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初期ソ連における改革・改良・革命

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初期ソ連における改革・改良・革命
■ 総合文化研究所年報 第 18 号(2011)pp. 81―96
講演記録
初期ソ連における改革・改良・革命
― 「上からの革命」再考 ― *
浅岡 善治
1.はじめに―ロシア・ソヴィエト史の中の「上からの革命」―
今回「初期ソ連における改革・改良・革命」というテーマでお話させていただくにあたっ
て、まず真っ先に思い浮かぶのは、かの E. H. カーの大著『ソヴィエト・ロシアの歴史』
の次なる一節です。
「……〔後進国たることを半ば運命づけられた〕ロシア国家の発展の歴史的パターンは
3 つの重要な帰結を伴っていた。第 1 にそれは、その後のロシアの思想と政策のすべてを
貫く、慢性的にアンビヴァレントなあの対西欧観を生み出した。西方に対して自己を防衛
する手段として、西方を模倣しそれに
追いつく
ことは不可欠のことであった:西方は
潜在的な敵対者として恐れられ憎まれると同様に、1 つの範型として称賛され、羨望され
たのである。第 2 に、その発展のパターンは
上からの革命(revolution from above)
の概念によっていた。改革は、社会的公正や平等の要求として現われる下からの、非特権
的階級からの、あるいは被抑圧大衆からの圧力を通して来るのではなく、効率的な権力と
それを行使する強力な指導者を求める支配集団内部の遅ればせながらの要求を引き起こす
ような、外部的危機の圧力を通してやって来た。ゆえに、西方では通常、国家権力の抑制
と分散をもたらした改革が、ロシアでは国家権力の強化と集中とを意味したのである。第
3 に、これらの条件によっておしつけられたパターンは、秩序だった進歩ではなく、とき
どき思い出したように起こる発作的前進というもの―進化(evolution)ではなく間欠
的な革命(revolution)というものであった」
(E. H. カー『一国社会主義』第 1 巻(新装版)、
南塚信吾訳、みすず書房、1999 年。以下、邦訳のあるものは基本的にそちらを示しますが、
原典によって訳文を改めた場合があります)
。
私などは彼の文章を読むたびに 19 世紀的な「教養」をたたえたイギリス知識人の凄さ
をひしひしと思い知らされるのですが、明らかにこの文章は、ロシア革命後の諸事件をも
踏まえた 20 世紀の視点から書かれた非常に鋭い洞察です。つまり革命後の事態の展開を
も含めて、かの国における「上からの革命」という変革のパターンを、それを生じさせる
世界史的客観状況、およびロシア的伝統という要素から論じているのです。この「上から
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の革命」という用語は、現代においては歴史事象の整理概念としても完全に一般化し、ロ
シア以外の国々の諸変革においてもしばしば使用されております。最も有名なのは、19
世紀のプロイセンないしドイツ帝国におけるビスマルクの諸政策でしょう。再びカーによ
りますと、この表現を最初に用いたのは、19 世紀半ばのフランスのジャーナリスト、ジ
ラルダンで、彼は、蜂起、暴力、絶望による大衆の「下から」の革命に対して、教導、知
性と発展、理念による革命を「上からの革命」と呼んでいるそうです。この文章をさらに
プルードンが引用しているのですが、彼は、フランスの政治史における革新的な支配者た
ち、すなわちシャルル 5 世、ルイ 14 世、ロベスピエール、ナポレオンを挙げ、さらには、
何らかの権力的措置による労働の組織化を主張したサン・シモンやフーリエ、ルイ・ブラ
ンなども「上からの革命家たち」としてひとくくりにしているそうです(カー、前掲書)。
まことにアナキストらしいと言えましょう。
「革命」を意味する「レヴォリューツィア
(революция)
」というロシア語は、明らかに外来語起源の言葉ですが、日本語の「革命」
も明治以降、外来語の訳として古い漢語を当てたものですので、事実上の新語として、両
者の間におそらく意味上のズレはほとんどないと思います。これらの大元にあるのはラテ
ン語の revolutio で、回転を意味する動詞 revolvo から来ています。これは現代英語だと
revolve にあたるわけで、ぐるりと回転すること、あるいはひっくり返ることです。よっ
て政治的には、旧政権が完全にひっくり返るような急激な変動を指します。これほどの大
変動ですので、事態は必然的に「下から」の強力な突き上げを前提とします。逆にこれを
伴わない、多くは支配エリート内のそれにとどまる政治変動は、たとえそれがいかに急激
で、大きな余波を伴うものであっても、政治学的にはクーデタ(coup d’état)と呼ばれる
でしょう。この関連で言えば、
基本的に「革命」は「下から」しかこようのないものであっ
て、
「上からの
革命
」なる表現は、一種の形容矛盾に意図的なインパクト効果を狙っ
た、巧みな比喩に過ぎないとも言えます。ポイントは、変革とその主体との関係性です。
現状の大変革を企図する在野の反対者が「革命」なる言葉を使うことは本来の語義どおり
ですが、既に権力の座にある者にとっては、事情が全く異なります。ゲルツェンはピョー
トル 1 世のことを「玉座の上の革命家」と評しましたが、ピョートル 1 世にしろ、イワン
雷帝にしろ、たとえ「革命」なる語が当時既に一般化していたとしても、自ら主導する変
革を「 革 命 」とは呼ばなかったと思います。何よりこれは、権力と支配の正当性の問
題と深く結び付いてくるからです。後に東洋のとある小国は、明らかに「革命」的性格を
もつ近代化のための一大変革に際して、古い伝統的権威をかつぎ出し、太古の古典から
「維新」なる語をもち出すことによって政権交代の正当性を確保しようとしました。かか
る手法は、明らかに同時代において世界史的な性格を有しています。19 世紀の半ば、
「下
から」差し出された統一ドイツの帝冠をときのプロイセン王は「犬の冠」と嘲って拒否し
ましたが、彼の弟を数十年後に同様の地位に裾えるにあたって、ビスマルクは、
「皇帝」
なる伝統的称号はもちろん、さらにそれに加えて、古ゲルマンの族長推戴儀礼すらをも採
用したのでした。しかし、かかる保守的粉飾にもかかわらず、彼らは、多分に自己流のや
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初期ソ連における改革・改良・革命 ■
