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シンガポール華僑粛清

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シンガポール華僑粛清
シンガポール華僑粛清
林
博
史
要旨 1942 年 2 月にシンガポールで日本軍がおこなった華僑粛清事件
は、アジア太平洋戦争期における日本軍の代表的な残虐行為としてよく
知られている。シンガポールでは体験記や資料集が数多く刊行され、日
本側の関係者の証言もある程度は出されているが、この事件の全容を解
明した信頼できる研究が日本にもシンガポールにもない。そうした中で
本稿は、この粛清事件の全体の概要を、日本側の動きと要因を中心に明
らかにする。まず粛清の命令・実施要領の作成・実施過程を日本側資料
によって明らかにする。また日本軍の構成、華僑政策の特徴など背景に
ついて分析し、定説がなく議論となっている犠牲者数の検討、粛清をお
こなった理由について検討する。シンガポール華僑粛清が、シンガポー
ル占領前から計画された華僑に対する強硬策の一つであり、長期にわた
る中国への侵略戦争のうえになされた残虐行為であると結論づけてい
る。
キーワード アジア太平洋戦争、戦争犯罪、シンガポール、華僑、日本軍
はじめに
本稿で取り上げるのは、1942 年 2 月にシンガポールで日本軍がおこなっ
た華僑粛清事件である。アジア太平洋戦争の初期におこなわれた最初の大
規模な住民虐殺事件であり、また日本軍が東南アジア地域でおこなった残
虐行為のなかでは、戦争末期にフィリピンのルソン島でおこなった一連の
住民虐殺と並ぶ大規模なケースである。
この粛清事件は、憲兵隊の戦友会がまとめた『日本憲兵正史』において
も「大東亜戦争史上一大汚点」とされており、また粛清事件直後からシン
ガポールの治安維持にあたった憲兵中佐からも「日本軍の暴虐として世界
の批判にさらさるべき最大の汚点」
「人道上非難さるべき暴虐」と厳しく
批判されている 1)。そういう点でも誰にも否定できない虐殺事件である。
しかし残念ながら、日本のマラヤ軍政の研究は蓄積があるし粛清事件に言
及している文献も少なくないが、全容を解明した信頼できる研究が日本に
もシンガポールにもない。シンガポールでは体験記や資料集は数多く刊行
―1―
され、日本側の関係者の証言もある程度は出されている。ただ粛清をおこ
なった日本軍の資料がほとんど残っていないためよくわからない部分が多
い 2)。ただマレー半島での虐殺については、ネグリセンビラン州で粛清を
おこなった部隊の陣中日誌などが残されていたため、現地での証言とつき
合わせて詳細が解明されており、シンガポールのケースを考える手がかり
も少なくない 3)。
ここでは、この粛清事件の全体の概要を、粛清をおこなった日本側の動
きと要因を中心に明らかにしたい。資料としては、日本側の資料を中心に
しながら、イギリスがおこなった戦犯裁判の資料やシンガポール側の資料
も利用する。ただしシンガポール住民の証言を十分に活用し、粛清の対象
とされた人々の視点を含めてこの事件を描く作業は残された課題としてお
きたい。
Ⅰ
粛清の経過
1. マレー進攻作戦
1941 年 12 月 8 日未明、日本軍は真珠湾攻撃に先駆けてマレー半島東北
海岸のコタバルに上陸、ここにアジア太平洋戦争が始まった。コタバルに
上陸したのは、マレー半島攻略を担当した第 25 軍(司令官山下奉文中将)
に属する第 18 師団の佗美支隊だった。ほかに第 5 師団がタイ領のシンゴ
ラ、パタニに上陸、インドシナにいた近衛師団は陸路タイへ進攻し、一路
シンガポールをめざした。日本軍はマレー半島を南下し 1942 年 1 月 11
日クアラルンプールを占領、31 日にはついにマレー半島最南端のジョホー
ルバルを占領した。
さらに日本軍は 2 月 8 日の深夜、ジョホール水道を渡ってシンガポー
ル島への上陸作戦を開始した。しかし、頑強な抵抗にあって苦戦し弾薬が
底をつきはじめたが、水源地に日本軍が迫り、水道管が破壊されたためこ
れ以上の給水を望めなくなったイギリス軍は 15 日ついに降伏を申出、そ
の夜マラヤ英軍司令官パーシバル中将と山下中将が会見して、英軍の降伏
が決まった。
シンガポール戦のなかで、激戦地であった島中央部のブキテマにおいて、
数百人の華僑が虐殺されるなどいくつかの華僑虐殺がおこなわれ(第 5
師団担当地区)
、また西海岸のアエル・ラジャ方面でも同様の虐殺がおこ
なわれたことがわかっている(第 18 師団担当地区)4)。また西海岸沿いの
―2―
アレクサンドラ陸軍病院において、医師など病院スタッフや患者ら 200
ないし 300 人以上が日本軍に殺害された事件もおきている 5)。
こうしたマレー作戦の最中、マレー半島南端ジョホール州のクルアンに
おいて第 25 軍に配属されていた第 2 野戦憲兵隊長大石正幸中佐は、軍参
謀長鈴木宗作中将より「軍はシンガポール占領後華僑の粛清を考えている
から相応の憲兵を用意せよ」との指示をうけた。大石中佐は横田昌隆憲兵
中佐に「これは大変なことになった」ともらしていた 6)。軍司令部がクル
アンにあったのは 1 月 28 日から 2 月 4 日までであるのでその時のことと
みられる。つまりシンガポール島上陸以前の時点で、すでに華僑粛清が計
画されていたのである。
2. 華僑粛清の実施
イギリス軍の降伏後、日本軍は不祥事がおきることを危惧して戦闘部隊
は郊外に留め、第 2 野戦憲兵隊が市内の治安維持やイギリス軍の武装解
除にあたることになり 16 日に市内に入った。郊外のブキテマ高地にとど
まっていた第 5 師団所属の歩兵第 9 旅団長河村参郎少将は、17 日夜、軍
司令官よりシンガポール警備司令官に任命するという命令を受け取り、翌
18 日朝、ラッフルズ・カレッジにおかれていた軍司令部に出頭した。こ
こで山下奉文第 25 軍司令官から第 2 野戦憲兵隊と二つの歩兵大隊をあわ
せたシンガポール警備司令官に任ぜられ、軍参謀林忠彦少佐を付けると申
し渡された。この場には軍司令官と軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀(作戦
主任)辻政信中佐、林忠彦少佐がいた 7)。さらに続けて山下軍司令官より
作戦命令を受けた。この「掃蕩作戦命令」の内容は次のようであった。
一
軍はまもなくその中心部隊を新しい作戦に移すが、シンガポール
の治安は非常に悪い。ゲリラのような抗日中国人の地下活動は広
がってきているし、それが軍の作戦を妨げている。
二
軍司令官はこれら抗日分子の絶滅を企図している。
三
河村少将は軍司令官の指揮のもとでただちに地域の掃蕩作戦をお
こない、抗日分子を一掃すべし。
四
この計画実行の手段と方法は軍参謀長より指示される。
これについで軍参謀長よりくわしい指示をうけた。その内容は次のよう
―3―
なものだった。
一
掃蕩作戦の期間は 2 月 21、22、23 日とする。
二
対象
①元義勇軍兵士
②共産主義者
③略奪者
④武器を持っていたり隠している者
⑤日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱す者ならび
に治安と秩序を乱すおそれのある者
三
掃蕩の方法
①指揮下の地域のまわりに哨兵線を張り、抗日分子の逃亡
を防ぐ。
②地域を適当ないくつかのセンターに区分し、すべての中
国人を指定した地域に集め、現地住民の協力を得て、抗
日分子を選別する。
③上記に並行して、疑わしき場所を捜索し、隠れている者
を逮捕し、隠されているすべての武器などを没収する。
④すべての抗日容疑者をほかの者から分離する。
⑤すべての抗日分子を秘密裏に処分する。このためにシン
ガポール内で適当な場所を使ってよい。辻中佐を暫定的
にこの任務を監督し、また連絡任務をおこなうために派
遣する。
この指示に驚いた河村が質問をしようとするのを参謀長は途中でさえぎ
り、「中国人を殺すことについて議論や意見があるが、軍によって綿密に
検討され、軍司令官によって決定されたものである。さらに言えば、期間
を延長することは許されない」と命令通り実行するように強調した。つい
で辻参謀から説明をうけた。辻はまず押収した名簿について説明し、さら
に次のように説明した。
地下にもぐった義勇軍兵士や共産主義者によってゲリラ戦を開始す
る準備が進められている。獄中にいた共産主義者たちはこの目的のた
めに特別な命令をうけて釈放された。膨大な数の抗日組織の構成員名
―4―
簿がわれわれの手に入った。これらはすでに憲兵隊司令部に送られて
