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絵画によるエジプト遠征の記憶化
杉本, 淑彦
待兼山論叢. 史学篇. 33 P.1-P.24
1999
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/48102
DOI
Rights
Osaka University
1
絵画によるエジプト遠征の記憶化
本
淑
彦
インドとの通路を押さえイギリスに打撃を与えることなどが、その主要な目的だった。
クシデントはオリエントに負のイメージを割りあてオクシデント対オリエントという二項対立で世界を認識してき
さて、﹁オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するためのオクシデントの様式﹂ であり、ォ
帰還を条件としてイギリス軍に降伏し、 エジプト遠征は幕を閉じる。
アブキl ルでの戦い、その直後にボナバルトのエジプト単独離脱。そして一八O 一年、 フランス遠征軍は本土への
目上の宗主国であるオスマン帝国軍とナザレや夕、ボル山で戦ったシリア戦役、とって返してアレクサンドリア近郊
れる地において敗走させた、 いわゆる﹁ピラミッドの戦い﹂を経てカイロ入城。翌一七九九年には、 エジプトの名
アレクサンドリア占領、そして南下。当時のエジプト支配層マムルiクの一軍を、 クフ王のピラミッドが眺望さ
支どりドい、
の第一幕である。イギリス軍による占領などで混乱するカリブ海アンチ l ル諸島植民地に代わる新植民地の獲得、
サンドリア沖に現れた。 フランス人のあいだで﹁エジプト遠征﹂として記憶されることになる、 エジプト軍事侵略
一七九八年七月一日のこと、 ナポレオン・ボナパルトを総司令官とするフランス軍約五万もの大軍勢が、 アレク
杉
2
一八世紀以降のイギリス・フランスと現
た、と批判するサイlドのオリエンタリズム論のなかで、このエジプト遠征は特別に重要な位置を与えられている。
サイ lドのいう﹁オリエント﹂はおもにアラブ Hイスラ iム社会であり、
代アメリカの ﹁オリエンタリズム﹂が批判の中心になっているのだが、 エジプト遠征は、﹁まったく文字通り、近
︵
︶
代的かつ全面的なオリエント体験を生み出すことになった﹂ものであり、﹁いわば近代オリエンタリズムに可能性
1
を与えた最初の経験である﹂というのである。
︶
遠征開始から二0 0年後の一九九八年にフランス各地二五都市で開催された遠征関連の記念展覧会︵計二O種
などを見聞すれば、 サイlドのオリエンタリズム論の有効範囲は今日でもけっして小さくないことがわかる。たと
︵﹄のm
w
ロ
H凹
L凸
FKFZ寸
︶ は、つぎのように語ってい
エジプトにおける科学者たち﹂展のカタログ序文の
ゴレ lジュ・ド・フランス名誉教授の考古学者ルクラン
えば、パリの国立白然史博物館でおこなわれた﹁二O O年前
なかで
︵
︶
る。﹁オクシデントとオリエントの出会いから精神的な衝撃が素晴らしくも発生した。そしてその衝撃こそナイル
2
の流域にとって再生の水源であったことが、 ほどなく明らかになる﹂と。
遅れたエジプトに優れた西洋近代文明がフランス遠征軍によってもたらされ、これがエジプト近代化のスタート
になった、というこの主張は、優越的自意識と、その裏返しであるオリエント蔑視の認識基盤が、今日のフランス
社会にも根強く存在し続けていることを教えてくれる。そしてさらに、博覧会などを通じてそのような認識基盤が
再生産され続けていることをも想像させてくれる。
このようにサイ!ドのオリエンタリズム理解は今日でも有効だと思われるのだが、 サイ1ドは、絵画を中心とす
る視覚装置を取り上げようとはしなかった。彼は本来が比較文学研究者であるから、このような欠如はいたしかた
絵画によるエジプト遠征の記憶化
3
ないのだろう。だがじつは、この種の装置のなかでこそ、 エジプト遠征の優︵H フランス︶ と劣︵ Hオリエント︶
︵
3
︶
の二項対立的表象がもっともあざやかにおこなわれていたのである。本論は、 サイiドを導きの糸とした、 エジ。フ
ト遠征画によるオリエンタリズム考である。
まずは、国家主導による絵画制作という問題を考えてみよう。ナポレオン体制下における美術行政の柱の一つは、
国家が主題を与えて絵画を注文制作する、というものだった。そのような絵画は、 ル1ヴル博物館内で開催される
サロン展で特別室が与えられ、その後に同館やチュイルリ宮殿などの壁を飾ることになる。
注文された絵画主題のおもなものの一つが、 ナポレオン軍を描いた同時代の戦争画だった。なかでもエジプト遠
征は好まれた主題だった。 たとえば、シリア戦役の一環としてオスマン帝国軍をナザレ近くで敗走させた、 いわゆ
︵
4
︶
る﹁ナザレの戦い﹂ の二週間後三七九九年四月二一日︶、 ナポレオンはこの戦いを主題とする絵画コンペの準備
を本国政府宛に要請している。
シリアの要衝の地サン日ジャン・ダクルを陥落させることができなかったフランス軍はエジプトに引き返し、そ