り方をもってではありますが、近代革命の幾つかの課題を確実に遂行していました。かつ
ての「革命の墓掘人」が「革命の課題」を遂行するというこの逆説を目の当たりにした老
エンゲルスは、19 世紀半ばのフランスを念頭に、かかる時代的状況を次のように総括し
ています。
「下からの革命(die Revolution von unten)の時代はひとまず終わり、そして
そこから、
上からの革命(die Revolution von oben)の時代が始まった」
(F. エンゲルス「マ
ルクス『フランスにおける階級闘争、
1848 年から 1850 年まで』
(1895 年版)への序文」
(1895
年)
、邦訳『マルクス=エンゲルス全集』第 22 巻、大月書店、1971 年)
。
おそらく「上からの革命」なる観念の広まりは、この辺りを本当の起点とすると考えら
れます。以後この言葉は、歴史家を含めて、多くは事態を批判的に見る立場から用いられ
て来ました。この語が対象とする事象に共通しているのは、
「革命」なる語に本来的に伴
うはずの逆転、転覆のイメージと、それを引き起こす「下から」の要素が全く欠如してい
るか、
著しく微弱な点です。一般に「上からの革命」と言う場合には、そこでは民衆の「下
から」の要素はほぼ等閑視されているか、場合によってはそうした「下から」の諸要求に
背反すらするような権力的突進、あるいは反革命的な意図をもった予防的改革が想定され
ています。当然ながらそれは不徹底なものであり、本質的な問題を残すか、あるいは別種
の問題を新たに作り出しました。再び老エンゲルスの言葉を借りましょう。
「真の統一的
共和国」を展望する彼は、ビスマルクの作品である統一ドイツの現状に関して、次のよう
に述べています。
「我々は 1866 年と 1871 年に遂行された上からの革命を後戻りさせる必要
はなく、下からの運動(eine Bewegung von unten)によって、そこに必要な補足と修正
(die nötige Ergänzung und Verbesserung)を加えるべきなのである」
(エンゲルス「1891
年の社会民主党綱領草案への批判」(1891 年)
、前掲書)
。このように彼は、革命的課題は
あくまで「下から」完遂されるべきと考えていたのです。
以上、ここまで 19 世紀ヨーロッパ史の文脈で「上からの革命」について見てきました
が、帝政期はともかくとして、本日のお話の主たる対象であるソ連史の文脈においては、
状況がかなり異なっています。ソ連では当の権力者自身が、自らの主導した大変革に「上
からの革命」の名称を与えました。すなわち、農業国であったロシアの経済構造を一新さ
せ、後のソ連体制の性格に決定的な影響を及ぼしたとされる 1920 年代末からの農業の全
面的集団化について、それを率先したスターリン自身が後に「上からの革命」の呼称を冠
しております。そして、ここで彼がこの言葉に込めた意味も、先に見た一般的用語法とは
明確に異なっています。スターリンがこの言い回しを自らのものとして公式の場で用いた
のはおそらく一度だけです。それは、
第二次大戦後の 1950 年、晩年のいわゆる「言語論文」
の次なる一節においてです。
「8―10 年の間に我々は、我が国の農業において、ブルジョア的な個人農体制から社会主
義的、コルホーズ的体制への移行を実現させた。これは、農村において古いブルジョア的
な経済制度を一掃し、
新たな、
社会主義的な制度を創出する革命であった。しかしながら、
この転換は、爆破(взрыв)によってではなく、すなわち現存の権力の打倒と新たな権力
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の創出によってではなく、農村における古い、ブルジョア的な制度から新たなそれへの、
漸次的な移行によって達成されたのである。そして、これが成就したのは、これが上から
の革命(революция сверху)であったこと、
転換が、農民の基幹的大衆部分の支持のもとで、
現存の権力のイニシャティヴによって成し遂げられたことのゆえである」(スターリン
「マルクス主義と言語学の諸問題」
(1950 年)、邦訳『スターリン戦後著作集』大月書店、
1954 年)
。
先ほど見ました一般的な「上からの革命」論とスターリンのそれとの論理的相違にお気
づきでしょうか。スターリンが主張する「上からの革命」を他所での「上からの革命」と
区別するものは、そこでの一貫した「下から」の支持の強調、彼自身の用語で言えば、集
団化を中心とした農村秩序の根本的再編に際しての「農民の基幹的大衆部分の支持」の存
在です。彼がこの言葉に込めた独自のニュアンスには、あらゆる政治権力が必要とする正
当性の観念が、他の「上からの革命」とは異なる形で反映されており、政権の自意識、少
なくとも自己規定が吐露されていると考えられます。言うまでもなくソヴィエト政権は、
1917 年の、言葉の本来の意味での 革 命 、「下からの革命」を経て成立した革命政権と
して自らを規定していました。革命政権の支配の正当性は、
「下から」の要素を前提とし
た抜本的変革、すなわち革命を推進することによってのみ主張されえます。ゆえにその諸
政策は、改良であれ、改革であれ、場合によっては
「改悪」であれ、ほとんど常に「革命」
の名のもとに正当化されることになります。言わばソ連の歴史は、70 年以上も続いた、
長い「革命政権」の歴史として表象されるがゆえに、実際には「革命」なる語もすぐれて
特殊な、
場合によってはかなりねじれたものとなりうるわけです。やや先回りして言えば、
ここで最も決定的なねじれを生んだものこそ、スターリンによって遂行された「上からの
革命」をめぐる言葉と現実の矛盾に他なりません。後に見るように、この「革命」におい
ては、それが主張ないし所与の前提とした「下から」の積極的支持は実際にははなはだ怪
しいものであり、他所での「上からの革命」と実質的にはそれほど違いはないのですが、
それでも「下から」の支持の建前が一貫して維持され、一種の神話にまで高められるに至っ
たことが、ロシア革命の性格とその後の進路を考える上できわめて重要な意味をもつと考
えられるのです。この意味では本講演は私なりの、かかる巨大な対象についての論点整理
とささやかな問題提起という風に考えていただければ幸いです。
2.「革命」と「改良」―20 年代の模索―
先に見ましたとおり、本来革命とは、「下から」のエネルギーの爆発によって引き起こ
される急激な政治的・社会的変革を指します。その前段階での諸矛盾が多様であるがゆえ
