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第6学習班 ~より賢く 強く生き抜く知恵と『絆』を求めて

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第6学習班 ~より賢く 強く生き抜く知恵と『絆』を求めて
第6学習班
~より賢く
強く生き抜く知恵と『絆』を求めて~
《
目
次
》
はじめに
頁
1 学習主題設定の理由・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
2 学習の視点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
3 班員の役割分担・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
第1章 流山市の自然と災害の歴史
1 自
然・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
2 災害の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
第2章 流山市と風水害
1
2
3
4
5
関東平野の地形と洪水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
利根川水系における江戸期から昭和初期にかけての主な大洪水・・
流山市の地形と洪水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
近年に流山市で発生した主な風水害・・・・・・・・・・・・・・
流山市内の水神塔探検・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
5
6
6
7
第3章 地震による災害(震災)
1 流山市に被害をもたらした過去の地震・・・・・・・・・・・・・11
2 東日本大震災・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3 地震予測・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
第4章 考
1
2
3
4
察
主な調査・取材等の活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
流山市の災害上の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
防災について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
学んだこと・考えたこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
平成24年度 課題学習のまとめ
社会専攻科2年 第6学習班
学習主題 「流山市の災害の歴史探検」
副主題 より賢く・強く生き抜く知恵と「絆」を求めて
はじめに
1 学習主題設定の理由
2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災は、私達に大きな衝撃を与え
た。
幸い流山市に大きな被害はなかったが、原子力発電所が原因の高濃度の放射能汚染等が市
内随所に散見される。
古今東西、多くの人々がいろいろな災害に苦しめられてきたが、その貴重な体験が現在に
生かされているとは言い難い。
そこで、私達は流山市のこれまでの災害の歴史について調査し掘り起こす活動を行いなが
ら、先人の生き様に学び、それらを私達が疑似体験する中で、より賢く強く生き抜くための
知恵や社会の仕組みを探求していくことにした。
2 学習の視点
(1)地震・風水害をはじめとする自然災害から、今回の大震災後に発生した福島原発事故
という多分に人災の側面を含んだ災害まで、幅広く勉強する。
(2)今後の人生をより賢くより強く生き抜く視点から、防災のための「まちづくり」や生
き方などについて考察する。
(3)たくさんの人達に、流山市の災害の歴史・課題・教訓を知らせ、より良い地域づくり
に生かしていく。
(4)班員全員で楽しく事に当たる。
3 班員の役割分担
井 上
鮫 島
澤 野
中 島
野 上
藤 原
溝 田
みこと
孝
有 司
睦 子
勇 雄
博 之
節 子
記録
渉外
前期班長
記録
企画
班長(渉外)
副班長兼会計
1
風水害
地震
総論
風水害
地震
風水害
地震
第1章
流山市の自然と災害の歴史
1 自然
(1) 地勢と地質
流山市は、
千葉県の西北部に位置し、
東京から 25 ㎞圏内にあり市の区域は東西 7.96 ㎞、
南北 10.36 ㎞、周囲 41 ㎞で、面積は 35.28 ㎢である。
流山市は、全体的に洪積台地の「下総台地」を主体として、その台地を河川により樹枝
状に谷地が発達している。さらに、西側に
は江戸川に沿って海岸低地が広がっている。
地形はほぼ平坦で、標高は東部から西部
にかけて次第に低くなっており、台地で標
高 15~20m、低地で標高 5~6mである。
また、本市から野田市にかけて分布する台
地斜面は、比高約 10mの平滑な崖がゆる
い弧を描いて連続する。
台地面は、江戸川台などの住宅地が造成
されていて関東ローム層と呼ばれる火山
灰土で覆われている。関東ローム層は、上
部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土
に大別されるが、自然堆積したローム土は、
安定しており比較的大きな強度が期待で
きる。しかし、下部の凝灰質粘土は部分的
に軟弱になっていることがある《A地点》
。
河川などで削られて形成された谷地低
地は、台地を形成していた土砂が再堆積し
た土や有機質土(腐植土)などが分布しており、軟弱な地盤となっている《BやC地点》
。
自然堤防は、周囲の海岸低地と比べて海抜高度がわずかに高く、江戸川に沿って分布し
ている。河川によって運搬された砂が浅い深度から分布しているが、河川の氾濫と蛇行に
よって、自然堤防の上に軟弱な粘性土や緩い砂が被覆されていることもある《E地点》
。
自然堤防や砂堆などの微高地の背後に位置している湿地は、地下水位が高く、排水性の
悪い地盤で、軟弱な粘性土や有機質土(腐植土)が分布している《D地点》
。
市北部の低地では、自然堤防と氾濫原がみられ、耕作地に利用されている。一方、南部
では大規模な土地区画整理事業により、広域にわたって地形改変が行われ、都市化が進行
している。
市の河川体系は、江戸川、利根運河、坂川の一部の一級河川(国管理)
、坂川の一部、
今上落、大堀川、富士川の一級河川(千葉県管理)
、神明堀、上富士川、諏訪下川、八木
川の各準用河川及びその他の普通河川(市管理)で構成されている。
