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「医療崩壊」の真相と今後

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「医療崩壊」の真相と今後
「医療崩壊」の真相と今後
少子高齢社会に向けた医療改革を考えるために
郡司篤晃氏
聖学院大学大学院 人間福祉学研究科長 教授
医療費が膨らみ続ける一方で、医師不足や医療サービスの地域格差など、危機的な問題を抱える日本の医療。
今号の「新社会像を語る」では、厚生省(当時)や東京大学医学部教授などを経て、現在、聖学院大学教授を務める郡司篤晃氏を
お招きした。行政、研究、教育の現場で長く医療に携わってきた郡司氏の豊かな知見から、危機の実態と背景を語っていただいた。
聞き手 ●
園田輝夫
株式会社三菱総合研究所 人間・生活研究本部 主席研究員
成り立つ協働作業です。したがって、患
アクセスは良いが
コストが高すぎる医療
14
者に疑われると協働作業は成り立ちませ
ん。さらにメディアに批判されたり、患
園田主席研究員(以下、園田)●医療崩壊が
者に訴えられれば、医者は防衛に回る。
大きな問題となっています。先生は医
これが医療崩壊の構造だと思います。
療崩壊を、どう捉えていらっしゃるので
また、近年ますます医療費削減の必要
しょうか。
性が叫ばれていますが、そうしたなか、
郡司教授(以下、郡司)●医療崩壊を最も実
医療従事者は閉塞感や将来に対する不安
感しているのは、一般の人よりむしろ医
を感じています。今までの制度は維持で
療従事者でないかと思います。問題の根
きないだろう、医療制度は崩壊に向かっ
底にあるのは、不信感と閉塞感でしょう。
ているのではないかと感じている医療者
医療というのは「命の買い物」ですが、
は多いと思いますね。
契約はできず、互いに信用し努力の上に
園田●最近は地方の総合病院で医師が足
2008 11 新社会像を語る
ゲストプロフィール
りないなど、医療の地域格差が問題視さ
す。評価では患者さんの満足度は重要な
れていますね。
要素ですが、同じ病院内でも必ず満足度
郡司●しかし日本は実質上、アメリカの
が低いのは小児科と産科です。理由はい
5 倍の病床で医療をしています。また、
ろいろ考えられますが、1 つには、満足
レントゲンや C T スキャン、内視鏡など
度の調査に答える人が病気でないこと
大学日本心臓血圧研究所研究
最新の医療機器の普及率は、個人病院も
や、患者さん本人ではないということが
部を経て、75 年に厚生省入省。
含めて高い。実は、日本の医療は国際的
あるでしょう。また、現在子育てや出産
に見ても、非常にアクセスがいいんです。
をする人々は、豊かな自由主義経済の中
製 剤 課 長、健 康 増 進 栄 養 課
日本における 1 人平均の医療へのアクセ
で育ち、自分で「選ぶ」ことに喜びを見
医学 部 保 険 管 理 学 教 授。現
ス数は、年間 10 回以上。イギリスやス
いだす世代です。この潮流が医療にも表
在、聖 学 院 大 学 大 学 院 人 間
ウェーデンでは 2 回程度です。
れていると思いますね。いつも選んでい
著書に、
『医療システム研究ノー
もちろん日本にも僻地と呼ばれる離島
るのですから、医療でも選びたいと思う
や豪雪地帯はありますが、それ以外のほ
でしょうし、選んだところで期待に反す
郡司篤晃
ぐんじ・あつ あき●1937 年、
茨城県水戸市生まれ。東京大
学 医学 部 卒 業。同大 学 院 修
了。医学博士。東京女子医科
医 務 局 総 務 課、環 境 庁、鹿
とんどの地域には、車で 1 時間も行かな
ることがあれば満足できないということ
くても大きな医療施設があります。以前、
になるでしょう。また、患者の満足度に
アルゼンチンで無医地区の定義を話し
いちばん大きな相関関係があるのは、患
ていたとき、
「日本では半径 5km 以内に
者の現在の健康状態です。患者の今日の
50 人が住んでいて医者がいない場合」と
健康状態が優れないのは、何も医者だけ
児島県衛生部長、厚生省生物
長を歴任。85 年より東京大学
福祉学研究科長、教授。
ト』
(丸善プラネット)、
『保 健
医療計画ハンドブック』
(編著、
第一法規)
、
『身体活動・不活
動 の 健 康 影 響』
(編 著、第 一
出版)、
『福祉国家の医療改革』
(東信堂)、
『医療と福祉におけ
る市場の役割と限界』
(聖学院
大 学 出 版 会)など。訳 書 に、
ジュリアン・ルグラン『公共政
策と人間―社会保障制度の
準市 場 改 革』
(聖学 院 大 学出
版会)がある。
言ったら大笑いされました。アルゼンチ
の責任ではないのですが……。
ンの場合、無医地区の定義は半径 1,000
医療経済研究機構が最近行った調査に
km だったのです。
よると、若い研修医には小児科を希望す
しかし、病床や機器などに莫大な投資
る人がけっこう多いんです。メディアが
を行い、アクセスが良くなった反面、コス
伝えている感じとはずいぶん違うと思い
トが高くなりすぎたという弊害もありま
