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﹁日露戦争一〇〇年﹂ の語り

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﹁日露戦争一〇〇年﹂ の語り
論 説
﹁日露戦争一〇〇年﹂
はじめに
一流布された語り1司馬遼太郎と児島裏−
の語り
二 アカデミズムとジャーナリズムの間−対立する立場から一
三 当事者の語りー二冊の邦訳から−
小括
はじめに
井 竿 富 雄
世界大戦の敗戦六〇年﹂ではなく、﹁日本海海戦勝利一〇〇年﹂として祝賀すべきであると発言した政治家も存在する。
二〇〇四年は﹁日露戦争開戦一〇〇周年﹂といわれた。各種のキャンペーンも行われてきた。二〇〇五年を
︵1︶
本論文では、この﹁日露戦争一〇〇年﹂を中心としてメディアで流布された各種の言説を分析し、以下のよ
71(4・205)573
説
戦争一〇〇年﹂を契機として出された現時点での日露戦争認識の分析である。それは、マスメディアで流布される日露
について考察を行いたいと考えている。一つは、日露戦争に関する戦後流布された語りの検討である。そして、﹁日露
︵2︶
︵3︶
論
戦争の語りと、戦後歴史学が達成した日露戦争叙述とはどのように対略しているかを知るためである。
いわゆる﹁教科書問題﹂で話題となった中学校用歴史教科書における日露戦争叙述は、次のようなものである。
﹁日露戦争は、日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して、自国の安全保障を確立した。
近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だったロシアに勝ったことは、世界
中の抑圧された民族に、独立への限りない希望を与えた。しかし、他方で、黄色人種が将来、白色人種をおびやかすこ
とを警戒する黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなった﹂
この教科書が自国民のみならず近隣諸国から批判されたことは記憶に新しい。確かに、日露戦争への積極的な評価や、
人種主義とも受け取られかねないほどの﹁人種対立﹂の色彩が濃い叙述には違和感を覚える読者もあるだろう。しかし、
この教科書叙述は、筆者には日本社会で流布されている日露戦争に関する物語とさほどの距離があるようには考えられ
の物語的記述には大きな亀裂があると考える。
ない。筆者はこれまでの教科書︵や、教育現場での︶叙述と大衆的に流布されている日露戦争︵のみならず日本のかか
わるすべての戦争に関して︶
である。これらは一九六〇年代後半から一九九〇
そのため、まず本論文では、第二次世界大戦後、世論形成に影響のあった日露戦争物語の代表的な著作二つを取り上
げる。それは、司馬遼太郎の﹃坂の上の雲﹄と児島裏の﹃日露戦争﹄
年代にかけて執筆・刊行され、多くの読者を得たものである。彼らの著作は学界からは真剣な検討を加えられては来な
かった。が、特に﹃坂の上の雲﹄が広範な日本国民の日露戦争認識に与えた影響は極めて大きいと考えられる。
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
次に、﹁日露戦争一〇〇年﹂というメディアの特集記事で、どのような言説が流布されたかが示される。ここでは総
︵4︶
合雑誌が組んだ特集記事を主として検討していく。この中では、研究者の中から積極的発言が出ていることが示される。
﹁日露戦争一〇〇年﹂を積極的に取り上げた学会は多くない。とはいえメディアの動きは研究者によって支えられてい
る。
最後に、日露戦争で戦場とされた国において、今日いかなる歴史叙述がなされているかが考察される。ここでは、入
手できたものとして朝鮮半島における日露戦争叙述が示される。周知のように、日露戦争は朝鮮半島の権益をめぐる日
本帝国と帝政ロシアとの戦いである。そして日露戦争の結果締結されたポーツマス講和条約と前後の諸条約によって、
朝鮮半島は誰からの支援も受けられぬまま、日本の保護国、植民地へとその地位を変えていくことになる。日露戦争の
場合、戦場や争奪対象は第三国であった。このような国の事情は往々にして後景に退く。そこに住む人々はなおのこと
である。争奪の対象とみなされた朝鮮半島、そして戦場とされた中国東北の人々の中で、日露戦争はどのように意識さ
れているかは、今後とも研究される必要がある。
であろう。日刊紙﹃サンケイ新聞﹄
ただ、筆者は今回、直接対決した国ロシアや、戦場となった中国東北地方における歴史叙述がいかなるものかを考察
に加えることができなかった。この点は反省しなければならない。
﹃坂の上の雲﹄
一流布された語り−司馬遼太郎と児島裏−
日露戦争に関して最もポピュラーな著作はおそらく司馬遼太郎の
に連載され、単行本、ついで文庫版で出版され、今も多くの人に読まれている。この小説は、一九六八年に掲載が始
まった。この年を日本政府は﹁明治一〇〇年﹂とし、記念事業を開催した。日本の神話が学習指導要領の中に入れられ
71(4・207)575
た り 、 ﹁ 建国記念の日﹂制定︵一 九 六 六 年 ︶
もこの流れの一環だった。政府の動きに対して、マルクス主義歴史学の立
説
場からは批判もあった。このような年に始まった﹃坂の上の雲﹄は、約五年にわたり掲載されたのである︵単行本第一
巻の刊行は一九六九年︶。文庫版で全八巻の長編である。
︵5一
諭
︵6︶
の文学者正岡子規である。維新と同時に始まる彼らの子倶時代、青春
この小説に関する内容説明は不要だろう。ただ今後の展開上、概略だけ記す。﹃坂の上の雲﹄の主人公は三人、秋山
好古、秋山真之の軍人兄弟、そして同郷︵松山︶
が語られる。駆け足ではあるが、日清戦争や米西戦争も語られる。歴史的事実として、正岡子規は小説前半、日露開戦
を見ずに死去する。日露戦争に至るまで、一見緩やかに彼らの人物像が描かれていく。
日露開戦後も、戦闘を細かく描くのではなく、戦闘に伴う人間模様が描かれる。とはいえ、そこに出てくるのは、専
ら日本軍の将軍たちである。将を慕う兵士、国に忠実な庶民が時には出てくるが、主にエリート達のものとして戦争は
︵とはいえ、真之については控えめ︶を記した後、秋山好古
描かれる。戦争の勝敗も、将軍のパーソナリティの問題として書き進められる。そして日本海海戦の勝利を描いた後、
この小説は物語を急速に収束する。秋山兄弟の﹁その後﹂
︵7︶
の﹁奉天へ﹂という辞世の言葉を最後にこの長編は終わる。
この小説を苦くにあたって、著者司馬遼太郎はかなりの苦心をした。史料収集などの準備に五年、執筆に四年三ケ月
︵8︶
かけたと自ら認めている。そこには﹁この十年間、なるべく人に会わない生活をした﹂とあるように、この小説にかけ
