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オペラの風景(64)「ゲーテのファウストからの情景」(2)霊界の音楽 本文

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オペラの風景(64)「ゲーテのファウストからの情景」(2)霊界の音楽 本文
オペラの風景(64)
「ゲーテのファウストからの情景」(2)霊界の音楽
本文
ムンク《太陽》部分
シューマンのファウスト・二部に入ったとき、グレーティヘンは死んでし
まったけれど、ファウストは生きていて、悪魔に「時間よとまれ」とまだ
言っていませんから、自分の願っている時代、願っている場所に行く権利
をもっています。そこでギリシャ神話の「美女へレン」と恋に落ちるたり、
神聖ローマ帝国の財政に関与できました。ところが第二部のフィナーレで
「時間よとまれ、今は限りなく美しい」
(シューマン)といって死むとき、
ファウストは悪魔メフィストとの契約に負けてしまいます。契約では、死
後は悪魔の指示通り動かなくてはなりません。
ゲーテは更に第二部を続けますが、シューマンはここで終え、第三部に入
ります。
前回はファウストの死で終わりました。今回は第三部、霊界の話とそれに
つけた音楽です。
「時計の針が止まった」あと、ゲーテには「埋葬」の章があります。(シ
ューマンにはありません。霊界に行くには、死体から霊を天使がとります。
今は、霊の所有権は悪魔にあります。
ゲーテが書いた「埋葬」は凡そ次の通りです。
悪魔メフィストと死霊たちが墓穴に落ちたファウストを見守って、身体か
ら霊が抜け出るのを待っている。「当節悪魔の手から霊魂を横取りする
色々な手段があって困りものだ」と悪魔メフィストはぼやく。死霊たちに
「とられないように注意せよ、特に下半身を。
」と指示する。そこに天使
たちがとんでくる。そして歌う。
「神聖な愛の炎で清らかにつつまれた人
は、人生の善き人人とともに、幸福に生きるでしょう。楽しくつどい寄り、
私達は天に昇って、賛歌を歌いましょう。清められた空気を、魂よ、胸深
く吸いましょう。
」
〔天使たち、ファウストの不死の霊魂を捧げて、昇天す
る。
〕 メフィストはぼやく。
「はてな、どうしたのだ。どこへ行ってしま
ったのだ。子供たちや腕白どもが、出し抜けにやってきて、おれの獲物を
さらって天に昇っていってしまったな。
・・・・・・・・・・・・・・」
三途の川を渡るという表現は仏教だけでなく、ギリシャ神話の《オルフェ》
に見られます。ゲーテには三途の川はありません。天使は霊を先ず山峡に
連れてきます。
ここからはシューマンの作品の台詞(殆んどゲーテの単語を使う)です。
聖なる隠者たちは山の上下に分かれて身をひそめていて、その地形は(1)
合唱で示す。
「森の梢が揺らぎ、岩が身をよせ、木の根が絡み、幹と幹が
高く空をさし、谷水が飛沫をあげ、足音もなく、周りをやさしく獅子があ
ゆみ、きよめられた神聖な愛の住処を、山や谷をまもる。」
(大山定一訳)
次はただよう霊のありさまが、示される。
(2)に進み「法悦の教父」
(テ
ナー)が、空中を上下しながら、やや自虐的に「無にひとしいものよ、す
べて消え去れ、
」と叫ぶ。
(3)では「瞑想の教父」
(バス)がより低いと
ころで、長いアリアを歌う。自然の出来事を讃えたあと、「これらは愛の
使者のなせる技であり、われわれのまわりでたえず生み出されるものを啓
示する!私の内面もその恩恵を受けたい。
・・・・・」。中ほどの場所では
「天使に似た教父」
(バリトン)が周囲に目をむけ幼い霊たちが集うのに
気づき、彼ら「昇天した少年達」に声をかける。少年らが「自分がどうし
ムンク「波」
てここにいるの」問うと、教父は「少年たちよ、おまえたちは真夜中に生
