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目
”■
△F●〃
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gqf
I 。
願.
I
宇都宮I。C∼那須I。C∼広谷地∼那須湯本温泉
∼ポルヶーノハイウェイ∼那須高原.:.:.⋮:⋮7
広谷地∼西岩崎∼戸田∼木綿畑∼折戸∼関谷:⋮.76
一軒茶屋∼那須山麓有料道路∼
板室温泉∼戸田⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮85
西那須野・塩原I。C∼関谷∼
1
塩原温泉∼日塩もみじライソ・⋮⋮⋮⋮・・11
塩原木ノ葉化石園∼上塩原∼
1
元湯∼尾頭峠∼上三依・⋮・⋮・⋮・⋮⋮:⋮53
1
今市∼大桑∼鬼怒川温泉⋮⋮⋮⋮⋮::⋮:。:63
鬼怒川温泉∼新藤原∼竜王峡∼
9
1
川治温泉∼五十.里ダム・⋮⋮・⋮.:.:⋮⋮.7
2
五十里湖∼湯西川温泉・・・⋮⋮⋮・⋮..:⋮::⋮21
1
2
コースポイソト⋮・・・・・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮3
宇都宮I。C∼那須I.C∼
広谷地∼那須湯本温泉∼
ポルケーノハイウェイ∼那須高原
雑宇都宮I。C
︵国道二九号、日光宇都宮有料道路に連絡︶
栃木県の県庁所在地・宇都宮市街は右奥に当
ります。
人口四二万人を数える宇都宮市は、東京から
北へ一○○キロメートル、関東平野の一角に当
り、栃木県のほぼ中央に開ける街です。
すじん
J街の歴史は大変古く、第一○代の崇神天皇の
と茎きいりひこの世とえぞせいばつ
白三子・豊城入彦命が蝦夷征伐の折、この地をそ7
の基地とされました。
いけのべのさとかんそん
当時は池ノ辺郷とよばれた寒村でしたが、そ
ぜんくれんを
そうえんたげ・やかたかを
の後、今から九○○年ほどの昔、前九年の役に、
よりよし
源頼義に従った藤原宗円が多気山に館を構霊え、
しもつけのしゆご
下野国の守護として土地を治めたのです。
以来、城下町として十一家、四七代の永きに
いしん
わたって栄え、ことに徳川時代には、日光東照
宮の東の玄関口として賑わいを見せ明治維新を
迎えております。
明治以後は軍都として、更にその後は商工業
はげ
の街として激しく変化しましたが、東北自動車
けん
道や新幹線の開通により、東北から首都圏への
玄関口として、首都圏整備計画のもとに大きく
生れ変ろうとしている宇都宮市です。
おらが国さで見せたいものは
おおやふたあら左さけ
きゅうせき
大谷一一荒人の情
ふたあらやま
と、歌にも見られる市内の名所旧跡は、市の
しもつけのくに
中心にある一一荒山神社に始まります。
一一荒山神社は下野国の一の宮として知られ、
やしる
今から一六○○年前にひらかれたお社で、この
とよきいりひとのみこと童つ・
宇都宮をひらいた窒皐城入彦命が記られます。
つりてんじょう
一一荒山神社の南には、宇都宮釣天井で有名な宇
都宮城跡がありますが、今は宇都宮児童公園の
一部になっており、わずかに残る士塁に過ぎし
昔がしのばれます。
8
宇都宮市街地から三○分ほどの所には、石の
おおや・室がいぶつ
町大谷があり、大谷寺の磨崖仏とともにその歴
史を今に伝え、市内の桜の名所・八幡山公園の
一隅に、蒲生神社があります。
いちぐうがもう
がもうかんせいさんきじんがもうくん
蒲生神社は、寛政の一二奇人と言われた蒲生君
ぺいまつやしる
平を紐る社で、蒲生君平はこの宇都宮市内で生
れま し た 。
とがしや富たげさんおお
市の郊外にある古賀士心山や多気山、石の里大
や
たげれいじよう一
谷は、宇都宮県立自然公園に指定されており、9
多気山には多気不動が魂られへ信仰霊場として
知られます。
註
搭あらや富ふたら鳶
宇都宮市内の一一荒山神社と日光の一一荒山神社
は別のものです。
とよきいりひとのみこと
宇都宮は土地をひらいた神b豊城入彦命を祁
ふたらさん
り、日光は、山岳信仰の霊地である一一荒山︵男
おおなむちのみことたどりひめのあじすきたかひとねの
体山︶の神・大己皇貝命、田“心姫命か味租高彦根
.⋮さんきじん
命の一一一神を純るofなお、この三神は夫婦・親子
みことまつ
である◎
蒲生君平は寛政の三奇人というが、その三人
ひとくるう
敬︵;徳川幕府のあり方を批側判した人物p
はく林子平吋、高山彦九郎であり、時の天皇家を
しへ恥
:緯ひはん
鵜日光連山︵苧○・九キロあたりで︶
︾左に高く連なる山々が日光連山です。
なんたい
山なみに向って左の端が男体山で一一四八四メ
lトルあり、・その形はすり鉢を伏せたようで、01
おお童などこまなご
寺名を日光富士ともよばれます。
によぼうさんあかだぎ
︲男体山から右に続いて大真名子山、小真名子
じゆもく
山、女峰山、赤薙山とならびますが、姿の美し
い男体山は高い山でありながら、︾頂上まで樹木
くるかみ
みほとけ
が茂りうその様子を女︾性の黒・髪にたとえ、別の
けだかじひ
名産黒髪山と申します。
ふ薦っどきん
そ・の気高く美しい姿は、慈悲︾深い御仏のお姿
を想像させ、.又一の名を補陀落山と戦︶よばれまし
ふだらくかんぜおんぽさっ
た。補一陀落山し﹄は観、世音菩薩が修業なさる島の
かんのん
名称で、昔の人々は、この山に観立白さまがお住
まいになられると信じたのでございましょう。
ふたあらさんなんたいさんくるかみふだらく
︽ベーー荒山、男体山、日光富士、黒髪山、補陀落
さん
山と︽、いろいろな名で呼ばれる男体山は、古く
やをすげ
から歌に詠まれ、筆にえがかれてまいりました。
かきのもとひとをろ
万葉の歌入・柿本人麻呂も
とさめ
小雨ふりしきしくしくそおもほゆ
1.Jいば玉の黒髪山の山菅に
主
と詠み、男体山の美しさをたたえています。
鎌上河内SA︵一一○.四キロ︶
蚕つ
兼お羽黒山︵山の上に鉄塔あり︶
はぐろ
左の小さな山が羽黒山です。
山の頂上には羽黒山神社が紀られ、土地の人
はお羽黒さまとよび、。多くの信仰を集めており
ますp
雑お羽黒山の昔話、
−11−
この羽黒山に残る昔々のお話を御紹介致しま
’し卜一員ノ○
じエう・しゆう
あさ宙や玄
昔々のそのまた昔、土州︵群馬県︶し﹂信州
︵長野県︶の境にある浅間山に、しGてつ半℃ない
大きな男が住んでいました。
男の名はデイラン坊といって、座れば四キロ
メートル四方がお尻の下に入り、立てば大空を
つん抜くほどでした。
ディラソ坊は山を造ることが大好きで、ある皿
日山の藤づるを切って大きな﹁もつこ﹂を造り、
