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もし死人の復活が余分なことであれば…… です。 この雑誌は「ピライキ

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もし死人の復活が余分なことであれば…… です。 この雑誌は「ピライキ
もし死人の復活が余分なことであれば……
新約単篇
第1コリント書の福音
もし死人の復活が余分なことであれば……
1コリント 15:12-20
中世のギリシャ教会の美術と言いますと、「ビザンチン絵画」の名で呼ば
れる、東方教会独特の聖画です。「イコン」というギリシャ語の呼び
名も、美術用語として知られています。複数形は「イコネス」です。
英語では訛って「アイコンズ」icons となります。カトリック教会と違って、
ギリシャ教会では彫刻は作らなかったものです。「平面の聖画は天の世界を
映す窓だが、立体のキリスト像や聖母の像は偶像になる」という東方教会特
有の考え方は、私にはちょっとついて行きかねますが、それでも、イコンは
神に献げられた神のものだから、作者の名を付けないという習慣にこだわる
潔癖さは、私にも少し分かります。エル・グレコの号で知られる画家テオト
コプロスはギリシャ人ですから、その作品には明らかにビ
ザンチン絵画の香りが感じられます。でも、彼の有名な作品「受胎告知」は
決してイコンではなく、美術作品とされます。作者の名前が付いているとい
うだけではなく、絵のスタイルから言っても、本来のイコンの描き方の一定
のパターンをはみ出しているからです。
この雑誌は「ピライキ・エクリシア」という月刊誌
で、映画「日曜はだめよ」に出てくる港町ピレアの教会が出しているもので
す。先日、友人が届けてくれたものですが、たまたま 5 月号でしたので、イ
ースター特集になっていて、復活者キリストのイコンが何枚か紹介されてい
ます。この表紙の裏のものは 15 世紀の作品で、シナイ山の修道院にあるもの
です。この頁(12-13 見開き)のは、「復活者との出会い」という短い説教
のタイトルバックになっています。左右に見える柩の中から、二人の死人が
キリストの手で引き出されているのがお分かりになりますか。「死から復活
した方が、死人をつかまえて生かしてしまう」という内容を表現したもので
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もし死人の復活が余分なことであれば……
す。こういう図柄はいかがでしょう。日本人のキリスト者にはどんな印象を
与えるでしょうか。「象徴としてならいいが、あまりに直接的で反発を覚え
る」でしょうか。あるいは、これでも奇麗事に見えて、むしろ、もっと粉々
に風化したものが舞い上がる絵を考えた方がリアルでしょうか。それとも、
これで十分で、ここからこれを描いた人の信仰告白が伝わってきますか。
私自身は、使徒パウロの言うような意味で、「朽ちない輝かしいものに復
活する」ことを信じていますが、次に引用する教父テルトゥリアヌスのよう
なのは、やはり異様に感じます。いわく、「(甦ったものは)血液が充満し、
骨ででき、神経が交錯し、血管が縦横に走っているこの肉体……つまり、疑
いもなく人間である。」これはパウロの言葉ともちょっと違うように思えま
す。「蒔かれる時は朽ちるもの……土でできた(蛋白質やカルシウムや燐)
もの……自然の命の体だが、復活して与えられるものは、輝かしく力強い霊
の体」(1コリ 15:42-49)。
確かに、テルトゥリアヌスの「神経が交錯し、血管が縦横に」は地上の命
の絵に縛られて、余りに肉的で「朽ちるもの」から一歩も出ていないと言え
ば、その通りです。でも、彼の極端な断定のの中には、「外ならぬこの情け
ない弱い体が、強い輝くものに変えられるのでなかったら、どこに私の救い
があるか!」という、激しい呻きが込められているのが感じ取れますか。た
だ、古代人であった彼はそれをあの形でしか、表現できなかっただけです。
今日の脳外科や大脳生理学がつきとめているような、記憶の素子や思考の電
子回路とか、その中に染み付いて消去できない不潔で虚しいソフトとか、さ
らにその鍵盤に触れている人格の主体そのものの底無しの悲しさを知る現代
人なら、「このメカニズムとそれを動かしている私という主体自身が、まさ
