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中歴200204全ページ

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中歴200204全ページ
歴史をどのようにとらえるか
卑弥呼と東アジア情勢
国立歴史民俗博物館 仁 藤 敦 史
1
なのくに
わ じん
奴国成立以前の倭人社会と外交
「倭国乱」が卑弥呼の「共立」により収拾され
た2世紀末以前の状況は、中国側の史料によって
も、断片的にしか伝わっていない。そのうちの一
つである1世紀後半に成立した中国前漢の正史
かん じょ
らく ろう
『漢 書 』地理志には、「それ楽 浪 海中に倭人あり、
な
けん
分かれて百余国と為る、歳時を以って来たりて献
けん
見すと云う」とある。これは、紀元前1世紀ころ
の倭人社会が中国王朝から「国」と認識された百
余りの集落連合から構成され、その中には定期的
ちょうこう
に朝鮮半島の楽浪郡に朝 貢 していた国も存在し
たことを示しているが、この段階の「百余国」と
がある。このうち大夫と極南界についての記載は、
ぎ
し
よ
は、おそらくは北部九州を中心とした地域であっ
『魏志』倭人伝にみえる「古自り以来、其の使い
たと想像される。したがって一世紀後半以前の小
の中国に詣るときは、皆、自ら大夫と称す」「次
国分立段階から中国王朝とは朝貢関係を有してい
に奴国有り、此れ女王の境界の尽くる所なり。其
たのだが、この段階では「倭人」という人種的表
の南には狗奴国有り」という文章を下敷きにして
記のみが用いられており、「倭国」というまとま
いるが、建武中元2(57)年、奴国が後漢王朝に
りや国々を束ねる「倭王」の存在はまだ見られな
冊封され、印綬を与えられたとある部分は『後漢
い。
書』のオリジナルの記載である。この時に与えら
く
な こく
し かの しま
2
れた印は、天明4(1784)年に福岡県志賀島で発
奴国の出現と後漢王朝とのかかわり
見された「漢/委奴/国王」と彫られた金印(国
ご かんじょ
一方、『後漢書』は『三国志』よりも後の5世紀
宝、福岡市博物館蔵)に比定されている。
奴国は、『魏志』倭人伝によると「二万余戸」
に成立し、多くの記述は『三国志』の要約的記述
なのあがた
という卓越した人口を有したとあり、後に「儺 県」
にすぎないが、
なのつ
『三国志』には見
(『日本書紀』仲哀8年正月己亥条)や「那津」(同
えない独自の記
宣化元年5月辛丑条)とみられる地で、須玖岡本
述もある。すな
遺跡(福岡県春日市岡本)を中心とした福岡平野
わち、建武中元
一帯に比定されている。首 長 墓からは漢代の中
(57)年のことと
国銅鏡など卓越した副葬品が出土し、奴国の王墓
す
く
しゅちょう
して「倭の奴国、
に比定されている。また、周辺からは青銅器・鉄
貢ぎを奉げて朝
器・ガラス製品が生産された大規模な工房群が発
みずか
賀す。使人は自
たい
見されている。金印の「漢委奴国王」の称号など
ふ
からすれば、当時の倭国が後漢王朝の支配秩序
ら大夫と称う。
倭国の極南界な
(天下)に包摂されていたことは明らかであるが、
こう ぶ
り。光 武 は賜う
「倭の奴国」の称号からすれば、いまだ倭国全体
いん じゅ
を統率すべき王号とはなっていない点は重要であ
に印 綬 を以って
る。ちなみに、『漢書』王莽伝には、元始5(5)
す」という記載
−2−
定される。倭国が長い間乱れて戦乱状態にあった
夫余
卑
烏桓
歳貊
燕
(公孫氏)
魏
徐州
黄河
長安 洛陽
准河
成都
楽浪郡
呉
によって、「平和」がもたらされたことになる。
倭
てん り
これを裏付ける史料とされるのが、奈良県天理
韓
とうだい じ やま
帯方郡
市の東大寺山古墳出土の鉄刀銘である。この古墳
建業
からは、「中平」(184 ∼189年)という後漢年号
会稽
武昌
蜀
が、卑弥呼を倭国の女王として「共立」すること
高句麗
襄平
を記した鉄剣が出土した。中平年号とは、「倭国
東治
乱」があったとされる中国の桓帝と霊帝の間
夷州
(146∼189年)の年号で、「光和年中」(178∼184
耳
年)の直後の年号である。邪馬台国がどこかとい
珠崖
う議論はさておくとしても、倭国の乱が治まった
三国時代の東アジア
直後の中平年間に造られた鉄剣が、中国あるいは
年のこととして「東夷の王、大海を渡りて、国珍
遼 東 半島を支配していた公孫氏を経由し、倭国
を奉ず」とある。不明確な記載だが、仮にこの大
へもたらされたことになる。したがって、「共立」
海を渡って珍宝をたてまつった「東夷王」が、絶
されたばかりの卑弥呼が朝貢して、中国からその
域の倭国からの使者とすれば、すでに前漢末期か
地位を承認する意味で剣が与えられたと考えられ
ら北部九州と中国との交渉を想定することができ
る。ただし、共立されたばかりの卑弥呼に、後漢
る。
から直接与えられたと考えるか、あるいは当時遼
りょうとう
こうそん
さらに『後漢書』倭伝には、安帝の永初元
すいしょう
東半島を支配していた公孫氏をいったん経由して
せい こう
(107)年のこととして「倭国王の帥 升 等、生 口
もたらされたと考えるかは、時期的に微妙で、判
断が難しい。
百六十人を献じ、願いて見えんことを請う」とあ
ひみこ(ひめこ)
る。また『魏志』倭人伝には、卑弥呼以前の倭国
について「其の国、本亦男子を以って王と為す。
4
卑弥呼と公孫氏との交渉
住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐する
公孫氏は後漢末から三国時代に中国東北部で勢
こと年を歴たり」と記載されている。倭国乱の年
力をもった豪族で、卑弥呼が魏へ朝貢する直前の
代について、『後漢書』倭伝は「桓霊の間」(146
景初2(238)年に滅ぼされているが、後漢末の3
∼189年)、『梁書』倭伝は「漢霊帝の光和中」
世紀初頭に、公孫氏は楽浪郡の南部を分けて帯方
