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法然 1:人1ft仰会

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法然 1:人1ft仰会
浄土鱗75.3骨 1 . 1'1 1 箇 1 自発行} 平成21 年 4 1'1 1 目先行昭和川牢 5 月初日続 3 廻.ff拘U司
A
法然 1: 人1ft仰会
を
布施持戒、 乃至孝養父母等の
。
諸行を選捨して、専ら梯号
称するを選取す
かるが故に選択というなり
rL丘富塚持占・ u抑模様O'lî r浄土J 2009年表紙の人
IYHf:ì33年初l 庇i 区松下町に 生 まれる 。
円本商の小林呉橋に師事。
淀m 区請書合に工房を構え多数の弟子 を持つ 。
戦時中、 千葉興津に疎開、戦後も潮風の漂う仕事場で友禅を揃き続ける 。
昭和 52年逝去 。
表紙は締凶から 下絵、糸目糊1夜、色怖し、仕上げ、金加工 まで金工程を
一 人で行 っ た逸品。
3 月号『花下遊楽図(花宴) ~
むザに紙山入あり
川本 の
人々に日仰あり
心の般郷を紀行する
三*山4再念号本.と綱念型事第四十三
也となる鉾滞館司居住眼. 11.なる火
災に遭った本.だが、先代鉾海理'Il幅
住臓が現本.を湾[遇された.
山
形
四情念寺本穆阿弥陀如来座像
・
仏前には自国よ寺と泡よ寺布教師会か
らの御忌llR導師の祝いの品が供えら
れていた.
住田制.
、
率 成 幻 年 1 月お目 岨唱上寺本尊前での教・伝
違式で八木零笠台下から数・を受け取る持湾
)・
(
写盲問中央手前
.
、
輸相・伝濃式後に情家総代さんと一範
.
、
に記念燭彫 前列ちから兄になる井
-、
R貴子婦人
湾隆徳本山遁誼軍寺貫主
弁滞陽明掴情念寺住臨俊
輔彦劃住総
教-伝違式で法然よ人像に向かい礼帽停を曾る弁湾住臓
率直覧十一年留山記念の自主5'11念望号の五・11伝で受望書に沼環する弁湾住臓.
本:11後方の位牌:11. 位牌堂の鹿のス
ペースは地元の子供会や老人会の鎌
倉渇所になっているという .
ゆム
2脱却/4 月号目次
カラーグラビア寺普段紀行
山 形 祢念 寺 …H・ H ・-…H・ H ・- 姐gー タカオカ邦彦
I
法然上人への思議 ・・……・…......・H・-… H ・ H ・-… H ・ H・-…H ・ H ・ 岡本かの子
6
寺院紀行
山 形称念寺 …....・H・-…....・H ・.....・...…....・ H・-…… 真山剛
12
小説快m 渡辺海旭 f画 中 に月を求めて ③』… H ・ H ・..…-… 前田和男
2
0
会いたい人
26
山崎 努さん①・……H・ H・...・ H ・....・ H ・...…… H ・ H ・- 関
容子
響流ト }j …H ・ H・-…H ・ H ・...・H・....・ H ・-…....・ H ・....・H・...……H・ H ・...…韓国庫順
34
朝めし礼貸 ・.........・ H・-… H ・ H ・-…H・ H ・-…H ・H ・...・ H・.........・ H・...…・・ 廓生タオ
3
8
江戸 を捗く
第二 十 五 II~ ・・……
… H ・ H・...…… H ・ H ・...・ H ・- 海溝鑑
浄土誌上旬 会 …・・… H ・ H・....・ H ・-…… H ・H ・-…....・ H ・-・・制・織田河郎子
マンガ
さっ ちゃんはネ ッ…...・ H・.....・ H ・....…….. かまちよしろう
編集後配…....・ H ・-…….....・ H・....…一一_.._・ H ・-……....・ H・-…….....・ H・....・ H ・... .一一
教えと法 i活 H ・ H・. . ............・H ・-… H・ H・.....・ H ・.. .…......・H ・-… H ・ H ・... 生野善鹿
表紙題字 =中村康隆前浄土 I"J
:
1
アートディレクシ ョン= 近雌ト四郎
箇カ=迦陵頻伽合
40
4
8
5
1
5
2
s
昭和+年五月『浄土』創刊号渇飽
?
i
3
2
岡本かの子
長
法然上人への忽必
私は近頃、紫式部の信仰を調べる必要があって平安朝の浄土思想を探ってみた
。
。
この偉
大な女流文学者は晩年阿弥陀仏の信仰により安心立命を得て西方往生を期した その事は
かんよ事
式部自身、日記の中に記してあるから間違ひはなく、且、晩年のみならずずっと前から浄
。
土思想に深く緬饗されるところがあった為めに、あの絶美な芸術的情緒が潤ほされたであ
らうこ と も 亦 、 想 到 す る に 難 く は な い
。
しかし其の勢力の強さといふものは形式的や教権的でなく、実質的、内容的であ
ところで式部の信仰の環境をなす当時の仏教界の有様をみると思ひの外に浄土教の勢力
。
が強い
る
。
それ故今から見ると随分
つまり日常 生活の利益や霊験は他教によって縮めるが、いざ生死といふ人生 の棋本問題
に触れて来ると多く弥陀の西方浄 土を念ずるといふ有様だった
ム
VAg
妙に 思はれる信仰様式が行はれてゐた 。 例へば法華経を受持する功俸によって弥陀の浄土
。
。
つまり専修の
を期するとか、或は釈迦、薬師の造像起立の報勲によって極楽往生を適へきして貰ふとか、
。
そういふ雑修的のやり方でも兎に角、弥陀憤僚の風は泊々として人々の
およそ筋違ひ、矛盾に感ぜられることが、普通に行はれてゐたゃうだつた
念仏でなかった
「盟る」と いふ流行語が出来
ひじ
精神界に流れ、世に時めく儀礼仏法、社交仏法の影を避けて、真撃な花を咲かせてゐた
当時「型」と称される 一群の遁世者があり、遁世する事を
"
E"
しかしそういふ聖たちでも雑修の風は同じ事で、これはもう少
た@はら
。
た程で、世人から羨望の眼を以って見られてゐたのは心の趣くま、に此の真撃な花が培へ
る境 遇 だ っ た か ら で あ る
。
し後の事ではあるが、 「棚原聖 」 といふ人の知きは経典も諭せず仏号も唱へず、ただ西に
向って方丈に坐って居る、それが極楽往生の近辺だとするやうな変ったのがあった
7
はん害
平安初期以来、浄土教は内容的にそれほど人々の心に強く流れた大きな川であったとは
。
。
かいぜっ
それを念仏 一行、口調専修の河容に改諜、統 一せられた法然上人の宗
&et A7
言 へ、その信行は上述の如き雑修の混濁を帯び、かっ、いくつかの宗味に分れて煩頭、疎
荒に 堪 え な か っ た
教的 力 量 は 推 し 測 ら れ な い ほ ど 体 大 な も の で あ る
。
。
今時の私達が感ず
しかし、これは浄土思想と念仏との関
私たちは上人の垂訓を説み、余りにしばしば口を極めて雑修の排除に努められてゐるの
をみ て 、 こ れ 程 に せ ら れ ず と も と 思 ふ こ と が あ る
係が既に整理し尽きれ、殆ど自明の理の如き形にして与へられてゐる
。
。
私は平安朝の浄土教の状態を知る
実に当時に於て 此の事業をせ られたのは、大河の流れを 一円の
ぴ
る感想であって、上人時代、既往 三百余年の雑修の因習の深さの前に立つならば此の感は
絶対 に 起 ら な い で あ ら う
。
カに依って決せられたやうな大努力であったのである
次に私が法然上人に感謝してゐることは、上人の迷ひの聞が長く思想を定められて立宗
に及んでつく r\ 上人の思想的勇姿を思ひ箆べた
。
上人は長寿で八十歳以上までも在世され立宗開教以来、普
開教せられたのは、早熟早老の習慣があった当時に於ては、寧ろ老年に数へらる、四十歳
以上の時であったことである
通人の 一生涯に値する歳月を用ゐられて、あれだけの救世済民をせられたのであるが、若
。
長寿それ自体、上人の大器晩成を証するものであるが、上人は幼時から慧倍、天才型
しも上人にして日本人の平均年齢ほどで示寂されたなら甚だ心元ないものがあったであら
う
其の意
これにつけて自分の事を 官 ふのはおかしいやうだけれども、
。
の方でありながら、而かも四十過ぎまで宗教的求道捜索に初笹せられたといふ事は、加何
。
にその志が向く、ぃ、加減なものでは満足せられない性質であったことを証する
味の大器晩成型であられた
8
~然上人への思纂
私も宗教に歩みを入れてから、真の安心 立命を得られず、あれやこれやと随分右往充往し
た
。
。
。
その為め意外な広さを漁ったことは望外の健倖であるが、しかし 「さすらひ 」 は辛い
まして、精神的生命の死活問題に係る「さすらひ」は骨身にこたへる 私は
ものである
。
そういふときに慰められたのは法然上人の決定の遅かった事である
。(余
嘆きのあまり、自暴自棄に陥らうとし、懐疑の谷にうづくまり宗教を白眼視しゃうとした
事さへ あ っ た
の大宗教家の決定は多く 二十代、 三十代であった 。)
。
努むべきである 」 と、私は思った
。
。
ぴんも a。
「上人 の知き慧悟の方にして四十以上まで選択に時日を費された まして、まだ若く且つ
拙い自 分 で あ る
。
しかし、事実私は此の点でどのくらゐ慰められたか知れない
。
しかも今、
かういふ意味で感謝されたといふ事を若し上人が聴かれたなら、恐らく苦笑され側笑さ
れるであらう
なもの に 慰 め ら れ ん 事 を 祈 っ て 止 ま な い
。
私は何人にも早く安心決定して上人の斯る点に慰められずに、もっと上人の本筋の宗教的
上人が 宗 教家として中に鋭く強いものを蔵しながら人間としての手触りが春の海の如く
ゅうけい
。
私はごく卑近な世俄的の疑ひの問ひに対し、同じく卑近な列に降って通
一個の平明
寛いでのびやかなのは、私が他でしば/\述べたところである 気品があって美的情操の
。
豊であったことは詠ぜられた和歌によっても判るが、上人の文そのものが既に
な散文詩である
。
・
んか
H
淳美の人は何物をも醇 化せ ずには措かない
・んぴ包
。
俗に答へられてゐる上人の問答体のものに却って驚くべき雄勤で艶美な詩のリズムを発見
haζ
して讃 嘆 措 く 能 は な い の で あ る
。
勿論、上人の宗教は 一方、光明 主
私は普き意味の厭世感は現実生活の堕落を批判し、思想の低劣を排除して、良好の理想
を迎へ入れる精神的準備 工作をなすものと思ってゐる
9
古き伝統位
三代にかたる信頼
。
ま
い
は 今と〈
。
ら れる
今日、上人の光明方面
浄土宗法衣専門
。
古島法ゑ洛
。
こ の事は別に信心獲得に直接
。
関係なく、或は
要するに心、
。
一つとなって
否、 現実は本質的には其にして美なのかも
。
それは兎に角、いやしくも浄土思想を愛するものは、その要素の
厨る美の価値、憤僚の価値にも重要な注意を払ふべきものと忠ふ
知れ な い
消浄 を 持 た 人 は 現 実 を も 克 化 し て 眺 め
伝記者の迷信とする 人 が在るかも知れないが、私は素直に事け入れ度く思ふ
璃に 化 し て 眺 め ら れ た と 伝 記 に 書 い で あ る
上人は行業積るにつれ、 三味を発得せられ、 宝 樹、 宝 池を、眼前に眺められ、大地は瑚
語ん
と共に、後若の方而にも学ぶべきものが多々あるやうに思ふ
義ではあるが、 一方かなり此の準備 工作にも力を入れられてゐる
有厩
舎をt
1
Q
ü;然上人への忠 ~
詩一
佐藤春夫
昭和+年五月 『浄土 』創刊号 得磁
器上 ラ イブ ラリ
うらやまし与は人ならず
西方の賓地にありて
あそぶでふ鴛喬なれや
鳥の身もうへ
妙法をぞ説けりける
南無阿嫡陀悌
つ
ことわざで学ぶ仏教
本総に織の漂い膨崎俗彦師 (大正大学数綬) の新著。
f釈迦に鋭法 J r知らぬが仏 J r 三人容れば支殊の智恵j
f 渡る世間に鬼はない J r嘘も方便j などなど仏教から
発した言葉であることがすぐ分るものと、おや、これも
仏教に関することであ っ たかと首をかしげるさまざま
な 「 ことわざ J tf丁寧に解説された 、 一種の仏教入門
書です 。(鍾集部)
"
総会寺
山
形
般 影 /タカオカ邦彦
文 /真山剛
平成2U引用 258 、 大本山泊上号本.でのft・伝違式.