に悲しい肉だ。この人間存在の全部が清められて新しくされないかぎり、抽
象的な“魂だけの救い”など何になる!」と言い直すのでしょう。
私たちは、マタイ福音書の最終講のあたりで、イエスが死から復活なさっ
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たとき、弟子たちの主観的願望や幻影、錯覚のようなものとして現れたので
はなく、婦人たちがイエスの足にすがりついてひれ伏せるような具体的な姿
で現れた(マタ 28:9)と書いてあるのはなぜかというようなことを考えま
した。マグダラのマリアなどは、「もうよい、離れよ」とイエスから命じら
れるまでは(ヨハ 20:17)しっかりイエスに縋り付いていたといいます。い
や、イエス御自身が「私の足と手を見よ。肉も骨もある、本物の私だぞ」(ル
カ 24:39)と言われたのです。福音書記者たちが幼稚なのではなく、まさに
その肉を持ったあなたや私を、清めて、力強いものにして引き上げるために、
イエスの復活はあの姿で起こり、あのように記録されているのです。
私たちは、イエスの復活についても、自分の復活についても、霊的な次元
でだけ捕えるような“進んだ”受け止め方は、現代人が初めてできるように
なったものだと、考えはしないでしょうか。そして、使徒たちや初代の弟子
たちは、ただ盲信的に素朴であったような錯覚を持たないでしょうか。昔の
人たちは迷信的で幼稚だったから、復活をあそこまで即物的に考えて、体の
復活にこだわり過ぎたのだ、と考えたりしないでしょうか。最近の研究は、
どうも、そうではなくて、使徒たちと同時代の人たちの中にも、現代人と同
じような合理的な考え方をする人たちが随分いたことを、考古学や文献学か
ら確かめています。
たとえば、エジプトで発掘されたオクシリンコスのパピリ文献とか、特に、
同じエジプトのナグ・ハマディから 47 年前に出た「トマスの福音書」「ピリ
ポの福音書」「真理の福音書」「ペトロの黙示録」などの写本は、キリスト
の復活についても、自分の復活についても、随分自由な大胆な考え方をして
いたことが、分かっています。彼らは、使徒たちが伝えたような復活は「き
わめて不快で、矛盾した、とうていあり得ないこと」だと書いているのです。
この人たちは決して、復活を否定はしなかったのですが、それを文字どおり
に解釈することを拒否しました。「霊的な洞察を持つ人なら、復活について
はもっと別な見方ができる」と彼らは言いました。「あれは、使徒たちが肉
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体をもって生き返ったイエスに会ったのではない。霊的次元でキリストに会
ったのである。つまり、幻やエクスタシーの中で、あるいは霊的なひらめき
の瞬間にそれが起こった」と、これは、今の神学者が言いそうなセリフです。
しかし、この人たちはやがて消えて行きます。なぜ消えたのか? 人によっ
ては、当時主流を占めた強い教会の司教たちが、そういう余裕のある考えの
人たちを“異端”として締め出したからだと言います。後にカトリック教会
を形作った宗教的特権階級が、「ペトロと使徒たちが伝えたあの形の復活以
外は認めない」と弾圧して、そういう文書まで一部も残らないように焼却し
た。こうして教会の権威を、「使徒たちが語ったままの文字どおりの解釈」
というものに固定したのだ、と言うのです。(ペイゲルズ,Elaine Pagels,
「ナグ・ハマディ写本」,白水社)
しかし、それとは別の見方もあります。この一見現代的で、「それなら分
かる」と言えるような、この時代の考えが結局、事柄の本質を見極めていな
かったばかりでなく、復活の信仰を育てることもできないまま、長い時を経
て淘汰されて行った……と言いますか、教会はこれを命のない“まがい物”
として整理して行った、という見方です。もっと正確に言うなら、聖霊はこ
れを本当の福音とは異質のものとして篩い落として、本物だけを残されたの
です。私は、そう捕えております。
福音書とは別の立場の人たちは、使徒たちは生きているイエスを現実に見
たのではなくて、本当は自分の内的経験の次元でキリストに出会ったのだと
言いました。先程触れた「ナグ・ハマディ文書」の中の「マリア福音書」な
どでは、マグダラのマリアは幻想の中で主に出会います。それが復活の体験
だというのです。「ペトロ黙示録」では、ペトロが復活のイエスにお会いす
