...

重 三

by user

on
Category: Documents
29

views

Report

Comments

Description

Transcript

重 三
27
三重地域会の情報はこちら
http://www.jia-mie.com/
変わるものと、変わらないこと
三重
Mie
三
重
一万人の世界建築家展
http://www.10000architects.com/?jp
Mie
2013年、伊勢神宮では20年に一度の式年遷宮が行われる。社殿を建て替え、御神体を移転する儀式が行われるわけだ
が、単に老朽化した神殿を新しくするという目的を越え、古代からの宮大工の技や精神を後世に伝承してゆくという大
きな役割を果たしきた。つまり、建築物という「もの」は時間とともに変化し朽ちてゆくが、建築する「こと」は何世
紀も変わることなく受け継がれてきたわけである。
ここに挙げた2例の建築は、JIA三重地域会の事業の一環としてローカル誌に連載している「三重の建築散歩」から抜粋
したものである。ともに今から半世紀前の日本でモダニズム建築が急速に拡まった時代の名作で、それぞれ三重の風土
の中で人々に親しまれ、風雪に耐えながら残っている建築である。しかし近年、老朽化によりその機能を果たせなくな
り、それぞれの行く末が心配されているところである。
今から更に半世紀先の2050年。これらの名建築が残されている可能性は少ないが、この時代の建築家の魂やものづくり
の精神は、私たちから次の世代へ伝える他に方法はない。
「三重の建築散歩」は、JIA会員が自ら取材して執筆することで、建築家の視点で地域の建築を評価し、広く社会に発信
することを目的にした事業で、2012年には5年間に渡って取材した建築や風景を一冊の本にして出版する予定である。
この地域の建築アーカイブスとして、半世紀前の三重の建築文化を後世に伝える「こと」ができれば本望である。
レーモンドホール
レーモンドホールは三重大学の広い敷地の隅の方にひっそりと建っていた。
緩い勾配の切妻屋根、平屋で軒が深い、端正な建物である。 かのフランク・ロイド・ライト
とともに、帝国ホテル建築のために来日したチェコの建築家・アントニン・レーモンドが設計。
昭和二十六年に三重大学の前身の一つ、三重県立大学の附属図書館として建設された。
レーモンドホールに詳しい菅原洋一教授(建築史)に案内していただき、中に入った。南面全面
と西面半分がすべてガラスの引戸になっていてとても明るく、開放的だ。柱芯からさらに前に出
されたガラスの外壁は、木の枠が整然と割付され、すっきりとした印象だ。引戸をすべて開け放
てば、さわやかな風が入り、深い軒に守られながら見る庭は室内との一体感がある。小春日和に
ここで読書をした当時の学生は、さぞ心地良かったことだろう。
この建物の一番の特徴は、柱、梁、母屋、火打ち梁、方杖とすべての構造材に丸太が使われてい
ることだ。径もそれほど太くなく、余計な重さがない。屋根裏を隠す天井はなく、小屋組がリズ
ミカルに連続し、とても綺麗だ。一見何の変哲もない建物のようだが、とてもよくデザインされ
ている。戦後の物資不足という背景もあるのだろうが、装飾的な部材は一切ない。材料をありの
ままに見せ、構造的な力の流れをそのまま建物の骨組みとして形に現している。余計な贅肉を取
り去った、合理的かつ簡素な空間はとても美しい。
日本人の世界観である自然との一体感を重視したレーモンドは、丸太を活かしたこの手法で、繊
細な数寄屋造りとも、骨太で力強い民家とも違う建築の魅力を引出していると思う。
レーモンドホールは昭和四十四年に津市大谷町から現在地に解体移築され、食堂として平成初頭
まで使われた。残念ながら現在は生物資源学部の倉庫になっており、普段は施錠されている。
この二十年来、ごく一部の人しか建物内部へは足を踏み入れていないことになる。それを思う
と、とても淋しい気持ちになる。とは言え、紆余曲折を経ながらも今まで生き残ってきたのだ。
その魅力と保存の意義を当時の関係者がわかっていたからに違いない。平成十五年には、国の登
録有形文化財にも登録されている。
取材中に、ホールを再生利用する働きかけがあることも知った。この美しい建物を、多くの人に
見てもらい、使って欲しいと思う。近い将来、このホールに人々の話し声が優しく響く事を切に
願っている。(取材・文/中西修一)
朝熊山レストハウス
目をつむり、幼い頃の遠い記憶をたどる。
昔、ここに来た。父がはじめて新車で買ったベレットに乗って。連なる巨大な三角の屋根、見上げる
高い吹抜け、コンクリートの匂い。眼下にはすばらしい景色。勤務していた設計事務所の書棚でたま
たま見つけた『現代日本建築家全集』に紹介されている「伊勢志摩レストハウス」の写真が、遥かな
記憶とつながった。
建築のチカラが、記憶を呼び出したのだ。
建築は時代を映す。昭和三十九年、ときは高度経済成長期にさしかかり、大衆に芽生えはじめた観光
旅行の夢の受け皿として、伊勢志摩国立公園はその機能を大いに発揮した。マイカーに乗って伊勢志
摩へ。そして、国立公園内の最高峰・朝熊山頂には、ドライブ客のためのレストハウスが計画され
た。
設計を担ったのは、早稲田大学のプロフェッサーアーキテクト武基雄である。
全長二十七メートル、幅九メートル、片持ち部分九メートルの変形角筒折版構造を持つ三連屋根は、
それぞれたった四本の柱で支えられている。スギ型枠の鉄筋コンクリート打放し。一階はレストラン
で、中央の屋根の下は吹き抜け、両サイドには上階があり、伊勢湾や神宮林の眺望が楽しめる、跳ね
出しバルコニー付きの宴会場になっていた。当時、志摩観光ホテルから迎えたシェフによるカレーが
評判だったそうだ。
一見、「伊勢」をイメージさせる屋根の形について、設計者はやんわりと否定している。将来の増築
を考え、同タイプの屋根を高さや奥行きを変化させながらダイナミックにくり返すことで、景観への
調和と眺望の豊かさを図ろうとしたのだ。
当初、有料トイレ棟としてあったもう一つと合わせ四連の屋根は、その後、設計者の予測を遥かに超
える観光客によって三度の増改築をくり返し、現在の姿になった。建築家がよほどの先見性をもって
しても、加速度的に変化する時代に追随していくには、諸々の事情が許さなかったのだろう。竣工の
同年には、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通している。
戦後から復興を遂げるまでの一つの時代を、この建築は色濃く反映していると同時に、現在までの凄
まじい社会の変化をも背負い込む羽目になった。そんな視点で、再度ここを訪れてみてほしい。
巨大な鳥が遠くへ飛び立とうとしている。その前に、ほんの少し羽を休めていたのだ。そのたった四
十年の間に、いろんなものが変化した。(取材・文/萩原義雄)
写真 川合勝士
協力 月兎舎
Fly UP