たいほう
かん
(178∼184年)としており、倭国乱を遡ること七、
八十年前の男子を倭国王とした段階は、永初元
郡を設置している。『魏志』韓 伝には「建安中、
公孫康、屯有県以南の荒地を分かちて帯方郡と為
(107)年の「倭国王帥升」による朝貢を起点とし
し、公孫模・張敞を遣わして、遺民を収集せしめ、
かん
ている。少なくとも中国側の意識として、「倭国」
兵を興して韓 ・ を伐つ。旧民稍出ず。是の後、
および「倭国王」成立の起点としてこの記事は位
倭・韓は遂に帯方に属す」とある。つまり、後漢
置付けられている。ここで倭国王が「帥升等」と
献帝の建安年間(196∼220)に公孫康は、楽浪郡
複数形になっていることが注目され、帥升は単独
の屯有県より南の荒地を派兵により平定、旧楽浪
で中国に朝貢したのではなく、形式的にせよ倭人
郡民を奪還し、帯方郡を置いたのである。帯方郡
社会を代表し、有力な国々を束ねる形で王として
分置の正確な年代は明らかではないが、父の公孫
君臨していたと考えられる。
度が建安9(204)年に没しているので、少なくと
もそれ以降と考えられる。
3
倭国の乱と女王卑弥呼の誕生
注目されるのは、立郡以降に倭と韓が帯方郡に
2世紀初めまでには、まず北九州において奴国
い
所属したと記載されている点である。この記載を
と
から伊都国への主導権の移動があり、さらに2世
卑弥呼によるはじめての遣使と解釈すれば、公孫
紀後半には「倭国乱」と呼ばれる騒乱により、伊
氏との関係で「中平」鉄刀を与えられた可能性が
や
ま たいこく
高いが、単に楽浪郡から帯方郡への所属替えを示
都国から邪馬台国への主導権の移動があったと想
−3−
すものと解釈し、後漢王朝への倭国王の朝貢は帥
従来、景初3(238)年における魏と卑弥呼との
升以来連続していたとすれば後漢王朝末期に直接
交渉は、公孫氏滅亡直後であることから、そのタ
卑弥呼に与えられた可能性が高くなる。しかし、
イムリーな遣使が外交における開明性として評価
すでに倭国の中国交渉の窓口であった楽浪郡は、
されてきた傾向がある。しかし、むしろそれ以前
こう く
り
2世紀末には高句麗の侵入などもあり衰退し、中
における公孫氏との交渉を前提に考えるならば、
国本土も中平元(184)年の黄巾の乱以来、後漢
卑弥呼にとっては公孫氏にかわる新たな後ろ盾を
滅亡まで混乱が続いていたので、中平年間に卑弥
早急に必要としたという、国内事情によるものと
呼の使者が後漢へ直接朝貢することは容易でなか
位置付けることができる。つまり、卑弥呼の「共
ったことが想定される。一方、2世紀末の段階で
立」により保たれた「平和」は、外国の権威と支
倭国乱が卑弥呼の「共立」により収拾されている
持により保たれていた極めて危うい秩序であった
とすれば、中国正史に記載は欠いているが、卑弥
ことになる。
呼と公孫氏が帯方郡を介して交渉していた可能性
以上のように「中平」年号の鉄剣に注目するな
は高いと考えられる。漢鏡の倭国への流入量が倭
らば、魏への朝貢以前に、公孫氏と女王卑弥呼と
国乱の時期に一時的に減少し、帯方郡の成立以後
の交渉がすでに存在していた可能性は高い。卑弥
再び増加する傾向を示すという指摘も、公孫氏と
呼は帯方郡を介して、公孫氏とどのような政治的
の交渉を裏付けている。
関係を維持していたのか。問題は、魏や呉に対す
ご
4
る公孫氏の政治的立場が時期により微妙なことで
公孫氏の滅亡とその後の外交
ある。すなわち、公孫氏は独立的な地位を占めな
がら、魏王朝から「遼東太守」に任命されるなど、
太和4(230)年頃までは良好な関係を維持してい
た。その一方で、呉ともしばしば交渉し、とりわ
そん けん
け嘉禾2(233)年頃には呉の孫 権 から公孫淵は
えん おう
「燕王」に冊封され、多大な「金宝珍貨」が送ら
れている。それについて魏側の史料では、公孫氏
が逆賊孫権の甘言により交通し貿易していること
を非難している。さらに、滅亡直前にも呉王朝に
臣従して派兵を願っており、呉の北方派兵も実際
に行われている。
こうした魏と呉の対立の最中に、倭国は帯方郡
へ遣使し、公孫氏からその地位を承認されていた
ことになる。したがって、倭国は公孫氏との良好
が もんたいしんじゅうきょう
な関係を維持し、「中平」年刀や画文帯神 獣 鏡に
代表される先進文物の導入を安定させるために、
一時的にせよ呉王朝との間接的な関係を有した可
能性も考えられる。卑弥呼の政治的立場を考える
場合には、こうした公孫氏をめぐる複雑な東アジ
ア情勢を考慮する必要がある。
この剣は、卑弥呼が中国か
ら地位を認めてもらうため
のしるしだったのね。
−4−
わたしの授業実践
思考力を高め歴史を学ぶ楽しさを味わわせる授業
∼人類の出現から文明の発生∼の授業実践
埼玉県加須東中学校 杉 田 勝
1
事実をカード化し、全体で話し合い整理する。そ
はじめに
れをもとにいくつかにグルーピングし、分類し仮
新学習指導要領での歴史学習は、時代区分を大
説を立てるとともに検証するための手だてを考え
きくとらえることとし、詳細な事象の学習に陥ら
る。さらに、検証する過程で明らかになったこと
ないようにしている。
をもとに、当時の人々の生活を想像し図やイラス
トにまとめるという流れで学習を進める。その際、
ここで扱う題材は、日本列島において人々の生
活が始まった頃である。この時代は、歴史的に評
生徒が想像し作成した図やイラストには、わかっ
価の定まった資料の乏しい時代である。学説もさ
たことや疑問点を書き込んでおくスペースを設け、
まざまであり、今後確かな証拠となる多くの発掘
今後歴史学習を進める中で比較したり、新たな疑
が待たれると頃でもある。しかし、その分生徒の
問点が追加できるようにする。
全体を貫くテーマ
関心や意欲をもとにそれぞれの思いや考えを表現
発見された人骨の人々が生きていた頃の
したり、伝えたりすることのできる学習の場とな
ようすを再現してみよう!!
