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信頼の原則と過失犯の理論

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信頼の原則と過失犯の理論
信頼の原則と過失犯の理論
え が き
信頼の原則とナチス法思想
過失の違法性をめぐるドイツ刑法理論の発展ーエンギッシュまで一
わが国における戦後過失理論の発展
信頼の原則をめぐるわが国の理論と判例について
す び ・
ま え が き
井 上 祐司
最高裁判所は最近各小法廷とも相次いで信頼の原則に関する判決を行っ奄のである︵最判︵三小刑集二〇・︶調F一︸毛髄
暴落雨蓋茄”新患電蓄”♂側℃鷲﹃︶。西原春夫養の詳細な内外の判例の鐘と、その理論化の試
みは、過失犯理論、とくに過失の違法性の理論にも大きな刺戟を与えていた折、これら最高裁の諸判例はさらに大き
論
そこで、本稿は、e信頼の原則が誕生した当時のドイツの事情を若干の論文を通じて顧みる。そこで億、この原則
39 (1 。29) 29
む四三ニーま
な問題をわれわれになげかけることになった9伝統的過失論の擁護という立場から検討したい。
説
39 (;・1 ・ 30) 30
をふくむナチネ鴨七ツ千ラーの交通政策に基く新立法と酒その寒国裁判所くの定着化をめぎすギュルデ検事11、、、ユラ
︸博士の努力之沸・裁判所のそれへの遅々乏した対亦匙がか明ちかに看取されみことになろう。、この原則の、従来の過
一 一九三五年一月一〇日ナチスドイツ司法協会ドレスデン地区会員の研究集会でドレスデン検事ギュルデ博士
j﹃ら禽り四一畠O︶ば﹃あゑチズ的な道路交通法へ鼠についで﹄と題して嚢をした︵舞hの磐露営鎗窮輩”
(】
關 ・∵ ゴ ﹄
遅ればせながら本稿を御還暦を迎えられた伊藤不二男教授に捧げる。益々の御壮健を祈念しつつ。
原則じたいとも異質の、ある新しい刑事過失概念が生れつつあり、そのことの重大性が警告される。
れる。その疑えで、わが信藤の原則に関する最高裁の判例が検討される。そこには、実質的には、新過失論や信頼の
原則との結びつき具合が昏エソギッジュ、の基礎理論、注意概念の事実的側面と規範的側面、を手本どして明らかにさ
最後に、㈲信頼の原則をめぐる諸家の理論化が検討される。許された危険、行為無価値としての注意義務と信頼の
木英雄教授の理論との関連と湘違噛平野竜一教授の理論窒の関連を明らかにする。
そのうえにたって、⇔戦後わが過失論の発展を、違法性に焦点をあわせてフォローする。井上正治博士の理論と藤
のためにも、その要石をなすといってよいからである。
り、’さらに、エンギッシュという鋭利な刑法理論家の過失犯の構造を的確に把握することが、新過失論の理解と批判
にξて、戦後の新過失論︵騒雑慮によ喬頼の原則の継承の意味難きらかに茎芝がで慮から言
ついで、⇔この時期に至るまでの、とくに過失の違法性をめぐる理論の発展を,フォローする。なぜなら、そのこと
失理論との断絶、その哲学之七ての共同体思想は明白である。,、!、﹁ .・.㌃
論説
?.鰻酌.N。旨詩津恥鱈騨①。。︶
。その冒頭はこうのべている。
﹁一八九六年イギリスではすべての自動車には一人の男が赤い旗をもって先導者として自動車の前を走らねばならなかった。唄
・九〇四年あるプロシャの貴族院議員は考えた。すべてのプロシャ人は法の前に平等である。それなら、自動車を運転する者は馬
車よりも早く操縦してはならないと。しかし、その同じ年にグラーフーーフォンーーチェールウィンクラーは、プロシャ貴族院で、
吾人は近い将来において自動車をおさえる制定法ではなく、自動車を促進するそれを制定することになろうと予言した。﹂
この講演は、一九三四年帝国道路交通法の制定後、実施八ヶ月の実践をふまえたうえで、この新法の精神をとき、
末だに古い思想にとらわれている若干の判例を批判するものであったのである。
﹁もし、新しいドイツ道交法が一九三四年一〇月一日に、帝国道路交通法の発布と共にでき、直ちに古い法の中から不死鳥のよ
うに完全な栄光のなかに舞いあがることができると人々が信ずるとすれば、それは勿論重大な誤解である。精神的革命は政治的
革命よりもより緩慢に自らを成し遂げるものである。
個人主義的な、自由主義的な思想によって担われたある法体系の中に吾々の時代の共同体に適合した観念をおしいれること
は、不可能である。吾々は他の法分野においてと同様、ドイツ道路交通法においても又、全く新しいものを構築しなければなら
ない。そして、すべてのわれれれの今日の法効果がナチスの世界観によって貫かれているように、又未来のドイツ道交法も又、
ナチス的なものでなければならないし、それは交通共同体と交通規律という根本思想︵α80建5畠σqo臼鼻。⇒畠段く①蒔①耳ωoq㊦・
ヨ。冒ωo冨津§伽血①﹃<霞犀。腎ωN賃。茸︶によって担われねばならない。﹂
このような視点からギュルデ検事は将来のドイツ道交法の基本性格をとくに明らかに示す五つの重要な問題をこの
帝国道交法の中からとりあげる の で あ る 。
第一は、道路交通体系のなかにおける自動車交通の明らかなる優位である︵年番蟹塑語蛸緻講遷繍離
39 ( 1 ● 31) 31
曙㊤。
編羅鶏蟷藩難建艦甘薯椛低毒題。この優位はいわゆる特別箋通行権︵本法二七条一項︶にくみつくさ
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
㌣ざなかで第岨次的地位が且動車に当然に帰属する﹂。
彼はある女自転車のゲが嘗動車の進路葱妨げた専棄をがぎ.・古、い法律でば遊動車運転者への注意義務を誇張ずるご
とによつぞ有責どしでいだ二どが.、,・この﹁自動車交通の優位﹂め発想からは否定されるべきことを説く。
第壱暴奄㊧雷看客支配ぞぎ重要曾侭嘗.畢、竃爆,奮盤歩属蓄壱
に、特定の技術手段を法定するのも ︸りの方法であるが、・時としては、■む℃ろ馬当該技術φ到達される結果のみを示
して、その結果を齎らす最良の手段を当事者に委すどい倒方法むあるp発明家や考案者に目標をボす。ご㌦鱈結果思想
の一ぶ歯纂肇康二蓼宝濡せつ条蚕一場悪霊つ辺盤項愚妻薫れズい尊ン:一
﹁五・条一一馬弓自動車は楽に運転で巷なければならないし馬その通常の方法による利用が人を傷.つけため弓・不可避的なもめ以上の
・∴燃・妨膚漁厄溌をか耐喝て乏ゆ煎炉は ろ北落零淀ら池、∴装備懲即湘ぜ遷り庵か㌍∴、D
濃墨総藻罐欝騎禽悪説騰㌶賑%なか藷深珂避濃渥漫を喫邊
三〇条昌﹁項闘号車両への積荷はそねが何人をも傷つげ、妨害となり、厄介となることのないような具合に分積ぜねばならな
、いq﹂、一 ・’ ,触. ’,﹁﹃・・ワ’覧 .−・月∵,引し,蛋G..w、−..一嗣 .・︸ ・・. 、 . ﹃
、こ案遷関連奮る謝毒あ窒完一要δ易鷺夜警婆黍卜書憲皐で芦安
ぎる蓬となしにまがづ.た。・彼じじ減ぞ江を賄要で底“と考えてのことであった。 しかし、ある警官がそれを目撃し
潔ヂ滞蓼違憲樋りのh廠届潅肴遅いた窪の脇道に左折す乏当り、規定された通りの巾のカーブを
論”説
39(二い鋤・32
た。 正に近くから監視していていそいで車の番号を書き留めた。 朝になって運転者は、ミッテルシュタットにきてい
た。コーーヒーで元気をつけようと店を探した。彼は無思慮にも公衆バスの停留所に彼の車をとめていた。彼は再び僥
倖をうげた。警官が駐車している彼の車を発見しその番号を控えたが、そのことについて運転者を警告する手段をど
らなかっ且つ二、三週間後、彼は二つの刑事処分を通告された。一つは、クラインシュ窟ットでの規則に違反した左
折、,二つばミッテルシュタ︾トでσ公衆交通機関の停留所に規則に反して駐車したこど。 彼は二つの処分に対して
裁判所で争うことにtた。 警察から検察庁を経て区裁判所判事に提出されたみ事件書類を耳裁判所は刑訴り五三条
︵購難廃者,。一,。.。﹂にもとづいて検察官に差戻態態官はその潜旨く主張して裁判董瀕したため、裁
判官は運転者を道交法二六条三項二号違反につきその最も低い刑で有罪とし、た。同じぐ、B書類を受理した管轄区裁
判所に、F手続中止に言及するζとなく、・本件駐車によって誰かが蕩っ遂、妨害され、厄介を蒙ったという証拠がない
として無罪の判決をした。 . ,:
この事案について警察や検察官のとった態度をギュルデ博士は強く非難する。それは新道交法の精神に反する。道
交法は重点主義︵03ωω昌σq一帯。一什︶をと?ており、此二細た交通違反に対して国家の刑事裁判機関が発動されることを
期待してはいない。 二つの息合とも警察官はその違反を現場で指摘七、 取引遣合的に振舞うよ5誘導すべきであっ
39 (1 ●33) 33
た。 運転者にか‘くれて番号をひかえ、 無防備な運転者に不意打の告訴を行うことは新法の精神とするところではな
い。検察官も同様、些事に必要以上の努力を払う傾向から自由ではない。しかし、ギゴルデ検事は占結局においてA
亡命は厄介が発生した限りで始めて可罰的となる。⋮二五条はそれじたいとして独自の刑法規範ではない。・ポ余りにも不特定で
﹁二五条は結果思想によって支配されている。⋮二五条の意味において実現される交通違反は、傷害の結果、又は回避可能な妨
毒︵左折不適切︶の有果B事件︵畿凝罪は正当であ・たという。
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
三
論
みるから。独自の刑法規範というためには、何をなすべきであゆ“何をなすべからざるかが明瞭にいわれていることが必要であ
表とはみとめられず、たんに小さな人間的弱さや過誤に原則として帰せちれみような、それら些事については、太つ腹馬重点主
って反応するという点から帝国道交法の結果原理はこれに矛盾するという意見は誤っている。㌧その違反が共同体違反的心情の懲
来るべきドイツ刑法は従来よりもより強力に、既遂や結果の発生をまって始めてではなく・・既に未遂や企図に対して刑罰をも
殆犯である。A事件の運転者は不適釘なカーブを切ったことのゆえに可罰となる。 ,、
い。この結果原理の例外をなしているのが道交法二六条、二七条、二八条、二九条、三〇条二項三号である。これらは抽象的危
るだけ制約されねばならない。二五条を独自の刑法規範と解するザフスの見解︵浮9ω”毫噛おω夢ω●NO8︶ には賛成できな
、帝国道交法はこのような些事規制5,。鴎三言冨矯。oqδヨ9ユ驚彗oqを拒否するβその代りに重点主義を要求する。一つには、,将来
交通関与者は幼児のように取扱われてはならないということ、・.二つには、帝国道交法の実行の手段としての刑事罰の適用はでき
後見のよう忙、すべてを一つ.一つ指図すると共に、すべての誤った,一歩.一歩に対して刑罰をもって威嚇する時代の見解である。
いうそれじたいの命令は自動車運転者のすべての不尊重、無思慮に妥当するように発布する必要がある﹂。恰毛幼児にたいする
︵O卜O噛∪8且g︿・も。刈●岡9﹃二興り◎HOω富N\No︶に見ちれる。 ﹁車の教導と操作にあたって然るべき注意を払うようにと
.昔の法的見解の支配の下では些事取締の原則が支配した。その原則は、悪評高かった旧自動車交通法一七条一項に関する判決
、み可能である。 ・ . −・∵ ,.., ・・ − .﹁ ㌦ 卿 ㌦:旨,、弓
道交豊北とって確固として輪廓づけら湿た構成要件を要求する。個々の交通関与者にも、それを上層する警察職員も、重要な構
.成要件について知らされていなけれぼならない。そして、それは通常の交通過程にとっての明確居命令・禁止の創造によつでの
いない。裁判官の裁量のこの種の拡大は想像もできない法不安定を結果する。⋮近代道路交通法を支配する交通規律の思想は、
的指導者国家の本質とも一致しないし、又ドイツの法見解であるところの裁判官の法規への拘束と服従という要請にも照応して
きるのであって、.ド柔ツの法経験にとっては、ロシヤ刑法六条のような刑事裁判官に多少とも特定の一般的権能が与えられ、民
一・族共同体の利益に反するすべての男爵に刑を科すこどができるよケな刑法典はふざわじくない。どのような裁遅場の地位は権威
ドイツの刑法立法正偽刑法典を基本飼には特定の構成要件の確立とその実現の可罰化という方法によってのみ創造することがで
る。カール・シェファ﹁が指摘したように,︵閑跨一曽鼠hoき一O即言Φ﹃L︶9のぎヨヨ。巳。α。三。。9。ω蹄9自99箆↓・ω。旨。。︶、
39 (■’■34) 34
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
義でいくべきである。クライスラーがのべたように、
﹃雀をうつのに大砲はいらない﹄からである、︵午。一業霞言O華言05
U9ω犀oBヨgαo自窪富90ω仲壇9。砕8耳℃﹀↓.ω﹄ω︶。﹂
第三に、将来の道交法の中心思想は共同体思想である。今日の道路交通は、高速度交通と長距離輸送である。のみ
ならず、何よりも大量交通である。しかし、ある大量から一つの共同体、一つの有機体が生れねばならないとするな
らば、すべての各人が大きな共同体の成長を形成するという意識に満たされねばならないし、全共同体は確固とした
秩序と規則によって、全体、一つの有機体に統合されねほならない。明白な共伺体法乏しての新しい道交法は、規律
正しく秩序づけられた共同体の法でのみありうる。.. , ・一 ,噛
﹁しかし、この基本思想と次の命題は一致しない。即ち、各人は他の交通関与者の正しくない態度を計算に入れねばならないと
いう命題。そしてこの命題は、帝国裁判所、その他の上級裁判所が常つね繰返し発布し、不動のものとみえる基礎とされてきた
し、従って、 人々は旧道交法の﹃公理﹄ として特徴づけうるものであった。 この無思慮の公理ご昌ぴ。ωo嘗。鳥。一州9。×一〇ヨは、
過誤や錯誤をおかすのは人の常ということ、従って又、同胞の過誤や弱さを考慮に入れる一般的義務を命じている同胞への配慮
に基礎づけられている。
トしかし、これは虚偽である。人間共同体が秩序づけられた共同体として存立しう渇のは、共連体違反的な欲求や衝動、過誤や
弱点が抑制され、抑圧される時にのみであり、共同体秩序の課題はこれらものに対抗してゆくことにある。人間共同体に、よっ
てもって共同生活を可能にするどころの確固とした秩序を与えることがすべての法秩序の本旨である。
そして、法的に秩序づけられた人間の共同生活の理念は、もつばち次の点にある。つまり︾適法に行為する法同胞はまた、他
の法同胞にそのような行動を期待してよい︵屋oρ男す①津h●H㊤ωN.ω●ωO㊤︶。もし交通違反者に自分の交通違反が期待されている
ということを知らしめることは、彼の交通違反的態度に特権を与えることになる。﹂
ギュルデ検事は共同体思想のコロラリーとして、道交法における信頼の原則をとき、従来の法的処理が無思慮の公
理に基いていたとする。 この公理は、 ﹁道路は不具者にも精神的にあまり賢明でない人にも開かれている﹂とか、
39 ( 1 ● 35) 3与
︾
論説・
u道路では他のすべ、てめ交通関.与者ど同等め権利をこれらめ人達はもう辱とがいう主張と結びついでいるが﹂正当で
はないという。:この新道交法は.ただ.能力のある交通関与者のみhぎξ冨二笹甘﹃<σ幅冨言曾①一言①甘§實.を前提ともてお
り、彼ちにのみ無制限の交通参加を許もているからである、・と殉:、・一年・:∴
端数⑳交通遼反が口常生浩経験嬉照応ぴている限度では、、それを考慮に.入れる屯どを義務つげδどい5,やや制限ざ
瓢壌悪り唖譲鞍考量層致毒細諌融瞭糠急儒趣訟訟奮炉整い冬憲翼
は考癒毒恋い壇場潔。匿6犀・。帽。・。悼・・再φみが庸愚免.否湊ッ豪貴巻葉述べ窓臓ハ∵署犠
のよい♂理性的に行動する国民の犠牲にお恥て法違反者押馬鹿と酔っ払跡を保護する法なぞ一〒体あみの廼あろうか﹂層
︵じd僧属ヨげ帥6・ゴ臥U旨N℃ぴω山鳩ω・O露︵協︶新道交法施行後八ヶ月の下級裁判所の判決は旧隠然として例の公理にもとづいて
いる絵竃祭翌糞婆愚慮七4鰹塘受忍繁響さ階四竃弧∴ω磁、尋蒼渥警
ω.α農%・﹁∵.∵詩﹂㌦ジL’.ン声∴ じ“隔高・ハ噛∵ンー・・ξ.∵・㌦ピ管下∬・一3.:・ ひ〆9弓∴・:㌧.’・−㌧∴﹂
rjマ^‘﹂ピ 梯∵∴ h。 .’O﹃.ずジ一層∴﹂﹁り ﹁,、〆、∴9忌,、♂,.,,﹂ 口.励.ご虚∵・〆軸弓,7凱し... ﹃、一、.縁票今. 9・
﹁将来のドイツ道交法にお歴ては、交通関与者は、相手方が交通共腎体に対する自己の義務を知っていること、そして自分の態
∴−。度を初めかむそれに応じで律ずるといかζどを一.般に信頼してよい。交通関与者が相手の交通違反を認識しなければならない場
’,、∬∵∵:−㍉∼・−舅・三そ残
削,一合に始慌てハ彼にそれを月標止すρべ︽義務づけられ届。㌧ての限界迄至渇ま膝な,,ぬ止瓦す囚ての者の咬通適合納態度﹁への稽瀬なみ.
璽に規讐題魂旛満楚劣結切二途書展成する∵ン .﹂第四ほ透新道交法が能力ある交通関与窮めみを完全な権限を認める乏いう観点は、道交法における過失理論に基本
的変化を与えるという点である9従来の帝国裁判所め過失理論はハ∴行為者の個人的諸事情も①活量一一99くσ昔似一顧.
巳器峨彼の個墨譜注意能力ド甘£且曾。=や正意加言一団N霞9﹃職僧犀によって支配されている。将来の交通刑法には、
このよヶな考慮にとってい・かなる場所も.ない9.一﹁これまでは生活関係の規範的規律の基礎は個人め権利であうたが、
39 (・’1 Q36) 36
凱.
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
今や課題﹀鼠題ぴ。、機関性9題蕊9①津という概念が基本的な法概念とならねばならない。そしてこれらの概念の
より深い基底には義務という観念がある﹂︵聞3坤巴。さ≦o算①ぎUo暮ωoゲ。昌ω嘗9葺①6澤”目㊤ωら℃ω●ω︶。従って、注意
義務の基準となるのは、もはや個人個人のその義務を遂行する能力ではなく、交通共同体の、交通関与者による義務
の完遂への要請で亘る。交通関与者への要請は今日の道路交通の本質に従って大となっている。各人が交通共同体の
利益のために必要とされる最小限の注意を払わなければならない。個人個人がそこまで実際に可能かどうかは問わな
いことになり、厳格となるが、共同体にとってば不可避的であり、それは、他人の交通違反を常に計算にいれる義務
からの解放の裏面である。
↓過失の問題の吟味にだいては、もはや個人が何を予見することができたかということは問われる必要はない。何を予見するこ
とが彼の義務であったかが問われればよい¢そのための基準とな惹のは交通の逝常潜く臼バ。訂。・畝玄。穿。岸である。このような交
通の通常性において一般的に認識され、かつ認識可能であるところの危険は、すべての人によって認識されねばなら異い、則それ
を認識しない者は彼に要求されている交通注意くΦ美。ぽ班。凝h9けを侵すものである。個別的予見可能性ぎα貯無二。一覧昌く。ワ
曽易ωΦ訂げ蹄犀。詳という従来の支配的理論とは関係を絶たねばならないし、それに代ってぬ般的予見可能性αq。8﹃。=象く。冨島−
ωo寓冨葵。津という概念がつかまれねばならない。この概念はまた共同体思想の真の表現である。﹂
・第五は、新道交法が共同体に最もよく照応したやり方で答毒性の新しい分配Zo二ぐ①簿。一言昌σq色噴く。δ昌寒9三二・
閃。一隅9に途を開いている点である。冊道交法では、交通における態度に関し、 また、交通関与者や交通手段の交通
適格く。蒔。ぼの富口σq一一〇莫。詫に関し、個人主義的観点から、・一面的に交通関与者、特に自動車運転者に答責性が集中
していた。, ﹁,
新道交法では、交通における態度についての答責性について、自動車の所有者にも補助的に妥当する。精神的・肉
体.的に欠陥のある交通関与者による交通共同体の危殆化に対し、適切な方法で事前の注意がなされなければならない
39 (1 ・37) 37
説
訟
責冊
が、そのことについては監護責任者が有責たらしめられる。’運転者の交通適格にとっては行政庁の専門家が大部分有
責的である。.不適格とわかった運転者を適時交通から陶蝕することには、警察官や行政職員に責任がある。交通手段
の交通適格にとっては、所有者や運転者は勿論、製造者もまた答責的である。また新道交法前文最後の命題は、司法
職員にも彼らが新法の解釈ボ適用にあたり新精神によって導かれるよう法的義務を課している9道路建設馬道路維持
の義務についでほ前文は言及していないが、 これらにも交通共同体に対する重大な責務があるつ有効なネットの組
成ハ適切な状態の維持2道路状況から生ずる危険の適時明白なる指示等の義務がある。
﹁共同体思想は、,道路交通に答責的なすべての人、交通関与者、所有者、管理者馬製造量、公務員、専門家、道路責任者を交通
・共同体どいう一つの危険共同体Q①富訂。昌伽qoヨ。ぎωo冨犠に連接すを。.hこの危険共同体分これら構成員は道路交通の危険を共通
ににない、その義務を遂行することによってその危険を克服しなければならない。 , 、 一
将来にわたって倦むことなく全力をづくして次の努力をする必要がある。つ衷り・道交法の領域においても、・第三帝国の旗を
高くかかげること、それは新道交法に体化した総統の意思でもあるρドイツ道交法の新生に協力した吾々のすべては^全く新し
硫ものへの意思、,、全く価値転換したものの心をもたねばならないし、直ぐの古い料決ど決然として訣別し請ければならない。・
この新法は外来法思想からの離反であり、ドイツ共同体法への回帰を意味する。﹂
二一.ドぞツ法アカデ・モー自動車交通法委員会委員で交通法の第▲人者であρたブリッツ・ミ属ラー博士は立法顧問
どしでの省参事官として ﹃交通法︵帝国道路交通法︶の新しい途﹄と題して、 新法の意図するところを論じている
︵艶。訴幣諮舜露路、腰髄鞠鑓げ瓢“鋸鵬鴎ゴ購難盟踊昭翫㌔談義雛雛叢説語調酩隔縄難.囎.詳三
三霞雌鞠灘。。㈲朋︶ρ.・ ・.・・.・,・ ﹄、,.・−
ミ訟.ラr博士は︾新法の指導理念を次のよ5,に列記するρ・ ・
﹁ り全ドイツを一体として共通の道路交通を掌握する法の創造ゆ
39 (・1 ●38) 318
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
口 自動車交通に必要な発展可能性を与える法の創造、これは特に次のことを意味する。
㈲ 断えまのない改正にさらされることのないような法の創造、ω特に技術において、
働 些細な監督基準を排除した法の創造。
回自動車交通に不利な例外的地位を除去した法の創造。﹂
@また交通機関においても。
新法以前の道路交通関係の法規制としては、既に全帝国法として自動車交通法が制定されていたが、その他の道路
交通が州法によって規定されていることが交通妨害的なものとなっていた。つまり、州法の限界に拘束されない自動
車交通法が統一法として附与されたが、それは外観のみであって個々の州の交通を婦般的に規定した特別法が自動車
交通にとっても実質的には妥当したので、自動車交通にとってもすべてのドイツの州にまちまちの規定が存在するこ
とになった。一九三三年春、総統と宰相とが交通の自動車化を命じたことによって、自動車交通のはげしい増大が予
期されたし、自動車による競獣の広汎な駆逐が考えられていた。しかしこのような法律状態は交通の自動車化の急速
な実現をさまたげていた。この新法によって州法はこの新規定じしんがそう規定している限りにおいてのみ補充的に
妥当することになり、帝国交通省の管轄権のもとに全道路交通が掌握されることになった。
このようにして生れた統一法の内容が問題である。 その方向は、 一九三三年春の総統の指摘、 ﹁官僚主義的不条
理﹂と﹁些細な監督読製準﹂︵:げ晋。す緯圃ω魯魯dつく。旨⊆昌津..矯、、置。ぎ=90昌qぴ臼≦8含昌αqωと巳閑8貫O一百葭葺魯日9二︶の除去であ.た。旧来の規定は、自動
車製造技術の点においても、交通規制の点においてもたえず発展する技術と変化する交通諸関係によって絶えず改廃
してゆかなければならないような規制方法をとっており、このことが規定の激しい不安定性をきたし、ひいては自動
車交通の発展を阻害した。技術の進歩を法律による拘束が妨げないようにしておく必要がある。そのためには結果の
みを規定してそれに至る手段はもはや規定しないという方法をとり、最善の技術的手段を発見することを当時者の行
39 (ユ ・39) 39
、
39 (1 ●40>40
動力にまかせておくこどである。同じ思考方法ば道路交通の規制の方法にも妥当する∴壷.嬬臨く∴.3.一
7二塁は立法者の努力ば、およそ考えられうる交通情況のすべてにとってでぎるだけ規財をたてようど・いケこどにあ・?たpこ分
の交通過程の意朱ど蓋果どに、個々の事築の状況におり極めてまち襟ちになるので、どこでも常に妥当する規則の範
法は単純化や包括性への努力であると共に、事態そのものの要請に庵合致する。巳交遇関係は甚充多様熔あっt、伺一
し、第三帝国わ立怯者はそれを信頼んで従来どは異る途を選んだ。将来を先取りしたのである。この新しい規定の方
に適し奄ρ宅て麗る樋り落人裏書な財農聡窓.、とを意味し、当時は一つの冒険であ.た。しか
新道交法は多くの硬い個別規定に代、匁て若干の一般条項をおく.歯とを試み距。これ拡健盒な人意理牲︽まって情況
「.
