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時計台 - 関西学院大学図書館[西宮上ケ原キャンパス]

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時計台 - 関西学院大学図書館[西宮上ケ原キャンパス]
ISSN 0918 -3639
関西学院大学
図 書 館 報
『時計台』
2014 APR. No. 84
関西学院大学図書館報『時計台』No.84
巻頭言
大学図書館長 奥野 卓司
………
1
…………………………
2
第22回 大学図書館特別展示・学術資料講演会
【特別展示】フォックスウェル文書に見る世界的な知の交流
【学術資料講演会要旨】
フォックスウェル文書に見る世界的な知の交流
─ 経済学を中心に ─
経済学部教授 井上 智
………
4
特別図書資料解説
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』初版について
総合政策学部教授 鎌田 康男
………
14
近年収蔵された教会史関連文献4点
………
20
神学部教授
土井 健司
私の電子情報活用事例(vol.3)
日々「進化」する経済学の日々「進化」する事典
─ The New Palgrave Dictionary of Economics(オンライン版)の利用 ─
経済学部准教授 久保 真 ……… 26
図書館こぼれ話(9)
関西学院大学図書館報『時計台』について
大学図書館運営課 山﨑富美子
………
27
第14回 J.
C.
C.
Newton賞 ………………………………………………………………………………… 30
最優秀賞受賞作「容赦ない情け」
社会学部4年 大前 彩織 ……… 32
2012年度関西学院大学図書館利用実態調査を踏まえて
大学図書館利用サービス課総合主管 魚住 英子
………
36
大学図書館利用サービス課 瀬戸口雅士
………
38
大学図書館事務部長 安本 裕和
………
43
大学図書館長 奥野 卓司
………
44
韓国の大学図書館のいま
「関西学院大学図書館史」の刊行について
専門知識を活かした職員の館外活動
(表紙 題字:山﨑掃雪)
No.84
巻
頭
言
今年、関西学院は創立 125 周年を迎え、大学図書館もまた、その前身、J.C.C. ニュート
ン先生によってつくられた書籍館から、同じ時間を歩んできた。その間にキャンパスが
神戸原田の森から西宮上ケ原に移り、それ以来、大学図書館は長く時計台の建物にあっ
たため、それがこの冊子のタイトルにもなっている。
その後、施設の老朽化・狭隘化のため、1997 年に現在の大学図書館が開設されたが、
それからでもすでに 17 年の年月が経った。
この 17 年間に、国内外の大学図書館は大きく変化してきた。その当初には、大学図書
館は、学術研究のための貴重な図書・資料を収集し、研究に供することが最大の任務だっ
たが、その後、情報化の波とともに書籍、雑誌の電子化が進み、図書館にもインターネッ
トを介して多数の電子ジャーナル、電子書籍、データベースなどを提供するという新た
な役割が加わった。
また、各大学の多キャンパス化によって、各周辺大学の図書館も分館や新館が建設さ
れた。本学でも、1995 年に神戸三田キャンパスの大学図書館分室(図書メディア館)を
開館した。
だが、今また各大学の図書館は、これまでの学術研究中心の図書館から、学生たちが
集い、そこにある書籍や電子ジャーナルを使い、長時間滞在して、授業とは別の形で自
ら学び、それぞれが興味あることを探求し、問題解決する場へと変化しつつある。一人
で静かに本を読みたい学生、グループで一緒に議論しながら研究成果をまとめようとす
る学生など、図書館に来る理由も様々であり、図書館はその多様な要望に応えなければ
ならない。
世界的には、スタンフォード大学は多くの講義をインターネットで公開し、各国の大学、
図書館、博物館、研究所にもインターネットでの授業・史料・資料公開を求めているが、
これに欧米だけでなく、東アジアのトップといわれる大学や日本の代表的な大学が参加
するようになってきている。シリアの 12 歳の少女が、世界各国の大学のデジタルライブ
ラリーで資料を読んで博士学位をとっている。大学図書館、博物館はインターネットに
よって世界からの情報をスムーズに検索、閲覧できる環境を保障するグローバルな責務
がある。また、学生の多様な要望に応えるために図書館員には、自らの情報サービス能
力を高めていくことが求められている。
関西学院大学図書館は、小さくとも世界の大学図書館の改革の先駆けとなりたい。近
い将来に大学図書館をリニューアルすべく、現在、館長、館員が一丸となって、関西学
院らしい近未来の図書館のありようをもとめて、企画・計画を練り、全学に提案している。
これからも、他にはない貴重な書籍、史料を収集・保管、世界に向けて発信し、関西学
院の存在を世界に知らしめていくとともに、学生たちが自ら積極的に学ぶ場、共同で研
究する場に、関西学院大学図書館を展開していきたい。
大学図書館長 奥野 卓司
1
No.84
第22回(2013 年度)大学図書館特別展示・学術資料講演会
フォックスウェル文書に見る
世界的な知の交流
2013 年 11 月 22 日(金)に大学図書館ホールで、第 22 回大学図書館学術資料講演会を開催し、本学経
済学部教授井上琢智氏に「フォックスウェル文書に見る世界的な知の交流」と題してご講演いただいた。また、
それに関連して 2013 年 11 月 1 日(金)~ 11 月 30 日(土)まで西宮上ケ原キャンパス大学図書館において、
同題で特別展示を行った。特別閲覧室前展示ケースでは、ケインズやメンガー、シュンペーターなど世界的に
著名な経済学者からフォックスウェルに宛てた手紙の一部を紹介し、図書館エントランスではフォックスウェル
と交流のあった研究者たちの著書を紹介した。
【特別展示】
関西学院の創立 125 周年記念事業の一環として、2013 年度に「H.S. フォックスウェル文書」が購入された。この文
書は H.S. フォックスウェルがケインズ、マーシャル、ジェヴォンズ、ピグー、ボーリーなど第一級の経済学者や、グラッ
ドストーン、ヒッグス、マクニールなどの政治家と交わした膨大な書簡が含まれる貴重な史料群であり、同時代の世界
各国の経済学者を中心としたフォックスウェルの幅広い交流の軌跡を示している。
フォックスウェルは、ケンブリッジ大学セント・ジョーンズ・カレッジのフェロー、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッ
ジの教授を務め、経済学の制度化と世界的普及の時代を生きた。彼の蒐集した 10 万冊を超える経済学文献は、ロン
ドン大学では「ゴールドスミス文庫」として、またハーヴァード大学では「クレス文庫」として所蔵され、現代の経済思
想史研究・経済学研究における世界共通の財産となっている。
特別展示:特別閲覧室
特別展示:図書館エントランス
2
No.84
【特別展示】
論理新編 : 全
Jevons, William Stanley 著
添田壽一訳 3 版 1892
ウルピアーヌス〈羅馬〉法範
末松謙澄訳並註解 1915
全勞働収益權史論
Menger, Anton 著
森戸辰男訳 1924
The Economics of Industry
Investigations in Currency & Finance
Éléments d'économie politique pure, ou,
Théorie de la richesse sociale
Marshall, Alfred and Marshall, Mary Paley 2nd ed. 1881
本書は J.N. ケインズへの献本
Grundsätze der Volkswirtschaftslehre
Menger, Carl 2. Aufl. 1968〔facsim. ed.〕
Jevons, William Stanley 2nd ed. 1909
Walras, Léon 1988〔facsim. ed.〕
関西学院大学図書館所蔵
フォックスウェル文書
3
No.84
学術資料講演会要旨
フォックスウェル文書に見る世界的な知の交流
-経済学を中心に-
経済学部教授 井上 琢智 関西学院創立 125 周年を前に「新基本構想」
(2009-18)
豊吉らが留学した(井上琢智『黎明期日本の経済思想−イ
が策定された。
「フォックスウェル文書」は、そこで掲げら
ギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化』2006)
。
れた関西学院のミッションとスクールモットーを実現するた
フォックスウェルは 1868 年にケンブリッジ大学のセント・
めのヴィジョンの一つ「
『関学らしい研究』で世界の拠点と
ジョーンズ・カレッジに道徳学を学ぶ学生として入学、1870
なる」
を実現するために購入された。
「フォックスウェル文書」
年にはマーシャル(Alfred Marshall, 1842-1924)の経済
は、19 世紀後半から 20 世紀初頭のイギリスを中心とする
学講義に出席、道徳学のトライポスに合格している。その後
「世界的な知の交流」を明らかにする世界的財産の一つで
ヒューエル奨学生に選ばれ、
また、
後にマーシャル夫人(1877
あるといえる。
年結婚)となったメアリー・ペイリー(Mary Paley, 18501944)にデカルトやロックを指導した。そして 1874 年になり
【 Ⅰ】 フ ォ ッ ク ス ウ ェ ル(Herbert Somerton
Foxwell,1849-1936)
1905-36)
。この年、ジェヴォンズ(William Stanley Jevons,
1)略歴
1835-1882)
(当時 39 歳)とともに
「異常な若さ」
(当時 25 歳)
フォックスウェルは、
1849 年 6月17日、
ブリストル南のシェ
のフォックスウェルは、ケンブリッジ道徳学のトライポス用の
プトン・マレット(Shepton Mallet)に生まれ、ウェスレー
経済学の試験官に就任したが、これが二人の交流の契機と
派のメソヂスト教徒として育てられた。後に東京帝国大学
なった。この交流を通じてビブリオ・グラファーであるジェヴォ
で経済学の講師となるアーネスト・フォックスウェル(Ernest
ンズの古書収集の「趣味」に感染した。1875 年には、
セント
・
Foxwell, 1851-1922)は彼の弟である。1867 年、フォック
ジョーンズ・カレッジの道徳学講師に任命された。ジェヴォン
スウェルは 18 歳でロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッ
ズは 1876 年、ユニヴァーシティ・カレッジ教授に転出するこ
ジで B.A. を取得した。
とになったが、オウエンズ・カレッジでの残りの授業をする
当時、近代化を迎えつつあった日本は、模範国イギリス
必要があり、その間、フォックスウェルがユニヴァーシティ・
の文物を導入しようと多くの留学生をイギリスに送った。彼
カレッジのジェヴォンズの授業を代行した。1877 年、結婚
らは、イギリス国教会の高等教育機関であるオックスブリッ
のためにマーシャルがケンブリッジを去ったために、彼に
ジではなく、イギリスの中産階級にリベラル・アーツを授け
代わり、フォックスウェルがシジウィック(Henry Sidgwick,
るために創立されたユニヴァーシティ・カレッジやキングス・
1838-1900)
、ケインズ(John Neville Keynes, 1852-1949)
カレッジを擁するロンドン大学に留学した。例えば、フォッ
と協力して、トライポス用の経済学の責任者となった。
クスウェルが在学していた頃の1866-67年度 のユニヴァー
弟のアーネストは医学を学んだ後、1874 年ケンブリッジ
シティ・カレッジには井上勝、鮫島尚信、吉田清成らが、
大学で道徳学トライポスに合格し、1880 年にはケンブリッ
少し遅れて 1879-80 年度には末松謙澄らが、さらに 1884-
ジで M.A. を取得した。
85 年度には添田寿一らが留学し、マンチェスターのオウエ
フォックスウェルは、1882 年に経済学クラブ会員(-1936)
ンズ・カレッジには、1876-77 年度に杉浦重剛が、少し遅
に選出された。著作業に専念するために退職したジェヴォ
れて 1878-81 年度には平賀義美が、1879-80 年度には高松
ンズの後 任として、その前年の 5 月 7 日にユニヴァーシ
1)
1)1866 年秋学期より約 1 年間の滞在である。以下同様。
4
セント・ジョーンズ・カレッジのフェローに選出された(1874-89:
No.84
ティ・カレッジ教授に就任(-1927)し、同時に、統計学の
Historical Review , 10 月号
ニューマーチ講座の職にも就いていた。1882 年 8 月 13 日
1907 年: “A Letter of Malthus to Ricardo” EJ , 6 月号
にジェヴォンズが死去し、彼の論文集『通貨および金融の
1908 年: “The Goldsmith ’s Company’s Library of
研究』Investigations in Currency and Finance の編集を
Economic Literature”(Palgrave’s Dictionary
担うこととなり、また、彼の『経済学原理』The Principles
of Political Economy の「経済学文庫」
)
of Economics を編集開始した。フォックスウェルは前者が
1909 年: “The Banking Reserve” The Secretary , 3 月号
1884 年に出版された際に序文を書いたが、後者の編集は
“The American Crisis of 1907” The Secretary ,
ヒッグス(Henry Higgs, 1864-1940)により完成され 1905
年に出版された。1896-99 年の間、弟アーネストは東京帝
国大学などで経済学を講義した。また、フォックスウェルは
1898 年にメイ(Olive May)と結婚している。当時フォック
スウェルは 50 歳であった。
1908 年、マーシャルがケンブリッジを退職する際、フォッ
クスウェルは後継者となることを望んだが、マーシャルの愛
弟子ピグー(Arthur Cecil Pigou, 1877-1959)が後継者と
なった。さらに、1922 年になるとフォックスウェルは 40 年
間奉職したユニヴァーシティ・カレッジの教授職を辞任し、
1929 年に王立経済学会会長に就任した。会長の地位には
4 月号
Andréadès の History of the Bank of England
の英訳への序文
1910 年: W.R. Bisschop の The Rise of The London
Money Market への序文
1913 年: J.M.Keynes の Indian Currency and Finance ,
書評 , EJ , 12 月号
1914 年: H.Withers の Money-Changing , 書評 , EJ , 6 月号
G.H.Pownall の English Banking への序文
1915 年: W. R. Lawson の British War Finance, 書 評 ,
EJ , 12 月号
1931 年まで就いていた。その間の 1930 年妻メイが死去し、
1916 年: “Ways and Means” EJ , 3 月号
1936 年になってフォックスウェルもまたその生涯を終えた。
1917 年: “The Nature of the Industrial Struggle” EJ , 9 月号
2)業績
“The Financing of Industry and Trade” EJ , 12 月号
1886 年: “The Social Aspect of Banking” Journal ,
“Inflation: In what sense it exists; How far
1886, 2 月号
1888 年: “Certain Misconceptions in Regard to the
Bimetallic Policy of the Fixed Ratio”
“The Growth of Monopoly and its Bearing on
the Function of the State”
1892 年: “Mr.Goschen’s Currency Proposals” Economic
Journal(以下 EJ ),3 月号
“The International Monetary Conference”
it can be controlled” Journal of Institute of
Actuaries , 10 月号
1919 年: “Obituary Archdeacon Cunningham” EJ , 9 月号
Papers on Current Finance(論文集)
1922 年: “The Pound Sterling” The Accountant , 11 月
21 日号
1927 年: P. W. Matthews の “A History of Barclays
Bank” 書評 , EJ , 9 月号
Contemporary Review , 12 月号
1893 年: “ Bi met a l l is m , it s Me a n i ng a nd A i ms”
Economic Review , 6 月号
1895 年: “A Criticism of Lord Farrer on the Monetary
Standard” National Review , 1 月号
“The Monetary Situation” ナショナル・リベラル・
クラブでの講演
“ Shaw’ s History of Currency ,” English
H.S.Foxwell
5
No.84
【Ⅱ】R.D. フリーマン文書について
入口脇の踊り場・屋根裏部屋・未使用の浴室の浴槽と戸棚
1)フリーマン(Richard Downing Freeman, 1936-)
について
には厚紙製の箱・ゴミ箱など 170 以上の箱があり、そこに
は世界的に著名な経済学者エッジワース(Francis Ysidro
メルボルン大学でタッカー(Graham Tucker, 1924-)の
Edgeworth, 1845-1926)
、マーシャル、ケインズ親子から
もとで経済思想史を学んだフリーマンは 1959 年同校を卒
の手紙、歴史的に重要な多くの手紙や、カード化されてい
業、1963 年から 1970 年にメルボルン大学で経済史など
ない文書、フォックスウェル文庫(後のゴールドスミス文庫)
を担当し、1970 年からは、オーストラリアの経済発展委員
に含まれる図書の蒐集領収書などが詰まっていた。それら
会のアドバイザーなどを務めた。1971 年にはイギリス大蔵
の箱の埃の状況から見ても明らかに 1936 年のフォックス
省のアドバイザーとなるなど、その後官界に転じ活躍した。
ウェルの死後一度も触れられていないものであった。
彼は、イギリスの哲学者で経済学者であったシジウィック
そこで、フリーマンは、ロンドンの 3 大オークショナーの
研究の過程で、フォックスウェルに関心を抱くようになった。
ひとつである Phillip Son & Neale をメタム夫人に紹介し
た。発見された書簡・文書類以外の稀覯書は、1974 年の
2)フォックスウェル文書発見の経緯
オークションで£7,000、家具などは£20,000 で落札され
欧米における経済学史研究に棹さしたのは、1972 年にイ
た。この協力による感謝として、フォックスウェル文書はフ
タリアのベラジオで開催された限界革命百周年記念の国際
リーマンに寄贈された。もし、フリーマンがオードリーの死
会議とマンチェスターで開催された経済思想史学会であっ
後連絡を取っていなかったとしたら、裏庭で焼却されたで
た。当時の世界の経済学史研究のリーダーであったブラッ
あろう。
ク(R.D.C.Black, 1922-2008)
、コーツ(A.W.Coats, 19242007) らは、経済学史研究における手書き文書・書簡の
3)フォックスウェル文庫・文書の行方
重要性について共通認識を持つにいたった。特にジェヴォ
蒐集癖のあったフォックスウェルの文庫・文書は、彼の
ンズ文書・書簡を編集していたブラックは、自らもビブリオ・
生前に手放したものを含めて、現在までにどのように世界
グラファーとして業績をあげ、フォックスウェル書籍蒐集に
に散らばって所蔵されているのであろうか。
大きな影響を与え、交流があったジェヴォンズとフォックス
a)フォックスウェル文庫
ウェル間の書簡の発見に努めていた。また、王立経済学