近くの山を一つ入れて関東平野にくだって行き
ました。
L鬼怒川を渡る時、どうしたことか、ふじづる
が切れ、もつこの土が全部落ちてしまい、怒っ
たデイラソ坊は、﹁この山に藤づるなんか生え
るな!﹂と大声でどなったのです。
こうして出来たのがお羽黒山ですが、このお
羽黒山には藤の花が蝉えないとの一一一一口い伝えがあ
ります。
み主うぎ
さて、お羽黒山を造ったデイラン坊は、山に
腰をおろし、鬼怒川で足を洗い、妙義山に足を
あさ室
のせて、浅間山を枕にひとねむりしたのち、ノ
ッシノッシと関東平野を横ぎり、八ヶ岳を造
りに行ったのでした。
昔盈のお羽黒山の伝説でございました。
繋鬼怒川
きぬ
鬼怒川は謎日光の山々の奥にある鬼怒沼山か
ら流れくだり、栃木県の中央を流れて茨城県に
みつかいどう
入ります。茨城県の水海道近くから利根川に合
そそしもつけの
たいが
流して大平洋に沿ぐ鬼怒川は、かつては、下野
くに
国︵栃木県︶第一の大河として知られ、水上交
かなめ
通の要として重要な役割を果した流れです。
けいこくきぬ
川の上流には、渓谷美で有名な鬼怒川温泉や、
か川わ
じめいとう
治温泉があり、北関東の名湯としてその名を
−13−
知られています。
繋肘の内・鬼怒川
まもなく鬼怒川を渡ります。
ひじうち
川を渡ったこの辺りを肘の内といい、この地
ひじ
名は、デイーフソ坊が肘をついた所と言い伝えが
あり、叉、鬼怒川を少しくだった所には、デイ
ラン坊の足跡といわれる沼も残ります。
14
巨人にまつわる民話は各地にあって、土地の
こと
名に声﹂じつけたものが沢山あるのですが、事の
しん ぎ
信疑はともかく、何かほほえましい感がござい
ます。
荒川
矢板I。C
奥州街道
この矢板I。Cは、国道四号線に近いI。C
木、福島、宮城、岩手と北上し、青森県に至る
です。四号線は東京日本橋を起点に、埼玉、栃
兼号う鰭鵜
おうしゆう
大動脈で、かつての奥州街道に沿って造られた
道路です。
徳川時代に制定された奥州街道は、やはり重
ぼんごうせんじゆそうか
要幹線として五街道の一つに数えられた道でし
た。
みちすじ
江戸日本橋より、本郷をへて千住、草加と進
むのですが、宇都宮までは日光街道と同じ道筋
をたどったのでした。
わか.うじいえきつれ一
宇都宮からは日光街道に岐れ、氏家、喜連川、蝿
おおたわらこえほりあしの
大田原、越堀、芦野などをへて、現在の福島県
坐泉いみ#膿と3しらかわ
境にある境明神峠から白河に入ったのです。
しらかわkくぱめい
宇都宮から白河までの宿場名をおり込んだ道中
唄を御紹介致しましょう。︵カギかっこ内は宿
きつれがわさくや蚕
明のセツを﹁宇都宮﹂夜はほのぼのと﹁白沢﹂
場名︶
あけよしらさわ
うじいえ
の、早や﹁氏家﹂に﹁喜連川﹂、花の﹁佐久山﹂
,おおたわら
あとに見て、可愛いお方に﹁大田原﹂、ちよい
なべかけなかと︲こえぽり
とお腰を﹁鍋掛﹂て、那珂川越して﹁越堀﹂し﹂、
なな亥がりあしの
一一十一一一坂七曲、皆さん﹁芦野﹂まめにして、あ
しらさか
ちらこちらし﹂﹁寄居村﹂、﹁白坂﹂八丁手前の、
さかいみようじんがんしらかわもとをちへん
境の明神願かけて、奥州﹁白河﹂蔵登町辺に、
世帯持つ気になりやしゃんせ。︲︲︲︲︲︲︲︲︲︲︲︲︲︲
古い道中唄にみられる旧道は、交通の発達と
ともに忘れられてしまいましたが、かつては、
や茜あい
人々の生活の道であり、文化の流れる道筋とし
て大切にされたのでした。
おうらいにぎ
旅人の往来で賑わった旧街道は、 右奥の山合
に今もひっそりと息づいております。
紫矢板北P・A︵一一一七・五キロ︶
鵜矢板市︵人口三万五千人︶
右の街並は矢板市です。
つぎあいとんや
江戸時代には、日光西街道の継合問屋が置か
あいしゆく
れ、日光街道の合の宿として栄えた町です。
やみぞさんかい
街の東には八溝山塊が横たわり、北に那須連
16
たかはらや室
峰へ西に高原山へ南にpH光連山し﹂、山々の眺め
ほうきうるお
が美しく、篇川によって土地が潤され、農業と
林業のさかんな所です。
ゆうち
近年は工場誘致もさかんで、電機メーカーや
製材、食品関係の工場が多く、近代都市化の波
は、﹄﹂こにも押し寄せています。
兼八溝山地︵一○二二メートル︶
やみぞ
右に続く山なみが八溝山地です。
栃木、茨城、福島の三県にまたがり、山頂かⅣ
ちようぽう
らの眺望も良く、ハイキングコースも整備され
いわたけ童る
ておりへ人々にしたしまれています。
鵜〆勺泳割溝山の岩岳丸の伝説
き主うあくざんにん
いわたけをる
昔、T白河天皇の頃︵一○七一一∼八五︶京の都
つい
に凶悪残忍な男がいて、その名を岩岳丸といい
すけいえ
ました。白河天皇は、この鬼のような岩岳丸追
とう
討を須藤資家に.命じ、岩岳丸は追われ追われて、
やみ誓ん
この八溝山にか︾くれ住んだ.のでした。
すけいえいわたけ蚕る
やみぞざん
資家は岩岳丸率を追って八溝山に入ったのです
とら
ついい
がハなかなか捕えること・が出来ず、日頃信仰す
みわ
る三輪明神に祈って、遂に岩岳丸を射殺すこと
が出来ました。
すけいえ
白河天皇は大そう喜ばれ、須藤資家に那須の
た室
・評地を賜州わり、後に︽須藤家は那須の姓を名のつ
おさ
て代々この地方を治めました。
いわたけ富るおんりょう
fなお、殺された岩岳丸の怨霊は大蛇となり、
やしる
里人偽を苦しめたため、山中に社を造って祈り封
ほうきがわ
じたと伝えられます。
樵籍Ⅱ
げんぺいなすのェいち
篇川の下流四キロメートルほどの所に佐久山
鎌那須与一宗隆
ほうきさくや宮
町があります。
むれたか
鳥j佐久山町は、源平の合戦で知られた那須与一
よいちむねたかおさ
宗隆にゆかりの地です。
那須与一宗隆は、代々この那須地方を治めた
18
ち上つけいすけたか
那須一族の直系で、源氏の武将・那須八郎資隆
︵高︶の第十一子として生れました。
.幼い頃から弓の名手として知られたのですが、
やしを
与一の名を一層有名にしたのは、屋島の合戦の
折のことでした。
寿永四年︵一一八五︶源平屋島の合戦に、敵
じゆえいげんくいやし寮かつせん
へいけせんじ上うおおぎ富といぬ
方、平家の差出す舟上の扇の的を見事射抜いて、
そうほうしょうさんなすのょいち
電敵味方双方の称賛を受け、那須与一,の名は広く
さくや蚕げんしよう一
知られたのです。9
認お墓は、与一の領地であった佐久山町の玄性
●土寸にあります。
j参考
刊那須与一・・・⋮与市、余市とも書く。名は宗隆
︵高︶、与一は通称。
鵜常西那須野塩原I・C︵一三八・九キロ︶
那須野ケ原を進呼泳ながら、︾まもなく西那須野
塩原I。Cですp一・弐士.
