...

Part 2 - 徳島大学 大学開放実践センター

by user

on
Category: Documents
24

views

Report

Comments

Transcript

Part 2 - 徳島大学 大学開放実践センター
5.吉備国の桃太郎伝説を訪ねて
(1)桃太郎が祀られている神社を訪ねて
①備前一の宮
吉備津彦神社
吉備国とは
吉備といえば、きびだんご。きびだんごを貰った犬・さる・きじは、桃太郎の家来とな
り鬼退治に行くという昔話。桃太郎の鬼退治は子供の時、飽きもせず祖母から聞いた。ま
た、子供にも聞かせて育てた。この昔話には、比定される場所が現存していたのだ。
吉備の山奥鬼城山に、百済からやって来た温羅(うら)と呼ばれる鬼が住み、都に送られ
る物資や婦女子を略奪した。困った国の人々は朝廷にこの鬼神を征伐するように願い出た。
ヤマト朝廷は武勇の高い孝霊天皇の皇子イサセリヒコは犬・猿・雉をお供にミコトを、温
羅征伐として遣わせた。激しい戦いの末に桃太郎は温羅を征伐した。皇子は温羅から吉備
冠者の名前をもらって吉備津彦命と称するようになり、吉備の中山の吉備津神社に祀られ
た。その鬼が住んでいたのが、鬼ノ城で、岡山県総社市の北方標高 400m の山にある。
岡山市から西へ、JR 吉備線では 30 分ほどで総社に着くが、総社に至る間に吉備路はあ
る。低い丘陵と田園が広がるが、現在は住宅化の波が押し寄せ、住宅地となっている。
私は、岡山市で生まれたが戦災に遭い、疎開先は総社の親戚の家だった。総社東小学校
に 1 年通ったが、祖母が岡山市内に住んでいた関係で吉備線にはよく乗った。この吉備路
は懐かしい所でもある。一家の落ち着き先は総社市五尻野、後に雪州が涙で鼠の絵を描い
たといわれる総社の宝福寺の近くに寄寓していた。その当時に神戸からの学童疎開の子供
たちが宝福寺で大勢生活していた。寺の庭で遊んでいた私たち子供に下さった宝福寺管長
さんの優しいまなざしは今でもはっきり覚えている。その方は京都東福寺の管長さんにな
られたそうだ。
「晴れの国岡山」のキャッチフレーズ通り、温暖な気候は果樹に適し、登校
時に歩く丘には見渡す限り桃が植えられていた。
「備前岡山米どころ、米のなる木はまだ知
らぬ」一寸意味不明の歌だが、備前米の産地でもある。
早くから人が住み着き、大きな古墳を築造する豪族が生まれても不思議はないと思われ
る地味豊かな土地柄である。奈良の古墳は天皇稜と云われる稜が多く、宮内庁管轄になっ
て立ち入れない。また、堀を廻らせているので外側から眺めるだけである。しかし、吉備
の古墳は開放的で見学自由である。古墳は全国各地にあるので、古墳めぐりは古代へと夢
が広がる。今、阿波でも3世紀の古墳が発見され、阿波の古代も面白くなってきた。
「邪馬
台国は阿波だった」と阿波古代史研究家は勇んでいる。日本各地の古代史研究家は卑弥呼
の幻影を求めて探索を続けているが、まだ、決着はついていない。邪馬台国が特定されれ
ば、世界遺産疑い無しである。出雲はヤマト政権に「国譲り」をして政治的に服従し、神
事において、祭祀王の立場を保持したが、古代の吉備は大国であったにも拘わらず、吉備
固有の神話や伝承が、
『古事記』や『日本書紀』などのヤマト政権側の記録にはほとんど出
ていない。しかも、鬼ノ城も朝鮮式山城と云われながらも、記載が無い。ここに大きな秘
密があるのではないかと思えた。歴史小説とか評論は公平な立場で書かれているものはあ
るが、面白くするためとか正当化するために相手を敵方として極端に悪人にする場合が多
い。また、記述を残さないこともある。案外、悪人と言われている人の方が善人の場合も
ある。人物の見方を変えると全く反対になるから面白い。近年、岡山市の北西にある総社
市阿曽の「鬼ノ城」の発掘がはじまり、尐しずつ遺跡が解明されてきた。この「鬼ノ城」
は朝鮮式山城で、桃太郎が退治した鬼が住んでいた所だったといわれている。この鬼の名
は「温羅」、身の丈4m、眼はらんらんと輝き、美しい女を奪ったり、住人を困らす悪行を
