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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title
Author(s)
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Issue Date
URL
Dickens's Pantomimic Vision in His Early Comic Novels(
Abstract_要旨 )
Kai, Kiyotaka
Kyoto University (京都大学)
2003-01-23
https://doi.org/10.14989/doctor.k9850
Right
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
author
Kyoto University
【1
5】
名
串
壷
諾
学 位 の 種 類
博
士
(
文
学 位 記 番 号
文
学位授与の 日付
平 成 1
5 年 1 月 23 日
学位授与 の要件
学 位 規 則 第 4 条 第 1項 該 当
研 究 科 ・専 攻
文 学 研 究 科 文 献 文 化 学 専 攻
学位論文題 目
Di
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氏
博
第
筈
学)
236 号
(デ ィケ ンズ前期 の喜劇的小説 におけるパ ン トマイム的ヴィジ ョン)
(
主 査)
論文調査 委員
助教授 佐 々 木 徹
論
文
内
教 授 若 島
容
の
要
正
助教授 贋 田 篤 彦
旨
デ ィケ ンズの小説 は,一時期,主 に通俗 的である とい う理由で学術 的な世界 か ら黙殺 されたが,二十世紀半 ば頃か ら真剣
な考察 に値す る文学作 品 として再評価 されることになった。それ以来,彼 は最 も研 究 される英国の小説家 のひとりとな り,
今 日に至 る。 批評上 の変化 を引 き起 こ した要因 として,デ ィケ ンズ とい う人物 の暗い面-の注 目,彼 の作 品 を統合す るシン
ボルの使用 の ような技巧的な側面の探究, ヴィク トリア朝社会全体 を包括す る彼 の社会批判-の関心 な どが挙 げられるだろ
う。 この ような事情 を考 える と,近年 のデ ィケ ンズ批評では,彼の前期 の小説 よ りも後期 のいわゆる 「
暗い」小説群 のほう
が批評家 たちの研究対象 として選 ばれる傾 向 にあることは驚 くにあた らない。 とい うの も,作 品全体 の統一性,技巧,心理
的洞察,社会批判 な ど,二十世紀批評がデ ィケ ンズの作 品 について,そ して小説全般 について評価す る要素のほとん どが,
彼 の後期 の小説 によ り強 く見 られるか らである。 そ して,彼 の前期 の作 品 に色濃 く見 られる喜劇的生命力 は,幾つかの重要
な例外 はあるが,やは り大衆的である として,エ リー ト文化 に属す る学術 的な批評か ら軽視 されるような状況が今 も相変わ
らず続いていることは否めない。
大衆文化が学術 的 に も真剣 に研究 されている現在,デ ィケ ンズ前期 の小説 も大衆文化 との関連か ら, もっ と評価 されるべ
きだ と思 われる。 当時の大衆娯楽 とデ ィケ ンズ小説 との関係 について考 える と,虚構 の世界 を作 り上 げる とい う意味 におい
て,大衆演劇 と小説 とが互いに近い存在 であることは間違いない。実際デ ィケ ンズは,観客,作者,そ して役者 として当時
の大衆演劇 と深 く関わってお り, この密接 な結 びつ きは彼 の小説 に様 々な形で反映 されていると考 えるのが当然であろう。
十九世紀英国の演劇ではメロ ドラマが支配的であった といわれるが,実際の ところ,デ ィケ ンズが子供 の頃か ら大衆演劇 に
慣 れ親 しんでいた十九世紀初頭 の摂政時代 には,様 々な演劇 のジャンルが乱立 していた。そのため,メロ ドラマがディケ ン