﹃上
I
やみぞさんち
左に闇は塩原火山群が、右には八溝山地が横た
わり、牧場の多い那須野ヶ原です。
奉告絢戸原J上山︲:
すそたかはら
しやかがたけ
左に長く裾一と引く山なみが高原山です。
標高一七九四メ・’トルの釈迦ヶ岳を主峰、とし
けいちとう玄えぐる
て、鶏頂山、高原山、前黒山など多くの峰がつ
らなりへこれら一連の山なみを、塩原火山群と
よんでいます。
しやかがたけ
釈迦ヶ岳の中腹、標高一一一○○メートルほど別
とうげんはっぽう
やしお
の高原を八方ヶ原といい、八方自然休養林に指
定されております。
こうげん
六月のなか頃には、高原一面に八汐つ出じが
咲き乱れ、高原に夏のおとずれを知らせます。
なお、高原の八方牧場は、毎年五月のなか頃か
こ蜜しいf;
ら放牧が始まり、那須駒の飼育場として有名で
す。
この八方ヶ原の山かげに、有名な塩原温泉が
あります。
鵜那須野ケ原
︵東西八○キロ、南北四○キロ︶
ふもと
那須連峰の東の麓にあたる、妄﹂の辺り一帯は、
那須野ケ原といって、平均標高は五○○メート
ルほどです。
あわ
昔は大変な荒地で、冬は雪が多く、風も強く、
作物といえばヒエか粟ぐらいしか出来ない所で
した。
そすい
明治のなか頃までは、ほとんど人家もなく、
明治一一十年に那須疎水が完成し、長野県や富山
けんれい
県から人々が移り住み部落が出来た所です。
つうよう
なかでも、西那須野町には、当時の栃木県令
︵今の県知事︶があった一一一島通庸︵正しくは一一一
みちつれかいたくしやつの
かいとん
島通庸︶が一二島農場を作って開拓者を募り、こ
いわおやをがたありとも
の那須野ヶ原の開墾を進めたのです。
その当時、大山巌、山県有朋などの大政治家
−21−
なくし室まつかたげんろう
くわ
を始め、毛利、鍋島、一戸田、松方など一元老達が〆
のぎたいしよう
地主となって大農場が開か,れました。
又、乃木大将も、芦﹂の那須野ヶ原に鍬をふる
ただいま
い、只今でも西那須野駅の近くに、乃木大将夫
妻を記る乃木神社や、お住いの跡が残っており
ます。
蝶那須疎水
いくたびかい
この那須野ヶ原は、徳川のころから幾度か開
とん
あれら
墾のための水路の開発が計画されました。
れき
しかし、火山操のつもる荒地で、水路の工事
も思うように進まず、中止されたままになって
いしん
いたのです。
いんなみじようさくたけしなか
明治維新を迎えて八明治九年に再び工事が始
がわ
められ、印南丈作と矢板武が中心ルーなり、那珂
川の水を引くことに成功し、この一一人の熱意が、
ついに時の政府を動かして、立派な水路が完成
したのでした。
−22−
なすそすい
この水路は那須疎水と名付け標つれ、長い間、
不毛の地であった那須野ヶ原に作物がつくられ
ただい玄
るようになったのです。それは明治二十年のこ
とでした。
明治から大正、昭和、平成に至る只今も、そ
の水路は生き続け、文字通りの命の水となって
おります。
参考
那須疎水は、本幹水路と分水路をあわせると鯛
さび
一○○キロメートルにも及ぶ。1
鵜蛇尾川
つうようみちつれ
繋黒磯P。A
つうよう
参考・三島通庸︵正しくは通庸︶
一二島通庸は、鹿児島県の人で、山形、福島、
栃木県などの県令をつとめた。
通庸は、﹁土地の発展は道路の開発から﹂と
考え、道路づくりに力を入れたので、土木県令
とあだ名されたほどである。
日本のボーイスカウトの生みの親でもある。
鵜黒磯市︵人口五万人︶
右奥の街が黒磯市です。
かいとん
那須野ヶ原の開墾によって誕生した町で、東
北本線の開通によって急速に発展しました。こ
れといって大きな産業はありませんが、那須御
用邸を始め、那須高原や那須温泉への玄関口と
24
にぎ
して賑わっている街です。
那珂川
なか
那珂川です。那須の高原を流れくだり、那須
この那珂川の鮎が天皇家に献上されたのでした。
けんじよう
れ、大正十五年に御用邸が作られると、毎年、
この那珂川は、古くから鮎の漁場として知ら
なかあゆりょうば
なお、那珂川の上流には板室温泉があります。
いたむろ
城県の那珂湊から太平洋にそそぎます。
なかみなと
野ヶ原のかんがいの水となり、更にくだって茨
今鵜
鮎のほかに、天然のサケ、マスが秋には川を
のぼり、春先の雪どけ水と一緒にサケ、マスの
ちぎよ
稚魚が州を下って行きます。
那須I・C
那須高原、那須温泉の玄関口・那須I。Cで
す。 :
こちらから、一般道路を那須温泉にまいりま
す。
鵜那須五峰の遠望︵田代を過ぎてから︶
くいき
こ噌の辺りを喰木ケ原といい、那須火山群の雄
大な姿が良く見える所です。
ばち
山なみの中央、すり鉢を伏せたような山が那
ちやうすだけ
須火山群の主峰・茶臼岳で一九一七メートルあ
かつかざんふ
ひくいな
り、.活火山ですので白い煙を噴き上げています。
︾宮
︵茶臼岳の高さは一九一七と覚えると良い︶
茶臼岳の向って右が朝日岳︵一九○三メート
やりだけ
ル︶内その右に三本槍ヶ岳︵一九一六・九メー
−25−
弓鵜
ちやうすなんげつさん
トル︶、茶臼岳の左に並ぶのが南月山︵一七七
くろおやさん
六メートル︶、南日型山のさらに左に黒尾谷山
︵一五八三メートル︶と続きますp
ごがく
この五つの山々を那須五峰叉は、那須五岳と
よび、これらを総称して那須岳ともいいます。
くろおやささや富
又、黒尾谷山の左に並ぶ山を白笹山︵一七一
ちやうすなんげつさん
七メートル︶といい、茶臼岳、朝日岳、南月山、
くろおやさん
黒尾谷山、白笹山の五岳を那須五峰とよぶ場合
もあるようです。
いずれにしても、関東地方と東北地方の境を
とう
なす火山群として名高く、那須十一湯とよばれ
とうよう
る多くの温泉や、花と紅葉の名所であり、山麓
のゴルフに、冬のスキーにと四季を通じて訪ず
れる人の絶えない所です。
鵜十那須高原線・那須街道
黒磯から那須温泉に通ずる道を、県道那須高
原主線といい、一般には那須街道とよばれていま
2
6
す。黒磯市街から、那須温泉の湯本までおよそ
こがれ.