にここでの「下から」のエネルギーの質も方向も一様ではなく、ときとして矛盾、対立す
ら生じますが、それらの合力が革命の究極的推進力であることには変わりありません。例
えばフランスの歴史家 G. ルフェーブルは、18 世紀末のかの「大革命」を、貴 族 の革命、
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初期ソ連における改革・改良・革命 ■
ブルジョアの革命、都市民衆の革命、農民の革命の 4 つの構成要素からなる、複合的過程
として把握しました(ルフェーブル『1789 年―フランス革命序論』高橋幸八郎・柴田
三千雄・遅塚忠躬訳、岩波文庫、1998 年)
。ロシア革命にも同様の複合的諸要因が見受け
られ、様々な議論が展開されていますが、少なくともそこに、プロレタリアートを中心と
する都市の革命とは明確に区別されるもう 1 つの革命、農民の反地主的な土地取得闘争を
内実とする農民革命を見出すのが一般的です。このことは同時代の革命指導者たちにも明
確に理解されていました。当時のロシアでは、農村住民が人口のほぼ 8 割を占めていまし
たから、かかる大多数の政治動向を無視することはできませんでした。言わばボリシェ
ヴィキは、都市を中心とした労働者の革命に密着し、その主導権を握りつつ、農村地域に
おける一層巨大な規模の革命に渡りをつけたわけです。権力の座についたボリシェヴィキ
は、土地革命を経て成立した小規模土地所有の群生状況を、自らの政治志向的には必ずし
も望ましくないことを認識しつつも、農民の意思の結果として、基本的に是認しました。
かくして曲がりなりにも都市の革命と農村の革命の結合と調和が図られたのです。トロツ
キーは自著『ロシア革命史』
(1931―1933 年)において、事態を次のように回顧しています。
「もしロシアの過去の歴史の野蛮な遺産としての農業問題がブルジョアジーによって解
決されたならば、もしそれがブルジョアジーによって解決されえたならば、ロシアのプロ
レタリアートは 1917 年に絶対に権力がとれなかったはずである。ソヴィエト国家が実現
するには、歴史的本質をまったく異にする 2 つの要因の接合と相互浸透が必要であった。
2 つの要因とは、農民戦争、すなわち、ブルジョア的発展の黎明期に特徴的な運動と、プ
ロレタリアートの蜂起、すなわちブルジョア社会の落日を告げる運動のことである。そこ
に 1917 年の本質がある」(トロツキー『ロシア革命史』第 1 巻、藤井一行訳、岩波文庫、
2000 年)
。
農民による土地革命と、革命政権によるその帰結の基本的承認によって、この旧き農業
問題は一定の決着を見ました。そして残ったのは、新たなプロレタリア革命の問題でした。
以後ロシアでは、社会主義を志向する新政権が、その政策とは必ずしも親和的ではない多
数者としての農民と、いかなる関係を構築し、どのようにやっていくのかが一大問題とな
るわけです。
こうした農民国独自の大問題を克服する方法は、少なくとも理論上は 2 つ存在しました。
1 つはロシアにおける革命が、より広範なヨーロッパ革命の呼び水となることでした。農
村人口が相対的に少ない先進工業国での革命は、それが広がれば広がるほど、ロシアにお
ける農民問題の比重を低下させるでしょう。しかし、当初大いに期待されたヨーロッパ革
命は、ご存知のとおり、散発的なエピソード程度のものでしぼんでしまいました。もう 1
つの可能性は、マルクス主義独自の階級論からの演繹的なものです。階級的観点から見れ
ば農民は小所有者であり、内的分化、その中で富める者と貧しき者の両極端に分化・分解
する可能性を含んでいます。その意味では、農民は厳密な意味での単一の階級ではありま
せん。ボリシェヴィキの一般的用語法でも、農民を階級ではなく、 農 民 層 という集合
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名詞で呼んでいます。ゆえに、もしボリシェヴィキがプロレタリア革命の主導者だとすれ
ば、農民の中の零落しつつある貧しき層と提携して、富める層に対抗するという階級闘争
の図式が農村地域においても妥当しうることになります。つまり農村地域における階級分
化の進展を想定し、一方の極に資本家的レヴェルにまで達した農業ブルジョアジー―ロ
シア語ではクラーク(кулак)と言われます―を、他方に零落した貧農および農業労働
者をおいて、後者との提携により、前者の打倒を図る、言わば農村を 2 つに割って、同地
においても階級闘争を推進するという路線です。
革命後に勃発した内戦のさなか、ボリシェヴィキはこのような農村における階級路線を
実行に移します。これはまさに農村地域へ革命をもち込もうとする試みでしたが、直接の
背景としては、内戦下において都市と軍隊とを養う食糧を是が非でも獲得しなければなら
ないという事情があり、この不人気な措置が農民層全体との対立へと至らないように、何
とか農村内に支持基盤を創出しようという思惑がありました。しかしこうした路線は無残
に失敗します。事態は、農村から強制的に穀物を徴発しようとする革命勢力=都市勢力
と、それにすぐれて一体となって抵抗する農民との先鋭的対決の様相を呈するのです。こ
れは、農民との最初の明確な決裂の危機でした。結局ボリシェヴィキは内戦を切り抜けま
すが、その直後、農民との関係の在り方が焦眉の問題として浮上し、決裂を回避するため
の政策転換が模索されます。いわゆる「新経済政策」の採用、ネップへの転換です。レー
ニンは、ヨーロッパ革命の挫折と、農民との関係悪化を率直に認めた上で、
「農民人口の
大部分との協定(соглашение)
」のみが「社会主義革命」を救いうると説き、このきわめ
て困難な転換に全党の同意を取り付けます(レーニン「割当徴発を現物税に代えることに
ついての報告」(1921 年 3 月)、邦訳『レーニン全集』第 32 巻、大月書店、1959 年)。新た
なネップの時代は、ロシア史、とりわけ初期ソヴィエト史においては稀有の漸進的改良主
義の時代となりますが、この転換は、かかる方針のみが農民との提携を長期的に確保する
方途であり、農民との提携のみが革命そのものを救いうるという論理をもって、すなわち、
「下から」の要素の確保を変革の急進性に優先させる形で正当化されたわけです。この段
階でレーニンに残された時間は数年しかありませんでしたが、多少の振幅はあったにせ
よ、彼はネップ的原則の維持と農民との提携強化を主張し続けました。1924 年初めのレー
