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研究成果Vol.20(P1

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研究成果Vol.20(P1
ルイス・デ・モラレスの聖母子像と日本イエズス会による
芸術制作の関係性についての考察
小 谷 訓 子
講 師
教養課程
平成 25 年度
この研究は、現在東京のサントリー美術館と、
に日本イエズス会によって制作された作品であ
オランダのユトレヒトのカタライネコンベント博
ると同定することができる。セミナリオの画家た
物館に所蔵されている二枚の聖母子像を取り上
ちは、ヨーロッパの芸術作品を巧みに模倣するこ
げ、それらがスペインの画家ルイス・デ・モラレ
とに精通していたのだが、俄に習得したヨーロッ
スの作品をモデルにした日本イエズス会の絵画で
パの絵画技法を充分に使いこなすほど理解して
あることを確認した上で、モラレス作品と日本イ
いたわけではなかった。従って彼らの作品には、
エズス会作品の関連性を美術史的に考察すること
描写の細部に未熟な絵画技法の痕跡がみられる
を目的に進めた。
のである。
先ず、サントリー美術館に所蔵され、
《花鳥蒔
日本イエズス会によって制作されたこの二つの
絵螺鈿聖龕》と題される聖母子像は、高 37.5cm
聖母子像は、スペインのバダホスで活躍していた
× 幅 27.0cm× 厚 4.0cm、そしてユトレヒトの
画家ルイス・デ・モラレスの作品をモデルに描か
聖母子像は、高 38.5cm× 幅 28.5cm× 厚 7cm と
れたと考える。マドリードのプラド美術館、リス
いったサイズで共にアタッシュ・ケースほどの大
ボンの国立古美術館、そしてロンドンのナショナ
きさである。二作品とも蒔絵と螺鈿の装飾された
ル・ギャラリーに所蔵されるモラレスの聖母子像
漆の扉付き聖龕に嵌め込まれている油彩銅版画で
計五枚を、問題の二作品と比較し、様式分析すれ
ある。その基本的な構図や、画中の幼児キリスト
ば、その類似性は明らかで、日本イエズス会が作
が左手で聖母のヴェールを引っぱり、右手で聖母
品を制作するにあたって、モラレスの作品をモデ
の乳房を探る動作表現などが類似していることな
ルに模倣したことがよくわかる。ではスペインの
どから、両作品の制作時期、場所、そして制作目
地方都市バダホスの画家の作品が、如何なる経路
的は、同じであることが伺える。また二作品とも、
でもって日本のイエズス会の手元に届いたのであ
日本製の漆工芸を施された聖龕をフレームにして
ろうか。
いる上に、画中のぎこちない短縮法や、解剖学的
バダホスは、ポルトガルとスペインの国境近く
に不正確な人体表現といった日本イエズス会セミ
に位置し、地理的にはポルトガルのエヴォラに非
ナリオの画家たち特有の描写を表していることか
常に近い場所にある。ルイス・デ・モラレスは、
ら、16 世紀後半から 17 世紀初頭にかけての期間
そこで生まれ育ち、バダホスの司教ホアン ・ デ・
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リベラとドン・ディエゴ・デ・シマンカスの二
深く絡み合っていた。相次ぐポルトガル王の死と王
代に渡ってのパトロネージを受けながら、画家と
族同士の姻戚関係によって 1581 年にはスペイン王
してのキャリアを積んでいった。当時のバダホス
フェリペ二世がポルトガル王位を継承する。フェ
は、カトリックの聖職者たちが頻繁に立ち寄り、
リペ二世が没する 1598 年まで基本的にポルトガ
活動した場所でもある。例に挙げるならば、ドメ
ルとスペインの政治は合併されている状態とな
ニコ修道会のルイス・デ・グラナダは、1549 年か
り、このような政治状況においては、ポルトガル
らバダホスに移り住み、1550 年代に数多くの著作
との国境近くに位置するバダホスで活躍していた
を執筆する。実は、それらのグラナダの著作は、
スペイン人ルイス・デ・モラレスの作品が、イエ
ほとんど全てが日本に輸入され、日本イエズス会
ズス会の手によってリスボンからポルトガルの
の手によってキリシタン版として出版されてい
キャラック船(ナウ船)に乗せられ、インド洋を渡
る。従ってバダホスは、単なるスペインの地方都
り、東回りで日本に辿り着いていたとしても何ら
市ではなく、そこからカトリック教会を媒体とし
不思議はない。
て世界へ繋がる場所でもあったのだ。
アメリカ人美術史家ジョナサン・ブラウンは、
日西関係と両国文化交流の歴史を考えるとき、
その始まりとして語られるのは常に、ガレオン船
ルイス ・ デ・グラナダの著作が当時のスペインで
でもって大西洋、アメリカ、太平洋経由の西回り
非常に流行していたことを挙げ、ルイス・デ・モ
でフィリピンを拠点に来日した時点である。しか
ラレスの代表作《ピエタ》を解釈する時に、同時期
しながらそれ以前にも、スペインのナバラ出身の
に出版されたグラナダの『リブロ・デ・ラ・オラ
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを筆頭
シオン・イ・メディタシオン』の一説を引用し、
に、インド洋を渡って東回りで来日したスペイン
モラレスの《ピエタ》がグラナダの著作の記述を
人やスペイン文化が存在することを忘れてはいけ
例証すると論じた。このイコノロジー的解釈は、
ない。この研究を遂行するにあたっては、その点
ブラウンだけでなく、1950 年代から数名の研究者
も考慮しながら、ルネサンス芸術がグローバルに
が唱えている論であるが、恣意的な要素は完全に
伝播していく事象を解明することに努めた。
否めないものの、対抗宗教改革が浸透している当
時の宗教文化を考えれば妥当な解釈であると言え
よう。ブラウンは、画家としてのモラレスを「モ
デル作品のレプリカを複数制作する注文を受け、
それで有名になった」と評し、この画家が一つの
モデルから数多くの複製を制作する能力を持ち合
わせていたことを記す。このようなモラレスの制
作の傾向は、先述した五点の類似する聖母子像を
見ても明らかである。
16 世紀後半のスペインとポルトガルの政治は、
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