の一ヵ月後の一七九九年七月末、 アレクサンドリア近くのアブキl ルで、 イギリス軍船の支援を受け上陸を図った
一月九日︶ のクーデタを経て独裁政権樹立。第一統領となったボナパ
オスマン帝国軍を敗退させる。翌八月、ボナパルトは少人数の者だけをともないエジプトを離脱し、 フランス帰還
の途につく。そしてブリュメi ル一八日︵
ルトは、翌一八O O年七月一六日、弟の内相ルシアンに﹁最良の画家六名を選んで﹂戦争画六点を制作するよう指
4
︵
5
令する。うち三点がピラミッドの戦い、 アブキ lルの戦い、 タボル山の戦い、というエジプト遠征物だった。
︶
ナポレオンが帝位についた一八O四年以降になると、国家による絵画注文は、主題はもちろん、画家と購入価格
をも決めたうえで発注されるなど、 いっそう組織的におこなわれるようになり、また、過去の出来事となったにも
かかわらず、 エジプト遠征物は途切れることなく注文され続けた。たとえば一八O六年三月三日付の政令では総計
一八点の制作が命じられ、そのうち二点がエジプト遠征物である。
︵
6
︶
結局、 ナポレオン支配期の一七九九年から一八一五年まで、国家注文制作されたエジプト遠征画は一九点にのぼ
り、これは、イタリア戦役もの ︵三八点︶についで多い数字である。さらに、エジプト遠征は国家注文絵画だけの
画題ではなかったことにも注目する必要がある。画家たちは、国に買い上げられることを期待しつつ、国家注文絵
画と同種の画題を争うように描きサロンに出展したのである。 ナポレオン体制下のサロン展における戦争画の流行
︶
一八一四年のある美術評論誌に載るほどだった。ナポレオン体制下において国家に買い上げられ
︵
7
と画家の迎合について、﹁仕事を得るために、ほとんどあらゆる者が戦争画家をもって自らを任じてきた﹂と苦言
を呈する論評が
たエジプト遠征画について、それが正確に何点あったかは未調査だが、 一例としてヴェルサイユ博物館所蔵のもの
︵立
を一九九五年次の目録に基づいて試算してみると、その数は六点に上っている。
さて、 ナポレオン体制下に、戦争画を中心にして絵画の国家注文や買い上げがおこなわれたその目的は、もちろ
ん、きわめて政治色の濃いものだった。たとえば一八O五年八月六日、参事院評議官で軍経理局長でもあったダル
︵巨巾向。口九戸閉山口︶に宛てた書簡のなかで、皇帝ナポレオンはつぎのように語っている。﹁人示の願いは、過去一五年
聞の記憶を、水続させるような主題に芸術が取り組むことである。:::芸術家たちには、聖史ではなく、軍隊と国民
絵画によるエジプト遠征の記憶化
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が光彩を放つようなおこないをもっぱら取りあげるよう仕向けるべきであるにもかかわらず、そうさせられないで
す︶
いることに驚きを禁じ得ない。それらのおこないこそが、帝位の玉座をうち立てた出来事ではなかったのではない
か。﹂||この一文は、ナポレオン支配下の美術行政が、ナポレオン個人礼賛を通じて支配体制を維持・強化する
ことを目指すものだったことをよく物語っている。 一八O五年八月といえば、 フランス軍によるイギリス上陸作戦
計画が進捗し、他方、それに抗する第三回対仏同盟が形成された頃のこと、言い換えれば、対イギリス戦争の本格
的勃発を目前にして国内の引き締めが必要になっていた頃のことである。
戦争画は政治の手段だったというこの事情は、前述した一七九九年四月の絵画コンペにもうかがえる。 コンペは
ブリュメ lル一八日のクーデタの翌月である一七九九年一二月におこなわれ、グロ ︵旨吉宮ゅの問。切︶が選ばれた
のだが、絵の完成を見ないまま政府によって制作中止命令が出された。中止の理由は、このナザレの戦いにボナパ
o
s
o 知足。斗︶に栄光を与えるこ
ルトは直接参画しなかったため、彼自身よりもむしろ現地指揮官ジユノ ︵
﹀
目
。
とになりかねないこの戦闘の絵画化を、ボナバルトが土壇場で障賭したからだったと考えられている。裏返してい
えば、戦争画はそれほどまでにプロパガンダに有効な武器、たとみなされていたのである。 コンペ用に制作された下
絵は﹁ナザレの戦い﹂と題され、 一八O O年九月に新設されることになったナント美術館において展示されること
になる。破棄してはナポレオン箪の栄光を讃美することはできず、 かといってナポレオン個人崇拝には資しないこ
の絵は、政治の中心パリから離れたナントに置かれてこそふさわしいと考えられたのかもしれない。
同じく前述の一八O O年七月ボナバルト指令にも政治上の背景を読むことができる。ボナバルトが本国からの帰
還命令を受理しないまま大部分の兵力をエジプトに残してフランスに帰還したのは、第二回対仏同盟に押されヨ l
6
ロッパでフランス軍が敗退を重ねているとの情報を得たからだった。救国の常勝将軍として帰国し権力掌握を図る、
という目算があってのことだったと考えられている。目算どおり事は運ぶのだが、 しかし、帰還命令なしの戦線離
一七九九年末までにはフランス本土に知られるようになっていた。ブリュメ l ル一八日ク!
