...

ブラジル - Kenren

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Transcript

ブラジル - Kenren
BOLETIM
No. 957
(会報)
OUTONO
発行
財団法人
(秋)
理事長
日伯協会
西 村 正
TEL/FAX
O BRAS
IL
2012
URL
http://www.nippaku-k.or.jp
平成24年10月31日
(季 刊)
神戸(078)230−2891
E-mail
〒650−0003 神戸市中央区山本通3丁目19−8 海外移住と文化の交流センター2階
[email protected]
フェルナンド・デ・ノローニャ諸島とロカス環礁の保護区群(2001年登録)
今号の主な記事
3
P.
2
移住ミュージアムだより
P.
8
住友ゴムグループ
P.
3
日伯協会後援イベント
P.
9
ブラジルの日系団体紹介
P.
4
ポルトガル語講座
P.
10
ブラジル人アスリート
P.
5
ブラジル経済情報、表紙の言葉
P.
11
コーヒーブレイク、編集後記
P.
12
私とブラジル
第3回
日伯協会からのお知らせ
P.
6-7
印刷/菱三印刷株式会社 〒652-0803 神戸市兵庫区大開通2丁目2-11 TEL
(078)
576-3961
私とブラジル
3
第
3
変わりゆくブラジル・コーヒー
財団法人日伯協会 副理事長
回
上島 達司
(UCCホールディングス株式会社 グループ代表 代表取締役会長)
日本とコーヒーの縁は100年以上
前から
ブラジルといえばコーヒー、
コーヒーといえばブラジルで
す。
ブラジルのコーヒー豆は、常に全世界の生産量の約3
分の1以上を占め、1800年代から150年以上もの間、世界
一 の 生 産 量を維 持し続けています 。そんなブラジルの
コーヒーは日本と関わりが結構深いのです。当初コーヒー
豆は黒人奴隷たちの手で生産されていました。1850年に
ブラジルの奴隷制度が廃止されると、
コーヒー園の農場
主たちはヨーロッパからの移民に頼らざるを得なくなりまし
た。そして20世紀に入ると日本移民を受け入れることにな
ります。その背景には日本にコーヒーの新市場を拓く思惑
を秘めていたと言われています。
日本移民の先陣を切ったのが、笠戸丸移民です。1908
年6月18日にサントス港に入港した781人はサンパウロ郊
外の6つのコーヒー農園に契約労働者(コロノ)
として派
遣されました。その生活は厳しく、1年3か月後に残ってい
たのは191名に過ぎなかったそうです。その後も移民のほ
とんどはコロノとしてブラジルへ渡り、悪戦苦闘の末、分益
農から自作農へと進み、1930年代にはコーヒー園所有者
が100人近く誕生しました。
に、
ピボセントラルと呼ばれる回転式の灌漑設備が設置さ
れている農園もありました。
セラードコーヒーはすべての農作業が計算されつくさ
れており、投 資 計 画に基 づいた農 業 経 営 が 徹 底され、
コーヒーがまるで工業製品のように生産されていました。
雑味のない美味しいコーヒー
ブラジルにはセラード地区とは対照的なコーヒー産
地があります。前回ご紹 介したエスピリットサント州で
す。ここのコーヒー農園は、なだらかな丘陵地帯にある
他の産地とは異なり、標高6 0 0∼1, 2 0 0mの山岳地帯に
あります。ゴロゴロ突き出た大きな岩、流れる水は豊か
で、朝 晩の 寒 暖 の 差は 大きく、雲や 霞 がかかり、コー
ヒーの栽培には素晴らしい自然環境です。
それ故に労働条件はとても厳しいものがあります。同
行したUCCの現地法人のブラジル人取締役も、「こんな
ところでコーヒーを栽 培するのか……」と絶句していま
した。かつては平地の機械収穫と比べて格段の重労働
にもかかわらず、他のブラジル産コーヒーと同じ相場で
取引されていました。高品質なコーヒーを生産する農家
は、正しく評 価し高い価格で購入してあげるべきで、そ
れがコーヒーの品質向上を促します。
効率を追求したセラードコーヒー
コーヒーだけでなく小麦や大豆、
トウモロコシを生産し
そこでエスピリットサント州の高地なら高品質の美味
しいコーヒーがつくれると確信し、この地域のコーヒー
農 家を対 象に私どもとブラジル大手の輸出業者トリス
タン社と共同で2 0 0 0年から品
「世界の食料庫」
と呼ばれてい
質コンテストを開催してきまし
るのがブラジルのセラード地区。
た。その 結果、生 産 者の意 識
面 積はブラジル全 土の2 0%を
が 変わり、品質向上に意 欲 が
占める1億8千万ヘクタールで、
注 がれ るようになり、精 選 技
日本 全 土の約 5 倍にあたる広
術も改 良され 、高 品 質のコー
大な土地です。1975年から始
ヒーを生産してもらえるように
まった開発にはブラジル政府と
なりました 。高 地の豆は 雑 味
ともに日本 政 府もO D A 資 金を
がなくすっきりしています。
投入し、協力を惜しまず成功に
上位に選ばれたコーヒーは、
導きました。それに先 立つこと
UCCとトリスタン社がプレミア
1年、
日系農業者のコチア産業
ムを付け て買い 取り、自家 焙
組合がミナス州のセラード地区
開発に先鞭をつけたのです。
大規模なピボセントラル式灌漑設備
2004年12月、私はセラード地
区のコーヒー農園を視察しました。
1軒当たりの面積は平
均して約300ヘクタール。人手はできる限り削減され、耕作・
収穫から精選にいたるまで、効率化が追求されていました。
水の散布も、木の上から散水すると多くの水分が蒸発
2
No.957
するため、
ホースのところどころに穴をあけて直接根元に
散水する、点滴を思わせる方法が取られていました。
さら
煎店や当社のカフェバザール
など で 限 定 販 売して います。
ただ 残 念なことに、コーヒーの販 売店も購入される消
費者も、その味や品質の特長についての理 解が十分で
なく、「ブラジル・コーヒー」というステレオタイプの認識
しかありません。今後はエスピリットサント州のコーヒー
が 他のブラジル・コーヒーとは大きく違うことを、お客
様に広くお知らせしていかねばならないと思っています。
ブラジルへの進出
Sumitomo Rubber do Brasil Ltda.