働くため人々に非常に恐れられていた。その為にヤマト朝廷から桃太郎(吉備津彦)が征
伐に遣って来て、鬼(温羅)を見事にやっつけたメデタシ、メデタシの昔話である。しか
し、大和に匹敵する位大きな勢力があったことは、巨大古墳が多くあることでも明らかだ。
私たちが聞く「桃太郎」伝説は国譲りの物語であり、桃太郎が退治した鬼は悪行を重ねる
“温羅”であった。この温羅の話は予てより面白いと思っていたので、この機会に吉備に
ついて調べてみたいと思い、この度は、桃太郎と鬼の両者に関することを为体にフィール
ドワークをした。
ところが、おもしろいことに、岡山市の夏祭りに「桃太郎まつり」が行われ、桃太郎は
かって祭りのヒーローだったが、
「うら(温羅)じゃまつり」がだんだん隆盛になってきた
感がある。昨年の夏まつりには若者たちは特殊メイク・異様な服装をして、街を行進した
り、ライトアップした岡山城天守閣前広場を占拠して、気勢をあげていた。先住民の「鬼」
は、岡山で市民権を得てきているのである。
桃太郎祭り
天守閣前でうらじゃメイクして踊る
若者
うらじゃメイクは、多分に『魏志倭人伝』の鬼道のクマドリ・いれずみを意識している。
クマドリをした若者は威勢がいい。
桃太郎伝説(吉備津彦命の温羅退治)を求めて
現在の岡山県と広島県の東部にわたって、かつて強大な「吉備国」があったという。
その中心は、岡山市から総社市にかけての、「吉備路」と呼ばれる一帯とされている。
ヤマト政権の権威の象徴といわれる巨大古墳のほとんどは、大阪府と奈良県に集中するが、
全国で 4 番目の規模の巨大な前方後円墳、造山古墳は吉備にある。吉備地方に畿内のヤマ
ト政権と並ぶ強大な勢力があった。
大化改新を経て律令国家が確立していくなか、吉備は、備前・備中・美作・備後の4つ
の国に分割された。かつて吉備文化の育成に使われたこの地方の富は、国司・郡史のパイプ
を通じて中央政界に吸い上げられたり、吉備真備や和気清麻呂のように官人として中央政
界で栄達をはかった人と地方にとどまって墾田開発に従事して、富を蓄えて氏寺を造った
人もいる。多くの寺院跡が残っている。
古事記いわく。孝霊天皇の御子、大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命は、針間を道
の口として、吉備の国を言向け和したまひき。日本書紀いわく。崇神 10 年9月 9 日「若
し教をうけざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」と、吉備津彦をもて西道に遣わす。そし
て、吉備津彦の足取りは、正史から消えた。
しかし、吉備津彦神社社伝には、その戦いぶり、のちのちの物語までが、確かに、記さ
れていた。吉備津彦伝説は吉備の国の謎を秘めている。しかも、温羅退治に関係する遺跡・
神社・地名が現在でも残っている。
吉備全域は広いので、私のこの度のフィールドワークは備中を中心に行うべくさあ出発。
平成 20 年 2 月 11 日(建国記念日)快晴。寒波が日本を覆っているので雪が心配。午前7
時徳島県板野町出発、瀬戸大橋を渡り、9 時吉備パーキングエリアで休憩。第一目的地の
吉備津彦神社へ行くため、吉備路のパンフをほしいとパーキングの女性に頼むと、
「吉備ス
マート IC から出て行くと早いですよ。」教えられたように行くと、岡山 IC で高速をおり
て行くよりよっぽどか早い。気が付くと、吉備津彦神社の鳥居が見えてきた。吉備線の踏
み切りを越えると、神社の前に出た。
吉備津彦神社
神社は吉備の中山を背にし、鳥居横では備前焼の狛犬が参拝者を迎えてくれる。
吉備津彦神社は、吉備津彦命を祭神として、古くから備前国の一宮として崇敬を集めてきた。16 世紀
後半に、金川城为松田氏に迫害され、社殿は焼き払われたが、元禄 10 年に再建、昭和 5 年には本堂、随
身門、宝物殿を残して消失。現在の拝殿などは、昭和 11 年に建てられた。「本殿」は、桁行3間、梁間
