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黎明Vol.34-No.2(平成28年8月発行)(PDF:2053KB)

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黎明Vol.34-No.2(平成28年8月発行)(PDF:2053KB)
R E I M E I
Vol.
34
鹿児島県歴史資料センター
黎明館だより
No.2
2016.8.1
Kagoshima Prefectural Museum of Culture Reimeikan
黎 明 館 企 画 特 別 展
八幡神の遺宝
―南九州の八幡信仰―
平成28年9月29日(木)~11月6日(日)
〔休 館〕
10/3,11,17,24,25,31
〔会 場〕
黎明館2階第2特別展示室
〔主 催〕
黎明館企画特別展「八幡神の遺宝」実行委員会
(鹿児島県歴史資料センター黎明館・南日本新聞社・MBC南日本放送)
〔後 援〕
鹿児島県神社庁・鹿児島県教育委員会・鹿児島市教育委員会・NHK鹿児島放送局
KTS鹿児島テレビ・KKB鹿児島放送・KYT鹿児島読売テレビ
そうぎょう
でん ひ め かみ
でんじんぐうこうごう
◎【八幡三神坐像】(大分・八幡奈多宮) 左から僧 形 八幡神,伝比売神,伝神功皇后
大分の宇佐神宮において発生したと言われる八幡信仰は,やがて京都の石清水八幡宮,鎌倉の鶴岡八幡宮な
かんじょう
どに次々と勧請されていきました。朝廷・公家・武家などに信仰を広げていき,全国津々浦々に八幡神社は建
立されていきました。
しょうはちまんぐう
鹿児島には,大隅国 正 八幡宮(現・鹿児島神宮)や薩摩国八幡新田宮(現・新田神社)のように,九州の中で
ご しょべつぐう
も特に勢力のある五所別宮のうちの二宮がありました。
従来,南九州の八幡信仰に関しては,主に文献史学の面から探求が進められてきました。しかし,そこには
南九州の八幡神社に残る資料から総合的に考えるという視点は欠如していました。
今回の企画特別展では,南九州の八幡神社を可能な限り調査し,その調査から得られた知見を基に,文献史
学の成果も加味しながら,南九州の「八幡信仰」を描き出してまいります。
−1−
みやまん だ
神々のお姿 ― 彫刻・絵画
第Ⅰ章
ら
描いた「宮曼荼羅」等があります。
八幡神がいつ登場したのか,はっきりしたことは
けんげん
分かりません。6世紀後半に宇佐の地に顕現したと
いう伝承がありますが,8世紀になるとその存在が
確実になります。
しゃもん
8世紀末には,八幡神は「沙門」(僧侶)となり,
ぼ さつ
ごう
号」を付与
やがて
「菩薩(さとりを求めて修行する人)
されます。この途中に,応神天皇に対する信仰と習
合し,
八幡神=応神天皇と考えられるようになります。
ちゅうあい
加えて,両親(父:仲哀天皇,母:神功皇后)や子の
仁徳天皇なども関連して祀られるようになります。
【僧形八幡神像】
1 神々のお姿 ― 彫刻 ―
(東京・國學院大學)
もともと形を持たなかった「神」が,仏教の影響か
ら人格神へと変化し,8世紀になると神像が造られ
るようになります。
第Ⅱ章
みつき
神の縁起絵
えん ぎ
八幡神も,9世紀頃の神像が広島県・御調八幡宮
縁起とは元々は仏教語で,そこから転じて,ある
やすみがおか
や奈良県・ 休 岡 八幡宮等で確認され,僧形八幡神
事物や事柄の転変を時間的に説くことを言いまし
像と女神像等がセットで制作されました。
た。物事の起源や由来であり,寺社の場合は,これ
を寺社縁起(物)と言いました。
かん す
かけふく
八幡信仰の縁起も数多く作成され,巻子状や掛幅
状の縁起絵などが知られます。そこには,神功皇后,
いそわらべ
わ け の きよ ま
ろ
住吉明神,磯童,応神天皇,和気清麻呂などの説話
でん ぱ
が語られ,八幡信仰の伝播に一役買いました。
どう じ ぎょう
◎【童子 形 坐像】(京都・石清水八幡宮)
し ほんちゃくしょくゆすはら
ゆすはら
○【紙本 著 色 由原八幡宮縁起絵巻】(大分・柞原八幡宮)
【男女神像】(鹿児島・松山神社)
2 描かれた神々
こうぼう
ようごう
弘法大師が入唐する際に,船上に影向(神仏が一
時姿を現すこと)した八幡神を大師が描いた図の写
しと言われる僧形八幡神像や,若宮八幡神を描いた
ちりく
○【千栗八幡宮縁起絵】
もの,石清水八幡宮等の神社の社頭(社殿の辺り)を
(佐賀・千栗八幡宮,佐賀県立博物館保管)
−2−
第Ⅲ章
と報告して朝廷を驚かせています。これらの説を受
祭 礼
けて,『今昔物語集』では大隅国に八幡大菩薩が出現
けっさい
うつ
人々は古くから神を祭ってきました。潔斎(肉食
し,それがやがて宇佐に遷り,さらにその後,石清
などをつつしみ,心身をきよめること)して神を迎
水に遷ったと説かれています。また,薩摩国の八幡
え,神を喜ばせるために酒食を供する他に,歌舞な
新田宮も「八幡の尊号この宮より起こり,五所別宮
ども行い,生産の豊穣,生活の安穏,行路の安全を
の第一である。」と主張するなど,南九州がさしずめ
祈ることを
「祭り」と言います。
八幡信仰の発祥地であるかのごとき言説が,しばし
で
お
ここでは,浜下り,弥五郎どん,大王どんなど特
ば見受けられます。
色ある八幡信仰に関わる祭礼を絵巻・人形・鏡・面
本章では,南九州と八幡信仰,正八幡宮,八幡新
などで紹介します。
田宮,武士と八幡信仰について紹介します。
【今山八幡宮御神幸行列絵巻(記念館本B)
】
(宮崎・延岡市内藤記念館)
○【藤崎宮領家下知状】(熊本・藤崎八旛宮)
○【宝治二年銘神面】
