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その1 - 関東電化工業

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その1 - 関東電化工業
第6章
渋川工場の再構築と多角化への模索
1. 渋川工場の地盤沈下
水島計画と渋川工場
関東電化60年の歴史を画す水島工場が操業を開始したのは昭和4
0年(1965)3月で
ある。諸々の理由で生産が軌道に乗るのは年末まで待たねばならなかったわけで
あるが、運悪く操業が
4
0年不況
と重なった。大型倒産が相次いだ深刻な構造
不況に対し、政府は16年間維持してきた
衡財政を捨て、赤字国債の発行に踏み
切った。思い切った財政出動が功を奏して、40
年不況は10月に底を打ち、その後
には56カ月にわたる戦後最長の
いざなぎ景気
が待っていた。
水島計画も、この戦後最長の景気拡大というバックグラウンドの恵みを享受す
ることができ、きわめて短兵急に立案された進出計画であったにもかかわらず、
立ちあげの躓きを克服するとともに、第2期計画が進発して、業容は順調に拡大
していった。
水島計画は一言でいえば、当社の根幹である電解すなわち塩素(塩素化技術)と石
油化学との結びつきをねらったものであり、これを布石として将来的には総合化
学への展望を開こうというものだったといっていい。その基礎はエチレンと塩素
のコンビネーションであり、まずEDCをつくり、これを出発原料として多角的に
トリクロールエチレン、1
,1,
1-トリクロルエタン、その他の多塩化物の製造に向
かった。その先にはさらなる石油化学への可能性が広がっていた。
ただ、第1期計画によって石油化学が勃興した昭和30
年代前半から中盤にかけ
ては既存化学との共存が可能だったが、はるかにコストに勝る石油化学の圧倒的
な威力はそれ以上の共存を許さず、第2期計画がスタートするころには、石炭を
原料とする化学工業などのドラスチックな“石油化学化”が始まったのである。
当社の水島進出もそれと無縁でなかったことは前章でふれた進出計画にもにじみ
1
1
7
渋川工場全景(昭和3
8
年3月)
出ていた。
水島計画は、当初の川崎案から急きょ変更になったもので、渋川工場との整合
性をどのようにはかるかという点で、煮詰める時間的余裕がなかったことは先に
ふれたとおりである。が、そもそも水島コンビナートへの進出が石油化学化とい
う潮流に乗じた経営戦略である以上、狭隘な敷地しかもたない内陸工場という不
利なロケーションにある渋川工場が、その対比で地盤沈下をきたすことは十分に
想定できることであった。
当初の進出計画の一節にも、 渋川工場は、その立地条件からして特異な高付加
価値製品を開発し、それらの製品群に特化していくところに新しい道筋を見出す
べきである
という趣旨の展望が述べられている。いわゆるファイン化という表
現が化学業界に生まれるのは、成長に成長を重ねてきた石油化学が初めて生産調
整に追い込まれた昭和45年後半以降のことであり、大小を問わず化学会社にとっ
ていわゆる“ファイン化率”が経営の重要な指標となるのは、第二次石油危機を
迎えて重厚長大産業の衰退という局面が出現してからであるが、この時点で早く
も渋川工場にはその発想が生まれていたわけである。因みに、今日の当社経営を
支える柱の一つであるフッ素系では、40
年4月に無水フッ酸電解によるフッ素の
製造およびフッ素化学の研究が始まり、また鉄系では同年9
月には超微粒子高純度
酸化鉄の研究を開始している。
1
1
8
第6章
渋川工場の再構築と多角化への模索 ■
進む地盤沈下
しかしながら、現実には鉄系事業
にしてもフッ素系事業にしても、こ
れらが花を開くのはもっと後になっ
てからであり、水島工場の生産が軌
道に乗る一方で、渋川工場のポジシ
ョンは着実に低下していった。
それを最も象徴的に表しているの
が電解ソーダの生産量の推移である。
表5にみられるように、昭和41年度
に6万トンを超えピークに達した渋
運転を停止した渋川工場隔膜電解槽
川工場の生産量は、その後毎年漸減を続け、44
年度に水島工場と主客が入れ替わ
る。以降、水島工場の増産と対照的に生産量はさらに低下し、50
年(1975)には3万
トンを割り、最盛期の半分以下になる。
それは、水島工場の生産計画が軌道に乗り、第2期計画が次々に具体化し、塩
化物が拡大していったことと表裏をなしている。一方、塩化物の代表であるトリ
クロールエチレンの両工場における生産量の推移をみると、43
年11月に増設を行
った水島工場の生産量は、44
年度に渋川工場を凌駕し、渋川工場でのトリクロー
ルエチレン生産は40
年度の2万1
,6
72トンをピークに減少を続け、
46年度の生産を
もって終息し、水島工場に集約されることになったのである。翌47年に水島工場
におけるトリクロールエチレンの生産はピークを迎える。
表5
渋川・水島両工場における電解ソーダ、トリクロールエチレンの生産量の推移
年 度
昭和4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