①ゴールドスミス文庫
2)
会の創設に関心をもっていたコーツも、フォックスウェルと
現在、ロンドン大学の Senate House Library に所蔵
マーシャルとの、フォックスウェルと争ってマーシャルの後
されている。この文庫は、フォックスウェルが蒐集し
継者となったピグーとの確執を調査していた。彼らはフォッ
た約 3 万冊の経済学古書のコレクションで、生前ロン
クスウェルの長女オードリーに手紙を送ったが、書簡はもち
ドン大学へ寄贈するために、1901 年にゴールドスミス
ろんフォックスウェルの手稿等もないとの返事であった。
商会によって買い取られ、1903 年に寄贈された。
フリーマンはまた、古典派経済学者 D.リカード全集 の
3)
②クレス文庫
編集者で自らも著名な経済学者であったスラッファ(Piero
現在、ハーヴァード大学の Baker Library に所蔵さ
Sraffa, 1898-1983)らもまたフォックスウェル文書を探索し
れている。この文庫は、ゴールドスミス文庫との重複
たものの、失敗に終わったことを知った。
本とフォックスウェルがその後蒐集した約 3 万冊の経
1973 年、長女オードリーの他界を知り、出版社マクミラ
済学古典書のコレクションである。このコレクションを
ンの協力を得て、フリーマンはフォックスウェルの次女メタ
アメリカの実業家 C.W.Kress が購入し、ハーヴァード
ム夫人(Mrs. Peggy Mettam)と接触する機会に恵まれ、
大学に寄贈した。
ケンブリッジのハーヴェイ通りにある邸宅のフォックスウェ
ル文書の調査の許可を得た。訪れた邸宅には、書籍の他、
③その他
a)Phillip Son & Neale に より 競 売(1974) に か
2)ブラックは 1980 年に、コーツは 1984 年に、堀経夫学長以降日本の経済学史研究の研究拠点の一つであった本学を訪問している。
3)堀経夫名誉教授はこの全集の邦訳の監訳者であり、スラッファの堀宛書簡は関西学院史編纂室が所蔵している。他の堀名誉教授の書簡・手稿の整理は最終段階に入っている。
6
No.84
けられたもので、稀 覯書 類として Andrea Palladio,
新聞記事の切り抜き。フォックスウェルの蒐集癖を反
The Four Books of Architecture(1715)、Charles
映して切抜きの大部分は紙に貼られ、娘オードリーに
Darwin, On the Origin of Species by means of
よる書き込みが見られる。ここにも数多くの書籍目録、
Natural Selection(1st ed.,1859)などが含まれていた。
その切抜き、書籍のちらし、書誌学的関心に関わる
購入先は不明である。
資料が含まれている。
b)フォックスウェル文書①
②印刷媒体の議事録、覚書
クレス文庫に含まれる図書の蒐集に関わる古書業者や
王立経済学会、イギリス学士院、ロンドン大学図書
大学図書館との書簡類、古書目録や古書に関わる切
館委員会、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(以
り抜き、約 500 点であり、クレス文庫の所蔵図書館で
下 LSE)などのサーキュラー、印刷媒体の議 事録、
あるハーヴァード大学の Baker Library に、フォック
覚書が含まれている。
スウェル自身によって寄贈されたものである。経済学
③手稿・ノート類
者らからの書簡は含まれていない。
大多数のフォックスウェルの広範な話題の手書きのノー
c)フォックスウェル文書②
ト類がある。また、講義ノートの内容は、社会主義、
フォックスウェルの遺品処分の協力のお礼として、長
労働運動に関するものが見られる。金融・財政問題に
女オードリーの没後、次女のメタム夫人からフリーマン
関するものは、経営問題、特に競争や貿易と同じよう
へ寄贈されたもの。
に数多く含まれている。また、期待に違わず、複本位
フォックスウェル文書② -1
制に関する数多くのノートが含まれている。これら①
ゴールドスミス文庫に含まれる図書の蒐集に関わる
②③は、フリーマンがロンドン大学の Senate House
古書業者や大学図書館との書簡類であり、古書目
Library に寄贈した文書(フォックスウェル文書② -1)
録や古書に関わる切り抜きなど 86 箱である。これ
と類似した内容である。
らは 1880 年から 1936 年の間にフォックスウェル
b)書簡類
が蒐集した書籍に関する資料であり、ゴールドスミ
① ロンドン大学図書館所蔵文書(フォックスウェル文書
ス文庫の所蔵図書館であるロンドン大学の Senate
② -1)と異なっているのは、数多くの個人書簡が含
House Library に、1974 年にフリーマンによって
まれていることである。それらの手紙は、15 歳から
寄贈されたものである。これらの文献情報のコレク
1936 年に他界するまで、フォックスウェルの生涯のう
ションは、ヒッグス著 Bibliography of Economics,
ち 70 年をカバーしている。
1751-1775 ,(Cambridge University Press, 1935)
ア)約 80%がフォックスウェル宛書簡である(以下②
の中心をなしたものである。経済学者らからの書簡
は含まれていない。
フォックスウェル文書② -2
関西学院大学が購入した文書(
「RDFC」と略称し、
以下[Ⅲ]で詳細を示す)
。
③④を参照のこと)
。
イ)約 20%がフォックスウェルによって書かれた書簡
(下書き)である。
ウ)その他
長女オードリーに宛てた書簡でフォックスウェルに
関連した書簡であり、彼の死後 1936 年以降のも
【Ⅲ】R.D. フリーマン文書(RDFC)の内容について
1)内容
a)新聞記事の切り抜き・議事録・手稿・ノート類
①複本位制、金融・財政、政治、社会主義、ボルシェ
ビキ思想、労働運動、協同組合などの話題に関する
のも含まれている。
②フォックスウェル宛書簡の差出人(1)
フォックスウェルは、同時代のイギリスの経済学者だ
けでなく、政治家、ジャーナリスト、哲学者とも交流
を深め、
その交流の軌跡を示す書簡類をその
「蒐集癖」
7
No.84
ゆえに残した。
幕末明治期からイギリスに留学した日本人(それにつ
本書簡のコレクションに含まれる書簡の差出人の数
いては、井上琢智前掲書に詳しい)もまた当時世界
は、およそ 4,500 人(組織も一人と数える。経済学者
的にも著名であったフォックスウェルに多くの書簡を
からの書簡は約 3,000 通である)に及ぶ。その中か
送っている。その数は 40 名にも及ぶ。確定出来る日
ら経済学者を中心に著名な人物(他に政治家やジャー
本人氏名を具体的に以下に示す(括弧内の西暦横の
ナリスト、ケンブリッジ大学の教員、大学、学会)を
数字は、現在確認されている書簡の数である)
。
具体的に以下に示す(括弧内の西暦横の数字は、書
その中には、オックスフォード大学へ留学し、帰国後
簡の数である<未確定>)
。
特命全権公使、貴族院議長を務めた蜂須賀茂韶(モ
マル サス研 究 家の J.Bonar(1852-1941:175)
、LSE
チアキ:1846-1918:1)
、ケンブリッジ大学へ留学し、
の E.Cannan(1861-1935:41)
、
ユニヴァーシティ・カレッ
帰国後、法学博士、文学博士、官僚、政治家となっ
ジの前任者 W.S.Jevons(1835-1882:50)
、ケンブリッ
た末 松謙澄(1855-1920:9)
、同じく、ケンブリッジ
ジの同僚でもあった A.Marshall(1842-1924:237)
、
大学へ留学し、帰国後官僚エコノミストとなり、イギリ
J.N. Keynes(1852-1949:101)
、その息子 J.M.Keynes
スの経済雑誌『エコノミック・ジャーナル』Economic
(1883-1946:76)などの経済学者だけでなく、統計学
Journal の日本通信員として多くの日本に関する記事を
者 A.L.Bowley(1869-1957:21 <本図書館は Bowley
書き、
日本の現状を世界に伝えた添田寿一
(1864-1929:
親子のコレクションを所蔵している>)
、倫理学者で経
18)
、同じくさらに、大蔵官僚、貴族院議員として政界
済学者でもあった H.Sidgwick(1838-1900:46)
、また、
で大きな役割を演じた阪谷芳郎(1863-1941:2)らが
彼の対抗馬であった A.C.Pigou(1877-1959:12)
、さ
含まれている。大蔵秘書官や日本銀行監理官として手
らにオックスフォードの数理経済学者で統計家であっ
腕を発揮し、日清戦争後、償金受理事務などとして活
た F.Y.Edgeworth(1845-1926:335)などである。
躍し、後に中上川彦治郎の後を受けて三井銀行の専
また、哲学者 J.Venn(1834-1923:20)
、政治家として
務理事となった早川千吉郎(1863-1922:8)などもいる。
は W.E. Gladstone(1809-98:1)
、H.Higgs(1865-1940:
その他、人名がほぼ確定し、その経歴等が多少なり
641)
、H.McNeil(1907-55:389)などである。
とも確認できるのは、以下の日本人である。
③フォックスウェル宛書簡の差出人(2)
桑田熊蔵(社会政策学会設立、労働問題の権威、東
経済学の制度化と世界的普及の時代に生きたフォック
京帝国大学教授)
、宮島綱男(関西大学教授)
、武藤
スウェルは、イギリス国内だけでなく、諸外国の経済
長蔵(長崎高等商業学校教授)
、
岡部長織(ユニヴァー
学者との交流を深めた。アメリカの経済学者 J.M.Clark
シティ・カレッジ・ロンドン留学、外務次官、貴族院
(1884-1963:4)
、R.T.Ely(1854-1943:1)
、E.R.Seligman
議員)
、内田銀三(東京帝国大学教授)
、渡辺修二郎
(1861-1938:42)
、さらに統 計 学者で経済 学者でも
(ジェヴォンズの著書の邦訳者、大蔵省御用掛等)な
あった I.Fisher(1867-1947:18)
、ドイツの経済学者
E.Böhm-Bawerk(1851-1941:2)や C.Menger(1840-
2)公開について
1921:2)
、その弟 A.Menger(1841-1906:4:フォック
これらのフリーマン文書の一部は、現在、“Economist’ s
スウェルは彼の著書『全勞働収益權史論』の英訳で
Papers:preserving economic memory” で公 開(www.
序 文 を書 いた)
、J.A.Schumpeter(1883-1959:2)
、
economistspapers.org.uk)されており、本フリーマン文書
フランスの経済学者 L.Walras(1834-1910:23)など
が「関西学院大学図書館所蔵」となったことが記されてい
と交流をもった(その他の経済学者の事例は以下の資
る。
料を参考のこと)
。
Cf. Donald Winch, “Keynes and the British Academy”,
④フォックスウェル宛書簡の差出人(3)
8
どである。
British Academy Review , 22, Summer 2013, p.72.
No.84
【Ⅳ】R.D. フリーマン文書(RDFC)の資料上の価値
第二に、フォックスウェルの思想・経済学の形成史を明
フォックスウェルが生きた時代は、経済学が古典派経済
らかにするための一次資料として一級であること。
学から現代の経済学の基礎の一つとなった近代経済学が
第三に、イギリスのヴィクトリア時代の知的階級の生活
誕生し、経済のグローバル化にともない、経済学もその制
史・家族史研究のための一次資料として一級であること。
度化(経済学の科目としての設置、経済学会の設立、経済
第四に、1870 年代に誕生し、イギリス国内だけでなく、
雑誌の創刊、経済学部の設置など)を通じて、世界に普
アメリカ、フランス、ドイツ、そして日本へ普及しつつあっ
及していった時代であった。その経済学の中心が、ケンブ
たいわゆる近代経済学の普及・定着過程を明らかにするた
リッジであり、その核に位置していたのがマーシャルであり、
めの一次資料として一級であること。
同僚ネヴィル・ケインズであり、後輩フォックスウェル、マー
第五に、その近代経済学とは立場を異にする歴史学派
シャルの弟子メイナード・ケインズらであった。さらに、そ
や社会政策学派らに属する経済学者との論争を明らかにす
の経済学の核の周囲を取り巻く経済学は、オックスフォー
る一次資料として一級であること。
ドや LSE の経済学であり、フランス、ドイツ、アメリカの
第六に、
経済学の制度化が世界的に進行する中で、
フォッ
経済学であり、それを継承しようとしたのは、日本など当
クスウェルと書簡の相手が、その制度化に如何なる姿勢を
時の発展途上国においてであった。加えて、フォックスウェ
とったかを明らかにする一次資料として一級であること。
ルは、経済学者とだけではなく、倫理学者、哲学者、政治家、
このような経済思想史・社会思想史的視点からだけでこ
ジャーナリストと交流し、その範囲もイギリス国内だけでな
のフリーマン文書の価値を語ることは、明らかにこの資料
く海外のそれらの人びとと交流した。
群の価値を誤ることになると思われる。
その交流の手段として、同時代でもっとも重要であった
つまり、第七に、フリーマン文書は、その性質から考え
のは、書簡であった。この点で、フリーマン文書(RDFC)
て、狭く経済思想史・社会思想史だけでなく、広くケンブリッ
の中核をなす書簡は、4,000 名におよぶ差出人、書簡総
ジ大学を含む知的社会の「知の交流」という知識社会学
数 24,000 通にもおよぶ(正式な数字は、この文書の完全
的視点からも評価すべきであろう。まさに、彼の生きた時
な整理が終わっていないためにあくまでも概数である)
。経
代が、“Philosophy” から “Sciences” にと、知的体系が構
済学者からの書簡だけでも約 3,000 通あり、フォックスウェ
造的変化を遂げつつあったことを考えると、このフリーマン
ル家族内の私的書簡も 2,300 通を越える。
文書の一次資料としての価値はさらに高い。
これらの書 簡は彼が 15 歳となった 1864 年から 1936
第八に、フリーマン文書に含まれる諸資料は、イギリス
年にいたるまでの期間に書かれたものであり、その期間
の政治が旧体制から労働党の誕生を含む新たな政治体制
は、まさにイギリスが「世界の工場」
「黄金時代」となった
へと変貌してゆくのを跡づけるのに必要な情報を提供する
1850 年代から、発展途上国の追い上げによって、限界原
であろう。まさに同時代の政治史・イギリス史の解明に役
理に基礎をおく近代経済学が誕生したものの、その相対
立つ情報を、とりわけ著名な政治家・官僚との書簡が提供
的地位が低下し、
「小さな政府」からしだいに「大きな政府」
するであろう。例えば、約 389 通もの書簡をフォックスウェ
へと転換し始め、
「ゆりかごから墓場まで」で象徴されるよ
ルに送ったマクニール(Hector McNeil, 1907-1955)は、
うな世界で初めての福祉国家の成立へと導いた時代に及ん
イギリスのジャーナリストであり、後年、労働党下院議員
でいる。このような歴史的背景を踏まえると、書簡を中心
(1941-)
、内相(1946-1950)
、国連総会副議長(1947)な
としたこのフリーマン文書は、以下のような研究上の意義を
どを務めるが、若きころのマクニールとフォックスウェルと
もつであろう。
の交流は興味深い。
第一に、ヴィクトリア時代の著名な経済学者フォックス
第九に、このようにさまざまな特徴をもつフリーマン文書
ウェルの伝記的研究のための一次資料として一級であるこ
の研究は、まさに「学際的」研究を通じてしか実現できな
と。
いものであり、関西学院大学内の共同研究の対象となるべ
9
No.84
き一次資料である。
展示資料紹介:書簡
第十に、フリーマン文書に含まれる日本人からの書簡の
解明は、当時近代化を進めつつあった日本の有り様を明ら
【Ⅰ】フォックスウェル宛ジェヴォンズ書簡:
かにするために、きわめて重要であり、日本の政治史・経
1879 年 11 月 14 日付
済史・思想史など学際的な研究によって初めて可能なもの
ジェヴォンズ(William Stanley Jevons, 1835-1882)
となろう。
イギリスの経済学者、論理学者。メンガー(Carl Menger,
これらの特徴は、この資料の所蔵が単に経済学研究だ
1840-1921)
、ワルラス(Marie Esprit Léon Walras, 1834-
けでなく、社会科学研究を中心に関西学院大学全体にとっ
1910)とともに、近代経済学の体系的出発を画する限界革
てきわめて有効なものであるものと確信している。
命を担ったトリオの一人であり、その主著『経済学の理論』
最後にもっとも重要なことは、経済思想史はもちろん、広
The Theory of Political Economy(1871)は、生産費説
く社会科学の研究は、公刊された図書資料によってのみ行
にたつ古典派経済学を鋭く批判し、経済学を快楽・苦痛
う段階を過ぎており、その世界的業績を上げようとすれば、
の微積分学と定義した。そのほか、当時イギリスの動力源
公刊されていない草稿類・書簡類など一次資料を利用した
だった石炭の早晩の枯渇を経済学の視点から予言してベス
研究を行う必要がある。これまで、関西学院大学図書館
トセラーになった『石炭問題』The Coal Question(1865)
は、それら一次資料を、経済学者・統計学者・社会主義
をはじめ、貨幣論、景気循環論(太陽黒点説でも有名)
者などを対象に徐々に蓄積してきた。それら一次資料にも
の優れた理論的・経験的研究や、論理学、科学方法論面
とづく研究の成果は少しずつではあるが、公表されつつあ
での重要な業績を挙げるなど、多くの著書がある。
る。しかし、その数は限られており、今回の資料群は、関
Cf. Letters & Journal of W. Stanley Jevons , ed. by his
西学院大学図書館を質と量の両面から格段に引き上げるも
wife(Harriet A. Jevons), pp.408-09. ここに部 分 的に
のであり、この分野では、ロンドン大学やハーヴァード大
収 録された書簡の全文は、R.D. フリーマンの許可を得て
学の図書館と同様、関西学院大学図書館を世界の図書館
Papers and Correspondence of William Stanley Jevons
とするのに、大きく貢献するであろう。
(ed., by R.D. Collison Black, vol.V, pp.79-81, Letter 631)
に収録されている。
【参考資料】数字は書簡数であるが、整理が終わっていないため現状では
概数である。
Ashley,W.J.(18),Booth,C.(9), Bowley,A.L(21),
British Association(129),Cairnes,J.E.(1),Cunningham,W.(28),
Fisher,I.(18),Giffin,R.(41),Higgs,H.(641),
Marshall,M.P.(50:Marshall夫人),Jevons,H.(70:Jevons夫人),
Jevons,H.(10:息子),Laski,H.(1),Leslie,C.(16),Levi,L.(1),
London School of Economics(170),Palgrave,R.H.I.(99),
Scott,W.R.(405),Smart.W.(38),Toynbee,A.(17),
University College London(211),Webb,B.(15),
Wicksteed, P.H.(42)
【謝辞】本稿の執筆にあたって、以下の参考資料に加えて、丸善株式会社、
とりわけ木村潤一郎氏より提供された多くの情報・ご教示に対して、記し
て厚くお礼申し上げます。
Keynes, J.M., Essays in Biography, chap.17, The Collected
Writings of John Maynard Keynes , vol. X, 1972(大野忠男訳『人物
評伝』
『ケインズ全集』第 10 巻、東洋経済新報社、1980)
。
1918 年 12 月 17 日付
Freeman, R.D., “The R.D. Freeman Collection of Foxwell's
ケインズ(John Maynard Keynes, 1883-1946)
Papers-Its Rescue”, Journal of the History of Economic Thought ,
20 世紀を代表するイギリスの経済学者。1923 年から 25
vol.28, no.4, 2006, pp.489-95.