るのは、深いエクスタシー、つまり霊的恍惚状態の中でです。このように、
幻の中でとか、極度の霊的高揚の中でのイエスとの出会いこそが真の復活体
験だと、この人たちは言います。しかし、復活のイエスを見る体験というも
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もし死人の復活が余分なことであれば……
のが、実際にどんな形を取るかについては、この人たちには一致した理解は
ありませんでした。彼らに現れたと言われるイエスのお姿も、時に「見えざ
る霊」の形であったり。光の中から語りかける声であったり、幼な子の姿で
あるかと思えば、ダニエル書の幻のように威厳に満ちた老人の姿であったり
します。テオドトスという教師は「各人はその人自身の仕方で主を認め、そ
の仕方は同様ではないのである」とまで言っているくらいです。
こういうのを読んでいますと、私たちは 20 世紀の欧米か日本にいるような
錯覚を覚えるのですが、既に使徒たちの次の時代から、こういう解釈の人た
ちはいて、初めはかなり同調者もいたのです。しかし結局は生きた信仰とは
結び付かずに、一部の古文献に名残を止めただけで消えて行ったのです。先
程も言いましたように、聖霊が本物の福音だけを残して、一見魅力的だが命
を与えることのできない偽物を篩い落としたのです。それは、この悲しい体
を持った肉の人間を贖って、完全に救う力を持った福音は、神の子の復活
―それも、体を持っての力強い復活が事実としてまずあって、そんな復活
をされたイエスによる、体も含めての全人間的な復活が必要であると、神が
判断なさったからです。
ここで、最初に読んだ第1コリント書の御言葉に戻ります。全体の趣旨と
文脈の説明は、「第1コリント書の福音」で済ませましたので、今朝はその
13 節の短い文章に、絞って考えることにいたします。
13.死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
初めてこのくだりを読んだ時には、パウロの意図を量りかねて、当惑しま
した。この箇所はもともと、パウロが言うような意味での「死人の復活」な
どは無いし、無意味で荒唐無稽だと考えた人たちへのパウロの論駁です。そ
の意味で 14 節の意味などは、パウロに同意するしないに拘わらず、その意気
込みは伝わって来るし、言わんとする趣旨もある程度理解できます。
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14.そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄で
あるし、あなたがたの信仰も無駄です。
パウロの福音の中では、あなたの生き死には一にかかって「キリストが復
活した」事実にある。これはまた、17 節でも敷延されます。
17.そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなし
く、あなたがたは今もなお罪の中にあります。
復活しないキリストがあなたの罪を負ってくださったとても、それは単に、
愛に満ちた恩人が犠牲になってくださったというだけで、神に対するあなた
の罪の処分はできなかった。感動的ではあるけれども、それだけのことだ…
…と。私たちが仮にその深い意味を完全にくみ取れなくても、パウロの確信
と、彼が何を言いたいのかは、この文章から分かります。分からないのは 13
節の論旨です。
13.死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
著者は明らかに、「死者の復活があるからこそ、キリストは復活したのだ」
と言っているようです。「もし死者の復活がないのであれば、キリストの復
活もある筈はなかった」と言うのですから。16 節の論理にも無理を感じます
が、今は 13 節に限って話を進めます。
私が分からなかった理由は、この「死者の復活がなければ、キリストも…
…」という推論を、「死者の復活」という一般命題の中の一つのケースとし
て「キリストの復活」を考えていたからだと思います。「死者は復活する」
という大前提があればこそ、「キリストは復活したのだ」と、これでは何の
証明にもなっていません。「死者は復活するものなり」という証明かまず成
