しないもの
の推論を試みたい。第一に、この時期のフランスとイス
シナリオ通りの展開であった。
積極的であるのを見たダレスは、戦争の危険が遠のいた
撃的であった。安保理でロイドがエジプト側との交渉に
英仏によるエジプト攻撃は、アメリカ政府にとって衝
五 おわりに
ラエルはバグダッド条約の存在自体を非難していた。第
︵65︶
二にフランスは、アルジェリアでの弾圧政策故にアラブ
諸国からの敵意を集めていた。そのフランスとイスラエ
ルによる対エジプト攻撃をイギリスが防止できなかった
とすれば、親英アラブ諸国との関係すらイギリスは悪化
させてしまうことになる。だとすれぱ、イギリスは対エ
る軍事計画は、アメリカ側に極秘のまま協議されたので
と楽観視していたのである。しかも英仏イスラエルによ
︵㏄︶
後退させることになるのである。しかし、反英ナセル政
あった。
ジプト戦争に参加しようがしまいが、中東での影響力を
権のエジプトに対して戦争を敢行する方が、対エジプト
打撃が小さいと判断されたのではないか。少なくともイ
総会に提出する。アメリカがイニシアチブをとらねば、
ダレスはこれら三国軍の即時撤兵を求める決議案を国連
英仏イスラェルのエジプト攻撃に直面し、一一月一目、
ギリス政府の認識においては、スエズ問題を自国のイニ
ソ連が停戦決議案を提出し、その結果、アラブ世論は決
戦争の勃発を放置するよりも、中東における影響カヘの
シアチブの下で解決することが前提だったからである。
定的に親ソ傾向を帯ぴると考えられていた。一西側三国が
アラブ世論を敵に回し、西欧への石油供給が将来的に危
一致してアラブと敵対しているという外観が出現すれば、
二九日、イスラエルはシナイ半島への侵攻を開始する。
これに対し、英仏両国政府はスエズ運河に危険が迫って
いることを名目に、エジプト・イスラェル両国に、二四
133
平成11年(1999年)1月号 (134)
に期待を抱いていたイギリス政府にとって決定的な意味
を通じたダレスの方針であり、それ故にアメリカ政府は
ばならなくなったのである。そして次に協カを期待され
メリカの協カなしに危機解決のイニシアチブを発揮せね
が得られないことが明白になり、以後イギリス政府はア
を持っていた。この声明により、アメリカ側からの協力
国有化に対して強硬姿勢をとれなかったのである。
たのがフランス政府であり、九月末の安保理付託はこの
︵67︶
このようなアメリカ側の態度は英仏両国政府を困惑さ
ようなイギリス政府の期待を反映していたと言える。
った。アラブ世論を敵に回さないことこそがスエズ危機
機に瀕するだろう。ダレスにとうてこの事態は悪夢であ
せた。アメリカ政府と対極にある認識を持っていたのが
だが、ここでもイギリス政府はジレンマに直面した。
フランス政府であり、一〇月末までに国有化が撤回され
ブを握り続けねぱならなかったのである。しかしイギリ
と否とに拘わらず、白身がスエズ危機解決のイニシアチ
あり、それ故イギリス政府の認識では、武力行使を行う
だが、一九五〇年代半ぱの中東はイギリスの勢カ圏で
とイギリス側が認識していた英仏共同戦線は、この時点
ス側に提示する。エジプトに譲歩させるために不可欠だ
したフランス政府は一〇月一四日、シャール案をイギリ
政府の譲歩によづて顕在化した。交渉の打ち切りを決意
従って極めて脆弱なものであり、その脆弱性はエジプト
的だったからである。安保理付託以後の英仏共同戦線は、
なぜなら、フランス政府はイギリス側よりも遥かに好戦
ス政府の抱えていたジレンマは、単独でそうしたイニシ
ったのである。
