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2013
目 次
【論 文】
過労自殺のプロセスに関する分析枠組みの提示
─ストレス研究との関係から─
…………………………………………………………岩 田 一 哲
1
試験研究への税額控除制度に対する資本市場の反応
…………………………………………………………加 藤 惠 吉
齊 藤 孝 平 29
愛知県4市のまちづくり指標と行政評価・予算編成(2・完)
─自治体行政における社会指標型ベンチマーキングの活用─
…………………………………………………………児 山 正 史 53
岡山県倉敷市のまちづくり指標と総合計画策定
─自治体行政における社会指標型ベンチマーキングの活用─
…………………………………………………………児 山 正 史 67
青柳会計学から見た粉飾…………………………………………………………柴 田 英 樹 75
台湾の戦後混乱期と楽生療養院
─1950 ∼ 1960年代を中心として─
…………………………………………………………城 本 る み 93
健康マーケティングと医薬品流通業の関わりについての若干の考察
…………………………………………………………保 田 宗 良 127
【研究ノート】
右翼的ポピュリズムのイデオロギー的特徴
…………………………………………………………村 松 惠 二
1
【論 文】
過労自殺のプロセスに関する分析枠組みの提示
─ストレス研究との関係から─
1
岩 田 一 哲
1 .はじめに1
本稿の目的は、過労自殺研究とストレス研究の相互援用の可能性を検討することであり、具体的
には、過労自殺のプロセスに関する分析枠組みを提示することである。
過労自殺研究は過労死研究と対で考察されることが多く、もともとは過労死研究からスタートし
ている。学問分野としては法律学や労務管理に関係する分野からの考察が多い。また、過労死と過
労自殺の原因は類似の要因で考えられている。ストレス研究は、過労自殺という特定の現象よりむ
しろ、何らかの外力によって心身に歪みを生じた状態としてのストレス 2 の状態を引き起こす原因
やストレスの軽減の方法を検討しており、学問分野は医学や心理学が多い 3。
また、それぞれの研究の研究手法の違いもある。岩田(2012)は両研究の主要な研究手法につい
て、過労自殺研究は、日本的雇用慣行との関係からの理論研究や、労災申請や労災認定の問題に絡
んだ関係者の手記や裁判記録等のケース分析の手法を用いたものが多いのに対し、ストレス研究
は、アンケート調査やインタビュー調査等の実証研究による成果が豊富であることを指摘している。
過労自殺研究とストレス研究は、学問領域によって研究分野や研究手法が大きく異なる。ただ
し、過労自殺との関係の深いうつ状態と、ストレス研究でのストレインである抑うつは概念的には
異なるが内容は類似であるため、両研究の関係を検討することで、過労自殺研究の諸結果とストレ
ス研究の諸結果を相互援用することが可能になると考えられる。この視点からの検討は、過労自殺
に至るまでプロセスのより詳細な理解につながる。
具体的には以下の 4 つの点を検討する。第 1 に、過労自殺の原因と考えられている要因を過労
死・過労自殺研究をもとに検討する。第 2 に、ストレス研究におけるストレスモデルの検討や、抑
うつとストレス反応の先行要因の概略を行う4。第 3 に、過労自殺の原因と考えられている要因とス
1
本稿は、科学研究費補助金基盤研究(C)研究課題番号(24530448)「曖昧で突発的な仕事状況に置かれた従業
員のストレス並びにその軽減についての解明」
(2012年度 ‒2014年度)の研究成果の一部である。
2
増地(2002)p.54を参照。
3
岩田(2012)p.14を参照。
4
後述するが、抑うつを測定するための尺度としてストレス反応が考えられている。
1 トレスモデルとの関係を検討し、過労自殺のプロセスに関する分析枠組みを提示する。最後に、今
後の課題等を述べる。
2 .過労自殺の原因の検討 5 ─ 過労死の原因との類似性 ─
前述のように、過労自殺の原因は過労死と類似と考える内容が多く、両者を比較した研究はほと
んどないため、過労死・過労自殺の両者の原因を包括的に検討せざるを得ない6。そこで、過労死・
過労自殺の諸研究の中で、初期の過労死研究と過労自殺に言及した研究を含めて検討する。
2 − 1 .過労死・過労自殺の原因に関する初期の研究
初期の過労死研究は、過労死の原因として長時間労働を挙げるものが多い。この頃の過労死研
究の主たるテーマは、なぜ、日本企業の従業員にだけ過労死・過労自殺という現象が取り沙汰さ
れるのかという問題であった 7。したがって、日本に独特の制度や慣行として考えられている、終
身雇用慣行、年功序列制度、企業別労働組合を核とする日本的雇用慣行の下に置かれている従業
員が、長時間労働せざるを得ない状況に置かれていることを指摘することが、当時の研究の課題
であったと考えられる8。
また、日本的雇用慣行の下に置かれている従業員の心理的側面から、長時間労働を論ずること
もある。関連する議論として集団主義的志向があり、平等主義と集団主義(e.x. 間 , 1963)が検
討されている。ここでは、労使協調の路線から、企業に対してより忠誠心を発揮するような風土
が出来上がったことが指摘され、日本企業におけるチームワークの重視や、人間関係の包括性・
親密性をもたらしていると考えた。それゆえ、自分の仕事が終わっても他者の仕事が終わるまで
は帰れない状況が生じる。
職務 9 や組織そのものと心理的要因との関係からは、岩田(1977; 1985)は、日本企業では柔軟
な組織構造が維持され、この構造を機能させる背後に「責任の連帯性」と「状況即応性」がある
とした。このことは、従業員の組織へのより大きな忠誠心と貢献を引き出すことにつながり、長
5
本稿は過労死・過労自殺の原因と考えられている要因を検討した研究に絞った。過労死・過労自殺研究を概
観すると、過労死者・過労自殺者の関係者が過労死・過労自殺とどう向き合ってきたかを検討した渡部(1993a,
1993b)の研究のように、過労死・過労自殺に関わった人々や労災認定に関するものもあるが、これらの研究は
除外している。
6
後述するが、過労死・過労自殺の両者を比較した研究として川人(2012)があるが、日本の研究では、この
内容以外は見当たらなかった(CiNii から検索)。
7
この点については、数多くの論者から指摘がある(e.g., 牧野 , 1991; 川人 , 1992; 加藤 , 1996)
。
8
日本的雇用慣行と過労死・過労自殺の関係については、岩田(2008)において検討されている。
9
本稿には、職務、仕事、業務などの言葉がある。それぞれの用語の違いは厳密にはあるものの、本稿はこれ
らの用語をほぼ同義とし、引用文献の場合は、引用箇所の用語をそのまま用いる。この理由は、過労死・過労
自殺研究では、これらの用語を厳密には区別せずに議論しているためである。
2
時間労働を誘発する可能性が高まる。
森岡(1995)は、日本企業における企業中心社会的な構造と過労死などの労働災害との関係に
ついて検討し、前述の岩田(1985)や高橋(1989)の議論をもとに、
「過労死は、企業内の生活条
件から言えば、こうした高圧釜の環境の下での超長時間過密労働によって生み出されると言って
よい」
(pp.236‒237)と考察している。ここで言う「高圧釜」とは、
「「終身雇用制」の普及が、経
営者が出口をふさいで従業員に圧力をかけることを可能にした。それは、いわば「高圧釜」のよ
うな機能を担うものだったのである」
(岩田 , 1985, p.24)という状況のことである。つまり、日本
的雇用慣行によって従業員の転職が難しい状況で、超長時間過密労働を拒否し難い状況を「高圧
釜」と考えている。また高橋(1989)は、
「労働市場は企業別に分断され、内部労働市場に囲い込
まれた労働者が「高圧釜」の中で野放しの競争状態に置かれることによって、彼らの高い勤労意
欲は引き出されている」
(p.6)としている。これらの点から、日本企業の従業員が超長時間過密
労働の状況にあっても離職という選択は取らず、当該企業への忠誠心が高まることで勤労意欲が
引き出され、過労死につながると考えられている。
大平(1996)は、日本企業の従業員の勤勉さを説明する際に、周囲を価値とし、その価値を参
照していることが付き合い残業などの残業時間の増大に関係があることを指摘した。後に大平
(2004)は、企業が制度によって会社人間を作る(囲い込む)のではなく、従業員自身が個別価
値よりも外部の状況を優先する傾向を持ち、所属企業に一体化することによって、従業員は知ら
ずと会社を背負い込むことを指摘した。
さらに、過労死・過労自殺を現象面から検討する論者 1 0 から、日本企業の施策との関係が指摘
されてきた。この議論は、過労死・過労自殺を取り巻く状況そのものに焦点を当てて、日本的雇
用慣行との関係を検討している。企業の利益のために残業もいとわない人間を高く評価するよう
なシステム(川人 , 1992)や、労働時間の柔軟化を志向した三六協定の締結(森岡 , 1995)、不景
気時には、減量経営に伴いパートやアルバイトなどが削減されることにより、正規従業員への負
担が増大する(川人 , 1996)ことなどから、正規従業員に長時間労働を強いるようになった等で
ある。過労自殺により接近して検討した初期の研究は、川人(1998)であろう。この研究は、過
労自殺者の特徴として、第 1 に、幅広い範囲の労働者、つまり、業種・職種を問わずほとんどの
分野の職場に広がっていること、第 2 に、過重な労働による肉体的負担ならびに重い責任、過重
なノルマ・達成困難な目標設定などによる精神的負荷が存在すること、第 3 に、自殺に至る過程
においてうつ病などの精神障害に陥っていること、第 4 に、企業は過労自殺が発生した際に、そ
の原因を労働条件や労務管理との関係で捉えようとしないこと、第 5 に、過労自殺の実態がなか
なか組織の外部に伝わらないことを挙げている。
過労死研究を主たる内容としたり、過労死と過労自殺を対にした研究は、長時間労働が過労
10
過労死や過労自殺研究は、労災申請や労災認定に関連して、弁護士からの検討も多くある。
3 死・過労自殺の原因であると指摘した上で、長時間労働に至る従業員の周囲の状況を検討するこ
とが中心であった。したがって、長時間労働が過労死・過労自殺の大きな原因の 1 つであり、そ
の背後の制度的な要因、特に日本的雇用慣行に関する要因に注目していたと考えられる。
2 − 2 .過労自殺への注目
2000年代になると、過労死と過労自殺のそれぞれに注目した研究や、過労自殺にクローズアッ
プした研究が数多く登場する。労災認定に関連する法的解釈の研究では多くの論者がいるが、過
労自殺の原因やそのメカニズムを検討した研究は相当数あるものの、論者は多くない11。
ストレス疾患労災研究会・過労死弁護団全国連絡会議編(2000)では、過労自殺の動機・原因
を整理し、以下の 4 点を指摘した。第 1 に、業務過多・長時間労働による疲弊であること、第 2
に、過剰に重い責任による「精神的負担」が見られること、第 3 に、目標達成に向けて努力をし
たけれども、それがうまくいかなかった、その結果生ずる落胆があったこと、第 4 に、人権侵害
が自殺に大きな影響を与えていることを挙げている12。
川人(2002)は、
「過労死110番」の電話相談を受けた自殺事例のほとんどが、仕事上の過労や
ストレスが主たる原因であるとした。具体的には、第 1 に、バブル崩壊後の長い不況の中で、日
本の職場では人員削減が図られ、結果として一人ひとりの業務量が増加したこと、第 2 に、目標
達成に向けて努力したけれどもうまくいかず、その結果生ずる落胆があったこと、第 3 に、会社
の人員削減政策を遂行するため、労働者の退職を勧告していく過程で、整理の対象者から反撥を
受けて悩んでいたこと、第 4 に、不本意な退職勧告、解雇通告、いじめなどの人権侵害が生じて
いること、第 5 に、中高年労働者が「自発的に」退職届を出すように仕向けるために、対象労働
者に対する嫌がらせ、いじめを行っていること、の 5 点を挙げている13。
天笠(2003a; 2003b; 2004)は、過労自殺事例22事例をまとめ、過労自殺の経過として、昇進・
転勤・配置転換といった人事上の変化(17例)の後に、要求度が高く(18例)
、裁量度が低く(17
例)、支援度が低い(18例)過酷な労働ストレスを受けながら、 1 日平均11時間以上の長時間労
働を強いられており、その後、うつ病発症前にも、自殺前にも、生活上の出来事(公用車の事故
や業者交渉上のトラブルなど)が認められたことを指摘している14。
大野(2003)は、過労死・過労自殺の原因と考えられている長時間労働について、個々の従業
員における個別の状況を明らかにする試みを行った。この中で、過労死・過労自殺事例で登場す
る人々の多くは、
「まじめ」
「几帳面」
「責任感が強い」
「他人に非常に気を遣う」等の特徴を持つ
11
ここからの記述は、2000年以降の日本での論文・記事を CiNii で検索し、労災認定等の判例に関する内容を除き、
過労自殺あるいは過労死・過労自殺の両者の原因を記述したものを論述した。また著書も、同様の方法を取った。
12 ストレス疾患労災研究会・過労死弁護団全国連絡会議編(2000)
pp.282‒284をまとめた。
13
川人(2003)pp.12‒13をまとめた。
14
天笠(2004)p.21をまとめた。
4
「メランコリー親和型15」であるという。また、職場集団性(チームワーク)を重視した職場要因
と、柔軟な職務構造、つまり、職務内容や職務範囲が組織、集団内の状況に応じて弾力的に変化
して伸縮するという仕組みによって、無限定な仕事の広がりにつながる。ただし、職場集団性の
もとで従業員同士が仕事を援助し合うことがなくなるあるいは少なくなると、集団内の他の従業
員を援助しない場合が多くなる。このような状況にメランコリー親和型性格の人々が置かれる
と、他の従業員からの援助が受けられない状況の中でも多くの仕事を引き受けてしまい、このこ
とが、過労死・過労自殺の原因につながると指摘する。
川人(2003)は、過労死・過労自殺の事例から 5 つの特徴を挙げている。第 1 に、死因に自殺
が急増していること、第 2 に、リストラ、人員整理が深く関わっており、残った者の一人当たり
の業務量が増加して、
「働きすぎ」になっていること、第 3 に、裁量労働制の導入と職種の相次
ぐ拡大で労働時間の制限がなくなり、極端な時間外労働を合法化することになったこと、第 4
に、成果主義、業績主義によって、
「働きすぎ」が事実上強制されていること、第 5 に、派遣労
働などの非正規雇用の増大がもたらす影響、である。
川人(2004)は、
「経済不況の中で失業率の高い状態が続くと、労働者の企業に対する従属性
が強まり、業務による心身の疲れが一層増加していく。過労自殺はこうした背景のもとで増加し
ている」
(p.35)とした。また、過労死の原因として、長時間労働、深夜勤務・不規則勤務・時差
疲労の問題、過剰なノルマ等による精神的負担を挙げている。ただし、川人・山下(2004;
2006)では、前述の過労死の原因を過労自殺の原因として指摘しているため、過労死・過労自殺
に共通する要因と考えられる。さらに、川人・山下(2008)は、裁量労働制の拡大によって、実
際の職場では、納期や業務量は会社が決めるために、一人ひとりの労働者に無理な納期や過大な
業務量が科せられることが多いことと、ハラスメントによる自殺を加えている16。
黒木(2004; 2008)は、自殺で労災認定された事例51例を検討し、
「自殺で認定された事例に関
しては、管理職と専門技術職の両者で全体の74%を占め、ノルマの未達成が関与して労災認定さ
れた事例は61%、100時間以上の時間外労働は53%もみられており、本来、部下のマネジメント
をしなければならない立場にいる管理職自身がノルマが達成できずに時間外労働が発生し、心身
ともに疲弊状態となって追いこまれ閉塞状況の中で自殺に至っていることが浮き彫りにされた」
(黒木 , 2008, p.42)とし、過労自殺の原因をまとめている。
上畑・天笠(2006a)は、過労自殺事例に関連する資料を閲覧し、弁護士等にも質問し回答を
得た上で、計37事例の検討結果として、「仕事に関わるストレスフルな出来事でもっとも頻度の
多かったものは、「長時間・不規則労働」の81.1%であり、次いで、「予測し得なかった出来事」、
15
メランコリー親和型性格は、Tellenbach, H.(1983,邦訳1985)によって指摘されたパーソナリティであり、
その基本的特徴を「几帳面さ」
「自己の仕事に対する過度に高い要求水準」
「仕事・対人関係に対する秩序」とし
ている(邦訳 , pp.139‒157)
。
16
同様の見解は、川人・須田(2009)でも見られる。
5 「いやがらせ、ハラスメント」
、
「仕事目標が達成できないストレス」
、
「過大な仕事責任」などであ
り、「イベント」のストレスの大きさでは「いやがらせ、ハラスメント」が最も大きく、次いで
「仕事目標の未達成」
、
「職場の人間関係のトラブル」
、
「長時間・不規則労働」
、
「予期し得なかった
重大事」などが続いた」
(p.9)と指摘している17。
天笠(2007)は、当時までの多くの研究をまとめた上で、過労自殺の「因果の鎖」を提示した
(図 1 )。成果主義が原因となって長時間労働が一般化し、仕事の要求度が高まり、裁量度や支援
度が低下する。ただし、因果関係が当時は不明であったため、大きさ不明としている。月間60時
間以上という長時間の時間外労働は、自殺の観念(希死念慮)の弱い原因となり、自殺の観念は
自殺の極めて強い原因となる。高要求度かつ低裁量度は高ストレインであり、高ストレインはう
つ病の強い原因となり、かつうつ状態(抑うつ症候群)の中度の強い原因となる。高要求度、低
裁量度、低支援度は、個別にうつ状態の弱い原因となる。成果主義の導入によって、努力 1 8 が求
められるようになり、尊重報酬 19 が低下し、金銭・地位報酬20が低下し、職の安定性が低下する。
それらは ERI(努力−報酬不均衡:Effort-Reward Imbalance)の増大を意味する。また、成果主
義の導入によってハラスメントが増えることが示唆され、ハラスメントは短期では中度の長期で
は強いうつ病の原因となる。うつ病をはじめとした精神疾患は自殺の強い原因であった21。
図 1 .過労自殺の「因果の鎖」
(天笠 , 2007, p.133より作成)
17
上畑・天笠(2006b)でも、簡潔にまとめられている。
18
努力要素と報酬要素は、努力−報酬不均衡(ERI:Effort-Reward Imbalance)モデルの中の、努力(effort)
と報酬(reward)を指している。努力−報酬不均衡モデルは、ストレスモデルであるため、後に検討する。
19
自分の努力を周囲の人々(上司や同僚)が認めてくれているかどうかを評価するもの(p.123)である。
20
昇進の見込みの程度、教育やトレーニングの程度に見合った報酬かどうか、賃金やサラリーが適当かどうか
(p.125)で評価される。
21 天笠(2007)
pp.133‒134をまとめた。またこのモデルは、天笠(2009b)でも検討されている。
6
さらに、天笠(2009a)は、上記の要件に加えて、近年の労働関連自殺の特徴について、男性
ばかりでなく女性の事例も目立ってきていることと、非正規労働者(派遣社員)でも増えている
ことも挙げている。
大石(2007)は、メンタルヘルス問題と日本的雇用慣行との関係について、過労自殺裁判事例
を通じて検討している。多くの研究から日本的雇用慣行と過労自殺との関係を指摘し、「労働者
が職場においてどれほどのストレスを受けようとも、簡単にはその職場を去ることができない。
」
(p.32)と指摘した。このことは、従業員が転職し難い状況の中で、長時間労働等の過重労働を
受け入れる他はないという状況を示していると考えられる。
黒木(2009)は、当時の中高年男性の自殺者の増加の背景として、「目覚ましい科学技術の革
新、終身雇用制の崩壊、製造業の外注化、分社化、企業の統廃合、就業形態の多様化、成果主義
導入、人事労務管理の変化などがあり、企業は効率化を求めるため職場の人員を増やさず業務量
は増大する中で、結果的に長時間労働者も増加し、過重労働による健康被害が深刻化している」
(p.381)と指摘する。
金井(2010)は、
「過労死/過労自殺は正規雇用者で中高年の男性が多くを占めるが、近年で
は、女性、若年者、非正規雇用者の労災認定があることも無視できない」
(p.33)との状況を指摘
した。また、過去の研究結果から、
「ワーカホリズムは、個人のもともとの特性というよりは、
長時間労働に対する適応の結果、形成された特性であると考えることができる」
(p.35)と指摘し、
日本の働くことに関する文化から見直さなければならないとしている。
熊沢(2010)は、過労死者・過労自殺者の多くの事例を提示しながら、過労死・過労自殺事例
に頻出する諸要因を指摘している。具体的には、サービス残業の常態化、二交替制、ノルマの
「必達」が厳しく奨励されている、仕事の質がストレスフルあるいは重筋的、職場の要員が少な
い、上司が抑圧的であり同僚関係も競争的である、基本給の比率が少ない、である。また、過労
死・過労自殺に陥りやすい仕事を「連続・反復作業型」
「ひとり作業型」
「営業職型」
「専門職型」
「技術者型」
「現場リーダー型」の 6 つのタイプで指摘した。
広瀬(2010)は、過労死と過労自殺の両者について、その予防のためには、不必要な夜勤の解
消に取り組むこと、「肉体的疲労」と「精神的疲労」の 2 つが有効に軽減されるような取り組み
(=休養)が必要であること、禁煙の推進などを挙げている。
和田(2010)は、過労死と過労自殺に共通しており、両疾病の最も重要な有害因子は長時間労
働であるとし、長時間労働の主要因には、長すぎる時間外労働と少なすぎる有給休暇取得の 2 つ
があるとしている。
川人(2012)は、過労死と過労自殺の両者に言及し、長時間労働はどちらにも共通の「変わら
ぬストレス要因」であるとし、近年増幅しているストレス要因には、深夜交代勤務制や非正規雇
用の広がりや失業率の増加から、正社員の地位を維持するためのストレスが増加していることが
あるという。さらに、現在の労働現場の変容について、(1)厳しい雇用情勢下での職を失わない
7 ための過重労働、
(2)
長時間一人で画面に向き合う「孤立化した労働」のひろがり、
(3)
新入社員
が形骸化し、新人に対して早くから過重なノルマが設定される新入社員の「即戦力化」
、(4)
職場
に「強制された自己責任」という状況があり、
「強制」された「自発的労働」を行ったとしても、
成果が上がらず、結果として自己責任が追及される日本的経営政策の継続と変化の 4 点を挙げて
いる。
2 − 3 .過労死・過労自殺の背景と原因
ここまで、過労死・過労自殺の原因と考えられている要因に関する諸研究を概観したが、過労
死・過労自殺の背景や原因と考えられている要因をまとめると、以下のようになる(表 1 )
。
表 1 .過労死・過労自殺の背景と原因
時期
初期
視 点
背 景
原 因
(超)長時間(過密)労働
・過労死研究が中心 ・日本的雇用慣行(終身雇用慣行、 ・
年功序列制度、企業別労働組合) ・所属企業への一体化
・労働時間の柔軟化(36協定)
・正規従業員の負担の増大(パート・
アルバイトの増大)
・転職のし難さ
・平等主義・集団主義、責任の連
帯性、状況即応性
近年 ・過労死と過労自殺 ・成果主義人事制度の導入
・バブル崩壊(不況)
を併記した研究
(2000年
以降) ・過労自殺単独の研 ・裁量労働制の導入職種の拡大
(極端な時間外労働の合法化)
究
・製造業の外注化、分社化
・企業の統廃合
・就業形態の多様化
(非正規雇用の拡大)
・孤立化した労働
・新入社員の「即戦力化」
・強制された自己責任
・肉体的負荷(過重労働)
・精神的負荷(重い責任、過重な
ノルマ、達成困難な目標設定)
・長時間労働
・目標(ノルマ)未達成
・人権侵害(ハラスメント)
・人事上の変化
(昇進・転勤・配置転換)
・要求度の高さ、裁量度や支援度の
低さ
・生活上の出来事(マイナス面)
・メランコリー親和型性格
・柔軟な職務構造
・予期し得なかった出来事(重大事)
・職場の人間関係のトラブル
・努力−報酬の不均衡
・ワーカホリズム
・基本給の比率の少なさ
・有給休暇取得の少なさ
表 1 は、これまでの検討を2000年以前と以降に分類し、過労死・過労自殺の背景と原因につい
て、類似の要因をまとめて記述した。本稿では、これらの要因を過労死・過労自殺の原因と考えら
れている要因とし、これらの要因を中心に、ストレス研究との関係から議論したい。
8
3 .職業性ストレスに関する概念モデル
ストレスの定義については前述したが、ストレス研究では一般的に、原因となるストレス因
(stressor)と、それに対するストレス反応(strain)
、両者の間に介在する緩衝要因(moderator)
ストレス因であるストレッサー
とに分けることができることが指摘されている22。ストレス研究は、
の解明と、ストレッサーによって引き起こされるストレス反応に代表されるストレインに向かうプ
ロセスとは何か、また、そのプロセスの中でいかなる緩衝要因が関係するのかを中心に検討されて
きた。この中で、これら 3 つの要因を踏まえたストレスモデルが提唱され、ストレスが発生するあ
るいはストレスが増大するメカニズムを明らかにしている。本稿は、過労死・過労自殺にも関係が
あることと、職場におけるストレスという視点を考慮して、以下の 5 つのモデルを挙げる。
3 − 1 .初期のモデル
初期のモデルの代表例として、Cooper & Marshal(1976)の職業性ストレスモデルと Karasek
(1979)の Job Demand-Control モデルを挙げる。
Cooper & Marshal(1976)の職業性ストレスモデルは、職場のストレッサーから疾患に至る
プロセスに関する理論的枠組みを提示した。このモデルの特徴は、田中(2009)によると、様々
な職場内外のストレッサーが、個人特性の影響を受けて、職場不適応兆候を生じさせ、最終的に
疾患に至る一連のプロセスを示しているとしている。また、
「このモデルでは、個人差の要因が
一応考慮されているものの、これらの要素は援用可能性の低い要素であり、不適応兆候は疾患等
に対する予防や対応という観点からは、基本的に職場ストレッサーを操作するしかないと考えざ
るを得ない」(p.4)ことを指摘している。したがって、このモデルは緩衝要因によってストレス
を軽減する効果について、あまり考慮していない。
Karasek(1979)の Job Demand-Control モデルは、業務要求と業務裁量権の 2 つの要因によっ
て従業員のストレスの度合いを検討した。このモデルの特徴は、業務要求と業務裁量権の両者が
高い“積極的”就業、両者とも低い“消極的”就業、業務要求が高く業務裁量権が低い“高緊張・
不快”就業、業務要求が低く業務裁量権の高い“低緊張・快”就業の 4 群に分けられるとし、実
際の疾病に結び付きやすい群は、
“高緊張・不快”就業群であると指摘したことである。このモデ
ルは、過労死・過労自殺研究の中でも言及されているため(ex. 大野, 1993)、本稿においても考
慮すべきモデルである。また、Job Demand-Control モデルに社会的支援(ソーシャルサポート)
を組み込んだ、Johnson & Hall(1988)による要求度−コントロール−社会的支援モデルが、後
に提示された。このモデルは、社会的支援があまり受けられないという状況が職務ストレインと
結びつき、結果として、心臓病などの疾患へ向かうという過程を意図して作成されており、社会
22
田尾(1996)を参照。
9 的支援が高い集団と低い集団の比較を加えて検討している。
3 − 2 . NIOSH 職業性ストレスモデル
このモデルは、Hurrell & McLaney(1988)が前述のモデルを包括して作成したモデルであり、
職務ストレッサーが仕事外要因、個人要因、緩衝要因によって調整・緩衝され、心理的・身体
的・行動的の 3 つの点からの急性ストレス反応に影響すると考えられたモデルである(図 2 )。
図 2 .NIOSH 職業性ストレスモデル(Hurrel & McLaney, 1988, p.28より作成)
このモデルは、急性ストレス反応が持続し慢性化した場合に、発病や離職につながるという因
果関係モデルに沿った構成となっている。日本では、『NIOSH 職業性ストレス調査票』や『職業
性ストレス簡易調査票』2 3 として、職種を問わず多くの従業員の職業性ストレスを測定する尺度
として利用されている。
3 − 3 .心理学的職場ストレスモデル
小杉ら(2004)や小杉(2009)はこれまでのストレスモデルを検討した後に、心理的レベルの
職場不適応者に対する心理的援助を目的とした心理臨床的ストレスモデルを作成した(図 3 )
。
23『職業性ストレス簡易調査票を用いたストレスの現状把握のためのマニュアル
─より効果的な職場環境等の
改善対策のために─』平成14年∼16年度 厚生労働科学研究費補助金労働安全衛生総合研究(http://www.tmuph.ac/topics/pdf/manual2.pdf, 2013年 6 月10日閲覧)より参照。
10
図 3 .心理学的職場ストレスモデル(小杉ら,2004, p.176より作成)
このモデルの特徴は、Lazarus & Folkman(1984)に代表される心理学的ストレスモデルの構
成要因を従業員が有する企業内資源と対応させ、従業員への心理的援助の指針とすることであ
る。このモデルは、 1 )心理的レベルの要因によって構成されること、 2 )心理的レベルの要因
は、就業関連事項によって規定可能なこと、 3 )心理的レベルの要因は、心理学的働きかけに
よって変化可能なこと、 4 )モデルのアウトカムとして、職場不適応を位置づけていること、の
4 つの要件を満たすものである。従業員は就業意欲阻害要因を評定し、対処行動としてのコーピ
ングを媒介とし、実際の反応に向かうことを意味する。就業意欲阻害要因は、
「全従業員に共通
の要因」
、
「特定部署に共通の要因」
、
「個人に特異的な要因」の 3 つに分割でき、それぞれの要因
が、長期的な影響を従業員に与える慢性型職場ストレッサーと、個人に特有のイベント型職場ス
トレッサーの 2 つの原因となり得ることを指摘している。また、上層の要因ほど従業員に与える
影響力は少ないとしている。阻害要因の評定(アプレイザル)については、自らの就業について
肯定的将来展望を持った就業と捉えるポジティブ評定と否定的展望による就業と捉えるネガティ
ブ評定に分かれる。従業員の職位レベルとの関係では、上位レベルの従業員ほど阻害要因への対
応が可能であり、ポジティブ評定が増加すると考えられている。ポジティブ評定からはコーピン
グ行動は発動されず、健康な就業が継続するが、ネガティブ評定からは業務量過多などの多くの
慢性型職場ストレッサーが発生する。このストレッサーに対しては、対処方略としてのコーピン
グが検討され、問題解決・情動調整へ向かう。対処方略資源のうち、社内ソーシャルサポートや
人事異動体験数はその値が高いほど、定期異動・定年までの時間は短いほど対処資源として有効
11 になる。さらに、対処資源が少ないほど具体的な問題解決対処方略は減って、感情的対処方略が
増加する。これらを経て、反応としての心理的ストレス反応や職場不適応(勤続継続・職場適
応)に至る24。以上の内容がこのモデルの概略である。
3 − 4 .努力−報酬不均衡モデル
Siegrist(1996)は、組織から受け取った「報酬」と個人が報酬を得るために費やした「努力」
との互恵性が崩れた時に、ストレス反応が生じることをモデルとして提示した(図 4 )
。
図 4 .職場における「努力−報酬不均衡」モデル(Siegrist, 1996, p.30より作成)
ここでの「報酬」とは、経済的な報酬だけでなく、尊重されること等の心理的報酬、昇進等の
キャリアに関する報酬も含まれるため、報酬は社会・経済の状況に大きく左右される。
「努力」
とは、仕事の要求度や負担等の外的要因だけでなく、個人の行動特性から生じる内的要因も含ま
れる。高い努力量と低い報酬の不均衡によって従業員にストレスが生じるというモデルである。
以上、 5 つの研究を概略してきたが、これらの研究からまとめると、以下のようになる。第 1
に、前述のように、ストレッサー、ストレイン、緩衝要因の 3 者関係によって、職場におけるス
トレスモデルが考えられていることである。過労死・過労自殺研究との関係から検討する場合
も、この 3 つの要因と具体的な項目に注目すべきである。第 2 に、緩衝要因によるストレス削減
の効果を検討するか否かである。緩衝要因としては、NIOSH 職業性ストレスモデルの緩衝要因
や、心理学的職場ストレスモデルのコーピング等が挙がるが、過労死・過労自殺研究との関係か
ら見た場合、原因に注目するか対処方法に注目するかによって、緩衝要因を検討するか否かを判
断する必要がある。
24
小杉(2009)、pp.47‒ 48を参考にして記述した。
12
4 .イベント型職場ストレッサー
ストレスモデルは常時起こり得るストレッサーとして考えられており、前述の小杉ら(2004)や
小杉(2009)の言う慢性型職場ストレッサーが中心に議論されている。ただし、過労死・過労自殺
の事例からは、過労死・過労自殺に陥る前に、職務上の何らかの大きな出来事(特にネガティブな
出来事)が起こることが指摘されることが多い25。このため、ストレッサーを検討する際にも、慢性
的なストレスの要因だけでなく、出来事として起こるストレスの要因を検討する必要があると考え
られる。そこで、出来事に関連するストレッサーに注目しているイベント型職場ストレッサーを検
討することで、過労死・過労自殺の原因に接近したい。
4 − 1 .イベント型職場ストレッサーとは
イベント型職場ストレッサーは、「職場で遭遇するストレッサーは一種のライフイベンツとみ
なすことができるという考え方に基づくもの」
(岩田 , 1997, p.32)や、「当該職場に所属する従業
員の健康を把握する上で重要な特異性の高いストレッサー」
(大塚・小杉 , 2003a, p.164)などのよ
うに、ストレスの程度を主観的に判断するのではなく、客観性を持つようにした評価方法として
注目されている26。イベント型職場ストレッサーに関する多くの研究結果があるが、Holmes らの
一連の研究が初期の研究では有名である27。これらの研究は、ある一定期間内に体験したライフ
イベントの総量によって、種々の疾患の発症等を予測する方法として考案された28。これらの研
究では、一定期間内に体験したライフイベントの合計数を指標としたり、環境(社会)への再適
応評価尺度を用いて、個々のライフイベントの強度を自己評価させる方法などで、ライフイベン
ト得点の合計値から、ストレス度の強さや疾患の発症のメカニズムの説明を試みた29。
4 − 2 .日本におけるイベント型職場ストレッサーに関する諸研究
日本におけるイベント型職場ストレッサーに関する研究については、 2 つの研究が主要な研究
と考えられる。 1 つは夏目(2012)に見られる一連の研究であり、過労自殺に関連の深い精神障
害の労災認定基準に援用されている。もう 1 つは、大塚・小杉(2001)から継続する一連の研究
であり、近年のストレス研究で数多く用いられている。
夏目(2012)に見られる一連の研究は、前述の Holmes らの研究での社会的再適応評価尺度
25
例えば、熊沢(2010)の中の事例では、過労死・過労自殺への引き金となり得る出来事が数多く指摘されて
いる。
26
夏目(2012)p.1385より参照。
27
Holmes & Rahe(1967)
、Hawkins, Davis & Holmes(1957)より参照。
28
大塚・小杉(2003a)p.164より参照。
29
この他海外の多くの研究があるが、この点については、大塚・小杉(2003a)で詳細に検討されている。本稿
は日本での実証調査を念頭に入れており、日本におけるイベント型職場ストレッサーに注目する。
13 (SRRS: Social Readjustment Rating Scale)の内容を、日本の労働者の実情に合うように改変し、
勤労者に多くみられる18ストレッサーを追加した65項目からなる勤労者ストレス調査票を作成し
たものからなる。この調査は、夏目ら(1988)によるものであり、ストレス点数では、
「配偶者
の死」がトップであり、次いで、
「会社の倒産」
「親族の死」が続く。また、
「多忙による心身の疲
労」
「仕事上のミス」
「会社の立て直し」
「会社が吸収合併される」などの職場のストレスが高得点
であった 30。さらにその後の調査をまとめて、ライフイベントの時代的推移を指摘している。
1988年以前の従来の職場におけるライフイベントは、
「会社の倒産」
「仕事上の大きなミス」
「昇進、
転勤、仕事内容の大きな変化」
「収入の減少」
「労働条件の大きな変化」
「会社が吸収合併される」
等であったのに対し、最近の職場におけるライフイベントは、リストラ関連のイベントと対人関
係関連のイベントが特徴的であり、特に、リストラ関連のイベントが多項目にわたることが特徴
であるという。リストラ関連のイベントは、
「所属部署の統廃合」
「欠員補充がなかった」
「業務を
1 人で担当する」
「早期退職制度の対象になった」
「職場の協力体制が悪い」等であり、対人関係
関連のイベントは、
「上司から強度の叱責を受けた」
「職場で嫌がらせ、いじめ、暴行を受けた」
「違法行為やコンプライアンス無視を指示された」
「顧客からの無理な注文」などである。この調
査研究は、厚生労働省の『心理的負荷に関する精神障害等の労災認定基準』に反映されている。
厚生労働省が平成23年12月に提示した『心理的負荷による精神障害の認定基準』では、『業務に
よる心理的負荷評価表』が作成されている(表 2 )31。
表 2 . 業務による心理的負荷評価表32
出来事の類型
具体的な出来事
平均的な心理
的負荷の強度
①事故や災害の体験
・(重度の)病気やけがをした
・悲惨な事故や災害の体験、目撃をした
Ⅲ
Ⅱ
②仕事の失敗、過重な
責任の発生等
・業務に関連し、重大な人身事故、重大事故を起こした
・会社の経営に影響する等の重大な仕事上のミスをした
・会社で起きた事故、事件について、責任を問われた
・業務に関連し、違法行為を強要された
・達成困難なノルマが課された
・ノルマが達成できなかった
・新規事業の担当になった、会社の建て直しの担当になった
・顧客や取引先から無理な注文を受けた
・顧客や取引先からクレームを受けた
・大きな説明会や公式の場での発表を強いられた
・上司が不在になることにより、その代行を任された
Ⅲ
Ⅲ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
30
夏目(2010)pp.212‒216をまとめた。
31
厚生労働省『心理的負荷による精神障害の認定基準について』
(http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001z3zj - att/2r9852000001z43h.pdf:2013年6月10日閲覧)
32『精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会報告書』
pp.32‒40を参考にして作成。
14
③仕事の量・質の変化
・仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった
・ 1 か月に80時間以上の時間外労働を行った
・ 2 週間以上にわたって連続勤務を行った
・勤務形態に変化があった
・仕事のペース、活動の変化があった
Ⅱ
Ⅱ
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
④身分の変化等
・退職を強要された
・配置転換があった
・転勤をした
・複数名で担当していた業務を 1 人で担当するようになった
・非正規社員であるとの理由等により、仕事上の差別、不利益取
扱いを受けた
・自分の昇格・昇進があった
・部下が減った
・早期退職制度の対象となった
・非正規社員である自分の契約満了が迫った
Ⅲ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
⑤対人関係のトラブル
・(ひどい)嫌がらせ、いじめ、又は、暴行を受けた
・上司とのトラブルがあった
・部下とのトラブルがあった
・同僚とのトラブルがあった
・理解してくれていた人の異動があった
・上司が変わった
・同僚等の昇進・昇格があり、昇進で先を越された
Ⅲ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
⑥セクシャル
ハラスメント
・セクシャルハラスメントを受けた
Ⅱ
この表は、業務による強い心理的負荷が認められるか否かの判断の基本となるものとして作成
されている。具体的な出来事を 6 つの類型に分け、それぞれの出来事には、平均的な心理的負荷
の強度が割り付けられている。この強度はⅠ∼Ⅲにつれて平均的な強度が増す項目であると考え
られ、それぞれの出来事が生じた後までの状況を包括的に検討している。それぞれの具体的な出
来事の内容も「強」
「中」
「弱」の 3 段階で評価され、具体的な出来事の内容の強度も考慮されて
いる。さらに、これらの出来事とは別に、特別な出来事も提示されている。特別な出来事それ自
体の心理的負荷は極めて大きいため、出来事後の状況に関係なく強い心理的負荷を与えると認め
得るとし「心理的負荷が強度のもの」と整理されている。
次に、大塚・小杉(2001)の研究は、イベント型職場ストレッサーを「第 3 者からも観察可能な
事象であって、その事象の生起から終結までの時間経過は極めて短く、しかも生起と終結は明確
に同定することができる」と定義して、 4 件法を用いて測定している 33。また、大塚・小杉
(2003a)は、「包括的な慢性型職場ストレッサーの測定だけでは、当該個人にとって特異的にス
トレッサーとなるイベントの内容をカウンセラーが把握することは困難となる」(p.164)とし、
33
それぞれのイベント型職場ストレッサーに対して、体験が認められた場合には、
「0, 全く負担ではなかった」
「1,
あまり負担ではなかった」
「2, やや負担だった」
「3, かなり負担だった」の 4 件法での評定を求めている。
15 JEC(Job Event Checklist)を作成した上で、臨床心理学的アプローチから実証的に検討した。
その後、慢性型職場ストレッサーとイベント型職場ストレッサーを分別し、属性等によっていか
なるイベントが特徴的に表れるか(ex. 大塚・小杉 , 2001)、イベント型職場ストレッサーと慢性
型職場ストレッサーの関係によって、ストレインであるストレス反応にいかなる影響があるか
(ex. 大塚・小杉他 , 2003)や、イベント型職場ストレッサー自体の尺度や因子に関する研究(ex.