いる。市内での略奪はひどくなっているし、各地で捨てられた武器弾
薬が抗日中国人によって略奪され隠匿されている。そうした者たちが
この粛清の対象である。捜索がなされれば、もっと多くの中国人が逮
捕されるだろう。各地で小競り合いがおきる可能性があるので必要な
準備をするように留意すること。山下軍は別のところで使われるので、
シンガポールの警備隊は縮小するだろう。こうした点を考慮に入れて、
この作戦の最大限の期間が決められたので延長は許されない。2 月 24
日から 3 日間シンガポール市内で軍政会議が開かれることが軍に
よって決定された。だからこの粛清は 2 月 23 日までにおこなわれな
ければならない。それが軍司令官の命令である。
それから辻は第 25 軍傘下の各師団の移動先を説明し「自分がこの作戦
の監督の任務を与えられ、林参謀も軍の意図をよく理解しているのでどう
ぞ安心してください」と語った。
辻の話が終わってから河村は再び鈴木参謀長に会いに行った。そのとき
鈴木は「このような困難で不愉快な任務を与えて申し訳ない」と言いなが
らも、部隊の移動などの状況を説明し「こうした状況のもとで軍司令官が
最終決断をしたのだ」と任務遂行をあらためて促した。河村は「命令をう
けた以上、私は遂行するように努力します」と述べたうえで、3 日間でお
こなうのは非常に困難であること、もっとも難しい点は誰が抗日分子であ
るかどうか決めることであり、名簿に載っている者に対象を限定すること
ができないか、と要望した。参謀長は義勇軍と共産主義者が粛清の主な対
象であり、その扱いは任せると答えた。河村は当初は命令に驚いたが、そ
の日の日記には「有能努力家の林参謀を増加配属せられ此上なき力を得た
るを喜ぶ」と記している 8)。
河村が陸軍士官学校を卒業して最初に赴任した名古屋の歩兵第 6 連隊
に鈴木がいたことから二人は旧知の仲だった。そのことが、河村が警備司
令官に選ばれた理由ではないかと思われる。
河村はその日の午後、林参謀とともに憲兵隊本部に大石憲兵隊長を訪ね
た。そして軍司令官の命令を内々に知らせ、その意見を求めた。大石憲兵
隊長も期間の延長を求めたが河村は、延長はできないことを説明した。そ
して大石に林参謀と相談して警備隊命令を作成するように指示した。作成
―5―
したものを林参謀が軍司令部に持っていき、警備隊命令が作られた。同日
夜、河村は大石憲兵隊長と二人の歩兵大隊長を呼び、警備隊命令を伝えた。
歩兵大隊とは、第 5 師団から歩兵第 11 連隊第 3 大隊(市川正少佐)と第
41 連隊第 1 大隊(宮本菊松少佐)の二つである。
この警備隊命令で、軍命令と異なる点は、人々を集めるときに食料、水、
寝具を持ってこさせるようにしたこと、年寄りや女性子どもはただちに釈
放すること、対象者の⑤(「日本軍の作戦を妨害する者…」
)は「名簿に記
載された者」に修正したこと、情報収集に役立つ者、軍政や再建に助けと
なる者は拘留し上からの命令を待つこと、などである。これらの多くは大
石の意見に基づいたもののようである。また憲兵だけでは人手が足りない
ので、憲兵は抗日分子の選別を担当し、処刑の場所、方法や実際の処刑に
ついては補助憲兵に任せることにした。
同日夕刻、憲兵隊の分隊長以上がフォートカニングの憲兵隊本部に集め
られた 9)。ここで大石憲兵隊長より次のような内容の命令が下達され
た10)。
検問実施命令
2 月 19 日、20 日の間各警備担当区域の適当な広場に華僑
を集合せしむ
2 月 21 日― 2 月 23 日の間検問を実施す
二 対象 華僑義勇軍、共産党員、抗日分子、重慶献金者、無頼漢、
前科者等
三 資料 抗日団体名簿
一
日時
憲兵隊幹部の会議では、わずか 3 日間で 70 万人と推定される市民を 200
人ばかりの憲兵で検問することの困難さが問題とされたが、検討の結果、
「現地人を検問に利用すること」
「名簿を基準とすること」
「老幼婦女子、
病人を先に検問すること」
「共産党員、義勇軍、ゲリラ党加盟者は特に厳
重に調査すること」
「検問にパスした者には良民証を交付す」ることなど
の実施要領を決定した。
こうして翌 19 日、大日本軍司令官の名で以下の布告が掲示された11)。
昭南島在住華僑 18 歳以上 50 歳までの男子は来る 21 日正午までに左
―6―
の地区に集合すべし
集合場所
アラブ街およびジャランブッサー広場
リババリー路南端広場
カランとゲーラン交叉点のゴム園
タンジョンパーカー警察付近
ハマバレー路及びチャンギー路交叉点
右に違反する者は厳重処罰さるべし
尚各自は飲料水及食糧を携行すべし
上記の集合場所は大西覚の記録によるが、実際に住民が集められた場所
とは少し違っている。
憲兵隊は市街地を 5 つの地区に分けて担当した(図 1、2)
。カラン河よ
り西南側、市街地の北部分を大西隊が担当し、住民はジャラン・ブサーの
大西隊
Jalan Besar
合志隊
River Valley
Road
カ
ラ
ン
河
水野隊
Arab Street
カラン飛行場
シンガポール河
上園隊
China Town
海
久松隊
Tiong Bahru
& Neil Road
図 1 憲兵隊粛清担当図
(出典)城朝龍作成の分担図(裁判記録に所収)をベースにさまざまな証
言から作成。あくまでも大雑把な区分にすぎない。
(注)隊の下の地名は主な住民集合地点。なお大西覚63 頁の図は不正確と
思われる。憲兵隊担当地区の東側(カラン河以東)を第4
1連隊第2大隊、
合志隊の北側を第1
1連隊第3大隊が担当した。
―7―
図 2 第 2 野戦憲兵隊 編成図
(出典)大西覚宣誓供述書の基となった本人作成のメモ(日本語)より作
成(WO235/1004)
(注)シンガポール市内への入城時の編成。なお久松隊と大西隊の憲兵数
は、大西メモでは後からそれぞれ 20 名に直しているが、英訳では 30 名と
なっているのでそのままにしておいた。人数についてはかなり不正確と思
われる。特に本部と横田・城隊の人数はかなり疑問なので注意していただ
きたい。なお本文の(注)23 も参照。
ヴィクトリア英文学校とその周辺に集められた。その南側地区ではアラブ・
ストリートにおいて検証が水野隊によっておこなわれた。シンガポール河
の北側、フォートカニングやオーチャード・ロードのある地区は合志隊が
担当し、住民はリバー・バレー・ロードとオード・ロードの交差点付近に
集められた。シンガポール河南岸のチャイナ・タウン地区は上園隊が担当
した。南端の地区はタンジョンパガー警察署に本部を構えた久松隊が担当
し、三か所に住民を集めた。
憲兵隊以外では、歩兵第 41 連隊第 2 大隊(宮元隊)がカラン河より東
のゲイランとカトン地区を担当し、テラック・クラウ英文学校に住民を集
めた。歩兵第 11 連隊第 3 大隊(市川隊)は市街の北側を担当した12)。
このようにして 21 日より計 7 地区で検問が開始された。憲兵隊は元義
勇軍兵士や元共産主義者らに覆面させて、集めた華僑のなかから抗日分子
と見られる者を指摘させ、あるいは抗日団体の名簿を使ってその関係者を
検挙する方法もとった。一人ひとりに一つ二つの質問をしてその回答に
―8―
よって選別する方法もとられた。たとえば、「蒋介石と汪兆銘のどちらが
正しいか」
「陳嘉庚(タンカーキー)を知っているか」など。あまりに検
問すべき者が多いので、一括して質問をおこない選別することもあった。
たとえば、義勇軍だった者、銀行員、財産を 1 万ドル以上持っている者
(20 万ドルや 500 万ドル以上のケースもあった)
、政府の仕事に就いてい
た者、南洋に来てから 5 年未満の者、などは手を上げよと求め、手を上
げたものをまとめて選別したこともあった13)。
河村の証言では 5 つのカテゴリーの者を選別することになっていたが、
実際には各地区の憲兵隊長の判断に任されていたようで、地区ごとにさま
ざまであったようである14)。
抗日団体の名簿とは、日中戦争期におこなわれた抗日救国運動に関わっ
た組織のものであると見られるが、それが直ちに裁判抜きの処刑の理由に
はなりえない。結局、大量の華僑を短期間で選別しなければならなかった
ために、きわめてずさんなやり方がとられた。
検問がおこなわれていた 21 日、大西覚憲兵中尉が責任者をしている検
問所にやってきた軍参謀辻政信中佐は「なにをぐずぐずしているのか。俺
はシンガポールの人口を半分にしようとおもっているのだ」と憲兵隊を激
励した。他の検問所でも同じような指導をおこなった。また同じく軍参謀
の朝枝繁春少佐は憲兵隊本部に入ってきて軍刀を抜き、
「起きろ!起きろ!
