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の 「晴月 ~涼風・高雲・碧字の致きの、 之れを吟味に見る者は、 実に公

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の 「晴月 ~涼風・高雲・碧字の致きの、 之れを吟味に見る者は、 実に公
王船山の二七「詠懐詩」評
鈴木敏雄
序言
王船山は『古詩評選』に院籍「詠懐詩」八十二首中から二十首を選定載録し、併せて冒
頭に(院籍「詠懐」其一評に)次のような評価の言を付している(①∼⑧の番号は、以下
の考察の便宜のため、仮の章段として設ける)。
①晴月・涼風・高雲・即下之致、下之吟詠者、實自公始。但如此等、以淺求之、若
一二所懐、二字後言前、眉端吻外、有無壺藏之懐、令人循聲測影而得之。②唐人干「氣
蒸雲門澤、波撚岳陽城」之下、必須補出「欲濟無下棋、端居恥聖明」、三門、如碑子
下人短長、禁令勿四則喉間作町回。世愈下、言愈煩、心二三也。
③歩兵詠懐、自是暖代絶作、遠紹國風、近出入於十九首、而以高朗之懐、脱穎之氣、
取神似干離合之間。④大要如晴雲出紬、野巻無定質、而當其有所不極、則弘忍之力、
肉視荊・…岳尖。⑤且其託髄之妙、或以自安、或以自悼、或標物外之旨、或寄二三之思、
意固樫庭、而丁丁一致、信其但然三又不徒然、疑其必然而彼固三門。⑥不但當時雄猜
之渠長、無可施其怨忌、且使千秋以還、三無覚脚根庭。蓋詩之三教、相求干性情、固
不當容淺人以耳目薦取。⑦況公且丁丁・項爲孫子、則人頭畜智者令可測公、丁幾令潤
上亭長反唇哉。⑧四丁下下分際、求知音於老姻、必白居易而後三野。
「晴月・掠:風・高等・碧宇の致き」が見られるというこの冒頭での指摘こそが、王船山
が院籍「詠懐詩」に与えた詩史上での評価であると思われるが、文学史上での位置づけは
しているものの、院籍の描く自然景物の「旧き」が特徴的であるとのみの指摘であり、以
後の展開は抽象度の高い説明に止まっている。一体その「致き」とはどのようなものなの
か。以下、この王船山の記述(上掲の①∼⑧)に沿って考察を加え、具体化を試みたい。
①「晴月・涼風・高雲・碧宇の致きの、之れを吟味に見る者は、実に公より始まる。但だ
此くのごとき詩は、浅きを以って之れを求むれば、一に懐ふ所無きがごときも、字後言前、
眉端吻外に、無尽蔵の懐ひ有り、人をして声に循ひ影を測りて之れを得しめん。」
(「晴月・掠風・高雲・碧宇の致き」を詩に詠出することは、実際、院籍から始まってい
る。ただ、院籍「詠懐詩」其一のような詩は、浅い観点からのみ理解しようとすると、思
っていることが何も無いかのように見える。しかし、詩を書き付けた後、詠み始める前、
皆の端の辺り、唇の動きとは別の所に、無尽蔵の思いが蓄えられていて、その声を追い、
その影を追えば、それは人にも理解できるようになっている。)
冒頭に言う「晴月・涼風・高雲・碧宇の致き」とはどのような「致き」かを具体化する
に当たり〈1>、その指摘の直後に「此の詩のごとき」と続くので、先ずは院籍「詠懐」其
一の「薄帷鑑明月、清風吹我衿」の「明月」と「清風」が醸す「致き」を言っているので
一1一
あろうことが明らかとなる。ただし、すでに述べたように、冒頭ではその格調の高さ、あ
るいはそれが無尽蔵であることをのみ指摘し、詳細は以下の説明の中に譲られることにな
る。そしてその際、其一には見えない「雲」と「宇」の「旧き」が加えられている。すな
わち、 「詠懐」其二以下の三巴の景物描写全体にも論及しようとする。
②「唐人は『氣三雲二二、波櫨岳陽城』の下に於いて、必ず須らく『欲濟三舟揖、端居恥
聖明』と補ひ出だす、爾らずんば、丁子の人の短長を聞くに、禁令して言ふ勿からしむる
がごとく則ち三間に痩みを作さん。世愈いよ下れば、三二いよ煩はしく、心愈いよ浅きな
り。」
(唐人の場合は、孟浩然が「洞庭に臨む」詩で「気は蒸す二三の澤、波は憾かす岳陽城」