一七キロメートルの道のりです。
那須音頭
、ハアー煙はきます黄金の煙
ヨイトナア
那須の湯煙くすりの香りヨイトサノサ
那須は高原良い所まいらんせ
那須のお山はチ富イトチョイト
お国自慢のお湯どころ
ヨイトナア
せつし上うせき
一一、︿アー︲那須の余一や殺生石の
ヨイトナア
;昔語りは夢にも残るヨイトサノサ
ハ、聞いてお帰り湯もみ唄まいらんせ
;f那須のお山はチョイトチョイト
お国自慢のお湯どころ
ヨイトナァ
−27−
鵜りんどう湖ファミリー牧場
︵田代小学校入口辺り︶
右の奥、およそ四キロメートルほどの所にり
んどう湖とファミリー牧場があります。
りんどう湖は、周囲およそ三キロメートルの
小さな湖ですが、湖を中心に観光牧場となって
おり、小動物園を始め、バズーカ砲、洋弓、ポ
ート・サイクリソグコースの施設があり、草原
でのバーベキューも人気があります。
那須高原エレジー
一、那須の高原りんどう咲いて
宿るは君の露涙
ひめた想いかわくら葉二つ
心淋しく風に散る
こさめ
一一、君浄己知ったは小雨に煙る
い
でよい
出湯の宿の宵の頃
28
ゆれて苦しいみどりの髪が
あの夜結んだ恋心
ひろやぢ
鵜広谷地十字路
広谷地十字路を右に入りますと、りんどう湖
ファミリー牧場方面です。
左は塩原温泉方面に通じます。こちらから塩
原温泉まで、およそ一時間の道のりです。
ひろやぢ
鵜那須疎水取水口
この広谷地から左に入った西岩崎には、那須
そすいしゆすい
疎水の取水口があります。︵那須野ヶ原開墾に
ついては一一二ページ参照︶
ふ
もうげんやかいとん
不毛の原野であった那須野ヶ原の開墾は、徳
川時代から考えられていたのですが、水の便が
かんれい
亜心い上に、寒冷地であるため、なかなか思うよ
うになりませんでした。
たけしいんなみじようさく
明治になってから、矢板武、印南丈作などに
なかそすい.
よって那珂川から水を引入れて疎水を作りまし
29
しようきぼ
かい
たが、その疎水は小規模なため、 広い地域の開
とんいた
墾には至らなかったのです。
しかし、これがきっかけとなって時の政府が
動き出し、明治十八年から二十年にかけて、国
そすい
営事業としての疎水工事が始められ、那須疎水
が完成したのです。
ふもうよくや
こうして不毛の地・那須野ヶ原は沃野に変り、
とんにちいた
沢山の農場が開かれて今日に至りました。
只今では本幹水路と分水路の主要部分だけで
ただい室ぼんかん
かんがいいんよう
も一○○キロメートルに達し、潅概に飲用に利
かいさくずいどう
用されており、開削当時の水路随道は那須野ヶ
いのち・
原の生命の原点として今も大切に保存されてい
しももりと
ます。
鵜下守子
鵜那須サファリーパーク
左に入りますと、那須サファリー・ハークがあ
ります。
3
0
ライオンを始め、およそ四○種、五五○頭の
野生動物が広々とした高原に放たれており、行
にぎ
楽シーズンには賑わう所です。
鵜那須温泉郷
那須温泉は、那須岳の中腹にひらけており、
とう
たかおべんてんおお童るいたむろさんど
湯本、高雄、弁天、大丸、北、板室、一一一斗小屋
あさひやわたかっとういいむろ
など、古くからある那須七湯と、新しくひらか
はな
れた新那須、旭、八幡、郭公、飯室を加雲えると
一二の温泉場があります。
このうち、板室温泉は少々離れた所にありま
たか
すので、一二のうち板室を除く一一の温泉を那
とう
須一一湯といい、ほとんどが単純泉ですが、高
おりゆうかすいそせん
雄温泉は硫化水素泉です。
きょう
那須温泉郷の中心は湯本温泉で最も古く、一
はくほうじよめい
一一一○○年前の白鳳時代︵錆明天皇・六一一一○︶に
発見されたと伝えられ、温泉にまつわる伝説に
はくしかおし
よりますと、神の使いである白鹿に教雲えられた
−31−
と言われます。
さんろくかりのさぶろうゆきひろどうぞく
昔、この那須山麓に狩野一二郎行広という豪族
りょうない
がおりました。領内の作物をあらす大鹿がいる
いと
のを知り、芦︶れを射止めようとして追いました
つか
が、なかなか捕まえることが出来ません。何度
目かにやつと大鹿を見つけ、矢を放ったのです
が、鹿の姿を見失ってしまいました。深い山中
をさがすうち、山の神のお告げで上の谷の温泉
で傷をいやしている鹿を見つけることが出来た皿
ので す 。
かりのさぶろうゆきひろかご戎つ
狩野一二郎行広が、山の神の加護を感謝して記
ただい室ゆぜん
ったのが、只今の那須温泉神社で、白鹿が傷を
いやしていた温泉が那須湯本温泉であると伝え
右にわかれる細い道は、天皇家の那須御用邸
那須御用邸
養魚場入口
られます。
弓蒸ら燕
への道路です。
:那須御用邸は、大正十四年︵一九二五︶に建
︽てられました。
今は亡き昭和天皇は、植物学者であらせられ
たので、この那須の御用邸を大そう気に入られ、
みほそう
ほとんど毎夏、この御用邸においでになられま
した。
﹄この・ハス道路から御用邸までの道は未舗装で
密︾”すが、この道路についてこんなお話がございま調
奪す。
︾それは、昭和一一十四年ごろのシ﹂とです。
●○。
しげる
その当時の総理大臣・吉田茂氏が、黒磯から
ほそう
御用邸に通ずる道路を舗装するよう命じました。
その折、昭和天皇は、県道からわかれて御用
ほそう
邸内までの舗装費用を節約され、その分を湯本
f温泉までの舗装費用にまわすよう御希望されま
した。
ただい室
$只今で率D、
そう
みほ
この県道か傍っ御用邸内までは未舗
ほそう
装のままで、 代、ソに湯本温泉までは完全舗装に
な”っています。
お町優しい陛下のお気持は、これからも土地の
人々の間に敬愛をもって語り継がれて行くこと
でし ょ う 。
雛一軒茶屋
・もりとざか
撫型守
子坂
くいぞめ
難i喰初寺︵左︶
もりと
守子坂を登りながら新那須温泉が間もなくで
くいぞめじ
すp新那須温泉の入口には、日蓮宗の喰初寺
︵くいぞう寺ともいう︶があります。
ぷんえい
にちれんしようにんひたちのくにつくば
一等榊ら七一一一○年ほどの昔、文永一一年︵一一一六
五︶の.春のことです。日蓮上人は常陸国の筑波
山においでになられた帰り道、この那須温泉に
#§ふう
立ち寄られ傷の療養をなさいました。
あわのくにとうじよう
その傷は、日蓮上人が、安一房国東条の小松原
34
くいぞめかりず童
うらみかげのぶ
において、宗教上の怨から東条景信におそわれ