ニンの死後、この路線を引き継いだのはブハーリンです。彼の下で、農民との提携
(
「結合」という表現が一般化します)を前提とした漸進的穏健路線が、「革命」のあるべ
き形態として理論的に定式化されていくことになります(以上、E. H. カー『ボリシェヴィ
キ革命』第 2 巻、宇高基輔訳、みすず書房、1967 年;スティーヴン F.コーエン『ブハー
リンとボリシェヴィキ革命』塩川伸明訳、未来社、1979 年)。
ネップの基調をなすのは、従来の穀物の強制徴発をやめ、主に租税と市場とを媒介とし
て必要な穀物を調達することでした。当然ながらボリシェヴィキは市場的諸力に警戒心を
抱いており、当初はそれをできる限り限定化しようとする志向が厳在していましたが、あ
る程度は市場経済の内的発展論理のゆえに、そしてまたある程度は農民への追加的譲歩の
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色彩をはらみつつ、ネップは拡張されていき、市場経済・貨幣経済の基本的容認にまで進
みます。こうした、多くは農民の要望に応える形でのネップの拡張は、1925 年前半頃に
頂点に達し、農業税の軽減や土地の賃貸借の容認、賃労働雇用の緩和など、かなり踏み込
んだ諸措置が実施されます。他方でこうした経済分野での傾向は、必然的に政治の分野に
も影響し、やがて一定の政治的権能の承認による農民の民主主義的体制統合が模索されて
いきます。これは、主に地方ソヴィエトの選挙を通じて追求され、1925―6 年の選挙では、
農村地域において一定の農民的基盤と活動能力をもつ末端統治機構が確立されたと評価さ
れています(カー『一国社会主義』
;溪内謙『ソヴィエト政治史』岩波書店、1989 年)
。
我田引水で恐縮ですが、私は、この時期の農民との関係形成の方途としての農村向け出
版活動と、それを媒介とした農民の投書の組織化について研究しております。後者につい
ては、当時「 通 信 員 の運動」などと称されていますが、ボリシェヴィキはすべての発信
主体を一様に「 発 信 者 」と称しており、語感に反して職業的なそれではなく、基本的に
は大衆の投書行動の雑多な総体にすぎません。ですから「 農 村 通 信 員 」略して「セリ
コル」などと言いましても、多くは新聞に向けて手紙を書き送った普通の農民にすぎない
わけで、1 回限りの投書も少なくないのです。しかし農民との提携強化を求めるボリシェ
ヴィキは、農村地域における党・国家機関の整備がなかなか進まない中で、一種の飛び道
具として、出版活動や、当初は多分に自然発生的だった、そこへの投書といったものに注
目し始めます。ネップ導入後の諸混乱が収束し、その原理が本格展開され始める 1923 年
くらいのことです。まずはきわめてネップ的な問題がありました。ネップ下の経済は市場
原理を基礎にしているため、党の出版物も独立採算制で、簡単に言えば無料配布はできな
いのです。そこで農民が多少なりともお金を出して購読してくれるような紙面づくりが必
要となりました。ボリシェヴィキは都市の政党ですから、農村の事情にはほとんど通じて
いません。ここで農民からの投書は、その掲載によって紙面を手っ取り早く農民的にする
手段として、あるいは投書が運んでくる具体的な諸要求の解決に努めることで出版の有効
性をストレートに示す手段として、徐々に注目を受けることになります。やがて各紙は紙
面を通じて広範に投書を呼びかけるようになり、同時にそれに対応するシステム形成が図
られていきます。言わば農村向け出版物の普及と投書の奨励は、双方の実効性を農民にア
ピールしつつ、相互補完的に進められたわけです(拙稿「ネップ期ソ連邦における農村通
『農民新聞』の二大農民全国紙を中心に―」、
『西洋史研究』
信員運動の形成―『貧農』
新輯第 26 号、1997 年)
。
こうして 1920 年代半ばまでに形成されたシステムは、かなりシステマティックなもの
でした。投書を受け取った編集部はそれらを検討し、ときには自らの紙面に直接掲載する
ほか、大部分は関連する国家機関へと転送します。当時、多くの国家機関には投書専門の
部局があり、迅速な調査と対応が義務付けられていました。そして新聞は、その調査結果
なり処分結果なりをきちんと返信ないし報道すべきものとされました。また最終的に手紙
は、問題ごと、あるいは地域ごとによって選別保管され、一種の「世論」の抽出手段とし
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て政策立案などに活用されていました。今日モスクワの文書館には、モロトフやスターリ
ンといった当時の最高指導者に宛てて各新聞編集部が定期的に作成した農民の手紙の概要
報告が幾つか残っております。多くのものは要約や部分引用ですが、特に重要と判断され
たものについては、全文が丸ごとタイプ打ちされている場合もあります。このように
1920 年代半ばまでに成立した出版活動と通信員運動のシステムにおいては、末端の農民
の投書も、新聞編集部を通じて党と国家の頂上部にまで行き着く可能性を有していたわけ
です(拙稿「権力と人民との 対話 ―初期ソヴィエト政権下における民衆の投書―」、
松井康浩編『20 世紀ロシア史と日露関係の展望』九州大学出版会、2010 年、所収)
。
多くの農民は、まさにこのようなボリシェヴィキの呼びかけに応える形で新聞を購読し、
その編集部に手紙を書き送りました。廉価でしかも農民に受け入れられる大衆紙として
1923 年末に創刊された全国紙『農民新聞』は、創刊後 2 年余りで、発行部数 100 万部に達
しています。これは最大値だとは思いますが、それでも常時 70―80 万部くらいは出ていた
ようで、当時世界的にも最大規模の発行部数をもつ新聞の 1 つとなります。同時に投書の
数量も巨大なものとなります。
『農民新聞』
は最大の投書の受け入れ先でもありましたが、
1926 年には年間約 62 万通の投書を受け取っておりました。これらの具体的内容について、
当時分析を行ったボリシェヴィキ自身が、投書の全体的性格がきわめて「実務的」である
と述べています。何よりこの時代の投書は、ソヴィエト権力に対する農民一般の利害の表
出手段として機能していたと言えるでしょう。この場合、農民が訴えることは、まず自ら
の切実な諸要求についてであったわけですが、それが農民との第一次的接近であり、最初
の関係形成である限りにおいて、一般に好意的に扱われたわけです。投書の内容で最も多
いものの 1 つが、地方末端の権力者や共産党員の不法行為の告発です。そしてこれらが奏
功し、