の句の後に、「済らんと欲するも舟の揖無く、端居して聖明に恥づ」と続けたように、必
ず喋りたがる。そのようにしないと、侍女が他人の評判を聞いてしまい、言いふらさぬよ
う禁じられた時のように、喉の辺りに痒みを覚えるのである。世が下れば下るほど、言葉
は饒舌になり、心は浅くなっていく。)
この②の章段に引かれている孟浩然「二二庭」詩「八月湖水平、三二混太清。二七雲夢
澤、三二岳陽城。欲濟無二揖、端居恥聖明。坐観垂釣者、徒二二魚情」 (人,月湖水平らか
に、二二は太清を混づ。……坐ろ観る釣を下るる者に、徒らに魚を羨むの情有るを)は、
王船山『唐詩二選』では先ず三二に関して「二二較工部『呉楚東南』一聯爲近情理」 (頷
下は工部の『二三東南』の一聯に較べて情理に近しと為す)と一応の評価が与えられつつ
も、一篇全体では「三二・梁之有旧約、多取合干三人、非風雅之三三也。旧作力自振抜、
乃二丁三三三三未免卑下」 (猶ほ斉・梁の二二有るがごとく、多くは二人に合ふを取り、
風雅の二三に非ざるなり。此の作はカめて自ら振ひ抜けば、乃ち貌は高きと為すも格は干
た未だ卑下するを免れず)と回しめられている。頚回の「……聖明に恥づ」のような饒舌
による浅薄さが詩全体を台無しにすると見るからであろう。
この②では、王船山は孟浩然の「臨洞庭」詩を引いて、 「世愈いよ下れば、言愈いよ煩
はしく、心旧いよ淺きなり」と言っているので、唐人に対しては『唐詩二選』中で指摘す
るような旧約の詩の「多くは三人に合ふを取り、風雅に非ず、卑下すなり」というのと同
じ感を抱いたことになる。ただし、孟浩然も自然景物を詠んだ前回句は「情理(を宣ぶる
に)に近く」、杜甫「登岳陽槙」詩の景物描写「旧聞洞庭水、今上岳陽槙。凹凹東南堺、
乾坤日夜浮。……」と較べても劣らない。院籍の景物描写について言う「晴月・涼風・高
雲・碧宇の致き」はそれらと同等であると王船山は指摘しているものと思われる。言うま
でもなく六朝人院籍の「詠懐」其一は「三三號外野、朔鳥鳴北林」と続くので、浅人で下
卑たお喋り侍女風の唐人孟浩然とは異なり、風雅の「旧き」は損ねていない。
すなわち「晴月・涼風・三雲・三三の致き」とは、饒舌でなく、心浅からず、卑下せず
に情理を宣べ、儒の風雅の理念を損ねることのない景物の「歩き」である、ということが
一2一
先ず明らかとなる。
③「歩兵の『詠懐』は、自ら是れ暖代の絶叫にして、遠くは『国風』を紹ぎ、近くは『十
九首』に出入し、而して高率の懐ひ、引回の気を以って、神似を離合の間に取る。」
(六朝人一軍の「詠懐詩」は稀代の傑作であって、遠くは『詩経』の「国風」を継ぎ、彼
に近い時代では「古詩十九首」を継いでいて、群籍はそれらと接触した際に、自らのもち
前の「高樹の懐い、脱穎の気」を用いてそれと神和することが出来ている。)
玩籍「詠懐詩」は、怨むも言はず、誹るも乱れない、節度ある「小藩」から出るとする
のが『洋品』以来の通説であるところを、王船山はその説を採らず、色を好むも覚れない、
風雅な「国風」を継ぐとしている。『詩魂』では「十九首」が「国風」を継ぐとされるが、
王船山は、離籍みずからが元来持つ「高士の懐い、脱穎の気」が働き、それらの直系とな
ることで、浅からず、卑下せず、怨み誹りを超越した風雅な「晴月・涼風・高雲・碧宇の
葺き」を入手した、と見ている。
四
④「大要は晴雲の舳を出つるがごとく、野幌として定質無きも、而も当に其れ極まらざる
所有るべく、則ち弘忍の力は、荊・最を肉視せり。」
(それは概ね蘇載の言う「晴雲の曲より出つるがごとく、鋒巻として定質無し」であり、
当然極まらざる所が有って、その持つ忍びに忍ぶ力は、刺客の三朝や麟政を「肉視」して
いるのである。)
次いで王船山はこの④の章段で「晴月・掠風・高雲・碧宇の致き」を「晴,月・涼風・高
雲・碧宇」という四:景物中の「高雲」一景で代表させて明らかにする。それは空を行く雲