(2) 気象
流山市の気象は、関東中部の内陸性気候に支配されるため、四季を通じて気温の変化は
あるが、寒暑とも激しくなく、一般に温暖で適度の雨量に恵まれている。
しかし、平成 20 年 8 月 30 日には、野々下地先国土交通省雨量計で日雨量 160 ㎜、特に、
午後 8 時から 10 時までの 2 時間で 140 ㎜、午後 9 時から 10 時の間で時間当たり 97 ㎜と
記録的な雨量を記録して、大雨により、床上浸水 14 世帯、床下浸水 142 世帯,土砂崩れ
2
3カ所の被害をもたらしたように、集中豪雨により局所的な都市型災害をもたらすように
なった。
(3) 社会環境
流山市は、都心から 25 ㎞圏内にあり、交通機関の整備、住宅地の造成による都市化が
進んでいる。人口は、昭和 30 年代から急増し、平成 24 年に約 16.6 万人となっている。
生産年齢人口(15~64 歳)の割合が 64.6%、老年人口(65 歳以上)は 21.5%となってい
るが、出生率の低下等により、年々高齢化が進んでいる。
市の交通体系は、主要地方道松戸・野田線(県道)と東武野田線を骨格として形成され、
県道がこれを補完する形で三郷市及び柏市・松戸市・野田市と結んでいる。また、広域幹
線交通としては、JR武蔵野線、JR常磐線、つくばエクスプレス、流鉄流山線、常磐自
動車道、国道 6 号及び国道 16 号が挙げられる。
流山市は、みりん醸造業を中心として発展したが、昭和 40 年代以降日本各地で進めら
れた工業化の波は、本市の場合特に目立った形で受けていない。市は、比較的小規模な企
業を中心に発展してきたため、経営基盤の弱い中小企業が多くみられる。近年、工業団地
の整備や環境管理システムの構築を促進し、工場の集約化と団地化を進めている。
市の消費購買力は、全体的には近隣都市の大型商業圏への流出が続いている。
農地は、市街地における延焼遮断帯としての機能や災害時の緊急の避難場所等、防災上
のメリットが高いが、農地の減少や後継者不足という課題をかかえている。
本市の面積は 35.28 ㎢で、このうち市街化区域は 21.51 ㎢である。土地利用を地目別に
みると、平成 23 年では宅地(住宅地、工業地、商業地等)が 49.2%を占め、田・畑 30.9%、
山林 10.0%である。
市街地は、鉄道沿線の各駅を中心に形成されてきた。東武野田線江戸川台駅、JR常磐
線南柏駅付近は、昭和 30 年代初頭に宅地造成され市街地として発展した。流鉄流山線で
は、区画整理事業方式を中心とした宅地造成が進んだ。さらに、JR武蔵野線南流山駅を
中心とした市街地については、土地区画整理事業としては大規模な宅地化が行われた。そ
の結果として、市街地が大きく三極に分化している。
2 災害の歴史
天変地異は、人類が地球上で生活し始め
る以前から今日に至るまで、自然の営みの
中で絶えず繰り返されている。
文献類が比較的残っている江戸時代以降
に発生し、流山で平凡な日々の暮らしをい
となんでいた人々に様々な困難をもたらし
たと思われる災害を中心に列記する。
江戸川台給水所の給水を待つ行列(2012.5.19)
流山市の主な災害史年表(江戸時代以降)
1605 年 2 月 3 日 慶長 9 年 12 月 16 日 慶長地震 M7.9 津波が犬吠埼から九州まで来襲
1677 年 11 月 4 日 延宝 5 年 10 月 9 日 M8 推定 磐城からから房総にかけて津波
1703 年 12 月 31 日 元禄 16 年 11 月 23 日 元禄地震 M7.9~8.2 流山で震度5強
1742 年 寛保 2 年 6 月 7 日利根川大洪水、江戸川筋も被害甚大、木村堤(流山)を切り天神
山(小金)まで満水、5月より6月まで雨降り続く、浅間山崩れ古河、関宿の城大破
1782 年 天明 2 年~1789 年 天明 7 年 天明大飢饉 浅間山、
アイスランドのラキ火山等の
3
噴火による冷害、長雨と洪水(1786 年 天明 6 年 7 月 利根川大洪水など)
1833 年 天保 4 年~1839 年 天保 10 年 天保大飢饉 大雨、洪水とそれに伴う冷夏。
稲刈りの時期に降雪。
1846 年 弘化 3 年 6 月 利根川大洪水
1855 年 11 月 安政 2 年 10 月 2 日 安政江戸地震 M6.9 流山で震度5弱
1856 年 9 月 安政 3 年 8 月 25 日 午後 8 時 大暴風雨(安政の東京湾台風)
、風災
流山村で潰家 50 軒、木村で潰家 20 軒・半潰家 5 軒
1874 年 明治 7 年 5 月 流山村大火 村の戸数 390 戸の 1 割が罹災
1875 年 明治 8 年 3 月 20 日午後 4 時ごろ 流山村大火 村の戸数 390 戸の 2 割が罹災
1886 年 明治 19 年 コレラ大流行 流山町で十余名死亡(
『流山町誌』
)
1894 年 明治 27 年 6 月 20 日 東京地震 M7.0 東京湾北部
1895 年 明治 28 年 1 月 18 日 M7.2 茨城県南部
1896 年 明治 29 年 9 月 9 日 利根川大洪水 江戸川右岸平方新田破堤、
深井新田水神裏地先欠傷
1906 年 明治 39 年 2 月 9 日 流山町流山銀行の火災
1908 年 明治 41 年 流山町根郷の大火
1910年 明治43年8月 天明以来という大水害 連続して2個の台風が関東地方を襲った。
利根川沿岸はもとより東京下町まで浸水。江戸川増水のため三輪野山地先の堤防にひび
割れ、危機に瀕したが、埼玉の権現堂堤が決壊し利根本流の水が二合半領に流れたため
江戸川は減水して助かった。改修工事が進展した。
1912 年 大正元年 8 月 コレラ大流行 流山町や松戸町など東葛飾郡で 8 名罹患し 6 名死亡
1921 年 大正 10 年 12 月 8 日 M7.0 龍ヶ崎地震 茨城県龍ヶ崎付近
1923 年 大正 12 年 9 月 1 日 関東大震災 M7.9 流山で震度5強
1945 年 昭和20年2月24 日夜 B29による空襲によって流山に十発ほど爆弾投下11人死亡、
流山寺前、帝国酒精工場、陸軍糧秣廠などの被害
流山の戦没者(昭和12年~終戦まで) 388 名
1947 年 昭和 22 年 9 月 カスリーン台風 利根川右岸堤防決壊で埼玉・東京の被害大、千
葉県の被害は少なかった。江戸川の治水事業が始まり、堤防の拡築、新流山橋の完成、
堤防近くの住宅移転で完成。
1953 年 昭和 28 年 11 月 26 日 房総沖地震 M7.4
1974 年 昭和 49 年 5 月 27 日 降雹被害、午後 7 時 30 分から午後 8 時 10 分にかけて流山市
の中央部から北部地域の小屋、富士見台、駒木台を結ぶ幅約 2km の西から東への地区に
10 円硬貨位の降雹があり農作物に相当の被害。
1987 年
