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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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ファウストの「忘却」の場面について
芦津, 丈夫
独逸文學研究 (1960), 9: 1-20
1960-12-25
http://hdl.handle.net/2433/186279
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
ファウ
の場面に
夫
﹁忘却﹂
丈
つ
し
、
芦
-│﹁風致ある土地﹂ への一考察│ l
津
の
て
一夜の眠りによってすっかり元 気 回復して、朝
の大自然の中にあざやかによみがえるととができたのである。ジイドは若い頃﹁ファクスト﹂第二部を聞いて非常に
難解だと思ったが、 乙の場面からは強烈な感銘を受け、自己と自然との聞に直接な交りが存在し、紳は感覚を通して
も我々に語り得るととを始めて知り、 それ迄自己の魂を内なる神にのみ聞いていた乙とを恥じるに至った。乙の様に
彼は﹁グl-プ論﹂の中で告白している。
明るさとみずみずしさに溢れ、自然の息吹を肌身近くに感じさせるいかにもグ lテらしい越きの場面ではあるが、
一歩退いて考えてみる時、私はここにどうしても看過することのできない一つの疑問を感ずるのである。それは、
フ 7ヲストの﹁忘却﹂の場面について
ア
に陥った。しかし彼は自然の精アリエルたちの歌と音楽につつまれ、
て始められる。グレートヘン値験の痛手により心身ともに渡れ果てたファクストは、 アルプス山中の草野で深い眠り
﹁ファウスト﹂第二部は﹁風致ある土地﹂と題する、わずか百行儀りの長きであるが、非常に印象深い場面をもっ
(一)
ス
ト
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
νlテ
w
ノエルが﹁先ず乙の人の頭を冷たい枕の上に休ませ、 それから彼を忘却の河水の 雫 で泌みさせてやれ﹂と歌っている
様に、ファクストがほかならぬ眠りの忘却作用によって苦しみから解放された、もっとは?きり言えば、グレートヘ
﹁風致ある土地﹂ が第二部の新らしい出務貼であるとは言うもの
ζの世の記憶を忘れたとされるが、グ lプは
シ鰻験という過去を忘れることによりよみがえることができたという事質である 。 (
レ l テ FZF
叩とは言うまでも
︿
2
m
m
w帥師冊目の意に用いている。)
なくギリνヤ神話における冥界の河の名で、亡者たちはその水を飲んで
その原義通りに
の、ドラマとして譲むとき我々はそれを第一部との連闘を抜きにして考えられない。 つまりとの明るい光景の背後に、
第一部のあの悲惨なグレートヘン劇の結末が残像のごとくに浮び上って来る。そしてその瞬間に﹁風致ある土地﹂の
美しさへの感歎は、たちまちにして一つの大きい疑問に 後ずるのである。
無垢なるままにファウストの懲の誘惑に落ちたグレートヘンは、母親をあやまって死にいたらしめ、兄を慾人の手
によって殺害 され、さらに生れたわが子をも自ら池に沈めて殺し、その揚句ついに牢獄にて狂乱に陥ってしまった。
ζに行ってしまったのか。自らの罪深さを峨悔したグ ν lトヘ
ンは、聖母マリアの前にひ ざ まずいて切ない一課に
と ζろでファクストをして﹁ああ、おれは生れて来なければよかった﹂とさえ絶叫せしめたあの痛ましい現貰は、
健ど
あけくれたが、 その一決の中に乙められた苦悩は一健どのようにして贈われたのであろうか?
我々は眠りの回癒力がもたらす目覚めのすがすがしさを知り、また忘却のゆげ化力が人生そのものを過去から解放し
一方、人生には容易に忘れる
ζと の 許 さ れ な い 現 賓 と い う も の が 存 在 す る こ と も た し か で あ ろ う 。 そ し て か か る
つつ、 それをいかに明るい、創造的なものに縛じ行くかをも知っている。しかしまた、
ととのできない、あるいは忘れる
現賓に封して、忘れる乙とはもはや﹁ 軽薄 さ ﹂ と か ﹁ 無 責 任 さ ﹂ と か の み を 意 味 す る に ほ か な ら な い で あ ろ う 。 い や
しくも一人の人聞を破滅せしめ、しかもその罪を眠りによって忘れ去るとは・ ・このようなファクストの行痛を我々
はどう理解すればいいのか。そしてこの疑問の上に立てば、我々は次の一言葉の示すようなプァウストに到する否定的
態度を前にしても、そこに常然至極の理由を感ずるのである。
﹁ファウストにおいては、男子として失敗の極を演じ、また、 にくんでもなおあまりあるがごとき大罪を犯しつく
したるものあり。されど、 いまだ心よりその罪悪を認識してとれを痛切に峨悔したるととなし。ブァウストはかかる
罪悪を犯したのち、 その女を捨てて逃亡し、ある朝、 ア ルプス山中に眠り醒めて、たなびきわたる美しき虹を見、
の得ならぬ風景に封し、たちまちにしてさきの苦痛はととごとく消え去りたるを叙す。ただそれ 善事をなせ、過ぎ去
りし昔はいかんともなしがたし、進んで善を行え、沓悪は乙れを以って蔽うベし、罪ありとでかならずしも痛恨すぺ
きものにあらず、 これは愚かなりしがゆえにあやまちしのみ。慕うべき求むべきは知識にあり、知識は光なり、光は
※1
人生を導きて暗黒に逆わしめざるべしとなす。乙れすなわちグlテの人生観なり。ダン-アは乙れに反して、言うべか
らざる深刻なる苦痛を感じてその罪を悔懐せり。けだし、とは雨者のたがいにその傾向を異にせる第一なりとす。﹂
乙れは内村鑑三が講演集﹁宗教と文間半﹂において、グ lテの﹁プァウスト﹂をダンテの﹁紳曲﹂と比較しつつ論じ
たものである。いささか濁断的で、あくの強い表現ではあるが、 その言わんとするととろは充分に賓感として受け取
りうるであろう。彼の 立場は言う迄もなくキリスト教的モ-フルにもとずくものである。だから彼は乙の先さらに細川け
て、串間・知識・行潟の人グ lアに欠けていた唯一のもの、それはダ Yテを天閣に導き入れたペアトリIチェの存在、