5
渋
川
5,9
6,0
5,6
5,1
5,2
5,7
4,9
3,6
3,7
3,0
2,3
電解ソーダ
水 島
1,5
2,9
3,2
4,2
6,2
7
8,4
8,4
8,6
8,3
7,7
6,2
合
計
7,5
8,0
9,8
9,4
11
,21
14
,54
16
,80
17
,56
17
,15
18
,55
9,5
渋
(
単位:トン)
トリクロールエチレン
川
水 島
合 計
2,67
2
19
,60
3
20
,74
6
20
,81
8
20
,47
0
20
,76
4
12
,95
4
0
0
0
0
6
,41
4
9
,41
6
11
,14
5
14
,49
0
22
,40
2
28
,63
7
31
,98
8
39
,76
3
36
,28
8
27
,67
1
24
,48
8
28
,0
86
29
,0
19
31
,8
91
35
,3
08
42
,8
72
49
,4
01
44
,9
42
39
,7
63
36
,2
88
27
,6
71
24
,4
88
1
1
9
むろん、このこと自体は水島計画がスタートするにあたって十分に予測された
ことであり、基本的に経営計画に織り込み済みであったはずである。しかし、現
実にはそうでなかった事態が次々と渋川工場を見舞った。その第一は、宇部アノ
ンが途絶したことである。
宇部アノンの終息
昭和20年代後半から30年代にかけて、当社の研究開発陣は塩素化技術を中心に
次々と新製品を生み出した。この時代における技術開発力が関東電化の今日ある
礎石を築いたことは間違いない。その主要製品開発については第4章でふれたと
おりであるが、なかでも、戦後の経営戦略として打ち出された
三本柱
構想の
一つである水素利用で、世界初の直接酸化法によるシクロヘキサノンの製造に成
功したことは、当社の高い技術力を天下に知らしめることになった。
そして、東レの大成功を横目にナイロンの事業化を進めていた日本レイヨンに
対する原料供給の道が開かれ、同社向けにカプロラクタムを製造する宇部興産に
宇部アノンを供給することになったのだった。3
2年(1957)4月、月産13
0トンでス
タートしたシクロヘキサノンの生産は立ちあがりから順調に進み、増設を重ねて
いった。3
6年2月には不慮の爆発事故を引き起こしたが、2カ月で復旧し、生産
能力もこの年、月産7
50トンにまで引き上げられた。シクロヘキサノンの製造プロ
セスは、東亞合成をはじめ他社がフェノール法に拠っていたのに比し、独自開発
による当社の直接酸化法はコスト的に有利であり、3
0年代における最大の け頭
として当社経営を大いに潤したのである。
こうした経緯でさらに大幅な増設をはかることになり、3
9年2月には月産1
,20
0
トンまで能力を引き上げたのである。ところが、この間、合繊メーカーにおける
原料調達には大きな変化が生じていた。一口でいえば、合繊メーカー自身が自ら
原料の生産に乗り出したのである。ナイロンも東レの独占時代から日本レイヨン
の参入を経て、さらに数社が競合するようになると、厳しいコスト競争が避けら
れず、総コストに占める比重の大きい原料費をいかに抑えるかが課題となってい
た。その象徴的な事例が、原料のすべてを他社に依存していた東レにみられる。
独自に開発を進めていたPNC(光ニトロソ化)法の完成によって、
すべてを自社生産
に切り替えたのである。
1
20
第6章
渋川工場の再構築と多角化への模索 ■
さて、日本レイヨンの場合は、宇部興産がカプロラクタムを一手に供給してい
たが、宇部興産自身は中間製品であるシクロヘキサノンを自社生産する一方、当
社および本州化学工業、田岡染料製造の3社から仕入れるという原料調達構造に
なっていた。当社を除いていずれもフェノール法であった。ところが宇部興産は、
その後直接酸化法の研究を続けており、それが完成をみたことにより自社製品に
切り替え、昭和4
0年5月をもって当社宇部アノンの販売は途絶することになった
のである。当社製品の中で最も収益性の高い事業だっただけに、経営に与える影
響は小さくなかった。4
0年5月といえば、水島工場が操業を開始したところであ
るが、先にふれたように立ちあげがうまくいかず、本格操業に漕ぎ着けるまでに
9カ月を要したのであり、苦しい財務状態をいっそう
迫させたのだった。
チクロ騒動の影響
しかも、宇部アノンの途絶に加えて、もう一つ不運が重なった。
当社の宇部アノンは第4章でも少しふれたように、シクロヘキサノン(アノン)と
シクロヘキサノール(アノール)の混合物であり、宇部興産向けがなくなってもアノ
ンは分離すれば高沸点溶剤として市販できるが、アノールは需要がほとんどない。
そこで当初はアノンからつくっていたシクロヘキシルアミンをアノールからつく
れるようにし、また一方ではアジピン酸もアノールからつくるようにする。
そういう形を採ることによって、アノンとアノールのバランスを取ったわけで
あるが、なんにしても宇部アノンがなくなった以上、シクロヘキシルアミンを増
産して水素を消化していく必要があり、昭和3
9年(1964)5月に月産20
0トンでスタ