9幸湾住"は手前をからこ人目 .
寺院紀行
浄土宗には全国で 一つの総本山と七つの大本山があり、西の代表
。
う
。
は京都・東山の総本山知思院、東の代表は東京・芝公園の大本山増
でん ほ
これは伝法といって浄土宗僧侶の資格を与える権限
上寺だという
をこの こ つの総大本山が持っているからだそうだ
。
ht
。
どう
その八木台下が立場を変え、今度は法 主 として唱導師に払子を渡
。
」aA
ねVん巴
。
そして四月五日、八木台下が最初に払子を渡
。
しん
計二大本山では住戦をこう呼ぶ)に新しく東京都
その噌上寺の法
ざんし串
8 広島・
『浄 土』寺 院紀行で訪れている
一行院をご記憶
一一
にその晋
文京区千石の 一行院住職、八木季生上人が就任され、一月
山式が行 わ れ た
二年前にやはりこの
きて、増上 寺 第八十八世となる八木台下のお寺、
だろうか?
M9 す
本誌と同じ四月号で、 一行院住臓の八木台下が増上寺御忌の唱導師
がなびく
(毛
を勤められ、当時の増上寺法主成田有恒台下から払子
扇子のような法具)を受け、見事に大役を果された時である
されることになった
。
される唱導師が今回訪れた山形・栴念寺の井博隆明住戦である
その弁津住職、八木台下との縁は大分昔に遡る
「もう 二十年ぐらい前の ことになりますかね、山形の方で布教師 会
の集まりがあったのですが、その時に井律上人が司会をされまして
。
。
。
そこで増上寺の御忌の
ね その司会がとてもお上手だ ったんです
司式(司会のこと)をお願い致しました また、それが縁で山 形の
、
園町、八木季集台下
.
・
.
平成竹年 弁湾住臓の冨山配念玉置
相伝が行なわれた 当時一行院住様
だった八木台下が勧滅をされた 記
念写盲帽の前列ちから頁貴子夫人、井
掴庫健徳本山喧揖軍軍事苛貫主、骨骨湾曲陽明
1
3
ご u-a
そq
うでんかんかい
ー
の
井揮上人のお寺にも招かれましてね、五重相伝の勧戒をさせていた
だきました 。三 百人も入れる本堂が受者で 一杯 になり、モニタ
。
。
こ こ で布教師会を説
、
投世された客般にも大勢入られていました まあ、その受おの多い
のに驚い た の を 今 で も 覚 え て い ま す 」
お忙しい中、八木台下にお話を伺えたのだが台下が井海上 人 の
。
司会での言葉の選び方を気に入られたわけだ
明しよう
で法訴を専門分野とし、全国の浄土宗寺院
布教師 会 は 浄 土 宗 掛 川
mm
。
お 二 人の最初の接点が
こ の布教師会ということだ
。
で法却をされる僧侶の組織 で、八木台 F は増ヒ寺布教師会の会長ま
で勤められ、井滞住聴は現住、地上寺布教師会の副会長を勤められ
ている
一つの大きな日標が
人 の教えを伝える法話
さて、布教というのはお釈迦さまや法然上
や講話をすることで、信者を地やしたり信仰を深めるためのものだ。
そして、 こ の 布 教 を 専 門 に す る 布 教 師 に と っ て
。
、
五重相伝あるいは授戒会の勧戒師を曲初めることだそうだ
布教師会の重鎮だった八木台下は井湾住職の柄念寺はもちろん
。
全面各地で五重相伝や授戒会の勧戒師を務めて こ られている
五市相伝とは何か?すでに五重相伝を受けられた読者もいらっ
しゃるかもしれないが、五 屯相伝とは私たちが浄土宗の教えの点髄
を五つの舟物に則り教わるもので、通常五日間 で伝えてもらい、 批
・
.
掴
情念寺櫨咽内を温む
を手総の後方が
本盆で正 面が客皿鳳・纏
1
4
.tf院紀行
後に浄 土宗 の教えを身につけた証として、浄土宗 でしか使わないと
もともと戒名とは仏の弟子になった証の名であり、生きているう
。
替」 の文字が入った法号(戒名)をいただくものだそうだ
いう 「
。
。
五重相伝は 寺 院にも檀信徒に
。
ちに仏の戒めを守ると約束することで授けてもらえるものだそうだ
が、最近は亡くなってから庇うことが多いうえに、高いと安いとか
戒名本来の意味そ っちのけで金額のことばかりが話題になるという
話を戻そう つまり五重相伝とは、お寺にとっては檀家さんや信
徒さんが仏弟子になり、より信仰を深めてくれることであり、檀家
さんや信徒さんにとっては、阿弥陀さまとの縁をいただき、よりよ
く生きる 指 針 を い た だ く こ と に な る
。
五日間に勧戒と
。
も意味深い、浄土宗にとってとても大切なものなのである
そして、この五重相伝で浄土宗の教えの兵髄を伝える役目を果た
。
あるお 寺で五重 相伝の日程表を見せてもら っ た
すのが勧 戒 師 な の で あ る
。
。
。
。
占いであるコマが十 二 コマもあ った 。一コマに七十分と記してある、
そう七十分授業だ それを全部たすと、なんと九時間になる
八木台下が豊富な経験からこう説明して下さった
相伝での勧戒師さんの話は決められた書物の内容をお伝えす
「五重
る点では、誰が話しても変わりません ですが、数日間にわたり何
師さんの個性や特徴が出て
時間も話す訳ですから、自ずとその勧戒
・
.
掴
情念警 の事所 一村 一か寺の伝 統が
いまも煎 って い て僧 家 さんはほとん
どが畏町町 会 の管さんだ
1
5
きます
。
人というのはその生き方が話や顔に出ますのでね
。
。
」
ってこそ受者の皆さんに自然と教えが染み込んでいくので
す
ですから、浄土宗の教えと、それを伝える勧戒師の魅力、二
こつ
の
が踊
なるほど、話や 百 東にはその人の 生き方が 見え てくる
増上 寺布 教師会の副会長にな られている井部住験もすでに五重 相
。
。
一二
年後の平成 二 十 四
伝で勧戒師を何度も勤められているが、きくと
そう、魅力ある布教師なのである
年 まで予定が入 っていると いう
その井滞住職、今回の唱導師記念に小冊子を引き物にされるとい
ったものである
。
その U 頭に大正大
う「法然上 人と私 」と題する、住機が普かれた原械で、本誌『浄七 』
の平 成十 六年十月号の巻頭を飾
。
、
学時代の講 演部時代の話が出てくる 全国の ゆ土 宗寺院を巡り 学生
っ ている
。
ながら法話をさせてもらった夏休みの伝道旅行の懐かしい思い出だ
教団は布教が命 』 と思
「私は若い頃から布教に携わり、 『
いただけるにあた
っては、
一住臓として、そして
一布教師として法
のですが、 こうして縁に恵まれ大本山の御忌で哨噂師を務めさせて
っています 」
然上人への報恩謝徳の気持ちをあらわしたい、と思
力強くこう語る弁樺住職は昭和 二十四年に構念 寺で生まれた。 二
った
。
大正大学卒業後、日本大学
。
人の姉とすぐ上の兄との四人兄弟の末 っ子だ 構念寺の本 寺 にあた
り、山形を代表する天童の悌向 寺の住 聴から滋賀の本山蓮華 寺の 民
主 になられた兄とともに僧侶にな
.
・
m田遠く
山形圃眠から二つ目羽前千飯
に東北の山々が連なっている 掴情念
分だ.