つまり愛と信仰であったと述べ、グ1-アはいかに高きを求めても、結局ダンテの描いた﹁煉獄﹂にとどまるものであ
ζの場合特に我々に強く感じられるのは、
(﹁死に至る病﹂)との言葉が示すごとき
キエルケゴ l ルの寸凡ての悔い改めざる
るとの結論に達している。そして
罪は新しい罪であり、罪が悔い改められずにいる各瞬間は新しい罪である﹂
﹁罪﹂に封するきびしい反省の立場を、鑑三がファクストの忘却に劃して真向からつきつけていることである。
﹁風致ある土地﹂のブァウストにおいてのみならず、作中の人物がぎりぎりの抜き差しならぬ状況に立ち至ったと
き、突然眠りとか忘却とかの和解作用によってその悲劇性が緩和されるという現象は、しばしばグ 1テにおいて見受
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
そ
ファワストの﹁忘却﹂の場面について
νエイクスピア、さらにそれ以後の様々な近代悲劇をも含めて
、
・
1 1ーその本質において、人閣の罪とか悪とかの
・ブイ y V ャI以来、数々の批評家たちからその矛盾を指摘されて来たも
,
H
F
を取り上ヴ、次の様な乙とを述べている。ゲlテがそれと直面しても戸惑うばかりで、それと封決のできなかった一
相3
﹁遺産なき精肺﹂の著者エlリッヒ・ヘラlも﹁グ 1 テと悲劇性の回避﹂と題する一章において、やはりとの問題
のである。
ァヲスト第三部﹂ を書いた美周干者 2
してのかかる聞いはすでにいくたびか提起され、殊に﹁風致ある土地﹂のファクストの行矯に闘しでも、有名な﹁フ
内村鑑三はキリスト教的な立場から﹁愛﹂と﹁信仰﹂の融けて川いることを非難したが、グlテの﹁宥和的﹂態度に封
て、彼の寅存への聞いからの逃避、あるいは‘彼の思考の根底における何ものかの倣除を示すものでなかろうか?
悲劇作品の首尾一貫せる 出血ロ丘ロロm(筋) の上にかかる異の和解ならざる和解を置き得たということは、 逆に言つ
問いつめ、 それを信仰という肯定的な答えにひるがえさんとすると乙ろに成立するものである。しからば、グlテが
宗教というものもl│全く前の場合と次元を異にするがllかかる否定的現賓に封する聞いを自己の内的健験として
窮局的運命との針決を追求し、そのリアリティを表現せんとするものであり、さらにつき進めて考えれば、そもそも
悲劇、
乙の貼に闘して我々は宮然次の様な疑問をゲーテに封して抱かざるを得ない。そもそも悲劇作品とは││ギリジア
行情詩ならぬドラヴの問題に射し、一煙、宥和的な性質と言うようなものがどこまで通用するものであろうか。
ーにあてて﹁私は悲劇的な詩人に生れついていない。なぜなら私の性質は宥和的であるから。
“
,
。﹂と書いてもいるが、
MVe
首尾一貫性を構成の上に求める悲劇作品にかかる方法での和解作用が許される筈はどこにもない。グl-アはツェルタ
グモントも﹁甘いまどろみ﹂とやわらかい音楽につつまれて、 ふたたび希望を未来に夢見ることができたのである。
とした時、失神と眠りによってこの危機から救い出され、また死刑の運命を前にして不安と絶望のとり乙となったエ
けられる。たとえば﹁イブイグlニェ﹂のオレストは、復離の女神フーリエシたちに追跡されて危うく狂気に陥らん
四
つの現賓として﹁悪と罪の無慈悲さ﹂なるものがあった。彼は﹁イプィグ l-て ﹂ に お い て も 最 後 に ﹁ す
べての人間
るが、もし我々が乙の作品
的融陥は清き人間性によって蹟われる﹂とのヒム i マニズム的信仰を啓示しているのであ
の底にあるタンタルスの呪いとか、母親殺しの罪の恐ろしさを異に健験したならば、到底かかる立場に甘んじること
H
毛田官ではあり得ない。田県のり円即日田
印 vd
はできまい。少なくとも乙の解決は右円仲良町当白﹃ 円であり得ても、 aESE- n
とは、いかなる人間的解決をも無効ならしめるもの、つまり﹁根元慈﹂という客観世界の場の上に成り立つものである
から。そして母親殺しのごとき罪に封して﹁救い﹂となりうるもの、それはギ nyν ア世界における罪人のいけにえ、
或いは紳の呪いを解くべき直接の介入があるのみであり、根本的な差異あるとは言うものの、 キ9 スト教の機悔、悔
のとは全く性質を
vェイクスピア悲劇などの支えをなしていたのであり、それは﹁純粋人間性﹂のごときも
日
v
悼、または赦しの恩寵などの概念がこれに相 官する。そしてかかる次元の上に立つ紳製や宇宙論がほかならぬギpu
ア悲劇、
異にするものだ。ところでグ lテが﹁ファクスト﹂や﹁イ フ ィグ l ニェ﹂においてぶつかった悲劇の問題は、およそ
近代人ならばかかる停統に宿るモラルの助けなしには到底打ち克つ乙との不可能なものである。グl-アの生きた十八
世紀・十九世紀はじめ、つまり合理主義、非合理主義、理想主義、ロマ ン主義などの混然とする時代には、すでにか
かる時代に生きる侍統が存在しなかった。しかも彼が外部世界に統一を求めるのではなく、ひたすら内部世界にのみ
、
それを求めたのは、何によってであるのか。それはほかならぬ彼の内なる天才への巾旦巾 ) への信 奉 つまり自己が母
なる自然といまだ﹁へその緒﹂によって固く結びつけられているとの確信にもとづくものであった。オレストや第二
v
部初めのファクストに奥えられる眠りと忘却は、まさしく乙の﹁自然﹂の贈物である。それ故、グ lテにはカタル v
スがなく、 メタモルフォーゼのみが存在する。それは彼の悲劇性との針決における限界を示すと同時に、彼の天才の
無限さを裏附けするものである。
﹁人生、 それはどのようにあろうともそれでよい﹂とのグl テ的生の肯定は、とどのつまり民の意味における肯定
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
五
ム
(勿論、多少ともこの要素がなければ批評というものは
﹁グ!テ的宥和性﹂
ζとは、いわゆる十九世紀グ l テ
ζとは、乙の疑いが草にグ i テに到するある別の立場からの批判にのりかえるのみに留まり、それによっ
﹁罪﹂の問題の揚棄、またはその逃避を意味するだけのものであったか?