処罰や役務の更迭にまで至った事例がかなりあります。この点で、投書の制度化は、
機構の正常化や統治の合法性の貫徹に大きく貢献したと言えるでしょう(前掲拙稿「ネッ
プ期ソ連邦における農村通信員運動の形成」
)。
先ほど申し上げましたように、このような仕組みの形成に際しては、第一に当時のソ連
の国家体系の貧弱な状況を客観的条件として挙げることができると思います。つまり当時
の国家組織の現状からすれば、農民は、訴願や告発を行う窓口を身近に見出せなかったと
いうことです。ゆえに新聞というメディアを中心として、独自のシステムが形成される必
要が生ずるわけです。しかしもう 1 つの重要な要素として、ボリシェヴィキのイデオロ
ギー、彼らのきわめてユニークな国家観なり、革命の展望なりが挙げられなければなりま
せん。当時の理論家たちは、農民の投書行動を、大衆民主主義の発現形態として正当化し
ました。そしてソヴィエト政権は、農民との「結合」を体制原理として掲げているがゆえ
に、パートナーである彼らの正当な要求には誠実に応えていかなければならないのです。
他方で農民のこのような行動は、従来共同体的な閉鎖性の中に引きこもっていた農民たち
が、初めて国家的・社会的空間に接点をもつ契機、言わば彼らの「市民的」発展への第一
歩とみなされました。
出版活動は個々の農民と社会あるいは国家とをつなぐ媒介物であり、
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そこへの参入を意味する投書活動は、彼らを公共的な空間へと引っ張り出して、活動を通
じてその社会的活動性を涵養していく端緒と位置づけられたわけです。こうして農民が社
会的活動性をみなぎらせた「ソヴィエト市民」として成長をとげていけば、やがては、当
時のボリシェヴィキが革命の究極目標として真剣に模索していた、社会的普遍、市民的公
共性の中への国家的なものの溶解、
いわゆる「国家の死滅」が達成されることになりましょ
う。こうした展望を主唱し、その理論的精緻化に尽力したのもブハーリンでした。また当
時のほとんどの有力指導者たちも、彼ほど熱心ではないにせよ、何らかの形で出版活動や
通信員運動にタッチしています。当時のボリシェヴィキの多くがこのような遠大な計画に
多分に真剣に取り組んでいたことは、同時期の彼らの政策努力の真摯さを理解する上で見
逃せない点です(拙稿「ブハーリンの通信員運動構想―
プロレタリアート独裁
下に
おける大衆の自発的社会組織―」、『思想』2000 年 11 月号)。
かかる壮大な展望からしても明らかなように、ボリシェヴィキは、出版活動と通信員運
動を、専ら農民から体制へのヴェクトルを媒介するものに限定しておくつもりはありませ
んでした。ときとしてそれらが「対話」にたとえられたように、そこには相互作用の契機
が明確に含まれています。そして 20 年代も後半になると、活動の第二段階の意識のもと、
従来とは逆のヴェクトルが模索され始めます。当時、それまでの努力によって農民との関
係形成にある程度成功した一方で、工業化の必要性がますます強く認識され、従来のよう
な農民利害への大幅な譲歩が客観的に困難になってきていました。つまりこれまでとは逆
に、農民をいかに諭して、導いていくかが問題になってくるわけです。この新たな時期、
これまでのほぼ一貫しての農民への譲歩から、農民への働きかけ・説諭の強化へと転ずる
に際して何が起こり、それが事後の展開にどのように結び付いていくのかは、ネップその
ものの運命とも直結する重要な問題です。近年の多くの研究者は、一般にネップそのもの
に否定的な評価を与え、後のスターリン体制への比較的順調な継承関係を認める傾向にあ
ります。この後期ネップの時期において、体制の側からの働きかけの強化やネップの部分
修正の動きが顕在化すると再度農民の側に不満の兆候が現われること、また特に農村末端
のコムニストのレヴェルにおいては、ネップ的な諸原理が決して定着せず、農民への敵意
も持続して、それが次の時代の再転換、農民への再度の広範な暴力行使の基礎になってい
くことなどが指摘されております(例えば、奥田央「1920 年代におけるソヴェト農村の
『経済学論集(東京大学)
』第 73
コムニスト―農業集団化の歴史的前提について―」、
巻第 1 号、2007 年)
。私は現在ちょうどこの時期を調べている最中なのですが、確かに出
版分野においても、体制側の働きかけの強化が始まると、農民の側の積極性が減退する傾
向が確認できます。例えば、1927 年には農村出版物の流通量が前年度と比べて 10 パーセ
ントほど減ります。これは当時の節約・合理化運動の影響もありますが、何よりも、前述
の体制側からの新たな働きかけに際して農民が否定的な反応を示したこと(具体的には、
新聞の購読を止めたこと)を示していると思われます。またコムニストはコムニストで、
ネップの過度の親農民性や漸進性に対する不満や失望を募らせていくのもわかります。こ
89
■ 総合文化研究所年報 第 18 号(2011)
れらは、直後の事態の急展開、ネップの漸進的改良主義との決別と諸矛盾の急進的(
「革
命」的)解決を準備する性格をもったでしょう。しかし、他方でかかる状況に対する再度
の率直な反省と、農民の再獲得のための改善努力の意志が表明されているのも確かです。
また、出版と投書を媒介にして末端の農民と政権を直結する前述のシステムは機能し続け
ていました。私は、ネップ下の出版活動と通信員運動は、地方末端において問題のある活
動家(多くはコムニスト)を排除し、全体としての合法的支配の貫徹を実質的にもかなり
の程度促進する機能を果たしたのではないかと見ています。つまり、そこからいきなり再
度の広範な暴力行使には簡単に反転できないような仕組みが一定の定着を見せたのではな
いかということです。後に農民に露骨な強制力を行使する指令が党中央から発せられたと
き、それを断固として拒否したり、精神疾患に陥る、あるいは自殺する農村コムニストが
相当数出ました。結局党中央は、こうした再度の本格的強権発動に際して、かなりの数の
活動家の更迭と中央からの活動家の派遣を行わなければなりませんでした。繰り返しにな
りますが、後期ネップのこの時期の評価は、ソ連における 20 年代と 30 年代の継承関係を
考えるときに核心的な重要性を有しております。まだまだ詳細な分析が必要とは思います
が、今のところ私は、20 年代におけるネップ的秩序の一定の定着と 20 年代末におけるそ
の突発的破壊、つまり 20 年代と 30 年代との断絶性をやはり認めるべきではないかと考え
ております。
3.「上からの革命」とその帰結―ソ連体制と「革命」の神話―