ますね。今後、状況が好転する可能性が
す。患者にどのような医療サービスを提
あるかもしれません。
供するかについては、現在はほとんど制
園田●救急医療の医師不足はどうでしょ
限がなく、すべて医師と患者任せです。た
うか。
とえばイギリスには「キャッシュリミッ
郡司●これはもう少し複雑です。現在、
ト」という医療費の上限があり、予算以
推進されている在宅医療制度により、で
上のサービスは受けられません。この点
きるだけ早く退院させようとするわけで
でも、日本の医療の根底には医者と患者
すが、とくに高齢者は慢性状態を抱えな
に対する信頼があることがわかります。
がら自宅に戻るわけです。何か起こる可
能性が高ければ、当然、不安にもなりま
医師不足から見える
日本の医療の問題点
す。しかし、本当の意味での主治医がい
園田●医師と患者の関係性の変化は、婦
人科医や小児科医の不足にも関係してい
るのでしょうか。
郡司●ええ。実は医療の質に関する第三
複雑なシステムである医療は、一部の
変更が全体の改善になるとは限らない
者評価の研究を行っていたことがありま
新社会像を語る
2008 11 15
隣の町まで行かなければならない―そ
日本は今こそ
「公共に対する価値観」に
根ざしたビジョンをもつべき
ういうことを、ある程度受け入れなけれ
ばなりません。
「誰もがいつでもどこで
も」という医療は、そのコストを払いき
れないことになるでしょう。
医療が他の産業と異なるのは、
「規模
ないので、何かあるとすぐに救急車を呼
の経済」がほとんど機能しない点です。
んでしまう。救急外来がお年寄りでいっ
中小の私立病院が経済合理性という圧
ぱいなのは、そのためですね。これでは
力で統合・合併されることは、まず期待
救急がいくらあっても足りません。
「プ
できません。となると、医療全体の構造
ライマリーケア」は、こうした不安に対
を変えなくてはだめだと思います。単に
応する制度として重要です。責任もって
点数を切り下げ、医療費の合計を安くし
診てくれる「かかりつけ医」をもつこと
ても解決にはならないのです。事実、病
が重要だと思います。
院は点数を減らす一方で、収入を維持す
医療は非常に複雑なシステムです。一
るために、医療サービスの量を増やした
部を変更しても、全体として改善すると
り、最大のコストである人件費を削らな
は限らず、むしろ悪くなることもあるん
ければならず、新たな問題の原因となっ
です。在宅ケアの利点はありますが、そ
ています。
れで救急がパンクしてしまうのでは問題
園 田●厚 生 労 働 省 で は 現 在、2011 年 4
です。医療には大きなビジョンをしっか
月からの実施に向けて、レセプト請求の
りもつことが重要です。
電子化を進めています。毎月 1 億枚も発
レセプトの電子化に
期待される医療制度改革
とで、業務の効率化はもちろん、医療費
や病名、医療行為に関する情報分析が期
園田●厚生労働省が発表した 2007 年度
待されています。患者にとっても、過剰
の医療費は 33.4 兆円と、またしても前
な検査や投薬はないか、これまで目に見
年比で 1 兆円以上の増加となりました。
えなかった情報の開示が期待されていま
今後、毎年 1 兆円ずつ増えていった場
合、その国民負担が大きな問題になりそ
うですが。
郡司●世界中を見渡しても、医療費の抑
制に成功したという国はないんです。あ
る部分では成功といえても、ある部分で
は失敗というのが現状で、単に削減すれ
ばいいというものでもない。
医療は質とともに効率を考慮しなけれ
ばなりませんが、今後のわが国における
人口減少と高齢化を考えると、医療施設
はさらに集中させる必要があるでしょ
う。地域によっては総合病院がなくなり、
16
行されているレセプトが電子化されるこ
200811 新社会像を語る
すね(図表)。
郡司●私は以前、レセプトの分析を試み
たことがあります。しかし結局、意味の
ある情報はほとんど得られませんでし
た。現在のレセプトでは、たとえばガン
の医療費の請求といっても、診療のプロ
セスのどの部分の診療に対する請求なの
かがわからないからです。
イギリスは一病期間のレセプトのデー
タに基づいて、医療費の支払額を決定し
ています。日本の医療は、患者と医者で
自由に診療内容を決めて、その費用は保
険が払ってくださいという構造です。今
後は、もっと常識的に透明性を確保する
くわけですが、医療はどういう方向へ進
必要があります。医療保険制度の歴史は
んでいくべきだと思われますか。
数十年にもなるのですが、その間膨大な
郡司●イギリスでは 1948 年以降、医療
レセプトが発行されてきました。しかし、
は国営でしたが、サッチャー政権時代は
そこからほとんどなんの情報も得られて
小さな政府による規制緩和と民営化が進
いない。この無駄が放置されているのは
みました。ブレア政権になって若干の修
おかしいと思います。このような状態を
正はありましたが、基本的には前政権が
是正することが、レセプト電子化の最大
行った医療改革がいっそう前進しまし
の仕事だと思います。
た。医療と長期ケア、福祉までを統合し