10
【Ⅱ】フォックスウェル宛ケインズ書簡:
No.84
年にかけてのイギリスの金本位制復帰問題に関しては、
『貨
幣 改革 論 』A Tract on Monetary Reform(1923) を著
し、金本位制に反 対して管理 通貨制を主張した。1925
年、イギリスが金本位制に復帰して不況と失業にみまわ
しゅう
れると、自由党の支持と改革を目的とした『自由放任の終
えん
焉』The End of Laissez-Faire(1926)などの一連のパン
フレットを著した。ピグーとの論争のなかでマーシャル的
な新古典派 経済学への疑問を強め、1936 年に主著『雇
用・利子および貨幣の一般理論』The General Theory of
Employment, Interest and Money を発表し、経済学史上
「ケインズ革命」とよばれるほど、大きな影響を与えた。
【Ⅳ】フォックスウェル宛アントン・メンガー書簡:
1898 年 11 月 20 日付
A. メンガー(Anton Menger, 1841-1906)
オーストリアの法学者。ウィーン大学総長。社会主義の
法学的研究を行い、生存権・労働権の理論を樹立した。
主著は『全勞 働収 益 權史論』Das Recht auf den vollen
Arbeitsertrag in geschichtlicher Darstellung(1886)で
ある。
【Ⅲ】フォックスウェル宛マーシャル書簡:
1887 年 7 月 31 日付
マーシャル(Alfred Marshall, 1842-1924)
イギリスの経済学者。1885 年にケンブリッジ大学の経済
学教授となり、多くの優れた弟子を養成して、古典学派の
伝統を豊かに継承し、独自のケンブリッジ学派を創始した。
90 年の王立経済学会の設立や、その機関誌『エコノミック
・
ジャーナル』Economic Journal の発刊(1891)にも尽力し
た。主著『経済学原理』Principles of Economics(1890)
【Ⅴ】フォックスウェル宛カール・メンガー書簡:
によって、世界の経済学界で不動の地位を確立したが、同
1903 年 10 月 4 日付
書以前に刊行された夫人と共著で最初の著作となる『産業
C. メンガー(Carl Menger, 1840-1921)
経済学』The Economics of Industry(1879)も近年注目
オーストリアの経済学者、オーストリア学派の創始者。ジェ
を集めている。マーシャルの経済学は、しばしば部分均
ヴォンズ、ワルラスと並ぶ限界革命トリオの一人で、経
衡理論として特徴づけられ、ワルラスの一般均衡理論と対
済 学 上 の 主 著 が『 国 民 経 済 学 原 理 』Grundsätze der
比されることがある。
Volkswirtschaftslehre(1871、第一部のみ刊行)である。
11
No.84
ローザンヌ・アカデミーの教授に就任以降、着実に研究成
果をあげた。1873 年には「交換の数学的理論の原理」を
発表して限界原理を確立し、ついで二商品交換の理論か
ら多数商品交換の理論へ、またこれら商品が生産された
ものであることに着目して、生産要素である土地用役、労働、
資本用役の需給量と価格の決定を含む生産理論へ、さら
に資本財の生産を扱う資本化の理論へと展開し、それらは
『純粋経済学要論』Éléments d'économie politique pure
(1874-77)へと結実した。
Cf. ワル ラスは 書 簡 を 出 す に あ たり、 多くは 下 書 き
し、 清 書したうえで 投 函した。 その 手 元 控 え書 簡は、
【Ⅵ】フォックスウェル宛シュンペーター書簡:
1906 年 11 月 27 日付
シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter, 1883-1950)
Correspondence of Léon Walras and Related Papers ,
ed. by W. Jaffé として出版されている。下書きと投函書簡
との異同は今後の研究にとって重要であろう。
ケインズと並ぶ 20 世紀前半の代表的経済学者。計量経
済学会創立者の一人。25 歳のときに最初の著作『理論経
済学の本質と主要内容』Das Wesen und der Hauptinhalt
der theoretischen Nationalökonomie(1908) を 著 し、
ついで 4 年 後 の 著 作『 経 済 発 展 の 理 論 』Theorie der
wirtschaftlichen Entwicklung(1912)で一躍、世界的に
その名を知られるようになった。1932 年にハーヴァード大
学に移籍し、生涯アメリカで生活した。
【Ⅷ】フォックスウェル宛アーネスト・フォックスウェ
ル書簡:1898 年 3 月 24 日付
アーネスト・フォックスウェル(Ernest Foxwell, 1851-1922)
1851 年アーネスト・フォックスウェルはフォックスウェルの弟
として生まれ、初めは医学を学んだが、1874 年ケンブリッ
ジ大学で道徳学トライポスに合格し、
1880 年にはケンブリッ
ジで M.A. を取得した。1896 年から 99 年までお雇い外国
人教師として東京帝国大学などで経済学を担当した。
【Ⅶ】フォックスウェル宛 L. ワルラス書簡:
1882 年 2 月 1 日付
ワルラス(Marie Esprit Léon Walras, 1834-1910)
フランスの経済学者。ローザンヌ学派の創始者。1870 年、
12
No.84
2)末松謙澄(1855-1920)1884 年 10 月 12 日付
明治・大正時代の官僚、政治家、文学者、法学者。1878
年イギリス駐在日本公使館の一等書記生見習となって渡
欧、翌年ケンブリッジ大学に入学し文学・法学を学んだ。
イギリス滞在中、世界ではじめて『源 氏物語』を Genji
Monogatari:The Most Celebrated of the Classical
Japanese Romances として英訳 ・ 出版した(17 帖のみの
抄訳:London:Trübner, 1882)
。晩年はローマ法研究に
力を注ぎ、
『ウルピアーヌス〈羅馬〉法範』など多くの学術
文献を翻訳・刊行した。
(写真)アーネスト・フォックスウェル Ernest Foxwell 幼年期・成人期
関西学院大学図書館所蔵フォックスウェル文書より
【Ⅸ】フォックスウェル宛日本人書簡
1)添田寿一(1864-1929)1896 年 3 月 20 日付
明治時代後期・大正時代の経済官僚、銀行家。1884 年
に大蔵省入りし、3 年間自費でイギリス、ドイツに留学。帰
国後、銀行制度の確立に尽力した。日本興業銀行(現み
ずほ銀行、みずほコーポレート銀行)が新設されると初代
井上 琢智(いのうえ たくとし)
総裁となる。のち、鉄道院総裁、中外商業新聞社・報知
関西学院大学経済学部教授
新聞社社長を歴任。労働者保護法の必要を説き、友愛会
専攻は経済思想史で、イギリス近代経済学史と日本の近代化、経済
の顧問になるなど幅広く活動した。ジェヴォンズの主著を和
学導入史などの問題を扱っている。
訳した『論理新編』など、多方面にわたる著作を残した。
主な著書・論文に『黎明期日本の経済思想 ― イギリス留学 生・お
雇い 外国人・経済 学の制度化 』
(日本 評論社 , 2006)、
『ジェヴォ
ンズの思 想と経 済 学 ― 科 学 者 から経 済 学 者 へ』
( 日本 評 論 社、
1987)、“Quetelet’ s inf luence on W. S.Jevons”, Subjectivism
and Objectivism in the History of Economic Thought (ed. by
Y. Ikeda & K.Yagi, pp.48-58, Routledge, 2012)、“The Weeklong Bla nk in J. S . Mill ’ s S ojourn in Fra nce:A Notebook
Rediscovered”, Notes and Queries , vol.52, no.1, 2005. 主な編著に、
Economics in Meiji Japan: Collected Works of Western Origin ,
Ⅰ - Ⅲ(Pickering & Chatto, 2009-11)、
『幕末・明治初期邦訳経済
学書』
(ユーリカ・プレス , 2006)、W. Stanley Jevons: Collected
Reviews and Obituaries , 2 vols.(Thoemmes, 2002)、
『近代経済
学の開拓者』
(翻訳:昭和堂 , 1986)、
『マーシャルと同時代の経済学』
(ミネルヴァ書房 , 1993)等がある。
13
No.84
特別図書資料解説
ショーペンハウアー
『意志と表象としての世界』初版について
総合政策学部教授 鎌田 康男 ワイマールのショーペンハウアー博士
にと念を押している。ただし、現行のショーペンハウアー
全集には、1813 年の初版ではなく、約 1.7 倍に増補された
1813 年秋のこと、イエナ大学で哲学博士の学位を取得
1847 年の第 2 版が収録されており、こちらのほうがたしか
した若きアルトゥーア・ショーペンハウアーは、母ヨハンナ、
に読み応えはあるが、ノイズが増えて、ショーペンハウアー
妹アデーレの住むワイマールに意気揚々とやってきた。さっ
の哲学的な枠組みを読み取ることはかえって難しくなった。
そく学位論文を母に見せる。ところが母は『充足根拠律の
ヨハンナ・ショーペンハウアーは 1806 年のナポレオンの
四方向に分岐した根について』
(以下『根拠 律』と略記)
ヨーロッパ進攻以来、
ワイマールの宮廷で重要な人物であっ
というタイトルを見て、
「それはひょっとして薬剤師の本?」
た。シラーは前年に他界していたが、そのシラーの家の隣
と尋ねる。からかっただけかも知れない。しかし得意の絶
に居を構えた。週 1 回催された彼女のサロンには、ゲーテ
頂にある 25 歳の青年は、母親のこの言葉におおいに傷つ
をはじめ、ワイマールの名士、文人たちが集まったという。
き、不快の感情をあらわにする。
「無学な奉公女ならとも
若きショーペンハウアーは、社交辞令の嫌いな気難しい青
かく、ポーランドの貴族の称号を持ち、教養と才気とを賞
年であったが、それでも母のサロンでさまざまな文人や学
賛される母の祝福の言葉がこれか。
」148 ページの短い博
者に出会い、多くの文化や思想を学んだ。ゲーテを通して
士論文ではあるが、そこにはカント哲学を独自の仕方で継
色彩論に興味を示し、インド学者フリードリヒ・マイヤー
承発展させたショーペンハウアーの主著、725 ページにお
を通してインド哲学に関心を持つ。ゲーテは自分の光学実
よぶ『意志と表象としての世界』
(1819)の理論的な基礎
験装置をショーペンハウアーに貸与した。その成果である
がしっかりと描かれていた。実際、主著の序文でショーペ
ショーペンハウアーの『視覚と色彩について』は 1816 年に
ンハウアーは読者に、はじめに『根拠律』を読んでおくよう
刊行された。しかし母の派手な社交的態度に、青年哲学
者はなじめなかった。実直な実業家であった父を模範とし
て育った彼は、父の死後、母や妹がワイマールに去ってし
まった後も、その商社を引き継ぐつもりでハンブルクに留ま
り、実業家としての修行を続けていた。しかしさまざまな
事情から研究者として再出発することになり、1807 年ハン
ブルクを去る。それは簡単な決断ではなかったはずである。
その懊悩と、それに続く強い決意とが、表面的で派手な
母親の行動に対する反発感情を強めたことは十分予想でき
る。そしてなによりもアルトゥーアは、父の死後さっさと恋
手前左がワイマールのシラーの家。奥の建物の位置に、
ヨハンナ・ショーペンハウアーが住んでサロンを開いていた。
14
人を作ってしまった母親が許せなかった。
No.84
王立図書館(日本宮殿)庭園よりドレスデン旧市街を眺望する
花の都ドレスデンの青年哲学者
滞在期間中にわたって連絡先として維持するのだが、やが
て本拠をショーペンハウアーの最大のお目当てであった王
立図書館の筋向かいに移す。日本宮殿と呼ばれた図書館
ワイマールでのさまざまな出会い、ことに、壮大な世界
観によってそびえ立つゲーテとの直接の交流が彼に与えた
インパクトは決定的であった。若きショーペンハウアーの哲
学的基盤は確立したものの、それはまだフレームワークに
過ぎないことを思い知らされる。内実を埋め、個々の未解
まで歩いて 1 分とかからないところである。こうしてショー
ペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』への長い
道のりが始まった。そして、4 年あまり後の 1818 年末(奥
付は 1819 年)に本書は出版され、ショーペンハウアーはイ
タリアへと旅立っていった。
決の問題を克服し、世界全体を包括するような哲学体系を
完成するために必要な研究量は膨大なものであった。再燃
した研究への情熱と、母妹とともに送る表面的な社交生活
への不満とは、アルトゥーアをワイマールから新たな開かれ
た世界、花の都ドレスデンへと向かわせるのである。
ドレスデンは神聖ローマ帝国解体(1806)によって成立
意志と表象としての世界
若きショーペンハウアーがカント哲学およびドイツ観念
論を批判的に受容しつつ、独自の道を切り開いていった
したザクセン王国の首都であり、国王フリードリヒ・アウグ
スト1 世はナポレオンと対仏大同盟とのパワーバランスのな
かでの舵取りに苦心しつつも、文芸を手厚く保護していた。
1813 年の諸国民の戦い以降、どっちつかずの国王はプロイ
センに拘束され、ドレスデンはロシアの支配下に置かれた。
しかしその戦禍と荒廃のドレスデンでさえも、ショーペンハ
ウアーには十分魅力のあるものだったようだ。今からちょう
ど 200 年前にあたる 1814 年の 5 月 1 日にドレスデンに到
着した若きショーペンハウアーは、町の一等地である大聖
堂前のアパートを借りた。彼はこの住所をドレスデンの全
ドレスデンのシンボル・聖母教会。
右手最奥のクリーム色の建物に若きショーペンハウアーが居を構えた。
15
No.84
ショーペンハウアーは実
業家として育てられた。典
型的なヨーロッパ近代市民
である。 では、 近代 市民
の特 徴とは何か。伝 統 社
会においては、既 成の秩
序や価値は神に保証された
『意志と表象としての世界』本論冒頭部分(原典 p.3)
「世界は私の表象である」― このことは、生きて認識するあら
ゆる存在に妥当する真理である。とはいえ、人間だけがこの真
理を、反省と抽象との助けによって自覚することができる。そ
してほんとうにこのことを自覚するならば、そのときその人には
哲学的な思慮が生まれ出たのである。哲学的な思慮が生じると、
以下のことが明らかで確実なものとなる。すなわち、人間が知っ
ているのは太陽や地球そのものではなく、ただ太陽を見る目や
地球に触れる手を知っているに過ぎない、ということであり、
彼を取り巻いている世界は表象として存在しているだけだ、と
いうことである。すなわち、世界はそれとは別の、世界を表象
するもの、すなわち人間との関係性のうちに存在するというこ
とである。
(筆者訳)
真理であり、私たちの思考
や意志に関係なく確固とし
て存在するものと見なされ
アルトゥーア・ショーペンハウアー
(1788 ~ 1860)
この肖像画はドレスデン滞在中の
1815 年に描かれた。
てきた。ひとはそれらに異議を唱えず従順に従うべきもの
と考えられてきた。それが政治的、経済的、文化的な旧
体制(アンシャン・レジーム Ancien Régime)を支えた。
しかし近代市民はそのような伝統に抗して、自ら新たな理
念や目標を設定し、それらを実現する権利、すなわち自己
決定権(自律 autonomy)を求める。自己決定のためには、
存在秩序や価値観を他から押しつけられるままに受けいれ
16
プロセスは、筆者が 35 年あまり取り組んで来た課題であ
るのではなく、みずから理想を生みだし実現する能力 ― 創
り、研究の詳細は末尾に紹介する文献を参照いただきた
造的な表象能力とあらゆる困難を克服する強い意志 ― が
い。実際に『意志と表象としての世界』を手に取ってみれ
必要である。私のイメージする通りの理念や目標が実現され
ば分かるのだが、ショーペンハウアー哲学は、哲学史家ヴィ
るなら、私の表象と意志とが世界になるのである。
ンデルバントが「色とりどりのモザイク」と表現したように、
自由な思想のツールである言論を駆使して、神に授けら
多様なテーマ群が混在して、統一的な像を取り出すのは容
れたと称する既成の王権を否定し、あるべき理想の社会を
易でない。以下に、ドレスデンで完成を見たショーペンハ
心に描き、その理想を政治的に実現しようとする市民は、
ウアー哲学の根幹をできるだけ簡潔に述べてみたい。
表象と意志によって世界を形づくる。伝統的なギルドの規
主著本文は、次の文章で始まる。
「世界は私の表象であ
則を破棄し、新たな商品を開発し、新たな市場を開拓し、
る。
」つまり、私を取り囲み、私がその中に生を受け、生き、
新たなマネージメントを案出する自由競争的な企業家は、
死ぬこの世界は、私の表象 ― 心に描かれたイメージに過
その経済活動によって表象と意志の世界に生きる。現実
ぎない、というのである。多くの人はこれを身勝手な自己
世界とは関係ないように見える文人や芸術家たちも、新た
中心主義だと言う。さらにショーペンハウアーはたたみかけ
な表現形式や新たなテーマを産みだして独創性を競う。彼
て言う。これはまだ半分の真理である。残りの半分は「世
らも、表象と意志としての世界に生きているのである。で
界は私の意志である」ということだ、と。世界が私の意志
は、哲学者はどうだろうか。物それ自体をあるがままに認
通りになるなど、幼児期的な夢想にひとしい ― そう決めつ
識できると考え、それゆえに認識は対象に依拠すべきであ
けたくなるのは、ごく普通の感情である。しかし、ほんと
る、と考える従来の哲学的旧体制をカントは斥け、対象は
うにそうだろうか。
人間に備わった認識の形式に従って現象してくるのだ、と
No.84
ドレスデン王立図書館蔵書貸出記録表紙(左)および、1814 年 11 月 24 日付ショーペンハウアーの貸出記録記載部分(右← 2 行)
中ほどにブターヴェク『イマヌエル・カント』12 月 8 日返却、ボロヴスキー『カントについて』12 月 12 日返却、の記載がある。
ショーペンハウアー名義の 200 件近くの貸出記録が残っている。
版権所有者:*SLUB Dresden/Signatur: Bibl.Arch.1.A.19.a*(ザクセン州立ドレスデン大学図書館)
する哲学的新体制を ― フィヒテに始まるドイツ観念論の哲
芸術文芸の繁栄の歴史を通して知っている。しかし意志と
学者ほど過激にではないが ― 基礎づけた。その限りにお
表象としての世界は両刃の剣でもある。それは同時に、帝
いて思想家や哲学者もまた、表象と意志としての世界に生
国主義から新自由主義に至る力の政治や、世界的規模で
きている、否、生きるほかない。哲学者は常に目前のもの、
広がる拝金主義と格差社会の波、希薄化し孤独化する人
自明のものを疑い、新たなものの見方を探求する。思想的
間関係、更には地球環境への負荷の増大などのさまざまな
独創性を失った哲学者は、世界に新たな意味を付与する歌
問題を生み出す社会文化的な前提となったことも無視でき
を忘れたカナリヤのごとく無用なものとみなされる。絶えざ
ない。
る新しい価値の創造を通して未来へ挑戦する近代的意志、
では哲学者もこの意志と表象としての世界の仕組みに生
それを後にニーチェは過去へも拡張し書き換えつつ、
「力
き、その世界を単純に肯定し、強化してゆくだけでよいの
への意志」と名づけるであろう。
だろうか。絶えざる新製品生産に向かって皆が疾走する時
現代の私たちは、意志と表象としての世界を生きること
代、哲学者にはできることはないのだろうか。一つはある、
のすばらしさを、その後 200 年の、民主主義、経済社会、
と、ショーペンハウアーは主張する。絶えざる創造のプレッ
王立図書館(日本宮殿、第二次世界大戦後は博物館)を
ショーペンハウアーの住居位置から臨む
撮影者名:X-Weinzar
1836 年の日本宮殿
17
No.84
シャーに生きながらも、そのプレッシャーが存在するさま、
り、私の隣人に一度に十もの被害が起きようとも、それが
およびそこに生じる問題を示すこと、そして可能なら、思
私に何の関わりがあるというのだろう」
(マルティン・ルター
考の転換による問題解決の道筋を示すことである。
「意志
「商業と高利」
『世界の名著〈18〉
』
、中央公論社、1969 年、
と表象としての世界」は、まさに私たちが生きる近代の世
p.336)とうそぶく自己中心的な商人を憂いたマルティン・
界の根本的な構造を分かりやすく示す独創的表現である。
ルターや、更には高慢を「死に至る罪」
(7 つの大罪)の筆
哲学とは、何らかの目的を実現するための道具ではない、
頭にあげていた中世キリスト教倫理の延長線上にショーペ
むしろ、あらゆる営みがとり行われる世界のありさま、その
ンハウアーの思想を位置づけるなら、近代の裏表を知りつ
営みの構造を描き出すこと、それが哲学の使命である。哲
くしたショーペンハウアーが中世神秘思想や仏教にいだい
学とは、概念を素材とする芸術活動である。哲学において
た親近感も理解しやすくなる。
はまず、自己を反省することなく盲目的にただ生きようと欲
人間らしさの回復は、そのような盲目で制御不能になっ
する意志と表象の仕組みが明らかにされ、またそれによっ
た生への意志を鎮静することによって可能になる、とショー
て起こるさまざまな悲惨と苦悩とが描かれる。これにたい
ペンハウアーは考える。それでは、実際に意志を否定した
して、第二の問題解決の道筋としてショーペンハウアーが
者の生き方とはどのようなものであるだろうか。ショーペン
提示するのが意志の否定と共苦の哲学である。
ハウアーは、道徳の究極は、エゴイズムの克服にある、と
いう。そこから共苦(compassion, Mitleid)の倫理が導き
出される。エゴイズムとは、自己の利益や享楽を最優先さ
意志の否定と共苦の哲学
せる立場である。エゴイズムを克服することは当然、自己
の対極にある他者、利益や享楽の対極にある苦、すなわ
ショーペンハウアーは、絶えざる新しい価値の創造への
ち他者の苦しみに関心を向けることになる。他者の苦しみ
意志が、その輝かしい進歩をとげると同時に、人間性の恐
を緩和しようと願う相互扶助の思想は、ヨーロッパ・キリ
るべき脅威ともなることが明らかになってゆく 19 世紀の生
スト教の長い伝統においても重要な位置を占めてきたのだ
き証人である。一般民衆が、意志と表象としての世界の創
が、近代市民社会において急速に失われていったこの共苦
造者へと成り上がるサクセスストーリーに陶酔したのとは反
の思想を、近代的な文脈においてよみがえらせる思想の先
対に、はじめから近代市民として生まれ育ったショーペンハ
駆けの一人がショーペンハウアーの倫理学であったといっ
ウアーは、意志と表象としての世界の裏面をも知り尽くして
てもよい。それは、規範倫理学、功利主義的倫理学、な
おり、そのような安易な楽観主義に同意することはできな
どの既成の倫理学が克服できない問題の解決に重要なヒ
かった。意志と表象としての世界の相において、生きとし
ントを与えてくれる。
生けるものはみな ― 自己自身について冷静に反省しない
限り ― 他の生を犠牲にしてでも自らの生の保存と享楽と
を欲する。もっとも、真実のところは、性欲の満足を介し
『意志と表象としての世界』が後世に与えた影響
て種の保存に奉仕するに過ぎないのだが。種の保存の役
18
目を終えた個体は、惜しげもなく死というごみために捨て
『意志と表象としての世界』が刊行されると、ジャン・パ
られるのである。
ウル、ヘルバルト、ベネケをはじめとした当時の著名な文
生への意志が強ければ強いほど、他の生の苦しみを増
人や哲学者たちが書評を書いた。しかしその思想は、当
加する。
「ただ私の利益と欲望が満たされていさえする限
時の教養大衆にとっても講壇哲学者たちにとっても、あま
No.84
りにも先進的、創造的すぎたのである。ショーペンハウアー
ることをアピールするためにも有益なものとなろう。
は、哲学界から忘れられていくかに見えた。ショーペンハ
ウアー哲学の再発見は、予想もしないきっかけから起こっ
た。1848 年前後にヨーロッパの各地で起こった民主化運
動の挫折とともに、楽観主義的な進歩思想に対する懐疑が
目覚めはじめ、それらの少数派によってショーペンハウアー
哲学が担ぎ出される、という事態が生じたのである。この
ためにショーペンハウアーは逆に、時代の主流を占めてい
た近代市民たちの攻撃目標とされ、斬られ役として脚光を
浴びるようになったのである。そして、厭世主義者、非合
理主義者、性愛の哲学者、頽廃主義者、女性差別論者、
自殺擁護者、などの、一部はいわれのないレッテルを貼ら
れることにより、後のショーペンハウアー哲学に関する評価
が定着し、それらがそのまま多くの哲学史の記述に再生産
されていった。しかしまたそのように捏造されたショーペン
『意志と表象としての世界』初版扉
Die Welt als Wille und Vorstellung: vier Bücher, nebst einem Anhange,
der die Kritik der Kantischen Philosophie enthält , von Arthur Schopenhauer.