在い隈り、開戦もやむを得ないと判断するほど好戦的だ
アチブを発揮するだけのパワーを所有していないことに
で破綻したのである。
基づいていたと言える。 一
九月のωOO>案受諾は、こうしたイギリス側の認識に
肢の中では最悪のものであり、だからこそ﹁最終手段﹂
係を極度に悪化させるという意味で当初想定された選択
ギリス政府にとっての武力行使は、アラブ世論と対米関
では、イギリス政府が参戦を決定したのはなぜか。イ
その意味で九月二二日のダレス声明は、アメリカ政府
判断されたのである。八月の第一回ロンドン会議開催と
あった。それ故、アメリカ政府の支持と協カが必要だと
第121巻第1号
橋論叢
134
(135) イギリスとスエズ戦争
だと認識されていたのである。一度武カ行使を敢行して
しまえぱ、アラブ世論の反英感情を硬化させ、中東での
影響カ失墜に繋がることは当然の前提であった。従って、
この最終手段は、イギリスの参加なしに仏・イスラエル
ニ国が対エジプト攻撃を開始するという事態が起こりう
ると認識されるまでは、選択されえなかったのである。
塑言すれば、イギリス政府による参戦は、フランス政府
の提案に便乗したからではなく、フランス政府の提案に
よって参戦せざるをえない状況に追い込まれたからこそ
決定されたのである。
このように見れば、イギリスがスエズ戦争を敢行した
動機は、脱植民地化とそれに伴う大国としての地位の後
退という潮流に抵抗することではありえない。スエズ危
機がいかに解決されようとも、中東でのイギリスの影響
力後退は不可避だったのである。むしろスエズ戦争は、
影響カ後退を漸進的なものにするための最小悪の手段と
して選択されたのだ圭言えよう。
︵1︶ ﹄oす目一︺彗皇pbき昌ぎ亀ミbsgoミ§ぎミ﹃ぎ§1
−§ミ言§雨§宮ミぎき雨盲g−§ミsミミroコ旦〇三ζ害.
︵2︶ しかし十月中句の閣議録などは残されておらず、廃棄
昌昌與p島oooo.
︵3︶;oqサ掌o昌鼻吻§∼.Z①≦くo︸彗o要蚤昌≡彗■
されたと推測されている。
肩H俸宛oξ冨富一>目旨o目︸>島∋艘峯凹篶9.ω畠N冨三ω1
まα、巨窒ざぎ9Ugζ;彗o−o;峯.く昌鳥一&甲もミ■
︵4︶奈葦ξ一Pぎ§Z婁ぎ・斥二け妻﹃葦、m巾嚢9
︷娑き§暗sきミ§−凄†s一﹁oま〇三ζ彗昌⋮彗﹂竃o1
冨§軋§雨9§oユ之タピoa〇三=o島睾彗oωa轟プー
冨昌一ミ.ω8暮−巨89§e這&§9§、由ミ富ざ§雨
︵5︶ U鵯く巳O彗;o戸bざぎぎss﹄§雨ωs§Oユ9仰−oコー
8pお㊤−.
︵6︶ 保守党など国内の対エジプト強硬意見、ヨルダン惰勢、
oo戸︸鶉旦里曽斤ミo=﹁巨一冨oooo.
因が複合的に作用してイギリス政府に参戦を決定させたと
アメリカ政府への反感、フランス政府からの誘惑という要
争﹄︵名古屋大学出版会、一九九七年︶参照。しかしこれ
の見解も存在する。佐々木雄太﹃イギリス帝国とスエズ戦
らの諸要因が、いかなる相関関係を持って複合的に作用し
︵7︶霊奪麦三§雨§︷ミ婁昌貫O§−由ユ§§§、
たかは明らかにされていない。
雪ト﹄漫︸−φ90す凹09=﹂=一↓プo⊂目−くo﹃ω岸くO叶之O﹃pゴ
もざ§亀ε9き軸ω冒罵Oぎ之芦Oすo09崖−=凹目o−o自qoP
○與﹃O=目凹勺﹃①ω9−o㊤−⋮U−凹目oω.禾=コドドぎ雨■ooSo§ざb中
↓サ①C目−くΦ﹃ω二くohZoユすO與﹃o=冒凹、﹃耐ω9−o⑩−一ω一〇く①自
135
平成11年(1999年)1月号 (136〕
第121巻第1号
一橋論叢
いたことにあると考えられる。
︵15︶ §ミ’Uoo−窪.
︵14︶ 美S一Uoo.ωω.
