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朝鮮半島の支石墓について

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朝鮮半島の支石墓について
朝鮮半島の支石墓について
大学院文学研究科史学専攻博士前期課程 1 年
山田 碧子
1.はじめに
今回、慶北大学校プログラムに参加して、一番印象に残ったのは、和順支石墓と高敞支石墓
(図 1、2)であった。日本の北部九州に分布する支石墓と違い、朝鮮半島の支石墓は大規模であ
り、圧倒された。そして朝鮮半島の支石墓は日本の支石墓に直接影響を与えたものである。よっ
て日本の墓を研究していくならば朝鮮半島の墓について検討しなければならないだろう。本レポ
ートでは、朝鮮半島の墓、とりわけ印象的であった支石墓について考察していきたいと思う。
図1(左)高敞支石墓遺跡
(和順支石墓 観光案内冊子)
(右)和順支石墓遺跡
図2 遺跡の位置
(李榮文 2002 一部加筆)
2.支石墓の概要
支石墓とは、『図解考古学辞典』(小林行雄・水野清一 1959)によれば、朝鮮の支石(コヒン
ドル・板石を通常4枚たてて方形の石室を作り、上に平たい大石をおいて蓋とした卓子形の構
造)に由来するという。スカンジナヴィア半島からポルトガルにかけての海岸地帯、イギリス、
地中海沿岸に分布する Dolmen と形態の類似が著しく、同義といっても差し支えない。朝鮮半島の
支石墓は、一般的な板石や支石を利用して上の石を支えている巨石文化の一種であり、大部分は
墓として使用されるが、共同墓を象徴する墓表石または種族や集団の集まり場や儀式を行う祭壇
として使用されたという。
紀元前 1000 年前後に遼東地域に出現し、数百年の間に朝鮮半島南部に分布する。遼寧青銅器文
化の南方への伝播、朝鮮青銅器文化の成立と発展過程と密接な関連をもつとされる。朝鮮半島南
部地域で発達し、縄文晩期末に朝鮮半島南部の農耕民によって水稲稲作とともに九州に伝えられ
たとされ、その集団に関わる墓といえる(西谷 1997)。また日本でいう支石墓とは弥生時代の墓
の形式である。
3.研究史
朝鮮支石墓研究に関しては、甲元眞之の「朝鮮半島
の支石墓」(甲元 1997)によれば、本格的な研究は
鳥居龍蔵により開始されたという。そして鳥居は『朝
鮮総督府古蹟調査報告書』で支石墓について「4枚の
石壁上に1枚の大石を置く」卓子形と基盤形(図 3)
の2種類が存在し、前者は忠清道以北にみられるのに
対して、後者の基盤形支石墓は全羅道及び多島海諸島
に多くみられることを述べて、支石墓の構造が分布上
に反映することを早くも指摘した。その後、卓子式を
北方式、基盤形を南方式と呼び変えて、支石墓の形式
の異なりは地域的な差異に換言できると見なされ、
1930 年代後半から、支石墓の形式は地域差と共に時
代差であると想定されるようになり、北方式が古く、
南方式が新しい支石墓の形式であるという考えが何も
根拠を示されぬままに流布したという。
そして 1950 年代、三上次男は戦前の調査事例を中
心として支石墓を集成し、それ以降の支石墓研究の
図3 上 卓子形史石墓 平安南道龍岡郡石泉山
基礎を作り上げた。三上は「支石墓の無い支石墓」
(梅原末治・藤田亮策 1947)
下
碁盤形史石墓
慶尚南道昌寧郡丈麻面幽里
を南方式と呼び、支石墓を3形式に分類したが、推
(金載元・尹武炳 1967)
移に関して三上は支石墓出土の副葬品の分析に深く
立ち入らなかったために、卓子式→南方式→基盤形
と推移することを必ずしも明確にはされなかった。「卓子形」→「南方式」→「基盤形」という
変遷は国立博物館の支石墓報告書を待たねばならなかったという。その後、南方式は蓋石式と呼
