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天皇・皇后両陛下の御歌から

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天皇・皇后両陛下の御歌から
伊勢学講座 PART2[第 62 回神宮式年遷宮記念]
第 2 回「遷宮と日本文化
∼日本のこころ、日本人のこころ∼」
●日時 平成 17 年 4 月 17 日(土) 午後1時 30 分∼
●会場 二見 賓日館
基調講演:岡野弘彦氏(歌人・國學院大学名誉教授)
遷宮については、日本人の一人ひとりがそれぞれの思いをお持ちになっているはずですが、ま
ず私の遷宮に対する体験と思いをお話したいと思います。
私は前回の平成五年のご遷宮で、内宮の正殿のお庭で火を焚かせていただきました。古風な言
葉で言えば、“み火焼(ひた)きの翁”の役を務めたわけです。そのときに生じたわが胸の思い
を、その後、和歌の形で十数首作り雑誌に発表しました。今回はその作品を追いながらお話をし
てみようと思います。
天皇・皇后両陛下の御歌から
最初に平成五年のご遷宮に関連した天皇陛下の御製と皇后様の御歌をあげさせて頂きます。御
聖は平成六年に天皇がご参拝なさったときお詠みになったものです。
御製
にひみや
白石を踏み進みゆく我が前に光に映えて新宮は立つ
(平成六年御参拝)
御垣の内に、陛下が一人でお立ちになり進んでいらっしゃる、その眼前の、ご遷宮によって建
てられた新しいお社を、「光に映えて新宮は立つ」と詠まれています。まばゆいような新宮の様
子と、それに向かって進まれる陛下の引き締まったお心がよく出ています。
皇后宮御歌
そのふ
うつ
秋草の園生に虫の声満ちてみ遷りの刻しだいに近し
(平成五年御遷宮の夜半に)
ご遷御の夜、両陛下はお休みにならず、遷宮の執り行われる様子を心に思い浮かべながらお過
ごしになられているのです。そのときの皇后様のお歌です。
秋草の園生は皇居のお庭です。秋の虫の声が満ちて聞こえてきて、そのお庭の中で、伊勢でご
遷宮の御霊が遷っていかれるその時刻が刻々と近づいてくるのをお思いになっているという歌で
す。歌の調べや言葉に、深い感動の気持ちがよく表れています。和歌では、上の句は情景を描写
したり状況を述べ、下の句で叙情が深まるのですが、そういう歌の中の思いの配分が、典型的に
このお歌に出ています。
み火焼きの翁(みひたきのおきな)
それでは、「み火焼きの翁」という題を付けた私の作品をご紹介します。
遷御の夜、ご遷宮がすむと旧御殿となる御殿の前で、私は宗教学者の山折哲雄さんや音楽家の
岩城宏之さんとともに、み火焼きの役割を務めました。遷っていかれる新御殿の方でも、五、六
人の人たちが火を焼きました。それは私にとっては大変感動的な体験でした。
式年の遷宮にあたり、内宮の正殿の内庭において、
岩城宏之・山折哲雄の両氏とともに、庭燎を焼く。
ゆ ふ
かははら
木綿かづら風にそよぎて川原のみそぎのしじま時たちにけり
(十月一日、川原大祓)
遷御の前日、五十鈴川の川原で、川原の大祓を受けました。大祓というのは、大事なご遷宮に
奉仕するために心と身を清々しくするための行事です。祓えと言いますけど、実質的には禊ぎと
いった方が適しているのかも知れません。身や心のけがれを祓うだけではなくて、大事なことを
務める心身の充実のために行うのが禊ぎです。この川原の大祓も、祓えと禊ぎが一連のものとし
て考えられます。このとき頭に木綿かづらという鉢巻の古い形のものを付けました。しじまとい
うのは、沈黙のことで、よけいな声を発するものは誰もいない極めて厳かな沈黙の中で、身の穢
れを祓い、さらに心と身の充実を図るのです。
いつき
さきがけて白砂のうへを歩みくる 齋 の宮は眼とぢたまはず
祭に向かう行列では祭主様が一番先頭に立って神殿へ進まれます。このときの祭主様は、池田
家に嫁がれた昭和天皇の内親王・厚子さまです。そのお姿が、非常に印象的なのです。よく見て
いるとまばたきもなさらないで、木綿かづらを頭にまいて多くの神主さんたちを後に従え歩いて