いき め
(宮崎・生目神社)
第Ⅳ章
南の八幡信仰
◎【新田宮領家御教書】
南九州に八幡信仰が伝わったのは,8世紀頃だと
(鹿児島・新田神社,薩摩川内市川内歴史資料館保管)
思われます。和銅7(714)年に,隼人教導のために,
豊前国からおよそ5,000人の移民が実施されます。
この時,移民達が奉祀する八幡神が大隅国府周辺に
持ち込まれたものと推測されています。
これ以後,隼人の反乱(養老4(720)年),南島人
と
い
(長徳3
(997)
年・寛仁4(1020)年)や刀伊(寛仁3
たいらのすえもと
こく が
年)
の侵入,平 季基による大隅国衙焼き討ち事件(長
元2
(1029)
年)などの社会不安を経るに従って,八
幡信仰は次第に南九州の地に広がっていきました。
いん い
大隅国正八幡宮では,12世紀初頭に「八幡因位説」
を発生させ,正八幡宮こそが八幡の大本であると主
うしとら
張します。天承2
(1132)年には,正八幡宮 艮 (北
しゃくたい
こんいとおどしよろい かぶと
東の方角)の方に八幡の名号がある石体が出現した
おおそでつき
◎【紺糸 威 鎧 兜・大袖付】(鹿児島神宮,黎明館保管)
−3−
【関連行事】
(1)記念講演会1
日 時:10月9日(日)13:30 ~ 15:00
会 場:黎明館2階 講堂(245席)
演 題:「神祇信仰史のなかの八幡」
講 師:茨城大学 教授 伊藤 聡 氏
【刀銘 為小倉小四郎源則純兵部少輔源朝臣政則
延徳元年十一月十五日】(兵庫・姫路市立美術館)
(2)記念講演会2
日 時:10月23日(日)13:30 ~ 15:00
会 場:黎明館2階 講堂(245席)
演 題:
「九州地方における八幡宮勢力の
拡大過程」
講 師:鹿児島大学 教授 日隈 正守 氏
(3)展示解説講座1(学芸講座を兼ねる。)
日 時:10月15日(土)13:30 ~ 15:00
会 場:黎明館3階 講座室(80席)
テーマ:「八幡神の遺宝
―南九州の八幡信仰―」
講 師:黎明館主任学芸専門員 栗林 文夫
【絹本著色 大隅正八幡影向
図 尊任賛】
しょうじょうこう じ
(4)展示解説講座2(学芸講座を兼ねる。)
ゆ ぎょう じ
(神奈川・清 浄 光寺(遊 行 寺))
日 時:10月29日(土)13:30 ~ 15:00
会 場:黎明館3階 講座室(80席)
テーマ:「八幡神と南九州」
講 師:黎明館主任学芸専門員 栗林 文夫
※ 入場無料,申し込み不要。講演会,展示
解説講座終了後には,展示場で展示解説を
実施します(40分程度,団体観覧料が必要)。
● 観 覧 料
一般 800円(600円) 高・大生 500円(350円)
中学生以下は無料
○ ( )内は団体
(20名以上)
・前売券料金
【白旗大明神画像】
※ 県内の高校・特別支援学校の高等部の生徒
と,その引率者は,教育課程等に基づく学習
活動の場合は免除
(事前申請が必要)
(神奈川・鶴岡八幡宮)
※ 身体障害者手帳,療育手帳及び精神障害者
保健福祉手帳の提示のあった方と,その介護
者1名は免除
※ 前売券は,8月29日から黎明館,山形屋,
生協コープかごしま各店,マルヤガーデンズ,
アミュプラザ鹿児島,鹿児島県職員生活協同
組合,ファミリーマートにて販売しています。
※ ◎は重要文化財,○は県指定文化財です。
※ 会期中,一部資料の展示替えがあります。
−4−
現在は,企画展「幕末薩摩外交 ―情報収集の担
館長メッセージ
い手たち ―」を開催中であり,初公開の「御花畑」
(薩長同盟の締結場所とされる,近衛家別邸(薩摩
皆様,こんにちは。黎明館館
藩が借り受け,小松帯刀が住んでいた屋敷))の絵
長の灰床です。今回は,最近の
図も関心を呼んでいますが,この企画展に関連し
当館の主な取組などから,いく
て,黎明館講演会を2回開催しました。聴講いただ
つか御紹介します。
きました「黎明館ファン」の皆様からも大変好評で
した。心から御礼申し上げます。
① 「こどもの日・黎明館キッ
た ご きちろう
ズフェスタ」について
ながさわ かなえ
a 「著者・多胡吉郎が語る「長沢 鼎 ブドウ王に
5月5日に,初めての「こどもの日・黎明館キッ
なったラスト・サムライ ~薩摩から世界へ,世
ズフェスタ」を開催しました。当館では,平成26年
界から薩摩へ~」」
度から,
「親しまれ,愛される館」を目指して,幅
5月29日の本年度第1回目の講演会では,昨
広い世代の皆様向けに,「黎明館研修」や「ウィーク
年度の第1回目と同様,薩摩藩英国留学生を
リー・ミュージアムガイド」
,
「清掃ボランティア」,
テーマとして開催しました。皆様,御承知のこ
「ミュージアムパートナー」などに取り組んでいま
とと思いますが,この留学生たちは,151年前に
す。この「キッズフェスタ」は,そのような取組の
今の,いちき串木野市羽島の地から,はるか遠
一つとして,子どもの頃から,当館の常設展などに
く,イギリスに密航し,欧米の近代的な文物を
触れ,親しみながら,鹿児島の豊かな歴史・文化を
目の当たりにしました。彼らにとっては,現代
しっかりと理解していただき,次代を担う人材に
と比べて,想像を絶するような体験の連続だっ
育ってほしいとの願いを込めて実施するものです。
たと思いますが,それぞれ多くのことを学び,
当日は,約20名の幼稚園・保育園生,小・中学生,
その後の日本の近代化において,様々な分野で
御両親,祖父母の皆様に参加いただき,午前10時か
活躍しました。
ら正午までの間,当館敷地内の史跡・古民家案内,
その中で,一人だけ,イギリスからアメリカ
常設展観覧,体験学習室での塗り絵や鎧・兜の試着,