Leipzig: F. A. Brockhaus, 1819.
ハウアー像が、ニーチェ、トーマス・マン、フロイトらの著
名な文人、思想家たちの登場の導火線ともなったのは歴史
鎌田 康男(かまた やすお)
の皮肉というほかはない。
関西学院大学総合政策学部教授 Dr. phil.
著書:
(1)Der junge Schopenhauer. Genese des Grundgedankens der
Welt als Wille und Vorstellung (若きショーペンハウアー。意
『意志と表象としての世界』初版について
志と表 象としての世界の根本思想の生成。単 著、München:
Alber, 1988)
(2)ショーペンハウアー哲学の再構築。
『充足根拠律の四方向に分岐
入手が難しいとされる本著の初版が関西学院大学図書
館の蔵書に加わったことは悦ばしい。思えば、カント全集
した根について』
(第 1 版)訳解
(共著、
2000 年、
新装版 2010 年、
法政大学出版局叢書ウニベルシタス)
ほか。
論文:
(1838)の刊行にあたって、すでに忘れられていた『純粋
(1)
「構想力としての世界 ― カント『純粋理性批判』演繹論の受容
理性批判』の初版の重要性を強調し、全集に収録するよ
から見る初期ショーペンハウアー哲学の再構築 ―」
『理想』第
うに刊行者ローゼンクランツに進言したのもショーペンハウ
アーであった。しかし現行のショーペンハウアー全集の方
は、先に言及した『根拠律』にしても、この『意志と表象
としての世界』にしても、後年加筆修正が施された最終版
が収録されている。今回の初版購入によって、若きショー
ペンハウアーが著したままのオリジナルバージョンを確認す
ることができるようになったことは、ショーペンハウアー哲
学の成立過程を研究するため、いや、そもそもショーペン
ハウアー哲学を理解するためには成立史の研究が重要であ
687 号 特集 ショーペンハウアー哲学の最前線
(単著、
2011 年)
pp. 2 ~ 22
(2)
「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」
『ショーペ
ンハウアー研究』第 5 号(単著、2000 年)pp. 57 ~ 76 ほか。
その他の著書論文等:
http://www.kwansei.info/html/167.html 参照。
ショーペンハウアー哲学をよりよく知るために:
(1)ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』西尾幹二訳、
全 3 巻、中公クラシックス、2004 年
(2)ショーペンハウアー『幸福について ― 人生論』橋本文夫訳、
新潮文庫、1958 年
(3)齋藤智志・高橋陽一郎・板橋勇仁編『ショーペンハウアー読本』
、
法政大学出版局、2007 年
19
No.84
近年収蔵された
教会史関連文献 4 点
神学部教授 土井 健司 1.エウセビオス『教会史』
世紀終わりから 4 世紀はじめ、コンスタンティヌス大帝のキ
リスト教公認直後までと推定される。10 巻から成る大著で
イエス・キリストは、どのような顔立ちをしておられたの
ある。カイサリアにあったオリゲネスの図書館を利用してお
だろうか。おそらく多くの人が興味を抱くテーマであろう。
り、古文書の引用も豊富で、今は失われた文献もしばしば
ただし残念ながら、聖書には一切記述がない。顔立ちど
彼の『教会史』のおかげで参照することができる。ローマ
ころか、身長や体格についても沈黙する。ところが、ちょっ
をはじめとする各地域の監督表やルグドゥヌム(リヨン)で
と面白い記事が古代のキリスト教文献にはある。
のキリスト教迫害といった事件、復活祭論争といった出来
事等を記す。古代キリスト教史を学ぶ者にとって必読の書
彼女の家の門口近くの高い石の上には、嘆願する
であり、また実に内容豊かで面白い。
『教会史』は、受肉
人のように跪いて手を差しのべている婦人の銅像が
した神のロゴス(=キリスト)の下での教会の誕生と発展を
立ち、それと向かい合わせに、手をその婦人の方に
叙述し、最後にキリスト教の勝利をコンスタンティヌス大帝
差し出し、衣を美しく重ね着した同じ材質で [ つくら
とともに論じている。またオリゲネスはエウセビオスが生ま
れた ] 男の立像がある。…この像はイエスを模したも
れる前に亡くなったキリスト教の天才的な思想家であって、
のであると言われる。
エウセビオスは彼を尊敬していたという。
『教会史』第 6 巻
はオリゲネスについて記した巻であり、現在でもオリゲネス
マタイ福音書 9 章 20 節に長血を患う女性をイエスが癒
伝を構成する第一級の資料となっている。
す記事が見られるが、この引用はその後日談となる。この
女性はカイサリア・フィリピに戻ると、自宅近くにこの出来
事を記念して銅像を造らせたという。現存するものではな
いので結局は分らないのだが、もし「イエスを模した」とい
うのが本当であったなら、イエスの身長や体格、顔立ちま
で分ったかもしれない。地域を考えると、存外いつか発掘、
発見されるかもしれない。
この 記 事 は、 エウセビオスの『 教 会 史 』
(Historiae
Ecclesiasticae )に見出すことができる(第 7 巻 18 章、引
用は秦剛平訳[講談社学術文庫]を使用)
。パレスチナの
カイサリアの監督であった彼は、自身この銅像を見たと証
言している。
エウセビオス(265 年頃~ 337 年頃)は、キリスト教に
おいて初めて教会史を執筆した人物である。執筆時期は 3
20
エウセビオス『教会史』を収めた最初の印刷本
No.84
この『教会史』の最初の印刷本が大学図書館に所蔵さ
れているが、この時代は悪徳のひとつに数えられていた。
れている。1544 年にパリで刊行されたもので、ロベルトゥ
現代でもたとえば生命操作の可能性を目の当たりにすると、
ス・ステファヌス(1503 年~ 1559 年:仏語名はロベール・
好奇心が必ずしもよいとは言えまい。とにかく知の宝庫で
エティエンヌ)が校訂し制作した。エウセビオスの『教会
あるはずの本の末尾にこの金言が記されているのは緊張感
史』だけでなく、エウセビオスに続くソクラテスやソゾメノ
を覚えて面白い。
ス等の各『教会史』も収められている。これがエウセビオ
スの印刷本としては最初のものであることは、たとえば標
準的な西洋古典学事典の Der Neue Pauly の補遺でも確
2.
『マグデブルク教会史』
かめることができる。この補遺の第 2 巻(2007 年刊)は
近現代における古代の文献誌を扱ったもので、キリスト教
同じく西洋の教会史関係の稀覯書として近年大学図書館
に限らず古代の文献の刊行状況を知るのに便利である。
「カ
に収蔵されるようになったのは、
通称
『マグデブルク教会史』
イサリアのエウセビオス」の項目を引くと、
『教会史』の校
と呼ばれる 5 冊の本である。宗教改革時代の著作であり、
訂者としてステファヌスが最初に挙げられている。なおステ
ルター派の立場から編まれた最初の教会史として貴重な文
ファヌスの名は、彼が 1551 年にウルガタ訳聖書を公刊した
献である。ルター派のマティアス・フラキウス(・イッリクス)
とき、新約聖書の各書に、現在でも踏襲されている章節の
が編者となり、複数の学者によって執筆された。ただ本書
区分を導入したことでも知られる。
「マタイ福音書 9 章 20 節」
については未だ通読するだけの閑暇を得ておらず内容につ
といった言い方ができるのは、このステファヌスのお蔭なの
いては稿をあらためることとし、今は本自体について記して
である。
みたい。
『マグデブルク教会史』
エウセビオス『教会史』巻末挿絵
装丁は装飾の施された革表紙であって、留め金の跡があ
なお、本書の頁を進めていくと末尾に挿絵付きで Noli
る。元来は 13 巻から成り、巻毎に分けて印刷されたもの
Altum Sapere と記されていた。ローマ書 11 章 20 節のウ
だが、本書は 5 分冊に綴じられている。第 1 冊が最初の
ルガタ訳である。新共同訳には「思い上がってはなりませ
3 巻、第 2 冊が第 4 巻と第 5 巻、第 3 冊が第 6 巻から第
ん」とあるが、このラテン語の字義は「高いものを味わお
8 巻、そして第 9 巻から第 11 巻を収める第 4 冊、そして最
うとしてはならない」
。つまり傲慢、
高慢を戒めた言葉であっ
後は残り 2 巻を収める。装丁は最初の購入者が制作したも
て、好奇心を抑制する金言となっている。好奇心というと、
のであろう。その制作年代については革表紙に 1589 年と
今日の大学では学生のモチベーションなど肯定的に捉えら
刻印されている。なお各分冊の表題頁の裏面にはフライブ
21
No.84
ルク大学図書館の印章があり、さらにその下に同じく EX
古にして最善なる歴史家と教 父、他の著 作家から収集
LIBRIS F. SCHLEIERMACHER と印字されていた。即
したもの。 勤 勉で敬 虔な若 干の人びとを通してマグデ
ち近代の解釈学の祖であり、
『宗教論』の著者であるシュ
ブルクの 町 に お いて[ 著され た 書 物]
』
(Ecclesiastica
ライエルマッハーの蔵書であったことが確認される。読み
historia, integram ecclesiae Christi ideam, quantum ad
進めていくと、シュライエルマッハーの書込みが何か見出さ
locum, propagationem, persecutionem, tranquillitatem,
れるかもしれない。
doctrinam, hæreses, ceremonias, gubernationem,
装丁とは別に、各巻の刊行はバーゼルの印刷業者ヨハネ
schismata, synodos, personas, miracula, martyria,
ス・オポリヌスによる。各巻索引の末尾に記されている刊
religiones extra ecclesiam, & statum imperii politicum
行年を厭わず列挙するなら、第 1 巻は無記、第 2 巻は無記、
attinet, secundum singulas centurias, perspicuo ordine
第 3 巻 は 1564 年 8 月、 第 4 巻 は 1560 年、 第 5 巻 は
complectens: singulari diligentia & fide ex vetustissimis
1562 年 3 月、
第 6 巻は 1563 年 3 月、
第 7 巻は 1554 年 3 月、
& optimis historicis, patribus, & aliis scriptoribus
第 8 巻は 1564 年 9 月、第 9 巻は 1565 年 9 月、第 10 巻
congesta: Per aliquot studiosos & pios viros in urbe
は 1567 年 9 月、第 11 巻は 1567 年 9 月、第 12 巻は無記、
Magdeburgica )である。以後の巻の表題は内容に応じて
第 13 巻は 1574 年 1 月、以上となる。記載のある巻につ
若干異なっていくが、基本は変わらない。
いて 1554 年から 1574 年までの刊行と確認されるので、お
各巻は百年単位で執筆され、第 1 巻は紀元 1 世紀、第
そらくいずれも初版と思われる。ちなみに第 7 巻では刊行
2 巻は 2 世紀を扱う。百年単位で区切られているのだが、
年について次のように記述されている。BASILEAE, EX
各巻の内容は年代順に記されているわけではない。主題
OFFICINA IOANNIS OPORINI, ANNO M. D. LIIII.