ド専①亭胃o目pbs§ssミω§、﹃ぎき竃g㌧§oユo§
きミ雨﹃︷S、ぎ雨§乱﹄膏§忽−8∼1−8、一〇すざ與oq〇一−く與コカー
︵以下■⇔、︶一zρ;㎝.しかし、この時点でイギリス側
日は九月半ぱと決定された。イギリス政府内、特に外務省
であった。O>団5ミ冨鼻向O︵3︶冥;>長。作戦決行
し、次いでカイ回を経てスエズ運河に進軍するというもの
島を基地として英仏軍がまずアレクサンドリアを全面攻撃
巨昌ζ竃ぎ箒胃︶を了承した。この作戦は、英領マルタ
︵24︶O>︸冨ミ冒鼻向O︵9︶9曽旨︷続いてエジプト委
員会は参謀本部が提出したマスケット銃士作戦︵O篶轟−
︵鴉︶ O>巾−ωト\−N−9向O︵蜆①︶ r心一﹄=−︸.
前哨基地として保有していたからである。
していなかったのに対し、イギリスは地中海のマルタ島を
︵22︶ フランスがエジプトを攻撃するための前哨基地を所有
︵刎︶ O>団−ωト\−N−9向O︵蜆①︶ω−
︵20︶ O>−−N00\ωo.Oζ︵㎝①︶ σ9一>一﹄①q’
︵19︶ O>団5ミ竃鼻向O︵畠︶牟彗﹄巨︸1
︵18︶ §ミ.一Uoo.らー
ある。
︵17︶ スエズ運河が国際的水路であることを規定した条約で
行動に反対すべきでないと述ぺている。§鼻Uoo.鼻
︵16︶ 現にダレスは八月一四日のZωO会議で、英仏の軍泰
UoP一〇0M一〇〇−oO.丙−目困ωoo戸b泳“ミぎoS雨﹃SS∼−ぎ雨吻S帖N
○ぎ色餉ミーξ9︸彗一昌宛昌鷺凹邑﹁o目︷〇三[昌匡彗凹
︵8︶ スエ.ス危機をフランス政府の視点から研究したものは
望算o⊂三く雪9︷、﹃霧ω一轟蟹.
○ユ色ω..一ぎ毫冒−宛oo目o﹃−〇一﹄汀印目庄カoo目o﹁O毛①P①oω.一
極めて少ない。ζ豊ユgく巴窒ρ..胃彗8昌⊆;⑭ω毒N
ωsΦ∼﹄㎏oqh﹃ぎ雨Oユ吻涼邑s、き眈O03︸Φos雨so雨少O■申o﹃〇一〇冨・
冨目邑;?鶉ωしooo2ζ匝自H︷8<昌ωωpop一卜富ぎミ雨ミ
一.9“ミ§註ω§§﹄89>U昌≦﹂§ーなお、イスラ
エル政府の視点を重視する研究書として、ω。−、箏o昌
饅目o≦ωまヨ鶉戸&ω’↓ぎ雨ω§∼−吻ぎミoユ包吻−審9ピo目−
︵9︶ o>︸冨oo\ ω 9 0 ζ ︵ 9 ︶ 望 一 、 カ O .
OOP向﹃凹コ斤O饅ω9−ooo−
︵m︶ O>︸︼ωム\−M−9向O︵蜆①︶ω’ooo−冒−く.
︵u︶ O>団−N0o\ωρO]≦ ︵蜆①︶N戸M−]≦凹﹃o=−
︵12︶ きミ︸零完雨ミ︷§吻9§き則ω、ミS亀a−亀ミ§トさ
︵以下勇s︶一〇〇〇1蟹.
はまだ共同作戦立案に同意していない。後述するが、イギ
事協カを行うことに対する懸念が存在していた。しかし、
においてはアラブ世界で極めて不人気なフランス政府と軍
︵13︶ bo§§§済b営δ§ミ︷§塞きミ艮︸−喧魯↓o§軸M
リス政府がフランス側に同意を与えるのは七月三一日であ
おそらくはエジプトに対する圧力を増大させるという利点
る。なお、フランス政府がこれ程まで好戦的だった理由の
多くは、ナセルがアルジェリアの反仏独立運動を支援して
136
ましいと判断されたのである。O>︸冨ミ竃;向O︵9︶
を持つが故に、中東における西側諸国間の協力の拡大は好
いと考えていたからである。そしてイギリスがイニシアチ
ずイニシアチブを握っているという外観を保たねぱならな
“︸OSk塞雨ぎO葭目己︺ユOOqon↓す①↓−昌①ω勺一﹄σ=ωす−目OqOO目一−
︵38︶>冒;oξ畠昌一きミ9ミ雨一§雨き§oぎミ9﹃﹄s−
︵37︶ §ミ
きな割合を占めていたためである。
運河を通航する船舶のうち、アメリカ人所有のもののが大
︵36︶ O>︸冨ミ冨;一向O︵蜆①︶Mρ;;ωωPこれはスエズ
とを示していると言える。
ものにしようとしていたダレスとの利害が一致していたこ
ブをとることは、アメリカの行動をできるだけ目立たない
︵25︶ エジプトにも招聰状が送付されたが、出席を拒絶され
;、>E0胃.