314
畠苛から多いて
1
6
寺院紀行
山形高校で社会科を教えていたが、父が悌向寺の住織にな
-aa守かい
。
ったあと
稿念寺を護っていた叔父の体調が崩れたことで寺に戻る 平成五年
、
。
その時に構念与に
ことな のだ
。
翌六年には雌科が完成、ヒ年には 部嵯式と晋山式を、 十
。
には住職に就任し、その前後には教議師、保護司にもなられている
そして
一年には汗山記念の五屯 相伝を開廷 されている
。
来られ、 受 者 の 数 に 驚 い た の が 八 木 台 下 と い う
井滞住 職 が 撮 り 返 る
この辺りは 一村
「その時は晋山記念ということもあり、受者が八百人という五重相
。
w
良
町の寺 u なのです 。一 片前は 寺
伝でしたから、八木内下が篤かれたのも 吋然です
か 寺 が残 って いて、締念寺は
.
の周りは 一面が岡んぼで、凶史家さんは全日以内同ん句集でしたが、みなさん
お守を大事にしてくれて、それ こそ町あげての 五重 相 伝でしたね」
みんなのお守なのである
。
その締念寺は山形駅か
短時間の取材中も檀家さんが 三組訪ねてきて、親しげに住駿とお
。
。
奥羽本線 で北へ向かい、山形名物の芋煮の会場となる馬見ケ
話をされていた
ら JR
崎川の河川敷を組えた こ つ 日 の駅、羽前千歳 駅の近くにある
。
左右の立派な松に挟まれる山門は旧国道十 三 号線に面している
書事'んどう
が、その山門に概念寺の歴史を辿る紋が刻まれている
。
昭和十ヒ年に近隣の 一向派守院丘十
「山門の紋、気付かれましたか 。寺 紋は笹竜胆なのですが、これは
む札.今い qζ う U
時宗.向派を意味しています
・
旧国噛
Eme- を
手の石泡が綱念畠可
1
7
。
時宗は 一遍上人が聞いた踊り
七か寺が浄土宗に移ったのですが、それまでは時宗の寺でした」
一遍上人の時然、
しらは止U
一向俊型上人の
一向衆など、卜
。
っていれば十分常識人だとは思うのだが:::
時宗 一向派とは聞いたことがない
念仏、と知
「もともと時宗は
ったのです
t 人も同じ暦仁
二年 (一二三
一向派はようやく戦争中に浄土
。
時 宗 の各衆各派はその時々の宗教
ニ の派があったのですが、 一向衆は浄土宗の白幡派伝法を受け継い
でいて静 土 宗 に 近 か
政策に翻 弄 さ れ 続 け て き ま し た が 、
少し調べてみると、 一向上人も 一遍
宗 に合併したと理解していただければ結構です」
一向派と天童派とあるようだ
ただ、同時代を生きながら 二 人は 一度
。
。
九 ) の生まれで、どちらも法然上人の称名念仏を継承した踊り念仏
。
。
一向衆には、さらに
ったことはなかったようだ
で広く庶 民 を 教 化 し て い る
も会
その 一向上人の
が、時宗の簡はこの辺にしておこう
。
、
。
実は取材が決ま ってから、井海住総は浄 土宗の役員である総長公
室長という大役に就かれた もともと山形県から 一人という浄 土宗
一期四年過ぎての今春の就任だ った
議会議員を務められており
総長公室長とは総理大臣にあたる浄土宗宗務総長に寄り添う、いわ
ば官房長官のようなもので、京都の宗務庁がその戦場になる
。
月曜日から金曜日は京都、上日は山形でお守の仕事です ト 三 年
「
・
道陣聞に園田する山門には崎直前一向吾郎の
富田‘飽の働組が彫られている
1
8
寺院紀行
。
った保護司はもう辞めさせてもらいま
す
でも 、教議師は 日程調勘定がきくのでまだ続けるつもりで」
続けて県 保 連 常 務 理 事 に も な
した
。
。
新幹線を乗り継いでの京都通いは大変だろうが、山形刑務所での
教誌の仕事はまだ続けられるという、話をされることが本当に好き
なのだ
同じ教義師仲間の宮城の浄土宗 僧侶に話が聞けた
人に寄り添う
井滞先生は先輩にあたりますが、禅宗の先生の中には囚人を厳し
「
く諭す先 生 も い ま す が 、 井 棒 先 生 は 諭 す と い う よ り 囚
。
。
変な 言 い方ですが、井津先生に真ん中にいてもらうと何で
。
話をされます 穂やかで優しい人柄が出ています また、布教師と
しての井津先生の後姿を見て布教師を目指す若手僧侶も少なくあり
ません
も丸く 納まる のです」
若い頃から持ち続けた法然上人への想い、そしてその法然上人の
。
教えを広げる布教への情熱、井禅住臓にと って御忌唱導師は特別な
八木台下に見込まれ御忌の司式を二十年続けた井律上
った
。
人、 今度は唱導師として司式に紹介されることになり、八木台下か
ものである
ら払子を受け取る ことにな
。
ルポライター )
とても楽しみに思う組 信 徒さんや関係者は多い
法然上人への想いがさらにどうふくらむのか、そして布教活動が
どう展開 す る の か
だろう 。(
.
・
一向俊量上人像 綱念事苛はこのよ人
の流れを汲む寺である
1
9
述~
_ì_L_畠
目リ
田
末日
男
霊金 @
快
中,~海i
、旭
月
v
を
求
め
て
ìi 中 に月 を 求め て
「道友 」 たちが集
って、海旭の号にちなん
つては海旭を偲んだもの
渡辺 海 旭 の 祥 月 命 日 に は 、 相 馬 黒 光 の 自 宅
に
。
そのときはきま
った
。
。
だ
ってしま
壷月羊糞」が供された その
だ中村屋銘菓 「
ってからは途絶え、
そのままにな
集まり も 戦 火 が 激 し く な
。
って、想念をひねりだし
い ったい私と海旭先生とはいかなる縁だ
った顕をふ
黒光は七 十五 歳をすぎてからときたま霞む
。
ようにな
た
おか
。
蔵はむしろ母親役で、父親を演じてきたのは
黒 光のほうだ つ た
。
黒光は壷月の残りの半かけをほおばり、茶
を 一口すすると、独りごちた
子供を残
ほめてください
っかり生き
先生に早々と逝かれたおかげで、私は 「強
。
い父親」 になり、つらい戦中をし
。
った黒光だ
ったが、満州某
重 大事 件
っ てなんと
ったときは逆縁に
スと 二 人の
抜くことができましたのよ
な
1
ってしま
長女の俊 子 が 失 のボ
。
っ
五男の虎雄は市谷刑務所を出所後医者とな
で戦死
。
俊子とボ
スの聞にできた長男正秀は沖縄戦
さらにその正秀の 子 、幼孫の徹を戦
l
。
ったが、軍医として召集され満州で消息不明
た
さらに 三 つもの逆縁を体験する憂き目にあ
の発 生 から教えると十余年にわたる戦争で、
か 立 ち直
して 二十六歳で逝
。
。
って八年で逝 っ
った
あまりにも偉大すぎたため、代
。
ったのか
たしかに海旭とは
すっかり落ち込んで、海旭に出会
。
そして、その偉
「
偉大なる父親」
。
った
という 言 葉が浮かんだ
黒 光の 偉 大 な る 父 親 だ
った
大なる 父 親 海 旭 は 黒 光 と 出 会
てしま
わりの 父 親 は つ い に み つ か ら な か
。
げで黒光はひとり立ちできたのかもしれな
黒光自身が父親になることと引き換えに
い
思えば、相馬 一家のなかで、生涯の伴侶・愛
2
1
。
実質的に土
。
ときたらさっぱり立ち退かない
。
。
。
。
度重なる逆縁と戦後の再興事業の銀難 黒
りあえたものだ
よくもまああんな連中と七年も八年もわた
てしま っ た
地を取り戻せたのは、昭和 二十九年だった
災で 亡 く し た
その心労のせいか、夫の愛蔵はその年に逝っ
。
って、たんな
。
彼らは黒光が頭山の影響を、つけて賛美して
やまなか った 「聖戦 」 によ って命を落とした
詣を極めれば、子と孫の死の責任
のだった
。
それは黒光にと
。
の 一端は母であり祖母である黒光が負わなけ
ればならない
る逆縁を越えた超ど級の苦しみだったろう
光がそれらを乗り越えることができたのは、
逆説的だが、海旭を早く失 ったからかもしれ
戦争が終わっても娘離が待ち受けていた
。
それも長女・俊子を失
ったとき私はいくつ?たしか五
で思ってもみなかった疑問がわきでてきた
。
ところで海旭先生:・と黒光の胸中にそれま
。
なかった
ってみたら、高野県物店から 三越に
新宿に戻
。
*
かけ て 駅 の 東 口 界 隈 は 、 尾 滞 組 と い う テ キ ヤ
に仕 切 ら れ て 、 焼 け ト タ ン や 廃 材 で 小 屋 が け
。
あの
その中に中村屋の敷地も含まれていた
された巨大な閤マーケット街ができあがって
いた
。
先生と出会
った
黒光は夫とともに敢然と立ち上が
。
。
もし
ったショックで 一夜で髪の毛が白くなり、見
十半ばをすぎていた
った
ときも黒光の中で、義侠心がむらむらと首を
もたげたのだ
れる先生の留学時代に会っていたら、どうだ
今日のラジオ番組で紹介されていた稚気あふ
た目には六十すぎのおばあさんだった
を鼓舞して裁判を起こし、昭和 二十 三 年には
土地を不法占拠されながら及び腰の被害者
勝訴したのだが、あのコワモテの無法者たち
22
議 1''1こ n を求めて
人教民JIII~・ DUØ列彼 氏繍山瓢・氏JIII耳k卯附量tat. 民ー策調..at. Jt......書店事 k 右て向列 前
2
3
て鈴に備士細 目 三月 六年五正大
ったかしら
。
海旭が留学していたのは明治 三 十 三 年から
。
ときに守衛 三
梅毒だ
。
。
ああ、なんてひどい言いがか
、つつしたのは黒光だ
」 とまで 言 われ
たものだった
。
。
。
そうしたら、あれ
そうそう、「出山の如来
。
。
ルを捧げばや」だった あの乾杯の仲
は何だったかしら
にあうことだってできた
ていたのだから、守衛を追って留学中の海旭
いや、それ以前に守衛はパリへ修行に行っ
。
海旭は帰国しており相談をしよう
りだろう
。
ということは、海旭が
四十 三 年の十一年間
と思えばできた
。
帰国した年に、黒光にとって生涯忘れられな
いあの事件が起きたのだった
アト リ エ を 提 供 し た り モ デ ル を 買 っ て で た
。
りして 黒 光 が 面 倒 を み て い た 彫 刻 家 ・ 荻 原 守
衛が突然逝ってしまったのだ
1
にピ
守衛は黒
突然守衛が略血して倒れた
ンが突然よみがえって、一瞬、
死因は脳
いか
。
。
。
。
大正・昭和を代
海旭の 一部、それも晩年の一部
それは海旭との関係をむしろ貧しくし
しか知らずに、師として仰いでいたのではな
いだろうか
偉大なる父親を海旭に求めすぎたのではな
もしてみたかった
としては、海旭とベートーベンやオペラの話
表するに芸術家のパトロンを任じてきた黒光
こともついぞ知らなかった
海旭がベートーベンやオペラに造詣がある
十 二歳、黒光は 三十五歳の女盛り
。
間に私も加われたかもしれない
l
。
光に心を寄せ、高村光太郎に「我心に病を得
て甚だ 重 し 」 と 手 紙 で 訴 え て い た
。
ちょ う ど 夫 と 守 衛 と 三 人 で 卓 微 台 を 囲 ん で
雑談中だった
。
そのシ
黒光は部屋中に飛び散った血を見て失神し
た
黒光は 頭 の 中 が 白 く な り 意 識 を 失 い か け た 。
守衛の死はスキャンダルとなり、高村光太
。
郎からは、 「
病死であろうと自殺であろうと、
みんな あ の 女 が か ら ん で の こ と だ
2
4
遜 11 1 に月を求めて
たのではないか
。
こう 思 い な お し て み る と 、 黒 光 の な か で 海
ら んでくるのだ
った
。
釈・ : I ・ベルイマン『ある結婚の..u (ヘラルド
旭という存在は 二倍にも 三 倍にも大きくふく
店J (求鋪1Z) r足元の革命J (新潮新・)1iJ.ど.