むしろそ乙には、何らかのグ14プ 濁 自 の 積 極 的 な ﹁ 罪 ﹂ の 超 克 が 含 ま れ て い る の で は な か ろ う か ? 非常にとりとめ
ある。果してグi テ的な﹁自然﹂とは、
出禁貼として考慮に入れつつ、 さしあたりグ lテをできる限りグl テの立場から把握することから始めてみたいので
うということは、むしろグ l テをただしく一楓ることにつながらねばならぬ。それ故、私は鑑三流の疑問を一応問題の
てむしろ異の意味での疑い(自己の内から殻せられた)を失ってしまうのではないかという乙とである。グlテを疑
一円減すべき
批評家たちの築きあげた﹁グ l テ紳話﹂の安易さを打破するためにも、非常に重要な乙とと思われる。しかし乙の際
として問題醜される所であろう。たしかにグ l テに到して一つの疑いを持つという
立場か'りすれば明らかに邪道であり、普通一般の立場から見てもやはり﹁悲劇性の回避﹂とか、
寸叩非﹂に封してグ lテは峨悔や放しの行局ではなくして、眠りと忘却という﹁自然﹂を置いた。乙れはキリスト教の
なり立たないが ov しかしグ1 テをグ l テ自身の立場から眺め、把握するということは我々に許されないであろうか。
ってグ{テを捉え、考察し、裁いているというととである。
で注立してみたいのは、 この人々がひとたびグ l テについて語り出すとき、すでに彼ら自身のパ!スペクティプによ
さらに内村鑑三のそれも、そのもとをただせばかかる卒直な疑いから出後したものだと言えよう。ところで私の乙乙
わせる者ならば、乙の事実を前にして、岱然そこに卒直な疑いを抱かずには居れまい。そしてヘラ!のグl テ批判も、
グレートヘンを破滅せしめたブァウストは眠りによってその非を忘れた。かりそめにも罪の意識の一片でも持ち合
が乙の場合やはり、キリスト教的思想に培われた﹁体統﹂の立場である乙とを認めざるを得ない。
なり得ない。ととに結局ヘラ!の言わんとするものがある。我々は彼のするどい分析と批評の根底を支えているもの
ではない。それは、すべての悲劇を超えた﹁向い側の岸迭にある﹂領域と結びつかない限り、国真のミ何回目印件 m豆、と
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
F¥
なく、途方もない試みに終るかもしれないが、かかる観黙の上に立って私は乙の問題を追求し、漸次﹁忘却﹂という
テーマに焦黙をしぼりつつ、自分の考えをまとめてみたいのである。
︿-一﹀
まず、グl テ自身﹁風致ある土地﹂をどの様に考えていたかを知るため、 この場面が丁度出来上っ時 1 1 一八二六
年三月初めl lグl テがエ アカーマ y k語った言葉を引用してみたい。
﹁さあ乙乙に官頭の部分がある。全く私の従来の温和な方法によるものだが、君は私の流儀をよく知っているから
驚かないだろう。まるですべてがすっぽりと和解のマントによって包み込まれているようだ。いかなる恐怖が第二幕
の終りでグレートヘンの上に襲いかかり、それがまた逆にファクストの魂全僅をもゆすぶらざるを得なかったかを考
えてみると、私はこの様に主人公を完全に麻揮せしめて虚脱状態だとみなし、 かかる一見上の死に新しい生命を貼火
する以外にいかなる方法も知らなかった。この際、私はエルフの姿と性質で知られる有益な夜の精たちに保護を求め
ねばならなかった。彼らには同情と限りない慈悲とがすべてである。 乙こでは裁きが下されるのではなく、人聞の裁
き手に見られるごとく相手が有 罪 か無 罪かということなど問題にな ら な い 。 :・・聖者であれ、悪人であれ、非人であ
※4
﹂
ζとを念願しているのだ 。
れ同じととだ::・彼らは和解的な方法で働き績け、ファクストに深い眠りを輿える乙とによって過去の恐怖の鐙験を
忘れさせる。つまり何よりも彼にレ i テの川の雫をあびせかける
さまざまな立場からの批判や疑問に到するゲーテ側の答えが乙乙にはっきりと表明されている。ファクストをグレ
ートヘシ健験の苦悩から救い出すのは、 いかなる道徳的行鋳でもなく、逆にすべてのモラルの外に立つ﹁自然﹂であ
る。深い眠りと忘却、 ただとれのみ、それ以外の﹁いかなる方法﹂も自分にとっては無意味だ、とグ lテは答えてい
る。鈴りにも大胞な、あかぬけのした理論なので、 これをいかなる風に解して呑み込むべきかに、我々はむしろ戸惑
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
七
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
いをさえ感ずる。
それに封し、
ゲーテの悲劇はかかる理性や倫理的判断さえもが疑わし く なり、 入閣の
せしめ、 無垢な心を何時の間にか捉えてしまっているという駄に
、
ζそ
誘惑の誘惑たる所以がある。
そして﹁親和
あんなによかったのに、あんなに嬉しかったのに﹂と語らしめているが、あらゆる道徳的反省や罪の意識さえも蘇薄
て来るものだ。ゲーテはグレートヘンをして﹁ああ、私自身が界の身となってしまった。しかし乙うなる迄の道筋は
眺めて、我知らずに罪に陥った パラモシの一女性の乙とが描かれている。誘惑とは人間の意識の裏側からそっとやっ
三部作﹁パlpア﹂の詩には、紳に仕える清純な身でありながら、大空に紳の手で映し出された美しい若者の姿を
﹁存在﹂そのものが根底からおびやかされるところで始まる。
罪をあがなうことができた。
運命や情熱的必然に陥ろうと、 理性の絶封的自律性を保持し、 それ故破滅にのぞんでも倫理的決意をなすことにより