脱という誹りはまぬがれず、 さらに、 サン Hジャン・ダクルを陥落させることができず結局シリア戦役は失敗に終
わったという情報も
デタ後の体制固めの一環として、 エジプトからの帰還を、敗残将軍の戦線離脱ではなく救国の戦勝将軍としての凱
旋だ、と説明する必要をボナバルトは強く感じていたのではないだろうか。絵画化の主題となった ﹁ピラミッドの
戦い﹂︵一七九八年七月二一日︶ は、ボナバルト自身が指揮をとりマムル!ク軍約一二万を敗った戦闘。﹁アブキ l ル
の戦い﹂も自身が現地で指揮したもの。シリア戦役中の﹁タボル山の戦い﹂︵一七九九年四月一六日︶ は、オスマ
ン帝国軍二万五000に包囲され苦境に捕っていたフランス分遣隊二000名をナポレオンが自ら増援軍を率いて
救援すると同時にオスマン帝国軍をも敗退させた戦闘である。﹁アブキールの戦い﹂はエジプト﹁防衛戦﹂、そして
﹁夕、ボル山の戦い﹂は救援戦という性格を持っているため、 とりわけこの両戦闘の絵画化は、第二回対仏包囲網か
らフランスを防衛・救援するという救国将軍イメージをナポレオンにまとわせるのに都合のいいものだったのであ
と敗者としてのオリエント、といった軍事力の優劣が描き込まれたのは、まずは当然のことだった。代表的なもの
では、実際に何がどのように描かれたのか。数点取り上げてみよう。戦争画なのだから、勝者としてのフランス
る
絵画によるエジプト遠征の記憶化
7
は、﹁ピラミッドの戦いを前にしてフランス軍に訓示する皇帝陛下﹂と題されたグロの絵である ︵
図I︶。ピラミッ
s
s
a 号、同言豆諸﹄
ドの戦いを主題に上院用として一八O九年に注文を受け、翌年に完成した絵である。﹃帝国新聞、
︵一八一 O年一一月二三日付︶ の評論によれば、﹁前景右にトルコ人、 アラブ人、 アフリカ人の一二名の兵士が致命傷
エジプト遠征画に色濃く描き込まれた要素だった。たとえば同じグロの
を負っている姿が見える。風変わりさで目立つよう描かれているこの一団は、 エジプト戦役で打ち負かされた民族
を表すアレゴリ﹂なのである。
軍事力の優劣の他に、精神的優劣も
﹁ナザレの戦い﹂、前述した理由でナント美術館に納められた作品である。ここでは、四つの場景が際だつように描
かれている。中景の中央左寄りで、一二色の羽根飾り付き軍帽を被り白馬に跨る司令官ジユノ。倒したばかりの敵兵
を足元に置き、さらにあらたな敵兵を斬り倒そうとしているところである。前景中央では、首を立てられないほど
までに深い傷を負いながらも軍旗を手放し降伏することを頑なに拒否する敵兵に、 フランス兵がとどめを刺そうと
している。そのすぐ左側では、対照的にも、降伏した敵兵を左脇に抱えてその命を救いながら、右手で新たな敵に
応戦しているフランス兵。そして四番目の場景は前景左で展開されている。 フランス兵の髪をつかみその首を切り
落とそうとしている敵兵めがけて、別のフランス兵が発砲したのである。さらに右遠景には、敗走するオスマン軍。
表象されているのは、軍事的勝者としてのフランス、敗者としてのオリエント、 というものだけではない。 フラ
ンスがオリエントより秀でているのは、軍事力だけではない。降伏する者は赦すというフランスの寛大さ、そして
抵抗し続ける者にも、死の苦しみを免れさせるためのとどめの一撃を加えるフランスの誠実さに対して、首を切り
落とさんとするオリエントの野蛮さが対比されており、これにより、精神的にも優越するフランスが表象されてい
8
るのである。グロ自身が、ナント美術館所蔵の創作ノ 1トにつぎのように書きとめている。﹁二つの民族を特徴づ
けるために、 いくつにするかまだ決めていないが二つないし三つの群を描き入れること。:::倒れた敵の首を切り
︵
日
︶
落とそうとするトルコ人の野蛮な風習と、状況によっては捕らえた者にとどめをさしてやらねばなるまいと考える
フランス流の誠実さとを対照させること。﹂
つぎのような絵画評を載せてい
八O 一年九月二八日付の官報
この絵を見る者たちも、精神的優劣の表象を見誤ることはなかったようである。 一
S55尽な足。三円。毛足ミS2a﹄は、
紙﹃ガゼット・ナシオナル haC
走塁。
る。﹁首を切り落とさんとするオリエント人の野蛮性が描かれている。そしてその場景のすぐ横では、まったく対
照的にも、降伏したトルコ人の命を竜騎兵が救っている。:::絵にはフランスの卓越さが刻印されており、その卓
越さの特徴である冷静さが、 ムスリムの無分別な血気と対照的である。﹂
降伏する者は赦すというこの絵の表象とは遣い、実際の﹁ナザレの戦い﹂では、オスマン兵捕虜はその場で全員
殺害されたことを言い添えておこう。
前述した一八O六年三月三日付政令で注文されたエジプト遠征画二点も、精神的優劣が丁寧に描き込まれた作品
一
八O八年に完成した作品である。前景右手には瀕死の反徒が一人横たわり、その他の反徒
である。まず、ゲラン ︵同︼仲。円円。。白目見HZ
︶
の ﹁カイロの反徒を赦す皇帝陛下﹂を見てみよう︵図H︶。チュイルリ
宮殿向けに注文され
一段高い左手の樹下のボナバルトに赦しを請うている。中景右寄りでは、赦された反徒が今まさに両手の戒め
ンスは自軍に犠牲者が出ても、寛大な心根で反徒を赦す、というのである。
を解かれようとしている。そして、ボナバルトと反徒のあいだの後景には、担架で運ばれるフランス人将校。 フラ
は
絵画によるエジプト遠征の記憶化