憲兵は居ないのか」
「軍の方針に従わぬ奴は憲兵といえどもぶった切って
やる」と強引な指導をした。また軍参謀副長馬奈木敬信少将も各地の憲兵
らを激励してまわった15)。
粛清に加わった中山三男憲兵曹長は「とにかくインテリのやつを人相と
服装だけでパッパッとやっとるからね」
「その当時半分粛清するんだとい
うことを自分らも聞いたですから、半分もやるならちょっとくさいものも
というわけで、そんな分け方をしたように思います」とインタビューに答
えている16)。
こうして選びだされた人たちは補助憲兵に引き渡されてトラックで郊外
に運ばれ処刑された。処刑場所は島の東端にあるチャンギに向かう南東海
岸沿いの各地が多く、砂浜で射殺して海に流したり、溝を掘らせた前で処
刑して埋める方法も取られた。南側のタンジョンパガーの沖合いやブラカ
ン・マティ島(現在のセントーサ島)周辺に船で連れて行き、紐で縛って
海に投げ込み銃撃する方法も取られた。死体の処理のためにチャンギ捕虜
―9―
収容所(刑務所を転用)に収容されていた英軍捕虜が使われたこともあっ
た。
2 月末に近衛師団によって郊外でおこなわれた粛清では、島東北部の
アッパー・セラグーン・ロード周辺の住民が検問され、東北端のポンゴー
ル海岸で処刑されたものが多い。また島西部のジュロン地区やリム・チュ
ウ・カン地区でも住民が集められ、彼らはその地域の何か所かで処刑され
ている17)。
近衛師団の通信隊の無線小隊長だった総山孝雄氏によると、近衛師団の
ある歩兵小隊が補助憲兵となり検証をおこなっていたところ、軍参謀から
電話で「5 師団はすでに 300 人殺した。18 師団は 500 人殺した。近衛師
団は何をぐずぐずしているんだ。足らん足らん。全然足らん」と大変な剣
幕でどやしつけられた。そこで師団からその小隊長に「とにかく軍への申
し開きができるよう、何でもよいから数だけ殺してくれ」と命令があった。
小隊はやむなく人相によって人を振り分け、振り分けたものが 100 人に
なるとトラックに積んでチャンギ要塞の近くの海岸に運び、機銃で掃射し
て死体を海にすてた。そして人数を水増しして軍に報告した。やらされた
小隊長はやらされたことの辛さに夜、宿舎で泣いていたという18)。
シンガポール対岸のマレー半島ジョホールバル側では、ジョホール水道
沿いの広場に壕を掘って処刑した華僑を埋めていたという証言もあるが、
これはシンガポールとジョホールのどちらの住民なのかはわからない19)。
3. 粛清結果報告とその後の部隊の移動
河村は、粛清完了予定日である 23 日に軍司令部に報告しなければなら
なかったので、三人の隊長を招集し報告を受けた。戦犯裁判の証言では、
処刑したか、あるいはまだ拘留している者は合計 4000 から 5000 人とし
ているが、日記では「11h より隊長会報を行ひ検索情況を聴取す処分人員
総計約 5000 名なり重要分子は引続き留置取調中なり」と記されている。
この会議のあと河村は軍司令官に報告に行った。そのとき山下軍司令官は
「君の努力に感謝する。しかしすべての抗日分子が一掃されたとは思えな
い。彼らの動きを注意深く監視し、必要なときには逮捕し粛清を続けなけ
ればならない」と語った。続いて鈴木参謀長に会って、検問と拘留中の者
の処分の一部は今日中には終わりそうにないとその許しを求め、参謀長も
認めた。
―1
0―
翌 2 月 24 日付の新聞『昭南日報』には、「已に逮捕せる叛徒の領袖及
某々人は、本月 21 日及 22 日、某処に於て銃殺に処せられたり。茲に昭
南警備司令官は、今後尚改悛せぬ悪行を続くる徒輩に対しては、同様の厳
罰を以て臨むことを公告す」という内容の昭南警備司令官の声明が掲載さ
れた20)。
その後、2 月末に林参謀が軍司令部に呼ばれて、近衛師団が 2 月 28 日
から抗日華僑の掃蕩を開始するので、警備隊は警備を固めて逃げようとす
る抗日分子を逮捕すると同時に先におこなったように抗日分子の粛清なら
びに処分をおこなうよう命令を受けた。この作戦の結果は「非常に少ない
数」だったと河村は述べている。河村日記にはこの時の粛清に関する記述
はない。
この近衛師団によって 2 月 28 日から郊外でおこなわれた粛清では、戦
後の日本側がまとめた資料では約 1500 名を検索したと記述している21)。
シンガポールの粛清開始と並行して、2 月 19 日南方軍(総司令官寺内
寿一大将)より第 25 軍に対して、旧英領マラヤの治安を迅速に回復せよ
との命令が出された。これを受けて 21 日第 25 軍は軍命令を発し、マラ
ヤ全域での治安粛清を命じた。具体的には、近衛師団は昭南島、第 18 師
団(久留米、 師団長牟田口廉也中将)はジョホール州、 第 5 師団(広島、
師団長松井太久郎中将)はその他のマレー半島全域が担当とされた。3 月
から 4 月はじめにかけて、この治安粛清によってマレー半島各地で華僑
虐殺が繰り広げられた22)。
シンガポール粛清を実行した河村参郎は 3 月末には第 9 歩兵旅団長と
してパナイ、ミンダナオ攻略に出発(いわゆる河村支隊)
、近衛師団は 3
月初めにスマトラ攻略に、第 18 師団はジョホール州の粛清終了後、4 月
はじめにビルマに移動した。第 5 師団主力のみはマレー半島の警備のた
めにとどまった。
Ⅱ 粛清の実態
1. 粛清を実行した日本軍の編成
第 25 軍はマレー半島攻略のために編成された軍であり、軍司令官は山
下奉文中将、その傘下に近衛師団、第 5 師団、第 18 師団の三個師団が配
属されていた。しかしシンガポール警備隊としてシンガポール市街での粛
清に直接関わったのは、 第 2 野戦憲兵隊(大石正幸中佐)の約 200 名と、
―1
1―
23)
その下の補助憲兵約 600 名(各師団から一時的に派遣された)
、さらに
歩兵大隊二個である。シンガポール郊外地域は近衛師団が担当した。歩兵
大隊の構成員は当初の編成時より半減していると推定されるので二個大隊
あわせても 1000 名に届かないだろう。粛清の中心になったのは憲兵隊で
あった。憲兵隊が検問をおこない、そこで選別された人々が補助憲兵(歩
兵)によって処刑された。
憲兵隊はすでに述べたように五つの隊に分かれて、それぞれが担当地区
ごとに検問をおこなった。指揮命令系統は、第 25 軍司令官―シンガポー
ル警備隊司令官―第 2 野戦憲兵隊長となっていたが、実質的には第 25 軍
参謀であった辻政信中佐や朝枝繁春少佐、林忠彦少佐らが直接、憲兵隊の
指導で回っていた。近衛師団による粛清の場合も、現場の部隊長をこれら
参謀が直接指導していたようである。
2. 対華僑政策の特徴
日本の南方占領についての方針は、1941 年 11 月 20 日大本営政府連絡
24)
会議で決定された「南方占領地行政実施要領」
に明らかにされている。
この要領の初めに「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回
復、国防重要資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す」と占領の三つの
目的が定められている。この三つのなかで治安の回復などは占領政策を遂
行するうえでの前提であって、最大の目的は重要国防資源の獲得にあった。
そして「重要国防資源取得と占領軍の現地自活の為民生に及ほささるを得
さる重圧は之を忍はしめ宣撫上の要求は右目的に反せさる限度に止むるも
のとす」
「原住土民に対しては皇軍に対する信倚観念を助長せしむる如く
指導し其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とある
ように資源獲得のために現地住民には重圧に耐えさせ、軍政を敷いて独立
運動は抑えるという方針であった。ここで重要国防資源としては、石油を
筆頭にゴム、スズ、キナ、タングステン、マニラ麻、コプラ、パーム油を
はじめニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、鉄鉱石などがあげら
れている。
東南アジア各地で経済的な力を持っていた華僑に対する方針はどうだろ
うか。さきの「南方占領地行政実施要領」では「華僑に対しては蒋政権よ
り離反し我か施策に協力同調せしむるものとす」とされている。大本営政
府連絡会議では 1942 年 2 月 14 日に「華僑対策要綱」を決めているが、
―1
2―
基本的に同じ考えで、華僑の経済力を占領に利用しようという観点から対
策がたてられている。参謀本部内で 1941 年 2 月以来、南方占領統治につ
いての研究がおこなわれていたがそこでの考え方が受け継がれていた。開
戦前夜に南方軍総司令部で作成された「南方軍軍政施行計画(案)
」1941
年 11 月 3 日付では、マラヤでの軍政施行計画の民族対策のなかで「華僑
は我施策に協力せしむるを方針とし特に華僑にして土化せる者には政治
的、経済的に馬来人と同一待遇を与ふ」と華僑を特に危険視する姿勢は見
られない。
だがこれらの文書では抽象的に方針が定められただけで、具体的な施策
は現地の軍に任されていた
マラヤ占領を担当した第 25 軍の華僑対策の方針は 1941 年 12 月 28 日