ラーにおける﹁高貴さの悲劇 ﹂ にグ l テの﹁存在の悲劇﹂を封隠せしめている。
※6
ζ乙でグ l一アの考えていた人間性の悲劇というものを明らかにせねばならぬ。エ lリ yヒ・ブラシツはカントやν
ν
-フl の悲劇の主人公は、いかなる
性の最高貼﹂を示すものである。
者5
はない。むしろファクストが否が際でも辿らねばならなかった必然性の終結、 つまり、 エムリァヒの言う様に﹁悲劇
か言葉をやわらげているが、眠りはあれ乙れ存在するいくつかの方法の中から﹁和解﹂を求めて選び取られた一つで
のをも、 ついに見出し 得なかったということにならないだろうか。グ1-プは﹁温和な方法﹂とか﹁和解のマント-と
ととろで、ファクストにとっては眠りと忘却のみが唯一つの救いであったと 言 う ことを裏返しにして考えてみると
苦しみ煩悶したファクストが﹁ 庖脱状態﹂と﹁一見上の死﹂を 意味する眠りに 至る迄、 この苦しみ以外のいかなるも
八
のオッティP ェの示すごとく││彼女のエドワルトとの愛においてll 一たび乙の罪の泥沼に落ち込めば、人間
ッν ュな力には敵し得ないのである。
はいかなる精紳的抵抗を試みたところで、そのデモ l ニ
カ
ファクストの眠りは、かかる﹁存在の悲劇﹂の達したぎりぎりの地黙を意味する。しかも我々の注意すべきは、一
歩あやまれば死か狂気かという乙の状態の中にも、いやむしろそとにとそグlテにとって新しい生命への縛化の可能
性が存在したと言うととである。人聞は目を閉して自己を限りない暗黒の中に委ねる、すなわち自己を忘れるととに
より、逆に乙の測り知れない存在に抱かれ、より高い地平でのよみがえりが輿えられる。 エグモントやオレストに並
んで、今一つの例をオッティ H
ノエに見る乙とが出来よう。彼女はνャルロッテの子供をあやまって池に溺死せしめる
という恐ろしい事件ののち、意識を失って﹁死のごとき仮睡﹂に陥ったが、乙の眠りの中で始めて自己の罪に目覚め、
自分の歩むべき今後の道を直脱却的に把握したのである。
ととで問題としたいのは、先程も言った様に、眠りの重要な機能の一つ﹁忘却﹂についてである。そして我々は今、
﹁忘れる﹂ととを日常的な言葉の意に解してグ lテを批判すれば、必ずどこかに誤ちを犯す乙と
ファクストを特に取り上げてみても、 とのテ 1 マがグl-ア濁自の深い思想内容に由来するというととを知った。この
深い背景を無視し、
になるであろう。たとえば内村鑑三にしても﹁たちまちにしてさきほどの苦痛はことごとく消え去り::・-との口調
﹁無責一任さ﹂を指摘し、 その非を訴えんとしているが、 との意味において
ζとごとく﹂忘れてなどはいない。果して彼がかくも大きい痛みを興えたグレ
で、忘却におけるファクストの﹁軽薄さ﹂
はファクストは決して過去の苦痛を﹁
ートヘシを文字通りに忘れられょうか。第二部の作品そのものがこれを諮明するように恩われる。
第三幕の終りにへレナは衣裳だけファクストの手に残して冥界に去ったが、その衣裳は雲となって彼を高山には乙
び、やがて二つに分れて彼のととろを離れる。(第四幕第一場) 一つは美しいへレネの姿に後形し、象られて行くが、
もう一つの雲に浮び上ったのは、何たることか忘れられた筈のグレートヘンである。さらに大きい問題が最後の救済
の場面に残されている。ファウストは天使たちの合唱に取固まれて天上に昇る。この時聖母の前にひざまずいて彼の
ために罪の赦しを乞う一人の蹟罪の女がいるが、乙れがふたたび外ならぬグレ l へンであるとは:::。ことに我々は、
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
九
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
を知るのである。
一寸した
(一八三一年五月二九日)
しでも忘れられない。しかしよく考えてみると、彼が過去を忘れまいとするのは、 そうする
ζとが﹁道徳的な自己
L
と こ ろ で 一 健 こ の 者 は 何 を 忘 れ る こ と が 出 来 な い の か ? 悩める少年にしてみれば、自分の犯した過去の罪がどう
こそがヒポコンデリーだと言えよう。
によってそこから首尾一貫した自己のあり方を引き出して行乙うとする精神、 つまり﹁忘れる﹂乙との出来ない精紳
て追求して行く人物は全く理解しがたい、と言っている 。過去の一貼に何時までもこだわり、きびしい良心と反省と
悪し、彼の描いたミハエル・コールハ l スのごとく一つの事件を﹁あれほど徹底した執揃なヒポゴンデpi- によっ
しかも彼濁特の含みをもたせて使っている。彼は作家のクライストを﹁ヒポゴンデpl者の北方的頑固さ﹂の故に嫌
病状をも極度に過大槻する異常な精紳欣態を指す瞥製用語であるが、グl-アは乙の表現をもっと庚汎な領域にわたり、
白内 叩)とは普通﹁心 気 症﹂と課され、貫際にありもしない病気を恐れたり、
ヒポコンデリー(同三5nzoE
平衡を取らないと、 このような良心の人はきっとヒポコシデリーになる﹂と語っている。
心のこまかすぎる登械だ。道徳的な自己を高く評領するから、何一つ自分に許せないのだ。もし偉大な行潟によって
ある少年が一寸した過失を気にして悩んでいるのを見たグ lテは、 エアカーマンに向って﹁見ていて厭だった。良
し、自由な立場から考えてみたい。
﹁救い﹂という言葉を使ってよいなら、どの様な形での救いなのか? このことをしばらく今迄の問題と一臆切り離
ところで今純粋にグ lテ猫自の考えに立つとして、彼自身そもそも忘却にいかなる意味での僚値を認めていたか?