社長 小田 一平
住友の歴史は、17世紀の寛永年間に住友政友(まさと
も)が京都に書物と薬の店を開いたことに始まります。こ
の住友グループの一員として住友ゴム工業株式会社は、
1909年に我が国初の近代ゴム工場として創業。以来、変
革と挑戦の歴史のなかで常に魅力のある商品の提供に努
めてきました。
当社のメインブランドである『ダンロップ』の歴史は、
1888年にJ・B・ダンロップが世界で初めて空気入りタイヤ
を発明したことに遡ります。そこから現在に至るまで、ダン
ロップブランドを中心としたタイヤ事業だけでなく、競技
用人工芝や地震から建築物等を守る制振材等、様々な製
品を扱う産業品事業、ゴルフ用品、テニス用品を扱うス
ポーツ事業と、世界を舞台に幅広いフィールドでビジネス
を展開してきました。
当社の主力であるタイヤ事業においては、増え続ける海
外での需要に応じるため、1995年にはインドネシア、2002
年には中国、2005年にはタイ、2010年には中国第二工場
の設立とアジアを中心に生産拠点の展開を進めてきました
ダンロップ販売店の完成予定図
工場建設に関しては、2011年9月FRG市において用地
造成に着手、2012年1月27日にパラナ州知事リッシャ様、
FRG市市長フランシスコ様、在クリチバ日本国総領事
館総領事山口様、兵庫県事務所所長山下様他、多数の
方にご臨席をいただき起工式を挙行、2013年10月から
の生産開始を目指し、工場建設を進めています。
が、2011年5月、当社にとって初めてのアジア以外での工場
建設となるブラジルへの進出を決定しました。
現在、中南米地域の経済は堅調に拡大を続けており、そ
の中心であるブラジルでは自動車の国内販売台数が世界4
位になるまで成長、それに伴い一般自動車用タイヤの需要
も増加しています。また2014年のワールドカップや 2016年
のオリンピック開催を控えて、それに伴う公共事業等の影
響で、商用車タイヤの需要も堅調に増加しています。加えて、
ブラジルのタイヤ市場は、経済成長を背景に着実に需要が
伸長する一方で、高関税および遠隔地からの輸送による高
物流コストのため、輸入品には不利な状況にあることから、
現地での新たな生産拠点の開設が必要と判断したためです。
2011年7月、Sumitomo Rubber do Brasil Ltda.はタイ
ヤ製造・販売子会社として設立されました。工場立地場所
はパラナ州の州都クリチバ近郊のファゼンダ・リオ・グラン
デ(FRG)市、敷地面積50万㎡、約5億6千万レアル(約
280億円)を投資し、2016年末には従業員約1,000名で日
産15,000本の乗用車用ラジアルタイヤを製造する計画です。
販売面では2012年5月末にクリチバ市にてブラジル全土
の代理店と、代理店会議および試乗会を実施し、6月より
日本・アジア製タイヤの輸入販売を開始しました。ブラジル
この工場にはタイヤの高精度と高性能、設備のコン
は、輸入システムや各種税制が複雑で、当初は頭を悩まさ
パクト化による投資効率向上を追求した住友ゴム独自
れました。また、国土も広く、遠方へは1週間以上の陸送
工法「太陽工法」を採用しています。この独自工法は、
期間を要しますが、代理店の温かいご協力をいただきなが
乗心地、静粛性、燃費性能など、高級車が求める様々
ら、徐々に販売を増加しております。現在は、物流体制構
な要求性能を高い次元で実現することを可能としてい
築と、ダンロップ販売店の設営・販路拡大に勤しんでおり
ます。当社はこの最新鋭の独自工法により、ブラジル
ます。また、ブラジル工場での生産開始後は中南米各国へ
の優秀なスタッフとともに優れた製品を製造・販売し、
の輸出も開始する計画です。
地域社会に貢献していきます。
3
No.957
ブラジルの日系団体紹介
ブラジル日本文化福祉協会
文協
文協は、会員(個人・法人)からの会費や寄付、講堂、
ホール、会議室などの使用料を収入源として運営されてお
り、活動は32の専門委員会が運営管理などにあたってい
ます。すべてボランティア会員によるものです。
また、委員会活動のほかに、地方日系団体の代表者30
名が地方理事として運営を助け、文協の基盤を全国に広
めています。
文協はまた、日本政府高官並びに民間団体代表などの
ブラジル訪問の際に率先して、他団体に呼びかけて共同
で接待、歓迎会等を催します。
小年表
Edificio Bunkyo (文協ビル)正面入り口
ブラジル日本文化福祉協会(以下「文協」という)は、
「ブラジル日系社会の中心的機関として、ブラジルでは、
1954年
「日本人協力会」が日本・ブラジル官民の協力で、
サンパウロ市イビラプエラ公園に日本館を建設。日
本人協力会の発展的解散、サンパウロ日本文化協
会設立。
1958年
ブラジル日本移民50周年祭開催、文協ビルの建設
工事着工。
1967年
今上天皇と美智子妃殿下のご来伯を記念して、文
協ビル内に大講堂建設を決定。1970年9月3日、
「皇太子殿下ご来伯記念大講堂」が落成。
1978年
今上天皇と美智子妃殿下を迎え、移住70周年祭典
行事を主催、ブラジル日本移民史料館落成。
1988年
ブラジル日本移民80周年祭記念行事主催、行事の