9
モスクシエクイマム
カイロの反乱は一七九八年一 O月二一日から三日間続いた。たしかに、鎮圧の翌日ボナバルトは、アル・アズハ
策
をそ
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って
たこ
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だ
長
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ル寺院の説教師と祈祷師を接見し彼らを無罪放免している。彼らは反乱の扇動者であると見なされていたにもかか
和ず
雲
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空マみ
でr ’ プ 】 当
レナ
付す
で
刊ノ
ム
ヱ指
評
里
れたのである。
図皿︶ である。中央部には、白馬に跨るボナバルト。服装も姿勢も威厳
前者の代表例が、﹁アレクサンドリアの軍事首長に剣を与える皇帝陛下﹂︵図町︶と題されたムラl ル ︵司自色町
に服従するオリエント、あるいは逆に、野蛮にも反抗し続けるオリエントである。
のようなフランスに対していかにオリエントは対処したのか。この対処の仕方は、二通りに描き分けられた。従順
さて、精神性において、そして軍事力においても優位に立つものとしてフランスが描かれたわけだが、 では、こ
に、ボナバルトの一隊に注がれる彼らの眼差しのなかには、畏敬心さえ見ることができるだろう。
あるその姿とは対照的に、前景右隅のアラブ人たちは、胸をはだけただらしない姿勢で描かれている。そしてさら
泉を訪れる皇帝陛下﹂︵一八O八年完成
一八O六年三月三日付政令で注文されたもう一点は、パルテレミ︵﹄
gp∞E5E 回﹀悶dBF品一宮吋︶作﹁モ lゼの
反乱の実際の後始末では寛恕と厳罰が使い分けられ、他方、絵画の表象では、後者が捨象され前者のみが強調さ
本を示して鎮圧策を伝授している。﹁カイロにおける反乱側の損失は約二000名にのぼる。カイロでは毎夜、三
︵込
O個ほどの首を切り落とさせている。これらのことは首謀者らにとってよい教訓となるであろう﹂と。
下エジプトにおいて反乱鎮圧にあたっていた将軍レイニエ ︵﹄。吉岡何回吋一Z目別︶に対して、 つぎのような冷酷な手
てわ
宥ら
1
0
間口︶ の絵である。これは一八O八年サロンに出品されて国家買い上げ作品となり、 ヴェルサイユ宮の敷地
冨円﹄﹁ kp
の一角にある大トリアノン宮殿に納められた。
この絵のなかで朱色の長衣を着、服従を誓っているムハマッド・アル・クライムは、実際は軍事首長というより
も、アレクサンドリアの港湾運営の責任者だった人物である。 一七九八年七月二日に上陸してきたフランス軍に町
︵
﹄
ogEL回∞目見︶
の下にあって、 フランスによるアレクサンドリア間接統
をあげての抵抗を組織し、翌日未明に降伏したのちは、ボナバルトからアレクサンドリア地区総督に任ぜられる。
フランス人の地区総司令官クレべ l ル
治の歯車の一つとなることを期待されたのである。
と、だけ書けば、この絵はいかにも現実を活写したかのようだが、 じつはこのアル・クライムはなかなかの人物
で、南下を図るフランス軍のために兵糧やラクダを調達するその裏で、 フランス兵襲撃などの反フランス抵抗をア
レクサンドリア周辺で組織していたのである。このことがやがて発覚し、 アル・クライムは七月なかば、 カイロに
送られ、そこで銃殺されて首を晒される。槍の先に首を差し込んだうえでの市中引き回しだった。したがってこの
一点見てみよう。ジロ
ムラ1 ルの絵は、見せかけでしかなかった従順さという虚構を、現実のものとして描く二重の虚構なのである。
優位に立つフランスに対して抵抗し続けるオリエントの野蛮性を描いたものについても、
である。場景はアル・アズハル寺院。威儀を正した制服存二糸乱さず身につ
︵﹀ロロゅの円切。己目寸︶がチュイルリ宮殿向けに注文を受け描いた ﹁カイロの大モスクにおいて反乱を鎮圧するブ
︶
の右脚を抱える黒人が、切り落としたフランス兵の首を左手にぶら下げている。この絵のアラブ人のなかに﹁無駄
ける中央左のフランス士宮と、 ほとんど全裸で唇も厚く野卑に描かれたアラブ人が対照的である。しかもアラブ人
ランス兵たち﹂︵一八O九年 図V
ア
絵画によるエジプト遠征の記憶化
1
1
︵
ロ
︶
と知りつつ自分の宗教と文化を守ろうとする勇気が描き出されている﹂とする論者もいるが、このような主張は、
植民地主義批判があたりまえとなった。ホスト・コロニアルの現状から判断してのものにすぎないだろう。 アラブ人
︵
日
︶
の裸体表現にしても、﹁古典古代的伝統﹂にのっとって高貴さを表す意味合いが含まれているととらえる同じ論者
の主張の他方で、これは、悪習と見なされていた同性愛に対する批判なのだ、とする見方もあることを指摘してお
こ
事
つ
。 アルパニア人と推定されるパシャ ︵高官︶ は
ふ 7まさに事切れようとしており、それを左手で抱えるアラブ人
は、奴隷にして同性愛相手である、というのである。この同性愛批判論を発展させれば、アラブ人の右脚を抱える、
これも全裸の黒人は、被数プレイの相手ということになるのかもしれない。
同性愛批判の当否はともかくとして、 フランス兵の首を切り落とす野蛮性が描き込まれていることは疑いようが