ズ にとって最 も重要であった とは断言で きない。む しろ,その ようなジャンル間の違いを越 えて,ディケ ンズは当時の大衆
演劇 に惹かれていた と考 えるべ きではないだろ うか。 この論文の目的は,特定のジャンルのデ ィケ ンズ-の影響 について考
察す るのではな く,当時の大衆演劇 とデ ィケ ンズが共有す るヴィジ ョンを探 ることである。
デ ィケ ンズ前期 の作 品群 に特有 のヴィジ ョンとの関連 で,当時の大衆演劇一般 の芸術 を考察す るに当たって無視で きない
のは,ハ - レクイネ- ドの伝統 である。 コメデ ィア ・デラルテか ら派生 したハ - レクイネ- ドは,十八世紀,そ して十九世
紀初頭 の英国パ ン トマイム劇の不可欠 な部分 を成 してお り,そ こではハ ー レクイン, コロンパ イン,パ ンタルーン, クラウ
ンな どのお決 ま りの人物 たちが ドタバ タ喜劇 を演 じるものである。当時のパ ン トマイムに見 られる最大の特徴 は,その著 し
い外面的変容であろう。 パ ン トマイム劇 においては,魔法の力 によって,舞台背景,人物,物質が文字 どお り姿 を変 える。
この無節操 な変容 のおかげで,パ ン トマイムは多種多様 な要素の混清 となる。 場面全体 の変容 を取 ってみる と,全 く別の場
面- の急激 な変換 は,異 なったジャンル- の移行 をもた らし, ジャンル間の異質性 を強調す る。 この ような異種 のジャンル
の混合 とい う特徴 は, メロ ドラマ を含 んだ当時の大衆演劇全般 に見 られる ものであ り,その意味でパ ン トマイムは当時の大
衆演劇 を代表す る ものだ といえるだろ う。
- 58 -
異質 な要素の混清 は,様 々な レベルでデ ィケ ンズの小説 に顕著 に見 られる。 デ ィケ ンズ 自身,硯実生活 をパ ン トマ イム劇
に誓 えてお り,彼 が しば しば 自分 の小説が硯実生活 を映 してい る と主張 してい ることを考 え合 わせ る と,デ ィケ ンズの創 出
す る虚構世界 は,彼 がパ ン トマ イム的なヴィジ ョンを通 して見 た現実の表象 だ と考 えることがで きよう。 そ して,雑多 な要
。『ドンビー ・ア ン ド ・サ ン』以 降の小 説 には全
素 の混清 とい う特徴 は,彼 の前期 の作 品 に よ り色濃 く観察 され るのである
体 的 な一貫性,統一性 を目指す意識が強 く感 じられ るの に対 して,前期 の作 品,特 に本論 で取 り扱 う喜劇 的小 説, 『ピクウ
,
,
,
イック ・ペーパ ーズ』 『
ニ コラス ・ニ クル ビー』 『
骨董屋』 『
マーテ ィン ・チ ャズルウイッ ト』 の四作 品 においては,全体
よ りも細部が強調 され,脱線,不調和,非連続,多様性 とい った特徴 が テクス トを覆 っている。本論 では この ような特徴 を,
デ ィケ ンズが当時の大衆演劇 と共有 していたパ ン トマ イム的 ヴィジ ョンの顕在化 である と捉 え,各章 でそれぞれの作 品 を論
じてい る。
第 1章では, 『ピクウ イック ・ペ ーパ ーズ』の断片 的 な細部 の強調 と脱線 について考察す る。 この作 品で は様 々な面 にお
いて,細部が統合 される ことな く増殖 してい く。例 えば,それぞれの描写 において も雑多 な物質や人物が調和 す ることな く
並置 され, グロテス クな効果 を生み出 している。
もともと 『ピクウイック』はジ ャーナ リズム と小説 の混成物 の ような ものである と見 なす こ とも可能であ り,本来的 に雑
多 な性格 をもってい る。そ して,スケ ッチ風 の文章が並べ られてい るかの ように提示 され る様 々な事件 は,互 い にあ ま り関
連性 を もたない。 また,作 中に数 々の別 の物語が挿入 される ことによって,異質 な世界 が メイ ンス トー リー に侵入す るこ と
にな り,作 品の分裂, あるいは多様性が さらに進 む。形式的 に分離 された挿話以外 に も,多 くの作 中人物 たちが小 さな物語