︿三)
すでに常識的な意味での忘れる、忘れない、などの問題とならない、けたはずれに大きいグlテの異質が存在するの
。
というものを傷つける様に思われるからである。 つまり彼のこだわっているのは過去そのものではなくして、 乙の過
ζ 乙に人間の生き方としての捉われた紋態を眺め、それをより大きい異質の中に開放しようとする。
去に閥り合っている﹁自己﹂なのである。悩みの 首人にしてみれば、乙の﹁ 自 己﹂の異質以外に生きる場所はない。
しかしグ1-アは
一方また忘れまいとしてもその瞬間、すでにエ lテ
乙の者はすべての意識と精神力を集中して﹁忘却﹂を拒絶せんとしている。しかし忘却とはその様に意のままになる
物ではない。たとえば忘れようとして忘れられるものでもない。
ルのごとく我々の意識の中にしのび込んでいるものが忘却である。それは我々の﹁精紳﹂に支配されない偉大な﹁自
然﹂そのものと言えよう。
房でひとり情熱をもやす地下生活者のごとき存在である。太陽や月は廻特を
ヒポコンデリー者とは、 いわば暗い濁 一
つづけ、すべての自然は刻々と幾貌している。だが小さい﹁自己﹂の穀の中に閉じ込められた彼は、 このより大きい
それがグIテの少年に針する言葉にもうかがわれるどとく ﹁行潟
L
にほかならない。 グl-アは
世界の存在することを知らない、 いや知ろうとしないのだ。そしてとの﹁自己﹂の殻を打ち破り、彼を康大な世界に
連れ出しうるもの、
︿
ωm-V 帥47﹃巾同問巾凹田町ロ) という形で理解し
﹁自己﹂を超克する、 との行局によって忘却はその創造性を
ζと、それと一つになることであり、﹁第一の
そして第一の自己がそれによって完全に貫かれていなかったら、それはどうして可能であろうか﹂(第一巻第
﹁遍歴時代﹂において、 ヤルノ l ・モンタンをして﹁人聞の仕遂げる べき乙とは第二の自 己として分けられる必要が
ある。
ζとを意味する。
四章)と語らしめている。何事かをなすとは、そのものの中に生きる
自己﹂より﹁第二の自己﹂に生れ獲る
獲得するのである。
グl テは││殊に晩年において││護術という人間行潟をも﹁自己忘却﹂
N)
ていたが、 乙れは非常に興味深いととである。彼は一八一二年五月、ベルリシ劇場開場にあたって一つの序曲を書き
その中で象徴的な場面を借りて様々なドラマの形式を表現せんとしているが、その最高貼に現われる﹁舞踏﹂(吋白ロ
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
プアクストの﹁忘却﹂の場面について
H
各人は思うまま、
153 と歌ってい
ζとなく左右に身を投げ出せば、おのずから高い所に引きあげられる。とのより高い空聞において耳は一段
に関して﹁各人を自己自身から持ち上げ、 その根底より引き離す乙とこそ塾術の求むると乙ろだ。
ためらう
ととぎすまされ、 眼ははるか彼方に達し、 胸はより自由にときめくことが出来るのだ﹂(︿・
明
s
∞
吋
巾 (補遺)の中には﹁郵術の最高目標﹂だとして﹁自己自身の忘却﹂宮市円宮説明叩ロ的色ロ
る。さらにその司曲目-SOBE
(乙れについてはエムリ yヒ﹁ブァワスト第
︼ 師同)の言葉が記されている。我々はとの原則の下に、草 K舞踏のみならず、音楽、オペラ、演劇など、さらに造
m巾σ
型挙術にいたる様々なジャシルの官製術を考えてみるととが出来よう。
部の象徴﹂七二頁以下を参照﹀
ζとによって、より高次の世界に生きる ζとである。晩年グ l テにおいてはっきり表
審術とは自己自身を忘れる、すなわち自己‘を超えるととであり、我々が現貫生活において﹁自己﹂とみなすものを
一たび絶封性の空聞に溶解する
つまり後者は、前者の素朴な客
市 Z白nF
宮
官 官E n
vgE2m) に封し、 この一度とらえた針象を自
白
面に出されて来たこの襲術観の筋芽を、私は、彼がイタリー旅行直後に書いた懇術論文﹁自然の皐純模倣、作然、様
式﹂の中にすでに認めうる様に思う。
自然をありのまま、忠貫に窺し取る﹁翠純模倣﹂
(冨白ロ芯円)と呼ばれる。
)
E
ω
(
ζろでグl テが﹁義術の達しうる最高度﹂のものとした﹁様式﹂
己流に再現し、 自己の言葉を作ろうとする立場が﹁作局﹂
観の立場を否定せんとする主観主義である。と
とは、さらにとの主観性を打破し、 それを超えんとする立場だと言えよう。しかしふたたび皐なる客観主義に蹄るの
一つの花ももはや針象としての花でなくなる。
それは
ではない。むしろ近代自然科撃流の考えにもとづく主観・客観の封立をその根源までっきつめ、主客合一の紋態、
に見る者の方から言えば、いわゆる主観は自己を否定する
ζと に よ り 、 主 観 を 超 え た 主 観 、 す な わ ち ﹁ も し 肉 眼 に 太
﹁自に見え、手で捉えられる形姿﹂として、もっとも根源的なあり方で我々に迫り、その﹁本質﹂を露呈する。反封
まり﹁認識のもっとも深い根底﹂に立たんとするのである。
コ
て
陽のひかりがなかったら、どうして太陽を見る乙とができよう﹂の意味でのひかりとなるのである。グl 一アはエブカ
ーマンに向って﹁詩人は皐に自己の貧しい主観的感情を表出しているあいだは、詩人と呼ばれるべきではない。しか
7ニ l ル
し彼が世界を獲得し、それを表現できるようになるや否や、彼は詩人となる。その時彼は無謹蔵であり、常に新しい
(一八二六年一月二十九日)と語っている。
この主観性超克としての葱術のあり方を基礎づけるものこそ
ものであり得る。 乙れに反して主観的人物はそのわずかの内面をすぐに表わしてしまい、結局作潟に陥って滅びるの