ない。たしかにこの絵が伝えるように、 カイロ反乱に際して、 フランス側に首を切られるなどの死者が出たのは事
実である。 しかし前述したように、反乱の事後処理が凄惨だったことも事実である。ジロデのこの絵は、﹁文明﹂
対﹁野蛮﹂という枠組みのなかで、切り落とされたフランス兵の首を強調する他方で、凄惨だった鎮圧の現実は隠
蔽したのである。
当時の観客も、抵抗する裸のアラブ人と黒人に高貴さなど感じず、文明と野蛮の対照としてしかこの絵を見なか
ったようである。﹃帝国新聞﹄ ︵一八一 O年二一月一二日付︶ の評論によれば、切り落とされたフランス兵の頭は、
一握りの野蛮人による無益な
﹁これら野蛮人たちには大切な戦利品である﹂が、﹁その美しさ、若さ、威厳が、残酷な死に対する哀惜と憐欄の感
情を見る者に懐かせる﹂ のであり、﹁征服された町のなかで起こった民衆の暴動は、
反乱でしかなく、無駄な企てに終わったのである﹂、というのである。
2
1
また、若きフランソワ・ギゾーもつぎのような評論を書き残している。﹁文明人にあっては、反乱鎮圧の酷い行
︵
U
︶
為のさなかにあっても、優しい感情がわき出る他方で、野蛮人にあっては、主人を支えるという人間らしい行為の
﹂
さなかにあってさえも、野卑な様子は変わりょうがない o
軍事面さらには精神面でもフランスは優れオリエントは劣っている、といった力の優劣は、これまで見てきた絵
にかぎらず、多くのエジプト遠征画のなかで描き込まれた。しかし、それだけにとどまるものでなかったことにも、
わたしたちは目を向けなければならない。力を持つだけであれば、 たんなる侵略者で終わりかねないわけで、それ
では、対エジプト軍事行動を正当化するうえで説得力が欠ける。 フランスは慢れた力を持つだけではなく、歴史的
に見てもエジプトを支配する権利がある、ということが表象されもしたのである。グロの﹁ピラミッドの戦いを前
にしてフランス軍に訓示する皇帝陛下﹂︵図I︶をもう一度見てみよう。
この戦闘でボナバルトは、﹁行け、このピラミッドの高みから四000年がわれわれを見つめていることに思い
一八O 二年にパリで出版
をいたせ﹂と自軍を鼓舞したと言われている。この絵は、この場景を切り取ったものである。もちろん、実際に戦
場でこのような訓示があったかどうかは疑わしい。資料で確認できるこの訓示の初出は、
−
NW22 注目。向。ミぬ∼ザミ円何回国内おきミぎ
された ﹃ボナパルト将軍戦役中の上下エジプト紀行ぎき胃assS
︶
g国語立。﹄にすぎない。著者は、 スケッチ画家として遠征に同行したドノン ︵︿守臼昇
aき
q
も QMMS− ANhC雪守主句。s
回 ZCZ である。信濃性は測りがたいのだが、とにかくこの本の出版以降、この訓示はナポレオンの名言として
ロ
マムル 1 ク軍を打倒すべくフランス軍の奮闘を期待している﹁四000年﹂とは、 いったい何だろうか。
人口に槍突されるのである。
で
は
絵画によるエジプト遠征の記憶化
1
3
紀元前二七世紀にギゼ lの三大ピラミッドが建設されたことは当時すでに知られていたことであるから、これに紀
元後約二二世紀分足した時期までを﹁四000年﹂と解釈できるだろう。だとすれば﹁四000年﹂とは、 マムル
ーク朝建国︵一二五O年︶までのエジプトの歴史なのである。 つまりこの訓示は、 マムル lク朝以降のマムル lク
ないしオスマン帝国の支配はエジプト史において逸脱の歴史にすぎず、 マムル lク支配を打倒するフランス軍こそ
が歴史的正統性を備えたエジプトの主権者である、という宣言なのである。侵略者は、力ゆえにだけでなく、歴史
的正統性ゆえの相続人を装ったのである。
FOE
この種の表象は、 シリアについてもおこなわれている。 ルジユンヌ ︵
∞F凹﹄回dZ回︶が一八O 一年サロンに
出品し、その後一八O一二年に買い上げられてチュイルリ宮殿の一室に納められることになった﹁タボル山の戦い﹂
である。画面中央に白馬に跨るボナバルトがおり、その後方︵画面上は前景︶でフランス兵が石片を発見している。
ルジユンヌ自身の言葉によれば、それは﹁ルイ九世の十字軍を思い起こさせるゴシック様式の石片﹂︵一八O 一年
九月二八日付﹃ガゼット・ナシオナル﹄紙︶なのである。 つまり、ボナバルト率いるフランス軍は二二世紀半ばの
十字軍の後継者だ、という意味合いがこの絵には込められている。そもそも、画面遠景左奥に描かれているタボル
山は、﹁その顔は太陽のように輝き、その外衣は光のようにまばゆくなった﹂キリスト変貌の地として名高く︵マ
タイ書一七章︶、この戦闘は、実際には山から南西二0キロも離れた場所でおこなわれたにもかかわらず、ボナパ
ルト自身によって﹁夕、ボル山の戦い﹂と命名されたのだった。キリスト教揺藍の地であることと、聖王として民衆
のあいだで根強い人気を持つルイ九世の十字軍事業を想起させることで、この絵は、 フランスがこの地を支配する
ことを歴史的に正統なことであると表象しているのである。
1
4
さて、ナポレオン体制下に国家注文されたり国家によって買い上げられた絵画についてこれまで見てきたわけだ
一八一五年以降の復古王政期になると、それらは当然のことにお蔵入りとなってしまう。ナポレオンの栄光化
hhHNHMMH
丘 ︵全一九巻︶ はナ
エジプト遠征の記憶全体がそっくり忌避されたわけではな
b
s。三回はさお弘司、
一八二六年に全巻