に渡り,そこで活躍した人物が,長沢でした。
記念写真撮影などを行いました。私も参加しました
この長沢をテーマに,多胡先生(作家,演出家,
が,皆様,大変楽しそうな表情でした。中には,熊
元NHKディレクター)に御講演をいただきま
本地震で,一時的に鹿児島の祖父母宅に避難してい
した。昨年6月,NHK・Eテレの「知恵泉」で
る親子の方もおられましたが,少しでも元気になっ
長沢が取り上げられ,多胡先生も出演されまし
ていただけたとすれば幸いでした。参加いただいた
たので,御覧になった方も多いのではと思いま
皆様にとりまして
す。御覧になった皆様も,私と同様に感じられ
も,当館にとりまし
たかと思いますが,多胡先生御自身が,まるで
ても,よいイベント
長沢のような情熱家です。それは,多胡先生御
になったと思いま
自身が,14年前に,NHKのロンドン勤務を最
す。なお,この取組
後に独立され,イギリスに留まって文筆の道に
は,夏休み向けとし
進まれたことや,私も拝読しました多湖先生の
ましても,7月31日(日)と8月7日(日)に開催予定
著書からも推察できるものと思います。国際
です。一人でも多くの子どもさんたちの参加をお待
人(コスモポリタン)としての長沢の内面の葛
ちしています。
藤や,
「士魂」に根ざす精神性の高貴さ,さらに
は,そのような観点からの明治維新の再評価・
総括という意味で,意義深い,熱気に満ちた講
② 「黎明館講演会」について
黎明館では,当館が明治維新100周年を記念して
演でした。
建設されたものであるという経緯を強く意識し,2
年後の明治維新150周年に向け,企画展や講演会な
b 「幕末期の薩長両藩の関係について― 慶応2
ど,様々な取組を積極的に行っています。
年1月の盟約は画期的だったか? ―」
−5−
6月12日には,本年度第2回目の講演会を開
女を品位ある画らしいものに仕上げ得たものがある
催しました。今年が薩長同盟締結150年に当た
とするなら,此習作は其一つに違いないと思ったの
りますことから,この薩長同盟をテーマに,家
である。」と評した作品です。当館にて展示します
近良樹先生(大阪経済大学教授)に御講演をい
際には,是非,御覧いただくことをお勧めします。
いえ
ちかよし き
なお,その日は,参与会後,東京国立博物館副
ただきました。
私自身,家近先生の著書も,いくつか拝読い
館長や東京文化財研究所所長などを訪問し,夕方
たしましたが,いずれも,幕末・維新期を駆け
から,国立西洋美術館にて開催されていた「カラ
抜けた先人達を,一人一人の生身の人間として
ヴァッジョ展」を拝見しました。カラヴァッジョ
分析しておられ,大変興味深いものでした。実
(1571年~1610年)は,イタリアの画家ですが,明
は,この講演の1週間程前には,幕末維新期な
暗 法 に よ っ て 浮 か び 出 る 人 物 表 現 な ど か ら, 西
どの研究を専門とされている宮地正人先生(東
洋美術史上,最も偉大な一人であるとされ,その
京大学名誉教授)も,岩下方平関係文書の調査
後,カラヴァジエスキと呼ばれる,カラヴァッジョ
に御来館されましたが,薩長同盟の歴史的な意
の画法を模倣・継承した同時代や次代の画家たち
味・位置付けについても,御見解をお伺いしま
を輩出しています。まるで,日本の「琳派」のよう
した。薩長同盟については,御承知のとおり,
で す ね。 世 界 初 公 開 の「法悦のマグダラのマリア」
みや ち まさ と
いわしたみちひら
様々な見解がありますが,家近先生からは,当
(Mary Magdalene in Ecstasy)は,ミステリアスな
時の西鄕隆盛や大久保利通たちと島津久光との
雰囲気と恍惚感とが微妙なバランスで描かれてお
関係を踏まえた,新しい視点でのお話をいただ
り,思わず引き込まれそうな感じでした。引き込ま
き,興味深く拝聴いたしました。いずれにしま
れた先に何が待ち受けているのかは,誰にも分かり
しても,史料に向き合う際の謙虚さ・誠実さ,
ませんが。カラバッジョが事件を起こし,その罪を
加えて,先入観なく,自分自身で考えることの
減じてもらうために描いたとされていますが,無私
重要性などを再認識できたものと思います。
の境地に近いものを感じました。
なお,大変ありがたいことに,両先生からは,
ところで,国立西洋美術館は,そもそもは,松方
幕末維新期研究における『鹿児島県史料』の役
正義の三男である,松方幸次郎が蒐集した美術品コ
割の大きさについて,高く評価いただきました。
レクションの「松方コレクション」を基礎に発足し
たものですが,建物は,建築家のル・コルビュジエ
(1887年~1965年)が設計したものです。このル・
③ 「絵画」などについて
黎明館に所蔵する作品だけでなく,最近,鑑賞す
コルビュジエが設計した,同館を含む,7カ国の17
る機会があり,印象に残ったものなどについて,御
施設が,7月に世界遺産に登録される予定です(7
紹介します。
月14日現在)。同館は,シンプルな直線をベースに
6月には,毎年度,東京にて開催されています,
構成されながら,そこに無限の可能性を秘めるとい
日本博物館協会主催の参与会(7日)
,全国博物館
う点で,素晴らしいものですね。午後8時頃に同館
長会議(8日)に出席しました。参与会は,上野の
を出た際に振り返って仰ぎ見た,灯りに浮かぶ建物
黒田記念館にて開催されました。同館は,御存知の
の姿には,まさにそのような魅力を感じました。彼
方も多いかと思いますが,日本近代絵画の巨匠とし
の愛弟子である,建築家・坂倉準三(1901年~1969
て知られる黒田清輝が,遺産の一部を芸術の奨励事