いかれる。古代から、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)、倭姫命という方々が斎宮にな
られたわけですが、そういう古代の斎宮のおもかげが、まざまざと感じられました。
むささびの木づたふ音を聞きしより心しまりて庭につくばふ
(二日、五時より内庭に入る)
ご遷宮の当日、五時くらいから内庭に入ります。そしてひざまずいたとき、周りを囲んでいる
大きな杉の木にむささびが出てきて、幹を駆け上っていく気配が聞こえてくる。まだ火焼きの時
刻まではだいぶ時間があるわけですけれども、そうして心がひきしまってゆくのです。
くま
神垣の隈どに立ちてうつし身にきざす念ひは人に告げざらむ
(戦の敗れしのち零落れきてこの白砂になみだ落としき)
幾重にも取り囲まれた神宮の神垣。私はその一番奥の神垣の隈どにたっていたのです。隈とは
単に“すみ”というだけではなく、そこに魂が寄り集まり宿るところなのです。万葉集にも、神
聖な隈を詠んだ歌がたくさん出てきます。世熊野の語源にも隈があるのでしょう。あるいは伊勢
の朝熊山もその隈だという説があります。
そこに立ったとき、自分一人の胸に中にしまっている思いが甦ってきました。敗戦当時、私は
茨城県の海岸で敵の上陸に備え、戦車に飛び込み自爆する訓練ばかりしていたのですが、敗戦の
直後に軍服の階級証を投げ捨てて伊勢や熊野をさすらいました。飢えと栄養失調の惨めな姿でし
たが、真っ先に行ったのが伊勢の内宮のお社なのです。後にあげているのはそのときのことを詠
んだ昔の作品ですが、そんな思いが奥にあるものですから、とくに内庭でこれからみ火焼きを務
めることが大きな感動だったのです。
神秘なる火のもとに
たぢからを
一つ火を闇に照らして広庭につくばふわれや天の手力男
(六時、浄火を庭燎にうつす)
松を細く砕いた薪で火を燃え上がらせるのですが、それは、その後かなり長い時間をかけ、内
庭で行われる行事の照明になるのです。その灯りの感じが非常に大事でして、あまり暗くても、
また明る過ぎてもいけない。そのように三人で二つの庭燎をたくわけです。この頃から、心はだ
んだん現在の時間帯から抜け出て、神話的な時間帯の中へ少しずつ移ってゆきました。一つ火と
いうのは、神話の中によく出てくるものです。例えば、イザナギが黄泉の国へ行って、黄泉の国
の神様の御殿の中へ自分の妻を探しに入って行く。そのときに一つ火を灯して、真っ暗な御殿へ
入っていく。一つ火には神聖な感じとともに、逆にマイナスの忌むべきものだという考えもあり
ます。死人などが出たときに近隣の親類などへ知らせていくのに一つ火を灯していくという習慣
があったりします。人類共通の考え方ですが、聖と俗は裏表の関係にあり、聖なるものはまたそ
の反対の要素を内にはらんでいます。その一つ火を闇に照らしながら神の庭につくばっていると、
あの天の岩戸を押し開いた天の手力男は俺かもしれんという思いにまでなってくるのです。
にはび
いとど
庭燎たくわが足もとの土にゐて遠世の蟋蟀こゑほそり啼く
だんだん周りが暗くなっていく。そして、神官たちの動きがだんだん慌しくなっていく。その
時間も、現実の時間じゃない感じがしてくるのです。現実には、石の下にいる蟋蟀の声がチロチ
ロと聞こえるのですが、その声が、もうこの世の虫の声ではないような、時間的、空間的にも遠
ざかって啼いているように感じました。現実から、だんだん悠久の時間、広い神の空間の中へ、
身体ごと誘われてゆくような感じがしてくるわけです。
むらぼし
群星の巨きめぐりのおとならむ闇の木のまの空にふりくる
その夜の満天の星が輝く空の冴え具合なのですが、闇の中で、星が巡っている音かしらと思う
ほど、何か大きなものが動いているような感覚が身に迫ってくるのです。それは天体の運行の音
ではないかしらと思う、そんな中で時間が経っていきます。
遷御のとき
白じろとみ垣の絹のゆらぎつつ流るるものをとどめがたしも
(八時、絹垣につつまれて東の正殿へ遷御)
突然、鶏鳴の音が三度聞こえる。いよいよ渡御のときです。御霊がこの御殿から新しい御殿へ