た作者の意気込みが伝わる。だが、司馬遼太郎自身は、史実の重みに耐えかねていた。﹁この作品は、小説であるかど
1・︰
うか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、いまひとつは、この作品
の書き手−私のことだ−はどうにも小説にならない主題をえらんでしまっている﹂という告白がある。司馬遼太郎の歴
︵川︶
史小説には、ときに史実に反する記述があるといわれる。歴史小説であればその程度のことは当然ありうる。だが作者
は虚構を創造することを途中から放棄した、と書いているのである。このことが、﹃坂の上の雲﹄を、﹁歴史小説﹂では
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
■〓、
なく﹁歴史﹂として読み手に広く受け取らせていくことになった。司馬遼太郎作品では、時々物語の中に作者自身が現
や同時代の日本国
われて随筆風に個人的な歴史などへの見解を語る。ここで語られる歴史についての話が、司馬遼太郎の見解を読者に
﹁史実﹂として受容させていく。
この小説は、日露戦争を﹁祖国防衛戦争﹂と描く。そして日露戦争での日本国家︵統治者・軍人︶
の表明を行っていることを明らかにしている。例
民を高く評価する。このことはよく知られている。成田龍一氏はこれに加えて、司馬遼太郎が、本文の中で何度も日本
の戦後歴史学に対する違和感︵筆者には椰愉的な要素も感じられる︶
えば、次のような一節である。
﹁国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさし
︵12︶
ならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしかもっていないか、もとうにも
持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるようにもおもえる﹂
これは日清戦争に対する歴史学の叙述に対する批判として書かれたものである。﹁いわゆる進歩的な学者﹂の説が紹
介されたあとに続くこの一節は、﹁歴史科学﹂という言葉で示されているように、明らかに戦後歴史学、とりわけマル
クス主義歴史学への嫌悪感をあらわにしたものである。
ただ、司馬遼太郎は、近代国家に無批判であったわけではない。司馬はこの小説で、﹁近代国家というものは﹁近代﹂
﹁国家というものが、庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にはない﹂などとも書き記している。
という言葉の幻覚によって国民に必ずしも福祉をのみ与えるものではなく、戦場での死をも強制するものであった﹂
︵13︶
それはそのまま、いわゆる第二次世界大戦期の日本に対する批判的な書きぶりとも連動してくる。﹁日露戦争当時の国
71(4・209)577
論 説
■〓、
家と、昭和十年代の国家とは、質までちがうようであった﹂という言葉には、学業半ばにして戦場へ行かされた自己の
体験が投影されている。ただ、このような心情は、国境を越えない。例えば日清・日露戦争の過程で進行する朝鮮の植
︵15︶
民地化については、﹁日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国︵朝鮮︶の迷惑の上
においておのれの国の自立をたもたねばならなかった﹂と冷淡に記すのみである。
このように、自身の戦争体験に基づく一九三〇年代以降への批判的心情と、それ以前への歴史に対する思い入れがこ
の作品には強くある。さらに渡辺京二氏はこのような司馬遼太郎の小説が読まれた理由を﹁戦後の日本人の価値観と感
︵16︶
性の最大公約数的な指標﹂、すなわち﹁功利主義的な感性﹂にフィットしたからではないかと論じている。加えて、﹁坂
の上の雲﹂というタイトルは極めて向上的なイメージを持っている。また、昭和期を批判しながら日露戦争を讃える、
︵17︶
という点に大衆的な支持基盤はありえたように考えられる。連載開始時の一九六八年は、敗戦から二三年しか経ていな
い。自らの敗戦体験を癒しっつ、明治期の﹁戦勝﹂を輝かしく回顧する物語は受容されやすかったのではないか。
︵ほ︶
である。単行本化したのが一九九〇年という事実だけでも、いかに長い
﹃坂の上の雲﹄連載開始から二四年後の一九八二年、もうひとつの日露戦争叙述が始まった。戦史研究家の児島棄民
による長編戦史ノンフィクション﹃日露戦争﹄
ものであるかがわかる。この本も、文庫版で八巻にのぼる大著である。
の描き出す世界は、﹃坂の上の雲﹄
に比べて暗いのである。
﹃日露戦争﹄は、﹃坂の上の雲﹄とは全く異なる構造を持つ。それは単に、﹃坂の上の雲﹄が小説であり、﹃日露戦争﹄
が戦史というだけではない。﹃日露戦争﹄
﹃日露戦争﹄は、ロシアの東方進出から書き起こす。その次に述べられるのは、八甲田山死の行軍事件である。その
後、日露間の朝鮮半島をめぐる交渉、日本政府・陸海軍内部での政治過程が描かれる。そうして初めて、﹃坂の上の雲﹄
の中では悪役として造形されているロシ
が描こうとしなかった、戦場の描写が始まる。描写は詳細を極め、司令部の軍人から第一線の将兵まで多数の人物が登
場する。また、戦場に来ている諸国の記者も出てくる。また、﹃坂の上の雲﹄
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
ア側人物も、文献︵当人の回顧録なども含めて︶を用いて善かれている。
﹃日露戦争﹄は、公式戦史や、参加者の回顧録、日記からの引用を通じて、事実に即した﹁歴史叙述﹂であることを
︵19︶
心がける。そのため、時には凄惨な戦闘の光景も描かれる。人が死傷していく様子も冷徹に記される。また時にはロシ
ア側から見た戦闘の光景も描かれる。各戦闘の叙述に先立っては、必ず地図が附されている。一つ一つの戦闘が詳細に
わたって描写されているため、戦史に関心が薄いものには、多少読むのに努力を必要とする。この戦史叙述だけで、文
で司馬遼太郎が書かなかった領域に踏み込んだ。ポーツマス講和会議と、日比谷焼き
庫版全八巻のうち、二巻から七巻の途中までを占めている。
後 半 、 児島は、﹃坂の上の雲﹄
打ち事件である。このための叙述に、著者は文庫版で一冊半というかなりの分量を割いている。ここで善かれているの
は、﹁戦闘に勝ち続けて戦争に負ける﹂危機感を持った日本国家の姿である。日本は、ロシア軍との戦闘には陸海とも
に勝利した。ところがもはや日本には資力・人的資源ともに払底していた。講和全権小村寿太郎は現地で講和条件を譲
︵事件のきっかけとなった演説会の
らないロシアに苛立ち、本国に戦争再開を呼びかける。しかし日本の桂内閣・元老は一致して﹁講和﹂を選ぶ、という
ものである。これを知らぬ市民の暴動として、日比谷焼き打ち事件は描かれている