昭和 62 年 12 月 17 日 千葉県東方沖地震 M6.7
1993 年秋~1994 年初 平成 5~6 年 93 年東北北海道冷害とコメ不足 平均作況指数 74
2005 年 平成 17 年 7 月 23 日 千葉県北西部地震 M6.0 流山で震度4 流山市で重傷者
1 名、石塀の被害。市川市、船橋市、浦安市、木更津市等で震度5強~5弱
2011 年 平成 23 年 3 月 11 日 東日本大震災 M9.0 流山で震度5弱
2012 年 平成 24 年 5 月 19 日 千葉・埼玉・群馬の浄水場から化学物質ホルムアルデヒドが
検出。県内 5 市(我孫子、八千代、流山、柏、野田)の 35 万世帯で断水。各地の給水所
に長い列。
4
第2章 流山市と風水害
1 関東平野の地形と洪水(独法防災科学技術研究所;防災基礎講座より)
江戸時代以前、関東平野東部では河川の流路が乱流し、洪水のたびに川筋が変化する状況
であった。利根川水系の洪水で最古の記録は奈良時代756年(天平宝字2年)鬼怒川を毛
野川と呼んだ頃のものが残っているが、古代から人々は水を求めて住居を構え水と戦いなが
ら暮らしてきた。
関東平野は中央が窪む盆状の沈降を行っている。平野内には、10 数万年前の三角州や浅い
内湾の海底堆積面を起源とする台地(下末吉面)が広く分布している。当時の湾は東に向け
開いていて緩く東に傾斜していたが、その後の盆状沈降により平野の中央部では低地面との
高度差がほとんどない高さ
になっている。沈降の中心
は東京湾にもあり、これら
をつなぐ細長い地域で大き
な沈降を示している。利根
川はこの沈降の軸に沿って
流路をとるのが自然な状態
といえる。
1947 年(昭和 22 年)カ
スリーン台風による氾濫流
だけでなく、江戸時代から
昭和にかけて何度も起こっ
た利根川大洪水は、この方
向をたどって江戸や東京に流入した。
2 利根川水系における江戸期から昭和初期にかけての主な大洪水
<約 200 年に 5 回、40~50 年に 1 回の頻度で発生>
(1)1742 年(寛保 2 年)8 月:中条堤破堤、江戸市中氾濫
小金妙典寺記録には「5月から6月まで雨降り続き大出水、木村堤(流山町)を切り、天
神山下(小金町)まで流す。
(中略)8月1日夜、大暴風雨、関宿、栗橋方面の民家が流
されるもの多く、人馬多く死亡。二合半領村大水のため、江戸との往来が止まり、…本所
大出水、人多く死し…」とある。この秋より幕府は関東諸国の河川修繕に大規模の計画を
立て諸藩に役を興す。
(東京市史稿)
(2)1786 年(天明 6 年)7 月:中条堤破堤、権現堂堤破堤、江戸市中氾濫
3年前(1783年)の浅間山大噴火による泥流・火砕流が利根川に流入して河床を大き
く変化させたことが一因となっている。7月12日頃より大雨続き、利根川、江戸川洪水
氾濫し、関東諸国被害、江戸、関宿死亡者多し。
(江戸洪水記)
(3)1846 年(弘化 3 年)6 月:権現堂堤破堤、江戸市中氾濫
武江年表に「6月下旬大雨降り続き、洪水溢れ出て下総羽生領利根川通り堤の辺り 9 尺余
りと聞きしが、28 日葛飾権現堂村より 6 里上、本川股村堤切れ洪水張り出云々」とあり。
(4)1910 年(明治 43 年)8 月:中条堤破堤、東京府下氾濫
8 月 11 日日本列島に接近した台風は、房総半島をかすめて太平洋へ抜ける際に、各地
5
集中豪雨をもたらした。総雨量は、荒川上流部の三峰で 678.8 ㎜、熊谷で 328.5 ㎜、東京
で 310.5 ㎜を記録。利根川、荒川水系の各河川は氾濫するとともに各地で堤防が決壊。関
東平野一面が文字通り水浸しになった。死者・行方不明
国土交通省の資料より
者数 1,379 人、全壊・流出家屋約 5,000 戸、床上・床下
浸水約 51 万 8,000 戸、堤防決壊 7,266 箇所。東京でも
下町一帯がしばらくの間冠水し、浅草寺に救護所(現浅
草寺病院)が造られた記録が残っている。この洪水は荒
川放水路の開削が始まる契機(1930 年完成)となった。
志木市郷土資料館にある「最高水位表示板」
(5)1947 年(昭和 22 年)9 月:カスリーン台風災害;栗橋破堤、東京都下氾濫
台風の雨に前線の雨が加わって、関東山地では総雨量 500mm を超えたため利根川は大規模
に出水。
中流部の八斗島では毎秒1.7 万トンの最大流量を記録し、
このため9 月16 日未明、
埼玉県・東村地先の新川通右岸堤防が栗橋
西方4Kmのところで350mにわたって大破堤
し、この広い破堤口から利根川の流量の大
部分が溢れ出したため、かってない大洪水
となった。被害大…死者 1,100 人、家屋流
失・倒壊 23,736 戸、家屋の浸水 303,160
戸。
~P.10 「参考資料」参照~
3 流山市の地形と洪水
流山市は大部分が標高 15~20m の「下総
台地」上に位置していることから、水害に
は比較的強い地域にあるといえる。
国土交通省関東地方整備局江戸川河川事
務所では、平成 17 年に江戸川、利根運河に
おいて、200 年に 1 回発生する規模の降雨
を想定して浸水想定図を作成した。
流山市においても「洪水ハザードマップ」
(右図)を作成しており、流山市南部の市
街地及び江戸川沿いの低平地に氾濫する危険性を示している。
また、近年の出水による被害を見ると、平成 13 年に江戸川の増水に伴い利根運河が増水
し、樋門上流に位置する市営住宅大橋団地の床下浸水、団地内 98 世帯 297 名に避難勧告が
出る等の被害が発生している。さらに、近年は大雨が増加している傾向を考慮すると、市
の低平地のほぼ全域において水害の危険性があり、水害が発生する確率は上昇傾向にある
といえる。
4 近年に流山市で発生した主な風水害(流山市地域防災計画・平成 24 年 8 月より)
(1)1981 年(昭和 56 年)10 月 台風 24 号
台風 24 号は 192.3 ㎜の降雨量となり、市内の坂川、富士川、大堀川、準用河川上富士川、
同明神堀等が氾濫し、床上浸水 175 世帯等の被害が生じ、災害救助法が適用された。
6
(2)1991 年(平成 3 年)9 月 台風 18 号、10 月 台風 21 号
・台風 18 号…降雨量 255.0 ㎜、床上浸水 26 世帯、床下浸水 216 世帯、道路冠水 34 路線、
崖崩れ 10 カ所等の被害。
・台風 21 号…秋雨前線を刺激し、降雨量 305.7 ㎜、床上浸水 1 世帯、床下浸水 40 世帯、
畑の冠水による減収等の被害。
(3)1993 年(平成 5 年)8 月 台風 11 号
総降雨量 237.5 ㎜、床上浸水 4 世帯、床下浸水 170 世帯。
(4)2004 年(平成 16 年)10 月 台風 22 号
総雨量消防本部で 241.0 ㎜、北分署で 247.0 ㎜、床上浸水4棟、床下浸水47棟、