た時のものです。
Ⅷ日蓮上人は、現在の喰初寺の建つ辺りに仮住
居して入浴し、傷をなおされ、温泉の効目を讃
だいもくすみが
ぶんせいくるばね
えて石に題目を墨書きして残されました。
その後、江戸時代の文政年間、黒羽藩主・大
いよのかみ含すなりこう
関伊予守増業公の姫が奇病にかかり、食べるこ
とも、話すことも出来なくなってしまいました。
両親は一生懸命神仏に祈りますと、ある日、不
思議な夢のお告げを受けたのです。それは、御
いちぐうおんふで
領地の那須温泉の一隅に、日蓮大聖人が御筆を
とおだいもくれいけんけんちよ
すみやさんいのささ
止めた御題目石あり、この石の霊験大いに顕著
なり、速かにはせ参じ、祈りを捧ぐべし、姫の
病たちどころに快癒すべし。とのことでした。
・〃″も..・
や浅いかいゆ
姫の両親は早速、那須の霊地におもむいて祈り
0勾却
ましたところ、不思議なことに七日目の朝、姫
とつぜんおくうふくうつた
は突然起き上り、空腹を訴・えたのでした。
−35−
いききめたた
杉
ぜん
両親は大変よろこび、姫にお膳を進めました。
くいぞめぶつ
喜こんだ両親は、喰初仏を本尊し巳してお寺を開
かれました。
くるばねいよのかみをす
へ喰初寺の本堂には、黒羽城主・大関伊予守増
がく・
なり
業の筆による喰初仏の額がかかっており、叉、
いちぐうにちれんしようにんじゆずわ
境内の一隅には、日蓮上人の数珠割り石︵高さ
きゅうびおんりょう
三メートル、巾七メートル﹀があります。この
・ま
石は、日蓮上人が九尾の狐の怨霊を石に封じ込
じゆず
・きゅうびいなり堂つ
め、数珠で打ったところ、石は真一一つに割れた
と伝えられる石で、近くには九尾稲荷も紀られ
にちれんしようにんすみが・だいもく
ております。
なお、日蓮上人の墨書きのお題目石は、後に
でしにちろうつめほつめぼりきょうだい
いし
ただいを
くいぞめ
弟子の日朗が爪で文字を彫りつけ、爪彫の経題
きょうだいいし
石とよばれ、只今でも里の人之は我が子の喰初
の時には経題石に祈ると申します。
鵜新那須温泉
左右に旅館が多くなってまいりました。
36
きよう
こちらは、新那須温泉です。那須温泉郷のな
かでも新しく、大正十二年︵一九一一三︶に大丸
温泉から引湯して開かれ、泉質は単純泉で、皮
ふ病、リューマチなどに効き目があります。
︵湯温は四○度∼七○度︶
きよう
兼那須湯本温泉
那須温泉郷の中心、湯本温泉です。
み一
標高九○○メートルの高地にひらけ、今から
じよめい
一三○○年前、寄明天皇︵六一一九∼四一︶の御師
よ
代にお湯が発見されたと伝えられます。
とうじやど
町の中心から五○○メートルほどの所、湯川
ただいをたいざいとう
沿いに元湯があります。只今でも長期滞在の湯
じ
治客のための湯治宿が残っており、昔ながらに
ゆちよう
湯もみも行われ、湯長さんの音頭による湯もみ
唄は元湯の名物でございます。泉質は単純泉と
酸性明ばん泉で、浴場には三七度∼五○度∼七
主くそう
○度と温度別の浴槽がいろいろあり、こう病、
や奮いき
Ⅱソューマチ、婦人病、胃腸病、眼の病に効き目
ゆらい
があり、共同浴場も二軒あります。
参考那須湯本元湯温泉の由来
族がおりました。領内を荒らす大鹿を退治しよ
昔、この那須山麓に、狩野一二郎行広という豪
さんろくかりのさぶろうゆきひろどう
ぞくたいじ
うと領内をめぐるうち、ある日、その鹿を見つ
ゆきひろ
け、矢を放ったのですが逃げられてしまいまし
はくはつ
た。行広は山中をさがしまわり、山の神に祈り
お
ますと、白髪の老人が現われ、お前のたずねる
大鹿は、深い矢傷を負って上の谷の湯で傷をい
やしている、と教えられました。
ゆきひろ
行広は、その一一一一口葉通り上の谷の温泉で傷をい
やす大鹿を見つけることができたのです。
は
くはっけしん
白髪の老人こそ、山の神の化身であろうと、
行広は早速、温泉の湧く湯川の近くに社を造り、
ゆきひろさっそくわやしる
かご
神に加護を感謝し、こん芦﹂んと湧く温泉を鹿の
湯と名づけ、里人に知らせたと伝えられます。
3
8
那須の元湯を鹿の湯とよぶのは、こんな伝説か
らでございます。
鎌那須一見立神社、那須温泉神社
かりの
左は、那須見立神社で、温泉を発見した狩野
さぶろうゆきひろをつ
ゆぜん
二二郎行広を紐っております。
ゆらい
那須温泉の由来にある温泉神社は、この見立
ばし主う
石清水
いわしみず
神社の続きにありまして、松に尾芭蕉も奥の細道
の旅すがらこちらに立ち寄り、
ちかい
湯をむすぶ誓も同じ
と、一句を残しております。
境内は︾四万平方メートルの広さを持ち、自然
す溌陛
林に囲まれた拝殿、本殿に歴史の古さがしのば
れます。
おお途むちのみこと曹促ぬとみを
御祭神は大己貴命︵大国主命のこと︶、小彦
なのみことしもつけのえんぎしきたいしや
名命で、下野国の延喜式内社一一社の一つに数
えられております。
げんぺいやし戎かつせん
遠く源平屋島の合戦に、源氏の武将・那須与
39
I
むれたかおおぎ童といゆぜん
なむはち戎んだいぼさつくつ
一宗隆が、扇の的浄等射る折に、はるか那須温泉
しんめいごんげんゆぜんみようじん
神社に向い、﹁南無八幡大菩薩、別Iしては我が
おおぎ含んなかい
国の神明、日光権現、宇都宮・那須温泉大明神、
いそん
願はくは、あの扇の真中射させてたぱせ給へ、
これを射損ずる津ひのならば、弓切り折り、自害
ふたたびおもてひとたびぼん
して、人に一一度面を向ふくか伊っず。今一度、本
おぽ
国へ帰さんし﹂思し召さば、この矢、はずさせ給
うな。﹂
室といぬ
と祈り、見事に扇の的を射抜いたし﹂いうお話
しはあまりにも有名です。
ゆぜん
紫殺生石
温泉神社の下から右に大きくカーブーレながら、
さい
右下の古い旅館の見える所が那須元湯です。
さい
いちぐう
や玄すそせつしようせき
シ﹂の辺り一帯が賛の河原です。
き
賓の河原の一隅、左の奥、山裾に殺生石があ
ります。
きゅうび
九尾の狐の伝説で知られる殺生石は、 黒い輝
40
石安山岩で、付近一帯には硫化水素などの有毒
せきあんざんがんりゆうか
りゆうきこう
ガスを噴き出す硫気孔があり、近ずく鳥やけ率ひ
のが死んでしまうのです。
せつしようせき
・殺生石の名は、そのようなこ、とで名づけられ
ただい室いおう
まし”た。只今で&︺硫黄のにおいが立ちこめてお