ここまで、革命からほぼ 10 年間、1927 年の秋までの経過をお話してきました。まもな
くソ連は「上からの革命」の激動に突入しますが、先に見たスターリンの回顧的特徴づけ
にもかかわらず、事態は、自覚的にでも漸進的にでもなく、むしろ突発的かつなし崩し的
に進行していきます。直接の契機は、対外関係の緊張とともに工業化推進の機運が一層高
まりつつあった 1927 年の収穫において、市場的方策によっては農民から穀物を思うよう
に調達できなかったことです。一般にこれは、
「穀物調達危機」などと呼ばれます。穀物
は都市と工業労働者を養うのに必要なだけでなく、設備輸入と技術導入のための、ほとん
ど唯一の外貨獲得源でしたから、党指導部は「非常措置」の名目で、およそ 6 年ぶりに、
そしてネップ導入後初めて、強制的手段によって農民から穀物を取り上げる挙に出ます。
「非常措置」なる表現の示すとおり、まさにこれは「非常」手段であって、一定量の穀物
確保後は通常の市場的・ネップ的方法への回帰が想定されていましたが、強攻策に反発し
た農民は市場的方法ではますます穀物を売らなくなり、結果としてさらに強化された「非
常措置」を繰り返さざるを得なくなるという悪循環に陥ります。結局はこの反復過程が一
定の修復を見ていた農民との関係を掘り崩していき、その到達点としてやってくるのが農
業の全面的集団化でした。つまり集団農場は、農民を支配し、効率よく穀物を取り上げる
手っ取り早い手段と位置づけられたわけです。しかしスターリン、および党内の彼の支持
90
初期ソ連における改革・改良・革命 ■
者たちは、かかる政策の抜本的転換に際して、独自の理論をもち出してきます。つまり
1927 年秋に起こったことはネップ下において力を蓄えた富裕農民=クラークの反ソ行動
であり、ゆえに党は一種の階級闘争として強権発動したのだが、他方においては農村地域
における他の農民層の広範な支持を得ていたのだというのです。現実には農民の抵抗は、
内戦期と同様にすぐれて一体的なものであり、まさに事態はボリシェヴィキ対農民の構図
に他ならなかったのですが、彼らは抵抗する農民をすべてクラークないしそれに教唆され
たものとみなし、広範な弾圧措置を正当化したのです。ここでは農民の多数の支持という
建前が、ある程度は実践上も一貫して維持されたことが重要です。つまり、強行的措置に
際しても必ず村の寄り合いが召集され、投票が行われて、多数決での農民の同意という建
前が維持されたのです。これはウラルとシベリアにおいて先鞭がつけられたので、
「ウラ
ル=シベリア方式(уральско-сибирский метод)」と呼ばれることもあります。実態は定足
数を無視した多数決であったり、賛成多数になるまで採決が繰り返されたり、さらには武
器による露骨な威嚇があったりしたのですが、ともかく農民の同意という建前は維持され
ます。かかる手法が、穀物調達のある時期に現われ、徐々に一般化し、それが続く農業集
団化に際しても方法的に貫徹していったことが、
事態の連続性を雄弁に物語っております。
そしてこうしたネップの形骸化と並行して、新たな「神話」が形成されていくのです(溪
内謙『スターリン政治体制の成立』全 4 部、岩波書店、1970―1986 年)。
この激動の中で、スターリンと袂を分かったブハーリン派の面々は、形式的・欺瞞的で
ない、実質的なネップ的原則への回帰を主張し、1928 年春から約 1 年ほど、激しい党内闘
争が繰り広げられます。私の研究分野との関係からすれば、ここでブハーリンが、農村か
らの手紙を農民の意思を示すものとしてもち出してきたことが重要かもしれません。つま
りブハーリンは、通信員運動という形で出版活動を通じて中央にもたらされる農民の声、
言わば「農民世論」の政策反映、
「下から」の要素との再提携を求めたわけです(前掲拙
稿「ブハーリンの通信員運動構想」
)。しかし党中央での議論は最終的にはスターリン派の
勝利に終わります。このとき党中央委員会で行われた激論の内容は今では速記録の形で詳
細に追うことができますが、基本的には、論争当事者の双方において、農民との決裂が起
こりつつあることが明確に自覚されていたように思われます。つまりスターリン派は、
様々な階級的論理を弄びつつも、つまるところこれ以上農民とうまくやっていくことは不
可能なこと、農民とは手を切らざるを得ないことを認識していたわけです。こうしてロシ
アにおける労働者革命と農民革命は最終的に分裂し、前者が多数者たる後者を強権的に従
わせる体制へと転換が図られることになります。しかし、こうした革命の構造変化は、必
然的に労働者革命そのものの内部構造にも変化を及ぼさざるを得ません。農業集団化と並
行して加速化された工業化の過程においてスターリンは、前者において農民を扱ったのと
同様の容赦ない手段を用いて労働者を活動へと駆り立てました。かくて都市労働者も革命
の主体から客体へと退いていき、結局は党指導部による「上からの革命」だけが残ったの
です。最終的に形成されたのは、領袖スターリンを頂点とする、多分にピラミッド的な支
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■ 総合文化研究所年報 第 18 号(2011)
配体制であり、その統治手法は、穀物調達から農業集団化、やがては民衆支配の一般的方
法にまで格上げされたきわめて粗暴なものでした。ゆえにロシア革命の初発の理念と後の
スターリン体制の現実に根本的相違を認める歴史家たちは、1920 年代末の農民との決裂
とそれに伴う急激な変化の中に、それまでの状況との決定的な断絶を見るのです(溪内謙
。
『上からの革命―スターリン主義の源流』岩波書店、2004 年)
私の専門である出版関連も、
この時代を境として大きな性格変化をとげます。まずブハー
リン派の敗北と排除とともに、党中央による出版物への統制が強化され、従来の双方向的
機能が減退、すなわち、新聞や投書を通じての民衆との「対話」や合意形成なるものが減
退していきます。穀物調達危機や集団化に際しては夥しい量の農民の苦情が各編集部へと
流れ込みますが、それらの概要が党上層部に報告されることはあっても、もはや政策を再
転換させる力を発揮はしません。こうした状況と表裏をなすものとして、体制側からの煽
動・宣伝活動も専ら形式的な、受け手の納得をあてにしない一方的なものになっていきま
す。こうして、我々がかつて目にし、クレムリン学のごとき特殊な解読手法を生んだ社会
主義政権下の空虚な出版物が最終的に成立します。
意図的隠蔽や捏造、あるいは情緒的操作を特徴とする政治宣伝ないしマスコミュニケー