遷っていかれる時刻です。鶏鳴が聞こえると、火を消し、辺り一面が浄闇の清らかな闇の世界に
なるわけです。
神が他界からこの世に姿を現されるのは常に夜です。神あるいは霊的なものが動かれるのは、
真夜中の時刻です。たとえば古代の恋では、男が乙女のところへ訪れていくのは必ず真夜中で、
それは、神が聖なる乙女を訪ねる形を人の恋の上にもなぞっているのです。人間の行動は常に神
の行動を規範にしていたのです。
ちょうど八時。絹垣(きんかい)という絹の大きな帳に包まれた、ご神体がわれわれの目の前
を通っていかれました。白い絹垣が、なんともやわらかく、水がゆっくりと流れていくように動
いていかれるわけです。
大きな川の流れのようにして遷っていかれるみ魂。名残惜しい、留めたいという心が起こりま
すが、それは人間の力などでは留められるものではない、毅然とした巨大な魂の意思なのです。
そして、東の正殿へスーッと消えていかれました。
わが前をいま過ぎゆける魂の白きゆらぎを忘れじとする
これを心に永遠に留めておこうという思いがしました。自分の魂もそのあとについてどこかへ
遷っていってしまったような感じさえしました。
み火焼きの翁となりてつかへけり大きみ魂の遷りゆく庭
その場にいて、今までと違った現実的な心が湧いてきました。昔から宮廷警護のみ火焼きの翁、
あるいはヤマトタケル神話の中にも甲斐の酒折宮でヤマトタケルと問答をするみ火焼きの翁がい
ますけれど、そういう古代から続いているみ火焼きの翁の一人となって、この神宮のご遷宮にお
仕えしたのだという現実の思いが、じわじわと心にかえってきたのです。
御魂の遷られた後
にひみや
月しろはのぼりたるらし新宮のかがやく千木に光りさしくる
昔は十三夜待とか二十三夜待というような、人びとが月の出を待つ信仰行事がありました。待
っている東の空から、まず月が昇ってくる予告のような明るさがさします。それを月しろと言い
ます。同時に、和歌などでは古くから月そのものも月しろと言っており、私もそのように使って
います。
ちょうど御魂が新殿にお遷りになって、ほうっとしているそのときに、杉の木立から十六夜の
月の光が白々と、あるいは青々と、もう今は御魂が東の御殿に遷ってしまわれた旧御殿の屋根や
御扉にさしてくるのです。
そして、ふと東の方を見ると、あの新御殿の金具がキラキラと輝いて見えてくる。あの思いは
また何とも言えぬ深い感動でありました。
あらくさ
月かげはてりて隈なし蒼あをと古りにし殿の屋根の雑草
こうこうと月明かりが照り渡ってきた。もう残る隈もない。さっきまで天照大御神の魂がそこ
に宿っていらっしゃった旧御殿が、そのとき何と古色蒼然と感じられたことか。そして、新しく
御霊が遷られたあの御殿が何ときらびらしく荘厳に感じられたことか。
私たち三人は深い感動を覚えていました。山折さんも私も古代をいろんな角度から研究してい
ます。私は主に古典文学を通して古代人の心を甦らせ、自分の心の中に追体験しようと思ってい
る者です。山折さんもやはり、日本人の仏教的な心を辿って日本の古代を追及されている学者で
す。ところが、岩城さんはヨーロッパの音楽をオーケストラで指揮されたり作曲されたりする芸
術家です。これほど日本的なものが煮詰まった感動の中には立ち会ったことがなかった、その岩
城さんの感動が三人の中で一番大きかったのでしょう。「何?一体、何が起こったの?」と問わ
れる岩城さんの非常にうぶな感動を見て、からだの底から感じていられるのだと思いました。
巨大なエネルギーが西の御殿から東の御殿へ遷っていかれた、その時間や空間というものは客
観的なものさしと違うのです。永遠と言ってもよいような時間、あるいは果てしのない距離を移
動していかれたという感じなのです。
「ふるさと」という言葉をご存知でしょう。ふるさととは、自分の生まれ故郷という意味が第
一義ではないのです。例えば、飛鳥から藤原へ都が遷りますね。それは大きな魂をもったその土
地の主(あるじ)の天子が遷られることです。そうすると、飛鳥は古(ふり)にしさと・ふるさ
とになるのです。魂の一番大事な部分が遷ってしまわれると、その都は一瞬にして活力を失い、