(5)2008 年(平成 20 年)8 月 大雨・洪水
東葛飾地域に大雨洪水警報が発令され、
野々下地先国土交通省雨量計が 160 ㎜と記録的な
雨量を記録。床上浸水 14 世帯、床下浸水 142 世帯、土砂崩れ 3 ヵ所の被害
5 流山市内の水神塔探検
(1)洪水と水神
流
山
水神信仰は、
私たちの生活に古来より欠く
市
ことができない水という自然の恵みに対す
水
神
る感謝の気持ちを表すとともに、水害・水難
塔
など水に対する恐れや水難者の供養を行っ
分
布
ていた。水神信仰は、日本全国に分布してい
地
るが、その役割や性格は地域によって異なる
図
と想定される。
<水神への祈願>
① 水防、防水、洪水除け
② 水難除け
③ 船中安全、水上安全、舟運の守護
④ 漁猟の守護
⑤ 潅漑(旱魃除け)
⑥ 雨降り(雨乞い)
利根川水系の歴史は水害の歴史でもある。
恐ろしい洪水を経験した人々は、
洪水に襲わ
れないようにとの願いを込めて「水神宮」と
刻んだ石祠を建てて水神を祀った。
<別表>「流山市の水神塔建立年紀と利根川
の洪水の歴史」でみられるように、
「水神宮
の建立」は洪水にあった年とか、その2~3
年以内に建立されているケースが多いこと
が確認できる。しかも流山市における水神塔は、江戸川にほぼ寄り添うように点々と建立
されているところから、洪水の発生した年と連動しているものが多いと考えられる。
今回の調査・探検の参考文献…『東葛流山研究 12号』
(流山市立博物館友の会発行)
への辻野吉勝・同弥生の寄稿文「洪水と水神信仰」
7
(注)この文献には流山市の水神塔は17か所が記述されていて、今回の調査・探検によりそのすべて
を見聞することができた。さらに今回新たに見つけた「水神宮」を加えて18か所とし、流山市水神塔
分布地図に建立年号順に番号を記載した。
(2)流山市の水神塔
水神塔の調査・探検は、4月24日、5月9日、5月16日、
5月21日、6月6日の5日間にわたりおこなった。
① 番地南1403の1先の「水神宮」
『笠付、1656年(明暦2年 10 月)
、桐ケ谷郷河岸講 14 人、別
①と⑭
当西善院』
。1654年の利根川洪水の後に建立されたとみられる。
酒巻さんの屋敷の裏にある。酒巻さんの話によると築堤の関係で家を移転し、その関係で
水神塔も移転したという。7 月 15 日に 13 戸の氏子で水神様のお祭りをしている。当番の
家で赤飯など食べて、子供の水難除けと洪水除けの水神。この一
帯は水田地帯で低地、たびたび水害に襲われた様子がうかがわれ
る。
② 流山の赤城神社境内に「刻銘の読めない水神」
『笠付、1754年(宝暦 4 年)
、1802年(享和 2 年)6 月棟
定(人名2及び人名 42)
』
。現在でも7月
② 15日頃に町内15人ぐらいで供物を備え
お祀りしているという。石段脇には船仲間
が建てた水難除けの波切不動尊もある。
③ 加の大杉神社境内に「水神宮」
『笠付、1777年(安永 6 年)建立、1841年(天保 12 年)
③
丑年吉祥日再建、加川中世話人(人名9)
』大杉
神社の祭神は大物主神、加河岸は江戸川の舟運による物資集散地とし
て開け、文化、文政の時代から明治にかけて大いに栄え天保の頃、里
人は土地の鎮守として守護社を創建、
朝に夕に感謝の誠を捧げている。
④ 木の香取神社境内に「水神宮」
『笠付、1787年(天明 7 年)
、建立者不明』
。
④ 毎年 7 月、佐原の香取神社よりお札をもらって、
世話人と年番の人がお参りをする。
江戸川べりの小高い丘に建つ水神塔に真新しい神紙を認めたとき、
今もなお水難への祈りの深さを見た思いがした。
⑤ 流山の浅間神社境内に「水神宮」
『笠付、1788年(天明 8 年)
、根郷氏子中建立』
⑤
赤い鳥居が立っている。
⑥ 桐ケ谷の西栄寺に「水神宮、飯鋼権現、八大龍王、山之神、烏蒭
瑟麼(うすさま)明王」
『笠付、1794年(寛政 6 年 6 月)
、桐谷一代当山現住法印祐意安置
之』江戸川より離れた流山街道沿いの西栄寺にあり、井戸のそばに祀
られていたもの。不浄のものを浄めてくれる神、稲作の神、水に関す
⑥ るすべての神を祀ろうというもの。
8
⑦
名都借の香取神社境内に「水神宮」
『1824年(文政 7 年 8 月)
、名都借村講中、願主(人名3)
』流
山の水神塔の中で江戸川べりから一番遠く離れて
いる。ただしそばに坂川が流れ、低地が面すると
ころから、水難とは無縁ではないと思われる。
⑧ 中野久木 152 の 1 先に「水神宮」
⑦ 『笠付、1830年(文政 13 年)6 月、願主(人
⑧
名 5)
』近くの平方新田の稲荷神社と一緒に祭りを行うという。
⑨ 西深井の三社大神に「水神宮」
『駒、1861年(文久元年)霜月建立之
(人名 24)
』境内に大杉神社もある。
⑩ 流山の浅間神社境内に「水神宮、浪割
船玉宮、大杉大明神」自然石『1868年
(慶応 4 年)9 月、船待中、世話人、今上
⑨ 村(人名2)
、流山村(人名 1)
』1868
年5月、利根川洪水、関宿氾濫の記録あり。なお同年9月8日に明
治元年に変更された。
⑪ 流山の赤城神社境内に
「御魂・水神宮」
丸石『1891年(明治 24 年)9 月(人
名 1)
』
⑫ 鰭ヶ崎の雷神社境内に「水神宮」
自然石『1912年(明治 45 年)6 月(人
⑪
名 1)
』
⑬ 深井新田の六社神社境内に
「妙
⑬
法親子水神」
『駒、大正 13 年 4 月(人名 1)
』戦
国時代に創建の神社の境内にある。
⑭ 南 1403 の 01 先「水神宮」
『年紀不明、建立者不明』
①と同じ酒巻家の裏に祀られている。
⑮ 流山の赤城神社境内に「水神宮」
『角柱、年紀不明、建立者不明』
⑯ 名都借の香取神社境内に「水神宮」
『笠付、年紀不明、建立者不明』
⑰ 中野久木 152 の 1 鹿倉宅の庭先に
「水
⑯
神宮」
『笠付、年紀不明、建立者不』洪水で流れ
着いたもの。現在も 1 日と 15 日に供え物をして祀っている。なお、
家人に聞くと、鹿倉家は家を堤防際より現在地に移したもの。また
川向こうの埼玉より船で嫁に来たと。
⑱ 南の田の畔(江戸川べりの低地)にある「弁天宮」創建不明。
9
⑩
⑫
⑮
⑰
⑱
江戸時代の古文書に記録がある弁財天の祠。水神とも習合している。
<別表>「流山市の水神塔建立年紀と利根川の洪水の歴史」
西暦年
年号
事柄
建立年紀
西暦年
年号
事柄
建立年紀
1654
承応 3
利根川洪水
1656①
1859
安政 6
利根川大洪水
1861⑨
1745
延享 2
下利根川破堤
1754②
1868
明治 1
利根川洪水
1868⑩
1777
安永 6
利根川氾濫
1777③
1890
明治 23
利根川出水
1891⑪
1786
天明 6
利根川洪水
1787④翌⑤
1910
明治 43
利根川堤防決壊
1912⑫
1792
寛政 4
利根川洪水