る。中学校における歴史学習の本格的なスタート
であり、生徒の意欲や関心を大切にし、基本とな
る資料について多面的・多角的に予想したり、考
(1)学習の流れ
一人一人の生徒が、基本となる教科書p.54の
察したりすることによって、歴史を学ぶ楽しさを
味わわせるとともに、歴史的事象の見方や考え方
「復元図」から、わかることや疑問点を整理する。
それを大きく分類し、班ごとに追究するものを選
を高める一助としたい。
択してそれを検証するための条件を整理する。
また、この授業を通して、一人一人の生徒が歴
予想される事実と疑問点(抜粋)
史を学ぶ上での指標やものさしとなる知識を身に
*折れるようにして死んでいる人と、身を伸
つけ、その後の学習に生かせるようにしたい。
2
ばして死んでいる人が折り重なるように死
学習の大きな流れ
んでいる。
*穴が4カ所あいている。
授業の始めに基本となる帝国書院『中学生の歴
*炉がある。
史(最新版)』
(以下、教科書)p.54の復元図を生
*この場所の近くには貝塚が広がっている。
*この場所は、円のような形となっている。
*この人骨の人たちは家族で住んでいたのか。
*食料として何を食べていたのか。
*本当にこの人骨にある人々が縄文期の人々
といえるのか。
*住居と思われる家のつくりにはどのような
点が工夫されているのか。
*貝塚と何か。どのような特徴があるのか。
*人骨のほかに何か見つかったものは?
帝国書院『中学生の歴史(最新版)』p.54
徒に提示する。そして、まずこの資料からわかる
−5−
住居の特徴は?つくられていた場所は・・・
班ごとに、関心ある事実や疑問をもとにテーマ
生徒の予想・仮説
を決め、予想や仮説を立て検証する作業を行う。
その際、班ごとに縄文期のものと思われる資料を
安全で住みやすい場所でなければ家はつくらな
選んで作業し参考にする。
いので、住居は、条件的に恵まれていた場所につ
【A班】の学習活動<人骨の人々の死因> くられたんじゃないかな。
教師の支援
折れるようになっていたり、身を伸ばしたりし
て折り重なるようにして死んでいるのは・・・
・現在家が多く建つ場所の条件を考え、これをヒ
生徒の予想・仮説
ントに当時のようすを想像してみよう。
何かの災害に巻き込まれたではないのか?ある
・いくつかの住居跡を地図に整理し共通点を整理
いは栄養失調か何か病気にかかったのではないか。
してみよう。また、教科書のp.63などにある他の
教師の支援
時期の住居などとも比較してみよう。
【D班】の学習活動<貝塚に注目>
・この時代に災害があったことを証明するものは
貝塚とは何?貝塚があるということは・・・
ないのだろうか。
生徒の予想・仮説
・何か病気にかかったことを証明するものはない
だろうか。
当時の食料について明らかになるとともに、当
教師の指導・助言
時の動植物や自然について明らかになるのではな
地層については、含まれる火山灰の特徴からど
いか。
教師の支援
このものかがわかり、その火山を調べればいつ噴
火したかを特定できるようです。したがって、も
・貝塚の分布図をトレーシングペーパーに写し、
しそこに何かが発掘されれば、いつ頃のものかが
地図帳のp.89・90の地図と比較してみよう。
わかるようです。<岩宿遺跡断面>
また、栄養失調については、骨の成分から科学
教師の支援や指導をもとに、班内で協力しなが
的に明らかになるようです。
ら検証したことを整理し、人骨の人々が生きてい
た頃の想像図やイラストを描き、発表会を行う。
【B班】の学習活動<食べ物に注目>
この時代の人々の食生活は・・・
この時期の学習は、一つの遺跡の発見や発掘か
生徒の予想・仮説
ら学説が大きく書き換えられるゆえ、歴史学習に
対する意欲を喚起する上で大切にしたい。
貝塚からさまざまなものが食料となっていたよ
うなので、恵まれていたのではないか。でも、ど
この授業では、A班の追究テーマは検証の実現
のような方法で食料を確保していたのだろうか。
が難しいものであり、それ以外の班の追究テーマ
教師の支援
は、科学的に分析された資料があり、検証が可能
・安定的に食料を確保するためにどのような工夫
なものである。さまざまな説が存在するという前
提のもと、このように、生徒の比較的自由な発想
をしたのだろうか。
をもとにして授業を展開した。その中で、教師の
・この頃の調理方法はどのような方法を用いたの
指導や生徒同士の情報交換により、今後の歴史学
だろうか。
教師の指導・助言
習に生かすことのできる指標やものさしとなる知
識を身につけ、歴史的事象の見方や考え方を高め
貝塚から明らかになる食べ物を書き出し、収穫
ることができた。
時期を考え1年間のカレンダーに整理してみよう。