り、.:曇った日には近づかないほうが良いと言わ
れます。
殺生石のかたわらには、芭蕉の句碑とその弟
・せつしようせきばしょうくひ
室ぶ
子の麻父の句碑があります。
芭蕉
麻父
室ぶ
石の上
石の香や夏草あかく露あつし
飛ぶものは雲ばかりなり
鵜金毛九尾の狐
せつしようせき、きゅうび
十。
一Q
eo
も
今。
:殺生石にまつわる九尾の狐の伝説を御紹介致
しましょう。
ばんそくおう
・全日、イソドに斑足王という王様がおりました。
41
はくめんきんもうきゅうび
その夫人に︷ロ面金毛九尾の狐が乗りうつり、王
様をだまして罪もない千人もの人を斬らせ、遂
ぼろ
には国を滅ぼしてしまいました。
しゆうおうひ
その後、中国に渡り、周の王妃となって王を
ぼろ
けんとうきびの浅き
まどわし、周の国も亡ぼしたのです。
とば
たをも
こうして、鳥羽天皇の時に、遣唐使の吉備真
び
;う曲う
ちようあい
備とともに狐は日本に渡り、玉藻の前という女
性に化けて宮中に入り、天皇の寵愛を一身に集
めておりました。
うたげいちじん
ある夜、宮中での宴の折、一陣の風とともに
あか,まっくら
た室もの蚕えあや
灯が消え真暗になってしまったのですが、不思
おんようじ
議なことに、玉藻前のからだから妖しい光が出
、妄あ・べやすなりたまもの富えみやぶ
て辺りを明るくしました。これを見た陰陽師の
あら
安倍泰成は玉藻前の正体を見破り、玉藻前は九
。・・凸、A
尾の狐の正体を現わして那須野ヶ原に逃げ去り
ました。
よしあきかずさのすけひろつね
;天皇の命を受けた一二浦義明と上総介広常は、
42
§
漁
きゅうびたいじ
那須野ケ原で九尾の狐潅竪退治1︶たのですが、そ
おんりょう
のとのそうじ
の狐の怨霊は大きな石に化け、石にふれる者奉竪
殺してしまうのです。
これを伝議え聞いて、能登国の総持寺の名僧・
玄翁和尚が那須野ヶ原にお砿︺むき、石に経文芽︸
げんのうおしようきょうもん
いつかつたち戎
とな室えて一喝しますと、忽ち石はくだけ散り、
一片は会津へ、他の一片は白河へとび散り、出︺
いつぺん
う一片がこの那須岳の地に残ったと伝えられま
す。お
きゅうび
この那須の地に、古くから伝えられる九尾の
狐のお話でございました。
鵜那須ボルケーノ・ハイウェイ
﹄︾の那須の山岳道路は、ポルヶーノ・ハイウ
ェイと名づけられ、延長一○・三キロメートル
の観光道路です。
︾との山岳観光道路の名称・ポルヶーノとは、
イタリヤ語で火山地帯という意味で、その名の
4
3
通り、那須岳の火山地帯を一周する道路です。
︵では、この那須高原の四季を歌で御紹介致し
ましょう。︶
那須高原の唄
一、果てなくつ且じ萌えさかる
f展望台は絵のような
ロープウェイも呼んで居る
唄よとどけよ流れ雲
那須高原よ那須高原春うれし
二、朝の紅茶はベラソダの
すずかぜう
みどり目にしむ見晴らしに
涼風受けて胸張れば
今日のゴルフの腕が鳴る
那須高原よ那須高原夏たのし
ちゃうす
一二、茶臼に赤く落ちる陽に
たそがれせまる草原は
ね
虫の鳴く音もふるように
44
ホテルはいつか霧の中
那須高原よ那須高原秋いとし﹃
四、雪のゲレソデ窓ごしに
は
ロビ・︲のグラス照り映えて
包む湯の香にほのぼのと
生きる喜びこLに来て
那須高原よ那須高原冬恋し
鵜おだん茶屋、八幡温泉分岐点
こちらはおだん茶屋です。那須登山口最初の
きゆ う け い じ よ
やわた
休憩所・おだん茶屋があった所で、こちらで道
が一一つに分かれます。右の道は、八幡温泉、北
ちやうすだけ
温泉、大丸温泉に通じます。
これより茶臼岳の中腹まで、およそ五キロメ
Iトルの登りになります。
この分岐点の辺りの標高は一○五○メートル
ほどあります。
鵜那須湯本温泉遠望
45
左下、木の間がくれに見える家並が、先程通
過してまいりました那須湯本温泉です。
湯本温泉の家並の向うに続くグリーン地帯は、
那須ゴルフ場で、この雄大な那須高原の景観を
そこなわぬよう造成されました。
鵜那須火山帯、茶臼岳
この那須火山群は、那須火山帯に属しており、
広大な関東平野の北の端にあって、関東と東北
地方とを分けております。妬
那須火山帯はその規模も大きく、南は、長野、
あさ蚕や蚕
群馬の境をなす浅間山付近から、北は北海道の
たるをえはつこうださんはち蚕ん
たい
樽前山付近まで延び、一月森県の八甲田山や八幡
平など、東北の多くの火山はこれに属し、東北
つらぬ
の中央部を貫く火山帯です。
ちやうすだけ
これよりご案内します茶臼岳は、そのうちの
那須火山群の主峰を成す山で、標高一九一七メ
ートルあり、茶臼岳を中心に、三本槍ケ岳、朝
なんげつさんくろおやさん
pH岳、南月山、黒尾谷山がつらなり、この五つ
を那須五峰と呼びます。
ただい室ふんえん
茶臼岳は活火山で、只今でもさかんに噴煙を
上げており、山腹のロープウェイで頂上に行く
ことが出来ます。
昭和三十七年十月にロープウェイが完成した
つえ
のですが、その以前はわらじと杖をたよりに、
山頂まで二時間余りの登山でした。
ちやうすだけえんのおずぬ
この茶臼岳に初めて登った人は、役小角とい
われ、今から一二○○年も前のことです。
だいどうこうぽう
たかゆなんげつさんびしやもん
その後、一一一○年ほど経て、大同年間に弘法
たいし
大師が登られ、高湯山、南月山、毘沙門山の一二
だいどんげん注つ
山に大権現を祁って、この那須を信仰霊場とさ
れました。
た
だいをかっこうだいら
只今では、標高一四一一○メートルの郭公平か
らロープウェイが通じ、延長八○八メートルの
ロープウェイでわずか四分で山頂に行くことが
47
1
出来ます。
ちようぼうぱいだいあず室たい
山頂駅は、標高一七一○メートルの所にあり、
その眺望は、北に磐梯・吾妻の連峰を、西に帝
しやくやみぞつく
波山などをのぞみ、春の花と秋の紅葉の頃は、
釈山、日光連山、東に関東平野や八溝山地、筑
ばさんこうよう
段と美しうございます。
鵜那須国民休暇村
樵弁天温泉入口
いでゆ
右手、湯煙のたつ辺りが弁天温泉です。
にがとそ
苦戸川に沿う静かな山の出湯で、那須一一湯
むしよくとうめい
の一つに数えられ、無色透明な五五度のお湯が
苦戸川にあふれでて、天然の温泉プールを造り
上げています。泉質は弱塩類泉で、リューマチ、
胃腸病に効く温泉です。
がけ
一二方を切り立った崖に囲まれる弁天温泉には、
をつ
その名の通り弁天様が記られております。
