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久留米市の歴史、街並み

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久留米市の歴史、街並み
ぶらり★くるめ 最終回
江戸時代は有馬家の城下町として、近代以降は久留米絣、ゴム産業の町として発展
大電発祥の地・
久留米市の
歴史、
街並み
してきた久留米市。福岡県南部と佐賀県東部にまたがる、筑紫平野で最大の都市です。
筑後川
久留米城
久留米医大
久留米市役所
1994 年 に 完 成 し た
久 留 米 市 役 所 は、 高 さ
91.3m で 福 岡 県 内 で は
最も高い市庁舎。最上階
(20 階)には展望ロビー
があり、久留米市街が一
望できる。
天気が良い日は、雲仙
普賢岳も望め、広大な筑
紫平野のパノラマが楽し
める。一般開放されてい
るので、ロビー内の喫茶
室で、広大な景色を眺め
ながら休憩するのもおす
すめ。
最上階の20
階にある展
望所。
(北側)
背振山、九千部山が望めます
久留米市役所
(南側)
市街地。晴れの日には普賢岳も望めます
揚げ舟(有形民俗文化財)
筑後川は、豊かな穀倉地帯を作りあげてきた一方、度々
氾濫し流域に大きな被害も与えてきた。この水害との戦い
の中で、人々の知恵から生まれた
「揚げ舟」
。洪水時の避難
や物資運搬の手段として利用されていた。合川小学校に保
管されているあげ舟は、全長 8.4m、最大幅1.4mで、大
正5年の洪水時に児童の送迎用として校内に備え付けられ
た。実際に、昭和28年の大水害の際にも使用され、この
舟で全児童を無事に帰宅させることができたという記録が
残っている。標高が低い合川、宮ノ陣地区では、現在でも
このような揚げ舟を保存している家があるそうだ。
" 久留米 "の名がついた由来とは…?
合川小学校
体育館へと続く渡り廊下の天井に
保存されている。
これまで久留米市のさまざまな歴史、街並みを紹介してきましたが、そもそもなぜ
「久留米市」という地
名になったのか、最終回である今回、その由来を探ってみました。
❶
「筑後国神名帳」
に
「玖留目神を祭祀した」
との記述があった
❷大陸から渡来した機織りの工人集団がこの地に住んでいたことから
「呉部
(繰部)
」
の居住した地、
「呉姫」
、
「呉女」
、
「繰女」
と呼んだのがクルメに転訛した
❸用明天皇の皇子である
「来目皇子
(新羅討伐のため筑紫に下り603年に病死)
」
に由来
❹筑後川が大きく蛇行していることからそれを意味するクルメク
(転く)
❺昔全国にアイヌが住んでいた頃の
「日本の男ん子」
という意味のアイヌ語 "クルミ" が語源
などなど…諸説あるが定説はないようです。
く り
く れ
め
く り
め
く め の み こ
平成26年1月号から連載してきた
「ぶらりくるめ」も今
号で最終回となります。
大電発祥の地である久留米市の歴史や街並みを取材・紹
介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
次回からは、ぶらりくるめの続編として、久留米各地で
行われている行事や久留米市の特産物などをご紹介してい
きます。お楽しみに。
べ
く れ ひ め
MARCH 2015 Vol.687
誇っています。また、全国トップレベルの医師数と医療機関が集積した高度医療都市で、農業産出額も福
岡県内最大の農業生産都市でもあります。
DYDEN
合併による市域拡大で人口が 30 万人を超え、2008年に中核市に移行しました。九州
では、県庁所在地を除いて唯一の中核市でありながら、筑後川や耳納連山など緑豊かで美しい自然景観を
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