一環としての日伯友好病院建設に支援。
2008年
日本人ブラジル移住10 0周年の様々な記念事業
主催。
日本文化の継承と普及促進を、日本には、ブラジル文化の
紹介と普及に務め、種々活動の目的遂行のため、率先して
奨励し、支援する。」という理念の基に、サンパウロ市リ
ベルダーデ区の本部ビルを中心に運営しています。
日本人会
移民の初期には、祖国を遠く離れ、異国に移り住んだ初
期日本移民の相互扶 助を目的とし、経済活動や子弟教
育、会員同士の親睦のほか、医療・衛生問題への対処、行
政との関係・日本との連絡調整など日々の生活或いは特
別行事を支えるものとして組織されました。
第2次世界大戦で
団体活動が禁じられ、外国人が組織したものは解散さ
れました。
再組織と発足
国際民族舞踊大会
文協が主催している様々な文化イベン
トの中で最も意義深いものの一つとして
挙げられるのは、1972年から続いている
国際民族舞踊大会です。文協では日本文
化の保存、普及のみにとどまらず、ブラジ
ル社会を構成している各国の民族舞踊の
保存にも協力し、交流を深めています。
第41回大会を9月22(土)、23(日)日に開催しました。
今年は21か国・地域から38グループが出演。多文化共生
1954年サンパウロ市400年祭に参加するために祭典「日
のシンボルでもある同大会は、今年移民120周年のウクラ
本人協力会」が発足しました。1955年、協力会の解散総
イナ・コミュニティーが公式記念行事に位置づけるなど、他
会時に、3年後の日本移民50周年祭に向けた組織委員会
民族からも高い評価を受けています。
の設置が決まりました。協力会
の組織と日系社会の結束精神を
恒久に保つため、12月17日に「サ
ンパウロ日本文化協会」の名称
で今の「文協」が創立されまし
た。1968年、活動範囲の拡大に
伴い「ブラジル日本文化協会」
に改称、更に 2006年に事業拡
大のため「ブラジル日本文化福
4
No.957
大会ロゴマーク
祉協会」と名称を変更して、現
在に至ります。
第41回国際民族舞踊大会の開会式
各競技場のスタンドからブラジル国旗を振りかざす熱狂的な応援ぶりが、
テレビ画面にもしばしばみられ
ました。その結果、
バレーボール、柔道、体操、水泳、
サッカーなど8種目で、金3、銀5、銅9計17個のメダル
を獲得しました。
金メダルは、柔道女子(48kg級)のサラ・メネゼス選手、体操(つり輪)のアルツール・ナバレッテ・ザネッ
ティ選手、
バレーボール女子の3個でした。
サラ・メネゼス 柔道女子(48㎏級)
サラを柔道の世界へ導いたのは、
ミゲル・メンデスであった。
サラが9歳の時に通っていたピアウイ州テレジーナ市の学校で
は、体育のカリキュラムで、
カポエイラ、柔道、サッカーの3種か
ら選択しなければならなかった。彼女はカポエイラを選択してい
たが、
自習が多く、
すぐ隣で柔道の授業をしていたミゲルが自分
の授業に連れて行ったのがはじまりであった。
ロンドンオ リンピック で 活 躍 し た
2012年7月27日∼8月12日、
イギリスで、開催されたロンドンオリンピックで、次回開催国であるブラジル
(リオデジャネイロ)
は、選手272人、24種目に選手を送りました。
また大勢のブラジル人が応援に駆け付け、
ブラジル人アスリート
日本で活躍するブラジル人アスリートを3回にわたり取り上げてきましたが、今号は、
この夏ロンドンオリ
ンピックで活躍したブラジル人選手を紹介したいと思います。
学校のカリキュラム終了と同時に、
ミゲルの師匠であった、
エ
スペジト・ファルカンに預けられた。
それ以来サラ・メネゼスとエス
ペジト・ファルカンは無敗のコンビとなった。20歳以下の世界大
会2連覇( 2008・2009 )、世界大会銅メダルが2回( 2010・
2011)
、今年オリンピックで金メダルを獲得した。
アルツール・ナバレッテ・ザネッティ 体操男子(つり輪)
7 歳で体 操を始め、世界大 会 2 0 0 9 年 4位、
2011年2位、北京オリンピックの覇者、陳一氷が
15.800点で、金メダルをほぼ手中に収めていた
が、ザネッティが最終演技で、15.900点を出して
逆転した。
バレーボール女子代表
2007年ワールドカップで準優勝し、8大会連続となる
オリンピック出場権を獲得し、FIVBランキングでついに1
位になった。2008年のオリンピックで念願の金メダルを
獲得。しかし、2010年の世界選手権では、ロシアに負け
て、準優勝になり、2011年のワールドカップでは、日本に
ストレートで負けるなど不調が続き5位に終わった。
ロンドンオリンピック1次リーグでは、4位通過を果た
し、決勝で、アメリカを下して北京に続いて2連覇を果た
した。
銀メダルは5個、
銅メダルは9個、
合計メダル数は17個でした。
競技
銀
銅
性
競泳(400個人メドレー)
男
ビーチバレー
競技
性
ボクシング(ライト級)
女
男
ビーチバレー
女
サッカ―代表
男
ボクシング(ライトヘビー級)
男
ボクシング(ミドル級)
男
近代5種競技
女
バレーボール代表
男
柔道(60㎏級)
男
柔道(78㎏級)
女
柔道(100㎏超級)
男
競泳(50m自由形)
男