であって、極まる所の無い「致き」ということになる。
これは院籍自身が自らの真なる表現を「雲」に喩え、 「答伏義書」の中で「玄雲に玉体
無し」と言い、さらにそのような自らを「弘脩淵遡なる者・蜜攣神化する者」と言ってい
るのに基づいている〈2>。そして王船山は、後述するように、「擬『詠懐詩』」の中でこ
の「櫛目調書」中の「玄理無定髄』を院籍「詠懐詩」の景物描写の特徴として転用し、同
時に目無その人の真なる表現の喩えにも用いて行く。
しかし蘇東披が「竿縁民師書」で「所示書局量詩賦雑文、観之熟 大。略如行雲・流水、
三無定質、但常行於所挙行、挙止陣所不可不止、文理自然姿態畢生。孔子日『言之不文、
行寺町遠。』又日『僻巡演已尖。』……」 (示す所の書教及び詩賦雑文は、煙れを観て熟
すること大なり。略ぼ行雲・流水のごとく、初めは定書無きも、但だ常に当に行くべき所
に行き、常に止まらざるべからざる所に止まる、文理自然にして姿態横ままに生ず。孔子
日はく『言の文ならざるは、行くも遠からず』と。又た日はく『辞達するのみ』と。……)
と言うように、それは当初は定質が無いように見え、やがては行き着くべき所に行き着く
一3一
「致き」でもある。
王船山は、曹操「秋胡行」詩評でも「二子謄所云『行雲・流水、初無定質』」について、
「維有定質、故可無定文」と言っている。 「初めは定質無し」ではあるが、やはり最終的
には「これ定心有り」となる「致き」である。
それは、『左傳』裏公二十五年の条の「言之無文、行蒲不遠」、および『論語』衛盤公
篇の「辞達温言 」を踏まえていることからも知られるように、詩文は言い方は遠回しで
も気持ちが伝えられれば好いとする儒の理念に行き着く。
そのことに関しては王船山は、自らの史観を述べた『讃通鑑論』の巻二十五「唐憲宗」
三に、 「文章之用、以二道義之殊塗、宣生人之情理、簡則難喩、重則増疑。故工文之士、
必務推量宛折、暢快宣通、而後可以上動君聴、下感民悦。於是正逸品心於四維上下、古今
巨細、高議而引伸、一如其一己巳之藏、三品直心之所不能舎。則蘇載所謂『行雲・流水、
初湯定質』者、是也。……」 (文章の用は、道義の塗を殊にするを顕らかにし、生人の情
理を宣ぶるを以ってするも、簡なれば則ち喩え難く、重なれば則ち疑ひを増す。故に高文
の士は、必ず推塗宛折、愉快宣通に務め、而る後歯って上は君の聴くを動かし、下は民の
悦ぶを感ぜしむべし。是に於いて其の心を四維の上下、古今の巨細に游逸せしめ、触るる
に随ひて引伸し、一ら其れ容に已むべからざるの蔵のごとく、乃ち当世の舎く能はざる所
と為る。則ち言出の所謂「行雲・流水、初めは定質無き」者、是れなり。……) 〈3>とい
う詳細な説明を展開し、詩文は言い方は遠回しでも気持ちが伝えられれば好いとは、逆に
「簡なれば則ち喩え難く、重なれば則ち疑ひを増す」とならない、些か遠回しの、あるい
は節度ある表現によって、主君に聴かせ民を悦ばせるのであるとする。すなわち儒の風雅
の理念であるが、それを「行雲・流水、初島晶質」と説いたものと思われる。
そこで王船山は、その「雲」を院籍を模倣対象とした擬作「擬『詠懐詩』」の中で頻用
し、 「浮雲……連蜷相異態、奄忽如有慧」 (浮雲は……連蜷として態を相異にし、奄忽と
して悪る有るがごとし「其三」)、「浮雲無雷魚、消減恵良然」 (浮雲に帰る躍無く、消
減に良に然る有り「其三十」) 「夏雲……数爾清風生、動宕無幽居」 (夏雲は……数爾と
して清風生ずれば、晶晶として恒には居る無し「其七十一」)等と詠んでもいる。
例えば、 「擬『詠懐詩』」其十八では、次のように詠む。
浮雲起東南
浮雲東南に起こり
悠然驚西北
悠然として西北に驚す
験影無二i留
急心は滝留する無く
凝望滋迷惑
凝望すれば滋すます迷惑す
前者心証散
前む者は既に薫散と
二二空関心
後れて来たるは空しく聞黙す
二二仰富者
豊に仰ぎ観る者のために
停 從察識