ユご.ボ、∵,.!一・軍・望∵∵:・〆.‘一 −:,ゴ∵。ヨ∴ジ・∴静 ﹁∴一 ∴∴﹂∵∵パゴ巳
い.∵とがないようにβ・、・・そのような・一般条項の下で雪害安定性が侵害狂れるとい.の港まり受忍で私に迫うてて煎瀞よめ下毛て意心
こどがでぎないからq・犯罪者に前以て・6プ処凱され^、 叫砺つざれないかを正確に計算に入れるこどがでぎる可能性を与える乙
三患藩主窺齢却せレ醇・.蔑影踏2どの方穀浮ポ虎レ馬齢℃鍔に砦ポ慕諮罪蔦写りぬ讐
三四年末ドイツ法ブガデ、ミーに淋す6演説≒民族共同体の基底としでの法安定性﹄.を引用する。9一レ.9∵.∴,‘
富醐鯵聡舘仲遡酪ψ軋ξのような見解滅共通善O。旨傷認証農の間に生成ざれていると急ぎ、,可法長官頻翫跳μグ⋮り燥九
hポデヒ惇吉こうのべて今日磐立法技術と熊応、.珊嚢判官の毒畠な霧を主張する︵雛養畜㌦三
みざえすればだぐさんの個別規定はなぐてすむだろヶρ﹂ ・⋮ ,⋮.,.り﹁。 ・、.・ ‘ ロムごら∴,
﹂て共固体思想がすべてをとらえねぜなちないφ各人が秩序に合致して行為せねばならないし、﹂共車体思想牝とつて有害な園のと
して現れ6すべてのごとを思いどどまらねばならな二目.どいケこどである。⋮吾人がごの思想を一般的な基本規定においてつか
・.ここでは、古風さ縛なり虎個人主義的見解の完全な放棄のみが役立つ。 月個人の必凄よりも公共の必要﹄㌦という源側にのろと、つ
㌔,手続に既に指摘したよケζ、ケぢ続く変化を伴ったq,・どζうが、生活の多様性を現実にくみつくすこどは決して可能ではない。し
論説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
囲は極めて僅かであるから。
警察の交通監督の指針としては特定された規則、明確な構成要件を必要とするという思想から新しい規定方法を難
ずるものがある。このような発想は警察の必要に規定を合わぜよということであって、交通の便宜、自由のための必
要な立法を思いとどまっては経済生活の進歩は得られない。 ﹃些細な、官僚主義的な監督基準﹄を復活させることに
なろう。警察の任務は何よりも可罰的と考えられる過程を通告することにある。それから先の処分の決定は所轄庁が
行う。交通の支障にな惹程停留所楯を置いたり、 狭い村道にも巾広い歩道をつくれといケのは不合理である。 些細
な、全くのいやがらせと感じられる交通監督は交通の自動車化の促進のためやめられねばなら・ない。・
、最後に、新法は自動車が交通の敵であるとする古い心情とはっきりと訣別した。
﹁それは、いつも繰返し述べられている見解であるが、自動車運転者はすべての生活経験の外がわにあるのでない限り、他の交
通関与者のすべての非合理的な態度を計算に入れねばならないというのである。従って運転者は相手被害者の態度が非合理的で
・,あったと指摘しても責任を免かれることはできない。と乙うが、他方、、相手交通関与者︵被害者︶は、運転者の秩序にかなった
態度をあてにする正当な権利があることになみ。 被害者は運転者の規則に適合しない態度を計算に入れる必要はないことにな
ヘ ヘコ ヘ へ
・る。こういう考え方の判決をひきつづき行うことは新法の志向する精神とは一致しない。今や、帝掴道交法によれば、交通共同体
のすべての成員が、いかなる相手も傷つけられたり、不可避以上の妨害をうけたり、厄介をかけられたりすることがないという
ことを前以て考えながら態度をきめる義務をもつ。 判決はこれまでの個人の不充分な態度を優先させる思想を捨てねばならな
い。このような判決の続行は法規に反する。﹂
このよう飛亙、一フ轟士は、傑の判例の肇が自動車濃者を他の頂冠与覆り塞畜に悪い彦漿べ
ものであって、ぐ過度の緊張を彼に要求するもので不可能を強いるに等しいと非難する。
﹁すべての交通関与者を平等に扱うこと、個ゲのグルレ。フの個人の優遇をやめることバ法規によってではなく、判決によってそ
39 (ユ ●4ユ) 41
れは認められてぎだ︶、結果思想の実現、したがって些細な規制や些細な警察実践をやめること、この二つが新しい法律の礎石
42
A<oヨ’<簿q霊。昌α霞・<gぽぽωけ⑦ぎ9ヨ曾碧h壁ωく。芽⑦ぽのヨ麟ω忽αqρ<曾冨一件g.、・α。受章・母g..気8、智喜ω雪一構冑’2冠。、寓。§p遷。巳9訂。q﹄⑩ω①口庶=りω・食ω∼お切︶∫.瀟陽て蓬な婁で融
三 ギ.ニルデ検事は、 翌年、直接に信頼の原則について論文を発表し∼・・これに関する判例をとりあげている
合理的執行を要求しているっL’ 39
ての我慢、,すべでの交通関与者に対する責務意識の高揚、裁判官にまかされた裁量の合理的執行、警察に潟わされた監督義務の、O
誘雛雛紅熱露魏轄換を実現蒼難竪翻讐転車のUの礼儀正し嵩人の利益につい吻
論國説
.:! , ・ ﹃
り、僧人を法秩序の中心に担いたので、偶人は雲たその失策や弱点においても保護衿当とされ、それらのことが反共
.同体的でもか髪わな“とざれた。これはそれじたい反共同体的である自由主義の根本原理から当然にでてくる結論で
これに対して、自由主義にとっては各人ができるだけ大きな活動の自由と上首尾の発展を保障することに眼目があ
る・ド廼い,㌧﹁・.・・.・・﹂. ﹁,..、 ,∵︸.・﹃’、・,漕∼二 は、・法にかなつだ行為をする法主体が、他の法主体にもま允、同じような行為を期待してよいどいうことに基いてい
正中にこめている。あヒ,︵総鋤無界Vはかぞ藷レた。人の法的緩序づけられた共同生活というイで
法秩序に従って、・唐じしんど同様に、生き、一かつ行為するというこどについての民族共同体員各自の信頼をみずから
の成果あふれる革命的所業の一つである。共同体の共晶者相互のこの信頼は、一相手が同じやり方で民族の生活秩序と
関係は、共益体の最高の成果であり、その共同体の生命の泉は再び血ど土地の中に発見されてきたし、国家社会主義
でお互にみたされるその割合に応じて実現ざれる。一画属性のいぎいきした意識から生れるお互同志の信頼関係と誠実
﹁ドイツ共同体は再びょみ変った﹂︵鋸諸悪一、線︶。共同体は、そのなかですべでのその降臨腹蔵の年無
ので、・’以下その論旨を忠実にフォ,眉1しまう。 . 一 −− ’ ・、−−弓
(.
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
あった。すべての人の、すべての人に対する信頼の代りに、自由主義の法秩序においては、
支配した。それらについて吾々はしばしば、日常の生活経験という粉飾をほどこしている。
それゆえ、疑惑と不信が
﹁自由主義法理論の周知の結果命題は、旧学派の全道交法を支配した法規定1つまり、すべての交通関与者は根本的には他の交
通関与者の正しくない態度を計算にいれ、始めからそれを表象していなければならないというのである。この命題は古い法理論
のみならず、又とくに、最近にいたる迄の判決を支配した︵<αq70艶αρ因ω賃拐ω<舞O・、ω●一。。劇序文︶。個々的にのみ国家社
会主義的共同体理念によるその克服への態態が示され、その道交法への決定的突出に途を開いたのは、一九三四年五月二八日帝
国道交法の発布、一九三四年一か月一日施行であった。この新しい法規は、規律正しい交通土ハ同体という根本的思考によってつ
くられている。他の交通関与者が交通違反的に行動するかのように、 いつもそのように振舞うよう交通関与者に要求すること
は、この法規とは最早︸致しない。むしろ新しい法規は、人がすべての交通関与者に、他の交通関与者もまた交通適合的に行為
するだろうということを信頼する権利を附与するということに必然的にみちびく︵この点については、嵐庄一①きω嘗霧ω曾<o蒔・
o訂珍。窪ρδ︾自一・ω●α①HF鴛一閃浴律ω9ユ骨接円﹀障鼠●h・象ω9●園⑦o算噂一㊤ω㎝.ω●◎。ミ馴O已畠。矯Ω。.p●O・℃ω●一。。。。脳旨≦
一㊤ω90り●一&O︶。
すべての交通関与者が交通に適つた態度をとれという要請。そして、その反面として、このような交通にかなった態度が原則
をなすという点の信頼、それは、新道交法を支配している交通適格くσ鱒。ξ馨碧σq一一。穿Φ一蝕の思想とも照応する。従来とは反対
ヘ ヘ ヘ ヘ へ か ヘ ヘ へ ぷ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ロヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘド ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
に、完全な交通適格のない交通関与者は、交通から排除され、少ぐとも条件的にのみ許される。完全な権能を与えられた交通関
与者たりうるものは、ただ完全な交通適格をもつ者のみである。しかし、彼については、正に交通とその規制が彼にたてている
ところの要請に彼が従うことが期待されうる。病人、不具者、老人、幼児については話は別である。彼らについては吾々は、彼
らが直ちに常に交通にかなった態度をとることを期待することはできない。﹂ ︵傍点は井上︶。
ギュルデ検事はこのように、ナチスの共同体の思想と新道交法の交通共同体理念、それらと信頼の原則との原理的
な結合を説き、さらに、新道交法の交通適格の概念との相関性を主張する。
ついで同検事は、判例の傾向が個人主義法理論に基いたいわゆる﹃公理理論﹄..︾×δ巨魯掃.、の立場から、新道交
39 (・1 ●43) 43
論・:
説,㌦
、 ﹃
ヂ、「
は歪、霧蕪姦と寄す論蒸してゾ.,、£㍑︻い=ジ,、.ガジ.警紅、㌶悪罵∴パ、
働・O嵐Od①一一σd︸・<・・﹂跡亀鞍懸一一〇ω㎝ω⑳u尋9組継︵運転者が一般的に他人の禁止違反葡態度を胆勇にあ絃や計算にかれる必腰
つ蓬蓬鐘擦略壽西い法認考講汲凡領繹の濃墨薄て梶れ灘迄瀞れる必要
鰯砕ま監製。・葺露影.・軋§蚕おω巳曾罠唇∵知零省動車の優位と塗り根俸綴者餐の面通府詮
・,赤,たいして徐々に確かな地歩を示してぎ泥っその結果﹁運転者の他の交通闘誉者の交通違反を表象する義務も又次錦に緩和さ
い耗てぎている︶β − ..∴冒 ビ 層∴.h ・ : .旨 帰﹂.. ,..︻守、● づ・ρ 一⇔ 曽 お・づ・P
はっきヅ薪レ跡解∼鐘蟹磐ズ疑判館レズ∵﹂三,ゴ∵,∴,、、み、.悔・、猷...,萱.斌..一斗話,身..
、嚇σお獣恥乙鍬ご鮮●豊一軽く覧鋒ド飽、憲転嘗ぞ総薮暗闇σ中に車道に自動車が尾灯をとも
・、⋮ざないまぎで停らているζどを計算にいれ惹必要はない︶q :∴ で..昌ゴ,唱 賦,㌦∴‘ ■:∵L∴^
39(.=1。44) 44
法恕曳機にして次第に信穀σ原則を承認すを方今に進んで諭た、、というP‘∵一∵:こ萄.,隔ぺ㌘・’∼‘∵∴rb租4一凱じ
凪,偉頼⑳鳳則を拒否した粍倒として︵、,: −巽,∼!,け 一∵∴・∴.∴・ポ
ら ・ 一 二 ... 、 層 ︵ ,㌧・、 .▽・一 一 . 一﹄.・層噸F ㍉’ ご ㌦﹁
艨B5置甲羅口濁・び曾・=、。、.U>⊆二二。、.為︵優為書権毒歯道交法の下では募の優先権をあでに
@ 基本帥には既に薪しい見解の土台にたちながらも、この見解が市民権を獲得して交通関与者の承認をうけるために
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
(6)
(7)
(8)
OHOU冨巴。巨q﹃け・く.旨●U。N.H㊤謹ゆ障bωげ一碧\ω榔︵自動車運転者は相手自動車運転者に対して交通にかなった態度を期
待してよい︶。
OHOマ。ω血雪口﹃﹃︿・一。。転昼一おω∬一≦お闇ωおω恥。。︵優先通行権者には原則として自己の優先権を他の交通関与者に
期待するこ乏が許薫る。優先権の不語募認識可能となる場合に始めて交通閑与者はそ馨者害すれば足りる︶。尉旨
Oお匂同舟・9什・ぐ・ド誉=㊤ωαし≦一り呂ω0紐・。。旧Oおu﹃。ω鶏口q茎く・αし信昌一おω9毫、一。ωαω古ω劇令・
OドOU8ω山魯d﹃﹃︿●卜●○犀rおω切.器㊤。。\ω㎝︿﹀叫一・①いZ﹃・ω刈︵各交通関与者は基本的には相手が自動車の運転者で
ある場合には♪交通にかなった態度をどることを何よりも期待しでよい︶。
OHOUδ巴。”q﹃酔・︿・μ一.O犀け・一㊤ω9HOミωα︿﹀国一●2琴・ω①︵他の交通関与者の交通違反的態度を計算にいれる必
要があるのは、唯、特別の情況がそのことの機縁を与えている時である︶。
‘亭仲・<・・。ρ蜜︽・一㊤ω9u>二仲。ズおぶ・。。・.・ 一 ’
鈍重な者や不具者又は小面の場合においてのみ、,又は馬特別の事情がある場合には交通違反的態度を計算にいれる
必要があみが︵︵︶︼﹁︵甲 一︶﹃Oω︵一〇口 ¢﹃け. <・ 一朝●リ白Q︿。 一㊤ω窃. NN 一b◎O\ω0︶、しかし、子供の事件であっても、
⑳雛鶴.癖嚢綜遅滞環嚢近レてく喝自動庫に2ぐに肇、。浮段の結果蓮あ
帝国裁判所第四刑事部は明確に新しい見解にた?た。 噛, 、﹁. −., ,、 層, 、、
39 (1 ●45) 45
﹂HOΩ6B三什N・口敷け●︿●旨.影pH89U>償8幻一㊤呂吻一ω刈旧い○≦毛℃o言9。一ζ暑O︾葺。幻℃おω9NO㎝⋮︾O常一冨茜
ωさ。O一閃09﹃︿.メ言三δωα︾U︾二勇一㊤ω㎝り一。。①⋮匁Od﹃什・︿・器・O揮.一㊤ω9︿﹀国一.。。o︵別件ぎヨ●︿8寓巳一震︶
OHOU麟ωの。&o瓜¢二●︿●劇.留山●一〇ω9国内島津h●一㊤ωα.ω0ωいOいOU密器昌9蹴口昌●<.N一・Oζ・一⑩ωαり震冨津h・一りω0り
その他にも新しい見解をとった判例を列挙すると、
(9)
了
‘
39(い46)46
開Q.O増け・∫い。●Zo︿・、 o張り、<諺角一。・温、2ゴ09,㌔≦HOωo㌻亀。。︵交通関与者は基本的に他方交通関与者による交通義務
の輿行を信頼するてとがで上るつ相浮の交通違反鮒態度が気づかれたか、又は気づかれえた場合のみ、そのことが考慮に入
れられ⑳ば足薯。ま売、遣手方の交通遍羅識できたのに認識しな聖た場合において、窃交通欄薯の注意が、そ
の際他の交通経過や、他分交通義務の実行のために然るべぎ程度に奪われた場合であるなら、彼を非難しない︶。同旨、・
即Od﹃﹃︿﹂誹’Oζ.一〇ω9︸を昌りωo奉㎝o超・
、 . . , 〆
⑫ゆ・5薯.8急.でく.冨.縛痕、溜縮濁増人の態度次第でもつ芳の者の態度は別のものとなる︶。
ただ、帝国裁判所第二刑事部は、第四刑事部が判例⑪でとりあげたものと同等の基本的問題をとりあげたが、
い見解託言毒婁奪②はザ究かぎ蒸,ぞゴ、碍■㌶、、 ジし.丁∴、
@簾羅羅蕪舞難貿⑩駈叢るの減日謹婆要ゆ曝書蟻通の摩
と
毎
所与のすべ ての状況の理性的な金味によρて、 彼にその機縁が毒渇場合にもそうで毒ろ。通行入の規則達反の想ゆな
㎝ 国O口﹃仲・,4・.O・.︼︶審呪HO。。∬一を,日Oω①●ホω悼
.︵自動車運鞍者はすべての一↓搬的π考えう渇無思慮を考慮に入れ喝必要はな
い転
かし
、
、.
. 羅者が恵その宮蕪思慮裏屋夷と轟は霧を果裏きで事忌港門無量を計雇入讐こ
ゾ じ ・ .
新し
層 ・ 鱒 触 一 。 . ‘ 辱 ・ド 暑 ‘ ﹄ 5 ・ , 置 解 ・‘,ご u ∼ノ5ご, ∼,・・6 = ・ ‘’嗣﹂艦 ・ 喚﹂、辱 讐. づ置 ・ り ’− 一 . ・ b 一・ ’い
:﹁: ・ r ・■’ ・﹁む: −・ t∵て軋り. ㌧哨・・﹂・㌧ ド.’序 ρ: ﹁∼
てもよい場 合 に 、 は 、排
.除ざれ6。:、i .・..,−.3∴㍊払.航..ヨ.Ω,.、.﹁’、・.・ピ∴h.9ひデ ・.・.:,
入れる必要
は
な
い
。
一
従
う
て
︽
・
常
に
あ
る
入
の 責 任 は 彼 に 他 人 の 交 通 違 反 が , 適 時 に 認 識 、 可 能
で
な
い
か
、
,
・.又は、認識されなく
い﹂之い う 原 則 に ” も 本 質 的 な 制 約 を 齎 ち す こ と に な る 。 ある交通関与者は他の交通関与者の有責な交通違反を考慮に
場
ば
刑
法
上
の
根
.
本 み ぎ の立
命 題 の 旧.づであるところa鳥 コ人の者の責任は他σ者の責任の.問題に影響をもだな
{11)
第四刑事部はトいつ﹁交通違反が計算にいれられるべ’きかとい・ヶ問題について酒.はっ﹁きりとした回答を与えた。.つま
論・説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
り他人の交通違反の適時の認識可能性︵吋8算8三σq露国艮。弓9﹃犀①律α霧脅①日α旨く①昆9冨ヨ臼戯評。詳︶がそれであ・た。みぎの第二刑事部の考慮は
この回答を見失わしめる危険が あ る 。
法理論もこの新しい見解に圧倒的に好意的である。,ミュラー、ギュルデのほか、アヅクスハンセンーザイデル
宦D蘇噌犯き、トレンデルーーイソ‡〒ナ人畜壁晶罷難蟹 養蚕げ夢し、コ・ホ︵燗。野黙認雑Φ
鱒.︶。
ただ、ジー・ンス︵ω一〇旨ρΦ昌ω噛 勾一︵円90h什h●おω切ω●ωミ︶は、上述の⑦一九三五年五月八日ドレスデン上級地方裁判所判決に関連して
新見解を論難する。彼は優先権者の地位をそのように強めることは疑わしいし、 むしろ両方が、 優先権者も相手方
も、同じ程度の相互の考慮をすることが必要だという。それでは交通促進という優先権の制度そのものが価値を失う
ことになる。こう述べて、ギュルデ検事は次のように論文を総括する。
﹁帝国道交法の施行以来の法理論と判決の発展から、吾々は他人の交通違反の顧慮という問題について例えば次のような原則を
ひき出すことができよう。
e 交通関与者は、相手交通関与者が交通にかなって振舞うであろうことを一般的に信頼してよい。
口 交通関与者は、他人の交通違反が彼に認識可能となった時にはそれを顧慮しなければならない。
日小さな子供や明らかに交通適格のない者例えば老人、不具者、盲人︵三つの点で黄色の腕章をはめた︶らについては、そ
の交通違反が即座に考慮されるべきである。それが認識可能となる以前でも。
四 ある交通違反が認識可能となり、だが交通関与者がそれを認識しなかった時でも、.もし彼の注意がより近くにある義務の
履行のため、又は他の過程のため合理的に奪われてしまったため、彼が交通違反を認識できなかった時は、彼にはその不認
識について非難をすることはできない。、 一
次に、優先権について吾々はこれらの原則を次のように適用することができる。
39 (1 ・47) 47
(雛
39 ぐi b48) 48
・.・9・優先権者は飼.原則として彼の優先権.が尊重されるも,のと信頼してよい。・
口..彼は縄彼に不尊重が認識可能とな汐時には、信頼してはならない。
日.一小ざな子供や明らかな交野無適格者色例えば老入、.不具者識盲入については、〆彼はその優先権の尊重を即座匿期待するに
とはで、きない。・ 一﹁誤・ ・ ,∼.,・ ・ .ン・とし ・ ﹂⋮ハ・ ..一・,=⋮・ジ一, .・.、・、.,’∴ 5 ・“
四h彼が巨己の優先権の認識可能な不尊重を気づかなかつな場合には上述の四と同じことが妥当する。
㈲ 優先権者が跡る交差点又は合流点で特権のな一い交通関与者とめみぶちあた苔乙とがあるかどうか、 又は、多くφ交差点や
.﹂合流点におけ多ように轡彼も又、げ彼に対して特権をもつ交通関与者の接近をも又計算倉入れなければならないかどうかは、
区尉ざるべぎである⑨.、∴,..一’.L,一∴ ∴ ㌧﹂:∵∴−・∵ビ.・こ ﹁・⋮畠.㌧や二 ︸,昂ヅ
∵,,∴第二の場合には西交通関与者は、彼に対して優先権をもつ者が接近していることがありうることを考慮して、速度をおと
Gゾざなげればならないじ濃一般的に彼応対して優先権のない者が彼の優先権を尊重ずる嬉あろう渥びうζどを信頼して、﹂減じ
られない速度で更に運転をつづけることは許されない。﹂
’酒穏婆肇陛、誓蒋誘野南を導て癌蕩原型蕩熟詮つの騰題が誘跨諮4諌ト
鍵雰ら畿説毒たか甕口盗認奪逢協で零二・・、一端り﹂謳ジ“∼二・﹁−
!紀
n,
∫覧
論
説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
のこの秘密は、その原則の内容を規定している。自動車交通全体の能率化にそのねらいがあるという。この﹁全体﹂
︵民族共阿体、運命共同体︶によって一体誰の利益が保証され、誰の利益が無視されるのかは白明のことに属する。
法主体のもつ私的性格、経験や能力の個人差など、重要な社会的規定性が切り捨てられながら、他方では、交通適格
のある者とない者、幼児、老人、不具者、盲人などという裸の生物学的具体性がとりいれられる。
ヘ へ
次に、信頼の原則の過失理論との係わりあいの問題である。ギュルデ検事は、この問題を意識して論じたが、その内
容は吾々を全く失望させる。過失責任︵注意義務︶の客観説を信頼の原則と結びつけているが、その結び目はあいま
いである。この両論文には、ナチス法学者のシュ、ミッ冷やフランクは登場してもビンデング︵一九一九年︶もエックス
ナー︵一九一〇年︶も、エンギッシュ︵一九三〇年︶も登場しない。ドイツ過失論を建設してきたこれらの古典的とさえ
いえる諸業績は、彼らには一体どう評価され、どう継承されるのか。この二人の三つの論文には﹃許された危険﹄とい
う言葉が一度も現れないのも奇妙なことである。﹁答母性の分配﹂もいわゆる危険の分配と微妙にくいちがっている。
信頼の原則を検討するためには、 そこで、一応、ドイツと日本における過失理論の展開を簡単に素描し、 そこか
ら、信頼の原則と過失理論との係わり合いを確定する必要がある。
︵1︶バウムバッハ博士︵留⇒碧落鼠ω箆Φ昇①・U●U﹃・切髭白び8げ︶は、判決のなかにみられる帰責の誇張dぴ曾ω風欝§αq山9
口9津§σqを論難している。かって運転者の責任の強調を攻撃し︵一︶一N 刈. ω.蔭①潜︶、これをクルーク検事が評価したこと
︵Oげqωけ鎚け雪≦巴け寄茜”∪冒ω仲.ω夢ω●ミO︶に満足し、ここで又、帝国裁判所の判決﹁競技場は、局外者が無資格で立
ち入った時でも、・競技活動じたいによって傷害をうけることのないように設営されていなければならない﹂としたものを攻
麗している。事案は、ある若者が柵をよじのぼって越えたところ、投槍の投郷によって傷をうけたものであった。バウムバ
ッハ博士は、どのような設営のあり方を判決が予想しているのか示されていないが、非難を免れようとすれば、とちられた
空間でしか競技できないことになろうという。判決は理論的に沈思するのではなく、法律生活の実践理性を実現するところ
39 (1 ●49) 49
論
鱒,
39 (・1 ● 50) 5Q
の生活の必要を斜評すべきである。こ人が合理的に要求できるすべての注意を払うたが海.9.権限なき第三者の態度によつて始
めて損害が生ぜしめられたρそうであるのに、経済的に破綻してしまゑ程め額の昼型を9させられることは我慢できないと
する。.﹁生活は一つや二つの未知数をもつ計算澗題ではない,・人生にはだえず多くのことが関連しあい、対立しあってい
る。−一人の男がいう正しく振舞ったか、.いつ有責かば抽象的e純粋論理的に答えられないのであって、’彼に、昂個々め事案に
おいて期待できることのすべ・てを注意深く考慮してのみきめられることである﹂と結んでいるっ︵U冒層ωO宣冨oq葺㊤ω戯
ぽh=9ω●8N。。Y,⋮..﹁
﹄ 伊
−㌃ ∵“⋮‘ が一ン. ∴
ナならない2それは同時に、.その行為の法喜許容賢島。湘鳶犀一一〇冨じN毛帥ωω冨ぎ淵巻ついての判断であるつそれゆえ、それじたい
ら般原則に従って法的に轟馨一一〇ず,な因果関係は存しない。,一、定の,毎ω涛ワは生活に不可避であり、企業の一般的必要性がよ
︵鉄道や鉱山等﹀から時に有害な結果が生ぜしめられるということがぎわめて蓋然的であり、−しかも確実でさえある場合でも、
宣言す惹。なぜなら、法秩序はその行為なり企行なりを一定の条件の下で許しているから。 それゆえ、ある行為ポ企行・企業
二.蝦漉の慣慕、企君は.て何らかの結果がでてきても答玉桂基礎づけられない。綾序はこの殖を.ぎ8。げ琴ず.ど
’.