︵司馬遼太郎が、いささか戯画化したように、日本海海戦の
実行委貞小川平吉らを中心として叙述は進められる︶。このような日本本国とポーツマスの交渉を描きつつも、著者は
ロシア側の全権委員ウィッテを単なる悪役として描かない
ロシア側司令官ロジュストウエンスキーを描くのとは異なる︶。アメリカでの世論対策のために、ルーズヴエルトに嫌
︵20︶
悪感を催されていても自分の本来の性格を際して懸命に演技する姿が記されている。
ロシアに敗北を自覚させるほどのものではなく、だからこそ、政府は実情をかくさざ
児島の大著は、日露戦争の開戦から終結までを詳細に書き記すことで成立している。しかし、その総括として、児島
は﹁︵日露戦争の戦勝は−井竿︶
るを得なかった﹂と書く。それに続けて児島はこう記したのである。﹁だが、無理な勝利の強調は、勇心を鼓舞する半
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説
るような︵とはいえ、その後の歴史に手放しでの評価はしていない︶大勝利、という書き方ではない。ポーツマス講和
面、過信をさそい、進歩にたいする対応と発想を停滞させる﹂。つまり、司馬の言うような、前途に明るい未来が見え
M甜血
論
会議の叙述でも強調されるのは、仲介者のアメリカを含め、各国が日本の動きを牽制しはじめていたことだった。また、
日本とロシアが一対一で対決した戦争としても善かれていない。両国の背後にはそれぞれ列強が控え、自国の利害の枠
︵22︶
内で戦争の行方をコントロールしようとうごめく姿も書かれている。東京裁判で﹁昭和三年以前が空白祝された﹂こと
への著者児島実の疑念は、日露戦争を﹁世界戦争﹂として認識することへとつながっていくのである。このような児島
裏の著作が、前半部分は政権与党自由民主党の党理論誌、後半部分はビジネス雑誌に連載されたということは興味深い。
ホワイトカラーなどの高学歴層には、司馬のロマン的な語りのみならず、よりリアルでシビアな日露戦争物語が提供さ
れていたということである。
以上の二冊の大著は、今もよく読まれる日露戦争物語である。この著作は、性格こそ違うものの、多くの読者を擁し
ている。今年展開されている﹁日露戦争一〇〇年﹂を寿ぐ文章には、これらの著作が展開した歴史観などとの継承性は
アカデミズムとジャーナリズムの間−対立する立場から−
あるだろうか。次はこのことを扱ってみたい。
二
ここでは、まず総合雑誌で集中して組まれた﹁日露戦争一〇〇年﹂特集で書かれたことを検証してみたい。この作業
では、アカデミズムとジャーナリズムとの間で、この間題に対する協力関係ともいうべきものが構築されていることが
明らかになるであろう。このことは、アカデミズムの立場から書かれた著作と、総合雑誌の特集論文との執筆者との共
通性などで示されていくことになる。その後、一般ジャーナリズムの範疇外にある、研究成果についても指摘しておき
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
たい。
ここで参照したのは、﹃諸君﹄二〇〇四年三月号﹁日露戦争と百年後の日本﹂、﹃文香春秋﹄二〇〇四年六月号﹁父が
目 霹戦争再考﹂
︵23︶
の特集である。﹃論座﹄以外は、保守的傾向の総合誌である。
子に教える日露戦争﹂、﹃中央公論﹄二〇〇四年六月号﹁武士道と日露戦争﹂、そして﹃論座﹄二〇〇四年九月号﹁開戦
百年
これらの特集記事は、それぞれに角度は異なる。﹃文聾春秋﹄誌の特集のように、一七篇もの寄稿で成立している特
︵24︶
集記事もある。その中には、関係者の子孫︵ガーンディー、与謝野晶子、秋山真之︶による文章もある。また、﹃論座﹄
以外は、一貫して、日露戦争の勝利を日本の嘉すべきこととして評価する寄稿・発言で埋めている。﹁記念﹂するとい
︵25︶
うことは、直接的には祝賀することが目的である。あまり将来を悲観するようなことは善かれないのが普通であろう
そしてこの中で最も注目すべきは、第一線の政治史研究者が率先してジャーナリズムに登場してきたことである。東
京大学教授、御厨貴氏は、﹃論座﹄以外のすべての特集に寄稿、発言している。それに続くのが、聖心女子大学教授
佐々木隆氏である。両氏ともに最前線にある政治史研究者として注目されている。
時代について著した著書で﹁日露戦争で明治国家は一つの完成形態を示したといえる﹂と明確に述べている。
御厨氏は、
御厨氏は、戦前期日本を﹁明治国家﹂と呼ぶ。この過程で決定的であったのは日露戦争であるとする。御厨氏はこの
︵26︶
の特集では日露戦争での明治天皇の迭巡について記し、﹁建国の父祖共同体﹂﹁皇統への責任と大元帥とし
ての責任﹂というキーワードでこの間題を解く。また、﹃中央公論﹄誌では、武士道の思想から日露戦争を読もうと試
﹃ 文 香 春 秋﹄
︵27︶
︵28︶ みる。そして、﹃諸君﹄ に掲載された国際政治学者坂元一哉氏との対談では、より明快に自己のスタンスを語っている。
すなわち御厨氏は﹁戦争を避けえたかという議論は、﹁戦争は悪﹂という考え方に染まりすぎているのではないでしょ
うか。今の人は平和の方がいいと言うけれど、世の中には﹁豚の平和﹂でもいいのかという問題がある。日露戦争の時
期には﹁豚の平和﹂がいいとはみんな思わないのです﹂﹁限定条件を付けつつも当然すべき戦争だったと思います﹂と、
71(4・213)581
説
日露戦争を積極的に評価している。同時代的な視点で見る、ということを押し出すことによって、戦後歴史学が行って
きた、批判的に日本の近代史を描いてきた営みに対する懐疑を突きつけたのである。
︵29︶
論
評価している。これは、佐々木氏の著書﹃明治人の力量﹄で既に展開された主張を再説したものである。この著書では
さらに挑戦的に叙述を進めたのは佐々木氏である。佐々木氏は﹃中央公論﹄特集で、日露戦争時の首相・桂太郎を再
︵訓︶
日露戦争の結果は﹁完勝﹂と高く評価される。また、佐々木氏の著書では日露戦争で朝鮮半島が日本の植民地化を深め
︵日本の−井竿︶独立への不安が取り除かれ、不罵独立に近づくことが出来る﹂
と積極的な立場を取ることが表明されている。佐々木氏の著書を通じたキーワードは﹁不萬独立﹂である。そのために
ていくことについても、﹁これによって
︵31︶
朝鮮半島が日本の勢力下になければならないという側面が強調される。朝鮮半島進出への正当化論は、日本では長い間
︵32︶
保守的言論のメインストリームにあったため、驚くにはあたらない。しかし、日露戦争を﹁完勝﹂とする立場は、前節
で述べた二人の著作すらも取ってはいなかった。司馬は−今では保守的な言説の中でも批判的な態度を取るものもある
が一日露戦争後日本は変わっていったということを﹃坂の上の雲﹄で述べる。また、児島実は、桂太郎が、外相小村寿
太郎の憤激を押し止めてでもロシアとの講和をしたと記す。戦闘に勝っても、帝国主義国家日本の要求は完全に満足さ