ごろに第 25 軍によって作成された「華僑工作実施要領」に示されてい
る25)。
この「要領」でははじめに「趣旨」として「華僑の動向に重大なる関心
を持し之か誘引工作を以て華僑対策の大部分なりとせるは既に過去のこと
に属す
今次大戦の勃発を契期として特に占領地内の華僑対策は従来の誘
引工作に比し其の本質方向共に根本的転換の必要を生せり」と述べてい
る。つまり華僑を「同調寄与」させることに主眼をおく「誘引工作」を
きっぱりと否定している。そのうえで、
「占領直後の応急要領」の(一)で
「積極的誘引工作は之を行はす」
「占領地内に於ける彼等の動向は彼等自ら
をして決せしめ服従を誓ひ協力を惜しまさるの動向を取る者に対しては其
の生業を奪はす権益を認め然らさる者に対しては断乎其の生存を認めさる
ものとす」としている。
この次の段階の「第一期作戦終了直後に於ける対処要領」ではマラヤの
華僑に対して「最低五千万円の資金調達を命する」こととともに「処断の
峻厳を期す」として「協力に参加せさる者に対しては極めて峻厳なる処断
を以て処理す
即ち財産の没収、一族の追放、再入国の禁止を行ふと共に
反抗の徒に対しては極刑を以て之に答へ華僑全体に対する動向決定に資せ
しむ」ときわめて強硬な方針を示している。つまり進んで協力しない者は
殺してしまえという乱暴な方針だった。
華僑に対して強硬な姿勢で臨み、従わない者は処刑し見せしめにするこ
とによって、華僑を黙らせ、服従させようとする狙いであったと推定でき
る。
―1
3―
3. 殺害方法
シンガポールの粛清における殺害方法は、選別した市民をトラックに載
せて郊外や海岸、あるいは船に載せて沖合いに連れて行き、そこで機関銃
などで銃殺するというやり方だった。犠牲者のほとんどは成年男子(一部
青少年が含まれていたと見られるが)であった。なお大西覚氏は、憲兵隊
では女性や子供は殺していないと断言できると述べている26)。このシンガ
ポール粛清においては、さまざまな証言から見ても、女性や子どもは粛清
の対象外であり、犠牲になったケースがあったとしても極めて例外的で
あったと考えられる。
この粛清は戦闘が終了した時点でおこなわれたものであり、粛清中に日
本軍がイギリス軍あるいは抗日ゲリラに攻撃を受けるということはまった
くなかった。戦闘中の混乱あるいは興奮したなかでおこなわれたものでは
なく、戦闘終了後、きわめて組織的秩序だって冷静に実行された大量殺人
であった。
マレー半島部でおこなわれた華僑粛清との比較をすれば、第 18 師団に
よって粛清がおこなわれたジョホール州では機関銃や小銃による銃殺と銃
剣による刺殺の両方の方法が取られていることが生存者の証言からわか
る27)。他方、第 5 師団によっておこなわれた、それ以外のマレー半島での
粛清では多くが刺殺されている。日本軍の陣中日誌がくわしく残されてい
たネグリセンビラン州での粛清では 1942 年 3 月についてはすべて刺殺で
あった28)。農村部においては、数十人、数百人規模で、村や集落ぐるみ、
老幼男女を問わず皆殺しにされ、家が焼却されるケースが頻発した。ただ
都市部では検索をおこなって疑わしき者(ほとんどが成年男子)のみを検
挙し、いったん刑務所などに拘禁したうえで密かにトラックで郊外に連行
して銃殺あるいは刺殺した。つまり都市部での殺害方法はシンガポールと
共通している。ただ住民を集合させてそこで選別し、ただちにトラックに
積み込んで処刑地に送るという方法はシンガポールのケースの特徴であ
る。
4. 粛清の犠牲者数
犠牲者数を確定させることのできる資料は残念ながら残っていないが、
いくつかの資料から手がかりを得ることは可能である。
シンガポールの人口は 1941 年 6 月時点で 77 万人、うち中国人は約 60
―1
4―
万人であった。マレー半島からの避難民によりもっと増えていると思われ
る。
まずシンガポール警備隊司令官であった河村の日記では、2 月 23 日 11
時の隊長会議で「処分人員総計約 5000 名」という報告を受けたことはす
でに紹介した。ただその時点ではまだ粛清は続行中であることに留意して
おかなければならない。
戦後、俘虜関係調査中央委員会がまとめた報告は河村日記などを参考に
して、2 月 21 日から 23 日の間に約 5000 名、2 月 28 日から 3 月 3 日まで
に約 1500 名、3 月末に約 300 名、を検索したとしたうえで、そのうち約
2000 名は釈放したとし、「厳重処断」すなわち処刑したものは約 5000 人
としている29)。
これまで注目されてこなかったが、当時の日本軍が作成した文書として
『第二五軍情報記録』がある30)。これは第 25 軍の参謀部が粛清終了後まも
ない時期に作成したものであるが、この第 62 号(1942 年 5 月 28 日付)の
なかにシンガポールにおける「失業者の概況」が記されている。そこには、
「会社工場従業員」の失業者概数が 4 万 5000 人、3 万 2000 戸、「元政府系
官公吏」2 万人、1 万 8000 戸、などと並んで、「行方 不 明 者」1 万 1100
人、9000 戸、とあり、これらは「爆撃及粛清に依るもの」と注記されて
いる。この「行方不明者」を死亡者と解釈すると、粛清による死者は、1
万 1100 人から爆撃による死者を引いた数ということになる。
ただこの爆撃と粛清による「行方不明者」がなぜ失業者の統計に含まれ
るのかよくわからないし、あるいはこの数字は死亡者ではなく、
「粛清」を
逃れて「行方不明」になっている者の数字なのか、資料の記述があいまい
なために判断が難しい。
当時の文献で探せば、1943 年に出版されたマライ軍宣伝班の本のなか
に 40 余万人を「一斉収容」
「検問」し、「○○○余名を処分した」という
記述がある31)。また『朝日新聞』1942 年 3 月 4 日付には、2 月 28 日から
3 月 3 日まで全島一斉検挙をおこない、7 万 0699 人の抗日華僑容疑者を
逮捕したとの記述がある32)。ただこれらからは殺害された人数はわからな
い。
関係した憲兵隊の将校の証言としては、1942 年 3 月 6 日に第 25 軍軍政
部警務科長(のち警務部長)として着任した大谷敬二郎憲兵中佐は、シン
ガポール着任の数日後、辻参謀の講話を聞く機会があり、そのなかで「シ
―1
5―
ンガポールで約六、七千、ジョホールで約四、五千名は処刑したであろう」
と話したように覚えているという33)。
大西覚憲兵中尉は、自分の憲兵分隊の処分人数はトラック 2 台、140-150
人であり、上には二百数十人と水増しして報告していたとし、
「警備司令
官隷下、憲兵関係部隊で粛清した人数は千人前後、いくら過大に見積もっ
ても二千名に満たないのが真相であろう」と主張している34)。
戦犯裁判に提出された証拠書類のなかでは、マレー作戦に従軍し、2 月
16 日にシンガポールに入った同盟通信記者菱刈隆文の宣誓供述書がある。
このなかで次のように述べている。
特に私が到着してから二、三日後、杉田大佐は私に 5 万人の中国
人が殺されることになっていると話しました。これらの中国人は抗日
分子、特に共産主義者とゲリラ活動の疑いのある者たちからなってい
る。杉田大佐は私に、殺せという命令は第 25 軍参謀の作戦部から出
たもので、その作戦は辻中佐と林少佐によって計画されたと考えてい
ると話しました。彼はこの命令には賛成できないと言いました。後に
杉田大佐は私に、5 万人全部を殺すことは不可能だとわかったけれど
およそ半分は処置したと話しました。杉田大佐はこの問題についてそ
れ以上の情報をくれませんでした。約一ヶ月後、私はこの虐殺につい
て林少佐に話しました。彼もまた私に、5 万人を殺す計画だったが、
約半分を殺したときに虐殺をやめるようにとの命令が出されたと言い
ました。
つまり、第 25 軍参謀杉田一次大佐と林少佐から 5 万人を殺す計画だっ
たが約半分殺したところで中止になったという話を聞いたということであ
る。この証言の裏付けをとることはできないが、もし事実だとすると約 2
万 5000 人が殺されたことになる。
殺害された人数の件については裁判の起訴状には記載されていない。裁
判では俘虜関係調査中央委員会の一員であり、かつ第 25 軍参謀であった
杉田一次が、第一段階で約 5000 人、第二段階で約 300 人を処分した旨を
証言している。判決の理由書はないので裁判所の事実認定はわからないが、
裁判記録を点検し判決を確認すべきかどうかを検討した東南アジア連合地
上軍副法務長ディビス准将は、数千人 several thousands という記述をして
―1
6―
いる。裁判に提出された証拠や証言からはそれ以上くわしい推定は困難で
あった35)。
戦後、星華籌賑会(シンガポール華僑籌賑会)が 1946 年 1 月におこ
なった調査報告によると、1942 年 2 月の粛清期間の「失踪者」は判明し
たものだけで 2722 名に及んでいた。46 年 2 月には、諮詢局の調査による
と殺された華僑は約 5000 名と発表されている36)。46 年 6 月に結成された
シンガポール集体鳴冤委員会の調査では名前が判明した犠牲者として