セーリング(スター級)
男
銅
次回のリオデジャネイロオリンピックのロゴは、
緑、オレンジ、青で彩られた3人が輪になって手を
取り合っている図です
5
No.957
Notícias
日伯協会からのお知らせ
「移住ミュージアム」
教科書で見る
ブラジル日系社会の子弟
ジャポネス・ガランチードと尊敬された日
開催期間:2012年11月1日㈭∼2013年1
前回の企画展(2012.5.18∼7.22)
「ブラジルの大地を拓
いた日系人たち」では、農業を中心に取り上げました。第2次
大戦をはさむ10年ほどの移住空白期間がありましたが、日本
からの移住者の総数は25万人を超えました。その殆どが農
業移住者としてブラジルに渡ったのです。その農業でも日本
移民は、
【 農業の神様 】
と敬われています。今回のテーマは
「教育」です。日本移民は、骨身を削って子供達の教育に心
血を注いできました。
「教育熱心」だけでは語りつくせぬもの
があります。
「ジャポネス・ガランチード」
とは、
「日本人は信用できる」
と
いう意味です。
「日本人はうそをつかない、約束を守る、いい
加減な仕事はしない」
とブラジルでは日本人は非常に尊敬さ
移住ミュージアム企画展案内係からの報告 (会員 三井敏明)
5月18日から7月22日の間、開催された
「ブラジルの大地を拓
ンドネシア、ベトナム等で約20%)
。若干ながら、
リベリカ種
(リベ
いた日系人たち」の会場案内係りのボランティアをしたが、見学
リア、
ギアナ、
スリナム等で少量)
がある。
頂いた方々の様子をご紹
また、展示中「養鶏業への貢献」
介します。
では、西宮市名塩出身の故弓場勇
毎週土曜日を担当した
氏が南米一の養鶏場を築き上げた
が、雨の季節から暑い季
ほか、
ブラジルが鶏肉の輸出でも今
節での開催のため一日当
日世界第1位になったのは、日系人
り平均20名程度の方に留
貢献が大きいと展示を見た多くの
まった。担当初日
(19日)
は
方々が理 解された。スーパーマー
タイミング良く、3日間しか
ケットで鶏肉を買う際、
どうしてブラ
咲かないコーヒーの花が
ジル産が多いか納得
前日から真っ白な可憐な
できたと感謝された。
花(写真参照)
をつけ皆さ
最後に、今11月∼1
ん大変喜んで頂いた。
月の3ヶ月間、
「ブラジ
今回の企画は、百余年
ル日系社会の子弟教
前から移住した日系人が
育」
と題した展示会が
ブラジル農業に多大な貢献をした姿が時代を追って分かり易く
予定されているので、
展示されており、栽培されている野菜の展示もあり好評であった。
またご来場されるのを
ある方から
「コーヒーの種類は幾つぐらいあるのか」
というご質
問に対し、的確に返答ができず、後日調査したところ大きく分け
て2種類、アラビカ種
(ブルーマウンテン、サントス、
コロンビア、
6
No.957
ハワイコナ等で約80%)
、
カネフォラ種ロブスタ
(ジャワ、
タイ、
イ
お待ちしています。
」2012年秋季企画展
弟教育
た日系人の源流
1月31日㈭
れています。この「ジャポネス・ガランチード」の根 幹が「 教
企画展開催中「会場内」の
ボランティア ご協力依頼
育」にあると言えるのではないでしょうか。移民船の中から教
育は始められました。日本移民の奮闘ぶりをご覧いただき、こ
れからの日本について考えて頂けたらと思います。
展示構成は、戦前編、戦後編の2部から成ります。残念な
今回の企画展は会期が3ケ月に及びます。期間や日数
がら戦前の教科書等の現物は展示できませんが、戦後の教
を問いませんのでご協力をよろしくお願いします。
連絡先:㈶日伯協会 事務局
新任理事ご紹介

科書等を展示しています。閲覧もして頂けます。
078-230-2891
KOBE観光ウィーク
今年も10月3日のKOBE
観 光 の 日 からの 一 週 間
KOBE観光ウィークが市内
各所で開催されました。
移 住ミュージアムでも、
「来館者先着10名様にブラ
ジルの帽子をプレゼント」
と
案内しました。当日開館前か
ら列が出来ました。
一番乗りの初老の男性は、
宝塚市から来られた市川節三さんです。プレゼントは、初日あっという間に
株式会社 神戸クルーザー 代表取締役社長
終了しました。来年も楽しいプレゼントを考えますのでどうぞご来館下さい。
南部 真知子(常任理事)
レストランシップ、
コンチェルトを運営する会社の社長です。就
で「運命の岐路」に立っていました。震災当日のドック入りを急
航にまつわる多くの偶然性からか「運命の船」
とよく言われるの
きょストップ、多くの被災者を大阪に運び救援物資を神戸に搬
ですが、
日伯協会様と馴初めもその運命の一つかもしれません。
入、一か月後に通常営業に戻ったものの会社の経営が悪化、清
まず、
この船と私との出会いから。あの阪神淡路大震災が、船と
算の憂き目に遭うのです。
その経営を引き継いだ義弟がリニュー
私を結びつけたと言っても過言ではありません。初めて体験した
アルした船コンチェルトと、私が出会うのは1997年夏のことです。
未曾有の揺れと余震に、
しばらく
「死」
が脳裏から離れず、生きる
この船を通じて数々の貴重な体験を重ねることができました。