である﹂
﹁様式﹂であり、 それは﹁自己自身の忘却﹂の意味を具緯的に明示するものでもある。
(四)
﹁罪を忘れる﹂という場合の忘却との聞には、相骨田大きい問題のずれ
忘却のテ l マをグl 一ア濁自の角度から考えてみようとして、私はずいぶん最初の問題から離れてしまった様に思う。
たしかに人間行潟、 又は襲術における忘却と、
がある。しかし忘却という一つの行局が我々の生活においては、 たえずこの二つの可能性として働き、 つねに二つの
問題にからみつつ進展し行く、 乙こにこそ人生という現賓の本首の姿があるのでなかろうか。たとえば私がいま音楽
をきくことによって心を慰さめられ、現貫の苦悩から解放されるとする。私は音楽の浄化作用によって明らかに救わ
れ、新しい世界が聞かれるのを感じる。しかし現貫そのものは何ら幾ったわけでないし、苦悩のすべてが根絶された
わけでもない。ただこの現貫に封して今迄になかった新しい意味を獲得した、あるいはそ乙に新しい生活の次元を見
出し得たというだけだ。問題はこの﹁新しさ﹂をいかに受取り、解縛するかということである。
ところで乙れは﹁風致ある土地﹂の問題と決して無関係ではない、 いやむしろその中心問題とも言えるのである。
エムリ yヒはファクストに眠りを奥える自然が﹁音楽﹂ 1 lア日ノエル、妖精たちのソロ 1、合唱、 そして伴奏のエオ l
ルスの竪琴などによるーーとして象徴されていることを指摘し、さらにとの場面全健がオペラの形式をとったことに
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
ファクストの﹁忘却﹂の場面 について
薫る谷底から、元気よく芽を吹き出す。
木々の大枝小枝は、夜潜んで疲た。
主観的、情熱的な自我を一枚脱皮した。
それでも天の明は深い所へ穿って行くので、
有名な ヘ出白ゲ巾 ロロロ同 ny
ここでは ハ巧可 / によってつつましく自然に語りかけている。
谷を出たり谷に入ったり、霧の帯がたなびいている。
現されている。
いろど
﹁われわれは彩られた影に人生を摘む﹂八﹀B
に表
E同
Emg
ロV の言葉には、事術的に高められたファクストの新しい境地がこの上なく適確
﹀σ白
ロ N V白押おロ当町内目白白円、巾σ巾
白
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川
滴の水という有限者に宿る瞬間を捉えんとするのである。
ファクストは﹁これ乙そが人間の努力を映す鏡だ﹂と語り、無限者たる太陽そのものに迫るのでなくして、それが一
んとする。そこには滝が空一角くとばしりを上げながら流れ落ち、空中に美しい七色の虹をくっきり浮き上らせている。
ない。彼は烈しくもえる火の海との針決をいさぎよく捨て、眼を大地に向けて、若々しい禄のグェ 1 ルに自己を包ま
だ、おれがファクストだ。お前と同じゃからだ﹂と叫ぴ、自らを﹁紳の似姿﹂に併したあの﹁超人﹂プァウストでは
太陽が山の端よりさし昇るとき、彼は強烈な目のくらめきを鉛えて函をそむけるが、彼はもはや地 返 に封して﹁おれ
戸げを吐 き出していたファクストは、
門
常に力強い 八円
巾 ::・ソ・で 始まる第一部冒頭﹁夜﹂の場面と﹁風致ある土地﹂ とを比較してみるがよい。全世界に向って
時
同
回
主己08匂
第一部に見られたあの巨人ファクストは、
えりは彼自身の総長刊の中に、何よりも明白に受け取られうるのである。
ストは音楽を聞く乙とによって過去の苦悩を忘れ、よみがえることが出来たと言ってもよかろう。そして乙のよみが
手段としてえらばれた事は非常に興味深い。 つまりこの象徴的な表現をわかりやすく還元して考えるならば、 ブァク
注意を促しているが、ファウストの忘却の場面に、勢術の中でも忘却の機能をもっとも純粋に働かしうる音楽が表現
四
文花もゆらぐ珠を一ばい持っている深みが、
一皮一皮と剥がれるように色取を見せて来る。
(︿・怠∞∞t怠 宮 森 鴎 外 諜 )
目覚めたばかりのファクストは、 この様に夜明けの自然を描篤しているが、我々はこの描篤の中に計らずも先程の
ロogmロ)に高められて、 ファクストの心眼に現われる。いずれにしても、ファクストの忘却の
岡
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岡
聞
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﹁様式﹂の見事な貫現を認めうるのではなかろうか。木も葉も木枝も、ひかりに照らし出され、色となり、形象となり、
﹁根本現象﹂
場面が彼の主観性超克という内面の鑓化と平行するものであり、しかもエム p yヒの言うごとく、作品そのものの上
そして第一
﹁閉じこめられた、情熱的な主健﹂の世界より、第二部の﹁より高く、広大で明るく、
でも同,g
mの門口巾から。匂2 への形式の移行となって現われているととは見逃すべからざる事貫である。
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※
部の﹁全く主観的な﹂世界、
情熱より解放された﹂世界への輔換は乙乙に見事に表現されているものと言えよう。
しかし我々は、忘却の創造的な一面のみで割り切ることのできない、人生の根底にある即時い現貨を認めざるを得な
い。主観的、情熱的な自己はたしかに忘れ去られたかも知れない。しかし自己そのもの、つまりファクストをファヲ