4681 人が報告されている37)。ただこれらは調査によって名前が把握され
たものにとどまり、実際にはこれよりはるかに多いと主張されている。
中国国民党が戦後おこなった海外華僑の戦時損失調査によると、シンガ
ポールでの犠牲者数は 4522 名、英領マラヤ全体で 7 万 1000 名(ともに
戦争中全体の死亡者数)と報告されている。もちろんこの数字も漏れてい
るものが多いと見られる38)。
膨大な関係資料を収集して、資料集『新馬華人抗日史料』を編纂した許
雲樵は、5 万人とも 10 万人とも言う者があるが確かな数字をあげること
はできない、多数であったということしか言えないと記述し、彼の後をつ
いで編纂にあたった蔡史君も 4、5 万人は過大ではないと主張している39)。
粛清事件の 50 周年を記念してシンガポールで編纂された著作でも、シン
ガポール国立公文書館で編纂した文献でも 5 万人と記述されている40)。し
たがってシンガポールでは約 5 万人というのが一般化しているといえ
る41)。
1962 年にシンガポール島内で犠牲者の遺骨が発見されてから「日本占
領時期死難人民遺骸善後委員会」が結成され発掘調査をおこない、63 年
12 月までに 27 か所を発掘し大きな甕 155 個に遺骨を納めた。ただしその
うちの一つは軍人の遺骨でありイギリス軍が持っていき、一つは身元が判
明して遺族が持っていった。その後、1966 年 2 月から 10 月まで再度発掘
調査がおこなわれ、12 か所から計 452 甕の遺骨を収集した。合計で 35 か
所から計 607 甕である。この甕に納められた遺骨は 2 甕を除いて、1967
年に建立された「日本占領時期死難人民記念碑」いわゆる「血債の塔」に
納められ、遺品の一部はシンガポール中華総商会によって晩晴園に保存さ
れている42)。
遺骨の発見された地点を見ると(図 3)
、シンガポール市街地の東側に
あるカトン海岸から東端のチャンギ海岸にいたる島の南東側の海岸地域、
―1
7―
図 3 戦後の遺骨発見地点
(出典)田中宏氏作成(許雲樵ほか編『日本軍占領下のシンガポール』70 頁)
ポンゴールなど北東海岸地域、ブキティマなど島の中心部、ジュロンやリ
ムー・チュー・カンなどの西部地域などに分けられる。特にチャンギ方面
の南東部が多い。
遺骨の多くは原型を留めておらず、正確に人数を把握することは難し
かったようであるが、ジャラン・プイプン谷(オールド・チャンギ・ロー
ド 7.5 マイル地点)だけは砂地で保存状況がよかったために遺骨の数を正
確に数えることができたという。蔡史君氏が紹介しているように衛生部の
職員と善後委員会が共同で 2176 体を確認し、428 甕に納めた。
ジュロンの成都園では約 40 人が殺されたことが生存者の証言でわかっ
ているが、ここでは一甕分の遺骨が収集されている。英軍のものを除く 606
甕の遺骨が何人分に当たるのかは推定が難しいが、数千人分に相当するこ
とは間違いないだろう。さらにチャンギ海岸やポンゴール海岸、ブラカン・
マティ島(現在のセントーサ島)など死体を海に流したケースがたくさん
あったことも考慮しなければならない。
現在、利用可能な資料からは、少なくとも 5000 人以上ではあろうとい
―1
8―
う以上に具体的な数字を示すことは難しい。
Ⅲ
なぜ粛清をおこなったのか
1. シンガポールの位置と歴史的背景
マラヤはイギリスの植民地であったが、その歴史的経緯から海峡植民地、
マラヤ連邦州、マラヤ非連邦州にわけられていた。シンガポールはペナン、
マラッカとともに海峡植民地を構成しており、イギリスの東南アジアにお
ける軍事的政治的経済的拠点であった。
マラヤには中国人とマレー人が多く、ほかにインド人、ユーラシアン、
欧州人なども住んでいた。開戦直前のシンガポールの人口は(1941 年 6
月末の推定)
、中国人 60 万人、マレー人 7 万 7000 人、インド人 6 万人、
欧州人 1 万 5000 人など計 76 万 9000 人であった43)。人口の 78 パーセン
トは中国人であった。
シンガポールは地理的にも東南アジアの要の位置にあり、何よりもイギ
リスの東南アジア支配の軍事拠点であった。経済的にもシンガポールは、
マレー半島や蘭領インド(蘭印)など東南アジア地域の物品の集積・輸出
のセンターとしての役割を果たしており、金融的にも東南アジアの中心に
なっていた44)。この地域にはマラヤのゴムやスズだけでなくボーキサイ
ト、マンガン、鉄鉱石、タングステンなど貴重な資源、何よりも石油資源
が豊かであった。大本営陸軍部が作成した「南方占領地各地域別統治要綱」
(1942 年 10 月 12 日)では、マラヤとスマトラをともに「帝国南方経営の
核心地帯」と位置づけて重視されている。1943 年 5 月御前会議が、マラ
ヤをスマトラ、ジャワなどとともに「帝国の領土」にすることを極秘に決
定したことにもその重要性が示されている(「大東亜政略指導大綱」
)
。
マラヤ、特にシンガポールの経済を担っていたのは華僑であるが、同時
に彼らは抗日活動の担い手でもあった。マラヤの華僑は多くが中国南部の
出であるが、中国の故郷との関係も深く、故郷への送金、投資は中国の国
際収支の改善にも役立っていた。中国本国との政治的関係が一気に強まっ
たのが、満州事変、とりわけ 1937 年以来の日本による中国侵略だった。
37 年 8 月には 118 団体の代表一千名が参加して「新嘉坡(シンガポール)
華僑籌賑祖国難民大会」が組織され、義援金募集がはじめられた。各地に
籌賑会が作られ、翌年 10 月には東南アジア各地の華僑の代表がシンガ
ポールに集まり、「南洋各属華僑籌賑祖国難民会代表大会」が開かれ、南
―1
9―
洋華僑籌賑祖国難民総会(南僑総会)が組織された。南僑総会の主席には
シンガポールの大財閥陳嘉庚(タンカーキー)が選ばれた。
籌賑会は義捐金募集運動、日貨排斥、回国服務運動(トラックの運転手
などが物資輸送などのため帰国して援助する取組み)
、救郷運動(故郷、
特に広東省の難民の救済)
、回国投資運動(国民党政権のための投資)
、演
劇・合唱・新聞・雑誌などによる宣伝活動などさまざまな活動に取り組ん
だ45)。この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だっ
た。たとえば重慶政府が発表した海外華僑の献金総額(1937 年 7 月∼1940
年 10 月)2 億 9400 万元のうちマラヤからのものは 1 億 2500 万元、42.5
%にものぼっている。南洋華僑のなかだけではマラヤは 57.6% と過半数
を占めている46)。
1943 年 8 月からマラヤ軍政の責任者である軍政監に就任した藤村益蔵
少将は後に「馬来の華僑も他の地域の支那人と同じく勤勉にして商才に秀
で労働に於ても経済、金融に於いても断然他の民族を凌駕したるが、抗日
運動に従事するも亦華僑にして、馬来の軍政に協力するものは華僑、軍政
に協力せざるものも亦華僑なりき。従って馬来の軍政は華僑の軍政と謂ふ
47)
も敢て過言にあらず」
と書いているが、この華僑対策がマラヤ軍政の大
きな課題であった。
このようにマラヤは華僑の救国抗日運動の拠点であった。そのことから
日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」とみなして乗り込んできたのであ
る。
2. 粛清の「理由」をめぐって
日本軍がなぜこのような粛清をおこなったのか、一般にさまざまなこと
が言われているが、そうした「理由」にどれほど根拠があるのだろうか。
そうしたさまざまな説を検討したい。
第一に華僑がマレー作戦中に火光信号によって英軍機を誘導するなど通
敵行為をしたという点である。第 2 野戦憲兵隊がまとめた「抗日共産党
(含 謀 略 的)事 案 状 況 表 昭 和 17 年 自 1 月 8 日 至 2 月 8 日」を み て も
「爆撃誘導」として憲兵隊が検挙したのはわずかに 2 件あるだけである。
1 件は 1 月 8 日にマレー半島北部のバターワースで「懐中電灯を上空に向
け埋設爆撃誘導」をしていたタイ人 1 名を検挙したケースであり、もう 1
件は「狼火信号」で「爆撃誘導」をしていた「華僑抗日分子 11 名が英軍
―2
0―
の指揮を受けあること判明せり」として 2 月 4 日に検挙したというケー
スである48)。
この点について大西覚憲兵中尉は、「火光信号については何らの情報を
得られなかった」とし、「技術的に困難であるし、軍のおびえでなかろう
か」と述べている49)。抗日ゲリラが日本軍の進攻を妨害する余地はほとん
どなかったことは、マラヤ共産党が組織したゲリラ組織の活動実態からも
裏付けられる50)。
第二に―これが一般に信じ込まれている理由として最も大きなものだが
―シンガポール戦において華僑義勇軍が勇敢に戦い日本軍に多大の犠牲を
出したことが日本軍を激昂させたという理由である。すでに紹介したよう
に華僑に対して厳しい態度を打ち出した第 25 軍の「華僑工作実施要領」
はすでに前年末に作成されていたし、シンガポール戦の前に軍参謀長より
憲兵隊長に粛清をおこなう旨が伝えられていた。したがってシンガポール