を語 る。 そのため,作 中で語 られる別 の物語 の数 は膨大 な もの となってい る。 この ような脱線 によ り細部が増殖 してい くこ
とになる。 この章 では,物語 を語 ろう とす る欲求 に代表 され る ように,作 品全体 が逸脱へ の衝動 に支配 されてお り,作者 も
作 中人物 もその衝動 を共有 してい る結果 として,雑多 で豊穣 な細部 の寄せ集 め とい うテクス トが生成 されてい るのだ と論 じ
る。
『
ニ コラス ・ニ クル ビー』論 となってい る第 2章 も,小 説が雑多 な世界 か ら成 り立 ってい る とい う見解 の もとに論 を展 開
す る。 この章で はサ ブプロ ッ トのひ とつである旅役者一座 のエ ピソー ドに注 目 し,彼 らの世界 と主人公 たちが 中心 となるメ
イ ンプロッ トの世界 との関係 について考察す る。 特 に,役者 たちの世界,主人公 たちの世界 の中で,それぞれ異 なった次元
で顕著 に表 われてい るメロ ドラマ的 な様相 に焦点 を当て,二つの世界 が不調和 ・不均一 に絡み合 ってい るこ とを示す。
主人公 たちの世界 は様 々な面 でメロ ドラマ的様式 に支配 されてい るが,旅役者一座 のエ ピソー ドは,役者 たちのメロ ドラ
マ的な 自己表現 をコ ミカル に描 き出す ことによって,パ ロデ ィー として機能 し,小説全体 のメロ ドラマ的,道徳 的枠組 み を
間接 的 に,そ して直接 的 に脅 か してい る。 逆 に,主人公 たちの世界観 と概 ね合致す る小説 の支配的 な秩序 は, 自らとは相容
れない役者 たちのメロ ドラマ的 自己表現 を攻撃 し,周緑化す る。 この章 では さらに, メロ ドラマ的様式 をめ ぐって, メイ ン
プロ ッ トとサ ブプロ ッ トのそれぞれ全 く異 なった世界観が,作 中で互い に衝突 して否定 し合 い, かつ強化 し合 うとい う非常
に複雑 な関係 を里 してい ることを明 らか にす る。
この ような不調和 な世界 の混在 は,デ ィケ ンズ前期 の喜劇 的小説全般 に目立 って観察 され る特徴 であ り, これ らの作 品 は
異類混緒 によって,固定化 した価値基準 を不安定 に し,開放 的雰囲気 を作 り上 げる。 こうしたカーニ ヴ ァル的精神 は,大衆
演劇 を通 じてデ ィケ ンズ に伝 わった部分 が大 きい とい えるだろ う。そ して, この精神 は, グロテス ク芸術 の伝統 としてデ ィ
ケ ンズが受 け継 いだ ものであ り,彼 の作 品 において独 自の展 開 を示 してい るのだ。両面価値 的 な効果 を もた らす この美 的概
念 は,特 に不調和 な要素 の並置 として考 え られ, これは十九世紀 の大衆演劇 の特徴 であるばか りでな く,デ ィケ ンズの芸術
の中心 に位置 してお り,彼 の作 品 には不気味 ともい えるイメージが溢れか えってい る。
デ ィケ ンズ小説 の中で も,本論第 3章で論 じてい る 『
骨董屋 』は最 もグロテス クな作 品だ といわれ る。 その最大 の理 由は,
無垢で美 しい少女が異様 な姿 の人や物 に囲 まれるイメージが, この小説 の基調 とされてい る点 であろ う。 この章で は 『
骨董
屋』 の中で表現 されてい るグロテス ク, さらにはそれ と関連 した ゴシ ック とい う概念 について考察 してい る。 本論 で扱 って
い る他 の作 品 と同様 , この小 説 も分離 した複数の世界の三人 をそれぞれ中心 とす る三つの世界な効果 をもってい る
。
大 き く分 ける と, ネル, クウイルプ, デ ィック ・ス ウイヴェラ-
か ら成 り,その異質 な世界 が テクス ト中で並べ られてい ること自体 グロテス ク
そ して,それぞれの世界 で も異様 なイメージが重要 な役割 を演 じてお り,それぞれ に独特 の異 なった
- 59 -
世界観 によって表現 され る こ とに よって, そ もそ も本 質的 に両面価値 的 な この美学概念 は,単 に純真 な ヒロイ ンとの対比 を