れることはなかったと書いていたのである。このように、保守系雑誌で展開されている研究者の発言は、それまでの保
守的な日露戦争理解を脱却した地点より展開されているといってもよいものが含まれていると考えられるのである。
︵33︶
である。成田氏はむしろここでは、同時
以上のような、保守系稚誌に寄稿・発言した研究者たちと対折的な立場で執筆していた歴史学研究者が、日本女子大
学教授の成田龍一氏である。成田氏の場合、雑誌で寄稿しているのは﹃論座﹄
に力点が置かれているのである。成田氏が扱っているのは、単に総合雑誌の論文だけではなく、
代的な言論状況に力点を置きつつ語っている。﹁日露戦争の評価﹂ではなく、﹁日露戦争がこの時点でどのように評価さ
れ よ う と しているか﹂
歴史読み物雑誌から漫画に至る幅広いものである。その中で、フランスの歴史学者、ピエール・ノラのいう﹁記憶の
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
場﹂という概念を用いつつ、日露戦争が語られる。
︵34︶
これ以前から、成田氏は、筆者が前節で扱った司馬遼太郎の歴史物語について丹念な読み解きを行っていた。そして
今日、成田氏の叙述は司馬遼太郎の語りを離れて、日露戦争自体の解明と、日露戦争を記念する言説の分析に及んでい
る。成田氏が言語学者の小森陽一氏と編纂した論文集では、日比谷焼き打ち事件とともに﹁国民﹂という主体が登場し
︵35︶
︵36︶
︵37︶
てくることについて明らかにしている。この論文集は、日露戦争での女性の活躍、ロシアにおける日露戦争、細かくは
︵38︶
︵39︶
日露戦争前後における輸送・運搬問題、また、出撃拠点となった広島における将兵の様子などに言及した論文が収録さ
れている。このことでもわかるように、日露戦争史研究自体は、既に政治史・外交史、戦闘などの分析をする研究のみ
ならず、より多方面の領域に広がっている。個々の研究者が詳細にわたった研究成果をどのような視角ですくいあげる
か、という点が問題の一部として出現しているのである。
成田氏の関心は、日露戦争一〇〇年を寿ぐ言説が、イラク戦争への日本の参加などという極めて切迫した現実の政治
﹃欺戦六十年﹄
とも連動している﹂と書いていることでも明らかである。成田氏には、単に歴史的な
的事件の中で出されてきたことにある。それは﹃論座﹄誌への寄稿で、成田氏が﹁日露戦争をめぐっての議論は、二〇
〇五年にむかえる
区切りを記念するものとして特集が組まれたわけではなく、同時代的な政治状況で日露戦争が﹁思い出された﹂という
問題関心があるものと考えられる。このことはいささかアナロジー的になるが、一九三〇年代に日露戦争が急速に語ら
︵40︶
れるようになったことと関係していることが指摘されている。成田氏のこの論文は、前述した御厨・佐々木両氏の発言
に対し、時事的な問題としてとらえ返している。御厨・佐々木両氏は、﹁過去の視点で見る﹂ことを通じて、日露戦争
の勝利を記念する。そこには、この戦争を肯定的に再認識する方向性がある。反面、成田氏は﹁戦争の危機﹂という視
座からそのような論調自体への批判を繰り出そうとしている。両者の立つ位置は鋭く対立しているが、現実政治と関連
付けた歴史解釈の問題として提起する成田氏とあくまで政治史の議論として位置づける御厨・佐々木氏の議論はすれ
71(4・215)583
論 説
違っている。
以上のような二つの傾向の議論には、当然のことながら一過性のジャーナリスティックなものではない研究業績の蓄
積が存在する。メディアに出てくる言論の背後には、そこまでに至る蓄積が隠れている。
前述の成田民らが作成した論文集では、アジア諸国、あるいは帝国の辺境とされた地域から見る日露戦争の視点が導
入されていた。また日露戦争の中で中立宣言を一方的に黙殺され、実質的に日本の戦争遂行に協力しなければならな
﹁れ心
かった朝鮮半島についての研究も存在する。従来の政治史叙述が、往々にして政策決定の中枢や列強間の首脳外交など
︵まさに、日露戦争
に力点を置くことへの批判である。現に、司馬遼太郎も児島葉も、戦場が第三国であることには全く無頓着である。
︵42︶
と﹁地球儀的﹂と著者自身が言う視点が導入されている。本書は一見、政治的な主張だけ
だが、保守的立脚点に立つ者も既に問題点に気づいている。平間洋一氏の著書は、長期的スパン
から二〇〇四年の今日まで︶
︵43︶
で貫かれたものとなっている。同書の結論は、次のように現時点での東アジア情勢と、その中での日本の地位に対する
憤激を並べたものとなっている。
﹁日露戦争から一〇〇年後の故老はコミンテルンの筋書き通りに戦争に巻き込まれた日本であり、勝者はソ連かもし
の如く振り回している中国であり、敗者は、それにひれ伏しいまだに自虐史観に苛まれODAという貢物を捧げ
れない。しかし、そのソ連も冷戦には敗北したことを考えると、現在の勝者は、茶番劇の東京裁判の判決を﹃黄門様の
印篭﹄
続 け て い る日本ではないか﹂
しかしこの結論だけを見て、平間氏の著書を感情的なものと批評することは早計にすぎるであろう。ここに至るまで
の平間氏の叙述は、それまで保守的言説が行ってきた﹁日露戦争はアジア諸国に希望を与えた﹂というものとはなって
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
ない打撃を与えた﹂というレーニンの分析も並べられている。また、日本の勝利に﹁勇気付けられた﹂アジア諸国のう
いないからである。そこには、﹁進歩的な、すすんだアジアは、おくれた、反動的なヨーロッパに、取りかえしのつか
︵44︶
も善かれている。アジアの民族運動が、決して日本を手放しで評価せず、冷静に利害衡量していたことも述べられてい
ち、ベトナムの民族主義者ファン・ポイ・チャウが、最終的に日仏間の協商関係によって裏切られていくことについて
︵45︶
︵46︶
く。また、冷戦によって民族解放闘争の大義が社会主義勢力によってになわれていくことはそれなりに評価されている。
結論の部分に目を奪われると、途中の分析を見落とすのである。
また、近年では日露間の対立の狭間に存在する問題が総合的に語られ始めていることも注目すべきだろう。ロシア軍
︵47︶
︵48︶
捕虜が収容された愛媛県松山市の捕虜収容所について、松山大学が編纂した論集がある。ここでは、捕虜の生活、当時
はロシアの領土とされていたポーランド人のロシア睾捕虜へなされた措置︵ロシアの弱体化のために独立運動が支援さ
︵51︶
︵49︶︵50︶ れていた︶、捕虜によって伝えられた日本、また、日本の人道的処遇の内実についてなど、広範な問題が扱われた。サ
︵52︶
ハリンでの戦争で、投降したロシア軍兵士が日本軍によって殺害された可能性を指摘した論文もあり、日露戦争と日本