一八二六年制作のこのメダルは、古代ロ l マ風の軍装をした人物が
しても呼び起こしかねないものであるので、政府部内でも遠征の取り扱いについては対立があったようである。
復古王政下でもエジプト遠征はプロパガンダ主題の一つであり続けたとはいえ、遠征はナポレオンの記憶をどう
と表象されたのである。
が捨象されたうえで、優れた文明を有するフランスが停滞するエジプトを征服しふたたび文明化させる偉業だった、
支配下の長い停滞から目覚めさせたのがこの遠征だ、という表象である。 エジプト遠征は、 ナポレオン個人の存在
ーマ風軍装のフランスがヴェールをはがす行為は、 かつてロ l マ帝国支配下で繁栄していたエジプトをイスラ lム
はフランスを表象しており、軍装とオリーブは軍事遠征が﹁平和﹂ のためのものだったという表象、そして古代ロ
左手にガリアの雄鶏の軍旗とオリーブの枝を持ち、右手でヴェールをはがしている。古代ロ!マ風とガリアの雄鶏
トを再発見する勝利のガリア﹂と刻印された
れる視覚装置としては、﹃エジプト誌﹄完成記念として出版関係者らに下賜されたメダルが興味深い。﹁古代エジプ
では、復古王政政府はエジプト遠征をどのように記憶化させようとしていたのだろうか。それをうかがわせてく
の公刊を完了させるのである。
ポレオン帝政下の一八一 O年に出版が始まったのだが、復古王政政府もその出版事業を継続し、
かった。 エジプト遠征の公式報告集という性格を持つ ﹁エジプト誌
に直結しかねないものは忌避されたのである。ただし
カ1
絵画によるエジプト遠征の記憶化
1
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八二四年にパリで上演されたパントマイム劇﹁従軍商人
ssea霊法令6﹂をめぐる検闘が、このあたりの事情を
ト
うかがわせてくれる。この劇、原案では、ナポレオンが単独離脱したのちのクレベ l ル総司令官下のエジプトが舞
台であり、検閲官のひとりは﹁クレベ 1ルの名前はボナバルトに都合のよいことを想起させるものではなく、この
有名な遠征の栄光はフランスに属する﹂と主張した。ところが別の検閲官が、﹁ボナパルトの戦役についてはこれ
︵
設
まで十分すぎるほど取り上げられてきたのだから、このような主題は休止させてもよいと考える﹂と主張したため、
結局、時代設定がオーストリア継承戦争下のボへミアへと変更されたのである。
七月王政になると、復古王政政府の慎重姿勢から転換して、 エジプト遠征はふたたび積極的に表象されるように
なる。七月壬政期のフランスは、七月王政を樹立したいわゆるオルレアン派と、失脚したブルボン壬朝を支持する
正統王朝派、それに共和派、さらにナポレオン支持のボナバルト派に大きく四分裂しており、七月王政政府はこの
囲内対立を緩和させることを国策の一つにしていたわけだが、そのためのイデオロギー操作の一環として、 エジプ
ト遠征画の復活があったと考えられる。まず第一に、お蔵入りになっていた帝政期のエジプト遠征画が民衆に再提
供されるようになり、さらに、あらたな国家注文もおこなわれるようになる。
七月王政政府が国民融合を目指して採った美術行政の集大成の場は、 ヴェルサイユ宮殿内に一八三七年六月開館
した歴史美術館で、ここに、分裂する各勢力にとってそれぞれ栄光となるフランス史上のさまざまな事件を描いた
絵画が集められた。建物にあらたに刻まれた ﹁フランスのあらゆる栄光のために﹂という標語がいみじくも物語つ
ているように、この美術館は、七月王政こそがあらゆる有力な政治勢力のそれぞれの栄光を融合するものであると
いう合意を、民衆のなかに作り出す場となるよう期待されたのである。前述したナポレオン体制期のエジプト遠征
1
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グロの﹁ナザレの戦い﹂とルジュンヌの ﹁タボル山の戦い﹂をのぞき、すべてこの美術館にこの時期収蔵さ
一八三五年に国王ルイ川フィリップから加筆をじきじき注文されたグロの ﹁ピラミ
一八三七年に注文制作されたコニヱ
EhccZH問、同︶
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一八 C C年六月にアラブ人によって暗殺されるまでその職
とフィリッポト ︵
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これも、ナポレオン個人のではなく国民の偉業として遠征を記憶化しようとする意図を示すものだろう。たとえば、
また、あらたに国家注文された絵画ではナポレオン個人がけっして描かれなかったことにも着目する必要がある。
ことを裏書きしているだろう。
をナポレオン個人の偉業ではなくフランス国民の偉業として記憶化させよう、という意図が七月王政政府にあった
れていた。ボナバルトに批判的だったとされるこのような人物をわざわざ描き加えるという虚構は、エジプト遠征
にあった人物であるが、ボナバルトのエジプト戦線離脱を批判する文書を総裁政府に書き送ったことでもよく知ら
エジプトを離脱したのちに遠征軍総司令官に任ぜられ
ンドリアにいてこの戦闘には参加していなかったクレベ 1ルが描かれたことである。 クレベ l ルは、ボナバルトが
温情主義支配という面をも付け加えるためだったと思われるが、ここでそれよりも問題なのは、実際にはアレクサ