まれ、精神と感覚を中途半端にされたため、お前たちは親子とはなれず、
天使のもとに連れてこられたのだ」と答えます。(これは日本でいう水子
ではないか)水子の少年たちと教父と対話は続き「だが、下界や世間をみ
るには、その為の器官がいるだろう。おまえたちは私の目の中に入って、
私の目を使うがいい。
」といえば、目の中にはいった少年たち「ものが見
えるというのはすごいことですね。でもここは余りにも暗い、外に出して
ください」と答える。
「神様に身をまかせましょう。
」と歌う。
これら3景は霊の住処での出来ごとを描写しています。内面の霊を求めた
シューマンがここに書いたのは肉体がおちて、剥き出しになった「霊」で
す。音楽としての扱いは(1)の景色の描写は、静けさが断続的なゆっく
りした弦が合唱を支え、
(2)は伴奏がセロにかわり、その昇降が魅力的
にテナーを飾り、法悦の感じがよくでている。
(3)は金管がバリトンを
支えます。三つとも音楽の作りは似ています。
「少年たちと天使に似た教
父」との交唱は木管の合奏が伴奏を主として担当し、弦が一部加わる。木
管の重視は晩年のシューマンが良く使い、ここでも霊の表現にあっている。
7部からなるシューマンの第三部は上記(1)~(3)は山峡に集う霊の
行為を紹介する序奏といえましょう。
第三部(4)は天使の合唱に始まり、ファウストの霊が登場する山場です。
先ず未熟な天使(合唱)が現れ、地上での出来事を歌う。次は成熟した天
使(合唱)たちが地上からここへのファウストを運搬するときの苦労を。
更に未熟な天使たちは情景を描写する。昇天した少年(水子)が再びあら
われ、ファウストの霊を讃える。最後にソロの4重唱と合唱が霊界に気高
い方の到着と歓迎をつげます。
その中で目立つのは「成熟した天使」たちの歌です。
「。
・・・・強い精神
の力が四大をがっしりと掴んでいると、天使といえどもこの一つとなった
霊魂と肉体の合体を分かつことができません。永遠の愛だけがこれを分か
つことができるのです」。ここで「四大」と呼んでいるのは「火、水、土、
空気」で、地球を支配している根源的力であるとアジアでは理解されてい
ます。また「永遠の愛」は前回取り上げたファウストが「救済」された原
因となる「愛」と同じでしょう。
(4)の最後「ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノールⅡ、バスⅡ、合唱」
の歌もファウストが「救済」された理由を示していてます。
「霊界の気高
い方が悪から救われました。たえず努力して倦まぬものを、私たちは救う
ことができます。
」精一杯生きたファウストへの高い評価です。
音楽は(4)に入って変化にとみ、音程と和音だけだった(3)までと違
い、リズムが目立ち、霊界へのファウストの参入が喜びで迎えられた様子
がみなぎっています
ムンク・オスロフィヨルドを照らす月(以上ムンクの 3 景は天国と地獄を
往復した彼の関連作)
第三部(5)はファウストが「マリア崇拝の博士」と名を変え、柔らかい
バスで、一番高い洞窟から天国の女王を讃えて歌います。
「ここは展望がひらけて、精神が高められます。むこうを女人が通りすぎ
ます。もっと上のほうへ飛んでゆくのでしょう。まんなかの、星の冠をお
つけになった気高いお方が、天国の女王です。わたしにはあの輝きでわか
ります。ああ、世界を支配する最高の女王。・・・・・・・・
もっとも美しい意味の清らかな処女、崇めまつる御母、選ばれた天国の女
王、あなたは神々とおなじ位をお持ちになっています。
・・・・・・」
音楽が実に愛に満ちた優しいものです。輝かしさを増すのではなく、謙譲
さにみちた控えめなアリアです。
第三部(6)は「マリア崇拝の博士」(ファウスト)が女性の救済を願っ
て歌います。
「触れがたいあなたに
誘惑にかかりやすい女たちが