強調す るだけで はな く,彼 女 を巻 き込 んだ り,悪鬼 的 な様相 を帯 びた り,喜劇 的,創造 的 な可能性 を示唆 した りす る とい う
重層性 を帯 びる。
第一章,第二章 で も触 れてい る こ とであるが,パ ン トマ イム にお ける物 質的 な変容 を思 わせ るヴィジ ョンは, デ ィケ ンズ
小 説全体 の異質 なジ ャンルの混在 だけで はな く,彼 の文体 に も反映 されてい る 彼 の場面 の描 写 の多 くは,互 い に関連性 の
。
乏 しい膨大 な細 部 で溢 れてい るが, その中で,異 質 な要素 の過度 な集合 や既存 の境界線 の侵犯 な ど, グロテス ク芸術 の特徴
のい くつかが実現 されてい る とい え よう。 デ ィケ ンズ の描写 において顕著 なのは,物 質世界 の アニ ミズ ム的知覚 であ り,そ
こで は生物 と無生物, また人 間 と他 の生物 や無生物 との境界 が暖味 になる。 英 国摂 政時代 のパ ン トマ イムで も,魔法 の杖 の
一振 りで無生物 が生命 を帯 び, また登場人物 ,特 にクラウンが人 間以外 の もの に変 身す る。 つ ま り,標準 的 な境界線 が犯 さ
れ る とい う点 も, デ ィケ ンズ作 品 とパ ン トマ イム に共通す るのであ る。
この ような描写 はすべ てのデ ィケ ンズ小 説 に共通 して見 られ るが,後期 の作 品 にお けるグロテス ク性 は,小 説全体 の 目的
に従属 し,何 か しらの機 能 を担 ってい るのが普通 であ る。 それ に対 して,前期 の喜劇 的小 説 の グロテス クな描写 は,多 くの
場合,小 説全体 にお ける機 能 とは無 関係 であ り,独 自に不安定 な空 間 を作 り上 げ, その中で増殖 と充溢 を生 み出 してい るの
だ。
マ ーテ ィン ・チ ャズ ル ウイッ ト』を
本論 第 4章 で はデ ィケ ンズの喜劇 的小 説 の最後 を飾 り, かつ最 も喜劇 的 だ とされ る 『
読 み, この作 品 に溢 れ る不規則 ,非連続,不調和 とい うイメージについて考察す る。 特 に着 目す るのは,膨大 な人や物 を並
べ立 て る リス トの ような風 景描 写,不規則 で非対称 な空 間であ る
。
こう した空 間はパ ン トマ イム的変容 を生 み出す土壌 とな
り,多 くの作 中人物 たちはその陽気 な雰 囲気 の 中 に巻 き込 まれ なが ら, 自らもパ ン トマ イム的変容 を遂 げる 。
『
チ ャズ ル ウイ ッ ト』も 『
ニ コラス ・ニ クル ビー』 と同様 に, メ ロ ドラマ的枠 組 み を もってい るが,パ ン トマ イムの世界
に染 まってい る多芸 な喜劇 的作 中人物 たちは, その枠 組 み において割 り当て られた役 割 を無視 して, 自分勝 手 なパ フォーマ
ンス を行 な う。 こう して作 り上 げ られ る豊穣 で無秩序 な喜劇 的世界 は,前期 の小 説 を特徴 づ けるパ ン トマイム的 ヴィジ ョン
の顕在化 であ る と考 え られ る。 この最後 の喜劇 的作 品 は,最 も強烈 にデ ィケ ンズ前期 の特徴 を表 わ してい る とい う見方 もで
きよう。
結論 で は, デ ィケ ンズ のパ ン トマ イム的 ヴィジ ョンは,後期 の作 品で は背景 に追 いや られ る点 について述べ る。後期 のデ
ィケ ンズ は,作 品の構造,象徴 の使用 ,心理 的洞察,社 会批判 な どに対 す る意識 が 中心 を占め る ようにな り, あ らゆる細部
が統合 され,小 説全体 の関心 に従属 す る傾 向 にあ る。 しか し, その ような作 品全体 の統合 についてい えば, デ ィケ ンズが他
の十九世紀 の作家 よ りも必ず しも優 れてい る とはい えない。それ に対 して,彼 の グロテス クな芸術 は比類 な きものであ る。