大塚・小杉 , 2003b)等の多くの研究成果を提示している。
以上、イベント型職場ストレッサーについて、夏目(2012)による一連の研究における『勤労
者ストレス調査票』と、大塚・小杉(2001)から継続した一連の研究における JEC の内容を検討
してきた。ストレス研究や臨床心理の観点から見た場合、JEC を用いたイベント型職場ストレッ
サーを用いる方が有効であるが、過労自殺の原因を探るための研究として位置づける場合は、
『勤
労者ストレス調査票』をもとに作成された厚生労働省による『業務による心理的負荷評価表』を
用いる方が有効と考えられる。この理由は、前述のように、
『業務による心理的負荷評価表』が
精神障害の労災認定の基準とされているのに対し、JEC は職場不適応の改善のような、臨床心理
的アプローチで検討されているためである。過労自殺を減少させるあるいは陥らないための方法
を検討する際には、JEC を考慮すべきである。
5 .過労死・過労自殺研究のストレスモデルによる解釈
職場におけるストレスを中心にストレスモデルとイベント型職場ストレッサーを概略したが、本
稿の目的である過労自殺のプロセスに関する分析枠組みを提示するために、NIOSH 職業性ストレ
スモデルを中心に検討したい。この理由は、日本において NIOSH 職業性ストレスモデルを援用し
た『職業性ストレス簡易調査票』34が、職種を問わず多くの職場で一般的なストレス調査票として
利用されているためである。
5 − 1 .NIOSH 職業性ストレスモデルと過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係
NIOSH 職業性ストレスモデルは、職務ストレッサーがストレス反応を引き起こし、最終的に
疾患へと向かうモデルを想定し、この間に、個人要因、職場外要因、緩衝要因が関係している。
それゆえ、これらの要因を過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係から検討す
る。このことで、過労死・過労自殺の原因と考えられている要因について、アンケート調査を中
心とした実証研究での分析を可能にする。NIOSH 職業性ストレスモデルは、原谷・川上・荒記
(1993)によって、
『日本語版 NIOSH 職業性ストレス調査票』として日本語版が開発されている。
前述の『職業性ストレス簡易調査票』はこの縮約版として位置づけられる。そこで、
『日本語版
34
『職業性ストレス簡易調査票』
(http://www.tmu- ph.ac/topics/pdf/questionnairePDF.pdf.012, 2013年6月10日閲
覧)より参照。
16
NIOSH 職業性ストレス調査票』と過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係を検
討したい。
5 − 1 − 1 .職務ストレッサーと過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係
『日本語版 NIOSH 職業性ストレス調査票』では、職務ストレッサーとして、物理的環境、役割
葛藤、役割曖昧性、対人葛藤、不明瞭な業務将来性、業務裁量権、雇用機会、質的業務負荷、業
務負荷の変動、部下への責任、能力低利用、交代制就労の各項目が用意されている。それぞれの
項目と表 1 で指摘した過労死・過労自殺の背景や要因との関係を検討する。
(1)物理的環境
物理的環境では、騒音、照明、温度、換気等からなる内容から質問項目が構成されている。
過労死・過労自殺研究では、これらの項目は明示的には指摘されていない。ストレス研究の範
疇では検討が必要な要因であるが、過労死・過労自殺研究では、主要な原因とはあまり考えら
れていない。手記等の内容によっては、物理的環境に関わる記述もあるが 35、全体としては、
物理的環境よりも仕事自体から生じる肉体的・精神的負荷が中心であると考えられている。
(2)役割葛藤・役割曖昧性
この項目は、例えば、大野(2003)の柔軟な職務構造や、この構造が崩壊したことによって、
職務を一人で抱え込んでしまうといった内容に関連する。したがって、この項目は過労死・過
労自殺に関連が深い要因として検討すべきであろう。
(3)対人葛藤
この項目は、職場の人間関係のトラブルがこれにあたる。また、人権侵害(ハラスメント)
はこの極端な事例と考えられる。したがって、この項目も検討に加えるべきであろう。
(4)不明瞭な業務将来性
この項目は、仕事の経歴、昇進機会、仕事の価値、責任の明瞭性からなる。これらの要因
は、日本的雇用慣行から成果主義人事制度への変化との関係が深い。特に成果主義人事制度が
導入された場合、降格や解雇の可能性も考慮されるため、業務将来性は不明瞭になる可能性が
高くなると考えられる。ただし、過労死・過労自殺研究では、将来の見通しについての言及が
あまりないため、過労死・過労自殺の直接の原因とはしない。
(5)業務裁量権
この項目は、仕事の上での影響力(裁量権)を尋ねる項目であり、他の人の仕事を指示する
権限や、自分の仕事を決める自由の程度から構成されている。この点は、天笠(2007)等の一
連の研究での裁量度の低さがこれにあたる。また、自分の仕事を決める自由の程度に関連し
て、職務特性とモチベーションとの関係を検討した Hackman & Oldham(1976)の職務特性
35
例えば、熊沢(2010)にある過労死事例の中のオタフクソースの事例では、高温や換気の不十分さといった
物理的環境に関係する要因がある。
17 モデルがあり、このモデルは、組織行動論では一般的なモデルである36。職務特性モデルとは、
Hackman & Oldham が職務特性を、職務の多様性、職務の一貫性、職務の有意味性、自律性、
フィードバックの 5 次元を中心に表したものである。この中の自律性が自分の仕事を決める自
由の程度に関連する項目である。また、協力の必要性がこのモデルの中にあり、「同僚の仕事
の進み具合に気を配らないと自分の仕事をうまく進められない」
「自分の仕事には同僚と協力
しなければやっていけない面がある」「同僚の仕事の出来不出来によって自分の仕事が影響さ
れる」「仕事を進める上で同僚と絶えず相談しなければならない」等、同僚との協力の必要性
に関する項目からなる(ex. 松原・岩月・水野 , 2002)。職務特性モデルは、職務満足感や従業
員の成果との関連から検討されており、企業側の施策との親和性も高い。したがって、業務裁
量権と職務特性モデルのどちらを用いるかは、分析内容から検討すべきである。
(6)雇用機会
この項目は転職の可能性についての項目である。転職の可能性については、日本的雇用慣行
との関係から、転職のし難い状況が指摘されている。近年では、就業形態の多様化によって非
正規雇用が拡大し、正社員という地位を確保することが重要視されている。それゆえ、転職と
いうよりも、正社員の地位の確保の点から検討する必要がある。例えば、失業率や後述する個
人年収と世帯収入の割合等を考慮すべきである。
(7)量的業務負荷
この項目には、仕事の量が多く、スピードを上げて仕事をしなければならないといった内容
がある。過労死・過労自殺研究との関連では、長時間過密労働や過重なノルマが原因として考
えられている。また、天笠(2007)に見られる一連の研究での要求度の高さも関係する。した
がって、量的業務負荷は過労死・過労自殺研究でも検討すべきである。
(8)業務負荷の変動
この項目は、仕事の負担がゆるやかになる程度や、時間的余裕、抱えている仕事の量などを
尋ねる項目である。過労死・過労自殺研究では、達成困難な目標設定が対応する可能性があ
る。ただし、達成困難な目標設定は、業務負荷の変動だけでなく、質的な負荷の高い仕事、つ
まり、本人にとって困難度の高い仕事を要求されているとも考えられる。また、『職業性スト
レス簡易調査票』では、仕事の量的負荷と仕事の質的負荷が項目にあるため、これらの項目を
援用することも含めて検討する必要がある。本稿では、量的業務負荷と業務負荷の変動につい
ては、それぞれ仕事の量的負荷と仕事の質的負荷とし、業務負荷の変動は、イベント型職場ス
トレッサーとの関連からさらに検討する。
(9)部下への責任
この項目は、人々への責任として、他の人々の将来、安全、労働意欲、福祉や生活に対して
36
例えば、前述の田尾(1996)等、教科書的な著書の多くで検討されている。
18
責任があるかを尋ねる項目から構成されている。人々への責任に関連して、メランコリー親和
型性格の議論の中で「責任感の強さ」が指摘されている。メランコリー親和型性格は、笠原
(1984)が15項目の尺度で構成している。各項目は「とてもあてはまる( 3 点)
」
「少しあては
まる( 2 点)
」
「全然そうではない( 1 点)
」の 3 点の尺度で回答する項目である。したがって、
因子分析が可能な尺度で分析し、「責任感の強さ」に関する項目が因子として抽出されるかど
うか検討する必要がある。メランコリー親和型性格はパーソナリティ要因であり、職務スト
レッサーとは異なる内容ではあるが、他の職務ストレッサーとの関係を見ることで、人々への
責任を代替できる可能性がある。
(10)能力低利用
この項目は、
「学校で学んだ技術や知識を仕事で使うこと」
「得意なことをする機会」
「以前の
経験や教育・訓練で得た技能を使えること」から構成されている。過労死・過労自殺研究では、
これらの内容に関して、人事上の変化の中に配置転換がある。また、岩田(2010)は、過労死
者・過労自殺者の関係者の手記の分析から、過労自殺者の特徴として、新たな職務や不慣れな
職務から成る突発的な職務に就いたことと、職位歴(現在の職位における滞留期間)が過労死
者に比べて短い(過労死者 =4.37年、過労自殺者=1.71年)ことを指摘した。この結果と配置
転換との両者から考えれば、能力が利用できないだけでなく、未経験の仕事に就かざるを得な
いという状況が、過労死・過労自殺の原因の 1 つとも考えられる。したがって、能力低利用に
ついては、未経験の仕事に就くことも含めて質問項目を検討する必要がある。
(11)交代制就労
この項目は、交代制就労の割合の高い業種に関連が深いと考えられる。したがって、職種別
の検討を行う際には検討すべきであろう。
(12)その他
その他では所属企業への一体化を検討する。所属企業への一体化は初期の過労死・過労自殺
研究で数多く指摘されてきた要因である。過労死・過労自殺研究では所属企業への一体化に関
する測定尺度を作成してはいないが、組織行動論では類似の概念として組織コミットメントが
ある。組織コミットメントとは、Mowday, Steers, and Porter(1979)によると、「組織への価
値や目標の共有、組織に残りたいという願望、組織の代表として努力したいという意欲などに
よって特徴づけられる、組織への情緒的な愛着」であり、組織への一体化と類似の概念と考え
られている。この定義は、組織に対して情緒的に一体化する要素を強調している。これに対し
て、Becker(1960)による「今その職場にいる事によって得ているもの、あるいは新しい職場
に行った時に新たに背負い込むことになる負担等を考慮して今現在の職場を選択する」といっ
た、消極的ではあるが組織にコミットせざるを得ないという功利的側面からの視点もある。こ
のため、情緒的・功利的の 2 つの組織コミットメントの次元を所属企業への一体化を測定する
項目として提示する。
19 5 − 1 − 2 .個人要因と過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係
個人要因との関係については、基本的にはデモグラフィック要因として検討する。したがっ
て、それぞれの項目に関する詳細な検討は行わないが、タイプ A については検討が必要である。
この理由として、NIOSH 職業性ストレスモデルの個人要因に、パーソナリティ要因としてタイ
プ A パーソナリティ(Friedman & Rosenman, 1974)が組み込まれているが、過労死・過労自殺
研究では、タイプ A について検討した研究があるためである。大野(2003)は、タイプ A と過労
死・過労自殺との関係について、アメリカでのタイプ A パーソナリティが競争心や攻撃性を含
む概念であるが、過労死者・過労自殺者においては、攻撃的な部分は対人関係には見られず、仕
事や自分自身に向けられているとし、メランコリー親和型性格が日本企業の従業員に特有の性格
であると指摘する37。また、
『NIOSH 職業性ストレス調査票』では、個人要因として自尊心がある。
自尊心は「全体として自分自身に満足している」「自分は少なくとも他人と同じくらいには価値
のある人間だと思う」等から構成されている。パーソナリティ要因として、タイプ A、メランコ
リー親和型性格、さらに、自己評価としての自尊心の 3 つが対象となるが、本稿は過労死・過労
自殺の原因と考えられている要因を中心に検討するため、メランコリー親和型性格を援用する。
5 − 1 − 3 .職場外要因と過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係
職場外要因については、この仕事以外に別の仕事をしているかどうか、子供の有無、子供の世
話の役割、資格を取る、ボランティアなどの仕事以外の活動をしているかどうかを尋ねた項目か
ら構成されている。この点について、過労死・過労自殺研究では主要な要因として捉えてはいな
い。ただし、長時間労働によって、仕事以外の活動時間が取れないことはあり得るため、長時間
労働自体を検討対象にしたい。
また、長時間労働との関連で、加護野・小林(1989)は、年功序列賃金制度によって、労働生
産性と比べて、キャリア初期の段階では過小な支払い、キャリア後期では過大な支払いが生じる
と指摘している。この支払いについては、初期の貢献に対する過少支払いの差として「見えざる
投資」が従業員側に生じると考えた。これによって、従業員は長期雇用を志向するように仕向け
られ、当該企業で定年に近い時期まで働き続ける必要性が増大する。したがって、従業員側は企
業側からの長時間労働などの厳しい要求にも拒否できない状況となり、この点が、過労死・過労
自殺の温床となり得る。さらに、従来の日本では男性が主たる生計者であることが多かった。こ
のため、男性従業員は、離職の意思決定の際には家族の生計も考慮する必要があり、このことが
企業の要求を拒めなくしている可能性がある。近年では、女性が主たる生計者の場合もあるた
め、個人年収と世帯年収の割合が高い、つまり、家計の多くの部分を本人単独で担っている割合
が高い従業員は、当該企業を離職する時に家族の生計も含めて考え、長時間労働を拒めなくなる
37
大野(2003)pp.37‒43をまとめた。
20
可能性が高くなる。したがって、この点も職場外要因として検討したい。
5 − 1 − 4 .緩衝要因と過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係
緩衝要因については、上司・同僚・家族からのサポートに関する項目が検討されている。この
項目は過労死・過労自殺の原因というよりも、過労死・過労自殺を削減するための方法として提
示されるべきである。この点に関連して、過労死・過労自殺研究では、上司や同僚との人間関係
のトラブルやハラスメント等の、サポートとは逆の内容が提示されている。それゆえ、過労死・
過労自殺研究においては、上司・同僚との関係はストレインを増大させる要因ともなり得る。
5 − 1 − 5 .ストレインと過労死・過労自殺の原因と考えられている要因との関係
ストレインとしては、ストレス反応を検討する必要があろう。過労死・過労自殺研究では、抑
うつ状態から、自殺に至る過程が考えられている。抑うつ状態は幅広い概念であるため、本稿
は、精神症状に着目し、感情面での抑うつ気分と不安と思考面での抑制(制止)症状を中心とす
る38。精神症状との関係では、ストレス研究では、ストレインの心理的な症状の中に、抑うつが
含まれている39。また、産業・組織心理学会編(2009)では、ストレインをストレス反応としてい
る。以上から、本稿はストレインの心理的な症状に着目し、ストレス反応を中心に検討する。過
労死・過労自殺研究に用いる場合は、過労死研究の場合は脳・心臓疾患に直接関係する身体的不
調を、過労自殺研究の場合はストレス反応を組み入れるべきであろう。また、過労自殺研究の場
合は自殺そのものに関連する項目として、希死念慮や自殺企図などを検討する必要もあろう。最
終的な結果は、過労死の場合は脳・心臓疾患による死亡、過労自殺の場合は自殺になる。
以上、『日本語版 NIOSH 職業性ストレス調査票』と過労死・過労自殺研究との関係を検討して
きた。過労死・過労自殺の両者を検討した理由は、前述のように、過労死・過労自殺研究は、過
労死と過労自殺の差異を検討した内容がほとんどないためである。ただし本稿は、過労自殺のプ
ロセスに関する分析枠組みの提示が目的であるため、過労自殺により接近するための方法を検討
する必要がある。ここで、過労自殺に関わりの深い精神障害の労災認定の基準とされている『業
務による心理的負荷評価表』をもとに、イベント型職場ストレッサーの内容を検討する。この理
由は、過労自殺に関わりの深い労災認定の基準に沿って検討することで、過労自殺に至るプロセ
スをより詳細に把握するための分析枠組みを提示できるからである。
5 − 2 .イベント型職場ストレッサーと過労自殺研究との関係
過労自殺の労災認定基準として用いられている『業務による心理的負荷評価表』は、 6 つの類
型に分けられている。第 1 に、事故や災害の体験である。この項目は、過労死・過労自殺研究で
38
日本ストレス学会(2011)pp.1011‒1012より作成。
39
横山(2005)p.193より作成。
21 は、予期し得なかった重大事や生活上の出来事との関係が深いが、重大事は事故や災害だけでな
く仕事上でも起こり得る。この点に関連して、第 2 の仕事の失敗、過重な責任の発生等が考えら
れる。この類型は、目標(ノルマ)未達成や、達成困難な目標の設定、顧客の無理な要求などの
項目も含まれている。第 3 に、仕事の量・質の変化であるが、この点は、前述した業務負荷の変
動との関連からも検討する必要がある。第 4 に身分の変化等である。この項目には、退職の強
要、配置転換、転勤等があるが、類似の内容が人事上の変化として過労死・過労自殺研究でも検
討されているため、検討の対象となる。第 5 に対人関係のトラブルである。過労死・過労自殺研
究にもストレス研究にも共通の項目であり、この項目は検討対象にすべきである。第 6 にセク
シャルハラスメントである。この点は、過労死・過労自殺研究では、男女を問わずハラスメント
を指摘しているため、セクシャルハラスメントに限らず、ハラスメントと過労自殺との関係を検
討すべきである。
以上が 6 つの類型との関係であるが、『業務による心理的負荷評価表』にあるそれぞれの出来
事には、平均的な心理的負荷の強度が割り振られている。それゆえ、質問項目が多数の場合は、
強度のⅢとⅡを質問項目とすることで短縮化する必要もあろう。また、出来事後の状況に関係な
く強い心理的負担を認め得る特別な出来事については、「極度の長時間労働」の時間に見合う回
答者が存在した場合には、検討することとしたい。
「心理的負荷が強度のもの」は、アンケート
調査に回答してもらえる状態ではない場合も考えられるため、まずは、通常の出来事から検討し
たい。
6 .ストレス研究との関係をもとにした過労自殺のプロセスに関する分析枠組み
これまで、過労死・過労自殺研究と『日本語版 NIOSH 職業性ストレス調査票』ならびにイベン
ト型職場ストレッサーとの関係を検討してきた。この検討を踏まえて、ストレス研究との関係をも
とにした過労自殺のプロセスに関する分析枠組みを提示する(図 5 )
。
この分析枠組みは、これまでの検討から、過労死・過労自殺研究において抽出された項目を中心
に NIOSH 職業性ストレスモデルをもとに作成したものである。この分析枠組みを導出するにあ
たっては、これまで指摘した対応関係以外にも若干の検討が必要な箇所がある。
第 1 に、職務ストレッサーにおける仕事の量的負荷・質的負荷と、
『業務による心理的負荷評価
表』における、仕事の量・質の変化との関係である。仕事の量的負荷・質的負荷は慢性型職場スト
レッサーと考えられており、仕事の量・質の変化は何らかの出来事によってストレスが上昇するイ
ベント型職場ストレッサーと考えられている。前述のように、過労死・過労自殺研究では何らかの
出来事が引き金になり自殺に至る点が指摘されているため、仕事の量・質の変化は仕事の量的負
荷・質的負荷の内容と類似ではあるが、現在の状態と現在までの変化とは分別して検討する必要が
ある。
22
図 5 .過労自殺のプロセスに関する分析枠組み
第 2 に、人々への責任、対人葛藤、対人関係のトラブルであるが、この点については、人々への
責任とハラスメントの 2 つとした。NIOSH 職業性ストレスモデルの対人葛藤は『業務による心理
的負荷評価表』の対人関係のトラブルで代替し、ハラスメントは『業務による心理的負荷評価表』
のセクシャルハラスメントの内容を、ハラスメントのみに変更して導入した。過労死・過労自殺研
究におけるハラスメントの場合、セクシャルハラスメントだけでなくパワーハラスメントに関する
記述もあり、セクシャルハラスメントに限定すべきではないと考えられる。
第 3 に、メランコリー親和型性格であるが、前述したように、責任感の強さが特徴の 1 つとして
挙げられており、職務ストレッサーの人々への責任との関連が深い。ただし、メランコリー親和型
性格の測定に関しては、前述のように、因子分析が可能な尺度で検討した後に、メランコリー親和
型性格を構成する因子を特定すべきである。本稿では、この点を踏まえた実証結果がないため、
人々への責任とメランコリー親和型性格の両者を組み入れる。
第 4 に、能力低利用についてであるが、この項目は分析枠組みの中には明示的には入ってはいな
い。ただし、
『業務による心理的負荷評価表』の中に「配置転換があった」
「転勤をした」の項目が
あり、これらの項目である程度の代替はできると考えられる。また、「新規事業の担当になった、
会社の建て直しの担当になった」といった、これまでの能力が活用し難い仕事に就くことも含まれ
ているため、この点も考慮すべきである。
第 5 に、緩衝要因であるが、この点は、過労自殺の原因を検討する際には導入しない。ただし、
前述のように、上司・同僚・部下とのトラブルの項目やハラスメントがサポートとは逆の内容と考
えられるため、これらの項目を検討対象とする。家族からのサポートは、過労死・過労自殺研究で
23 は議論の俎上には上がっていない。ただし、過労自殺を減少させる方法を議論する際には、緩衝要
因としての上司・同僚・部下・家族からのサポートの項目を援用したい。
第 6 に、ストレインについては、抑うつ、希死念慮、自殺企図を項目とした。NIOSH 職業性ス
トレスモデルでは希死念慮や自殺企図は検討されていないが、過労自殺を検討する際には、これら
の項目を検討する必要がある。したがって、質問項目数を加味して希死念慮と自殺企図の両者ある
いはどちらかを分析枠組みに導入したい。
7 .おわりに
本稿は、過労死・過労自殺研究の諸結果とストレス研究の諸結果を相互援用し、過労自殺に至る
までのプロセスをより詳細に把握するための分析枠組みを作成した。ただし、この分析枠組みにも
課題は多くある。第 1 に、この分析枠組みの実証的妥当性である。分析枠組みの中の項目を検討す
るためには、アンケート調査での分析が必要であるが、この分析枠組みにある項目を全て組み入れ
た場合、多数の質問項目が必要となる。したがって、質問項目をより簡略化しながらも、分析枠組
みに適合する質問票を作成する必要がある。第 2 に、本稿は過労自殺のプロセスに関する分析枠組
みを作成した。分析の視点を過労自殺に限定するため、ストレインに抑うつ、希死念慮、自殺企図
を、『業務による心理的負荷評価表』にある項目をイベント型職場ストレッサーとしてそれぞれ組
み込み、最終的な結果に自殺を入れることで、その根拠とした。ただし、ストレッサー、個人要
因、職場外要因等について、過労自殺の原因のみを抽出して検討できなかった。この点は、実証的
検討の際に、過労死に関係の深い身体的不調をストレインに組み入れることで過労死のプロセスに
関する分析枠組みを作成し、過労自殺のプロセスに関する分析枠組みで得られた結果との比較から
検討したい。第 3 に、緩衝要因については十分に検討できなかったことである。この点は別稿に譲
りたいが、過労自殺に陥らないための施策を提示するためには、上司・同僚・部下・家族からのサ
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27 【論 文】
試験研究への税額控除制度に対する資本市場の反応
加藤 惠吉・齊藤 孝平
はじめに
我が国では、企業の試験研究(研究開発)を税制面から支援する措置として特別償却制度と税額
控除制度が施されている。このなかで税額控除制度は、特別償却制度に比べて税負担の軽減効果が
大きく、かつ制度の拡張が行われている。しかし、我が国ではその重要性に反して、試験研究に対
する税額控除制度の評価及び有効性について分析が行われているとは言えない状況にある1。
本稿では我が国の試験研究に対する税額控除制度の意義について考察し、その重要性についての
検討を行う。さらに、近年の試験研究に対する税額控除制度の制度改正について市場はどう評価・
反応したか統計的手法であるイベント・スタディを用いて定量的に分析し、今後の試験研究に対す
る税額控除制度について述べることとする。
本稿の構成は以下のとおりである。
1 では、試験研究 2 に対する優遇税制その中でも、試験研究に対する優遇税制の全体像について
概観し、近年、その重要性が高まっている税額控除制度の実態について概説し、その制度上の制約
や問題点を検討する。
2 では、試験研究に対する税額控除制度の有効性を検証した先行研究について概観する。試験研
究に対する税額控除制度に関する先行研究については、Hall and Reenen(2000)においても挙げ
られるように、税価格弾力性についての検証、試験研究の支出額の変化についての検証等の研究手
法が用いられている。次に、本稿ではイベント・スタディを用いて分析を行っていくことになるた
め、税制改正に関するイベント・スタディの先行研究についても概観する。
3 では、実際に近年の税制改正について統計的手法を用いた定量的な分析を行い、資本市場は試
験研究に対する税制改正にどのような反応を示すのか検証し、そこから得られるインプリケーショ
ンについて述べる。
1
例えば、大西・永田(2010)は、2003年に導入された試験研究費の総額に係る税額控除制度が、企業の研究
開発支出の増加に寄与しているか否かの検証を行い、当該制度が企業の研究開発支出の増加に直接寄与してい
ないとして、さらなる制度改善の必要性を示唆している。
2
試験研究に対する言葉については、一般的には研究開発(Research and Development)という用語が用いら
れることも多いが、本稿で扱う試験研究に対する税額控除制度は税法上の特例であるため、
「試験研究」という
用語を使用していくこととする。
29 最後に 4 では、本稿全体について総括するとともに、今後の課題について述べる。
1 試験研究に対する優遇税制
現在、我が国では試験研究に対する優遇税制として、特別償却制度と税額控除制度を設けてい
る。特に税額控除制度は、制度の拡張が頻繁に行われかつ控除税額も拡大しており、政策的な観点
からも重要性が高まっている。また、海外においても税額控除を中心とした試験研究に対する優遇
税制は積極的に導入されており、その動向は注目すべきものとなっている。
1 では、試験研究に対する税制上の優遇措置である特別償却制度と税額控除制度の現状について
概観する。次に、近年、制度改正が行なわれ、重要性が高まっている試験研究に対する税額控除制
度の動向について述べる。
1 . 1 試験研究に対する特別償却制度と税額控除制度
我が国における試験研究に対する優遇税制は、特別償却制度と税額控除制度の 2 種類に大別され
る。特別償却制度は、通常の償却に加えて、対象となる資産の取得価額又は通常の償却額の一定割
合相当額を特別に償却することができる制度である。一方、税額控除制度は、対象となる資産又は
費用に一定の割合を乗じて算定された金額を当該事業年度に納付すべき法人税額から控除すること
ができる制度である。特に税額控除制度は、長期間にわたって実施される企業の試験研究活動を支
援する措置として有効であると考えられる。
我が国において、試験研究に対する税額控除制度が施行されて久しいが、その間、制度改正が行
われてきている。近年では、経済のグローバル化や海外企業との企業間競争が激化したため、我が
国企業の国際競争力の強化にも適うため制度の拡張が行われており、政策的な重要性も高まってい
る。税制面では、研究開発投資や設備投資、IT 投資等の促進を図る措置が講じられ、特に試験研
究に対する税額控除制度は、重点分野として2003年度税制改正において抜本的な改革が行われて以
降も拡張を続けている(図表 1 ‒ 1 )
。
図表 1 ‒ 1 近年の試験研究に対する税額控除制度の改正
年度
改正内容
試験研究費の総額に係る税額控除制度の創設
大学・公的研究機関等との共同研究・委託研究に係る税額控除制度の創設
2003年
中小企業技術基盤強化税制の強化・拡充
税額控除限度超過額の繰越控除制度( 1 年)の創設
試験研究費の増加額に係る税額控除制度の適用期限延長( 3 年間)
試験研究費及び特別試験研究費の範囲の見直し
30
2004年
試験研究費の増加額に係る税額控除制度について、対象となる試験研究費の範囲から中小企業
経営革新支援法に係る措置(沖縄振興特別措置法に係る部分を除く。)を除外
2005年
試験研究費の増加額に係る税額控除制度について、対象となる試験研究費の範囲から食品の製
造過程の管理の高度化に関する臨時措置法に係る負担金及び沖縄振興特別臨時措置法に係る負
担金を除外
試験研究費の総額に係る税額控除制度について、税額控除率に 5 % の上乗せ措置
中小企業技術基盤強化税制について、税額控除率に 5 % の上乗せ措置
2006年
試験研究費の増加額に係る税額控除制度の廃止
特別共同試験研究費の範囲に希少疾病用医薬品及び希少疾病用医療機器に関する試験研究費を
追加
2008年
試験研究費の増加額等に係る税額控除制度の改組(増加型と高水準型の選択適用制度の創設)
2009年
特別試験研究費の範囲に改正後産業技術力強化法に規定する試験研究独立行政法人と共同して
行う試験研究に係る費用及び同法人に委託する試験研究に係る費用を追加
2010年
試験研究費の増加額などに係る税額控除制度の適用期限延長( 2 年間)
2011年
試験研究を行った場合の法人税額の特別控除に係る特例の廃止
出所:財務省 HP 2003年∼2011年度の「税制改正の大綱」に基づき作成
図表 1 ‒ 1 のように、2003年以降でも試験研究に対する税額控除制度に関する項目が改正されて
おり、その重要性は増していると言える。特に2003年、2006年、2008年の改正は制度の見直しや新
制度の創設等が行われた重要な改正である。以下述べていく。
2003年度税制改正は、試験研究に対する税額控除制度の抜本的改革が行われた重要な改正であ
る。税制調査会(2002)は「平成15年度の税制改革に関する答申」3 において、
「厳しい経済状況の下、
研究開発の分野でも合理化や効率化が進められる中で、研究開発支出が『増加』した場合に税額控
除を行う現行制度が有効に機能しなくなっている面がある。このため、研究開発支出の『総額』の
一定割合を税額控除する制度を導入する。その際、研究開発支出を増加させるインセンティブを高
める観点から基本的に売上高に占める研究開発支出の比率が高いほど、税額控除率を高く設定す
る。また、研究開発は21世紀の我が国を支える産業・技術の創出につながることから、制度の基幹
的部分は期限を区切らない措置とする。」以上のように本改正は、試験研究に対する税額控除制度
の恒久化と全事業者向けに総額ベースの制度が創設された。これは、時限措置であった試験研究に
対する税額控除制度の恒久化と全事業者向けに総額ベースの制度が創設されたことにより、企業は
長期的な試験研究活動に関する意思決定においても優遇措置を考慮することができるようなった。
2006年度税制改正においては、試験研究費の総額に係る税額控除制度と試験研究費の増加額に係
る税額控除制度の統合が行われた。2003年度税制改正以降利用の減少していた試験研究費の増加額
に係る税額控除制度を上乗せ分として、試験研究費の総額に係る税額控除制度と統合することによ
り、実質的に両制度の併用が認められることとなった。
3
政府税制調査会 HP「平成15年度の税制改革に関する答申」2002年 7 頁
31 さらに2008年度税制改正においては、試験研究費の増加額等に係る税額控除制度の改組が行われ
た。これにより、従来の試験研究費が比較試験研究を超え、かつ、基準試験研究費を超える場合と
試験研究費が平均売上金額の10% 相当額を超える場合のいずれかを選択適用できる制度が創設され
た。また、当該制度は、試験研究費の総額に係る税額控除制度とは別枠として創設されたため、併
用が可能であり、控除税額の上限はさらに引き上げられることとなった。
経済産業省は「2012年度税制改正に関する経済産業省要望」の中で、試験研究に対する税額控除
制度の拡充を盛り込んでいる。現在、時限措置とされている試験研究費の増加額等に係る税額控除
制度の恒久化することがその中心である。経団連(日本経済団体連合会)も「2012年度税制改正に
関する提言」の中で当該制度について、少なくとも延長する必要があるとしている。また、経団連
は試験研究に対する税額控除制度の本則化、控除税額の上限引上げ(現行の20% から30%)、繰越
税額控除限度超過額の繰越期間の拡大(現行の 1 年間から 3 年間)等についても言及している。
以上のように、近年、我が国の試験研究に対する税額控除制度は拡張を続けており、現行制度を
最大限に活用すれば、企業は当該事業年度に納付すべき法人税額の40% 相当額を控除できるまでに
なっている。しかし、主要先進国においても国際競争力の強化のために研究開発に対する優遇措置
は拡張される傾向にあり、控除税額の上限が設けられていない国も存在する。こうした中で、我が
国の産業経済が持続的な発展を遂げていくためには、試験研究に対する税額控除制度のさらなる拡
張を行うとともに、より多くの企業が活用できる制度の構築に向けた議論を行っていく必要があ
る。
1 . 2 試験研究に対する税額控除制度の状況
近年、我が国の試験研究に対する税額控除制度は制度面での拡張を続けている。そのため、控除
税額等がどのように推移しているか、といった試験研究に対する税額控除制度の実態についても整
理しておく必要がある。
本稿では、国税庁が毎年実施している「会社標本調査(税務統計から見た法人企業の実態)
」に
基づき、近年の試験研究に対する税額控除制度の実態について整理する。
まず、近年の我が国の試験研究に対する控除税額の推移については、2003年度税制改正により試
験研究に対する税額控除制度の抜本的な改革が行われたため、2003年以降の控除税額は増加傾向と
なっている。2007年には6,269億円に達し、2003年から約 6 倍の増加となっている。試験研究費の
増加額に係る税額控除制度が中心であった2000年から2002年までの 3 年間の控除税額が700億円程
度で推移していることを考慮すれば、2003年以降の控除税額の拡大が驚異的であると言える。2008
年以降はリーマン・ショックの影響により、企業の試験研究が縮小したため、控除税額も減少傾向
となっている。各制度個別の控除税額の推移に注目すると、特に試験研究費の総額に係る控除税額
の拡大が著しく、2007年には6,102億円となった。
一方で、試験研究費の増加額等に係る控除税額は、2003年以降減少が続き、2005年には83億円に
32
まで減少しており、事実上制度利用によるメリットがなくなっていたと言える。その点で2006年度
税制改正による、試験研究費の総額に係る税額控除制度との統合には意義があったと言える。2008
年度税制改正により、再び制度の改組が行われたが、統合前の水準を上回っており、一定の効果は
あったと言える。
次に、近年の我が国の試験研究に対する控除税額の資本金階級別の推移を示す。国税庁「会社標
本調査(税務統計から見た法人企業の実態)」によれば、資本金100億円以上の企業の控除税額が
2003年以降、すべての年度において最も大きな割合を占めており、特に2006年は資本金100億円以
上の企業の控除税額が3,739億円であり、全体の約64% を占めるまでになっている。また、連結法
人が控除税額全体に占める割合も資本金100億円以上の企業に次いで高く、2005年以降は約15∼
40% で推移している。
以上のように試験研究に対する税額控除制度は重要な政策の 1 つとなっていることがわかる。
次章以降では、上述したような制約を解消するために控除税額の上限緩和等が講じられた近年の
税制改正について統計的手法を用いた定量的な分析を行っていく。次節では、当該研究領域におけ
る先行研究について概観する。
2 試験研究に対する税額控除制度の有効性に関する先行研究
試験研究に対する税額控除制度は、近年、我が国だけではなく海外主要国においても積極的に導
入されている。それに伴い試験研究に対する税額控除制度の有効性に関する研究も行われている。
そこで本章では、試験研究に対する税額控除制度の有効性に関する先行研究について概観する。
試験研究に対する税額控除制度の有効性を検証した先行研究としては Hall(1993)が挙げられる。
Hall は税価格弾力性 4 を用いて、1980年∼1991年までの、アメリカの製造業約1,000社を分析対象企
業とし、試験研究に対する税額控除制度の投資促進効果の検証を行っている。分析の結果、試験研
究支出に対する税価格弾力性が短期的には−1.21、長期的には−2.48となることを発見した。すな
わち、試験研究に対する税額控除制度を通じて、法人税額が 1 % 低下したならば、試験研究支出は
短期的には1.21%、長期的には2.48% 増加することを意味しており、投資促進政策としては有効で
あることを検証した。
また、我が国においても Koga(2003)が税価格弾力性を用い、試験研究に対する税額控除制度
の有効性を検証している。Koga は、1989年∼1998年までの、日本の製造業約904社を分析対象企業
とし、試験研究に対する税額控除制度の投資促進効果の検証を行っている。分析の結果、我が国の
製造業における試験研究支出に対する税価格弾力性が−0.68であることを検証した。加えて、分析
4
税価格弾力性とは、法人税額の変化率と試験研究支出の変化率の比率であり、
試験研究支出の変化率
と定義される。
法人税額の変化率
税価格弾力性が−1よりも小さければ、法人税額が 1 %低下した場合に試験研究支出が 1 % 以上増加することを
示していることになる。
33 対象企業を企業規模で分類し、分析した結果、大企業では試験研究支出に対する税価格弾力性が
−1.03となり、Hall と同程度の結果を得ている。この検証は、我が国の試験研究に対する税額控除
制度は大企業に対する投資促進政策としては有効であることを示唆している。
次に、Billings and Fried(1999)は、1994年の米国企業113社を分析し、試験研究に対する税額
控除制度の有効性を検証している。この研究においては、企業の試験研究への支出を売上高で除し
た値を試験研究集約度としその決定要因を分析している。分析の結果、税額控除や有形固定資産比
率、そして負債比率といった要因が試験研究支出の決定要因となっていることを検証し、税額控除
制度の有効性を示唆している。
さらに、Billings et al.(2001)は、上記研究を発展させ、試験研究支出の決定要因として税額控除
が有効かどうかの検証を行っている。Billings et al. は、1992年∼1998年にわたって、サービス業を
除く企業231社を分析対象とし、それらの企業を税額控除が有効な企業とそうでない企業に分類し
て分析を行っている。この研究では、試験研究支出を被説明変数とし、税額控除や負債比率等を説
明変数として重回帰分析を行っている。分析の結果、税額控除が有効な企業の方が、そうでない企
業に比べて試験研究支出を増加させており、試験研究に対する税額控除制度が投資促進政策として
有効であることを示唆している。
また、Gupta et al.(2004)では、税額控除制度の変更が試験研究支出に与える影響についての分
析を行っている。米国では1989年以前は、過去 3 年間の試験研究支出の移動平均を上回る場合に控
除を受けることができたが、1989年の制度改正により試験研究支出が売上高の一定割合を超える場
合に控除が受けられることへ改正された。Gupta et al. は、この制度改正が試験研究への支出に与
える影響について分析を行っている。分析では、1981年∼1994年にわたって、米国企業2,540社を
分析対象企業として、1989年の制度改正の影響を検証している。分析の結果、1989年の制度改正以
降、試験研究集約型企業では試験研究支出が約15.9% 増加していることを報告している。すなわち、
1989年の制度改正は投資促進政策として十分機能していた事を示唆している。
最後に菅谷・東出(2009)では、試験研究には直接関係はしないが、税制改正が市場に与えた影響
分析を行なっている。この研究では、税制改正大綱の公表日をイベント日とするイベント・スタディ
を行なっている。分析では、日本版不動産投資信託(Japan-Real Estate Investment Trust)制度
に関連する税制改正が行われた2009年度税制改正に対して、資本市場がどのような反応を示すかに
ついて、分析を行っている。菅谷・東出は、REIT の投資口価格(株価)の低迷が法人税の課税リ
スクに起因するものであるならば、それが軽減される政策が公表された場合、投資口価格は本来の
価格へと上昇するであろうと考え、その上昇分を超過リターン AR(Abnormal Return)として算
定し、資本市場からの評価について分析を行っている。分析の結果、公表日(イベント日)の 1 日
前から 1 日後にかけての 3 日間における累積超過リターン CAR(Cumulative Abnormal Return)
が有意にポジティブな反応を示していることが検証された。さらに、これらの CAR についての要
因分析を行うことで、2009年度税制改正が課税リスクを削減するという点で効果があったと考えら
34
れるとしている。しかし、反応が見られない REIT が存在することや投資口価格の低迷が続いてい
ることから、いまだ解消されていない問題が存在すると結論付けている。
以上のように、制度改正についての定量的な分析の蓄積はされてきていないのが現状である。そ
こで、次章では、近年の試験研究の税額控除制度の改正について、統計的手法であるイベント・ス
タディを用いた分析を行う。
3 税額控除制度改正に対する資本市場の反応
本節では税制改正大綱の公表というイベントについて、統計的手法であるイベント・スタディを
用いて分析する。すなわち、試験研究に対する税額控除制度の改正がその恩恵に資すると考えられ
る企業をどう市場は評価するか検証を行う。日本では、試験研究に対する税額控除制度に関する実
証研究の蓄積が十分には行われてこなかった。
本章ではまず、実証分析の枠組みとしてイベント・スタディの手法について概説する。そして、
分析対象として取り上げた 3 つの税制改正大綱のケースについて分析を行い、その結果を示すとと
もにそこから得られるインプリケーションについても述べる。
3 . 1 リサーチ・デザイン
イベント・スタディとは、経済上のイベントが企業価値にどのような影響を与えるかを分析する
手法である。具体的には、分析対象となるイベントが起らなかった場合に実現していたと考えられ
るリターンを推定し、実際のリターンとの差額を求め、その有意性についての検定を行う統計的手
法である。イベント・スタディの手法は、一般に適用可能であるため、会計学にとどまらず、ファ
イナンスや法と経済学等の各学問分野でも広く利用されてきた手法である。
3 . 1 . 1 イベント・スタディの分析モデル
イベント・スタディは、正常リターン NR(Normal Return)と実際のリターンとの差額を超過
リターン AR(Abormal Return)として算定することにより、イベントの企業価値に及ぼす影響を
分析する手法である。そのため、まずは NR を推計する必要がある。NR の推計モデルはいくつか
存在するが、代表的なモデルとしてマーケット・モデル(Market Model)が挙げられる。マーケッ
ト・モデルは、各個別銘柄の期待リターンとマーケット・インデックスとの間に安定的な線形関係
があることを用いて、各個別銘柄のリターンをマーケット・インデックスに回帰させることでパラ
メータを推計する方法である(MacKinlay(1997)及び Campbell, Lo, and MacKinlay(1997)
(邦
訳)祝迫得夫、大橋和彦、中村信弘(2003)参照)5。
5
本稿では、MacKinlay(1997)及び Campbell, Lo, and MacKinlay(1997)
(邦訳)祝迫得夫、大橋和彦、中村
信弘(2003)のマーケット・モデルの方法論に従い、分析を行っている
35 各個別銘柄の期待リターンがマーケット・インデックスによって推計されるとすれば、各個別銘
柄のリターンとマーケット・インデックスのリターン Rm, t は次のような線形関係に従う。
, , ,
α i, β i:パラメータ、εi, t:誤差項
また、マーケット・モデルの構成要素である Ri, t 及び R m, t は、t 日における前取引日( t −1 )に対
する変化率として、次のように算定する。
, , , ,
,
, ,
,
Pi, t , Pm, t:t 日における各個別銘柄株価及びマーケット・インデックス
後述するように、本稿では分析対象企業が東京証券取引所 1 部上場企業を対象とするため、マー
ケット・インデックス、TOPIX(東証株価指数)を用いる。
上記の回帰式におけるパラメータ α 及び β は推計ウィンドウ 6 のデータを用いて最小二乗法 OLS
(Ordinary Least Square Method)によって推定する。本稿では、 3 つのケースについて税制改正
大綱のアナウンスメント日の140営業日前から21営業日前までの120日間を推計ウィンドウとして
設定する。
そして、以下のように OLS によって推計されたパラメータの推計値 及び をイベント・ウィン
ドウ 7 の各日に外挿することのよって NR を推計する。
, ,
そして、AR は推計された NR と実際のリターンの差額として、次のように定義される。
, , ,
AR を算定することによって、イベントの企業価値に及ぼす影響を分析することが可能となるが、
イベントの影響は 1 日単位で表れるとは限らない。そのため、イベント・スタディでは数日間の累
積された AR の動きについても観測することが重要となる。イベント周辺の数日間の影響を分析す
る た め に は、AR を イ ベ ン ト 日 周 辺 に お い て 累 積 さ せ た 累 積 超 過 リ タ ー ン CAR(Cumulative
6
パラメータの推計を行うための期間のことをいう。推計ウィンドウのデータにイベント・ウィンドウのデー
タを含めると NR にもイベントの影響が反映されてしまうため、通常は推計ウィンドウとイベント・ウィンドウ
が重ならないように期間設定を行う。
7
分析対象となるイベントに関連する企業の株価を分析する期間のことをいう。イベント・ウィンドウの設定
には明確な基準は存在しない。本稿では、税制改正大綱の内容が多岐にわたるため、イベント日から数日後に
影響が表れる可能性を考慮し、イベント日以降の期間を長くしている。
36
Abnormal Return)を次のように算定する。
本稿では、イベント・ウィンドウをイベント日の10営業日前から15営業日後までの26日間とし、
さらにイベント・ウィンドウを複数の期間に区切り CAR の算定を行う。
3 . 1 . 2 AR 及び CAR の検定
次に、算定された AR 及び CAR の有意性についての検定を行う。
本稿では、まず、t 検定により AR 及び CAR が有意であるか否かの検定を行う。t 検定は AR が正
規分布に従うことを前提とするパラメトリックな検定である。そして、AR については、山崎・井
上(2005)において示される検定統計量 θ を用いた検定を行なう。さらに、検定においては、t 検
定に加えノンパラメトリックな検定である Z 検定も行なう8。本稿では符号順位和検定であるウイル
コクソン(Wilcoxson)検定を用いる。
これらの検定を合わせて行なうことにより、検定結果についての信頼性を高める。
さて、MacKinlay(1997)によれば、AR はその性質上、イベントが企業価値に影響を及ぼさな
いという帰無仮説(H 0 )の下で、平均 0 、分散 の正規分布に従うとしている。つまり、
, ~0, となる。この性質を利用することでイベント・ウィンドウにおける AR 及び CAR の有意性につ
いて検定を行う。
また、検定統計量 θ を算定するためには、AR を標準化して標準超過リターン(Standardized
AR:以下「SAR」とする。
)を求める。
, ,
標準化に用いる は推計ウィンドウにおける誤差項の標準偏差として次のように算定される。
, / 2
ただし、L は推計ウィンドウの日数を表し、本稿では120となる。
8
正規分布を前提としないノンパラメトリックな検定については Corrad(1989)がイベントスタディにおけるそ
の有効性を指摘している。MacKinlay(1997)p.32においても、パラメトリックな検定と併用することで信頼性が
高まることを指摘している。
37 そして、SAR を用いた検定統計量 θ を次のように算定する。
4 1
, 2 検定統計量 θ は、平均 0 、分散 1 の標準正規分布に漸近的に従うため、この性質を利用して、イ
ベント・ウィンドウの各日における AR の有意性についての検定を行う。
ここで、本稿における帰無仮説は、
H0:t 日においてイベントは企業価値に影響を及ぼしていない。
H0:期間 t 1 から t 2 においてイベントは企業価値に影響を及ぼしていない。
となる。すなわち、もしイベントが企業価値に影響を及ぼしていないならば、t 日の超過リター
ン及び期間 t 1 から t 2 の累積超過リターンの期待値は 0 となる。逆に、イベントが企業価値に影響
を及ぼしているならば、超過リターン及び累積超過リターンは有意に 0 から乖離することになる。
また、本稿のように分析対象企業にとってのイベント日が同一となるイベント・スタディにおい
てはクラスタリング(Clustering)の問題が生じることがあるが同一産業に偏っていないことなど
を考慮し分析を行なっている9。
3 . 1 . 3 分析対象企業及びデータの選択
本稿では、試験研究に対する税額控除制度の改正のアナウンスメントというイベントの影響が最
も顕著に表れると考えられる企業として、東京証券取引所 1 部上場企業のうち以下の試験研究上位
100社(以下「R&D 企業」とする。
)を分析対象とした10。
トヨタ自動車 パナソニック 本田技研工業 ソニー 日産自動車 日立製作所 東芝 キヤノン
武田薬品工業 日本電気 デンソー 富士通 アステラス製薬 エーザイ 富士フイルム HD
シャープ 日本電信電話 三菱電機 三菱重工業 住友化学 NTT ドコモ リコー スズキ
アイシン精機 ブリヂストン マツダ 田辺三菱製薬 住友電気工業 旭化成 三洋電機
ヤマハ発動機 オリンパス ニコン キリン HD パナソニック電工 いすゞ自動車
9
イベント・スタディにおけるクラスタリングの影響とは、イベントスタディ分析の際、同一産業のサンプル
を設定する場合、分析対象企業の超過リターンの間に相関関係が存在するとき、超過リターンについての帰無
仮説が棄却されるバイアスを持つことがあるとしている。本稿ではクラスタリングの影響を否定し得ないもの
の、特定の産業に集中せずに多種な産業にサンプルを取っているため影響は軽減されていると考え分析を行なっ
ている。
10
R&D 企業は、(株)WDB 運営「研究 .net(企業 R&D データベース)
」により検索し、かつ日次株価データが入
手できた企業を分析している。
38
東京エレクトロン TDK 塩野義製薬 大日本住友製薬 京セラ 日本たばこ産業 新日本製鐵
小松製作所 東レ 任天堂 旭硝子 花王 ダイハツ工業 村田製作所 三井化学 日野自動車
川崎重工業 オムロン ローム 東京電力 富士重工業 パイオニア 味の素 協和発酵キリン
ブラザー工業 大日本印刷 信越化学工業 帝人 コナミ KDDI トヨタ紡織 横河電機
ダイキン工業 神戸製鋼所 大正製薬 アルプス電気 ジェイテクト 豊田自動織機 豊田合成
日立化成工業 クボタ 日本電産 凸版印刷 富士電機 HD 積水化学工業 住友金属工業
東芝テック 三菱自動車工業 ヤマハ カルソニックカンセイ 日東電工 昭和電工 関西電力
カプコン JSR アルパイン 住友ゴム工業 アドバンテスト テルモ 小糸製作所 古河電気工業
東海理化電機製作所 カネカ 三菱瓦斯化学
なお、分析対象企業の株価データ及び TOPIX データは、東洋経済新報社株価 CD-ROM2010から
収集した。
3 . 2 試験研究に対する税額控除制度の改正に関するイベント・スタディ
前述したように、本稿では、税制改正大綱の公表日をイベント日として分析を行う。実際の税制
改正は、税制改正大綱の公表後に閣議決定や国会の議決というプロセスが必要となる。しかし、本
稿で取り上げる2003年度、2006年度、2008年度の 3 つのケースでは政府与党の税制改正大綱の公表
後に衆議院の解散等に関する報道がなされていないため、税制改正大綱はほぼ確実に可決されると
考えられる。したがって、資本市場も12月の税制改正大綱の公表以降は税制改正を織り込んだ価格
形成を行うものと予想される。
本稿では、分析に際して櫻田・大沼(2010)及び加藤(2011)と同様にイベント日を挟んだ前後
期間のマーケット・インデックスの推移についての確認を行う。もし、イベント日が2008年 9 月の
リーマン・ショック周辺の期間に代表されるような長期間に及ぶ株価の異常な下降局面にあるとす
れば、分析に重大な影響を及ぼすため、本稿の目的である税制改正大綱の公表が資本市場に及ぼす
影響を観察することは困難である。そのため、本稿では、イベント日周辺にそのような傾向が見ら
れるかどうかの確認を行うこととした。本稿で分析対象となる2003年度、2006年度、2008年度の税
制改正大綱の公表日前後60日間のマーケット・インデックスの推移は図表 3 ‒ 1 のとおりである。
39 図表 3 ‒ 1 マーケット・インデックスの推移(イベント日前後60日間)
(Pt)
1,800
1,600
1,400
1,200
1,000
800
600
-60
-50
2002
2007
-40
9
9
17
14
-30
-20
2003
2008
-10
0
3 18
3 17
10
2005
20
9
30
15
40
2006
50 60(
)
3 15
図表 3 ‒ 1 によれば、2003年度及び2006年度のケースでは、イベント日前後60日間のマーケッ
ト・インデックスの推移に異常な下落傾向は見られない。2008年度のケースでは、イベント日前後
60日間で約400ポイントの下落となっており、株価は著しい下降局面にあることが分かる。しかし、
イベント・ウィンドウにおける推移を見ると、26日間で約110ポイントの下落であるため、異常な
下落傾向であるとは言えない。
以上より、本稿で分析対象となる2003年度、2006年度、2008年度の税制改正大綱の公表日周辺に
おいて、分析に重大な影響を及ぼすほどの異常な株価変動は見られないことが確認された。
以下では、2003年度、2006年度、2008年度の税制改正大綱のケースについて実際に分析を行い、