年)が設計した神奈川県立近代美術館・鎌倉館のモ
業に役立てるようにと遺言したことを受けて建設さ
ダニズム建築にも,当然のことですが,相通ずるも
れた館です。参与会の当日は,残念ながら,年3
のがあると感じました。
回・各2週間とされている,黒田の作品の公開時期
洋の東西を問わず,また,時代の新旧を問わず,
「芸
ではなかったため,拝見できませんでしたが,黎明
術・文化」の素晴らしさを改めて実感いたしました。
館所蔵の「赤き衣を着たる女」や「山かげの雪」など
黎明館におきましても,対象分野の一つである「美術・
を,また,彼がフランスにて学んだグレーや,その
工芸」についても,このような鹿児島に「御縁」のある
地の黒田清輝通りなどを思い浮かべることでした。
様々な優れた先人・作品などの存在も十分に認識する
皆様は,例えば,
「赤き衣を着たる女」を御覧になっ
とともに,それらを大切にしながら,より一層の積極
たことがございますか。夏目漱石が,
「若し日本の
的な対応・情報発信に努めたいと考えています。
−6−
この襖絵が大事に残されていた家は,130年以上
54
もの年月が経過し,老朽化のために昨年,やむなく
壊された。しかし,家がなくなる前に,貴重な資料
美術・工芸〈日本画・書展示室〉から
ひ ら や ま と う が く
ふすま
であれば,後世に残してほしいという所蔵者の御意
え
平山東岳の襖絵
向により,当館に寄贈されたものである。
東岳の描いた襖絵が16枚,弟子が描いたと思わ
れる襖絵が8枚。また,掛軸や扁額,屏風なども大
幕末から明治期に活躍した薩摩の絵師で,平山東
事に残されていた。当館は,東岳の資料を多く所蔵
岳
(1834 ~ 1899)という人物がいる。
しているが,描かれた絵をこれほど多く襖にしてい
幼名を龍助,のちに季雄と改める。
る例は他にない。歌人でもあった襖絵の持主は,歌
東岳は,初め地元の絵師甲斐東渓について絵を学
会を催したのか,襖には,薩摩の歌人川畑梓と山口
か
い とうけい
あずさ
けい
び,その後,京都の藩邸に勤務するに及び,松村景
ぶん
ぎょく ほう
利雄の和歌が付いているものもある。
ぶん りん
文の門人長谷川 玉 峰や塩川文麟に絵を学んだとい
襖絵が置かれていた離れは,客人を招き入れたり,
う,鹿児島では数少ない『四条派』の絵師である。ま
主の床が置かれる,いわば神聖な場所で,大切にさ
た,明治から昭和の時代に活躍した鹿児島出身の洋
れたのである。子どもたちは入ることが許されず,
画家藤島武二(1867 ~ 1943)が,幼い頃,東岳に絵
入ったら厳しく叱られたという。だからこそと言う
を学んでいる。
べきか,途中,張り替えられたりもしながら,大切
かねたね
その他,東岳は国学を平田鉄胤に学び,霧島神宮
にされ,永きにわたり使われてきた襖にしては,破
すいか
を尊崇した。薩英戦争では,西瓜売り隊の一員とし
損がみられない。
て活躍,戊辰戦争では第六番大隊の監軍として軍功
東岳の絵や和歌に囲まれた大人の贅沢な部屋で,
を挙げ,明治2(1869)年には種子島地頭となった。
どのような歌会やもてなしがあったのだろうか,興
その後,宮内省御用掛などを歴任している。
味深い。
今回,紹介する資料は,東岳が,明治16(1883)
年頃(東岳50歳),薩摩川内市の知人宅を突然訪れ,
130年前の様子を思い浮かべ,和歌や絵の世界に
浸ってみると,趣深いのではないかと思う。
一年ほど同居して描き残したものと伝わる「襖絵」で
(学芸専門員 切原 勇人)
ある。
平山東岳筆襖絵
富士図 小禽図 松下老翁図 山水図
−7−
黎明館講演会
期日:平成28年2月13日(土)
「「比志島文書」にみる
建武政権と草創期の室町幕府」
やんべ
こう き
東京大学史料編纂所 教授 山家 浩樹 氏
1 中央政権を考えるための史料
鎌倉幕府・室町幕府など,中世の政権そのものに
波書店)に集成されている。比志島文書にも建武政
蓄積された史料は伝来していない。そのため,組織
権の法令写しが残っている。
『県史料』11号文書であ
や制度,政策など,政権について考えるためには,
各地に伝来した史料群から関連史料を探し出し,断
る。
「建武記」と比較すると長短があるが,文書末の
「奉行人」の記載は,比志島文書にしかない。建武政
片的な史料をつなぎ合わせる作業が必要になる。
権の法制定の担当者が知られる貴重な情報である。
ひ し じま
2 比志島文書
しまづのしょう よせ ごおり み つ え い ん ひ
比志島氏は,建武政権に対しても鎌倉幕府と同じよ
し じま みょう
比志島文書とは,島 津庄寄 郡 満 家院比 志 島 名
みな よ
うな姿勢で接していた。
し
(現・鹿児島市皆与志町)を名字の地とする比志島氏
に伝来した文書群で,東京大学史料編纂所が所蔵し,
活字は
『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
(以下
『県史料』
)
に収録されている。自らの所領を守
ざっ そ けつだんじょ
建武政権の裁判機関である雑訴決断所の構成員リ
ストは2種伝わっているが,古い方が比志島文書に
あり,他に見られない貴重なものである(『県史料』
げんこう
155号)。人名の表記から,元弘3(1333)年9月頃
るため,権利を保障する文書を保管することはよく
の成立と言われている。明確な証拠はないが,比志
見られるが,比志島文書にはそれに加え,異国警固
島氏は,何らかの訴訟を有利に進めるために情報収
に積極的に参加するなど,鎌倉幕府の御家人として
の活動の証拠が多く残っていることが特徴であり,
幕府を意識して文書を残したという印象が強い。