︵53︶
の国際法遵守の姿勢の問題もとらえられている。また、ロシアにとらわれた日本軍捕虜についても、この論集は言及し
ている。
ここまで、日露戦争一〇〇年にあたって日本国内から出てきた各種議論を概観した。研究者の立場からの日露戦争研
究は、もはや個別の戦闘や軍事技術史などを超えて、軍隊を支えた人々の動き、国際関係史的な記述など多岐にわたる。
保守的言説ではこれに加えて、前節で見た二大著作に現われた時代認識よりも、より肯定的に日露戦争の勝利が語られ
ている。
このような日本国内の論述に対して、実質的に日露間で奪取される対象として描かれがちな朝鮮半島においては、ど
のような日露戦争叙述がなされるのであろうか。次の節では、不十分ながらこの間題を扱いたい。
71(4・217)585
論 説
三
当事者の語り−二冊の邦訳から−
日露戦争で、日露両国が争ったのは、朝鮮半島および満州、すなわち中国東北部である。この地域は、無人の野で
︵一八九七年までは朝
があった。この国が日清戦争によって、清との冊封関係から離脱させられていたことは既に知ら
あったわけではない。中国東北地方は清国の領土であった。また、朝鮮半島には統一した独立国
鮮 、 以 後 は大韓帝国︶
﹁日露戦争﹂を論ずる際に、この土地はまるで
﹁無主の地﹂
であるかのように争奪戦が描かれていることが多い。
れている。そして、日露戦争の進行によって、朝鮮半島は日本の保護国への道を進めていくことになる。だが、われわ
れが
﹃日露戦争﹄ では中国人が時々出るが、完全に
に押しやられた地点から日露戦争はどのように見えるかは、戦争の実態を考察
では中国人も朝鮮人もほとんど登場しない。児島裏の
である。しかし、この﹁背景﹂
﹃ 坂 の 上 の雲﹄
﹁背景﹂
する上では重要な課題であると考えられる。
ここでは特に、日露両国によって内政改革や近代化への道に干渉を受け、最終的に、頭越しに日本の保護国にされて
いった朝鮮半島に焦点を当てたい。ただし、筆者は韓国語を解読する能力を持たないため、この﹁日露戦争一〇〇年﹂
に合わせて日本で刊行された翻訳版を用いなければならない。残念ながらこの点は限界である。
︵54︶
周知のように、朝鮮半島は冷戦の結果、いまだに分断状況にある。その双方から刊行された書物が、今年邦訳された。
されたものである。本書は、日露戦争は﹁世界戦
で発表されたものとして、筆者は達文衡氏の著書を手にした。
この二冊の邦訳書を手がかりに、朝鮮半島における日露戦争叙述を考えて見たい。
南側、すなわち大韓民国︵以下は韓国と呼ぶ−井竿︶
︵韓国では二〇〇三年、日本では二〇〇四年︶
︵当時の︶、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどが、国際社
という問題意識のもとに、日露戦争の経緯と朝鮮半島の植民地化が語られていく。ただし、その叙述の方法は、日
本書は日韓両国で出版
争﹂
露戦争とその当事国、すなわち、日露両国、韓国
71(4・218)586
「日露戦争一00年」の語り(井竿)
会の中で展開していく複雑な権力過程というスタイルである。かなり新しい研究成果も参照された上で執筆されている
ものである。
著者在民には、列強諸国による帝国主義外交の中で、大韓帝国政府がなすすべもなく日本の保護国となっていくこと
への批判がある。第一次日韓協約が締結されていく過程で、在米韓国外交官が、アメリカ政府が日本の韓国保護国化政
策を承認したことに全く気づかなかったことを述べる場面で、この点は最も鋭く現われる。それは、セオドア・ルーズ
︵55︶
ヴュルト大統領が述べたという﹁韓国人は自らの防禦のため、敵に一撃をも与える能力などない人間たち﹂という言葉
に対する批判とともに描き出されている。
また、本書では、日本の日露戦争叙述では出てこない問題が扱われている。日韓間で係争中の領土紛争である。それ
は、日本で言う竹島、朝鮮半島で言うところの﹁独島﹂である。一九〇五年、日本政府が竹島の領有宣言をしたことも、
日露戦争との関連で説明されている。すなわち、日本政府は、まずこの島において日本人が行ってきた漁業活動などと
に
の関連を前面に押し出した。しかし、軍事面ではパルチック艦隊の進撃にあわせて、政治的には韓国併合のさきがけと
︵56︶
してこの島を日本領に編入したというものである。それはロシアが朝鮮半島の利権獲得にロシアの民間人をダミーとし
て立てたことと同様と主張している。
多方面にわたる分析の結果として、著者はあらためて﹁日本の韓国併合は列強がそれぞれ自国の利益のため日本の野
︵57︶
望を黙認した帝国主義的侵略実態﹂であったということを最後に記して、本書を終わっている。韓国にとっては、日露
戦争はまず第一義的に、自国の保護国化へと連動する動きであったことを再確認する内容である。日露間の戦いに中心
が置かれないのは当然ともいえる。自国への覇権をめぐって争う戦争だからである。日露戦争と植民地化が連動してい
るという韓国の現実は、日露戦争史からどのような﹁教訓﹂を引き出そうとしているのか。前節で検討した﹃論座﹄
︵58︶
は、韓国の学者河椋文民の論文が掲載されている。この論文では、韓国の保守系言論が、イラク戦争などとのかかわり
71(4・219)587
論
説
リカのフィリピン領有の相互黙認︶の歴史にこだわらず韓米同盟を強化すべきだ、という議論のように、大国との同盟
をも含めてこの歴史を語ろうとする傾向を指摘している。まず、桂−タフト協約︵一九〇五年、日本の朝鮮支配とアメ
関係を維持せよという教訓として語られているものがある。さらに日韓関係では、もはや教科書問題で、日本との歴史
認識共有はありえない、帝国主義時代のように国益追求という観点だけで日韓関係を作ればよい、という政治的主張の
歴史的実例として語られているのだという。そしてこれらの議論は、専らメディアが先行する形で誘導されている、と
︵59︶
いうものである。期せずしてここには、ねじれた形での日韓間の議論の接近が見て取れる。すなわち、帝国主義外交の
においては、どのようにこの時代は総括されているのか。二
承認、大国化推進を鼓舞する物語への欲望である。植民地近代化論などとの接合が起こることが最後の問題だろう。
朝鮮民主主義人民共和国︵以下は北朝鮮と呼ぶ−井竿︶
︵60︶
0〇四年、﹃日本帝国主義の朝鮮侵略史﹄という北朝鮮の研究者による書物が翻訳・刊行された。この書物は、朝鮮半
島の開国から韓国の保護国化までの通史である。そのため、日露戦争だけを中心としたものではない。比較する対象と
しては不十分であるが、新しい成果として取り上げておきたい。
同書は一貫して、﹁日本帝国主義﹂を糾弾する姿勢で苦かれている。﹁日本帝国主義﹂と﹁朝鮮封建政府﹂の二項対立
図式で叙述は展開している。日本の行動に対しては﹁汝滑﹂や﹁欺瞞﹂といった激しい言葉が多用されている。また、