もちろん,後期 の作 品 にパ ン トマ イム的 ヴ ィジ ョンが消 えて しまったわけで はないが, 『ドンビー』 以 降それが減退 した こ
とは疑 う余地が ない。 この よ うな意味 で,後期 のデ ィケ ンズ は, よ りデ ィケ ンズ ら しい もの を失 って しまった とい えるか も
しれ ない。
論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨
チ ャールズ ・デ ィケ ンズ (1
81
2-7
0)の小 説 は, 『ドンビー ・ア ン ド ・サ ン』(1
8
48) を境 として,それ までの締 ま りの な
い ピカ レス ク的展 開 を捨 てて,全体 と しての統一性 を意識 的 に持 ち始 め る。彼 の作 品の評価 は没後大 きな変化 を見せ,一世
紀前 とは異 なって,現在 で はおお むね初期 の滑稽 な小 説 よ りも後期 の深刻 な小 説 が高 く評価 され る。 デ ィケ ンズ はユ ーモ ア
に満 ちた偉大 な喜劇作家 か ら,社 会 の暗黒面 を照 ら し出す象徴 主義 的小 説家へ と変貌 を遂 げた観 が あ る。 コメデ ィー につい
て論 じるのが難 しいせ い もあ り,近年 アカデ ミックな研 究 の多 くは後期 の作 品 を好 んで取 り上 げてい る。 その意味で, ここ
,
83
7) 『
ニ コラス ・ニ クル ビー』(
1
8
39)
,『
骨 董屋 』(1
8
41), 『
マー テ ィン ・チ ャ
で論者 が 『ピク ウ イ ック ・ペ イパ ーズ』(1
8
4
4)の四つ の初期 長編小 説 を選 び, その喜劇性 に焦 点 を絞 った研 究 を行 なった こ とには喜 ば しい新鮮 さ
ズ ル ウイ ッ ト』(1
が あ る。 本論 の骨格 を構成 してい るのはデ ィケ ンズ の小 説 と当時 の大衆演劇,特 にメ ロ ドラマ,パ ン トマ イム との関連性,
お よび,細 部 が強調 され, 「
逸脱
」「不 調和」「不 連続」 とい った要素 の顕 著 なデ ィケ ンズ特有 の グロテス ク芸術 につい ての
考 察 であ る。
- 6
0-
『ピクウイック ・ペイパーズ』 はい くつ もの独立 した挿話 を含 んでお り,いかにも散漫 な構造 を有 している。論者 は,小
説の各部が統一 されず に雑多 な形で集合 しているのに呼応するように,細部の描写 において も,人や物が調和することな し
に並置 され,グロテスクな効果 を生んでいると指摘する。 また,作者 と同様 に,作 中人物の多 くも物語 を語 ろうとす る強い
欲求 を持 ってお り,小説で本筋の物語が脱線するように,人物 たちは日常生活の中で彼 らを規制す るもっともらしい行動規
範か ら逸脱 しようとする, とい う興味深い解釈 も提示 している。加 えて,電報の文面の ように切れ切れになっているジング
ルの話 し方 を,断片的なエ ピソー ドを編者がつなぎ合 わせ るとい う作品全体の形式 と対応 させて とらえる読みにも論者の鋭
い感性が うかが える。
メロ ドラマを専 門 とする旅役者のクラムルズ一座が登場するエ ピソー ドを含 む 『
ニコラス ・ニクル ビー』 は,デ ィケ ンズ
の小説の中で も,最 も演劇性の強い ものである。 この作品が作者の親友であ り,偉大 な俳優であったマクリ-デイに捧 げ ら
れているのは決 して偶然ではない。登場人物の感情 を多分 にメロ ドラマ的な動作 を通 じて表現するディケ ンズの特色が, こ
の小説では極めて明確 に現れている。 ただ し,作者が大衆演劇その ものを愛 し,劇的手法 を好 んだ とい う事実 はあるものの,
社会風刺 を狙 うこの作品では登場人物の多 くが偽善者であ り,彼 らが実人生で役 を演 じているとも言 える点 を考慮す ると,
この作品には,同時代 の小説一般 に見 られる,劇的 自己表現の偽善性 を批判する要素 もある。 論者はこの間の緊張関係 を詳
細 に吟味する。 クラムルズー座 の挿話 は,一見本筋 とは関わ りのない脱線 とも思 えるが,彼 らが舞台 を離れて 日常生活 にお