意味を問い続けました。いずれ来る死に際し、何をあの世に持っ
そんな中、M新聞にこの船の就航秘話を、
ブラジルへの初の
て行けるか?という自問に、
「縁」
を前向きに受け入れ粛々と前進
移民船笠戸丸の数奇な運命に重ねて書くことになりました。
タイ
すること、
と答えを出し義弟の神戸復興プロジェクトに寄与する
トルも
「船の運命」。笠戸丸や移民の歴史をもっと知りたくて移
ことを決め働き始めた私。
民センターを訪れたのが日伯協会入会のきっかけとなりました。
一方、いずれ出会うことになるコンチェルトの前身の船も震災
まさしく
「運」
「縁」のお蔭です。
7
No.957
移住ミュージアムだより
移住ミュージアム
の受付
業時間前でも気持ちよく開けてくれるほどだった」
とか。
またある姉弟は「父親がブラジルに行くと言い出した時、弟
が中学生で契約移民の対象にならなかったため、自分が嫌だ
と言えば家族が行けないので泣く泣く行った。ブラジルにいる
移住ミュージアム・ボランティア
出石 美知子
父親の知人の誘いで行ったが、本当に大変だった」
とお姉さん。
「日本の国に騙された」
と弟さん。
「ブラジルで子供が生まれた
ら、3カ月以内に領事館に届けないと子供に日本国籍が貰えな
いとは知らなかったし、領事館まで行く術もなかった」
と話すお
移住ミュージアムの受付に来るようになって、二年半。若い
二人は2週間後にはブラジルに帰ると言うことでした。
頃に石川達三の「蒼氓」を読んでいたので、移住ミュージア
ムがどこにあるかは知っていました。でも知っていたのはそれ
若い3世の女性は、日本に働きに来た時には日本語は出来
だけ。
「移住」
とは、全く関わりなく生きてきました。
ミュージア
なかったが、今は日本語を覚えて日系の子ども達に日本語を
ムを一回りして、如何に何の知識も持ち合わせていないかを
教えている。ブラジルでは、お祖母さんと話が出来なかったが、
痛感しました。まずは館内案内のイヤフォンを聞き、ペンと手
日本語を覚えてブラジルに帰った時、お祖母さんは喜んでく
帳を手に黒田さんの説明を傍で聞くことから始めました。
れた、でもお祖母さんの話す熊本弁はさっぱり解らなかったと。
なぜ移住か、なぜブラジルか
ということで、第3代ブラジル公
ある時は神戸市内のお寺の娘
使の杉村濬(実際に執筆したの
さんが、在ブラジルの本門仏立宗
は堀 口 久 万 一だと後で知るが
の日系の人達が大勢で来られ
「昔、
…)
の、1938年の大阪朝日新聞
『お坊さんを寄越して欲しい』
と言
に掲載された「 視察復命書 」を
われて、笠戸丸で茨木日水上人
見て感動。是非この句読点の全
をうちの寺から送り出したんです
くない、文語体の中身が知りた
よ」
と言う。その笠戸丸での甲板
いと漢和辞典と国語辞書を頼り
上の記念写真を見せるために今
に何日も掛けて解釈しました。そ
日は連れて来たのだと言う。壁の
して「なる程、これなら当時の人
写真に彼女の曾祖父さんが写っ
がブラジルに対して夢と希望を
ていると指差して教えてくれました。
持つのも当然だ」
と思いました。
なぜこの建物が建てられたのかなど、少しばかりの知識を詰
ある人は、自分の筑豊での生い立ちを話した後で、ブラジ
め込んで受付に座りました。ところが実際は来館者に対して
ルでは父親が“夜逃げ”をするのを手伝ってあげた人と結婚
「そうですか、そうだったんですか…」
と答えているのは私の方
したが、
「 主人は山形から家族6人で神戸に来た、出発の時
でした。
「昔、
ここにいました」
とおっしゃる方が結構来られます。
母親と下の妹がトラホームで船に乗せて貰えなかった。いつ
も
『 会いたい、会いたい』
と言っていたのに、会えずに75才で
「24才でブラジルに渡った。苦労して大変だったが、
たまたま
がま
亡くなった。子供の一人が日本に働きに来ているので会いに
母親の蒲で作った草履が良く売れて、作っても作っても足りず
来た時に山形まで会いに行った。家族が山形を出る時に田
に、家族全員で売りに出た。藁草履ならぬ蒲草履だね。お陰で
んぼや地所を近くの神社に寄付して出たそうだ。山形に行っ
毎朝鞄に一杯のお金を持って銀行に預けに行った。銀行の始
た時、神社の人に『ご恩は忘れてはいけないねぇと話してい
る』
と言われて、複雑な気持ちだった」
という話。
移住を体験された方の話はまだまだ沢山ありますが、それ
だけでなく地元の年配の方は、地図を見ながら
“ 蒼氓 ”の頃
の三宮と元町の話やなぜTOR・ROADと呼ばれるようになっ
たかの話。一つの区画になぜ小学校が二つあるかなど、昔の
この辺りはどうだったかをいろいろ教えてくださいます。そして、
初めて来られた方や、若い人にはそんな知識を少しお話しす
ると
「そうなんですか」
とか「来てよかった」
と言ってくれます。
移住ミュージアムの受付をして感じることは、他の受付で
あれば来られた方に案内すると言うのが役目だと思います。
が、ここは沢山の方の一人一人の重い歴史を持った場所だ
からこそ、案内するのは勿論ですが、来られた方の夫々の思
いを聞かせていただく場所でもあると言うことです。本当によ
い体験をさせて頂いていると感謝です。
8
No.957
日伯協会の後援で
特別展開催!