朝鮮政府に対しては、弱体で無能な存在として描き出されている。甲午農民戦争や義兵闘争のような抵抗運動に対して
は、きわめて高い評価が与えられている。本書では日本の新しい研究文献が注に全く登場しない。史料としては植民地
時代に朝鮮半島で出版された日本語による文献が多用されている。
日露戦争に関しては、本書の後半で描き出される。ここでは﹁日露戦争を通じてわが人民は、大きな民族的災難と犠
牲を強要されました。日帝は戦争初期に朝鮮を軍事的に占領して、朝鮮の自主権をひとつずつ侵食しながら、わが国を
完全な植民地にでっち上げる準備を早めていきました﹂という、国家指導者金正日氏の言葉を立証する形で論述が展開
71(4・220)588
「日露戦争一00年」の語り(井竿)
︵61︶
︵62︶
されている。そして、﹁米帝国主義者は、この時期に日帝の朝鮮侵略を煽り立てる犯罪を重ねた共犯者であった﹂とし
︵63︶
て、アメリカの日本支持が激しく非難されていく。また、保護国化を決定した日韓協約にしても、それは﹁捏造﹂の一
言で葬られる。
結論において、本書は次のように、日本に対する敵意を露骨に示したものとなっている。
﹁このすべての事実は日帝が、どんなに強盗的で悪辣な方法で朝鮮を自分たちの植民地に隷属させたのかを明確に示
しており、日帝侵略者こそ極悪な侵略者であり、我が朝鮮人民の子孫代々に至るまで許すことのできない不倶戴天の民
族的仇敵であることをしっかりと証明している﹂
日露戦争よりも植民地化の進行に重点があるのは南北共通である。ただし、前述の饉氏の著書のように、それが国際
反感を煽るものとなっている。そしてそれは、前述した河椋文民の言う、韓国内でのナショナリスティックな議論と重
的な視野から論述されているわけではない。また、学術的な批判というよりは、読者に対して、現時点での日米両国に
︵64︶
な り 合 っ ている。
ただ、これを批判するにはかなり慎重な態度が必要である。いわゆる﹁教科書問題﹂以後、日本国内からは﹁反日
的﹂﹁内政干渉﹂などの、敵対的な語彙が飛び交うことが増えた。しかし、日本にとっての日露戦争﹁戦勝﹂の歴史は、
中国や朝鮮半島の住民にとっては第三国同士の戦闘により生活の場が躁爛された経験でしかないことを再確認すべきだ
︵66︶
鮮の議論を批判することはできない。無論これは、国家指導者の政策方針を正当化する北朝鮮歴史学への批判を控える
ろう。さらに朝鮮半島にとっては、日本の勝利は日本による主権剥奪の歴史への序曲だった。この点を見過ごして北朝
︵65︶
と い う こ とではない。
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論 説
小括
以上、戟後日本のポピュラーな語り、二〇〇四年に現われたジャーナリズム等の記述、そして朝鮮半島での叙述を重
ねつつ、日本における今日の日露戦争叙述の一端を明らかにすべく試みた。第二節で述べた成田龍一氏の指摘のように、
﹁日露戦争一〇〇年﹂は、歴史学の中から内発的に出てきたものと言うより、メディアの仕掛けたキャンペーンの色彩
が濃い。かつての﹁勝利した戦い﹂の記念事業を通じて、日本の栄光を過去に求める動きである。とはいえ、メディア
のキャンペーンに第一線の歴史研究者が登場してきている。その意味では、メディアだけが空転しているわけではない。
メディアにおいての﹁日露戦争一〇〇年﹂の叙述は、確かに全く対抗する二つの立場が存在する。ただし、﹁括抗す
る﹂というよりは、双方はかみ合わずに並存している。また、数としては﹁勝利﹂を肯定していく叙述の方が強いもの
であると考えられる。佐々木隆氏の﹁完勝﹂論は、冒頭で掲げた教科書の叙述とは、人種対抗論の言説が存在するか否
かの地点にまで迫っている。それまでの議論を覆す試みではあるが、政治的に日露戦争を肯定する道具立てとしても有
効 で あ る ことは指摘できよう。
ただ、この時点でも、メディアが仕掛けた﹁日露戦争一〇〇年﹂の物語に対して、歴史学、あるいは個々の歴史学者
がどのように応答したかという問題は残る。特にマルクス主義歴史学の態度は重要である。彼らは戦前からこの間題と
批判されていたものであった。また、大江志乃夫氏の大著﹃日露戦争の軍事史的研究﹄は、﹁日本近代国家史上におけ
対決してきたからである。﹃坂の上の雲﹄が展開した﹁祖国防衛戦争﹂論は、戦前のマルクス主義理論家によって既に
︵67︶
︵68︶
る﹃最大の栄光﹄の虚構を砕く﹂という激烈な宣言とともに始められている。この著書では、当時日露両軍が使用した
武器の構造から、将兵の生活、軍工廠で働く労働者の労働状況までが探求の対象となっている。今なお読むものに非常
に強い緊張を覚えさせる著作である。確かにこの系譜を受け継ぐ形での研究は進められてはいる。しかし大規模なメ
71(4・222)590
と考えられる。その記憶が、前節で述べたような、北朝鮮における攻撃的な日本への今日的抵抗を呼びかける歴史記述
ディアに載せられ、流布されている日露戦争の物語は、今なお大日本帝国の興隆上昇の記憶として受け止め
︵69︶
にならない保障はない。
確かに、現実政治の動きは、時として歴史の解釈を大きく書き換えようとする。支配的な言説は、往々にして複雑な
とぶつかったとき、﹁神々の戦い﹂
︵70︶
側面を切り落とす。切り落とされた側の歴史や思考を拾い上げていく試みは、容易ではない。またその立場
た歴史の叙述は多くの場合人を穀舞しない。だが、人を鼓舞するものは同時に犠牲も出す危険性をはらむこ
︵2︶ 勿論、石川捷治・平井一臣編﹃終わらない二〇世紀﹄法律文化社、二〇〇三年の中で展開された筆者による日露戦争記述も検
討の対象となる。本文中では﹁叙述﹂は﹁物語﹂﹁語り﹂に比してより客観性を意識したものと定義する。
︵3︶ 新しい歴史教科書をつくる会編﹃新しい歴史教科書﹄、扶桑社、二〇〇一年、二二三貢。ただし、二〇〇五年には改訂版が刊
行されるので、若干の記述訂正がありうる。
︵4︶ 校正中に、軍事史学会編﹃日露戦争H﹄錦正社、二〇〇四年に接した。
︵5︶ 小龍夷二 ﹃民主と愛国﹄新曜社、二〇〇二年、五五七頁。
︵6︶ 筆者は文庫版を参照した。文庫版は文聾春秋社から出たもの。一九九九年に文庫版は装丁を変えて刊行されている。初版単行
本 あ とがきは最終巻に収録され て い る 。
︵7︶ 半藤一利﹁それからの﹃坂の上の雲﹄の英雄たち﹂﹃諸君﹄二〇〇四年三月号では、この最後の言葉に異論が挟まれている。
71(4・223)591
筆者は西部本社版を参照した。ところがこの記事はさほど注目されず、統合版や、版の違う紙面には掲載されなかった。ある年を
﹁何かの事件の何回目かの年﹂として記念しようとする際に、全く違う観点がぶつかりうるということを端的に示す事件だったの
だ が 、マスコミはこの発言を黙 殺 し た 。