。
務局. 資生a化事E文化研究会会員.奮作: rMG5物
ったのかし
家、ノンフィクション作ltU者.ß上観策学会'
い ったい先 生ってど んな人だ
1947年JRJ;(盆まれ.連辺海旭の母佼であり佼疫を
ら、もっと早くに出会ってみたかった
慰問光の前には食べさしの壷月羊誕の
つとめた芝中・芝薦60期.東京大学.学1!2事. 翻訳
黒光 は そ う つ ぶ や き な が ら ま ど ろ み は じ め
。
2
5
ていた
出版)忽ど.
半かけが残され、そこにはまるで少女のよう
な可愛らしい歯型が刻まれていた 。(つづく)
.Jlæ和男プロフィール
局 、言手
燭~/ ~カオヵnlJ
会いたい 人
いうのがお定まりらしく、近寄りがたい気が
山崎さんがベテラン納棺師の役で出ている
ょっと偉そうに構えていて、でも中味は純粋
映画 『おくりびと』がアカデミ ー外国語映画
で、都市的、という感じだったのが印象に残
貨を受賞したり、最近また放映された黒沢明
っている.
の 『天国と地獄 』 で誘拐犯の医学生役を演じ
ところで山崎さんの人物、風貌を紹介する
みけん
た若い彼がニヒルで素敵、と私の後輩たちが
深く刻まれた眉間のシワとムスッとし
のに 「
騒いだり、とかく映像での話題が多いけれど、 た表情、低い声、狙特の存在感、威圧感」 と
山崎さんはれっきとした舞台出身の俳優。
。
「競
密日記
」
でも会ってお話を聞き
して、その舞台や映像を眺めて感心している
だけにとどめていた
俳優座養成所の研修生だったころの舞台を
文学座の人気俳優芥川比呂志が見て山 崎さん
「
週刊文春 」 の
欄で、逃亡者 の話、逃げまわる男の話が好き
たいと思ったのは
.「文学座史 」 による
で、『笹まくら』(丸谷才一著、徴兵恵避の青
に目がとまり、文学座へ引っ張ったのだ、と
と、これは昭和 三十 二年の暮れ、新劇合同公
いう話をいつか聞いた
演の『寂しき人々』(ハウプトマン)に山崎
年の話)などは何回も読み直している、とい
l
「
好きなもの
」
・ラウンジで 」 と、場所
し込むと、 「では午後に、恵比寿のウエステ
を 三 つ言ってもらうというコラムの取材を申
書評欄の、各界で 一統の人に
それで私がときどき協力している毎日新聞
.
う文章にふれたことによる
。
。
さんが鉄道人夫の役で出たときのことだろ
私はこの芝居を俳優座劇場で観たのだが、
う
でも 「
鉄道人夫 」 にはおぼえがない
その後間和 三十五年の文学座公演、三 島由
紀夫の『熱帯樹』でデヴューした山 崎さんを
.
ホテルのパ
・
ィン
.
ルで観ている 共演の杉村春子、
第 一生命ホ
を指定された
l
三油田健、加藤治子などの問で、若いのにち
27
「夫園と地獄J での山鱒努さん. 46~事前の作a だ.
。1 963
TOHOCOよTO
2
8
会いたい人
当日、このあたりは丸谷才 一さんの散歩コ
ースなのでもしかして、という予感があった
が、やはりロビーでその姿を見かけ、今、山
「
ではちょっ
ぁ」
・ロ
追う者と追われる者の話がなぜ
・
グリーンの『プライトン
「
今、枕元に世いて再説し始めたのは先生の
訳でグレアム
.
ック』です
言 うと、
崎さんの取材中ですと
・
・
か好きで・・・・
」
、
っすぐに丸谷さんを見つめる。その眼差しを
られない、といった面もちで、話しながらま
山崎さんはこの出遭いの偶然性がまだ信じ
と挨拶を 」(丸谷さんはかねて山崎さんびいき
と聞いていた)ということになった。
山崎さんの「好きなもの」は、①草野球、
② 名作の再説、 ③ ピ!ルで、丸谷さんとの濯
ルもかなりすすんでいたが 二
見ていたら、いつの間にか渋い演技派のベテ
!
遁のときはピ
ランが『熱帯樹』で初舞台を踏んだあの若者
.
人はすぐに打ちとけ、まず丸谷さんが『笹ま
ルの勘定を払い、旧交のあ
に戻っていた
l
くら』愛読のお礼を述べると、
丸谷さんはピ
った芥 川比 呂志の話なども 聞きたいからと
「
いやあ、ぼくがもっと若かったら、映画で
あの主人公をやらせていただきたかったです
後日 三 人で のディナーの約束をして、その 日
九年生まれでしたか。たしか 三船敏郎さんと
「
芥川さんはぼくと十七遣いますから、大正
が年齢の括から入る。
再会の場所は銀座の資生堂。まず山崎さん
.
よ。あの作品が映画になってないのが不思議
は別れた
「
そうおっしゃっていただくと非常に嬉し
です 」
い。実は和田誠さんがこれは映画にいい、と
思ったそうなんですが、ロケとか時代考証に
山崎さんにぴったりだけどな
金がかかりそうだ、って(笑)。し かし戦後の
話のところは
2
9
同い年です
」
山崎さんが 三船敏郎と
『
赤ひげ 』 で共演した話を
それはあとまわしにする
。
たけれど、本を読みながら歩いてる姿が芥 川
さんほどぴったりくる知的 な役者はほかにい
地 獄』や
『
天国と
かの役者だと、日本語の本にな
リ スで観た
っ てしまう
『ハムレット』のコピーであると、自分では
。
(笑) 福田恒存があの演出はイギ
。
それがラテン語の本だってことがわかる ほ
。
ませんでしたね 芥 川 さんが本を 手 にすると、
芥 川 比呂志と丸谷さんが親
ー
それを取り入れて当時の
。
聞 きたかったが、
「
ぼくは大正十四年生まれだから、芥 川 さん
。
はぼくよりそんなに上だったかなあ」
と、丸谷さん
。
。
ド
っきり 言 っているところはある意味で立派で
がかなり速かった
あのころ英国では日本よりせりふのスピ
それでも非難する人はいたけれどね
しく話すようになったのは、昭和四十 三 年に
。
ード
すよ
。
エピ ソ
『
年の残り』で芥 川賞を受賞して以来のこと
だそうだ
丸谷さんが続ける
夫 の『挿話 』 (昭
観客にショックを与えたんですね 」
「
芥 川 さんの舞台は加藤道
和 二十四年〉を 三越劇場で観たのが最初でし
。
。
それを福 田さんがぶった切っ
だからコピ
」
、
飛躍と省略が、それまでの情緒
。
でも、その 価 値はあったんでしょうね
「
なるほど、単なるスピードじゃなく
演劇性と 一致していたからよかったんです
丸谷
ー
的な演劇をぶつこわしたんです
たんですね
路が長かった
飛躍するのに 助走が必要だったんです。滑走
「
それまでの日本の俳優というのは、
山崎
」
その後芥
たけど、この役者で日本の演劇は変る、とい
う気がしましたね
、
一躍高めたのが
残念ながらそれは観ていないが
。
。
ッ ト』 昭和 三十年四月、名古屋で初
川 と演出 家 福田恒存の名を
『ハムレ
演され、 翌 年 一月の東横ホールで東京初演
。
「
ぼくは い ろんな人のハム レ ットを観
丸谷さんと 山崎さんの話が弾む
丸谷
3
0
会いたい人
ってましたからね
ジョンにしないで、
丸谷
ー
ね。なまじっか福田バ
『
困
」
。
それを承知の上でわ
。
杉狂児が出てる何
杉裕之は 聞 えないふ
」
った人です (笑).顕が いい から人
りをしてたけど、あれは気の毒だった
とはないだろうからね
芥川さんは父親(縮之介)のことで悩んだこ
.
