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福音のすすめ ~四旬節第1主日~

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福音のすすめ ~四旬節第1主日~
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福音のすすめ
~四旬節第1主日~
(今日の聖書朗読箇所)
第一朗読
申命記(26章4-10節)
第二朗読
ローマの信徒への手紙(10章8-13節)
福音朗読
ルカによる福音書(4章1-13節)
先週の水曜日は、灰の水曜日でした。灰の水曜日から四旬節がはじまり、復活祭に向け
ての準備がはじまります。四旬節に行う復活祭の準備というのは、何をすれば良いのでし
ょうか?真っ先に聞こえてきそうなのが、祈り、償い、犠牲といった言葉でしょう。たし
かに、これらのことは大切ですし、良い準備にはなるでしょう。しかし、この時に気をつ
けなければならないことがあります。灰の水曜日の福音書で読まれましたが、これ見よが
しにやるのでは準備にはなりませんし、心の中がどうなのかが大きな問題となります。い
ろんな言葉を並べ立てても、結局はこの一言に収斂(しゅうれん)されていきます。それ
は 、「 愛 」 で す 。 愛 は 、 神 そ の も の で あ り 、 わ た し た ち に 課 せ ら れ た 大 き な 使 命 で あ り 、
愛を実践していくことはわたしたちの大きな義務です。
とはいっても、わたしたち人間は、なかなか愛を実践することが難しい存在です。それ
は、わたしたちがどうしても自分のこと、自分中心に物事を考えがちだからです。愛を実
践 し て い く た め に は 、他 者 中 心 に 物 事 を 考 え 、相 手 の 立 場 だ っ た ら ど う な の か を 考 え た り 、
相手に共感していく姿勢が必要となります。そして、究極的には、自分の命を投げ出して
も 他 者 の た め に 生 か し て い く こ と が 求 め ら れ て き ま す 。た と え ば 、駅 で 線 路 に 人 が 落 ち て 、
自分の命を省みないで、その人を助けようとすることです。実際に、そのようなことがメ
デ ィ ア で 伝 え ら れ た こ と が 、過 去 に は あ り ま す 。そ れ は 、あ る 意 味 極 端 か も し れ ま せ ん が 、
この難しい神から課せられた、愛の実践を少しでも行っていこうとすること、それが四旬
節に行うことです。そうすれば、わたしたちの指向は、この世や人間的な方ではなく、神
の 方 に 向 く こ と に な り ま す 。 こ れ が 、「 回 心 」 と 呼 ば れ て い る こ と で す 。 日 々 回 心 す る よ
うに、心がけていき、良い復活祭を迎えたいものです。
さて、今日は、四旬節第一主日ですので、別の側面からこの四旬節について考えていき
たいと思います。四旬節第一主日には、典礼的には、復活徹夜祭に洗礼を受ける人の洗礼
志願式を行うようになっています。聖書と典礼の下の注にもあるように、公式祈願文であ
る、集会祈願、奉納祈願、拝領祈願は、洗礼志願者用のものが用いられます。ただし、洗
礼志願者がいない場合、通常の祈願文が用いられます。よく、主の降誕や聖母の被昇天に
洗礼を授けたりする光景を見かけますが、典礼的にいえば、復活徹夜祭で、洗礼を授ける
のがもっとも望ましいことです。なぜかということについては、復活徹夜祭の時に説明で
きればと思います。
洗礼志願者は、これまで長い時間をかけて、洗礼を受けるための準備をしてきました。
その最後の決意表明が、洗礼志願式で、集まった信徒の前で、公に洗礼を受けることを宣
言します。洗礼の準備はどのようなことをするのでしょうか?成人洗礼の方は、自分が洗
礼を受けた時のことを思い出せば良いかと思います。また、幼児洗礼の方は洗礼の準備と
いうのはしていませんし、わたしもそうですが、洗礼を受けたこと自体を覚えていないと
思います。洗礼の準備に近いのは、初聖体の準備の時です。その時にどのようなことを学
んだのかを思い出してもらえればと思います。
秘跡のこと、神のこと等々、いろいろなことを勉強してきたかと思います。しかし、そ
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の勉強の根底にあるものは、一つしかありません。それは、わたしたちが洗礼を受け、イ