ションの在り方は、ソ連に限らず、20 世紀の大衆的社会状況に際して一般化し、現代ま
で続いているものですが、初期ソ連ではかなり事情が異なっていたことをここで追加的に
確認しておくべきでしょう。初期ソヴィエトの出版活動は、もちろん革命出版物としての
攻撃性や反革命への警戒的姿勢を含んでいますが、他方で事実性や合理的説得性に著しい
こだわりを見せていました。ゴルバチョフが取り上げたグラスノスチ、すなわち情報公開
の観念は、後期帝政下の過酷な情報統制に対する革命派の進歩的要求として誕生します
が、それゆえ革命期から 20 年代にかけてソヴィエト政権によって少なからず真剣に追求
された過去をもっています(初期ソ連において、厳しい経済状況にもかかわらず、党・国
家関連の議事録や速記録がやたらと公刊されているのは偶然ではありません)
。ボリシェ
ヴィズムは近代革命、ないしそれへと流れ込む近世啓蒙主義の潮流にいまだしっかりと棹
差していました。しかし、自らの行動によって理念と現実の乖離が蔽いがたいものになっ
たとき、政治権力が、理念そのものに手をつけずになおも支配の正当性を引き続き主張し
ようとするとすれば、もはや欺瞞と操作しか手段は残されていないのです。ちょうどこう
した転換が明確になりつつある頃、革命期のボリシェヴィキ出版物の性格を回顧しつつ、
トロツキーは次のように述べています。
「党の出版物は、成果を誇張しようとはしなかったし、相互の力関係を歪めようとはし
なかったし、叫び声で目的をとげようなど試みはしなかった。レーニンの学派は革命的リ
アリズムの学派であった。……〔ボリシェヴィキ出版物の〕正確さはボリシェヴィキの革
命的な力に由来していたが、同時にかれらの力を強めてもいた。その伝統の放棄が、のち
(前掲『ロシア革命史』第 4 巻、2001 年)。
の亜流のもっとも悪質な一特徴となる」
本講演では、初期ソ連における革命と変革、そこでの「下から」と「上から」の要素の
92
初期ソ連における改革・改良・革命 ■
問題を扱ってきましたが、私の直接の研究対象からすれば、20 年代から 30 年代にかけて
の事態の推移は、真に「革命的」たり続けるための「下から」の要素の汲み取りの努力と
その最終的挫折(放棄)として描くことができるでしょう。19 世紀の「上からの革命」
の先駆者たちは、保守的体裁のもとに革命的課題を遂行しましたが、20 世紀ロシアの
領袖は、純体制的観点からする「保守的」な任務を、「革命的」言辞で飾りたてました。
これら双方のヴェクトルは一見逆を向いていますが、革命の基本要件の 1 つである「下か
ら」の要素の欠如という点では共通しています。ゆえに、スターリンの「上からの革命」
は、当人がそこに込めた独自の意図にもかかわらず従来のそれと実質的にはほとんど変わ
りはなく、ロシア革命の初発の理念からすれば、すぐれて「反革命」的性格すら有してい
たと言えるでしょう。カーもまた、自らの大著の結論部分において次のように述べていま
す。
「スターリンはロシア革命に向けて、歴史に向けて、2 つの対照的な顔を見せている。
すなわち 1 つは革命家であり、もう 1 つは反革命家である。これは時代の両義的性格に他
ならなかった。ナポレオン 3 世、カヴール、ビスマルクといった、軍服を身にまとい、反
革命的政策を追求することによって、各々の国において資本主義的な革命に成果をもたら
した人物の歴史的役割についてのエンゲルスの評価は、興味深い類推を提供している。ナ
ポレオン 3 世の大言壮語、カヴールの冷徹な外交、そしてビスマルクの鉄と血の戒律は、
スターリンの独裁の中に、完全に反映されていた」
(E. H. Carr, Foundations of a Planned
Economy 1926―1929, Vol. 2―2)。
このようにカーは、我々も部分的に見たところの老エンゲルスの示唆に導かれて、ソ連
における「上からの革命」の本質を見据え、それを 19 世紀ヨーロッパ革命の文脈へと引
き戻しました。同じくカーによれば、レーニンが「上からの革命」なる表現を自らの著作
で用いたのは、我々も先に見たエンゲルスの一節―「1866 年と 1871 年に遂行された上
からの革命を後戻りさせる必要はなく、下からの運動によって、そこに必要な補足と修正
を加えるべきなのである(前掲「1891 年の社会民主党綱領草案への批判」)」からの引用
という形での一度限りだということです。ソヴィエト国家の父レーニンにとっても革命
は、
「下から」しかこようのないものでした。
しかしながらスターリンもまた、他の「上からの革命家」たちと同様、
「革命の墓掘人」
であると同時に、
「革命の遺言執行人」
でもありました。彼による革命的諸課題の遂行方法、
その帰結、一定の成果、そしてそれらにすべてについて用いられたロジックは、彼の主導
した「革命」全体の性格を一層複雑なものにし、多くの人々を幻惑、そして現在も少なか
らず惑わせ続けています。最後にここでは、このロジックそのものの歴史的影響の問題、
すなわちソヴィエト政権がその最末期まで自らの「革命」の持続性を主張し、少なくとも
公式の「反革命」を経験(承認)することがなかったという事実そのものの歴史的意味性
について考えてみたいと思います。虚偽も欺瞞も空虚な論理も一定の定着を見せれば歴史
の構成要素として機能します。この意味で、
「反革命なき革命」としてのロシア革命の特
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■ 総合文化研究所年報 第 18 号(2011)
性を考えることは、少なからぬ意義があるように思われます。
既に見ましたように、スターリンの「上からの革命」は、従来の諸革命とは区別される
新時代の「プロレタリア革命」の一環として、マルクス主義的階級論の粉飾のもと、あく
までも「革命」として正当化されました。ソヴィエト政権が一貫して標榜したこの「革命」
の対象は、ロシア国内の旧態依然たる諸要素だったり、場合によってはどこか外国のそれ
だったりしましたが、そこでは常に同政権は、勤労大衆、あるいは被抑圧大衆の期待と積
極的支持を受けつつ、旧い、封建的あるいは資本主義的な諸物に立ち向かっていく革新的
主体として表象されてきます。逆に、外部からソヴィエト政権の現状に本質的な修正を加
えようとする勢力は、一般に「反革命」の名前で罵倒され続けました。革命期にさまざま
な形でボリシェヴィキに反対した人々に始まり、やや後にはスターリンに逆らった、ある
いは逆らったとみなされたコムニストたちに向け、さらに後にはブダペシュトやプラハで