どうか、という問題が、個別的判断、一個々人の個人的能力に依存せしめられないという限りで、客観的意味に理解されなければ
...﹁この,、脚冨。算一言7二どいう表現は、・ある行為についての正当に表象された結果に関する思考がその企行を妨げるに違いないか
コ ヘ ヘ リ
法的因果関係︵羅雛霰讐什←、,主観的側面としての過失責任の客観説を説いた。・ゴ・・誓∵∴臼ゴい∴
三−フォン・−ずル︵ノ訴。昌剛田田噂︵甲。ωoけN⊆昌鳥留学ロ一島・ 一目ピω什﹃9h−﹃OOゴ◎、同[. 一㊤O¶ω街戯ωO卜恥帆卜。●.ω●一〇bolbδ一N︶,咲過失犯の客観的側面芒玉行為と結果との間の
問題を過失犯の構造め中でとちえつづ検討しよう。∼ ・.㌧し噂.“ :一・一: 毒諮鱒論寒雀い∼髪書函酔整譲︶、ここで味やや詳鯉エンギッシュに至るまでの過失の書手の
w許され蒼黒﹄という問題の側面かち過失理論史をかぞ簡単にとりあげをとがあみが︵酬騨葦戸葬痘
二
説
}1
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
り優越した重要性をもつ。
具体的条件の下で危険が許されたものかどうかの答を特別の規定によって明文で与えないのが法の常である。この答は寧ろ分
別人において何が通常か口三⋮9によって、即ち、私が﹃生活の規則﹄ 島⑦国。σq四号ω冨8葛とよんだものによって、そして
問題の場合にかかる規則が確定されない最後の場合には、問題となっている行為と同じ種類の行為や企行がもし答責的とさ舶た
とき、従って、許容さるべきでないとされねばならないとなると、公共の福祉Ooヨ。貯≦o巨にとってどのような結果が生れる
であろうか、又、他面において、答責性の解放が、従ってかかる行為の許容性がどのような結果を公共の福祉に齊らすか、の比
較考量によって与えられる。﹂
即ち、法的因果関係の問題はそのまま行為の違法性の問題とされ、その判断構造は﹁生活の規則﹂又は法益較量に
よ る ことが示された。
過失責任につい、ては、バールは、予見しなかったのは、行為時の現実の能力を基準とする限り、また、予見できな
かったことだという立場から、過失の客観説をといた。
﹁この際決定的なことは、規範論理的知識必然ではなくしして、多くの場合それよりもおとった被告人じしんの規範論理的知識
が基準となる。つまり吾々が行為時において、ある分別ある人に前提とすることが許されるような大いさにおける知識である。
被告人の難聴・近視・疲労などの身体的特徴や状態は、もしそういう欠点にもかかわちず行為に出ることに合理的な是認される
べき誘因や外的事情の強制がある限り当然考慮されねばならないし、特定の職業につくために必要な知識の欠敏も責任を生ぜし
める。﹂
三ヒ・ペル︵︿・田暑。どノθ.﹀目・目●μ8。。.ω.㎝①刈−零卜。脚ω,嘗9砕8鐸目Loω9ω﹄零一二㊤りωω㎝。。1ω2︶は、許された危験の問題を過失犯の責任論でとりあげて
いる。つまヴ、過失責任の二重の基準をたてる。第一に、客観的に命ぜられた注意H取引に要求された注意に違反し
たかどうか、第二に、主観的に彼の人格的能力に従って結果をさけえたかどうか、と問う。彼はこの第一の問題につい
39(1・51)5↓
39(!1 .52っ52
て次のようにいう汐∴ ︹,∴−.、.,、∼一∵睾ご.礼∵レτ﹁.、,二.㌦ ∵,塁、一■、﹀ ∴ 3..㍉ン一﹂π, 帆: , ﹁、ン
、﹁箪の予見可能獲茎あ予児盗聴重箱塗.瀞蓉襯的のみ奄ず主観的にも、田心慮のな2と︵回業務と回虫
・∵力Yが騒げるこどがみる。なぜなら、・有害な結果め危険サス汐が取引め規則幻。瞭。野薮。・㌧<曾開。窪いによらて客観的に許されたも
のとして現れる多くの場合があるばかりでなく、また、少くとも、この行為者にとって非難がなされえない場合がありうる。﹂
彼菰過失の本質が暖室可儲雄照あるの噂はなくて♪思慮のなか.﹂之に逝る乏考えな廿ればなら訟い狸由の一・っ廼ゐ
て、許された危険に際しては?結果回避義務がなぐなる点を.あげる緬∴かくて、彼は過失認定の基準,として、意思の緊
ヘ へ
張としての注意で当直ぐ、、,﹁取計に必要脚注意レ、を要求すを②ご㊨注意義務σ客観的基準の寒質的怨理由を㍉ぺ尼シ
ナ:を剤して次のよ51に説いている・ ,..,〆.μ、.〆,,、...、.,、.。.現,...。,⋮
.,暮するようなものである。なぜなら、人の行為はおしなべて危険にあぐらされているから﹄ひ︵憲μω。ぎ曾脚ω律巴壕9犀.日。。お吃
.﹁﹃有害な結果がそこから生じうるところの行為のすべてを差し控え嘱すという無制約な義務を課すのは、 人κ何もする嫁乏喧
−∵けω都嵩\。。︶﹁そのヴえ、どんな人間もあらゆる行為の、 すべての起りうる有害な結果を最高度の注意深さでもって吟味するという
、ピ.精榊煮端憩緊張野望決山ズ唱必合わせな’いb.一﹃取引κ必要な﹄,という4乏絃.−従うて南源測溶して∵h当該情況のも乏筆嫁三五受
に要求されうるような一定の中位の程度の大いさの注意深さである。正に刑法においてここで過度に緊張することを切に警戒し
も り ・層’ 舳 ﹂ ⋮ . . 竃’ 、
’なければならない﹂・。 ,
四三・ツク必ナr︵解毒賭鰻、器P遡ぽ、.饗犯の馨に書.過失底窯嶺回避す奮蕩
つた壱勇煙毒果廃散澄喬←を乏幸う﹂渉ゐ。﹁孟て、女運霧摘漂蓄に呵安康脂
み成立すをし、あ的諸書の券客観的装置架可能蔓草、行為者の駕能力か乃ル籍果浮薄児が否聾
とき、いつれも結果の回避は法的に不可能であって、回避義務が存在しないし、過失責任は問題にならないという。
騨
論.説
、
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
つまり、結果の不予見が情動の撰、感情の欠鉄︵鎌鷹観応︶による時にのみ責任が生ずる。三﹂から、過失責任
の第一限界として、外的状況と行為者の知的資質を計算にいれ、所与の具体的事情のもとで、行為者のもつ知識、悟
性を前提にして、なお、結果が予見可能であったことが要求される。
次いで、予見の可能な結果を惹起したとき、常に過失として有責となるかといえば、そうではないとして、,ここに
第二の過失限界、許された危険の問題を登場せしめる。
治療行為はその手術が専門的に事態に合致して正当なものであるときは、たとえ不幸な結果が発生しても非難はう
けない。許された行為の結果であって、その行為者の態度は、取引に必要な注意をつくしたことにより、純粋に客観
的にみて既に落度のないものとして特徴づけうるからである。
﹁それゆえ、取引が要求するところのものをなす者は、 たとえその行為が一定の危険と結びつき、その危険を彼が知っている
か、又は知りえた場合であっても、あらゆる答責性から解放されている。この点で責任の問題と離れがたく結びつけられた違法
性の問題がとりあっかわれている﹂。
ここで彼は過失の第二の限界、下限として﹁取引に必要な注意﹂と﹁許された危険﹂とを結びつけて理解しつつ、
責任と違法とが﹁離れ難く結びついている﹂という微妙な言い方をする。違法の問題と断言しないのである。なぜで
あろうか。そのためには、彼の﹁許された危険﹂の理論を検討する必要がある。
エクスナーは、ドーナの﹁正当な目的達成のための正当な手段﹂という違法の本質から、適切な手術が違法でない
としたうえ、さらにひきつづいて、危険作業に伴う災害の発生が容易に予見可能な工場主、鉄道経営者、建築業者、
乗馬者、自動車H自転車1ーヨットの運転者、狩猟者、射撃者、ガス陛電灯の附設者、毒物Hラジュウムーーレントゲン
39 ( 1 ・ 53) 53
ここに危険の許容の限度が﹁取引に必要な注意﹂の瓦落と結びつけられ、過失の下限が許容の限度どなる軌このよう
9幽・・いっ切回謹綴愚と携か﹂σ,∴・∴.㌦−一−っ層ぐ.一
」.
39 (.1・q・54=) 54
取扱者において、すべてこれらの人は危険をおかしているが.国家はこ懸軍の六器を認可している。勿論、無数の規
則によって認可は条件づけられているが、・それでも危険が全ぐ除かれる訳でばないσ.﹁−、・.﹁ 、畠 ・ ∴,、
h責猛勇。..宅てぞれと碁笥.々は再びあ古点に対七て次繍堰到穿るであろつ。・即ち限界は老蕩る切か9
r.の間題が生ずる難事件の状況と彼の個人的能力からして彼がその悪.しき結果を予見し回避することが彼に期待されるならば彼に
一、・可罰である。ごれを逸脱レてΨよってもって命ぜられた思慮深ざをつぐさない者は違法に振舞ったものであって、−そこには責任
.侵害に対してだけ妥当す6σ⋮危険の大いさが昂まるとともに、ジレンマは大きくなる。⋮危殆化はただ一定の限度内でのみ不
:歯象は朋示、黙示碧寮にただ危険の.是の醤のみを許している。上述曾とは、ただ秩序正しい経営におい蓬け難い
うか。−、そうではな帆②,彼は危険が高ざれる場合について次の条件をふすσである回.・一,・,’、: :・∴. ・,■
それなら、・かくも今日の生活のあらゆる分野にばいりこんでいる危険を無視することがいつでも許されるのであろ
が欠げることはここでは自明の理である﹂。 . ,㍉・− .. ,. , . ・ . し −.
﹃他人の危険に思いて行為する﹄ということができる。⋮・上にあげた多くの事例には、上述のように国家的承認が存し、違法性
識をもって実行ざわるごどがみろケとも、 不可罰にとどまるところの法益侵害が存するということである。 ここでは吾々は、
露なしには不可能であり、このことは今日昔と比べて遥かに塔大している。⋮そこで次のことが確かとなる。それが常にまた認
の領域でえられた多ぐの成果をぱ社会の必要に反して排除七て七まうことになろうからである。人の共同生活は鴇人に対す喝危
介しないし、又要求でぎもしない。なぜなら、そうすれば、取引活動の力をそぎ、あらゆる科学技術上の進歩を否定し、ごれち
ゆ.凄価に作毒念企業家の競争言えないであろう。援呈に人が珂と毒見で驚聖.悪のすべて腰迎するようには要
﹁自分の企業の危険性を最小限にしぼろうと望むならば、企業家は成りたってゆかないであろうし、それ程の用心をせず、それ
論説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
に、違法のみの問題として構成できないところに、この理論段階での限界があったのであるが、それは、エクスナ!のこ
の過失下限蕪舗墜の判断輩の内容が自ら物語るところである。
彼はこの基準は、単純に平均的なもの、つまり、人々が通常その同じ状態のなかでどのように振舞うのを常とする
か、ということにとどまってはならず、規範的なもの、つまりすべての人にとって義務とされる理想的なものである
ヘ ヘ へ
ことを主張する︵鑛難導く︶.寒その理想の程塁全体の利益維持が妨げられない程度のもの、つま
り、被告人の態度がその職業、社会領域の内部で仮に慣習となったとして、それが全体の利益に反することがない限
度にとどめるのが刑法の目的からみて妥当だというつこの二つの要請のもとに、エクスナーは、ミルヂチカの適度の
危険の理論によりつつ、注意義務の内容を規定する。
﹁ω 危険が大なれば大なる程、無思慮q昌く。﹃巴。﹃ユσq冒Φ#も大となり、行為のなかに示されたところの、発生した結果にむけ
られた関心がそれだけ小さいことになる。⋮それゆえ、いわゆる危険職業や危険業務には程度の高い思慮深さが要求され、より.
きびしい基準が適用される。官庁の多くの規則や命令に違反する者、長い慣行のなかに定立された経験則を無視して振舞う者は
過失で行為する者である。ここには侵害の予見可能性が存在するものとして受取られる。もし、このような行為態様が一般的に
行なれれるようになると、その行為は労働者や公衆にとり、その経営を不当に危険なものとする。
② 侵害法益の価値が大なれば大なる程、無思慮は大となり、その行為によって認定される行為者の結果回避への関心がそれ
だけ小さいことになる。⋮吾々はより高い利益がかけられているところでは、きびしい用心と多くの熟慮を要求する。⋮殺人に
ついての言葉における﹃過失﹄というものは、軽身体傷害における同一の言葉どは違ったものとして解釈さるべきである。 ﹃必
要な﹄注意は、正に異なった構成要件に適用されると異った内容をうけとるところの、柔軟な概念である﹂。
以上のべた危険の大小と法益価値の大小という二つの問題から、 ﹁予見可能性の難易﹂という問題がでてくる。行
為者に認識可能な侵害可能性が大なれば密なる程、予見の対象とさるべき害悪の危険性が重大であればあるだけ、原
39 ( 1 ● 55) 55
則として侵害を予見することばそれだけ﹃容易﹄である。.そしで、.更に第三点を指摘する?. ,,.
﹁③予見が﹃容易である﹄ということだけで必ずしも有責であることではない。予見が容易であヴ、したがって考慮に入れるこ
が コ ロ
とがたやすいのに、過失とならな“行為がある。 ・ : ・ ,,... ..・、.・ ・い、 、・
相当の注意の適用、不適用についての判断は、本質的にもう一つの契機、つまり、当該行為の目的に依存している。⋮行為の
目的が社会的であればある程、それだけ判定が﹃温和に﹄なる②法的に許された危険の場合がここに属する。麻酔による人の死
亡の場合、生命を救うための手術に際しての麻酔でみったのか、例えば、巨的の蔵い冗談の麻酔の使用であったのか、を比較せ
よ。どちらも全ぐ専門的にみて相応した、技術規則に照応じたものであったどしても法的には全くちがったものが問題となる
︵田冨昌締臨けω一9三g鋸昏﹃09慈9くα≡αq・<無ω9二巴9⑦。・℃凱90q画魯﹃ぎ亀びΦ凶岳旨蜀9、=魯島φZ浄財。ωoく。巨涛。ヨ旨魯.丁三
39 (1 σ56) 56
夏。凝08器ω§α紆昌閑毒ω賃ooqoぎ。臥威鷺野屋巳含跨げαqo隷訂けミ堂号昌。・o一昌蜴麻酔によって死亡したとき、手術の場合は帰旧
臣津口づσqはおちるが、.﹁第二の場合には行為者がその結末を予見でき九限りで過失致死につき有責となる。﹂ ・・. ,..
施設の現状、三間の切回性などをあげる9ン,ン, 雪・:, ・﹁,,﹁、・.﹂‘ . 、・一.、、し .・.:﹁∵
げる.一切の事情を考慮する必要があみとしで.∵過度の緊張や疲労、行為者の年齢特徴、行為時の興奮や衝撃、道具や
さらに、、・エックスナーは、過失判断に考慮ざるべき契機としてハ,全体としての情況馬個人に正常な表象の現出を妨
とができるからである。﹂、.・、 ., − ∵ . 一ら ・・ 一 .,∴,, ・㌔
心ざはびき出しにぐぐなる℃なぜなら、吾々ば高い垂心をも犠牲にす惹こどによつで他方のものを保護し促進するこ
る。この有用性が大であればあるだけ、その行為かもびぎ出ざれるどごろめありうべき有害な随伴結果に関する無関
していることを指摘する。 ﹁有害な結果のリズグは割その行為が同時に担っているところめ有用性にようて止揚され
規定する。ぞじでか彼が責任の本質とする﹁法益ゆ対する過小評価︵無関心︶﹂もまた、この三つの契機と密接に関連
エックスナーは、このように、三つの契機、危険の大小、侵害法益の大小、行為目的から﹃必要な注意﹄の内容を
論説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
﹁法規はすべての国民に、その行為の採用にあたっては同等の注意を、つまり法規によって保護された利益について同等の関心
を要求する。ただそれにもかかわらず、同一の侵害活動が、ある場合には無罪となり、他の場合には有罪となる。二つの同一の
ことがなされてもそれは同一ではない。なぜなら、随伴事情がことなり、個人の認識能力の大いさがことなる。事情と行為者が
異なるにつれ、法的に保護された利益に対する過小評価という非難が高められたり、なくなったりする。﹂
五A・メルケル︵﹀・竃①甚⑦ど9。下野。︿8<①﹃寓Φ・9魯二・ω貫9hρお旨りω・一〇c。1=一︶は、過失犯に関して、注意霧の客観性を主張すると同時
に、 行為の結果や特徴についての不知・錯誤が行為者の個人的給付能力によって避けえたものであることも要求す
る。義務は客観的に、可能性は主観的に、しかも意思の緊張への要求は客観的に、予見の範囲は主観的に、という構
造がとられている。彼は意思緊張義務の客観的基準についてこうのべる。
﹁誰も不断にあらゆることに最大限に集中された注意をするように期待されることはできない。⋮ある態度が過失とされるかど
うかという問題に際して客観的判断基準が尊重さるべきである。⋮唯個々の場合に、その行為者にとって、例えば精神障凝の如
きものでこの要求に応ずることを不可能にする事情があったかどうかということである。﹂
このように、客観的な注意義務と主観的注意能力という二重構造から過失責任を論ずる。ただ、彼の場合、過失犯
の所為側面として、行為と結果との条件関係が、クリースにならい、さらに経験上一般的意味を附与された場合にの
み 因 果 関係ありとする。
段階における社会生活の維持のために平均的につくられた、欠くべからざる客観的な注意の量によって決定さるべき
義務、法的答責性の存否は、個人の能力によって左右される不確定なものによって決定されてはならず、特定の文化
竃⇔5αqo一雪く。邑。算のほかに、更に主観的な予見の欠鉄と鋤δσq①一p昌くσ轟ロωω一〇茸を要求したことに反対し、法的
怪童プマソ︵罫ご8暑きp田三①詫§αq四壁ωω嘗気門8算日8Pωし瞳一にごω●廣ωhごω・①。。h・︶は、斐るフランクが過失馨に、客観的な思億の欠庭
39 ( 1 ●57) 57
論、説
だとす惹。,,,、・:・,∴㌧.ド∴∼,、.・.,∵,ヤ∵∵、、㌃、∴∼犠..−・5,.∴,,、,、↑一∴
そしで、客観的注意義務の内容についていケ。..,,、 ., ..■に・・∴.・ 、 ,㌦、..、 ’.一,’ゴ.