また、食料の安定的な確保という点で、どのよ
(2)生徒の思考を高める資料
・三内丸山遺跡を報道する新聞記事を集め、遺跡
うな方法がとられていたのか考えてみよう。
から明らかになった場所の組み合わせを考えさ
さらに、安全でよりおいしい食べ方について考
せる。
えてみよう。その際、教科書のp.47などにある他
・縄文土器・耳飾り・土偶・ヒスイ・黒曜石・弓
の時期の食べ物などとも比較してみよう。
矢・もり・やすり等の道具の資料を、教科書や
【C班】の学習活動<住居に注目>
−6−
資料集、百科事典などから集め、その用途をま
G君の想像図
とめさせる。
・関東南部における貝塚分布図から、当時の海岸
線をなぞらせてみる。
・貝塚から出土した食料を調査し、色分けし分類
させる。
想像図に補足するもの
<テーマ>自然を畏れた縄文人
<予想または仮説>
・すべてが自然の廃物なので、食料の確保や生命
の安全も含め、自然に畏れを抱いていたのでは
帝国書院『中学生の歴史(最新版)
』p.55
3
ないか。
生徒が描いた想像図例
<伝えたいこと>
F君の想像図
・不安な中で数十人単位で共同生活をしていたこ
と。
<資料或いは他の班から参考にしたこと>
・三内丸山遺跡の大きな建物
・土偶
・縄文人の食料(貝塚から)
4
おわりに
生徒は基本的な一つの資料をもとに、この時代
の様子を思い思いに想像した。これは資料に対し
て、生徒に先入観を持たせずに自由な発想を引き
出す上で大いに効果があった。また、想像図を描
想像図に補足するもの
かせたことで、生徒の思考を整理させる上におい
<テーマ>縄文時代の人々の食料
て効果があった。図に表すということで根拠が必
<予想または仮説>
要になるからである。それをより具体化すべく、
・縄文期に生きた人々は恵まれた食生活だったの
想像図の下に補足資料をそえた。さらに、想像図
ではないか。
の発表の中で、教師が何を根拠にその結論にいた
<伝えたいこと>
ったのかを黒板に整理した。このことにより、生
・家族を中心として集団生活を送り、1年中海の
徒の自由な発想から始まった学習の中で、歴史を
学ぶ上での指標やものさしとなる知識を提示する
幸や山の幸を食べることができた。
<資料或いは他の班から参考にしたこと>
ことができ、歴史的事象の見方や考え方を育てる
・土器の製作による加熱および調理
契機となった。この授業を通して、時代を代表す
・食糧確保のために、山と海の境に家を建てた。
る基本的な資料に生徒がじっくり正対することの
重要性を再確認することができた。
・貝塚の分布図の共通点
−7−
わたしの授業実践
古代国家の成立
山口大学教育学部付属光中学校
1
・聖徳太子は、どのような外交上の問題に直面
新指導要領と本単元
していたか。
・聖徳太子は、どのような内政上の問題に直面 新しい学習指導要領では、時代区分の取り方が
していたか。
大きく変わった。この改訂を利用すれば、生徒の
・過去に中国に使者を派遣したことはなかった
歴史観を豊かにさせるための授業の構成が可能に
か、あったとしたらそれはどのような背景の
なる。
もとに行われてきたか。
なぜなら、新しい時代区分は、総じて時間の幅
が長く、そこで展開される事象の特色を総合させ
(2)一つの視点から歴史をさかのぼらせること
によって、学習内容の厳選を図る
ることによって、一つのまとまりをもった時代と
「歴史の流れと地域の歴史」の学習の直後、通
して生徒が意識できるようになるからである。
史学習における最初の単元としてこの課題に取り
本稿では、古代国家成立までの日本を例に、そ
組ませる。聖徳太子以前に、中国に使者を送った
の単元構成の工夫について述べていく。
2
加 藤 浩 久
例と比較させることによって、日本が一つの国と
本単元の特色
して統一されていった流れがわかる。
(1)課題解決的な学習の流れに慣れさせる
この課題を通して学ばせることが無理な内容に
関しては、特設単元を設定して行う。
本単元の導入的な学習課題として「どうして聖
徳太子は、隋に使いを送ったのか」を設定した。
(3)聖徳太子の行為を通して背景となる世界史
を大観させる
この課題追究の過程を通して、生徒には、歴史
学習を進めていく上で必要となる学び方を獲得さ
歴史的分野の学習では、世界史を背景とした単
せることができるだけでなく、古代国家成立まで
元構成を行うことが義務づけられている。本単元
の日本統一の過程を大観させることが可能になる
の課題を追究することを通して、生徒は機械的に
と考えている。
ではなく、目的意識をもって聖徳太子の諸政策の
背景にある東アジア社会に対してアプローチする
この課題を解決するためには、次のテーマを設