資本市場がどのように反応したかについて述べる。
3 . 2 . 1 2003年度税制改正のケース
2002年12月13日に政府与党が公表した2003年度税制改正大綱における試験研究に対する税額控除
制度に関連する主な改正項目としては、試験研究費の総額に係る税額控除制度の創設、大学・公的
研究機関等との共同研究・委託研究に係る税額控除制度の創設、中小企業技術基盤強化税制の強
化・拡充等がある。税制改正大綱では、これらの試験研究に対する税額控除制度が従来の制度とは
異なり、恒久措置として創設されることが示された。
以上のように、税制改正大綱で税額控除制度の恒久化が明確にされたことで、企業は長期的な試
験研究活動についても税額控除制度を考慮した意思決定が可能となった。すなわち、企業の試験研
究に対するインセンティブは高まり、試験研究活動を通じた企業価値の創造が期待されることになる。
40
2003年度改正のケースについては、政府与党による税制改正大綱の公表が行われた2002年12月13
日をイベント日として分析を行っている。
まず、AR のイベント・ウィンドウにおける推移は図表 3 ‒ 2 のとおりである。
AR の平均値(Average AR)はイベントの影響が最も顕著に表れると考えられるイベント日に
おいてプラス域にあるが、その反応は弱いものとなっている。中また、イベント日から 6 日後周辺
や12日後においては強いプラスの反応が見られる。そのため、イベント日以降の期間において税制
改正大綱の内容が徐々に評価されていったとも考えられる。
次に、イベント・ウィンドウの各日における AR が統計的に有意な反応であるか否かを検証する
ために t 検定、検定統計量 θ、Z 検定用いた検定では、AR はイベント日において 2 検定ともに有意
な反応を示していないことが分かる。t 検定では、イベント日から 8 日後と12日後に有意にポジ
ティブな反応が見られる。同様に検定統計量 θ を用いた検定ではイベント日から12日後に10% 水準
で有意にポジティブな反応が見られる。しかし、この結果だけではイベント日周辺において2003年
度税制改正大綱の公表が R&D 企業の企業価値にどのような影響を与えたかを判断することはでき
ない。
図表 3 ‒ 2 2003年度税制改正時の AR の検定結果
Day
AR
検定統計量 t
-10
-9
-8
-7
-6
-5
-4
-3
-2
-1
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
0.004
-0.001
0.003
-0.004
0.002
0.005
0.002
-0.002
-0.000
-0.001
0.002
-0.002
-0.003
0.000
-0.003
-0.004
0.002
0.002
0.003
-0.004
-0.004
-0.005
0.004
0.000
-0.002
0.002
1.709
-0.588
1.332
-1.704
0.929
2.841
1.340
-0.747
-0.198
-0.592
1.143
-1.173
-1.485
0.125
-1.618
-2.245
0.949
1.360
2.252
-2.017
-2.934
-3.146
2.661
0.248
-1.429
1.163
有意水準
*
***
**
**
**
***
***
***
検定統計量 θ
1.657
-0.681
1.057
-1.009
0.803
2.473
0.971
-0.189
0.075
-0.214
0.843
-0.756
-1.760
0.128
-1.519
-1.418
0.754
0.890
1.246
-1.340
-1.687
-1.970
1.770
-0.326
-0.834
0.744
有意水準
検定統計量 Z
*
0.928
0.695
1.403
1.307
0.866
2.562
1.100
0.935
0.041
0.536
1.341
0.653
1.403
0.622
2.204
1.929
0.774
1.348
2.001
2.562
2.355
2.744
3.163
0.282
1.478
0.921
**
*
*
**
*
有意水準
**
**
*
**
**
**
***
***
***
: 1 % 水準,**: 5 % 水準,*:10% 水準で有意 41 そこで、イベント・ウィンドウ内の各期間における CAR が統計的に有意であるか否かの t 検定、
Z 検定で検証を行った。CAR は、例えばイベント日の10日前からイベント日までの11日間であれば
CAR(‒10, 0)、イベント日の 5 日前からイベント日までの 6 日間であれば CAR(‒5, 0)と表記す
る。検定結果は、図表 3 ‒ 3 のとおりである。
図表 3 ‒ 3 2003年度税制改正時の CAR の検定結果
CAR (t1, t2)
CAR (-10, 0)
0.010
CAR (-5, 0)
0.006
CAR (-1, 0)
0.001
CAR (-1, 1)
-0.001
CAR (0, 1)
-0.000
CAR (0, 2)
-0.003
CAR (0, 5)
-0.010
CAR (0, 10)
-0.011
CAR (0, 15)
-0.011
CAR (1, 5)
-0.012
CAR (1, 10)
-0.013
CAR (1, 15)
-0.013
CAR (-2, 2)
-0.004
検定統計量 t
1.883
1.760
0.565
-0.433
-0.137
-1.184
-2.385
-2.000
-1.593
-2.949
-2.372
-1.901
-1.381
有意水準
*
*
**
**
***
**
*
検定統計量 Z
1.503
1.420
0.505
0.433
0.031
0.846
1.850
1.850
1.616
2.383
2.101
1.822
1.093
有意水準
*
*
**
**
***
: 1 % 水準,**: 5 % 水準,*:10% 水準で有意 図表 3 ‒ 3 によれば、CAR はイベントの影響が最も顕著に表れると考えられるイベント日周辺に
おいて有意な反応を示していない。イベント日以降の期間について見ると、CAR(0, 5)、CAR(0,
10)、CAR(1, 5)、CAR(1, 10)
、CAR(1, 15)が有意にネガティブな反応を示している。すなわち、
2003年度税制改正大綱の公表日周辺において資本市場は有意な反応を示しておらず、R&D 企業の
企業価値に対して何ら影響していないことになる。そして、イベント日以降の期間において企業価
値に対してマイナスに作用していったことになる。
3 . 2 . 2 2006年度税制改正のケース
2005年12月15日に政府与党が公表した2006年度税制改正大綱では試験研究に対する税額控除制度
に関連する改正として、試験研究費の総額に係る税額控除制度及び中小企業技術基盤強化税制につ
いて、試験研究費のうち比較試験研究費を上回る部分の税額控除率に 5 % を上乗せする措置が示さ
れた。すなわち、2006年度税制改正は試験研究費の総額に係る税額控除制度及び中小企業技術基盤
強化税制を2003年以降利用が減少している試験研究費の増加額に係る税額控除制を統合し、税額控
除率の優遇を行うことで控除税額の拡大と制度の利用を促そうとしたものである。控除税額の上限
緩和は、企業の試験研究に対するインセンティブを高めるため、企業価値にとってもプラスに作用
することが考えられる。
2006年度税制改正大綱は、2003年度の試験研究に対する税額控除制度に関連する改正を評価した
42
上で、さらなる国際競争力の維持・強化のためには税額控除率の上乗せ等の措置が必要であるとい
う経団連の要望に一部応えるものとなっている。
2006年度税制改正のケースについては、政府与党による税制改正大綱の公表が行われた2005年12
月15日をイベント日として分析を行っている。
図表 3 ‒ 4 から、イベント・ウィンドウにおける AR はイベントの影響が最も顕著に表れると考
えられるイベント日周辺において平均値(Average AR)がイベント日の翌日及び 2 日後にプラス
の反応を示していることが分かる。また、イベント日から 5 日後、 8 日後、11日後以降においても
プラスの反応が見られる。そのため、税制改正大綱の内容は資本市場からプラスの評価を受けてい
たと考えられる。
次に、イベント・ウィンドウの各日における超過リターンが統計的に有意な反応であるか否かの
検定結果については、AR はイベント日においていずれの検定ともに 1 % 水準で有意にネガティブ
な反応を示していることが分かる。その後、イベント日の 3 日後、 6 日後においても 1 % 水準で有
意にネガティブな反応が見られる。そして、イベント日から 8 日後、12日後、13日後、14日後にお
いて 3 検定ともに 1 % 水準で有意にポジティブな反応が見られる。
図表 3 ‒ 4 2006年度税制改正時の AR の検定結果
Day
-10
-9
-8
-7
-6
-5
-4
-3
-2
-1
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
AR
0.003
0.000
0.001
-0.008
0.001
-0.000
-0.002
-0.001
0.001
0.001
-0.007
0.001
0.003
-0.006
0.002
0.003
-0.006
-0.000
0.005
-0.001
-0.001
0.001
0.006
0.009
0.005
0.002
検定統計量 t
1.605
0.178
0.687
-4.887
0.681
-0.065
-0.995
-0.657
0.504
0.389
-4.168
0.662
2.040
-4.685
1.103
0.953
-4.072
-0.112
3.357
-0.867
-0.903
0.576
3.045
4.356
2.423
1.250
有意水準
***
***
**
***
***
***
***
***
**
検定統計量 θ
2.322
0.410
-0.226
-5.987
1.252
-0.633
-1.855
-0.775
0.411
0.194
-4.902
0.803
2.881
-4.571
2.033
1.060
-4.710
-0.142
4.361
-0.639
-0.877
0.722
5.430
6.758
3.021
2.200
有意水準
検定統計量 Z
**
1.128
0.254
0.292
4.865
0.344
0.303
1.888
1.685
0.571
0.258
3.744
1.038
1.307
4.559
1.496
0.595
4.542
1.073
2.830
1.056
0.677
0.189
2.238
3.607
2.462
1.231
***
*
***
***
***
**
***
***
***
***
***
**
有意水準
***
*
*
***
***
***
***
**
***
**
***
: 1 % 水準,**: 5 % 水準,*:10% 水準で有意 43 次に、イベント・ウィンドウの各期間における CAR が統計的に有意な反応であるか否かの検定
を行った。検定結果は、図表 3 ‒ 5 のとおりである。
図表 3 ‒ 5 2006年度税制改正時の CAR の検定結果
検定統計量 t
有意水準
検定統計量 Z
有意水準
CAR(-10, 0)
-0.010
-1.873
*
2.957
***
CAR(-5, 0)
-0.009
-2.126
**
2.878
***
CAR(-1, 0)
-0.006
-2.564
**
2.393
**
CAR(-1, 1)
-0.005
-1.922
*
2.297
**
CAR(0, 1)
-0.006
-2.856
***
3.218
***
CAR(0, 2)
-0.003
-1.186
1.520
CAR(0, 5)
-0.004
-0.933
1.313
CAR(0, 10)
-0.008
-1.472
CAR (t1, t2)
CAR(0, 15)
0.015
2.097
CAR(1, 5)
0.003
0.722
CAR(1, 10)
-0.001
-0.225
CAR(1, 15)
0.022
3.109
CAR(-2, 2)
-0.001
-0.380
**
1.740
*
2.400
**
0.684
0.437
***
3.263
***
0.770
***
: 1 % 水準,**: 5 % 水準,*:10% 水準で有意 図表 3 ‒ 5 によれば、CAR はイベントの影響が最も顕著に表れると考えられるイベント日周辺の
CAR(‒1, 0)が 5 % 水準、CAR(‒1, 1)が10水準、CAR(0, 1)が 1 % 水準で有意にネガティブな反
応を示していることが分かる。また、イベント日後の CAR(0, 15)が 5 % 水準、CAR(1, 15)が
1 % 水準で有意にポジティブな反応を示している。この結果から、2006年度税制改正大綱の公表は
イベント日周辺においては R&D 企業の企業価値にとってマイナスに作用し、その後の期間でプラ
スに作用していったことになる。
3 . 2 . 3 2008年度税制改正のケース
2007年12月13日に政府与党が公表した2008年度税制改正大綱では試験研究に対する税額控除制度
に関連する改正として、試験研究費の増加額等に係る税額控除制度について、従来からある「試験
研究費が比較試験研究費を超え、かつ、基準試験研究費を超える場合」に加えて「試験研究費が平
均売上金額の10% 相当額を超える場合」のいずれかを選択適用できる制度を創設することが示され
た。税制改正大綱では、当該制度における控除税額の上限は、法人税額の10% 相当額であるが、試
験研究費の総額に係る税額控除制度及び中小企業技術基盤強化税制とは別枠であるとしている。す
なわち、当該制度の創設により、企業は最大で法人税額の30% 相当額を控除することができるよう
になった。控除税額の上限緩和は、企業の試験研究に対するインセンティブを高め、R&D 企業の
企業価値にとってもプラスに作用すると考えられる。
また、2008年度税制改正大綱は研究開発支出の多い上場企業約320社の40% 近くが控除の上限に
44
達しているという経団連の調査及びそれに伴う上限緩和の要求に応えたものである11。
2008年度税制改正のケースについては、政府与党による税制改正大綱の公表が行われた2007年12
月13日をイベント日として分析を行っている。
まず、イベント・ウィンドウにおける AR の推移は図表 3 ‒ 6 のとおりである。
図表 3 ‒ 6 によれば、AR はイベントの影響が顕著に表れると考えられるイベント日周辺におい
て平均値(Average AR)はプラスの反応を示していることが分かる。その後、イベント日から 6
日後に強いプラスの反応が見られるが、イベント日以降の AR は全体的にマイナス域で推移してい
る。そのため、税制改正大綱の内容は資本市場にとって短期的にインパクトのある情報であったと
考えられる。
AR の検定については、AR はイベント日及びイベント日の翌日において 3 検定ともに 1 % 水準
で有意にポジティブな反応を示している。その後、イベント日から 6 日後においても 1 % 水準で有
意にポジティブな反応が見られる。一方で、イベント日から 4 日後、 5 日後、 7 日後、11日後以降
に有意にネガティブな反応が見られる。
図表 3 ‒ 6 2008年度税制改正時の AR の検定結果
Day
AR
検定統計量 t
-10
-9
-8
-7
-6
-5
-4
-3
-2
-1
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
0.001
0.003
-0.003
0.000
0.002
-0.001
0.000
0.001
0.001
0.002
0.005
0.007
-0.000
-0.002
-0.003
-0.005
0.009
-0.003
0.001
0.000
-0.001
-0.006
-0.003
-0.004
-0.006
0.000
0.353
1.288
-2.379
0.218
1.300
-0.286
0.106
0.396
0.974
1.729
2.943
4.217
-0.156
-1.582
-2.482
-3.381
5.507
-2.328
0.530
0.066
-1.062
-3.267
-1.570
-2.082
-2.854
0.098
有意水準
**
***
***
**
***
***
**
***
**
***
検定統計量 θ
0.460
1.339
-2.270
0.710
1.351
-0.176
0.108
0.600
0.773
1.457
3.258
4.277
0.106
-1.107
-2.063
-2.858
5.235
-2.021
0.483
0.242
-0.649
-3.771
-0.898
-2.716
-3.275
0.315
有意水準
検定統計量 Z
**
***
***
**
***
***
**
***
***
***
0.093
0.392
2.400
0.361
1.496
0.994
0.182
0.378
1.331
0.987
2.771
3.851
0.457
1.162
2.833
3.538
4.986
2.283
1.434
0.203
1.530
3.088
1.324
2.727
2.840
0.495
有意水準
**
***
***
***
***
***
**
***
***
***
***
: 1 % 水準,**: 5 % 水準,*:10% 水準で有意
11
山本守之『税制改正の動き・焦点 平成20年度対応版』税務経理協会 2008年30頁
45 AR に続いて、イベント・ウィンドウの各期間における CAR が統計的に有意な反応であるか否
かの検定を行った。検定結果は、図表 3 ‒ 7 のとおりである。ここで、CAR はイベントの影響が最
も顕著に表れると考えられるイベント日周辺の CAR(‒1, 0)
、CAR(‒1, 1)
、CAR(0, 1)、CAR(0,
2 )、CAR(‒2, 2)のすべてにおいて 1 % 水準で有意にポジティブな反応を示していることが分かる。
また、イベント日以降の期間について見ると、CAR(0, 15)が10% 水準、CAR(1, 15)が 5 % 水準
で有意にネガティブな反応を示している。この結果から、2008年度税制改正大綱の公表はイベント
日周辺において R&D 企業の企業価値にとってプラスに作用していることになる。
図表 3 ‒ 7 2008年度税制改正時の CAR の検定結果
CAR (t1, t2)
CAR(-10, 0)
CAR(-5, 0)
CAR(-1, 0)
CAR(-1, 1)
CAR(0, 1)
CAR(0, 2)
CAR(0, 5)
CAR(0, 10)
CAR(0, 15)
CAR(1, 5)
CAR(1, 10)
CAR(1, 15)
CAR(-2, 2)
検定統計量 t
有意水準
検定統計量 Z
有意水準
2.109
2.190
3.316
5.761
5.394
4.270
0.228
1.195
-1.789
-1.305
0.256
-2.559
5.024
**
1.692
1.963
2.799
4.934
4.697
3.995
0.052
1.595
2.709
1.282
0.395
3.160
4.487
*
0.011
0.009
0.007
0.014
0.012
0.011
0.001
0.006
-0.012
-0.004
0.001
-0.016
0.015
***
**
***
***
***
***
*
**
***
**
: 1 % 水準,
*
***
***
***
***
***
***
***
*
: 5 % 水準, :10% 水準で有意 3 . 3 分析結果の解釈
イベント・スタディの結果、本稿で分析対象とした 3 つの税制改正大綱の公表日及びその周辺の
期間において、R&D 企業の企業価値にプラスに作用したのは2008年度税制改正のケースのみで
あった。すなわち、2003年度及び2006年度の税制改正は R&D 企業の企業価値にプラスに作用して
いないことになる。こうした結果を踏まえて、それぞれケースについて本稿なりの解釈を示すこと
とする。
まず、2003年度税制改正のケースについて見ていく。本ケースでは、イベント日を含む周辺の期
間において、資本市場からの反応を観察することができず、税制改正大綱の情報内容は既に株価に
織り込まれていたと推測される。そこで、イベント日の 5 日前周辺の資本市場の動向に注目する。
イベント日の 5 日前の超過リターンは 1 % 水準で有意にポジティブに反応しており、イベント日周
辺においては、税制改正大綱の情報内容は織り込み済みであったと考えられる。そうした推測を裏
付ける新聞報道として以下のようなものがある。
46
研究開発減税、控除10% 軸に 自民税調
自民党税制調査会(相沢英之会長)は 4 日午前、正副・顧問・幹事会議を開き、03年度税制改正につい
て、具体的な税率をあげて増減税案の検討を始めた。減税の柱の一つである企業の研究開発減税につい
ては、研究費総額の10% を、法人税から控除する方向で詰めの作業に入った。
(中略)中小企業向けの優遇分なども加えた経済産業省の要望に基づけば、 6 千億円の減税効果が見
込めるという。
朝日新聞2002年12月 4 日 夕刊 1 総合
上記の新聞報道によれば、試験研究に対する税額控除制度の改正内容と減税規模等について、イ
ベント日の 7 日前に明らかにされていたことになる。それによって、資本市場はイベント日の 6 日
前からプラスの反応を示し始め、 5 日前に R&D 企業の企業価値にプラスに作用したと考えられる。
すなわち、本ケースでは市場参加者がイベント日以前の期間に税制改正大綱の情報内容を知り得た
ため、イベント日周辺の期間において市場は既に改正内容を織り込み済みであったと考えることが
できる。
次に、2006年度税制改正のケースについて見ていく。本ケースでは、イベント日を含む周辺の期
間において、AR が有意にネガティブな反応を示しており、R&D 企業の企業価値にマイナスに作用
したことになる。すなわち、市場参加者は税制改正大綱の情報内容に対して好感を示さなかったと
言える。分析の結果、その原因の 1 つとして試験研究に対する税額控除制度における上乗せ部分の
廃止を決定したことが考えられる。2006年度税制改正では、従来、選択適用であった試験研究費の
総額に係る税額控除制度と試験研究費の増加額に係る税額控除制度を統合し、控除率の優遇を行う
ことで試験研究に対するインセンティブ効果が期待されていた。しかし、税制改正大綱では経団連
が求めていた控除率の 2 % 上乗せ措置の延長が退けられたため、市場参加者は難色を示したものと
考えられる。また、制度としての実効性が低下したことも原因として考えられる。上述したよう
に、2006年度税制改正では 2 つの制度が統合されたが、実質的には選択適用であった制度の併用を
認めたにすぎない。すなわち、控除税額の上限が法人税額の15% 相当額まで緩和されてはいるもの
の、 5 % 部分については試験研究費の増加額がなければ控除をすることができないため、実質的な
減税効果は少ないと市場参加者は判断したことも原因の 1 つと考えられる。
最後に、2008年度税制改正のケースについて見ていく。本ケースでは、イベント日を含む周辺の
期間において、AR が有意にポジティブな反応を示しており、R&D 企業の企業価値にプラスに作用
したことになる。2008年度税制改正による試験研究減税の規模は200∼300億円程度であり、2003年
度税制改正の6,000億円と比較すると僅少なものであるが、こうした結果を示した要因は 2 つ考え
られる。 1 つ目は、控除税額の上限を当該事業年度に納付すべき法人税額の20% 相当額から30% 相
当額まで引き上げたことである。控除税額の緩和はこれまでも行われてきたが、10% 規模の引き上
げはなく、市場参加者が好感を示した要因としては十分であると考えられる。 2 つ目は、試験研究
費の増加額等に係る税額控除制度が改組され、その適用要件に「試験研究費が平均売上金額の10%
47 相当額を超える場合」が追加されたことである。従来の制度では、試験研究費の増加額がなければ
控除をすることができないため、長期間にわたって控除をするためには継続して試験研究費を増加
させなくてはならなかった。それは、企業にとって相当の負担であり、制度として有効に機能して
いたとは考えられない。それが、2008年度税制改正により改善されたことで、企業は毎期一定の控
除をすることができるようになり、試験研究に対するインセンティブになると市場は評価したと考
えることもできる。
4. 結びに
本節では結びとして、全体の総括を行うとともに本稿の成果と今後の課題について述べる。
本稿では、試験研究に対する優遇税制のうち税額控除制度に焦点を当て、その重要性の再検討と
有効性の検証を中心に考察を行ってきた。
1 では、本稿の主題である試験研究に対する税額控除制度等における試験研究の概念について考
察を行った。その上で、近年、その重要性が高まっている税額控除制度の実態について明らかにし
た。我が国では、試験研究に対する税額控除制度が創設されて以来、長らく試験研究費の増加額に
係る税額控除制度を主とする期間が続いていた。しかし、2000年代に入ると国際競争力強化のため
に、制度の拡張が頻繁に行われるようになってきている。それに伴い控除税額も大幅に増加した
が、我が国の制度ではその恩恵を享受できていない状況にあるため、その点に配慮した制度設計が
求められている。
2 では、試験研究に対する税額控除制度の有効性を検証した先行研究について触れた。Hall and
Reenen(2000)では、試験研究に対する税額控除制度の有効性を検証するための手法として税価格
弾力性についての検証、試験研究支出の変化についての検証等の手法が挙げられている。先行研究
ではいずれの手法を用いた研究においても、試験研究に対する税額控除制度は、試験研究支出を増
加させる効果があり、制度として有効であることを示唆している。また、税制改正大綱の公表日を
イベント日としたイベント・スタディとして菅谷・東出(2009)の研究も重要である。この研究は、
当該研究領域とは異なるものの、税制改正大綱の公表日において資本市場が反応を示しているとい
うことを明らかにしており、本稿にとっても示唆に富むものである。
3 では、試験研究に対する税額控除制度の市場の評価を検証するために、税制改正大綱の公表に
ついてイベント・スタディを用いた定量的な分析を行った。分析の結果、本稿で分析対象とした 3
つの税制改正大綱の公表日及びその周辺の期間において、R&D 企業の企業価値にプラスに作用し
たのは2008年度税制改正のケースのみであった。2003年度税制改正のケースでは、イベント日周辺
において税制改正大綱の公表に対する資本市場の反応を検証することはできなかったが、これはイ
ベント日以前の期間において市場参加者が既に税制改正大綱の情報内容を新聞報道等により知り得
ており、イベント日周辺の期間においては織り込み済みであったと考えられる。2006年度税制改正
48
のケースでは、イベント日周辺において資本市場はネガティブな反応を示しており、R&D 企業の
企業価値にはマイナスに作用している。2008年度税制改正のケースでは、イベント日周辺において
資本市場はポジティブな反応を示しており、R&D 企業の企業価値にプラスに作用している。資本
市場がこうしたポジティブな反応を示した要因としては、控除税額の上限引上げ幅が従来よりも大き
かったことや試験研究費の増加額等に係る税額控除制度の適用要件に「試験研究費が平均売上金額
の10% 相当額を超える場合」が追加されたことにより、R&D 企業の制度利用の促進が見込まれた
こと等が挙げられる。上述したように、本稿で分析対象とした 3 つの税制改正のケースについて資
本市場は様々な反応を示している。すなわち、資本市場からプラスの評価を受けているケースがあ
る一方で、資本市場が影響しないケースもあった。しかし、2006年度及び2008年度税制改正のケー
スのように資本市場は試験研究に対する税額控除制度の改正という情報内容に対して反応している
ことから、市場参加者の間においても当該制度の重要性が認識されてきているものと考えられる。
また、本稿では上述したような結論を導出することができたものの、分析面における課題も残さ
れた。 1 つは分析対象企業の選択とその数についてである。本稿では、東京証券取引所 1 部上場企
業の研究開発費上位100社を分析対象企業として抽出したが、その中には試験研究費比率が 1 % に
満たない企業も存在した。現行制度は、試験研究費比率が高い企業が制度利用による恩恵をより享
受できる制度であるため、今後は試験研究費比率をベースに分析対象企業の選択を行う必要があ
る。さらに、本稿ではマーケット・モデルにより AR 及び CAR の算定を行ったが、イベント・ス
タディの分析モデルはその他にもいくつか存在する。そのため、他のモデルによる分析を行い、モ
デル間での分析結果の相違があるのか否かを検証し、試験研究に対する税額控除制度を分析する上
で最適なモデルについて検討していく必要がある。また、CAR に影響を及ぼす変数について重回
帰分析等を行なう余地もある。これらは、今後の課題としたい。
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本稿は平成22年度科学研究費基盤研究(C)
「租税状況とコーポレート・ガバナンスの関係性」
(課題番号
22530494)、平成23年度科学研究費基盤研究(C) 「多国籍企業における国際課税要因が資本市場に与える影
響について」
(課題番号23530562)
、平成23年度弘前大学学部長裁量経費「企業財務情報利用による研究と会計
学・財務論教育への応用」の助成による研究成果の一部である。謝してここに記す。
51 【論 文】
愛知県4市のまちづくり指標と行政評価・予算編成(2・完)
─自治体行政における社会指標型ベンチマーキングの活用─
児 山 正 史
1 .はじめに
2 .愛西市
3 .一宮市 (以上、前号)
4 .東海市
5 .春日井市
6 .おわりに
4 .東海市
東海市では、2002年度からまちづくり指標が作成され、2004年度開始の総合計画の骨格として活
用された(児山〔2008〕53 ‒ 4)。また、2002年度から事務事業評価、2004年度から施策・単位施策の
(施策達成度報告書〔2011〕4、聞き取り)
評価が実施され、これらが施策評価システムと呼ばれている(1)
。
そして、2007年度にはロジックモデルが作成され、実施計画の策定に一部活用された(児山〔2008〕
62 ‒ 3)。その後、ロジックモデルに関する制度は変遷したが、施策評価に基づいて実施計画事業を
提案することが求められ、実施計画は予算編成の指針・枠組みであるとされている(重点項目〔2007‒
11〕、実施計画要領〔2007‒11〕)。以下では、ロジックモデルが初めて作成された2007年度以降における
施策評価、実施計画の策定、これらの予算編成での活用の制度、実態、原因を見ていく。
(1)制度
①施策評価・実施計画
施策評価システムは、施策・単位施策・事務事業の 3 階層の評価で構成されている。施策につい
ては、単位施策の評価などから、施策の目的達成に向けた進み具合を評価する。単位施策について
は、単位施策評価表を活用して、成果指標の現状値を把握し、その原因を分析・評価し、次年度の
方向性を検討する。事務事業については、事業マネジメントシートで事業コスト・活動状況・成果
を把握し、単位施策評価の次年度の方向性に反映する(施策達成度報告書〔2011〕4)。ただし、事務事
53 業評価はシステム入力による簡易評価を行うものであり、指標を管理する機能を持たない(2)(単位
施策評価依頼〔2007‒ 11〕、資料提供)。以上から、東海市の施策評価システムの中心は単位施策評価であ
るといえる。
毎年 4 月には、企画部長名で、単位施策評価表の提出が各課に依頼されている(単位施策評価依頼
〔2007‒11〕)。単位施策評価表には、単位施策の対象・意図、成果指標とその数値、主な事業、上位
の施策への貢献度、成果指標の数値の増減の分析、単位施策の評価、成果の向上余地、改革方向性
などを記入する(単位施策評価表〔2011〕)。しかし、中間指標の数値を用いることは求められていな
い。なお、2007年度には、施策評価のヒアリングの際に、指標の改善していない部分を中心に、ロ
ジックモデルを利用して説明してもらうとされていたが、翌年度からはそのような制度はなくなっ
た(実施計画依頼〔2007‒11〕)。
実施計画については、毎年 6 ∼ 7 月、企画部長から各課に対して、実施計画事業計画書の提出が
依頼されている(同上)。実施計画事業の提案は、施策評価における指標の推移の分析、向上余地の
分析、次年度の取組み方針、事務事業の改善方針に基づいて行うよう求められている。(重点項目
〔2007‒11〕)
この依頼の前後には、実施計画事業を提案する際の重点項目として、重点施策・最重点施策・重
点指標が決定・通知されている(3)(同上、実施計画要領〔2007‒11〕)。そして、2008、09年度には、最重
点施策について、ロジックモデルを使用して施策・指標の改善の方策を説明・提案することが求め
られていた。
まず、2008年度には、ロジックモデルと重点施策改善シートを使用して、施策の改善に関する各
課の考え方を説明することが求められた(実施計画依頼〔2008〕)。重点施策改善シートには、施策・
単位施策の評価・改善策の概要を記入した上で、ロジックモデル上の直接結果と短期・中期・長期
成果の評価、ロジックモデルに記載された既存の事務事業群、ロジックモデルの見直し方法(現在
の事業群で不足している内容、提案する事業の考え方)、新規に提案する実施計画事業の名称・活
動内容・直接結果・各成果、目標とする指標(短期・中期・長期成果)とその数値などを記入する
ことになっていた。ただし、直接結果と短期・中期・長期成果の評価は、中間指標の数値を用いて
行うことは求められず、主観的判断でかまわないとされた(重点施策改善要領〔2008〕、重点施策改善記
入例〔2008〕)。
次に、2009年度には、最重点施策について、ロジックモデルを活用した有効性評価により、指標
の改善に向けた方策を提案することが求められた(重点項目〔2009〕)。最重点施策の主管課・関係課の
職員を対象に施策別検討会が開催され、ロジックモデルの作成・点検をグループワークにより実施
することで、事務事業の改善を図り、指標の向上に結びつけるとされた(最重点施策改善会議〔2009〕)。
しかし、2010年度以降は、実施計画に関する文書にロジックモデルへの言及は見られなくなっ
た。(実施計画依頼〔2010 ‒11〕など)
54
②予算編成
施策評価と実施計画は、予算編成に活用されることになっている。
まず、施策評価については、予算編成方針において、施策評価と成果目標に基づき、予算の重点
化、既存事業の見直しによる事業の再構築、限られた財源の効率的・重点的な活用を図るとされて
いる。(予算編成方針〔2007‒11〕)
次に、実施計画については、その策定要領において、実施計画は予算編成の指針・枠組みである
とされている(実施計画要領〔2007‒11〕)。また、2007、08年度の予算編成方針では、実施計画計上事
業については実施計画額を遵守した予算要求をすることも求められていた(予算編成方針〔2007‒11〕)。
以上のように、東海市では、施策評価とそれに基づく実施計画を予算編成に活用する制度がとら
れている。しかし、単位施策評価では中間指標の数値の使用は求められておらず、事務事業評価は
指標管理の機能を持たない。このように、中間指標の数値を用いて事務事業の有効性を評価する制
度が導入されたことはない。また、ロジックモデルを活用する制度も2010年度以降は見られなく
なった。
(2)実態
次に、いくつかの施策を取り上げて、2011年度に(4)、施策評価、実施計画の策定、これらの予算
編成での活用が実際にどのように行われたかを分析する。ここで取り上げるのは、14の重点施策の
うち 6 つであり、「市民の防犯意識を高める」
「保健・医療・福祉が連携した総合的なサービスを推
進する」
「高齢者への福祉サービスを充実させる」
「商店街を活性化する」
「花と緑の豊かなまちをつ
くる」
「世代を超えてさまざまな住民が交流する」である(5)。
第 1 に、単位施策評価表には、成果指標の数値の増減の分析、単位施策の評価、改革方向性など
が記入されている。分析・評価の欄には事業の成果が記入されていることもあるが(6)、中間指標
の数値が用いられているものはない。(単位施策評価表〔2011〕)
第 2 に、実施計画事業計画書には、事業の概要、施策・単位施策における位置づけ、関係する成
果指標やそれに与える影響などが記入されている。しかし、施策評価との関係を記入する欄はな
く、そのような記述もほとんど見られない(7)。なお、成果指標に与える影響の欄には、各事業が実
(実施計画事業計画書〔2011〕
)
際に与えた影響ではなく、与えると考えられる影響が記入されている(8)
。
第 3 に、実施計画の事業名と予算編成の事業名はおおむね一致しており(9)、実施計画の予算額と
査定後の予算額は近いものが多い(10)(実施計画予算要求比較表〔2011〕)。しかし、予算要求の提出書類
には、施策評価や実施計画との関係を記入する欄はなく、そのような記述もほとんど見られない(11)。
以上のように、施策評価では中間指標の数値は用いられておらず、実施計画事業計画書には施策
評価との関係はほとんど記述されていない。実施計画と予算編成の事業名や予算額はおおむね一致
しているが、予算要求の提出書類には施策評価や実施計画との関係はほとんど記述されていない。
このように、施策評価とそれに基づく実施計画が予算編成に活用されたとはいえない。
55 (3)原因
東海市では、2004年度から、単位施策評価表を用いて、成果指標の現状値を把握し、その原因を
分析・評価し、次年度の方向性を検討してきた。しかし、中間指標の数値を用いた事務事業評価の
制度が導入されたことはなく、ロジックモデルを活用する制度も2010年度以降はなくなった。施策
評価とそれに基づく実施計画は予算編成に活用されることになっているが、実際に活用されたとは
いえない。
このような活用状況に影響を与えた要因としては、以下のことが挙げられる。
第 1 に、市長は、2001年の選挙の際に「市民参画の推進」を掲げて当選し、この公約に基づいて
設置された市民参画推進委員会がまちづくり指標を作成した。また、後継のまちづくり市民委員会
が2004年度から開催している「まちづくり大会」には、市長が出席してあいさつなどを行っている
(児山〔2008〕57, 61‒2、大会結果報告〔2009 ‒11〕)
。ただし、2005年の選挙の際には、「市民参画」が「 5
つの課題」の最後に掲げられたものの、大きな争点にはならず、2009年には市長が無投票で 3 選さ
れた(朝日新聞〔2005. 4. 18、2009. 4. 20〕、読売新聞〔2005. 4. 25、2009. 4. 20〕)。なお、施策評価の提出依頼
は企画部長名で出されている。
第 2 に、総合計画の策定時と同じコンサルタントが、2007、09、10年度にロジックモデルの作
成・活用に関する職員研修を担当した(職員説明会概要)。しかし、事務事業評価は総合計画策定以
前の2002年度から導入されており、施策評価に関する職員研修は別のコンサルタントが受託してい
る(同上)。
第 3 に、総合計画や施策評価を担当している企画部企画政策課は、ロジックモデルについて、不
足している事業を見つけて新規事業を提案するのにはよいが、既存の事業の有効性を評価して見直
すのは難しいと考えている。既存の事業の見直しには中間指標が必要であることも認識している
が、指標の管理が難しいため検討中とのことである(聞き取り)。なお、企画部長は、実施計画の事
業名をおおむね総合計画の単位施策または予算の事業区分に準じて設定するよう求めている(実施
計画要領〔2007‒11〕)。
第 4 に、事業を担当している各課は、ロジックモデルを初めて作成した際には「大変だ」などの
反応を示したが、次年度以降の見直しの際には、大きく変更する必要がなかったため、強い反応は
示さなかった。(聞き取り)
第 5 に、財政課は、予算要求の提出書類に施策評価や実施計画との関係を記入するよう求めてい
ない。
以上のように、まちづくり指標の作成は2001年の選挙時の市長の公約に基づいており、総合計画
の策定時と同じコンサルタントがロジックモデルに関する情報を提供した。その結果、2007年度に
はロジックモデルが初めて作成され、2009年度まで実施計画の策定などに活用する制度がとられて
いた。しかし、総合計画の策定以前に、指標管理の機能を持たない事務事業評価が導入されてお
り、施策評価は別のコンサルタントが受託している。また、企画政策課は中間指標の管理は難しい
56
と考えている。これらの結果、中間指標の数値を用いて事業事業の有効性を評価する制度は導入さ
れなかった。さらに、企画政策課は、ロジックモデルは既存の事業の見直しに用いるのは難しいと
認識したため、2010年度以降はロジックモデルを活用する制度もなくなった。企画部長は実施計画
の事業名を予算の事業区分などに準じて設定するよう求めているため、両者の事業名はおおむね一
致しているが、財政課は予算編成の提出書類に施策評価や実施計画との関係を記入するよう求めて
いないため、施策評価や実施計画が予算編成に活用されたとはいえない状態である。
5 .春日井市
春日井市では、2006年度からまちづくり指標が作成され、2008年度開始の総合計画の策定に半分
程度、活用された。また、2006年度からロジックモデルが作成され、2008年度には実施計画の策定
に活用された(児山〔2009〕46 ‒ 8)。そして、2009年度から行政経営システムが構築され、2010年度
から本格運用された。行政経営システムは、総合計画に掲げる施策の進捗状況を検証し、実施計画
の策定と予算編成に反映させるものであり、その一過程として施策評価が行われる(実施計画依頼
〔2009〕、施策評価依頼〔2010 ‒11〕)。なお、2010年度からは、
「総合計画推進市民委員会」がロジックモ
デルを用いて生活課題を改善するための事業を提案するという制度もとられている(市民委員会事業
提案〔2010 ‒11〕)。以下では、施策評価、実施計画の策定、これらの予算編成での活用の制度、実態、
原因を見ていく。
(1)制度
①施策評価・実施計画
施策評価は、市民満足度調査の結果などに基づき、総合計画の基本施策(12)を検証・評価するも
のである(施策評価要領)。毎年 7 月には、企画政策部長名で、施策評価シートの作成、提出が各課
に依頼されている(施策評価依頼〔2010 ‒11〕)。
施策評価シートには、まず、評価事務局が、市民の満足度・重要度、成果指標・補足指標の数値
を記入する。補足指標はロジックモデルでは中間指標として位置づけられている。次に、総合計画
推進市民委員会が、これらの数値を総合的に検証し、基本施策の進捗状況の評価、基本施策の優先
度を記入する。そして、主担当課長と関係課長が協議して、前年度の取組、達成状況の検証、市民
委員会の評価に対する考え方、当該年度の取組、今後の考え方を記入する。これらの自己評価の内
容は、主担当部長が関係部長と協議して確認・承認する。その後、主担当課長が評価シートを評価
事務局に提出し、事務局が評価結果を取りまとめて市長に報告する。(施策評価要領、ロジックモデル
〔2010 ‒11〕)
実施計画は、財政状況や社会ニーズを考慮して、具体的に実施する事業を決定する計画である
(総合計画 5 )
。毎年 7 月、企画政策部長から各課に対して、実施計画事業計画書の作成・提出が依頼
57 されている。提出の際には、施策評価などを踏まえた新たな事業の創出と見直しを積極的に試みる
よう求められている(実施計画依頼〔2010 ‒11〕)。
なお、施策評価や実施計画の策定の際には、ロジックモデルを活用することは求められていな
い。ロジックモデルは、 4 ∼ 7 月に、事業の内容を新年度のものに更新するために、点検、修正が
求められる。(施策評価依頼〔2010 ‒11〕、実施計画依頼〔2010 ‒11〕、ロジックモデル点検依頼〔2010 ‒11〕)
②予算編成
施策評価は実施計画を通じて予算編成に活用されることになっている。
まず、施策評価シートの提出依頼には、これを予算編成に反映させると記載されている(施策評
価依頼〔2010 ‒11〕)。また、施策評価の実施要領には、市長が施策評価結果等を踏まえて翌年度の重
点分野を特定し、特定した重点分野に沿って予算への反映に努めることが定められている。そし
て、評価事務局が主担当課・関係課と予算編成担当部局に重点分野を伝達し、これらの課・部局は
重点分野を踏まえて翌年度の予算編成を行うことになっている(施策評価要領)。
この重点分野の特定、伝達は、実施計画の重点施策の設定と事業実施の判定、それらの各課への
通知として行われている。実施計画事業計画書が提出された新規・拡充事業については、市民委員
会などによる施策評価や市長マニフェスト等を踏まえて、重点施策の設定と事業実施の判定を行っ
たとされている。判定は、A(概ね計画内容に基づき実施)
、B(指示事項を踏まえ、概ね計画内容
に基づき実施)、C(実施しない)、D(実施計画の対象外)、の 4 つである。(実施計画判定結果一覧
〔2010〕)
以上のように、春日井市では、まちづくり指標を施策評価とそれを踏まえた実施計画を通じて予
算編成に活用する制度がとられている。施策評価シートには、単位施策ごとに、市民の満足度・重
要度、成果指標・補足指標の数値、達成状況の検証、今後の考え方などを記入する。そして、施策
評価を踏まえて実施計画の重点施策の設定と事業実施の判定を行い、それに沿って予算に反映する
ことなどが定められている。しかし、個々の事務事業を評価する制度はとられていない(13)。また、
施策評価や実施計画の策定の際にロジックモデルを活用することは求められていない。
(2)実態
次に、いくつかの生活課題や事業を取り上げて、2010年度に(14)、施策評価、実施計画の策定、
これらの予算編成での活用が実際にどのように行われたかを分析する。ここで取り上げるのは、48
の生活課題のうち、2009年度の市民意識調査で満足度が低く重要度が高かったものなど 7 つであ
り、
「犯罪や非行が少なく、夜間でも不安を感じずに帰宅できる」
「交通事故が少ない」
「いじめや虐
待がない」「生きるうえでの大切なことや人を愛する心など、子どもが家庭や地域できちんと教育
されている」
「さまざまな立場の人の就業の場がある」
「自転車や歩行者にとって生活に密着した道
路が通行しやすい」
「企業や事業所等がいきいきと活動し、産業が活性化している」である(15)。
58
①施策評価・実施計画
まず、施策評価シートには、市民の満足度・重要度や成果指標・補足指標の数値、市民委員会に
よる評価、担当課による自己評価(達成状況の検証、今後の考え方など)が記入されている。
担当課による自己評価のうち、達成状況の検証(達成度)の欄には、成果指標・補足指標の数値
の推移(増加、減少)やその原因などが記述されている。原因としては、社会状況の他に、これま
での取組も挙げられているが、具体的な事業名はほとんど記載されておらず(16)、補足指標(中間
指標)の数値を用いて事業の成果を示しているものはほとんどない(17)。
また、今後の考え方の欄には、市長マニフェスト・社会経済情勢等を踏まえた施策・事業の今後
の考え方や、当該年度の事業の次年度に向けた見直しを記入することになっているが、達成状況の
検証を踏まえて記入することは求められておらず、両者の関係は明示されていない。(施策評価シー
ト〔2010〕、施策評価記載例〔2010〕)
次に、実施計画事業計画書の提出依頼では、施策評価などを踏まえた事業の創出・見直しが求め
られている。また、実施計画事業計画書が提出された新規・拡充事業については、市民委員会など
による施策評価等を踏まえて、重点施策の設定と事業実施の判定を行ったとされている。そこで、
施策評価と重点施策の設定および事業の提案・実施判定との関係を検証する。
第 1 に、施策評価は重点施策の設定にあまり反映されていない。総合計画推進市民委員会は、優
先度が高く評価が悪い生活課題を 9 つ挙げたが、13の重点施策に含まれたものは 3 つである(市民
委員会議事録〔2010. 6. 8〕、市民委員会施策評価〔2010. 6. 8〕、実施計画判定結果〔2010〕)
。また、政策推進課の
職員は、満足度が低く重要度が高い基本施策を14挙げ、重点的な対応が望まれるとしたが、13の重
点施策に含まれたものは 2 つである(市民委員会議事録〔2010. 4. 26〕、市民委員会市民満足度〔2010. 4. 26〕、
実施計画判定結果〔2010〕
)。
第 2 に、施策評価と事業の提案・実施判定との関係も不明確である。施策評価シートと実施の判
定を受けた新規・拡充事業の事業計画書を比較すると、両者に共通する記述は見られるが、施策評
価シートの記述自体が総花的であり、これらの事業が新規・拡充事業として提案され、実施の判定
を受けた理由は不明である(18)。
以上のように、施策評価シートには各事業の成果はほとんど記載されておらず、補足指標(中間
指標)の数値を用いて事業の成果を示したものはほとんどない。また、達成状況の検証と施策・事
業の今後の考え方との関係は明示されていない。そして、施策評価と実施計画の重点施策の設定お
よび事業の提案・実施判定との関係は不明確である。
②予算編成
次に、施策評価と実施計画が予算編成で実際にどのように活用されたかを検証する。
第 1 に、実施計画の事業名と予算編成の事業名はほぼ一致している(19)。
第 2 に、予算編成の際に各課が入力する予算見積書の説明欄と事業概要欄には、事業の目的、経
過、実績等を必ず記載することが求められているが(予算編成要領〔2010〕)、これらの欄には施策評
59 価や実施計画との関係は記述されていない(予算見積書〔2010〕)。
第 3 に、重点施策の事業や実施と判定された事業の予算額が大幅に減少していることもあり(20)、
重点施策の設定や事業実施の判定が予算額にどのように反映されたかは不明である。
以上のように、実施計画と予算編成の事業名はほぼ一致しているが、施策評価や実施計画が予算
編成の過程や結果に反映されたとはいえない。
(3)原因
春日井市では、2010年度から行政経営システムが本格運用された。単位施策ごとに施策評価シー
トが作成され、成果指標・補足指標の数値、達成状況の検証、今後の考え方などが記入されてい
る。しかし、個々の事務事業を評価する制度はとられておらず、施策評価シートにも各事業の成果
はほとんど記載されていない。また、補足指標(中間指標)の数値を用いて事業の成果を示したも
のはほとんどない。施策評価は実施計画を通じて予算編成に反映されることになっており、実施計
画と予算編成の事業名はほぼ一致しているが、施策評価と実施計画の関係は不明確であり、実施計
画が予算編成に反映されたとはいえない。
このような活用状況に影響を与えた要因としては、以下のことが挙げられる
第 1 に、市長は、まちづくり指標を活用して総合計画を策定する意向を示していなかった(児山
〔2009〕49)。また、2010年に再選された際のマニフェストでも、まちづくり指標や総合計画には触
れなかった(マニフェスト)。施策評価シートの提出依頼も、市長ではなく企画政策部長名で出され
ている。市長は施策評価結果等を踏まえて重点分野を特定することになっているが、実施計画の重
点施策の設定は市民委員会の評価や市民の満足度・重要度をあまり反映していない。なお、2010年
度から総合計画推進市民委員会が行っている事業の提案の会議には、市長が出席してあいさつを
行っている(市民委員会議事録〔2010. 8. 23、2011. 8. 29〕)。
第 2 に、まちづくり指標を活用した総合計画の策定を提案したコンサルタントは、2009年度には
職員研修の講師を務め、ロジックモデルの意義・活用方法の説明などを行ったが、行政経営システ
ムが本格運用された2010年度以降は関与しなくなった。(児山〔2009〕50、職員研修〔2009〕次第、聞き
取り)
第 3 に、総合計画・施策評価を担当している企画政策部企画課・政策推進課(2012年度から企画
政策課)は、施策評価シートの様式を独自に作成し、コンサルタントからの情報や他の自治体の先
例は参考にしなかった(同上)。また、施策評価シートの記載例では、補足指標の数値を用いて各事
業の成果を示すことを求めておらず、実施計画事業計画書の記入例でも、施策評価との関係を記入
するよう求めていない(施策評価記載例〔2010 ‒11〕、実施計画記入例〔2011〕)。
第 4 に、財政課は、予算要求の提出書類に施策評価や実施計画との関係を記入するよう求めてい
ない。なお、実施計画に掲載される新規事業については、財政課で事業コードを受けることを求め
ている(予算編成要領〔2010 ‒11〕)。
60
以上のように、市長はまちづくり指標の活用を重視しておらず、2010年度にはコンサルタントの
関与もなくなった。総合計画・施策評価の担当部門は、中間指標の数値を用いた事業の評価や施策
評価を踏まえた実施計画の策定を重視していない。これらの結果、中間指標の数値を用いて事務事
業を評価する制度はとられておらず、施策評価シートにもそのような記述はほとんどない。また、
施策評価と実施計画の関係も不明確である。財政課は、実施計画の新規事業については事業コード
を受けるよう求めているため、実施計画と予算編成の事業名は一致しているが、予算要求の提出書
類に施策評価や実施計画との関係を記入することは求めていないため、施策評価・実施計画が予算
編成に活用されたとはいえない状態である。
6 .おわりに
本稿は、愛知県愛西市、一宮市、東海市、春日井市のまちづくり指標が、行政評価を通じて予算
編成にどのように活用されたか、その原因は何かを明らかにしてきた。最後に、 4 市におけるまち
づくり指標の活用状況とその原因を要約し、今後の研究課題を述べる。
本稿で取り上げた 4 市では、まちづくり指標が行政評価(成果指標・中間指標の数値を用いた事
務事業の有効性の評価)を通じて予算編成に活用されたとはいえない。愛西市では、中間指標の数
値を参考に事務事業から長期成果までのつながりを評価し、有効性が高いと判断できる事業を予算
化する制度がとられているが、制度と実態は乖離しており、中間指標の数値の使用や有効性の高い
事業の予算化は進んでいない。一宮市では、中間指標の変化を踏まえて事務事業から長期成果への
つながりを点検する制度が導入されたが、 1 年限りで廃止された。東海市では、指標を用いて事務
事業の有効性を評価する制度は導入されていない。春日井市では、個々の事務事業を評価する制度
はとられていない。
このような活用状況に影響を与えた要因としては、以下のことが挙げられる。
第 1 に、市長の意向である。愛西市では、有効性評価の依頼が市長名で出されており、中間指標
の数値を用いた事務事業の有効性の評価の制度が継続している。他方、一宮市では、有効性評価の
依頼が企画部長名で出されており、愛西市と同様の制度が 1 年限りで廃止された。なお、東海市で
は、市長の初当選時の公約に基づいてまちづくり指標が作成されたが、その後の選挙ではまちづく
り指標の活用は大きな争点にならなかった。また、春日井市では、市長はまちづくり指標を活用す
る意向を示さなかった。
第 2 に、コンサルタントによる情報提供である。愛西市と一宮市では、まちづくり指標を骨格と
した総合計画の策定やロジックモデルに関する情報を提供したコンサルタントが、行政評価の導入
にも関与した。他方、東海市では、行政評価は別のコンサルタントが受託し、春日井市では、行政
評価の導入にコンサルタントは関わらなかった。なお、愛西市と一宮市でも、コンサルタントは中
間指標の数値を用いた事務事業の有効性の評価の演習は行わず、2010∼11年度からは関与が見られ
61 なくなった。
第 3 に、総合計画・行政評価の担当部門の意向である。愛西市の評価担当部門は中間指標の数値
の使用を重視しておらず、一宮市の企画・評価担当部門は事業の提案の方を重視している。また、