び換えられ、「北方式」→「蓋石方式」→「基盤形」という支石墓の変遷観が、韓国では一般的
になったとされている。北朝鮮では卓子形支石墓を典型支石墓、南方式を変形支石墓と呼び変え
て、二つの類型に支石墓を把握することが行われるが、典型支石墓から変形支石墓へ変遷すると
いう支石墓の変遷観は戦前の日本人の考え方を踏襲していたという。その後支石墓の発掘がなさ
れ、再び支石墓の形状把握について根本的な再検討がなされた。1970 年代後半には北朝鮮の学会
では支石墓変遷に関する公式見解の変更がもたらされ、朝鮮半島の支石墓は箱式石棺墓と類似し
た小型の支石墓から始まって、その変遷の過程で南方式と卓子式に分離してゆき最終的には大型
の卓子形支石墓と横穴構造をもつ支石墓へと変遷していったことを提示したという。この見解は、
それ以前有村教一が従来の日本や韓国の学者の間にあった支石墓の形式論に問題を投げかけ、今
日もその考えは踏襲されているという。甲元によれば、韓国では 1970 年代後半以降の支石墓研究
は調査の進展に伴い、支石墓に変異があること、青銅製品とりわけ青銅短剣の年代が遡上するこ
とが明確になったが、支石墓の構造や性格についてはほとんど研究の深化がみられていないのが
実情であるという。私は、この点をふまえて朝鮮半島とくに南部(韓国)の支石墓について検討
していきたいと思う。
4.朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島の地図は図 4、分布図は図 5 に示した。
また 1996 年までの資料を基に作成した支石墓集
成の結果を遺跡数で表すと図 6 のようになる。グ
ラフをみると全羅南道の遺跡数が圧倒的に多いこ
とが分かる。甲元は、東北アジアにおいては朝鮮
半島西南部に支石墓分布の中心地があることを推
測している。このことに関して、圧倒的な数量の
差から私も同意する。さらに甲元は朝鮮半島の西
図4 朝鮮半島地図
(二宮書店 2007)
南部では「里」の単位でも複数の支石墓群が分布するとこ
ろが多く、かつ1遺跡内での支石墓の基数が多いこともこ
れを裏付けるとし、さらに北朝鮮では支石墓築造の後半期
になり、冠山里や石泉山型などの追葬を前提とした形式に
支石墓が変遷するのに対して、南朝鮮では、追葬が不可能
な基盤形支石墓を築造し続けたことも基数の差異になって
表われたとしている(甲元 1997)。
分布図をみると南部地域に偏って分布していることが分
かる。半島北部の北方式は満州から分布する支石墓の本来
の形式であって、南方式に先行したものであり、南方式は
積石塚や石棺・竪穴式石室・甕棺と複合または組合ったも
のである(榧本 1980)。また分布については北方式は満州
から南朝鮮まで及ぶが密度は南方ほど薄くなる。一方南方
式は逆で北にいくほど薄いということは一応認められてい
るという(榧本 1980)。
有村教一は『朝鮮支石墓研究』から支石墓を以下に分類
した。
図5 支石墓分布図
(李榮文 2002)
図4 支石墓遺跡数
1000
900
800
700
数量
600
500
400
300
200
100
0
或鏡北道
慈江道
平壌
黄海北道
江原道
忠清北道
全羅北道
済州道
慶尚南道
両江道
或鏡南道
平安北道
平安南道
黄海南道
京畿道
忠清南道
全羅南道
慶尚北道
地域名
図6 支石墓遺跡数
(甲元 1997 をもとに作成)
①北方式支石墓
4枚の板石を組み合わせて四角な箱形をつくり、箱形の区郭内に遺骸が安置され、支石は大き
く扁平な上石を支えると同時に、槨室を構成している。地下の埋葬のための施設を造らず、遺骸
が埋葬された石室を地上に露出されていることがもっとも明確な特性としている。また、巨大な
上石の質量を直接うけているのは石室の長辺に立つ2個の支石であるとし、それらは下辺を三角
形あるいは半円形に作った板石を土中に深く差し込んだものである。さらに石室の短辺に立つ支