日伯協会の
特別企画展のパネルを借りて
『ロンドリーナウィーク』は、日伯協会の協力を得て、過去
に神戸移住ミュージアムで開催された特別展、企画展のパネ
ルを拝借し、
「ブラジルと日本」
「移住の歴史」などを紹介し
てきました。今年はさらに、ロンドリーナ市をアピールするパ
ネルを追加作成し、友好提携35周年を記念する特別展の準
西宮・ロンドリーナ友好の会
備を進めています。
事務局長 鈴木 信幸
何でブラジル? ロンドリーナ市って?
1970 年 5月の兵庫県と
今や、世界中で起き
ブラジル・パラナ州の友好
たことが時間差を待た
協力協定を機に、加古川市
ずに、T V 画面、P C画
―マリンガ市、西宮市―ロ
面に現れる時代です。
ンドリーナ市、姫 路市−ク
現在は、「老 後を海 外
リチーバ市、淡路市―パラ
で」「休 暇中は海 外の
ナグア市と兵庫県下の市と
別 荘で」「 国 際 結 婚」
パラナ州 下の市が 順 次 姉
と移住となんらかわり
妹友好都市提携を結び、友
ない生活を多くの方が
好の輪が広がり強固なもの
実践しておられます。古
になっています。今年は、西
くは明治の初めハワイ
宮市・ロンドリーナ市友好
に、その後カリフォルニ
提携35周年です。
アに、カナダにと移住
されましたが、継続しては受け入れられませんでした。ブラジ
多くの皆さんに知ってもらおう!
ルへは、1908年から1993年までに合計約25万人が移住しま
した。当時の苦しいこと、辛いこと、筆舌に尽くしがたい出来
事は沢山残されています。また、日本人のたゆみない努力、勤
勉さ、真面目で誠実な人柄は、多くのブラジルの人々に尊敬
され、遠くブラジルの地にしっかりと根を下ろしています。
こんな歴史を知ってもらおうと「2012ロンドリーナウィー
ク
西宮・ロンドリーナ友好提携35周年記念特別展」は、11
月5日から16日まで、西宮市役所本庁舎1階北ロビーで開催し
ます。
今回展示されるパネルや日伯協会が保管している多くの
資料は、市民団体や、学校などで、移住、移民の歴史、
ブラジルの今を知って頂く資料として貸し出しにも応じ
ますので、ご活用ください。 日伯協会
「西宮・ロンドリーナ友好の会」では、西宮市や西宮市国
際交流協会と共にブラジルからの訪問団との懇談会、ロンド
リーナ市からの来西者の歓迎会、国際交流デーを開催する
など、種々の活動を展開し、交流と親睦に努めています。
しかし、市民の皆さんにどれだけ知ってもらっているのか
となると、自分の住んでいる市と遠く離れたブラジルの都市
ロンドリーナ市とはどんな関係があるのか、友好提携してい
ることすら知られていないのではないでしょうか。西宮市で、
最初に海外との友好提携を結んだアメリカ「スポーケン」や
中国「紹興市」については、ご存知の方は多いのですが、フラ
ンス、ブラジルとなるとなかなか身近ではないので、難しいよ
うに思います。
会のメンバーだけが、納得し自己満足することなく、広く市
民の皆さんにも知ってもらうため、今年は『ロンドリーナ
ウィーク』の展示会を、
「西宮市役所本庁舎で開催し、来庁
者の方に見てもらおう!」ということになりました。
9
No.957
Relatório
レポート
日伯協会の講座でポルトガル語を学んでみませんか
会話コース担当
文法・講読コース担当
山本アケミ
・アナ・クリスチーナ先生
村松英理子先生
日伯協会のポルトガル語講座にはこれまで多くの方々が参加して
2014年にワールドカップを、2016年にはオリンピックをひかえ、
います。受講の動機は実に様々。
“かつて仕事でブラジルに赴任し
また、近年の経済成長により、
その動向が注目されるようになっ
て数年間住んでいた”
“ブラジル音楽や文化、
サッカーが好き”
“ブラ
てきたブラジル。
かつては、
サッカーやサンバ、
カーニバルといった
ジル人の友人や親戚がいる”
“仕事でポルトガル語を使う機会があ
おきまりの話題ばかりがとりあげられてきましたが、最近では、新
る”
“何か新しいことを始めたかった”
などなど。そんな皆様が講座
聞雑誌などで政治、経済、文化面など多方面にわたってブラジ
で求めるポルトガル語の到達レベルやレッスンの形態もやはり様々。
ルの特集が組まれているのを目にするようになってきました。
しか
日伯協会では、
出来るだけ多くの皆様のご要望にお応えできるよ
しながら、
日本で得られるブラジルの情報というのは、
ポルトガル
う、
ヒアリング能力を高めポルトガル語でのコミュニケーション力を身
語という言語のマイナーさゆえに、
英語圏を通じての情報であっ
に付けるための会話中心のクラスと、文法能力を鍛え読解力を身
たり、情報そのものが入ってこないことも多くあります。例えばブ
に付けるための講読中心のクラスを設けています。週1回のペース
ラジル映画などでは、
ポルトガル語を直接日本語へ訳すのでは
で全6回の短期講座を毎年3回開講し、
レベルは入門、初級、
中級
なく、
ポルトガル語→英語→日本語 という翻訳がみられますし、
に分けられ自分のレベルや目的に合わせて選択することができま
英語圏のアーティストは広く日本でも知られている一方、世界的
す。例えば会話中心の入門クラスでは基礎となるアルファベットの
なブラジル人アーティストでも、
日本で紹介されている人はほんの
発音から始まり日常的に使われる挨拶表現や、
自己紹介が出来る
わずかだったりします。
こうしたことの背景には、
日本におけるポ
よう基本的な文法事項を勉強します。
また講読中心のクラスでは