てんぽう
江戸時代の天保年間、弁天様のお告げにより
48
●句
DbSV●
ほこら寮つ
わくんざいてん
発白妃されたため、お湯の湧き出す岩穴に弁財一天
もみじ
の洞が紀伊つれます。
にぎ
付近は紅葉の名所で、冬は那須岳スキー場が
近いため、多くのスキーヤー.で賑わう温泉です。
鵜国際那須岳スキー場
雛大丸温泉
かつこうさわおお戎る
しらと
この辺りの沢を郭公沢と一一言い、右奥には大丸
温泉があります。
標高一一一一○○メートルの高所にあり、白戸川
をせき止めた露天風呂に人気があり、別名を川
の湯とよばれます。
⋮この温泉は、今から二○○年ほど前に発見さ
ちやうすだけひがしさんぷく
き
れ、茶臼岳の東山腹に四○∼七六度のお湯が湧
き出しており、リューマチや婦人病に効き目が
あります。
なお、天皇家の那須御用邸のお湯は、こちら
から引湯されております。
49
I
茶臼岳の口Iブウェイ
ちやうすだけせ室
茶臼岳が目前に迫ってまいりました。
かっこうだいら
標高一四一一○メートルの郭公平から八○八メ
Jトルのロープウェイによって、四分で茶臼岳
の展望台二七一○メートル︶に到着いたしま
す。
このロープウェイは、昭和三十七年十月に総
工費一億三○○○万円をかけて完成し、四季を
通じて訪ずれる人々を楽しませてくれます。
みおろ
:どうぞ、眼下に広がる那須高原を見下しなが
ら、スリルをお楽しみ下さい。
鵜那須五岳
ごがくほう
茶臼岳を中心に、那須五岳︵五峰︶左1御紹介
致しましょう。
茶臼岳に向って右に並ぶのが朝日岳二九○
一.一一メートル︶で、三本槍ヶ岳︵一九一六・九メ
ートル︶は、茶臼岳と朝日岳の後になります。
50
弓鵜
q〆
なんげつさん
茶臼岳に向って左の手前に当る山が南月山
くろおやさん
︵一七七六メートル︶で、南月山の手前に並ぶ
のが黒尾谷山︵一五八一二メートル︶です。
さんぼんやり..なんげつさんくるお
茶臼岳、一二本槍ヶ岳、朝日岳、南月山、黒尾
や
さんがく
谷山の五つを那須五岳といいますが、このほか、
おにづらや童
南月山より左に寄った奥に白笹山︵一七一九メ
−トル︶があり、又、朝日岳の右には鬼面山
◇−◇−◇
︵一六一六メートル︶などがあります。
註
かつこうだいらおおきる
やわた
.:郭公平から那須湯本温泉への帰りは、大丸温
いでゆ
泉、弁天温泉、北温泉入口、八幡温泉など、奥
やみぞや注
那須に点在する出湯を抜けて下ります。
◇−◇−◇
鵜︾大丸温泉
、眼下に広がる那須野ヶ原や八溝の山なみを遠
くに、これより那須湯本温泉に下ってまいります。
−51−
I
おお在る
との大丸温泉は、標高一一二○○メートルの高
所にひらけ、白戸川をせき止めた露天風呂は、
なかなかの人気です。
かいとんくわふる
那須野ヶ原に開墾の鍬を振った、明治時代の
のぎしようぐん
下名将・乃木将軍も、この大丸温泉が大そう気に
あい蚕
菰られ、お仕事の合間にしばしばおいでになら
れました。乃木将軍は、
ともすればうれいなき人の多かるに
心して鳴け山ほととぎす
と歌を残されております。
・おおまる
ひがしさんぶくわ
一名を湯の川温泉とよばれる大丸温泉のお湯
い
は、茶臼岳の東山腹に当る白戸川のほとりに湧
き出で、湯温も四○度∼七六度の弱塩類泉で、
き
リューマチや婦人病に良く効きます。
なお、この大丸温泉のお湯は、天皇家の那須
御用邸を始め、各所に引湯されております。
樵弁天温泉︵四八・ヘージ参照︶
−52−
繋北湯入口
左の道は、旭温泉や北温泉に通じます。
よささそ
北温泉は、余笹川に沿い、一二方を山に囲まれ
た温泉で、その発見は古く、元禄九年といわれ、
泉質は単純泉で五○度∼五五度のお湯が余笹川
にあふれております。北温泉に通ずる道の途中
なすのよいちむねたか
には、弓の名手として名高い、那須与一宗隆に
ゆかりの地があります。
むれたか
幼き日の宗隆が、この地で弓のけいこをした
おさやかくしいわ
おおぎ歯と
と伝雲えられ、弓矢を納めていた矢隠岩とよぶ岩
が残っております。
参考
げんぺいやし童かつせん
たたか
では、遠く源平屋島の合戦をしのび、 扇の的
のくだりを御紹介致しましょう。
じゆえい
時は寿永四年︵一一八五︶源平屋島の戦いに、
くろうほうがんよしつれよきひきむか
ひ
九郎判官義経一二百余騎を率いて敵に向いけるが、
ひくれしょうぶけつ・
今は日暮て勝負を決すべきにあらずと引き退く
−53−
じんじようかざいっそう
1ところ、沖より尋常に飾りたる小舟一膿、みな
紅の扇の的を舟のせがいにはさみたち、渚に向
くれないおおぎまとなぎさ
うぐろと玄
ってぞこがせける。その時わずか一九歳、那須
たずななぎさ
与一の若武者振りは、烏黒の駒にうちまたがり、
しもつけのくにさと
弓取り直し手綱かいくり、渚に向ってぞ乗り入
れける。
い
やあやあ我こそは下野国那須の郷里の住人、
むれたか;3じ了はい
魯ら
那須与一宗隆にて候。まだ若輩の者にて候えど
だいおんkううづきとりこぐ
も、その扇の的の射てこそ見せん。
と、大音声。時に如月十八日酉の刻ばかりの
いそなみ
おりがら
事なるに、折柄北風はげしく磯打つ浪の高けれ
あがさがおおぎ●●
ぱ舟は、ゆり上りゆり下りて扇もつとに定まら
ず。与一しばらく眼を閉じて、
なむはちをんだいぼさつくつしんめい・
南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日
どんげんゆぜんだいみようじん
光の権現、宇都宮・湯泉の大明神、願わくぱ、
おおぎ在んなかいたた室いそん
あの扇の真中射させて給ぱせ給雲え。これを射損
ずるものならば、弓切り折り、自害して、人に
−54
ふたたびおもて
一一度面を向ふくか伊ロず。
ひとたびおぽ
今一度、本国へ帰さんし巳思し召さば、この矢、
と祈念して静かに一扇浄空見渡せば風吹き止みて
はづさせ給昌ノな。
たも
きれんや
射よとこそなりにけり。ここぞと与一かぶら矢
ぴいはな
ひび
をとりつがい、よっ引いて、ひょうと放つたれ
とひょう
ば小兵なれど弓は強く、かぶら矢は浦響く程長
おおぎ玄とク
鳴りしてあやまたず、扇の的を射ちきりたり。
へいけ
こうして那須与一は、見事に敵の平家が差出
おおぎい
した扇の的を射たのでした。
あかね
扇は茜色の空高く舞い上り、やがて、ひらひ
らと海に落ちて行ったのです。
その時の様子は、