集したのではないか。
また,表記にやや不正確な部分があるものの,足
ただ よし
利尊氏・直 義 兄弟の所領リストがある(『県史料』
156号)。北条氏一門からの没収地であり,後醍醐
3 比志島文書と鎌倉幕府
鎌倉幕府の法令は,基本法令である御成敗式目と,
その追加法令から成るが,追加法令は,幕府によっ
天皇から恩賞として与えられた所領のリストとされ
る。比志島氏がこの情報を入手した理由は何か。自
らの属する島津庄の地頭が足利氏に替わったという
てまとめて把握されることはなかった(追加法令を
情報を明確に手に入れたということであろう。
網羅した法令集はなく,いくつかを集めた内容の異
なる法令集が数種類伝来。
『中世法制史料集 鎌倉幕
5 比志島文書と室町幕府
府法』
に集成)
。そのため,訴訟により権利を主張す
『県史料』201号文書に「元弘以後新恩地以下年貢」
る際には,主張する側が,既に出された追加法令を
とあるが,これは何か。類例から,室町幕府は,後
幕府に提示する必要があった。比志島文書に見える
醍醐天皇・足利尊氏の与えた恩賞地に低率の年貢を
追加法令は二つある。
『県史料』5号文書(『中世法制
賦課していた可能性が高い。そうであれば,比志島
史料集 鎌倉幕府法』594・596・597条に該当)と,
『県
史料』139号文書(同603条に該当)である。後者は,
追加法令集にも見えないものである。比志島氏が,
御家人として,幕府の場で所領維持等の権利主張を
氏が保持した所領は,建武政権か室町幕府から改め
て恩賞として与えられたことになる。
6 その後の比志島文書
室町時代になると,京都の政権についての情報を
展開するため,その準備として幕府の情報を盛んに
伝える史料は少なくなる。これは,御家人であるこ
収集したことが分かる。
との意義低下や,地域の自立化の現れではないか。
4 比志島文書と建武政権
建武政権の法令は,基本法令である建武式目と,
その追加法令から成る。追加法令は主に「建武記」に
その中で,比志島氏が御家人であったことの証拠を
一貫して保持したことは,稀な事例である。結果と
して,比志島文書は,中央政権を知る貴重な史料と
収められ,
『日本思想大系 中世政治社会思想下』
(岩
なっているのである。
−8−
(文責 調査史料室)
で「諸願伺届等」3通ずつの提出が通達される。
研究ノート
明治初期の文書管理点描
2 恣意の排除・賄賂等の禁止
明治5年4月,従来「各課官員私宅」において大小
― 願書・伺から ―
がん い
の案件の願 意 を申請してきたことが,少なからず
あくへい
「従前之悪弊」の原因であるとして,毎月三・八の付
はじめに
ぼ しん
けいおう
そ しょう
く日に,内容に応じて各課(例えば訴 訟 関係は聴訟
そうねん
戊辰戦争最中の慶応4(1868)年2月,当時,壮年
さく じ
課など)に願書を提出するよう県庁から通達された。
ぶ ぎょう
が海陸軍に動員されたため,作 事 奉行以下の奉 行
とうにん
かきつけ
「従前之悪弊」とは何であろうか。
ちょうどめ
頭人自身が書役を兼務し「書附又ハ御 帳 留」なども
取り扱うこととされる。藩政期,各役座・役所に置
かれた書役の業務は,主に文書作成と帳留(筆写・
保管)
などであった。
はん せき ほう かん
じょう そう
明治2(1869)年1月の版籍奉還の上奏を受け,
はん ち しょく せい
ち
同年2月に藩治 職 制が定められ,藩政の中核に知
せいじょ
相付差出候儀共前条可為同断事」,「官員私宅江直訴
たと
いっ
訟等内意申立候儀,譬へ条理明瞭成事件たるとも一
し
藩政期には,度々規制を受けながらも,藩の重役
すいとう
年2月には,庁内分課を庶務・聴訟・租税・出納課
等に対して就役運動が行われた事例が確認できる。
としている。
明治を迎え,新たに「官員」との私的関係で「任職」や
以下,明治初期の県庁の文書管理に関する事例と
願い事を有利に運ぼうとする動きがあったのだろう。
して,願書・伺を中心に取り上げ,藩政期から明治
同8年4月14日付で,三町(上・下・西田)区長・県
初期にかけての変化を検討する。
わい ろ
下戸長に対し,
「諸人願意等之事件ニ付官員江賄賂又
かねて
1 帳留から書類綴込みへ
い
らぬように指示されている。
受け,8月に知政所は鹿児島県庁と改められ,同5
そ ぜい
江 相付願書可差出」
,「平民願向等之儀,戸長役所江
切採用不致候」と,願書について,官員の恣意が入
政所が置かれる。さらに,同4年7月の廃藩置県を
ちょうしょう
では,
「県庁江相付諸願・伺等之儀,大小共以来戸長
さい
はいはん ち けん
しょ む
おお やま つな よし
同6年7月27日付鹿児島県権令大 山 綱 良 の通達
きんしせしめ
者礼物等進送候条,兼而厳命を下シ令禁止候處,既ニ
それ ぞれ
先度官員之内心得違犯罪之輩有之,夫々軽重ニ応し
め うちたてがみ
明治5年10月,願書類には「目打竪紙」を用い,案
いず
しかるところいま に
罰則申付候儀者孰れも承知之通ニ候,然 處 于今旧弊
紙2通を提出するように県庁から通達される。これ
これあるや
相流れ任職又者願済等之節礼物等致進送候者有之哉
が,文書保管の便宜を図るためであったことは,同
きこえ
として,礼物禁止が通達されている。
ニ相聞得」
6年10月3日付の通達で,
「諸郷」から提出する願書
類が従来の2通から3通とされた事情から窺える。
理由は,当時
「諸郷」
(実際には明治5年7月に大区・
小区に改称)
から提出される願書類が支庁(同6年8
ちょっかつ
月に設置。
県庁 直 轄を除く,第一支庁から第六支庁。