ルトガル語の希少性も要因の一つにあり、
日本語にされた情報を
常に最新の記事を講師が自ら選び、他には無いオリジナルの教材
待つばかりでは、
欲しい情報は手に入りにくい、
といえます。
で楽しくブラジルの現状を追いつつ文法能力の強化を図ります。
そこで、皆さん!ポルトガル語を勉強してみませんか?講座で
是非ご自分のレベルやスタイルに合ったクラスで新しいポルトガ
は、基礎的な文法のほか、
ブラジルの新聞、雑誌記事や、
ネット
ル語の世界、近年著しい変化を見せるブラジルの姿と出逢ってく
配信ニュースなどをとりあげ、
今のポルトガル語を通して、
ブラジ
ださい。
ル人の視点、
動向、
流行などをおっていきます。
次回講座:2013年2月2日㈯∼3月9日㈯ 毎週土曜日6回
会話コース:入門会話編 文法講読コース:ステップアップⅡ
カ
ルタ・リジュボエッタ
が目的であったため,修道院はまだ訪問し
ていません。任期満了までには,アソーレ
ス諸島やポルトガル唯一の自然遺産があ
岐部 雅之
るマデイラ島を是非とも訪れたいと思っ
(在ポルトガル日本国大使館・専門調査員)
バターリャ修道院
ンエスの歴史地区(2001年登録)です。
現在14件が登録され,国内外から観光客を惹き
実は,10月5日(金)の共和国樹立記念日
つけています。最近では,本年7月,スペイン国境
(祝日)を利用して連休中に観光を計画し
ジェロニモス修道院
初代国王アフォンソ・エンリケスの生まれ
ロニモス修道院とベレンの塔(1983年登録),バ
故郷であり,ポルトガル建国の地であるギ
ターリャの修道院(1983年登録),エヴォラ歴史
マランエス観光は再度日程を練り直すと
地 区( 1 9 8 6 年 登 録 ), シントラ の 文 化 的 景 観
同時に,その他の世界遺産についても可
(1995年登録),ポルト歴史地区(1996年登録)
能な限り訪れたいと考えています。
の5カ所です。また,リスボンから車で北東へ2時
※なお、内容は全て筆者自身の観点に基づく私
間弱の距離にあるトマールにはキリスト教修道院
見であり、大使館の意見を代表するものでは
(1983年登録)がありますが,ここには4年に1度
No.957
開催されるタブレイロスの祭り
(頭にお盆とパン
ていたのですが、国鉄(CP)のストライキ
実施により断念せざるを得ませんでした。
筆者がこれまで訪れた場所は,リスボンのジェ
10
文 化 首 都( E U 加 盟 国 の 中から選ばれた
が開催される)である北部の都市ギマラ
に過ぎませんが,ユネスコ文化遺産・自然遺産には
群が文化遺産に指定されました。
ていますが,次の行先候補は,本年の欧州
都市で,年間を通じ様々な文化・芸術行事
ポルトガルの国土は日本のわずか4分の1程度
付近にある要塞都市エルヴァスとその防衛施設
からです。
を載 せたパレードで, 次 回は2 0 1 5 年 ! )
∼リスボンからの手紙∼
ポルトガルの文化遺産・自然遺産
授講の受付は、
2013年1月8日
ありません。
タブレイロスの祭り
Brasil
ブラジル経済情報
ブラジル経済 景気の回復色が強まる
SMBC日興証券 武田泰典
ブラジル経済は緩やかながらも回復ペースが強まっている。2012年4
7.25%となった。審議会メンバー8人のうち3人が利下げに反対して政
∼6月期の実質GDP成長率は前期比+0.4%と1∼3月期の同+0.1%
策金利の据え置きを主張した。中銀は会合後の声明文やその後明らか
を上回り、7∼9月期は一段と加速したとみられる。
となった議事録において、政策金利を次回11月27∼28日の会合以降
7∼9月期も外需の低迷が続いているものの、個人消費が政府の景
気対策を支えに好調を維持している。7∼9月の自動車販売台数は自動
車の工業製品税減税を受けて前年比+13.4%
(4∼6月:▲1.5%)
の高
は据え置く方針を示唆しており、政策当局も足元の景気回復に自信を
深めつつあることが窺える。
い伸びとなった。自動車生産台数も販売好調を背景に在庫調整が進
ブラジルの鉱工業生産指数および小売売上高指数
展したことから、大幅に回復している。
レアル安や政府による関税引き
(2011年=100)
110
上げなどの輸入抑制策も生産回復の追い風となっている。
レアルは昨
年12月末から9月末にかけて対米ドルで約8%下落しており、国内自動
105
車販売に占める輸入車の割合は2011年12月に統計開始以来最高の
100
27.0%となっていたが、9月には18.9%まで低下した。
また、
メルコスール
(南米南部共同市場)
域内調達率などの要件を満たさない自動車に対
90
9月の自動車販売台数は前年比▲27%と大幅な減少となるなど政策の
85
景気の回復色が強まる中、
ブラジル中央銀行の金融政策も転機を
迎えている。10月9∼10日に開催された金融政策審議会では、政策金
利の下げ幅が前回の0.5%ポイントから0.25%ポイントに縮小され、
表紙 の言葉
世界自然遺産
140
鉱工業生産指数
(右軸)
135
130
95
する増税などを受けて、国内に工場を持たない韓国・現代自動車の1∼
効果も顕著となっている。
(2002年=100)
145
125
120
小売売上高指数
(左軸)
115
110
80
※データは12年8月まで
75
08/3 08/9 09/3 09/9 10/3 10/9 11/3 11/9 12/3
105
100
(年/月)
(出所:CEICおよびブラジル地理統計院よりSMBC日興証券作成)