戦の経験が粛清を引き起こした理由にはならない。そのことを確認したう
えで実際に華僑義勇軍とはいかなるものだったのか。
マレー戦においてイギリス軍にはさまざまな義勇軍があったが、シンガ
ポール戦において前線で戦闘に参加したのは、マレー連隊(マレー人の部
隊で厳密には義勇軍ではない)と星州(シンガポール)華僑義勇軍であ
る。後者の司令官がイギリス人のダリーであったのでダルフォースと呼ば
れている。戦後のイギリス軍政資料からダルフォースの実態を見てみる
と51)、ダルフォースの編成については紆余曲折があり、事前に約 3000 名
が登録されたが、実際に召集されたのは 2 月 1 日、日本軍上陸のわずか
一週間前のことだった。このとき約 1300 名が召集され、司令部(約 40
名)のほか 7 個大隊(各 150 名)
、決死隊 6A 中隊(約 120 名)
、第 8 中隊
(編成途中、約 40 名)に分けられた。装備は、旧式の銃だけで、藍色の
服、右腕に三角の紅布を付け、頭に黄色の布を巻くという格好だった。
彼らは緊急に訓練を受けてシンガポール島の北西部の海岸陣地などの前
線に送られたが、実際に戦闘に参加したのは第 1 から第 4 中隊の約 600
名だけで、2 月 13 日にダルフォースに解散命令が出されたため、前線の
部隊も呼び戻され、武器弾薬は捨てて逃げ市民のなかに隠れた。
シンガポー
ル戦終了後における死者を含めて死者は約 300 名と推定されている。
シンガポール戦だけの日本軍の死傷者は、 戦死 1713 名、 戦傷 3378 名、
計 5091 名であるが、そのうち五分の二は上陸前に生じたものとされてい
―2
1―
る52)。イギリス軍は、マラヤで 13 万人以上の捕虜を含めて 13 万 8708 名
の損失を出したとされている。10 万人を超えるイギリス軍のなかで、数
日の訓練しか受けていないわずか 600 名の部隊が旧式の武器だけでどれ
ほどの戦いができたのか、疑問である。日本側の戦史にはこうした華僑義
勇軍により大きな被害を被った旨の記述が見られない。日本軍の戦史を見
ると、重要な戦闘であったブキテマの戦いについても「一大激戦を予想し
53)
ていた日本軍にとっては、むしろ意外と思われる英軍の抵抗度であった」
と評価されている。ダルフォースに参加した華僑の回想では勇敢に戦った
ことが強調されているが、その役割は過大評価されているように思われ
る54)。
俘虜関係調査中央委員会の調書や戦犯裁判での日本側の証言においても
粛清を正当化する理由としてマレー戦中の華僑の通敵行為はあげてもシン
ガポール戦での義勇軍のことはまったく出てこない。いつからこうした
「理由」が出てきたのか、検討が必要である。
第三に抗日華僑が市内で武装攪乱の準備しており、市内の治安が悪化し
つつある、あるいはその危険性があるという理由である。裁判での河村証
言に出てくる辻参謀の説明や戦犯裁判での弁護側の弁明として言われてい
る。ダルフォースの場合、来るべき日にはイギリスのために再び立ち上が
るように期待され抵抗を続ける意思があったにせよ、まずは武器を捨てて
逃げたという状況であった。大谷敬二郎憲兵中佐の次の状況分析は当を得
ていると思われる。
入市直後において敵性華僑が至るところに潜伏して、わが作戦行動
を妨害しようと企図している、といったことも必ずしも当時の実状に
そぐわない。敵性分子の大部はすでに逃亡しており、シンガポール、
ジョホール水域に近い島々には華僑の避難民が充満しており、その敵
性分子といったものは、ここにまぎれ込んでいたとしても、市内にお
ける残存は僅かなものでなかったのか。むしろ市内に残留して日本軍
を迎えたものは一般華僑大衆であり、そこに反日分子がいたとしても、
敵性分子などという大ゲサなものではなかった55)。
大西憲兵中尉が「治安は入市当夜は不良であったが、逐次回復に向かっ
ており、かつ英印軍の兵器は全部回収せられており、早急に彼らが抗敵行
―2
2―
為に出るものとは思われなかった」と述べているのも大谷の状況認識と一
致している56)。
ところで俘虜関係調査中央委員会が作成し東京裁判に提出された河村日
記の抜粋では、2 月 19 日の項に「市内の掠奪等尚已まず」と記されてい
る。しかし日記原本では、「市内の秩序は一時より良好となれるも尚未た
に爆撃の跡捜索の跡尚生々しきものあり小さき日章旗の各所に翻えるを見
るは其中にても些か心嬉し唯市内に入る皇軍兵の感喜□至らさるもの無き
を感ず」と書かれている。つまり日記原本では治安が改善されつつある状
況がうかがわれるが、「日記抜粋」はまったく逆に描いている。これは日
本側が正当化のために日記の記述を改ざんした可能性がある57)。
第四に日本軍主力を次の作戦に急いで転用しなければならなかったとい
う理由については、それはあくまで日本軍側の事情であり、粛清が正当化
されるものではないということだけ指摘しておきたい。
3. 日本軍の戦歴
粛清命令を下した責任者である第 25 軍司令官山下奉文は北支那方面軍
参謀長の時(1938 年 7 月∼1939 年 9 月)に「治安粛正要綱」
(1939 年 4
月)を作成し、活発な粛清工作を推進した。この要綱は満州での粛清の経
験を踏まえて作成されたものだった58)。満州での粛清方法の大きな特徴
が、捕らえた者をその場で処刑してしまう「厳重処分」だった。この方針
は後にさらに極端に推し進められて、いわゆる三光作戦となっていった。
山下はのちにフィリピンの第 14 方面軍司令官であったときに参謀副長に
対して「お前ら、断固とした態度をとらんから、相手をつけあがらせるん
だ。シンガポールでは最初にこう(と手を斜めにふり)
、ぴしゃりとやっ
たので、あとはおとなしくなったもんだ」と語ったという59)。華僑粛清は
辻の独走であって山下は消極的だったという理解は事実とは考えにくい。
シンガポール華僑粛清を主導したと一般に言われているのが第 25 軍作
戦参謀辻政信中佐である。1940 年 12 月に台湾軍内に設置された台湾軍研
究部でマレー進攻作戦のための調査研究をおこない、第 25 軍の作戦参謀
に着任した。関東軍参謀時代には作戦参謀としてノモンハン事件で強引な
指導をおこない、マレー作戦でも作戦指導をおこなった。シンガポールの
粛清のときも憲兵隊を激励してまわった。粛清後、辻は大本営の作戦班長
に転じるが、その途中フィリピンのバターンに現れ、捕虜を殺せと参謀長
―2
3―
以下、各部隊の指揮官らに督励してまわったといわれている60)。のちのガ
ダルカナル戦では現地に赴き、作戦を指導し多くの日本将兵を犠牲にした
ことは有名である。
マラヤ軍政の実質的な責任者であり、五千万円献金の主導者とみられて
いるのが渡辺渡大佐(第二五軍参謀、軍政部次長など)である。渡辺は
1932 年より参謀本部付の支那駐在員として中国に駐留し、のちにハルピ
ン特務機関勤務を経て、北京特務機関長、済南特務機関長などを歴任して
中国通の一人といわれた。特務機関は政治経済工作や謀略・諜報などをお
こなう機関で中国共産党対策も含まれる。渡辺はマラヤの華僑と出会い、
華僑は本国の中国人と同じように信頼できないという確信を華僑のゲリラ
やスパイ活動によって強めていった。そして北京で中国人に対して断固と
した強い手段を取ったように、中国人に対しては断固たる対処をすべきで
あるという姿勢で臨んだ。渡辺が 1942 年 1 月に東京に赴いたとき、参謀
本部に対して華僑への懐柔策に反対し軍の作戦上の必要を優先することを
主張した。中国での経験がマラヤでの強硬姿勢に受け継がれていたといっ
てよいだろう61)。
捕らえたものを裁判なしでその場で処刑してしまう方法を日本軍は「現
地処分」あるいは「厳重処分」と呼んでいた。日本軍がこれを一般におこ
なうようになったのは、満州事変の時からである。1932 年 9 月に満州国
で制定された「暫行懲治盗匪法」の第 7 条に「軍隊、部隊をなす盗匪の
剿討粛正するに当たりては臨陣格殺しうるのほか、該軍隊の司令、その裁
量によりこれを措置することを得」とある。また第 8 条では高級警察官
にも同じ権限を与えている。「臨陣格殺」とは、「討伐にあたり状況によっ
てはその場の高級警察官の判断により即座に相手を殺害できる」というも
のである。つまり抗日ゲリラなどの粛清にあたって、捕らえた者はその場
で殺害してもよいという法律だった。関東軍もこの「厳重処分」をおこな
うことを認めた62)。この「厳重処分」の方法は日中全面戦争によって中国
全土に適用され、日本軍のなかで当然のことと考えられるようになって
いった。その経験がそのまま東南アジア各地、マラヤにも適用されたので
ある。日本の中国への侵略の延長上に東南アジア侵略戦争があったことを
示しているといえよう63)。
第 25 軍はマラヤ上陸後まもない 1941 年 12 月 19 日アロースター(ケ
ダ州)にて山下奉文軍司令官名で第 25 軍軍律と軍律審判規則を制定、即
―2
4―
日施行し、住民に対しても大日本軍司令官の名で布告を出していた64)。そ
の中で「日本軍に対する敵対行為」や「間諜行為」
「日本軍の安寧を害し
又は軍事行動を妨害する行為」などを犯した者は軍律会議(長官は軍司令