︵1︶ ﹁日露戟竺00年﹃忘れないで﹄﹂﹃朝日新聞﹄二〇〇四年五月一六日朝刊。発言したのは麻生太郎総務大臣︵当時︶である。
注
はより自覚的であってもよい。筆者はそのように考えている。
「日露戦争一00年」の語り(井竿)
論 説
︵12︶
﹃坂の上の雲﹄ 文庫版五巻、 四二頁。
﹃坂の上の雲﹄ 文庫版二巻、 二九頁。
に注目した理由は、
﹁あとがき﹂を文庫化した際に一括して最終巻
﹃坂の上の雲﹄
の説得力﹂﹃汚辱の近現代史﹄徳間書店、一九九六年所収、
の創設者、藤岡信勝氏が
︵8︶ ﹁あとがき 六﹂ ﹃坂の上の雲﹄文庫版八巻、三五八頁。これは単行本のときの
に収録したものである。
︵9︶ ﹁あとがき 四﹂ ﹃坂の上の雲﹄文庫版八巻、三三〇頁。
︵10︶ 成田龍一﹃司馬遼太郎の幕末・明治﹄朝日新聞社、二〇〇三年。
︵13︶
﹃坂の上の雲﹄ 文庫版四巻、 九〇頁。
隠れた小径﹄葦書房、二〇〇〇年所収。
明治図書、一九九六年、﹁﹃司馬史観﹄
︵11︶ いわゆる ﹁教科書問題﹂ の発端となった﹁自由主義史観研究会﹂
藤岡信勝﹃近現代史教育の改革﹄
︵14︶
﹃坂の上の雲﹄ 文庫版三巻、 一七三頁。
参照。
︵15︶
︵16︶ 渡辺京二 ﹁﹃翔ぶが如く﹄雑感﹂ ﹃渡辺京二評論集成Ⅳ
﹃坂の上の雲﹄連載・単行本化の時代
︵17︶ これは、戦争観・平和観の問題ではないかと考えられる。戦争の勝敗は当然、戦争の記述には大きく異なる結果をもたらす。
敗戦後日本人の戦争観については、吉田裕﹃日本人の戦争観﹄岩波書店、一九九五年。また
は受容されたのではなか
は、実は学生運動の急進化、大衆的基盤の喪失にあたる時代であった。学生運動を離脱した大学生は、卒業後急速に方向転換し、
企業への忠誠をもとに日本経済を支えていく。憶測の域を出ないが、このような人々に、﹃坂の上の雲﹄
ろうか。
は、基本的に鹿児島弁で発言が記されている。他の
︵初版刊行一九七九年、現在は新潮文庫︶
である。
︵長州人では、田中義一が比較的発言を方言で記される︶
︵例えば大山巌︶
︵18︶ ﹃日露戦争﹄ については、筆者は文聾春秋社から一九九四年に刊行された文庫版を参照した。
︵19︶ 不思議なことに、﹃日露戦争﹄ のなかで、鹿児島出身者
登場人物は、あたう限り史料引用や、標準語の形で発言が記されている
中では、この処理は特に目立つ。
︵20︶ この部分だけをクローズアップしたのは、吉村昭﹃ポーツマスの旗﹄
︵21︶ ﹃日露戦争﹄第八巻、四五〇−四五一頁。
︵22︶ ﹃日露戦争﹄ のあとがきに記された言葉。
﹃最後の言葉﹄﹂、シェリクリシュナ・クルカルニ
︵23︶ 校正中、﹃日本海海戦と明治人の気概﹄産経新聞社﹃正論﹄増刊号、二〇〇四年に接した。
︵24︶ 与謝野馨﹁﹃反戦歌人﹄ にされた与謝野晶子﹂、大石尚子﹁祖父、秋山眞之
71(4・224)592
「日露戦争一00年」の語り(井竿)
﹁ひ孫が語るガンジーの
﹃日露戦争観﹄﹂
の三篇である。与謝野馨氏は、﹁与謝野晶子の言動には一貫して、政治色がまったく見ら
れない﹂と書いている。これは明確に誤っている。与謝野氏の文章は﹁若死にたまふことなかれ﹂は、反戦の作品ではないという
文脈の中で善かれたものであるが、これについては、井口和起﹃日露戦争の時代﹄吉川弘文館、一九九八年でもその誤りが指摘さ
﹃坂の上の雲﹄
の英雄たち﹂は異色である。軍人に多くの論功行賞があったことなど
れている。また、与謝野晶子は極めて時代感覚に敏感で、時々の潮流に樟差す発言をしていたことはよく知られている。
︵25︶ その中で、半藤一利、前掲﹁それからの
について、半藤氏は極めて批判的である。また、日本海海戦について、秋山真之に一時判断の迷いがあったことも触れられている。
二〇〇四年六月号。
︵26︶ 御厨貴﹃明治国家の完成﹄中央公論新社、二〇〇一年、四二〇頁。
︵27︶ 御厨貴﹁﹃大元帥﹄明治天皇の苦悩﹂﹃文聾春秋﹄
二〇〇四年六月号。
二〇〇四年三月号。このことに関しては、中西輝政氏の書いたも
︵28︶ 菅野覚明・御厨貴﹁失われた道徳と生かすべき理念﹂﹃中央公論﹄
︵29︶ 御厨貴・坂元一哉﹁明治天皇と﹃プロジェクトR﹄﹂﹃諸君﹄
︵﹁日本が﹃世界史﹄
に躍り出た日﹂﹃文萎春
のを補助的に位置づけると理解しやすいと考えられる。中西氏は学生時代、﹁日露戦争は﹃日本帝国主義によるアジア侵略の闘い﹄
だったと、単位を取るために大学の試験で書くようになっていた﹂と告白している
秋﹄特集掲載︶。青年時代の中西氏が﹁単位ほしさ﹂で書いたかそうでないかは重要ではない。問題は、マルクス主義歴史学の歴
二〇〇四年六月号。
﹃環﹄一九号、藤原書店、二〇〇四年に接した。
史叙述が、大学で単位を取れれば記憶から消え去ることのできるものだったことである。校正中さらに、後述する複文衡民らとの
対談﹁日露戦争は世界戦争かフ⊥
︵30︶ 佐々木隆﹁戦争遂行した辛口政治家・桂太郎﹂﹃中央公論﹄
が日本列島に激動をもたらすのは、否応のない
︵31︶ 佐々木隆﹃明治人の力量﹄講談社、二〇〇二年、三〇三貢。朝鮮半島植民地化へのこれほど明確な積極的評価は、戦後歴史学
では出なかった。佐々木氏はこれを﹁朝鮮半島の動乱︵とりわけ強国による支配︶
地政学的現実であり、宿命﹂ ︵一二頁︶ だからと言い切る。佐々木氏の著書には、参考文献に海野福寿氏の業績が挙げられていな
いこともこのためであろうか。この著書で佐々木氏は、明確に戦後の価値観に否定的な見解を示す。日本国憲法の前文や第九条を
﹁詫証文﹂ ︵二九頁︶ ということに、それは端的に現われている。
︵32︶ それは、いわゆる﹁自由主義史観﹂運動の中での司馬遼太郎の歴史観に対する態度の変遷として考えられるだろう。周知のよ
で刊行した西尾幹二
うに、﹁自由主義史観﹂運動は、﹃坂の上の雲﹄を高く評価する歴史教育の動きとして始まった。だが、その運動に続く﹁新しい歴
史教科書をつくる会﹂
二〇〇四年九月号。
﹃国民の歴史﹄産経新聞社、一九九九年では、司馬遼太郎は否定的にしか扱われなかっ
︵33︶ 成田龍一﹁﹃記憶の場﹄ としての日露戦争﹂﹃論座﹄
た。
71(4・225)593
論 説
︵聖 成田龍二前掲﹃司馬遼太郎の幕末・明治﹄また﹁司馬遼太郎の歴史の語り﹂﹃歴史学のスタイル﹄校倉書房、二〇〇一年所
収。
︵聖 成田龍一﹁﹃国民﹄の政行的形成﹂小森陽一・成田龍一編﹃日露戦争スタディーズ﹄紀伊国屋書店、二〇〇四年所収。前掲﹃論
︵44︶
︵43︶
平間、前掲書、
﹁旅順の陥落﹂ ﹃レーニン全集﹄
平間、前掲書、
二八〇頁。
︵45︶
平間、前掲書、
︵空 京口和雄﹁捕虜を厚遇した松山市民﹂前掲﹃マツヤマの記憶﹄。
ジ ウ ムの記録である。
︵47︶ 松山大学編﹃マツヤマの記憶﹄成文社、二〇〇四年。本書は北海道大学スラブ研究センターなどの協力も得てなされたシンポ
内において弾圧や血の粛清を繰り広げたという亀裂と重なり合うものとなっていることは無視できない。