別になっていて、百年の間に宣教や迫害の様子、また教義
MENSE MARTIO、即ち「バーゼル、ヨハネス・オポリヌ
など論述されている。この点については第 1 巻に「この史
ス印刷所刊、1554 年 3 月」となる。
書の方法」
(Methodus Historici Operis)が付してあり、
全体に通ずる論述の仕方が説明してある。ちなみに第 1 巻
の 2 章は「教会の場所と宣教」
、下位項目としてアジア(も
ちろん小アジアのこと)
、アフリカ、ヨーロッパが含まれる。
3 章は
「教会の迫害と平和」
、
4 章は
「教会の教理」であって、
その下位項目として例えば「神の御言葉」
、
「信仰」が叙述
されている。
一般にプロテスタントは「聖書のみ」
(Sola Scriptura)
を標語のひとつにするので、文字通り聖書のみが大事であ
り、歴史は重要ではないかのように思う人がいる。しかし
『マグデブルク教会史』第 7 巻
ルターが「聖書のみ」と述べたとき、A・マクグラスが『宗
教改革の思想』で指摘したように、古代キリスト教におい
22
なお第 1 巻に附されている表題は次のようになる。
『教
て与えられた一定の解釈を含めている。さもなければ、例
会の歴史:場所、宣教、迫害、平和、教理、異端者、祝
えば再洗礼を禁じて洗礼が一回限りということにならない。
祭、 統 治、 分 裂、 教 会 会 議、 人物、 奇 跡、 殉 教、 教
アウグスティヌスをはじめとする 5 世紀までの教父の解釈を
会外 の宗教、そして帝国の政 治状況に関して、世 紀毎
前提としたうえで、
「聖書のみ」を語るのである。ちなみに
に明瞭な順 序によって、キリストの教会の損なわれるこ
古代キリスト教著作家のことを教会の父、即ち「教父」と
とのない理 想を包含 する。 格別の愛と信仰によって最
呼ぶが、その教父を扱った Patrologia(教父学)という学
No.84
問名称のはじまりは、意外と、伝統を重んずるカトリックで
Magdeburg(マグデブルクの年代記者)の項目があるので
はない。それは 17 世紀のルター派の学者ヨハネス・ゲルハ
紹介すると、
「この本は編者マティアス・フラキウスの厳格
ルトの同名の書に遡る
(1653 年)
。この一事をもってしても、
なルター主義と反教皇主義によって統括され、次第に教皇
決してプロテスタント(の主流派)が単純に「聖書のみ」を
のアンチ・クリストの支配のもとに来り、最後はルターによっ
述べたのでないことは明らかであろう。
て解放される新約の純粋なキリスト教を描いている」とあっ
た。
ところで、各巻表題の頁にはイルカに乗ったギリシアの
抒情詩人アリオンの姿が描かれている。
「運命はそれぞれ
道を見出す。アリオンよ、徳にとってはいかなる道なき所
も道である」
(Fata viam inveniunt. Arion invia virtuti
nulla est via)
。挿絵は各巻表紙に記されるが、この銘は
第 5 冊の各巻タイトル頁に記されている。第 1 冊を眺めて
いるときには不思議に思ったが、
第 5 冊を繙いて合点がいっ
た。紀元前 6 世紀のアリオンはオルフェウスに次ぐ詩人であ
り、その歌の美しさに魅せられて海中の魚も水面に上がっ
てきた。アリオン自身、海中に投げ出されたとき、歌によっ
てイルカに助けられたという(挿絵)
。なお挿絵のアリオン
が手にしている楽器が古代ギリシアの竪琴ではなく、バイ
『マグデブルク教会史』第 1 巻(第 1 冊に収蔵)
オリンなのは興味深い。
3.ルナン・ドゥ・ティルモン『メモワール』
上記はいずれも 16 世紀の文献資料であるが、17 世紀末
のルナン・ドゥ・ティルモンの『メモワール』も近年揃える
ことができた。1693 年から 1712 年にかけてパリで刊行さ
れたもので、全 16 巻の『メモワール』は教父研究の金字
塔とも言うべき文献である。正確なタイトルは『最初の六世
紀の教会史のための覚え書』
( Mémoires pour servir à
l’histoire ecclésiastique des six premiers siècles )という。
「マグデブルク教会史」第 12 巻(第 5 冊に収蔵)表紙挿絵
もう 20 年も前に学位論文をまとめるため 4 世紀のギリシア
教父ニュッサのグレゴリオスの研究をしているとき、研究史
この本の特長については反ローマ教皇の立場から著さ
を執筆するため『メモワール』の当該箇所を読んだのが最
れた、純然たるプロテスタントの教会史だといわれる。な
初の出会いであった。つまり教父研究を行う際に、先行研
にぶん読んでいないので自分では確かめられないのだ
究として最初に挙げられる文献のひとつが『メモワール』な
が、手元にあった The Oxford Dictionary of Chrsistian
のである。
Church(第 3 版)を引いてみた。そこに Centuriators of
『メモワール』の著者は通例「ティルモン」と呼ばれるが、
23
No.84
ルナン・ドゥ・ティルモン『メモワール』
正確にはルイ・セバスチャン・ルナン・ドゥ・ティルモン(1637
の人びとに眼差しを向けて闘い行動したのが大バシレイオ
年~ 1698 年)である。ティルモンはパリ東部の村であり、
スであった。
『メモワール』第 9 巻の「聖バシレイオス」の
この人物の出身地だという。ポール・ロワイヤルに学んだ学
第 51 項「バシレイオスの貧者への配慮:病院と教会を建て
者であって、ヤンセニズムとの関係も深いものがあったよう
させたこと」に関連記事がある。冒頭ティルモンは「司教
だが、論争には関わらなかった。ギリシア語写本やラテン
に最もふさわしい称号のひとつが、
ユスティノスに従って『貧
語写本を研究する古典学者ではないが、数多くの教父文献
者の配慮者』
、
『貧者の世話人』であるなら、聖バシレイオ
を渉猟した読書人であって、
『メモワール』は彼が生涯を費
スほどこの称号にふさわしい聖人はまずいない」
と記す。
「ユ
やしてものにした名著である。エドワード・ギボンも『ロー
スティノスに従って」とは、
2 世紀の弁証家ユスティノスの
『第
マ帝国衰亡史』を執筆するときに参照したという。人物本
一弁明』67 章 7 節にある「監督は…窮乏するすべての人に
位で構成され、その論述は今日でも啓発的であって頷くと
とり援助者となる」を指すのであろう。バシレイオスについ
ころがある。
ては十分な評価と思われた。
例えばここ数年わたしは古代キリスト教における救貧の
問題を研究しているが、ティルモンはなんと書いているの
かに興味をもつ。
4.The Digital Library of the
大バシレイオスと言えば、カッパドキア教父のひとりであっ
Catholic Reformation
て、教理論争、教会政治、修道制の確立などで顕著な業
24
績を残したが、歴史上はじめて病院を建設したと評価され
最後は本ではなく、ウェッブ上で閲覧できる The Digital
るギリシア教父である。医学史、病院史の本を繙くなら大
Library of the Catholic Reformation を紹介したい。
体そのような評価である。
「レプラ」と呼ばれた病気を患
このデジタル・ライブラリーは主に対抗宗教改革期のカ
う病貧者は、当時社会のなかで嫌われ、人間扱いされず、
トリック教会における 250 名程の学者・教会による 800 余
差別されていたが、大バシレイオスはこの人びとのための病
りの文献を収めている。トリエント公会議文書、イグナティ
院を作った。また飢饉のおりには餓死者が大勢でるなか、
オ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエル、フランシスコ・ス
食糧調達に奮闘したことも伝わる。キリスト教の伝統にお
アレスやカエタヌス、またヨハン・エックやエラスムスなどは
いて「貧者」
(ギリシア語の π τω χó ς , π έ ν ης)という概
もちろん、哲学者のパスカル、その他貴重な文献が閲覧で
念は、文字通り「貧しい」という経済的な概念というよりも、
きる。
むしろ社会的・法的な次元を含むものであって、差別され
一つひとつ紹介することは到底望めないが、
たとえばジャ
抑圧され、理不尽な扱いを受けた人びとのことを指す。こ
ン・マビヨン。ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の
No.84
序言冒頭に言及される古文書学の大家である。否、大家
ことがその意図するところになる。なぜなら可能な治療を
どころか、マビヨンこそがラテン語の古文書に関する体系
拒否することは自殺に等しく、来世での劫罰が待っている。
・
・
・
的研究をまとめた古文書学の創始者なのである。ベネディ
そこで「特別手段」は義務ではないとしたわけである。こ
クト派のサンモール修族のひとり、すなわちモーリストであ
うした理論を構築していったのが、フランシスコ・デ・ヴィ
る。特にその『真正なる文書』
(De re diplomatica :1681 年)
トリア、ドミンゴ・バニェス、ドミンゴ・デ・ソトといった神
は古文書の鑑定識別法を論じた記念碑的な著作として知
学者である。しかしその著作は入手しがたく、日本に存在
られる。
(ちなみに、驚いたことに『ヨーロッパ中世古文書
しない文献がいくつもある。このライブラリーにはそれらの
学』[ 宮松治憲訳 ] と題された邦訳が公刊されている。
)
著作も収められていて、文書閲覧はもちろん、検索機能も
付いているので大いに助けられた。
以上近年収蔵されるようになった教会史関係の文献を
紹介してきた。周知のようにキリスト教には 2000 年の歴史
があって著された文献数は膨大である。私などが目を通す
ことのできるものは限られており、ほんの僅かに過ぎない。
そう言えば、
『折りたく柴の記』において江戸時代の儒学
者の新井白石は「しかし、すでに出仕の身であったから、
書物を勉強する時間もなかった。それ以前はいつも貧乏で、
適当な本を人から借りて読み・・・」
(桑原武夫訳)と語っ
ていた。この言葉が身に沁み入る今日この頃である。仕事
をしつつ、しかしできるだけ暇を見つけて読書に励みたい。
データベース:The Digital Library of the Catholic Reformation
また以前、安楽死や尊厳死に関してキリスト教思想の歴
史を調べていると、宗教改革以後のスペインのカトリック系
倫理神学者が重要であることに気がついた。カトリック神
学における倫理に関しては、中世の神学者トマス・アクィナ
スの『神学大全』第Ⅱ部のⅡが標準であって、当時大学で
土井 健司(どい・けんじ)
は教科書として使われ学ばれていた。近世になると具体的
関西学院大学神学部卒業、京都大学大学院文学研究科博士後期課
な問題に照らしてこの『神学大全』に注釈が施されていく。
程中退。京都大学博士(文学)、関西学院大学博士(神学)、現職 そのなかで治療停止の是非について「特別手段」
(media
extraordinalia)と「通常手段」
(media oridinalia)といっ
た区別が立てられるのだが、これらはスペインのカトリック
神学者の思想であった。麻酔のない当時は外科手術が拷
問に比されていた時代である。耐え難い苦痛、高価な薬
剤などを伴う特別な場合は、治療を受ける義務を免除する
関西学院大学神学部教授。日本基督教学会理事、日本宗教学会理
事、宗教哲学会理事(学会誌編集委員長)、キリスト教史学会理事、
日本生命倫理学会理事、NCC宗教研究所所長。
著書 『神認識とエペクタシス』
(創文社、第9回中村元賞受賞)、
『キ
リスト教を問いなおす』
(ちくま新書)
『
、キリスト教は戦争好きか』
(朝
日選書)、
『古代キリスト教探訪』
(新教出版社)、
『司教と貧者』
(新
教出版社)
『
、愛と意志と生成の神』
(教文館)
『
、宗教と生命倫理』
(共
編著、ナカニシヤ出版)ほか多数。
25
No.84
こんな風につかってます
私の電子情報活用事例
3
vol.
日々「進化」する経済学の
日々「進化」する事典
̶The
New Palgrave Dictionary
of Economics(オンライン版)の利用̶
私
経済学部准教授
久保 真
が専門とする経済学史とは、経済学の歴史的発展を跡づける学問分野です。遙か古のギリシアや商の経済観念から
筆を起こし、世界金融危機以降、潮目が変わったと言われる経済学の状況までを、一貫した視点で論じ尽くすことが
究極の理想です。私などには端から難しい理想なのですが、一層難しくさせているのは、20 世紀後半から経済学の特定分
野毎に専門ジャーナルが次々と創刊され、それこそ日々山のように論文が発表されるようになっていることです。インターネッ
ト上に発表される数多の論説も、その状況に拍車を掛けていると言ってよいでしょう。結果として、ある個別分野で現在何
がどこまで明らかにされ、どのような点において論争が生じているのか、当該分野の専門家でもない限りキャッチアップする
ことは至難の業となっています。現代の経済学のあり方を相対化することが経済学史という学問の使命であるのに、その「現
代の経済学」が奈辺にあるのかすら分かりにくい状況にあるというわけです。
そのような困難な状況のなかで、有 効なリファレンスとして私が 頼りにしているのが、この度 導入された The New
Palgrave Dictionary of Economics のオンライン版です。元になっているのは、1987 年にハードカバー(全 4 巻)で出版さ
れた同名の事典を、2008 年に大幅に改訂して出版された第 2 版(全 8 巻)です。初版は少なからず異端派経済学の色濃
いもので事典としては不適切だと批判されもしたのですが、第 2 版ではずっとバランスのよいものとなったと評価されています。
さらにオンライン版となり、年 4 回という頻度で新たなエントリーを加えていることが、事典としての有用性を高めています。
例えば、今確認のために検索してみたところ、2013 年には「LIBOR」「Google」「Law and Economics of Copyright and
Trademarks on the Internet」など 21 エントリーが加えられており、まさにオンライン版ならではの速報性を実現しています。
その意味で、経済学を専門とする人が自らの個別専門領域以外のことについて調べてみたいときはもちろん、経済学以外
を専門とする人が経済学の知見について調べるときにも、重宝するのではないかと思います。
The New Palgrave Dictionary of Economics
(オンライン版)とは
本オンライン版は、2008 年に約 20 年ぶりに改訂刊行された
経済学の最重要レファレンス『The New Palgrave Dictionary
(初版 1987 年刊行)の第 2 版電子版です。
of Economics 』
初版と第 2 版の全文を収録し、さらに年 4 回の更新によって
項目の追加、収録情報のアップデートが行われます。
オンライン版は、全ページを検索可能なクイック検索と、項目名、
寄稿者名、抄録などを検索対象にしたり、指定トピックスを選択
することが可能な詳細検索があり、トピックスは JEL(Journal of
Economic Literature) の分類に準拠しています。
また、論文ごとの相互レファレンスや関連項目等へのリンクが用
意されるなど、オンラインならではの便利な機能もご活用ください。
26
No.84
9
関西学院大学図書館報『時計台』について
大学図書館運営課 山﨑 富美子
関西学院大学図書館報『時計台』は、1971 年 9 月に第
このように晶子に関連する資料が館報に何回も登場す
1 号を発刊し、以降 1997 年 4 月までの 27 年間で第 67 号
るのは、それだけ晶子の著書を多く含む「丹羽記念文庫」
に達した。第 68 号(1999 年)からは内容を更に充実する
の価値が内外に認められ、図書館の貴重な資料の一つで
ということで、体裁を変えて年 1 回 4 月の発行とし、2014
ある証である。下記に紹介する目録は、関西学院大学図
年 4 月で第 84 号となる。第 72 号(2003 年)からはオー
書館特殊文庫目録第 1 輯として、1965(昭和 40)年に発
ルカラーで冊数も 3000 部を印刷している。
行された『丹羽記念文庫目録』である。当時の実方清文
学部教授が序文を、大道安次郎図書館長が「丹羽記念文
『時計台』では、大学図書館が所蔵している図書資料を
庫に寄せて」と題し丹羽記念文庫が図書館に収められた
順次紹介しているが、同じ資料について複数回紹介してい
事情や、丹羽安喜子によって蒐集された近代短歌の宝庫と
るものがある。第 69 号(2000 年)で、中島洋一名誉教
もいえるこの文庫の貴重な資料の数々について熱い思いを
授が「丹羽記念文庫について」と題して紹介され、さらに
語られている。
2002 年 11 月 18 日に、同じく中島名誉教授に「晶子に師
最近では、丹羽家から、丹羽家に伝わる晶子と安喜子の
事した安喜子~同時代の歌人たち~」と題してご講演をい
書簡類や短歌関係の方々の書簡類、また晶子揮毫の掛け
ただき、第 72 号(2003 年)にその学術資料講演会と同じ
軸や火鉢など、貴重な資料の数々を寄贈いただいた。これ
タイトルで執筆いただいた。同じく第 72 号では、入江春
らはいずれも図書館の貴重な財産となっている。
行元大谷女子大学教授に「丹羽安喜子宛与謝野晶子書簡」
の資料解説をお願いした。同書簡については、第 73 号
(2003
年 9 月、大学図書館所蔵資料展特集号)にも書簡の翻刻
を掲載し、併せてこの『丹羽記念文庫』所蔵の『みだれ髪』、
『小扇』など晶子の主だった歌集や新聞『明星』、文庫の
蒐集をされた丹羽安喜子の歌集『蘆屋より』などを入江先
生、清水康次京都光華女子大学文学部教授(現在は大阪
大学大学院文学研究科教授)や、森田雅也本学文学教
授、本学文学研究科の大学院生の方々にご紹介いただい
た。また、第 74 号(2004 年)では当時の井上琢智図書
『丹羽記念文庫目録』
館長に大学図書館所蔵資料展における図書館の 5 つの柱
の 1 つとして、丹羽記念文庫についてご執筆いただいた。
また、第 72 号(2003 年)の表紙には与謝野晶子から
また、第 75 号(2005 年)では、入江先生に「与謝野
丹羽安喜子への封筒をデザインしているが、封が手で破ら
晶子による丹羽安喜子短歌草稿への添削について」と題し
れている。これを表紙に載せていいものか迷ったが、安
て晶子が添削を施した 544 枚に及ぶ安喜子の歌稿につい
喜子は、師匠の晶子からの返事を待ちかねて、慌てて手
て執筆いただいた。
で開けたのではないかと推察され、安喜子の気持ちがよく
27
No.84
そして、版が大型になった第 68 号以降、個人で一番多
く登場いただいた方は、神田健次神学部教授である。ま
ず 1 回目が第 75 号(2005 年)に、2004 年 11 月 18 日開
催の第 13 回大学図書館学術資料講演会「ウォルター・R・
ランバスの「瀬戸内伝道圏構想」」の要旨をご執筆いただ
いた。いつも学術資料講演会と同時開催で、その講演内
容に関連した展示を大学図書館エントランスと特別閲覧室
前で行うのだが、この時は、関西学院初代院長ウォルター・
R・ランバス(Lambuth, Walter Russell Thornton 1854『時計台』2003 年第 72 号
表紙・裏表紙
1921)が日本滞在中(1886-1890)に創設された 13 の教
会と、離日後に創設された 12 の教会のジオラマ(大学図
書館の角田貴彦、河本啓吾制作)を館報に掲載した。こ
のジオラマは 2013 年 11 月 14 日に開催された関西学院大
学神学部 125 周年記念事業「ランバス・プロジェクト」の
神田教授の講演会「W.R. ランバスによる瀬戸内圏宣教と関
現われたものとして表紙のデザインに採用した。封書を斜