1794⑥
1920
大正 9
利根川出水
1924⑬
1824
文政 7
氾濫・関宿
1824⑦
1828
文政 11
下利根川洪水
1830⑧
年号不明
⑭⑮⑯⑰⑱
*参考―辻野吉勝・弥生編「利根川の洪水の歴史と東葛地域の水神塔建立年紀」
参考資料 (国土交通省江戸川河川事務所作成資料より)
利根川沿川地域の地形断面図
江戸川沿川地域の地形断面図
10
第3章
地震による災害(震災)
1 流山市に被害をもたらした過去の地震
規模の大きな地震は、それが発生した場合に、多くの人々はそれを初めて体験することに
なるので、過去の災害から学んでおくことが大切である。
江戸時代以降に発生した地震については、比較的古文書資料等が残されていて、様々な研
究がなされている。それらを調べた結果、江戸時代以降に発生した地震の中で、流山におけ
る地震の揺れが震度5以上の地震は、元禄地震、安政江戸地震、関東大震災及び、東日本大
震災であることがわかった。
(1) 元禄地震
1703 年 12 月 31 日(元禄 16 年 11 月 23 日) M7.9~ 8.2
相模トラフで発生した巨大地震で、1923
千葉県防災誌より
年関東大震災の「一つ前の関東地震」と位
置づけられる。しかも 1923 年関東大震災よ
りも、規模はひとまわり大。江戸の被害も
大きく、川崎から小田原にかけての宿場町
は、ほぼ全滅状態。津波が房総半島~相模
湾沿岸を襲い、房総沿岸だけで死者は 6500
人以上と推定。地盤の変動も大きく、房総
半島の南端は5m前後隆起した。千葉県内
では、津波によって多くの人命だけでなく、
元禄地震の再来想定津波高―館山市
土砂崩れや土地の沈降によって人々の生活
も奪った。
流山市の被害記録は見当たらないが、野田市と松戸市の推定最大震度は5強とされてい
るので、流山市でも震度5強の揺
れがあり、相当の被害があったも
のと推測される。
(2) 安政江戸地震
1855 年 11 月 11 日 21 時 20 分ごろ
(安政 2 年 10 月 2 日)
M6.9~7.1 程度
江戸の直下型地震。震源地は、
東京湾北部あたりと推定されてい
る。震源がやや深かったので津波
は発生しなかった。地震後火災が
発生し、1.5 ㎢が焼失。死者数は、
寺社奉行の把握していた数字で、
7,091 人、潰れた町家は名主の記録
から 14,346 軒、1,727 棟(長屋)
、
土蔵の潰れは 1,700 戸。
千葉県内での被害は、死者 20
名、家屋全壊 82 戸。
流山市近隣の推定震度は5強や
『流山市史近世資料編Ⅱ』より
11
5弱とされているので、流山市でも震度5弱であったものと推測できる。
流山での地震の被害状況の一端は、前図に示す『流山市史近世資料編Ⅱ』に掲載されて
いる「大地震破損覚」などで垣間見ることができる。
(3) 関東大震災
1923 年(大正 12 年)9 月 1 日午前 11 時 58 分《関東地震》 M7.9
相模トラフで発生した巨大地震。東京、横浜などで、地震のあと火災が発生、折からの
強風に煽られて広域火災となる。全体で死者・行方不明者 10 万 5000 人以上。死者の約 9
割は火災による焼死といわれる。広域避難場所だった被服廠跡には、火災旋風が襲い、約 4
万 4000 人が死亡した。家屋の全壊 10 万 9000 余、焼失 21 万 2000 余(全半壊後の焼失を含
む)
。大津波が相模湾沿岸を襲い、鎌倉をはじめ沿岸で数百人の死者、熱海では波高 12mに
達した。山崩れ、崖崩れも多発、丹沢山地では、山地面積の約 20%が崩壊。
震災から学ぶこととして、揺れの被害からは、耐震基準の重要性、埋立地など人工地盤
への配慮、関連して地盤条件による揺れの違い、余震活動への備えなど。火災については、
木造密集地の脅威、強風への注意、消火活動を妨げる余震の存在、不燃化だけでなく耐震
化の重要性、避難時の家財道具搬送の問題(自動車による避難)
、危険物が集まる東京湾沿
岸での被害の予兆など。土砂災害・地盤災害については、中山間地における本震直後の山
津波に対する警戒、地震直後の大雨に対する警戒、土砂崩れ危険地域での宅地開発への懸
念、震災から遠く離れても液状化の危険があるなど。また津波については、地震後すぐの
避難が生死を分けること、避難路確保のためにも重要な家屋の耐震化、さらに過去の被災
経験をもとにした津波避難の日常的啓蒙活動の重要
性などが指摘できる。
千葉県内での被害は、死者 1,346 名、負傷者 3,426
名、住家全半壊 19,474 戸、布良で津波が 4.5m。流山
市の推定最大震度5強(住宅全壊率 0.1%以上1%以
下)となっている。
流山市の被害状況は、下記のようなものだった。
八木村では、半壊1戸。
流山糧秣廠跡地(イトーヨーカドー流山店前)
新川村では、死傷者なし、全潰1戸、半潰1戸。
流山町(人口 4,800 人、戸数 918 戸)では、全潰1戸(瓦葺平屋1戸)
、約 40 戸で屋根
瓦半数墜落、小学校舎は傾斜、建築中の陸軍糧秣廠倒潰、井水の変化は4井など、一寺院
の墓石転倒など。
利根運河では、両岸堤防に大亀裂、崩壊、陥落の被害大にて、台風シーズンでもあり、
洪水の原因になってはと、新川、梅郷、田中、福田の村が協力して十数日間、五千数百人
を動員して日夜兼行の応急工事を行った。
2 東日本大震災
(1) 概要
2011 年(平成 23 年)3 月 11 日 14 時 46 分頃に発生した日
本の三陸沖を震源とするマグニチュード 9.0 の大地震
(東
北地方太平洋沖地震)とそれに伴う津波による大震災。
流山市では震度5弱(震度6弱:成田市・印西市、震度
5強:野田市・柏市・習志野市・浦安市・白井市、震度5
12
津波被災地石巻・2012 年夏
弱:松戸市・我孫子市・鎌ヶ谷市・船橋市・市川市)。
全国で、死者 15,854 人、行方不明 3,155 人(2012
年 3 月 11 日現在警察庁まとめ)。宮城県栗原市築
館では震度 7 を記録した。この地震に伴う大津波
によって岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉
石巻の巨大瓦礫処理場
石巻の巨大瓦礫処理場
県など三陸沿岸から関東地方沿岸の集落では壊滅
的な被害が発生した。
巨大ゼネコン企業
巨大ゼネコン企業体
死者数は阪神大震災の 6,434 人を大幅に
体
上回り、戦後最悪の災害となった。東京電力
福島第一原子力発電所では、
地震ののち自動
停止したものの津波により冷却能力を失い、国際原子力事象評価尺度レベル7の深刻な原
子力事故が発生した。
各地で停電が発生、青森・岩手・秋田全域、山形・宮城ほぼ全域で停電、東北地方だけで
も約 440 万世帯停電した。関東地方では約
410 万世帯。
千葉県市原市のコスモ石油千葉製油所で
高圧ガスタンクの落下により爆発、