二五九頁以下。このあたりの叙述は矛盾が多いが、それは現実の社会主義国家が、解放の大義を掲げつつも国
一一八−一二〇頁。
︵46︶
八巻、大月書店、三四頁。
︵望 平間洋一﹃日露戦争が変えた世界史﹄芙蓉書房出版、二〇〇四年。
︵生 前掲、井口和起﹃日露戦争の時代﹄では、日露戦争下の朝鮮半島についても言及されている。
郷平八郎﹄ちくま新書、一九九九年︶。
︵40︶ このことは、例えば東郷平八郎の伝記が一九三〇年代から大量に刊行されているという指摘でも明らかである︵田中宏巳﹃東
ろ で ある。
︵39︶ 荒川章二﹁地域史としての日露戦争﹂前掲﹃日露戦争スタディーズ﹄。戦争の末端での発動は、筆者も大いに関心のあるとこ
︵警 大谷正﹁義和団出兵/日露戦争の地政学﹂前掲﹃日露戦争スタディーズ﹄。
︵37︶ 土屋好古﹁日露戦争とロシア社会﹂、ユリア・ミハイロバ﹁日露戟期ロシア人の日本﹂前掲﹃日露戦争スタディーズ﹄。
︵36︶ 飯田祐子﹁婆の力﹂前掲﹃日露戦争スタディーズ﹄。愛国婦人会創設者、奥村五百子の活躍についてのものである。
座﹄の特集にも、兵士の戦死というテーマで善かれた論文、荒川章二﹁戦闘は国家の大患、人類の害毒﹂が収録されている。また
編集者の一人小森陽一氏の論文﹁日露戦争の記憶、記憶の中の日露戦争﹂は、後に歌にもなった﹁広瀬中佐伝説﹂を、伝説形成の
ための作業を掘り起こすことを通じて明らかにしようと試みている。小森氏は広瀬中佐伝説に違和感を示した稀有な例として、夏
目漱石を挙げている。しかしその夏目淑石が、日露戦争の戦勝に熱狂して愛国的な詩を執筆していたことは、御厨、前掲﹃明治国
家の完成﹄や、長山靖生﹃日露戦争﹄新潮新書、二〇〇四年で示された通りである。一人の人物が、状況に応じて矛盾した言動を
示すことについての考慮が必要なことを示している。
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「日露戦争一00年」の語り(井竿)
︵49︶ 稲葉千春﹁松山収容所のポーランド人捕虜問題﹂前掲﹃マツヤマの記憶﹄。
︵50︶ たとえば槍山真一﹁小説の中のマツヤマ﹂前掲﹃マツヤマの記憶﹄。
︵聖 たとえば伊藤信哉﹁捕虜の経費を負担したのは誰か﹂前掲﹃マツヤマの記憶﹄。
︵聖 原嘩之﹁停虜は博愛の心を以て之を取扱ふべし﹂前掲﹃マツヤマの記憶﹄。
︵聖 藻利佳彦﹁ノヴゴロド州メドヴュージ村日本人捕虜収容所﹂前掲﹃マツヤマの記憶﹄。
︵54︶ 佳文衡、朴菖照訳﹃日露戦争の世界史﹄藤原書店、二〇〇四年。
︵55︶ 超文衡、前掲吾、一九五頁。
︵56︶ 撞文衡、前掲書、二三一−二三六頁。日本側での主張としては、芹田健太郎﹃日本の領土﹄、中公叢書、二〇〇二年。二〇〇
二〇〇四年九月号。
四年一月、韓国郵政事業本部が﹁独島の自然﹂を描く切手を発売し、一時日韓間の外交問題になったことは記憶に新しい。
︵57︶ 撞文衡、前掲書、三三二頁。
︵58︶ 河椋文﹁歴史の空洞化を超えて東北アジア和解の道を﹂﹃論座﹄
︵59︶ これは、現在の韓国が、韓米関係を相対化し、南北間の相互和解を進めようとする路線を取っていることに対する批判である
ことはいうまでもない。日本の保守論壇が﹁親台湾・反中国・反朝鮮半島﹂的な傾向に流れていきやすいことと、期せずして併行し
ている点は興味深い。
︵60︶ 朴得俊編、梁相鎮訳﹃日本帝国主義の朝鮮侵略史﹄明石書店、二〇〇四年。原書は一九九六年に平壌で刊行されたものだとい
スノ0
︵61︶ 朴得俊編、前掲書、一九〇貢。本書では、故・金日成国家主席の著作や、金正日国防委員長の著作・発言が重要な論拠として使
われていることが多い。
︵撃 朴得俊編、前掲書、二一九頁。訳者は北朝鮮の現政府が推進する﹁先軍路線﹂︵すべての政策領域で軍事的観点・軍事的利害を
最優先する︶を支持するとあとがきで述べている。このような叙述と、現在の朝米関係の対峠状況を重ね合わせることは、さほど
不当なことではないであろう。
︵63︶ 朴得俊編、前掲書、二四三頁。
︵64︶ 刊行時期は前後しているが、対外宣伝用に同国で出版された李鍾賢著、金政仁・金竜丁安唆達訳﹃日本の戦争犯罪﹄外国文出
版社、平壌、一九九九年においても、日露戦争自体は﹁両国間の植民地および勢力圏の争奪をめぐる帝国主義的侵略戦争であり、
国際帝国主義の対立抗争の一環﹂︵三五頁︶と総括されている。むしろ問題は日本の植民地化なのである。この本では比較的新し
い文献も引用されている。ただし、この本が国民にも読まれているかどうかは不明。
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論 説
︵65︶ そのため、国境を越えた歴史家同士の対話はいよいよ重要なものであると考えざるを得ない。比較史・比較歴史教育研究会編
﹃帝国主義の時代と現在﹄未来社、二〇〇二年のような息長い試みは、結論が出ないがゆえに今後ますます重要なものとなるので
はないかと考えられる。
と断言する金正日氏の姿を記している。
︵66︶ 金正日伝編纂委員会編、国際チュチェ思想研究所訳﹃金正日伝﹄第一巻、白峰社、二〇〇四年では、﹁歴史はつねに政治に奉
仕する学問として存在してきた﹂ ︵一六四頁︶
﹁﹃坂の上の雲﹄をめ
︵67︶ 信夫清三郎・中山治一編﹃日露戦争史の研究﹄河出書房、一九五九年には、﹁国民戦争論﹂批判と言う形で取り上げられてい
る。
︵68︶ 大江志乃夫﹃日露戦争の軍事史的研究﹄岩波書店、一九七六年。
︵69︶ ﹃正論﹄ 二〇〇四年二月号の石原慎太郎東京都知事と八木秀次高崎経済大学助教授の対談のタイトルは
ざして再び歩き出そう﹂ であった。
︵フガフガ・ラボ編﹃ブッシュ妄言
︵70︶ アメリカ合衆国のジョージ・プッシュ・ジュニア大統領の発言を﹁ブッシュイズム﹂と言うことはよく知られている。その発言
のひとつに ﹁アメリカと日本は一五〇年もの間、すばらしい同盟関係を結んでいます﹂がある
﹁日米交流一五〇年記念﹂
にされている。
の郵便切手を発行した。﹁同盟関係﹂
録﹄ ぺんぎん書房、二〇〇三年、五七頁︶。これは、ブッシュ氏が第二次世界大戦を記憶から欠落させていることの例として取り
上げられている。ところが二〇〇四年九月二二日、日本郵政公社は
という言葉を、よりマイルドな﹁交流﹂と言い換えることによって、第二次世界大戦史は﹁例外﹂
︵追記︶ この文字通りの ﹁拙稿﹂を、石川捷治先生に捧呈する。還暦記念論文集という重厚なものに、このような時事的な、﹁不朽
ならぬ速朽﹂ の原稿をお届けすることに、筆者としてはためらいがあった。しかし、政治史が政治学の一端である以上、常に同時
代の状況には敏感であらざるを得ない。筆者がこのテーマの原稿を献じたゆえんである。
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