西学院」にも展示された。また、講演会の来場者よりジオ
めに配したのも、裏表紙に封書の全体をこれも斜めにした
ラマで教会の位置がよくわかって良かったと大変好評であっ
のもデザインとして趣があって楽しい。また、切手も日本郵
た。また、
広島女学院からも展示会のために借用依頼があっ
便の二銭の富士山の図柄で 3 枚貼ってあり、消印が昭和 9
たものである。
(1934)年 1 月 17 日となっている。ちなみにこの切手は横
2 回目は、第 78 号(2008 年)。この号では、
「『民芸運
型で、発行は大正 15(1926)年 7 月 5 日、封筒に横型の
動とキリスト教』-機織る伝道者外村吉之介-」と題して
切手が縦に三つ貼られているのも興味深い。表書きは、
(館
執筆いただいた。外村吉之介は、本学神学部に学び日本
報の表紙には下の部分は省かれているが、)晶子の流麗な
メソジスト教会の牧師として活躍。柳宗悦と親交を結び民
書で「丹羽安喜子様 御もとに」と書かれているようだ。
芸運動に参与。この外村吉之介の生き方について深く言
晶子は手紙にこの脇付けを用いることが多いので、この場
及されている。このご縁で、大学図書館は京都のギャラリー
合もそう読めるのではないかと与謝野晶子文芸館の担当者
「柳水」から雑誌『工藝』全 120 巻を購入した。
にお教えいただいた。
ランバス関連の教会の所在地を表した館員手づくりのジオラマ
28
No.84
3 回目は、2010 年 11 月 11 日に学術資料講演会において
ヴォーリズ」~もうひとつの物語~」として執筆いただいた。
「民藝運動と関西学院-雑誌『工藝』を中心として-」と題
これらは各地の機関から館報希望の申し出が非常に多く増
して講演いただき、この時の要旨を第 81 号(2011 年)に
刷となった。芹野氏とは、筆者が『関西学院百年史』の
掲載した。この講演会には、神田教授も「結び」でお書き
ヴォーリズに関する職員研修の成果として絵本『ヴォーリズ
のように、
『工藝』購入にあたりお世話いただいた小谷ご
さんのウサギとカメ』を自費出版する際からの交流が続い
夫妻を始め、小谷氏が会長をされておられる京都民藝協
ていて、第 76 号(2006 年)に執筆をお願いして快くお引
会の方々、関学出身の工樂誠之助氏
(元ドイツ松下電器(有)
き受けいただいた。また増刷ということで、皆様にもお喜
社長)、同じく関学出身で木工作家の笹倉徹氏など兵庫県
びいただき館報のスタッフとして嬉しい限りである。
民芸協会の方々、また関学出身の金順姫韓国梨花女子大
学校教授、金先生のご友人で、棟方志功の孫であられる
石井頼子様(元棟方志功版画美術館学芸員)や、民藝運
動の若き気鋭の研究者である濱田琢司南山大学准教授
(濱
田庄司の孫、関学出身)など、関学同窓生の皆様はじめ
民芸運動の錚々たる皆様にご参加いただいた。第 78 号、
第 81 号は各地から送付依頼が多数寄せられ、神田教授
の関連の全国の教会や、外村吉之介のご子息で、外村吉
之介が遺された倉敷本染手織研究所所長の石上信房氏に
も『時計台』を送付させていただいた。館報を通じて機関
『時計台』2006 年第 76 号 表紙・裏表紙
間の良き交流ができたことに感謝したい。
『時計台』の配布先は、3,000 部のうち、約半数を学内に、
館報の増刷はこれまで 2 回あり、第 75 号(2005 年)と
残りの半数を学外に発送している。学内は、図書館をはじ
第 76 号(2006 年)である。第 75 号(2005 年)は、神田
め西宮上ケ原キャンパス、神戸三田キャンパス、大阪梅田
教授の「ウォルター・R・ランバスの「瀬戸内伝道圏構想」」
キャンパス、西宮聖和キャンパス、東京丸の内キャンパス、
が掲載されている。
千里国際キャンパスなど。学外では、各大学図書館や関係
もう一つは第 76 号(2006 年)で、上ケ原キャンパス
の書店・業者の方々、また、2003 年 9 月 21 日から 27 日
のグランドデザインを設計したウィリアム・M・ヴォーリズ
まで、丸善・東京日本橋店 4 階ギャラリーで行われた「近
(William Merrell Vories 1880-1964)について、
(株)一
代への扉―関西学院大学図書館所蔵資料展」にご来場い
粒社ヴォーリズ建築事務所の芹野与幸氏に「「関西学院と
ただいた方々、また、これまで図書館学術資料講演会に
ご来場いただいた方々にお送りしている。2014 年度は、関
西学院創立 125 周年記念展示会(慶應義塾図書館協力)
を 10 月 8 日から 14 日まで、
『印刷技術と聖書〜「読む」キ
リスト教への変容〜』をテーマとして丸善丸の内本店(丸
の内オアゾ 4F ギャラリー)で開催予定であるが、そこに
お越しいただく方々にも『時計台』をご覧いただければ幸
いである。
今後も『時計台』を通じて、ご執筆いただいた方々と関
係各位の輪が広がるのを願っている。
『時計台』2005 年第 75 号 表紙・裏表紙
29
No.84
第14回
第11回
J.C.C. Newton賞
J.C.C.Newton 賞の概要
大学図書館では「知的交流、創造の場としての大学図
書館」の理念に基づき、2000 年度に J.C.C.Newton 賞を
創設した。賞の名称は初代図書館長 J.C.C.Newton 博士に
ちなんで命名されたものである。
第 14 回目の 2013 年度は本学図書館カードを有する者
で、大学、大学院、高等部、中学部、提携校の学生、生
徒、卒業生及び一般公開利用者等を対象として「情(じょ
う)」をテーマに論文、エッセイ、創作などさまざまな形式
の作品を募集した。
応募作品は、学部生 35 編、大学院生 1 編、卒業生 4 編、
高等部生 1 編、大阪インターナショナルスクール生 1 編、
啓明学院中学校生 1 編、清教学園生 4 編、科目等履修生
1 編の計 48 編であった。
図書館内での第 1 次・第 2 次審査を経て、12 月 18 日、
井上琢智学長、水野尚文学部教授、西山けい子文学部教
授、鈴木謙介社会学部准教授、嶋田数之広報室長、奥野
卓司大学図書館長による最終審査が行われた。
結果は、最優秀賞 1 編、優秀賞 2 編であった。
表彰式は 1 月 23 日関西学院会館「輝の間」にて行われ、
賞状と副賞が贈られた。受賞作品は大学図書館ホームペー
ジ(http://library.kwansei.ac.jp)に全文を掲載している。
情
今年のテーマは
です。
J.C.C.Newton賞
過去のテーマ
■ 第 1 回2000年度:
「知」
■ 第 2 回2001年度:
「つくる」
■ 第 3 回2002年度:
「よむ」
■ 第 4 回2003年度:
「色」
■ 第 5 回2004年度:
「新しさ」
■ 第 6 回2005年度:
「道」
■ 第 7 回2006年度:
「楽」
■ 第 8 回2007年度:
「極」
■ 第 9 回2008年度:
「食」
■ 第10回2009年度:
「笑」
■ 第11回2010年度:
「変」
■ 第12回2011年度:
「橋」
■ 第13回2012年度:
「味」
回
第14年度)
13
(20
テ ー マ
J.C.C.Newton賞
作
品
「 情(じょう・なさけ)」
「情熱」
「 情報」
「 人情」など、
「 情」から連想される題材を自由に選び、
新鮮な感覚にあふれ、既成概念にとらわれない作品を募集します。
応募規定
①募集作品 : 日本語で書かれた未発表の
「文章」
②原稿規格 : 5,000∼6,000字程度をA4サイズに印刷したもの
(文字数は本文のみ。
引用・註などはこれに含めない。
)
③提 出 物 : 1人1作品
募 集
募集期間
2013年9月24日(火)∼11月5日(火)
受付場所
西宮上ケ原キャンパス大学図書館運営課事務室
神戸三田キャンパス図書メディア館事務室
受付時間
8:50∼16:50(平日) 8:50∼12:20(土曜)
表 彰
最優秀賞 副賞20万円 優秀賞 副賞5万円
審査委員
④学生証、
図書館カード、
関学カード等に記載の氏名で応募すること
応募資格
次のいずれかに該当する者。
①関西学院大学、
関西学院高等部、
関西学院中学部、
聖和短期大学、
継続校、
協定校のいずれかに在学の者
後 援
の場合に限る。※本学教職員および本学関連団体職員の方々はご応募いただけません
関西学院大学図書館
関西学院大学、関西学院高等部、関西学院中学部、
関西学院後援会、関西学院同窓会
②本学図書館カードを有する者
(卒業生、
一般公開利用者など)
③同窓会発行の「関学カード」会員。なお家族(配偶者)会員は同窓生
井上琢智学長、水野尚文学部教授、西山けい子文学部教授、
鈴木謙介社会学部准教授、嶋田数之広報室長、奥野卓司大学図書館長
主 催
問い合わせ先
関西学院大学図書館運営課 電話0798−54−6121
http://library.kwansei.ac.jp/about/activity/index.html
第 14 回 J.C.C.Newton 賞フライヤー
30
2013 年度募集要領
■テーマ
「情(じょう)」
「情熱」、「情報」、「人情」など「情」から連想される題材
を自由に選び、新鮮な感覚にあふれ、既成観念にとらわれ
ない作品を募集します。
■応募規定
①募集作品 日本語で書かれた未発表の「文章」
②原稿規格 5,000 ~ 6,000 字程度を A4 サイズに印刷したもの
(文字数は本文のみ。引用・註などはこれに含めない。)
③提 出 物 1 人 1 作品
④学生証、図書館カード、関学カード等に記載の氏名で応
募すること
■応募資格
次のいずれかに該当する者。ただし、本学教職員および本
学関連団体職員は除く。
①関西学院大学、関西学院高等部、関西学院中学部、聖和
短期大学、継続校、協定校のいずれかに在学の者
②本学図書館カードを有する者(卒業生、一般公開利用者
等を含む)
③同窓会発行の「関学カード」会員。なお、家族カード(配
偶者)会員は同窓生の場合に限る。
■募 集
①募集期間 2013 年 9 月 24 日(火)~ 11 月 5 日(火)
②受付場所 西宮上ケ原キャンパス大学図書館運営課事務室
神戸三田キャンパス図書メディア館事務室
■表 彰
最優秀賞 副賞 20 万円
優秀賞 副賞 5 万円
審査委員
〈最終審査〉
〈第2次審査〉
井上 琢智 学長
西村 智 大学図書館副館長
水野 尚 文学部教授
角野 幸博 大学図書館副館長
西山けい子 文学部教授 他
鈴木 謙介 社会学部准教授
嶋田 数之 広報室長
奥野 卓司 大学図書館長
No.84
る。浮気癖が治らない継父と家族の話がユーモアを交えつ
審査委員講評
つ軽快なタッチで綴られている。一方、山岡さんの作品は、
今回のテーマは「情」
。
「じょう」と読むか「なさけ」と読む
戦争という時代に翻弄された一人の女性の情愛の話である。
かで意味合いが変わってくる。この言葉をどう扱っているか
まだ結婚も経験していないであろう弱冠二十歳の学生が夫
が審査基準の一つとなる。応募総数は 48 編。ここ最近の
婦の情愛を描いたことに驚く。フィクションであると思われる
傾向であるが、短編小説が最も多く、エッセーがそれに次ぎ、
が、その創作に対する意欲が評価された。因みに、この 2
論文は数点にとどまった。まず、第 1 次・2 次審査において
作品に共通することとして、主人公の性別が作者のそれと異
48 編が 10 編に絞り込まれ、その後の最終審査で 3 編が受
なることを書き添えておく。
賞作品として選ばれた。
以上がそれぞれの受賞理由である。受賞された 3 名の方
最優秀賞に輝いたのは社会学部 4 年生大前彩織さんの
にはお祝いを申し上げるとともに今後のさらなる文章力ならび
『容赦ない情け』
。大前さんは前回に続き 2 度目の受賞となる
に表現力の向上に期待する。
快挙である。表現やテクニックが優れているだけではなく、
最後に、応募作品全体についての講評をしたい。残念な
対象作品の中で最も課題と向き合っているというのが受賞理
がら、今回は例年に比べてレベルが低いというのが審査委
由である。
「情」を単なる「エモーション」と捉えるだけでは
員全員の一致した意見である。本を読んでいないのではない
なく「なさけ」とも捉え、テーマを活かした作品に仕上げた。
か、短編小説あるいはエッセーの書き方がわかっていない者
タイトルから推測されるが、物語はいささか惨い終わり方を
が多すぎる、
作りたい世界に言語表現が追いついていない等、
する。ここでもう一捻りあってもよかったのではという声も聞
辛口のコメントが多くなされた。一方で、アイデアは決して悪く
かれたが、前回同様、軽妙洒脱な文章は群を抜いて素晴ら
なく、読後感はそれなりにあるという評価もあった。文章力、
しかった。
表現力の向上には読書が不可欠である。折角のアイデアを活
優秀賞に輝いたのは、文学部 3 年生渡辺敦彦さんの『心
かすためにもできるだけ多くの本を読んでいただきたい。
を青くして』と文学部 2 年生山岡衿子さんの『切情ほたる』
来年度も意欲的な作品が多数エントリーされることを願っ
である。渡辺さんの作品は、
現代の若者らしい語り口が特徴。
ている。
情という漢字をばらしてつけたと思われるタイトルも今風であ
(大学図書館副館長 西村 智)
受賞者の声
最優秀賞
優秀賞
優秀賞
容赦ない情け
心を青くして
切情ほたる
やったー!イェーイッ!ありがとーっ!
というのが正直な感想で、写真もダブ
ルピースして写りたいですが、それで
は怒られそうなので・・・この度は、こ
のような賞に選んで頂き心から感謝し
ております。本当にありがとうございま
した。
読む人を驚かせるようなことがして
みたかったので、同じ文章でも、犬と
人間で、立場が違えば全く意味が違っ
てくる、というのが伝わればいいなぁ
と思います。容赦ない情けをかけられ
て絶望する人は、実際にはどんな顔を
するのか見てみたいです。
このたびは優秀賞を受賞させていた
だき、
まことにありがとうございます。
そもそも自分は、小説を書こう書
こうと思いながら、真っ白な紙を前
にすると全く何も書けないタイプでし
て……。そんなとき、友人のM君から
J.C.C.Newton賞の存在を知らされ、
初めて応 募したのが 昨 年 のテーマ
「味」のときでした。
あらためて今回の受賞作を見ます
と、前回の作品より随分肩の力を抜い
て書けたなと思います。この調子で、
もっとたくさん本を読み、次回はも一つ
上の賞を……! と、今から野心が膨
らんでいます。
この度は「切情ほたる」を優秀賞
に選んでいただきまして、ありがとう
ございます。
彼女は私の作品の中ではかなり饒
舌なほうだったので、何らかの評 価
が頂けたこと、たいへん嬉しく思いま
す。あの時代を知らない平成生まれ
の私が、考え付くかぎりの「戦争」の
かたちを描き出した結果です。
どこか現実離れした内容ではあり
ますが、楽しんで戴けたのなら、作者
としては幸いです。
社会学部4年 大前 彩織
文学部3年 渡辺 敦彦
文学部2年 山岡 衿子
(学部・学年・職名等は 2013 年度のもの)
31
No.84
第 14 回 J.C.C.Newton 賞最優秀賞
容赦ない情け
社会学部 4 年 大前 彩織
かに飼われているが、心外だ。私にも自尊心はある。そこ
*
らの野良犬のような、下品な真似はしないというのに。
しかし、逆らうことは無意味だ。私はくるりと踵を返した。
「自然に任せ、このまま生かしておくのが情けというものだ」
庭の隅に建つ、小さな土蔵の方へ向かう。
「いいや兄さん、これほど辛そうなのだ。いっそ殺してしま
三方を母屋に、一方を土塀に囲われた裏庭にある蔵が、
うのが情けでは?」
私の小屋代わりだ。夜は鎖に繋がれ、出してもらえない。
とある屋敷の裏庭で、二人の若者が何やら話し合ってい
ガラクタと、格子の嵌った窓が一つきりの寂しい所だが、
る。彼らの足元で、私はじっとその様子を見上げていた。
居心地は悪くない。風雨は凌げるし、何より、口うるさい
どうやら、私のことを話しているらしい。二人は時折ちらち
彼らの手を離れ、独りでゆっくりと休める。
らと、こちらに困ったような視線を落としてくる。
蔵の戸口まで来て、背後を振り返る。治平と与助が、微
「どうしたものか。なぁ、ハチ」
笑を浮かべて私を見守っていた。
じ へい
と、私の頭をクシャクシャに撫でたのが兄の治平、にこ
よ すけ
りと笑みをくれたのが弟の与助だ。治平は恰幅が良く、き
*
りりとした大きな瞳。一転して与助は、ひょろりとした痩身、
切れ長の涼しい目元。全く似ていないが、どちらも朗らか
店じまい後の夕刻か、酒に酔って気分が良い時。彼らが
で人好きのする顔だ。呉服屋という客商売には、うってつ
私を訪れるのは、決まってこのどちらかだ。
けだろう。
「ハチ、お前ならどちらを選ぶ?」
この日も、店を終えた治平がやって来た。私は蔵で横に
今度は与助が、私の喉元を撫でる。何のことだという風
なっていたが、律儀にも戸口まで出迎えてやる。こうして
に、私は首を傾けてみせた。
機嫌を取っておけば、気まぐれに刺身など、上物の残飯を
しかし、私は知っている。私はもう長くない。この家に
くれることがあるのだ。
拾われ、七年になる。弱ってきても不思議はあるまい。近
治平はしゃがみ込み、私に目線を合わせた。笑みを浮
頃では、生まれつき悪い脚に更に力が入らない。身体も、
かべ、両手で私の頭を思い切りクシャクシャにする。
呼吸すらも重い。
ええぃ、鬱陶しい。私は彼の分厚い手から逃れるように、
彼らの顔越しに、どんよりと曇る空を仰いだ。墨汁を薄
身をよじった。
めたような濃灰色が、梅雨時の夕刻に更なる物悲しさを添
「逃げるのか、生意気な」
えている。
冗談めかして、治平は私の脇腹を小突いた。その反動で、
おや、これは。
私はころりと地面に倒れ込む。
ヒクリと鼻を動かす。湿気を含んだ夕風に乗り、台所か
「おや、ハチ。腹など見せずとも、お前の従順さは承知して
ら漏れた匂いが鼻先を過ぎた。飯が炊き上がったようだ。
いるぞ」
おぉ、なんと香ばしい。匂いに釣られ、私はふらりと母
治平の巨体の後ろから、与助の声が降った。細い腕に、
屋へ歩み寄る。
水を張った桶を抱えている。
「こら、ハチ。そっちは駄目だ」
32
「戻ったぞ、ハチ」
「蒸し暑かろう。洗ってやる」
与助が通せんぼで制した。私は決して、庭から出てはな
バシャリと、桶一杯の水を頭からかけられた。毛先から
らないのだ。鳴き声が近所に漏れては迷惑だと、ここで密
ぽとぽとと水滴が零れ、地面に小さな斑点模様を付けて
No.84
いく。水気を飛ばそうと首を振る私を見て、二人は満足気
は持っていない。怪訝に思い目線を下げると、傘の主は華
に笑った。
奢で小柄な、これまた見たこともない少年であった。
これが私の常だ。嫌というほど構われ、迷惑している。
黒の着物にだらりと羽織った衣も、猫のような瞳も、燃
「ほら、取って来い」
えるような緋色だ。顔は透き通るように青白く、闇をぽっか
首に繋いだ鎖の錠を外し、今度は治平が手近な枝切れ
りと繰り抜いたかのよう。散切り頭の滑らかな髪が、細い
を庭へ投げた。期待に満ちた眼が、私に注がれる。
顎の輪郭を縁取っていた。
気は進まないが、仕方がない。私は重い身体を引きずっ
奇妙なことに、闇の中にあって、彼の姿は発光でもして
て、取りに行ってやった。
いるかの如く、はっきりと捉えることができる。私たちは束
熱があるらしい。身体が怠く痛みもあるが、気取られま
の間、互いに無遠慮な視線を向け合っていた。
いと平静を装う。とりあえず喜ばせてやって、上等の餌に
「今宵、お前の命は尽きる」
ありつけるよう祈ろうではないか。
何者かが、ようやく口を開いた。ひそひそ声に近い、空
例によって、台所からの匂いが私を誘う。今夜の夕餉は
気の抜けたような声だった。
焼き魚のようだ。頭の一部だけでもいい、私にもくれるだ
「私は地獄の獄卒。ハチ、お前を迎えに来た」
ろうか。
地獄だと。私は思わず眉をひくつかせた。滲み出た動
思考が逸れたせいか、足がもつれた。そのはずみで、
揺を察したらしい。彼はふんと、鼻を鳴らした。
えんまそつ
私は横倒しに転ぶ。俊敏に起き上がる余力もなく、ぐった