︵26︶ 実冨一Uoo.蟹.
た。
︵27︶ 一九五五年九月にエジブトとの間で武器取引協定を締
結して以後、ソ連はこの目的を持って中東政策を活発化さ
せていたと言える。
︵蝸︶ O>︸−ω卜\−b0−9向O︵蜆①︶MgOO目饒0①目巨竺>目コ①〆Nω
︵39︶ 夷S一Uoρ曽①.
○凹目︸﹂畠p℃o−艶甲窪o1
>巨的.
︵鵬︶ O>匝−N0o\ω〇一〇一≦︵蜆①︶①ドN0o>一﹄卯
スエズ運河にそれ程高い経済的価値を置いていなかったフ
︵柵︶ O>︸5ミ竃5向O︵3︶畠二〇;ωoPこれに対して、
︵㏄︶ O>団−ooと\−M︸9向O︵蜆①︶ M牟トωω〇一−
日頃までにナセルが一八ヶ国案を受諾しなけれぱ、武カ使
ランス政府には、ケープ迂回の航路は受容できるものであ
︵釧︶ 八月二九日、イーデンはアイゼンハワーに﹁九月一〇
用を行う決意である﹂と伝えた。勇S一UOO﹂農。
ωO⊂>への支払いを認めないアメリカ側に対し、﹁それで
った。九月一〇日にフランス側は、アメリカ船通航料の
︵42︶ ζo﹃ooo=巴 ω匝﹃−OP §雨 Os膏 90邑∼菖㌧あ§9げ
された。O>因5ミ旨冨一向O︵9︶ω〇二〇,冒ωoiド
規模であったが、柔軟な作戦日程を組めることが利点だと
銃士作戦の採用を決定した。この作戦は従来のものより小
︵刎︶ ωO■>受諾に伴い、イギリス政府は修正マスケット
勇冨一Uoo﹄o−.
は戦争が不可避になってしまう﹂と強い不満を述べている。
︵32︶ さミ一〇〇〇﹂2.
︵34︶勇S一UooL貫Ooo、ミo。この案では、ωO⊂>が独
︵33︶bo§§§済§§膏§§︷§ミ㌧旨ぎお3し︺oρ舅
白の運河パイロットを雇用し、加盟国の船舶の通航料を徴
プト政府に払い戻すことが予定されていた。
収し、そのうち適切な額を運河の維持・発展のためにエジ
︵35︶ ωOご>案を構想したのがダレスであったにも拘わら
ず、ωO⊂>の設立宣言を行ったのはイーデンであ?た。
前述の通り、イギリス攻府はスエズ危機解決にあたり絶え
137
イギリスとスエズ戦争
(137〕
第121巻第1号 平成11年(1999年)1月号(138〕
一橋論叢
完s、δω§∼昌s∼■§貧さひ甲−§︼zoξくo﹃7ωけζ彗−
︵51︶ 第一次中東戦争の際にイスラエルは一国でアラブ諸国
︵50︶§ミ一P昌o−
︵49︶ 団彗−oPoサo芦ol岩印
通航料を課す方法はエジプトと利用者の合意にようて決定
トの主権尊重③運河経営を特定の国の政治から隔離する④
︵55︶ 六原則の内容は次の通り。①運河の自由通航②エジブ
︵別︶ O>困−b00o\MPOζ ︵蜆①︶ ①一M①↓サωoOF
︵鴉︶ O>︸−ωム\−N−P向O︵o①︶ω戸Oo目饒O①目o討−>コ自oき
︵52︶§匡.も.曽o.
も犬きな価値がむると認識されていた。
と闘ったのであり、フランスの協力は軍事的にも心理的に
巨目.ωoユ雪目L8戸o﹂竃一留一ξ⋮=o︸♀ω§Nし$?﹄
︵43︶ エジプトは前年九月のソ連との武器取引により大量の
き;o茗O−﹄oooミミ、一ro目旦o目一﹄O目與一巨與目〇四℃P−㊤一〇〇一〇.−↓ド
機が戦闘に参加するのが望ましいと考えられていたからで
戦闘機を入手しており、それに対抗するにはイギリス戦闘
ある。
︵仙︶ 向Oωご\=o ミ ① 量 曽 ト \ 蜆 ρ
︵45︶ 毫qψUoo ﹂ 畠 .