ざと大声で放散放吟する
「
そうでしょう
コピーにしてくれたからよかったんだ(笑 ご
山崎
とかいう映画の主題歌 。ペ、あなたと呼べばあ
「
スピードだけでいえば、今、芥川さ
んのハムレットのテ!プを聞いてみると、ず
なたと答える、山のこだまの錨しさよ(笑)
」
『
決められた以 外 のせり
。
いぶん遅いですよ.今はみんなこの倍くらい
のスピードでしゃべってますから
「
芥 川 さんが
話題は芥川比邑志の酒グセのことに移る
丸谷
・クラブ貨をもらっ
山崎
ト
福 田さんと並び立
ふ 』 で日本エッセイス
.
.
。
山崎さ
ったが、芥川さんに
員が突然脱退する分裂事件が起きる
昭和 三十 八年 一月、総勢 二十九名の文学座
つわけがないんです 」
その読みが鋭いんですよ
が 一番いやがることを茶化して、弱点を突く
を作っ
たとき:::あれは本当にいい随筆集で、最近
1
』 としたん
それでエッセイスト賞 。当 時の
『ハムレット役者
ぼくは彼のエッセイのアンソロジ
。
て、本の題名を
ですけどね
。
劇団雲 主 催のお祝いの会にぼくは招ばれて
んは入庫してまだ四年だ
すると初めのうちは彼はとてもおだやか
ね
「
今はもうほとんどの関係者が亡くな
従って劇団雲に参加した
。
山崎
だったけど、だんだん酒が回つできたら、す
」
ぐ近くに座った杉裕之君のことを大声で話題
にするんですよ
。
福田
ってます から 言 っておきますが、あの主謀者
彼は喜劇俳優
山崎
は芥 川 さんじゃなかったと思いますよ
『
杉狂児の息子ですね
が父であることに非常にコンプレックスを持
.
。
3
/
0200倒gral<りびとJ・E作..会
アカデミー外SM!提薗貨を受賞した「おくりぴとJの山舗努さん.
『
ジュリアス・シ
l
』 のブルータス役に小池朝雄さんを抜刷糊
さんは前の年あたりから
l
」
ザ
したりしているんです
。
』 は昭和 三十四年九
l
.
市民や兵士
、仲谷鼻のアン
ルで観た
1
l
l
ザ
『
ジュリアス・シ
月、都市センターホ
ザ
l
ニアス、キャシアスが芥川
配役は北村和夫のシ
ト l
たちの中にも山崎さんの名が見あたらないの
大学の 山 賊たち 』で映画デヴユ
は、そのころ 『
「
中村真 一郎さんから聞いた話だと、
。
ーして以来、映像の仕事が増えていたせいか
丸谷
ッドのそば
分裂騒ぎの直前、芥川さんは胸の病気で鹿応
に入院していて、 手 術 室 に入るベ
3
2
会いたい人
にず
っと小池朝雄がつききりで、
一緒にや
てくださいますね、いいですね、って迫って
っ
ろくすっぽ考える暇もな
えるようになりました
」
山崎さんは劇団 雲に十 二年間在錯し、昭和
芥 川 は最も買ってい
ゅう
もっと自由な人間関係でいたい。
.
ったらしい
。
五十年にフリーになる
。
いのにああなって、あんな苦しいことはなか
たというんですね
た後輩が離れて行くのを、なかなか許そうと
しなか
「
劇団内部のいろいろにいや気がさし
った
山崎
った、とのちに芥川さんが中村さんに諮
たんです
」
『
遊
でも芝居をするためには、定期的に人に会つ
。
という話です 」
(
小池さんはその時
山崎「積極的に動いたのは福田さんと小池
さんだったと思いますよ
てないといけないから、それで草野球の
ら雌れなか
の筋を 過して品後ま で福田さんか
ムを作ったわけなんです
人』というチ
「
しかし芥川さんは、ずいぶん引き留
l
ったてその年に劇団雲の頒 上げ公演がある
丸谷
じん
んですが、それに出なかったのは芥川さんと
芥川さんは病気で、ぼ
めたでしょう 」
。
ぼくの 二人なんです
長いこと通いました
.
どうしても納得してく
「
ええ、目黒の東が丘のお宅へ説明に
山崎
ったら、
くは 三 船さんと映画の仕事をしてましたか
翌年、芥 川さんから年賀状をもら
.
れなくて、しまいにはエサをまくんです
ら
「
エサを
彼の 一番大事なもので釣
」
句のようなものが書いであって、去年のこと
丸谷
「
ハムレットをやらせるから、とか」
.
どんな? 」
を思えば今年は明るい正月だ、といったふう
山崎
「ハハハハ
つづく)
したんだ。よっぽど手離したくなかっ
。
な意味でした
丸谷
った
ことかと思ったんですが、去年正月、文学座
ろうと
ぼくはこれ病気がよくな
の仲間を裏切った形になったことへの後悔、
たんでしょうね 」(
.
心の痛みを 雷っ てるんじゃないか、と日曜近考
3
3
-
うる
じっ
ぽう
響涜+方
。
、
、
、
な くお示しになり
、
、
され
て 「こ
この 念仏 往生
善 導 大 師 はこのことを 解釈
う であろ う
」
いました
.
し 終 えるや、ついに口に戻るこ
と仰
る舌 は 、口から 出
|
、
(『
霊 山状』)
自然にやぶれみだ
、
六方におのおの恒河沙の仏ましまして
広長の舌相を出して
あまねく 三千大千世界におおいて みなおなじくこの事をまこと
なりと証誠し給えり 善導これを釈しての給わく もしこの証に
よりて生るる事をえずば、六方の諸仏ののべ給える舌 口よりい
。
でおわりてのち、ついに口に返りいらずして
れんとの給えり
.
ところ
(
『阿弥 陀経 』では ) あらゆる 世界 にまします 数限 りないみ 仏 方が皆、その広く
て います
長い舌をお 出 しになって、全 世界 に余す
され
され
のように証明さ れ ているにもか かわらず、もし往生できないのであ れ ば、あら ゆ
の教 え が真実であると証 明
仏が 曲
み仏と凡夫と
破れ散 ってしま
る世界 にましますみ
|
と なく、おのずと
富豪の量み
響流十方
つくん
』 はしていない」
。
「飲んだのとたしなむのは意味が違う 飲んだのを 「ごつくん 』 ということで
あれば、 「ご
ご存じのように、 主 要七カ国財務相・中央銀行総裁会議 (G7)後の厳雌とし
その後、会見前後の大臣の
。
た記者会見でのやりとりを野党議員に追求された際の某議員の国会答弁です
。
某議員は、蟻脱会見の原因を普段より
。
もし、この答弁が晩秋の頃ならば、間違いなく、今年の流行語大賞にノミネー
トされる程のイン パ クトでありました
多めに飲んだ風邪薬のためだと主張していました
ったり、柵を乗り越えて彫刻の台座に座り警報を鳴
振る舞い、とりわけ、 会見直後に訪れたバチカン美術館で、触ることが禁止さ
れている 美 術品を素手で触
らす騒ぎを起こしていたこと、さらには、これまでの某議員による 一度や 二度
って某議員は大臣辞職に追い込まれ
しかし、某議員自身のこれまでの行動
一連の発 言 を限りなく 黒 に近い
あらためて、私たちが口にする 言 葉の 重 みと
。
ではない飲酒にまつわる問題行動等が、マスコミを通じて次々と報道されるに
。
。
無論、 一連の発 言 の真偽は、結局のところご本人にしか分かりません
及び、結果として、記者会見での責任をと
ました
ま ったくの濡れ衣かも知れないのです
。
の積み 重 ねは、私たちをして記者会見をめぐる
灰色に思わせるには充分でした
3
5
と 一一
い言
ます
。
。
それこそ世間を見渡してみると、大人に
日頃の行動への賀任を感じさせられました
昔から 「口は禍の元 」
なればあまり取っ組み合いのケンカはしないもので、世の中の不祥事ゃいざこ
。
例えば、お釈迦さまが身
。
ざの原因の多くは「口」が発生源のようです お釈迦さまも、その辺りの消息
をよくご存じで、 口に 関する戒めを多くお 示しです
っちでは別のこと
まずは妄語、嘘をついてはいけないとい
体と口(言葉)と心をめぐる戒めを説かれた「十悪」のうち、もっとも多いの
。
〈
四つ自は締語、おべんちゃら、ごますりです
。
これら四つが、
二枚舌です 。三 つ目は悪口、人のことを悪く 言 う、ま
品 。
。二 つ目が両舌、あっちではこういうことを 言 い、こ
。aA
,ぜっ
が口にまつわる次の四つの戒めです
うこと
。
を 言 っている、いわゆる
h 畠ぐち畠ご
さに悪口です
。
もちろん、 言 葉と行動
って、何気ない日
む内g
不祥事を招き、人間関係をややこしくし、いざこざを引き起 こし、あるいは、
相手の心を深く備つけてしまうのです
。
私たちは、お釈迦さまの戒めを念頭に、相手の気持ちを慮
常の 言葉にも気を配るよう心がけなければなりません
。
そんな私たち自身の正しい 言葉と行動の積み重ねが、周囲の方々
とは表裏の関係ですから、正しい 言 葉は必然的に正しい行動を促し、規定づけ
るものです
3
6
rーーー『・・ーーー
管流卜Jj
|
。
凡夫|の般かしさです
ほんぷ
からの信用を得、その人の信頼へと結びつくこととなるです
とはいえ、そこが煩悩を断ち切れない人間
。
それこ
そ、この四つの戒めをすべて遵守しなければいけないような事態になれば、サ
ラリーマンが仕事帰りに立ち寄る赤提灯は開店休業になってしまうでしょう
。
っただろうかと自身を阿賀し、機悔する毎日です
言 葉のありょうを十 二分にご存じでした
。
だから
。
かくいう私自身、それこそ日に何度となく、不用意にした 言 葉が相手
し、奥さま方の井 戸端会議や茶飲み話もすっかり座がしらけてしまうかもしれ
ません
の心を傷つけていなか
法然上人は、そんな凡夫の
こそ法然 上 人は、口頭のご法 制聞をお示 しになり、決して揺れ動いたり、嘘偽り
。
それも、お 一人やお 二人ではなく、あらゆる世界に
などのない、み仏による証明を通じて、お念仏によるゆ土往生の真実をお伝え
になろうとされたのです
。
と
。
合掌
(
H仲田直}
属圃廟
言 い募るのかも知れ
いや、ともすると、自信ありげに「自分自身を客
いったい誰が「それでも私は信じない 」 と言い張る
まします数限りないみ仏方が、この上ないお念仏の尊い功徳をこぞ って証明し
てくださっているのです
。
」
」 などとうそぶける方々は、こう
ことなどできるでしょうか
観的に見ることができる
ません 。「あなたとは迷うんです!