古色蒼然たる姿になるのです。今まで魂によって活力に満ちていたものが、魂が移動してしまっ
て悄然となる、活力を失う。そのことを古い日本語や古い和歌の調べで、古(ふる)と言ったの
ですね。
ちょうどそういう感じを、あそこで私は実感しました。今まで目にもつかなかった旧御殿の屋
根に生えている雑草が、月の青い光にいっそう青々としたかげりを見せて、古色蒼然とした感じ
になってくる。そして新宮の方の輝かしさがいっそう際立ってくる。魂の入っている御殿は、器
が輝いているのではない。そこに鎮まっていられる大きな魂とともに輝くのです。
こうして、遷御の時の感動を、私は短歌の形で表現しました。短歌は、千四百年前からもうこ
の五七五七七の形に固定されています。それは魂の表現、心の表現の形です。何と長きにわたっ
てこの形での心の表現をご先祖が作り続けてわれわれに伝えていってくれたことかと思います。
遷宮の心や形もまた、同じように我々に伝えられてきたのです。
鼎談:岡野弘彦氏(歌人・國學院大学名誉教授)
松田義幸氏(実践女子大学教授)
和田年弥氏(神宮司庁総務部長)
若者の心をゆるがす遷宮ルネッサンスを
【松田】
いま、日本は「クール・ジャパン」と世界から言われています。日本の現代文化はカッコいい
と受け入れられているのですが、これは一過性に終わるかも知れません。そうならないためには、
日本の文化の遺伝子を引き継ぎながら、新しさを付け加えるソフトパワーが求められます。
では、そのモデルはどこにあるか。それは、二十年に一回の遷宮の中にあるわけです。遷宮は
そのときだけのお祭りではなくて、終わるとすぐに次の遷宮の準備が始まります。そのプロセス
の中で、日本文化の遺伝子を実際に形に表現する人たちが協力しながら次の遷宮へ受け継いでい
くわけです。そうして太古からの日本の文化を凛と今日まで伝えてきた、それはすごいことです。
ところが今日、東京の方で遷宮について知っている人はほとんどいない。それから、お伊勢参
りをした人もほとんどいない。これは、大問題だと思っております。
今度の遷宮では、やっぱり若者たちの心をゆるがすような遷宮ルネッサンスを興さなければな
らない。そして楽しくなければいけない。クールでなければいけない。そういうことで、今度の
遷宮は、今日を初めとして遷宮ルネッサンスなのだということを頭に置いて、先生方のお話をう
かがってまいりたいと思います。では、さっそく和田先生から。
遷宮とは生命の連続性
【和田】
私は昭和四十五年に神宮に奉職して、その四年後には六十回目の遷宮を迎えたわけです。まだ、
神職として駆け出しでした。そして二十年後の平成五年に六十一回目の遷宮をご奉仕しました。
今、また六十二回目の遷宮のご準備に邁進しておるところでありまして、ちょうど三回のご遷宮
が体験できる大変幸せなめぐり合わせにあるわけです。
私は前々回の遷宮のときに、大御神が、新しいお宮に遷られるそのときの長い行列の一番先頭
に立つ役をさせていただきました。現代風に言えば、タイムキーパーのようなものです。行列が
早く進んでもいけませんし、遅くなってもいけませんので、時間を気にしながら行列の後が整う
のを確認しながら、先へ先へ進んでいく役です。
そのときに私が感じましたのは、岡野先生が「月かげは照りて隈なし蒼あをと古りにし殿の屋
根の雑草」とお詠みになりましたまさにその通りの気持ちでありました。今まで大神が鎮まって
いた御殿を振り返ったとき、これまでずっとその近くでお祭りを奉仕していて何も思わなかった
大神の御殿が、たった何分後かに新しいお宮に鎮まった途端に、荒れ果てたように感じたわけで
ございます。
駆け出しの神職ながら、これは何なのかなという遷宮に対する非常に素朴な疑問を抱きました。
それ以来、自分の疑問に対する答えをずっと探し続けて三十年余り経たわけですけど、一つ思
ったことは、遷宮は生命の連続性ではないか、ということです。遷宮は、生あるものを伝えてい
く日本人の祖先が考えた大いなる知恵ではなかったのか。それが文化を継承することにもつなが
っていく。伊勢というのは、遷宮ごとに甦るというわけではなくて、ずっと生きているわけでし