ことになる。
定して、古代国家成立前の日本社会や、東アジア
世界を追究することになると考えている。
課題解決のための視点
厳しい官僚制度
と、整然と区画
シラギは常
に日本と争
おうとして
いる
された均田制
遣隋使
−8−
役人がさぼった
り、豪族に押さ
えつけられたり
している
3
る。聖徳太子、中大兄皇子、蘇我入鹿、藤原道長
単元構成上の配慮
などは、生徒が注目しがちな人物である。
(1)古代全体を一つの時代としてとらえさせる
し、あくまでも社会科学習のねらいは、生徒に学
習対象を社会として認識させることにあるので、
新指導要領の主旨を生かすためにも、「飛鳥時
その後の働きかけによって、人物を通して社会を
代」「奈良時代」「平安時代」という現行の単元構
意識させるようにする。
成は避ける。次のような視点を定めて、できるだ
け長いスパンに注目しながら古代全体を意識させ
しか
(3)単元の特色を考察させる過程を設ける
歴史的分野の単元構成においては、まず単元の
る。
初めに時代の特色を予想させ、単元の終わりには
「墾田永年私財法で認められた土地の私有はどう
それまでの学習をふまえて特色をまとめるという
展開したか」
活動を設定する。
「大宝律令で定められた税制は、どのように変化
本単元では、当然学習対象である古代という時
していったのか」
(2)人物に注目しながら考察させる
代の特色を考えさせる。生徒にとっては初めての
体験なので、高度な内容は期待してはいけない。
本単元は、中学校に入学して初めての単元でも
しかし、このような学習を中世、近世、近・現代
あるので、人物に注目した考察も積極的に肯定す
とを繰り返していく内に次第に生徒は、特色のま
「古代の日本」単元構成
題材名
おもな学習活動
これから学習する古代までの日本を年表などを通して大観する学習を通して、古代という時
代における日本の特色を予想する。
1
古代以前の日本
2
7世紀前半の日本と 聖徳太子の業績にまつわる学習課題である聖徳太子は、どうして隋に遣いを送ったのか」を
東アジア
通して、古代までの日本社会に対して関心を高めるとともに、今後の課題解決に向けての見
通しを立てる。
3
聖徳太子をめぐる内 十七条の憲法や、冠位十二階を検討することを通して、聖徳太子が直面していた内政問題に
気づく。
政問題
4
聖徳太子をめぐる外 朝鮮半島の鉄の利権の獲得という問題を通して、当時の東アジアをめぐる国際関係を理解す
る。
交問題
5
過去に中国へ使いを 過去に中国に使いを送った例を考察することを通して、日本が中国大陸に使いを送ることの
意味を調べる。
送った為政者たち
6
ムラからクニへ
日本が、ムラからクニへと統一されていく様子を、農耕の開始から検討する。6世紀までに
は、かなり強力な王権が出現していたことを古墳を通して理解する。
7
隋という国
均田制や科挙などの制度を検討することを通して、聖徳太子を引きつけた様々な魅力を明ら
かにする。古代までに、中国大陸や朝鮮半島から日本に伝わってきたものをまとめる。
8
大化の改新
大化の改新改心の詔を検討することを通して、新政府がめざした国づくりの方針を読みとる。
9
大化の改新後の中国 白村江の戦いや遣唐使などの考察を通して、日本の中国との関係を明らかにする。大化の改
との関係
新後の動きを考察することを通して、日本の国際的地位の向上について言及することができ
る。
10 大宝律令
大宝律令を検討することを通して、中央集権国家としての日本の体裁を確認する。
11 仏教と日本の政治
聖徳太子以後の日本の為政者と仏教徒の関係を考察することを通して、古代国家の変化を確
認する。
12 律令政治の変化
摂関政治のメカニズムを検討することを通して、律令国家の変質を理解する。私有地の発生
や、不輸の権の承認などを考察することを通して、律令国家の変質を理解する。。
13 古代日本の文化
古代日本の文化を検討することを通して、仏教や大陸の影響を中心としたその特色を理解す
る。大陸と交渉を断っていた時期の日本の文化の特色を理解する。
14 古代日本の特色
これまで学習した内容をもとに、古代日本の特色をまとめることを通して、これまで学習し
てきた内容を再構成するとともに、今後の学習に対する課題を意識する。
−9−
とめ方にも習熟してくると
高句麗とともに戦ってほしい
思われる。
また、中世の特色をまと
めた後に、古代の特色をま
とめ直したり、近世の特色
をまとめた後に、再び古代
中国の権威に
すがるのが目的?
南朝
倭王武
の特色について考えさせる
という往復と重複のある単
新羅とともに戦ってほしい?
元構成を行うことも考えら
れる。
4
中国の官僚制度
が魅力?