臨糞藪叢叢帰環器品繋鷲よ諜羅難経で読賦ポ殆鯵難
,れない。.そついザつ種類の特殊的事案の細かな特徴を抽象して、有害な結果と一般的な関連にたつ諸契機のみを考慮に入れる。こ
一とでも、他の場合止同様、法秩序は平均量の洞察之注意をもつ烹秤喝’。七の帰属可儲性切物蔀に嚇いて映淀さ喝ぺ速下条井を、
受の態度が結果に向けて拮定したとき馬その人のみがこの結果の惹起者之なる。 ‘ 曜
しかし可.勿論このことによってまず過失の因果関係が決定されただけであって、その責任契機はまだ決定されたことにならな
い。帰属可能な結果を惹起した人が必ずしも過失で行為し光ものではな︽、ただそうなるのは、彼がその結果を計算に入れ、且
つ回避すべく法的に義務づけられた限のにおいてである。﹂、・ ⋮: .,・.﹁ン 一− 己 ∴ ・,・・
このように、結果の帰属可能性によって因果関係の刑法的関連性を判断し、更に、結果の,計算・回避義務を過失の
基準とする。この義務について更に続けていう。 こ、’,・一 ,
﹁この種の義務の根拠が与えられるのは、第一には、,法律生活に海ける特別の地位である。公務や業務のために就いている社会
.的地位に応じて、又社会的活動領域が責任者の地位にあるか、,従属的地位にみるがに応じで︸.法的責務のびうがりに大小がみ
.る。しかし馬法はまた、特別の社会的義務を考慮することなしに、専ら利益の評価とその保護の必要性に鑑み、特定の生活状態
に洞察と注意をもって活動するよう要求することもできる。﹂
このように、レ山里マンは下法的に要求される注意の量が行為者の主観的なケγネンによってではなく、社会生活
の目的のために客観的に必要なものによ,って限界づけられるとする。ある工場設備や企業における解怠が澗題具なめ
たとぎ、被告人じレんσ結果回避能ガではなぐ、同じような同種の企業がどうやっているか、.もっと行届いたよい予
39 (湿 ●58) ら8
防措置をとっているかどうかの吟味によって決定されるという。
9
れていないという。純粋の主観説によるとすれば、結果の予見ないし回避が、行為者にとにかく可能でありさえずれ
ばよいことになる。それがどんなに困難で努力を必要としょうと、どのように大きな熟慮や注意が必要であろうと、
とにかく彼じしんに可能である限り1彼をのぞけば他には誰もできないことでも一それが基準となる。主観的極
端の終点としては理論上は確固とした限界が設けられることがない。個々の事件の特殊性に突入してゆくしかない。
そこで、通常人を行為者の立場におくことになると、既に、そこには和らげられた主観説が現れることとなる。
反対に、極端な客観説もとられてはいない。 行為者の人格の内部には、精神的特徴と身体的特徴との区別がある
が、客観説の立場であっても、行為者の具体的な身体的特徴だけば考慮せざるをえない。
そこで主観説と客観説の対立は、実は行為者の具体的な精神特徴を考慮に入れるかどうかという点にのみあること
になる。
マンハイムは、 この対立の背後に個人原理と社会原理とのイデオロギーの対立のあることを指摘したのち、 主観
説、客観説何れの立場が刑罰の目的に合致するか、何れが刑法上の責任概念に合致するかを問うのである。
第一に、刑罰の目的はどちらの基準を要求するか。 主観説は、愚かさを処罰しても無意味であるという。 果して
そうか。 標準以下の能力しかない者は自己の不注意の結果を予見することはできないが、彼をやはり処罰すること
によって、 将来において彼にとって可能な最高度の緊張を常時要求することになり、 彼に教育的効果をもちうる
からは、威厳な処罰よりも、安定した、正確な基準の方がよゲ有効で中るのは当然であるから、客観説の方が刑罰の
︵<σqピω98。魯9①5宰。ぎ。凶けα臼≦筥。・ω℃O。ω●≦二項目H。。ω㊤.ω.置。︶。特別予防の見地からみてミ愚かさの処罰には立.一味がある。一般予防の上
39 ( 1 ● 59) 59
七マソハイム︵甲一● 7自帥づ口﹃O圃ヨ噂 一︶O﹃ ヨ⇔ωuロω辞①げ 蟻O婦男①げ﹃一93ωω了簡四閃O一r 一㊤一Nり ω●軽ω!㎝刈︶は、含過失において、純粋の主観説も、純粋の客観説もとら
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
39 (1 璽60) 60
目的に合致しでいる◎和らげられた客観説が行為者の身体的特徴を考慮しても、それは右のことど矛盾しないコ盲人
は自らの盲目を自覚しているが、思か者が自らの愚かさを昌歯するこ・とは困難である。∴、.・、..’ ﹁じ⋮一■ 仁
.第二に、責任概念は主観説とのみ調和するのであろうかσ通説で繋る主観説は、−主観的過失のなかに行為者の行為
ネ助クは、,逆に、客観的過失から責任概急を樽成レなおぞうとするσ倫理と法Q俊別、法の客観的鳶一般的性格を説
的、道義的に構成レようとする限ワ、過失処射そのものが疑わしぐならざるをえないことになろう。ここからフェル
ない。予見しなかワたのは正に彼じしんの能力をもってしては予見でぎなかったからにほかならない。‘責任を主観
爵する輩金集心理関係募るとするが、具体的結果との器では、主観的関係︵認識しえ、回避しえた筈だ︶.例存在の証明は
”、!聾
き、.、演的意味において責任とは﹃主観的関係﹄ではなくして、一般的予見可能性である﹂︵餅曜器醍確し
として︾性格責任へと至るのである。 ・,−. 、﹁, −一一 ・ ﹂ .・ み− ∴,∼P.、・・
この、通説とフェルネッ.グの対立は、・確かに両極端にあ惹対立である越、・どもに個人倫理をめぐっての対立でしか
ないどし、ラバ.船ムは、ク¥、豊強ソによりな奮︵誓㌫聾誌一難羅.字号緬雛鬼寮。遡罫︶
社会倫理の立場を強調するのであ惹軌,ごの立場によれば行為者の心情のみたらず、客観的契機、.外界にもだらされた
所為にもきびしい視点がむけられる。. ’,孤,,,.・.,一∴ u、レ乙 .㍗−.、口・芝.、,・・、.!.﹂ン∵’
主観的過失aなかに慨ん責任の契機があ6どい5主張は証明されていない。むしろ個人責任を求めよ5.とすれば、、
過失の処罰じだいを断念するしかな眠。したがつで、責任概念もまたハ客観説の立場を予定するこどになる。口ただ︵
客観説のなかにも、社会倫理の立場をどることによって、倫理ど法との間に﹂種の連繋を残そうとするのであるコ,
マンハ不ムば、−かぐして、一軍罰の目的からも、責任の概念からも、,客観的過失の立場が残るとし、.雪過失とは、予
見ずべき、.かつ客観的に予見可能な結果の不予見である﹂どする客観説の立場にたつのであった。そして、義務と可
e
論説
’
能性の関係を検討し、行為者個人の立場からみると、客観的可能性とはもはやいかなる.、貯αき窪二でもなく、ωo=窪
の根拠を示しているにすぎないものとなる。他人にとっての閑α暮窪は行為者にとってωo一一〇昌となる。行為者本人
には不可能であっても、他人が予見したに違いない以上、義務づけられるのであるから、本人の立場からは、可能性
も義務も、一つのものの二つの側面にほかならない。
ヒッペルやフランクにならって、過
﹁かくて吾々は確定する。 ω。一一魯の量は、行為者の属している類型によって、 もちろん、吾々がすべての有用なこの範囲の所
属者についてその平均像にたてるところの要求にしたがって測られる、と。﹂
八 ところがマンハイムは、ここにおいて許された危険の問題にたちむかい、
失概念にとって予見可能性が重要でないことを主張する。
﹁行為の評価にとって意味のあるこことは、予見又は予見義務ということではない。予見義務は行為がその結果を回避せねばな
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
らないという結論へと吾々を導くところの、むしろ連鎖の一項目をなすにすぎない。全く決定的なこの回避義務にとっては、予
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
見義務は畳表にすぎない。重要ではあるが、なおまぎらわしくないとはいえない懲表である。なぜなち、行為者が結果を予見し
ていてもなお事態に鑑みてそれを避けることが義務づけられない場合があるから。そこにおいては、有害な結果の危険は取引の
原則に従って客観的に許されたものとして現れる。そこにおいては少くとも行為者に非難がなされない。結果の可能性の所与の
予見にもかかわらず、ある非故意行為は、二つの点、つまり行為の社会的価値および行為者の強制状態から過失でないものとし
39 (1 ●61) 6‡
て現れる。﹂
そこで、マンハイムは、グラ←・ギナがかって正当に指摘したように︵羅鑓早馬餌﹄。藻豊亟α語
鋸顕一〇︶、この問題領域が過失の基準、責任の問題でなく、違法の問題であることを主張する。
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
説
論
.曳
‘・
﹁行為者が、又は、平均人が、有害な結果を回避すべきであっ,たかどうか、又回避可能であったかどうかということは、この欝
果が違法に惹起蒸れたものでない限り、どうでもよいことになる。ただ、これら二つの問題の間に正当な限界をひいて、・それぞ
.れの視点から場合を分って問題を提起することは困難である。﹂.:ρ 目
彼ばスピードを給して走6清々車を例にとりながらζの一,一つ,の問題の区分にとりくむ。、・﹃正当な目的のだめの正当
な手段﹄というギナの違法判断の定式︵細壁腿戦げ欝謂評㎝しをあげていう。
﹁怯秩序は一定の社会約価値のあみ行為と必然的κ結びつ炉ていゐ循険行為を差し控え乃こ止の利溢まりも、■浸の社倉酌肩凋而
為の方により大きな利益をもつ。久災現場にできるだけ早く到着す﹁るためには、それに応実需スゼ﹃ドで進なご之を許すこ障瀞
承認ざわねばなら怨無。∵それ冷え、、’その僚あ乃姑憾通行︵が軽かみるかもし・れなかという琴南甘忍ぜねぜならな瀞4そるて、泌
らゆみ利益の較量︵百人︵千人の労働者に職場を創造す渇、﹂.企体的掴民経済が豊かになみ等汝yが、﹁じ誰でもお浸ち博事故の溌
生の予屍がで選るのにかかわらず、危検な工場や鉱山0認可へ之導くコこれらすべて切場合に利益較量がある。そ⑭利益較還北
よって侵害される利益は他の価値あるものの背後にひきこまなければならない。しかし、その限界が超過するか、又は目的・手
.段がもはや﹃正当なもの﹄でなくなる限り、違法性は再び現存する。行為者が手段の選択をあやまるならば、例えば、消防車が
鬼その目的忙錨みて命ぜられているよ⑳もまり士卒に運転するとか,ダ詫ナマイト﹂の所有者が必要な警告年殻を之.り噸い乏亦噛送
者が誤診をするとかすれば、彼らは万一の事故を違法に惹起したのであり、従って、ある有用な、平均的運転手、平均的ダイナ
マイト所有者︾平均的医師斌愛心深ぐ行為したであろヶかど・字かが吟味され澄ことになり、それにより有罪判決をうけることに
’
︵且的と手段、利益較量︶の問題と、責任︵結果回避義務︶の問題の概念的
なろうσ﹄−・ ・.. ・ し 芦P ’ ・ −’− ,し∴..一:凱・弘 ﹃ ,∼ ㌦.
・このように、マ︾バ不ムは明 瞭 に 違 法
区別を自覚した。.・
..彼はこれと同じ問題を義務衝突についても指摘し、・服従義務・の法的性質に.従うて違法の問題となったり、責任の問
題になったりする、らまヶ貸利益衝突が行為者の側にのみあれば責任の問題であるが、それが同時に普遍の側にもあ
39 (;ヤ1 ●62) 62
◎
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
れば違法の問題となるとし、ドーナやマイヤーらが﹃その基礎において不法なことが、それを別の人がなすことによ
って正当化されることはできない﹄︵キルンハイム︶ということから、霧衝突が責任阻却の問題とすることに対し、マンハ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
イムは、いつどこでも一般的に絶対にどんな情況のもとにおいても不法だというものがあろうか、行為はその行為者
が誰かということと全く無関係に評価できないとし、死刑執行吏による死をあげる。
マンハイムは、当時の通説であったリストの過失の構造、意思の緊張としての思慮の欠鉄ζきσqo一碧く曾ω搾鐸
︵蠣餉鵬融︶ζ予見の欠敏ぎ・・。一窒ぎ§ω・凶・三魏猪答言言焔結︶という二重の羨を批判する。
予見の欠鉄はヒッペルにおいては回避可能性く臼ヨ①一αげ9蒔。洋に改良されたが、しかし、二重の基準はそこでも維
持された。一見、リストの立場は客観説︵簾の︶と主観説︵客観性︶との併用のようであるが、結局は主観説に帰する
とする。つまり、リストにおけるく曾巴。算とく◎鑓口ω巴9けとの対立において、思慮深さは全く一般的に、 行為者
に対しても又すべての人に対してもこの具体的結果との関連で、要求されているところの義務適合的注意を意味して
おり、一方、予見可能性は、特殊的に行為者に期待されるものである。これをマンハイムは同じものの 8=o昌と
ま弓。昌との対立つまり、<o蜀ロωωoげ。昌ωo一げ昌とく。旨臼ω①び。昌犀α雪。昌との対立にすぎないという。
かくして、マンハイムは結論する、 ﹁違法に、かつ非故意にある結果を惹起したものが、その結果を彼が回避すべ
きであったとき、過失で行為し て い る ﹂ と 。
ただ、彼の理論においては、やはり一種の不鮮明な部分が残っている。
彼は、まず、社会倫理の立場から平均人基準による予見義務を過失責任として構成した。次いで、許された危険の
問題をとりあげて、予見でなく回避が中心であると説くと共に、それが違法の問題であることを主張する。ここから
考えると、結果回避義務が違法の問題となり、平均人による予見の問題が責任の問題であると主張しているようにみ
$9(1・63>63
●
論.説
える。伺彼はうぎのようにさえ主張缶ているゆい二:い∴一・\、∼︸﹁㌧レ,ぐ.、,・、∴一﹂,一:ご.・、7、二∵∴∵∵・.∵∴
,、,,・﹁﹃行為者が意欲しなかつだ結果を回避すべきでみつだ﹃どいう判断ば屡劇行為者が現実にその実行を意欲したところのものの
ロ回し し ロ ロロ ゆ へ にリニ コ し へ しけ へも へしヘ ヘ へ も へ きヘ ヘ へ も へ きヘ ヘロヘ ヘ ヘ へ ゐ へ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
、社会的価値に依存している。しかも、・と、の視点は個別的にめみ考慮されたのであって千辺胃律に考慮省れるものではないゆ ハヒ
ρツ破ルμこの判断の中に添用意に警嬢淑綿雲側漣反紫黒ものをも%乏必こ之は過失犯にく曾ω鍵=口﹃。=一一。津僧をもちこむこと
になるという批判をケけて︶⋮五・々がこの命題を、その命題が最初カノ泌法における初期の発展段階においてもっていたところ
.・の甘味に珪解レ、更に・、﹃oω一一一︷。一ゴ..を﹃禁止された行為﹄と翻訳する限り、 ︵ヒツペルの批判は︶正しい。しかし、吾々が
ポ・ストρグロ︾サト﹂レンにおいてその命題が甚だ多くもうていた正しい意味.、怠。ω=一蚕冨..輩、寅9奇智一一魯ρ量岳9αq..の意
:・味にと喝と、屯切命題遺いわれる程無意味で臓なか。’﹂・:㌧餌三 ﹁・ドー:∵\ ら , 一.∼9一∵ り型
、ここでは結果回避義務の問題が行為の危険性の許容の限度、つまり違法の問題ともて位置づけられでいるようにう
けとれる。.・しかbや彼の場合声−平均的予見貸結果回避ゆ許された危険の三者の論理的な関連は特に厳密に追及されな
いままに終り、やはり不鮮明のまま放置されるρであるρ許された危険の限界を画する判断め構造︵利益較量︶と、過失犯
の注意建前観藩、︶との関連がやはか切断されたま毒あ・だため、ピこでも渦許された危険の法理は^,過失犯
の構造の外で議論されたにとどま,っている。.平均的な運転者、﹂’平均的な医師ならどのような用心深い態度をとるかと
疑う客観的遇五八責任ソの問題は、危険の許容の限度の基準とレ︽㊨利益較還とは、全かくかわりあうことのない問
題として併置されているのであるコこの二つの問題の領域が趨向旭一づのこ・との﹁考察方法の段階差、・すなわち類型
的﹂,一,搬曲酒量乏ρ具備的﹂個別的澗題と熱5形膝の関連のあることの表明もない。社会化された倫理として、そう
いちいち個人の心情の特殊事情についてその面倒はみておれないという責任構成をとる彼においては、一そう両問題
領域の接近が要請されている筈であ惹b、じかし馬まさにそれゆえになお憎奮う違法と責任との同化をおそれて、,亡れ
以上の論理の展開をやめてしまったよケにも思われる。 ∵.、.・,﹁.嶺.・・∴,扮こい ・∴..−、に G∴弘,ド,∴∴
39くr・64)・64
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
九ビンディング︵鯉蕗聯鋳.罪卜.㍗漏、、.︶は許された危険の法理を基礎づけたとされているが、いま、・、の法
︵ユ︶
理を彼についてたどってみよう 。
許された危険行為が犯罪性をもたないとするためには、既にこの当時、過失責任の概念内容が﹁予見可能性﹂とい
う基準からずれ始めていたこと、つまり、 ﹁予見可能な法益侵害でも過失責任に帰属されえないものがある﹂、 ﹁予
見可能性は過失の一つの限界だが、唯一のものではない﹂という理論が生れつつあったことが重要であった。更に、
緊急行為、治療行為、運動競技における危険の許容性の研究も進んでいた。しかし、危険の禁止されない量を維持し
O
て行為したか、又はそれをふみ越えたかという判断はきわめて困難である。
まず、その手がかりとなるのは、昔から一定の生活領域において許された危険の大いさについての規則が形成され
ていたことである。拳闘の規則、建築上の規則、医術上の規則が慣習法として形成されている。従って、これらの慣
習通グに行為した者は、そこに既にふくまれている危険について許されるのだと一応考えられるし、これを正に基準
として主張したのが、カ﹂ルデング、ミルジチカであった。
しかし、 正当にもビンディングは、 その規則に従ったからというて彼がノーマルに振舞ったことにならないとす
る。彼は次の基準をたてる。
﹁許された危険の許容性とその大いさについての判定にとってただ一つの根本思想が存在するのみである。
すべてその危険と結びついた行為の、法の立場からした回避可能性、回避不可能性、つまり余計なものか不可避的なものかに
よって決定される。それは不可避的行為の法的価値と危険の比例と結びついている︵モーリュi、レフラー︶。
A ある行為が法的意味において不可避的であればあるだけ、それだけ法的非難なしにその行為によって流れる許された危険
の量は大である。
39 (1 ・65) 65
︵.
、1,’
﹂,
論1.説
ひごがら、こうなる。
、ω 行為義路は㍉その義務履行に必然的に伴う危険を原則として放任する。. :山 ら
②ある法的に許された行為の採財にあだり、不可避的に随伴する危険は隠同じく原則とじて正当なものと考えられる。
,僻 許された危険はき飾言者が彼の権利実行を嬢げられねばならぬ場合には高められる。
・四 ある法益の維持のため、唯一の手段として、その法理の危殆化しかないときは、許された危険である。
B その行為が法的意味においてどうでもよいものであるだけ、その行為に伴う許された危険はそれだけ余計に小さくなる。
ω 意識ある反法的な、
.、.働 全く無価値で不必要な行為の採用においては、かかる危険は決して正当化されない。h ..一二一一,.一
℃﹂七かもりす公ての危険はh行為へ・の必要性によってのみ正当化される。すなわち、不必要性はあらゆる行為において法的
手段から遠ざけちれる。 : 髄. ﹁ , . F’
以上の根本思想をはっきりと理解すると、法規が偶別的場合におけるこの価値関係について意思表示するごどを差控えている
,理由がねかる。現象の見渡しきれぬ多様さが法規に対抗するので、大きな根本思患の実現ば、すぐれて裁判官の手に沙だねられ
・ねばならない冷なぜなら酎.危険を伴う行為の必要性の大いさ如σ&轄三ψωヨ。。ωψの甥もつとあ注意深い二君のみがこの割合につい
ての判断を可能とするから。 ・、・・ ご ビ.’
、.いていた希望や、行為者じしんの見解から全ぐ無関係に、,法秩序によってたてられるひ⋮⋮ ・:..・ ,;
・次に危険が適度かゼうかという問題にたち熔つ。..﹁..存為の冠鶴性質にづい毒判讐。落磐がその蒸に礎っ遍
もし危険が不相当に大きかった場合ば、うたがいもなぐ違法な客観的構成要件が客観的に違法な行為によって措定されたζと
κなる。そこには責任の問題が生ずる。心 ︼.’,’ “ ㍗・ 一 、た レ . ’∵∴.r.・ ’、﹁ 挫﹁
これが彼の許された危険の基本的な論理構造である。行為の法的価値巨必要性と結果発生の蓋然性一危険との比較
較量の中から許ざれるか否かの限界を見出そうとするにある。
、彼のこの構造をもゆ乏よぐ理解するだあに、p彼のあげた具体例なあげてみよヶ。,彼はAのωか②の両者について貸
39 (1 ●66> 66
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
﹁その履行が甚だ大きな危険をもってのみ可能とせられるところの秩序義務﹂に際しては、かえってその義務違反が
要求され、 その上で義務の不履行が正当化されるとする。 Aの③の事案については判例として閑○ωミ員Q。をあげ
る。Aのωとして、鉄道列車の確実な破滅を防ぐため妨害物をおいて危険にさらすことの正当性を理解する。Bにつ
いては、 ﹁悪戯、わるふざけ、慰み、たわむれの好奇心から行なわれる危険行為﹂をあげる。また、 ﹁警察取締規則
違反の危険行為﹂も。しかし、彼は、ミルヂチカの行為目的の社会性、侵害法益の価値と広がりの大小による立場に
対して、 ﹁完全に正しいとは思わない﹂と反論する。危険が不可避的であれば、犠牲にさるべき利益の価値や侵害の
ひろがりはどうでもよいことだし、重要さの少ない法益の保護を奪ヶことは気にいらないというのである。これらの
彼のあげた具体的事例が、われわれとしては緊急避難の論理の範囲外で論ぜられる必要性がなぜあるかが疑問である
が、彼がこの基本構造について彼の附加した次の命題こそ、きわめて重大な意味をもつ。
それは、職業活動の基底としての身体的能力のための体育・訓練・競技の危険性、技能習熟期の練習の危険性が法
秩序にとり好ましい行為であることを指摘したあとで、
ω 法秩序は、習熟期間、緊急事態以外では、自分が習熟していないことを知るべきであった行為を差し控えねば
ならない、
②官職や職業上の危険については、その地位にある者は発つづき高度の義務が要求される、という﹁識別義務﹂、
﹁ 引受義務﹂を要求している 、 と い う 。
かくて、行為の法的価値の認定にとって、 ﹁注意義務﹂の判断が介在させられることになる。素人は彼に予見不可
能な危険行為に手を出すべきでないし、技術者は一定水準の能力を常に維持していなければならない。ここに予見可
能性以外のメルクマールによる過失犯の構造との関連がある。また、彼の危険の測定も決して物理的測定でないこと
39(1・67)67
説﹂
論・
も、.既に冒頭三三で指摘しだよケに洩注意する必要があるっ.、
鈴(1r5多)6s
彼ば、・危険が少なからず金銭的理由によそ動機づけられること︵暴れ馬事件国OωO\N9第二暴れ馬事件﹁OいOU3巴魯口二●、︿一ト。。。。﹀すユ一,ド。。。。刈.、国08\おQ︶をあ
げている。’﹁工場経営は最良の材料を使えば全然又は甚だ不充分にしか利潤をあげえない﹂と率直にのべて.いるっ.か・
くてふ山定の危険が適度かど・うかという法秩序の客観的認定も﹁企業利潤﹂によって歪められることがある。
要するに、ビンディングの許された危険の構造にとって、hデ方において法的価値と過失の違法性、他方において危
この ↓簿と蓋置匡との関係は単純に構成的であみのではなく、↓緯の、即冒匡へあ帰属という位置で論ぜられ
冨一陣。算の違反の有無が検討される、宝.・
法構成要件の非故意の実現︵凄け︶、..何主観的責任構成要件11過失責任の有無としての事前吟味義務“<◎壱愚hきαqω・
しかし、との回避義務違反は故意犯・過失犯に共通のも、のである。ざらに、過失犯には、−個別的には、④客観的違
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
れだ危険もここに位置することになる。. ・ − 、 .:・ −、 − ﹁’ 、:
合にこの義務の一般的制約を予定しでいる。違法阻却事由として理解される場合がことに組入れられるゆさきめ許さ
務ほ、・’一般的には馬ω主観的に行為能力者についてのみ妥当する℃それと共に、向客観的に、‘法秩序は自ち一定の場
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
Z臼冒乱心蒔冨一ケの意味は、−﹁殺すべがらず﹂という規範の命令違反“即ち、∼行為回避義務違反である。この回避義
ばヤ遍失による器物損壊︵郷月︶など蕎題としていない暦応、捨象して論を進めてよいと思う。次に、U。爵11
が・∴次のようにいえる。まず、,彼のU①一一蓉︵2σ﹁目︶一<卑σお6ず①コ︵ω嘗既鴨8言︶どの二重構造の問題はハたとえ
闘qそこで3ビンディングの過失犯の構造をみよう。 彼の彪大な犯罪論体系をここで吟味することはできない
危険σ法理を位置つげねばならないρ ㍉ ,’ ■ 旨 ﹁、パ﹁﹁・、’,∴、・ゴ一∴芦∴.−い い﹂ :コ
険と企業利潤という附加物があることを留意しつつ、次に、彼の全犯罪論体系、過失犯の構造との関連で、許された
リヒ‘
”)
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
惹。つまり裁判官は被告人が事前吟味義務を充分に尽したかどうかを調べて、もしその義務の違反があれば、 ﹃汝は
汝の行為の違法性を認識することができたし、 それゆえ実行された違法行為は汝にとって回避可能であり、 それゆ
え、そのことについての答責性を負う﹄というのである。このことを過失犯〇二ど8ω9U①=犀についていえば、
U①一一算11Z臼ヨ惹二百閃①算11幻①6茸ω葺一一〇算≦置ユαq犀①詳N⊆<①﹁巨。匡①昌d旨oo澤︵O①=耳︶つまり、過失は客観的回避義
務違反であって そのためには主観的回避可能性く臼ヨ⑦窪窪まき窪を前提とする。しかし、そのためには、行為の
違法性が認識しえられることが必要であり、更に結果発生が予見されねばならない。だから、結果を予見し、違法を
認識し、行為を思いとどまり得たかどうかという関連が追及される。そしてこのこと一それは結局主観的回避可能性
の判定になる一は、通常の過失犯においては、事前吟味義務を尽したかどうかによってのみ判定されることになる。,
そこで彼のいう主観的回避可能性、つまり違法行為を認識し回避しえたか否かという問題についてその内容を吟味
しよう。
彼は、この過失責任の判断内容をまず、㈲行為を正当に認識しえたか11行為の違法性の認識可能性の問題、ω行為
事情を正しく感得する能力、@行為情況に及ぼすその行為の効果の事前計算の可能性、㈲効果をふくめた行為全体の
法との関係における当はめの可能性と、⑧この認識可能な違法行為の回避の可能性11その行為を思いとどまる可能性
又はその行為を正しい方向にみちびく能力に分けて論ずる。
ここで、本稿の問題視角から特に重要なのは、㈹のω、回の具体的な内容である。
行為の因果性を正しく認識するという点こそ、結果予見の可能性の問題である。この判断基準について彼は徹頭徹
尾主観的基準を要求する。すべて能力者は彼のすべての行為についてこの具体的行為の法的、因果的意味に照応した
能力の断片を用いなければならないという。 被告人個人の現実の行為時の能力が基準となる。 ただ、ビンディング
39 (1 ●69) 69
39 (1 ●70>70,
は、行為の因果性の認識を、専ら結果予見の可能性に置きかえて判定することに反対する。.次の三つの問題がたてら
しだとか、.適時でない時に停車したとか、警告が遅すぎた、信号を出すのを解要したといケ具合に、,一定Q外部的行
噸織無量瞥騒身離醜鵬刈蔭︶・、また、判決理由窪意を怠ったとされる時の内容が.速度を墾て運転
ご暮﹁・・葺であるとした真意も、外的不注意を指摘し疹どした点にあるとし︵﹄謝腱騨矯麓含量號誰
︵簸︶という観念があること、フラγク、ヒ・ベルらが過失の実体を不予見.ご暮馨器葺ではなぐ、無思慮
した人であったであろう◎彼はフォイエルバッバ以来内的行為としでの不注意に対して、・外的行為どしての不注意、
=三ンギッシュ︵国母一二.轡q響拝.q馨霞ω⊆。ピ畠魯⇔晋く曾ω”言§α団昌二似。・忽αqぎ津ぎωけ﹃a増8窪℃お8︶,は過失の違法性に李らく蕃深い思索をめぐら
の発生が期待される状態にあることが必要であるというコ. ・ .9 r‘、∫ ﹂∵ .⋮丁一, 一, 51h
して豆果発生め可能性がその行為を偲小衆どまらせる程に強いもの、・つまりδ確実性をもつて.且け憩。言暑。鴬結果
て本質的メルクマールの一,部分では毒ゐが、’そ.の不認識、結果の不予見が過失非難の対象となるに竣その行為に際
−このように問題をたてて、結局、彼は、結果の予見という問題は成程行為の因果性の正しい認識可能性の問題とし
瓠餓許され惚危険霧合に賎覧可能性が逃.町屯壽は現実産を遷していてさ﹁凡書犯が域碧い乏
回るたあんは結局何も行為しないでいなければならなくなろうρ , . 引 弓
層・回 どんな行為にでも結果発生の可能性.︵法益侵害の可能性︶が含まれているから、想像力のたくましい人は、過失責任を免
.形成、繕持、,補習を義務づ励ている場合には、なお愚失非難の生ずる余地がみる。
﹁ω 行為時にたとえ彼の行為能力から予見不可能であっても、行為者に対し法秩序が行為時までにもともと一定の行為能力の
れる心
論説
:’1
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
為︵作為・不作為︶を指していることにも現れているという。
かくして、彼は、注意を外的注意と内的注意とに分離したうえで、両者の関係、過失犯構造上の地位を論ずる。
まず、二つの注意は何れも構成要件実現を回避するという目的のための手段であること、そこに統一的機能をもつ
が、この回避のための手段としては、お互に切り離されがたく結びついている。注視という活動は、注意の対象に目
を向けるということであって、その活動11人間的態度は内的、外的注意の総体である。しかし、・回避すべき構成要件
実現の回避のために役立つ手段は無限に多様である。そこで、どんな種類の態度であれ、およそ構成要件実現を回避
しうるものであれば、その一切が注意概念の内容たりうることになりそうである。しかし、回避ということが法秩序
ないし行為者によって価値としてながめられる点で、また、回避に役立つ多くの行為態様の中から一定の選抜を行為
者が行うという点で、注意概念は正に価値的契機を内含し、そのことが注意の内容の無限定性をせばめてくれる。注
意深い人は生活と法秩序の尊重との調和の中でその手段を選択している。例えば、人の死を避けるための一番安易な
手段は始めから人を生むことを断念することである。注意深くあれという法秩序の要求をこの意味に理解することは
馬鹿げている。注意とはとりもなおさず必要な注意である。かくして、エンギッシュは内的、外的注意の統一として
分﹁必要な注意﹂の分析に進む 。
既に周知のとおり、彼は﹁必要な注意﹂を三つに分類する。ω危険行為を思いとどまることとしての注意、②危険
状態における外的行為としての注意、③法尊重義務の履行としての注意。
これら個々の注意概念にたちいる前に、彼の犯罪論体系をみておこう。彼は、メッガーに従って構成要件を違法の
存在根拠とする立場をとり、構成要件を積極的メルクマールと消極的メルクマールに分け、これらのメルクマールの
充足によって違法性が基礎づけられるとする。通常の作為犯においては、当該人間態度が構成要件該当的であるため
39 (1 ●171) 71
’
論.−説
には、その仔為ど結果との断㊨条件園係でたりず・さらにその間に相当性匿9−4§尉が必要である、 その人間態度
がと6に足りなくはない蓋然性をもってその結果を惹起する能ガをもっていることが必要となる。不真正不作為犯に
おいても、結果回避義務の侵害どいう要素が構成要件の積極的メルクマールをなす。
三先ず、笙の注意どしての、儂行為を思いとどまること︵不作為︶としての注意。この注意が問題になるの
は、・作為結果犯においてである。さきに作為結果犯の積極的構成要件要素として相当性をあげたが馬第一の注意は、.