て、二十年間の準備を経て新しくなって、また二十年間の準備を経てまた新しくなる。その繰り
返しを千三百年年来続けてきたわけであります。
伝えること、感じること
【松田】
2005 年 4 月、東京の和敬塾で岡野弘彦先生が学生たち七百人に「大和言葉と大和魂」のお話を
されたのです。ヤマトタケルや倭姫命のお歌を詠んで聞かせた後で、岡野先生ご自身のお歌をヤ
マトタケルに重ねて発表された。若い学生たちがもう涙ぐんだ。それくらい歌は心をゆさぶりま
す。岡野先生も、これからの若者たちも期待できるんだ、という気持ちになられたのではないか
と思います。岡野先生に今の学生たちをどのように受け止められているかというお話と、遷宮の
意味と形についてお話をお願いします。
【岡野】
遷宮は、やはり理屈ではなく心で感ずるべきことなのですね。ところが心で感じることが、こ
とに敗戦後の日本人は下手になっております。こういう自分の思いはもう、今の若い人たちにな
かなか伝わりにくいものなのだ、自分の子どもにも孫にも、さらに多くの次の世代の人たちにも
伝わっていかないものなのだと、何となく自分自身を悲劇的に考えすぎるところがありました。
ところが、不思議と言えば不思議であり、また当然と言えば当然なのですが、今の二十代くら
いの若い人たちは、意外にそういうものをストレートに感じてくれる感性を持っている、そうい
う若い年代が出てきているわけです。それは、たとえば先ほど松田先生がおっしゃった和敬塾で、
私の話を聞いてくれている学生たちの態度、顔色からもよく伝わってきます。この人たちを見て
いると、自分の思いを伝えることを断念する必要はまったくないのだ、精一杯、言うべきことを
言えば伝わるのだ、という思いが少しずつ私に生まれてきた感じがします。
あるいは去年の暮れに、私が以前勤めていました國學院大学で「戦争と文学」というテーマの
シンポジウムを行いました。このときも三十分くらい基調講演をしてからシンポジウムに入って
いったのですが、聞いていました学生たちがそれからいろんな形で接触をとってきまして、「先
生のあの戦争体験を聞かせてほしい」と言ってくるのですね。國學院大学の新聞を作っている学
生たちからは、8ページの特集で、戦中の体験を語れる場を対談の形でできるだけ学生を参加さ
せて作るので、当時の感情を交えて伝えてくれ、と頼まれました。対談では、私は戦中体験を詠
んだ歌を中心にしてわが重いを紹介したのです。それが若者たちの心を惹きつけたらしくて、そ
の号の新聞は國學院大学の外からも注文がありました。間もなく一冊の単行本にする予定になっ
ております。
戦後長い間、神話などは全否定でした。私が神や心というテーマで短歌を作っただけでも、
「反動だ」というふうに決めつけられたりしました。そういう戦後の卑屈な屈折のない世代が、
だんだんと次の時代を築こうとしているという確信を持てたことは、老い先短い私にとっては、
明るい思いでした。
ご遷宮のことで申しますと、二十年のことを二十歳(はたち)と言います。それから、十二月
のことを「師走・為果つ(シハツ)」とも言います。為果つとは一年の物事を完全にし終わった
ことを表します。そして、二十年ごとのご遷宮はこの果つという心を汲んだ言葉だったろうと思
います。そうしますとご遷宮は、二十年ごとの、神のよみがえりの形象化だろうと思います。
われわれがそういう永遠性を持った心を急速に失いつつあるとすれば、これからの日本は、立
ち行くことが非常に危なくなってくるのではないか、という気がします。
一人でも多く伊勢の神域に
【松田】
巨人軍の名誉監督の長嶋さんが、よく「ピンチはチャンスだ」と言いますよね。ぜひ、今回の
遷宮も「ピンチはチャンスだ」という具合に後に振り返られるように、今までの歴史教育の欠落
していた部分を一気に取り返す機会にしようというのが、「遷宮ルネッサンス」です。
ヨーロッパがアメリカに対抗してEUにまとまったときに、どういう現象が起きたかというと、
一つはバチカンへの詣で、もう一つは神々への島、クレタ島へのお参りなのです。私はその頃、