授業の実際と考察
(1)古代日本成立期にお
隋
聖徳太子
ける学習
(2)単元後半の展開
① 聖徳太子の内政上の課題
① 古代国家の崩壊に関して
十七条の憲法の条文を読むと、生徒が直面する
内政上の課題が明らかになる。
単元の学習が進んでくると、古代国家がどのよ
うに崩壊していったかに興味が集まる。摂関政治
過去に、中国に使いを送った為政者は、必ず内
に代表される律令政治の変質は、大化改新によっ
外に強力なライバルが現れたときに、中国の権威
て力を奪われた貴族(豪族)の側からの逆襲とと
にすがることを目的に使いを送っている。それを
らえる生徒もあらわれた。
仮説に聖徳太子の時代を推測させることによって、
② 日本の国際的地位の向上に関して
生徒はさまざまな発見をしていった。
聖徳太子は、日本の社会的地位を向上させた人
② 聖徳太子の外交上の課題
物として有名である。しかし、日本の国際的地位
聖徳太子が実質的な権力を握るまでの間、朝鮮
は、周辺諸国との関係のもち方によって、少しず
半島では、鉄の利権をめぐるさまざまな争いが展
つ変化していったことを忘れてはならない。白村
開されていた。先ほどの仮説を適用するとすれば、
江の戦いやその後の遣唐使の活動も、日本の国際
この問題をめぐってのライバルとの争いを有利に
的地位に影響を与える大きな要素であった。
するために、隋を味方につけようとしたと考える
また、中世の現行や倭寇なども、日本の国際的
こともできる。このような発想に基づいて生徒は、
地位に大きな影響を与えたはずである。「倭」か
新羅との関係に注目していった。
ら「日本」へと変わっていくためには、この国際
的地位の向上は不可欠である。
③ 中国という国がもつ価値に注目させる
聖徳太子が中国に使いを送った理由として、生
③ 社会構造の特色に関して
徒が真っ先に挙げるのが、「文化を取り入れる」
当時の社会構造の中では、比較的下層とされて
という目的である。しかし、課題の解明にとって
いた武士という階級が次の次代を担うことになる。
重要なのは、この文化の中味である。
近世の社会構造で比較的下層におかれた商人たち
仏像や寺の作り方、壁画の描き方も興味の対象
だったかも知れない。しかし、氏姓制度化の豪族
の圧力に苦しんだであろう聖徳太子にとって、中
国の官僚制度は魅力あるものとして映ったかも知
れないという仮説に、生徒は傾いていった。
−10−
が、近代以降は、社会を支える存在に成長してい
る。
このように、時代の変わり目に注目することに
よって、一人ひとりの歴史観を豊かにできる。
わたしの授業実践
身近な地域素材で歴史の授業を組み立てよう
∼「貴族がになった政治と文化」の授業実践∼
藤岡市立小野中学校 関 根 真 理
1
A子:小学校でも調べたことはあったが忘れ
はじめに
てしまったので、もう一度最澄につい
て調べたい。
今回私が挑戦した時代は、群馬県ではもっとも
(←支援:最澄は何歳くらいでやってきて、
地域素材が少ないといわれている平安時代です。
さい ちょう
それは最澄の一生の中でどんな段階だろ
教科書に登場する「最 澄」をKeywordとして、
東国といわれた地方から平安時代に迫る授業実践
う?)
を試みました。
最澄の年表を作るとともに、ライバル空海と
2
の関係についても調べる。
授業実践
B男:上野国緑埜寺とは今もあるのだろうか。
(←支援:宝塔についても、調べてみたら?)
教科書を元に「貴族の政治・武士の登場・唐風
の文化から国風の文化へ」を概括した後に、
上野国緑埜寺及び最澄ゆかりの宝塔について、
①教師側からの資料提示を行う
調べる。
②生徒の課題設定への支援
C男:最澄の話を聞くために、9万人もの人
③生徒の調べ学習への支援
が集まった理由は何だったのだろう。
(←支援:当時の上野国の人々の生活につい
④話し合いへの指導
ても調べると、意味がわかるかもしれない)
にはいりました。
最澄の話を聞くために集まった9万人の人た
(1)提示 群馬にも残る最澄の遺跡
ちの生活や願いを調べる。
(3)生徒の調べ学習への支援(一例)
Q1 天台宗を開いた最澄は群馬にきたこと
B男への支援にあたって
があるだろうか。:YES
〈上野国緑埜寺及び最澄ゆかりの宝塔について〉
最澄がいつ何のために群馬のどこに来て何
をしたのかを説明します。
ア.情報収集
○いつ 弘仁8年(817年)5月
○文献資料については、資料収集のしやすさとい
う点からすると生徒にとっても便利ですが、生
○何のために 天台宗の布教のために
こうづけのくにみど の でら
○どこへ
徒が理解できるかが鍵となります。
上 野国緑埜寺
○何をしたか 法華経1000部を写し、その写
文 献
経を宝塔に納め、上野国の大衆9万人の前
で法華経を講じた。
群馬県史・藤岡市史・遺跡の報告書
この教師側からの提示は、意外性をねらったも
→ 詳しいが中学生には難解
おに し
ので、これを元に生徒は課題の設定を行います。
生徒が行う調べ学習は、時間内である程度の成果
多野藤岡地方誌・鬼石町史
→ 資料は古いが生徒にはわかりやすい
が出るよう、情報収集ができるものへと導くこと
群馬の歴史 →詳しく使いやすい
が教師側からの支援となります。
藤岡の仏像・仏教の研究
→ 図版が多く、使い方によってはおも
(2)生徒の課題設定への支援(一例)
しろい
−11−
○インターネットでの資料収集は、生徒にとって
布教活動に出向いたのではないだろうか。
はおもしろく、ときによい資料が入手できるの
ですが、なかなか的確な資料が集めにくく、時
B男〈上野国緑埜寺及び最澄ゆかりの宝塔につい
間が必要になるという欠点があります。
て調べる。〉
○人材活用は、生徒にとって必要な情報が集めや
すいという点で効果的ですが、相手の方の都合
緑埜寺は今、残っていない。また、緑埜寺跡
もあり、FAXなどを併用し、用件が十分に伝
もはっきりとした場所はわかっていない。
わる工夫が必要です。
が、宝塔は鬼石町に残っているらしい。
地域の歴史についての支援者
緑埜寺について
ア.藤岡市文化財課の先生
①地名は、藤岡市立平井小学校のあたりが
イ.群馬県立歴史博物館の先生