東海市の企画・評価担当部門は中間指標の管理は困難であると考えており、春日井市の同部門は事
務事業ではなく単位施策ごとの評価の様式を作成した。
第 4 に、事業を担当する各部門の意向である。愛西市の事業担当部門は中間指標の数値をあまり
記入していない。また、一宮市では、中間指標の数値を用いた有効性評価に事業担当部門が不満を
表明した結果、この制度が廃止された。
第 5 に、予算担当部門の意向である。愛西市と一宮市では、行政評価の事業名と予算編成の事業
名が一致しておらず、予算担当部門は両者の対応関係を把握していない。東海市や春日井市でも、
予算担当部門は予算要求の提出書類に行政評価との関係を記入するよう求めていない。
これまでに、いくつかの自治体が、まちづくり指標を作成し、それを骨格として総合計画を策定
してきた。また、ロジックモデルを作成することにより、行政の活動(事務事業)から生活課題の
改善までの因果関係を論理的に示した自治体もある。しかし、成果指標・中間指標の数値を用い
て、事務事業が実際に生活課題の改善につながっているかどうかを判断し、有効性の高い事務事業
に重点的に予算を配分している自治体はなかった。今後は、まちづくり指標を作成した自治体に限
らず、政策・施策レベルの目標を設定し、それに対する事務事業の実際の有効性を評価し、その結
果を予算に反映している自治体の事例を分析することが課題である。
注
( 1 )総合計画は、 5 つの理念、19の政策、53の施策、103の単位施策、約1,000の事務事業からなる(施策達成
度報告書〔2011〕4 )。
「施策評価」という言葉は、狭義(53の施策の評価)と広義(施策・単位施策・事務
事業の評価の総称)で用いられているが、本稿では、前者を「施策の評価」、後者を「施策評価」と表記する。
( 2 )東海市の事務事業評価のシステムは最新版ではなく、誤解を招くおそれがあるため、記入例や様式など
の資料は提供できないとの連絡がコンサルタントからあったとのことである。なお、このコンサルタント
(一般社団法人)は、総合計画の策定を受託したコンサルタント(NPO 法人)とは別である。(資料提供)
( 3 )2007年度は重点施策・重点指標、08年度は重点施策・最重点施策・重点指標、09、10年度は重点施策・
最重点施策、11年度は重点施策が決定された。(重点施策・指標〔2007〕
、重点施策一覧〔2008‒11〕、重点
指標〔2008〕)
( 4 )ロジックモデルの活用の制度が最も進んだ2008年度の実態の分析も試みたが、実施計画事業計画書や歳
出予算見積書が廃棄されていたため(資料提供)、分析できなかった。
( 5 )14の重点施策のうち、2008年度の最重点施策と重なっていたものを 2 つ、行政による達成状況評価が 5
段階で最も低かったものを 1 つ、同じく下から 2 段階目だった施策のうち市民委員会による評価が最も低
い段階だったものを 3 つ選定した(重点施策一覧〔2011〕、最重点施策一覧〔2008〕
、施策評価一覧〔2011〕
、
生活課題評価書〔2011〕)
。
( 6 ) 6 つの重点施策に関する17の単位施策評価表のうち、成果指標の数値の増減分析と単位施策の評価の欄
62
に事業の成果が記入されているものは、それぞれ 3 と 5 である。
(単位施策評価表〔2011〕
)
。
( 7 )単位施策評価表の改革方向性の欄には事業の方向性とその事由を記入することになっており、17の評価
表のうち 7 つには新規(6)
・見直し(1)
の事業が記入されているが、実施計画事業計画書に記載されたものは
ない。なお、単位施策評価表の同欄には次年度への取り組み方針を記入することになっており、17の評価
表のすべてに記入されているが、実施計画事業計画書の中に関連する記述が見られるものは 4 つであり、
その内容も評価に基づいて実施計画事業を提案したといえるほどのものではない。例えば、単位施策評価
表に「公園整備事業の推進」
「適正な公園・街路樹管理の推進」
「加木屋緑地の整備保全」と記述され、実施
計画事業の名称が「公園事業」
「加木屋緑地整備事業」であるという程度の関連である。
(単位施策評価表
〔2011〕、実施計画事業計画書〔2011〕)
( 8 )例えば、
「病気、障害などの予防体制が充実していると思う人の割合が増える」などである。
(実施計画事
業計画書〔2011〕)
( 9 ) 6 つの施策に関する15の予算事業(実施計画事業計画書が作成されたもの)のうち、実施計画事業と名
称がほぼ一致しているものは11、部分的に一致しているものは 3 、一致していないものは 1 である。なお、
1 つの実施計画事業が複数の予算事業・細事業に分かれている場合もある。
(予算見積書〔2011〕、実施計
画事業計画書〔2011〕)
(10) 6 つの施策に関する12の実施計画事業のうち、実施計画の予算額に対する査定後の予算額の増減率が
10%未満のものが 8 、10∼20%未満のものが 2 、20%以上のものが 2 であり、増減率の加重平均は 4 %で
ある。(実施計画予算要求比較表〔2011〕)
(11)15の予算事業に関する提出書類のうち、単位施策評価表の中に関連する記述が見られるものは 5 つであ
り、その内容も評価に基づいて予算事業を提案したといえるほどのものではない。例えば、単位施策評価
表の「次年度への取り組み方針」の欄に「加木屋緑地の整備保全」
「適正な公園・街路樹管理の推進」
「公園
整備事業の推進」
「適正な公園管理の推進」と記述され、予算事業の名称が「加木屋緑地」
「緑化推進一般経費」
「公園建設事業費」であるという程度の関連である。また、予算要求の提出書類に予算額の増減の理由が記
入されているものがあるが( 9 事業)
、施策評価や実施計画への言及は見られない。予算額の増減の理由と
しては、事業の対象の増減(国民健康保険の被保険者の増加)
、費用の増減(同じく医療費の増加)などが
記載されている。(予算見積書〔2011〕、単位施策評価表〔2011〕)
(12)総合計画(基本計画)は、 6 つの施策の大綱、48の基本施策からなる。
(総合計画24‒6 )
(13)総合計画の開始前の2007年度までは、事務事業の総点検・改善指導、改善状況の評価を行っていた。
(行
政評価)
(14)施策評価シートに記入される市民満足度の調査は隔年実施であり、前年度に調査を実施しなかった年は
市民委員会による評価も行わないことになっている。2011年度は市民委員会の評価が行われなかったため
(市民委員会議事録〔2011. 5. 12〕)
、ここでの分析は2010年度を対象にする。なお、2012年度は基本計画の
見直しを行うため市民委員会は活動を休止した(同〔2012. 3. 22〕)
。
(15)最初の 6 つは満足度が低く重要度が高かったものである。政策推進課の担当者は、総合計画推進市民委
員会において、満足度が低く重要度が高い基本施策に重点的な対応が望まれると説明した(市民委員会議
事録〔2010. 4. 26〕)
。そこで、満足度が平均未満で重要度が平均以上の生活課題のうち、満足度が下位10位
以内または重要度が上位10位以内のものを選定した。ただし、主担当課が重複しているものを除外した。
また、最後の 1 つ(以下では「産業」と略記する)は、2010年度策定の実施計画の重点施策に設定され、
その事業の多くが実施と判定されたため、追加で選定した(満足度は42位、重要度は35位)
。
(市民委員会
施策評価シート〔2011.5.12〕
、実施計画判定結果〔2010〕、実施計画判定結果一覧〔2010〕
)
(16) 7 つの基本施策に関する81の事業のうち、施策評価シートの達成度の欄で言及されているものは 4 つで
ある。(ロジックモデル〔2010〕、施策評価シート〔2010〕)
63 (17)不登校の相談件数(補足指標)が増加しているのに対し、不登校の児童生徒数(成果指標)は減少して
いるので、相談の成果が出ていると記述されている例が 1 つある。(施策評価シート)
(18)産業は重点施策に設定され、その 9 つの新規・拡充事業が「概ね計画内容に基づき実施」「指示事項を踏
まえ、概ね計画内容に基づき実施」と判定された。施策評価シートの「課題」の欄には、新規事業者数の
向上や廃業・倒産事業者数の減少に向けた取り組みが必要であることが記述され、
「今後の考え方」の欄には、
産業振興アクションプランに基づき、企業誘致、企業の育成・活動支援、創業支援を総合的に推進するため、
各種支援策に取り組むとともに、企業からのニーズ把握や相談対応に努めつつ、既存事業の見直し等も図っ
ていくことが記述されている。他方、事業計画書の「背景・理由」
「目的」の欄にも、優良企業の立地、企
業誘致、企業の競争力向上、優れた事業環境の提供、人材育成の支援、産業振興アクションプランに基づ
くなどの記述がある。このように、両者には共通する記述があるが、施策評価シートの記述に関連する事
業は他にも多数あり(例えば、創業支援利子補給)
、その中からこれらの事業が新規・拡充事業として提出
され、実施の判定を受けた理由は不明である。(施策評価シート〔2010〕
、実施計画事業計画書〔2010〕、ロジッ
クモデル〔2010 ‒11〕
)。
(19) 7 つの生活課題に関する15の予算事業(予算見積書を入手したもの)のうち、実施の判定を受けた新規・
拡充事業は 7 つあり、いずれも実施計画事業の名称と完全に一致している。(予算見積書〔2010〕
、実施計
画判定結果〔2010〕)
(20)2010年度に重点施策に設定された産業に関する40の事業のうち、2011年度の予算額が10年度の予算額よ
りも増加したものは11(新規 1 を含む)、変わらなかったものは11、減少したものは18(廃止 6 を含む)であ
り、事業費の合計は865百万円から541百万円に324百万円(37%)減少した。計画策定や緊急雇用対策の終
了に伴うものを除いても、837百万円から541百万円に297百万円(35%)減少した。減少の内訳は、工場新
増設・移転事業(旧 企業立地等支援事業)が471百万円から224百万円に246百万円減少、企業立地奨励事
業が118百万円から83百万円に35百万円減少などである。これらはいずれも実施の判定を受けた新規・拡充
事業である。実施計画事業計画書、予算見積書、施策評価シートからは、これらの事業の予算額が減少し
た理由は不明である。他方、重点施策に設定されなかった 6 つの施策に関する36の事業のうち、2011年度
の予算額が前年度よりも増加したものは合計12(新規 2 を含む)
、変わらなかったものは 9 、減少したもの
は15(廃止 4 を含む)であり、事業費の合計は627百万円から595百万円に32百万円( 5 %)減少した。産業
と同様に、工事や緊急雇用対策の終了に伴うもの、既存の活動内容をロジックモデルに新たに掲載したと
思われるものを除くと、390百万円から469百万円に79百万円(20%)増加した。増加の内訳は、市道・側
溝整備等が161百万円から245百万円に84百万円増加などである。(ロジックモデル〔2010 ‒11〕、実施計画判
定結果〔2010〕、予算見積書〔2010〕
)
参照資料
1 .二次資料
(1)雑誌記事
児山正史〔2008〕
「愛知県東海市のまちづくり指標(∼2007年 9 月)
:自治体行政における社会指標型ベンチマー
キングの活用」、
『人文社会論叢(社会科学篇)』19号、51‒ 76頁。
―〔2009〕「三重県伊賀市・愛知県愛西市・春日井市のまちづくり指標と総合計画:自治体行政における社会
指標型ベンチマーキングの活用」、
『人文社会論叢(社会科学篇)
』22号、35 ‒ 68頁。
(2)新聞記事
各新聞社のデータベースから入手した
朝日新聞〔2005. 4. 18〕
「合併巡り 2 氏が舌戦 太田川駅周辺整備も争点 東海市長選告示」
。
―〔2009. 4. 20〕
「市街地整備『今こそ』 東海市長に無投票で鈴木氏 3 選」
。
64
読売新聞〔2005. 4. 25〕
「東海市長選 再選の鈴木氏、合併実現に意欲」
。
―〔2009. 4. 20〕
「東海市長に鈴木氏 未婚率減に数値目標 子育て支援にも意欲」
。
2 .自治体の資料
ホームページの資料は各自治体のホームページから入手した。それ以外の文書は各自治体の情報公開条例等
に基づいて請求、入手した。年は作成年度を示した。文書名の年等を省略したものもある。
(1)東海市
聞き取り:2013年 3 月 5 日、企画政策課職員からの電話による聞き取り。
最重点施策一覧:「最重点施策一覧」。
最重点施策改善会議:「最重点施策改善策検討会議等 日程表」。
施策達成度報告書:「第 5 次東海市総合計画 施策(まちづくり)達成度報告書」
(ホームページ)
。
施策評価一覧:「施策の進み具合一覧表」
(ホームページ)
。
実施計画依頼〔2007 ‒ 08〕
:企画部長「第 5 次総合計画実施計画策定資料について(照会)
」
。
―〔2009 ‒11〕
:企画部長「第 5 次総合計画実施計画策定について(通知)
」
。
実施計画事業計画書:「実施計画事業計画書」。
実施計画要領:「第 5 次総合計画実施計画の策定について」。
実施計画予算要求比較表:「実施計画予算要求比較表」。
重点項目〔2007‒ 09〕
:企画部長、総務部長「重点項目の設定について(通知)
」
。
―〔2010〕企画部長、総務部長「重点施策及び最重点施策の設定について(通知)
」
。
―〔2011〕企画部長「重点施策の設定について(通知)」
。
重点施策一覧〔2008〕
:「重点施策」。
―〔2009 ‒11〕
:
「重点施策一覧」。
重点施策改善記入例:「重点施策改善シート」。
重点施策改善要領:「提出資料の作成要領」。
重点施策・指標:「重点施策及び重点指標」。
重点指標:「重点指標一覧」。
職員説明会概要:「ロジックモデル・施策評価・実施計画に関する職員説明会の概要」
。
資料提供:東海市長 鈴木淳雄「施策評価システム等に関する資料提供について(送付)
」。
生活課題評価書:東海市まちづくり市民委員会「生活課題の評価書」
(ホームページ)
。
大会結果報告:「東海市まちづくり大会 結果報告」
(ホームページ)
。
単位施策評価依頼〔2007〕
:企画部長「第 5 次総合計画の成果指標の数値取得及び施策評価について(依頼)
」
。
――〔2008 ‒11〕
:企画部長「第 5 次総合計画の単位施策評価の実施について(依頼)
」。
単位施策評価表:「単位施策評価表(A表)」。
予算編成方針:「予算編成方針」。
予算見積書:「歳出予算見積書」。
(2)春日井市
聞き取り:2012年 9 月27日、企画政策課職員からの電話による聞き取り。
行政評価:「春日井市行政評価システム」
(ホームページ)。
施策評価依頼:企画政策部長「施策評価シートの提出について(依頼)
」。
施策評価記載例:「施策評価シート 記載例」。
施策評価シート:「施策評価シート」。
施策評価要領:「春日井市施策評価実施要領」。
実施計画事業計画書:「実施計画 事業計画書」。
65 実施計画依頼:企画政策部長「実施計画事業計画書の提出について(依頼)
」
。
実施計画記入例:「実施計画 事業計画書(記入例)」
。
実施計画判定結果:企画課長「実施計画事業計画書提出事業の判定結果について(通知)
」
。
実施計画判定結果一覧:「実施計画判定結果一覧(新規・拡充事業)
」
。
市民委員会議事録:「春日井市総合計画推進市民委員会議事録」
(ホームページ)
。
市民委員会事業提案〔2010〕
:春日井市総合計画推進市民委員会「施策評価と事業提案」
(ホームページ)
。
―〔2011〕
:「春日井市総合計画推進市民委員会による事業提案」
(ホームページ)
。
市民委員会施策評価:「市民委員会による施策評価結果一覧」
(ホームページ)
。
市民委員会施策評価シート:「施策評価シート」
(ホームページ)
。
市民委員会市民満足度:「市民満足度調査報告書」
(ホームページ)
。
職員研修〔2009〕次第:「行政経営システム運用に係る説明会」。
総合計画:『第五次春日井市総合計画』
(ホームページ)。
マニフェスト:「市長マニフェスト」
(ホームページ)。
予算編成方針:「予算の編成方針について」
(ホームページ)
。
予算編成要領:「予算編成事務要領」。
予算見積書:「歳出予算見積総括表」。
ロジックモデル:「総合計画検証シート」。
ロジックモデル点検依頼:企画政策部長「総合計画検証シートの点検について(依頼)
」
。
66
【論 文】
岡山県倉敷市のまちづくり指標と総合計画策定
─自治体行政における社会指標型ベンチマーキングの活用─
児 山 正 史
1 .はじめに
2 .経緯
3 .活用状況
4 .原因
5 .おわりに
1 .はじめに
本稿は、岡山県倉敷市のまちづくり指標(1)が、倉敷市第 6 次総合計画(計画期間2011∼20年度)
の策定においてどのように活用されたか、その原因は何かを明らかにする。
まちづくり指標を総合計画の策定に活用した事例のうち、青森県、岩手県滝沢村、愛知県東海
市、一宮市、愛西市、春日井市、三重県伊賀市、岐阜県池田町については、これまでに研究を行っ
た(児山〔2012〕など)。しかし、倉敷市についてはまだ研究が行われていない。
本稿は、これまでに取り上げた事例と比較しながら、倉敷市の事例を分析することにより、まち
づくり指標の行政での活用に関する知見を確認、追加することを目的とする。
以下、まちづくり指標の作成と総合計画の策定の経緯を概観した上で、総合計画策定におけるま
ちづくり指標の活用状況とその原因を分析する。
2 .経緯
倉敷市では、第 5 次総合計画(2001∼10年度)が期間満了を迎えるにあたり、第 6 次総合計画が
策定された(総合計画 8 )。第 5 次総合計画の後期基本計画(2006∼10年度)では、指標を取り入れて
いたが、指標・目標値は関係部署が決めていたため、企画部門は、第 6 次総合計画では初期段階か
ら市民に携わってもらいたいと考えた。そこで、情報を収集したところ、東海地方でまちづくり指
標を活用した総合計画の策定に関わった NPO のことを知り、担当者が話を聞くなどした(聞き取り)。
67 2009年 3 月には、この NPO の代表理事が職員研修会で講演し、まちづくり指標の作成の手順、ロ
ジックモデル、東海市の事例などについて説明した( 8 月にも未受講者・新任職員を対象とする同
(総合計画143、職員研修〔2009. 3. 19〕レジュメ)
様の研修会が開催された)
。
2009年 6 月の広報誌で市民インタビューの参加者が募集され、 7 月に 7 グループ58人の市民への
インタビューが実施された。インタビューでの発言は950の生活課題に分類され、さらに69の生活
課題に整理された。 8 月には庁内の総合計画策定研究班(2)員によるワークショップが開催され、
69の生活課題が11の理念(めざす姿・方向性)に分類・整理された。(総合計画143、アンケート調査票 2 )
9 月には、無作為抽出された16歳以上の市民6,000人と市民モニター395人へのアンケート調査が
実施され(回収率42.8%)
、11の理念を実現するうえでの生活課題の重要度、理念の優先度、生活
課題の重要度が尋ねられた(総合計画143、アンケート調査票 2 )。10月に庁内の策定委員会でアンケー
ト結果が報告され、優先度が高かった 8 つの理念と、それらを実現するうえでの重要度が高かった
37の生活課題が採用された(議会に関するものは不採用)。また、11月には追加すべき行政課題が
検討された(策定委員会〔2009. 10. 5〕シナリオ、アンケート結果マトリックス、策定幹事会〔2009. 11. 11〕行政
課題)
。
10月には総合計画策定市民委員会(3)の第 1 回全体会が開催され、NPO の代表理事らがまちづく
り指標の作成方法、総合計画の策定方法、東海市・一宮市の事例などについて説明した。市民委員
会は2010年 1 月にかけて指標を作成し、 2 ∼ 3 月に各指標の実績値を把握するための各種アンケー
ト調査が実施された。 4 月には、目標値・役割分担値を設定するためのアンケート調査が市民委員
会委員に対して実施され、市民委員会が指標・めざそう値・役割分担値を提案した。(総合計画144 ‒
6、市民委員会〔2009. 10. 4〕レジュメ、同 総合計画策定、同 まちづくり指標、同 資料 5 ∼ 8 )
。
5 ∼ 7 月には、総合計画策定研究班員を中心に、各担当部局において、指標・めざそう値・役割
分担値の検証、生活課題・行政課題に対応する施策、現状と課題、基本方針の検討が行われた。
(策定研究班員説明会〔2010. 5. 27〕作業)
7 月には総合計画審議会に基本構想の素案が諮問され、 8 月以降の分科会に施策ごとの計画(基
本方針、現状と課題、まちづくり指標など)が追加諮問された。11月には審議会が答申し、議会に
基本構想が上程され、12月に議会が基本構想を議決した。また、2011年 2 月には「構想実現計画
2011」が庁議決定された。(総合計画142、策定委員会〔2010. 8. 16〕シナリオ 1 )
3 .活用状況
倉敷市の総合計画は、
「基本構想」
(計画期間2011∼20年度)
、
「基本構想の推進」
、
「構想実現計画」
( 4 年間の計画を毎年度見直し)の 3 つで構成されている。(総合計画 9 )
基本構想は、めざす将来像を示すとともに、まちづくりの理念、めざすまちの姿を明らかにし、
それらを実現するための施策・基本方針を掲げている。めざす将来像(「自然の恵みとひとの豊か
68
さで個性きらめく倉敷」
)は、倉敷市が豊かな自然環境を有することや地域社会での助け合いが大
切であることを根拠としており、まちづくり指標との関係は述べられていない。他方、まちづくり
の理念は、市民アンケートで優先度が高かった 8 つが採用された。また、めざすまちの姿は、市民
アンケートで重要度が高かった37の生活課題を36にまとめたものと(4)、行政が追加した11の課題の
合計47である。めざすまちの姿に対応して、施策と基本方針も示されている。(同上 9, 16 ‒ 21, 24 ‒ 5,
28 ‒131、アンケート結果マトリックス)
基本構想の推進(5)は、めざすまちの姿の実現に向けた達成度を測るために、指標・目標値を設
定し、市民・団体・企業・行政などに期待される役割の大きさを示している。ここには、指標、現
状値、めざそう値( 5 年後、10年後)
、役割分担の比率を示すグラフが記載されている。市民委員
会が提案した154の指標のうち、140(91%)がそのまま採用された。また、同じく132の目標値の
うち、 5 年後は109(83%)、10年後は108(82%)がそのまま採用された。目標値の変更のほとんど
は、直近の現状値の追加・変更に伴うものである。なお、市民委員会は役割分担の数値も提案した
が、総合計画には数値のないグラフが記載されている。(総合計画 9, 28 ‒131、市民委員会提案)
構想実現計画(6)は、めざすまちの姿の実現に向け、各年度に実施する具体的な事業を取りまと
めた中期的視点を持つ計画である。2011年 3 月に公表された計画には、施策別プランや市長公約関
連プランが掲載されている。施策別プランは、47の施策と基本方針に沿って事業を関連づけること
で、めざすまちの姿の実現に向けた具体的な手段を明らかにするものであり、施策を推進する主な
事業が記載されている。また、47の施策の中から10の施策を重点分野に位置づけ、2011年度に取り
組むことが不可欠な事業を選択し、市長公約関連事業などとともに重点事業としている。重点分野
は、まちづくり指標の実績値や、施策に対する市民の満足度・重要度を問うアンケート調査(2010
年 2 月実施)などを参考に、施策評価を行った結果を踏まえたものである(7)。また、重点分野にお
ける重点事業は、各課が該当する事業を財政課に提出し、財政課が判断した。(総合計画 9、構想実現
計画〔2011〕2, 4 ‒ 60、聞き取り)
なお、倉敷市ではロジックモデルは作成されなかった。また、事務事業評価は、2010年度以降、
特定のテーマ(イベント事業の見直し、公共施設開館時間の検証)に該当するものを対象としてお
り、めざすまちの姿の実現に対する事務事業の有効性を評価する制度は導入されていない。(同上、
行政評価〔2011〕1 )
倉敷市のまちづくり指標は、次のように活用されたといえる。
第 1 に、まちづくり指標は総合計画(基本構想、基本構想の推進)の骨格として活用された。ま
ちづくりの理念は市民アンケートで上位だったものが採用され、めざすまちの姿は市民アンケート
に基づく36の生活課題に11の行政課題を加えたものである。また、47のめざすまちの姿に対応する
施策や基本方針が示されている。基本構想の推進には、市民委員会が提案した指標、めざそう値、
役割分担の割合が記載されている。ただし、めざす将来像はまちづくり指標とは無関係であり、生
活課題や指標・めざそう値の一部は削除・追加・変更され、役割分担の割合は数値のないグラフで
69 示されている。
第 2 に、倉敷市ではロジックモデルは作成されず、事務事業評価は特定のテーマに該当するもの
を対象としている。そのため、めざすまちの姿とそれを実現するための事業との論理的な関係や実
際の関係は不明確である。
4 .原因
次に、倉敷市のまちづくり指標が上述のように活用された原因を、これまでの研究で扱った事例
と比較しながら分析する。これまでの事例では、まちづくり指標の活用に影響を与えた最も重要な
要因は、首長の意向とコンサルタントによる情報提供だった。また、これらの他にも、時間的余
裕、先例の存在、企画部門・実施部門・審議会の意向が影響を与えることもあった(児山〔2012〕
28 ‒ 30)。以下、倉敷市におけるこれらの要因の影響を分析する。
第 1 に、市長は、まちづくり指標を作成・活用する強い意向を示した形跡は見られない。まちづ
くり指標の作成は、企画部門の意向で始まった。指標・めざそう値・役割分担値の案を作成した市
民委員会には、市長は出席しなかった(市民委員会〔2009. 10. 4〕議事録、同〔2010. 4. 25〕会議次第)。基本
構想の将来像は市長自身が考え掲げたものであり、総合計画審議会では市長自らこれを掲げた思い
を語ったが(策定委員会〔2010. 8. 16〕シナリオ 3 、審議会〔2010. 7. 30〕議事録 5 ‒ 6 )、将来像は倉敷市の豊
かな自然環境や地域社会での助け合いの大切さを根拠としており、まちづくり指標との関係は述べ
られていない。
第 2 に、東海地方と同じコンサルタントが、まちづくり指標の作成やそれを活用した総合計画の
策定に関する情報を提供した。コンサルタントは、2009年 3 月と 8 月の職員研修会で、まちづくり
指標の作成の手順や東海市の事例などについて説明し、10月と翌年 4 月の市民委員会でも、まちづ
くり指標の作成方法などについて説明した。また、市民インタビューや市民アンケートにも関わっ
た(市民委員会〔2010. 4. 25〕行政経営、聞き取り)。ただし、コンサルタントは職員研修会でロジックモ
デルについても説明したが、ロジックモデルは作成されなかった。
第 3 に、倉敷市では、まちづくり指標の作成の開始(2009年 7 月の市民インタビュー)から総合
計画の決定(2010年12月の基本構想の議決)までの期間は約 1 年半だった。総合計画の策定時にロ
ジックモデルを作成した自治体と比較すると、春日井市は 1 年、伊賀市は 1 年半、愛西市は 2 年、
一宮市は 2 年半、池田町は 4 年だった。倉敷市の 1 年半という期間は比較的短かったが、ロジック
モデルの作成に短すぎたとはいえない。また、東海市では総合計画の策定後にロジックモデルを作
成した(児山〔2012〕30)。
第 4 に、倉敷市にはまちづくり指標を作成・活用した多数の先例があった。職員研修会や市民委
員会では、東海市・一宮市・愛西市のまちづくり指標などが配布された(職員研修〔2009. 3. 19〕資料2、
市民委員会〔2009. 10. 4〕資料 5 ∼ 8 )。ただし、倉敷市にはロジックモデルを作成した先例も多くあった。
70
第 5 に、企画部門は、まちづくり指標の作成・活用を主導した。まちづくり指標の作成は、企画
部門が、第 6 次総合計画を策定する際に、指標・目標値を市民参加で設定したいと考えて情報収集
したことから始まった。また、行政課題の検討を各局に依頼した際には、生活課題で読み込めるも
のは極力読み込み、行政課題の追加は最小限にしたいと説明した(策定幹事会〔2009. 11. 11〕説明要旨)。
ただし、ロジックモデルについては、その考え方や内容は良いという議論はあったが、実現するた
めには職員の能力の向上を図る必要があり、第 6 次総合計画では難しいという結論になった(聞き
取り)
。
最後に、実施部門や審議会は、まちづくり指標の作成やそれを活用した総合計画の策定に影響を
与えた形跡はない。実施部門は、行政課題の検討や新たな指標の設定、めざそう値・役割分担値の
修正の機会を与えられ(策定研究班員説明会〔2010. 5. 27〕作業)、審議会の委員もまちづくり指標に関す
る意見を出したが(審議会〔2010. 11. 5〕意見整理票)、企画部門や市民委員会の案がおおむね採用され
た。
以上のように、倉敷市では、企画部門が主導し、コンサルタントによる情報提供や多数の先例が
あったことから、まちづくり指標が総合計画の骨格として活用された。しかし、コンサルタントに
よる情報提供や多数の先例、時間的余裕があったものの、企画部門の判断により、ロジックモデル
は作成されなかった。なお、市長、実施部門、審議会は、まちづくり指標の活用に影響を与えた形
跡は見られない。
5 .おわりに
本稿は、倉敷市のまちづくり指標が総合計画の策定においてどのように活用されたか、その原因
は何かを明らかにしてきた。最後に、本稿の分析を通じて、まちづくり指標の行政での活用に関し
てどのような知見が確認、追加されたかを整理する。
まず、倉敷市の事例から新たに追加された知見は、首長(またはそれに次ぐ高い地位の職員)の
意向に基づかなくても、まちづくり指標が総合計画の骨格として活用されることがあるということ
である。
これまでの研究で扱った事例のうち、まちづくり指標が総合計画の骨格として活用された 3 市
(東海市、一宮市、愛西市)では、市長の強い意向に基づいてまちづくり指標が作成・活用された。
また、同様に活用された池田町では、町長に次ぐ高い地位の職員(総務部長)が主導し、町長も理
解を示した。他方、企画部門やコンサルタントが主導し、市長がまちづくり指標を作成・活用する
意向を示さなかった 2 市(伊賀市、春日井市)では、まちづくり指標は途中まで、または半分程
度、活用された。(児山〔2012〕28 ‒ 30、同〔2011〕61)
倉敷市では、伊賀市・春日井市と同様に、市長はまちづくり指標を作成・活用する意向を示さな
かったが、まちづくり指標は総合計画の骨格として活用された。その原因は、他の要因が不利に作
71 用しなかったことであるといえる。伊賀市は、まちづくり指標の作成開始から総合計画の決定まで
の期間が約 1 年半と比較的短く、また、東海地方以西でまちづくり指標を作成した 2 番目の事例
だった。春日井市では、審議会の委員がまちづくり指標とは別の指標を設定すべきであると主張し
た(同〔2012〕24, 30)。他方、倉敷市は、まちづくり指標の作成から総合計画の決定までの期間は伊
賀市と同様に約 1 年半だったが、東海地方以西の 7 番目の事例であり、審議会はほとんど影響を与
えなかった。
倉敷市の事例からいえることは、首長(またはそれに次ぐ高い地位の職員)の意向に基づかなく
ても、企画部門の意向とコンサルタントによる情報提供があり、先例の少なさや審議会の反対など
の不利な要因がなければ、まちづくり指標を総合計画の骨格として活用することが可能であるとい
うことである。
次に、倉敷市の事例から確認された知見は、首長の強い意向に基づかなければ、まちづくり指標
の活用は大きくは進まないということである。
企画部門が主導した伊賀市では、ロジックモデルが作成されたものの、不十分な点が多く、ほと
んど活用されなかった。コンサルタントが主導した春日井市では、ロジックモデルが作成され、実
施計画の策定に活用されたが、実施計画と予算の関係は不明確だった。町長に次ぐ高い地位の職員
が主導した池田町でも、ロジックモデルが作成されたが、実施計画、行政評価、予算編成での活用
は課題として残されていた(同上28)。そして、企画部門が主導した倉敷市では、ロジックモデルは
作成されなかった。これらの自治体では、首長はまちづくり指標を作成・活用する強い意向を示し
ていなかった。
注
(1) 本稿では、グループインタビューとアンケート調査に基づいて選定された理念と生活課題(めざすまちの
姿)、生活課題の状態を表す成果指標(狭義のまちづくり指標)、成果指標の現状値と目標値(めざそう値)
、
生活課題の改善に寄与する各主体の役割分担値を「まちづくり指標」と総称する。なお、これまでの研究
で述べたことはなるべく繰り返さない。
(2) 庁内には策定委員会、策定幹事会、策定研究班が設置された。策定委員会は、計画策定に係る重要事項
の調査・審議に関することなどをつかさどり、委員長・副委員長は副市長、委員は局長などが務め、事務
局は企画経営室内に置かれた。策定幹事会は、策定委員会に設置され、議長は企画財政局長、幹事は部長
などが務めた。策定研究班は、幹事会の円滑な運営を図るため設置され、課長級以下の者のうちから各局
の長が推薦する者により構成された。(総合計画135, 156 ‒ 7)
(3) 総合計画策定市民委員会は、要綱に基づいて設置され、指標・目標値・役割分担値を設定するとされた(総
合計画154)。
(4) 2 つが削除され、 1 つが追加された。他に、理念上の位置づけの変更( 1 つ)、内容の一部変更( 3 つ)
もあった。(アンケート結果マトリックス、総合計画18 ‒ 9)
(5) 倉敷市の「基本構想の推進」は、東海地方の自治体で「基本計画」と呼ばれているものにほぼ相当する。
ただし、東海地方の基本計画には具体的な事業も掲載されている。
72
(6) 倉敷市の「構想実現計画」は、東海地方の自治体で「実施計画」と呼ばれているものに相当する。
(7) 第 5 次総合計画の施策の満足度・重要度を尋ねるアンケート調査を行い、それに基づいて重点分野施策
を選定し、それらを第 6 次総合計画の施策に置き換えた。(行政評価〔2010〕5‒11)
参照資料
1 .二次資料
児山正史〔2011〕
「岐阜県池田町のまちづくり指標と総合計画策定:自治体行政における社会指標型ベンチマー
キングの活用」、
『人文社会論叢(社会科学篇)』25号、53‒ 65頁。
―〔2012〕
「政策評価の手法としてのベンチマーキングの活用:政策マーケティングによるまちづくり指標」
『評
、
価クォータリー』21号、22‒34頁。
2 .倉敷市の資料
ホームページの資料は倉敷市のホームページから入手した。それ以外の文書は任意で提供を受けた。議事録
は下記からは省略した。
アンケート結果マトリックス:「市民アンケート結果による生活課題マトリックス」
。
アンケート調査票:「
『倉敷市第六次総合計画』策定に向けたアンケート調査のお願い」
(ホームページ)
。
聞き取り:2012年 7 月 2 日、倉敷市企画経営室職員からの電話による聞き取り。
行政評価〔2010〕
:倉敷市企画財政局「平成22年度 行政評価 結果報告書」
(ホームページ)
。
―〔2011〕倉敷市企画財政局「平成23年度 行政評価 結果報告書」
(ホームページ)
。
構想実現計画〔2011〕
:倉敷市「倉敷市第六次総合計画 構想実現計画2011」
(ホームページ)
。
策定委員会〔2010. 8. 16〕シナリオ:「第 4 回総合計画策定委員会シナリオ(三宅副市長)
」
。
策定幹事会〔2009. 11. 11〕行政課題:企画経営室「追加すべき『行政課題』の検討について」。
―説明要旨:「第 3 回総合計画策定幹事会説明要旨」。
策定研究班員説明会〔2010. 5. 27〕作業:総合計画策定委員会委員長 三宅英邦「第六次総合計画策定にかかる平
成22年度作業について」。
市民委員会〔2009. 10. 4〕資料 5 ∼ 8 :
「資料 5 ∼ 8 」
(ホームページ)
。
―総合計画策定:「第六次総合計画策定の流れ」
(ホームページ)
。
―まちづくり指標:「まちづくり指標について」
(ホームページ)
。
―レジュメ:「政策マーケティングに基づく市民参加と総合計画の新しい考え方」
(ホームページ)
。
―〔2010. 4. 25〕会議次第:「会議次第」
(ホームページ)
。
―行政経営:「行政経営から地域経営へ:指標と役割分担値の活用」
(ホームページ)
。
市民委員会提案:倉敷市総合計画策定市民委員会「まちづくり指標、めざそう値、役割分担値について(提案)」
(ホームページ)。
職員研修〔2009. 3. 19〕レジュメ:「総合計画の新しい考え方と協働型マネジメント・サイクル」
。
―資料 2 :「資料 2 」。
審議会〔2010. 11. 5〕意見整理票:「計画素案に対する意見整理票」
(ホームページ)
。
総合計画:『倉敷市第六次総合計画』
(ホームページ)。
73 【論 文】
青柳会計学から見た粉飾
柴 田 英 樹
目 次
Ⅰ.問題提起
Ⅱ.青柳会計学の遺産
Ⅲ.会計史研究
Ⅳ.会計士会計学
Ⅵ.記録・慣習・判断の総合的所産
Ⅶ.現在の監査と今後の監査の展開
キーワード:会計士会計学、利益原因説、利益結果説、コンベンション、会計言語説、マッケソ
ン・ロビンス会社事件、性悪説、監査手続の拡張、発語内行為
Ⅰ.問題提起
青柳文司は長年横浜市立大学で教鞭をとっていた会計学者である。彼の専門は財務会計論である
が、親友である公認会計士の大塚次郎(監査法人双研社の創業者であり、長年横浜市立大学で税務
会計論の講師を務めていた)との親交もあり、監査論にも造詣が深い。ところが、監査論の著作は
ほとんどない。あるのは横浜市立大学会計学研究室から執筆している監査辞典だけである。この中
には青柳文司のほかには宇南山英夫、遠藤久夫、佐藤宗弥、伊藤博、野々山隆幸等の横浜市立大学
商学部(出版当時)の会計学者の面々が執筆者になっている会計監査辞典『新会計監査辞典』
(同
文舘)である。
青柳には名著『会計学の原理』をはじめとして、多くの財務会計論の著作が存在している。そこ
で彼の主要著書の核心部分を「青柳会計学の遺産」と呼ぶことにしたい。青柳会計学の遺産を概観
しながら、青柳が企業の粉飾をどのように捉えていたかを検討してみることにする。
なぜこうしたことを行う意義があるのかといえば、青柳会計学は他の通説の学者のように企業会
計原則を中心として会計学を考えているのではない。つまり、彼独自の視点から言語論を駆使して
会計学を再構築している学者であり、その考え方は新鮮であり、かつ実務上も十分に勘案されなけ
75 ればならない視点を持っているからである。青柳の考え方は単に財務会計論にとどまらず、監査論
についても彼の独自の視点を発展することが必要であると考えるからである。
まず青柳はどのような企業の状況を粉飾として捉えているのであろうかを示す記述がある i。
「財務諸表の陳述でいえば、状況に関しては、株主総会の開催前でなく終了後に財務諸表を
作成しても不適切な発語内行為になる。人に関しては、経営者(会計主体)でない人が財務諸
表を公表しても不適切な行為になる。言葉に関しては、一般に認められた会計原則(会計言語
の正規の規約)によらない財務諸表の表示は不適切になる」
経営者が作成した財務諸表が、一般に認められた会計原則に準拠したものであるならば、適正な
財務諸表であるというのである。そして一般に認められた会計原則に準拠しないで経営者によって
作成された財務諸表は不適切な発語内行為、すなわち虚偽の表示がされたものと青柳は考えている
のである。ここで重要な虚偽の表示がなされたものは粉飾決算である。
青柳のいう発語内行為とはなんであろうか。これに関して青柳は次のように定義づけしている ii。
「発語内行為(illocutionary act)とは、発語内の 内 が「言いながら(in saying)
」の ながら
(in) であるように、何事かを言いながら何事かを行う行為である。たとえば、
「私はあなたに
明日雨が降るほうに 6 ペンス賭ける」と言いながら、私は実際に賭けを行っている。一般的に
いえば、
「私は何事かを行うと言いながら、私はその行為を実際に遂行している。
」それは、何
事かを言うという行為の遂行でなく、何事かを言いながら行っている別の行為の遂行である」
発語内行為は 発語内の力 (illocutionary force)の中身によって次の五つの型に分類される iii。
判定宣告型、権限行使型、行為拘束型、態度表明型、言明解説型
そしてこれらをそれぞれ具体的にいうと次のような遂行的動詞によって表される iv。
判定宣告型:計算する(calculate)
算定する(reckon)
測定する(measure)
評価する(value)
権限行使型:命令する(order)
行為拘束型:約束する(contract)
態度表明型:感謝する(appreciate)
言明解説型:陳述する(state)
伝達する(inform)
報告する(report)
証言する(testify)
ここで言明解説型の「証言する(testify)
」の例は監査の証言機能にかかわっている。
i
青柳(1998)、80∼81頁。
ii
青柳(1998)、78頁。
iii
青柳(1998)、79頁。
iv
青柳(1998)、79頁。
76
青柳はオックスフォード学派の哲学者オースティンの言語行為論(speech act theory)を会計に
援用しようと考えて、次のように説く v。
「言明解説型の遂行的動詞のうちで「陳述する」(state)は、会計言語による財務諸表
(financial statements)の陳述とかかわる。それを日常言語によって表現すれば、会計主体が
「会社の財政状態および経営成績はしかじかであると、私は陳述する」となるはずである。そ
のさい、さきほどの天候についての賭けと同様、この発語内行為の従属節は会社の財政状態や
経営成績という会計言語の対象に言及し対象を表示する発語行為である。しかも、その対象を
表示するために遂行される評価や測定の言語行為は発語内行為であるから、結局、会計言語は
言明解説型の発語内行為がその従属節の発語行為を介して判定宣告型の発語行為につながる二
重構造になっている」
Ⅱ.青柳会計学の遺産
青柳会計学の原点は『会計士会計学』にある。この著作は青柳とジョージ・O・メイという著名
な会計士との間に文通による感情豊かな交流があり、この交流を通じてより青柳がメイの著作であ
る『財務会計─経験の蒸溜』を十分に理解することにより、まとめられた処女著である vi。ところで
この著書の題名である『会計士会計学』とはどういうことだろうか。会計士の業務は監査業務であ
るから『会計士監査論』ならわかるが、会計士会計学といっても会計士は、財務諸表を作成・公表
する主体ではないので違和感を感じざるをえない。もちろん財務諸表の作成主体は経営者である。
したがって、経営者会計学の方がわかりやすい。
ではなぜ青柳は『会計士会計学』という題名にしたのであろうか。これはジョージ・O・メイが
公認会計士であることに深く関係しているのではないかと考える。メイはイギリスの会計士であっ
たが、アメリカの経済が飛躍的に発展した際に自分の居をイギリスからアメリカに移したのであ
る。メイの見通しは正しかったといえよう。イギリスはその後あまり発展しなかったが、アメリカ
はメイがアメリカに移り住んで以降も益々成長していくことになる。
彼は会計事務所の勇(ゆう)であるプライス ・ ウォーターハウス会計事務所の所長にまで登りつ
めることになる。また、大学での会計学の講義も行なった。そうした講義経験からまとめられた著
作が『財務会計─経験の蒸溜』であった。『会計士会計学』は青柳がメイの『財務会計─経験の蒸
溜』を読み進めることによりまとめられた著作である。青柳はこの辺の経緯に関して『会計学への
v
vi
青柳(1998)、77頁。
ここで蒸溜とは、蒸留のことである。以前は「蒸溜」という字を用いた。英語では、distillation という。一
般にある溶液(混合溶液)を加熱し、その一部を揮発させ、発生した蒸気を別の場所に移して凝縮させる操
作をいう。
77 道』に次のように書いている vii。引用が長くなるが、
青柳の心の動きや研究の経緯は簡便にまとめら
れているのでここに記載することにしたい。
「著者が研究者を志して最初に行き当たったのは、ジョージ・オー・メイ 「財務会計─経験
の蒸溜」 であった。これが出会いの書となった。手ごろな本とおもって一読したが、さっぱり
わからない。二読、三読しても理解できない。こんなことでは研究者になる資格がないと自身
を叱咤した。維持になって、わからないわけをわかろうとした。それは容易にわかった。あち
こちにでてくるコンベンションということばの概念がつかめないこと、アメリカ会計制度の歴
史に暗いこと、この二つが原因であった。私信によって、その概念のみなもとがアリストテレ
ス『ニコマコス倫理学』であることが判明したので、ロダンがいうように、その出所に立ち
停った。かたわら、制度史の勉強を始めた。
コンベンションの審議をただすため、ギリシャの昔にさかのぼり、アリストテレス、デモク
リトス、ソフィストたちの見解をしらべた。さらに、中世から近世にかけて、この概念の系譜
を追った。驚いたことに、哲学、法律学、経済学、社会学、言語学、それと、芸術論において
も、これが重要な概念になっていた。有名なのは、ポアンカレの規約主義、コンベンションの
理論とよばれるケインズ経済学である。
会計コンベンションはどの分野のコンベンションに見合うかが当然の関心事となった。どう
みても、言語学のコンベンション、言語の規約がぴったり符合する。おのずと、会計は一種の
言語ではないかとの発想になった。と同時に、言語額の見方や考え方を会計学に移植できそう
な気がした。それからは、言語学書を読みあさり、言語学から会計学への類推の糸を模索した。
会計言語説への道と並行して、制度史や学説史を研究するうち、会計を言語とみる人は意外
に多いことを知った。アメリカ会計学の先達ハットフィールドはその点でも先覚者であった。
もしも、米独会計学の先達が会計言語観と境界科学観を結び合わせていたならば、会計学は創
世記から会計言語説として発展したことであろう。しかし、それには言語についての考え方を
養うために言語や記号の理論を学なければならない。
」
Ⅲ.会計史研究
青柳の会計史研究はアメリカの会計史に焦点がおかれている。青柳の会計史研究の成果は、『ア
メリカ会計学』に示されている。青柳の『アメリカ会計学』の研究は、先に青柳会計学の遺産の説
に引用したようにジョージ・O・メイの著作である『財務会計─経験の蒸溜』に始まっている。
青柳は『アメリカ会計学』の第 1 部アメリカ会計制度の発達でアメリカの会計史を次の 5 つに分
けている。
vii
青柳(1976)、155頁。
78
Ⅰ 序説
Ⅱ 前史
Ⅲ 生成期
Ⅳ 展開期
Ⅴ 動向
そしてのメインの節は、Ⅲ 生成期とⅣ 展開期の 2 つである。Ⅲ 生成期では、 1 .英国会計制度
の移植 2 .第 1 次世界大戦 3 .管理会計の発達が取り上げられている。また、Ⅳ 展開期では、
1 .会計原則の制度化 2 .第 2 次世界大戦 3 .20世紀中葉の発達が取り上げられている。 3 .
20世紀中葉の発達は、管理会計の発達に中心がおかれている。
この会計史で、監査に関わる箇所は、Ⅲ 生成期の 1 .英国会計制度の移植と 2 .第 1 次世界大
戦およびⅣ 展開期の 1 .会計原則の制度化である。
1909年にアメリカ公会計士協会(AIA ; the Institute of Public Accountants:現在のアメリカ公認
会計士協会(AICPA)の前身である)が会計術語特別委員会を設置したが、さしたる成果が終わっ
ているとしている viii。そして近代的な意味での会計原則の先駆といえば、連邦準備局の後援で AIA
が起草した「貸借対照表作成の承認された方法」であろうとしている ix。
第 1 次世界大戦後は不況となるが信用目的の会計から投資目的への会計に移行していく x。1918年
から1925年までに少なくとも株主数は350万増加したと推測される xi。このような株式制度の発達
は、大戦後の不況を契機とする企業の金融政策の転換が機縁になっている xii。また、不況を脱した
アメリカ経済がかってない繁栄期を迎えたことが最大の要因としている xiii。
株式制度の発達は、投資家のための会計から会社の収益を診断する投資分析家の利用に応じる会
計へと重点を移していった xiv。その後も年間売株数は、増加の一途を辿ったが、1929年にアメリカ
経済が空前の大恐慌に突入した。そこでニュー・ディール立法によって投資家の保護を目的として
1933年の証券法と1934年の証券取引法が成立し、その監督機関として証券取引委員会(SEC)が新
たに設置されたことが述べられている xv。
ニューヨーク証券取引所は、すでに1920年代の後半から当時の会計実践を改善する目的で株式上
場委員会に会計担当の補佐役や顧問をおき、1930年に AIA は証券取引所にとの協力特別委員会を
viii
青柳(1986)、79頁。
ix
青柳(1986)、79頁。
x
青柳(1986)、79頁。
xi
青柳(1986)、80頁。
xii
青柳(1986)、80頁。
xiii
青柳(1986)、80頁。
xiv
青柳(1986)、80頁。
xv
青柳(1986)、82頁。
79 組織した xvi。同委員会は1932年に 1 通の書簡を証券取引所に送り、その中で、会計の性質とその限
界を説き、貸借対照表よりも損益計算書が会計の中心におかれるようになった時代の変化を指摘し
た xvii。さらに、企業会計を規律する最も適した方針とこれまで会計士の間で認められるようになっ
ていた五つの会計原則を参考として示した xviii。
SEC は会計実践の不備を是正するために、公式声明文書である会計連続通牒により会計制度の
改善と標準化に乗り出した xix。同連続通牒第 4 号は、
「財務諸表が、実質的に権威ある支持のない会
計原則に準拠されている場合、それに含まれる事項が重要なものであるならば、これが会計士の監
査証明や財務諸表の脚注において公開されていても、かかる財務諸表は誤報ないしは不正確なもの
とみなされる」と規定している xx。こうして 実質的に権威ある支持 をもつ会計原則の制定が必要
になった xxi と青柳は書いている。
AIA では、すでに1936年に会計手続委員会(CAP)は設置され、1938年に正式の原則設定機関
として組織の拡充がなされた xxii。そしてSECや協会会員によって提示された個々の重要な会計問題
あるいは協会研究員によって指摘された実務の動向について CAP の意見をまとめて会計調査公報
のかたちで表明を行うようになった xxiii。
一方、AAA でも、1936年に会計原則試案を発表して、AIA の個別的な会計原則表明に対して体
系的な原則制定の第一歩を踏み出した xxiv。青柳はこの背後には損益計算中心の動態的志向の定着が
ある xxv という。
こうした会計原則の発達と平行して監査手続にも進展があった。それはマッケソン・ロビンス会
社事件(1938年発覚した。同社は薬品、化学製品などを販売していた)が影響している xxvi。
「この事件は、同社が1937年の報告書において計上した総額8,700万ドル余の資産のうち約
1,900万ドルが虚構のものであることが監査のあとで判明した事件である。架空資産の内部は
棚卸資産1,000万ドル、受取勘定900万ドルとなっていて、ともに立会あるいは確認が行われな
かったため監査の際に発見できなかったものである」
このような大規模な不正を発見できなかったことは、公会計にとって大きな打撃であり、その威
xvi
青柳(1986)、82頁。
xvii
青柳(1986)、82頁。
xviii
青柳(1986)、82頁。
xix
青柳(1986)、83頁。
xx
青柳(1986)、83頁。
xxi
青柳(1986)、83頁。
xxii
青柳(1986)、84頁。
xxiii
青柳(1986)、84頁。
xxiv
青柳(1986)、84頁。
xxv
青柳(1986)、84頁。
xxvi
青柳(1986)、84∼85頁。
80
信をはなはだしく傷つけ、アメリカ公会計士協会は監査手続委員会に付託し手続の再検討を行わ
せ、棚卸資産の立会と受取勘定の確認に関する監査手続の追加を規定させた xxvii。この報告は「監査
手続の拡張」と題して1930年に発表された xxviii。
ここで青柳がマッケソン・ロビンス会社事件という粉飾事件を取り上げ、棚卸資産の立会および
売掛金等の売上債権の確認の実証的手続きの必要性を認識していることを留意しなければならない。
監査手続の拡張がされて以後、さらに特定の手続面についての詳細な規定が小冊子で発表されて
いる xxix。その間に監査の質を問題にする一般原則の研究が行われ、
「一般に認められた監査基準」と
して発表された。青柳は、監査基準と会計原則とは車の両輪の関係にあるとし、両者の関係により
会計制度の発展が期せられる xxx とする。
Ⅳ.会計士会計学
青柳は、メイの学説をまとめた『会計士会計学(改訂増補版─ジョージ・オー・メイの足跡─)
』
の中で次のようにいう xxxi。
「経営者が投資大衆の代理人であり、一般の利害の守護者でもあることを最初から信頼して
かかれば、何も公会計のうまれる余地は存在しなかった。経営者の意向を体した会社内の私会
計士にすべてを託して十分であった。経営者が一般の利害を無視した経営にはしり、その成行
きを糊塗する会計に偏しがちなのを抑えるために公会計士は誕生したのである。いいかえれ
ば、会計士制度は社会統制の一環として、会社が放縦におちいって社会に害をなす傾向を抑止
する統制手段としてうまれた」
青柳は経営者の資質として性悪説を取っている。ここで青柳は経営者が一般の利害を無視した経
営にはしることを指摘している。さらにその成行きを糊塗する会計に偏りがちであるとする。ここ
でいうその成行きとは何であろうか。この成行きとは経営の実態が適正に表現されていることを
いっていると考えられる。青柳が経営者に対して性悪説を取るのは彼がメイを師と仰いでいること
もあり、当然の帰結である。メイは1986年12月にロンドンにおいて勅許会計士試験を二次試験、三
xxvii
青柳(1986)、85頁。これにより棚卸資産について立会、売掛金に対して確認をそれぞれ原則として実施さ
れるようになり、法定監査が強化されることになった。ここで「原則として」とは、実行することができる
場合は省略してはならない手続であることを意味している。もしこれらの手続を監査人がとらなかった場合
には、そのことを監査意見に記載しなければならない。
xxviii
青柳(1986)、85頁。
xxix
青柳(1986)、86頁。
xxx
青柳(1986)、86頁。
xxxi
青柳(1969)、317頁。
81 次試験を受験し、21歳でみごと合格している xxxii。翌年、世界最大の会計事務所であったプライス・
ウォーターハウス・アンド・カンパニーの一所員としてニューヨークに渡り、依頼、65年間アメリ
カに永住することになった xxxiii。
メイがアメリカに渡ったのは偶然の転任ではなく、彼のみにかぎられた移住でもないと青柳は言
う xxxiv。
青柳は会計士会計学と比肩できる会計学として学者会計学を挙げているxxxv。この学者会計学は会
計士会計学と比べても非常にわかりにくい名前の会計学である。青柳は、学者が会計の管理面に眼
をむけていた xxxvi ので、学者会計学を説いていたとしている。
一方、会計士はまだまだ管理会計にさしたる関心を示しておらず、財務会計に比重をおいていた
ので、会計士会計学を説いていた xxxvii としている。つまり、青柳の著書である『会計士会計学』と
は、財務会計という意味であるといえよう。しかし、学者グループの中にもペイトンのように、財
務会計と管理会計は同一の基盤のうえにあるとみて、両者を一体視する見方をする学者もうまれて
いた xxxviii。
青柳は次のようにこれらの会計学を考えている xxxix。
「財務会計と管理会計はメイがしたように別個の研究対象となるべきか、それともペイトン
のように一つの対象に統合されてみられるべきものか、あるいは第三の研究の道がありうるの
か。それは今後の会計制度の発達とならんで学者の見方の発展にかかっている」
筆者は青柳が財務会計と管理会計とが統合されると考えていると思う。それは大学院のゼミのと