ストたらしめているものに封しでも、 このことは言いうるだろうか? たとえば、 いわゆる﹁ファクスト的衝動﹂に
一貫しているのである。
﹁古典的ワルプルギスの夜﹂で彼
第一幕の終りの、ファクストがへレナを呼び出し、
ついて考えてみるがよい。エ lpyヒ・フランツの指摘するように、それは﹁風致ある土地﹂ののちも、 ファクスト
の中に動かしがたい個性として存績し、
烈しい抱擁をする場面は、まさしく第一部の地霊の場を再現せしめるものであり、
がヘレナを冥府まで追求せんとするのを見て、 マント lは﹁私は不可能なことを望む人が好きです﹂とさえ言ってい
る。そしてファクストのデモ l ニyvvュな衝動は、機力と支配のために敬度な若人夫婦を犠牲にし、 その罪を前にし
五
一
ながらも遂に死に至るまで屈するところを知らなかった。また一方グレートヘンに針する﹁罪﹂も、 その根源をなす
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
フアワストの﹁忘却﹂の場面について
ハ
ム
一
ファクスト的本性が除去されない限り、もっとも本質的な意味においては解消されたと言い得ないであろう。
、
このように我々は﹁風致ある土地﹂のフ ァクストを前にしてその意味すると乙ろを考えてみると やはりそ乙に相
矛盾するこつの面を認めざるを得ない。ファウストの眠りと忘却の場面を筋書き通りにすなおに受け取ろうと、ある
音幾という﹁婆術﹂によって過去の苦悩を忘れたとしても、過去とか苦悩の底にはかかる忘却の
いは先程言ったように、音楽という裟術的媒介による浄化過程として解しようと、結局は同じ乙とである。人聞が眠
りという﹁自然﹂、
恩寵に動かされない、 いやむしろそれを否定するかのごとき一つの現貧が存在している。ファクストはグ ν lトヘン
を忘れ、 その際新しい人聞に生れ幾った。しかしその裏には、彼は決してグレートへンを忘れていない。そして依然
としてもとのままの暗い衝動から解放されない人間であるという事貰が同時に秘められているのである。ある意味で
は救いであるが、っき進めて考えてみると救いとはなり得ない、かかる矛盾をど ζ迄もはらむものこそがむしろ﹁忘
。
却﹂の形で奥えられたグl テ的和解の賞健なのである
(五)
一方結婚という善の決心もな
﹁詩と異質﹂にうかがわれるグ1 テの懲愛の態度を取
アのこの様な黙をするどく摘委し、彼の懲愛、生活態度、詩作そのものを乙の角度から捉え、批判して行った
グlのがキエルケゴールである。彼は﹁人生の諸段階﹂において、
※ロ
りあげて次の様に言っている。慾において誘惑という悪の段階に徹し切るのでもなく、
﹃宮市円叩岡山丘町ロN)
(Nd
とも号一口うべ
一方決裂に際しても﹁全く
し得ない第三の態度がある。彼は惚れこんで慾に生きる、というよりは、慾のつづく限りのみ慾の中に生きる。それ
との﹁中間的存在者﹂
から轡を中断してけろりと忘れてしまう。抽出に謝するひたむきな直接的なパトスもなく、
別のもの﹂に自己を高めようとの決意も反省も見られない。
-プが生謹において何
き存在がグ1 テであり、彼に倣除しているものは、明らかに真剣な賓存へのパトスである。グ1
一つの作品に結晶させ、 それによって心を整理し、危機
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22URFZロ)そのものがすでに問題である。彼は耐えがたく
か深刻な健験にでくわすどとに、自己の苦悩を一つの形象、
を脱して行ったととは有名であるが、 乙の﹁詩作﹂
なった苦悩から逃れ、 それを忘れんがために、苦悩を凝固させ(丘 nyZロ)、速くに投げ出そうとすあのではないか
そして彼は乙の瞬間を利用して﹁貫践の問題﹂
す、
な﹁
わ倫
ち理的な問題﹂をたくみに﹁観照の問題﹂に切り替え、
人生窮局のものたる﹁宗教﹂との針決をさけようとするのだ。
今問題とされる﹁忘却﹂というグ!テ的態度に射して、乙のキエ ルケゴールの批判ほど、深く掘り下げられ、しか
も首尾一貫されたものはあるまい。彼はグi-ア的﹁忘却﹂の内部にわだかまる矛盾としてのこ面性を﹁宗数﹂の絶封
的な立場から透視し、 そ ζに草なる﹁忘却﹂ 1 1精紳性にもとずかない、消極的解決としてのll以外の何物をも認
めようとしない。およそグ l テとは質を異 にし、別な次元に生きていたキエルケゴールの批判は、 たしかにグl テと
いう人閣の本質を全く新しい角度から浮き彫りにしてみせるという貼できわめて重要である。しかし反封にまた雨者
乙のきびしい何回忌毛色2│。
ι2 の緊張の上に生きた
の聞の異質性を明らかにしておかないと、結局水に油をつき合わせるという乙とになりかねないだろう。
紳の前に存在するかしないか、信仰かさもなければ絶望か、
のがキエルケゴールである。それ故彼にとっては、 そもそも詩人という存在自健が﹁紳の前に存在しないで詩作する﹂
ゆえに、罪だとされたのである。ところで乙のあらゆる調和や体系化を排除してさえも自己の異質を追求し、 ひたす
ら宗教にのみ絶射性を認め んと するキエ ルケコ I ルに封して、矛盾や悲劇性の背後にたえず調和を求め、 そ ζに﹁人
間﹂の姿を把握せんとするのがゲーテである。 エ!リ yヒ・ブ一フジツはとの雨者にヨ l ロブパ 思想史上に流れる劉照
的な二つの思考のタイプが代表されていると考え、前者にルタl ・パスカル・ニイチェを連ねて ζれを円E B。
ロ
仲
良
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市