この相当性に関係せねば奮ない。丁度、とるに足りなくはない蓋然性をもって︵3詳。ぎ魯三〇犀弩σqoユ轟g壽冨の90言=9犀。凶け︶その結
果をひき出すとこ、ろの外部的態度のみが構成要件該当的であるから、逆にまた、h相当の条件設定を思いどどまること
のみが構成要件実現の回避に適当なものとなりうるゆ相当性判断は行為者σ立場にたった思慮深い人に認識できる事
情に雪ぎ全経験知識にてらして行なわれる。−結果招来の危険のあ惹確実な程度を基肉づけるようなぞ5いう条件設定
のみを思いとどまれば足りる。旅行さきでの不慮の事故を懸念して人に旅行を勧ぬることを思いとどぎる必要はな
い。㌦この種の注意の内容については、法規,警察取締規則、慣習上の諸規則が参考になる。−・・.,・
・どころで、危険行為を思いとどまるどいう義務が注意義務の内容どしで例外なしに妥当するかというど、そうでは
ないα当然のことながち、この義務は承認された不法阻却事由が妥当する限りで後退する。この不法阻却事由の特殊
な場合が許ざれた危険〇二審ぴ8ゴOo貯ぼα口昌鬼昌である。第一に、危険をおかして達成されようとしている目的が
法秩序によって特に承認されたものであ6こと、第二に、−危険行為が当該目的達成のため必須のものであること3第
三に、法益較量。・このためには多くの観点が考慮される。
﹁ω追及量る目的の意味の大小次命救拗のためか、又は美容上の欠点の除去のためか︶.他方において法益量、の意味の
・・大小︵軽身体傷害か致死か︶。
、
39 (1 ●72)、72
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
追及されている結果の発生のひろがりと危殆化せる法益侵害のひろがり。この点をとくにミルヂチカが指摘している。列
車衝突をさけるため転轍手がポイントを切りかえる。
追及される結果の期待の蓋然性と危険にさらされた法益侵害の蓋然性。医師の手術の場合、治療効果が大きいか小さいか、
生命の危険の大小。﹂
この比較較量はおのずから一定の不安定性をともなわざるをえないが、それは評価の相対性という事物の本性にも
とつくものであって、だからかかる判断が無効であるということでない、とエンギッシュは結んでいる。
=二 つぎに、第二の注意としての危険状態における外的態度の問題にはいろう。これは構成要件的結果をさける
能力のある条件設定を実現することである。真正・不真正をふくむ全不作為犯に関係する。危険行為の実行にあたり
特別の予防手段をとるという義務である。危険な工場経営において走っている聯動に外覆をするとか、警報板をつけ
るとかして身体傷害や致死を防ぐことが命ぜられる。また、免許の有無にかかわらず自動車運転者は道をよぎる通行
人に出会えばシグナルを出し万一の場合には車をとめねばならない。そこで、こ、こには不真正不作為犯における結果
回避義務との関連が問題となる 。
﹁ここでは、注意の問題は、構成要件的結果を回避するための法的義務づけが一般に不真正不作為犯においてどの限度成立する
かというもう一つの問題とその限りで結びつけられる。﹂
第二類型の注意である外的態度はこの限りでは作為義務の内容をなす作為と同視される。そしてここでもこの種の
一般的注意の内容は、労働保護規定や各種業法、警察規則による特殊規範が参考とされること第一類型の注意と同様
である。この第二類型の注意は、第一類型が﹁危険行為﹂を基準とすればよかったのに比べて、その構造において複
雑である。第一類型の注意の中核をなす﹁危険﹂は、クリース以来相当性説のとりあげてきた問題であるが、ここで
39 ( 1 ● 73) 73
(2)
(3)
、ノ
百田
の問題、すなわち結果回避のためにはどのような行為をとらねばならないか、そのとらるべき作為はどのような構造
39 (1 …74) 74
、、、、レ、忌、、f、、.、、ジ駆凡、、、、、、、、、、.、・、、.、.、、、・、、.、、、、、、、、、、、
段階とは全くちがっだ構成要件実現回避の手段が考えられるから。両者の間隙が五〇米のときに衝突をさけるために
き生じている。そこで一体自動車運転者の合目的的態度はどの段階で吟味されるか。というのも、ある段階では他の
㈲ 危険は両者が同じ側で接近しつつあることが自動車運転者に気ずかれた瞬間から相手の傷害の発生まで引つづ
結果にとってどこに危険が存在しているかということが問題になる。
し、‘自転車のりが怪我をしたとしよう。自動車運転者に過失責任がある。出発点は過失致傷の構成要件である。この
の方向を進んでいたち、向うから規則に違反して進んでくる自転車がある。互に相手がどうするか解らない結果衝突
しかし、危検状態遊構成要件を基準として絞る乏しても、それで問題が志づべわけ葱は噸か。自動庫が正←い右側
,.考察の基礎をなす危険状態それじたいは、その回避が問題となっている構成要件の実現を麟みてのみ決定されうる。﹂
になる。母親の適切な態度がとられることによって子供は事故から守られる。⋮⋮
って追越されようとしたり、横切られようとしたりしており、その際、負傷させられたり致死の危険がそこに現存していること
.存在しなければならない。例えば、小さな子供が、吾々が母親の監視を度外視して考えるならぜ、あ軍艦通頻繁な通りで車によ
が外界において実行されねばならないという、そういう場合が目下問題として始めからとりあげられているということの確定が
﹁第一に決定的なことは、特定種類のさし迫った構成要件実現をはかるために、現在している危険状態から、何かあることがら
第一の事実問題についていう。 ・,乱
区別して論ぜられることになる 。
で判断されたところに照応しつつ、第二類型でば、まず純粋に事実上の問題と、次いで義務という規範的問題とが、.
誌奪馨かについては等閑視説てきた︵<αq一・ω● 卜OOOhh・︶とい需第一類型で鰭危険行為﹂と﹁阻却畜﹂.という構造
説
芸△.
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
は自動車を左によせることが適合性のある手段であろうが、一〇米のところになるとそれと同じ方法はもはや相当の
手段とは考えられなくなる。その瞬間ではむしろ自転車じしんが左側にさけるかもしれないことが予期されるから。
ω 基準と認められるある特定の段階にとって危険が存在すると認められ、その結果、結果回避のためのある態度
を行為者がとるべきだとされたとき、次のことが問われる。
どごに危険が存在したか、傷害が可能であると判定せしめたものはいかなる事情か、そして、いかなる事情にもと
づいて今や注意の問題が吟味さるべきか。それは被告人に認識可能であった諸事情のみか、その場所について最も洞
察力があり、もっとも分別深い人にとって認識可能であったものか、或は事後的にのみ認識されるものも含むか。
﹁まず同に関して。致傷にいたるすべての段階が考察されると原理的には答えねばならない。最後の瞬間において行為者が正し
かったか、間違っていたかだけでは砦まらないし、それ以前の段階で結果回避ができたかどうかが問題となる。さきの例で、最
後の瞬間において左にきったところ、相手も右に出たので衝突を避けえなかったとしても過失を免かれない。それゆえ、危険行
ヘ へ
為のあらゆる瞬間において注意が問題となる。ここから注意義務の範囲が広がりすぎることになるが、それを制限するものは、
ヘ へ ゐ ヘ へ
今までわざと取りあげなかった注意義務の問題である。 さきの例で、自動車運転者が自転車をみたその時点で自動車をとめる
一たとえそのことが結果回避にとって有効であっても一ことまではしないのが通常であると吾々はいうことができる。それ
はそうであるが、もしそれ以後の段階で自転車が道をあける積りがないことが解った時点ではこの停車義務がかせられてよいこ
ともある。あるいは、特殊の任務があるのでない限り速度をおとすべきだともいえよう。そして、これらの問題の解決こそ、義
務の問題とするところである。
㈲ 注意の内容の問題は基準的危険段階の問題であ為のみならずまた、特定の危険状態がどこに存するのか、どん煎諸事情が
これを基礎づけたのか、そのなかの何に基いて注意が内容的に規制されるか、どいう問題でもある。上述の例で、ブレーキが正
常に迎いかどうかは決定的な意味をもつ。もしブレーキが用をなさないとなると、二〇米の間隔のところで全く別の危険が存在
したことになる。
39 (1 ・75) 75
三
論
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
・庵しある騰味が事件の認識論的重心にだけむけら九渇ならばい特定の時点において人間の知識﹂般が手に入れうると乙ろの諸
関係にもとづいて具体的危検を判断することができる。この際には、この予察揮基準となる危険状懲発生後に姶めて手κスれう
るものか、蚤そ霊前にも手長れつるかはどうでもよいことになる。従.て、プレ‡庸かある全べ予見不可能な理由か
ら使えなかった乏いうことが事後的に解ったとすれば、このことも考慮され、ごういう事情を計算に入れた上で危険状態を確定
し、結果回避のため行為者が何をなすべきであったかが考えられることになるO
ヘ ヘ ヘ へ
このような考察は,したがって、価値概念としての注意概念の性質とは相容れなくなるであろう。価値概念としての注意が要
直するのは、.ぱし・﹁もっとも洞察力のある﹄人であれ、.そめ人の認識可能な道走がらが注意義務の決定牝供されるということで
ヘ へ ぬ へ
ある。なぜなら、注意億特定め時点において計算可能なことのうえに築かれるのであって酒すべての人間的洞察が関逸りあう事
ヘ ヘ ヘ へ
情にではない。他方、このことは、必要な注意の問題にとっては正に行為者の認識可能性が問題だということではない。それは
ヘ ヘ へ
彼の態度を過失として最終的に判定するために考察されるのであって、・客観的に必要な注意にとっては未だ日程にのぼってこな
ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ コ ド
・かのであるρもつ竜洞秀のある会行為者の立場透いて予見可能であっ藷事情の下で嘉事回避能力のあ藷条件を設
定することが行為者に要求される。・﹂・・噛
この回避能力のある条件設定が当該状況のもとで明確になると、次には、回避という利益のためにその条件設定が義務づけら
・れるかどうかという隠題がで てくみゆ饒務衝突、利益衝突¢ある場合にないかなる義務づけも緋除される。
歩道の渕をぶらぶら散歩している通行人の、とるに足りぬ傷害よりも、もっと重大な目的実現のたあに自動車を運転している
場合にはレもしその注意義務に従うなら目的実現が不可能になるどいうような場合、あるいは又、こOような特殊的なより高い
目的追及ということを顧みるまでもなく、かかる義務づけが一般に排除されることがある。注意義務は一般にあまりにも広汎に
かせられるべきでないとの要求からゆ
この限界は決して裁判官の恣意ではない。例えばある屋根葺職人がある建物の上で改修工事をやっていた。そこに創造された
通行人に対する危険に鑑み、吾々は彼に、道路に立軋をたてて屋根葺作業を指示することを義務づけられていみということはで
きる。しかし、吾々は彼に、徒弟を立て、↓人一人の通行人になおはっきりと危険を注意せしめる義務まであるとはしない。よ
し、そのことが面避手段としてより有効であり、徒弟が別に仕事がなく手が空いているとしてもである。﹂ ,
39 (1 ・76) 76
O
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
ここで、再び一つの点に到達する。 ﹁価値判断と実践の決意﹂が、合理的に要求されることがらを顧みて、どうい
うところに判断をもとっかせるかという点に。
それは、一方において︹構成要件実現の意味とひろがりを考えた上で︺構成要件実現回避の価値とその回避のため
の手段の相対的適性、他方において、その手段が行為者の時間、我慢、緊張についてたてるところの諸要求にしたが
ってはかられる。
一四 最後に、第三の注意としての法尊重義務をあげる。ここでは全過失犯一般が関係する。
行為者は、彼の計画した態度からある構成要件実現が併発するような行為事情があるかないかについての解明を手
に入れねばならないし、彼の態度それじたいの性質、特にその危険性又は侵害回避能力の有無について調査せねばな
らぬし、又はその行為を禁止したり又は命じたりしている法規定の有無、結局において生ずるかもしれぬ特定種類の
不法の認識えと到達せねばならない義務がある。
この類型の注意義務もまた、彼は、事実的側面と規範的側面の両方から考察する。
まず、事実的側面として。第一に注意すべきは、この義務は、特定の表象なり経験なりをそれじたいとして要求す
るのではなく、かかる表象などを手に入れるために役立つ内的外的行為を要求する義務である。この意味で積極的な
作為えの義務である。それは結果回避のために必要な知的前提条件を創ることを本体とする。この法尊重義務の基底
をなすものは、ここでも危険状態のいろいろの段階においての、行為者の立場における最も分別深い人が意識にのぼ
すことのできる限りでの具体的 状 況 で あ る 。
﹁幼児たちが路上に細い針金を引張っていたが、それは一寸した注意では見分けられない状況であった。それは分別人でも考慮
にいれることのできない事情であったから、車の運転者がこの針金をひっかけて通行人に怪我をさせたとき、﹁もっと緻密に見
$9 (1 ●77) 77
■
論’説
液す﹂べきでみったとドうことはでぎない︵国●8\“。二.h眺.︶偶↑ . 、3・. ・∴耐・ ビ 芦,1 ∵内
この判断基底をなす事情が確定されると、次にどういう方法で法尊重義務が遂行されうるかが問題となる。ここで
も基準どなる分別人が事前に予見可能な諸関係を利用した経験判断にもとづいて、いろいろの探索、吟味の諸手段が
考慮にのぼってくる。このなかの何が尊重義務として結晶するかは、.さきにのべてきた方法と同様である。・
ただヤこの法尊重義務は、さきに指摘したように、.あくまでも結果回避といヶ目的に奉仕する限りでの義務である
から、.結果回避義務、つまり、危険行為をやめる義務、危険状態においての凧心深い行為をとる義務が現実化する限
りで問題となるというこどは注意すべきごとである。、この法尊重義務の回避義務への依存性のゆえにこそ、例えば州
自動車を買って乗ろうと思っだ時に、注意深い運転をしょうと心中に決する義務ばないし、医師になろうという目的
をもったからといって医学校で知識を芽につけることを義務づけられるわけではない。
更に﹂この伽存性のゆえゆ、ポぐ主張ざれ惹よヶな・,過失責任が古い時代㊨知誠の養律の欠甑く献騨郎ゆ儲義︶、にあ
るとする理論、法適合的た人格形成に過失の根拠を見る理論がエンギッシュによって拒否ざれることになる。
三五.そこで次にこれ肪匹注意嚢務0犯至論体系上の地位を決定しなげればな砂かい焦,﹂一∴肥づ.,
彼の犯罪堂上の立場について若干前以て確定しておぐことがある。彼はビンディメグの規範説をとらず、構成要件
と違法との関係についてはメツガーの立場を支持している。そこから、エンギッシュが規範という言葉を用いる場合
にも彼はそれに特別の意味をおいていない◎.,. 、 ・・ , .. ・..−. 、
h法定構成要件に書送とられた態度が刑罰感嚇の下にたてられ、従って忌避せられているということを考えるならば、当該法定
構成要件を実現するなという規範、即ち命令がすべての法定構成要件に対して併存していなければならない﹂⋮⋮﹁ある刑罰法
,規から受取らるべぎ規範にどの程度の詳細な把握が与えられようど・,それはそのままにして紅いてよい。ある法定構成要件の充
39(1・78ン78
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
足によって、この構成要件の中に書きとめられた態度が、あるべきでないこと、従って、避けられねばならぬことが確定される
ことで充分である。﹂⋮⋮﹁死を避けよという規範は死を避けるために注意せよという規範と同一である。﹂⋮⋮﹁表象のない
構成要件実現を避ける義務および法尊重義務は、⋮⋮過失による構成要件実現が刑罰の下に立つ場合に、又その限りで認められ
ることができる。﹂
このように、注意義務を構成要件と緊密につないで理解するところに、彼の特徴がある。注意義務を独立の規範と
考えたり、そこから更に未遂に犯罪の基本をおいて、法による禁止・命令は、行為に対してのみ有意味であって、結
果を禁止・命令することは無意味であるというフェルネックの考え方への反駁が生れる。他方、依然としてエックス
ナーが過失理論に示した大きな功績にもかかわらず、彼が過失をあくまでも一義的な心理的事実関係とし、注意を表象
を生み出す精神の緊張と解するにとどまって、失火、過失致死、過失致傷など、すべて過失犯は一様な同質のものと
し、 ﹁注意の目的は変わるが直接の内容は常に同一である﹂とすることに強く反駁する。外的注意としてのエンギッ
シュの過失論は、当然のことながら、構成要件、しかも、個々の構成要件と密接に結びつくのである。
﹁⋮⋮犯罪は可罰不法である。つまり、構成要件該当の不法である。⋮⋮不法を構成するすべてのメルクマールが構成要件の中
に入りこむ⋮⋮行為の危険性⋮⋮は正に構成要件該当性のメルクマールであり、、違法な結果の発生もそうである。ここに、必要
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
な注意の解怠という要素の体系的地位の基礎がある。この注意の解怠が危険な行為の実行を本体とする限り、又は、生じうべき
構成要件実現を回避するための命ぜられた外的行為をとらなかったことを本体とする限り、吾々がそれを構成要件メルクマール
どして位置づけることは何ら不見識なことではない。.なぜなら、吾々は既に構成要件のなかに、一方において相当性﹀魯ρ爵自
を他方において不作為による作為犯における法義務違反を入れてきているのであるから。また、吾々は、支配的見解に従って、
﹃許された危険﹄を一つの不法阻却事由、つまり、消極的構成要件要素とみとめているのであるから。﹂
彼は法尊重義務も、それが第一、第二類型の注意に従属すること、それじたい内的、外的行為の総体であることか
39 (↓ ●79) 79
一∴
やはり所為側面の問題に位置づけ、構成要件に位置づける。[
39 (1 剛80) 8q
ら、
﹁かくて吾々は注意の内容を決定する二つの契機へとおしやられる。第一の側面においては、ある特定の構成要件実現を避ける
ために何が能力があるか、αq8一αq昌〇二曾ということの吟味をすること、、もう一つの側面は、法秩序の観点からして︵その目的の
ために何が要求されるか。寓oaoユ貯ゲ凶馨が問われねばならない。三つのグルτプのすべての注意行為においてこの二つの観点
がだだされた。 その際一般に明らかにな・つたことは、その適合性雪下昌ξσqと必要性国臥oa9一一。蒔。津.とは、その実質的内容
をそれぞれの事件の具体的な諸条件によって受取るということ、.注意義務はそ¢意味酒は一般的︵形式的︶であって、前もって
書ぎとめられたザッ公リ.ッヒに正確に規定された行為態様として個別化されえないものである。﹂’ − ﹂ : !