「誰しも、死ぬと閻魔卒の迎えが来る。閻魔卒とは、閻魔
りとその場にへたり込んだ。浅い呼吸で肩を上下させ、目
が遣わした者。亡者はまず閻魔卒と共に死出の旅をし、そ
だけを兄弟に向ける。目に見えて衰弱する私に、彼らは複
の後に審判を受ける」
雑な表情を浮かべていた。
彼は淡々と説明した。その声は雨音をすり抜け、すとん
殺すか、生かすか。彼らは、どちらの情けを選ぶだろうか。
と耳に流れ込む。
「私は八大地獄は四番目、叫喚地獄に付随する小地獄、
*
ねつ て っ か しょしょ
熱鉄 火杵処に属する獄卒。熱鉄火杵処は、動物に酒を飲
ませて捕らえ、売ったり食したりした者が堕ちる地獄だ」
真夜中、外は雨。
彼は至って簡潔に述べたが、私は理解に苦しんだ。その
板の間に小豆をぶち撒けたような激しい雨音が、蔵の四
ような行動を取る人間を、少なくとも私は知らない。
方を取り囲んでいた。月明かり一つなく、蔵内は真の闇と
「その通りだ」
化している。
彼は口を尖らせ、さも不服そうに頷いた。彼には、私の
全身が重い。ひどく寒い。力強い雨とは対象的に、私
心の内などお見通しらしい。
は既に虫の息だった。もはや正常な呼吸すらままならず、
「そのような珍奇な罪を犯す者など、滅多にいない。私は
這いつくばるように身を横たえていた。
責め苦を与える相手もおらず、ほとほと退屈している」
私は、私という存在は、ここで終わるのだろうか。暗闇
彼は、わざとらしく溜め息を漏らした。しかし、やはり
の中、私は口の端を強く噛んだ。血の臭いが、その苦味が、
演技だったらしい。彼は直ぐに、にたりと奇妙な笑みを浮
微かながら、しかし確かに、己の生を主張していた。
かべた。
あぁ、私は生きている―。
縋るように何度も、何度も、舌で血の味を確かめた。生
命の証と共に、計り知れない虚しさをも感じながら。
じょうはり
「ところでお前、浄玻璃の鏡を知っているか?」
唐突に、彼は切り出した。無論、無知な私が知る由もない。
「閻魔が裁判の際、亡者の善悪を見極めるために使う鏡だ。
ぎぃと、戸口の方から物音がした。外界の生温い夜風
この鏡には、生前のどのような行為も映し出される」
が、やんわりと蔵内に吹き込む。蔵の扉が、開いたのだっ
私はじっと、ひそひそ声に聞き入った。
た。治平か与助だろう。私を殺すことに、決めたのだろうか。
「私は退屈が過ぎ、諸用のついでに、ちょいと閻魔の間へ
私は重々しく、戸口へ顔を向ける。
忍び込んでやった。そこで閻魔の帳面を盗み見たところ、
しかし、目に映ったのは、毒々しいまでに鮮やかな緋色
近々お前が死ぬと知った。どれ、どんな奴かと、私は鏡で
の雨傘だった。私は首を傾ける。治平も与助も、こんな傘
お前を見た」
33
No.84
さすがの私も、これには呆れた。当の彼は悪びれた風
が音を立てて砕け散る。呆気ないほど、粉々に。
もなく、傘をくるくると回している。
私を繋ぎ止めるものは、もはや何もなかった。
「お前の生き様に、私は興味を抱いた。そこで、閻魔卒よ
り先に来てはみたが。お前、やはり面白いな」
*
赤い瞳が、ぎろりと妖しい光を放った。どうも彼は、獄
卒でも、閻魔卒ではないらしい。
「お前には、ある願望があるらしいな。退屈しのぎに、私
雨に濡れた体を引きずり、治平と与助の元へ向かう。あ
が望みを叶えてやる。そのために、私は来た」
らゆる物音が、外界の雨音に掻き消されているかのようだ。
私の、望み―。
己の呼吸音だけが、耳元に纏わり付いていた。
身に覚えのあるものが、脳裏にちらついた。弱った身体
突き当たりまで進み、私は歩を止めた。左手の戸口から、
が、無意識に前のめる。
提灯の明かりが漏れ出している。二つの影が、障子に映っ
「勿論、タダではない。それなりの代償を払ってもらう」
代償だと。ぴくりと、全身が強張った。
「魂の辿る道から外れ、地獄で過ごしてもらう。つまりお前
は、輪廻も解脱もできない」
それ即ち、永久に地獄を彷徨い続ける、ということだ。
代償としては、あまりにも大きい。しかし―。
私の躊躇いさえも見透かして、彼はさも愉快気に続けた。
「審判を受ければ、お前は極楽行きだろう。どうする? ていた。兄弟は、晩酌の最中らしい。私はごくりと息を飲む。
すると、呼吸を整える間もなく、襖がひとりでに開いてし
まった。後ろに付いている、いたずら好きな獄卒の仕業だ。
「おや、ハチ」
突如として現れた私に、二人は驚きを示した。
「どうやってここへ? それにしても、お前―」
盃を手に胡坐をかいた治平が、大きな眼をさらに見開く。
「お前……まだ生きておったのか」
安らかに死ぬか、望みを果たすか」
丸くなった目が、瞬時に不快の色を映した。吐き捨てた
彼の妖しく、しかし美しい瞳が、私を見つめる。私は思
声は、明らかに侮蔑を含んでいる。
わず、目を背けてしまった。おそらくその時点で、勝負は
決していたのだ。
「お前の望みは知っている。そのための準備も、整っている」
ゆらりと、彼の背後に何かが現れた。私は思わず、鼻を
塞ぐ。闇よりも濃いその影は、血のような、銅のような臭気と、
グルグルという息遣いを伴い、蠢いている。異界の彼は片
手を上げ、指先で、その何かを撫でるような仕草を見せた。
「お前の望みを言ってやろうか。お前は、治平と与助に―」
「酒の肴でも漁りに来たか。つくづく卑しい奴よ」
薄ら笑いを浮かべ、与助も兄に続いた。うんざりした心
持ちで、私は彼らを睨む。
「何だ、その目は!」
治平が拳で、膳を叩いた。私の視線が気に障ったらしい。
「ふっ」
室内に、吹き出したような笑いが漏れた。兄弟の鋭い
視線が、同時に戸口へ向く。
治平と、与助。
異界の彼だ。障子の縁に半身をもたせ、滑稽だと言わ
私は静かに目を閉じた。彼らの姿を、顔を、仕草を想う。
んばかりに、クツクツと肩を揺らしている。
熱いものが込み上げ、ぎゅっと胸が締め付けられた。
目を開け、異界の彼を見遣る。彼は笑み、ゆっくりと頷
いた。彼ならば、私の望みを叶えてくれる。この私が、非
力な弱者が、己の望みを果たせる。
どくり、と、全身が脈打った。己の内に押し留めていた
「何だ、お前は?」
治平も与助も眉根を寄せた。やはり、彼は異形らしい。
「誰に許しを得て入った! 何用で私の家にいる!」
治平が野太い声で、語気を荒げる。
「ちょいと、憐れな犬の願いを叶えに」
ものが、堰を切ったように溢れ出す。
治平の怒声もどこ吹く風、彼は優雅に緋色の傘をくるり
あぁ、死に行く者が、ただ弱々しく力尽きてゆくものと
と回した。
誰が決めただろう。むしろ死に行く者にこそ、その胸の内
「ハチ! お前は、番犬にもならんのか!」
には激しく、狂気じみた何かが蠢いているのではなかろう
怒りの鉾先が、私に向く。それでも私は、ぴくりとも動
か。その情念が深ければ深いほどに、強く。
じない。
異界の彼が、ぱちんと指を鳴らした。瞬時に、首の鎖
34
静まり返った母屋の廊下を、私は這うように進んだ。
「お前、まさか……」
No.84
何かに感付いたのだろう。束の間押し黙り、兄弟は私と、
齢十四の若さだが、このような状態で生活していては弱っ
人外の彼とを交互に見比べた。
て当然だ。しかし、何があっても泣き声を上げはしなかっ
「お前、一体どういうつもりだ!」
激昂し、与助は立ち上がった。
「おい! 聞いているのか!」
治平が盃を投げ付け、私の胸倉を掴む。
「何とか言いやがれ! ハチ!」
た。人間としての、意地があったから。
殺すか、ただ生かすか。衰弱していく私を助けるという
選択肢など、彼らには最初からなかった。私の生死すら、
情けと称した暇潰しでしかなかったのだ。
「私にあるのは、恨みだけだ」
治平は私を、
狂ったように揺さぶった。犬に何とか言えとは、
私は憎悪を込め、治平と与助を睨み付けた。やはり、
無茶というものだ。思う間もなく、畳に激しく叩き付けられる。
私にはできそうもない。彼らを許し、生かしておくことなど。
「やはりお前は、殺した方が良さそうだな!」
治平が鼻息も荒く、私の肩に手を掛ける。
「お前……」
たとえこの身を、地獄に捧げても。
「犬が! ふざけたことを!」
彼らは目を血走らせ、猛り狂ったように私に飛び掛かっ
私を覗き込むや、治平はピタリと動きを止めた。その声
てきた。
音には、僅かに困惑が混じっている。
その彼らが、一瞬にして消えた。いや、消えたように見
「兄さん?」
えた。それほど素早く、突然に、彼らの身体は畳に押さえ
怪訝そうな与助の足音が、傍らに迫る。そして与助もまた、
付けられていたのだ。黒く巨大な、獣によって。
言葉を失った。私はといえば、ただ顔を隠すように体を丸め、
狼、いや、犬に近いだろうか。五尺ばかりの巨大な獣が、
小刻みに肩を震わせていた。
臭気を放ち、グツグツと喉を鳴らして彼らを見降ろしている。
「ハチ、お前……」
治平がようやく、ぽろりと呟く。
「お前……何を笑っていやがる!」
「は、ははっ、あははははははははっ!」
漆黒の毛並。尖った牙に、緋色の眼光。鋭い爪の生え
た前脚をちょいと動かすだけで、人間など豆腐同然に潰し
てしまうだろう。
「ひっ!」
私はついに、声を上げて笑った。笑わずにいられなかっ
治平と与助は悲鳴ともつかない、短い叫びを上げた。顔
たのだ。奴らの愚かさに。己の非力さに。
面を蒼白にして、ただ口をぱくぱくさせている。それでもか
「聞いているのか! ハチ! おい……八郎!」
与助が堪らず、怒声を浴びせた。
「八郎。それがお前の名か」
ろうじて身をよじり、這うように獣の下から逃れた。腰を抜
かし、尻餅のまま後退る。
「お前たちは、情け容赦なく私を虐げた。だから私は、容
冷えたひそひそ声に、私は無言で頷いた。震える腕に
赦ない情けをお前たちに与える。さぁ、選べ」
力を込め、なんとか半身を起こす。そして壁に半身を擦り
腹に力を込め、私は愚かな兄弟を見据えた。
付けるようにして、私はゆっくりと立ち上がった。呼吸が苦
「一瞬で喰い殺されるか、少しでも生き長らえるよう、じわ
しい。脚が、全身が震える。今にもその場に崩れ落ちてし
じわとなぶり殺されるか。お前たちにとって、どちらがより
まいそうなのを、必死に堪える。
良い情けだ?」
「八郎。本郷、八郎だ」
息を乱し、私は掠れた声で呟いた。
私の名は、本郷八郎。齢十四の、人間である。
「身寄りがなく脚も悪いお前を、拾ってやった恩を忘れた
か!」
与助が、興奮も露わに私を睨む。
「恩、だと」
血の気の引いた彼らの顔が、更に青ざめていく。
「どちらにしても、行き着く場所は同じ―地獄だ」
ひそひそ声が、とどめを刺した。それを合図とするかの
ように、黒犬が慟哭を上げて飛び上がる。
「い、嫌だ! 嫌だあぁぁっ!」
奇声を上げ、兄弟は無様にも四つん這いで逃げ惑うの
だった。まるで、惨めな野良犬のように。
私は鼻で笑う。暇潰し、の間違いだろう。
仕事のうっぷん、酔いに任せた悪ふざけのために、暴
力を受け、散々虐げられた。七つでここに拾われ、七年。
〔参考文献〕
・地獄百景(田中久美子監修/ 2012 年/ベスト新書)
35
No.84
2012 年度関西学院大学図書館
利用実態調査を踏まえて
大学図書館利用サービス課総合主管 魚住 英子
関西学院大学図書館では、学生の利用動向とニーズを
(2)図書・資料や施設、サービスの利用経験
把握することを目的として、学部生と大学院生を対象とし
2008 年度調査と比べて、
「図書を利用した」と回答した
て 2004 年度以降 4 年毎に関西学院大学図書館利用実態
学部生の割合が 10 ポイント程度増加するなど、資料やサー
調査を実施してきた。そして、その結果の一部が大学図書
ビスの利用経験と来館頻度が増加した。前回調査後の 4
館の自己点検・自己評価のデータとして用いられ、さらに
年間で、語学学習用の英語多読本の提供を始めたり、コー
選書や、新たなコーナーの設置、各種サービスの向上など
ナー配架の図書・資料の大幅刷新を行ったり、基礎演習
に活用されている。
対象の講習会をはじめとした利用教育を拡充するなどさま
2012 年秋に、3 回目にあたる利用実態調査を実施した。
ざまな利用促進施策を打ち出したことが功を奏したと言え
その集計結果や考察をまとめた「2012 年度関西学院大学
る。また、来館利用に限らず、OPAC のオンラインサービ
図書館利用実態調査報告書(抄)」は、これまでの調査報
スや Web データベースの利用経験も、前回調査と比べて、
告書と同様に、大学図書館ホームページ(http://library.
学部生・院生ともに増加している。
kwansei.ac.jp)の「図書館の活動」で公開されている。
本稿においては、2012 年度利用実態調査を概観した上
(3)図書館サービスの認知度
で、その結果を踏まえて、大学図書館が学生の利用実態
利用経験が増加した項目については、認知度も増加して
にどのように対応していくのかを述べる。
いる。例えば、Web データベースは、かつては学部生の間
では「知る人ぞ知る」存在であったが、CiNii Articles や
新聞など学部生にも需要があると考えられるタイトルが増え
1. 調査および結果概観
て講習会などで積極的に紹介したところ、多くの学部生に
も認知され、利用されるようになった(表 1)。
(1)調査概要
しかし、相互利用制度や電子ジャーナルのように「日常
利用実態調査では、2012 年 7 月末日時点での学部在籍
的に利用しなくても、存在を知っていれば、必要になっ
者総数約 22,350 人から 5 分の 1 の 4,471 人を無作為に抽
たときに使えて便利」なサービスの認知度が、期待した
出し、大学院生は同時点で在籍していた 1,282 人全員を
ほど高くなかった。このようなサービスの認知度を高める
調査対象者として、調査用紙を同年 9 月に発送した。有効
ことは、2008 年度調査結果から得られた課題でもあり、
回答数(回収率)は、学部生 793 件(17.7%)、大学院生
377 件(29.4%)の合計 1,170 件(20.3%)だった。残念な
がら、回収率は 3 回の調査で最低であった。
この調査を実施するにあたって、大学図書館が提供して
いる図書・資料や施設、サービスなどに関する質問におい
て、利用経験の有無を問うだけでなく、利用経験がなくて
もそのサービスなどの存在を知っているかどうかの認知度
も回答から得られるよう配慮して、回答の選択肢を設定し
た。さらに、それらの利用経験と認知度、および満足度
の 4 年毎の経年変化を確認するために、可能な限り質問
や選択肢は前回調査と同様にした。もちろん今回の調査
で新たに追加した質問もある。
36
表 1 学部生「Web データベース」の利用経験および認知度の変化
No.84
大学図書館は広報手段の見直しなどの対応策を講じてき
あるいは大学図書館での配架場所・請求記号の表示、さ
たため、効果は少しずつ表れている。ただ、毎年新しい
らに取り寄せや予約などのオンラインサービス機能へと
学生が入学してくるので、継続した広報の強化が必要と
シームレスに目的の学術情報へと誘導することが可能とな
言えよう。
る。その結果、現行の印刷資料と電子資料、図書と論文
を探すのに異なる検索システムやデータベースを使わなけ
(4)大学図書館の満足度と要望
ればならない不便さが解消できる。
前回 2008 年度の調査では、
「所蔵資料」と「施設・設
先述のように、静かに勉強するために大学図書館を利
備」において、西宮上ケ原キャンパス大学図書館の満足
用する学生が多い一方で、グループ学習の場の拡充を求
度と比べて、神戸三田キャンパス図書メディア館の満足度
める声も大きい。このように利用者が大学図書館に期待し
はかなり低く、両者に顕著な差が見られた。その後、図
ている機能や利用目的が多様化していることが明らかで、
書メディア館の移転による設備などの改善もあって、今回
抜本的な対策を講じる時期が来ている。
の調査では上ケ原との差が縮まった。
近年、多くの大学で図書館内などに「ラーニングコモ
今回の調査では、初めて「オンラインサービス」に対す
ンズ」と呼ばれる施設を設置して、グループ学習など学
る満足度を問う質問を加えた。2010 年からキャンパス間
生のアクティブラーニングをサポートする動きが見られる。
の図書取り寄せが OPAC 経由で申し込みできるようにな
本学においては、神戸三田キャンパスで 2013 年 4 月にア
り、よく利用されている。その利便性が評価されたのか、
カデミックコモンズがオープンして、課外活動を含めた学
学部生・院生ともに 9 割以上が「満足」あるいは「やや
生の自主的な学習が行われている。西宮上ケ原キャンパ
満足」と回答している。
スでも、2014 年 5 月に新設の H 号館に共同学習スペース
全般的に満足度の数値は高かったが、自由記述欄に
がオープンする予定であるが、大学図書館でも既存のグ
寄せられた意見や要望には、
「騒がしい利用者が多い。
ループ閲覧室の機能を拡充して、図書・雑誌や電子資料
取り締まって欲しい。」というような館内環境の改善を求
を用いた学習を支援したいと考えている。同時に、個別
める意見が多く寄せられた。その一方で、学部生からは
学習のスペースも充実させる必要がある。そのため、大学
グループで話し合いができる学習スペースの要望が複数
図書館は、大規模な館内リニューアルの実現を学院に働
あった。他には、過去の調査でも常に意見・要望の多数
きかけていく。
を占めてきた館内設置のパソコンの台数 増加をはじめ、
館内での飲食許可、小説や文庫本のタイトル増加などが
見られた。
3. 岐路に立つ利用実態調査
これまで 3 回実施してきた利用実態調査は、西宮上ケ
2. 調査結果を踏まえて大学図書館の対応
原と神戸三田の両図書館の利用実態を問うのが主目的で
ある。ところが、現在は、西宮聖和キャンパス(教育学部・
2013 年 3 月に奥野卓司大学図書館長に提出された利
研究科)や大阪梅田キャンパス(経営戦略研究科ほか)
用実 態 調 査 の報 告 書に基づき、館長 提言が出されて、
で日常的に講義を受けているため、建物としての大学図
2013 年度は館内で複数の検討チームが立ち上がった。
書館はほとんど利用しない学部生と院生が存在する。こ
検 討した課題には、比較的すぐに実現できるものと、
れらの学部生と院生は、両図書館所蔵の図書・資料を聖
中長期的な計画を立て、予算を獲得し、ようやく実行に
和や梅田に取り寄せ可能で、電子資料はオンラインで利
移せるものとがある。学生からの要望で実現が決まって
用できる。このような非来館型利用者を、日常的に両図
いる施策には、2014 年度からの閲覧座席などでの蓋付
書館を来館利用している学部生・院生と同じ条件で調査
容器入り飲料の飲用許可が挙げられる。
することは困難であると感じた。
また、調査結果から浮き彫りになった電子資料の認知
利用実態調査は、業務統計からは得にくい学部生・院
度や利用経験の低さを改善することを目的に、資料形態
生のサービス認知度や要望などを汲み取る良い機会であ
や媒体に限定されない学術情報の検索機能であるディス
り、経 年変化を分析するためにも有効である。しかし、
カバリーサービスの導入を検討している。ディスカバリー
同じ形式で今後も調査を継続するかどうかについては、
サービスでは、検索した結果からフルテキストへのリンク、
再検討する必要がある。
37
No.84
韓国の大学図書館のいま
大学図書館利用サービス課 瀬戸口 雅士
2012 年 12 月に私立大学図書館協会の海外集合研修に
もちろんであるが、主題別の講習会開催、専門分野の選
参加し、韓国と台湾の図書館を訪問した。この研修の詳
書など専門性の高いサービスを提供していた。他には教
しい内容は、訪問したメンバー全員で報告書にまとめ、私
員の研究の支援として、先行研究の文献収集などをして
立大学図書館協会の HP で公開しているので、そちらをご
いる大学もあった。
覧いただきたい。
次に司書が仕事に対しての自負が強いということだが、
(http: //www.jaspul.org/ind /committee/kokusai/
それはなぜかと考えてみると、大学図書館としてのミッショ
shugo_report2012.pdf)
ンや、将来構想がはっきり定まっているため、仕事に対し
今回は、海外集合研修に参加して感じた韓国と日本の