大きな火
災を起こした。
発電所の稼働率が低下したこ
多くの犠牲者を出した大川小学校・2012 年夏
とから電力不足が発生し、
東京電力と東北電
力は計画停電(輪番停電)を実施した。
(2) 流山市の被害 ( )内は千葉県の被害者数・被害件数
① 人的被害
死者 0 名(野田市 1 柏市 1 など県で 20)
、行方不明者 0 名(2)
、
負傷者:重傷 0 名(26)
・軽傷 1 名(約 250)
② 火災
建物火災 0 件(野田市 1 千葉市 5 など県で 15)
③ 建物被害
全壊 0 棟(798)
、半壊 0 棟(約 1 万)
、一部破損 923 棟(約 5 万)
・・・
住宅屋根瓦落下、ブロック塀倒壊、側溝等損傷、壁面損傷、窓ガラ
ス損傷、配管損傷など
④ 公共交通機関
地震直後東武鉄道の踏切全線通行不能、総武流山電鉄やつくばエク
スプレスの運転見合わせなどで大混乱、
数日後から始まった計画停電
により各鉄道の運休や間引き運転により大混乱
⑤ 道路被害
道路の陥没や損傷等で通行止めや交通渋滞の発生、流山有料道路の
通行止め
⑥ ライフライン
電気(流山市内でも最大5回の計画停電)
、電話(回線規制でつなが
りにくくなる)
。
「流山市内の計画停電実施状況」―東京電力(株)東葛支社から提出された資料によるー
ア 流山市全域では2回
3/15(火)12:51~15:43、3/16(水)9:50~12:29
イ 松が丘 1~6 丁目、西松が丘1丁目、名都借、前ケ崎、向小金 1~3 丁目では“ア”
に加えて3回
3/17(木)14:20~17:07、3/18(月)18:50~20:41、3/23(水)18:50~20:21
ウ 江戸川台東3丁目、東初石1丁目、駒木台、青田では“ア”に加えて1回
3/21(月)7:03~9:57
⑦ 避難所の状況
帰宅困難者や滞留者の公共施設への受入(十太夫福祉会館、生涯学
13
⑧その他
習センター、南流山センター・南流山福祉会館、北部公民館、初石
公民館で 3/11 に 352 名、3/12 に 101 名)
。放射能自主避難者受入(流
山福祉会館は 3/23 までの累計で 35 名、老人福祉センターは 3/27 ま
での累計で 30 名)
。
スーパーマーケットなどでは食料品が店頭からなくなり、ガソリン
スタンドでは長蛇の列ができ、余震が続き不安な生活を送った。
―参考資料―
流山小学校区まちづくり協議会では、関係自治会を通して、アンケートによる「東日本大
震災による被害調査」を行った。アンケート調査日
2011 年(平成23年)7月。
調査対象自治会 14 自治会--流山 1 丁目から 9 丁目の 9 自治会、東谷自治会、加台自治会、
平和台 1・4・5 丁目自治会、平和台 2・3 丁目自治会、西平井自治会
対象戸数 4,625 戸、
回収数 2,128 戸、
回収率 46.0%
調査結果
被害あり 1,080 戸、
被害なし 1,048 戸
建物被害 801 戸の内容 ・・・外壁のひび割れ、亀裂、欠損等 192 件。内壁のひび割
れ、亀裂等 180 件。屋根関係の破損等 107 件。基礎のひび割れ 92 件。浴室タイ
ルのひび割れ、はがれ 78 件。玄関、勝手口の床コン、タイルのひび・はがれ 36
件。窓、戸等の開閉悪化、ガラス破損等 28 件。地盤の沈下傾き 22 件など・・・。
建物以外の被害 863 戸の内容・・・食器類の落下・転倒による破損 292 件。花瓶、人
形ケース、置物等転倒・落下で破損 146 件。ブロック塀にひび、一部崩れ、倒壊 94
件。タンス、本棚等が倒れ、破損 51 件。額、時計等の落下破損 51 件。TV が倒れ、
落下(破損) 44 件。灯篭が転倒、一部破損 43 件。照明器具の落下破損 36 件。
植木鉢、置物が倒れた(破損) 23 件。駐車場・玄関先・テラスの床コン、タイルに
ひび 19 件など・・・。
(3) 福島第一原子力発電所の事故による被害
時系列による事故状況(朝日新聞記事や「広報ながれやま」等から)
2011 年(平成 23 年)
3 月 11 日 14 時 46 分、
規模マグニチュード 9.0 の地震発生。
大津波が東日本沿岸を襲う。
東京電力福島第一原発 1~5 号機で全交流電源喪失。1,2 号機の緊急炉心冷却システム
動かず、半径 3 キロ圏内に避難指示、半径 3~10 キロ圏内に屋内退避指示。
3 月 12 日
1号機原子炉建屋で水素爆発。
3 月 13 日
東京電力が翌日からの計画停電
実施を発表。
3 月 14 日
3号機原子炉建屋で水素爆発。
2号機で原子炉内水位低下、燃料棒が露出
原発爆発事故跡地・新聞記事より
し炉心溶融。
3 月 14 日深夜から 15 日午後
2号機の炉心露出、2号機付近で衝撃音、破損。4号
機原子炉建屋で同時刻に、水素爆発火災などで放射性物質の放出が深刻だった。放射
性物質が集まる放射性プルーム(放射性雲)は、関東平野にかけて広域に時計回りに
流れる状況が 15 日未明まで続き、福島、栃木、群馬に雨が降り、プルームが地表に落
ち汚染された。午後には北西に向きを変え福島県浪江町などで帯状に高濃度汚染をも
たらした。
14
3 月 20 日夕方から 21 日未明 宮城北部、岩手南
部で雨が降り、飛び地状に放射能汚染された。
3 月 21 日夜から 22 日未明 プルームは茨城沿岸
から千葉を通り南下した。関東地方は広い範囲
で雨が降り、茨城では沿岸や南部周辺に、千葉
では柏市周辺にホットスポットをもたらした。
低気圧が房総半島の南にありそこに向かって風
が流れたため、プルームは、都心の手前で南下
し海へ流れた。このため 2,200 万人が住む東京
と神奈川の汚染は東京東部など一部だった。
3 月 23 日午後
金町浄水場(葛飾区)から食品
衛生法に基づく乳児の摂取に適さない数値の放
射性ヨウ素が検出(東京都水道局)
。
3 月 24 日~28 日
(流山市)おおたかの森浄水
場で乳児のいる家庭へ水の配布
6 月 6 日と 7 日
流山市独自に、幼稚園、保育
汚染状況・新聞記事より
所、
小中学校で放射線量を測定。
「高さ 1mで 0.15
~0.39μSv/h、
高さ 0.5mで 0.16~0.44μSv/h」
。
7 月 11 日
流山市クリーンセンターの溶融飛灰の測定結果 28,100 ベクレル/kgと
仮保管等当面の対策を流山市が発表。
8 月1日
流山市が放射能対策室を設置。
12 月 20 日 環境省は 19 日、東北・関東地方の 8 県の 102 市町村を国から除染の財政援
助が受けられる「汚染状況重点調査地域」に指定した。千葉県―松戸市、野田市、佐
倉市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、印西市、白井市。
3 地震予測
(1) 大変動期―千年に一度の巨大地震の世紀?