し ロ
ただここでエンギグシュは注目すべき主張をなすのである。注意の三つの類型のうち、第一の﹁危険存為をやめ6
こと﹂㌔、第二の﹁危険状態において予防措置をとる豊と﹂という禁止と命令は、実は、φ過失犯に特有の構成要件要素
ヘ ヘ へ
ではないというのである。.つまり㍉前者の禁止はか故意作為結果犯において、実行行為入危険行為︶と相当の結果と
いう構成要件該当性のメルクマゴルにふくまれて・いる﹁相当性﹂と同じ内容のものであり、後者の命令も、故意不真
のされ液着し麦障が歌と号。.ご、..㌧.,,.凪..,,記..ゼ、..冒.,、、
性説﹂に関連する限啄では、.もつ,と広い、古い問題であるが、エンギッシュはこれらの個人的事情が考慮される、そ
などは、’注意の認定を構成要件の問題として位置づけるごとに一つの問題点をなげかける。この問題はそれが﹁相当
なるゆ ﹁行為者の立場にたったもっとも分別ある人﹂とか、,難聴・近視などの感官上の毅疵、専門知識の欠如の考慮
ヘ ヘ ヘ ヘヒヘ へ
ξζろで、行為の危険性の評価や予防措置の内容を判断するに際して、具体的な行為者の立場が考慮されることに
正不作為犯の﹁作為霧﹂浜かなら奈というのであゑ舞三園盤難羅.“塞蕗.難難器鋸露蕪
纂警羅雑聾聾蝋思警繕雷娯磁粗酵啄強襲臨罐鷲難脚纏評露磁窺耀︶。
︶
論税
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
﹁今まで述べてこられたことが示しているのは、注意義務を尽すために問題となっている手段が行為者の個人的特徴にてらして
有効かどうか切冨⊆。菩9閃Φ淳ユ頸寓一詳。一ということが決定されるということだけである。﹂
﹁このように、義務が更に可能性を、特に行為者の特別の能力と経験を前提にすることが確定されても、それは他方において、
直ちに注意義務が無造作に回避可能性に依存せしめられることを正当化するものではない。むしろ、私の見解は、一つの点にお
いて必要な注意は原則として客観的に確定されるということである。﹂
﹁行為者が命ぜられた注意を用いることができる状態にあるというためには、この認識可能性が前提であるということは成程言
明されているが、その認識可能性に義務づけの発生コρ9σq﹃o竃。口血響く臼葺一翼耳巷αqを依存せしめ、その結果、認識可能性の
ないところには注意義務もまた脱落するであろうとまで、私は決心することはできない。﹂
ヘ ヘ ヘ へ
﹁まず、注意義務の、その発生の認識可能性への依存性は、注意がさきにみたところの個人的諸特徴への依存性と同じようには
要求されていない。次に、そのような注意義務の認識可能性への依存性は実定法の構造に矛盾する。認識および認識可能性は、
ある特定の構成要件実現をさけるため現在するものと前提ざれた注意義務の事実的基礎にかかわるものである。それは、この義
務の事実的基礎をその内容としてもたねばならないが、しかし、この義務そのものを基礎づけるものではない。﹂
=ハ このように過失犯の構成要件要素としての地位を与えられた三つの類型の注意は、さらに過失犯の責任要素
としての行為者の能力を基準とした﹁予見可能性﹂国蒔Φ目ぴ帥蒔①律の対象をも画する。
予見の対象となるのは、必要な注意の解怠を基礎づけている諸事情である。行為者は彼が危険な行為を実行してい
不法阻却事
ること、又は、構成要件実現をさける力のある予防措置をおこたっていること、を認識できなければならない。法尊
重義務としての例えばある照会の合目的性と可能性を予見できなければならない。
以上がエンギッシュの過失理論の大要である。所為の問題としての注意概念が類型化され、構成要件、
由、責任要素の中にそれぞれの問題が明確に位置づけられた。
39(1・81)81
説,
論
︵1︶切ぎα言σq’Z曾ヨoP宅︵μOお︶ω・おω1窓。。●彼はこの法理の形成には、﹁相互に対立する二つの価値の比較考量﹂という
ヘ ヘ へ
ヘ ヘ へ ぬ ヘ へ
.点で緊急避難の連理の考察方法が基本葡に有益であ惹が︵﹁しかし、緊急避難においては常に一つの救助行為の採用の必
す﹂∼要性方問題であるのに馬,以下の場合ではすべズ吻可能な行為の操凋の必要性が問題である∵こてから次のてとが明らかに
.なる。いわば極めて切迫した情況をのみ対象とする緊急理論は一般に危険の理論にどって基本的考察方法を除けば余り役
ゴにたたないトと述べている∂そルて﹂許され允危険の法理の形成に貢献した学者として、沁9角ぎoq噂Uδ。ま歪醤・O冨・
吋慧彰。>×××︵ド。。危碧N。な嚇誉鳴一国二gu⊆畠首書。噸ω臓3一・。。。。馴く菌冨臆犀。湿。・登=ω宣昌﹃雲件愚ωω窟
−﹂一瓢帥。﹃3ω罰昌4・&。響げ”岳5。﹃ωp膚月h=。耳8剛胆驚昇沼目ω¢茜9蓄昌巳⊆頒弘。。o㎝をあげ乃。この最後のズ献で凡・ツルヶ諏
、,、.はビメディングが一,八九四年夏の講義でこの法理を墨書しだこと、しかし、.ビンディングがこの全問題を過失︵責任︶がか
⋮げるという観点から考察したことを批判レ∴正に違法阻却事由が賜題であるとしている。ビンディングは、この批判に対
点て、、既迄そのてとは董ーリュコが指摘ルているところ宅あって?ての点億、モ﹂リュヨ庵、メル〃ルも歪︽正当葱あみ
と自己批判している。ただ、自分の本意はこの適度の危険を伴う行為が故意犯として成立しているばかりでなく、ややも
すると認めりれ勝ちな過失犯の成立をさえ否定しようとするどころにあったと弁解している。層そして詐された危険の法理
が違法阻却の問題であるこどを繰返し強調した学者として、O冨h斗︼︶◎冨P胃9五爵今一αq帯ぎω・ム。。り。砦圏件乏認
︵μO二︶幹ωNご客﹂O㌧覧をみげ、更に、︾財崖路﹃翠寓似ωω一〇q諸等‘ω●ドω側ご民桝寓話ゴ忠β玖町嫡缶Nいく●ロロ勘讐 ・
曽ケ昏α口●象ωo蒔昌ψ戯認既嚇工甘冨塁.≦y箆↓り・国.ω●㎝①。。り客ωW、寓●国.浮屠ザンρ噛幹、一α誹ひωOO自をあげでい
−・る。、ミルヂチカの危険概念の分析には価値をみとめながらも、第三の責任形式剛認識責任﹂には反対している。
三
一戦後のわが刑毒境論の発展は、不破武喬士の﹁過失論﹂︵肇難羅雛畿喋堤︶の皇に始まる果
破博士の過央論の特徴は、“まず、人格責在論の立場から下れを説みれた点と馬エックースナーらによりつつ、 ﹁許され
た危険﹂の理論を通じて、過失の注意義務がある意味で行為の違法性に関することをわが国で始めて指摘された点に
39(1・82)83
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
ある。
不破博士は行為の決定的瞬間には他の行為への自由はないとして、いわゆる意思自由論を否定しつつ、なお、 ﹁行
為主体が生きた自由な人格である﹂﹁人間は一切の歴史的なもの及び環境的なものに決定せられつつ、而も歴史を作
り環境を作っていく精神として存在する﹂とされる。これは人格形成過程における自由の契機をもって責任非難の基
ヘ ヘ へ
礎とする考え方であるが、しかし、この契機は不破博士においてはただ理論的に刑事責任を﹁道義的﹂非難とよぶた
めにだけ採用されているように思われる。行為が人格相当であるから非難ができるとされながら、刑罰の大小はあく
までも犯された行為の大小であるとされ、行為者人格じたいの反法性︵﹁利己心に充ち法秩序を尊重しない意識無意識の心構へ﹂︶の大いさ、行為と
の親和性の程度についてこれを解質的に責任の程度、ひいては刑罰の大いさに構成しようとはされないのである。人
ヘ ヘ ヘ へ
格は、 ﹁あくまでもうちうちであって謂わば間接的な事柄﹂にすぎないのである。責任の根拠と責任の量との間に理
論的亀裂がある。不破博士は、過失が故意とならぶ犯罪の責任条件であることから、重大である必要があるとされ、誰
でもが遵守している通常の注意を解価する場合に限るべきであり、正に判例にも現れているこのような苛酷な注意義
務の認定について、 ﹁許された危険﹂の法理を掛遍しつつ、過失の範囲を﹁相当な注意義務﹂の枠内におさえること
を志向されるのである。
エックスナーがそうであったように、不破博士においても、過失犯における違法と責任との関係はいまだあいまい
なものであった。注意という概念はいまだ﹁意志の緊張﹂として把握されていて、違法性には直接結びつきようがな
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
く、注意義務の不遵守がない限り﹁当該の作為不作為は実質的に法秩序に違反するものではないが故に、如何なる不
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
幸な結果を生じた場合にも違法ではない﹂とか、﹁その注意義務を遵守する行為は違法ではない﹂とされ、注意と違
法との間に﹁行為﹂という媒介がおかれている。高速度交通⋮機関を始め、他の一切の危険業務の遂行に関する注意義
39(1・83)8尋
39・( 1守●。84》841・
務の標準は、ハ﹁一般にその種の行為によつで追及せられる目的の法的価値の大小とその種の行為によって生ず惹法益
肉体的欠陥、知識・経験の不足、一時的精神低格をも計算にいれて、義務を確定することを予定していた。エンギッ
の能力をかなり思いきって義務の事実的前提としてとりこむ必要があったβたまたま、エンギッシュの注意概念も舟
ュの外的注意の思想と結びついているのである心注意義務違反を文字通り義務違反どして構成するためには、行為者
ヘ ヘ ヒ
発想︵黒兎亀攣噴蕩鯉劉鷺吻ぎ、違法の中核を法益ではなく霧におぐという思想がみぎのう号シ
責任の内容から何を違法論に移すことが可能かという点にむけられていだといっでよいρ違法と責任との関連といヶ
へ ヘ ヘ ヘ へ
があったことと、、.既に目的的行為論による故意論が平野教授によって説かれた今、 井上博士の関心ば、・、従来の過失
・ただふ井上博士においてば、不破博士から受げつがれた過失責任の振拠を人格責任論からとりあげよケとする立場
これを結果回避義務どして統括し、過失犯り違法性についての土シギッヅ肥り思者を継承されたσでみるρか一・,匹
を咀らかにしょうと努力嚢た︵井上正治b過失犯の実証的研究︵昭二五㌧︶。三ンギ字シ.み外的注意としての三つの類型が早速採用され
的行為論による故意論との成果にたっ、て、巨的的行為論による過失論の構成を試みられ♪その違法と責任どの結び且
.葡.7弄上正治博士は、木破博士の人格責任論を継承ざれ、その上に、Fエシギッシゴの過失論と、一平野教授によゑ目
るゆ .,’㌦一、n.n♂ . “. 隼
の不注意として構成する伝来的な思考の枠は、 そう容易には、 二つの問題の結び目を示してはくれなかったのであ
らず、その結びつぎ方にほなお明らかでないものがあウた。法益侵害を違法の中心におき、過失を心理的事実として
いケ概念と﹁危険の許容﹂という開題がエ・踏クナレにおけると同様、始みて結合してどりあげられているのにかかわ
しハ法益衝突をめぐ る比較較量という実質酎違法性め中核思想が既に語5れているのである。ど﹂二でばも不注意旨お
侵害の蓋然性およびその程度の比較較量によって定まる﹂︷とされて、﹂∴面こ忙億、明らかに、一注意の内容の決定に際
論説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
シュは、責任判断とは異なる欝諏要素︵不法を基礎づける要素︶としての不注意の確定に、これらの行為者的事情を加えるこ
とが妥当かを充分おそれながら、そこを渡った。井上博士においては、むしろそのことは理論的必要性をもって行な
われた。
エソギッシュの理論と井上博士の理論の決定的なちがいは、井上博士における一種の規範論と結びついた人格責任
論にある。エソギ・シュは、構成要件を実行行為の定型性︵法益侵害の高度の蓋然性︶、結果の相当性︵駅雛齢経︶を中心とす
るいわば結果中心のもの、 厳格な行為類型として観念し、 そこから過失犯の客観的構成要件要素としての不注意
︵懸をひき出してきているが、井上博士においては、欝要件をむしろ行為者類型的鐘解しようとする思考があ
る。過失犯の具体的行為過程について、不破博士同様、そこには道義的非難の契⋮機がないとして、専ら行為者の平素の
法秩序に対する無関心な姿態構造にそれを求める人格責任論の立場は、エソギッシュが構成要件要素としての外的注
意を、まさに構成要件そのものから論理的にひき出し、過失致死と過失傷害における注意すら理論的に区別しようとし
たのに対し、井上博士は、規範的評価と可罰的評価の区2一、行為規璽常世整の︶と裁判規範としての刑罰法規と
いう規範論をとかれ、いわゆる外的注意にいう規範をも、構成要件によってではなく、債権法、親族法、官吏法、警
察法などの法秩序じたいによって基礎づけられる。これは、さきの人格責任論からくる一つの要請でもあった。
﹁禁止さるべき危険な状態は、直接結果の原因となるものから遠く危険の条件となるにすぎないものまで、無限の段階を含むも
のである。規範的にみればその一切が禁止されていると考えなくてはならないが、可罰的評価は、その間に修正を必要としてく
る。それ故、結果の実現を回避すべき注意義務も、可罰類型たる構成要件から論理的に演繹しうるものではなく、可罰類型をは
なれた規範的な問題で︵ある︶﹂⋮⋮﹁過失犯が規定されその処罰が前提とされる限りにおいてのみ、法益侵害の危険性を回避
すべく義務づけられているとは考うべきでない。﹂⋮⋮﹁過失に特有な注意義務の体系上の地位は、可罰的違法類型たる各個の
39 ( 1 ・85) 85
に例えば﹁自動車を停車させる﹂とか、 ﹁車掌を下車さぜる﹂とか臨機の措践をとることが要求されるが、それはあ
伺楚羅論るとい乏と︵勿論、この点はエンギッシュのいう意味での類似性ではなく、国法上の犯罪から遠ざかる義務︵刑事責務︶の意であることに注意︶∵わゆる注意霧の内容
(秋
39 (一1 ●86) 86
過失構成要件から導ぎ出されるのではなく、より規範的に無秩序の要求に直接の基盤を見出すと考うべきである。﹂︵井上正治
R哲治・刑法における過失責任の特質と本質、同志社法学=号四二頁︵昭二六・一二︶︶。い謬る結果回避霧は過失責任に特有のもので婆べ故意責任庵
三同志社大学秋山哲治教醤井上博士㊨過失論を通説、︵難壁塾の立場から批判されることになつだ
過失論の独自の発展も庭始意。. !・. . ,. 、﹁
蔑のう券叡診ぎ竃鐘塗のからぎは漢と言2肇。毒結果呵避真書傍.、ヅ僅シ、理
強の形式的類面罵しかkその後の寝違井キ平野馨榎略、憧れ逐宣撫時匹董博士の
鼻上歯誘言論陛襖性竜で羅果耀重い責任竜誘遺愛性と珍婁を識諺式聖帝論
伴ぞ喀.芝山摩べ二三∵ 二一ビ‘ 触ゴ .輩髪
基礎乏内容をお掃うど港れる立場ば㌧基礎乏吋容の間に亀裂之そないが、伝来的な意味で⑳﹁責任﹂の観念の放棄を
庵象夢嘉畢豪者宇摩ゆ堵㌣垂髪人格をど臭資格と行為む親和性に書房
気付くのである・.蚕・,弁上書士の人皇任論は∴ざぎに指摘知よ高平紐藩と責任の実定的窪との問
るのは、博士が人格私成過程に存する巨星の契機におかれ為非難編首、言葉は伺一だが、内容が異なっているごとに
分的には符合する思考がある。 ﹁行為が人格湘当であるから行為者が非難できる﹂という不破博士の言葉に現れてい
を残される点に理解しにくさがある。今日、平野教授によってあらためて強調されている﹁やわらかな決定論﹂と部
不破、井上両博士の人格責任論は、意思決定論にたつ点に抽特のものが毒添。しかも人絡形戒の麺程に伯由の契機
・,過失犯の構造、九五−九七頁︶ ・ . , ‘ ・、 ・ ,. , ・
論説
くまで結果を予見するためであるとして、外的注意についてそれ程の重要な意味を認める必要がない、とされた。
井上博士は早速この批判に答え︵井上正治・過失における注意義務、法政研究二〇巻一号、昭二七・九︶、﹁結果は過失の属性である﹂、遍失の未遂は
理論的に考え得ないL、﹁結果回避義務は過失特有のものである﹂、﹁結果回避の可能性は行為者の心理的.生理的可
能性を予定するが、倫理的可能性︵薩の︶を含まない﹂とされた。
この論争は、エンギッシュー−井上理論における外的注意による過失構成をめぐる最初の論争として意義深いものが
ある。通説の立場からする反論として自然なものと受取られた。秋山教授は、その後も、外的注意の特別の意義を否
定され、過失の違法性は結果の発生につき、生理的、心理的可能性を違法評価の基礎におけば客観的違法論からはみ
出ることになるとされた︵鰍糖襲撫敦請墾畿遮蔽叱蓼。
この最初のラギ・シ﹃井上理論に対する通説の反論は、平野教授の参加によ・て更に白熱する︵獲讐雛
平野教授は、結果回避義務とは過失に特有の義務でもなく、注意義務の内容でもない、不作為犯と意思決定の義務
を混合した不明確な概念で過失の概念構成にとり害あって益のないものであるとされた。作為義務にしてはあまりに
も行為者の能力がとりこまれすぎて意思決定義務に近よりすぎているし、また注意義務の本体を外的注意におく点に
つ い てはこう批判する。
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ふ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ヘ へ
﹁警笛をならさなかったこと、徐行しなかったことなどは、作為義務を怠ったものとして不作為犯成立の一要素であるか、意思
の緊張を欠いたことの証拠として、予見義務違反の認識根拠であるかのいつれか、又は双方であって、それじたいが過失の要素
をなすものではない。﹂
外的注意の理論が﹁先行行為的なもの﹂を過失の本質とすることは﹁それだけ古い結果主義的客観主義に逆転して
39 (1 ●87) 87
肇諜謬二耀︷二︶。
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
39 (1 ●88) 88
し ぎ う ﹂こどを指摘された。,
さらに、目的行為論の延長のうを過失の違法性を求めるならば、内的注意︵予見義務、予見可能性︶の中にその契機を求める
べきであり、さしあたり、客観的注意能力、客観的注意義務を、過失責任論かち過失の構成要件、違法に移すことを
考うべきであるとされた。
その後、井上博志目的行為論の野饗関連して過失の違法性を論じられた︵麩麓﹁帽欝墨壷縣鮎鎌刊
」㍍批︶。目的行為論窪法性に責任怪の絶念を見出すための手段にすぎないという立場から.逸失行為にお
直接関連ずる。、、エンギッシュは過失犯において結果ば刑事政策的に要請されたものでう 理論的に過失未遂の可能性
特有の要素と解ざれている。これにその基礎にさらに馬過失におゆる結果の意義についての両博士の理解のひらきど
型の注意は故意犯にもそれぞれ同質の要素があるごとを指摘していたが、井上博士においては、結果回避義務﹂は過失
−まず、井上博士の結果回避義務とエシギ勢シヰの外的注意との差異である。エソギッシュは少くとも第一、第二類
この論争を今の時点から回顧するとき、・いぐつかの周題を指摘するごどができる。 ,右・ , い ∴h..
犯の実体は、新過失論で把握される実体によ?て、基本的な変形をとげてしまうことを的確に指摘ざれだ。・.
過失論全体に対して、一・通説の立場からする基本的な批判を含む慰のである。伝統的過失論によって描かれでぎた過失
論文に紅ける外的注慈に対ナる批判は︾こ.の後に生れる、・ヴ洩ルツェルー藤木理論による過失構成にもまたがる、新
ける過失論構嵐の全貌が明ら・かになると共に、そ㊨問題のありかは自臥0もとにおかれるこどになった。.とぐに平野
この井上、秋山か平野論争は、戦後過失論の発展に画期的な役割を演じた。ここに、エンギッシュー−井上理論にお
ないとし.違法要素を行為者人格にかかわらしめて構成する努力が第一.次的なことであるとざれたド。﹂
いてもその違法性を評価する場合、すでに責任性の懲表を見出しかれば足りる。目酌行為論じたい嶋拘泥すを必要ば
期冶
説
払
百冊
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
を認めている。 過失犯としての行為の構成要件的定型性を手がかりに外的注意をとりだし、 それを危険の程度
︵犠的︶と浅づけの相当性︵舗的︶を中核に過失犯の違法性を構成したラギ・シュと、霧思想を違法の中心に
おき違法の中に既に責任の契機を織り込もうとされ、外的注意の構成のなかにある事実的側面を制約する行為者じし
んの認識︵相当性の判断基底における行為者の認識した事情︶、規範的側面におけ蒋為者の面謁心理的可能性や蒔的精神低格とい灸行
為者的なものを中核に過失犯の違法性を構成した井上博士との差、そしてそれは、 ﹁予見しなかったことは予見でき
なかったことである﹂という硬い決定論のうえにたって人格責任論をとられる井上博士の犯罪論体系の特徴でもあっ
た︵蕪徽繋ど賜袋塚響餅一騎齢隼難難脈難謹選研減、︶
つぎに、外的注意の問題について、井上博士特有の背景があったため、許された危険の法理をめぐるエンギッシュ
ー井上理論の提起した新しい問題がこの論争の中心から脱落しているのを知る。ここに、ウェルツェルー−藤木理論と
いう形で、もう一度﹁外的注意﹂の問題の真随が提起されなければならない必然性があった。,井上、秋山、平野論争
は、この意味ではあまりに早く打切られてしまった観がある。これは、平野教授が予見義務の客観説のなかに端的に
過失の違法性をみようとする発想にも現れている。外的注意の中核は事実的な危険という点よりもむしろ、規範的な
法益衝突のなかから義務が特定されてくるという点にあるのである。 ﹁許された危険﹂の法理として過失犯論に密接
して発展してきたこの問題の意義は、 ﹁予見﹂という事実的な危険をめぐる論理構成からはっかみきれるものではな
い。客観的予見可能性という思考は、 ラレンツ、ホーニッヒによって、 相当因果関係説として既に固つたものであ
︵2︶
る。それだけではエンギッシュの外的注意の提起した問題について充分に対応したことになっていないのである。
四悪薙教授はまさにみぎの過失論象おとしていった問題を正面にすえて過失犯の構成をとげた︵出獄鮮
髄暴馬錐︷︶。ドイツにおいて曳ラギ・シュのあと、法理論の発展があ.た。具体的秩序高話社会的相当
39 (1 ● 89) 89
39 (1 ●90) 90
性、民的的行為論による﹁行為無価値﹂の思想がそうである。ニーゼ、ウェルツェ・ルの過失論もわれわれの知るとこ
のであるが、過失犯に蔚ける注意の内容としての行為の無価値は、,裸の意思の無価値ではない。何らのうめ合せので
果無価値の一つの形式にほかならない。元来、行為の無価値は意思の無価値においてもっとも明確にその本意を示す
が、..それが行為の危険性を意味していないのは当然である。危険性もまた、行為の因果的意味の﹁つに外ならず、一結
結果じたいでなく、行為の態様が違法性に影響する乏いう思想は、﹁もちろん、行為じしんの意味を問うものである
中心である注意概念そのものを、規範的に、︵事実的な危険性概念をこえたものとしての︶違法性にふさわしく、構成する必要があ・た。
ッシュの構成した過失の違法性は、どことなく、過失論として疎遠なものが提示されている印象であった。過失理論の
いに規範的要素を危険性之対抗してがかえていたが、それも故意犯と共通の作為義務のことであってみれば、エンギ
れた危険は不法阻却事由として、・いわば注意概念の外側で係わσあヶにすぎなかった。第二の注意は、.その構造じた
観念が構成要件要素とされたものの、.第一類型では、行為の危険性を示すのみで、そこには規範的評価はなく、−弾ざ
い違法の観念によってうら5,ちされることになったのである。エンギッシュの理論においては、 ︵外的︶注意といケ
的側面である危険性の背後にかくれがちであったところの規範的側面を正面におし出し、 ﹁行為無価値﹂・といヶ新し
この行為の態様を問題とする新しい﹁社会的に必要な注意﹂どいう観念は、土ンギッシュにおいては、行為の事実
−﹁過失とは、社会生活上必要な注意を欠いた落度のあみ行為である。﹂
・理状態のあり方としてではなぐ行為そのもののあり方としてとちえるべきであり、またとらえることができる。﹂
い。かような要求を満たさない行為について始めて、,行為者の心理的、主観的態度を追及しうるのである。過失とはここでは心
.﹁過失犯においては、まずある行為が結果発生を回避する見地から適切なものであったかどうかが問唐どざれなければならな
ろとなった。藤木教授はいう。 ・ ,ド
論説
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
きる社会的必要なしにあえて危険な行為をしたり、自ら造出した危険状態のなかで事態に見合った予防措置をとらな
いということに過失犯の違法の中核をみょうとする。しか曳その際作為不作為の危険性︵法益侵害の蓋然性︶じたいではな
く、その危険な行為を思いとどまり、予防措置をほどこす手段が、それぞれの具体的事件のなかで危険の大いさと、
うめ合せされる社会的価値の質量、予防措置に必要な負担が比較考量されたうえで、禁止・命令の具体的内容が補充
されるのである。過失犯の違法性は結果の発生にでもなく、行為の危険性にでもなく、具体的事件ごとに法益較量の
なかから定立される規範に反している点にあるというのである。ここでの法益較量は、許された危険の法理の内容を
なす法益較量とは、その役割の果し方が違・ているのである。ザ・バリ・ヒに特定されたある具体的な作為︵囎矯危︶
が抽象的、一般的に初めから禁止されているわけではない。又、ザッハリッヒに特定されたある具体的な予防措置が
命令されている︵道交法その他の行政法の命令がそのまま過失の命令ではない︶わけではない。特定の行為の危険性とその行為が同時ににな・ている
特定の社会的有用性との比較ということがここでの問題ではない。危険と有用性とが相互に関係しあいながら、又そ
の内実を変えながら注意義務の内容が事件ごとに確定される。構成要件的行為の内容じたいが法益較量のなかから生
れてくるのである。通常の違法論で行なわれる法益較量のなかから生れてくるのである。通常の違法論で行なわれる
法益較量のように、 判断にはいる前に特定の禁止と特定の許容が与えられているという事情はここにはないのであ
る。過失犯における注意義務は構成要件要素であるという主張もあるが、行為の危険性にではなく行為の規範的意味
に違法の中心をおくのであるから、むしろ構成要件と違法とが引はなし難く結びついているというべきであろう。エ
ソギッシュの過失論からウェルツェルの過失論への進展は、 その発想の点も、 判断構造も、基本的には同じである
が、その間にやはり、構造のどの部分に重点があるかという点になると、事実的側面に重点をおくのがエンギッシュ
であり、規範的側面に重点をおくのがウェルツェルであるということができる。そこにまた、行為無価値を違法の中
39 (1 ・ 91) 91
、脚
かから、ある類型化を経験的に求あよゲどざれるところに二般理論的意義があるが、類型化したそのどころからその
にその展開をたし終えだといつでよいであろうひ内田文略教授の過失論ば、どくに規範的評価の部分の無限定性のな
.新過失論によ為過失犯の理論構成は、その構成要件陀違法性に関する限り“ヴェルツェルー−藤木理論においセ完全
顛四三繍のの縫︶が岱裸の法喜量︵難嘩によ.て創設されるとい魚を指摘するものであゑ.、.