ブラジルの大西洋上の島々
フェルナンド・デ・ノローニャ諸島とロカス環礁の保護区群(2001年登録)
主島フェルナンド・デ・ノローニャ島を中心に20の火山島などの島々からなる。面積約26㎢、人口約1200人の「フェルナンド・デ・
ノローニャ国立海洋公園」として国立公園になっている。 首都ブラジリア、リオ・デ・ジャネイロやサンパウロなどと時差があり、
1時 間早い。フェルナ
ンド・デ・ノローニャ空
港から、ブラジル本土
のレシーフェとナター
ルとの間に、1日3便定
期 航 空 便 が 運 航され
ている。
産卵中のウミガメ
海中に群れる魚群
ノローニャ島の海岸
(Google画像より)
11
No.957
Coffee break コーヒーブレイク
世界遺産《まとめ》
世界遺産となるためには、
「顕著な普遍的価値」
を有している必要がある。
しかし、世界遺産条約では
「顕著な普遍的価値」
自体を定義していない。
その当否を検討するための基準が10項目からなる世界遺産登録基準である。
また、世界遺産はその基準を満たした
「最上の代表」
が選ばれるとさ
れる。世界遺産に登録されるためには、世界遺産登録基準を少なくとも1つは満たし、
その「顕著な普遍的価値」
を証明できる
「安全性」
と
「真正性」
を備えていると世界遺産委員会から判断される必要がある。
1
人類の創造的才能を表現する傑作
2
ある期間を通じてまたはある文化圏
において建築、技術、記念碑的芸術、
都市計画、景観デザインの発展に
関し、人類の価値の重要な交流を
示すもの。
3
現存するまたは消滅した文化的伝統
または文明の、唯一のまたは少なく
とも稀な証拠。
4
人類の歴史上重要な時代を例証
する建築様式、建築物群、技術の
集積または景観の優れた例。
完全性と真正性
5
6
ある文化(または複数の文化)
を代
表する伝統的集落、
あるいは陸上な
いし海上利用の際立った例。もしく
は特に不可逆的な変化の中で存続
が危ぶまれている人と環境の関わり
あいの際立った例。
顕著で普遍的な意義を有する出来
事、現存する伝統、思想、信仰または
芸術的、文学的作品と、直接にまた
は明白に関連するもの
(この基準は
他の基準と組み合わせて用いるの
が望ましいと世界遺産委員会は考え
ている)
。
7
ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の
自然現象または地域を含むもの。
8
地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。
これには、生物の記録、地形の発達における重要な地学的
進行過程、重要な地形的特性、
自然地理的特性などが含
まれる。
9
陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化
と発達において、進行しつつある重要な生態学的、生物学
的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
10
生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意
義深い自然生息地を含んでいるもの。
これには科学上また
は保全の観点からすぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れ
のある種の生息地などがふくまれる。
登録基準は不変のものではなく、過去にも文面の修正は幾度となく行われてきた。
完全性
その物件の「顕著な普遍的価値」を証明するために必要な要素が全て揃っていることなどを指す。
真正性
特に文化遺産について、そのデザイン、材質、機能などが本来の価値を有していることなどを指す。
「真正性」の問題がクローズアップされたのは、登録物件の偏りなどの関連である。石の建造物を主体とするヨーロッパの文化遺産と違い、木や土
を主体とするアジアやアフリカの文化遺産は、古い文化遺産がそのまま残り続けているとは限らないためである。1994年に奈良市で開催された
「世
界遺産の真正性に関する国際会議」
で採択された奈良文書において、建材が新しいものに取り替えられても、
その建材の種類や伝統的な工法・機
能などが維持されていれば、真正性が認められることになった。
この真正性の定義づけには、
日本も積極的に関わったのである。
Nota do Editor
編 集 後 記
初めてサントス港に到着した日本移民(笠戸丸移民)のことをブラジルの新聞記者が報じた新聞(1908.6.25)には、
“清潔で秩序正しい移民”とほ
めちぎっている。
「午後5時の夕食だったという。押すな押すなの雑踏、がらんとした天井の高い大食堂に並んだ10数個のテーブルで、2回にわたって
食事が供与された。移民たちは、1時間ほど食堂で過ごした後、自分達に割り当てられた寝台、寝室を見るために、そこを出なければならなかったが、
彼らの去った後のサロンは、完全な清潔さが保たれていて皆を驚かせた。煙草の吸殻一つ、唾を吐いた跡一つない。汚らしく唾を吐き散らし、煙草の
吸殻を足で踏みつぶす他の国の移住者たちとは、まさに対照的である。彼らはいつも、極めて規律正しく食事をした。」などと。
これこそ、日本人に宿るヤマトダマシイ・ヤマトナデシコダマシイに他ならない。何処に行っても、誇らしく!
【編集】編集委員長:品川秀麿/委員:鹿子嶋栄三、加茂周治、辻信一、三井敏明、村上美穂/事務局:金井佐稚子
Fly UP