きに、青柳から次のような指導を受けたためである。
「財務会計の利益は収益から費用を差し引いて計上されるわけではない。むしろ管理会計の
目標利益のようにすでに当期はいくらであるかがあらかじめ計画されているのである。そして
その利益となるように経営者は会計政策を行い、収益と費用が調整されて決定されるのである。
目標利益 = 収益 − 費用
」
こうした青柳の発言は、筆者が大学院時代に収益費用対応の原則が理解できたので、ゼミの際に
xxxii
青柳(1969)、26∼27頁。しかも両試験はともメイは首席による合格であった。
xxxiii
青柳(1969)、27頁。もちろんアメリカ公認会計士の資格も獲得した。
xxxiv
青柳(1969)、27頁。
xxxv
青柳(1969)、50頁。
xxxvi
青柳(1969)、50頁。
xxxvii 青柳(1969)
、50頁。
xxxviii青柳(1969)
、50頁。
xxxix
青柳(1969)、51頁。
82
そのことを青柳に話した際に下記のようにいったら、青柳から上記のようにいわれたのである。
「収益費用対応の原則がよくわかるようになったことにより、期間利益の算出方法がわかる
ようになりました」
青柳は筆者に向かって次のようにいった。
「君はまったく会計上の利益について理解していないね。あくまで収益の金額とそれに対応
する費用の金額が決定されることによって、当期利益が算出されるというのは、あくまで表面
的な現象であり、タテマエに過ぎない」
このときに青柳が何をいっているのか理解できなかった。筆者が、「利益は収益費用対応の原則
によって決定される」といっているのに、青柳はまったく反対のことをいっているからである。
「利益は経営者の恣意的な判断によりあらかじめ決定されている。つまり、利益は計算されるも
のではなく、あらかじめ経営者により定められた与件である」というのである。
「その与件である
利益になるように、収益と費用が決定される」というのである。
「経営者の提示した利益が算出され
たようにみせかけるために、あとづけで収益と費用の金額が決定される」と青柳は考えるのである。
つまり、「収益と費用の金額は経営者の提示した利益としてつじつまが合うように会計方針の変更
あるいは粉飾経理を通じて根拠付けられているに過ぎない」というのである。ということは、
「利益、
収益および費用のすべてが経営者によって操作された金額に他ならない」といっているのである。
これまで理解してきた従来の会計学をまさに全否定されたのである。そして会計とはこうもいい
かげんな数字の羅列に過ぎないと考えると、会計が空恐ろしくなった。そして実務会計の奥深さを
改めて認識させられた。
青柳は『現代会計学』の中で 2 つの会計理論を提示している xl。 1 つ目は利益原因説であり、もう
1 つは利益結果説である。
(1)
利益原因説
この理論はメイによって代表される理論の型である。目標となる利益概念を前提し、この目標概
念を実践化する降順の枠組みを考えて、それから降順を実践する処理法を選択する理論である。
この理論を利益、収益および費用の関係で示せば、次のようになる。
利益 (→公準→)
= 収益 − 費用 青柳はこの理論での公準として①購買力公準、②実現公準、③継続企業の三組の公準を挙げてい
xl
青柳(1974)、178∼185頁。
83 る xli。なぜ、この 3 つの公準が設定されているかは、利益の測定と関連しているからであると青柳
はいう xlii。
上記の算式に示したように利益を始発概念とする xliii。青柳はメイに私淑しており、この理論を自
己の理論としている。
(2)
利益結果説
こちらの理論はギルマンによって代表される理論の型である。これは利益を求めるべきものとみ
るよりも求められてくるものとみて理論を構成する。したがって、利益の目標概念を前提すること
なく、いきなり公準を設定する。
この理論を利益、収益および費用の関係で示せば、次のようになる。
(公準→)
収益 − 費用 = 利益
青柳はこの理論の公準として①企業実体のコンベンション、②貨幣評価のコンベンション、③会
計期間のコンベンションの 3 組のコンベンションを挙げている xliv。ギルマンの三組の基本的コンベ
ンションより誘導されて、原価評価のコンベンションをはじめとして、実現主義、貨幣価値不変、
継続企業のコンベンションなども派生すると青柳はいう xlv。
上記の算式に示したように利益を帰着概念とする xlvi。
青柳はこれらの 2 つの理論のほかに利益代理説も取り上げている。この理論はディバインによっ
て代表される理論の型であり、いまのところは理論の萌芽がみられる程度で、理論の展開は今後に
期待されるとしている xlvii。
青柳が利益原因説を重視していることは、次の指摘から理解することができよう xlviii。
「利益代理説によれば、これまでの考察をもとにして、利益結果説でなく利益原因説がさら
に深く掘り下げられる必要がある」
xli
青柳(1974)、179頁。
xlii
青柳(1974)、179頁。
xliii
青柳(1974)、182頁。
xliv
青柳(1974)、181頁。
xlv
青柳(1974)、181頁。
xlvi
青柳(1974)、182頁。
xlvii
青柳(1974)、182頁。
xlviii
青柳(1974)、185頁。
84
Ⅵ.記録・慣習・判断の総合的所産
財務諸表は記録と慣習と判断の総合的所産であるといわれる。このことは旧監査基準(1950年 7
月制定、1956年12月改定)の序文にも、
「財務諸表の監査について」の記載があり、企業会計審議会
は当該記載の「 2 監査の必要性」において、次のように財務諸表を説明されていた。
「今日の企業の財務諸表は、単に取引の帳簿記録を基礎とするばかりでなく、実務上、慣習
として発達した会計手続を選択適用し、経営者の個人的判断に基いてこれを作成するもので
あって、いわば記録と慣習と判断の綜合的表現にほかならない。財務諸表が単なる事実の客観
的表示でなく、むしろ多分に主観的判断と慣習的方法の所産であることは、近代企業会計の著
しい特徴である」
企業 A が生産設備(有形固定資産)を50,000千円で購入したと仮定しよう。また、当該設備の耐
用年数は 5 年、残存価額は取得原価の10% である。当該説明に関しては、図表 1 を参照しながら検
討していただきたい。
企業 A は、生産設備の購入を取得原価50,000千円で記録する。これが記録された事実に該当する。
設備の金額は、購入した会計年度に一時に費用化されるわけではない。その理由は一時に費用化す
るのでは購入した会計年度の費用負担が大きくなりすぎるためである。 また、生産設備を購入した効果は購入した会計年度だけでなく、当該生産設備の耐用年数にわ
たって製品の生産が行われることから、耐用年数にわたって売上げ効果が発生する。したがって、
その費用化は当該設備の耐用年数にわたってなされなければならない。
当該生産設備の減価償却の方法としては、一般に認められた企業会計の基準として定額法・定率
法・級数法等の複数の方法が存在している。すなわち、定額法・定率法・級数法等の複数の方法が
実務慣習として使用・選択されている。
定額法・定率法・級数法等の複数の方法から企業 A はどの減価償却の方法を選択するかは、経
営者の主観的判断で決まることになる。
図表 1 記録と慣習と判断の関係
取得原価 … 記録された事実
↓
定額法・定率法・級数法等の実務慣習 ↓
定額法を選択 … 経営者の主観的判断
上記の説明では、実務慣習として行ったが、これは英語でいうとコンベンション(convention)
である。青柳は慣習との訳は十分でなかったと考えている。そして彼は規約ということばを使用し
ている。
85 「規約(convention)ということばは会計学の成立当初から用いられた。不幸にして、わが
国ではコンベンションが 慣習 と反訳された。そのため、法規は慣習でないのでコンベン
ションでないという錯覚をうんだり、会計の基本仮定すなわち会計公準だけがコンベンション
であるといった一面的な解釈におちいった。訳語の不適切が会計の本来的性格をぼやかすはめ
となったのである。
規約とは、支配者の意志もしくは人びとの合意にもとづいて成立する約束である。交通規則
のように、がんらいは右でも左でもさしつかえないはずのものが、いったん右あるいは左と約
束されたならば、それに人びとがしたがわないと社会の秩序がたもてない、そのような人為的
規範がコンベンションである。支配者あるいは政府の一方的押しつけによる規範であっても、
それに人びとが服従すれば消極的同意が成り立つので、やはりコンベンションになる。人間の
意志からは独立した絶対不可侵の規範があるとすれば、それは人為法(convention law)でな
く自然法(natural law)とよばれる。会計には自然法は存在せず人為法だけとみるのが現代
の会計本質観である」
青柳はコンベンションを次の 3 つの属性から検討している xlix。
1 .擬制
2 .慣習
3 .ノモス(法)
まずコンベンションの第一の属性は擬制(fiction)である。青柳は擬制に関してはメイの考えを
援用し、次のように述べる l。
「「会計は実利的なものであり、コンベンション(もちろん、そのなかには事実との一致の疑
わしいものがある)にもとづく」との認識から、「会計は少数の基本的公準と多数の小仮定と
から成る一の仮設構造にもとづく」
」
青柳は会計が貨幣価値安定の公準などいくつかの基本的公準のほかに、中小の仮定にもとづき構
築されていることを強調しているのである。
第二の属性としてコンベンションが慣習として狭い意味で考えられることが少なくないと青柳は
指摘する li。
「人間は 慣習を作る動物 (custom-making animal)といわれる。生物的本能だけでなく、
過去より伝承された慣習が人間の行動に指針となる。しかも一定の慣習にしたがう地域や集団
に統一をうみ、共属感を芽生えさせる。それは人びとを結ぶ紐帯であり、社会の接着剤であ
xlix
青柳(1979)、54∼61頁。
l
青柳(1979)、54頁。
li
青柳(1979)、55∼56頁。
86
る。連帯意識を強める意味では社会の安定剤でもある」
第三の属性はコンベンションを法としてとらえるに際して、青柳は「法律の生命は論理ではなく
経験である」とホルムズ判事の有名な言葉を援用する lii。
Ⅶ.会計監査の現状と今後の監査の展開
青柳は記号に関して、次のようにいう liii。
「ソシュール的言語観に立てば、記号があって、それによって規定される対象が生まれる。
それは変化が時間という記号を生む半面、その記号が変化を規定する逆関係である。数学的に
いうと写像と逆写像の関係である。原像である対象が写像によって像である記号を生む半面、
その像が逆写像によって原像を規定して文字通りの 逆像 にする」
ここで青柳がいいたいことは何であろうか。粉飾された数字、たとえば会計上の利益を記号とし
て捉えると、それによって規定される対象が生まれる。この生まれる対象は実際には赤字決算であ
るのだが、記号が粉飾された数字であれば黒字なのである。この記号ないしは写像の黒字が対象な
いしは原像も黒字であると企業の利害関係者に思わせてしまうのである。つまり、記号で表現され
た数字に影響されて、実際の赤字決算は黒字で儲かっている企業実態であるとウソを示すことにな
る。そしてその企業が儲かっているという良いイメージを企業の利害関係者、つまり財務諸表の読
み手に与えることになる。
青柳は会計士をどのようにみているのかに関して興味深い記述がある liv。
「肉眼的にみても、会計士が生きる世界は組織という場と会計という表現の世界である。つ
まり、組織の情報場と会計の記号場である。
組織の情報場は表層の役割構造と深層の利害構造から成り立つ一方、会計の記号場は会計士
が作成する勘定帳簿や財務諸表から成り立ち、これらが言語の場を形成する。会計士組織の役
割構造の一翼を担うが、ヴァッターの会計士主体論では、それは利害構造から切り離された主
体である。しかし他の役割は利害から切り離されていないので、他の役割から会計士に送られ
る役割期待、とりわけ、経営者が会計士に寄せる会計の方針についての期待には強い利害が込
められている。会計士の職分は会計処理と報告であり、それゆえ、会計士が生きる現場は会計
の記号場である。会計士の中立はその記号場に向けた期待であるが、それを情報場と切り離す
ことは一種の理想論、いや、机上の空論となりかねない」
lii
青柳(1979)、59頁。
liii
青柳(1998)、15頁。
liv
青柳(1998)、213∼214頁。
87 ここで注目したいのは、次の表現である。
「経営者が会計士に寄せる会計の方針についての期待には強い利害が込められている」
会計方針を選択するには経営者の権限であり、経営者は会計士にどのような期待を寄せるという
のだろうか。会計方針の選択のアドバイスであろうか。筆者はここに青柳の意図をも読み取るので
ある。会計方針の選択ないしは会計方針の変更を行うのはあくまでの経営者である。しかし、会計
士はその際に何もしないかというと、そうではない。会計士は経営者の行った会計方針の選択の妥
当性ないしは会計方針の変更の妥当性を検証することになる。つまり、経営者が会計士に寄せる会
計の方針についても期待とは、もしそれらの妥当性に問題があったとしても、会計士が問題にしな
いで見過ごしてくれることを期待するといっているのである。
最近の監査の厳格化の波が押し寄せている環境では、もはやこうしたことを経営者が期待しても
難しいであろうが、約十年前のエンロン事件(2001年)が発覚化する前には、癒着監査の時代には
こうしたことがなかったとはいえない。
そこで青柳はこの点に関して次のように指摘している lv。
「会計物語の語り手は誰であろうか。財務諸表をみれば、商店名や会社名が掲げられている。
これらを商店の資本主や会社形態をとる企業として解釈すれば、資本主理論や企業体は会計物
語の 語り手 理論ということになろう。そのような語り手を設定しているのが作者兼作家の
経営者ということになろう。そして、語り手である企業が粉飾決算のような罪を犯せば、その
責任は語り手よりも作者兼作家が負わなければならない。また、粉飾を暴く探偵役を会計士が
演じることもあれば、監査で粉飾を見逃した会計士が経営者と連帯責任もある」
会計監査の現状と今後の監査の展開に関して、青柳は次のように言及している lvi。
「最近、海外の事例をみると、証拠や一般に認められた会計原則に準拠した監査済み財務諸
表が、投資家に十分な情報をあたえていないとの判決理由によって会社側や監査を担当した公
認会計士の敗訴に終わったケースがいくつかある。伝来の制度にすがった会計責任のあり方で
は、もはや時代の情報要求にこたえられなくなっている。
他方では、経営監査から社会監査にまで情報要求にこたえられなくなっている。公認会計士
の監査能力が従来の監査手続をこえた範囲に伸長できるかどうか、会社は取得原価のきずなを
脱して最新情報の名のもとに得手勝手な会計に走ることはないか、会計責任の時代転換には、
かずかずの懸念と疑惑がつきまとう、しょせん、会計責任のあり方を考えるまえに、会計主体
の価値観ないしは価値判断の変容可能性が問われねばならない。
」
lv
青柳(1998)、133頁。
lvi
青柳(1974)、75頁。
88
また、青柳は監査の機能について次のようにいう lvii。
「監査は情報提供と持分保護の両機能にとって必要であるが、とりわけ、持分保護、別言す
れば、利害調節、利害調整、利害裁定にとって重要である。──(中略)──外部監査は外部
利害の公正な裁定に保証とならなければならない」
さらに青柳は公正な裁定を保証するためには、純粋な手続上の正義を分配問題に適用するために
は、正義にかなう制度の体系を確立し、それを普遍的に管理する必要があるという lviii。
「価値観と利害が対立する世界においては、会計の正しい結果についての独立した基準がな
いため、会計手続が純粋な手続上の正義にかなう制度の体系の一環とならざるをえない。環境
の多様性や個々の人びとの相対的な地位の変化を考慮することなく、法の裁可を得た会計手続
が公正な手続として通用する。それは、手続の正確として、利害の
藤を解決する財産の規約
(convention of property)となるのである」
「一般に認められた手続に準拠すれば、分配の正義はかなえられるものと考えられがちだった」lix
が、実はそうではなかったことがコンチネンタル自動販売機会社の粉飾事件(1969年)で明らかに
なった lx。
「同社の社長は子会社より投資資金を借り入れ、それを同社から子会社の貸付によってまか
なわせていた。こうした社長の個人投資と放漫経営が禍して、会社の業績は悪化して破産へと
追い込まれた。管財人は両社間と社長との取引が監査済財務諸表によって適正に公開されな
かったことを訴因として、社長と監査事務所に対して刑事及び民事の訴訟を起こし、裁判は上
級審にまで持ち込まれ、社長は懲役刑、監査人は罰金刑の判決を受けた。その第二審判決文に
よれば、会計士にとって第一の法は、一般に認められた会計原則への準拠でなく、むしろ完全
かつ適正な公開であって、 適正に表示する という監査報告書の文言は 一般に認められた会
計原則 とは別個の概念であり、後者(一般に求められた会計原則への準拠)は必ずしも前者
(適正に表示すること)を保証するものではないとした。職業基準が会計士の免責条件となら
ない判決が下されたわけであり、会計職業にとって大きな事件となった」(引用文中の( )
と( )の中の文言は筆者により加筆)
コンチネンタル自動販売機会社の粉飾事件の衝撃的な判決に接して、アメリカ公認会計士協会
(AICPA)は委員会を設置して監査人の責任を再検討させた結果、 適正に表示している に代えて
lvii
青柳(1998)、160頁。
lviii
青柳(1998)、161頁。
lix
青柳(1998)、162頁。
lx
青柳(1998)、162頁。
89 すべての重要な点において表示している という監査報告書の文言が提案され、公正性の道徳基
準が削除された。その後、AICPA の監査基準は、委員会の提案に配慮しながら、最終的には す
べての重要な点において、適正に表示している となっている lxi。
青柳は、「 一般に認められた会計原則 や 一般に公正妥当と認められる企業会計の基準 という
のは、文言通りに解釈しても、これまで認められてきた、あるいは現在も認められる、という意味
であって、今後も認められるという意味ではない」と注意を喚起している lxii。青柳は過去や現在で
は妥当であっても、未来において妥当するという保証はないことを強調しているのである lxiii。
青柳のコンチネンタル自動販売機会社の粉飾事件と一般に認められた会計原則の説明は少しわか
りにくいので、青柳の指摘と同様のことをもっとわかりやすく説明している河合の指摘を引用して
みよう。lxiv
「裁判所は「適正表示」の検討に当って一般に認められた会計原則に準拠していたことを立
証することは、大いに説得力を持つ証拠とすることは疑わないが、それが決定的証拠とはなり
えないとする態度をとった。つまり会計士の証言を全面的に肯定することを拒み、一般に認め
られた会計原則の枠をはみ出す事項について、一般に認められた会計原則の欠如を非難する結
果が生じたのである。つまり、一般に認められた会計原則と呼ばれる監査判断の一基準に準拠
して監査が完了されていたとしても、このような従来からの慣行は限界があるとみているわけ
で、その原則を遵守したからといって無罪とはなりえない。新しい事実に対処する会計士の正
当な注意が喚起されねばならないことがこの事件で明らかとなった。つまり原則に準拠してい
たからといって免責とはなりえない新しい事実を生み出した事件だった」
青柳がコンチネンタル自動販売機会社の粉飾事件で指摘しているように監査人の責任の問題は、
益々重要性が高まっているといえよう。
具体的には内部統制の整備・運用状況を評価した上ですべての勘定科目をサンプリングにより検
証する従来型の監査からリスク・アプローチ監査への変更が挙げられる。監査人が裁判で敗訴しな
いためにいかに監査資源を有効に使用し、リスクのある科目に焦点を合わせて監査を実施したかが
リスク・アプローチ監査によればある程度明確にできるからである。
しかし、それだけでは粉飾がなかなかなくならないことも確かであり、リスク・アプローチ監査
はリスクの範囲をビジネスに広げ、現在はビジネス・リスクアプローチ監査が実施されるように
なった。
従来において外部監査人によって実施される監査は情報の監査といわれるものであったが、この
lxi
青柳(1998)、164∼165頁。
lxii
青柳(1998)、162頁。
lxiii
青柳(1998)、162頁。
lxiv
河合(1979)、218∼219頁。
90
点についても財務諸表の利用者である外部利害関係者の要望に応えた内部統制監査や継続企業の監
査が実施されるようになった。これらの監査は財務諸表監査という枠を超えた実態の監査に立ち
入ってしまっている。監査人にとって監査領域の拡大は監査報酬の増加をもたらす意味では、監査
業界にとっては望ましい側面も存在するが、会計監査の専門家である公認会計士ないしは監査法人
は、こうした実態の監査を有効に実施していくことが可能なのであろうか。あるいは監査人の責任
が急拡大する結果につながらないのだろうか。
監査業界においても筆者と同じ疑問を持つ人は多くおり、わが国でも欧米に続き、有限責任監査
法人が認められるように公認会計士法が改正されている。
引用文献・参考文献
青柳(1969)
:青柳文司『会計士会計学(改訂増補版─ジョージ・オー・メイの足跡─)
』同文舘、1969年11月。
青柳(1974)
:青柳文司『現代会計学』同文舘、1974年 2 月。
青柳(1976)
:青柳文司『会計学への道』同文舘、1976年10月。
青柳(1979)
:青柳文司『新版 会計学の原理』中央経済社、1979年 9 月。
青柳(1986)
:青柳文司『アメリカ会計学』中央経済社、1986年 7 月。
青柳(1998)
:青柳文司『会計物語と時間─パラダイム再生─』多賀出版、1998年 7 月。
大塚(2002)
:大塚雅子編『銀座一丁目のドン・キホーテ』文芸社、2002年 6 月。
河合(1979)
:河合秀敏『現代監査の論理』中央経済社、1979年11月。
91 【論 文】
台湾の戦後混乱期と楽生療養院
─1950∼1960年代を中心として─
城 本 る み
1 .はじめに
2 .院史からみる楽生療養院
3 .日本人医師の記録
4 .1950∼1960年代のハンセン病政策
5 .おわりに
1 .はじめに
楽生療養院は現在台湾における唯一の公立ハンセン病療養所である。日本植民地時代の1930年に
開設され、2000年代にはいってから日本政府を相手とする国賠訴訟や MRT 新荘線車両基地建設に
伴う立退き問題等で俄かに注目を集めたが、戦後台湾政府の管轄下におかれて以降の70余年は世間
から忘れられた存在であったといっても過言ではない。
1945年第二次世界大戦の終了によって、台湾は国民党政権下におかれることとなる。1947年には
2.28事件が起こり、国民党が台湾人を力で抑え込む圧政を敷く。1949年に中国大陸で共産党政権が
樹立されてからは、国共内戦に敗走した国民党とその家族が大挙して台湾に押し寄せ、台湾には本
省人、外省人という特殊な二重構造ができあがった。また台湾は「反共」を旗印として1949年から
1987年まで38年間戒厳令下におかれ、1950年の朝鮮戦争勃発以降、アメリカから15年にわたる軍事
的・経済的支援を受けることとなった。その意味でも台湾の戦後は1950年を境に新たな段階には
いったといえよう。とくに台湾は1970年代にはいるまでは令状がなくとも国民党政権に抵抗すると
みなされれば、逮捕や連行、はては処刑まで可能な白色テロ時代と呼ばれる暗黒の時代であった。
植民地時代に築かれたすべてのものは国民党が接収し、台湾総督府が管轄していた楽生院も1945
年12月10日に台湾省衛生局管轄下におかれ〈臺灣省立樂生療養院〉と改名された 1。政情不安定時代
の楽生院では患者の逃亡も多く、困窮した状況の中で国民党軍のハンセン病罹患者を引き受けざる
を得ない状況に追い込まれていく。1962年にはそれまで影響を受けていた日本植民地時代の隔離政
1
臺灣省樂生療養院編(1955)
『臺灣省立樂生療養院二十五周年特刊』p.2
93 策を撤廃し、外来診療を柱とする新たなハンセン病政策が公布される。民主化が進み、人々の考え
方が変遷していく時代ではなく、上述したような独裁的な戦後混乱が続く中で、台湾はどのように
隔離政策撤廃への道を歩んだのであろうか。
筆者は前回の論考 2 において、植民地時代をのぞき終戦後2000年代にはいるまでの楽生院が台湾
の研究者に注目されてこなかったこと、またこの間の楽生院に関する(公式記録を含む)資料が極
端に少ないことを検証した。楽生院に関する資料は日本植民地時代の1930年から1945年までは楽生
院編集の年報が発行されており、こうした資料や医務官が残した論文および総督府資料や当時の新
聞記事等によって、その姿を窺い知ることが可能である。しかし前述したように、国民党に接収さ
れ2004年に MRT 車両基地建設による楽生院移転が社会問題としてクローズアップされるまでの楽
生院やハンセン病関連の研究資料はかなり限られたものである。台湾におけるハンセン病問題の研
究関心は、戦前の日本植民地時代の楽生院運営、すなわち強制隔離政策に焦点をあてたものと2004
年以降の楽生院移転問題に関する入所者の人権に焦点をあてたものとに大別が可能である。
楽生院は政府管轄下におかれた公立療養所であり、楽生院の運営は台湾におけるハンセン病政策
と密接に絡み合い、互いに影響を及ぼしあっている。楽生院はハンセン病政策のもとに運営されて
おり、その時代の台湾のハンセン病問題への取り組み方が反映されている。したがって本稿ではま
ず楽生院移管後、とくに1950∼1960年代を中心として戦後から1970年までの楽生院の運営状況を時
系列で追い、この時代のハンセン病政策をとりまく時代的背景をみていく。1970年を隔離廃止の一
区切りと考えるのは、台湾におけるハンセン病の新患発生数が減り、WHO がハンセン病専門官の
プロジェクトを終結させる時期であったことが大きな理由である。国民党政権が日本時代を踏襲し
たハンセン病の強制隔離政策を公布したのが1949年であり、1969年までの20年間を隔離政策から外
来診療へと移行していく変遷期と考えると、1962年の〈台湾省癩病(痲瘋)防治規則〉3 公布も理
解しやすいからである。次に1960年代の台湾でハンセン病対策に奔走した日本人の犀川一夫医師の
記録からこの時代のミッショナリーたちの活動を通して台湾のハンセン病をとりまく状況をまとめ
ていく。そして院史や犀川医師の記録からみられる時代背景に先行研究の論点を加えることによっ
て、なぜこの時代に隔離政策から外来診療へと舵をきることになったのか、またそもそもきちんと
舵をきることができていたのかという点について筆者なりに検討していきたい。この時代に関する
資料や先行研究は限られており、台湾の文献でも参照できるものは少ない 4 が、日本ではまだ扱わ
2
城本るみ(2013)
「資料・研究動向にみられるハンセン病療養所楽生院」
(弘前大学人文学部『人文社会論叢』
(社会科学篇)第29号)
3
中国語でハンセン病の新たな音訳表記は「漢生病」というが、
「痲瘋病」
「癩病」は長く使われてきた中国語で
ある。本稿ではなるべく中国語原文のまま扱っていくこととし、日本人の記述のなかに「らい」という言葉が
使われている場合も「 」等を用い、なるべく使用されているままにしておく。また中国語原文と日本語を
区別するために、中国語表記の場合は〈 〉で括る。
4
本稿で対象とする1950∼1960年代の台湾のハンセン病問題に焦点をあてた先行研究は、范燕秋(2010)およ
び沈雅䌢(2011)の論文しかみあたらなかった。前回の論考でとりあげた楽生院に関する38本の学位論文の内
94
れていない時代でもあり、整理していく意味があるものと考えている。
2 .院史からみる楽生療養院
先述したように、1950∼1960年代の台湾は戦後の混乱期であり、外省人が大量に台湾に渡来し、
戒厳令下におかれた政情不安定な時代であるため、この時代の楽生院については資料が限定的であ
る 5。ここでは楽生療養院編(1955)『臺灣省立樂生療養院二十五周年特刊』および劉集成(2004)
『樂生療養院志』を中心として、この時代の楽生院の様子をまとめていく。
本稿では1949∼1969年の20年前後が台湾におけるハンセン病政策の変遷期と考え、筆者はこの時
代の楽生院運営を「院長」に視点をあて、50年代の陳宗䌑院長の就任を境に時代区分を行う。表 1
からもわかるように、1930年の楽生院開設から1970年までの40年の間に、 8 人の院長が就任してい
るが、植民地時代の日本人院長上川豊をのぞき、台湾接収後の1945年から1954年の陳院長就任まで
はすべて本省人である台湾出身者、しかも台北医専、総督府医専など戦前の日本医学の教育を受け
た人々で占められている 6。陳宗䌑院長は楽生院初の外省人院長であり、着任前は軍医という身分で
あった。この陳院長の就任によって楽生院は 1 つの転機を迎えたと考え、陳院長の就任を時代区分
としたい。すなわち陳院長就任前の1945∼1953年、陳院長就任後の1954∼1965年、陳院長死去後の
1966年以降の 3 区分である。
容を精査したところ、陳威彬(2001)pp.51‒ 67、
賴澤君(2007)pp.73 ‒ 80、
陳歆怡(2006)pp.27 ‒ 32、
鐘聖雄(2007)
pp.28 ‒ 33、潘佩君(2006)pp.12 ‒15、駱俊嘉(2006)pp.18 ‒19にはこの時代に関する記述がみられるが、限られ
た資料や先行研究の引用もしくは入所者の口述聴き取りからの構成が中心で、この時代に関する独自の見解や
分析はみあたらなかった。
5
戦後楽生院では公刊された資料が少なく、
『臺灣省立樂生療養院25周年特刊』
(1955)、
『臺灣省立樂生療養院年
刊』
(1959)、
『臺灣省立樂生療養院30周年紀念特刊』
(1960)
、
『癩病防治10年』
(1963)のみで、
1959年に出された「年
刊」はこの年のものしかないが、すべて陳宗䌑院長在任中の出版である。他に公文書として「癩病防治統計報告」
(1976 ‒1981)、
「楽生院業務簡報」
(1991、1992、1996、2000)があるというが、筆者が複写を入手できたのは『25
周年特刊』のみである。
6
呉文龍院長の出身および出身校について范燕秋(2010)と楽生院ホームページでは記載内容が異なっている
が、本稿では楽生院ホームページに依って整理した。
95 表 1 1970年までの歴代楽生院長と出来事
就任期間
氏名
略 歴
・日本広島県出身
1930/12
∼
1945/12
1945/12
∼
1946/03
1946/03
∼
1947/06
上川豊
任期中の出来事
・楽生院庶務規定及び細則の制定
・長崎医学専門学校 ・非日本国籍のハンセン病患者の収容開始
・日本細菌学博士
・
「楽生院の使命」を発表し、「癩病の消滅」こそが
日本を真の文明国家へと導くものとし、そのため
に患者を強制隔離し健康者を守る方法をとった
・著書『臺灣防癩事 ・「台灣癩根絶15年策」により、消極的な方法で療
業計劃回顧』
養所からの患者ゼロを目指した
備 考
日本植民地時代の初代
院長
賴尚和
・台湾嘉義人
・楽生院が「台湾省立樂生療養院」と改名され、初 戦後初代の院長である
が代理職
代院長となる
・台北医学専門学校
・日本京都帝国大学
医学部
・台湾大学公共衛生
研究所教授
・台湾本土ハンセン
病研究の権威
・著書
『中國癩病史』
呉文龍
・台湾台南人
・台湾大学熱帯医学研究所が癩研究室を設置
辞職
・台北帝大医学部専 ・ハンセン病患者の生活は半開放、婚姻禁止をとき
門部
結紮しないことを主張
・
「院内外に鉄条網などを設け、患者の出入り防止」
との意見が出される
・台湾台南人
・
「ハンセン病予防規則」公布
・台湾総督府医学専
門学校
・歯科医師資格保有
妻が戦前台湾共産党員
であり、1950年に白色
テロ事件で夫妻とも逮
捕投獄され、出所後間
もなく死亡(政治事件
により免職)
1947/06
∼
1950/12
楊仁壽
1950/12
∼
1952/03
・台湾台南人
・孫理蓮(Mrs. Lllian R. Dickson)が楽生院に来て
・青島東亜医科学院
患者の療養生活を支援、育児院「安楽之家」やキ
・皮膚科専攻
リスト教会を建立
汚職事件により免職
劉明恕
1952/03
∼
1953/12
・台湾台中人
・
「聖望礼拝堂」を正式落成運用
・台湾総督府医学専 ・アメリカ支援により DDS を採用
門学校
人事異動
陳文資
院長として剛腕を発
揮、在任中は楽生院の
変遷期にあたり、在職
中に病に倒れ死亡
陳宗䌑
・江西永新県人
・宗教と医療をあわせた改革
・パリ大学医学専門 ・病舎の増築と患者自治の実施
学校博士
・患者への給食制度実施
・患者や職員のための売店を設立、文化娯楽活動の
推進
・患者の職業訓練実施、
「職業治療室」設置
・鉄条網撤去
・楽生院入所者に身分証を発行、公民投票権の回復
・49年の「予防規則」を廃止し、新たな「ハンセン
病防治規則」に修正
・患者の退所就業を積極的に勧め、社会復帰を指導
・教会が13か所のハンセン病診療所を設置、ハンセ
ン病予防医療スタッフの育成
游天翔
・浙江平陽人
・女性軽快者を医療スタッフとして優先雇用
解任
・東京帝国大学医学 ・病院組織を改編、 3 科 6 室を設置
部
・眼科専攻
・ハンセン病の知識や写真を国民中学健康教育教本
に初めて掲載
1954/01
∼
1966/05
1966/05
∼
1974/01
(資料出所)楽生療養院ホームページ、范燕秋(2010)pp.185‒186、沈雅䌢(2011)p.126
96
2 ‒ 1 .1945 ∼ 1953年(戦後初期)
1945年第二次世界大戦が終結し、同年12月10日に楽生院は台湾省衛生局管轄下におかれ、日本時
代に楽生院の医官長を務めていた賴尚和 7 が代理院長に就任、
〈臺灣省立樂生療養院〉と改名され
た 8。1945年 8 月15日直後は日本時代に残された資産でかろうじて院の運営は維持できていたが、国
民党政府接収後、患者たちの生活は一気に困窮状態に陥っていく。
戦争末期時にはすでに楽生院は台湾総督府からも重視されておらず、物資も不足し、逃亡や死亡
などで収容患者数も減少していた。しかし国民党政府接収前は院長以下、医師 5 名、薬剤師 1 名、
看護師12名、看護師長 1 名がおり、医療活動はまだ行われていたようである。終戦直後は日本人医
療者もまだ残っていたが、国民党による接収後は医師 1 名、助手、看護師があわせて10数名とな
り、医療スタッフのみならず経費、医薬品にも事欠く事態に陥っている。スタッフ不足は深刻で、
1946年 5 月時に特任、委託含め少なくとも43人が必要とされていた職員も13人しか満たせず、結果
的に看護師不足は医療資格をもたない看護助手にやらせ、その他の仕事も臨時職員や雑役夫で埋め
合わせていくしかなかった 9。その後入所者数の激増に伴い、職員不足は深刻さを増していく10。
1947年の2.28事件など社会的な混乱も拍車をかけ、患者は困窮状態に陥る。国民党政府移管後は
管理状況も悪く建物の補修もできない状況となり、元兵士が1949年に入所した際、敷地内には雑草
が生い茂り、病舎は老朽化が進み、比較的病状の軽かった元兵士たちが環境整備をせざるを得な
かった。またこの時期は入所者同士 11 あるいは職員間でも諍いが絶えず、医薬品も底をついている。
戦後初期は「患者の逃亡」と「暴力事件」がもっとも大きな問題であった。困窮により患者管理
もうまくいかず、周囲の鉄条網も壊れたままの状況で逃亡者があとを絶たなかった。表 2 は接収後
1959年までの入所者数の変遷をまとめたものである。これをみてもわかるように1948年には患者数
がそれ以前の半数に減っている。「事故」に具体的説明はないが、おそらく逃亡や無断外出したま
ま戻らないという状況を指すものと推測される。1945年、1946年は死亡者数が122人、40人となっ
ており、この 2 年間の「事故」による退所者はそれぞれ73人と135人である。2.28事件の起こった
1947年の入所者数は318人であり、表 2 の15年間では最も少ない 12。
7
賴尚和は台湾大学教員も務めており院長職との兼務は難しく、 1 年余りで大学に戻る。その後陳宗䌑院長が
赴任するまで 4 人の院長がいるが、いずれも短期間で交代している。
8
臺灣省立樂生療養院(1955)p.2
9
劉集成(2004)p.85
10
臺灣省立樂生療養院(1955)p.2 には、戦後国民党政府が接収してから医療スタッフを含む職員の「定員枠を
増員」した点についての記載はあるが、それがどれだけ充足できていたかについての記載はない。
11
当時一般入所者は省政府からの補助金しか受取れなかったが、国民党軍患者は軍部からの補助もあった。も
ともと戦後大陸から来た外省人たちと元から入所していた本省人は言語が通じず意思疎通にも大きな問題が
あったが、言葉の問題だけでなく、こうした入所者間の待遇差などで諍いも頻発していた(陳威彬(2001)
pp.59 ‒ 60)。
12
范燕秋(2010)pp.184 ‒185(范は1959年の『臺灣省立樂生療養院年刊』をもとに作成している。%部分は筆
者が小数点以下第2桁を四捨五入した。)
97 表 2 1945年 -1959年の楽生院入所者数の変遷
退所者内訳
死 亡
事 故
人数
%
人数
%
合 計
人数
%
人数
%
0.2
122
19.1
73
11.4
196
30.7
442
69.3
1
0.2
40
8.6
135
28.9
176
37.6
292
62.4
4
1.3
11
3.5
48
15.1
60
19.8
255
80.2
379
15
4.0
21
5.5
3
0.8
39
10.3
340
89.7
55
395
5
1.3
22
5.7
3
0.8
30
7.6
356
92.4
365
79
444
7
1.6
12
2.7
1
0.2
20
4.5
424
95.5
1951
424
112
536
11
2.0
27
5.0
3
0.6
41
7.7
495
92.4
1952
495
206
701
8
1.1
34
4.9
13
1.9
55
7.9
646
92.1
1953
646
99
745
8
1.0
22
3.0
63
8.5
93
12.5
652
87.5
1954
652
138
790
31
4.0
18
2.0
26
3.3
73
9.2
717
90.8
1955
717
122
839
11
1.3
9
1.0
4
0.5
24
2.9
815
97.1
1956
815
71
886
6
0.7
14
1.6
5
0.6
25
2.8
861
97.2
1957
861
108
969
26
2.7
14
1.4
4
0.4
44
4.5
925
95.5
1958
915
145
1070
33
3.0
9
0.8
13
1.2
55
5.1
1015
94.9
1959
1015
88
1102
64
5.8
8
0.7
4
0.4
76
6.9
1027
93.1
年
前年
留院数
新入
所者
総数
1945
576
62
638
1
1946
442
26
468
1947
292
26
318
1948
255
124
1949
340
1950
治 癒
人数
%
年末留院者数
(資料出所)范燕秋(2010)p.184
接収初期の楽生院一帯は新荘、桃園、海山の三行政区に接する僻地であり、植民地時代のように
警察も地元の不良分子を抑え込むような力をもたず周辺の治安が悪化、外部からも強盗等が院内に
侵入し、倉庫内の物資を強奪するなどした。院内でも比較的若く屈強な者を集め、自警団を組織し
たがあまり効果はなかった。地域の治安と院内の管理問題はかなり難しい局面を迎え、呉文龍院長
時代には院内の人事問題で外部の不良分子が侵入して暴力事件を起こし、呉院長はこの事件によっ
て引責辞任している。院内の医療や生活水準は悪化する一方であったため、呉院長は長官に対し
「患者の出入りを禁止するために間垣か鉄条網を整備すべきである」と陳情したが改善されないま
まであった 13。
1952年に連合勤務総司令部(以下、連勤総部と略)
、省衛生處、楽生院の三者間で「楽生療養院
の軍人患者収容拡大」について検討が進められ、軍の連勤総部が衛生處に対し「軍には患者を受け
入れる余裕がない」こと、
「この病気は悪性の伝染病で、患者が部隊にいると兵士の士気に関わり、
地域住民の健康にも害を及ぼす(すでに 8 人の待機患者がいる)
」こと、
「楽生院には収容余力があ
りそうなので、受け入れを拡大してもらいたい」「軍人患者(以下、軍患と略)にかかる医薬費、
ベッド、被服等は軍医署から楽生院に通知する」という連絡を送っている。
第一総医院 14 が楽生院の最大収容可能数を調べ、楽生院は「本院の最大受入れ数は一般患者500
名、軍患100名であり、すでに本院は軍患111名を収容し、定員を超過している。今後の軍患受け入
13
劉集成(2004)p.86
14
1958年に現在の「三軍総医院」となった。
98
れについてはそちらで収容を検討してもらいたい」と返信し、軍に断りをいれている。連勤総部は
省衛生處に電文を送り、さらに上級単位から楽生院の受け入れ拡大を要請している。軍からの要請
は 5 本の公文書に残されており、楽生院はこれを明確に断っている。また「受け入れの余裕なし」
「増加する軍患受け入れのためには病舎増築が必要で、22万 6 千元の経費が必要」と述べ、再三受
け入れ不可能を訴えている15。
こうした「財政難で受け入れられない」という回答に対し、アメリカから軍部に対して行われた
経済支援が楽生院の軍患のための病舎増築に使われることとなり、結果的に楽生院は断り切れず軍
患収容者数を拡大していくこととなる。国民党軍兵士たちは軽症者が多く、院内の力仕事なども請
け負ったが、比較的年齢層が若く管理も難しかった。内部で暴力抗争などがおこり、1954年に軍医
であった陳宗䌑院長が着任するまでは次々に院長が交代し、管理ができない無政府状態となり、院
史において最も悲惨な時代であったと記録されている16。
ここまでみてきたように国民党政府接収後の楽生院は機能停止状態にあったが、この時代に特筆
すべきことは1952年の陳文資院長時代に DDS 17 の使用が開始されたことである。これは中國農村
復興委員會(以下、農復會と略)18 によってもたらされたもので、当初は「試用」として送られ数
が足りず抽選で服用資格を決める状況ではあったが、患者にとってこの特効薬が導入されたことだ
けはこの時代の唯一の朗報 19 であった。
2 ‒ 2 .1954 ∼ 1965年(陳宗䌑院長時代)
陳宗䌑院長はキリスト教徒であり、軍医としての地位も高く、当初は就任依頼を断るつもりで
あったが、欧米ミッショナリーの批判に応える形で院長職就任を承諾し、その後積極的に楽生院の
改革に乗り出した。彼は政界、軍界ともに顔が広く、政治力もあった20。
1959年の『臺灣省立楽生療養院年刊』の中で、陳院長は楽生院の中に〈黒社会組織〉21 があると
明言している。軍人の多くは大陸で転戦している際に罹患しており、入所時は比較的症状も軽く、
身体障害も軽い者が多かったため、慣れない土地や環境のなかで同郷結社をつくって賭場を開き、
他の入所者や職員に対する暴力事件が頻発していた。陳院長は政治力を背景に、1954年着任後すぐ
15
16
17
范燕秋(2010)pp.192‒194
劉集成(2004)pp.84‒88
DDS はスルフォン系薬剤誘導体(Diamino -Diphenyl- Sulfone)の略語であり、現在多剤併用療法の中心的薬
剤として使われているリファンピシンが治療に使われるようになる前の代表的治療薬。日本での DDS 導入は
1953年頃といわれており、その経口薬をダプソンという。
18
19
Joint Commission on Rural Reconstruction(JCRR と略称される)
范燕秋(2010)pp.211‒212によると、当初は英国人医師がアフリカの黒人に合わせて使用料を制定しており、
台湾人には強すぎたため、服用過多で死亡した者や早く治りたい一心で多めに服用した患者、あるいは薬を隠し、
一気に服用して自殺した患者もおり、新薬治療の開始当初は悲惨な代償を払っているという。
20 劉集成(2004)pp.89‒91
21
闇組織のこと。
99 に黄総指令と軍患の規律問題について話し合い、1956年には悪質な軍患については、軍が特別設置
した「瑞芳禁閉室」送りとして楽生院から切り離し、そこに医師を派遣し治療にあたらせることと
した 22。陳院長着任後の管理は厳しくなり、院内整理のためとはいえ、そのやり方でかなり恨みを
買うこととなり、入所者たちの抵抗は水面下で行われるようになった。楽生院から新聞社に対して
匿名の密告などが送りつけられるようになり、院長批判が繰り返されたようである23。
陳院長は患者の管理問題については職員不足もあるため、患者たちの自治管理に委ねるのがよい
と考え、着任後間もなく1954年末に患者自治組織をたちあげた。ハンセン病は法定伝染病に指定さ
れており、当時楽生院入所者の飲食や日常生活にかかる経費は政府から供出されていた。日本植民
地時代は服や食事は無料であったが、戦争末期には配給が減り、接収後は物資不足で一部の患者た
ちは自炊を始めていた。1951年制定の〈省立樂生療養院住院病人管理辦法〉によれば、政府は食費
のみを提供することになっているが、1954年上半期の計画では患者の被服についても供給すること
となり、この時から院が患者の被服や布団等の必需品も提供することとなり、入院費用は完全無償
化に至った。また1955年 3 月には再び院によって食材や厨房が管理されるようになり、
〈公炊公膳〉
に多くの人が参加するようになって食事については改善がみられるようになった。
台湾接収後に大きく変化したのは宗教活動の活発化である。とくに1950年代は各宗教の活動拠点
が多く建設された。なかでもキリスト教徒の活動は募金や支援をはじめ、大きな力をもっていた。
管理や環境面での改善はみられたが、常に物資や人材が不足している状況のなかで欧米ミッショナ
リーたちの果たした役割は大きく、人材や物資の提供のみならず、この時期の楽生院には多方面で
影響を与えた。彼らは厳しい環境の中で献身的な努力をし、入所者たちからも厚い信頼と尊敬を集
めていたことが当時の新聞や楽生院史にも描かれている24。医療スタッフ 25 のみならず、ディクソン
夫人 26 は医薬品や食料品の支援だけでなく、
「慈愛之家」や「安樂之家」27、礼拝堂や〈職業治療
室〉28 などを次々に設立し、国際婦女會等もさまざまな支援を行った29。礼拝堂をつくったことでキ
22
また1958年6月には衛生、司法、軍、警察関係者が楽生院で会議を開き、入所者の犯罪、あるいは一般犯罪
者の有罪確定後の病気の発症に対処するための会議が開かれ、院内に「楽生分監」を設置することが決まった。
23 劉集成(2004)pp.89 ‒ 92
24
劉集成(2004)pp.95 ‒101
25
この時期の外国人スタッフはノルウェー籍の者が多い(臺灣省立樂生療養院(1955)p.4)が、後述する犀川
一夫が50年代後半に楽生院を訪問し矯正手術を行ったことなども記載されている(劉集成(2004)pp.100 ‒101)。
26 Lillian R. Dickson(1901‒1983)中国名を孫理蓮という。彼女は夫である James Dickson(1900 ‒1967)の医
療宣教について台湾を訪れ、1950年から楽生院でキリスト教徒の世話をしながら院内に教会や子どものための
施設をつくった。教会の傍らには彼女の像が建立された。
27
患者の子女や子供患者のための児童舎。
28
臺灣省立樂生療養院編(1955)p.14には「入所者がすることもなく終日過ごすことは精神衛生上よくないので、
患者作業委員会をたちあげて、院の監督協力のもと生産労働に従事させ、生産技術を学ばせる」とあり、楽生
院は統計資料の中で患者の入所前の職業や職業技能を調査している。
「職業治療はハンセン病治療の中でも重要
な位置を占める」
(p.33)とあるが、院にとっては当時の経費不足を埋めるものとして利用していた側面が強い。
29
60年代に行われた入所者福祉支援の多くが台北国際婦女協会によるものである。
100
リスト教徒の活動も活発化し、1955年時点での信者は300人あまりとなった30。
陳院長自身がキリスト教徒であったため海外からの支援は多かった。しかし50年代半ばになると
欧米からのミッショナリーたちは徐々に楽生院を離れ、山地や離島などさらに支援を求める人々の
ところへ出向いている。陳院長在任中に楽生院のハード面はかなり改善されたが、その経済的な援
助はほとんどアメリカによるものである31。しかし新しく建設された病舎建設の責任は台湾政府が
担い、また出来上がった建物は増加した軍患が使用したため、軍の退輔會が関係したものだとみら
れるなど、どのように援助を受けて建てられたものか外からは分かりにくい状況にあった。この時
代は外部からの経済的支援によってさまざまな施設がたてられた 32。
楽生院の〈国語〉33 教育も陳院長が始めたものである。接収直後は職員も入所者もほとんどが本省
人であったため言語について特段考慮されることはなかったが、1950年前後に外省人が職員や患者
として楽生院にはいってくると言語問題が大きくなる。職員間で意思の疎通が困難であると職務に
支障をきたすが、患者間でもコミュニケーションが難しいと大小のトラブルが発生する34。そこで
陳院長は仏教徒である若い賴医師に国語講師を頼んだが、本省人はそれほど熱心に国語を学ばず、
また外省人も閩南語を勉強しようとはしなかったので、言語問題は楽生院に微妙な影をおとした。
陳院長は積極的に楽生院の改革を行ったが、なかでも患者の退院を勧めることはもっとも大きな
変革であった。まず患者地区の鉄条網と消毒溝を廃止 35し、感染力のない患者の外出を奨励し、特
効薬 DDS の出現によってそれまでにあった結婚時の結紮条項なども撤廃した。また1954年には患
者の投票権を獲得し、1956年に台北県の郷鎮長選挙に参加できるようにした。
1949年に衛生處が行った各地のハンセン病患者調査においては楽生院が「検査と収容」の任務を
負ったが、その 2 年後、政府は正式に台湾全土のハンセン病予防に関する業務を楽生院に任せ、
1950年の楽生院組織規定第 1 条では、楽生院が「衛生處の管轄下におかれ、台湾全土のハンセン病
予防治療研究と人員訓練を行う」ことが明記された。しかし実際にこれが実施されるのは陳院長着
任後、1954年 3 月に「予防科」が外来診療部を開設し、院外患者の検診と治療を行うようになって
30
楽生院には仏教徒もいたが、キリスト教会のように実際の治療や救済支援などは行っていない。50年代に入っ
てからは仏堂がつくられ、活動が活発になると院外の仏教界からも注目されるようになり、外部からの参観者
や講釈の機会も増えた(劉集成(2004)pp.128 ‒138)
。
31
臺灣省立樂生療養院編(1955)p.7 の財務状況概況には必要な設備施設について「衛生處の許可を得て、美援
運用委員会と安全分署に必要な経費を申請」したと記述されており、アメリカの経済支援はこの時期の楽生院
にとって大きな位置を占めていたことがわかる。
32
この時期に建設されたものは劉集成(2004)pp.103 ‒105に詳細な記述がみられる。
33
ここでいう〈国語〉は大陸で使われる北京語を中心とする中国語(北京官話ともいう)のことである。台湾
の本省人が使う言語は閩南語を中心とする「台湾語」であり、両者は外国語といえるほど異なる。
34
陳院長自身も江西人であり、本省人が使う閩南語がわからず、院内に日本語が分かる人はいても外省人が使
う「国語」が分かる人はほとんどいなかった。
35
1949年の〈臺灣省痲瘋病防治規則〉には、患者が使用したものを「消毒」あるいは「焼却」する規定がもり
こまれていた。
101 からである。この外来診療部の開設は楽生院のその後の運営に大きな影響を与えることとなる36。
1960年に楽生院は外来診療を大幅に拡大し、台北、基隆、新竹、苗栗、宜蘭の地区衛生局にハン
セン病外来を設けた。また TLRA37も前後して彰化、嘉義、台南、台中、高雄、屏東、澎湖に特別
皮膚科外来を設置し、ハンセン病の治療にあたった 38。1962年の新しい〈防治規則〉では、ハンセン
病患者が楽生院以外でも外来診療を受診できることを明記した。1965年には楽生院で「予防訓練
班」がつくられ、各省立医院及び衛生局、衛生處の医師が医療スタッフの訓練を行い、各縣市の開
業医や小中学校の保健教師や地域幹部などに啓蒙活動を行うようになった。
こうして楽生院が予防センターとしての機能を果たすようになっていく過程で、陳院長も各方面
の専門家を動員し、ハンセン病予防組織をつくるよう働きかけ、1959年に夏衛生處長のもとで〈臺
灣省癩病防治委員會〉がつくられた。楽生院は公立病院としての地位は決して高くはなかったが、
新しくできたこの委員会は衛生處長直属であり、各地の公立医院と衛生處が協力しながらハンセン
病の外来診療を行うことになった。委員会の主任委員は楽生院長が兼務し、実施スタッフも楽生院
の職員が兼務したので、楽生院はハンセン病予防政策の執行協力機関となった。またこの委員会の
成立が楽生院の地位を高め、各地の公立病院や衛生處との協力や医療スタッフのハンセン病予防訓
練の派遣を受け入れることで、楽生院の予防センターとしての方向性が形作られていく39。
陳院長はこうした外来診療への移行とともに、患者の社会復帰を進めようとする。開放政策の一
環として患者が外で仕事を求めることも奨励されたが、実際には雇用主の偏見が強く、なかなか進
まなかった 40。雇用主が排除しなくとも、職を求めに行くときに公共交通で乗車拒否に遭うことも
多く41、退所しても家族や近所の住人に拒絶され、再び院に戻る患者も少なくなかった時代である。
軽快者が外で働くことが困難であったため、楽生院は1959年から〈職業治療室〉を増設している。
リハビリを兼ね、そこで製作したものを外部で販売し、また院内の工事を請負わせたりした。また
陳院長は退所後の患者が社会から排除されることを憂慮し、特別に「退院試行期間」として半年間
の猶予制度をつくり、退所後の患者が戻ることを可能にした。また社会の人々の偏見を取り除くた
36
この前後に楽生院は予防センター機能を果たすため、前後のハンセン病外来の巡回を希望したが政府予算が
つかず、長老教会との提携に切替え、台北、澎湖、彰化、台湾、高雄、屏東の 6 か所の教会病院が外来診療を行っ
た。1956年には楽生院から巡回検診隊を罹患率の高い澎湖に派遣している。
37
キリスト教臺灣痲瘋救済協会のこと。台湾のハンセン病救済に尽力した G. Gushue-Taylor(中国名:戴仁壽)
が1954年に亡くなり、 4 名のミッショナリーによって創設された。彼の意志を継ぎ、さまざまな国籍のミッショ
ナリーがこの協会のもとに医療活動を行った。
38
同年、農復会と WHO、ユニセフの協力により 2 組の巡回検診隊を組織し、 4 年をかけて全省21県市で巡回
検診を行っている。
39
劉集成(2004)pp.146 ‒148
40
1962年に法律が改正されるまで、ハンセン病者の求職は断ることが可能であった。
41
1950年代は交通が不便で他に選択肢もなかったので、入所者は乗車拒否に遭わないために 1 つ手前もしくは
1 つ先の停留所で乗降し、楽生院からきたことをわからないようにし、手や顔の後遺症を隠し、周囲に患者であっ
たことがわからないような工夫が必要であった。
102
めに楽生院の見学も積極的に行った42。しかしこうした人々は、自分たちが入所者の「生活の場」に
踏み込んでいることには無自覚であり、結果的に院側の善意は偏見が持ち込まれることによって挫
折を余儀なくされる。このような開放政策が効果をあげるには、まだ長い道のりが必要だったので
ある。
2 ‒ 3 .1966年 ∼ 1974年(游天翔院長時代)
陳宗䌑院長は1966年に脳溢血で亡くなり、後任として楽生院に着任したのはやはり軍医であった
游天翔院長である。このときすでに楽生院は台湾のハンセン病予防を担う中心的な役割を果たすよ
うになっていたが、この時期は陳院長在任後期の運営困難がまだ続いていた。すなわち1960年代の
楽生院は収容患者数が1,000人を超える状態がずっと続いていたのである。外来診療を開始してす