である﹂というきびしい批判が登場するが、それは、・このように、刑罰の対象となるザッハリッヒな行為の記述
へ
39 (1 ●92) 92
心と壷聾しい違法観の墾があっだ。藤木教授は㌔ぞζに社会倫理の観点を指摘ざれでいゑ糧難羅塑議
γ縮誓書諮鼻詰鰍織讐麓過黙雛驚輪講器黙黙⑳畿裾ぎ∀。喬0行動にかかわゑ礫灘
るところに要点があ為画影に指摘するよヶに平野教授によ・って,﹃新過失論による過失犯の構成は罪刑法定主義違反
不確かさが義務違反の程度に達して−い6というごどにある。まさにその運転が、噛違法であウその予防措置が違法であ
ヘ ヘ ヘコヘ ヘ へ
愉が問題なのでは怨い。その事案においてその危険が許容の限度をこえている運転であ6こと、その後方確認による
が、発進に際して一度バヅクミラrを覗いてみだだけの後方確認め不確かさとかいう特定の作為、不作為の裸の危険
へ ぷ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も イヘ へ
侵害の経由が問題になるZ頗ヶのも、そういう趣旨であって、単に自動車の速度が時速何キロで危険な運転でみると
リ ャ コ ロヒ しロ の ロくユリヒ ロ サ レノ コ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
された危険の限度をこえた行為、,事態の状況上義務つげられた措置をとぢなかったことをさしているのである。法益
登窯返す吉匹府誰篠性難服毒盤然屡み.、ど濃なく選益饗の現道な客落講堂募
騒誘塵藻雪隠︶無調をなすの嘆,法益馨であ発寒無価値に㌢行為態様の連隆というのは
業の中に裡会倫理た要素がいたをとこ与にみら煮るのは事実であるが辱しかしパ要すをに規範的評価︵島駝蜘右脚論卿
となること、規範的評価には一般的な思慮深さが、危険判断には分別←のる人が前提になるなど、注意の確定という作
鶴︶慣翠蓋道繁どの現情も規範的評価に際して考慮される,、煮危険判断隠通笑の認識嘉集荏
論.説
信頼め原則と過失犯の理論(井上)
類型は新しい危険類型に変質してしまうのではないであろうか。まさに無限定、無類型に残しておかれるからこそ、
規範的評価、裸の違法判断の行なわれる余地があるといえるからである。新過失論にとって罪刑法定主義違反をのが
れる途はやはり残されていないのではないであろうか。
五 新過失論は、さらにその過失固有の責任論になお問題を残している。既に強調したように、過失犯の違法性が
結果や行為の危険性にないとされる以上、過失責任の中心である予見可能性の具体的な対象もまた、当然、事実的側
面から規範的側面に移行することが要請される筈である。故意における意味の認識に相当するものは、結果や危険性
の認識可能性で足りよう。しかし、違法の認識ないし認識可能性という責任の中核をなすものは、過失犯においても
やはり要求されよう。事前に抽象的に禁止、 命令が与えられている故意犯と異なり、 行為時にたっての判断ではあ
れ、事後に具体的にのみ創出される禁止、命令についての認識可能性の問題がやはり過失責任固有の問題として必要
である筈である。罪刑法定主義に反した犯罪の構成は、責任論において重複された姿でその矛盾を露呈するものとい
ってよい。
藤木教授は、過失責任としては、 ﹁注意義務を遵守し得なかったことについて行為者を非難しうるかどうか﹂を問
題とすれば足りるとされ、真意能力Lを問題とされる︵八七∼九三頁︶。そこでは、技量が通常人以下である場合や疲栄
酩酊などによる一時置能力減退がとりあげられる。しかし、これらの問題は、具体的内容が外的行為の実行の能否に
かかっている場合でも、所詮結果、危険性の予見可能性をめぐる問題領域に属するものであり、伝来的過失論の責任
問題をいでない。藤木教授は﹁予見可能性﹂という言葉を責任論では避けておられる罵れども、実質は、それが責任
の内容をなしていることは否定できない。危険の許容の限度をこえていることの予見可能性、当該予防措置の不充分
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
さが義務違反の域に達していることの予見可能性!もっとも事実的側面において本来有意味な﹁予見可能性﹂とい
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
争9(1・93)9$
説
’5術語をここで用いるのは不適切であるが一が当然とわれて然るべきであり、しかも酒それは、過失犯について違
論
法認識の可能性を正面から問うことでもある。結果や危険性の予見可能性は、正に責任の中核である違法認識の可能
性の前段階として必要なものであるが、目的行為論からは、むしろ、この﹁随伴的﹂結果響忌夏潔鼻繋成︶
の予見可能性は、行為者の予見能力として、﹂構成要件外的結果にむけられ.た目的意思と一体となって、過失行為その
ものの要素、行為要素とする方が自然でさえあろう。新過失論を目的行為論の立場で構成される井上博士や藤木教授
が、一その過失責任論において伝来的な構成に満足されるのはどういう意図であろうか。 、∼,.−
六.福田平警は、目的行為論の立場から同楚新過失論を展開された︵福田平・過失犯の構造、刑法講座3=九頁、昭三八・五︶。非故意の行
為の具体的遂行が客観的注意鐘反した場A肝︵行為遂行の不適切性11行為無価値︶、この行為は構成要件に該当す毒すなはち、客観的
注意に違反した非故意の行為が過失犯の構成要件における構成要件的行為 ︵実行行為1過失行為Yということにな
る。そして客観的注意の内容として、結果の客観的予見可能性と結果の客観的回避可能性によって具体的に確定され
るとされる。・そして、この径強島影︵客観的注意違反︶ほ結果を惹起したかどうかにかかわりはないが、構成要件は過
失を結果犯と構成するこ乏により︵この行為の不適切性が、,ド具体的結果に実現した時にのみ可罰的となる。,ここで過
失の構成要件該当の行為は蓬法阻却事由︵壁絵翻離礁諜罐膿離騒楽寝齢︶のない限り違法となる。過
失責任の問題としては、,行為者が彼自身の能力かちしてその結果を回避するために適切な行為をとりえたかどうかが
問われる。 結果の主観的予見可能性および、 行為者がその能力に応じて諸結果を回避するために適切な行動をとり
えたであろうこと虚蠣駿︶とによ・て判断される。
﹂官長車運転の技術が未熟で適切な運転をすることができない者には自動車の運転を思いとどまることが客観的注意
であると勤皇されている。しかしどの設例咲伝統的過失理論でも解ける問題︵栗源馨であるから、行為無価
争9(1・94)94
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
値としての違法を説くには適当でないように思う。適切な運転を要求するのではなく、運転じたいの断念を要求する
のは、それだけ現実の被害から遠いところで行為を禁止するのであるだけに、反面より大なる社会的利益の放棄を義
務づけることになる。本人の手下からして運転そのものに大きな危険が伴う以上それも当然であるから、危険料断の
上からはそれでバランスはとれている。しかし、行為無価値の問題はむしろ危険判断の終ったところがら始まる。未
熟でも自動車の利用を必要とした何らかの事情があったのかそれとも単なる興味本位の試乗であったのか、通行人の
頻度はその際どの程度に予測されていたのか、そういう諸事情の下での運転そのものの断念の義務づけの相当性、規
範的評価が行なわれるのであり、そこに行為価値の領域がある。また、福田教授は、客観的注意は、いわゆるわいせ
つ概念と同様、規範的要素、価値判断を必要とする要素であると考えれば、構成要件要素とすることに支障はないと
される︵福田平・違法性の錯誤一七五頁、同、過失犯の構造、=二二頁︶。裸の違法判断︵難︶によ.て、禁止・命令が創設されるとこ乏行為無価値
の本領がある以上、客観的注意をそう無造作に構成要件要素といいきることには問題が残るように思われる。
福田教授はその後、客観的予見11回避可能性と客観的注意との関係を明確にされ、 ﹁予見すべきであり、結果回避
に適切な措置をとるべきという義務が、予見が可能で回避が可能であるすべての場合に課せられるわけではありませ
ん﹂とされ、次のように行為無価値を的確に表現して述べられる。
﹁具体的にどのような義務が客観的に要請されるものであるかは、個々の具体的事情を考慮して、社会的相当性の見地から判断
されなければならないのであります。すなはち、危険行為の社会的有用性、必要性、予想される危険の蓋然性、侵害さるべき法
益の価値などを考慮して、具体的にどのような注意を要求することが社会的に相当かという観点にたって注意義務の内容を具体
化していかなければなりません。﹂ ︵福田平、過失犯の構造についてe、司法研修所論集、一九七一年工二九頁、昭四六・三︶
七 このように、今や行為無価値という新しい概念を構成することによって生れた新過失論は完全にわが刑法学会
39 く1 ● 95) 9う
に定着したゆ平野論文の指摘七た通説め立場からするエンギッシュー−井上理論の批判は噛その基調においてへi新過失
96、
ョ離裡博論﹄遡舞踊体的囎﹄︵理の両著嬬壽過峡論の学落着演
観点から位置づけるとい95発想は、無過失論の定着をむしろ促進すゐ役割を果した。日沖憲郎博士還暦祝賀と七て企 レ
論であ鳶、協ツ、ル﹂藤木理論にも妥当するものであったが、平身泉華現れていた過要塞の蓄鋭を違頸引の吻
論説
とその許容の問題が相互に流動的にかかわゆあつているので、形式的な理論の整理上は馬危険性が構成要件に鳥.許容
嫁けたことがある︵拙稿“過失犯の若干の問題法政研究三二巻ニー六合併号二四六頁、昭四一・三︶。しかし、前述した通り、客観的注意の難の過程は、危険
・,かっそ♪私も新過失論批判に当り、ウェルツェルの過失犯の構造を分析するとき沸客観的注意を構成要件と違法と
とh法益衝突﹂“を犯罪論体系の骨子とする立場が語られ、客観的注意を純粋の違法判断とされるのであるq.,・ ,、
衡量し﹃態度不法﹄を確定することに違法論の問題がある﹂︵井上正治・違法論の法理︾法政研究三三巻三−六号四九八頁、昭四二・三︶という﹁法益侵寳
ちに思うρ,﹁ある行為が構成要件に該当したということはそれで法益が侵害されたことになるが、他面法益の衝突を
な行為のζとであるか巨②の実体と説明されている﹁警告的表象をともなう行為﹂︵竹日︶,ど厘.の内容に帰するよ
ωと②とめ区別は難解である刃相当因果関係重めいう客観的予見可能性の問題がωであるどすれば、 それは正に危険
れる過失魂の内筆蓼観的注意︵螂髄糊ソ醸成葎の問題でな︽違法の問題とする点はよぐ理解できるが、
適切な行為L乏の三つの行為段階を区別される。.これはそれぞれ5行為論、構成要件論、違法論の各段階において現
離選点︶。井上博士犠ω﹁客観的に予見可能な結果を惹起した行為﹂と、両,﹁軽卒葎為・不作為﹂と、φ宋
グ←イやL流の構成要件論を採用すると共に、過失論の構成にも新しい苦心を払われることになった︵雛簾鰍旧
,こめ論文集ωに掲載された井上博士の論文は捨これ,までと?てヒられたメツガー流の構成要件論を離れ、べーリソ
樋黙
限界が違法に、と区分できるが、判断過程の実相からみると、禁止、命令そのものが出発において与えられていない
のに、何の危険性を測るのかが特定できる筈がない。新過失論を採用する以上、やはり、二つは体系上本来一つのも
のとして扱うしかないように思 う 。
八わが学界の一応定着したか奮えた無過失論は、再び平野教授の鋭い批判をうけることにな・た︵獲齢㌫刑
準的行為からの免脱Lを処罰することになっており、それでは﹁合理的行動をとらない者は処罰する﹂という無限定
な処罰規定であって、罪刑法定主義に反するとされた。まことに新過失論の一番の問題点を的確に示されたものであ
る。これは、かっての井上・秋山・平野論争における際、 ﹁先行行為的なもの﹂を過失の本体とすることへの批判と
連なった思想であり、かって私もさきにあげた論文でこの点を次のように批判した。
﹁ω 法益の危殆一法益較量つまり﹁構成要件一違法﹂という形で過失犯を構成するとき、そこには本来の過失犯の実体と
は無縁な、行政秩序上の違法評価や、経営学ないし行政学的な考慮が無媒介に過失論構造の中にとりいれられることになる。
回 右の構成は、過失犯の一部をベルサリ・イン・レ・イリキタの法理で構成した封建的な刑事過失論に近親性を示すもので
ある﹂︵前掲、法政研究、三二巻二一六合併号二五四頁︶、 ﹁過失違法性の理論は、いわばこの認定︵主観的予見可能性︶の補助
的概念用具に実体法上の要件資格を与えるものである﹂・﹁合理的回避措置という問題が違法論の中に位置づけられていることじ
たいに問題があるというべきであるが、更にそれを構成要件論に位置づけることによって、構成要件論の崩壊に一つの足がかり
を与えている。﹂︵拙稿、刑事過失論の問題点、判タ一九二号、一一頁、一四頁、昭四一・八︶
平野教授は、ここでも外的注意は過失責任の証拠であることを指摘されたが、重要な発言として、 ﹁程度の差をも
つ予見﹂という新しい言葉である種の問題を解こうとされたこと、 ﹁許された危険﹂と過失との問題に始めて言及さ
れ、この問題もみぎの﹁予見の程度﹂の中で処理しようとされたことであるの
/
39 (1 ・97) 97
肇翻謎讐三二︶逸野教授は、新過失論においては過失犯の実体が箪の発生や行為の危険性から襲塞
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
説
,・.﹁予見の程度﹂とい51思想にうい﹂ては噛私はかってイギリスのバ、ートの理論の中でそれと類似した思想を知り、その
.國“ ゾ..,ら・﹂∼
ことが実質的にはドイツの過失の違法性の理論と同じであるζとを指摘したζともあっ.たが、・,今︵.−平野教授も同じよ
論
うな考え方を主張されるめである。一−一 、9,ズ㌃ 望に 嚇.,一:匝.‘“. 結果発生を将来にわたって予測する際に、可能性に段階、程度の差のあることは否定できないであろう。僅かの可
、能性から蓋然性をへて確実性、必然性に至るまで。時間の経過というある要素の変化だけでもその可能性にも変化は
生まれよ3。七かし、,当初かち無前堤に刑事過失とルては切りすててよい程度Φ可能性があ喝という.﹂とがで妻恐も
のであろゲが。入の生命や纏康が荷題になりでいるのであるから㍗小ざけれ繧小さ塾癒りの可飴性に応τ五住意が要
〆‘
求されていると考えてよいように思う。 小さい可能性はい.きなり現実化するζとはないのであって、,にもかかおら
ず、結果発生と、だまたま撲合ナるのば、.そこに競合ずる別の凶果系列が独且に進行しているからで訪恐αそぢぢ0系
列での過失ρ問題が﹂ζちちの過失判断に影響し、因果関係を切断してしまえば、過失未遂にとどまるであろう。しか
し、過失理論の上か潅︵謬篠醜撃偶然の馨にもかかわらず、u何程かの因果関係が残る限り︵需耀柵下︾
僅かな過失でも刑罰の対象になる之考えたい9平野論文では、∴,﹁ある程度の確率↑﹁相当程度の注意㌧︵脚渤8酬都のの
.朔⑳︶を無媒介に,範疇的に予定されているが、やはりその内容を理論化する必要があろう,苛能性はそれを担う社会
的有用性巴の緊張のなかで法的に評価される。面白半分に危険をおかす場合と、必要にせまちれて危険をおかさざる
をえない場合とでは爵客観的確率は同じでも注意の有無は変化する。,許された危険の法理は♪その意味で実質を屯っ
た基準となっているのである。.→トが﹁理論的な予見﹂︵㈹鱗㎎墾h、窮即。集魚鷺睡。蛮誉︶と﹁実践的な予
見﹂︵各室、善導鞭.。忌とを区別し2社会生活を継続するためにはあ美いさの呉クは無視せざるを兄ないと
し争何らかの義務づけが始まるのは実生活上無視を許さない大いさのりろクであるという意味で後.者を基準とするの
$9q・98)9多
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
である︵罪齢詣鞭篇目難藩.賑。㎎.逆。しかし、この際にも、ω蕪性の大い三藷⇔器無駄ゴ。︶じしん
と、②犠牲となる価値の大いさ︵語長窮㎏羅縫学︶と、③それを避けるために必要な負担︵爺89瑞罷酬隷﹀
との考の項目の比襲量から限界を画そうとする判断枠組が用意されていゑ再論塗㏄“鰐訟量り円露・。︶。
以上で、戦後過失理論の発展の大すじをフォローし終えた。そこに定着した新過失論の実質的内容とその問題点が
明らかになった。そこで次に、信頼の原則をめぐるわが判例と、その理論的な問題を検討しよう。
︵1︶井上正治博士は﹁過失犯の違法性﹂ ︵法学教室二号三五頁、昭三六・=︶ において、行為無価値の問題をとりあげられ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ む む ヘ ヘ へ
た。ここで博士は、結果の惹起が﹁行為の面においてみるとき多様な行為の連続を原因としている﹂という点に着目し、そ
の連続している多様な行為の中から、社会的相当な行為とそうでない行為を選択するのが行為違法の問題であるとされる。
そこに寓意されている事案にあるように、危険の実現に至る危険段階でことなった注意が考えられること勿論であるが、ここ
では、現実に被告人のとったいくつかの段階での行為が、いわば縦の関係で選択されているのが特徴である。行為無価値は、
分別あり思慮深き人のとるであろう行為と被告入の行為を位べること、その意味で横の関係で比較されるのが基本であるの
ではなかろうか。 ﹁急停車しても間に合わないから違法でない﹂というのは、いまだ行為の事実的側面αq。。一σq昌。江曾の問
題であって、規範の問題である社会的相当性の問題ではないように思う。
︵2︶木村亀二博士は過失の違法性を次のようにして肯定される。 ﹁⋮⋮不可抗力は法の規範の対象として法がこれを命じまたは
禁止し得ないものであり、従って違法があり得ない⋮⋮。ところが、もと注意義務違反の有無は過失行為と不可抗力を区別
する基準である。そうすると、注意義務違反によってはじめて、違法たり得ない不可抗力と過失行為が区別﹂せられ、過失
行為が違法とせられるのである。このように考えると、注意義務違反は違法性に属し、違法要素と解さねばならない。﹂ ︵
木村亀二・過失犯の構造、現代刑法学の課題㊦五七九、五九〇頁、,昭三〇・四︶最初の﹁不可抗力は禁止できないから違法
でない﹂という命題が成立すればあとの論理はその通りである。しかし、正に問題はその命題にあったのであるから、二一
ゼ・ウェルツェルのいう過失の違法性と﹁全然同じ意味に帰着する﹂ ︵五九一頁︶ためには、その命題の立証が必要であろ
39 (1 ●99) 99
39、(1 _・、100)!・10Q
う。・過失の違法性をとくためには︾やはり︾三景ゼ嗣ウェ 〃ツユルの行為無価値乏しての違法性、不可抗力︿過失の有無︶.
の判断に組入れられているエンギッジ、ユの法.益衝突志しての違法性など︵︽れらの実質的な論理が必要となるっ .ρ.∵・
︵3︶こめ平野論文に対しては井上博士の反論があるゆ.︵井上正治、.いわゆる結果回避義務について、L.法政研究三四巻,︸号三五
頁“.昭四二・’・七︶結果回避義務乏過失不作為犯における作為義務とめ区別を具体的に論及されるゆエンギッシムは両者を伺
じものと考えていた。私は不作為犯というのは故意犯に固有のもので、、結果の発生の認識のあるζとを前提とbて理論構成
が始まるものと考える三新過失論でも両者を区別する実益はないように思われる。㌔.’ 愚. ..,い,・㌧
をりあザ説た論露︶屡姦程、㌧あ原則を原則圭てで饗≦注意義務認定の漕場面の問題としてと
蟹融臨業平誰漕﹀。.藤木教授も母φ下官遊﹁荘億義務の負担の軽減合理化﹂としてさきの論稿に事いてわが国噂最初
でに潭、ルツ、,ルぽ教科書において﹃程会的危険の適切な分配﹂、を説ミそ青毒皆無位置づ言言器物.U、.
関係に生まれてきた置ともあって♪こめ原則をどのように過失理論に位置づけるかはデつの理論的課題であった。.す
最初にとりあげたように、㌦﹃信頼の原則﹄.がそれまでの過失理論の発展︵,鵠碑クスナ■やエンギッシュの理論と無
記嚢諮謡叢雲訳裂︶、その後の研鴛果を﹃釜事故と補翼原則﹄︵昭調︶としてまとめら麺..
一﹂暑頼の過慮﹃を黎国無い蚕昌と急げ・その内官男能毒のば費棄教蓼み・た.旧
ゴ“隔ド■﹂ ‘.. ︷: ㌦. .− ’ ご幽 ・ P ﹁ ‘ ∴ .’