3
7
日朝め恥 |
「
朝・昼・晩の 三食のうち、朝めしが 一番うまい
」
ρ
名 言。 を前回紹介
っとも長いからだ
という朝めしに関する
なぜなら食間がも
ーー
。
かf
しましたが、ぼくが好きな名 言 がもう 一つありま
す
「
酒の肴は朝めしのお菜と同じ 」
。
。
りつけて ア ンケートを
しています )
実 施しました
。
多か
(
本では割愛
った順に並べる
いくつ 挙 げてもよし、 つまり複数回答としたの
、
で、まあいろいろ出ました
レ」
ら
こ、 干 物
(アジ・若狭カレイ
納 豆 、単鮭、海苔、 玉 子 (生玉子 ・目 玉 焼き・
玉子 焼き )、た
干 し・めざし て 締 干 、佃煮
シシャモ・みりん
った池田弥
国文学者にして民俗 学者、ついでに 言っ ておけ
と、やは内定番の
以下は 一点ずつで、
。
友
、
u が 上 位にきます
長 ネギ入りの妙り卵
・
、
っ
池
(
ァンであることがわ
(
そうか、彼は稲岡出身だ
富山出身だそうです )
たか )、小ナスの 一夜漬け (
かる )、おきゅうと
波 正 太郎 『
鬼平犯科帳 」 のフ
ぴ ら だろう? )、煮 豆
マンとニン ジ ンのきんぴ ら玉 子入り・:どんなきん
カマポコ、きんぴら (ゴボウ、レンコン、ピー
。
ば生家は銀座の有名な 天塾経 屈 さんだ
ρ
朝
めしの友 u と呼ん
下
おひたし、ひじき煮、ちりめん山槻、鹿島布
海苔、しぐれ、伽縦蕗、小魚 )、しらすおろし、
(
ρ
名
三 郎さんの 言葉だそうで、ぽくは 二十代の時に読
んだ山口瞳さんの 『
酒呑みの自己弁護』でこの
。
言 H を知り、なるほどと思い、以降、朝めしとい
えばこの 言葉がいつも浮かんできます
ット」に加わる
H
朝
めしのお菜 u を 「めし・味噌汁・漬物の
拙著 『
朝めしの品格 』 (アスキー新 哲) では、
この
基本 三 点セ
でいますが、果たして人はどのような朝めしの友
li
にな った雑誌の連
って、友人・知人
を好んでいるのか、この本の 元
載コラムを始めるにあた
水ナスのぬか漬け (大阪のものだというのです
、
は当時 二 O代の女子大生から上は 五 O代のオ
が) 大 根おろし、切り 干 し大根煮、キピナゴ の
ッサ
ンまで四十余人にパソコンから勝手にメ l ルを送
3
8
っ た)
煮たもの、ジャコ、からし高菜、ゆで卵、前夜の
晩飯の残り (
たとえば鍋物類、とあ
。
これらを眺めていて思い浮かぶのは、朝め
:・
書き連ねているだけで口中に唾液があふれでく
しの友は楽しい、ということでした
ってバラエティに富んだ
H
朝
めし
H
楽
しい H というひと 言 に尽 きると思い
ながら、人によ
。
の友 H は
この幕内さんは、がんの医療に西洋 医学 だけで
ます
なく中 国医学 などの伝統医療をはじめさまざまな
み合わせてアプローチしていることで知られる帯
代替療法 (
西洋医 学 以外の療法 ) を取り入れ、組
しかも池
ったい何腿ごはんを
。
津良 一先 生 の埼 玉 ・川越市にある帯津 三 敬病院
るし、これが全品並んだらい
食べてしまうのだろうと思
(
肴) にな
っ てしまう
田さんの 言 うごとく、どれも酒のアテ
当 た っ ています
一文をいただきました
。
言 います ) に推薦文をお願いし
。
で、がん患者さんの食事指噂に
っては酒を楽
。
り、ぼくもそうですが、酒飲みにと
とも
たところ、次のような
は 「
腰巻き 」
そこで、ぼくは帯津 先 生 に、拙著 の帯 (業界で
を基本とする食事です
ごはん・味噌汁・漬物 」
もちろん薦めているのは 「
。
しくしてくれるものばかりだから、どれぐらい飲
(笑 )
『粗食のすすめ 』 の著
んでしまうだろうと思わずにいられない
前回紹介したように、
者・幕内秀 夫 さんは、
」
(ご
『はん、味噌汁、漬物 』 を基本とした食 事 は、
「ごはん・味噌汁・漬物の組み合わせは日本人の
。
「朝めし 」 には 「希 望」 があります
こ の「朝めし
食の 『
基本食 』 です。(略) この組み合わせだけ
がんの患者さんにも勧めています
アナタの
カ?
。
で、食の七割がまかなえるほどのすばらしいもの
H
「希望 」 があります )
には
ていますが、それだけではなく、納 豆 から
なのです 」(『
幕内秀 夫 のがんを防ぐ基本食 』 筑摩
書房)
と 言っ
前夜の晩飯の残り H まで、 言 われてみれば定番
3
9
│
醐 ω 麻生タオ ーードエディター
を
運河の町
森清鑑
江戸 を 歩く
.敏~図
①守且措
③It膏挫
l広 重抽
駿河台へ
。
眼下に
この道に面して御成門があり、こ
無事、病気全快
。
そこで家践は
しかも 「この域の鬼門
。
。
。
筋違御門前の八辻原(八つ小路)西口に架
かる昌平橋を右に見て淡路坂を笠る
。
。
その先は昌平坂学問所である
川の対 岸右上には聖堂の 練り塀が
神田川が流れ、切り立 つ眺望の美しさは正に
若渓の感
連なっている
。
繰り塀に沿った坂道を結構多くの人々が往来
している
い@句
長谷川雪且はこ
淡路坂を登ると稲荷小路
れは聖堂を創設した五代綱吉以下歴代の将軍
。
。
の通用円である
これ らの 景色が 一望できる
。
h
必haks
の情散を見事に捉えている
。
家康が江戸入府以前、太田道瀧が娘姫君
稲荷小路の稲荷とは太田姫稲荷のことであ
る
。
の重病治癒 祈願 のために当時の江 戸城内に記
る
を守る 」 との御神託を授かる
太田姫稲荷を西の丸鬼門封じに神田川沿いに
移した (
慶応 二年の火災後、駿河台 三 丁目に
4
1
。
運座 )。掘削された神田川は外婦の役割を果
たしていたからである
大田南 畝
必れねた会ん
。
なんと四十六歳の白髪顕にして幕府人材
ぶというて枝も眠れず 」。昌平坂学問所に入
門
。
。
った
。
、
登用試験、学問吟味を首席でとおる その後、
支配勘定方に昇進、大阪や長崎奉行所などの
を大田姫稲荷鳥 居前に住む(聖橋南口右、日
出役を務めるなど有能な幕吏 晩年の十 二年
彼は、下級
この絶景の地に居を構えていたのが大田南
。
立製作所) 。 学問所の遠景を望み、若渓の谷
一八 二三) である
(一七四九
i
畝(他にペンネーム、萄山人、四方朱良など)
辞世の句
神田川の眺望を満喫しつつ、 当時としては長
。
生きな七十五議の生涯を閉じる
紀
・
とはやり、人 生 を謡歌した 一生であ
。
。
(
丸
駿河台である
塀に沿 って 道は南に折れる
。
太閤姫稲比例を右に見て少し行くと武家届敷
にぶつかる
った武家が参
漆く燭り下げられた縛図川がj鳶れる.