でに何年も経過していたが、この当時新患発生はまだ相当数にのぼっていた。楽生院の環境は改善
されたこともあり、世間で差別を受ける患者たちは身を隠せる場所を探して楽生院への入所を希望
した。そしていったん入所するとなかなか退所には至らず、結果的に入所者の減少にはあまりつな
がっていなかったのである。
先にみたように1950年代には新たな病舎などが建設され、収容可能数は960人となったが、それ
はあくまでも理論上はおそらく可能だという「ベッド配置可能数」にすぎなかった。ベッド数と
いってもシングルサイズの粗末なものであり、70年代までの楽生院は狭い部屋にベッド 2 ∼ 3 床、
通路のある大型病舎では 1 部屋に10数床が一般的であった。軍の退輔會が建てた病舎には 1 人 1 部
屋の病舎もあったが、かろうじて身体を動かせる程度の空間に過ぎなかった。こうした環境や設備
は一般病院に劣るうえに入所者の多くが長期入所で退院していかないため、居住環境は狭小劣悪で
あり、耐えられない人々は自分たちで外に粗末な茅小屋をつくって住んだ。しかし関係部署が新た
に楽生院に新病舎を建設する考えはなく、こうした状況は財務、管理、医療の質にも大きな影響を
与えた。
1960年代末期になると楽生院が主導してきたハンセン病予防が功を奏し、ようやく新患発生数が
減少へと転化する。収容者が多いという困難な状況を政府が軽視している間に、
「自然」とこの問
題が解決へ向かっていくという皮肉な状況になるのである 43。後述する游院長在任中の「人体実験」
事件などについて院史には記載がないことは特筆すべき点である。
2 ‒ 4 .楽生療養院ホームページ
現在、楽生院は対外的に配布しているパンフレットおよびホームページに設立から現在にいたる
42
年表を確認すると陳院長が着任した1954年から外部者の参観が増加している。当初は外国人、ミッショナ
リー、医療関係者などが多いが、1955年には台湾銀行公庫部が一般社会人としては初めて参加するなどそれな
りの見学者がいた(樂生療養院(1955)pp.58 ‒ 68)
。
43
劉集成(2004)pp.151‒153
103 院史年表を掲載している。
2008年に筆者が入手した楽生院の紹介パンフレットに掲載されている沿革と、2013年 5 月44 時点
で楽生院のホームページ 45 に掲載されていた院の沿革を翻訳し、1990年代までの部分をまとめたも
のが表 3 である46。パンフレットとホームページの記載の仕方は若干異なるところがあるため、ホー
ムページに掲載され、パンフレットには掲載されていなかった部分を太字にして区別してある。
表 3 1990年代までの楽生院沿革
1930(昭和 5 )年
4 月 「台湾総督府楽生院」が正式に成立。台湾省初の唯一の公立ハンセン病治療院となる
10月 台湾総督府がハンセン病専門医上川豊を楽生院の院長に任命
12月 楽生院が患者の収容を開始
1934(昭和 9 )年
6月
台湾総督府が「台湾ハンセン病予防法」を頒布、10月 1 日から施行
1945(民國34)年 12月 前台湾省衛生局が楽生院を接収、
「台湾省立楽生療養院」と改名
患者数が400人を超え、29棟の病舎を増築
1952(民國41)年 10月 キリスト教信者が「聖望礼拝堂」を建立
楽生院で DDS の使用を開始、ハンセン病根治の可能性が出る
1954(民國43)年
1月
患者の分区自治制度を設け、管理制度を制定
5月
仏教徒が「棲蓮精舎」を建立
11月 患者 5 人が治癒退院、これより患者の正式退院開始
1956(民國45)年
6月
台北県郷鎮長の改選にあたり、楽生療養院の患者が院内の大礼堂において初の投票権行使
1957(民國46)年
6月
国軍退除役官兵輔導委員会(退輔会)主任委員蒋經國が本院視察
退輔会が病舎増築、栄民(退役軍人)ハンセン病患者の収容を開始、病舎が42棟となる
1959(民國48)年 10月 「台湾省ハンセン病防治委員会」成立、台北市が第一回会議開催
台湾全土のハンセン病予防に関する任務が楽生院に任されることとなる
1960(民國49)年
台湾全土でハンセン病の巡回検診が行われ、台湾全土の案件が管理されることとなる
1960年代
収容患者数の最高が1,118人に達する
1962(民國51)年
3月
台湾省政府が「台湾省ハンセン病防治規則」を公布
1969(民國58)年
8月
教育部がハンセン病に関する項目を中学教科書に編入、国民に対する知識普及を図る
1976(民國65)年
8月
台湾省政府が「台湾省ハンセン病予防強化10年計画」を推進
1986(民國75)年
5月
台湾省政府が「台湾省ハンセン病予防強化10年計画の後続計画」を推進
宋美齢夫人が中華婦女反共抗俄連合会会員を伴い本院を慰問
1975(民國64)年
謝主席がハンセン病患者の収容を重視し、病舎を60棟、970床に増築
ハンセン病を「治療」から「予防」重視に転換し、30年後の完全制圧と楽生療養院の運用
停止を目標とする
(資料出所)
楽生院配布用パンフレットおよびホームページ
44
筆者がホームページで最初に年表を確認したのは2011年であるが、2013年になると内容にいくつかの改変が
みられた。顕著なものはパンフレット等で「癩病」と記載されていた表記が、すべて「ハンセン病」に書き換え
られていたことである。
45
楽生療養院ホームページ http://www.lslp.doh.gov.tw/(2013年 5 月31日最終アクセス)
46
明らかに年号の記載ミスと思われる箇所は、筆者が関連文献で確認のうえ訂正を加えている。
104
この楽生院の沿革はホームページ上で公開され、英訳もついているものである。楽生院は衛生福
利部 47 管轄下におかれ、こうした年表の監修や内容に関する責任は衛生福利部が負い、政府により
公刊されたものとみなされる。そのため戦後は1954年11月に「患者 5 人が治癒退院」し、その後
「患者の正式退院が開始された」とあり、また1956年には院内で「初の投票権が行使」され、1959
年には楽生院が「台湾全土のハンセン病に関する任務を任された」とある。こうした記述をみると
戦後の台湾では徐々に患者の人権が回復され、日本統治時代とは異なる運営がされたようにみえる
が、しかし実際には1962年の「ハンセン病防治規則」施行後も、軽快退所者の社会復帰には困難が
伴っていたことなどは窺い知ることができない。
本稿では省略しているが、2000年代以降は新病棟の建設後、如何に病院機能を充実させてきたか
という記事が増える。元患者を原告とする日本政府に対する国賠訴訟に関する記事はなく、2008年
に「ハンセン病患者の人権保障および補償条例」が公布施行された点のみの記載にとどまっており、
1986年の「治療から予防へ」という記事以降、楽生院は明らかに新病院に重点を移した記載となっ
ており、いかに優れた病院として評価されているかということに集約されている。ハンセン病療養
所としての楽生院の歴史はこのホームページで見る限り「過去の遺物」として「決着済み」の扱い
であり、台湾政府に不都合なことはあまり触れられていない点を注意して読む必要があるだろう。
3 .日本人医師の記録
1950年代後半から1960年代にかけて楽生院を訪れた 2 人の日本人医師がいる。 1 人は野島泰治で
あり、1933(昭和 8 )年から35年にわたって大島療養所の所長をつとめた人物である48。彼は1956
(昭和31)年と1964(昭和39)年の 2 回にわたって台湾へ行き、楽生院を訪れた記録 49を残している。
もう 1 人は犀川一夫である。彼は1944年から1960年まで長島愛生園に勤務し、1971年から沖縄愛
楽園長をつとめた医師である。敬虔なキリスト教徒であり、1960年 5 月から台湾痲瘋救済協会
(TLRA)の要請で台湾に赴任し台南診療所で患者の治療にあたり、1964年11月に世界保健機構
(WHO)西太平洋地区事務局のハンセン病専門官となって1970年末まで10年余り台湾のハンセン病
対策に尽力した 50。
野島は訪問者として楽生院を訪れており、彼の記録は外部者からみた感想にとどまっているが、
犀川は1958年の初回訪台時にも楽生院の患者手術を行い、1960年からは10年にわたって台湾の外来
47
日本の厚生労働省にあたる行政組織。2013年 7 月の行政改革により、公共衛生と社会福祉関連部門をあわせ
た衛生福利部が設置された。前身は行政院衛生署で、楽生院も衛生署管轄から衛生福利部管轄に移行した。
48 野島泰治(1896 ‒1970)は1927年より41年にわたって大島青松療養所に勤務した。
49
野島泰治(1973)
『祈る:らい医師の海外紀行』
(野島冨美発行 非売品:国立ハンセン病資料館蔵書)
50
犀川は長島愛生園時代にハンセン病治療にプロミンを用い、治る病となったハンセン病の外来診療普及に尽
力し、台湾での WHO の仕事に区切りをつけて、1971年∼1987年まで沖縄愛楽園長をつとめ、沖縄の在宅医療を
進めた。2001年のハンセン病国賠訴訟においては元患者(原告)側証人となった。
105 診療定着に向けて奔走し、この時期のハンセン病政策変遷の渦中にいた人物である。本節では犀川
医師の記録から、1950年代後半から1960年代の台湾におけるハンセン病の周辺環境をみていきたい。
[犀川一夫の記録]
3 ‒ 1 .台湾赴任前
犀川と楽生院の関わりは1957(昭和32)年に、楽生院の陳宗䌑院長が当時犀川の勤務先であった
長島愛生園を訪問見学したところから始まった 51。犀川は陳院長の案内係となり、陳院長から当時
台湾では年間400名近い新患が発生していることや日本植民地時代の隔離政策が継承されているこ
とを聴いている。
翌1958年に台湾医学総会が台中市で開かれ、ハンセン病理学をテーマとする特別講座の講師とし
て犀川は台湾を訪れている。当時まだ台湾では「らい学会」が結成されておらず、犀川の講演は学
者や医師の関心を集め、台湾大学と台北医学院での公演も行った。学会終了後は政府の要請により
台湾各地のハンセン病事情を視察 52し、各保健所のハンセン病担当医や省立病院の皮膚科医を対象
とする研修会も実施している。犀川の実施する患者の後遺症への矯正外科への関心はとくに高かっ
たようである。
このとき犀川は楽生院を訪問しており、入所者800名ほどのなかで75%は台湾出身の本省人、残
りは戦後中国大陸から来た外省人患者であった53。楽生院は隔離方式を脱却する方向で動いてはい
たが、実際にはこの1958年当時にはまだ隔離政策が行われ、日本時代から継続していた「らい予防
法」で運営されており、省政府委員で予防法改正の責任者(候全成)は依然として日本のハンセン
病政策に倣って実施したい意向をもっていたという54。
台湾医学会の講演後、訪問した楽生院で犀川は矯正手術を医師たちに供覧し、ハンセン病後遺症
に対するリハビリ医療に関心を示した台湾政府衛生處から1959年、日本の厚生省に対し矯正手術の
技術指導のために渡台を要請されている。犀川は楽生院では「手術希望者が多く、選択に困るほど
51
ここからの記述はすべて犀川一夫(1989)『門は開かれて:らい医の悲願─四十年の道』(みすず書房)第 7
章∼第 9 章(pp.140‒247)によるものである。110頁にわたる台湾関連部分は時系列で書かれていたわけではな
いので、筆者が再構成した。
52
当時のハンセン病療養所は楽生院と台湾痲瘋協会所属の私立楽山園の 2 か所で、そのほか協会傘下の外来診
療所が全島に 5 か所あり、こうしたミッショナリーの外来治療の実情がよくわかったと書かれている。
53
犀川は1958年の楽山園についても記録している。当時の入園者は60人、オーストラリア人女医と 2 人の看護
師で運営されていた。創設者テイラーが自給自足を考えてコロニー設置計画をたてていたことや、広い構内の
「いいぎり」の林をみて、創設当時唯一の治療薬だった「大風子油」を絞る医療の自給自足を考えていたのだろ
うと述べている。犀川自身は TLRA の医務部長として65年から園長として 4 ヶ月程度家族とともに楽山園で生
活している(犀川(1989)pp.183‒187)
。
54
犀川は法改正の意見を求められたときに、ハンセン病医療の世界的趨勢を述べ、
「日本では法改正が難しい事
情があるが、台湾はぜひ隔離によらぬ外来治療制度を主軸とした予防法に改正してもらいたい」と進言してい
る(犀川(1989)p.143)
。
106
であり、毎日のように外科医を助手に手術を教え、手術に明け暮れた」55と述懐している。同年 3
月に楽生院での矯正手術がひと段落してから香港に渡り56、犀川はこの頃から世界ではハンセン病
専用の施設不要論が台頭しはじめていたことを指摘している。この 2 度目の渡台時に台湾痲瘋救済
協会(TLRA)が開設している外来診療所の会長と台湾の外来診療充実のために率直な意見交換を
行った。
3 ‒ 2 .TLRA 57 時代
その後犀川はこの TLRA からの招聘で台湾にハンセン病専門医として赴任することになり、長
島愛生園を退官し、1960(昭和35)年 5 月に台湾に向かった。当初犀川の身分は日本基督教団海外
宣教委員会の派遣、日本 MTL58の協力という形であったが、医療従事者であることからキリスト
教海外医療協会(JOCS)の派遣の形をとったものとなる。
犀川が赴任したのは台南外来診療所である。台南診療所は台南市郊外の旧日本時代の伝染病隔離
病棟を使用していた。当時台南市周辺はハンセン病濃厚地として有名であり、市の登録患者数は
300人ほど、市周辺にはなお推定の 2 倍ほどの患者がいると考えられていた。犀川は痲瘋協会全体
の医療と台南診療所の担当医を兼務し、この診療所はミッショナリー看護師、検査技師、リハビリ
担当者、看護助手を含め10人ほどのスタッフで構成されていた 59。
痲瘋協会は犀川の着任を機に台南診療所に教会全体のリハビリセンターを付設し、矯正外科、理
学療法、職業補導の機能をもった施設建設の計画をたて、理事会はその仕事を犀川に一任した。犀
川は建設のための資金集めを行い、日本の教会学校連盟や社会運動をしていた篤志家により病室や
手術室、理学療法室を整備した。また台湾政府のハンセン病対策委員会に交渉し、病床50床の整備
も行なった 60。
台南の西海岸地域はハンセン病濃厚地区が多いため、センターの仕事のほかに犀川は台南周辺地
55
犀川(1989)p.142, p.146
56
この当時香港では英国 MTL が喜霊州という島に療養所を設けている一方、香港政府が各保健所内に外来治
療所を設け、ハンセン病の治療にあたっていた。また巡回診療も行っており、医師のほか検査技師、ケースワー
カーが一緒に乗り込み、医師の診察がすむと患者は技師やケースワーカーと面談し、治療のみならず生活サポー
トにも携わっていた(犀川(1989)p.150)
。
57
Taiwan Leprosy Relief Association
58
Mission to Lepers(1965年に現在の The Leprosy Mission と改称された)ハンセン病問題に取り組むキリス
ト教の国際的支援活動で、本部はロンドンにおかれている。
59
当時犀川はこの仕事にハンセン病回復者を参加させて共に働く方針をとっており、スタッフの半数は回復者
であった。また痲瘋協会の診療所はどこも患者とともにキリスト教の礼拝をもって仕事を始めるため、専任の
牧師も抱えていた(犀川(1989)p.180)
。
60
当時の台湾では理学療法士を得るのは至難だったが、理学療法士の資格をもつ米軍顧問団の高級将校夫人が
ボランティアとして週 2 回奉仕に通ってくれた。また薬剤師、革細工の仕事にも米人ボランティアの協力を得
られ、彼らの身分等から考えても「米国人のその積極的な奉仕精神は東洋では考えられない」と述懐している
(犀川(1989)p.181)。
107 域に移動診療班を出している。ハンセン病のみならず医療に恵まれない地域住民の医療サービスも
行い、住民から歓迎されただけでなく、この家庭訪問により、患者と接している家族や児童を検診
する機会が得られたので、検診によって初期の小児患者が発見できたことが収穫だったという61。
台南診療所では、牧師がケースワーカーも兼ねて患者の家庭訪問も行っていた。患者が診療に長
期間来ないことがあれば患家を訪ね、受診の勧奨や薬を届けて不規則治療を予防し、犀川が行う家
族検診にも同行した 62。
また犀川は台南診療所の外来治療における対照的な 2 例の親子の姿を記録している63。 1 例目は
医者を志望する息子がいる男性外来患者の事例である。この息子を検診したところ類結核型ハンセ
ン病の初期であり、犀川は 3 年間励まし続け、この息子は台湾大学医学部に進学した。米国に留学
したのち米国で就職し、その妹も治癒して結婚し 2 人の子供の母となった。犀川はこの親子につい
て「外来治療を受けていた彼ら親子 3 人が、あの時もし療養所に入っていたら、今頃どうなったで
あろうか」と語っている。また楽生院を軽快退所した 1 人の回復者が犀川らスタッフの勧めにより
故郷に帰った後、母親が周囲の目を気にして帰郷を歓迎してくれず、その冷たい処遇に耐えられず
姿を消したという事例をあげ、この当時の社会的偏見の強さを記録している。
台南診療所での外来治療は、日本から専門医と看護婦が来たという評判が広がって近郷からもハ
ンセン病患者が集まり、診療所の登録患者は一時400人を超した。こうなるとハンセン病以外の合
併症をもつ患者の治療も必要になるので、台南市で開業している自身の大学同窓生に合併症の治療
を依頼しようと考えたが、「戦前に医学を学んだ医師たちは、ハンセン病は治らない、しかも恐ろ
しい伝染病と教えられており、巷の評判も気にしてか、患者の治療を初めはなかなか承知してくれ
なかった」64。犀川の説得もあり、最終的には同窓のよしみもあって入院治療を引受けてくれたが、
こうしたことはそれまで台南市では前例がなく、犀川はこれを突破口として台南市の省立病院にも
働きかけ協力を取り付けた。台南市以外のキリスト教病院ではすでに患者の合併症治療に協力を得
られていたので、台湾南部地域では一般医療機関の協力態勢がほぼ整ったが、このような状況にこ
ぎつけるまでには、犀川が台南で仕事を始めてから 5 年が経過していたという。またその頃台湾で
は医師間で「手の外科」の関心が高まり始め、犀川は依頼があれば出かけて手術のデモンストレー
ションも行い、このことも一般病院との連携にプラスに働いたのだろうと書いている65。
また台湾におけるハンセン病に関する社会的偏見をとりのぞくために、犀川は台湾に現存するこ
61
診療所に患者がやってくるのを待つのではなく、積極的にこちらから出向くことで早期に患者を発見し、在
宅で治療を行うことが犀川の理想とするところであり、犀川の仕事に対しては日本人後援会もでき、その支援
で彼は巡回診療のためのバイクを購入し毎日飛び回っていたという。
62
外来治療は不規則になりがちなため、そのような配慮がないと成果があがらないといい、記録の中でも牧師
の働きを褒めている。
63
犀川(1989)pp.200 ‒202
64
犀川(1989)p.203
65
犀川(1989)pp.202‒203
108
の病気に関わる迷信や言い伝えに関しても調査している。そのなかである日新聞に看護学生がある
ハンセン病に罹患した医学生との失恋で自殺した記事が掲載されたが、看護学生は相手が「放痲
瘋」66 のために彼女とつきあい、その目的を果たして彼女を捨てたと誤解し自らの命を絶ったとい
う。「この時代になおそのような迷信が浸透し、しかも若く、将来医療に携わる人たちの間に起
こった事件」
として犀川は大きな衝撃を受けたと記している67。またハンセン病を題材とした誤った
内容の映画の上映中止を求め、
「この時ほどハンセン病の正しい知識を社会のあらゆる人々に伝え
る必要性を痛感したことはなかった」68 と述懐している。
犀川が台南に赴任して 5 年で台南外来診療所にはリハビリセンターも付設され、台湾痲瘋協会の
組織も整い、協会は全島で約1,500名の患者を外来診療所で治療し、リハビリの仕事も順調に進む
ようになっていた。犀川は1963年に協会の医務部長となり、国民性のそれぞれ違う外国人医師や看
護師、牧師たちを協調させながら痲瘋協会の 7 つの施設の仕事を進めることとなったが、仕事とし
ては外国人と現地、中国・台湾の人たちとの意見調整で果たした役割が大きかったようである。
一方で政府のハンセン病対策は予防法が改正され、防治委員会が発足して組織は整ったものの、
対策が思うほど進展せず問題となっていた。ハンセン病防治委員会は、政府および痲瘋協会の関係
者によって構成され、犀川も委員の 1 人だったが、政府と痲瘋協会、すなわちミッショナリーたち
とはハンセン病の仕事に対する考え方にずれがあり、委員会ではしばしば意見が対立したという。
例えば防遏を第一に考える政府は、全台湾の患者をリストアップして家族検診を積極的に進めたい
とするが、痲瘋協会の人たちは患者のプライバシーを守ることを主張し、各診療所のもっている名
簿の提出に反対した。家族検診は患者をよく知る現地の痲瘋協会診療所が実施するもので、中央の
政府機関が行うべきでないと意見が対立したという69。
犀川は政府が役所の仕事として現地に直接乗り込むのはいたずらに病者の間に警戒心や抵抗、引
いては混乱を起こすとの持論をもっていたが、協会だけでは家族検診を積極的に進めていくマンパ
ワーが不足しているのもまた事実であった。そのため犀川はハンセン病者のプライバシーを守るこ
とを行政側の人にも強調し、地方検診には両者合同実施を提案して決着をつけた。
3 ‒ 3 .WHO時代
1964年秋には WHO が台湾にハンセン病専門医を派遣する計画を進め、台湾政府が主体的に対策
を進めるために、アメリカ MTL 会長の勧めもあり、犀川は国連スタッフとして採用される。犀川
は WHO への移籍後も痲瘋協会に理事の 1 人として残り、政府と協会の橋渡し役を政府側に身を置
66
ハンセン病を病んだ者が健康な別の異性と性交渉をもつことによって、病気を他人にうつして治るという迷
信。もとは女性患者のみに有効とされていたが、のちに男性にも効果があるようにいわれるようになったという。
「放痲瘋」と「賣痲瘋」は同じ意味。
67 犀川(1989)pp.207‒208
68
69
犀川(1989)p.206‒207
犀川(1989)pp.222‒224
109 いて果たしていくことになった。
その当時台湾で働いていた WHO スタッフは常に 7 ∼ 8 名ほどおり、各専門官の仕事は衛生工学
から衛生教育に至るまで幅広かった。WHO の仕事は政府の政策について専門的な助言を行う顧問
的存在である。各スタッフは政府の任命したそれぞれのカウンターパートと組んで仕事を進めるス
タイルをとり、このときの犀川のカウンターパートは楽生院の游天翔院長であった。
専門官としての犀川には楽生院内に事務室と秘書がついた。この時の楽生院は「日本時代のもの
をそのまま流用し、ハンセン病に対しても保守的な考え方が根強く、痲瘋協会のように開放的では
なかった」70 と犀川は書いている。建物は日本時代に台湾総督府が建てたもので、各所に隔離政策
時代の名残があり、患者地域と職員地域の間すら塀で区切られていたので、犀川は訪問者に対する
病への啓蒙のためにもこれを取り除くことを院長に進言した。また当面の目標を台湾全島のハンセ
ン病入院患者と外来患者の比率を 1 : 3 程度にすることとし、軽快した患者を極力退院させ、院内
の予防科に付設した外来診療所に移して経過観察する方式を進め、予防科に入院患者数と外来患者
数の比較表作成を指示した 71。
台湾政府は防治委員会の答申で、基隆、新竹、苗栗等の保健所にハンセン病外来診療所を作った
が、専門医がいないため、治療は思うように進展していない状況にあった。このため犀川は楽生院
予防科から定期的に職員を派遣し、犀川自身も時々巡回することとした。当時台湾では年間350名
程度の新患が発生し、ハンセン病は公衆衛生上の重要な問題となっていたため、この病気を公衆衛
生行政に組み入れる新たな考え方として、台北市にあった〈公共衛生示範中心〉でハンセン病の外
来治療を始めている。このセンターは台湾大学公共衛生研究所と衛生處が作り、公衆衛生に関する
プログラムを一括して揃え、関係者への研修の場とする施設であった。台湾大学公共衛生研究所の
頼尚和教授の死去後、医学部非常勤講師となった犀川は大学の講義のほかに毎週この〈示範中心〉
で医学生たちにハンセン病に関する教育を担当し、彼らが将来台湾のどこでどのような医療に従事
しても、一通りのハンセン病の知識をもって仕事にあたることを目指した。
ハンセン病の「発生患者を減少させることは政府の一大関心事」72 だったと犀川は述べており、
移動検診班活動を積極的に推進し、接触者家族検診を実施する計画をたて、移動班は計画的にハン
セン病濃厚地や保健所を回って患者の発見に努めた。慣れない政府側職員が行って現地でトラブル
が起こっては困るので、この検診には犀川が同行し、現地の痲瘋協会のスタッフと合同で仕事を進
めた。楽生院の職員が行くと警戒して逃げ隠れする患者も、痲瘋協会時代に家庭訪問を行っていた
犀川が行くと、子供たちとともに進んで検診を受けてくれたという73。
70
犀川(1989)p.232
71
犀川(1989)p.232
72
犀川(1989)p.233
73
この点について犀川は 5 年におよぶ痲瘋協会での仕事が基盤となって WHO の仕事も円滑に運び、心配され
た移動班の検診も現地でトラブルなく進められたと書いている(犀川(1989)p.233‒234)。
110
また1966年74の米国海軍第二医学研究所の熱帯研究部の医師と楽生院の医師とによる「人体実験」
についても記載されている。その頃はまだ動物実験ができない時代であったため、研究者は直接患
者に試みざるを得なかったが、彼らの行った免疫反応実験では約半数の患者に重い副作用が出た。
患者らがこの 2 人の医師に賠償を求める騒動になり、米人医師から電話を受け、楽生院の游院長か
らも事態の収拾を求められた犀川が仲裁に入り、患者とは信頼関係が構築されている犀川自身が直
接治療にあたるので、手荒なことはしないでほしいと患者を説得した。この事件以来、犀川は第二
医学研究所の顧問も引き受けることとなり、後日この研究所と WHO 台北事務所、台湾大学医学部
の共同調査班をつくり、台湾海軍の協力を得て蘭嶼島の疫学調査も行った75。
1970年に WHO 本部からハンセン病主任が東南アジアのハンセン病事情を視察に来て台湾に寄っ
た際には、台湾のハンセン病新患発生数はようやく減少をたどり、年間80名を割って10年前の 4 分
の 1 となった。また政府の対策もようやく軌道にのり、保健所や省立病院のハンセン病外来治療も
順調に行われるようになっていた。またハンセン病の一般医療、保健への組み入れ体制が進んでい
ること、またハンセン病のために働く現地医師の充実が高く評価されたことで、犀川は残り 1 年で
台湾のハンセン病コントロールとリハビリ医療を締めくくって台湾の仕事を終え、ナイジェリアへ
転勤することが決まった。犀川の言葉を借りれば「ハンセン病の仕事はだいたい10年もすれば一区
切りつくもの」76 だとのことだが、犀川はこの後、WHO を辞してナイジェリアには行かず、本土へ
の復帰を控えた沖縄のハンセン病対策のため沖縄へ向かった。
3 ‒ 4 .小括
紙幅の都合により本稿では割愛しているが、野島は1956年の初回訪問時の楽生院の 1 日あたりの
副食費が「一般病院の半額」であると述べている。また1964年の 2 回目の訪問時にも食費の記載が
あるが、楽生院は 1 人あたり日本円で 1 ヶ月1,800円ほど、私立楽山園は 1 人月300円程度だと記録
している。野島はアメリカからの支援の多さにも驚いているが、1956年当時はアメリカ支援で建て
られた病舎が未完成で、昔の解剖室や大会堂に間仕切りをして病室とし、
「相当に不自由している」
ことが書かれている。山を切り拓いて階段状に家族舎がある点も「はじめからこの形態でやったか
らなんとかやれたのであり、うちの大島で、これからこんな山を利用して家をつくるといったら、
早速反対が出るであろうと思った」と述べている77。
また1964年には外来診療を行っている馬偕病院も訪問しており、痲瘋救済協会が負担するため治
療費が無料であること、外来診療は週 2 回、 1 日平均20名程度が受診しており、
「登録」されてい
74
犀川の著書では「1968年」と記載されているが、范燕秋(2010)p.213によると、これは犀川の記憶違いで
1966年 7 月のことだと記載されており、本稿は范の記載を採用する。
75 犀川(1989)pp.234‒237
76
77
犀川(1989)pp.244‒245
野島(1973)pp.20‒23
111 る患者が230名、うち190名が治療をうけにきていたとある。また野島は「入口は別だが一般病院内
であるだけに差別的気分は少ないであろう」と書いているが、馬偕病院でも一般患者とは入口が別
だった点に注目しておきたい。他に台湾大学医学部の充実した施設設備や医学生たちの恵まれた環
境とともに、1956年訪問時の戒厳令下のものものしさや、いたるところで台湾人に外省人・本省人
差別を聞かされたと書いている78。
犀川が台湾に着任する前の1958年訪問時の記録の中では、実際にはこの当時まだ戦前の隔離政策
が踏襲されていた点と省政府委員の予防法改正の責任者が日本のハンセン病政策に倣って実施した
いと考えていた点は注目すべきであろう。またこのとき犀川の外科手術を求める希望者が多かった
ことは、とりもなおさずこの当時の楽生院が矯正手術などを行う環境になかったこと、すなわち患
者をとりまく医療環境(物資、人材、技術)すべてにおいて楽生院に余裕がなかったことが先の院
史からも想像される。
TLRA 時代の記録からは、当時の犀川をはじめとするミッショナリーたちが献身的かつ精力的に
患者のために活動していた様子が読みとれる。また外来診療を推進すべきと考える犀川はある親子
を通して「あの時もし療養所に入っていたら、今頃どうなっていたであろうか」と述べ、当時の療
養所の環境やそのありかたに対して批判的であった。また医学を志す若者が病気に対する迷信に
よって自殺するケースや病気差別を助長する映画の上映が行われていることからも、この当時はま
だ一般に病気に対する理解が進んでいなかったことがわかる。そしてそれは一般人のみならず、患
者の一般診療について医師仲間からの協力がなかなか得られない事態からも、1960年代半ばに至っ
てなお医療者における病気差別が根深かったことがうかがえる。
また防治委員会については、ハンセン病対策やそれに関する仕事に対する考え方が政府と痲瘋協
会関係者でしばしば意見対立があったことを内部にいた犀川ならではの視点で書いている。政府が
役所の仕事として現地に直接乗り込むことはたとえ調査であっても問題が多く、犀川は患者のプラ
イバシー保護を訴え調整していくが、当時台湾政府にはそのような考え方がなかったことが描かれ
ている。巡回検診についても楽生院の職員が行くと警戒して逃げ隠れする患者の姿が描かれてお
り、記録の端々に強制隔離時代の名残が垣間見られる。
犀川は WHO 専門官として楽生院に一室をおくようになってからも「ハンセン病に対して保守的
な考え方が根強く、痲瘋協会のように開放的でなかった」とその窮屈さをのべている。彼は国連の
仕事目標を「困難なことがあってもある一つの国で、互いに国を異にしている人たちがともに協力
し合って働くこと」と述べ、時には自分が直接手を下して処理したほうが能率よくいく場合でも、
その国の人たちによって仕事が組織的に運営されることを期待し、
「その国で自主的に遂行される
こと」を目指し、
「外国からのおしつけの援助は、国の自立への芽をつむ」79 と書いている。政府主
導で外来診療所をいくらつくっても、結果的にそこで働く現地の専門医が育成されていなければ治
78
79
野島(1973)pp.222‒230
犀川(1989)pp.240‒241
112
療はうまく進まないと考え、そのため自ら後進の育成にあたり、若い医学生たちにハンセン病教育
を行っている。
1960年代は新患の発生を抑えることが政府の一大関心事であったが、実際にはなかなか進んでお
らず、犀川渡台後10年でようやく 4 分の 1 となっている。その間におきた楽生院での「人体実験」
事件などをあげるまでもなく、この時代はまだ患者にとっては人権が回復していなかった。野島や
犀川の記録からは1950∼1960年代の楽生院や患者をとりまく環境の厳しさが浮き彫りにされている。
5 .1950∼1960年代のハンセン病政策
5 ‒ 1 .政策内容の変遷
1949年に公布された〈臺灣省痲瘋病防治規則〉80 は基本的に植民地時代の隔離政策を踏襲したも
ので、内容の特徴は以下の通りである。
第 2 条:各縣市でハンセン病患者もしくはその疑いのある者が見つかった場合、その家族もしくは同
居者が当該地の衛生管轄機関に申告しなければならない。指定医の検査により病気が確定し
た場合は指定の隔離療養所に強制隔離し、治療管理を行って病気の蔓延を防がなければなら
ない。その方法は別途定める。
第 4 条:医師が患者をハンセン病と診断した場合は 2 日以内に当該地の衛生管轄機関、行政長或いは
警察に通報しなければならない。またハンセン病患者あるいは疑いのある患者を発見した場
合もこれに同じである。
第 8 条:省衛生處指定の医療院における収容治療をのぞき、ハンセン病患者は他のいかなる医療機関
においても許可なく収容されてはならない。
第12条:本規則の第 2 条、第 4 条、第 8 条の規定に違反した者は、これを行政執行法に基づき処罰する。
(下線は筆者による)
国民党史には1945年に台湾を接収した段階で衛生に関しては、〈臺灣接管計劃綱要〉第76条にお
いて、衛生政策のもっとも重要な原則は戦前からの「維持」であることが明記されている81。その方
針を踏襲した形で公布された1949年の〈防治規則〉の骨格はやはり患者の強制隔離にある。この
〈防治規則〉公布後は入所者たちがいうところの〈大収容時期〉となり、表 2 でみたように収容者
数が一気に増加していく。
1962年公布の〈臺灣省癩病(痲瘋)防治規則〉82 は、一般に強制収容を廃止し、外来治療を推進
したものと言われるが、いくつか注意すべき点がある。すなわち第 4 条、第 5 条では患者を「開放
性」
「非開放性」に区分し、
「開放性」の場合は隔離が必要とされ、また「非開放性」であっても後
遺症の有無によって、就業があらかじめ制限されている点である。
80
劉集成(2004)pp.243‒244 附録 2
81
沈雅䌢(2011)p.21
82
劉集成(2004)p.245 附録 3
113 第 4 条:開放性ハンセン病患者は当該地の衛生管轄機関の指定する療養院において入院治療を行わな
ければならない。治療後、特別皮膚科外来での治療が認められた場合はすぐに退院し、所在
地の皮膚科外来で治療を行わなければならない。前項指定の療養院が満床の場合、開放性患
者は暫時隔離し、特別皮膚科外来で治療を行う。ただし当該地の衛生機関は必要に応じて定
期的に患者宅に出向き、隔離および消毒技術を指導すること。
第 5 条:臺灣省立樂生療養院から明確に非開放性と証明された患者は、就学、就業において一般人と
同じ待遇を受けることができ、差別されてはならない。
非開放性患者であっても、変形、奇形あるいは傷口が残っている場合、飲食業あるいはその
他公衆衛生に直接影響する職業に就くことはできない。
(下線は筆者による)
表 4 は沈雅䌢(2011)がまとめたこの時代の法律改正年表を筆者が訳して整理したものである。
これをみてもわかるように、台湾の1950年代から1960年代にかけてのハンセン病に関する法令は、
基本的に1949年の〈防治規則〉に修正を重ねてきたものである。2008年 8 月に馬英九政権が公布し
た〈漢生病病患人権保障及補償條例〉では、その第 5 条において、1945年10月25日から1962年 3 月
31日までに楽生院に入所した人に対しては 1 年ごとの補償金は12万元(台湾ドル)であるが、1962
年 4 月 1 日から1982年12月31日に入所した患者は 8 万元である。これは1962年までに入所した患者
に対しては「病気によって自由を拘束された」ことに対する補償、1962年以降1982年までの患者に
対しては「特効薬を使用して治療しなかったこと」に対する補償であり、金額も異なっている。
これは新しい政策によって強制隔離を受けなくてすむようになった人々のおかれる「環境」が変
わったのであり、
「1962年より前は強制隔離制度と社会の偏見によって二重に隔離された状況で
あったものが、1962年以降は偏見の残る法規がさらに患者の社会と家庭への復帰を難しくした」83
と考えられる。
楽生院史や犀川の記録にもみられるように、法律が改正された1960年代は病気に対する社会的な
偏見や患者に対する差別がまだ濃厚に残っていた時代であり、法律を改正したからといって人々の
意識がすぐに変わるものではない。偏見や差別を解消するにはそうしたものが作られていった過程
と同じくらい長い時間が必要である。改正された法律内容も中途半端なものであったが、なぜそう
のような内容になったのかについては、法律改正の過程が現実の後追い状況であったことをみてい
かなければならない。
83
沈雅䌢(2011)pp.6 ‒7
114
表 4 戦後1960年代までのハンセン病関連法規の変遷
公布年月
1944. 12. 06
1948. 10. 20
関連法規
内 容
国民党政府が〈傳染病防治
條例〉35条(ハンセン病は
含まれていない)を制定
この条例は急性伝染病に重点を置いたもので、ハンセン病は慢性伝染
病のため規定に含まれなかった。1999年に修正された伝染病予防法で
は伝染病が 4 分類されており、ハンセン病は第 3 類とされている。
2007年に国際衛生条例に依拠してハンセン病を伝染病から除外した。
〈癩預防法〉
〈癩預防法施行 1948. 10. 20から1949. 02. 12に〈臺灣省痲瘋病預防規則〉が公布される
細則〉
〈癩預防法臺灣施行〉 までのこの期間、国民党政府は強制収容政策を進めたが、この期間の
強制収容には法的根拠はなかった。
を廃止
〈臺灣省痲瘋病預防規則〉 第 2 、第 4 、第 8 条には「強制収容」がもりこまれ、違反者には法的
公布
処罰を加えることが強調されている。第 2 条には「本省の各縣市にお
いて患者あるいは感染疑いのある者を発見した場合、その家族もしく
は同居者が現地の衛生機関に申告しなければならない。指定医の検診
1949. 02. 12
によりハンセン病感染が確定した場合は指定の隔離施設に強制隔離し
て管理治療を行い、病気の蔓延を防がなければならない。
」と明記され、
これが国民党時代の強制収容の法的根拠となった。
1950. 06. 07
〈臺灣省痲瘋病預防規則施
行細則〉公布
〈臺灣省痲瘋病預防規則〉 第 2 条に「強制収容された患者が治療により全快、あるいは病状が軽
第 2 条条文の修正
快し細菌検査の複数回にわたる結果が陰性の場合は退所しなければな
1955. 05. 09
らない」という条文が加えられた。この修正が行われた理由は当時楽
生院が満床であり、すでにすべてのハンセン病患者を収容する余地が
なかったことが主因である。
1955. 10. 13
〈臺灣省痲瘋病預防規則〉
第 2 条条文の修正
1956. 04. 21
〈臺灣省痲瘋病預防規則施
行細則〉第 6 条第 6 項、第
9 条第 2 項の修正
1962. 03. 17
〈臺灣省癩病(痲瘋)防治 〈臺灣省痲瘋病預防規則〉および〈臺灣省痲瘋病預防規則施行細則〉を
規則〉公布
合併
第 6 条第 6 項:
「病人が泊まった部屋は衛生機関が責任をもって消毒し
た後に使用可とする」 第 9 条第 2 項:「ハンセン病患者は自主的に楽
生院で治療を受けることを奨励する」
(資料出所)沈雅䌢(2011)p. 124
5 ‒ 2 .議会における応酬
では、そうした中途半端な内容で決着をみることとなった政府議会における質疑応答はどのよう
なものであっただろうか。
1950年代に軍患が増加し、楽生院の治安が悪化していることについて、省議会では頻繁に衛生處
が楽生院に軍を派遣して管理することが建議されている。また1961年に陳宗䌑院長が省議会秘書長
の陳翔冰にあてた公文書において、「もし患者の隠匿をさせないようにするのであれば、軍警察を
動員する必要がある」と述べており、沈はこれを「国民党がハンセン病対策に軍の力を使おうとし
ていた重要な事実である」84 と分析している。戦後の楽生院は軍からの圧力によって軍患が増加し
たが、それによって生じた内部の管理問題を軍の力を借りて解決しようとしていた。
1962年に〈臺灣省癩(痲瘋)病防治規則〉が公布される前後の議会で楽生院について語られてい
84
沈雅䌢(2011)p.24(1950年省議会、1951年、1952年参議会、1961年省議会記録)
115 る内容はこの病気に対する憂慮と排斥である。例えば省議会の記録から見えてくるのは「楽生院は
患者を勝手に外出させるべきではない」
、
「患者が公共交通機関を使うことの是非」
、
「楽生院のベッ
ド数不足は増築によって解消すべきか」等の内容が検討されている85。1955年になると、政府も過
去の伝統的なハンセン病政策のあやまりを変えようという意識はみえるようになってくるが、1962
年にいたるまで省議会では「なぜ患者を外出させるのか」という議論が延々と続けられていたのが
実情のようである。また患者の外出については一般市民からの苦情がたびたび行政府や議会に寄せ
られている。これは当時の社会において長期にわたる病気への誤解や偏見が拭い去れていなかった
ことのあらわれであり、患者を強制的に隔離すべきかどうかという点について、政府と社会におけ
る合意形成ができていなかったということでもある86。
1955年に発行された『臺灣省立樂生療養院二十五周年特刊』(臺灣省立療養院編)の予防科外来
診療の記述では、WHO の1952年の専門家会議をとりあげ、これまでの経験から世界的に隔離から
外来診療への道を模索していることが書かれている。ハンセン病の発見が難しいこと、また隔離制
度は患者を適切な時期に治療を受けず水面下に潜伏させる危険性が高いこと、そしてまた「すべて
の患者を療養院に隔離し、それを維持していく経費は容易に解決できない問題」であると書いてい
る。そして次のように述べて、このときすでに外来診療への移行の必要性を示唆している87。
「専門家の推測によれば台湾には5,000∼8,000人の患者がおり、そのすべてを隔離するには楽生院規模の
療養所を最低10か所は必要とし、その維持経費は現在の楽生院経費から計算して毎年少なくとも2,000万元
はかかる。こうした莫大な建設費と維持費は政府の財政負担できるところではなく、ましてや大陸の100万
にものぼるハンセン病患者にどう対応するというのか」88
楽生院の陳宗䌑院長は1962年の予防法制定を推進していくにあたり、1961年の臨時省議会で「強
制収容政策は数十年にわたり効果が薄く、軍警察を動員して強制隔離しても楽生院にはすでにベッ
ド数が不足している。従って強制隔離政策のほうを廃止するのだ」と述べている。また経費不足と
患者の逃亡問題もこの政策の背景には存在している。1956年の臨時省議会において省政府衛生處長
顔春輝が省議員許世賢の質疑に対し、
「6,000∼7,000人をすべて療養院で治療するには現在の10倍以
上の経費がかかる。人数も多すぎて隔離を徹底できない。強制隔離して療養院にいれても脱走を防
がねばならない。感染力の強い患者のみを楽生院で治療するようにするほうがまだよい。
」と答え
ている89。また楽生院側も予防法改正を申請する理由書のなかで、軍警察を動員して患者を隔離し
ても、政府の経費が不足することを挙げている。
85
沈雅䌢(2011)p.29(1954年、1956年、1957年、1960年の省議会の質疑応答記録)
86
沈雅䌢(2011)p.29
87
樂生療養院編(1955)pp.35‒36
88
樂生療養院編(1955)p.36
89
沈雅䌢(2011)p.30
116
「本院規模の療養院を10か所以上開設し、各療養所が1,000人計算で患者を収容すれば隔離は可能だが、
政府は60億以上という驚愕的金額を建設費や設備費として負担しなければならないだけでなく、毎年その
維持費に少なくとも5,000万元以上はかかることになる。その経費を負担する財力が現在の政府にあるのか。
強制収容を徹底して行う方法についても甚だ疑問である。」90
上記は 5 年前の1955年の楽生院特刊と維持経費以外ほとんど内容も書き方も同じであり、楽生院
が1950年代半ばの段階から繰り返し強制隔離政策をこのまま続行していくことの「限界」を述べて
きたことがわかる。沈は議会での応酬などをみると、この当時国際学会などで新たな研究発見が
あった、あるいはハンセン病に対する理解や同情などを出発点としたのではなく、1962年の〈防治
規則〉の成立は結果的に実質的な管理上の問題だったと結論づけている。すなわち①新たな療養所
の建設や増設は地元の反対に遭う、②すべての患者を捜索し隔離することは実質的に困難、③政府
の財政難は強制収容の要求に応えられない、という 3 点の理由から強制隔離政策を廃止して、実利
的な方向性に変えるべきとの結論に至ったというのである。この時期の国民党政府にとって強制隔
離の廃止は単に国際的な潮流にのるばかりでなく、患者管理においても最適であったと同時に政府
の威厳も保持することができる方法であった 91。 5 ‒ 1.でみた法令内容の中途半端な決着は、時代
がまだそこまで動いていなかっただけではなく、政界における妥協の産物であったからだとみるこ
とも可能である。
5 ‒ 3 .患者をとりまく状況
2 ‒ 2 .でみたように、陳宗䌑院長は楽生院着任後、患者をなるべく退院させる方向に動いてい
る。しかし実際には日本時代から続いた隔離政策の影響により、社会全体で形成されたこの病気に
対する忌避や患者への差別・偏見はひどく、軽快退所をしようにも就職もままならず、就職先を探
すために院を出ても公共交通機関を利用することすら難しかった状況にある。犀川の記録にもある
ように、1960年代になっても世間のハンセン病に対する偏見や迷信は、患者の社会復帰を大変困難
な状況においていた。
楽生院史には1954年に患者の投票権が回復され、1956年に選挙に参加したことが書かれている
が、この公民権の獲得についても陳宗䌑院長の度重なる要請に対し、地方政府はそのたびに技術的
に困難だという理由で引き延ばしをはかっていた。1954年の〈聯合報〉記事には実際に投開票を担
うことになる臺北縣政府と鎮公所が「患者が身分証をもっていても、顔面腐乱により写真をとるこ
とができず、本人確認ができない。これでは選挙法違反となってしまう」
「投開票の管理は鎮公所
の職員があたることになるが、職員が感染を恐れて楽生院に行きたがらない。管理担当者の派遣は
一大問題だ」と述べている。また1956年の記事では戴徳發臺北縣長が楽生院を訪問した際に「患者
の恐ろしい状況をみると投票などできるわけがない。省に申請したとしても民政庁が認めるわけが
90
91
樂生療養院(1960)p.31
沈雅䌢(2011)pp.30‒31
117 ない」と語っており、実際に投票にこぎつけるまで、現場では相当抵抗があったことが窺える92。
またこの投票権について范燕秋は1958年に楽生院が制定した〈住院患者管理辦法〉の条文が入所
者にさまざまな行動制限を加えるものであり、「選挙には喜んで参加し、本院の最高投票率記録を
維持すること」などと書かれた細かい行動規範などをとりあげ、入所者に投票権はあったものの、
院側が投票する人物を指定するなど「人権はあっても主権はない」状態であったと述べている93。
さらに范はこの〈管理辦法〉により、閉ざされた空間の中で院が患者に対して行う各種医療薬物
の絶対的正当性や合法性について、たとえそれが患者の身体に重い障害を与えるものであっても患
者には抵抗が許されず、1950年以来の米国式医療の名のもとに患者が犠牲になることも少なくな
かったと述べている。院側の医療行為は強制的なもので、従わなければ退所あるいは食事を減らす
と恫喝する形で患者を服従させ、DDS 導入時の服用量調整ミスによる犠牲者をはじめ、60年代半
ばの「人体実験」など院の医療スタッフに対する入所者の不信は深刻なものだったという94。専門医
がいなかったことも大きな原因のひとつであろうが、楽生院で犀川の矯正外科手術を望む患者が殺
到したことや、入所者がわざわざ院外の TLRA 関連外来診療所での外科手術を希望して院を出る
ケースがあとをたたなかったことからも当時の医療スタッフの技術やスタッフ自身に対する不信感
が根強かったことがわかる。
またこの時期の患者に対する差別や偏見として特筆しておかなければならないのは、医療従事者
による患者への差別や偏見である。院史には国民党政府が楽生院を接収して以降、常に医療スタッ
フが不足していたことが書かれているが、その原因は繰り返し書かれている。また医師ばかりでな
く、看護師についても記述されている部分を抜粋する。
・現地の医療者のこの病気に対する偏見が強く、募集しても人員が集まらなかった。(pp.84 ‒ 85)
・仕事も多く無味乾燥で待遇は低い。設備も遅れており医師が楽生院での就職を忌避し、見つかっても長
続きしない。(pp.111‒112)
・問題は職員不足を中央政府が重視しておらず、専門医が楽生院で仕事をしたがらなかったことである。
外科医が台湾において不足したことはないが、楽生院では常に不足していた。要するに医者自身がハン
セン病に対する理解不足で知識をもっていなかったのである。(pp.120 ‒121)
・日本植民地時代、台湾で専門的な訓練を受けた看護師は少なく、とくにハンセン病院などでは成長期の
少女たちがお金のために15歳前後で楽生院に入り、そこで自主的な訓練を受ける。しかし訓練の過程で
学ぶのは専門的な医学や看護知識ではなく、隔離政策の影響によるハンセン病への恐怖心である。たと
えば消毒溝やマスクなどもその一例である。こうした日本植民地時代の規定は台湾接収後も続き、戦前
の楽生院で訓練を受けた看護師たちもそのまま残ったため、旧い観念は一朝一夕には変わらず、生活の
一部となっていた。(pp.140 ‒141)
92
沈雅䌢(2011)pp.53‒54
93
范燕秋(2010)p.231
94
范燕秋(2010)pp.211‒215
118
犀川の記録には1960年代半ばに台南で患者の一般診療を同窓開業医に頼んだところ、「戦前に教
育を受けた医師」たちがなかなか承知しなかった経緯と、若い医療者の自殺の話が書かれているが、
これらも当時の医療関係者たちの病気に対する無理解と忌避を端的に示すものであろう。患者に
とって医療者は病の苦痛を取り除いてくれるはずの最後の砦である。こうした医療従事者の偏見が
一般人の差別や偏見を助長するものであったことは想像にかたくない。
2 ‒ 2 .でみたように、楽生院では1950年代に入って一気に入所者数が増え、トラブルも増加して
いる。1956年 5 月に院外のハンセン病患者が公開連名で新聞社に投書し、
「楽生院が我々を受け入
れない」と訴え、楽生院からの回答を求める記事が掲載された。それに対し楽生院側からは「本院
は政府が定める500床の無償収容定員枠がすでに満床となっており、収容を停止せざるを得ない」
こと、また「本院はハンセン病患者の隔離に責任を負わねばならない立場であるが、すべての経費
予算に限りがあること」を主な理由として回答 95 している。またおそらく同じ患者たちが、臨時省
議会に対し、「我々は不幸にして罹患したが、療養院で適切な治療を受けることを拒まれた。誰が
この責任を負うのか。また我々が健康者とともにいることで、病気を感染させてしまうことはない
のか」
と請願書を提出している96。こうしたことからも楽生院がこの時点ですでに新たな患者を受け
入れる余地を失っていたことがわかる。
先述したように院史には人体実験の記述はなく、陳宗䌑院長の政治手腕についてはかなりプラス
評価の記述が多い。それに対し、同じ内容の事柄について「人権」に焦点を当てた研究論文ではか
なり批判的に捉えられている。たとえば「職業治療」について、院史では「患者にとって収入の道
を与えるもの」と書かれているが、一方では「院に経済的余裕がない時期に、外部に頼むよりは内
部解決できる一石二鳥の方法であり、しかも患者に報酬を与えることで患者を管理しやすくなる重
要な仕掛け」と捉えている。患者自治組織についても院史で患者に「自治」を与えるものとされな
がら、一方では「職員不足を解消し、自治の名のもとに患者たちの相互監視の役割をもち、 指導
員 との関係で物資の配給などに影響があった」97 とされる。この時期、患者たちも面従腹背で指
導員への賄賂などを使って自分たちの生活欲求を満たしていたことや、院内の有菌・無菌の境界線
は、差別・非差別の境界でもあるが、入所者たちはただそれを受け入れるのではなく、警察の手の
及ばない賭場を開くなど、法律も及ばない一種の聖域と化すことで「有効」活用していたことな
ど、検証すべき点は多い。
1957年末、楽生院の入所患者100人余りが連名で、陳院長は「専制独裁で患者の生死を顧みない」
と新聞に投書する事件がおこるなど、治癒者の社会復帰問題は複雑であった。彼らは無菌者となっ
た者に対する退所勧告を暴挙とみなしたのである。これに対し院側は、こうした投書が「退所を恐
れる者たちの所業」であり、法令の執行にあたって「無菌者は退所することになっている。当院は
95
范燕秋(2010)p.197
96
沈雅䌢(2011)p.35
97
沈雅䌢(2011)pp.47‒48
119 治療機関であり養老院ではない」と反論している98。
陳威彬の研究では、楽生院が台湾政府に接収されたこの時代は治療の変遷がもたらされ、ハンセ
ン病が治る病となってきたこと、しかしそれが患者に対する人々の差別意識の解消にはつながらず、
そうした社会的要因が楽生院を患者にとって最終的な砦として社会からの「逃げ場」に変え、治療
の場であるべき療養所からその役割を変容させたと述べられている99。入所者たちの「精神的な救
い」のために礼拝堂や仏堂が整備されたのがこの時代であることを考えると、治癒しても社会復帰
が難しく、楽生院を終の棲家とするしかない患者たちの状況を反映したものと考えられる。
5 ‒ 4 .アメリカの衛生支援
范燕秋は、この時期の台湾における隔離政策撤廃への過程をアメリカからの支援に視点をおいて
考察している。とくにアメリカによる衛生支援計画(U. S. AID Health Program)が戦後台湾のハ
ンセン病政策に大きな影響を与えたことに注目し、台湾が戦前の「ドイツ・日本型」医学から戦後
「アメリカ型」医学に移行していく過程ととらえて分析を加えている。
1950年の朝鮮戦争後、アメリカは国民党支援を決め、軍事的・経済的支援を通して台湾の防衛力
を高め、台湾の社会的安定をはかろうとした。医療衛生については〈美國共同安全總署駐華分署〉
(以下、安全分署 MSM/C 100と略)が公共衛生政策の柱を提示しており、「国防や経済の安定に資す
るものであること」が二大原則だということが示されている。この原則のもとにアメリカの〈衛生
計畫〉におけるハンセン病に関する項目では「実情からいうとハンセン病は衛生問題の主要な課題
ではないが、社会的、宗教的、道徳的な問題を孕む複雑な課題であり、注意して取り扱う必要があ
る。台湾には5,000人の患者がおり、診療施設もまだ水準が低く、患者にとっては大きな問題であ
るため、適切な治療が行われるよう着手しはじめている」と書かれている101。
1950年代にはいると、ハンセン病はすでに治る病気として、患者の基本的人権を重視する時代に
移行しており、MTL は1953年にハンセン病の早期発見と予防に重点をおくことを提唱し、強制隔
離からの離脱を目指していた。アメリカにとってハンセン病は軍事力や経済問題とは直接関与する
問題ではないが、宗教や道徳的要素で注目すべき課題であったということであろう。范はそれに対
し、
「当時の台湾社会の政治的状況からみて、ハンセン病政策変遷の内在的要因は“軍事的”
“経済
的”問題であり、旧政策の運用が直面した課題から考察していかなければならない」と述べ、楽生
院が軍事的な圧力によって軍患の受け入れ拡大要求をのまざるを得なくなった経緯、さらに軍患の
増加によりアメリカからの経済的支援を必要とし、1952年から1955年にかけて楽生院が 6 棟の病舎
98
范燕秋(2010)p.209
99
陳威彬(2001)pp.51‒ 65
100
Mutual Security Agency, Mission to China
101
范燕秋(2010)p.189
120
を増設し、200床増やす結果となったことを述べている 102。