歴史を調べると、巨大地震などは一定の間隔で繰り返されている。東日本大震災は平安
時代の貞観地震と比較される。また、貞観地震の前後には大規模な地震が発生していて、
それらが現代の地震と比較される。今後発生する地震を類推するための参考になるので列
記する。
-平安時代―
(対比される現代の地震)
830 年 出羽国大地震(秋田城が被害) ―――1983 年 5 月 26 日 日本海中部地震 M7.7
841 年 長野県中部の地震(牛伏寺断層など)―1984 年 9 月 14 日 長野県西部地震 M6.3
841 年 伊豆半島地震(北伊豆断層帯から) ―1974 年 5 月 9 日 伊豆半島沖地震 M6.9
850 年 出羽国南部の地震
――2008 年 6 月 14 日 宮城内陸地震 M7.2
863 年 7 月 10 日 富山新潟の地震
――1964 年 6 月 16 日 新潟地震 M7.5
2007 年 3 月 25 日 能登半島地震 M6.9
2007 年7 月16 日 新潟県中越沖地震M6.8
2007 年 10 月 23 日 新潟県中越地震 M6.8
868 年 8 月 3 日 播磨地震(兵庫、岡山) ――1995 年 1 月 17 日 阪神大震災 M7.3
864 年 6 月(貞観 6 年)~866 年初頭 富士山大噴火
15
869 年 7 月 13 日 貞観地震(宮城県沖) ――2011 年 3 月 11 日 東日本大震災 M9.0
2011 年 6 月 30 日 長野県中部でおきた震度5強(千年あまり
活動がなかった牛伏寺断層付近で発生)
2011 年 7 月 5 日 和歌山県北部で震度5強
878 年 関東南部で M7 以上の直下型地震
887 年 仁和地震(東海・東南海・南海の3連動とみられる)
-18世紀初めー
1703 年 元禄地震 M8.2
1707 年 3連動型(東海・東南海・南海)の宝永地震 M8.6
1707 年(宝永 4 年)12 月 16 日富士山大噴火(上記の 49 日後)
1783 年(天明 3 年)8 月 4 日 浅間山大噴火
NHK 番組“大変動期”より
― 幕 末 ―
1854 年 安政東海地震 M8.4 高さ 9 メートルの津波が襲った
翌日の安政南海地震 M8.4
1855 年 安政江戸地震 M7.1 江戸の直下型、死者推定1万人
1888 年(明治 21 年)7 月 15 日 磐梯山大噴火
(2) 想定地震
これまで調べてきたように、巨大地震 は、一
定の間隔で発生し一定の地域に大きな被害をも
たらしてきた。
地震による被害を予防、軽減し、また、発生し
た被害に対して有効な対策がとれるように、国
や千葉県、流山市では、発生する可能性がある
程度高い地震と可能性は高くなくても否定はで
きず、かつ、発生した場合は相当な被害が予想
される地震を想定し、様々な対策を立てている。
流山市では、
政府の防災会議専門調査会がとり
まとめた調査結果に基づいて、M7クラスのプレ
ート境界型直下地震 ①茨城県南部地震(M7.3)
防災会議資料
と ②東京湾北部地震(M7.3)が発生する可能
より
性があるとしている。
また、正確な記録が残る過去最大の規模の活断層地震とされる 1995 年(平成 7 年)阪神
淡路大震災と同等規模のものとして、③「流山市直下の活断層による M7.3 の地震」を想定
している。
さらに、同種あるいは異種の自然災害が同時に又は時間差を持って発生する ④「地震と
台風の複合災害」
(豪雨により江戸川の水位が上昇、流山市直下の地震 M7.3 が発生、地震
により江戸川の堤防が決壊し洪水の発生)を想定している。
流山市内各地域では震度6強前後が想定されている。地震ハザードマップなどを活用し、
住んでいる場所とその地域の状況を確認し、建物の耐震改修や家具の転倒防止、避難所・
避難ルートの確認など、日ごろからの備えが大切である。
16
第4章
考
察
西部防災センター体験
1 主な調査・取材等の活動
2011年(平成23年)
11月23日 流山市中央図書館にて文献・資料等の調査
12月20日 流山市森の図書館にて文献・資料等の調査
2012年(平成24年)
3月 7日 千葉県西部防災センター見学及び調査
火災、地震、風水害や防災・救急活動などを体験学習し災害 地震発生地点日本最多
に関する資料等を調査。センターには、災害時における総合
防災拠点としての防災備蓄倉庫やヘリポートを備えている。
―西部防災センター体験5枚組写真参照。
3月10日 流山市文化会館にて佐野眞一講演会での学習
『3.11から1年~震災から日本を考える』
「今回の三陸大津波と福島の原発事故は、日本の近代化がた
どった歴史と、戦後経済成長の足跡を、二つ重 起震室・震度7体験
ねてあぶりだした。いま私達に問われているの
は、これまでの日本人がたどってきた道とは全
く別の歴史を、私たち自身の手で作れるかどう
パンフより
かである。そして、それしか日本復活につなが
る道はない。
」
3月29日 利根運河交流館と関宿城博物館見学
利根川や江戸川の歴史を見聞。江戸川が一望できる関宿閘水
暴風雨体験室で激体験
門に立ち今回の課題の重さをかみしめた。
*関宿閘水門(明治43年の洪水を契機に利
根川改修の一環として江戸川においても全川
にわたる高水工事を実施した。船舶の航行を
可能にするため、
昇降する8門ゲートを備え、
水位を調節する役目を持っている。1827
博物館入口にて
年竣工)
消火体験・迅速消火!
3月29日 東京電力東葛支社にて計画停電について取材
東日本大震災と原子力発電所事故による電力不足のための計
画停電実施状況の回答文書を受領。
4月24日 流山市中央図書館にて文献資料等の調査
5月13日 市民環境講座・青木更吉講師「江戸川は流山にな
にをもたらしたか」
江戸川の堤防については、明治末ま
で堤防というものはなく、川に沿った本通り(旧道)が堤防 防災体験学習記念撮影
の役目を果たしていたが、大正時代に現在地に堤防が築かれ、
カスリーン台風を受けて昭和 30 年代に現在の高さの堤防が築かれた。1804 年秋の江戸
川大水による流山洪水を詠んだ一茶の句「
」がある。
5月23日 流山市役所取材(市民生活部防災危機管理課と環境部放射能対策室が対応)
地震を中心とした市の防災計画の見直し(直下型地震 M7.0 を新たに想定、事業継続計画
を策定、複合災害を想定等)
。放射能被害に対し、0.23μSv/h 以下を目途に、小中学校
17
を優先して除染していく等。防災備品の市としての備蓄は 3 日間を
想定して対応等。
市役所取材後、流山糧秣廠跡地調査
6月 8日 流山市役所建築住宅課取材
市役所前にて
配布された資料:流山市関係の耐震診断耐震改修に関するプリン
ト4種、国土交通省の耐震関係パンフ2種、千葉県の耐震関係パンフ2種、流山市地震
ハザードマップ。取材概要―最近は、地震、洪水、火災や竜巻被害まで考えて、対策を
考える必要がある。いろいろな地震の影響により、昭和25年に建築基準法がつくられ、
昭和48年、昭和56年、平成12年に大きな改正があった。それぞれの特徴。流山市
の耐震対策制度には、耐震無料相談、耐震診断、耐震改修がある。~「地震対策はいろ
いろあるが、最後は地域のつながりが大事」
。
6月28日 流山市消防署取材
浸水被害は坂川放水路と松戸排水機場の建設で減少傾向だが都市化の影響でいまだに発
生。災害救助法は昭和 56 年の台風 24 号の被害に対し唯一適用された。自治会等の自主
防災訓練へ消防署の積極的協力等。
7月14日 流山小学校区まちづくり協議会耐震・防災部会取材
協議会が協議会を構成している14自治会を通して、東日本大震災による被害状況や耐
震診断制度の関心度などについて調査して膨大な量の調査結果をまとめて発表した。
8月28日 名都借で急傾斜地崩壊危険個所調査
(8 月 20 日 石巻等被災地訪問)
2 流山市の災害上の特徴
(1)風水害