ただし,第六支庁は開設されなかった。)に提出され
まとめ
以上,限られた事例であるが,明治初期の帳留か
ら書類綴込みへの文書管理方法の移行が確認でき
た。また,官員の恣意や賄賂禁止にみる,当時の世
相も窺うことができた。文書管理に関わる事例など,
はんげき
た際,人員が少なく,業務が「繁劇」のため帳留が難
藩政から県政への移行を検討することも,明治維新
しく,本庁ではなおさらであったためだった。そこ
を考える一助になればと考える。
とじ こ
で1通を支庁が書類綴込みを行って保管し,残りの
2通を県庁に提出,書類綴込みすることに変更した
【参考史料】
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』
(鹿児島県,1978年)
「鹿児島県布達(上)」
(『鹿児島県史料集45』鹿児島県立図書
館,2006年)
のである。ここには,藩政期に一般的であった帳留
がこの時期まで行われていたこととともに,書類綴
込みへの過渡的状況が窺える。同9年8月に鹿児島
県に編入された宮崎支庁でも,同10年9月30日付
−9−
(学芸課長 林 匡)
「薩摩半島における奈良・平安時代の
火葬墓に関する基礎的整理」
~『黎明館調査研究報告』第28集掲載論文の概要~
はじめに
本稿では,日本古代の葬制について,まだまだ不
明な点が多い古墳終焉後の葬制,中でも火葬墓に関
して取り上げた。鹿児島県下でも,平成17(2005)
年時点で64の蔵骨器(火葬された骨を納めた容器)
遺跡・出土地が報告されているが,火葬墓は偶然発
見されることが多いため,出土状況が不明なものが
多く,実態がよく分かっていない。そこで,鹿児島
県内でも比較的蔵骨器の出土状況を知ることができ
る,薩摩半島の八つの遺跡を分析対象とし,奈良・
平安時代の火葬墓に関する基礎的整理を行った。
分析対象遺跡
や かたばる
1 屋形原(薩摩川内市高城町屋形原):9~ 10世紀
こえ の
が埋土とされている例が多く見られる(2・3・4・
6・7・8)
。
⑦ 1~8で蔵骨器中に副葬品が納められている
例はなく,埋葬施設中に副葬品がある場合でも
火を受けている例はないことから,生前の愛用
品を遺体とともに焼き,副葬することは行われ
ていないと言える。
⑧ ①・②より,高台に立地する火葬墓=単独で
火葬墓が存在するという結果が得られたが,5
は じ き
例中3例で埋葬施設中に土師器が供献され,3
例とも墨書が見られた。少なくとも,鹿児島県
内においては,同時期の墓制の埋葬施設中に墨
書土器が副葬された例はほとんどなく,火葬墓
の特徴であると言える。
⑨ 蔵骨器の埋納に関しては,埋葬施設に正位で
埋納されている例が多く(1・2・4・5・6・7・8),
8以外は中央に埋納されており,埋葬施設の中
央に正位で埋納するという意識があったことが
窺える。
まとめ
す
2 越ノ巣火葬墓(同市御陵下町越ノ巣):8世紀後半
以上から,奈良・平安時代の薩摩半島の火葬墓に
ついては,遺体を火葬する時に遺品を一緒に焼くこ
とは行われず,火葬地と埋葬地は別で,埋葬施設の
平面形は楕円形,浄化のためなのか意味はよく分か
らないが,木炭又は炭化物を含む黒色土を埋土とし,
蔵骨器は埋葬施設の中央に正位で埋納するという特
徴を見てとれる。また,これらの点は8世紀後半か
ら少なくとも10世紀まで変化は見られないことも
指摘することができる。
いちの かしら
3 市頭 A 遺跡(姶良市加治木町木田):7世紀後半~
8世紀後半
4 牧遺跡(鹿児島市宮之浦町牧):9~ 10世紀
5 不動寺遺跡(同市上福元町不動寺):10 ~ 11世紀
6 弓場城跡(同市上福元町本町):9~ 10世紀前半若
しくは11 ~ 12世紀
しらかし の
7 白樫野古代火葬墓(南さつま市金峰町白川):9世紀
前半~ 10世紀又は8世紀後半~9世紀初頭
ほかはた
8 外畑遺跡(出水市荘上):9世紀前半~後半
参考文献
分析結果
① 遺跡の立地としては,高台に立地するもの(1・
2・4・6・7)と,平地に立地するもの(3・5・8)
に分けることができる。
② 火葬墓の存在形態としては,単独で存在するも
の(1・2・4・6・7)と,建物や溝状遺構,土壙墓な
どが同一遺跡から検出されるもの(3・5・8)がある。
③ 8世紀後半の可能性がある2と7で,埋葬施
設の周囲を石で囲むことが行われているが,河
内
(大阪)
における奈良・平安時代の火葬墓を分
析した安村俊史氏(柏原市立歴史資料館館長)の
研究によると,石組みなどの外槨施設を伴うの
は,奈良時代の火葬墓に多いことが指摘されて
いる。
④ 埋葬施設の平面形は楕円形のものが多く見ら
れる(2・4・5・6(3・8は一部円形あり))。
⑤ 埋葬施設の壁面が火化したものが見られず,
火葬地と埋葬地は別と考えられる。
⑥ 埋葬施設に木炭若しくは炭化物を含む黒色土
− 10 −
新東晃一・牛ノ濱修・長野慎一「川内市高城町字屋形原発見の
蔵骨器」
(『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(2)放光寺遺跡』
鹿児島県教育委員会,1976年)
「越ノ巣火葬墓」(『先史・古代の鹿児島 資料編』鹿児島県教育
委員会,2005年)
『姶良市埋蔵文化財発掘調査報告書4 市頭 A 遺跡 市頭 B・
C 遺跡』
(姶良市教育委員会,2013年)
「牧遺跡」
(『吉田町郷土誌』吉田町郷土誌編纂委員会,1991年)
有川孝行「不動寺遺跡2008年度の調査」
(2009年5月9日鹿児島
考古談話会報告レジュメ)
『鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書11 谷山弓場城跡』
(鹿児
島市教育委員会,1992年)
宮下貴浩「白樫野古代火葬墓と鉄製遺物」
(『鹿児島考古』第34
号,2000年)
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告第125集 外畑
遺跡』
(鹿児島県埋蔵文化財センター,2012年)
「鹿児島県内の蔵骨器について」(『鹿児島県立埋蔵文化財セン
ター発掘調査報告書90 財部城ヶ尾遺跡』鹿児島県立埋蔵文化
財センター,2005年)
小林義孝「葬送儀礼における銭貨 (1)」(『歴史民俗学』第7号,
1997年)
安村俊史「河内における奈良・平安時代の火葬墓」(『堅田直先
生古希記念論文集』真陽社,1997年)
(資料調査編集員 竹森 友子)
れ,江戸藩邸大奥は解体されたのである。
研究ノート
江戸薩摩藩邸大奥引き
払いと西郷隆盛
3 西郷隆盛の決断
引き払いを進めた人物は,当時京都にいた西郷吉
之助(隆盛)である。しかし,西郷はこの一件で久光
ふ きょう
の不興を蒙り,国元に下ることとなった。天璋院と
1 はじめに
の交際を重んじて久光が残した大奥を,充分な許可
慶応元(1865)年11月19日,江戸渋谷の薩摩藩邸
を得ず解体したためである。久光の命に服せず,一
大奥が,経費節減を目的に引き払われた。これより
度は遠島になった西郷にとって,引き払いは危険な
先,文久2(1862)年,島津久光の要請による幕政
決断とも言える。文久の大奥縮小の際,西郷は遠島
改革の一環として,大名の妻子の国元居住が認めら
中で,事情に疎かったと見ることもできるが,先の
れた。これにより,負担軽減のため,諸大名は江戸
新納書状には家老喜入摂津(久高)も承知のこととあ
藩邸の奥を次々に引き払った。薩摩藩も江戸在住の
り,西郷が何も知らなかったとは考えられない。西
姫を全て国元へ引き揚げた。しかし,他藩と異なり,
郷の決断を理解するため,この伏線と考えられる出
一部の奥女中が残され,小規模ながらも大奥が維持
来事を見てみよう。
き いれ
されていた。これは,江戸城大奥の天璋院(篤姫,
いえもち
元治元(1864)年,長州征討に際し,将軍家茂の
13代将軍家定正室,島津斉彬養女)の要望に,島津
上洛を促すため,西郷は,近衛忠房等を通じ,ごく
久光が応じたものであった。
内々に天璋院から家茂への口添えを依頼した。これ
つぼね
本稿では,引き払いに関する史料を紹介するとと
に対応したのも,また局 であった。10月27日,使
もに,そこに至る過程に若干の考察を加えたい。
者を務めた海江田武次宛の局書状が当館に所蔵され
ている。この中で,局は依頼を断っている。大奥・
2 天璋院との駆け引き
幕閣ともに将軍上洛に反対であること等がその理由
引き払い翌日,大久保一蔵(利通)等に宛てた江戸
であった。そもそも西郷の依頼には無理がある。元
留守居新納嘉藤二書状に,その経緯が記されている
御台所とはいえ,政治的言動は原則として許されな
(
『大久保利通関係文書五』吉川弘文館)。これによる
い。無理に行動すれば薩摩からの依頼と勘ぐられる。
と,新納の悩みは天璋院への対応であった。天璋院
先述の将軍継嗣問題は,政治問題であると同時に
の要望で維持された大奥の解体である。当然,反発
「家」の問題でもあったため,天璋院に意見表明でき
が予想される。事前報告が筋であるが,天璋院から
る余地があった。その際,西郷は斉彬の指示を受け
ストップがかかれば,拒絶するのは困難である。事
大奥工作に奔走したが,この事情は知らなかったの
後報告にするか。しかし,天璋院が激怒し,幕閣を
であろう。理由はともあれ,こうして西郷の工作は
通じ元に戻そうとするかもしれない。このような激
失敗し,さらに事前に久光の許可を得なかったこと
(幾島)に相談
しい議論が藩邸でなされた。新納は局
が問題視されることとなった。その失望は大きかっ
する。
局は亡き島津斉彬が天璋院に付けた御年寄で,
たのではないか。
にい ろ
か とう じ
つぼね いくしま
安政5(1858)年には,将軍継嗣問題に絡む大奥工
西郷にとって,将軍継嗣問題に続く二度目の大奥
作で天璋院の下,尽力した人物である。この頃は病
工作不調である。新納書状(慶応元年12月7日,大
のため江戸城大奥を下がり,桜田御用屋敷で養生し
久保一蔵宛)は,江戸藩邸大奥を「御用もなく,日暮
ていた。趣意を理解した局は,事前報告すべきと答
れには遊宴放蕩」等と評している。京都で政局運営
え,
「筋の立つことで,私より申し上げ,否を仰せ
に奔走する西郷にとって,薩摩藩に利益をもたらせ
になったことはない」と,天璋院への取り次ぎを引
ない天璋院とのパイプは,不採算部門と強く認識さ
き受けた。藩邸では「大事を女性に任せ,失敗した
れたであろう。さらに,薩長同盟締結が間近に迫る
らどうするのか」などと反発もあったが,新納が押
など,幕府離れの進む政治情勢も考慮され,正当性
し切った。局は書面により天璋院へ説明し,11月
を抱き決断に至ったのではないか。それを裏付け
13日,その返書が届く。天璋院は,悲しいことだ
るように,同年12月6日,側役蓑田伝兵衛宛書状
が
「御さと」
の難渋に際し否は言えないとして了承し
で,西郷は自身の正当性を強い姿勢で説明している。
た。こうして,天璋院との交際の窓口に2名が残さ
ゆうえんほうとう
いなや
− 11 −
(学芸専門員 崎山 健文)
黎明館の催し物(平成 28 年8月〜 10 月)
■特別展示 3階薩摩刀展示室
[常設展示入館料]
国宝 太刀:銘
「国宗」
期間:8月3日