て、シームレスなサービスを実現するた
少子高齢社会における
地域医療のあり方とは
めに、医療と福祉の財源を一本化し、地
方分権化が推し進められています。具体
園田●今後ますます少子高齢化が進み、
的には、地域の民間組織である「プライ
医療の財源を支える層が少なくなってい
マリーケア・トラスト」、あるいはケア
図表 ● 電子レセプト導入による医療制度改革
審査支払機関
毎月1億件
紙レセプト
(H23年まで)
(2011年まで)
受
付
事
務
点
検
事
務
共
助
受
付
事
務
点
検
点
検
D
B
磁気レセプト
医療機関等
保険証カード
事
務
共
助
委審
員査
会
分
類
支
払
計
算
委審
員査
会
分
類
支
払
計
算
紙レセプト
磁気レセプト
保険者
+
・院内点検データベース
・特定健診情報
・副作用情報
・地域別疾病動向
・医療ベンチマーク(EBM)
・保険証資格確認
医療ナショナルデータベース
・縦覧点検データベース
・医療費適正化分析
・健診情報疾病予防プラン
・地域医療政策の主導
・被保険者資格提供
高齢者医療確保法 第16条
地域差分析
データベース
自然増分析
データベース
疾病別分析
データベース
厚生労働省
医療費調査
・診療明細MEDIAS
・疾病別医療費変動分析
・地域差要因分析
・医療機関変動要因分析
・自然増変動要因分析
制度政策
・医療費定点観測
・疾病別医療資源分析
・改正シミュレーション ・電子点数表
・医療財源予測
医療制度
改革案
国 会
政 府
資料:三菱総合研究所
新社会像を語る
200811 17
全体を含む「ケア・トラスト」を設立し、
んでいる世帯が多い地区では、医療費が
ケアに関する政府予算の 80 %を、この
低いといわれます。そういう助け合いが
組織に任せようとしています。
可能な環境づくりや仕組みづくりが求め
医療や福祉制度は、歴史的背景や社会
られていくように思うのですが……。た
の平等に対する価値観が関わっています
とえばITを活用し、地域のお年寄りの体
から、そのまま他国のシステムをまねる
温や血圧のデータを、毎日インターネッ
ことはできません。しかし、そのような
トで近隣の病院に伝えるようなシステム
試みから学ぶことは重要です。
も考えられるのではないでしょうか。
日本の医療行政はきわめて中央集権
郡司●しかし、地域が過去のような姿に
的で、それぞれが分断されています。介
戻ることはありえないと思います。家族
護は市町村単位である一方、医療保険で
はアトム化しつつある一方、家族内の価
は 3 分の 2 の人が職域単位で行われてい
値観も同一でないのが現状です。
ます。しかしコミュニティが崩壊し、労
医療や福祉は、完全な自由市場でうま
働が流動化した今、再び地域共同体で支
くいくものではありません。身近な地域
え合うこと、自分の住んでいる場所でコ
社会でお互いが資金をつくり、お互いに
ミュニティを強めていくことが必要で
助け合う仕組みが重要でしょう。しかし、
し ょ う。
「ア イ デ ン テ ィ テ ィ は 東 京 都、
そうした取り組みは、その時々の政治の
住んでいるのは千葉や埼玉、茨城」とい
方向性によって、ものすごく影響を受け
うような人はたくさんいると思います。
る領域です。政治も明確なビジョンをも
こういう構造を変えていくためには、ビ
つべきでしょうね。
ジョンが必要ですね。日本は今こそ「公
これからの医療は、シームレスなケア
共に対する価値観」に根ざしたビジョン
の仕組みの一部として、地域社会に溶け
をもつべきではないでしょうか。
込んだものであるべきなのではないで
園田●しかし日本でも、元気なお年寄り
しょうか。
が近所のお年寄りを見て回っている例が
園田●本日はお忙しいところ、どうもあ
あったり、昔からよく言われるように、
りがとうございました。
いわゆる大家族で 2 ∼ 3 世代が一緒に住
対談を終えて ● 園田輝夫
現在の日本の医療保険制度は、人口の増加と経済成長を前
提に創設されてきた。しかし急速な高齢化と少子化、経済低迷
といった医療財源の危機を尻目に、医療費の高騰は歯止めが
利かない状況にある。さらに医師不足に加えて病院閉鎖や健保
組合の倒産が相次ぐなど、医療の環境は危機的状況に陥ってお
り、
「誰でも、いつでも、どこでも医療が受けられる」といわれ
た国民皆保険制度は想定外の方向へと進んでいる。
郡司先生の経歴と知識に裏づけられた哲学は、非常に独創
的な医療観といえるだろう。今回の対談では、日本の医療が抱
えるゆがみと本質が明らかにされただけでなく、今後何をすべき
かについて示唆に富んだお話を伺うことができた。
厚労省は来年度から、レセプトの電子化を実施する。これに
よって全国民の医療費データは毎月収集され、医療の実態分析
にメスが入れられる。高齢化社会に適応した今後の医療制度改
革に、大いに期待したい。
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200811 新社会像を語る
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