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x と呼び、後者をエラスムス・ ライプニァツ・へ lグルの系列に加えて vzg白口広三宮町叩司円。自白山mw巴同
司忌B B釘
一
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の語で表わしている。キェルケゴ l ルを高い岩聞からはげしく流れ落ちる瀧の水にたとえれば、グl-アはきらめく星
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
ファクストの﹁忘却﹂の場面について
空を面に宿す静かな湖水である。
一方作品﹁ファウスト﹂の悲
(キエルケゴール)によって紳から断絶された人聞にも、 キリス
逆に紳への道が開かれる。キりスト教においては、人間にはその静からの無限の距離ゆえに、逆説的に紳への飛躍の
ト教は救いの可能性を認めた。人聞は罪の自費を深め、その罪が否定され、徹底的に打ちのめされる乙とによって、
でに罪人である。しかも乙の﹁質的な絶封の深淵﹂
び上って来る。キリスト教によれば、人聞は生れながらにして﹁原罪﹂にもとづき、なすことなさぬことにおいです
ところで﹁救い﹂という時、我々の頭には、 その相封概念であり前提でもあるものとして、首然﹁罪﹂の概念が浮
は到底とらえがたいグ l テ的﹁超越﹂が存在するのだ。
われながらも、同時により高い次元に生きる作品として乙の苦悩を超えている。ここにはキエルグゴ!ル流の考えで
行った。つまり苦悩が詩の中に救いを求めたのだということを誠み取らねばならぬ。警かれた作品は現賞の苦悩に培
逃避としか映らない││我々はその裏に、苦悩自慢がのっぴきならぬ、必然性として彼の書くという行局の中に迫って
-アが苦悩を忘れんがために書いたという時、││それはキエルケゴールにとっては苦悩よりの
ではなかろうか。グi
のの極限を示し、その必然性が忘却という救いに鱒じたものであった。同じことは彼の詩作についても考えられるの
たとえばすでに述べたごとく﹁風致ある土地﹂のファワストの眠りにしても、グl-アにとってはむしろ悲劇的なも
していなかったのである。
劇的根本性格を、そして殊に﹁悲劇的なものの中での、悲劇的なものを通じての救済﹂という重要な契機を全く理解
※M
て論じたときも、見事にグ l テの﹁永述の女性的なるもの﹂の概念をとらえながらも、
たのである。フランツも言うごとく、キエルケゴールが﹁あれか乙れか﹂の﹁影法師﹂においてグレートヘンについ
を得ない。彼は静かな水面の下に横わる無限のぷみを、 つまりグ lテ的調和の底にひそむ悲劇性の深淵を知らなかっ
ところで我々は、キエルケゴ l ルがグl アに封するとき、 そこに一つの致命的な見落しがあった乙とに指摘附かざる
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﹂
罪
﹁
可能性が奥えられる。そしてこの設しとなるものが、十字架にかけられたイエス・キリストの姿に外ならなかったの
である。私は今迄﹁救い﹂の言葉を比較的気経に使って来たが、 やはり長後にはその本来的な意味を重視し、
との連闘において考えてみる必要がある様に思う。そして本論の出資鈷が、 との角度からの疑問にもとづくものであ
っただけになおさらのことである。そもそもグlテは﹁罪﹂というものをどう考えていたのだろうか?
﹁人類の到達した最高のもの﹂だと叫んでいる。グl テが
グl-アは﹁遍歴時代﹂の有名な三畏敬を語る場所(第二巻第二章﹀でキリスト教を、それが苦悩と死、罪悪と犯罪
をさえも聖なるものとして曾敬し、愛するに至った駄で、
﹁カラマ lゾプの兄弟﹂のイワシが、無垢なる子供の苦悩に針し﹁この一課は必ず贋わ
ノスト教的枠を完全にはみ出した、濁自な考えで把
キリスト教の罪や苦悩という要素を重要視し、しかもとれらをキ H
握していた事は注目に債する。
れなくてはならぬ。 でなければ調和などというものはある筈がない﹂と叫んだとき、ドストエアスキーの想定した苦
悩は明からに 十字架の方 にさし向けられていた。しかし、十字架に封し、 との痛々しい受苦を人前にさらす乙とを避
﹁我々はその苦悩を敬い等ぶから乙そ、その受苦の上にヴェールをおおいかける﹂と言ったのがグ lテである。
そして﹁善い人聞はよしんば暗い衝動に動かされても正しい道を 忘れない﹂とか、
ファワストの﹁忘却﹂の場面について
九
さて、私の扱って来た﹁忘却﹂の問題もかかるゲーテ濁自の健験の深みから眺めるとき、そこにより大きい展望が
なり得る貼に乙そ、との作品理解の鍵があると言えよう。
h仏 芯 が 同 時 に 宮 古ZZ28島市-と
でありながらも、救いにあずかることが出来た。グィ lゼの指摘する様に、、同,gm
害時
もほかならぬこの過程を含むものである。それ故ファクストは最後の瞬間まで﹁暗い衝動﹂から解放されない罪の身
﹁誰でもたえず努力している者は我々が救うことができる﹂とかの言葉にもうかがわれるごとく、 ファクストの救済
ーテ的救済の核心をなしている。
の結びつきが断たれていないことを示しているが、苦悩や罪がそのままの姿で聖なるものに特化され行く過程乙そグ
彼は﹁パlpア﹂や﹁紳と舞ひめ﹂などの詩において、すべての聖域から閉め出された最下層の人種にも決して紳と
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