(水)~8月24日
(水)
■黎明館企画特別展
「八幡神の遺宝-南九州の八幡信仰-」
■企画特別展関連講演会
「神祇信仰史のなかの八幡」
「九州地方における八幡宮勢力の拡大過程」
※ 企画特別展,関連講演会の詳細については,1
~4ページを御覧ください。
■黎明館企画展 3階企画展示室
[常設展示入館料]
薩長同盟締結150年
「幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-」
期間:開催中~9月11日
(日)
「新寄贈資料おひろめ展 明治から昭和-見えてきた暮
らしと世相-」
期間:9月21日
(水)~1月22日
(日)
■学芸講座 3階講座室
[無料・申込不要]
「小松帯刀と幕末の政局」
(企画展関連講座)
講師:黎明館学芸専門員 市村 哲二
日時:9月3日(土) 13:30 ~ 15:00
「八幡神の遺宝-南九州の八幡信仰-」
(企画特別展解説講座①) 「八幡神と南九州」(企画特別展解説講座②)
※ 企画特別展解説講座の詳細については,4ペー
ジを御覧ください。
■ウィークリー・ミュージアムガイド
[常設展示団体入館料・申込不要]
毎日曜日の11:00 ~ 12:00で,週ごとに
「歴史コー
ス」
「文化コース」
,
を交互に行います。
(8月7日
(日)は,夏休み・黎明館キッズフェスタ・
10:30 ~ 12:00)
期 間
御池(おいけ)
鹿児島(鶴丸)城内
にあった庭の池の一
部を,当時の石を使い
復元したもので本丸
の南 東隅にありまし
た。
この池の石
(石橋を
含む)
は,第七高等学校造士館のプール建設のため,一度,
鹿児島市鴨池動物園(現在のイオン鹿児島鴨池店付近)の
庭園に移設されましたが,その後,鴨池動物園の移転に伴
い,
鹿児島市から譲渡されました。
旧城内にあった池の石が,一度外に出て,再び旧城内に
復元されるという,
珍しい例です。
人事異動(平成 28 年6月1日付)
〔新任〕 学芸課 主任学芸専門員 深港 恭子
(薩摩伝承館学芸員)
■常設展示入館料
一 般:310円
(230円) 高大生:190円
(120円)
小中生:120円
(60円)
※ ( )
内 20名以上の団体料金
※ 県内の小・中学校,高等学校,特別支援学校の児童
生徒と,その引率者は,教育課程等に基づく学習活
動の場合は免除
(事前申請が必要)
※ 身体障害者手帳,療育手帳及び精神障害者保健福祉
手帳の提示があった方と,その介護者1名は免除
休 館 日(平成28年8月〜 10月)
8/1.
8.22.25.29
9/5.12.20.26
10 /3.11.17.24.25.31
黎明館以外各種団体主催の催し物
観覧料
お問い合せ先(敬称略)
開催中 ~8/21(日)
光と影のワンダーランド魔法の美術館
有料
南日本新聞社事業部
099(813)5053
8/24(水)~8/28(日)
第15回鹿児島二紀展
無料
二紀会鹿児島支部
099(251)8063
開催中 ~9/4(日)
8/26(金)~8/28(日)
9/6(火)~9/10(土)
9/10(土)~9/25(日)
9/15(木)~9/18(日)
9/21(水)~9/25(日)
9/27(火)~10/2(日)
10/1(土)~10/9(日)
10/4(火)~10/10(月)
黄金のファラオと大ピラミッド展
有料
第67回鹿児島県図画作品展
無料
第25回シルバー文化作品展
愛をはこぶ画家マッケンジー・ソープ絵画展
第53回南日本硬筆展
鹿児島フォトサロン写真展
2016年第41回全国公募写真展「視点」
第29回MBCサムホール美術展
有料
井上周一郎彫刻展
10/18(火)~10/23(日)
MOA美術館鹿児島児童作品展
10/26(水)~10/30(日)
無料
有料
本野渓舟傘寿書芸展-火の鳥かごしま俳句会「百号私の一句」展-
10/26(水)~10/30(日)
有料
無料
10/12(水)~10/16(日)
10/13(木)~10/16(日)
無料
第35回大東文化大学鹿児島県人書道展
無料
無料
無料
無料
第40回鹿児島合同写真展
インクジェットプリンターによる大判写真展
無料
無料
南日本放送事業部
県教育庁義務教育課
県社会福祉協議会
江夏画廊株式会社
南日本書道会
同代表
日本リアリズム写真集団
南日本放送事業部
井上周一郎
本野一郎
大東文化大学鹿児島県人書道会
同展実行委員会
村上光明
野元松一
099(254)7112
099(286)5298
099(250)7441
03(6426)5139
099(223)5226
090(3329)2687
099(247)8446
099(254)7112
099(254)9193
099(243)8561
099(222)8006
090(8912)0819
099(203)0099
099(275)4876
※ 掲載内容は7月 14 日現在のものです。催し物の内容・日程等は,変更になる場合もございます。
Vol.34. No.2
(通算132号)
発行年月日 平成28年8月1日
編集・発行 鹿児島県歴史資料センター黎明館
所 在 地 〒892 — 0853 鹿児島市城山町7番2号
Tel(099)222 — 5100(代表) Fax(099)222 — 5143
ホームページアドレス http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/
メールアドレス [email protected]
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