を停めて察識に従はんや
一4一
これは院籍の景物描写の特徴を詠んでいると同時に、院籍その人の真なる表現の「定体
無き」特徴をも捉えている。それを王船山は儒の理念として定義のより明確な蘇東坂「答
謝民師書」の「行雲……初無定質」を用い、新たに言い換えている。
したがって、玩籍の景物描写の特徴および真なる表現は「雲」のように「定体」「定質」
が無く、人の「察識」に従ってはくれないものであると言う。
それは玩籍自身が「出直の力」で忍びに忍び、真の表出を露わにしていないからである。
勿論それでも行き着くところはある、それが刺客の荊朝・譜政の「素面」〈4>であり、後
述するように口羽や劉邦、延いては司馬昭のような権力者の「忌日(竪子)」視である、
と王船山は続ける。
もちろん院画は「弘忍の力」によって表現を堪え、それを直接的な言動に表してはいな
い。誌面・劉邦に間接的に言及したとは『音書』にあるが、荊朝・醤政にはもはや言及し
ていない。院籍が「荊・竈」の手法を採らなかったのは、刺客は「仁を踏む」ことに反す
るからであると、王船山は見る。
王船山自身は、竈政には言及していないものの、荊輌については、 「仁を踏む」の反証
として『讃四書大全説』論語衛蜜公篇において彼を例に取り、 「殺身以成仁則宜、殺身以
求仁則不可、故知必死者凡慮能踏仁也。秦始皇之二二甚尖、荊輌之刺之、量日不惑。一朝
所以不得爲仁者、非輌所當成之仁而出品、則非謙瓦之道。徒躇死地以訳出、便是西名、非
天理人心固有之理。此與躇水火翁面、非躇仁也」 (身を殺して以って仁を成せば則ち宜し
きも、身を殺して以って仁を求むれば則ち不可なり、故に死を踏む者の能く仁を踏むに非
ざるを知るなり。秦始皇の毒を流すは甚しく、豪雨の由れを刺すは、豊に不当と日はんや。
然れども朝の仁と為すを得ざる所以の者は、朝の当に成すべき所の仁に非ずして之れを刺
せば、則ち暴を回するの道に非ず。徒らに死地を踏みて以って仁を求むれば、便ち是れ名
のためにして、天理人心固より有するの理に非ず。此れ水火を踏む者と同じく、仁を踏む
に非ざるなり)と言っている。このように視ることが「肉視」であろう。そしてそのよう
に「肉視」する際に、「晶出の力」を院籍は必要としたとする〈5>。
王船山は『古詩評選』の中でよく「学力」という語を用いる。この語はもどもとは仏教
要語で、「古詩」の特徴を捉える評語の一つとして借用されている〈6>。
この「忍力」についての詳細は稿を改めて論ずる必要があるが、王船山は『讃四書大全
説』孟子公孫丑上篇で「『忍』者、情欲獲而禁池母襲、須有力持之事忌」 (「忍」とは、
情発せんと欲して之れを禁じて発する母からしむるに、須らく力めて持するの事有るべし)
と言う。文意を浅くしないために、逆に情の発露を禁じ、言動や表現をあからさまにしな
い「力」を、概ね言うものと思われる。やはり既述の儒の風雅の表現手法に通ずる。
そして王船山は院籍の立場に立ち、やはり「擬詠懐」詩で自らの得心のいく荊朝像を詠
み、その「弘忍の力」を用いて「肉視」する。例えば、
其十一
燕毫多高風 燕台には高風多く
一5一
易水揚洪波
易水は二二を揚ぐ
白日照綺疏
白日は綺疏を照らし
冠同相経過
冠蓋相経過す
二三古今間
踵属たり古今の間
感慨何二等
感慨何ぞ其れ多きや
三二無三三
疸上計復託
望諸は駕を返す無く<7>
あやま
沮上も計復た託る〈8>
黄金蜜巳蕪
黄金台已に蕪れ
北望空山阿
北のかた空山の阿を望む
二子述云遠
丁子二三に遠ければく9>
二二紹悲歌
誰か為に悲歌を紹がんやく10>
と詠み、また、
其三十九
二三歌生平
酒を酌みて生平を歌ひ
疇昔亙不忘
つひ
燕三振悲吟
二二三吟を振るへば
哀風爲止揚
哀風信に瓢揚す
磨創寒水濱
剣を寒水の浜に磨けば
躊昔話に忘れず
星,月、ま鋒錺に欝やく
星月温品銑
誓身二二間
身を誓ふ二二の間
柳島烏鳶腸
話か烏鳶の腸を充たさんことを
堂上悲白髪
堂上に白髪を悲しむも