官)にかけて処罰することを宣言していた。この軍律では、罰としては
「死」
「監禁」
「追放」
「過料」
「没取」の五種類があり、「死」は「銃殺」と
定められていた。この軍律制定と同時に第 25 軍参謀長鈴木宗作の名で、
通牒が隷下各部隊宛に出されており、そのなかで「軍律違反事件は軽微な
るものを除き務めて証拠を蒐集の上軍律会議に送致すること」などを指示
している。河村自らが「本来これ等の処断は、当然軍律発布の上、容疑者
は、之を軍律会議に付し、罪状相当の処刑を行ふべき」であったと述べて
いることはまったく正論である65)。日本軍は自ら定めた軍律(法)もまっ
たく無視して華僑を殺害していったのである。
おわりに
シンガポールにおける華僑粛清は、日本軍(第 25 軍)によって事前に
計画され、戦闘終了後におこなわれた組織的かつ秩序だった虐殺であった。
戦闘中の混乱のなかで起きた出来事でも、偶発的な出来事でも、軍紀の乱
れが引き起こした出来事でもなかった。しかもきわめてずさんな方法で殺
すべき人物が決定され、かつ裁判にかけずに即決処刑方式が採られた。こ
うした方法は河村警備司令官や憲兵将校からさえも問題があると指摘され
るやり方であり、戦後において憲兵隊幹部からも非人道的と批判されるも
のだった。
こうしたシンガポール華僑粛清は、満州事変・日中戦争、遡れば近代日
本による中国への侵略戦争とそのなかでの経験が集約されて、アジア太平
洋戦争の初頭におこなわれた残虐行為であると言える。別の観点で見れば、
抗日活動をおこなう可能性のある人物を事前に殺害することによって、か
つ他の者たちへの見せしめ効果も含めて治安の確保を図ろうとした、予防
殺人とも言えるものだった。1941 年 1 月に治安維持法が改悪されて導入
された予防拘禁制度と同じ発想で、それがさらに極端化したものがシンガ
ポールで実行されたとも言える。
この粛清はいかなる効果をもたらしたのか。大谷憲兵中佐は「この華僑
弾圧は、第一、その後におけるマライ地区治安不良の重要な原因をなし、
66)
第二に華僑軍政不協力となって酬いられることとなった」
とかえって治
―2
5―
安の悪化と華僑の反発を招いたと批判している。また大西憲兵中尉は「現
住民特に華僑を恐怖のどん底に陥れ、生気を失わせたのも当然のことであ
るが、その他の中立国人、マレー人、インド人などに対しても、日本軍に
対する信頼感を失わしめ、恐怖感を抱かせるに至り」と同様の評価をして
いる67)。この粛清に続いておこなわれた華僑への五千万円の献金強制は華
僑の反発を一層激しくさせたし、日本軍がマレー半島を含めて各地でおこ
なったさらし首(多くは日本軍倉庫に侵入した泥棒など)は民族の違いを
超えてマラヤの人々に衝撃を与えた68)。
シンガポールやマレー半島各地での日本軍による華僑虐殺は、かえって
人々を抗日に追いやり、青年たちはジャングルに入って抗日ゲリラに加
わっていった。またマレー半島の粛清では華僑の対日協力者(いわゆる漢
奸)だけでなく、マレー人の警官や道案内を利用したため、華僑とマレー
人との民族対立を激化させ、のちに両者が血で血を洗う衝突の引き金と
なった。この対立は戦後も長く問題として続いている。
なお多民族国家であるシンガポールにおいては、粛清をはじめとする日
本軍占領下の苦難とそれへの抵抗は、シンガポール人としてのナショナル・
アイデンティテイを育成するうえでの歴史的経験として活用されている。
特に戦後 50 年にあたる 1995 年に島内 11 か所に「第二次世界大戦の跡」
の記念碑69)が建てられたことにも見られるように、そのころよりそうした
傾向がはっきり示されるようになってきた。
粛清事件認識の変遷についても議論されるべき課題が多いが、いずれに
よせ何が行われたのか、という歴史的事実自体の解明がきちんとなされな
ければならないだろう。本稿はそのための一つの基礎作業である。
(注)
1 )全国憲友会連合会『日本憲兵正史』1976 年、979 頁、大谷敬二郎『憲兵―
自伝的回想』新人物往来社、1973 年、189 頁。
2 )軍政研究については、明石陽至氏や原不二夫氏をはじめ研究の蓄積がある
(明石陽至編『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』岩波書店、2001
年など参照)
。
3 )拙著『華僑虐殺』すずさわ書店、1992 年。関連する文献として、高嶋伸欣・
林博史編集・解説、村上育造訳『マラヤの日本軍―ネグリセンビラン州に
おける華人虐殺』青木書店、1989 年。
―2
6―
4 )前者については、小俣行男『続・侵掠』徳間書店、1982 年、97-98、131 頁、
朝日新聞テーマ談話室『戦争―血と涙で綴った証言』上巻、 朝日ソノラマ、
1987 年、185 頁(河野通弘氏の証言)、許雲樵・蔡史君編(田中宏・福永平
和訳)
『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、54-58 頁(許雲樵・蔡史
君編修『新馬華人抗日史料』文史出版、1984 年、の中のシンガポール関係
を一部抜粋して邦訳したもの)
、
『南洋文摘』1963 年 11 月所収の「検証惨
史」など参照。ただしシンガポール側の証言では英軍降伏の翌日となって
おり、状況から見て違うケースと思われる。つまり何件もの虐殺がおこな
われたと推定できる。後者については謝昭思氏のアジア・フォーラム横浜
での証言(1998 年 12 月 8 日)を参照。
5 )東京裁判検察側証拠書類 5052 号、5373 号。
『日本軍占領下のシンガポール』
58-59 頁。
6 )大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977 年、69 頁、『日本憲兵正
史』975 頁。粛清に関わった大西覚憲兵中尉は「昭南粛清事件はシンガポー
ル攻略前からの企図であり、シンガポール占領後の治安情勢から、発案決
定せられたものではない」
(大西 78 頁)と述べているのは、その通りであ
ろう。
7 )以下、このときの軍司令部でのやりとりは、河村ら 7 名が起訴された英軍
による戦犯裁判における河村の証言による(WO235/1004、イギリス国立公
文書館所蔵)
。ただし英文から反訳したものである。河村参郎『十三階段を
上る』亜東書房、1952 年、163-164 頁、にも簡略であるが同趣旨の記述が
ある。ただし辻とのやりとりはそこには記述されていない。
8 )河村参郎日記(原本は WO325/1-2、イギリス国立公文書館所蔵)。
9 )同日夜、警備隊命令を受けた後に分隊長以上が招集されたと見られる。
10)大西前掲書 69-71 頁。
11)大西前掲書 72-73 頁。
12)戦犯裁判に提出された市川正・元第 3 大隊長の宣誓供述書によると、担当
地域の家宅捜索を一軒一軒おこなったが中国人は少なく、14 名の容疑者を
捕らえ、うち 13 名は尋問ののち釈放し 1 人だけを国民党メンバーであるこ
とがわかったので銃殺したとされている (WO235/1004)。
13)『日本軍占領下のシンガポール』18、26-30、81 頁など。
14)これらの地区での検証の実態については、シンガポール口述史局が収集し
た体験者の証言が多数ある。これらの活用は今後の課題としたい。
15)大西前掲書 75-78 頁。
―2
7―
16)東京大学教養学部国際関係論研究室『インタビュー記録 D 日本の軍政 2』
1980 年、2-3 頁。
17)戦犯裁判での各証言、証拠書類、『日本軍占領下のシンガポール』所収の証
言などから整理した。
18)総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社、1983 年、144-145 頁。
19)森山康平・栗崎ゆたか『証言記録 大東亜共栄圏』新人物往来社、1976 年、
61 頁。シンガポール陥落後、ジョホールバルにいた元日本兵の証言。
20)『日本軍占領下のシンガポール』27 頁。
21)俘虜関係調査中央委員会文書「新嘉坡に於ける華僑処断状況調書」1945 年
10 月 23 日作成(永井均編集・解説『戦争犯罪調査資料―俘虜関係調査中
央委員会調査報告書綴』東出版、1995 年、110 頁)
。
『日本軍占領下のシン
ガポール』327 頁、参照。
22)マレー半島での華僑粛清については、拙著『華僑虐殺』参照。
23)憲兵数は大西前掲書 68 頁、補助憲兵数は大西覚の宣誓陳述書による。なお
図 2 の数字では憲兵数も補助憲兵数もこの数字より多くなるが、本部の憲
兵数が過大すぎる。それを除けば 200 名程度になる。また補助憲兵につい
ては、実際に検証をおこなった下段の五つの隊の合計が 600 名なので、本
部と城隊、横田隊の補助憲兵数は疑問である。
24)防衛庁防衛研究所戦史部『史料集 南方の軍政』朝雲新聞社、1985 年、9192 頁。
25)同前 287-289 頁。なお防衛庁所蔵の史料には日付が付されていないが、第 25
軍参謀で軍政部次長など軍政を担当した渡辺渡大佐の日記などから 12 月
28 日前後に作成されたことが明らかにされた(明石陽至「渡邊軍政―その