武士ながら 幕 臣 に し て 江 戸 中 期 を 代 表 す る 文
狂歌、漢詩文、戯作、日記
。
。
ムを 生 みだしたヒット作
畳は讃厳実直な下
。
。
時は悶泊意
彼は曾きに轡いた
られぬ天地の思 」。反骨の人にして、やるこ
人、狂歌師
。
l
十九歳の時、著した「寝惚先生文集」
「
生き過ぎて七十五年食いつぶし限りし
。
行、随筆な ど 多 彩 な 分 野 で 膨 大 な 曹 を 残 し て
いる
は江 戸 の 柾 歌 プ
序文は 平 賀 源 内 が 書 い た
。
級武 士、夜は 一転して文人生活
って江戸に入
駿河から家政に従
普の束通り、池田坂方面)
ところ
が悶沼の失脚と共に松 平定信の 「党政の改革 」
次の自由な時代
神田川の昌平橋
集したところからついた名
。
。
から飯田橋にかけて、南側 一帯は旗本などの
。
が始まる 文 人 に は 厳 し い 冬 の 時 代 が 訪 れ る
。
曲
戯作者、山 東 京 伝 が 手 鎖 の 刑 に 処 せ ら れ る
この時の風刺狂
武家屋敷がひしめいている。二 つ目を右に
。
緩やかな坂を下ると神田川か
南畝も曜を折ることになる
。
がると雁木坂
がん S ぎか
歌 。「世の中にかほど煩きものはなしぶん
.r江戸名所回会J 耳障11績、 稲荷小白
からの.~量、学問所の ~..cの下に
江戸 を歩く
。
小架は勘定奉行、海軍事行、
よく似ている
明大通り ) 。
らの泊に 出 る ( お 茶 の 水 駅 か ら
多くはあ まりにも急激な変貌 の
って存命中にこそ実現していない
。
での僅かな期間に画期的な事項を提唱し、実
陸軍奉行などの要職を繰り返し、幕府終穏ま
江戸初期
その左角が御小納戸係、永田与左衛門の屋敷
、
行している
(杏雲堂病院、明大大 学院前)で
には大久保彦左衛門の届敷であ
渦中にあ
小栗家は正に 三 河以来の
。
ガス灯設置、郡県制度、森
着手したものに鉄鉱山の開
発、日本最初の株式会社組織 「
兵庫商社」 の
経済の 立 て直し
郵便制度創設などの提唱、金札売行など金融
林保護、江戸 1横浜聞の鉄道建設、新開発行、
。
が、明治政府に引き継がれ、近代国家日本の
。
っ た 。一 心 太
助が日本橋魚河岸から 「てえへんだ、てえへ
。
っ ている
礎にな
この屋敷の
んだ 」 と駆け込んだ屋敷である
さ
(九百七十坪、現 YMCA 会館〉。
南に隣接して御曹院番、小栗又 一の屋敷があ
る
小乗 上 野介
ただ ま
小栗上野介忠頼
。
万延元年 (一八
しかし、なんといっても般
設にこぎつけたことである
。
設 立 などがある
幼
「またも 一
。
譜代の家 臣 で 、 先 祖 は 数 々 の 戦 で
以降、代々の 当主 が又 一を継承
大の功績は、横須賀造船所を 立案し、その建
。
番杭 」 の手柄を立て、家康から 「又 こ の名
を賜る
き頃から 俊 秀 の 声 高 く 、 文 字 通 り 、 幕 末 の 穂
(こ の時、
タ ン号
六 O)、遺米使節としてアメリカ軍艦ポウハ
った ) 。 サンフランシス
に乗り組み、太 平洋 を横断
川を支えたばかりか、この人の日は近代国家
小梨と勝海市対は幕末の
成臨丸は随行艦であ
。
日本を見 据 え て い た
。
そして 一行
パナマ鉄道建設が株式会 社
コからパナマへ
の兵庫商社設 立の ヒントを得る
。
混乱期に具体的なビジョンを 示 し、かつ 実 行
出処進退も
によって成立している事実を知り、慶応 三 年
。
した傑出した人物に他ならない 。二 人に共通
しているのは無私の精神である
4
3
はワシン ト ン に 赴 き 、 プ キ ャ ナ ン 十 五 代 大 統
この時
小栗は前列左から五人
。
領に謁見 、 日 米 修 好 通 商 条 約 批 准 曹 を 渡 す
。
そこでワ シ ン ト ン 海 軍 造 船 所 を 見 学
。
眼光鋭い(江戸で小栗を見た子供が泣い
の米人と の 記 念 写 真
目
。
定奉行に就任
。
造船所建設の提案
。
。
。
フランス
。
明
慶応元年
当初は横須賀製鉄所
人技師の測量により横須賀に決定
着工にこぎつける
。
この工事は
治 二年に総合的な基礎工場が完成し、明治四
年から本格的な造船を開始する
の指揮で行われ
フランス人技師長ヴエルニ
造船所の絵図を見ると、
l
た、と小 栗 は こ の 子 は 見 る 目 が あ る と 笑 っ た
たが彼の高度な技術と的確な指揮、誠実な運
。
。
という) そこは単なる造船所の施設ではな
鉄を溶かし、蒸気機関や歯車など各
l
。
。
プ製造工場である
を縫う裁縫所である
ロ
製帆所は、帆や天幕
造船小屋、建築謀、電
。
製網所とあるのは、工業
営には驚かされる
。
。
フィラデルフィア造幣局では
であることが判る
かった
これが横須賀
種の部品を造り、造船の他に大砲、小銃、砲
。
単なる造船所ではなく、日本近代工学の発祥
弾、弾丸 も 製 造 す る 総 合 工 場
。
造船所建設の骨子である 小栗はネジをもら
い記念とする
米人を驚かせる
。
その後、
。
初め 工共、部品の鍛造、製造所
。
。
梅内は馬車
。
ドルと小判の金分析実験を行い、通商交換比 気燈 鋳造所、旋盤所、組立所 ネジ、釘を
率の不公 平 を 指 摘
し
造船所建設の
。
慶応 三年にお 工
錬鉄所ではスチームハ
。
。
最初に設置されたのが輸入器具、部品を陸揚
げする 三 十トンクレーン
工場では煉瓦も製
た 三ドックは床も壁も石積み
。
造船技術学校、機関学校は点大工学 部
鉄道
勘
。
ニューヨークから最新鋭の軍艦ナイヤガラ号
。
に匹敵する℃業学校
った
で大西洋 を 横 断 し 、 ア フ リ カ 沿 岸 を 南 下 、 ケ
九ヶ月の旅であ
ンマー八基が部品を造る
。
。
。
井伊直弼は暗殺
ープタウ ン を 回 り イ ン ド ネ シ ア 、 香 港 経 由 で
帰画
帰国すると、状況は 一変
されてお り 、 捜 夷 の 嵐 が 待 ち 受 け て い た
4
4
江戸 を Jj主〈
。
。
ったという
。
。
田村 の水路開
n
徳川幕府が倒れても
せる 」 と笑
総合技術の発
次位代政府のためになるということである
屯信局もある
った
発のために尽力していたのである
渓谷に出る(ちょうどそこは現代の
。
l
。
JR
お茶
。
駿
この小袋
ルも当時は河川敷、
の水駅改札 U前の広場で、江戸別には、お茶
駅もレ
七予 ) 。 ここで道は両に屈折する
の水織はない
町の道の 左 側はお掘までなだらかに下る
。
かけ
この坂からお城、駿河台武家
。
。
小栗屋敷前の坂道を再び北に登り、神田川
駿河台富 士
しかし、
造されて い る
ド ッグなど多くは
正に工具や部品を
。
祥であり 、 こ こ で 学 ん だ 人 々 が 後 年 、 大 事 業
l
市 初フランス認がわからない
瑚不尽な悲劇は彼を突然襲
。
。
。
。
スチーム ハンマーは 一
。
こうして 三 十数戸の寒
を興していく
。
誌によると、斬行の前日まで梅
った
ので、小 梨 は 日 本 批 初 の フ ラ ン ス 語 学 校 を 横
浜に創 って しま
。
村が横須賀市に発展した
現在も使 わ れ て い る
。
マシンである
九九 0年代まで使われた
l
明治政府がこの恨業を進めてい
。
造船 所 か ら 海 軍 ℃ 廠 へ と 名 称 が 変 わ る
幕府倒 壊
造るマザ
く
罷免された 小 東 は 、 駿 河 台 の 脳 敷 か ら 領 地 の
群馬郡権問村に引き上げ、ここで悲劇的な最
明治は進み、日本海海戦に勝利
河台 。旗本屋敷が連なる 少し歩くと直角坂
。
後を迎える
登りつつ右手眼下に神田川に架かる上水の懸
。
した東郷 平 八 郎 は 小 梨 の 遺 族 を 探 し 、 勝 て た
ひ
樋を垣間見る
。
のは全く 小 栗 さ ん の お 除 で あ る と 感 謝 し て い
出敷方面を見ると絶扶である
。
。
十
坂を ニ 人
広呪の 「
点都駿・刈台
」 は、
広屯も北斎も日妹 三
。
ここから拝見
る
する日 士 はまた見事
姻戚筋にあたる大熊重信は小東の意志を
継いで鉄道 敷 設 に ・ 山 献 し て い く 小 栗 は 造 船
六対で描いている
。
所完成を見 る こ と な く こ の 世 を 去 っ た が で 』
白角坂から見る、めずらしい光致
。
れが出来上がれば、ヒ級付き光家の栄誉が残
.広.不二三十六.r..鐙河台j
。
。
。
。
中央
駿河台から登ってくる
この
富士は左に描かれているが、
眼下に旗本屋敷が連なる
の旅人が 歩 い て い る
人も見える
右手に江 戸 城
。
この石
それにし
る人
。
。
。
そ
。
。
。
坂道の土手を
。
江戸城
彼らは 一段高い処
。
いつしか江戸の名所になった、現代人に
。
。
神田 三崎町の語漉ともなった、
社の前の道がこれまで歩いてき
。
御婦人、
参詣客に侍が多
。
すると右手に描かれている建物
そこにちょっと顔を出しているのが神
田川である
の裏に上水の懸錨と水道橋が見えたはずだ
。
描いている
この稲荷の当時の情景は長谷川 雪旦が正確に
稲荷がある
庖角坂を越すとすぐに水道橋、そして三 崎
は想像もつかぬ光景である
さ
渓谷と、この高台から回線で見る富士の美し
の外臓を兼ねて削られ、できた人 工 の神田川
からの眺望を得たかったのであろう
できたことを示している
歩く 三人は、道の川沿いの土手を歩くことが
士がさりげなく描かれている
中央の石垣が見える 土手が邑角坂である
。
。
これは広 重 独 特 の 工 夫 さ れ た 画 面 構 成
松の木がシンポライズされている
の右上に駿河台の武家屋敷の屋根 そして富
。
。
。
。
方角から は む し ろ お 城 の 方 に 富 士 が あ る は ず
である
邑角坂と は 周 聞 に サ イ カ チ の 木 ( 鋭 い 練 が あ
る)が群 生 し て い た こ と か ら そ の 名 が 付 い た
。
坂の 左 下 に 石 垣 が 描 か れ て い る
後に松の 木 が 植 え ら れ 、 か よ う な 景 観 と な っ
た
ても広重 は 見 事 に 当 時 の 情 景 を 捉 え て い る
垣は、人 工 の 神 田 川 渓 谷 に 連 な る
士を見れ
。
江戸の 人 々 が こ の 坂 か ら 駿 河 台 富
ば、正にこの絵の印象であ
。
ったに相違ない
続いて北 斎 の 三 十 六 最 「
東都駿台 」 である
北斎は神 田 川 北 の 本 郷 台 方 面 か ら 富 士 を 描 い