族を描き加えるようグロに注文が出されたのである。 アラブ人家族、が付け加えられたのは、軍事征服色だけでなく
ッドの戦いを前にしてフランス軍に訓示する皇帝陛下﹂︵図I︶を見てみよう。左にクレベ!ル、右にアラブ人家
が遣うのである。 一例として、
もちろん、七月王政とナポレオン体制とでは、表象のありように微妙な遣いがある。ナポレオン個人への距離感
てこの美術館に収蔵されたエジプト遠征画は、あわせて一二点にのぼる。
れ、今日にいたるまで展示され続けることになる。また、七月王政期にあらたに国家注文ないし国家買い上げされ
画
は
絵画によるエジプト遠征の記憶化
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7
ボル山の戦い﹂ では、ナポレオンが救援に駆けつける前の、オスマン帝国軍の猛攻をクレベ lル指揮下のフランス
軍がしのいでいる場景が描かれたのである。
さて、ナポレオン・ボナバルトの甥であるルイ・ナポレオン・ボナバルトが帝位についた第二帝政期になっても、
エジプト遠征記憶化へのあらたな取り組みは続くことになる。たとえば、前述したルジユンヌの﹁夕、ボル山の戦い﹂
と、同じルジュンヌの ﹁アブキ1ルの戦い﹂︵一八O五年制作︶、﹁ピラミッドの戦い﹂︵一八O六年制作︶ は一八六
一年に国家によって再度買い上げられ、ヴェルサイユ歴史美術館にて展示されるととになるのである。この三点は
いずれも、第一帝政期に国家買い上げされたのだが、復古王政期にルジュンヌに払い下げられそれ以降は彼のアト
リエに私蔵されていたものである。
とはいえ、 ルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンの栄光への嫉妬心が強く、自身の栄光化を強く望みこそせよ、伯
︵白押岡田−
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﹁カイロの反徒の降伏﹂
父個人の栄光化には冷淡だったというのが通説である。 エジプト遠征の絵画化についても、第二帝政政府はけっし
て熱心でなかった。この時期に国家注文された遠征画は、
。
問
の
︵
話
一点しかない。しかもこの絵は、 フランスによる植民地化が進んでいたアルジェリアの国立アルジ
ノ
最後に第三共和政期に移ろう。 エジプト遠征画が国家によって注文制作されることは、今日にいたるまで、もは
は忘れてならない。
征の記憶をアルジェリア植民地支配に利用せんとする意図が第二帝政政府にあったことを示している、ということ
この絵がアルジェで展示されたということは、 エジプト遠征とアルジェリア植民地化とを重ね合わせ、 エジプト凍∼
エ美術館に運ばれ、サロン展をのぞいて本土フランス民衆の目にふれることにはならなかったのである。もちろん、
︵一八五三年︶
ロ
1
8
ゃなくなった。ただし、 サロン展出品作を国や地方公共団体が買い上げることは引き続きおこなわれ、管見のかぎ
りでだが、第一次大戦前までで計五点確認できる。しかも、 ナポレオンを場景に描き込むものが三点ある。 プラン
ス・プロイセン戦争敗北後のフランスで対プロイセン戦争の勝利者ナポレオンに対する人気が高まったという、民
衆レヴェルでのナショナリズムの高揚と、ボナバルトの家系においてカリスマ性を備えた男子が絶えたために共和
主義者たちもナポレオン帝政の復活を懸念する必要がなくなったという事情が、 ナポレオンを軸にした遠征画のあ
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︵且色。己貸 円山口問吋﹀HFF目
︶ の﹁エジプト
らたな展開をもたらしたのだろう。 ルイ・ナポレオンの息子ナポレオン・ルイは一八七九年に死亡したのである。
まずは、パリのシャイヨ!宮内にある海軍博物館に納められたデタイユ
のボナバルト﹂︵一八七八年︶。ピラミッドの戦い直後、降伏したマムル lクたちを勝利者ボナバルトが見回る場景
が描かれている。 フランスとオリエントの関係が優劣の関係であることを表象しているわけだが、この戦いには参
加しなかったクレベ!ルがボナバルトの右側に描かれていることにも注意が必要である。前述したグロの加筆と同
じ意味合いがこの絵にもあるのだろう。
もう一点、一八九O年に制作され、アルザス地方のミュル lズ市立美術館に買い上げられたレヴィ︵問。買己包︿吋︶
﹁カイロの大モスクのボナパルト﹂がある。反乱の拠点だったアル・アズハル寺院においてアラブ人が降伏する
裏付けられている主張ではないが、ありそうな話ではある。 エジプトを征服・支配するフランスの力を想像するこ
したのは、 フランス民族の過去を記念することでドイツ支配に無言の抵抗をおこなうためだった、という。資料で
︵
げ
︶
事にすぎない。美術史家ベルトルによれば、当時ドイツ領に編入されていたアルザス地方の一都市がこの絵を購入
場景を描いたものだが、 フランス軍の先頭に立って寺院に乗り込むボナパルト、 というのはもちろん文字通り絵空
の
絵画によるエジプト遠征の記憶化
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の﹁ボナパルトへのマムル lクの降伏﹂︵一八九四年 図M︶。具
とが、ドイツに支配されている苦渋を和らげることにつながることは確かだろう。