・ 利根運河の流山側では明治29年と明治43年に堤防の一部が欠傷しただけで、堤
防決壊とその洪水はない。江戸川等の河川では氾濫の危険
性があり、市内の 1/3 くらいが浸水想定区域である。浸水
想定区域外でも、集中豪雨などにより局所的な都市型災害
をもたらす可能性がある。
・ 流山市内には、土石流危険渓流や地滑り危険個所は存
在しないが急傾斜地崩壊危険個所が 15 カ所ある。大部分が
市南部に分布し、崖崩れの危険個所が点在している。
危険個所・名都借
・ 資料が整理されている昭和48年以降では、風水害に
よる死亡者はいない。
(2)地震
・ 比較的資料が残っている江戸時代以降では、流山において現在の震度階級で表して
震度5弱以上の地震は4つあった。元禄地震・震度5強、安政江戸地震・震度5弱、関
東大震災・震度5強、そして東日本大震災・震度5弱であるが、記録を見る限りでは死
亡者はいない。
・ 市直下には、現在のところ確認された活断層はないが、野田隆起帯という断層帯が、
市直下の一部を通っていることが最近確認されている。流山市直下型地震を想定外とす
ることはできない。
(3)総合的に
・ 流山市では、過去に大きな災害に見舞われていない。このことは、強みでもあり弱
点でもある。
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3 防災について
・ 津波から身を守るために大きな防潮堤を作っても完全には身を守ることができなかっ
た。防災を考える時には、減災や多重防御という視点も必要である。
・ 自然の驚異から身を守るためには、物理的な防御だけでは困難であり、人の問題・社
会等の問題でもある。ハード面だけでなくソフト的な対策が必要である。一人一人が自立
的な取り組みを行いながら、人と人との多様な取り組み、社会的な多様な取り組みが必要
である。たとえば、自助、共助、公助など多様な防災対策、減災対策が必要である。
・ 具体的な例を列挙すれば、自助(自分の命は自分で守る)として、安否確認や情報収
集に関する手段について家族間で徹底させる、家屋の耐震診断や補強による自己防衛を行
う、ライフライン寸断時の対策を行うことなど。共助(自分たちの地域や集団などはみん
なで守る)としては、自治会やそれぞれの集団で共助の意識を高め防災・減災対策をとる
ことなど。そして、公助(行政各層等の防災体制)として、災害時の安全な避難場所の確
保、広域災害に対する自治体間の連携・避難体制の整備、災害時の医療体制の整備、帰宅
困難者への対策、災害時要援護者や女性などの視点に立った対策、地域コミュニティや自
治会などへの防災教育訓練、災害時の耐震性確保、より実効性の高い防災・減災対策など
を行う。
・ 「想定外」という責任のがれはやめる。あらゆることを想定し、必ず災害は起こりう
るという考えを持って、あらゆるリスクを想定し、災害のダメージを最小限に抑える備え
と対応策を考え、対策を強化する必要がある。
・ 日本は災害大国であることを肝に銘じ、防災にあたらなければならない。地震と津波
に原子力発電所事故に見舞われた東日本大震災から学ぶことが多い。新たな防災思想が必
要になる。
・ 現在の自然災害の現れ方は、平安時代の大変動期に発生した災害の状況と似ている。
人々は、こうした大きな災害を何度も乗り越えながら、今日の社会を築いてきた。これか
らも、災害を避けることはできない。だから、正しく恐れることが必要だし、最悪の事態
を想定して備えることが必要である。
・ 今私たちは、災害に対する大きな不安を抱いている。災害に対する多様な備えが必要
だ。何よりも一人ひとりの防災意識を高めながら、一人ひとりのいろいろな力を合わせて
人と人との「絆」を深め、たくましく生き抜いていくことが必要である。
4 学んだこと・考えたこと
・ 水害や地震について調べていくうちに、水害と地震は切り離すことができない災害だ
ということがわかった。
・ 地震と津波、そして人為的災害も加わ
って発生した放射能汚染は、私達が脅威に
思っていることの一つである。放射能を浴
びると細胞・遺伝子が破壊され、ガン等の
病気になるので、何としても防がなければ
流山市内の除染作業・目標 0.23μSV/h 未満
ならない問題である。特に子供に対する対
策が急がれるのは当然のことである。
・ 災害の歴史を学習して、自然の驚異をあらためて知らされた。寺田寅彦の『日本人の
自然観』によると、地震や風水などによる不安定な自然は、日本人の宗教観の基礎(
「天然
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の無常」など)をつくりだしたといい、和辻哲郎の『風土』によると、台風などの不安定
な自然は、日本人の道徳・倫理観の基礎(
「慈悲の道徳」など)をつくったという。自然と
ともに生きていくこと、日本人の生き方の土台としてのものの見方考え方、宗教、哲学、
倫理などについて考えさせられた。
・ 利根川の堤防決壊などにより水害が繰り返されてきたが、現在は、河川改修や堤防整
備などにより洪水は防げるようになってきた。しかし、急激な都市開発により、河川の埋
め立てや湿地、低地に住宅地を切り開き、街を創り上げてきたので、人の住まいが、水に
近づいたために、逆に都市型水害などが身近なものになっていることに気付いた。このこ
とは、寺田寅彦が『天災と国防』の中で述べている「文明が進むほど天然の暴威による災
害がその激烈の度を増す」ということである。
・ 「災害の歴史」は庶民の苦しみの歴史だから、面白くも何ともないし、派手でもなけ
れば華美でもない。しかし、日々の暮らしを妨げる様々な災害をていねいに記録していく
ことは、その後の日々の暮らしをより良くさせていくためにはとても重要だと思うように
なった。
・ 災害の歴史を主に風水害と地震に分けて調査し探検してきたが、人類が地球上で生活
しはじめてから今日に至るまで、いつの時代にも自然の営みの中で、より賢くより強く生
き抜く知恵を出し合いながら生活していることに気付いた。
おわりに
これまでに、流山の歴史を災害史の側面から、調査し取りまとめたものは見当たらなかっ
た。災害は、日々の暮らしを営んでいる人々に直接降りかかってくる、面白くも華やかでも
ないものである。しかし、自然や社会が大きく変動している今日、災害を歴史的に取りまと
めて学習することができたたことは、
今後生きてゆく上での貴重な指針を得るものとなった。
また、人々が忘れかけている「災害」を掘り起し取りまとめることができたので、今後、
災害に対応できる安心安全な町づくりの一助にすることができるようになった。
そして何よりも、班員全員で楽しみながら学習することができ、班員相互の結びつきも深
めることができたことは、何よりの収穫だった。
最後に、このたびの学習活動にあたりご協力いただいた行政、民間の関係各位に心から感
謝申し上げる。
参考文献
内閣府中央防災会議(平成 23 年 3 月)
『災害史に学ぶ』
、千葉県消防地震防災課(平成 22 年
3 月)
『防災誌』千葉県、千葉県東葛飾郡教育会(大正 12 年 6 月)
『千葉県東葛飾郡誌』
、流
山市『流山市史』
、流山市立博物館『流山市史研究』
、流山市立博物館友の会『東葛流山研究』
崙書房、流山市(平成 19 年 3 月)
『流山市防災対策調査書』
、流山市防災会議(平成 24 年
8 月)
『流山市地域防災計画』
、流山市土木部河川課(平成 18 年 4 月)
『流山市洪水ハザード
マップ』
、国立天文台『理科年表』丸善、山形紘『流山近代史』崙書房、佐藤真『千葉県野田
地方庶民災害年表』財団法人興風会図書館、ホームページより引用(ジオテック株式会社『流
山市の地盤』
、KK 三菱総合研究所提言『東日本大震災を教訓として安全・安心社会を再構築
しよう』
)
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