も、同様の非難と罵声が声高に響き渡りました。
こうしたソヴィエト政権の「革命」的用語法への固執は、直接的にはまず、フランス革
命以来の伝統的な政治的左右概念の混乱をもたらしました。1920 年代のある時期までは、
伝統的左右概念は党内諸勢力の政治的立場を把握する上で大いに有効でした。しかし
1920 年代末のいわゆるスターリンの「左旋回」=「上からの革命」の始動、そしてこの
新たな状況が体制化されるに及んで、事態は大きく変化しました。新たな権力の正当性は
引き続きその「革命」性によっていましたが、同時に諸手続き・諸措置は制度化され、保
守されていかなければなりません。これはあらゆる革命政権の抱える根本的な矛盾と言え
ますが、一般に革命の運動法則は、この矛盾を「反革命」という形で解決してきました。
しかし、繰り返しになりますが、ロシアの革命政権は、少なくとも公式にはそれを経験す
ることなく、ほとんど最後の瞬間まで、自らの「革命性」を主張し続けました(当の指導
者たちが主観的にはどう考えていたのかについては、例えば、スターリンと後の「大テロ
ル」との関係を考える際などに重要ですが、ここでは敷衍しないことにします)。この傾
向が変化を迎えるのは、
本当に政権末期のことにすぎません。ミハイル・ゴルバチョフは、
ペレストロイカの本格的始動直後の 1986 年 7 月末に、それが社会生活の非常に広範な諸領
域 に 手 を つ け る こ と に な る だ ろ う こ と を 意 識 し て、
「ペレストロイカという言葉と
革
命 という言葉をイコールでつなぎたい」と述べて伝統的用語法を踏襲しましたが、
彼の改革のもとで、
10 年ほど前には「反革命」扱いされたのとほぼ同じ主張をした人々は、
もはや「反革命」ではなく「改革派」と呼ばれるようになります。他方でそれに反対する
人々は、「真正ボリシェヴィキ」でも、「レーニン主義者」でもなく、
「保守派」と呼ばれ
るようになりました。こうしたソ連末期における用語法の変化は、何よりも体制としての
ソ連の生命力の最終的枯渇、イデオロギー的末期症状を象徴するものと考えられますが、
それでもこの時期の「保守派」の論客の主張を詳細に追えば、論敵に対して「反革命」の
論理をもち出す者がなおも存在していることに驚かされるでしょう(和田春樹『ペレスト
ロイカ―成果と危機』岩波新書、1990 年)。このような、直接は「上からの革命」の論
94
初期ソ連における改革・改良・革命 ■
法に端を発するソ連体制の「革命性」の神話は、事態そのものの複雑さ(「革命の墓掘人」
による「革命の遺言の執行」!)とも相まって、多くの人々を惑わせてきました。同時代
のスターリンの批判者・反対者たちにはとりわけ歴史意識の強い面々が揃っていましたか
ら、伝統的な政治的「左右」観念の呪縛は彼らの相互提携を困難にし、スターリンによる
その各個撃破を容易にしました。そして国外の好意的傍観者たちも、自国でのそのリベラ
ルな姿勢とは裏腹に、ソ連にまつわる否定的事実を無視、ときには積極的に弁護すらし、
しばしば自身の道義的威信を低下させました。
しかし、つまるところ今現在をも視野に入れて考えるならば、ソ連最末期まで続いたこ
の革命的用語法の最大の影響は、かかる永遠の「革命政権」が解体した後には、この「革
命」にまつわる積極的な要素が非常に残りにくい状況が生じたということではないでしょ
うか。前述のとおり、
ロシア革命以前のヨーロッパの諸革命は、多くは一定の「行き過ぎ」
を伴ったところで、その内的力学に従って、何らかの明確な「反動」を経験してきまし
た。そこで従来の中心的演者の多くは舞台を追われ、革命の事業はいったん潰えることに
なりますが、他方でその根本理念の純粋性は救われ、後の時代にその本来の姿で再生し
て、再び歴史の推進力となっていきました。しかしロシア革命の場合は、形式的には最後
まで「反革命なき革命」であったため、体制の腐朽とともにその理念もすべて終わりを迎
えたようにみなされているのです。現実にはソ連が解体しても帝政は復活(王政復古!)
しませんでしたし、帝政期の対外的債務の返済や収奪された私有財産の補償が検討されて
も、亡命貴族の末裔に大所領が返還されることにはなりませんでした。当事国たるロシア
一国の問題に限ってみても、革命がもたらした数々の惨害と悲劇にもかかわらず、それが
既存の諸問題に与えた一定の解決は、現代ロシアの肯定的諸要素として少なからず厳在し
ているわけです。世界史的分脈では、さらに多くのことが語りうるでしょう。現下の状況
は歴史的評価以前の、すぐれて後代の人間の印象(感性)レヴェルの問題と言いうるのか
もしれませんが、ソ連体制の「革命性」が神話化されてきたという事実そのものに直接の
根をもっており、言わば「神話の残像」という形で、間違いなく現実的な影響を及ぼして
います。今日において回顧され、場合によっては「再評価」されようとする「ソ連社会主
義」は、多くの場合、「上からの革命」を経て成立した、スターリン的な意味での「社会
主義」です。それは、現代の状況下からすれば、新自由主義の「民の秩序」に対抗する
「官の秩序」にすぎません。それはスターリンが情け容赦ない手段を用いて構築した国家
主義的秩序であり、その過程でロシア革命の初発の理想には幾つかの本質的な変更が加え
られていました。そういう意味では、現代の諸議論においてきわめて直線的に捉えられて
いるロシア革命とスターリン体制との継承関係をもう一度精査してみようとすることは、
ロシア革命にまつわる諸事象のより正当な評価、その総体としての歴史的性格、あるいは
それらのもつ現代的射程を考えるに当たって、それなりに意味があることだと思われるわ
けです。
(福島大学人文社会学群人間発達文化学類)
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■ 総合文化研究所年報 第 18 号(2011)
* 本稿は、青山学院女子短期大学総合文化研究所研究プロジェクト「革命・改革・改良の比較
研究」の一環として、2009 年 4 月 21 日に同研究所で実施した講演「 独裁
と
世論
―
1920 年代ソ連における改革・改良・革命―」の原稿に加筆・修正を加えたものである。講
演ならびに本稿掲載の機会を提供くださった村知稔三教授に感謝申し上げる。
(本稿は、平成 20―22 年度科学研究費補助金(若手研究(B))「初期ソヴィエト出版政策
史研究」による研究成果の一部である。
)
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