ての不安が少ないという事が、一つの要因ではないかと
違いや、新しく発見があったことなどを中心に記したい。
思う。どの図書館を訪問しても、ミッションや将来構想な
どを司書の方が明確に説明してくれた。もちろん専門性
が高いからという理由もあるとは思うが、それだけでない
1. 司書の専門性
ように感じた。
梨花女子大学では、
「研究者に対して大学図書館から
38
今回の研修は、ただ見学で終わるのではなく、各訪問
協力体制を敷き、多くの資料を利用してもらい、多くの研
機関で司書と意見交換する時間を設けていただいた。す
究成果を生み出してもらうこと」という図書館のミッショ
べて通訳を通しての意見交換であったため、上手く伝わ
ンを掲げ、そのために教員や大学院生の研究動向につい
らないことも多々あったが、率直に疑問などを聞くことが
て多種多様な手段で情報収集をしながら、どういったサー
できたので、貴重な時間であった。
ビスを提供すればよいかをしっかりと考えていると話され
この意見交換を通して感じたことは、韓国の司書の専
ていた。
門性が高いことと仕事に対しての自負が強いことである。
司書の専門性が高く、また仕事に対しての自負が強い
まず専門性についてであるが、韓国の大学図書館で
ということは、私が韓国に訪問して感じた日本の大学図
は現在、主題別専門司書を配置するというのが主流とな
書館との違いの大きな点である。韓国と日本では、司書
り始めている。図書館情報学を学んでいて、司書資格を
に求められる専門性のレベルが違うこともあるが、教育、
有しているというのは基本であるが、それにプラスして自
研究に携わっているという本質的なところは同じである。
分の専門分野を持っているという方が、非常に多かった。
私たちも日々勉強しながら、レファレンスをするという責
主題別専門司書を韓国で最初に導入した延世大学にい
任を感じながら、仕事をしないといけないと再認識するこ
たっては、専門分野の修士以上の学位を取得しているも
とができたように思う。また、大学図書館としてのミッショ
のを採用し、採用後に図書館情報学の修士も取得させて
ンや将来構想などを、韓国ほどしっかりと定められている
いる。そのため、支援に関しても、主題別レファレンスは
ところが、日本では少ないように思う。定めていたとして
No.84
も、意識して働いているという司書の方は少ないのではな
いだろうか。仕事をする上で、ミッションや将来構想など、
しっかりとしたビジョンがあれば、何か迷うことがあった
としても、そのビジョンに立ち返って考えれば、おのずと
答えが導き出されるように思う。韓国の司書の方たちは、
そのミッションや将来構想のビジョンにしっかりと寄り添
い、仕事しているというように感じ取ることができた。そ
れは話の中だけでなく、図書館のサービスや建物などか
らも伝わってくるものであった。
寄付者銘板
2. 寄付の文化
3. 電子化への取り組み
韓国においては、日本と比べものにならないほど寄付
今回、訪問した目的は電子化推進図書館を見るというこ
の文化が根付いているように感じた。今回、訪問したほと
とであった。韓国では、国策として、1996 年から 2010 年
んどの大学で、韓国を代表する企業や個人の寄付を受け、
にかけて、
「教育情報化 3 段階総合発展方案」、2010 年
施設の建設、機器類の導入をしている。延世大学図書館
からは「教育科学技術情報化基本計画」、2011 年からは
においては、総工費の半分がサムスン電子グループからの
「スマート教育推進戦略」と銘打ち、大量の資源を導入し、
寄付で賄われており、図書館の名前も延世サムスン学術情
教育情報化政策を進めている。初日には、その政策の中
報センターとなっている。そのほかにも、ソウル大学図書
心を担っている KERIS(韓国 教育学 術 情 報 院: Korea
館においては、入口に寄付者の銘板が飾られており、また
Education and Research Information Service) も訪 問
図書館内のスペースにおいても寄付者個人の名前がつけら
したのだが、そこで話されたことはすべてが日本より何歩
れているところもあった。
か進んでいるように感じた。電子化という側面からみると、
もちろん寄付行為に対する税制優遇などもあるが、名誉
韓国では 2014 年に小学校、中学校、2015 年に高校で教
を重んじる韓国社会の風土と、著名大学への寄付行為に
科書の電子化がはじまる。片や日本はというと、2020 年を
おける社会的影響などもあって、このような寄付の文化が
目標としており、大きな差ができている。
根付いているのではないかと思う。
また、韓国の大学図書館で電子化をどのようにとらえて
延世大学では、新しいキャンパスに図書館を建築予定
いるかというと、ソウル大学の例では、2002 年から電子
で、まずは大学内に寄付を集める窓口を設けるところから
図書館構築事業を立ち上げ、様々な資料の電子化を開始
はじめていると話されていた。
し、2012 年には、約 49 万件のデジタルコンテンツを構築
文化の違いもあるため、日本でも同じレベルまでとはい
している。ただし、電子化を行うにあたっては、対象範囲、
かないかもしれないが、企業の社会的責任として教育支援
選定指針などをしっかり決めたうえで、かつ著作権、知的
を行っている企業も少なくないはずである。進め方によっ
財産権等の問題もクリアになったものから進めている。ま
ては、うまく連携してリニューアルや建て替えの資金集め
た、ファイルデータについても、利用者サービス用ファイル
ができるかもしれないと感じた。
と図書館保存用ファイルに分けて作成し、利用者サービス
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用は画質よりも伝送速度を優先し、図書館保存用は画質を
のような大手電機企業があることもあって、タブレット端末やス
優先している。ただ、やみくもに電子化をすすめているの
マートフォンも日本より普及している。また、そういった企業の
ではなく、印刷物が持つ歴史的価値も重要と認識しており、
支援により、大学図書館でも電子媒体を閲覧するためのハー
全てが電子化されるべきものでもないとの説明があった。
ドが充実している。学生も電子資料やタブレット端末等の機
その一方で、需要がある限り、電子化を進めていくのも当
器への抵抗も少なく、また、電子化を国や企業が支援してい
たり前のことであるとも話されていた。
ることもあって、急速に電子化が進んでいるのだろう。
数年後に電子教科書を利用した学生が大学に入ってくるこ
とで、今以上に電子化が加速することだろう。日本の何歩か
先を歩いている韓国がいい見本になっているはずなので、同
じことをする必要はなくても、様々な点で学べることは多いよう
に感じた。
4. 学びのスタイル
電子化に伴い空きの多い雑誌書架
今回、韓国と日本で一番違いを感じたのは、学びのスタイ
ほかの大学においては、自館で資料の電子化を行って
ルについてである。いま現在、日本では課題解決型の能動
いるところは少ないものの、このような状況に対応するべく、
的学修、アクティブラーニングのような双方向の学びを行うよ
電子ブックや電子ジャーナル、電子の新聞を閲覧するため
う政府からも提言されていることもあり、ラーニングコモンズな
の大型のタッチパネルを導入したり、電子ジャーナル、電
どの施設や、アクティブラーニングを実践する施設が図書館
子ブックなどの電子媒体を積極的に購入している。
内にも設置されるようになってきている。可視性の高いグルー
プ閲覧室や、可動式の机、ホワイトボードなどがアクティブラー
ニングを実践するための代表的なハードではないだろうか。
それが韓国では、ほとんど見られなかった。グループ閲覧室
のような部屋がいくつかあるのと、プレゼンテーションルーム
がある程度で、可動式の机は、どの大学でも見られなかった。
一方で、どの大学でも導入されていたのが、自習室と座席
予約システムである。
自習室は、図書館内に併設されているところもあれば、図
大型タッチパネル
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書館とは別の場所に設けられているところもあり、その開館時
間は 24 時間のところもあれば、朝 6 時から夜は 24 時までと
国立デジタル図書館で、
「なぜ韓国では電子化が進んでい
図書館以上に開館時間も長い。
るのですか。
」と質問したところ、
「国民性じゃないですか。流
また、座席予約システムは、日本では馴染みがないかもし
行りに敏感なんです。
」という答えが返ってきた。確かに国民
れないが、
図書館の入口に設置してあり、
入館する前に IC カー
性もあるのかもしれないが、韓国では、サムスン電子グループ
ドをかざし、
どの席で勉強するか決めるものである。そのため、
No.84
図書館内の閲覧座席などで、友達同士で会話している光景
て、他国の大学図書館となると、文化も違えば、考え方
は、ほとんど見受けられなかった。
も違うため、驚きの連続であった。特に学びのスタイルに
関しては全くといっていいほど違っていた。そのため支援
の仕方についても、目新しいことばかりであった。
また、電子化という側面において韓国は日本に比べ、か
なり進んでいることを実感した。やはり国が先頭にたって
様々な施策を導入してきた結果であると思う。日本も少しず
つ教育情報化を考えられるようになった今、韓国の例が良
い見本になるだろう。実際、私たちが訪問した翌週には国
立情報学研究所の研究員の方が KERIS を訪れるという話
座席予約システム
を司書の方から聞いた。
しかし、日本で韓国がやっていること全てを取り入れる
私が、延世大学で、
「アクティブラーニングなどが実践
ことができるわけではない。日本には日本の文化があり、
できるようなコモンズは必要ではないのか。」と質問したと
各大学の色も違う。だから取捨選択した上で、取り入れて
ころ、
「来年、インフォメーションコモンズを建設予定だ。」
いけばよいと思う。
という回答が返ってきた。やはり、インフォメーションコモ
今回、韓国に行って学んだことがある。自分の国の文化、
ンズということは、アクティブラーニングということではな
もっと言えば、自分の大学の学生の資質をしっかりと理解
く、より ICT 機器を充実させて、様々なサービスがワンス
した上で、支援の仕方を考えていく必要があるということ。
トップで受けることができるような施設を建設することを検
基本的なことではあるが、やはり良い施設や、良い取り組
討しているのではないだろうか。そうすれば、より個人の
みを見ると、どうしても同じような施設や取り組みを導入
学習環境の充実に繋がるであろう。
したいと考えるのが普通である。しかし、同じことを同じ
また、既述の主題別専門司書においても、個人の質の
ように導入しても、モデルにした大学と学生が違うため、
高い学びを支援する一つのサービスであると私は思う。
必ずしも同じように上手くいくかは分からない。日本にい
韓国では、受験戦争や、就職戦争ということばがあるよ
ると、どこかの大学がやっているから、うちの大学もし
うに、常に競争を強いられていることからも、グループで
ないといけないといったような大学がたくさん見受けられ
協力して勉強するのではなく、個人学習というのが学びの
る。果たして、それは本当に学生のためになっているのか。
スタイルとなっているのだろう。そういった側面から、韓国
韓国の大学図書館では、しっかりと自分の国、自分の大
の大学図書館を評価すると、どの図書館も大学の色を持ち
学の学生の特色にあった施設、サービスを司書の方々が
つつも、個人での学びを支援するような環境になっている。
しっかりと考え、それが形となっているように感じ取れた。
ここで学んだことを私自身も本学で体現できればと思う。
また、今回は集合研修ということもあって、他大学の
5. まとめ
職員の方と協力して、準備に始まり、帰国後は報告書の
作成、報告大会での発表など、メールや電話連絡のみで
今回、海外集合研修に参加して、貴重な経験をさせて
調整しながら、進める必要があったため非常に苦労した。
いただいた。日本で他の大学図書館を訪問するのとは違っ
しかし、グループで意見をまとめるということ、また分か
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りやすく報告するためには、どのような発表をしたらよい
かなど、研修以外の部分で学ぶこともたくさんあったよう
に思う。また、この研修を通して、たくさんの方々とも出
梨花女子大学図書館
ソウル大学医学図書館
延世大学図書館
会う事ができた。
KERIS
海外集合研修に参加したのは 7 日間と、そう長くはな
いが、様々な点で非常に実りのある研修となった。
《研修テーマ》
国立デジタル図書館
「東アジアにおける電子化推進図書館を見る」
東アジアにおいて、特に韓国と台湾では、大学図書館
ソウル大学中央図書館
等における電子化の推進が著しい。そのような図書館で実
際に電子化の状況を視察し、併せて施設や設備を見学し
現地職員と意見交換することで、電子化に関する見聞を深
めるとともに、先進的な図書館の組織・運営方法の事例
《研修日程》
期 間:2012 年 12 月 3 日(月)~ 2012 年 12 月 9 日(日)
に触れ、最新の取り組み等の情報を得る。また、図書館
1 日目:12 月 3 日(月)
職員相互の国際的な人的交流を実現する。
羽田空港から金浦空港(渡韓)
2 日目:12 月 4 日(火)
10:00 ~ 12:00 韓国教育学術情報院(KERIS)
14:00 ~ 16:30 国立デジタル図書館
3 日目:12 月 5 日(水)
10:00 ~ 12:00 国立ソウル大学医学図書館
14:00 ~ 16:00 国立ソウル大学中央図書館
4 日目:12 月 6 日(木)
10:00 ~ 12:00 私立延世大学図書館
14:00 ~ 16:00 私立梨花女子大学図書館
5 日目:12 月 7 日(金)
研修参加者
仁川国際空港から桃園国際空港(台北)へ(渡台)
6 日目:12 月 8 日(土)
14:00 ~ 16:00 國立高雄第一科技大學図書館
7 日目:12 月 9 日(日)
松山空港から羽田空港(帰国)
※当初は國立台湾大學図書館を訪問する予定であったが、
天候不良により、飛行機の到着時間が大幅に遅れたた
め、訪問することができなかった。
大雪の仁川国際空港(12 月 7 日)
42
No.84
「関西学院大学図書館史」の刊行について
大学図書館事務部長 安本 裕和
関西学院大学図書館では 2014 年 1 月に「関西学院大
120 年を越える歴史の中では、根拠となる史料や、文章
学図書館史 1889 年〜 2012 年」を刊行した。
による記述だけでなく出来事等を記録する上で必要な写真
これは 2005(平成 17)年 3 月に、当時図書館長であっ
や図表等が見当たらないということも多くあり、調査に労
た井上琢智経済学部教授により本学の図書館史の編纂と
力を要した。それは、日常の業務の中でいつの日にかこの
いう事業が提案され、図書館内に「関西学院大学図書館
ような歴史をまとめるであろうことを想定していなかったた
史編纂委員会」を発足させて編集作業を行い、作成され
め、過去の事務的な文書は一定の保存年限を待って廃棄
たものである。
してきたこと、また、節目節目で建物や行事等の模様を写
これ以前にも、関西学院大学の図書館史は、1954(昭
真に残すということをしてこなかったことに起因していると
和 29)年に「関西学院図書館略史」
(全 30 頁)、1990(平
思われる。
成 2)年に
「関西学院大学図書館小史」
(全 129 頁)として、
編纂作業は、本来の図書館業務の合間を縫っての作業
過去に 2 回、編纂されてきている。しかし、いずれも今と
ではあったが、細部もゆるがせにせず、可能な限り正確で
なっては根拠に当たって確認することが難しい貴重な情報
本格的な図書館史を作り上げたいという委員の意欲と、委
を数多く含むものの、特定の館員個人の手による略説的な
員以外の館員や他部署の職員(特に学院史編纂室)の協
内容にとどまっており、本学の図書館史としてはより本格
力によって、100 回近い編纂委員会の開催と 9 年近い歳月
的なものの編纂が望まれていたところであった。そのよう
を経て、一冊の図書館史として結実したものであり、でき
な事情を背景として、当時副館長であった柳屋孝安法学部
あがってみると当初に予想していたよりもかなり大部のもの
教授が委員長となり図書館史の編纂作業が開始された。
となった。
それ以来、前半は中村順治事務部長(2008 年 3 月まで)、
今回の図書館史刊行の資金の一部として田嶋記念大学
後半は兄井栄子事務部長(2008 年 4 月から 2013 年 3 月
図書館振興財団から助成金をいただいている。ここに記し、
まで)を牽引役として、資料収集や執筆を委員(安本裕和
感謝の意を表しておく。 次長、今村太朗運営課長、渡部信吾運営課総合主管、酒
この図書館史は、これまでの本学図書館の発展の経過
井いずみ運営課総合主管、得平綾子運営課主事、市河原
と図書館業務における創意工夫の軌跡を中心にまとめたも
雅子利用サービス課長)で分担し、ほぼ月 1 回のペースで
のであるが、単なる過去の記録に留められることなく、今
編纂委員会を開催し、作業進捗の確認や原稿のチェック
後の本学図書館の発展のために少しでも役立てていただく
等を行った。
ことを祈っている。
関西学院大学図書館史 1889 年~ 2012 年
(本文中の職名は 2013 年度のもの)
図書館長(前列中央)と図書館史編纂委員
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No.84
専門知識を活かした職員の館外活動
図書館職員の多くは、図書館業務の専門家として、キャンパス内外のさまざまな要請に応えています。
2013 年度の活動の一部を以下に紹介します。
大学図書館長 奥野 卓司
■ 大学授業・研究会その他の講師
■ 各種委員
◆本学授業等
大学図書館コンソーシアム連合運営委員
「学校図書館メディアの構成」(春学期)
安本裕和 次長
今村太朗 運営課長
国公私立大学図書館協力委員会‐国立情報学研究所
「情報メディアの活用」(秋学期)
機関リポジトリ推進委員会委員
魚住英子 利用サービス課総合主管
「日本史学史料研究 C1」(春・秋学期)
安本裕和 次長
兵庫県大学図書館協議会副会長館・会計館委員
羽田真也 利用サービス課嘱託職員
安本裕和 次長 今村太朗 運営課長
同志社大学授業「情報サービス演習Ⅰ」(秋学期)
魚住英子 利用サービス課総合主管
私立大学図書館協会「協会賞」選考委員
今村太朗 運営課長
◆第 74 回私立大学図書館協会・研究大会
2012 年度海外集合研修報告(8 月 30 日)
和泉市史編さん調査執筆委員
瀬戸口雅士 利用サービス課主務
◆国立情報学研究所
平成 25 年度大学図書館職員短期研修講師(10 月 4 日)
瀬戸口雅士 利用サービス課主務
◆関西学院大学 W.M.Vories に関する総合プロジェクト
研究・研究協力者 山﨑富美子 運営課主査
国立情報学研究所 平成 25 年度大学図書館職員短期研修
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羽田真也 利用サービス課嘱託職員
関西学院大学図書館報『時計台』No. 84
2014年4月1日発行
編集・発行 関西学院大学図書館
〒662-8501 兵庫県西宮市上ケ原一番町1-155
TEL(0798)54-6121
http://library.kwansei.ac.jp/
(ホームページ掲載)
関西学院大学図書館報﹃時計台﹄
2014 APR. No. 84
表紙解説
関西学院大学図書館所蔵
フォックスウェル文書
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