「緑埜」という地名で残っている。奈良時
ウ.群馬県埋蔵文化財調査事業団の先生
代、律令制下の上野国14郡の一つに緑埜郡
エ.藤岡の仏像著者:奈良教育大の先生
があり、緑埜寺とはこの緑埜郡にあった寺
院という意味だと思った。
イ.資料のまとめ ②発掘などの遺跡にはないのか
○集めた資料の取捨選択については、あまり膨大
な資料集にならない配慮が必要です。
ア.藤岡市文化財課へ問い合わせてH先生
にお話を聞いた。
自分の課題解決のために、思い切った取捨選
択ができるよう指導を行いました。
緑埜寺と思われる遺跡はないが、前に
県が行った発掘で平安時代と思われる密
ちんだん ぐ
A子〈最澄の年表を作るとともに、ライバル空海
教関係の鎮壇具が出たと思う。緑埜寺に
との関係についても調べる。
〉
関係があるかもしれない。
°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
´
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´
最澄と空海の比較年表(略)
´
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°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
《考 察》
群馬県立歴史博物館にあるのではないか
イ.群馬県立歴史博物館のH先生にお話を
聞いた。
その話は知っているし、密教関係の仏
具が出たと思うが、歴史博物館にはない
群馬県埋蔵文化財調査事業団のS先生が
こん
○上野国に来たのは、ライバル空海が高野山に金
ごう ぶ
発掘したと思うので話を聞くとよい。
じ
剛峰寺を建てた翌年で、最澄51歳、亡くなる5
ウ.群馬県埋蔵文化財調査事業団のS先生
にお話を聞いた
年前のことだということがわかった。
確かに、私が発掘したのもので、銅で
○なぜ、空海は東国それも上野国に来たのか。
か しゃこう ろ
平安時代のはじめ、桓武天皇から新しい仏教を
できた華車香炉といわれるもので平安末
期待され、奈良の仏教勢力と張り合っていた最
から鎌倉時代にかけて作られたものと思
澄。また、ライバル空海との親交をあきらめ、
う。しかし、一緒に出土したものから考
比叡山を中心に布教活動を行っていた最澄が、
えると、南北朝の室町平井城関係のもの
その勢力範囲を拡大したいと考えたことは理解
と考えている。
できる。ではなぜ、東国だったのか。
さか のうえ た むら ま
緑埜寺であるなら、吉井町から出土し
ろ
さんがく じ いん
○東国は当時の新天地だった。坂 上 田 村 麻 呂 の
えみ し
た平安時代の山岳寺院跡や浄土庭園が見
しろいし み どう
東国遠征に代表される蝦 夷 鎮圧は、平安京の
つかった藤岡市白石御堂遺跡との関係が
人々の最大の関心事であったと思う。開発も宗
おもしろいだろう。報告書をみるとよい。
教的な文化面も、まだこれからという可能性あ
エ.藤岡市立図書館に報告書があるかどう
る場所だったと思う。ここに最澄は目を付け、
−12−
か聞き、あるというので予約し、配本し
てもらうが、内容が難しく、先生に教え
最澄や平安時代初期の上野国のようすを考えよう
てもらう。
A子:最澄は、ただ比叡山にいて修行の仏教をし
どうも、緑埜寺ではないようだった。
ていただけでなく、未開の東国にも布教しようと
宝塔について
していたなんてビックリした。あと、身分に関係
なく苦しい生活をしている民衆も浄土に生まれ変
じょうぼう じ
われるという教えが受け入れられたんだと思う。
この宝塔は、鬼石町浄 法寺にあ
そうりんとう
る相輪塔のことらしいので、鬼
だから、9万人もの人が集まったんだと思った。
石町史で調べてみた。
C男:関東地方は、当時、阪東とよばれる辺境の
○場所 浄法寺字平・浄土院墓地
地で、人々は重い税で苦しんでいただけでなく、
○年代 平安時代(弘仁6年815
やっぱり都の貴族からは野蛮人として差別されて
いたんだと思う。そういういろんなものをバネに
年)創建
中世の武士団へとつながっていくんだと思った。
○由来 最澄は全国6か所、納
B男:そうだね、平安時代って平安京を中心とし
経の所在地に宝塔を建立する発願を行い、存
しもつけのくに
命中に完成したのは下 野 国大慈寺とこの浄法
た貴族の摂関政治っていうイメージだったけれど、
寺の2か所だけであった。その後、寛文12年
緑埜寺とか調べて、この藤岡にも「藤岡の平安時
(1672)年9月に改造、大正11年(1922年)台石を修
代の歴史」があるってわかったよ。まだ、どこに
理した。
(青銅製)
あったかが断定できないけれど、今後の発掘に待
C男〈最澄の話を聞くために集まった9万人の人
たちの生活や願いを調べる。
〉
つっていうのも夢があっていいよね。
3
奈良時代の関東地方のようす
成果と課題
今回、地域資料を通して、学び方に視点を当て
広大な平野は未開発な場所が多く朝廷は渡
た授業実践を行いましたが、生徒の学びを保障す
来人を移住させ、その開発にあたらせた。
た ご ぐん
※711年:上野国多胡郡設置
る授業は、支援と指導の教師自身の指導力が問わ
防人として九州に行ったり、馬や兵を差し
れるものと感じます。
出すことが多かった。
成 果
平安時代の関東地方のようす
①課題設定に時間をかけたため、生徒にとって資
料の集めやすい課題が設定できた。
8世紀末∼9世紀前半には、蝦夷征伐のため
②調べ方では、教師側の支援や指導を行ったため、
の兵として、東北地方に行くことがあった
時間内に情報収集ができた。
9世紀後半には、関東の治安が悪化。群盗
となり都に送る税を略奪する盗賊団出没する。
③ねらいを明確にした話し合いだったため、生徒
899年、碓氷峠が置かれ、取り締まりをは
の興味や理解の上にたった考えを導くことがで
きた。
じめる。
課 題
10世紀前半、関東では平将門の乱が起こり
①生徒にとって、成果を上げる課題を設定するた
常陸の国を占領。p.50参照
最澄の教え(法華経の教え)
めには、生徒の関心や理解力以上に資料が入手
身分に関係なく、すべての人々は成仏でき