いて も見せ る演技性 はパ ロディー として機能 し,本筋 に見 られるメロ ドラマ的な道徳観や所作 を批判的に眺める視座 を提供
している。 しか し同時に,主人公 ニコラスが座付 き役者の レンヴイルをや り込める場面 などでは,演劇性が無批判 に愛情 を
込めて措かれている。 論者の指摘するように,作者がメロ ドラマに対 してみせ る両義性が, この作品の面 白さを増 している
ことは間違いない。
胃
i
i
『
骨董屋』 はグロテスクの要素の強い小説である。 主人公 の少女 ネルが骨董屋 の不気味な品々に囲 まれている最初の挿絵
もそれを象徴的 に訴 えている。彼女が死 んで しまうこの小説 を喜劇 と呼ぶ ことには抵抗感があるか もしれないが,請者 はバ
プテ ンやラスキ ンのグロテスク論 を援用 し,笑いがグロテスクの一つの構成要素であることを押 さえている。その上で,同
じ読者の笑いを誘 って も,他の登場人物 と笑いを共有 しない怪異 な小男 クウイルプはバ フテ ンの言 うカーニヴァル的な笑い
とは直結せず,ディック ・スウイヴェラ-こそが真のグロテスク ・コメディーを体現 しているとい う主張 は首肯 し得 る
。
こ
の小説 はネルの放浪, クウイルプの悪行,ディックを中心 とす る喜劇, と分離 して統一性がない ように見 えるが, これ こそ,
異質なものの混合か らなるグロテスク芸術 の真髄であると論者 は言 う。 従来,批評家 はこれ らの どれか一つの側面 を強調 し
て論 じて きた きらいがあるが,論者の態度の方が柔軟であ り, この小説 に村す る正当な反応 を示 しているはずだ。
『
マーティン ・チ ャズルウイッ ト』 の世界の中核 にはパ ン トマイム的 「
変容」(
魔法の杖の一振 りで,舞台上の人物やセ ッ
トが姿 を変 えること)がある。 トム ・ピンチ に代表 されるように,多 くの登場人物 は 日常的な事物 を想像力 によって 「
変
容」 させた り,あるいは,ギヤンプ夫人の ように豊かな言語的才能 を発揮 して現実 とは別の世界 を作 り上げる能力 を備 えて
いる。 この小説 には トジャーズ夫人の下宿や,港町の宿屋 のように,奇妙 に歪 んだ空間が出現する。 論者 によれば, この種
の空間は作 中人物 に働 きかけて想像力の活動 を促進 させ, 『ピクウイック』に見 られた ような, 日常生活か らの逸脱 の機会
を与 えることになる。 確かに,そ うい う観点か らすれば, 『
チ ャズルウイ ッ ト』は,マーカスや ミラー といった有力 な批評
家たちが言 うように,「
真の自我」 の追求 をテーマ とす るのではな く,「
変容」 の可能性 に満ちた 「
確 たる自我 を持 たない」
人々の集合体 を指向 している, とする論者の結論 はかな りの説得力 を持つであろう。
ディケンズ とグロテスク,あるいはメロ ドラマ,パ ン トマイム との関連性 については既 に多 くの研究がなされてお り,独
創 的 な見解 を打 ち出す の は至 難 の業 であ る こ とを思 えば,論者 が ギ ヤ リス (
1
965)
, ア クス トン (
1
966)
, ホ リン トン
(
1
9
84)
, シュリッケ (
1
985)
, アイグナ- (
1
9
89)な どの先行研究 を丹念 に検討 し,それ らの成果 を踏 まえた上で ここに展
開 している議論 は十分評価 に値する。 全体 としての統一感 に若干の不足 は否めない ものの,各論 はテクス トの精微 な読みに
裏打 ちされてお り,的確 な引用 とそれに対す る当 を得 たコメン トは論者の深いディケ ンズ理解 を明白に示 している。
以上審査 した ところにより,本論文は博士 (
文学)の学位論文 として価値あるもの と認め られる。なお,2
002 年
調査委員 3名が論文内容 とそれに関連 した事柄 について口頭試問を行 った結果,合格 と認めた。
- 6
1-
12 月
24
日,
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