恩愛不得將
恩愛は将みるを得ず
旧懐蹟中路
歌懐は中路に蹟き
宵旦泣上裳
宵旦泣きて裳を鱈す
四丁無能宣
義二二有方
声を呑みて能く宣る無きは
二三各おの方有ればなり〈11>
と詠む。
院籍がもしも「荊・覇」を詠むならこのように詠むと言わんばかりであるが、荊輌を「肉
視」するとはこれらの旧作に詠むように視ることかと思われる。国を救えぬ「秀士」や死
して名を残すことにのみ奔る「二士」が院籍の原詩に詠まれるが、それは王船山に拠れば
「悲歌」 「門門」の対象としかならない士であって、英気・英風が計の成功に繋がらない
者である。それは「仁を踏む」に反しているからであろう。玩籍の一見「定質」の無い表
現の行き着くところは、王船山に由れば、一つはそこではないか。院籍は直接的な行動に
出て失敗することのない、「読まらぬ」「願かぬ」士であることを志向した、と王船山は見
る。それには「仁を踏む」表現をすることが欠かせない。荊輌の手法とは異なる、あから
一6一
さまを避けた、節度ある儒の風雅の表現により、払子司馬昭らを院籍は刺す。
五
⑤「且つ其の託体の妙は、或は以って自ら安んじ、或は以って自ら悼み、或は物外の旨を
標し、或は邪を疾むの思ひを寄せ、意は固より径庭なるも、言は皆一致し、其れ但だに然
るのみなりと信ずれば而も又た徒には然らず、其れ必ず然るかと疑へば而も彼固より然ら
ぎるなり。」
(しかも院画の比喩仮託表現の絶妙さは、自らを安堵させたり、自らの心を痛めたり、現
象外の哲学を表現したり、邪悪を憎む思いを込めたり、意味する所はなるほどそれぞれで
あるが、言葉は皆同じであって、言うことを単にそうだと思うと単にそうではないし、果
たしてそうだろうかと疑うとそれはその通りそうではないのである。)
「心月・涼風・高雲・碧宇の幽き」のある玩籍の景物描写は、 「直面・高雲」のごとく
に意味する所はそれぞれの受け取り方がなされるが、言わんとする所は一に帰する。それ
を成立させているのが「弘忍の力」であるということになる。
六
⑥「但だに当時の雄蕊の面長の、其の怨忌を施すべき無きのみならず、且つ千秋以還をし
て、了に脚根の処を覚むる無からしむ。蓋し詩の教へたるや、性情に相求められ、固より
当に岳人の耳目を以って選りに取るを容るべからざらん〈12・13・14>。」
(したがって猜疑心の強い当時の領袖司馬昭に、怨みを抱かれなかっただけでなく、千年
来、志の根底にあるものを探られないでいる。思うに、『詩経』の「温柔敦厚」の教えと
いうものは、人の性情により知られるものであって、もとより浅薄な人が耳目を使って頻
りに知ろうとしても無理であろう。)
王船山は『虚心』三九「四、馬伸請張邦昌復辟」で、 「出語之雄猜也、徐庶以劉先主之
故、終身不爲一八。操能殺筍或而不能殺庶、委順何爲也、然猶日嗣未嘗鯛操之忌也。司馬
昭之根回、院籍心止表、而以箕回忌節期之。昭島脂玉康而不能殺籍、隠黙何爲也、然回気
題辞而未直言之也」 (曹操の雄猜なるや、徐庶は劉先主の故を過って、終身ために一たび
も謀らず。操能く筍或を殺すも庶を殺す能はざるは、委順何をか為さんや、然れば猶ほ庶
は未だ嘗て操の忌むに触れずと日ふがごときなり。司馬昭の猿るや、院籍はために表を艸
するも、而も箕頴の節を以って之れを期す。昭能く梧康を殺すも籍を殺す能はざるは、隠
黙何をか為さんや、然れば猶ほ微辞にして未だ論れを明言せずと日ふがごときなり)〈15>
と言っている。尭から天下を譲ろうと言われた隠士の許由は汚れた耳を巨水で洗い、同じ
く隠士の巣父はその汚れた頴の水を牛に飲まさず、ともに箕山に隠れた。院籍も彼ら「頴
水の隠士」と同然であり、「箕山の節」を通したために、司馬昭に殺されることが無かっ
たと言う。それは「面訴」であったためではなく、誠刺は含んでも決して明言しなかった
からである。すなわち「『詩』の教へ」に通ずる。③で述べた「国風」の風雅の理念が院
一7一