哲理と展開」明石陽至編『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』79 頁)
。
26)大西覚氏からの聞き取り(1991 年 8 月 5 日)。
27)南洋華僑籌賑祖国難民総会編『大戦与南僑』南洋出版社、1947 年、『新馬
華人抗日史料』のそれぞれのジョホール州の項、参照。
28)拙著『華僑虐殺』において詳細に明らかにしている。
29)「新嘉坡に於ける華僑処断状況調書」参照。
30)防衛庁防衛研究所図書館所蔵。なおこの資料については、拙稿「マラヤに
おける日本軍の『治安粛清』
(続)
」
『関東学院大学経済学部一般教育論集
自然・人間・社会』第 10 号、1989 年、でも紹介している。
31)マライ軍宣伝班『マライ戦話集』朝日新聞社、1943 年、341-342 頁。
32)『朝日東亜年報 昭和十七年版 大東亜戦争特輯』の「マレー」の部にも同
―2
8―
様の記述がある(家永三郎『戦争責任』岩波書店、1985 年、84-85 頁、参
照)
。
33)大谷敬二郎『陸軍 80 年』図書出版社、1978 年、254 頁。
34)大西前掲書 93-97 頁。
35)水野!治憲兵少佐のみシンガポールへの移送が遅れて別裁判になったが、
水野隊による処刑人数として星華籌賑会のリストからアラブ・ストリート
地区の者 177 名を抜き出したものが証拠として提出され、起訴状にも「少
なくとも 177 名」を殺害したとされていたが、判決では「約 120 名」と事
実認定がなされた。この理由は、そのリストを作成した捜査員クラマー中
尉が 177 名のうち、家族などに面会して確認できたのが 120 名であったと
法廷で証言したことにあると思われる(水野の裁判は WO235/1110)。
36)『新馬華人抗日史料』862-863 頁。
37)同前 870 頁。
38)謝国富「1941-1945 年海外華僑戦時損失基 本 情 況」『華 僑 華 人 歴 史 研 究』
1993 年第 2 期、74-76 頁。
39)前者は、『新馬華人抗日史料』968 頁、後者は、蔡史君「日本軍による検証
大虐殺の犠牲者数を検討する」
(
『日本軍占領下のシンガポール』所収)同
前 868-871 頁。蔡論文では、ここで紹介した以外にもいくつかの資料をあ
げて議論している。
40)前者は、Singapore Heritage Society, SYONAN : Singapore under the Japanese,
1942-1945 (Singapore : Singapore Heritage Society, 1992), p.52(越田稜・新
田準訳『シンガポール近い昔の話』凱風社、1996 年、112 頁)
、後者は、
National Archives of Singapore, The Japanese Occupation, 1942-1945
(Singapore : Times, 1996), p.72.
41)蔡史君「日本投降五〇年后看日本人的戦争史観」(馮仲漢主編『和平的代
価』新加坡中華総商会、1995 年)で改めて粛清の犠牲者数を議論している。
数千人ではとどまらないという趣旨は理解できるが、なぜ 5 万人になるの
かは依然としてよく理解できない。なおセントーサ島のシロソ砦の展示で
は、犠牲者数として 2 万人という数字をあげているが、何が根拠となって
いるかよくわからない(なお従来、Pioneers of Singapore and Surrender
Chambers、日本では戦争博物館として知られ て い た 施 設 は 2005 年 に リ
ニューアルされたが、その際に日本占領時代の展示はすべてシロソ砦に移
された)
。
42)遺骨の収集ならびに血債の塔建立の経緯については、新加坡中華総商会『日
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9―
本占領時期死難人民紀念碑徴信録』1969 年。
『新馬華人抗日史料』927-935
頁、高嶋伸欣『旅しよう東南アジアへ』岩波ブックレット、1987 年、21-24
頁、参照。なおこれらの遺品の一部は晩晴園で展示公開されていたが、展
示がリニューアルされ現在では展示されていない。
43)井出季和太監修『馬来統計書』国際日本協会、1942 年、4 頁。
44)こうした「東南アジア域内交易圏」については、小林英夫『日本軍政下の
アジア』岩波新書、1993 年、108-109 頁、など参照。
45)こうした運動の詳細については、東亜研究所『第三調査委員会報告書―南
洋華僑抗日運動の研究』1945 年(復刻版、龍渓書房、1978 年)参照。
46)東亜研究所前掲書 362-363 頁。
47)藤村益蔵「馬来軍政概要」『南方の軍政』491 頁。
48)防衛庁防衛研究所図書館所蔵。
49)大西前掲書 87-88 頁。
50)マラヤ人民抗日軍の実態については、拙著『華僑虐殺』、原不二夫『マラヤ
華僑と中国』龍渓書舎、2001 年、参照。
51)“British Military Administration, Chinese Affairs, 1945-1946” の中の Dalforce
ファイル(シンガポール国立公文書館所蔵)
。ダリーの報告書や英軍政部が
整理した文書から事実経過を整理する。
52)防衛庁防衛研修所戦史室『マレー進攻作戦』朝雲新聞社、 1966 年、 627 頁。
53)陸上自衛隊幹部学校陸戦史研究普及会『マレー作戦』1966 年、 240-241 頁。
54)ダルフォースについては、ダニエル・チュー氏がダルフォースの実像を検
証し、その戦いが過大に評価されていると指摘しており、筆者の議論を実
証的に裏付ける研究である (Daniel Chew, “Overseas Chinese Volunteer Force :
Heroes and Legends of Singapore,” presented at the International Conference,
“Japanese Occupation : Sixty Years After the End of the Asia Pacific War,” 5-6
September 2005 in Singapore)。この点についてはさらに日本側の資料でも研
究する必要がある。
55)大谷敬二郎『憲兵』189 頁。
56)大西前掲書 86 頁。比較的に信頼できる文献である『東京裁判ハンドブック』
(同編集委員会編、青木書店、1989 年)においてさえも、この事件の背景
として「抗日華人ゲリラの動きが強まるなかで」
(118 頁)と粛清正当化論
を鵜呑みにした説明をしている。
57)拙著『裁かれた戦争犯罪』岩波書店、1998 年、224 頁参照。
58)防衛庁防衛研修所戦史部『北支の治安戦①』朝雲新聞社、1968 年、114-130
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0―
頁。
59)児島襄『史説山下奉文』文藝春秋、 1969 年(文春文庫、 1979 年)、 325 頁。
60)大谷敬二郎『戦争犯罪』124 頁。
61)渡辺については、Akashi Yoji, “Japanese Policy towards the Malayan Chinese,
1941-1945”, Journal of Southeast Asian Studies, Vol.1, No.2, Sep. 1970、ならび
に明石陽至前掲書参照。
62)浅田喬二・小林英夫編著『日本帝国主義の満州支配』時潮社、1986 年、の
中の山田朗・吉田裕執筆分。
63)本稿では省略するが、第 5 師団と第 18 師団の戦歴については、『華僑虐殺』
226-233 頁、参照。
64)「陸亜密大日記」昭和 17 年(防衛庁防衛研究所図書館所蔵)。
65)河村前掲書 167 頁。
66)大谷敬二郎『憲兵』192 頁。
67)大西前掲書 99-100 頁。
68)さらし首が人々に与えた衝撃については、『華僑虐殺』240-242 頁。
69)山口剛史編集・訳「戦後五〇周年を記念して建てられたシンガポールの戦
争記念碑」
『季刊戦争責任研究』第 23 号、1999 年 3 月、参照。
【追記】この研究にあたっては、関東学院大学経済経営研究所のプロジェクト
「構築としての地域・コミュニティ・文化」
(2004-2005 年度)の共同研究の成果
を利用させていただいた。また広島市立大学広島平和研究所・研究プロジェク
ト「市民に対する軍暴力―比較史的分析」
(2002-2003 年度)において筆者はシ
ンガポール華僑粛清事件を担当し、参加者各位との議論から多くを学ばせてい
ただいた。また日本学術振興会の「人文・社会科学振興のためのプロジェクト
研究事業 領域Ⅱ 平和構築に向けた知の再編―ジェノサイド研 究 の 展 開」
(2005 年度)の研究費によるシンガポール調査の成果も取り入れさせていただ
いた。記して感謝したい。
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