ひとふた
あが
扇は空へぞ揚りける。春風に一もみ一一もみも
きぞ襲毛い
まれて、海へさっとぞ散ったりける。皆紅の扇
ふ禽乾今搭
の、夕日のかがやくに、4醐漉の上値鱗吋い、浮き
しずゆ
ぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷を叩いて
−55−
I
くがげんじえびらたた
感じたり、陸には、源氏龍を叩いてどよめきけ
さんよう
境をなす八溝山地は、標高一○二二メートルで、
︵福島県︶そして常陸︵茨城県︶の一二つの国の
ひたち
山なみが山溝山地です。下野︵栃木県︶と磐城
やみぞしもつけいわき
ある時は左に、叉、ある時は正面につらなる
︵那須湯本に下りながら︶
鵜山々の遠望
名所として知られます。
まつわる話から名づけられ、滝の付近は紅葉の
もみじ
駒止の滝の名は、黒羽藩主・大関公の愛馬に
くるばねおおぜきこう
れ落ちるところに駒止の滝があります。
こちらから北温泉に向う途中、余笹川の水が流
よささがわ
こちら左の道も旭温泉や北温泉に通じます。
樵駒止の滝、旭温泉
と、平家物語にも書かれています。
。
大して高くはありませんが、山容は変化に富み、
56
り
ひ
こうり主う
古くから多くの伝説を秘め、そr︶て、荒涼とし
はて
厚た那須野ヶ原の果に横たわるその姿は、全日の旅
やみぞさん
人の良き目印にもなったのでした。
八溝山の右寄りには、関東の名山筑波山があ
り、二つの峰を馬の耳のように立てて、朝夕に
山肌の色を変える、大変おしゃれな山でござい
・み
ます。標高は九○○メートルにも満たない山で
よ
すが、昔から詩に詠まれ、歌にうたわれた名山
で、なかでも、夕暮れ時の紫色にかわる山肌は
最も美しく、
雪は申さずまず紫の筑波かな
よ
︲:と、詠まれています。
猟目の下に広がるのは那須野ヶ原です。
§大昔は、この那須の山々も、そしてあの那須
野ヶ原も、深いふかい海の底でした。
しんせいだいたいこ
さめくじら
それは、新生代第一二紀時代という太古のこと
す
で、その頃海に棲んでいた貝類や、鮫、鯨の歯
−57−
や骨が発見されています。
海の底から陸地となり、一面の緑が広がる那
とうりよう
須野ヶ原は、東西四○キロメートル、南北八○
ふ
キロメートルあり、かつては荒涼とした原野が
されき
続き、那須火山群から噴き出した火山岩や厚い
砂喋におおわれ、雨水は地下にもぐって、川は
目もはるか見渡す果ても夏草の
深い谷を造っていたのです。
可・句
ふもう
那須野ヶ原は空も一つに
まきがり
と歌にも見られ、不毛の地として知られた那
しゆう
須野ケ原でした。鎌倉時代には、しばしば巻狩
常16をいつかかんはつ
が行われ、鎌倉将軍・源頼朝の号令一下、関八
州︵関東地方︶の武将が那須野ヶ原に集まって
う
狩をたのしみました。さすがに広い那須野ケ原
も数万の武将に埋めつくされたと、しるされて
いま す 。
誉さかり
那須野に優る狩くらなし、と頼朝に気に入ら
58
かいとん
れた那須野ケ原津D、江戸時代ごろから開墾の話
が進められ、いくどかの失敗をくり返しながら、
ただ今のような緑の土地に生れかわりました。
その蔭には、那須疎水開さくに命をかけた多く
の人々がおり、日本の三大疎水の一つとして、
今も語りつがれております。
州参考
あさかそすい
一二大疎水とは、安積疎水、琵琶湖疎水、那須
疎水である。
鵜八幡温泉
やわた
も.八幡温泉です。春はれんげ、山つつじ、どう
だいぐんらく
だんつつじの大群落が見事で、五月中旬か拝っ六
くれないいつレエく
ロ刀上旬にかけて、この付近一帯は紅一色に染ま
り、お湯の良さとともに知られる花の名所です。
温泉は、標高一○五○メートルの地にあり、
一望千里の見晴らしの良さでも有名です。
ちやうす
お湯は単純泉質で六一一度の高温ですが、茶臼
59
やわた
おおまる
岳の東山腹にある、大丸温泉から引湯!しており
主す。
なお、この八幡温泉から北温泉入口までは、
那須自然研究路が整備され、およそ二キロメー
トルの散策道は、植物観察を楽しみながら、四
○分ほどのコースです。
鵜おだん茶屋
rポルヶーノ・ハイウェイを一周して、再び先
ほどのおだん茶屋分岐点にもどってまいりまし帥
た。
鵜賓の河原
せつしようせき
めくらへびいしきよう
九尾の狐の伝説で知られる、殺生石の近くを
帆再び通ります。
さい
この奏の河原には、殺生石のほか盲蛇石や教
でんいし
伝石とよばれる石もあります。
めくらへびいし
#賛の河原に残る盲蛇石の伝説を御紹介致しま
礁盲蛇石
’
しよう。
ござえもんゆもり
昔、那須温泉に五左衛門1という年老いた湯守
ごしよゆ
がおりました。毎年、毎年春から冬の初めまで、
ぎようにん
行人の湯や鹿の湯、御所の湯、中の湯、河原の
湯と、五つのお湯を守って暮しておりました。
さい
ある年のこと、冬支度にかかっていた五左衛
ござえもん
門が、賛の河原で一休みしておりますと、一一メ
1トルもあるような蛇が、五左衛門の足もとに
来て、とぐろを巻き、じっと動きませんでした。創
冬の近い季節では、どの蛇も冬を越すために穴
に入ってしまうのにと、五左衛門は不思議に思
って蛇をよく見ると、蛇の眼は白く濁って、ほ
とんど見えないようでした。この蛇はきっと、
目をなおすために、温泉に通っていたのでしよ
声フO
それから数日後のこと、五左衛門は再びこの
蛇に合いましたが、冬近い寒さのため、蛇はす
i
かわい
っかぃソ弱っていました。可哀そうに思った五左
かれあ
衛門は、枯ススキを編んで巣を造、リ、蛇をその
中に入れてやりました。
次の年の五月、山にも春が来て、五つの湯を
さい
開くために五左衛門は賓の河原に蛇を見に行っ
たのですが、目の見えない蛇の姿は、どこにも
見えませんでした。
しかし、蛇のいた河原一面に美しい湯の花の
けつしよう
結晶が出来ていたのです。
さい
それ以来、賓の河原は湯の花畑となり、目の
めくらへびいし・
見毒えない蛇を見つけた大きな石を、盲蛇石しぞよ
びました。
里人は、蛇が五左衛門の温い心に恩返しをし
たのだろうと、長く語り伝えています。
繋教伝石
さい
心温まる五左衛門し﹂蛇のお話の他に、この妻
きょうでんいし
の河原に残る教伝石のお話を御紹介致しま1しよ
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