︵蝸︶ 九月二目、ロイドはピノーに対し、ダレスがアメリ
する⑤通航料の一部は運河の発展に割り当てる⑥旧運河会
カ船に対して、ωOd>に通航料を支払うよう命令を出さ
ないが故に安保理に向かうのだと述ぺている。b・■﹀
︵56︶ これは運河経営がエジプト政府の意向に左有されない
社とエジプト政府間の調停
たと言える。特にこの点にイーデンは大いに満足していた。
ことを意味しており、名実共に運河国際化に近いものだっ
︵47︶次いで一〇月一日にωo⊂>の第一回会合が開催され
zo﹂ミ.
た。この問の九月二六目にアメリカ政府は、アメリカ船籍
リス政府はナセル打倒の目標を放棄したとは言えない。一
O>団冨ミ冒;向O︵塞︶夷しかしこの時点でなお、イギ
の船舶が運河通航料をωO⊂>に支払うよう指示する準備
がある、と英仏側に伝えた。しかしこの指示の対象には、
旦譲歩させてその威信を傷付けることができれぱ、ナセル
アメリカ人所有の船舶のうち九〇%を占める他国船籍の船
舶には適用されず、経済制裁の効果は低いものだった。
政権失墜に繁がるという期待があったのである。O>向
−ωム\−oo−ρ向O ︵蜆①︶ω一〇〇箏饒O①目巨と>目目①肖.
勇sUooIωo−.
︵57︶ 夷S一Uoo.ω昌’
︵48︶毫冨﹄oo、墨N.英仏側はアメリカ政府が安保理がい
かなる対応をすると予測していたのか、詳細は不明である
︵59︶ O>︸−ωト\−N−メ同O︵σ①︶ooo.
︵58︶ きミ一Uoρω墨.
︵60︶ この会談の公式記録はとられておらず、ナッティング
が、安保理で審議すること自体は平和的解決模索の一貫で
得ないと予測されていたのではないか。
あるため、アメリカ側としても英仏の後ろ盾に回らざるを
138
ラエルがエジプト攻撃を開始した場合、英仏が軍事介入を
︵64︶o>団旨o。\ω90⋮︵3︶芦この閣議において、イス
行うことが決定された。なお、前目の閣議において、軍事
の回顧録で初めて暴露された。以後、この会談に言及する
三昌︸z暮饒目oq一き肉邑呉s卜“竃oミHぎ婁oQ呉ω冒§一
研究書は全て彼の回顧録をもとに記述している。>目−
介入によってアラブ世論を反英姿勢で結束させることを懸
竺員、↓∼∼o88−ohω写﹃男−竃?昌go昌︸oho冬彗
は、既存のバグダット条約は容認できるが、これ以上加明皿
キスタン、そしてイギリスであった。エジプト政府の立場
︵65︶ 当時バグダッド条約の加盟国は、イラク、イラン、パ
〇H≦︵蜆①︶↓ω.
ぱ、その影響を緩和できると判断された。O>団冨o。\ω〇一
念する議論が出されたが、早期にナセル政権を打倒できれ
Z①名くoH斥一05H斥ωo目之1,o算①﹃一−㊤㊦一.
︵61︶ 目イドの帰国直前、スエズ問題に関する英仏エジブト
会談が二九日からジェネーブで再開されることが合意され
た。
旦g、.二目ぎ膏§§§ミ㌧さぎ;〇一.鼻之昌昌σ宰ω旨︷
︵62︶ シャール案提示以後の三者の交渉過程は、>三望一一
5雪が詳しい。
あった。
国を増加させることに反対するという、条件付きの反対で
︵67︶ §ミ一〇〇〇1ξ蜆.
︵66︶ 勇S一Uoo.ω曽.
︵63︶ 既に九月末、ピノーはイギリス側に﹁戦争を一〇月末
まで開始しなけれぱならない﹂と示唆していたとされる。
︵一橋大学大学院博士課程︶
=o首一〇>ミら﹂呂、この発言は、一一月以降の冬季は軍
事作戦が困難であるとの認識を反映していると考えられる。
139
イギリスとスエズ戦争
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