病舎増築により1956年の楽生院のベッド総数は925床となったが、表 2 でみたように1957年の入
所者数は969人、1958年には1,070人に達しており、入所者増に増築が追いつかなかった状況となっ
ている。楽生院の財政難は、アメリカから台湾軍部への経済支援が楽生院の軍患のための新たな病
舎建設に使われ、さらにそれが軍患の収容者拡大につながることになるが、その経済的支援が人道
的支援のためのものでなかっただけでなく、結果的に国民党政府を支援し、軍事力を安定させるも
のとなったことが指摘されている103。楽生院ばかりでなく、各地で患者の隔離問題がとりあげられ
るようになり、台湾政府はこうした患者収容の現実的問題を解決するためには時代の潮流に乗り、
隔離政策そのものを見直さざるを得ない状況に追い込まれていく。
この時期の台湾にはハンセン病の専門訓練を受けた学者や皮膚科医がおらず、外来診療では誤診
も少なくなかった。このことは疾病予防を困難とする大きな原因にもなっていた。アメリカの〈衛
生計畫〉は1951年から医師を海外で研修させ、新たな医療知識や訓練を受けさせることを制度化し
た。この制度は1952年に法制化され、初の海外研修医として選出されたのが馬偕病院の趙榮發医師
である。研修期間は 1 年、帰国後は元の職場で 2 年以上勤務することが義務化され、海外では「実
習」を中心とし、習得した知識や技術が帰国後すぐ応用できることが目指された。趙医師は馬偕病
院からの推薦を受けて1952年 7 月から香港大学と香港痲瘋協会所属の療養院で 1 年間の実習を受け
た 104。帰国後は1953年 7 月から楽生院予防科主任となり、
〈衛生計畫〉規定により馬偕病院の特別皮
膚科外来で週 2 回の勤務をこなしながら1954∼1955年の 2 年間を楽生院で勤務し、このことも楽生
院の外来診療に影響を与え、それなりの治療成績を残している105。こうした成果をもって楽生院は
開放的外来診療の必要性を認識し、時代の潮流に乗ることに決めたのだと范は分析している106。
アメリカの「技術協力」は外国人専門家を顧問として招聘し、台湾人を海外研修に派遣し、第三
国を訓練地として技術供与させるという三方向からの支援であったが、これにより陳宗䌑院長が招
聘したのは欧米のミッショナリーであり、1955年に招聘したアメリカ人医師は臺灣痲瘋協会創設者
の 1 人であった107。范によれば、アメリカの技術協力は「まず政策転換に、次に関連する医療技術
に影響を及ぼし、東南アジア国家の経験交流を促進し、またそうした国々にハンセン病予防効果を
102
范燕秋(2010)pp.190‒198
103
范燕秋(2010)p.194
104
香港には中国の共産化により大陸から大量の難民がはいり、その中に相当数のハンセン病患者がいた。犀川
の記録にもみられるように香港のハンセン病対策は英国教会 MTL が主導し、外来診療や定期巡回診療を行って
いた。
105
趙医師の在籍した1954年 3 月から1955年 9 月の楽生院外来診療部は417名(軍患204、一般213)の外来診療
を行い、うち346名(軍患166、一般180)がハンセン病と診断された。346名の外来患者のうち191名(軍患104、
一般87)が楽生院に入所し、67名(軍患16、民間41)は農復會による新薬と DDS によって治療し、88名(軍患
46、民間42)は在宅療養となった(臺灣省立樂生療養院(1955)pp.35‒38)
106
范燕秋(2010)p.200
107
范は犀川医師もこうした招聘医師の 1 人だとしている。
121 示した」こと、そして戦前から台湾で医療活動を行ってきたミッショナリーが時代の変遷とともに
「米国支援と密接に連携し、教会組織が米国支援をうまく活用するようになった」108 ことを特徴と
して挙げている。
また〈衛生計畫〉は楽生院の医療設備や外来診療制度に大きな影響を与えただけでなく、ハンセ
ン病政策の転換を促し、政策執行にあたっての評価基準も設定した。1959年に省衛生處が〈臺灣省
癩病防治委員會〉を設置し、予防政策の策定にあたることとなったが、陳宗䌑院長以外にも国内外
の医学や公共衛生の専門家、また米国駐在代表や台湾大学医院長などを委員とし、その権威を高め
た。また予防対策を省衛生處レベルにひきあげ、楽生院を予防センターに据え、委員会が省立医療
院と協力して予防対策に協力するという権限を与えた。この委員会設置後、1960年に各地の衛生局
が外来診療を拡大して特別皮膚科外来をおき、ハンセン病患者数を掌握し、予防成果の目標設定を
策定した。楽生院は巡回診療と台湾全土のハンセン病資料を統一管理することとなり、こうした一
連の成果として1962年 3 月の〈防治規則〉公布に至るのである。
范はこうした成果だけでなく、アメリカ支援による負の側面についても述べている。先述した楽
生院における人体実験について、本来独立した医療機関である楽生院では米海軍の申し出を断るこ
ともできたはずだが、やはり「アメリカと台湾の医学知識や権力に纏わる特殊な関係が台湾に断る
選択肢を与えなかったのではないか」と考察している。1960年代はハンセン病の医薬品研究が急速
に発展した時期でもあり、アメリカもアジア地区の熱帯病としてのハンセン病研究にはいり、楽生
院は実験場となり、「台湾社会全体がある意味で健康危機や身体的支配を受け入れた」ことに他な
らないと述べている109。
このように、アメリカの経済的支援による楽生院の病舎増築は間接的に楽生院を外来治療へと導
く結果となり、またアメリカの〈衛生計畫〉は医療人材を育成し、外来診療を充実させていく方向
で台湾の政策転換を支えることとなった。この時期の台湾とアメリカの特殊な関係が台湾医学や医
療制度に与えた影響に関しての研究は今後さらに深められるべきだと考える。
5 .おわりに
本稿では戦後台湾が国民党政権下におかれて以降、1950年代から1960年代の20余年を中心に、楽
生院の運営を通してハンセン病政策がどのような経緯で変遷してきたかをみてきた。台湾における
楽生院接収後のハンセン病問題にはいくつかの大きな特徴がみられる。
まず第 1 はこの時期における台湾政府のハンセン病政策が、あくまでも患者隔離を基調としたも
のであったことである。1962年の予防法改正への道筋として、1950年代後半には強制収容から外来
108
范燕秋(2010)pp.202‒203 医療設備の更新には問題がなくなったようにみえるが、実際にはこうした医療機
器を使いこなす医療スタッフに事欠き、1957年 5 月には監察機関から摘発も受けている。
109 范燕秋(2010)pp.214‒215
122
診療中心に切り替えられ、患者隔離が廃止されたように誤解しがちであるが、1949年の政策以降
1962年まで強制隔離政策は継続されていたのであり、改正された62年予防法も患者を「開放性」
「非
開放性」に区別し、
「開放性」患者に対しては隔離が継続され、
「非開放性」であっても後遺症の有
無によって就業制限が加えられる内容であった。入所者の証言録やインタビュー集を読んでも、こ
の時代は周囲からの病気に対する忌避感や有形無形の圧力によって、患者が外来診療を中心として
市井で生きていくのは相当困難であった。犀川の記録にもみられるように、1958年時点でも防治委
員会の責任者が日本にならって隔離政策踏襲を考えていたほどであるから、軍患の急増で楽生院が
満床になる事態がおこっていなければ、外来診療中心政策への切り替えが行われたていたかどうか
は不明である。
第 2 に日本植民地時代の隔離政策の影響により、人々のなかにハンセン病に対する恐怖心が根強
く残っていただけでなく、治療にあたる医療スタッフ自身が病気や患者に対する差別観や忌避感を
もっていたこと、そのため楽生院が慢性的な医療スタッフ不足に陥っていたことである。この時代
の医療従事者たちは楽生院で医療に携わることを忌避し、また自分の勤務先においても患者の一般
診療に携わることを忌避した。また病気に対する教育が進んでいなかったために医療に携わる若者
さえも迷信で命を落とす時代であった。医療従事者の無知と偏見は院内外で容易に重い人権侵害へ
とつながっていく。患者にとってこの時代がいかに生きにくいものであったかを推し量ることがで
きよう。
第 3 に台湾と中国との特殊な事情により、1949年以降、国民党軍の患者を楽生院が受け入れざる
を得ない状況になったこと、当初は受け容れを拒んでいた楽生院も軍や政府当局の圧力により、ア
メリカからの経済支援を受けることで最終的には軍患の受け入れを容認することになり、軍患数の
増加により院の運営に多大な支障を招くことになったことである。さらに軍患増加による運営支障
だけでなく、入所者間にも外省人、本省人間の大きな軋轢を生んだのがこの時代であることも指摘
しておかなければならないだろう。そもそも外省人と本省人では言語問題が大きく、意思の疎通を
はかることそのものが難しい現実がある。加えて軍人患者には軽症者が多く、また彼らには軍部か
らの生活支援もあるため、経済的にも外省人と本省人には開きがあった。退役後も彼らには退輔會
による支援で仕事が斡旋されることもあり、軍人恩給がつくために毎月手にする金額も異なる。言
葉の問題だけでなく、そうした生活の基盤、根幹にかかわるところでの待遇差は同じ生活弱者とし
て入所している人々の間には容易に溝をつくる。この溝はその後の国賠訴訟や楽生院移転問題の際
にも影をおとすこととなる。
第 4 にこの時期の医療スタッフ不足や人々の差別意識によって停滞していた医療活動の隙間を埋
めていたのが海外から宣教のために台湾に来ていたミッショナリーたちの活躍だということであ
る。戦前の台湾におけるミッショナリーの活躍は信仰に支えられた献身的なものであるが、この時
期の台湾においても台湾痲瘋救済教会(TLRA)の活躍をはじめとして、台湾人医療スタッフにも
見放されていたハンセン病患者をミッショナリーが様々な形で支えていた。犀川は「ハンセン病と
123 いう感染症の対策は、ボランティアの救済事業ではなく、その国の政府が国の責任において公衆衛
生行政として実施すべき問題」と述べ、
「公衆保健問題はとくにその国が主体的に行うべき」もので
あり、「ミッショナリーは、その国の力がまだ及ばないときにこそ先駆者的役割を果たし、その及
ばない部分を援助しながら国の自立を促すべき」であり、
「国の行政が自主的に始動するようにな
れば、その働きを国に移行していく謙虚さがなくてはならない」との持論を展開している110。楽生
院を支援していたミッショナリーたちがさらに僻地への支援に向かい、台湾の離島や山地などでも
支援を行っていた点についても我々はさらに検証を進めていくべきであろう。
第 5 はこの時代における台湾とアメリカとの特殊な関係性である。アメリカは当初ハンセン病に
ついて「複雑で微妙な問題」という認識はもっていたものの、それほど重要視はしていなかった。
しかし新患の発生率が高いこと、隔離による防遏があまり効果的に行われていないことから1960年
代になるとハンセン病研究にも力を入れ始めた。1950年代半ば以降、楽生院は大陸からの外省人軍
患の増加にともない、アメリカの経済援助で軍人収容のための病舎増設を行った。患者に対する差
別や医療スタッフ不足が楽生院の運営をさらに困難なものとし、それによって台湾は結果的に「患
者全員の強制隔離」という政策そのものを転換せざるを得なくなった。アメリカの経済支援が楽生
院の病舎増築に使われ、入所者増に病舎増設が追いつかず、それが隔離政策からの離脱へと結びつ
いたことはアメリカにとって「意図せざる結果」だったといえよう。またアメリカの「衛生支援計
画」が台湾の医療人材育成に役立ち、それがハンセン病の外来診療へ功を奏したこともあげておか
ねばならない。
第 6 に陳宗䌑院長を例にあげるまでもなく、この時代の楽生院の運営においては現在よりも院長
職の果たす役割や影響力が格段に高かったことがあげられる。さまざまな問題がおこっていた1950
年代の楽生院では軍医であった陳院長でなければ、軍人を中心とする入所者間のトラブルや暴動を
抑えることは難しく、抑えきれない状況が長く続いていれば、さらに事態が悪化していたことが考
えられる。剛腕といわれ、たとえ独善的という評価がついたとしても、陳院長の政治的手腕や政財
界への影響力、また彼自身がキリスト教徒であったことが欧米からのミッショナリーの支援を引き
出し、この時代の楽生院の運営に大きな影響を与えたと考えられる。
以上のようなこの時代の特徴を考えるならば、台湾政府にとって世界的な隔離廃止の潮流にのる
ことは、軽快者を退所させ外来診療によって新たな新規患者を入所させないことで入所者を減らす
ことができ、さらに隔離療養所の運営維持費という経済的負担軽減にもつながることから、一石二
鳥どころか一石三鳥以上のメリットがあったと考えられる。そしてこの外来診療においてはアメリ
カの経済支援をはじめとしてミッショナリーたちの支持だけでなく積極的で実質的な支援も得るこ
とができたため、これを利用しない手はなかったのである。つまりそこにあったのは人権意識の高
まりや新たな時代を築いていくという意気込みなどではなく、戒厳令下という特殊な事情におかれ
110
犀川(1989)p.224
124
た台湾政府の都合や打算、妥協の産物としての外来診療中心政策への転換だったといっても過言で
はない。
本稿ではミッショナリーの活躍やアメリカの支援について考えていくにあたり、欧米文献資料の
読み込みを行っていない。また先行研究や中国語文献のなかで、入所者証言集などからの記述は割
愛している。使用した資料は限られているが、研究者の立場によって史実に対する解釈や記述が大
きく異なることも印象に残った。これらは今後の課題として次回の研究につないでいきたい。
[日本語文献]
犀川一夫(1989)
『門は開かれて:らい医の悲願─四十年の道』
(みすず書房)
─(1996)
『ハンセン病医療ひとすじ』
(岩波書店)
城本るみ(2011)
「台湾のハンセン病政策に関する覚書き─楽生療養院設立の時代的背景─」
(弘前大学人文学部『人文社会論叢』
(社会科学篇)第26号)
─(2013)
「資料・研究動向にみられるハンセン病療養所楽生院」
(弘前大学人文学部『人文社会論叢』
(社会科学篇)第29号)
野島泰治(1973)
『祈る:らい医師の海外紀行』
(野島冨美発行 非売品:国立ハンセン病資料館所蔵)
[中国語文献]
陳威彬(2001)
「近代台灣的癩病與療養─以樂生療養院為主軸」
(國立清華大學歴史研究所碩士論文)
陳歆怡(2006)
「監獄或家?─台灣痲瘋病患者的隔離生涯與自我重建」
(國立清華大學社會學研究所碩士論文)
陳永興(1997)
『台灣醫療發展史』
(新自然主義股份公司)
董英義・陳秀麗(2010)
『台灣癩病患者的守護天使─戴仁壽醫師傳』
(財團法人台灣基督長老教會台灣教會広報社)
范燕秋(2005)
『疫病・醫學與殖民現代性─日治臺灣醫學史』
(稲郷出版社)
─(2009)
「癩病療養所與患者身分的建構:日治時代臺灣的癩病社會史」
(中央研究院臺灣史研究所『臺灣史研究』第15巻 第 4 期)
─(2010)
「臺灣的美援醫療、防癩政策變動與患者人權問題,1945至1960年代」
(國立臺灣師範大學臺灣史研究所『東亜近代漢生病政策與醫療人権國際検討會論文集』
)
賴澤君(2007)
「全球視野看痲瘋隔離制度與台灣楽生院運動」
(國立臺灣大學建築與城郷研究所碩士論文)
樂生療養院口述歴史小組(2011)
『樂生─頂坡角一四五號的人們』
(聯䙕書報社)
劉集成(2004)
『樂生療養院志』
(臺北縣政府)
駱俊嘉(2006)
「遺忘的國度─樂生療養院記録片製作流程研析」
(世新大學廣播電視電影學系碩士論文)
潘佩君(2006)
「樂生療養院院民面對搬遷政策的主體性研究」
(國立陽明大學衛生福利研究所碩士論文)
─(2010)
「樂生療養院院民近期搬遷問題─從漢生病人的生命經歴談起」
(國立臺灣師範大學臺灣史研究所『東亜近代漢生病政策與醫療人権國際検討會論文集』
)
沈雅䌢(2011)
「權力與抵抗─樂生療養院強制隔離時期(1945 ‒1962)論述分析」
(東呉大學政治學系碩士論文)
臺北縣政府文化局(2006)
『行政院衛生署樂生療養院擴大調査研究─訪談記録曁照片測繪圖集』
臺灣省立樂生療養院編(1955)
『臺灣省立樂生療養院二十五周年特刊』
王文基(2003)
「癩病園裡的異郷人:戴仁壽與臺灣醫療宣教」
(『古今論衡』第 9 期)
王文基・王珮榮(2009)
「隔離與調査─樂生院與日治臺灣的癩病醫學研究」
(『新史學』20巻 1 期)
行政院衛生署樂生療養院 HP http://www.lslp.doh.gov.tw/ 鐘聖雄(2007)
「樂生願─台灣漢生病患的家園保衛戦」
(國立臺灣大學社會科學院新聞研究所碩士論文)
荘永明(1998)
『台灣醫療史─以台大醫院為主軸』
(遠流出版)
125 【論 文】
健康マーケティングと医薬品流通業の
関わりについての若干の考察
保 田 宗 良
Ⅰ はじめに
筆者は、長期間にわたって医療マーケティングの研究を進めてきた。ここ数年は、医薬品流通の
研究に傾注している。現在の医薬品卸は、医療機関の患者満足度を高めるための指導に力を注いで
おり、かつてのような医薬品の物流業者からはかなり拡大した業務を行っている。地域卸は集約さ
れており、全国卸のグループに参加するために、独自のマーケティング活動を進めてきた。医療従
事者としての意識を有し、地域の健康づくりに寄与している 1 )。残念ながら、地域医療の構図を描
く際に医薬品卸は含まれない傾向がある。重要な使命を担いながら、それに値する評価がなされて
いないことは、大変残念である。
ドラッグストアは、他のチェーン組織との差別化を図るために、健康教室を実施している。講師
は薬剤師であったり、栄養士であったりする。無料で多くの知識を習得できるので、受講者の評価
は高い。ドラッグストアが地域のヘルスセンターとしての役割を果たすためには、一般用医薬品の
服用及び健康食品の活用の指導が要されるが、そこには健康づくりの視点が欠かせない。
医療マーケティングの研究を進展すると、健康マーケティングの範囲が対象となる。医療費を抑
制するために最適な方策は、健康体を維持することである。そのためには食育、薬育が必要であ
り、良き指導者が必要とされる。調剤薬局の薬剤師の働きも強く期待されており、医薬品を通した
健康作りの責任を担っている。
一般用医薬品に関わる動きとして、薬学部の 6 年制と登録販売者の新設があげられる。薬学部は
6 年制となり、2012年 3 月に最初の卒業生が輩出された。薬局実習と病院実習が必修となり、現場
を知ることにより資質を高めることが求められている。 4 年制卒業者との力量の相違は、まだ検証
されていないが、いずれ卒業生が蓄積されれば比較が可能となる。
高齢社会が進展する日本社会では、医療費抑制が重点課題となっている。健康づくりのための教
育を基本に、薬価が低いジェネリック医薬品の促進が求められている。認知度は低いがセルフメ
ディケーションの啓蒙が取り組まれており、その啓蒙活動の一翼を担うのが医薬品流通業者である。
セルフメディケーションの定義は団体により少しずつ異なるが、セルフメディケーション協会
は、「セルフメディケーションとは、自分の意志で非処方せん薬を使用することである。薬剤師は
セルフメデイケーションに利用可能な医薬品について、支援、アドバイスおよび情報を人々に提供
127 するのに重要な役割を担っている」とし、日本薬剤師会は、「自己の健康管理のため、医薬品等は
自分の意志で使用することである。薬剤師は生活者に対し、医薬品等について情報を提供し、アド
バイスする役割を担う」としている 2 )。
この定義では、薬剤師の役割が指摘されているが、登録販売者、栄養士、看護師等の役割も失念
できない。自分の意志で使用すると言っても、普通の生活者は知識が伴わず専門家の指導が要され
る。健康マーケティングの促進にセルフメディケーションの進展は不可欠であるが、薬剤師を中心
とした指導者の充実が前提となる。ドラッグストア、調剤薬局に勤務する専門家の取組みが、強く
期待されている。
高齢社会が進展し、健康寿命が指摘されるようになった。
筆者は、地域医療の質的向上を社会科学の視点から考究している。臨床の専門家の知見が問われ
るが、こうした大きな課題は総合的な取り組みが効を奏する。経営学、マーケティング、流通の研
究が欠かせない。健康寿命という概念が認知されつつある。厚生労働省委託の研究で男性の平均寿
命は79歳程度であるが、健康寿命は70歳程度であることが公表された。双方の差の 9 年間は介護を
要することを示しており、自由な活動はままならない状態になる。高齢社会が展開する日本におい
ては、高齢者が高齢者を介護し、その負担がかなりのものとなる。少しでも長く独力で生活が営め
るに越したことは無い。健康づくりを多くの専門指導者が協働して行えるシステム作りが急務である。
生活者は、持病が無い限り職場の健康診断ぐらいしか受診していない。健康診断は百害あって一
理なしという医学者がいることは承知しているが、自分の検査結果を定期的に認識することは意味
があると考える。セルフメディケーションの普及に際しても簡易な検査の結果により意識が高まる
ので、薬局、ドラッグストアの店頭での測定は有意義なものと考える 3 )。
健康マーケティングと医薬品流通を連携して考察した先行研究は、非常に乏しい。このような
テーマは流通研究がベースとなるが、健康の促進に関心を有しつつ、そうした基軸を有する研究者
が少ないことが一因である。
Ⅱ 検討課題
①医療機関の責務
地域医療の中心となるのは、医療機関であるのは周知の事実である。そこですべての健康指導が
可能であればベストであるが、大病院志向があり多大な待ち時間を要するが、指導を受ける時間は
数分である。先に述べたセルフメディケーションが浸透すれば、薬局、ドラッグストアに赴くだけ
で事足りることが実在する。したがって連携関係がうまくいけば宜しいわけだが、現実は調剤薬局
との連携はあるが、ドラッグストアとの連携は定型化されていない。ドラッグストアに聞き取り調
査に行くと、自分たちは地域医療の枠組みに参画したいが、参画が求められていないという談話を
何度も耳にした。
128
そこには、患者の自己責任の問題がある。かなり症状が悪化するまで健康食品で代用し、医療機
関に来たときには重篤な症状になっていたという事例が、医療機関のドラッグストアに対する物足
りなさの一因になっている。検査の前に一般用医薬品を服用すると、治療に必要な検査値がでない
という苦言を耳にした。連携は必要であるがズレがあると進展しない。医療費抑制のためには一般
用医薬品の活用は欠かせないし、医療機関の混雑緩和は、小規模の診療所への誘導、ドラッグスト
アで対処できるものはそこで対応するということで、連携は多くの成果をもたらす可能性を有する。
②改定薬事法に伴う諸課題
一般用医薬品の流通は、規制緩和と規制強化の組み合わせで変革した。規制緩和は一般用医薬品
が医薬部外品に移行し、コンビニエンスストアやキオスクで販売されたことである。誰でも販売で
きるようになり、完全にコモディティとなったが、それを手放しで喜ぶわけにはいかない。医薬部
外品になってもジュースとは異なり服用の制限がともなう。販売員は最低限の研修が必要なはずで
ある。
規制強化は、一般用医薬品は登録販売者(第 2 類、第 3 類を扱う)か薬剤師が扱うルールとなっ
たことである。以前は、薬剤師不在問題が実在した。薬剤師が何日も店舗にいない状態で医薬品の
販売を続けており、期間限定の業務停止命令が下されたことは、業界関係者には周知の事実であ
る。現在は、登録販売者がいないと一般用医薬品は販売できない。
2009年 6 月 1 日から改定薬事法が施行された。従来のように一般従業員は医薬品の販売ができな
いと理解していたが、当初は曖昧な対応であった。顧客から質疑があれば登録販売者が対応すると
いう理解なので、レジにいるとは限らない。登録販売者不在問題が生じており、法改正の意義が問
われている。
ドラッグストアの従業員は、
「薬剤師」
「登録販売者」
「従業員」というネームプレートを付けるこ
とが義務付けられており、曖昧な姿勢は許されない。薬剤師が不在時は「薬剤師が不在なので第 1
類医薬品の販売はできません」という表示をすることが必要であり、ルールの徹底が求められてい
るが、顧客がそうしたルールを知らないので問題視されていない。
第 1 類医薬品は、薬剤師のみが扱え、副作用等は紙面で説明することがルールとなった。施錠さ
れたケース内にあるので、顧客がレジに持参することはありえない。時間に余裕が無い顧客は、そ
うしたやり取りが不便なので、第 1 類医薬品の売上げは前年対比で低下する状況が続いた。以前
は、一般従業員が機械的に販売していたのでそれが当たり前の手続きとされ、改定後の法規制が、
特別煩わしく捉えられている。重篤な副作用が起こりうる第 1 類医薬品は、薬剤師が丁寧に説明す
べき医薬品である。単なるコモディティではない。必要を伴い規制強化をしたが、以前を標準に捉
えていた顧客は、煩わしく感じ、 3 割負担の医療機関に受診するようになったと報道された。
ドラッグストアは、登録販売者の質的向上が求められている。一般用医薬品で対応できるレベル
か、すぐに医療機関に受診するべきかを求められ、地域の健康アドバイザーの役割が期待されてい
129 る 4 )。登録販売者は、旧薬種商に比較すると取得が容易となった。旧薬種商は原則 3 年の実務経験
を必要とし、難易度の高い資格であった。資格手当も高く、現在の登録販売者とは質が異なると考
えられる。
指定第 2 類医薬品は、やや副作用に不安があり顧客は慎重に服用すべきものである。的確な指導
が求められており、例え顧客からの質問が無くても助言をしたほうが望ましい。登録販売者がさし
たる役割を果たさなければ、すべての一般用医薬品は利便性を考慮して、特に条件を付さなくても
通販で可能という方向になる。
医薬品は、薬剤師か登録販売者が対面販売をすることが原則とされたが、利便性を考慮してイン
ターネット販売を可能にしたいという意向があった。第 3 類医薬品はインターネット通販が可能で
あるが、その他は不可というのが厚生労働省の方針で、2009年 5 月29日、離島居住者、継続使用者
に限定して例外的に 2 年間だけ第 2 類医薬品の郵便等販売を認めるということで、改定薬事法はス
タートした 5 )。
バーチャル店舗で顧客を集めたい通販業者は、インターネット通販がビジネスモデルの基本であ
り、健康のアドバイスを対面販売で行い顧客を集めたいドラッグストアは、そのような売り方は容
認しがたい。そもそも何のために登録販売者というポストを新設したのかという意味が不明となる。
2009年 5 月29日の措置に得心がいかないケンコーコムとウェルネットの 2 社は、東京地裁で敗
訴、東京高裁で勝訴し、経過措置は2013年 5 月末まで延長になり、流れは通販許可に傾き、最高裁
は2013年 1 月、「省令は薬事法の委任の範囲を逸脱した違法なもので無効」として、国の上告を棄
却した。これを受け厚労省は新たなルール作りに取り組むことになった 6 )。
最高裁の判断は、 2 社に限ってインターネット販売を認めるというもので、すべての業者が認可
を得たものではない。養毛剤や便秘薬等は通販の方が購入しやすいという意見もある。通販でも文
章により薬剤師等が指導すれば、問題なしという考え方があり可否の判断は容易ではない。
最高裁の判決を受け、ケンコーコムは第 1 類、第 2 類のネット販売を再開した。一方、権利が認
められた 2 社以外の事業者に対して厚生労働大臣は、郵便等販売の新たなルール作成を検討してい
る。ネット販売問題は、今後、安全性の確保を前提に、ネット販売についてどのようなルールを策
定するかが焦点となる 7 )。
専門家による対面販売を改定薬事法の骨子と理解すれば、インターネット販売はその骨子を揺る
がすものである。第 1 類医薬品は薬剤師の厳重な管理の下で販売される。ネット販売でも薬剤師が
十分な文章のやり取りで対応すれば、安全性が確保できるが、対面と異なり顧客の状況は文章のみ
で判断する。一抹の危惧を抱かざるをえない。
インターネット通販に対する患者千人の意識調査がある。病院の通信簿というサイトの協力によ
るものだが、そこで得られた回答は興味深いものである。購入したいに対して「いいえ」と答えた
ものは、送料がかかる 195人、安全性が不安 176人、自分にあった医薬品が分からない 122人、
薬剤師のアドバイスがほしい 62人となっており、送料という経済的な負担に対する抵抗感、薬剤
130
師のアドバイスが無いと不安という患者の心理状態が把握できる。
「はい」と答えたものは、じっ
くり比較検討して購入できる 162人、近所の薬局で扱っていない医薬品を購入できる 86人、買
いに行く時間が無い 62人、となっており利便性の魅力が賛成派の理由となっている。全体から見
ると、賛成派は37%、反対派は63% であり、インターネット通販による医薬品購入は、慎重を要す
ると判断している 8 )。
インターネット通販は、個人情報の守秘義務の問題が生じる。健康については既往歴、体調等、
詳細な情報の提供が要される。対面販売で言いにくい疾病を文章なら説明できる事例があるが、文
章のやり取りでは限界が生じる。薬剤師による対面販売と同じレベルの安全性の担保は容易ではな
い。
厚生労働省の13年 2 月の調査からも同じような傾向が把握できる。長野県民3,000人に調査票を
郵送し、20代1,669人から回答を得たもので、ネットで薬を買いたいに対して、
「買いたいとは思わ
ない」52%、
「あまり買いたくない」19% となっている。懸念することとして「ネット販売では購入
者の状態が分からないため、安全性が確保できない」との項目に「そう思う」
「どちらかと言えば
そう思う」と回答した人が85% であった 9 )。
利便性を考慮しても安全性が気になるというのは、ネット販売が避けて通れない宿命である。店
舗を有している組織のみ可とするとか、テレビ電話による指導を条件とする等、意見は多々ある
が、本稿脱稿の2013年 6 月 1 日の時点では不明確な部分が多数ある。
厚労省検討会は、業者は都道府県に届け出を義務付けるとした制度案を検討していた。許可を得
た業者は国や都道府県が作る認証マークをサイト上で表示できる。消費者が正規の販売業者を簡単
に見分け、安全に医薬品を購入できることを狙いとしている10)。インターネット通販は、以前から日
本で認可されていない医薬品を、海外から購入するために実施されている。海外在住時に服用して
いた医薬品が日本で認可されていない場合に、自己責任で購入するという事例である。現実にはダ
イエット薬の購入など、認可とは関係なく個人の欲望のために個人輸入が行われている。今後、無
節操にインターネット通販が行われると同様に、医薬品が治療以外の目的で多用される危惧がある。
インターネット通販の展開は、多くの問題を包括している。第 1 類医薬品が安易に販売されるこ
とになると薬剤師の存在意義に波及する。 4 年制から 6 年制に延長したのは病院実習と薬局実習を
制度化したためであるが、資質を向上させることが目的である。店舗における販売では薬剤師が対
面指導することが義務付けられ、ネット販売では文章による指導では、かなりの齟齬が生じる。テ
レビ電話による指導が求められているが、通販業者は受け入れを拒んでいる。
数人の薬剤師によるネット販売は、人件費が節約でき、経営者としては効率的であるが、顧客が
通販にシフトすれば、ドラッグストア店頭勤務の薬剤師削減につながり、雇用の機会が脅かされ
る。テレビ電話による指導が受け入れられれば、画質の制度が高ければ安全性の担保は高まるが、
医療の基本姿勢の転換につながる。
地方の診療所、小規模病院は医師不足により診療科の制限がある。不安を有する患者は設備が充
131 実している大病院志向であるが、テレビ電話による遠隔医療が一般化すれば、大病院の遠隔医療を
望む可能性があり、それに対応できる設備がない診療所は除外され、地域医療の基本スタイルが変
革する。患者の健康サービスを受ける選択肢が増えることは望ましいが、自己責任で選択できるか
は不安が残る。
なお、筆者は2013年 3 月、各県の登録販売者協会の責任者にアンケートを送付し、自由記述から
多くの知見を得た。46都道府県の責任者に送付し、16人から回答を得ている。
(回答率34%) 様々
な意見があったが、
医薬品の持つ効能効果は、想定外の副作用をもたらす。ネット販売はリスクの伴う医薬品販売に
は適していない。過去の薬害裁判の学習が損なわれている。
法的整備がなされないまま利便性の下で普及していけば、益々社会モラルの低下につながる。
今回の判決は、医薬品のネット販売の権利が認められたというよりは、規制するための法整備が
できていないことを示した。
国民が少なくても登録販売者並の学習をし、かつ継続的に医薬品情報について学習し続ける等、
それなりの条件が整備されなければ、解禁は不適当。
マスコミが表現する解禁と現場の解禁の理解はかなり異なる。
適切なアドバイスを伴うことが必要な、良質の医薬品を売れる環境が失われる。
といった記述が印象深かったが、街のヘルスセンターとしてのドラッグ店は、インターネット通販
の対策を講じないと近いうちに消滅するという危機感が把握できた。
③ドラッグストアポイント付与の禁止について
ドラッグストアは、調剤の自己負担分についてポイントをつけていた。ポイントをまとめて一般
商品をサービスするという方針を有していた。顧客は、調剤薬局に処方箋を持参するのであれば、
ドラッグストアに併設されているところに行き、ポイントをもらい、他の商品をポイントで購入す
ることを望んだ。
厚生労働省は、他の商品であれば問題ないが、医療用医薬品は国民医療費が投入されるものであ
り、自己負担分の 3 割についてもポイントをつけることは、実質値引きにつながるという考え方を
示した。12年10月 1 日から調剤ポイント付与の禁止の改正省令を施行した。厚生労働省の方針は、
調剤薬局はそのようなサービスで差別化を図るのではなく、服薬、健康の指導で差別化を図ること
である。
調剤薬局は、夜間の割り増し料金等、患者から見ると不明の部分があり、より丁寧な説明責任が
求められる。携行が望まれるお薬手帳は薬歴管理のデータベースであり、薬剤師はそれを活用し、
かかりつけ薬剤師となることが求められている。そうした丁寧な健康指導が差別化の基本であり、
ポイントの付与は不必要というのが厚労省の意識である。
調剤ポイントに関しては、クレジットカードとの整合性の問題が生じていた。クレジットカード
132
は支払額に応じてポイントが付くが、調剤の支払いをカードですればポイントが付与される。その
部分だけ削除するのは困難であり、日本チェーンドラッグストア加盟チェーンは、運用の平等性を
主張し、13年 3 月まで調剤ポイントの付与を継続した11)。
日本チェーンドラッグストア協会は、ホームページで以下の疑義を提示しているが、これらの疑
義は、深い洞察が要される。
医薬分業制度推進の背景
医薬分業の目的は面分業にあり、面分業は患者の大きなメリットがある。調剤ポイント付与によ
り面分業化が推進されている事実がある。一部の憶測で言っている「保険調剤の質の低下」の事実
は無い。
生活者、消費者のささやかな楽しみを奪ってまで、実現したいものは何か。
消費者、利用者側に納得ができる説明がない。消費者の選択の自由を奪って実現したいものは業
界保護や高い医療費の国民負担なのか。論理的矛盾のない、納得がいく理由を説明してほしい12)。
医薬分業からの考察は、深く洞察すべきものである。通常の患者は、医療機関の門前にある調剤
薬局か、勤務先近隣の調剤薬局を利用するが、ポイント付与があれば別の調剤薬局を利用する可能
性があり、面分業の展開が期待できるという論理である。調剤薬局の経営者からすれば、大規模の
医療機関の門前にあれば処方箋の持参が見込まれ、経営の核となる。しかしながら、狭い範囲の限
定された医療機関の発行した処方箋となる。面分業の主旨が生かされるのは難しい。患者がポイン
トを付与する調剤併設のドラッグストアに行けば、回遊性が高まる。ポイント付与は、そうした効
果が明確となっていた。
調剤薬局に好んで行く利用者は、限られている。疾病の治療のために行くのであり、重苦しい気
持ちを抱いている。ポイント付与はささやかな楽しみであるが、こうした楽しみが失われるのは、
利用者の立場からすれば心外である。
Ⅲ おわりに
インターネット社会になり、我々の利便性は向上した。スマートフォンの普及率が高まり、どこ
にいても健康の情報は取得できる。文字による情報で実体験を伝えることが看護の世界で進みつつ
ある、NBM(ナラティブベイスドメディシン)がその例である。どのような治療を続け、痛みが
緩和され通常の業務が可能になったのかという事例は、体験者の物語によって明確になる。通販業
者が医学、薬学的な資料を文字で示すことに、闘病体験を加えると効果が大きく異なる。利便性は
多面的に捉えなければならない。
健康情報学が、誰でも容易に入手できるようになった。専門家のサポートがあればかなりの理解
が可能となる。まだ患者独自では知識の習得は容易ではない。登録販売者、栄養士といった有資格
者の指導があったほうが、事実誤認は確実に減少する。ドラッグストアの聞き取り調査を進める
133 と、健康食品と一般用医薬品の相違は、消費者には理解されていない。
その相違を指導するのが、栄養士や薬剤師である。登録販売者の重要な任務は、ドラッグストア
で対応できるか、医療機関の受診が必要であるかの指示であるが、健康食品の過信により疾病が重
症になる事例が少なくない。健康食品の役割、特保の認定条件は専門の指導者が明確に指導するこ
とが望ましい。
登録販売者の受験資格は、以前の薬種商より容易になった。実務経験が軽減されたことによる。
しかしながらその実務経験証明書が虚偽記載である不正が存在した。受験に必要な実務経験を有し
ていたことにした虚偽の証明である。
2012年11月、西友は、登録販売者試験の際、同社が発行した実務経験証明書の多くが虚偽事実で
あったことを認めた。282人が発行要件を満たしておらず、200人が試験に合格、101人が 8 月末時
点で医薬品販売に従事していたというもので、幸い、医薬品販売による健康被害のトラブルはない
という問題があった13)。
西友の偽証明書は、同社の医薬品販売に対する意識を示している。登録販売者は、少しでも多く
の研鑽が要されるが、形式的な資格を満たしていれば事足りるという、現場の意識は健康産業への
自覚が欠如していたと判断せざるをえない。改定薬事法により、一般用医薬品の扱いは変革した。
単なるコモディティであることは認められない。薬学の知識の研鑽に務めるスペシャリストが扱う
ことが、健康マーケティングを進める基本である。
高齢社会日本において、健康寿命という概念が浸透しつつある。自立した高齢者であるためには
平素の健康作りが求められる。食育、適度の運動が欠かせず、チームで地域の健康作りを進めなけ
ればならない。ドラッグストア、調剤薬局の医療従事者は、そうした健康作りを指導する責務があ
り、地域医療の質的向上の協働作業を進める際には、無くてはならない人材である。ジェネリック
医薬品の促進が厚生労働省の方針となっているが、医療機関にインセンティブが無くても、患者の
都合に応じて処方を促す姿勢が欠かせない14)。
厚生労働省は、2013年 5 月31日、インターネット販売の最終検討会を開催した。対面販売の必要
性、テレビ電話の活用については激しく対立し、強い規制を設ければ訴訟も辞さないというケン
コーコム社と、対立する日本薬剤師会の慎重派は、副作用の強い第 1 類は一切認めないという立場
を続けている。推進派はこれまで店頭で買いづらかった医薬品が買いやすくなるという利点を強調
し、双方の合意は得られそうもない。推進派と慎重派の対立は解消しなかった15)。
1 月の判決により、 2 社のみがインターネット通販が認められたはずであるが、現実は多くの企
業が通販に参画しようとしている。条件整備がなされていないので全面解禁の状態である。イン
ターネット社会で健康マーケティングを進めるのは自然の成り行きではあるが、医薬品は自己責任
のみでは危険である。利便性と安全性の調整は、医療は誰のためにあるのかという基本に立ち返り
進めるべきである。
本稿では、健康マーケティングとドラッグストアの関係について紙幅を割いたが、医薬品卸も医
134
療機関、調剤薬局への様々な支援を通じて健康マーケティングの進展に寄与している。医療機関の
医師、事務職員に情報を提供することは、地域医療の質的向上に関与している。医薬品卸の従業者
は医療従事者であるが、地域医療の構成メンバーとは見られていない。東日本大震災の際に、サプ
ライチェーン・マネジメントを駆使して医薬品の確保に貢献したことは記憶に新しい。医療サービ
スの質的向上は、医療機関が中心となるが、それをサポートする諸機関の存在を失念するわけには
いかない。
注
1 )十和田東クリニック副理事長 奈良岡博氏の談話を参考にした。奈良岡氏は医薬品卸に勤務した後、医療
機関の経営に参画した経歴を有し、医薬品卸と医療機関の関わりについて深い造詣を有している。
2 )望月眞弓「適正なセルフメディケーションのために─ OTC 薬と関係者の役割」
『公衆衛生 vol.76 No.2』医
学書院、2012年、p.96。
3 )薬局の店頭に置ける血圧の測定、針を刺す血糖値測定器の使用は患者が実行できる。医師の指導無しに可
能である。
4 )(株)丸大サクラヰ薬局 学術部部長三上将氏への聞き取り調査による。
5 )『薬事ハンドブック 2013』(株)じほう、2013年、p.10。
6 )『薬事ハンドブック 2013』(株)じほう、2013年、p.10。
7 )『薬事ハンドブック 2013』(株)じほう、2013年、p.11。
8 )「CLINIC BAMBOO 5 」日本医療企画、2013年、p.86。調査期間2013年 3 月18日から 4 月10日、病院の通信
簿の会員対象に匿名で実施、回答者数 男500人 女571人。
9 )「日経 MJ」2013年 4 月29日、p.6。
10)「日経 MJ」2013年 4 月29日、p.6。
11)『薬事ハンドブック 2013』(株)じほう、2013年、p.39。
12)http://www.jacds.gr.jp/chozai_point/index.htm 2013年 4 月 1 日閲覧。
13)http://diamond.jp/articles/-/27544 2013年 5 月 1 日閲覧。
14)榎本薬品(株)代表取締役社長 榎本時一氏からの聞き取り調査を参考にした。
15)「日本経済新聞」2013年 6 月 1 日, p.5。
参考文献
小磯明「医療機能分化と連携」お茶の水書房、2013年、pp.525‒568。
「第17回 静岡 健康・長寿学術フォーラム記録集 第 1 回薬食国際カンファレンス 超高齢社会を支える健康
長寿科学とセルフケア」静岡健康・長寿学術フォーラム実行委員会、2012年。
(Proceedings of THE 17 th SHIZUOKA FORUM ON HEALTH AND LONGEVITY, THE 1 st International
Conference on Pharma and Food)
PerH. Hansen(2012)Business History : A Cultural and Narrative Approach, Business History Review, vol.86,
pp.693‒717.
Steven A. Schroeder(2007)
: We Can Do Better ̶ Improving the Health of American People, N Engl. J Med
‒
357, pp.1221 1228.
Valgo, Stephan L. and Robert F. Lush(2004)
, Evoluting to a New Dominant Logic for Marketing, Journal of
Marketing, Vol.68. No.1, pp.1‒17.
聞き取り調査
(株)
クリエイトエス・ディー 店舗開発本部マネジャー 伊澤健二氏
(株)
丸大サクラヰ薬局 管理本部長 櫻井覚氏
135 (株)
ツルハホールディング 人事部係長 細川健太郎氏
(株)
モロオ マーケティング本部グループマネージャー 温泉和広氏
(本稿は、JSPS 科学研究費補助金基盤研究(C)
23530533の助成を受けた研究成果の一部である。
)
136
弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項
平成23年1月19日教授会承認
平成24年2月22日最終改正 この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』
(以下「紀要」という。
)の刊行及び編集に
関して定めるものである。
1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。
)で行われた研究の成果を公 表すること
で行われた研究の成果を公表することを
目的に刊行する。
を目的に刊行する。
2 発行は原則として,各年度の8月及び2月の年2回とする。
3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。
4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。
5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙については,様式を研究推進・評価委員
会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。
6 投稿者は,研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ
て原稿を作成し,投稿しなければならない。
「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委
員会が決定する。
7 論文等の校正は著者が行い,3校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。
8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,
経費は著
8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者
者の負担とする。
の負担とする。
9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は,
掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。
10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者 が原稿を
10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投
投稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。
稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。
附 記
この要項は,平成23年1月19日から実施する。
この要項は,平成23年1月19日から実施する。
附 記
この要項は,平成23年4月20日から実施し,改正後の規定は,平成23年4月1日から適用する。
附 記
この要項は,平成24年2月22日から実施する。
執筆者紹介
岩 田 一 哲(ビジネスマネジメント講座/経営学・組織行動論)
加 藤 惠 吉(ビジネスマネジメント講座/税務会計、租税法)
齊 藤 孝 平(弘前大学大学院人文社会科学研究科(2012年度)修了)
児 山 正 史(公共政策講座/行政学)
柴 田 英 樹(ビジネスマネジメント講座/会計監査論・環境会計論)
城 本 る み(国際社会講座/現代中国論)
保 田 宗 良(ビジネスマネジメント講座/マーケティング)
村 松 惠 二(公共政策講座/政治学)
編集委員(五十音順)
◎委員長
奥 野 浩 子
齋 藤 義 彦
柴 田 英 樹
城 本 る み
須 藤 弘 敏
田 中 岩 男
◎長谷川 成 一
日 野 辰 哉
福 田 進 治
山 本 秀 樹
渡 邉 麻里子
人文社会論叢(社会科学篇)
第30号
2013年 8 月31日
編 集 研究推進・評価委員会
発 行 弘前大学人文学部
036-8560 弘前市文京町一番地
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/
印 刷 やまと印刷株式会社
036-8061 弘前市神田四 四 五
︻研究ノート︼
村 松 惠 二
ピュリズムであることに由来する特徴と右翼的︵ナショナル︶で
ようとする新自由主義的イデオロギーが根底にある。さらに、ポ
ムに敵対する運動という点にあり、福祉国家の危機を﹁克服﹂し
えれば、その基本的性格は、福祉国家化を支えた政治経済システ
ヨーロッパにおける右翼的ポピュリズムの諸運動に限定して考
テムに反対するための理論に収斂されるのである。
ている。種々雑多な利益と要求が動員され、既存の政治経済シス
総合されていることが、ポピュリズムのダイナミズムを生み出し
右翼的ポピュリズムのイデオロギー的特徴
目
次
Ⅰ はじめに
Ⅱ
イデオロギー論の転換
Ⅲ
ヘゲモニーと節合
Ⅳ
敵対性と矛盾
Ⅴ
空虚なシニフィアンの論理
Ⅵ
人民・ネイション・自由競争
あ る こ と か ら く る 特 徴 と が 混 在 し て い る。 ポ ピ ュ リ ズ ム 的 要 素
る。選挙での勝利をめざして、各国の歴史的・政治的文脈に応じ
ポ ピ ュ リ ズ ム・ イ デ オ ロ ギ ー は、 機 会 主 義 的 で 変 幻 自 在 で あ
る 既 得 権 シ ス テ ム の 破 壊 を 目 的 と し つ つ 展 開 さ れ る、 反 既 成 政
ギー的要素である。さしあたり、既存の政党や利益団体が形成す
政治的正当化の究極的根拠と考える思想から派生するイデオロ
は、ポピュリズムの核心的性格、すなわち大衆の意志︵利益︶を
て形成されるさまざまな大衆の要求に敏感に反応し、それをイデ
党、 反 利 益 団 体、 反 エ リ ー ト 主 義、 リ ー ダ ー 重 視、 人 民 投 票 重
Ⅰ
はじめに
オロギーに組み込むからである。雑多なイデオロギー的諸要素が
1
一言でいえば、右翼的ポピュリズムのイデオロギーは、新自由
利益と法秩序の重視とまとめられるような諸要素があげられる。
ティの尊重、反グローバル化・反EUの立場など、ナショナルな
からくる特徴として、移民排斥、法と秩序の重視、アイデンティ
視、などの項目をあげることができる。また、右翼的であること
社会のあり方を﹁永遠のもの﹂あるいは﹁自然﹂として、固定化
めに、階級的利害にとらわれて、自分たちの地位を保障している
の動向を正確にとらえられないという。支配的地位を維持するた
に表現されている。彼らは、ブルジョアジーには現実の政治経済
ロギー論の根幹は﹁虚偽意識﹂というイデオロギー理解に集約的
そ れ ゆ え、 彼 ら の イ デ オ ロ ギ ー 論 は、 ブ ル ジ ョ ア・ イ デ オ ロ
するからだという。
立っているのだが、これらの要素は、いったいいかなる論理のも
ギ ー へ の 批 判 で あ っ た。 そ れ を 支 え た の は、 自 分 た ち の﹁ 科 学
主義、ポピュリズム、ナショナリズムという三つの要素から成り
とに結合されるのであろうか。右翼的ポピュリズムは、イデオロ
的﹂な社会主義の理論こそ現実を正確に認識できるはずだという
︶
イデオロギーを論じるには、イデオロギーの定義が当然問題に
方法は、その後長期にわたって維持された。﹁イデオロギーの終
﹁ 現 実 ﹂ の 存 在 を 前 提 に し て、 現 実 と の 一 致 に 真 理 を 見 い だ す
︵
ギーとしてみた場合、いかなる特徴をもつのであろうか。
自負であった。現実を正確に把握し認識することがすなわち真理
を把握することになり、それを妨げているのがイデオロギーだっ
なるが、ここでは、もっとも一般的に、政治運動︵ここでは右翼
焉﹂論の流行がきっかけとなって議論が誘発された、一九六〇年
たのである。
的 ポ ピ ュ リ ズ ム 運 動 ︶ に お い て 用 い ら れ て い る、 社 会・ 政 治 理
代、七〇年代のイデオロギー論においても、
﹁イデオロギーと真理﹂
Ⅱ イデオロギー論の転換
論、政策、歴史観、倫理感などの観念形態を意味する概念として
﹁虚偽意識﹂などをキーワードとして議論が展開されたのである。
求める認識論的基礎のうえにたてられたものであり、一般には、
従来のイデオロギー論の基調は、真理の基準を現実との一致に
実は構成されたものである﹀という現実理解を前提に議論を展開
実そのものが存在することを前提にするのではなく、むしろ︿現
オロギー論は、いわゆるポスト・マルクス主義の議論であり、現
本稿で主として検討しようとしている、ラクラウとムフのイデ
このイデオロギー論は、マルクスとエンゲルスによって確立され
面、とりわけ、諸々の集団の闘争に対して、労働者の要求と労働
因を強調しようとする。実践的には、マルクス主義の唯物論的側
係について、彼らは、主観的要因、主体の側からの働きかけの要
する。つまり、認識形成における主観的要因と客観的要因との関
﹁﹃ 右 翼 的 ポ ピ ュ リ ズ ム ﹄ 概 念 を
︵1︶ 本 稿 は、 下 記 の 拙 稿 の 続 編 で あ る。
めぐって﹂
、弘前大学人文学部﹃人文社会論叢﹄
︵社会科学編︶第二七号、
二〇一二年二月、一∼二一頁。
たとされている。いわゆる唯物史観を基礎とした、彼らのイデオ
ギー﹂という言葉もこの意味で用いられている。
論 を 進 め て い く。 こ こ ま で の 叙 述 で 使 用 し て い る﹁ イ デ オ ロ
1
2 運動に特権的な地位を与えようとすることを批判しようとしてい
言語論的転回
実に対するイデオロギーの規定力を強調したのである。ラクラウ
る呼びかけによってはじめて﹁主体﹂が形成されると主張し、現
アルチュセールであった。アルチュセールは、イデオロギーによ
マルクス主義内部での議論の転換に決定的役割をはたしたのは
されてきた︵
﹁ウェーバーかマルクスか﹂
︶。さらに、その後、い
バーの社会科学方法論︵その理念型論︶に依拠するかたちで展開
国 で は、 一 九 六 〇 年 代 を 中 心 に、 新 カ ン ト 派、 と り わ け ウ ェ ー
やすいことである。認識形成における主観的要素の強調は、わが
ズム︵構造主義、ポスト構造主義︶の議論の影響であることは見
こうした議論の背景になっているのが、いわゆるポストモダニ
とムフは、この点では、アルチュセールのイデオロギー論を高く
わゆるポストモダニズムの思想が精力的に紹介・展開されたので
るのである。
評価する。
しかし、アルチュセールは、社会事象における﹁重層的決定﹂
の議論を中心に展開された、ソシュールの言語学があった︵いわ
ある。それらの思想の根底には、言語︵記号︶システムの恣意性
ゆる言語論的転回︶。
社会的なも
│
はあくまでも経済である
の重要性を理論に組み込みつつも、
﹁最終審級﹂
│
言語のシステムは、差異のシステムであり、現実が先行してそ
ののあり方を最終的に決定する要因
ことを捨てなかった。このかぎりで、唯物論的性格が維持されて
れに応じて言語が形成されるのではなく、むしろ、恣意的に形成
︶
いたのである。ラクラウとムフは、この、最終審級としての経済
︵
認識形成過程においては、現実の姿が反映されるのではなく、む
り、そこに規則性があるのではないと考えられているのである。
︵構築︶された現実﹂となる。極端な場合には、現実は混沌であ
テムによって把握された現実は、すなわち、主観によって﹁構成
システムと現実の世界とがはっきりと切断され、シンボル・シス
意性は、言説︵理論︶の恣意性を意味する。ここで、シンボル・
シンボル・システム︵象徴界︶であり、シンボル・システムの恣
ムが現実とは無関係であることを意味する。言語のシステムは、
恣意性とは、換言すれば独立性・自律性であり、言語のシステ
に応じて現実が把握されているという主張である。
される。言語に応じて、差異システムが恣意的に形成され、それ
される言語システムが先行して、現実を把握していることが強調
︱
というアルチュセールの議論を批判するのである。
︱
│
︵2︶
Ernesto Laclau/ Chantal Mouffe, Hegemony and Socialist Strategy.