渓脊沿いの昌平坂学問所(東京医科歯科
。
る
。
ここに来ると道幅は幾分広くなり、馬
子供述れの武家の姿もあ
に乗った武士が家来を連れている
。
た
荷
た道
。
。天 秤棒を担いで下
左下に坂を下る家来を連れた武士
。
大学)を経てお茶の水坂から駿河台を眺めて
いる
物を背に登ってくる商人
.:1じ...殴三十六.r.1l11台」
江戸を 歩く
ぃ
。
それもその筈、この稲荷は大名すらも登
った
。
創建は
城前にここで身を清めたという由緒ある処
。
。
社般を造営
。
家蹴も同様
。
家光
北条氏綱が千代田城に賠たときに
「消めの稲荷 」 として有名であ
建久以前
は厚く尊 崇
神田川掘削工事の責任
。
。
ここが軍艦操練所にな
ったため、文久
元
安政 三年( 一八五六 ) 講武場として築地に発
足
。
指導者は
っ
明治維新と
。
そして慶応 二年末
年 (一八六 一) この神田小川町に新設、その
名も講武所に改められた
(一八六 六) に廃止されている
。
槍術は幕末の 三 舟といわれた
(
男谷の弟 子)、伊庭軍兵衛、
一郎 (
勝海舟の従兄
剣術で 言えば師範役筆
。
いう大変革期までの極めて短い期間ではあ
。
。
頭に 天 下の剣客、見谷純
弟)
、榊原健吉
他
。
ら
は 一転して
この幕府最後の軍政改革の場も維新
。
(川上骨次郎 )、東京出血など
「
北斎、 広EE媛 =一十六 -m
箪くらべ」人文社
新版 「江戸
名所図会』 角川・8
【
怠考文献】
演劇の町と化していく
三崎峰、川ヒ庵
後は練兵場となり、明治中期か
益次郎
高橋泥舟、砲術では高島秋帆、勝海舟、大村
桃井春蔵など
った
も度々参詣している
道の 左 側南側に延びている 一画が講
興国の脅威など軍備
鐸々たる人物である
たが大いに若侍らの武を練
いわば神
水道橋駅南側に移
っ ていた
サ旦の絵の後ろに神田
。
者、伊達 綱宗は当初度々崩壊した堤防工事の
。
無事完成を祈願 。 完遂に成功する
間掘の守 り 神 で あ る
JR
川が流れ、その 右手に水道橋が架か
。
(維新後、一
二崎稲荷は
転)
。
。
教科の範囲は剣術、柔術、弓
。
三崎稲荷を過ぎると、前方に小石川御門が
見える
。
) 敷地 一万 三 千坪
神間小川町台町、現 三 崎町 二 丁
武所であ る (
目
。
の立ち後 れ を 痛 感 し た 幕 府 は 本 格 的 な 武 術 訓
練機関を 創 設
術、輸術から砲術にまで及ぶ。主 に旗本、御
家人を対象に鍛え直そうというわけである
三崎稲荷役
.r江戸名所包会J
。
繍 山百合子
弓彦
田
井
村
伊
善
吹
也
4
8
. 焚火
。
T焚火の人ひどリ
流木を集めて焚火漁談義
境内の焚火しづかに雪催
〈
佳作〉 ピっぷリヒ暮 れ
左義長を思い浮かべる人が多かろうが、そこ
は読み手の自由に任されている参詣に来る
と境内の焚き火はすでに納まっていて、その
温みがふ っと頼をなでた
玉砂利と大焚き火の組み合わせといえば、
玉砂利や大焚火跡まだ過し
〈
筆〉
旬一
上一
-時雨
西
止
時一〈
マ
ラ
ソ
ン
の
最
後
の
走
倉
時
筆
〉
安
ある
。
悲逼に立っ ていると最後の 走者の姿が
からない 。二時間以七もかかる競技が心配で
時雨雲が垂れこめていていつ降り出すか分
斉
藤
幸
雄
池
。
。
石原
見えてきた この分では走者も、そして自分
も降られなくて済むかも知れない
〈
佳作〉タ時雨手提かざし T急ぎけリ
登山口の赤き鳥居や、初時雨
友江
佳
審
小走リに路地行く待マタ時雨
。
口
- 自 由題
孫ら来て雑魚寝続きの三ヶ日
。
正月は帰 ってくる身内でてんやわんやであ
それだけでも大変なのに、孫たちはおじ
る
。
長市
信子
弓
彦
いちゃんに付きまとう 夜は先を争 って蒲団
にもぐり込んでくる。三 ヶ日というものは毎
日こういう状態なのである
下村
浜
谷
西
新
正
金
井
口
安
西
山
〈佳作〉黙読の般若郎経今朝の春
髪切って七日の風の新しき
手土産に母の好みの桜餅
4
9
〈
特選
〉
選者=増田河郎子
2
5 ・21
雨
坂
自由題
善鐘
浄土民上旬舎の
お知らせ
、
誌上句会
. 焚火
編集部選 〉
〈
- 時雨
時雨 露去 りて日射の陶器市
金谷友江急逝の継出てゆく時雨中
中島官 士子
佐藤雅子
3
名
増田信子
落ち葉焚き方丈さまも加われり
佳作各
・
明照会館内
4
髪切
って七日の風の新しき
山口 信子
菊焚きて 昼 に積もる香りかな
首麻アサ 子
重ね餅とんと見かけぬ嫁が 君
佐藤雅子
幼な子のわけなくはしゃぐ女正 月 金谷友江
紘 一つついて骨尽きの身に泌むる 中島富 士子
冬天の朝日に映ゆる利尻官 士
工藤冷其
釣宿のテレピ裏から隙間風
山内究
はんべんの膨らむ奥様 一茶の忌 尼崎暢 子
このたびは受節税の厳に除夜の鐘 進藤正昭
まはる火の館ちりちりとふ つふつと 大姉助教
- 自由題
… てのひらの小石 に務ちる時雨かな 尾崎暢子
長浦篤 美
…大様から駅までのタ時雨
…対 停 は明るきままに時雨れけり
横山 百 合 子
時 雨来て走るどの子も器量由民し 古 藤由香 里
…肘の影鉛筆の影時雨つつ
安西 弓 彦
工藤浄真
内藤隼 人
山内覚
名
1
。
焚火して芋焼く日々も遠のけり 佐藤雅 子…
時雨るるも海の明るき漁の船
… 稲荷社の 大樹に 寄 りて時雨かな
埠々と夜焚火鐙に燃え 立 てり
工藤浄真
あ っけなく焚火に燃えしかの手紙 中島富士 子… 釣宿に時雨魚拓を褒める聞に
浜焚火跡形もなく波消しぬ
浜口俊春
石原新
浜焚火煙縦横逃げまどう
焚火から駆け出す少年塾通い
締切・ 二OO 九年三月二十日
発表 ・ 『
浄土 』 二OO 九年五月号
・ 国河郎子
(荷
『風 』 主宰 )
選者 旭
応募方法
. 特選各
・
4
171
氏名を必ずお書き下
・ いずれの鑓とも数の制限はありません
。
'oo--
東京都港区芝公園
葉書に俳句 (
何句でも 可)と、住所
さい
宛先
〒悩
月刊 『
浄土 』 誌上句会係
5
0
圏点ηちゃゐ防毒物
福島民報
・
宮崎日々新聞
・
新日本海新聞
・
4 月 1 日より、かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画
北日本新聞
長崎新聞
・
岐阜新聞以上朝刊
・
ゃ ん』 が各地方新聞に掲載されます
山形新聞
・
『ゴンち
、
。
・
山梨日々新聞
・
・
神戸新聞以上夕刊 )
(
隣岡新聞
中国新聞
編集後記
綴咲く曾藁なくして見つめ合う
人の持ち物のゆで、この十年の問で画
三十四から五十四がれ取も多く、利用時間
。
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ルをしている子が、 二
帯は午後十時以降に集中し、中には食事
中、入浴中もメ
期的に存在感が出てきた物といえば、胤別 割もいるという
粂原笹久 (川越・ ヨ症型車寺)
.
この数年で急速に浸透した機帯電話の
< 8株崎 ・ 五十音順}
。
佐班員健順 ( 品Jl I ・ 願行寺)
佐.良範 (小石川・光岡寺)
東海事本良憲 (溢釜・~上寺)
.
ルという通信手段は、人間にとって
山田和錐 (諏訪 ・ il松院)
.
健康司'11量 (鎌倉 ・ 尚徳院)
使っていないということだ
裕包括であろう .一二十年前にはその存在
またもっと篤いたことは、ある学者が
すらなかった物が、現在では特定の世代
メ l ルをしている 予 の顕に脳波測定総を
では九割以上の人が所持しているという. つけたところ、その子の脳波はメールを
その様都包括に対する調査が先頃行わ しているとき全く動かなかったという
れ、その結巣にまたまた篤きを持った
その子はメ lルの文章を作るのに、頭を
大江図樽噂 (仙台・ï1!i方寺)
北山大趨 (焼津 ・ 光心寺)
加.~費量 (五反悶 ・専修寺)
熊谷繍彦 (佐賀・本自信岩手)
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*多緩敏 (両国 ・ 回 l旬院)
私自身 二十年前より所持し、それなりに
魚尾孝久 (三 島・ 厳i成寺)
メ
真野飽海 (芝 ・ 天光院)
脇暢之 (網代 ・教 安寺)
水科普隆 (長野・貨獲寺)
宮本本昭彦 (大本 山光明寺)
メールなども使つてはいるが、あくまで
飯田実錐 (駒ヶ娘・安楽寺)
厳谷膨正 (目黒 ・ 祐天寺)
コミュニケー ションという 最も 大事なこ
織田息爾 (静岡・ 3際防続)
しかし調
.回得三 (鴻巣・勝願寺)
ルのやりとりだそう
とを、軽薄な物に変えてしまったようだ。
人間が織も集中できる時間裕、またれ
取も
中村康雪量 (t背水 ・ 実相号事)
中村 JI貧 (仙 台 ・怨鈍院)
野上智徳 (静岡・宝台税)
も電話機として利用している
特別、維持、賛助会員の方々
l
高生の利用回数は 一日に
・
中島真成 (背 111 ・ 4修:窓際)
査結巣は通話利用の頻度はほとんどな
.
そして中
リラックスできるときを、何も思い出せ
ないときにしてしまっているのではない
長)
長谷川岱潤
村田洋 一
護霊鑑
佐山哲郎
背木照憲
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徹掘削六百円
年会 情H六千問
E 高月号
だろうか.文明機腿舶の怖さをまた 一つ感
ヒト
じてしまった 。{
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東京郎浴区芝公悶悶・
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佐藤良純
大室了時
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昭如刊十年丘月
日第 三伺郵便物認可
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ホームペ ー ジ
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須.陵仙 (函館 ・ 称名寺)
高白書走行 (大阪・ 一心寺)
田中光成 (町悶・養巡寺)
く、その大半がメ
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豊か な 情 報 は 知 識 の 充 実 、 商 品 の 販 売 を 高 め る
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