地中海へ出かけギリシア神話の遺跡を調べていたのですが、クノッソスの宮殿には、ドイツやフ
ランス、イギリスなど各国からたくさんのツアー客が来ているわけですね。ヨーロッパ人の精神
を、共有しなくてはいけないというふうに、自分たちのアイデンティティを探りに来たわけです。
それを見て私はうらやましいと思ったのです。
和田先生にぜひお願いしたいと思うのは、「これはピンチだ」と神宮の方々に思っていただい
て、国民・氏子の方を見ていただきたいのです。遷宮のための心作りと、遷宮による日本人の心
作りを国民とともに働きかけていくことが大テーマではないかと思うのですけど、その辺のとこ
ろを、ぜひお聞かせ下さい。
【和田】
現在の人たちに遷宮や神宮のことを説明することは大変なエネルギーのいることです。一番大
事なのは一歩でも神域に足を運んでいただいて、あの空気や景観を体感していただくことです。
一昨年の十一月に、ダライ・ラマというチベット仏教の最高の権威者が来日しました。彼は現
在中国の侵攻でインドに亡命をいたしておりますが、ノーベル平和賞も受けた世界的な宗教家で
す。その彼が、ぜひ伊勢をお参りしたいという希望を持ったわけです。当日、神職の姿でお出迎
えし宇治橋を渡りながら案内をしておりましたら、彼が途中で立ち止まりました。そして下に流
れている五十鈴川と眼前に広がる神路山、島路山の緑を見て、「この緑とこの清らかな水を守っ
ている方々の努力に最大の敬意をまず表したい」とおっしゃいました。彼が育ったチベットの風
土環境を考えますとなるほどなあと思いますけど、彼の感受性の強さに打たれました。もう一つ
印象的だったのは、彼がどんな人へも近づいていって、日本人の参拝者にも話しかけたことです。
小さな子どもがいると頭をなでたり、妊婦さんがいるとお腹をさすったりするわけです。私がや
ったらもう、完全なセクハラになってしまいます(笑)。彼の場合は、妊婦さんも喜ばれるくら
いで、私も宗教家の端くれではありますけど、「あ、宗教家とはこういうものなのか」と打たれ
ました。彼の感性が、国境や民族を超えて、非常に純粋な、乾いた砂に水が染み込むがごとく、
あの神宮の空気をかぎとったのかなという実感を得ました。
やっぱりできるだけ多くの方に足を運んでいただいて、その空気を吸っていただくことがまず
大事です。その意味でも、次の遷宮は、伊勢や遷宮のことをPRしながら、一人でも多くの方に
まず伊勢へ来ていただく、そこから二回、三回と足を運ぶたびに理解を深めていただければ、と
考えております。私一人の力はほんの微々たるものですので、ぜひお集まりのみなさん方のお力
添えもいただきたい、と大いなる期待をしているところです。
神話と源氏物語
【松田】
神話と物語の関係について、岡野先生にうかがいたいと思います。神話は単なるフィクション
や作り話ではなくその民族が知恵を出し、作り上げた歴史的背景を持った物語と言うこともでき
ると思います。単なるフィクションの物語をどの民族もこんなにありがたがるわけはないのです
ね。
活字が使えるようになってからの歴史は、どの国においても政治権力が自分たちを正当化する
手段なのです。むしろ語りつがれた神話の物語の方がはるかに高度な歴史的背景を持っており、
神々の世界を表現する中で民族の知恵を伝えていたのです。日本ではそれが源氏物語の中にも共
鳴しています。ワクワクするような源氏物語の講義を、私は岡野先生から月一回、東京の勉強会
で受けていますが、源氏物語と神話がいかに深い関係にあるか、一言、二言と言わず好きなだけ
お願いします(笑)。
【岡野】
敗戦後、歴史的事実の追求は意義があるけれど、神話の研究は意味がないのだと誤解されてい
ました。しかし本当の神話は歴史事実以上に意義のある、その民族にとって生命の母体みたいな
ものなのです。
例えば、古事記などを見ていますと、伊須気余理姫という貴族のお嬢さんが、お供を連れて春
の野で若菜を摘んでいるのを神武天皇が見て、部下を通して求婚します。若菜摘みの恋歌のやり
とりから、一組の高貴なご夫婦が誕生していくという話です。万葉集を読みますと、その第一巻