ートしていた生産能力を倍増し、月産40
0トンにしたが、そこに降って湧いたのが
“チクロショック”である。
シクロへキシルアミンの主たる需要は人工甘味剤シクラミン酸ソーダ(チクロ)で
あった。チクロは米アボットラボラトリー社が開発した商品で、甘さは砂糖の30
倍とされ、アメリカ文明の象徴である缶ジュースなどに需要が伸びており、わが
国ではアボットラボラトリー社と提携した薬品メーカーが販売を始めた。製菓業
界中心に需要が膨らみ、当社の増設もそれを見越して実施したものであるが、43
年に米国で発ガン性が問題となり、これが直ちにわが国にも飛び火し、米国以上
の大騒ぎとなった。
1
21
このチクロ騒ぎのなかで日本は、
厚生省が4
4年11
月、チクロの使用
禁止とチクロ入り製品の回収を決
定し、この問題にケリがついたわ
けであるが、そのあおりを食って
渡辺製菓が倒産するなど、チクロ
を大量に使っていたジュースなど
の業界が大きな打撃を被った。む
チクロの袋詰め作業(タイのバンコット・エンファン社)
ろん、当社のシクロヘキシルアミンの生産も大きな影響を受け、国内はわずかに
ゴム薬向けのみに、チクロ用は途上国向け輸出となったため、稼働率は半分以下
に落ちた。2次増設分がほとんど遊休設備となったわけである。
なお米国ではその後、アボットラボラトリー社の粘り強い反論によりチクロの
発ガン性の疑いは消えたが、わが国の風土ではいったん烙印を押されたものが復
活することは困難であった。
電気化学向け塩化水素の供給停止
これらベンゼン系の設備が遊休化する一方、もう一つ、渋川工場にとって打撃
となったのは、昭和45
年(1970)4月30
日をもって電気化学向け塩化水素の販売が途
絶したことである。同社の塩化ビニルの原料が、EDC法に切り替えられたためで
ある。
昭和26年から始まった電気化学向け塩化水素の供給は、第4章で詳述したよう
に、戦後の当社が電解ソーダを軸に有機合成化学分野に活路を開いていく、その
礎石をなした特筆すべき事業である。当初の目論見であった塩化ビニルの共同研
究・製造という理想こそ実現できなかったが、同社向け塩化水素の供給量が増え
ることによって電解の増設が可能になり、電解を軸とする
三本柱
構想を進め
ることができたのである。たしかにその過程では、同社渋川工場(群馬化学)への出
向社員を巡るトラブルや、役員派遣の要望など問題もなかったわけでないが、三
菱化成の傘下に入るまで、電気化学は最大の株主として当社経営を支える支柱の
一つであったことは争えない。
電気化学はカーバイドのトップメーカーであり、そうした事情から塩化ビニル
1
22
第6章
渋川工場の再構築と多角化への模索 ■
の原料についてもカーバイド法アセチレンにこだわるところがあった。
しかし、当社の水島進出の意図が主力塩化物のエチレン法への原料転換に主眼
があったように、昭和4
0年代ともなると塩ビモノマーの製造コストは、いかに自
家発電を充実させ電炉の合理化を進めたとしてもエチレン法に太刀打ちできなく
なっていた。そういう意味では、電気化学の塩化ビニル原料もEDCに転換される
のは時間の問題であり、事実、42年5月に同社のEDC法塩化ビニル設備は運転を
開始し、これにともなって同社向け塩化水素は減少の一途をたどることになった
のである。
ともあれかくもあれ、4
0年代前半に相次いでメインの事業が休止もしくは半減
したことは、予測を超える痛手であった。昭和20年代後半以降、電気化学向け塩
化水素の販売に始まって、トリクロールエチレンをはじめ大型塩化物の製品化に
よって渋川工場の電解設備は増強の一途をたどり、か性ソーダの生産量は2
5年の
4,
00
0トン弱が39
年には約6万トンまでに膨張していた。
全国工場規模ランキング
でも渋川工場は1
5位前後から4位にまで躍進していたのである。
それだけに、渋川工場の受けた影響は大きかった。それでも昭和4
4年度までは
トリクロールエチレンの旺盛な需要に助けられるとともに、パークロールエチレ
ンおよび四塩化炭素の増産(逐次増設)に隠れて、表面上は顕在化しなかったが、渋
川工場の塩素生産の30%を消化していた電気化学向け塩化水素の途絶で大幅な減
産に向かった。当社の業績が46年度から急速に悪化したのは、水島進出の負担が
重くのしかかっただけでなく、渋川工場の地盤沈下も大きく響いていたのである。
希望退職を募る
この年、渋川工場体質改善委員会が発足し、さまざまに合理化策を探っていっ
たが、4
7年度の定期昇給とベースアップは10
月まで延期され、役員報酬は1
0%カ
ットされた。
しかし、渋川工場ではすでに大幅な余剰人員が発生しており、その整理は避け
られなくなった。組合と協議したうえで、46
年(1971)12月、第1次の希望退職者を
募ることになり、42
人が応募した。さらに翌47
年7月に第2次の希望退職を募集
する。前述したように46
年、トリクロールエチレンの製造は水島工場に集約され、
これにともなって渋川工場の水銀電解も一部が停止し、もう一段の合理化が必要
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