. 四8﹃ .﹃、一.ρ.﹁7.. . ﹃辱.. ご.國 .リ
がむつか旧いが、理論的に未遂がないことではないであろうβ∵三‘∴・’,幽 、 噛、.一,層
つかの構成要件実現みの何避に有用である4銀扇乏風に致死が致傷を通過心て結果に至ることの結果い過失め構成要件的特定
であるが、∵エツギ溜シ﹂ユも述べげているように.︵晋■§ω琴言償、oqρξ・ω●.,.ωωO\。。留︶、 外的注意として同一の行態が同時にいく
・井上博士はζこでも結果の発生な過失の属性であることを強調される。確かに結果の発生によってのみ結果の特定が可能
二丁
りあっかわれ、許された危険、落度のある行為としての過失行為の原理のなかで取り扱われている。
被害者の適切な態度を信頼してよいというのであれば、それは新しい理論を必要とするけれども、 ﹁彼に要求され
た注意の適用により反対のことが認識可能となるまでは﹂︵勾OU押念\卜。Oα①︶という留保があり、﹁信頼するのが相当な場合﹂
エ春夫・前掲書一四頁︶と構成したり、﹁特別の事情のない限り﹂︵賑塑伍ゆ黒黒三仁.二。︶と覆をもつ以上、結局
は客観的注意の有無という一般論のなかにもどって事柄を解決しなければならなくなる。その意味ではこの原則は従
来の新過失論の判断枠組の中にあるものであって、結果回避措置として要求される限界内の行動であるという実質判
断の後に、初めて信頼したことが相当とされる。それは、道路交通上の事案、その他多少とも組織化された共同作業で
分業が行なわれている場面にも現れる新過失論の応用問題、説明の仕方の問題となる。多くの論者もそう主張する。
二 西原教授は、事実上の予見可能性と刑法的な注意義務の発生をうながす刑法的な予見可能性を区別され、信頼
制刎離豊富b郊骨身肝島回鵬ど翻題﹂童ゼ妄言醐鉄捗りい︶。ここには、さきの平野論文︵法意一三二口写︶が信頼の原則は予見
可能性の原則の一つの現れにすぎないとする主張が影響しているとみてよい。
この点については井上博士の次の主張がある。
﹁いわゆる﹃信頼の原則﹄或いは﹃危険分配の法理﹄は、この客観的予見可能性があったかなかったかの標準となるものであっ
て、信頼の原則は﹃許された危険﹄の法理といわれるものとは違う。 ﹃許された危険﹄のばはいは、危険性と社会的効用との利
益較量の問題だから違法論で検討されることになるが、 ﹃危険分配﹄のばあいは、被害者が危険を引き受けたとみるべきがため
結果の客観的予見可能性の問題となり、構成要件論に属する。平野教授が﹃信頼の原則は予見可能性の原則︵そしてそれには程
度の限定があること︶一つのあらわれであるように思われる﹄と指摘されたことは正しかった﹂ ︵井上正治・前掲法政研究三四
巻一〇号四七頁、昭四二・七︶。
39 (1 ・ 101) 101
(西
霜当である場合には、かりに事実上の予見可能性があ・ても刑法的な予見能性は生妄いとされる轟轟激願
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
井毒青み重窓に遍失犯における因餐係論の役響︵↓管領毒酒 ︸聾。︶に患て信頼の原則
に関してではないが、英米の﹁危険引受の法理﹂に関して同様の理解が示されている。注意の判断構造において、h事
[をか稀だ遠ぢの嬉純な壷掘題で方書そ墾庶領し毫謝噸ぢ爵にば一.言論薫染
駄澹言々洛でいて陣交譲笹書ば遜藩腐魔速旛署実悪の毒手という.、聴な乃
起りケる以上それに対応七た措置が必要絶鳳底いかとなみ乏ρそういう万勝一の事態のことを考えて多くの場合の無
れる必要がないのかと更に問いつめてゆけば、そういう突飛な場合が稀であるからだということになろう。洩れでも
ないな像、結果発生の危険鮭ないこ走なるので、.あ問題は事器側面の問題のよゑ曇るが.なぜ計算に入
実的測面論題︵議云規範的側厘擁護︶の膿をいう.、なあゑ画譜薯の不滴切な行動を聾に読
論説
I省頭謹選濡募原測歯す譲滴贅三小法弩凄にお絵、蟄、護長房畢生しつ
護同意濾凝健適甥漂三二ゆで蛍葛意わ港へ.∵翼∵ご∴二∵ジ
い灘讐朝餐掃蕩摩躍れているど砂壌密魂.融毒、憩溌愚書選傭の儒の鐘
5。
もぞσ有屠性どの関係で許容する㊨であれば規範的側面の問題となるゆ許された危険の法理や新過失論は正にそれを
根撚は、法益較量噂あ為ゆここでの法溢較呈に単なる説明の⋮道具唾あ〃て決定基準で億襟い四.ンマ塁上の竜鹸性で
主張3皇、覧の問題漢猿つ婁う意箋コンマ以下の稀蕩可糎縫視され零﹁その無視凌許す
ポイン遷驚悌県体道果事象質的雰の薫性興そ港た壌実溜竃ゑ井上黒黒影教携
感ぷ湯が蟹、房意塚融と駐屯て旗髭︷た.、とがぞ握﹁巽で碧の.、匙か、曜.﹂灘寄
竃ている.、虞董掻いた.、ζ渉湛度後置で発進始めを燦て激ら駕湧も場書書式りぬけ
‘三
39くユ’・:102)’・102
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
主張した。平野教授はそういう問題領域を否定する。そういう問題領域を認めるべきでない、事実的側面の危険性だ
けで決定せよというのなら、それはそれとして一つの見識である。しかし、そうではなくて、これらの法理や新過失
論も実質は危険性につきるというのであれば正当ではないであろう。つぎの判例は明らかにある種の危険を許容して
おり、言葉にはなっていないが法益較量を決断の基礎としているといってよい。
福岡高裁昭三.δ二〇判決︵蒲塒○●九七七︶をみよう。
本件は見通しのきかない踏切事故である。正月四日六才の子供が無人無警報踏切で線路に足首をはさまれているところに通行
人が通りあわせ、容易に足がとれないので危険を感じて線路にそって走り、折から進行してきていた電車に向って両手をあげて
打ふり電車をとめうと絶叫して停止の合図をすると共に、再び現場に戻って子供の足を引ぬこうとするがやはりとれず、︻方被
告電車運転手は、この通行人の行為に気づかず慢然踏切の見通せるところまで電車を進め、踏切手前五六米のところでやっと異
常に気づいて急停止したが及ばず、両脚切断、出血多量で死亡せしめた事案である。判決は踏切見通し可能地点で直ちに急停車
の措置をとっても事故の発生を避けえなかった以上、踏切の状態をもって子供が戯れていると誤解して直ちにブレーキをかけな
かったとしても過失ではないというのである︵第一審久留米簡裁は有罪︶
通りすがりの通行人でもこれだけの労.力を払うのである。軌道側には、踏切の工作物殻疵さえ認定できる状況で、
しかも、運転者は見通し可能地点に出るまでは何らの義務も課せられない。その地点での時速は動かせない前提であ
る。陸運行政の実情にくらい私には軌道における踏切設備がどのような基準で決定されるのか知るよしもない。しか
し、経済計算としては、ありうべき事故による経済的出費と設備の費用とが一つの限界を示すと考えることもできよ
う。そのような計算の上である地点の踏切設備の種類が決定されるとしても、 それじたい特に問題はないが、 しか
し、そのことは、そこでの危険のすべてが通行人に分配されたことを意味しないし、踏切通過の際の運転者の義務が
免除されたことでもない。通行人にも運転者にも同じように義務はある。’その限度では、軌道側としては四種踏切と
i1 ● 103)・103
39’
39 (1 ●104) 104
して運行される地点の危険防.止義務は、遮断機や警手でなく専ら運転者に分配されているし、だ、からこそ四種でもつて
運行が許可されている乏もいえるつとの種踏切事故の数は決して突飛、稀有之いう程の,隔乏ではないのに、見通し可能
故発生の一因をなしたことを認めではいるものの♪最高裁の評価とはばっきり差異があるゆ.’最高裁には被害考の過失
ヘ へ
法規違反による重窓灘によ・て生じたもの﹂と断定する。原審も勿論被害者の過失・︵軽信ソの存在とρそれが事
くれたものと即断t、L被告人の車の前方をあえて通過tまう乏企て﹂乏し斎うえ、h本件衝突事故億主乏して古Yの
ヘ ヘ ヘ へ
道交蓬反︵鴛華篶ソ宅^被告人の車の交差点での彦柔を邊卒にも自分錘路を譲るため一時停止して
がある亡とが解るゆ﹁被告人の車が右折の途中であることが﹁一見して明らかである﹂として、被害者の本件行動を
二八︶鎗二番垂葉萬銅︶と愚有罪の妻である.認定事実の評価に関して原管小法廷との間には著しい変化
岬まず㌔最高裁第三小法廷の事件を考をう齋﹁喋嗜三﹁ゴ三σ︶菟あ峯は笙麦飯醐戯響
ぎに検討しょう。 ご −一 ・ご レ .二㌧! −∼・ほ 一、㌦− 髄! ’ ∼﹁ーゴ ∼
喬では、議論測を陣し叢書湖では9、の尿選も憲義望の ように機黛︷陰あろうか.つ
を丁寧な事実認定と各事実の慎重な意義づけの上に適用してゆくごとが必要である。,.
当の怯益較量ガあゆうる乏す⋮れば、緊急避難を論ずる必要がおも場合であろう。予見可能性という伝来の概念用具、
きた天であゑ酬謹艶事舗叢篇%綱旙鵬讃鯛肇甲羅誰⊥緬懸盤ゴ謁願︶零曳過失妻で本
きたかは、‘今月公害問題が無惨に吾々に教えている。一私もζれらの法理論の轟の側面を指摘七て強炉批判を続けて
俘そういう形での信頼の原則や許された危険の法理、’新過失論が社会の利益という名で何を保護七、何を犠牲にして
と孝えざるをえない︵拙稿や踏切事故の実態、その刑法的処理状況の分析、法政研究二七巻ニー四号二九五頁参照︶。一層ン柴,を
地点の時速が常に不動のものとして法的判断が進められるのは、法益較量に基くかなり高度の許容が露なわ湿ていみ
論説
をてとさらに色黒く絵こうとする意図が明らかにみられる。交差点でエンストをおこして一時停止した場合の交通関
係、交差点にある優先車がことさらに対向車に進路をゆずるときの交通関係はもともと道交法の予定しない交通関係
であって、そこに道交法上の違反があると断定することには問題がある。さらに、過失の競合がある場合に、その一
方の過失の方が重大であるとき、そのゆえに、被告人の予見が不可能となったり、因果関係が否定されるという判断
を媒介にすることなしに、信頼の原則を説いて本件被害者のような行動をとることを予想した注意義務を否定するこ
とは、伝統的過失論では考えられない処理である。新過失論の論理は、このような小法廷の理論枠組を許容するけれ
ども、その際でも、特別の事情の有無の検討はもっと真剣に行なわれるはずであって、本判決のように後方が狭い、
交通頻繁という二点のみにこの問題を限ることは許されない。本件交差点でのエンストが交通関与者にどのような反
応をおこすかについての判断こそ﹃特別の事情﹄の問題の中心点であるがそこではこの点は無視されている。
伝統的過失論からの批判は別としても、認定事実についての乱暴な重点の移動、安易な道交法違反の断定、 ﹃特別
の事情﹄の検討の空洞化、本件判決のこれら一連の特徴は、理論的には新過失論や信頼の原則の当然の帰結ではない
が、そういう特徴を事実として誘い出す作用をこれらの新しい概念道具がもっているといってよいであろう。
五 最高裁第二小法廷の事案についてはどうであろうか。後続車の適切な態度を信頼すれば足り、交通規則に反し
39 (1 ●105) 105
て︵速度制限違反、センターオーバー︶まで追越そうとする車を予想する霧はないとする︵蝿≧一ゆ昭謂かセ・.三.本件も第
本件では、被告人が右折する際に、 その合図をどの辺でやったかは判決のどれにも明らかでない。 小さな傍道に
べている。
本件後続車の行動が無謀とも思おれる重大な過失に基因し、被告人の過失の程度は軽いということを情状論として述
三︵京都簡裁四〇・=・二五︶、第二墨思量馨⑱とも毒であった。後方の安全確認不充分であ.た。なお、高裁は
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
︶
’㌧
39i(’1{b茎106フ 106
右折するのであるがら後続車に対するその意思を明確 に知らせる必要が磨った8ある資料によると︵鷲騨器二
なかうたとい.ケ.のは.安全確認の不充分さめ結果、であ,り,たとし2被害バイクがこつ然として後方に現れるほどの高速罐
ぱ被告人め視野めなかにあうた筈であるから湘りそのまま右折すると衝突め危険があることも認識できるゆ,後続車をみ
第二審の有罪の根拠は、後方確認を行。たどされている地点から考えるときは当時被害後緯ハイク︵十八才、無免許、速度制限違反・︶
である。第二無罪︵購湿しう第二審有罪︵重藤塁判ソであっ,たみ﹂,ぐ..一,国﹂.・・﹁∴∴、・
に.際しての後方確認の問題であるゆ∵被告人のバイクの後歯にのせていた被害者の死、後続バイグの傷害に関する事件
最後の武最高裁笙小法廷判決の事案ではどうか︵最判・︵†小︶昭四五・九・二四刑集二四咲一,○,・一.三.八○.、︶々本件の状況も小さな傍導の右折
少の過失が競合しても意に介する必要がないという論理しに実質的に転化してしま’っているゆあ︵㍉窓“∴ 、,”、ボ
,’ここにも乱暴な事実認定と乱暴な理論斗ここ矯は信頼の原則どい一5盛りも、.事故め主たる原因者が別恒あれ破多
っ.つ、,なおそれが注意義務の存否とは関係がないと言い放っているのである⑩ ・−、ご,,気 ∴., 一 ・.∵ズ・
情﹄﹁の有無につい︽抽象的にも具体的に’も言及していないばかりかう,被告人の右折が道交法違反であみごとを鮒言屯
ヘ ヘ へ
るいば突如の右折につられた行動であうたかもしれないのであるゆ、しかし馬第二小法廷判決ば、ワ,﹄ん度は﹃特別の事
点についでの真剣な認定が進められれば貸﹃特別の事情﹄.の有無へと判断は進むであろう七貸センタ牛オ∴バーもあ
の適用どなっているp後続車への合図の徹底に欠けるところがあったかどうかは本件では認定されていないが、 その
で慰後続車の交通法規を無視した暴挙が事故め主だる原因であるということが前提どなゴて顕初のような信頼の原則
れているコ衝突事案についでこれ程重大な事実が判例集からは何ら明らかでないというのも奇妙な話であるが3ここ
.Σが右折方法a違反.︵翼壁魏継言挙駿下燃︶と重な・飛後続車には董の意外事ではなか・っ・たか寒
二善玉糊帝王面詰輩、右折のわずか二・七fトル手前にな.て突如合図をしたとなっており、この
論説
あったものでないとの認定もしている。札幌高裁は﹁しかしK︵後続バイク︶の車が前認定のような位置関係にあった
とするならば被告人がこれを確認のうえその動静に蹴蓋した措置をとるべきであったことはKが無免許であったかあ
るいはまた当時のKの車が制限速度内であったかどうか等にかかわりのないところ﹂と正当にも判示している。本件
でもウインカゐ点薬どの地点から始めたかに争いがあり、検察官は右折直前︵交差点八米手前で右折時速二一キロ︶であ・たと主張
するが、 高裁は既に後方確認において過失を認定できるからとして、 この点の争いを解決することなく判決してい
る。笙小法廷は、本件右折の方法が法に従・た適切なものであ.たと原審が認定しているとの前提のもとに︵護籍
書套製い繍雍のの灘課虚無⑳阯鶴隊塞け︶、後続車の不適切な行象予想されるとか、違法異常な運
ヘ ヘ へ
転をする者の存在を認めたとかの特別の事情がない限り、後続車の正しい運転を期待してよいとして、注意義務を否
定 し た のである。
ここでもことさらに、被告人の態度が満点であって何もかもK少年が悪いとする態度が現れている。後の荷台に人
をのせて狭い逃道にはいろうとする場合の態度として、後方確認も右折の仕方も充分であったと速断できないように
思う。少年の無免許、暴走という妻にすべてをあづけてしま.て、事件の細かな分析を省略し︵留ッ欝余齢、
これら三つの判例に示された信頼の原則の適用例は何れも原審の有罪判決を破っている点で共通しているが、実質
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
的にみて、刑事過失としては余程の重大な失策でもおかして事故の決定的原因者とならない限り有罪とはならないと
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、︵5︾
いう思想が言外に明確にうち出されており、信頼の原則という道具はその基調を覆っている単なる飾りにすぎない。
重過失論を背景にもつ信頼の原則は、重大な、決定的過失のみを処罰するという思想とはかかわりのないものであ
る筈である。その信頼が相当かどうかの認定が慎重に行なわれてこそ信頼の原則の適用といえる。これら三つの最高
39 (1 ・ 107) 107
醗慰、信頼の原則で処理してしまうという傾向穿ている。
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
、
論 説
裁判決は何れもその点の追及が甘い9もそれは、もともと信頼の原則を適用するζとに真意がないことを物語側てい
る。膨大な過失事案を貧弱な数の裁判所で処理するためには沸多少は乱暴でもこのよ5な事件処理が要請されるので
あろ疹か。・﹁単なる不注意は刑事過失たりえない。重大な、戸無謀な過失である必要があるウ . ド 、 ρ ・ 向 ∼ ‘ ・ ζ ︾ ↑ ・ . ’ ダ r .φ 鱒 ︵ 7 r f 宥 .﹂﹁之塾うのは英米の刑事遇
難論の伝統で碧麟謬誌悪難離婁砲金麟や!︶、こ鷲の暑馨秦麓米の現行紫は当然無罪
であるかどうかは詳細な比較法的検討を必要どず臥廻かりに・’判決の本旨がここで英米流の刑事過失を採用する積駐
なちば︽正面からその論理を5,ち出すべきである。﹂信頼の原則というまぎらわしい外被ははっきりとぬぎすてるべき
であうた。∴’.・,ン ・﹂.一.⋮:.防.・ rン、・−∴,“.一,∴.へ∴黒旧ご=.−∵ ジ罵:ミ
∵もレ・本気旨馨原財を採畢亘りた㌘特励の事情の有無を真面是検討する心構えがい華≧∴.∴
交差点内でエン入ドした車が再発進するに当って︸通常の場合の優先権をだでに右側の交通関与者の動静を確める
何ら、σ必要もなく進行を続けるということは、無謀ではないのか。後続車に右折の意思を確実に表現する方法をとら
ないで右折するのは無謀でばたいのか衆被害着や第三者の過失が競合し把軌斗.そちらの過失が比較的に重大だどいう
ごとで詣れらの無謀は消えるのであろウか汐それぞれの判決に残っ・ている事実点のあい嵐いざ、へそれぞれめ事実の重
みの評価についで︵裁料所ぢしい丁寧な処理が判決の説得ガを生むのである9 ,ご ,,一が卵D.し.∵∼,7,‘
.∼.∵
.,こケ・いう形で信頼の原則が語られるごとは過失義歯の展開に.ど、って有害無益どいケ外はない。理念としての信頼の
原則ではなく、現実の信号の原則は、.新過失論の思想からさえずれているものとなつ﹂ていゐゆ・,.・ ・∵!.﹂.\諸困難のしれよぜを弱い運転者の苛酷な過失とする乙とに﹃つのばらきりζしだ限界を示したとする、9実践的法律家とし
39“ i1 ● 108) 108
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
て本判決の認定上の諸問題、重点の移行についての意見がほしい︶。中谷躁子H大矢勝美、法学研究四一巻四号七四頁︶
積極的支持。但し、エンスト後の発進を﹁特別の事情﹂と解し、疑問を示す。疑問が当然であり、従って積極的支持は疑
問︶。鈴木茂嗣、交通事故判例百選一八八頁︵許された危険の観点から予見可能性の問題として信頼の原則を認めたもの
とする。危険と法益較量との区別をどう煮えておられるのであろうか︶。
︵3︶本件判例︵盲判昭四二・一〇・一三︶の評釈として、小暮得雄、判例演習︵総論︶二六五頁︵不適切な行動を現認しなか
ヘ へ ら ヘ へ
ヘ へ
つた以上許容される点を評価す。しかし、現認すべき義務があるときには更に問題が残る以上、その点の強調は問題があ
りはしないか︶。 高窪貞人、青山法学論集一〇巻一−二合併号二八三頁︵結論のみ賛成。 客観的予見可能性不存在だか
ら。信頼の原則は切り捨て御免的である点のイデオロギー批判あり。過失理論への切りこみを期待したい。何程かの予見
可能性はあるのであるから︶。石川二曲、判時習三一号判例評論=八号︵二五︶ ︵過失犯の構造を説かれる。判旨に即
した批判がほしい︶。福田平、交通事故判例百選一九〇頁︵信頼が社会的に相当かどうかが問題であるとして本件程度の
措置で充分とする。右折方法不適切は事故の一因となっていないとされるが果してそうか︶。
︵4︶なお、最判昭四三・一二・一七︵寸意︶判タニニ九号一二〇頁に関する評釈として、木村静子、判タニ三二号八九頁︵判
旨賛成。西ドイツ連邦裁の優先通行権の判例を引あいに出されるが、少し事案の特徴が異るのではないであろうか。本件
では自動車の駐車による見通し妨害という事情がある︶。今上益雄、東洋法学=二巻一号一五一頁︵判例による信頼の定
型化の一つとして賛成。蓋然性の程度を信頼の原則は画するとされる。刑法上無視されうる蓋然性はどのようにして決定
されるのであろうか。駐車の点を﹁特別の事情﹂との関係でとりあげるという正当な問題の提示がなされるが、優先権と
いうことで無視してよいとされる︶。松本時夫、警察研究四一巻一〇号=一頁︵ベルサリ・イン・レ・イリキタの再生を
公然と主張されるが皮肉のようにも受取れる︶。
なお交通評論家玉井義臣、信頼の原則の適用をめぐる最高裁の考へ方、法律のひろば二二巻三号二七頁︵昭四四・三︶
は、率直に有罪の破棄過失否定の結論を攻撃し、注意義務を課しても苛酷でないとする。交通の実情に明るい専門家と察
せられるので交通刑事学的、交通犯罪現象学的側面からの助言をも期待したい。
︵5︶激増する交通事故とこれを処理するとぼしい警察要員との矛盾は益々激化しているように思われる︵竹岡勝美、警察の交
通事故処理と交通犯罪の予防、交通問題の現状と課題、一二七頁、昭四六・一︶。実況見分調書その他、訴訟のための資料
39(ユ・109)109
論
説
、
の作成は重要な過矢認定め基礎である。.警察段階での充分な準備がなければ﹂本稿が要望しているような丁寧な事実認定
や慎重な事実の意義づけは望むべくもないρ警察行政全体韓国の政策によゆて大きく影響をうけざるをえず冷交通警察の
予算不足による矛盾のしわよせが、大ざつばな法律処理という形で﹁合理化阜寄れるようなことがあってはならない噂
︵6︶イェセ層ック博士は∼下イツの新過失論による過失犯の構造は、﹂外国法之比較すると、丁度中間的地位にあるという⑩ララ
ンスーーベルギト法は、とるに足りない思慮欠飲でも可罰とするが、アメリカでは単純過失は処罰から除かれているから.
と。・そしてこの差異の背景に、アメリカでは、行為者が意識的に重大なリスクを侵した場合にのみ過失の処罰は正当化さ
れるとする感情があるが、他方、フランスーーベルギ71では、刑事裁判での無罪判決にようて損害賠償責任も排除されると
いう立場があり、そこから¢あらゆる場合にその賠償金を得させようとする努力が生れる傾向があるとしている。ドイツ
はこのような配慮が決定的な理由としては存在猛ていないし、﹁中間にとどまるこ乏をよしとしている、と.︵出似5、邪口鉱骸∴
ご∵、幽一 ∵ 営7 −‘﹄嬉,. ・,﹂馳,﹂7恥.・. ﹁・ −一, .・ .﹃・ ﹁.㌦層・魂‘−︸㍗ .
され馬本判決が信頼の﹁客観的相当性﹂、㌧をとりあげた点を濫用への歯止あとして評価される。 、㍉ ﹂,
釈として、.法務省刑事局参事官吉田淳一氏∼警論二三巻=一号九七頁があるゆ﹂・信頼の原則を予見可能性から理解しようと
題がきめ手となることが本件評釈からよぐ理解できる。幽まだ、最古も︵三小︶昭四五・七・二八︵判時六〇五・九七︶の評
・τ消える程であるゆこ之でもこの種の被害者の行態が決して稀でないことが説得的に論Oられてある。プロバビリティの問
どいだ事実の意義づけ、・道路交通についてめ深い専門知識に支えられた評釈を拝見すると信頼の原則にたいする危惧感も
深い感銘をうけたコ信頼の原則じたいには賛成ざれながら、・本件事案障ついての丁寧な事実のうけとめ方、配慮のいきと
︵7︶最判隔︵三型︶昭和四型、画三・三、鱒︵無罪Y判決に対する札幌地裁判事佐野昭一氏の判例評釈く判タ亘六三号九九頁︾には
歴史性において理解しなおす必要があるっ,ぐ.﹁:,・一 昌・ : ぐノ︷し ハ ・0 .“し ㌧﹂
かちの革命﹄,め要素を伴っていたことと無関係ではな.い漁不土セツ,ク博士の指摘する三つの過失犯の現代,的類型も︾その
.者の教育﹂としての過失犯という、大陸法的過失構造に端を発すると考えてよいゆ・それは、大陸型近代化が多少とも﹃上
・ ても犯罪ではないとしたし、ここでのフランス澗ベルギL型もうその原型であるアルメンデンゲンの.﹁刑罰による無能力
とでは過失犯め近代的構成に根本的な差異があるのば事実である。、しかP、大陸法でもホンメルは過失を違警罪ではあっ
ユ。ず旨$07紹ド憐‘♂窪⊆・切σ冨巳一塁叫α再凄冨団ω愚oq押。卸再﹂首.日。α典ま謬碧母旨8昼,﹂H8皿 も。.呂︶っ層大陸法系と英米系
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成することは、長い歴史の中で確立されてきた過失概念を否定し、過失犯の実質を全く別の内容の犯塁︵バ弔け司わ財
置レベルの問題との、両考察方法の本質的な差異を無視してはならない。信頼の原則や新過失論によって過失犯を構
後的にあるべきであった交通態度を吟味してゆくのである。行政ないし予防レベルの問題と、刑事事件ないし事後処
殊性こそが生命である。 ﹁結果の主観的予見可能性﹂という具体的な、小さな網の目で一つ一つの事件をとらえ、事
かという一種の法益較量が働いている。それはそれでよい。しかし、刑事事件の処理は、一つ一つの個別的事件の特
へ も へ
ている。大量に衝突する諸利益をどのように調和させることが、もっとも最小のロスで最大の効果、能率をあげうる
交通行政は常に大量としての交通関係を念頭において、その全体をいわば﹁エコノミック﹂に処理しようと志向し
がある。
が、決してすべてでも、絶対でもない。信頼の原則、ひいては新過失論もそうであるが、交通規則を絶対視する傾向
過失犯の処理では、その事件特有の事情が常に綿密に考慮される。そこでも交通規則は一つの重要な資料ではある
ない。賢明で思慮深い交通関与者の臨⋮機応変の措置が期待されているのである。
通規則をみると、多くのことが余白のままに残してあり、あるいは巾のある内容のものとなっていると言わねばなら
体的交通過程の場面では時としてそれと異った対応が必要となることも少くない。従ってある具体的事件の方から交
信頼の対象となっている交通規則は、類型的事情を念頭においた一応の交通秩序である。複雑で特殊的な現実の具
び
る証拠法上の用具にとどめておくべきである。 ︵以 上︶
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す
鍛の︶につくりかえることを意味する。類型的基準︵腋箪や客観的注意という基準は、主観的予見可能隻認定す
信頼の原則と過失犯の理論(井上)
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