籍「詠懐詩」全体の景物描写を支配し、心の奥底を覚られることなく、忍力が黙秘を超え
「詩教」すなわち「温柔敦厚」となって現れている(詩が陥りがちな、深まらずに「愚」
に失するというようなことはない)、とする。ここで「三月・涼風・高雲・四三の旧き」
がいっそう明らかとなる。
七
⑦「況んや公は凹く劉・項を視て七子と為せば、則ち人頭の智を畜ふる者の公を測るべか
らしむるも、洒上の亭長をして唇を反さしむるに幾からざるをや。」
(まして院籍は劉邦や項羽をしばし丁子と看倣していたのだから、いっぱしの知者が院児
を推し測ったところで、初め洒上の亭長となった即下のような輩に唇をこれっぼっちも尖
らさせないのはなおさらである。)
この⑦の章段では「高雲の致き」の行き着くところとして、項羽も劉邦も「英雄」でな
く「孫子」と視る。同様に司馬昭をも「濡子」と視るが、それと明言せずに、詩を読む者
にそれと知らしめている。 「二子」を「三子」と言わずに「二子」たらしめるのが凸凹の
「致き」であり〈16>、儒の「下達す」が完遂することになる。
八
⑧「人には固より自ら分際有り、知音を老姻に求むるは、必ず白居易にして而る後爾るべ
し。」
(詩人にはもとより分相応というのがある。理解者を老姻に求めようとして分かり易くし
たのは白居易以降の詩人である。)
院籍は自らの理解者を世俗には求めなかった時代の詩人であるから、むしろ意図的に明
言しない方針で詩を作っている、「濡子」を「二子」と明言して詩を饒舌にし、心を浅く
した白居易ら中唐以降の詩人とは異なる、と王船山は最後を括る。
王船山は陶潜「蹄田園居」詩評でも「……若以近便爲平、無味爲淡、唐之元・白、宋之
欧・梅、擦丁丁爲勝場、而一行欲了、引之弓長、精意欲來、去之若驚、乃以取適老麺、見
稻蟹夷、自相張大、三三不知曝背之非暖、而欲厭之也。……」 (……若し以って便に近き
は平と為し、味無きは淡と為さば、唐の元・白、宋の欧・梅は、此れに拠りて以って門門
と為し、而して一たび行ひて了らんと欲すれば、之れを引きて長ぜしめ、精意来らんと欲
すれば、下れを去ること干るがごとく、乃ち適を二二に取るを以って、蛮夷と称せられ、
自ら相張大すれば、則ち亦た背を曝すの暖きに非ざるを知らず、而して之れを献ぜんと欲
するなり。……)と言っている。
陶淵明の詩の境地は、俗に近いので「平」、味が付いていないので「淡」というのでは
ない、もしもそうであるならばそれは「適を三下に取る」ということになる。しかし「知
音を老堰に求む」は元・白、欧・梅の丁田場であって、陶はその対極にある。院も陶と同
じく、 「知音を老麺に求む」ということはしなかった。
一8一
王船山の院詩評選の意図は、院籍「詠懐詩」の景物描写の極まる所を明らかにするのが
主目的ではなく、それはすでに司馬昭の一子視に行き着くと決まっているものの、刺客二
六らのような儒の理念に反する直接的な表現手法は採らず、一見「定質無し」ではあるが、
そこは忍力で堪iえ、『詩』国風の風雅の理念を紹いで、詩の教え「温柔敦厚」が現れるべ
く、一人の儒として誹る怨むを超越した表現を行った、ということをむしろ指摘している。
それが「晴雲の山由を出で、面上として定論無し」とも言える院籍「詠懐詩」の景物描写「晴
月・涼風・直面・碧宇の致き」の具体化ということになるのではないか。
結語
皇籍「詠懐詩」の難解さを、その景物描写に注目し、そこにはいわば儒の直言・証言を
避ける「致き」が支配しているからであると指摘し、院籍を道家者ではなく、当時の儒家
の実践者の一人として位置づけようとしている点が、王船山の創見による文学史上の院籍
および「詠懐詩」評価と言えよう。
院籍はもとより「言を発すれば弘遠、口に人物を減面せず」の人であるが、その文学の
目的は司馬昭らの批判というよりも、むしろ彼ら雄猜を濡直視し、ものを言わせないこと
に在ったのではないかということが見えてくるように思われる。その詩表現が誹りや怨み