つぎは、ブルグァン
体的にいつの時点の場景を描いたのか特定できない絵であるが、優劣の関係を表象したものであることは誰の目に
も明らかだろう。この絵は、ナポレオンの墓所として有名なアンヴァリッドの一角にある軍事博物館に収蔵された。
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のコアュピュイ将軍のカイロ入城﹂︵一八九二年︶ である。デユ
あと二点はカリア ︵
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khE ﹀日出︶ の﹁クレベ lル将軍の死﹂︵一八七八年 ブルゴ l ニユ地方のブルク Hアン日ブレ
ス市立博物館蔵︶と、 リグザン
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ピュイはカイロ反乱の際に殺害されたカイロ︶
地
区司令官で、この絵は、彼の故郷トゥル lズの市庁舎内﹁英雄の問﹂
に飾られている。二つの絵とも、遠征で命を落とした人物を英雄視することで、オリエント軍事支配を美化するも
のだといえるだろう。
第一次大戦までの約四0年間で五点しかないのだから、第三共和政になってエジプト遠征の記憶化努力が政府レ
ベルで加速されたとは言い難いだろう。そもそも第一次大戦後以降は、遠征画が国に買い上げられることはもはや
なくなった。しかしこのことは、絵画による遠征の記憶化が第一次大戦以降はおこなわれなくなった、ということ
を意味するものではもちろんない。ナポレオン帝政期から第一次大戦まで、描き続けられた遠征画は今でも民衆に
提供されているのである。あらたな供給はないにしても、これまでのストックは現在も機能し続けていると考えた
方がよいだろう。
エジプト遠征画は、 ナポレオン体制期から今日にいたるまで、優︵Hフランス︶と劣︵Hオリエント︶ の表象で
もって、 フランス人のあいだで対オリエント優越意識を育み続けているのだろう。ナポレオン体制期にはナポレオ
20
ン個人の栄光化を軸にこのような表象がおこなわれた。復古王政以降はナポレオン個人が捨象されフランス国民の
偉業として表象される傾向が現れ、七月王政、第二帝政、第三共和政と、それぞれ時の政治情勢に合わせた変化を
ズム論が有効な、﹁表象﹂という問題に限った議論がおこなわれる。
川稔編、山川出版社、二000年︶所収の小論﹁エジプト遠征の記憶﹂で展開され、﹁現実﹂の一部も明らかにされ
るだろう。とはいえ、サイ1ドが全面的に間違っているわけではもちろんなく、本論では、サイ lドのオリエンタリ
人もいたのではないだろうか。そしてこの﹁現実﹂は、エジプト遠征に関する当時から今日にいたるさまざまな﹁表
象﹂によって隠蔽されてきたのではないだろうか。サイ lドは﹁現実﹂を見ずに、﹁現実﹂を隠蔽する﹁表象﹂を見
ているにすぎないのではないだろうか、と筆者は考えている。この考えは、﹁フランス史からの問い﹄︵服部春彦・谷
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サイ!ドのオリエンタリズム論に、じつのところ筆者は全面的には賛成でない。複数の文化問には、一方が一方を併
合するとか、一方が一方を−歪めて認識して終わりという固定的な方向はありえず、つねに交互浸透作用が働くもので
はないだろうか。エジプト遠征は、エジプトを﹁支配し再構成し威圧する﹂だけのものではなく、エジプト社会との
接触を通じて文化変容する機会をフランス人とその社会に与えるものでもあり、現実にそのような変容をたどった個
w −サイ lド︵今沢紀子訳︶﹃オリエンタリズム﹄平凡社、一九八六年。とりわけ四、八七、 一二六頁。
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ともないつつ、歴代フランス国家のエジプト遠征画政策は、優劣の表象において一貫していたと言えるだろう。
注
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(記)
cf.
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cf. , Id. , p
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(口)
*~喜駅 Q 頬腿 v 平等トIifi!~是主主国会 û:1 1~~~ 叶包括型原l$ i駅議資(照明: I-{';入。れ ι 嫡出品 Lよ~ t;:t(ð-1マホ,入 1ト入占よHマ='1-{入 ι
Q 剣照) .w ~1刊,_) ~O 国 J い穂4岡県11\司,_),刊令。
(械が窓釈有志怠講話]お)
22
図I
グロ「ピラミッドの戦いを前にしてフランス軍に訓示する皇帝陛下J
実線の外側が 183 5 年に加筆された部分で、
左側加筆部分中央の人物がクレベールである。
図証
ゲラン「カイロの反徒を赦す皇帝陛下j
2
3
絵画によるエジプト遠征の記憶化
鴎匝
パ)~テレミ「モーゼ、の泉を訪れる皇帝陛下j
関W
ムラール「アレクサンドリアの軍事首長に会1] を与える皇帝陛下j
2
4
図V
図 VI
ジロデ「カイロの大モスタにおいて反乱を鎮圧するフランス兵たち j
ブルグァン「ボナバルトへのマムルークの降伏j
Fly UP