第一の歌で雄略天皇が「春の若菜を摘む乙女よ。名を言いなさい。この大和は私が統治している
国だ。その私が名を言いましょう。あなたも名をおっしゃい」という意味の歌を詠む。
男女が名乗りをし合うのは、結婚の前提なのですね。こういう話が、古典のいたるところに出
てきます。一つの歴史的事実というよりは、むしろ神話的な繰り返しです。そしてそれは神武天
皇にも雄略天皇にも仁徳天皇にも絡まっていく。天子が、その地方の豪族の聖なる乙女に求婚を
なさり、乙女が応じて和歌で応えるという物語を年の初めに語るということは、その村に、ある
いはその村人たちが作る秋の収穫の実りや家畜に、大きなエネルギーを感染させる力を持ってい
る。そういうところに古代人の生活の力の源泉があるのです。
物語は神話の延長です。昔話や伝説なども神話からだんだん断片化していったものなのです。
ですから、長編の源氏物語も、神話の心を引いているものとしての読み解き方が必要だろうと思
います。例えば、六条の御息所という光源氏よりもだいぶ年上の古くからの愛人がいます。この
人は、大変な霊力、生き霊となって光源氏が恋する女性に祟るという力を持っている女性です。
光源氏には直接災いを及ぼさないけれども、光源氏の愛人たちに災いを及ぼす。そして葵の巻で
は、光源氏の正妻である葵の上の出産の場に現れて、葵の上を苦しめるわけです。光源氏もまざ
まざとそれを認めざるを得ない。しかし、そういう女性に光源氏は決して心の底から拒否感や嫌
悪感を持つことはありません。自分への深い愛情を持っていて、同じように自分に愛情を持って
いる他の女性に祟る六条の御息所という人をもひっくるめて、光源氏の愛情は長く強く続いてい
くわけですね。
男性よりも女性の方が深く神の言葉を聞くことができます。そういう女性の力への敬慕を伴っ
た愛情、このうえもなく鮮やかでしかも末永く、決してどんなことがあってもこの人を見放して
不幸に陥れることがないという愛情が源氏物語で示されているわけですね。それを単なる男女の
物語として興味本位で読んでしまうと、肝心なことがわからなくなります。そういう平面的な現
代訳がこの頃多いのです。やはり源氏物語は大変でしょうけど、原文で努力してお読みになって
いただくと良いのです。
開かれた遷宮に
【松田】
源氏物語は紫式部の作品であると知っている人は大勢いるけれど、それを原典で読んでいると
いう人はわずかしかいません。それで死んでいくのも一生です。しかし深く読んで、神話と源氏
物語が関わっている永遠の価値に心を委ねて死んでいくのもの一つの生き方です。どちらを選ぶ
かです(笑)。
和田先生に、ぜひおうかがいしたいことがあります。遷御の年だけが遷宮だと思っている日本
人が多いわけです。遷宮の形と意味を、日本人共通の文化遺伝子としていくために、みんなが参
加できるような仕組みやそのメッセージの発信をぜひお願いしたいのですが、その可能性はどう
でしょうか。
【和田】
ご正宮の遷宮に関する祭は、8年間に30行われます。その中には、どうしても外部に公開で
きない神事もありますが、一方では、充分ご覧をいただける行事もたくさんございます。インタ
ーネットの時代ですので、神宮もホームページを持っておりますし、いろんな形で、みなさんに
知っていただく努力を続けていきたいと思います。
その一環として昨年、東京で遷宮の広報本部を立ち上げ、今年の4月1日から遷宮の標語やシ
ンボルマークの全国募集を始めました。前回は、「よみがえる 日本の心 ご遷宮」が標語の最
優秀賞になりました。シンボルマークは、シンプルな、しかもひと目で伊勢のことがわかるよう
なマークをみなさんから公募しております。そういう活動が遷宮に関心を呼んでいただく一つの
きっかけにもしていただけるのではないか、ということで前回よりも一年以上早く進めておりま
す。地道に時間をかけて、遷宮の準備とともに広報活動にも取り組んでいきたいと思っておりま
す。
言葉は心の器
【松田】
ありがとうございます。それから今日、岡野先生がお歌の話をずっとされていますね。まだ学
校で直接神話の教育をすることは難しいところがあるかも知れません。しかし、国語教育の一環