を超越し、温柔敦厚を志向しているというのはそのためであろう。王船山はその点を『古
詩評選』冒頭の評価の言で指摘しているものと考えられる。
註
て1>「晴月・涼風・高雲・碧宇」の四景物は、それぞれ院籍の詩文中にそのままでは現れ
ず、たとえば「……清陽曜霊、和風容與。明月映天、甘露被宇。……」 (四囲「詠懐」其
一)等のように現れている。語の典拠は未詳であるが、箇々の語は、 「晴月」は例えば、
劉基「題墨竹」に「風振舞空話、露葉滴一月」と見え、また王船山「鼻高雨詩」四首之二
「晴月一平北斗移、春燈長話桂山時。」と見える。同様に、 「涼風」は王船山「論詰歩兵
詠懐」一三に「掠:風西南來、吹此浮雲興」と見え、 「高雲」は穂康「兄秀才山雨三軍贈詩」
に「仰訊高雲、傭託輕波」と見え、「碧宇」は船山の敬愛する劉基や宋演らの師である儒
者呉莱の「隻林寺…」詩に「青椿並聾碧宇上、落葉散到人家村」と見える。
〈2>面面「山伏回書」に「……玄雲無定言、悉龍不払儀。或朝出夕巻、翁忽代興、或泥潜
天飛、二品宵升。心髄則八面不足暢 、促節則無間六出從容。是又薯出所不能謄、環轟所
不能解也。然則弘脩出演者、非近点所能究臭、璽饗神化者、非湯器所能察 。……」とあ
る。
〈3> 「推塗」は、『易』繋僻・上「八卦相盈」に基づき、運行推移する意。
〈4> 「肉感」は、張九齢「獅子賛序」に「肉視犀象、弦白熊罷」とある等、重視しないこ
と。他にも、 「肉視法諺忘ヒ箸、氣呑同列削寒温」 (李徳裕「失題」詩、あるいは温庭笏
「題李衛公詩」とも)、 「以寡制衆、彼讐我猫、錐言肉視、誼得心服」 (徐貨「†荘子刺
一9一
虎賦」)、 「肉詞華后、三二二二」 (『通鑑』巻第二百九十一)、 「郡縣虎冠二二、二二
大家」 (呉偉業「孫二二二人壽序」)、「餓狼籐虎、回視吾民」 (王三三「敬:史」)、「讐
二三視我、張三論二三」 (陳迦陵「実故友周三夏侍御五言古一百韻」)、 「荊卿游燕市、
酒酎意二二。……秦王肉二二、砂若廷無人。……」 (彰孫胎「燕山懐古」六首之三)、「王
応身爲朝廷重:臣、驕晶晶権、輕慢綱紀、肉這出臣、潜血朕躬、四温無度、有負衆望、……」
(『趙愚論』第十八章「苗訓磁心机」)、「官回忌富、肉視之。」 (『晶晶誌異』巻三「小
二」)等に用例が見られる。
〈5>荊輌については、王船山『古詩評選』左思「詠史」詩評にも「詠心心詩古今不下百首、
屑屑鋪張、裏袖撞拳、皆浮氣耳。代言薙籍春容、三二生色。余話滞太白『経下魚晶晶』詩、
正以旧故。以頽塗面、桂髪爲韓、優人之雄、何足衿也。荊卿英氣、正在高歌燕市時、到易
三二別、巳自三二。詠史二三三三、方干古人有相料理虚。」と言う。
李白が「経回二二橋二二子房」詩(『唐詩二選』には載せず)で「子房未二二、破産不
等家。槍海得三士、椎秦傳三三。二二錐不成、天地皆振動。二二三下郵、二日非智勇。我
二二橋上、懐古欽英風。二見碧流水、二二三石公。嘆息此人去、薫二二二二。」と詠んだ
ような芝居の役者のごとき刺客(二二が起用した、始皇帝に椎を下した士)は、i吟るべき
気概が捉えられておらず、不満がある、荊朝を詠むのなら二水の饒別の場面ではなく、燕
市で高らかに歌っている場面に、その生き生きとした顔つきや英気を看取すべきであると
言う。
〈6> 「忍力」という語は、『唐詩二選』および『明詩評選』には見あたらない。『古詩二
選』にのみ、古樂府雑曲「羽林郎」詩評「・…・・文筆之差、二二忍力也。如是不忍二不二、
不力亦二二忍也。」、三二「與蘇武」詩評「……二二之跡微、大回之三三、……」、曹操
「碍三二」詩評「二二愈迫、二二之至。二丁一法二三。忍字固不如二二。」、左思「弓隠」
詩評「……心神之二二忍刀、要二成乎作者。十九首固有此二二 。」、二三「二王義興七
夕」詩評「役回二二、而絶不二瀾。引浦之絵、大有忍力。」、楊素「三二二二贈二二史」
詩評「……『二二横古樹』以下、平二八句、定忍二二二二、二二其不整暇耶。……」等と