﹃ポストマルクス主義と政
Towards a Radical Democratic Politics, 1985,
治
根源的民主主義のために﹄
︵ 山 崎 カ ヲ ル / 石 澤 武 訳、 大 村 書 店、
一九九二年︶
、この著作は、新訳﹃民主主義の革命
ヘゲモニーとポスト・
マルクス主義﹄
︵ちくま学芸文庫、二〇一二年︶も刊行されているが、本
稿では、
山崎/石澤訳のページをあげている。本文では言及していないが、
マルクスのイデオロギー論を再構成しようとする最近の試みとして、渡
辺 憲 正﹃ イ デ オ ロ ギ ー 論 の 再 構 築
マルクスの読解から﹄
︵青木書店、
二〇〇一年︶
アルチュセールについては、文献は多数あるので、ここでは指示しない。
3
2
しろ主体の側が言語︵認識・言説︶を押しつけるという側面が強
Ⅲ
ヘゲモニーと節合
ラクラウとムフのイデオロギー論はきわめて実践的なものであ
︶
ここから、言語構造が社会関係を構成し組織しているのだ、と
る。現代資本主義社会の変革のために、いかにしてどのようなヘ
︵
いう理解が生まれてくる。そして、言語構造が社会関係を構成し
ゲモニーを樹立すればよいのか、そのためのイデオロギーは、い
調されるのである。
ているのだとすれば、言説とイデオロギーとの区別はなくなるこ
︶
とになる。両者とも現実との直接的関係を持たないことが前提に
かなる政治思想的要素をどのように﹁節合﹂︵ articulation
︶すれ
ばよいのか。彼らの議論はこの二つの問いを核として形成されて
区別の基準を︿現実の世界との一致﹀におくことができないから
する根拠がなくなる。それぞれが構成されているために、正誤の
棄︵反本質主義︶とは、端的に唯物論の否定を、つまり社会現象
﹁本質主義﹂の放棄を主張する。彼らの文脈では、本質主義の放
ラ ク ラ ウ と ム フ は、 ま ず、 ポ ス ト モ ダ ニ ズ ム の 影 響 の も と に
︵
されているからである。ポスト・マルクス主義者であるラクラウ
いる。
構成されているという性格を強調すると、極端な場合、﹁正し
である。したがって、虚偽意識としてのイデオロギーという理解
のうち経済領域が他の社会現象を規定しているという見解を否定
い﹂理論と﹁誤った﹂理論との区別が不可能になり、論争も成立
は成立するはずもなく、イデオロギー相互の優劣は、ヘゲモニー
することを意味している。彼らによれば、﹁経済という場は、内
︶
闘争︵イデオロギー闘争︶の場における優劣となる。多数の支持
生的な法則にしたがう自己制御的な空間などではない﹂
︵一三七
︶
︵6︶
︵
者を獲得することが﹁正しい﹂理論であることを決定する。だか
︵
らしさ﹂
﹁説得力﹂が決め手になるのである。また、社会的現実
に対する研究者の姿勢が問われることになる。
4
︵3︶ ヴィヴィアン・バー﹃社会的構築主義への招待﹄︵田中一彦訳、川島書店、
一九九七年︶
、上野千鶴子編﹃構築主義とは何か﹄︵勁草書房、二〇〇一年︶
など多数。社会構成主義あるいは社会構築主義について、ここで詳細に
論 じ る こ と は し な い 。 い わ ゆ る ポ ス ト・ マ ル ク ス 主 義 の 議 論 が ポ ス ト モ
ダニズムの議論を一つの基礎としていることは明らかである。ある言語
システムの中で成立している既存の理論やイデオロギーに対する違和感
はどこから来るのかが問題になる。やはり、現実とのズレではないのか。
﹁もっともらしさ﹂﹁説得力﹂は何から生まれるかが問題になる
︵4︶ 当然、
︵5︶
らこそ、
﹁構築主義者﹂にとっては、論争においては、﹁もっとも
5
が、そのかぎりでの現実の存在は認めているのである。ウェーバーの﹁理
念型論﹂の場合には、﹁社会科学者の常識﹂が前提になっていた。それによっ
て極端なケースの想定はあらかじめ排除されていた。有力理論は、それ
ぞれ観点の違う、それなりに正しい理論として想定されていた。言うま
でもなく、有力理論の中で、ウェーバーが歴史を動かす重要な要因として
考えたのは、﹁経済利害﹂ではなく、宗教のあり方を重視する観点であった。
日本の社会科学は、第二次世界大戦後のマルクス主義の流行と、それに
対するウェーバーを中心とする新カント派の方法論による批判を経験し
ている。それによって、マルクス主義の側においても、素朴反映論は克
服され、むしろ認識の成立過程における主体からの働きかけの重要性を
認識したはずである。
﹁節合﹂概念については、前掲拙稿、一七頁以下参照。
ラクラウ/ムフ﹃ポスト・マルクス主義と政治﹄︵山崎カヲル・石澤
本質主義の放棄
とムフは、こうした認識を基本的に受け入れているのである。
3
6
4 頁︶
。
﹁経済という空間そのものが政治的空間として構造化されて
こ の 両 者 を、 ラ ク ラ ウ と ム フ は、﹁ 本 質 主 義 で あ る ﹂ と 批 判 す
定﹂の論理を導入しながらも、最終審級として経済を設定する。
としての労働者階級という、二つの唯物論的テーゼ、すなわち、
おり、そこにおいても⋮⋮私たちがヘゲモニー的と特徴づけた諸
こうした反本質主義の姿勢の意味は、アルチュセールに対する
グラムシとアルチュセールに残る古典的マルクス主義の唯物論的
る。彼らは、経済による最終的決定とヘゲモニーの中心的担い手
評価にわかりやすいかたちではっきりと現われる。ラクラウとム
要素を放棄するよう迫るのである。これが﹁本質主義﹂批判の眼
実践が完璧に作用している﹂
︵一二四頁以下︶
フは、一方では、アルチュセールの﹁重層的決定﹂概念を高く評
こうした唯物論の否定、最終審級としての経済︵そこにおける
目である。
つまり、社会的なものはある
階級対立︶という考え方の否定は、二十世紀後半以降、政治経済
価する。彼らは、
﹁重層的決定﹂の意味を、社会的なもの自体が
│
象徴秩序として構成されている
という提唱にある
│
内在的法則によって決定されるのではない
の急速なグローバル化が進行し、勤労者のうち、被雇用者という
さらに、労働運動を中心に多様な社会運動を統一する、という
と解釈し、高く評価する。しかし、他方では、アルチュセールが
つまり、どれほど重層的決定概念を強調しても、最終審級があ
戦略に対する批判でもある。一九八〇年代以降には、平和運動、
意味での労働者階級が圧倒的多数になりつつも、同時に、労働者
るのであれば、それは最終審級による一方的決定になるのではな
フェミニズム運動、民族的少数者の運動など、多様な社会運動が
最終審級としての経済という論理をついに捨てなかった点を批判
いか、それは本質主義にほかならないではないかということであ
活発になってきた。労働運動が核になってこれらの運動を統一す
階級の分解過程が進行し、内部対立が激化したことを背景にして
る。同じ観点から、ラクラウとムフは、イギリスのポスト・マル
るという戦略が成立しなくなってきたというのである。むしろ、
する。すなわち、重層的決定の概念は、アルチュセールの言説か
クス主義者、バリー・ヒンデスとポール・ハーストが、アルチュ
労働者階級そのものが統一的集団とはいえないほどに多階層化
いる。労働者階級と資本家階級が敵対するという図式に対する批
セールの重層的決定概念をさらに追求し、社会編成のあり方の偶
し、一部の階層︵外国人労働者を含む︶に不利益をしわ寄せする
ら消滅しがちになり、新しい形の本質主義になっていったという
然性を結論として引き出したことを高く評価する︵一六三頁︶。
ことによって労働コストを削減し、企業の競争力を確保すること
判なのである。
グ ラ ム シ は、
﹁ ヘ ゲ モ ニ ー﹂ の 論 理 を 強 調 し た に も か か わ ら
に利益を見いだす階層も多数存在するようになっている。労働者
のである︵一五九頁以下︶
。
ず、その中心に労働者階級をおき、アルチュセールは﹁重層的決
決定的なモメントになってきているのである。
階級の内部対立が、外国人労働者・移民の問題と絡まりながら、
武訳、大村書店、一九九二年︶一三七頁。以下では、本文中にページ数
だけが指示されている場合は、この図書からの引用である。
5
すでに、社会関係が多様になり、それに応じて敵対関係も多様
になっている。彼らのいう﹁敵対性の複数性﹂︵二四五、二四六
調されているのである。
敵とするかが、すでにあらかじめ決定されているわけではないと
シ の ヘ ゲ モ ニ ー 概 念 で あ る。 こ れ は、 レ ー ニ ン 由 来 の 概 念 で あ
こうした議論を展開するために、二人が利用するのが、グラム
ヘゲモニーと節合
いうことなのである。こうした多数の新しい社会運動と新しい争
り、元来、革命達成のための主体的活動の重要性を強調するもの
頁︶とは、こうした意味である。だれと共同戦線を組み、だれを
点の登場を視野に収めながら、新しい戦線を柔軟に展開すること
級の地位と役割﹂などの理論を批判し、文化的・思想的な主導権
であった。この概念を、グラムシが、
﹁歴史的必然性﹂﹁労働者階
しかし、他方、ラクラウとムフが、彼らの主張が観念論である
︵ヘゲモニー︶を獲得することの重要性を主張するために利用し
が、ラクラウとムフの理論の実践的意味なのである。
ことを否定している点も確認しておく必要がある。彼らは、地震
たのである。
こ れ ま で の 文 脈 に 即 し て い え ば、 ヘ ゲ モ ニ ー 概 念 を 強 調 す れ
や煉瓦の落下による被害の例を引きながら、地震による被害は主
観的に構成されるのではなく、地球の地殻変動としての地震とい
ば、それだけ偶発的要因が強くなり、社会闘争においては、必然
性 ﹂ と い う 古 典 的 マ ル ク ス 主 義 の 主 要 概 念 が 批 判 さ れ る。 同 時
う﹁ 現 実 ﹂ が 思 考 の 外 部 に 客 観 的 に 存 在 し て い る こ と は 承 認 す
彼らが力説するのは、こうした思考の外部にある現象が﹁﹃自
に、それは、経済に対する政治の優位を説くことにもなる。ラク
性 と い う 要 素 が 後 景 に 退 く こ と に な る。 と り わ け﹁ 歴 史 的 必 然
然現象﹄として構成されるのか、あるいは﹃神の怒り﹄として構
ラウとムフによれば、﹁労働者階級の社会主義への意志は、自発
る。この意味では、唯物論を承認しているのである。
成されるのか﹂、それこそ重要であり、それは言説の構成の仕方
頁︶
。知識人による媒介とは、新しい節合にもとづいた新しい理
的 に 生 じ る の で は な く、 知 識 人 の 政 治 的 媒 介 に よ る ﹂︵ 一 三 七
つまり、こうした現象が思考の外部に実在することは肯定され
論の注入なのである。したがって、政治の優位の主張は、節合概
に依拠しているということである︵一七三頁以下︶。
るが、言説の外部で自己構成されることが否定されているのであ
ラクラウとムフによれば、ヘゲモニーが出現する場が節合の実
念と表裏一体になる。すなわち、
﹁ グ ラ ム シ に お い て、 政 治 は つ
る。社会的言説が外在的な︵経済構造の︶必然性から生まれてく
践の場である︵二一三頁以下︶。ヘゲモニー争いが、すなわちあ
る︵一七四頁︶
。これは認識論としては、反映論の否定であり、
ることはないということである。これが、彼らの自称する﹁ポス
る節合と他の節合とが争う場、イデオロギー闘争の場ということ
ねに節合として受けとめられるのである﹂︵一三七頁︶。
ト・マルクス主義﹂の﹁ポスト﹂という接頭辞の意味である。イ
に な る。 A の ヘ ゲ モ ニ ー 的 節 合 とB の ヘ ゲ モ ニ ー 的 節 合 と の 争
認識形成における主体の側からの働きかけを強調しているのであ
デオロギーの先行性︵規定力︶と、経済に対する政治の優位が強
6 放されている︵つまり偶然によって決定される︶
、というのであ
の問いは前もって決定されることではない。すべては非決定で開
か、中心的な担い手はだれか。ラクラウとムフによれば、これら
界線、つまり対立軸はどこにあるか、ヘゲモニーの中心があるの
い、これがAとBとの陣地戦︵グラムシ︶になる。AとBとの境
側面として、イデオロギーが形成されるのである。ここでは、イ
て、何らかの本質を反映するのではなく、その節合行為の言説的
七六頁︶
。 主 体 的 行 為 と し て の 節 合 行 為 に よ っ て、 こ れ が 先 行 し
なり、それに先行する本質という平面をもたないことになる︵一
本質主義が放棄されるのであれば、節合は、﹁言説的実践﹂と
からある側面を抽出したものにすぎないからということである。
具体的に何らかの運動を想定するならば、ラクラウとムフは、
イデオロギーの先行性と規定性が強調されることになる。
デオロギー形成の自由が主張されることになり、現実に対する、
る︵二一八頁︶
。
したがって、白人労働者の組合と反人種主義闘争、反差別主義
の闘争などとの結びつきは、はじめから存在するのではなく、ヘ
ゲモニー闘争の中で﹁節合﹂されるのである︵二二四頁︶。こう
立させるために、諸課題を統合・編成し、諸闘争を統一する活動
一般に、ヘゲモニーを確立するための闘争とは、敵対勢力を孤
よって、社会関係をつくる︵運動主体を形成し、敵対者を設定す
ればならない﹂
︵ 一 七 七 頁 ︶ と 主 張 す る。 む し ろ、 こ の 言 説 に
部で構成されている運動の言説的表現ではないことに着目しなけ
諸集団を統合して政治戦線を形成するための言説は、﹁言説の外
である。そして、イデオロギーとして、諸要求・諸課題を結びつ
る︶のである。これによって、言説は、言説の外部に実在する現
してさまざまな社会勢力の共同戦線が形成されることになる。
け る 活 動 が、 狭 い 意 味 で の 節 合 で あ る。 ラ ク ラ ウ と ム フ に よ れ
実からは分離され、どの勢力と結びつき、どのような戦線を形成
︶
ば、 節 合 と は、 部 分 的 に 意 味 を 固 定 す る こ と で あ る︵ 一 八 二
するかが自由になるのである。
れば、部分的とは、
﹁社会的なものの開放性﹂からくる性格であ
ということがありえないと考えられているからである。彼らによ
チ ッ ク に 表 現 す れ ば、
﹁縫合された自己規定的な全体性としての
ぐる理論的検討は、これが実践的結論になる。これをややペダン
ラクラウとムフの、ヘゲモニーとアイデンティティ、節合をめ
︵
頁︶
。これが﹁部分的﹂であるといわれるのは、本質をとらえる
る。社会的なものの開放性とは、さまざまな言説による説明が可
﹃社会﹄という前提を分析領域としては放棄するべきである﹂
﹁さ
それゆえに構成する
単一の基礎原理などない﹂
︵一七八頁︶ということになる。
線形成の偶発性とその自由を確保するためのものである。
いずれにせよ、最終審級としての経済という論理を打ち破り、戦
│
まざまな差異からなる場全体を固定する
│
能であることを意味する。社会的なものとは、現実︵言説の場︶
︵7︶ この言葉は、基本的意味は、明瞭に発音することであり、むしろはっ
きりした区別と分離が設定されることを意味する︵分節︶が、ここでは、
諸々の要素の結合のあり方を問題にしている。つまり、因果関係として
結びついているのではなく、結合の偶然性を強調する言葉である。トレー
ラ ー と ト レ ー ラ ー ト ラ ッ ク の 結 合 が さ ま ざ ま で あ り 得 る こ と を、 メ タ
ファーとして利用できる。
7
7
て、ルーズヴェルト米大統領の﹁四つの自由論﹂へと、社会主義
運動の発展を歴史的背景として、自由概念は、一貫して、社会主
節合の具体例
以 上 の よ う な 節 合 行 為 は、 具 体 的 に は ど の よ う に な さ れ る の
こうした自由の読み替えには、自由概念に政治的自由、つまり
義的︵社会民主主義的︶方向へ変容されてきた。自由という概念
位の立場に立つならば、敵対性の形態は、たとえば労働者階級と
参政権を含ませたことが決定的であった。これが自由主義と民主
か。ラクラウとムフのいう節合は、現実の世界にある多様な、あ
資 本 家 階 級 と い う よ う に、 あ ら か じ め 決 定 さ れ て い る の で は な
主義の節合の形態であった。ハイエクやM・フリードマンを祖と
と、貧困、格差、無教育などの状態とは相容れないものと考えら
く、いかなる敵対関係が形成されるかは、ヘゲモニー闘争の結果
る意味で無数に存在する敵対関係とそこでの無数の抵抗を結びつ
である︵二六六頁以下︶
。あらゆる闘争が部分的であり、多様な
す る 新 自 由 主 義︵ neo -liberalism
︶ の 理 論 と 実 践 は、 こ の 流 れ を
逆転し、伝統的な自由概念をふたたび定式化し、実行しようとす
れてきたのである。
言説と節合しうる。闘争に独自な性格を与えるのが節合なのであ
るものなのである︵二七二頁︶。
けて戦線を形成する行為である。反本質主義、イデオロギーの優
る︵二六七頁︶
。
ラクラウとムフは、スチュアート・ホールを援用しつつ、節合
の具体例として、サッチャリズムが、伝統的な保守主義のテーマ
心、自由競争、個人主義、反国家主義など、リバタリアニズムと
しやすいテーマと新自由主義の攻撃的なテーマ、すなわち、利己
ション、家族、権威、規範、伝統、秩序などの保守的勢力が共鳴
定で変化するのであれば、当然、社会的差異のシステムも変動す
ば、そしてそれと同じ意味であるが、すべての社会的差異が不安
り、社会的なもの︵社会的関係︶を固定することが不可能であれ
以上のように、すべてのアイデンティティが一時的なものであ
Ⅳ
敵対性と矛盾
総称される思想的要素と節合しているというのである︵二六八、
る。この変動をもたらすものとして、ラクラウとムフが設定して
と新自由主義的テーマとを結びつけていることを指摘する。ネイ
二六九頁︶
。
大し、それが動因となって自由概念が変化する。ハーバート・ス
えられる。普通平等選挙制の浸透とともに、民衆の政治参加が拡
祉国家形成の準備がなされてきたことも、節合の歴史的事例と考
会 関 係 に 客 観 的 な 矛 盾 contradiction
が 存 在 し て、 そ れ が 敵 対 関
係となって現われると考えられる。たとえば、労働者と資本家の
その中核概念としての矛盾概念である。マルクス主義の場合、社
ようとしているのは、古典的マルクス主義の唯物弁証法の論理と
いるのが、﹁敵対性﹂ antagonism
である。
敵対性とは何か。この概念によって、ラクラウとムフが批判し
また、十九世紀を通じて、自由主義に民主主義が節合され、福
ペ ン サ ー に 代 表 さ れ る 自 由 放 任 主 義 か ら、 新 自 由 主 義︵ new
トマス・ヒル・グリーン︶による自由概念の修正をへ
liberalism,
8 矛盾が敵対関係となって現われ、ストライキが発生する、と。
ラクラウとムフも、現実のなかに矛盾の存在を認める。しかし
︶とは、敵対性の場へと変換された服従関係を
oppression
ように、一方が他方の決定に左右される関係である。また、抑圧
関係︵
指す。さらに、支配関係︵ domination
︶とは、外部からみて正当
化されない一連の服従関係のことである。
そ れ は、 弁 証 法 的 な 矛 盾 で は な く、 論 理 的 矛 盾 で あ る。 す な わ
ち、
﹁実際、現実のうちには、論理的矛盾という言葉でしか描写
彼らの理解では、服従関係そのものは敵対関係ではない。たと
つまり、身分制秩序が当然のものとされ
わっているが、そうした矛盾からはいかなる敵対性も発生してこ
﹁ 私 た ち は 全 員、 相 互 に 矛 盾 す る い く つ も の 信 念 シ ス テ ム に 加
き、はじめて服従が抑圧に転換する。つまり、農奴の存在それ自
の観念が浸透している言説空間︵場︶に、服従関係がおかれたと
分の平等、さらには、人間であれば誰もが平等にもつ権利、など
抑圧として構成︵構築︶されることはない。諸身
を支配している限り
│
えば、身分的服従関係は、身分による違いという観念が言説空間
できないような状況がいくつもある﹂
﹁明らかに矛盾は現実のな
かに存在する﹂
︵一九八頁︶
。
しかし、ラクラウとムフにとっては、この矛盾は、社会的な変
│
ない﹂
︵一九八頁︶
。それゆえ、
﹁矛盾はかならずしも敵対関係を
体に敵対性があるのではなく、人間の平等、人権などの概念を中
ている限り
含むものではなく﹂
、
﹁矛盾からはいかなる敵対性も発生しないの
核とする言説空間におかれたときに、つまり自由主義、民主主義
化 と 発 展 を も た ら す 敵 対 性 と は 異 な る も の で あ る。 す な わ ち、
である﹂
︵一九八頁︶と。
社会にとって内的ではなく、外的である﹂︵二〇〇頁︶と。これ
て、不平等に対する闘争が可能となるのである︵二四六、二四七
こ の 敵 対 関 係 に お い て、 諸 集 団 の 抵 抗 を 節 合 す る こ と に よ っ
の 言 説︵ 理 論 ︶ を 利 用 す る こ と が で き る よ う に な っ て い る と き
は、すでに述べた、経済に対する政治の優位の論理と同じ主張に
頁︶
。ラクラウとムフが例示しているのは、一七九二年に刊行さ
彼らによれば、敵対性は、内部から発生してくるのではなく、
なる。したがって、いかなる敵対性が発生するのかについては、
に、はじめて敵対的関係になる︵敵対関係として構成される︶、
必然ではなく、偶然によって決定されるということなのである。
れ た、 メ ア リ・ ウ ル ス ト ン ク ラ ー フ ト Mary Wollstonecraft
の
﹃ 女 性 の 権 利 の 擁 護 ﹄ が 読 ま れ て い る よ う な 言 語 空 間 で あ る。 逆
外部からの、政治からの、あるいは知識人からの働きかけで発生
では、敵対性を発生させるものは何か。ラクラウとムフは、言
にいえば、こうした思想と理念を社会的に浸透させることが敵対
というのである。
説空間が変化することによって敵対性が発生し、服従関係が抑圧
関係を生み出すことになるのである。
する。すなわち、
﹁敵対性は客観的関係などではない﹂﹁敵対性は
関係になると主張する。彼らの定義によれば︵二四六頁︶、服従
いかなる時代を想定しているのであろうか。ラクラウとムフは、
さて、敵対性の発生期として、歴史的具体的な事例としては、
関 係︵ subordination
︶ と は、 雇 用 者 と 被 雇 用 者︵ 使 用 者 と 労 働
者︶、あるいはある種の家族関係における男性と女性の関係、の
9
アルフレート・ローゼンベルクを援用しながら、新しい政治的変
容が一八四八年以降に生じたとする︵二四一頁︶。これ以降、二
立軸の形成となって現われ、重要な政治争点となったのである。
ようになっている︵二四一頁︶
、と。つまり、﹁二つの対立する等
イデンティティそのものが絶えず動揺し、不断の再定義を求める
いえなくなり、政治的空間は根本的に不安的になり、諸勢力のア
と に な り、 動 揺 す る。
︵ と い う よ り、 彼 ら の 理 論 に 忠 実 で あ れ
局面の比重が大きくなると、当然ながら言説空間も安定を欠くこ
ていた社会的差異のシステム︵社会秩序︶が不安定になり、闘争
さて、敵対性︵敵対関係︶があらたに発生し、それまで安定し
浮遊するシニフィアン
価システムのかたちで敵対性を作り出す境界線﹂
︵二四二頁︶が
ば、社会的現実と社会的言説とはほぼ同義になるために、あらた
つの敵対陣営への社会的なものの分裂が、政治の与件であるとは
あいまいになったのである。この敵対軸をどのように作るかが、
な敵対関係の発生による社会的現実の動揺と社会的言説の動揺と
は同じことを意味することになるのだが︶。体制を正当化し安定
まさにヘゲモニー争いであり政治なのである。
敵対関係が生じることは、すなわち、これまで安定していた社
命令関係、労働条件など︶は疑問視されることになる。すると、
て、労使の敵対関係が発生する場合、それまでの企業秩序︵指揮
済 に お い て 企 業 間 の 競 争 関 係 が あ る 場 合、 あ る 企 業 秩 序 に お い
ク ラ ウ と ム フ は、
﹁浮遊する﹂
︵ floating
︶という形容詞で表現す
る。闘争のプロセスで、重要な役割を果たす言葉、諸勢力が奪い
ム、アイデンティティなどのあり方の、こうした不安定性を、ラ
こうした状態、すなわち、イデオロギーや社会的差異のシステ
させていたイデオロギーにも不信が募ってくる。
他の企業との関係︵一種の敵対関係︶で成立していた、企業への
合うシンボルが﹁浮遊するシニフィアン﹂である。
会秩序が否定されていることを意味する。たとえば、資本主義経
所属意識︵企業人としてのアイデンティティ︶が弱体化し、危機
あるいは、戦争勃発︵平和の喪失という失敗︶の危機意識が浸
に す ぎ ず、 浮 遊 し て い る の で あ る。 同 様 に、 す べ て の ア イ デ ン
説に妥当する。すべての社会的言説が、部分的に固定されている
しかし、理論的には、この浮遊するという性格は、すべての言
透し、平和を求める動きが強まれば、平和をめぐる対立軸が形成
ティティが、言語と同様、差異のシステムの一部であり︵一八一
に陥ることになる。
され、あらたな敵対関係が生じることになる。人類の生存環境の
頁︶
、浮遊するという性格は、最終的にあらゆる言説的アイデン
︶
危機、貧困の拡大など、次々と課題が発生するたびに、あらたな
ティティに浸透するのである︵一八二頁︶
。
︵8︶ こ れ は、 理 論 的 に は、 言 語 は 差 異 の シ ス テ ム で あ り、 各 言 語 に 応 じ
て恣意的に形成される、というソシュールの理論を連想させる。社会科
学 の 常 識 で い え ば 、 理 論 に よ っ て 社 会 的 現 実 を 最 終 的 に︵ 確 定 的 に ︶ 把
握することは不可能だということである。
︵
敵対関係とあらたな政治戦線が形成される、あるいは要求される。
ヨーロッパの右翼的ポピュリズムとの関わりでいえば、経済状況
の悪化によって失業率が上昇し、社会的不安定が法秩序の動揺を
引き起こしていることが、外国人労働者や移民を敵対者とする対
8
10 従来のシステムが攻撃され、あるヘゲモニーのもとで統一され
は、すべてのアイデンティティが部分的であり、それゆえ、変化
ればならない﹂
︵ 一 七 三 頁 ︶ の で あ る。 ラ ク ラ ウ と ム フ に と っ て
︶
てきた意味の差異システムが動揺することによって、多くの﹁浮
可能である。
空間を支配するかが争われているのであり、言説空間を支配しよ
体系︵イデオロギー︶に組み込もうとする。どちらの勢力が言説
ば、相争う政治陣営が、この浮遊するシニフィアンを自己の言説
とにより、新しいヘゲモニーが形成されるのである。言い換えれ
ン を、 す で に 論 じ た 等 価 性 の 原 理 に よ っ て 統 一︵ 節 合 ︶ す る こ
然的な関係はない﹂︵一三八頁︶ことになる。つまり、社会主義
目標と生産関係における社会的行為者の位置との間には論理的必
与えられる﹂︵一三八頁︶。それゆえ、たとえば﹁社会主義という
デンティティは、ヘゲモニー的編成の内部での節合によってのみ
えられるのである。すなわち、ラクラウとムフによれば、﹁アイ
アイデンティティは、まさしく、節合行為によってそのつど与
︵
遊するシニフィアン﹂が生まれる。これらの浮遊するシニフィア
う と す る 言 説 が︿ イ デ オ ロ ギ ー﹀ で あ り、 そ の 争 い が イ デ オ ロ
という目標と労働者階級との結合が偶然のものとなるのである。
︶
ギー闘争である。あるイデオロギーによって表現される特殊な要
具体的に考えるならば、現在のように、被雇用者の階層分化が進
︵
求︵部分的要求︶が普遍的な︵共同体全体の︶要求になる場合、
行すれば、労働者の利益と資本の利益との節合がありうる。たと
えば、輸出産業の企業の上層労働者︵職員層︶は、競争力を確保
ティティの形成とは、自集団と他集団との差異を強く意識して、
これをアイデンティティの問題として考えてみよう。アイデン
だとする、本質主義的アプローチを、ラクラウとムフが拒否する
それは、すでに述べたように、社会関係が何らかの本質の表れ
ことについて経営者と利害が一致することがありうるのである。
するために、下層労働者に労働コスト削減の負担をしわ寄せする
自集団の特徴を守るべき価値とし、集団への帰属意識を抱かせる
からでもある。それゆえに、すべてのアイデンティティが不安定
不安定ということは、固定されないということであり、開かれ
ことである。浮遊するシニフィアンが生じるということは、諸集
アイデンティティが形成されるということになる。ある政治闘争
ていることでもある。ラクラウとムフは、アイデンティティの固
なものなのである︵一五六頁︶
。
局面において、諸集団の要求がどのようにまとめられ、その際、
団のアイデンティティも不安定になり、状況に応じてさまざまな
アイデンティテ ィ
新しいヘゲモニーが樹立されることになるのである。
10
︵ ︶ た と え ば、 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 場 合、 ネ イ シ ョ ン︵ 国 家 ︶ 単 位 の 敵 対
関係が設定されることによって、ネイションとしての所属意識を高揚さ
せるためのアイデンティティが形成される。家族・地域・企業など、あ
らゆる単位でアイデンティティが形成されるのである。拙著﹃カトリッ
ク政治思想とファシズム﹄
︵創文社、二〇〇六年︶第四章参照
10
諸集団のアイデンティティがどのように形成され、節合されるの
か、状況に応じて変化するということである。﹁諸要素のアイデ
前掲拙稿、一五頁以下。
ンティティは節合によって、少なくとも部分的には変更されなけ
︵9︶
11
9
たというのである︵一六九頁︶
。
ティティ形成、ひいてはあらたな戦線形成が論理的に可能になっ
級 を 中 心 に す る の で は な い、 多 様 な 形 で の 主 体 形 成 と ア イ デ ン
かにする論理でもあった︵一六八頁︶。これによって、労働者階
ティが開かれた政治的に交渉可能な性格をもっていることを明ら
の論理を位置づける。重層的決定の論理は、一切のアイデンティ
定化を防ぐための論理として、アルチュセールの﹁重層的決定﹂
でくくられることが、すなわち等価なものとして新しい差異シス
性を見いだし共通項でくくることを意味するからである。共通項
ありえない。何かを切り取る行為は、切り取られる諸差異に共通
るいは等価性の原理なくしてあらたな部分全体を形成する行為は
この何かを切り取る行為によって等価性の原理が発動する、あ
体︶が形成される。これが戦線の形成であり、陣営の形成である。
ら何かを切り取ることによってあらたな全体性︵当面は部分的全
テムに組み込まれることを意味する。ここで、等価なものとして
新しいイデオロギーは、あらたに言説空間を支配するために、
いる状態であり、新しいイデオロギーが形成される過程にほかな
戦線と諸勢力の統一が実現する。これが等価性原理の発動されて
くくられた、差異システムの総体があらたな全体性となり、共同
一方では、諸勢力の要求・主張の共通性を主張する、それによっ
らない。
新しい節合・新 し い イ デ オ ロ ギ ー
て、できる限り多くの勢力を獲得しようとする。その際は、別稿
定して敵対関係が顕在化しないということは、諸勢力、諸課題の
言説空間が差異のシステムとして存在するとすれば、社会が安
を形成し、イデオロギー的ヘゲモニーを確立するための議論であ
論なのである。また、言説空間において、あらたなイデオロギー
しようとする主体の側の自由と言説空間の重要性を導くための議
結局、ヘゲモニーをめぐる議論も、節合の論理も、運動を形成
節合のあり方が、これまでの差異の場にとどまること、つまり、
る。
で論じておいた︿等価性の原理﹀が重要になる。
差異システムの総体にとどまることである。そこでは、集団の間
あらたなイデオロギーを形成する場合、差異、すなわち諸勢力・
るためには、できる限り多くの差異を新しい等価性︵等価関係︶
の差異が意識されるだけで、差異︵諸集団の個別の要求︶は全体
敵対関係が生じて、この差異システムの総体が不安的になり、
の中に組み込み安定させること︵共通利益の確認︶が必要である。
諸集団の個別のイデオロギー︵要求と主張︶を、どのように節合
あるいは分裂が兆すことになれば、敵対関係にもとづいて、全体
そして、あらたな節合が可能となるためには、合理的な推論あ
のなかに吸収され、差異システム総体は一つの安定した全体とし
としての差異システムの総体から何かを切り取ることになる。こ
るいは因果関係の連鎖によっては説明しきれない︿論理の空白部
し、あらたな陣営のイデオロギーとするのか。政治闘争に勝利す
れ が、 自 陣 営 を 形 成 し、︿ わ れ わ れ ﹀ 集 団 を 形 成 す る こ と で あ
分﹀、逆にいえば、諸勢力が自由に解釈できる︿論理的余裕﹀が
て存在している。
る。つまり、差異のシステムは不安定な混沌状態にあり、それか
12 フィアンは、リーダーの人格であり、その名前である。右翼的ポ
あ る。 別 稿 で も 述 べ た よ う に、 も っ と も 効 果 の 高 い 空 虚 な シ ニ
不可欠であり、その機能を﹁空虚なシニフィアン﹂が果たすので
必要である。新しいイデオロギーには論理的余裕・論理的空白が
に連ねたとしても、最後の選択は、合理的推論を超えた決断であ
こで決断がなされるのである。因果関係による合理的判断を無限
関係を合理的に追うことはある時点で中断されざるをえない。そ
り、権力が主導する政治を肯定することになる。政治では、因果
治的方向性がどちらを向いていようとも、行動にいたらないかぎ
政治的イデオロギーにおいて、空虚なシニフィアンがなぜそれ
平等、友愛、国益、民族の価値など、抽象性の高いシンボルであ
許すシンボル﹀である。無内容なのではなく、たとえば、自由、
である。空虚なシニフィアンは、︿論理的空白・論理的曖昧さを
それゆえ、政治的行動は、空虚なシニフィアンを必要とするの
にはありえないのである。
り、政治行動は、論理的空白のもとでの心理的飛躍︵決断︶なし
ピュリズムにおけるリーダーの決定的重要性もここにある。
Ⅴ
空虚なシニフィアンの論理
ほど重要なのか。一般に、人間の政治行動を考えるとき、因果関
る。 す で に 述 べ た よ う に、 敵 対 関 係 の 発 生 と と も に︿ 等 価 性 原
政治的決断
係を基礎とする合理的推論が繰り返された後、ある時点でそれを
︶
理 ﹀ が 起 動 す る が、 そ の 等 価 関 係 を 形 成 す る た め に 空 虚 な シ ニ
︵
切断して行動へと移行する。
政党、諸候補者の政策を十分比較検討した上で投票候補を決定す
票として考えられているのが、いわゆる﹁政策投票﹂であり、諸
もっとも重要な政治的決断は投票行動であるが、その理想的な投
必要になる。イデオロギーと言説は、かならずこれらの原理・シ
とのできる上位のより抽象的な原理︵理念︶が設定されることが
る場合を考えるならば、諸勢力が自己の主張や要求を読み込むこ
諸勢力によるさまざまな社会運動を統一して共同戦線を形成す
フィアンが不可欠なのである。
るべきだという主張である。しかし、これを徹底して実行しよう
ンボル︵つまり空虚なシニフィアン︶を内包するかたちで形成さ
選挙における投票行動を例にとってみよう。現代政治において
とすると、ほとんど無限の調査研究を強いられる。現実にはこれ
れているのである。
もそも、あらゆる言葉が多義的であり、われわれが使用する言葉
間で政治的コミュニケーションが成立することが前提になる。そ
あらたな節合と等価関係が成立するためには、まず、諸勢力の
政治的コミュニケーション
は実行不可能であり、いずれかの時点で決断して投票候補を選択
しているのである。
政治は権力担当者が主導する。したがって、合理的推論は、政
│
13
11
︵ ︶ ラ ク ラ ウ の﹁ 空 虚 な シ ニ フ ィ ア ン ﹂ に つ い て 議 論 し て い る 数 少 な い
政治学関係図書として、布施哲﹃希望の政治学
テロルか偽善か﹄
︵角
川学芸出版、二〇〇七年︶
11
依存して生命を維持されてきたこと︵母子関係︶の経験がある。
そして、コミュニケーションを成立させる曖昧さを、政治の場
に込められた正確な意味が確定しているわけではない。自分の主
る。シニフィアンとシニフィエの対応そのものも保証されている
において担保しているものが、空虚なシニフィアンであり、空虚
精神分析の理論がもっとも重視する経験︵関係︶である。
わ け で は な い。 だ か ら、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン そ の も の が 曖 昧 さ
なシニフィアンを媒介にして行なわれる節合という結びつき方な
張の意図や意味が正確に伝わることは保証されていないのであ
を と も な っ て 成 立 し て い る の で あ る。 逆 に い え ば、 曖 昧 さ は コ
のである。節合は、因果関係による固定的な結びつきではなく、
︶
ミュニケーション成立の要件であるといえる。もしこの曖昧さを
結合部分に遊びのある︵曖昧な︶結びつき方である。空虚なシニ
︵
避け、自分の意図と主張が正確に伝わることをとことんまで追及
︶
フィアンは、イデオロギーにおけるキーワードであり、諸勢力の
︵
するなら、コミュニケーションは成立しない。
奪い合いの対象になるプラスのシンボルである。あるいは、メタ
政治的コミュニケーションを成立させるために必要な相互の信
ファー︵隠喩︶として機能する概念でもある。
だから、他者に対する信頼感がコミュニケーションには不可欠な
︶
頼感を醸成するうえで重要なのが、共通の利益あるいは共通の社
︵
の で あ る。 こ の 信 頼 感 の 現 実 的︵ 物 質 的 ︶ 根 拠 と な る の は、 集
会的立場からくる一体感である。それが、曖昧さを乗り越えてコ
義
│
ポピュリズム・ナショナリズム・新自由主
が重要である。そして、それらのイデオロギー要素を代表
イデオロギー要素
│
ある。右翼的ポピュリズムの場合、すでに述べたように、三つの
の典型は、自由、平等、民主主義、伝統、民族などの政治理念で
すでに述べたことからも明らかなように、空虚なシニフィアン
Ⅵ
人民・ネイション・自由競争
において敵への激しい非難が頻発するゆえんでもある。
関係を強調することもきわめて有効である。右翼的ポピュリズム
ばならない。また、一体感を成立させるために、他陣営との対立
団なしに自分が生活できないこと、他者との交流の中で自分が形
│
ミュニケーションを成立させるのに十分な強さをもっていなけれ
に伝わることをそれなりに信じて言葉を交わしているのである。
コミュニケーションにおいては、保証のないまま、意図が正確
13
12
成されてきたことの経験である。その根底には、母親に全面的に
14
︵ ︶ また、レイコフとジョンソンによれば、すべてのメッセージ︵文章︶
がメタファーによって伝えられている。人間はメタファーの連続によっ
て世界を理解しているというのである。レイコフ・ジョンソン﹃レトリッ
クと人生﹄
︵渡辺昇一ほか訳、大修館書店、一九八六年︶
︵ ︶ 樫 村 愛 子 に よ れ ば、 こ の 意 味 の 曖 昧 さ に 耐 え ら れ な い 場 合、 神 経 症
的 に な る。 人 が あ る こ と を 言 う 場 合、 そ の シ ニ フ ィ ア ン は つ ね に 曖 昧 に
選択されている。たとえば、
﹁好き﹂という言葉は他の無数のシニフィア
ン と 曖 昧 に 結 び つ い て い る。 そ れ ら の 全 体 と し て﹁ 好 き ﹂ が 成 立 す る。
その曖昧さを阻止しようとすると、意味作用が成立しなくなる︵神経症︶。
樫村愛子﹃ラカン派社会学入門
現代社会の危機における臨床社会学﹄
︵世織書房、一九九八年︶一五八頁以下。
︵ ︶ 言 説 と 現 実 と の 不 一 致 を 前 提 と す る ポ ス ト モ ダ ニ ズ ム は、 言 説 の 真
理性を問うこと自体を否定するが、言説についての相対主義が徹底され
る な ら ば 、 本 来 は、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 成 立 さ せ る こ の 信 頼 感 も 成 立
しない。
12
13
14
14 ギーについては、個別の事情を考慮した具体的分析が必要である
ン ボ ル が 決 定 的 な 意 味 を も つ。 右 翼 的 ポ ピ ュ リ ズ ム の イ デ オ ロ
する、
﹁人民﹂と﹁ネイション﹂と﹁自由競争﹂という三つのシ
チ・ドイツとの関係の問題であり、ナチズム支配と関わったオー
任 の 再 検 討 で あ る 。 オ ー ス ト リ ア の 場 合、 オ ー ス ト リ ア と ナ
のでもある。その典型がいわゆる﹁歴史修正主義﹂による戦争責
政治上の要請から、問題として取り上げることのできなかったも
︶
ので、ここでは簡潔に、三つのイデオロギー要素について述べる
ストリア人の責任の問題であった。
︵
にとどめよう。
さらに、人民を称賛することから、政治的意志決定過程におけ
やイニシアティブなどの直接民主政的要素の拡大を要求し、すで
る人民の直接的介入を高く評価することになる。レファレンダム
ポピュリズムの言説は、
﹁人民﹂という言葉、︿価値としての人
いずれにせよ、大衆民主政のもとでは、既存の政治経済システ
に制度化されている場合には、運動の手段としてこれらを積極的
ない︿被支配集団﹀である。対語となるのは、エリート︵選良︶
ムに反対するすべての運動が、必然的に一種のポピュリズムにな
民 ﹀ を そ の 中 核 に も っ て い る。﹁ 人 民 ﹂ 概 念 は、 多 様 な 意 味 を
である。したがって、人民という言葉で人びとをまとめることに
る。支配層を敵とし、﹁人民﹂の意志を実現する運動になる。人
に利用する。
よって、エリートとの敵対関係を強化するという機能をはたす。
民 と い う シ ン ボ ル は、 状 況 に 応 じ て、 生 活 者、 消 費 者、 一 般 市
民、普通の人びとなどの概念によって代用される。
職、労働組合や労働会議所の役員などがエリートに含まれている
が 批 判 さ れ る。 こ の 場 合、 労 働 者 の 上 層 部 分、 公 営 企 業 の 管 理
一部の人びと︵エリート︶の利益をのみを尊重・重視している点
確認できるように、そのナショナルな感情は、移民と外国人に対
容姿は、各国の事情に応じて千差万別であるが、各国で共通して
もっていることもしばしば指摘される。ナショナリズムの具体的
第二に、右翼的ポピュリズムがナショナリズムとしての側面を
ナショナリズム
ことが特徴である。自由競争を阻害する既得権を批判する新自由
ンの利益﹂を擁護するという形で、実際には、移民に敵対する論
する反感となって集中的に現われる︵
﹁反移民政党﹂
︶。﹁ネイショ
エリート批判は知識人批判でもある。とりわけ、これまでの常
主義的主張と重複する場合が多い。
システムでの汚職・腐敗が非難され、既存の利益媒介システムが
団体国家﹂﹁会議所国家﹂などのキーワードを用いながら、既存
ば、典型的な福祉国家オーストリアの場合、﹁党員証経済﹂﹁利益
そ こ に は、 既 存 の シ ス テ ム に 対 す る 批 判 が 含 ま れ る。 た と え
もっているが、基本的には政治的概念であり、統治行為に関与し
ポピュリズム
15
︵ ︶ わが国の議論では、いわゆる﹁自虐史観﹂批判、東京裁判史観批判、
従軍慰安婦論批判が展開された事態とほぼ対応する。
15
識的政治倫理・歴史観・戦争観が批判の俎上に載せられる。これ
らの常識は、学校教育において教育されてきた内容であり、国際
15
多発の原因を移民に押しつける。それゆえ、反移民の感情はただ
など、移民がもたらす社会的弊害をあげつらい、とりわけ犯罪の
理が組み立てられる。右翼的ポピュリズムは、自国民の失業増加
設定され、非難を浴びせられる。ここでは、福祉国家においてな
めた︵公私の︶官僚機構、公務員、労働組合役員などが敵として
動員のキーワードになる。具体的には、諸利益団体の指導部も含
すると、新自由主義からの批判が右翼的ポピュリズムによる大衆
よう。
ぜ官僚バッシングが有効になるのか、この点に絞って議論してみ
ちに法秩序の維持と結びつくのである。
いずれにせよ、移民に対する対抗関係を敵対軸として浮上させ
ることによって、自己の所属集団の団結を強化し、凝集力を高め
が、右翼的ポピュリズム・イデオロギーの重要なキーワードとな
パ 文 化 ﹂﹁ 反EU ﹂﹁ 主 権 ﹂﹁ 法 秩 序 の 維 持 ﹂
﹁警察の強化﹂など
ヨーロッパの場合、
﹁ナショナルな文化﹂﹁反移民﹂﹁ヨーロッ
分 に 官 僚 機 構 が 関 わ る よ う に な る。 そ こ で は 非 商 品 化︵ 官 僚 制
れによって公と私を分ける境界が移動し、社会生活のかなりの部
時に、福祉国家化が進むので、多くの領域が公的領域になる。そ
時に進行している。まず、商品化がすべての生活分野に及ぶ。同
福祉国家︵現代資本主義︶においては、官僚制化と商品化が同
る。このナショナルな側面を強調する場合、右翼的ポピュリズム
化︶が進み、市場原理が機能しなくなる。利益を上げることが予
るという機能をはたす。
ではなく、ナショナル・ポピュリズムという名称が与えられる。
定できる事業・サービスが、公共セクターによって提供されるよ
ターと民間セクターとが並存することになる。私的領域での競争
うになるのである。それによって、同種の事業領域で、公共セク
第三に、右翼的ポピュリズムが、福祉国家システムの行き詰ま
の激化とそれにともなう生活上の困難の増加とともに、自由競争
新自由主義
りの中から、福祉国家における利益媒介システム、とりわけ、い
の正しさが常識化している場合には、それを免れている公務員へ
福祉国家化とともに、この領域は拡大するのだが、官僚によっ
わゆるネオ・コーポラティズムのシステムに対抗して、新自由主
オーストリア自由党は、
﹁自由競争﹂﹁民営化﹂﹁規制緩和﹂など
て統制されるので、公的空間であるにもかかわらず、意志決定は
の怨嗟の声が強まることになるのである。
を目標として掲げ、福祉国家において諸団体が一種の談合の上で
民主的統制を免れている。当事者の意向が十分に反映されること
義的批判を展開してきたことは周知の事実であろう。たとえば、
政治を営むシステムを、
﹁会議所国家﹂﹁党員証経済﹂﹁利益団体
はない。また、さまざまな点で、担当官僚の特権と腐敗が温存さ
︶
国家﹂などの言葉で表現し批判するイデオロギーを展開し、支持
︵
れる︵官僚天国︶
。こうした状況を背景に反官僚のムードが蔓延し、
前掲﹃ポスト・マルクス主義と政治﹄、二五六頁以下参照。
者を拡大してきた。また、
﹁自立と自己責任﹂をキーワードとし
︶
官僚バッシングが有権者の喝采を受けることになるのである。
︵
て、福祉政策への﹁依存﹂を批判してきた。
あらたな節合による新自由主義の主張が大衆の日常感覚に共鳴
16
16
16 ところで、新自由主義は、本来、世界規模での自由競争を要求
アンに、決断︵一種の心理的飛躍︶を可能にする何かを読み込ん
翼的ポピュリズムのイデオロギーにおける新自由主義的要素は、
にはなりにくい︿本音﹀、すなわち、日常生活の中で抱く、怒り
真に有効であるイデオロギーにおいては、公的なイデオロギー
でいるのである。
国境を越えるものではなく、あくまでも、一国内の、官僚機構と
や不安、嫉妬、希望や願望、攻撃欲などが、空虚なシニフィアン
するために、ナショナルな要求とは親和性は低いものである。右
有力利益団体との癒着によって形成されている利益分配システム
を通じて読み込まれている。それが政治的決断︵心理的飛躍︶を
的政策のもとで、社会経済状況が悪化すれば、これらの情念はま
に対する批判なのである。利益分配競争において不利な立場に置
他方、右翼的ポピュリズムの目から見れば、同じ福祉国家シス
すます強くなり、合理的正当化をはるかに超えて、一挙に右翼的
促しているのである。自由競争と自己責任を柱とする新自由主義
テムから﹁不当な﹂利益分配を受けている集団として、外国人労
ポピュリズムの運動に共鳴・同調することになる。
かれている状態を逆転させることに目的がある。
働者・移民の集団が浮かび上がる。右翼的ポピュリズムのナショ
ナリズムは、彼らを敵として特定し、自国民との境界を明確にす
﹁不当な﹂利益分配を受ける集団を排除するための論理である。
ものの核心部に、社会ダーウィニズムとしてまとめられる思想的
こうしてみると、ナショナリズムと新自由主義を節合している
社会ダーウィニズム
ネイションというシンボルは、ここでは、ネイションに所属しな
要 素 が 位 置 し て い る こ と が わ か る。 社 会 ダ ー ウ ィ ニ ズ ム と は、
るためのものである。対外的対立から誘発されたものではなく、
い人びとを自由競争のシステムから排除するという機能を果たし
ダーウィン進化論を人間社会に素朴に当てはめようとするもので
あるが、その核心的原理は、生存競争と自然淘汰︵優勝劣敗︶で
ているのである。
こ う し て、 右 翼 的 ポ ピ ュ リ ズ ム の イ デ オ ロ ギ ー に お い て、 ナ
このような﹁節合﹂を可能にするものは何か。すでに、政治的
ない攻撃的な衝動にもとづく言動であろう。最終的にはここに依
は、公的な倫理的道徳的命題を意識したとしてもなお抑制しきれ
あ る。 上 述 の、 公 的 な イ デ オ ロ ギ ー に は な り に く い︿ 本 音 ﹀ と
決断が一種の論理的空白状況でくだされていること、空虚なシニ
拠して、ポピュリズムは大衆を動員するのではないか。
ショナリズム的要素と新自由主義的要素とが﹁節合﹂される。
フィアンが︿論理的空白・論理的曖昧さを許すシンボル﹀である
︶
ここで、動物学の立場から、﹁人間のなかの弱肉強食性﹂を指
︵
こ と に つ い て は 論 述 し た。 右 翼 的 ポ ピ ュ リ ズ ム の 勢 力 や 支 持 者
摘 す る 小 原 秀 雄 の 議 論 を 参 考 に し よ う。 小 原 は、 多 く の 動 物 の
│
17
﹁弱肉強食﹂論
動物からヒト、人間まで﹄︵明石書店、
︵ ︶ 小原秀雄﹃
二〇〇九年︶、その他の多数の著書においても、同様の見解を述べている。
17
が、空虚なシニフィアンに、その内容として読み込むものは、諸
勢力が現状から脱却するために説く理論や政策だけではない。右
翼的ポピュリズム運動の支持者たちは、むしろ、空虚なシニフィ
17
く こ と の で き な い 条 件 ﹂︵ 八 七 頁 ︶ で あ る と す る。 小 原 に よ れ
現 し た ﹂ も の と と ら え、 こ こ に 現 わ れ る 攻 撃 性 は﹁ 自 然 界 に 欠
食被食という関係︵食物連鎖︶を、﹁個体のレベルで通俗的に表
例を引きながら、弱肉強食とは、自然界における種と種の間の捕
ある。それゆえ、攻撃に対抗することによって発生するストレス
をとることによって人間社会は存続し発展してきたということで
も作り上げてきたのである。これによって、攻撃性とのバランス
肉強食のメカニズムの発現を抑制する仕組み︵社会関係、文化︶
たということである。したがって、集団内部に対しては、この弱
︶
ば、人間にも、動物︵哺乳類︶としてのヒトがもつ弱肉強食とい
を 避 け る た め に、 た と え ば 、
︿支配されることを求める性質﹀も
たのだ﹂
︵一三七頁︶
。これが﹁ヒトの人間化﹂︵一三八頁︶であ
トの種社会が、人間の社会集団の必要とする規制を受けて変わっ
化の特質を﹁社会化﹂
︵一三三頁︶ととらえる。﹁動物としてのヒ
これが小原のいわゆる﹁自己家畜化﹂論である。彼は、ヒトの進
畜として馴化させることによって人間になったと小原は述べる。
しかし、哺乳類としてのヒトは、進化の過程で、自分自身を家
た弱肉強食社会﹂
︵一七二頁︶が、無差別殺人事件のような攻撃
る。小原は、新自由主義改革によって、
﹁政策的につくりだされ
攻撃性を煽ることによって勝ち組になろうとするのは愚策であ
小原にとって、勝ち負けを強制するグローバリズムのなかで、
な政治主体とは言い切れないことはすでに周知のことであろう。
できないのである。現実に行動している個人が、自主的・自律的
ヒトはもっている。これを認識せずに政治行動を理解することも
︵
う仕組み︵攻撃衝動︶がそなわっているのである。
る、﹁人間の種社会は動物種社会から生産関係にもとづく人間社
性の暴発を導くだけであることを指摘する。
しかし、小原によれば、われわれが﹁人間である以上、そうし
︶
この抑制的行動は攻撃性に比べれば弱い︵一五七頁︶、という。
︵
いやり、協調する性向も遺伝的に伝えられる。しかし、小原は、
てもつこの攻撃性をなくすことはできない。もちろん、他者を思
撃的な衝動にねざす﹂
︵一五六頁︶ものである。人間がヒトとし
に立とうとしたりする人間の欲求は、遺伝的に伝えられる広い攻
のは無理である﹂
︵一七三頁︶
。小原にとって、
﹁競合したり、優位
進化の過程で、一種の闘争集団として攻撃活動︵狩猟︶に都合
│
た生物的な衝動を抑制したまま、﹃平和﹄にだけ生きようという
│
のよいルールや倫理を体現した集団だけが生き延びることができ
会へと変化した﹂
︵一三九頁︶という。
18
この著作は、一九九〇年代以降急速に勢いを増した新自由主義への批判
という意味をもっている。
﹁最近の一部の政治家や財界人の市場原理と競
争原理をもとにした主張は、一世紀も前の社会ダーウィニズムのむし返
しにほかならない﹂︵一〇一頁︶。小原氏の主張については、弘前大学農
学生命科学部の佐原雄二教授にご教示いただいた。
人間の攻撃性と協調性については、動物学あるいは自然人類学などか
ら多くの議論がある。ここでは、本文で言及していないが、以下の図書
も参考にしている。E・モラン﹃失われた範列
人間の自然性﹄
︵古田
幸男訳・法政大学出版局、一九七五年︶A・モンターギュ﹃暴力の起源
人はどこまで攻撃的か﹄
︵ 尾 本 惠 市・ 福 井 伸 子 訳、 ど う ぶ つ 社、
一九八二年︶
︵ ︶ 小 原 前 掲 書、 二 二 頁。 以 下 の 本 文 で の こ の 図 書 か ら の 引 用 は、 本 文
中にページ数のみを指示している。
18
19
︵ ︶ 小 原 の 積 極 的 提 案 は、 む し ろ、 無 化 す る こ と の で き な い 攻 撃 性 を 別
の﹁転位行動﹂に転位させ、
﹁攻撃性を転化する方法﹂
︵一七三頁︶を見
つけることである。心理学でいう﹁昇華﹂と同じことであろう。
19
18 たしかに攻撃的なエネルギーは、さまざまな現れ方をする。進
取の気象、起業家精神、旺盛な知識欲、競争心、勝利への意欲な
ど は、 攻 撃 的 エ ネ ル ギ ー の 現 わ れ で も あ る。 記 録 を 伸 ば す た め
に、刻苦勉励して練習に励むスポーツ選手を想起すればよいだろ
うか。しかし、攻撃衝動が同時に、社会的統合を困難にする社会
的逸脱行動ともなり、社会内の闘争を激化させることになること
も理解は容易である。
ポピュリズム・イデオロギーは、一方で、自由競争・自立・競
争心など、一言で進取の気象と総称されるこの攻撃性のプラスの
現われを称揚しながら、他方では、この︿ヒトがもつ弱肉強食の
仕組み﹀を刺激しているのである。ポピュリスト・リーダーの言
動にしばしば現われる︿本音﹀も、有権者大衆が意識下でもつこ
の攻撃性と共鳴しているに違いない。﹁自立・自由・競争﹂など
の空虚なシニフィアンが、このメカニズムを包摂していると考え
ることができる。
ポ ピ ュ リ ズ ム が、 空 虚 な シ ニ フ ィ ア ン の 論 理 的 空 白 を 利 用 し
て、攻撃衝動を組織しようとしているとすれば、社会経済状況の
悪化とともに、そのイデオロギーにおいて、敵対関係をますます
昂進させる方向で働くシンボルと攻撃的言説が勢いを増すことは
見やすいことであろう。他方では、内部の凝集性を高めるための
シ ン ボ ル と 言 説 も 必 要 に な る。 闘 争 集 団 と し て の 統 一 と 紀 律、
リ ー ダ ー へ の 帰 依 を 求 め る 言 説 を 析 出 す る こ と も、 ポ ピ ュ リ ズ
ム・イデオロギーを分析する際に重要になるだろう。ナショナリ
ズムは、この側面で不可欠のイデオロギー要素になるのである。
付記
本稿は、JSPS科研費23530138の助成による研究成
果の一部である。
19
30
IWATA Ittetsu
of a Framework for Analysis about the Process
…………………… Proposal …………………………………………………………………………
Suicide: From the Studies of Stress
1
…………………… of Overwork
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
KATO Keikichi
of the Capital Market to the Tax Credit System
…………………… The Reaction
…………………………………………………………………………
SAITO Kohei
and Development
29
…………………… on Research
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
KOYAMA
Tadashi
Utilizing …………………………………………………………………………
Community Indicator for Evaluation
……………………
in 4 Cities (2)
53
…………………… and Budgeting
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
KOYAMA
Tadashi
Community
Indicator and Overall Planning in Kurashiki City
67
……………………
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
SHIBATA
Hideki
Window Dressing
on the View
……………………
…………………………………………………………………………
AOYAGI’s Accounting Theory
75
…………………… of Dr. Bunji
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
SHIROMOTO
Rumi
Lo-sheng …………………………………………………………………………
Sanatorium in a fluid political situation
……………………
War II
93
…………………… after World
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
YASUDA……………………
Muneyoshi
Some Studies
about Relation of Health Marketing
…………………………………………………………………………
Distribution Industry
127
…………………… and Drug…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
MURAMATSU
Keiji
Die Struktur
der rechtspopulistischen Ideologie
1
……………………
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
……………………
…………………………………………………………………………
ISSN 1345-0255
Fly UP