石は左右長辺の支石の内面内側に入ったところに立つが、長辺の板石のような加工はなく、土中
にも埋まっていないため、塞石というべき板石であるという。
②南方式支石墓(全羅南道)
南方式支石墓は以下に分けられる。なお私が見学した和順支石墓、高敞支石墓はこれに該当す
ると思われる。
第1類 支石無、フタ無
第2類 支石無、フタ有
第3類 支石有、フタ有
下部構造の主体は、支石の有無に関係なく各類共通である。長方形プランの棺室を主体とし、
板石などを用いて造った。板石を箱形に組み合わせたもの、石塊を並べたり重ねたりして石室の
四壁したもの、板石と石塊を併用して構築された石室などである。そして、、1個の上石の下に
単一の棺室を設けたのが表式とされ、上石は常に地上に露呈しているものである。主体部は地中
に埋まっているのが特色である。第1類は上石の下にこれを支える支石がなくそして地中に埋ま
った棺室にフタがない。第2類は地下の棺室にフタを備えていることである。フタにも様々あり、
複数板石片を用いたもの、石室を覆った木質のフタの上に石を並べ置いたものなどがあると考え
られている。第3類は「支石がある南方式支石墓」であり、巨大な上石を数個の塊石で支える。
しかし支石にのった上石は地面との間に空隙を保つのが、むしろ常態であろうことから地下の主
体部との間には構造上、直接的な関係はないため、地下の石棺、あるいは石室には上面を覆うフ
タがなければならないので他の類の支石墓にくらべて一層保護施設が必要になったとしている。
ここで問題になるのは北方式と南方式の関係である。従来北方式は古く、南方式は北方式を基
にして新たな形式を取り入れた形式であるという見解がある。榧本杜人は墳墓形式について副葬
品と共にまとめた。それによれば、南方式支石墓が他の墳墓形式と複合することによって、北方
式支石墓の形式と構造を大きく変えてしまったことは半島の支石墓にとって最初の大きな変化で
あったとし、さらに南朝鮮に家族墓形式が表われたことで、支石墓の第二の変化であり、半島の
新しい墳墓形式の出現であったとしている。加えて九州の甕棺が支石墓と組み合わさったことは、
支石墓と甕棺が組み合わさった墳墓形式は南朝鮮で成立したと想定している(榧本 1980 )。南方
式は上記にあるとおり細分化しており、新たな形式を取り入れたという点は指摘できるだろうと
思う。しかしこの点においては副葬品の更なる分析が必要であろうと思う。また今回、実際にみ
て朝鮮半島の支石墓は日本とくらべて非常に大きかった。大きさの違いについても今後の課題と
していきたいと思う。
【参考文献】
有光教一「朝鮮支石墓の系譜に関する一考察」『古代文化論攷』1969 古代学協会
梅原末治・藤田亮策『朝鮮古文化綜鑑』第1巻 1947 養徳社
榧本杜人「朝鮮先史墳墓の変化過程とその編年」『朝鮮の考古学』1980 同朋舎
金載元・尹武炳『韓国支石墓研究 』第6冊 国立中央博物館編 1967 国立中央博物館
甲元眞之「朝鮮半島の支石墓」『東アジアにおける支石墓の総合的研究』1997 九州大学文学部
考古学研究室
小林行雄・水野清一『図解考古学辞典』1959 東京創元社
鳥居龍蔵「平安南道黄海道古蹟調査報告書」『大正五年度古蹟調査報告』1916 朝鮮総督府
西谷正『東アジアにおける支石墓の総合的研究』1997 九州大学文学部考古学研究室
三上次男「満州における支石墓の在り方」『考古学雑誌』1952 考古学会
三上次男「朝鮮半島における支石墓の在り方について」『史学雑誌』1953 史学会
李榮文『韓国支石墓社會研究』2002 学研文化社
『必携 コンパクト地図帳』2007 二宮書店編集部 二宮書店
『和順支石墓』観光案内冊子 和順郡
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