見える。
或いは陳詞章「忍字賛」 (『白沙子』巻四)の「七情之獲、惟怒活写。衆逆乱加、惟忍
爲是。絶温言難、庭山非易。當怒火炎、以忍水制。忍之又忍、愈忍晶晶。過一百忍、高張
公訴。不二大謀、其二品濟。如其不忍、傾敗立至。」を踏まえるか(「張公藝」は『資治
通鑑』谷第二百一に「這出人張晶晶、九世同居、齊晴唐皆施表其門。上過壽張、幸島宅、
問所以能続出之、血温藝書忍字百絵心進。上善忌詞以練畠。」と見える)。
〈7>望諸君樂毅は燕を去った。
〈8> 「沮上」は蘇秦の流されたところ。
〈9> 「二子」は高山離を指す。
〈10>三二「詠懐」三十一(『古詩評選』登載) 「湛湛長:三水、上有楓樹林。皐上被径路、
三三逝騒騒。遠望令人悲、春氣感我心。三丁丁秀士、朝雲進荒淫。朱下振券芳、高察相可
一10一
尋。一爲黄雀哀、涕下誰能禁。」を原詩とする。
〈11>玩籍「詠懐」其三十九(『古詩評選』には登載されず) 「壮士何慷慨、志欲威八荒。
記田遠行役、受命念自忘。良二二云云、明固有精光。二三不三生、身死魂飛揚。豊爲全躯
士、敷二二戦場。忠爲百世榮、義使令名彰。垂聲謝後世、二二故二三。」を原詩とする。
〈12> 「三富」は、謝蟹運「擬魏太子心中集八首」序に「漢三二時、徐樂諸丁丁丁丁之能、
而雄猜二品、二三言言之適。」とあり、注に「向日、三二二三二三、亦不得明言封之善。」
と言う。また欧陽脩「泰誓論」に「以紺之雄猜暴虐、二二九二而二郷侯 。」と見え、『資
治通鑑』にも「秦二二粛雄山、二二朝口二二計。」と見える。
〈13>「直根」は志の根底にあるものを言い、「三二守聖賢訓戒、以二二脚。」(朱嘉「答
縢徳島」)とある等、王船μ」の信奉する朱子の常套愛用語としても知られる。
〈14>王船山は朱子を祖述することがあるので、 「詩教」に関しては或いは『論語』二三
篇の「思無邪」説を採っているかも知れないが、今は暫く措き、 「二二邪」説は「二三且
怒」であって「怨而不怒」ではないとする孫明君の論ずる所に従い、通説の『禮記』経二
品「孔子日、入其國、正教可知也(鄭氏註、観其風俗、二二其所以教)。其二人也、温柔
敦厚、二二也。……故詩之失、愚。……其三人也、温柔敦厚二不二、二三二巴者也。」に
言う「温柔敦厚」説を採っておく(孫明君『漢心文学与政治』商務印書館2003年所収の「詩
話以怨j論による)。
〈15> 「斥言」は、直言、明言。 「微辞」は、乱曲ではあるが風刺を含む語。明の二二『詩
話補遺』に「……蓋當是時、魏明帝郭后・毛后、妬寵相殺、正類武霊王事、故隠語怪説亦
春秋定訴訟微辞意也。顔延年日、乱淫身事翫朝、常二二禍、二二詠懐、雄志在畿刺、而文
多隠避、百代之下、難以情心。故粗明大意、二二幽二二、信哉。」とあり、明の張淳「漢
魏六朝百三家集」題詞にも「……詠懐二二、山隠指遠。定哀三際二二僻、二二類也。」と
ある。
〈16>『証書』晶晶傳に「嘗登廣武、二二三二庭、二日『時無英雄、使竪子成名。』」と
ある。また、王船山は玩籍「二言詠懐j詩の評でも「曹公『月明星稀』四字、二刀千古。
孟宗以『天高氣寒』敵之、緯有絵夷。如二相逐申原、英雄・二子、未知三二阿誰。」とい
う言い方をしている。 「英雄」の反対概念として「二子」はある。 「三智」は、 「孫卿子
日、聖人二二而不二仁、畜智而不二智、畜二二不二二。」と見える等。 「洒上亭長」は劉
邦が就いた最初の職。 『論衡』紀二二に「漢高皇帝以二二三崩三歳、爲洒上亭長」と見え
る。 「反唇」は、心中不服のために唇だけが動くことから、相手に対する不満、反対、対
立を表す。 『史記』平準書に「張湯又與顔異三二、二人三二二三回議、三下湯治異。異與
客語、客語初令下有不便者、異不磨、徴反唇。二二異當九卿見隠不便、不入二丁腹誹、論
死。自是之後、有腹誹之法、而公卿大夫多諸談取容 。」とある。
一11一
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