として和歌を教えることは、何の問題もないはずです。それを国民の運動に立ち上げていければ
と思います。
遷宮は、日本の衣食住遊に総合的に関わりながら、日本文化の意味と形を伝えています。日本
人の生き方そのものを追求する一番いい教材だと思うのです。その中で、五感で体感するような
方法ととともに、大和言葉をベースとする和歌の教育をする。この運動がルネッサンスとしては
大切なのではないでしょうか。 国際化が進み、自分が何だろうかというときに、過去と精神が
つながることにより私たちは日本人であるという幸せにつながるわけです。ですから、大和言葉
は、太古の世界の人々の価値観と現代人の価値観が一つになるスーパーカルチャーであり、日本
の文化遺伝子の基本の基本なのだろうと思います。そのことの重要さについて最後に、岡野先生
からお話をいただければ。
【岡野】
松田仕掛人のお話は、だんだん難しいところへ行きます(笑)。
みなさんに割合に親しい例で申しますと、西行さんが神宮に参詣して「何事のおはしますかは
知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌を詠んでいますね。この歌は、国文学の文献的
な研究から言うと、限りなく西行さんの実作であると言い難い歌なのです。西行の専門の研究家
などはこの歌を西行の歌の中に入れていない人が多い。しかし、少なくとも江戸時代、西行が亡
くなって五百年ほど経た頃から、この歌が世間に広く流布した。そして西行さんもこんな気持ち
になったのだというふうに人々の間に信じられてきた歌です。芭蕉もこの歌の影響から「何の木
の花とは知らず匂ひ哉」と詠んだりするわけですね。芭蕉は常に、先輩の旅の優れた歌人である
西行の心を持って自分の俳諧の世界を構築する。それでいいとぼくは思うのですね。
先ほど松田先生のおっしゃった大和言葉というものは、千二百年、千三百年を経ている言葉で
すから古くさかのぼっていくとなかなか難しい。しかし、言葉は魂の器、心の器、感情の器なの
です。心は、どこに宿っているか、魂はどこにあるのか。これは頭でも心臓でもありません。昔
の人は言葉に宿ると思っていました。神話に宿る、そして物語に宿る。さらに物語以上に心を凝
縮しているのが、言葉を選びに選んで詠んだ和歌なのです。
そういうことを、今の若い人たちの心に響く形で語らなければならない。戦後、現代にいたる
までの間に、若い人たちが文語から切り離されてしまった。もう学校で文語の文体を教えるのは
受験に早く解答を出すような教え方しかしなくなった。自分で文語の詩を作ってみたり、あるい
は文語体の美しい短歌を作ろうということをしなくなっている。
その点では、私はどきどきはらはらしながら、日本人の伝統を見ているわけです。そして、命
の続く限り、何とかしてわれわれの心の大事な伝統を、次の時代へ伝えたいと思っています。ど
うぞみなさんにこの思いを分かち合っていただいて、次の時代、さらに次の時代に大事なものを
どう伝えるかということに、心を尽くしていただきたいと思います。
【岡野氏プロフィール】
1924 年、三重県美杉村生まれ。歌人。國學院大學国文科を卒業、折口信夫に師事。
国学院大学名誉教授、同大学栃木短期大学長。日本芸術院会員。宮内庁御用掛、宮中歌会始選者。
伊勢「五十鈴塾」名誉会長。著書に「悲歌の時代」「折口信夫の晩年」など。
【松田氏プロフィール】
1939 年、山形県鶴岡市生まれ。東京教育大学教育学部卒業。
日経広告研究所研究員、余暇開発センター研究主幹、筑波大学助教授、同大学院客員教授を経て、
現在、実践女子大学生活文化学科教授。
主な編著書に「神々の風景と日本人のこころ」「内なる幸福を求めて」「日本人の品格」等多数。
【和田氏プロフィール】
三重県津市出身。三重大学教育学部卒業。
昭和 45 年皇學館大学大学院修了、同年神宮に奉職。現在、神宮禰宜、神宮司庁総務部長。
「三重県古銘集成」をはじめ著書論文多数。
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