り立っていないからです。それで、分からなかったのです。ところがあると
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もし死人の復活が余分なことであれば……
き、「待てよ、これは『死者は復活するに決まっているからこそ……』とい
う意味とは違うな」と気付いたのです。
「死者の復活がなければ」というのは、もし父のお心に、「死者を復活さ
せる」という御計画がなかったら……という意味ではないか……! そのこと
に気付きました。「死んでいる人間をこのままにしてはおかない。何として
でも生かす!」という、執念のような神の意志が、もしなかったら、という
のが、「もし、死者の復活がないのなら」です。このことに気付いたのは、
25 年前、ちょうどこのコリント書を読んでいた時でした。これは、私にとっ
ては天啓でした。
それまでは「死者の復活ということはアルかナイか」という角度からばか
りここを読んで五里霧中だった私に、13 節の冒頭の言葉―この新共同訳初
版では 372 頁の最初の言葉が、全く変わった響きをもって聞こえました。「も
し、死んでいるお前を生かすという執念が神のお心になかったら」です。「も
し、死人の復活が神のお心の中で、何より大事な中心目的でなかったら」で
す。世界を創造し、あなたの命を創造して支配しておられる神が、「この罪
に死んでいる人間をどうしても生かさねば……」という激しい思いに燃え上
がらなかったら……、あの西暦 30 年の時点で、御子キリストを墓の中から生
かして引き上げるというような、途方もないことをなさる理由もなかったし、
それは起こりもしなかった。
ですから、ここの意味が分かる人というのは、自分が「死んでいる」こと
のショックを、人生のある瞬間に知る人です。キリストの復活に触れるとい
うことは、そのショックを通じて、その霊的経験を通じてだけ起こるのです。
「私は死んでいる。死んだまま生きている。放っておけば、このままで去っ
て行く!」―私の体と自分の手足や器官が「死んでいる」だけではありま
せん。それを支配して方向づけている脳も意志も、死んだ肉なのです。神は
それを、どうしても生かしたかった。命を吹きいれて「生きたもの」に変え
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もし死人の復活が余分なことであれば……
たかった。
「死んだキリストが復活した」というような、荒唐無稽なおとぎ話をよく
信じられるな」と人は嘲ります。そこへ立ったことが一度もない人であれば、
自然なことです。しかし、一度そこへ立った人には、神がイエス・キリスト
を下さったことの中心に、神の思いが見え始めるのです。「私は、死んでい
るお前を生かしたい!」
今朝の話は、まことに単純な内容です。朗読したコリント書も全部を説明
しないで、一点に絞りました。最初に掲げた題は「もし死人の復活が余分な
ことであれば」でした。「もし、この私に復活が必要であるということが、
およそ不要で余計なことなら」です。もしそうなら、キリストの復活はなか
ったと、使徒パウロは言います。でも、そこに主なる神の聖なる意志の中心
があった。これは大変なことです。神の子の命の血でこの私を清める。そし
て天の命を注ぎ込んで、生きたものにする。そのために、あそこで、天地創
造以来最大のことを神は起こされたと。これが復活信仰のたった一つの“入
り口”です。
最初に見ていただいたこの絵(イコン)をもう一度御覧ください。ギリシ
ャ人は千年近くも前から、こういう絵を描いていました。いちばん盛んに描
かれたのは、13 世紀ごろ「ギリシャ・ルネサンス」と彼らが呼ぶ時期です。
もっともこの絵は、もう少し後につくられた複製かも知れません。稚拙とい
えば稚拙です。文字どおりにこういう形で引き出されるのかと、我々なら問う
かも知れません。しかし、そこに描かれている信仰が分かりますか? 天の父
は、あなたを生かしたかったのです! キリストは、ただそのためにだけ復活
されたと。もし、その死んでいるあなたや私を、死の中から引き出したい思い
に駆られなかったら、神は何もキリストを死人の中から復活させることもな
かったというパウロのその言葉を、このイコンにダブらせて読んでください。
(1993/04/17)
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