すが
ろうとすることは 禁じられていません」。
「彼女らは自分の弱さにまけた
救いがたい人たちです。でも欲情の鎖を自力で 断ち切れる人がいるでし
ょうか・・・・・・」
(マリア崇拝の博士とバスⅢ)
。次々に贖罪の女性達
が救済を訴えます。罪深い女性(ルカ伝、7章)、サマリアの女性〔ヨハ
ネ伝、4章〕エジプトのマリア(聖者行状記)
、贖罪の女の一人(グレー
ティヘン)、昇天した天使たち。栄光の聖母マリアが答えます。
「さあ、も
っとこの高みへお昇りなさい。この方があなたに気づけばついてきます」
マリア崇拝の博士が最後に歌います。
「悔い改める女子よ。
・・・・・・心映え麗しき人人の寄りて仕えまつる
聖童貞女、聖母、天国の女王、女神よ、長く御恵みを垂れさせたまえ」
シューマンがここにつけた音楽は第3部の前半よりダイナミックで、オペ
ラに近いかもしれません。和音は前半ほど単純ではありませんが、力強く
はあっても複雑ではなく、含まれる内面的意味は単純です。
第三部(7)神秘の合唱が続いて、
「滅びゆくものは
すべてこれ比喩。
及ばざるものが ここに成し遂げられ、言いがたきものが事実となって成
就した。永遠の女性は、高い空へ われわれを導く。」
(大山訳)
別の訳は「すべてうつろうものは、たとえにすぎない。/ いたらざるもの
が、ここでは事象となり、名状すべからざることが、ここではなされた。
/永遠に女性的なるものが、われわれを天へと曳航する」
。
ゲーテの霊の扱いは思ったほど複雑ではありませんでした。死体から霊が
抜けていくのは、視覚的にわかり、我々が子供の時から聞かされた、「身
体は体と霊からなり、体は死して消滅するが、霊は不滅である」というの
に似ています。霊が山峡にあるというのも同じです。私はこう聞かされて
いました。
「人が死ぬと霊は山の向こうにいってしまい、順番待ちに入る。
生き物が死ぬと、山から順番に送りだされてくる。押し出され、地上の体
にやどる。悪い行いをした人の霊は次回は家畜に入り霊となることにな
る。
」天国を扱う後半はともかく、霊が山峡へ先ずいくというのはゲーテ
の考えにもあります。そこから天国へ、聖母のもとへ行く霊もある、とい
うことですが、日本にも死んだら天国へ行く、と言う考え方はありますが、
馴染まない、と私は思っています。
「お前は今も霊を信ずるか」と問われれば、似たものは信じても、それが
不滅とは思っていません。体のない霊が考えられなくなっているのは世界
的傾向でしょう。
ムンクの孤独
「ファウストからの情景」をシューマンが作曲し始めたのは 1844 年ライ
プチッヒで、
「3 部の独唱、合唱、管弦楽のための終りの情景」でした。暫
く休んで、47 年(終結の永遠に女性的なもの)48 年〔高貴なる分岐は救
われたり〕49 年(
〔庭の場〕など)50 年(灰色の女)53 年(序曲)とな
っていて、丸 10 年の歳月費やして完成。私的初演は 49 年ゲーテ生誕 100
年記念日 8 月 29 日、全曲初演は 1862 年、シューマンの死後です。これに
は作品番号はなく出版は 1858 年、シューマンの死は 1856 年〔46 歳〕、自
殺未遂 1854 年です。
この作品には作曲家が晩年とるスタイルに共通の傾向がみられると、私は
思っています。音が薄く、リズムは少なく、音程差がない、それでいて涙
をそそる響きがあります。
シューマンの場合 10 年もかかっていますから、
晩年というのは可笑しいけれど、他の曲と比べこの曲に晩年を感じます。
他の作曲家での作品ではモーツアルトの《アヴェ・ヴェルム・コルムス》
ベートヴェンの《作品 131 の弦楽四重奏曲第一楽章》オペラならヴェルデ
イの《アイーダ第四幕》でしょうか
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