エスがこの世で宣べ伝え、実践してきた福音をどのようにこの世に宣べ伝えていけば良い
のかを勉強することです。勉強するといっても、理論ではなく、心に福音を落とし、自ら
の言葉と行いで、自然に福音をあかししていくことができるための勉強です。そのために
は、自分自身を見つめ直すところからはじめていきます。自分を知らなければ、神のこと
を知ることできません。
ま ず は 神 の 言 葉 が 書 か れ て い る 聖 書 に 基 づ い て 、自 分 自 身 を 見 つ め 直 す 時 間 を も ち ま す 。
その時に、聖書に書かれていることを信じられなくても、また、わからなくても大丈夫で
す 。な ぜ な ら 、そ れ が 今 の 自 分 の 姿 だ か ら で す 。そ の 自 分 の 姿 を 知 り 、そ こ か ら 少 し で も 、
神の方へと歩んでいこうとすることが大切です。聖書には、神からわたしたちへの愛が数
多く書かれています。神からわたしたちが愛されていることに気づかされ、それが、わた
したちが自分だけで生きているのではなく、周りの人や被造物(当然神にもですが)によ
っ て 生 か さ れ て い る こ と に 気 づ い て い き ま す 。そ う す る と 、周 り へ の 感 謝 の 気 持 ち が わ き 、
おかげさまという言葉が出てくるようになるでしょう。わたしたちは、周りのことを見て
わかりますが、自分一人だけでは生きていくことはできない存在です。
それらのことが前提にあって、はじめて神とは何かという三位一体論や典礼、秘跡につ
いて学ぶことが意味あるものとなります。三位一体とは、神がどのような存在なのかを教
えるものですし、典礼は神を崇め、賛美するための儀式です。秘跡とは、神に近づくため
の一つの方法、手段です。すべては、神へとつながっていくものです。ただ、教えてもら
ったことを頭で覚えたとしても、それは知性であって、信仰ではありません。頭で知った
ことは、もっと自分に納得できるような理論で攻められた場合、そちらの方に心が移って
しまいます。でも、心から神のことを信じ、信頼するという信仰があれば、たとえ、何も
理解できていないとしても、その人は神だけを見つめて歩んでいくでしょう。
四旬節第一主日に洗礼志願式を行うのは、わたしたちの信仰をリセットし、自分の信仰
を見つめ直す時だからです。ですから、洗礼志願式というのは、洗礼を希望する人だけで
は な く て 、す で に 洗 礼 を 受 け た 人 に も 有 意 義 な の で す 。四 旬 節 の 四 十 日 間 、わ た し た ち は 、
信仰の原点に立ち戻ることを心がけていきます。信仰の原点とは、今日、はじめにお話し
し ま し た 、「 愛 」 へ と 立 ち 返 っ て い く こ と で す 。 そ れ は 、 共 同 祈 願 の 結 び の 祈 り が 、 洗 礼
志願者のいるいないにかかわらず、解放を求める祈りを唱えるのは、まさにわたしたちが
信仰の原点に立ち戻る必要があるので、祈っています。信仰の原点に立ち戻るためには、
わたしたちは、多くのものから解放されていかなければなりません。
わたしたちがこの世で、普通の生活をしていくにあたっては、意識するか無意識かは別
にして多くものに縛られ、囚われています。そのような縛られ、囚われているものが多け
れば多いほど、自分を見失い、自分勝手に、また自分中心に生きていこうとします。その
方が、一見楽に見えるからです。その楽なことも、一瞬にしかすぎません。すぐに、苦し
いことがやってきます。この苦しいことから逃れるためには、自分を縛ったり、囚われて
いるものから解放されていかなければなりません。すべてのものから解放された時、わた
したちは、神の方へ向き直ることができます。不完全かもしれませんが、少しでも解放さ
れて、神の愛をあかししていくこと、つまり、福音をあかししていくことに努めていきた
いものです。その歩みこそが回心であり、その歩みの上に立ってこそ、祈り、犠牲、償い
といったことが意味をもつようになっていくのです。この四旬節を通して、わたしたち一
人ひとりの信仰を振り返る時を過ごしていきたいものです。
わたしたちが、自分の信仰を振り返り、神へと立ち返り、この世の中に福音をあかしし
ていくことができますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。
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