できるかが大きいため、地域資料・人材を含め
る。また最澄は、弘仁8年(817年)5月15日、
て、情報ネットワークを確立していく必要があ
かんじょう
ると感じた。
広智と円澄を緑埜寺の前で灌 頂し弟子とした
②今回の課題解決学習は当初6時間予定で行うつ
という。
もりだったが9時間を費やしてしまったため、
(4)話し合いへの指導
このようなトータル的な実践ではなく、課題解
調べたことを元に、ねらいを明確にした話し合
決の過程の一部に焦点を当てる実践を年間計画
に組み込むよう、ねりなおす必要を感じた。
いを行いました。
−13−
わたしの評価方法
「人類の出現から文明の発生」の評価
東京都世田谷区立弦巻中学校 安 斎 正 則
1
りで評価することでは対応できなくなる。今後は、
評価計画
内容的にひとまとまりとなる単元ごとに評価をす
①単元毎の評価計画
ることが中心となってくる。
それでは、帝国書院『中学生の歴史(最新版)』
評価の在り方が、これまでの相対評価による評
の「第2章
定から目標に準拠した評定(絶対評価)に変わる。
古代国家と東アジア 1節 人類の
出現から文明の発生まで」を例にして、評価計画
これにともない、年間の学習指導計画を立てる
際に、従来にもまして、さらにしっかりした評価
の仕方を示そう。
計画も立てていく必要が出てきた。目標に準拠し
②単元全体の観点別評価規準の設定
た評価をすることを前提にすると、従来からの学
「人類の出現から文明の発生まで」の単元の学
期という期限を単位とした時間的に機械的な区切
習指導計画を立てる際に、4観点ごとにどのよう
年間指導計画および評価計画〔第2章 古代国家と東アジア…第1節 人類の出現から文明発生〕
次
1
学習内容
学習活動
東アジアに ・人類の発生と最初のこ
あらわれた ろの生活のようすを発掘
人類
品などからとらえる。
・農耕・牧畜開始以前と
以後の人類の生活の変化
をとらえる。
観点別
評価
の順番
関1
資1
知1
5
歴史探偵に
なってみよ
う発見され
た人骨のな
ぞ
・発見された縄文時代の
人骨のなぞをいくつかの
情報を活用して解き明か
す。
関5
思3
資4
学習活動における評価基準
A
B
・人類がきびしい環境の
中で獲得した知恵や工夫
を追求しようとしている。
・遺跡から発掘された人
骨や遺物から人類の特徴
を的確にとらえている。
・発掘品などから最初の
ころの人類がどのような
生活をしていたのかとら
えている。
・人類の発生から農業の
はじまりまでの変化を理
解し、知識を確実に身に
つけている。
・人類がきびしい環境の
中で獲得した知恵や工夫
に関心を示している。
・猿と比較して人類の特
徴をとらえている。
・意欲的に課題に取り組
み、発展的に追求しよう
としている。
・与えられた情報を多面
的・多角的に検討して結
論を出している。
・与えられた情報を正し
く読み取っている。
・与えられた課題の取り
組んでいる。
−14−
・野尻湖遺跡の写真から
当時の人たちが生活して
いたころのようすをとら
えている。
・人類の発生から農業の
はじまりまでの変化を理
解している。
・与えられた情報のうち
一つのことを基に結論を
出している。
・与えられた情報を他の
情報とも関連つけて読み
取っている。
な規準で評価するか、計画を立てる。評価をする
際の具体的な目標あるいは質的な根拠である評価
規準を示すことにより、観点別学習状況の評価の
°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
°°°°
目安とするのである。
③学習活動における観点別の具体的評価規準の作成
次に単元の授業を具体的に計画する中で、どの
ような学習活動の場面で、どのような観点をどの
ような規準で評価するかを具体的に示す。
°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
°°°°
④学習活動における評価場面と方法・基準の設定
さらにそれにもとづいて、実際の学習活動では、
どのような観点をどのような方法、基準(A、B
ワークシートに自分なりの仮説が書いてあれば
を示す)で評価するかを計画するのである。ここ
B、わからないことを図書館に行ったりインター
で設定する評価基準とは、判断の量的な根拠ある
ネットのホームページなどでさらに追究しようと
いは尺度を示すもので、Cを設定していないのは、
していれば、Aとする。
°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
°°°°
°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
°°°°
Bに達していないのをCと評価すればよいからで
「資料活用の技能」は、情報123を正しく読
み取っているかワークシートの記述を見る。評価
ある。
前ページに示したのが「人類の出現から文明の
発生まで」の単元の学習活動における評価場面と
基準は前掲の「学習指導計画・評価計画表」のと
おりである。
方法・基準を設定した「学習指導計画・評価計画
表」の一部である。
2
具体的な授業での評価例
「人類の出現から文明の発生まで」の単元の第
5次に設定した「歴史探偵になってみよう 発見
された人骨のなぞ」で実際の評価を考えてみた。
「思考・判断」は、結論として推論を書くワー
クシートを見る。同じく評価基準は「学習指導計
画・評価計画表」の通りである。
帝国書院中学生の歴史(最新版)p.54
ここでは、「関心・意欲」「思考・判断」「資料
3
観点別学習情況の評価から評定へ
このように授業時間ごとに行った観点別評価は、
活用」の三つの観点を評価することにした。
「関心・意欲」は、仮説を書き入れるワークシ
ワークシート、発言、ペーパーテストなどの評価
ート(『資料で学ぶ歴史ワーク』帝国書院より)
方法ごとに重みづけをした上で総合し、この単元
の分析および授業中の取り組み情況や発言により
の観点別評価とする。そして、それを点数化して
評価する。
単元全体の評定とするのである。
−15−
Fly UP