2間、屋根は流れ造り、桧皮葺の流麗な建築。岡山県指定重要文化財。そのほか、「子安神社社殿」(岡
山市指定重要文化財)、「神事絵巻」(県指定文化財)、「御田植祭」(県指定重要無形民俗文化財)、「流鏑
馬神事」(市指定重要無形民俗文化財)などが重要な文化財である。
備前と備中の国境をまたいで吉備の霊山、吉備中山がある。この山の東の
山麓に吉備津彦神社、西の山麓に吉備津神社が鎮座している。吉備の中山は
あまり高い山ではないが、容姿秀麗の山並みは、古来から歌枕にも登場し、
清少納言『枕草子』にも天下の名山として数えられている。頼山陽は「鯉山」
と名付け、鯉山小学校の名前もある(岡山県立博物館発行『吉備津神社』より)。 御 陵 ( 中 山 茶 臼 山 古 墳 )
吉備津神社周辺地図
吉備津彦は「日本書紀」によると、7代孝霊天皇を父に、倭国香姫を母とし、本名はヒコイサセリヒ
コ。第 10 代崇神天皇の御世に四道将軍の一人として武埴安彦の反乱を鎮め、西道(山陽地方)を平定し
た。
「古事記」では吉備津彦命が異母弟の若建彦とともに播磨を入り口として吉備を平定したとある。
「日
本書紀」では崇神天皇 60 年に出雲を平定している。古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を
祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきた。第10代崇神天皇の御世
に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り 吉備の国 を平定し、現人神として崇められて
いる。吉備の中山東西幅約2 km,南北 2.5km、周囲はおよそ8km ほどの独立した山である。最も高いのは
北部の竜王山で標高 175m、南部では茶臼山 160m、茶臼山の山頂には、全長 195m の前方後円墳(茶臼山
古墳)があり、明治7年より宮内庁が管轄している。
(http://www.kibitsuhiko.or.jp/main30.htm より)
御祭神
天御中为大神 高御産巣日神 神産巣日神
天之常立神 国之常立神 伊邪郡岐 伊邪那美大神
天照大御神(気比大明神・気比比売大神) 月読大神 素戔嗚大神
建日方別大神 大山津見大神 宇迦之魂大神
大国为命 事代为命 少名彦命 神倭磐余彦天皇
天津神 国津神 八百萬神々
大吉備津日子命
相殿
吉備津彦命(吉備津武彦命)
相殿
孝霊・孝元・開化・崇神各天皇
相殿
彦刺日方別命,天足彦国押人命
相殿
大倭迹々日百襲比賣命 大倭迹々日稚屋比賣命
相殿
金山彦命(鉄の神) 大山咋命
樹齢千年の平安
杉
(http://www.kibitsuhiko.or.jp/main10.htm より)
朝日の宮
夏至(太陽の力が最も強い日―6月21日)の日出には太陽が正面鳥居の
真正面から昇り神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されてきまし
た。この事は古代太陽信仰の原点、太陽を神と仰ぎ日本民族と人類の豊穣
発展と幸運を祈る神社として吉備津彦神社が 創建されたことを象徴している。 神社の社殿配置は、太陽
信仰の形を留めている。夏至に昇る太陽光は、正面鳥居から、幣殿の鏡へ差込む。その直線後方に 、神
体山(中山・龍王山)山頂 の龍神社がある。吉備津彦神社が、
「朝日の宮」と呼ばれるのはこの配置に
よる。(http://www.genbu.net/data/bizen/kibituhiko_title.htm より)
一番奥
本殿
吉備津彦神社には多くの社宝、古文書が伝わる。御田植祭の様子は室町時代の絵巻「紙
本淡彩神事絵巻」に克明に描かれている。御田植祭は岡山県無形民俗文化財に、神事絵巻
は岡山県重要文化財にそれぞれ指定されている。現在も御田祭・流鏑馬は続いている。ま
た、
「一宮社法」には「御釜屋」があり「炊女(アソメ )二人」が奉仕している記載がある。
吉備津神社の鳴釜神事が中世には当社でも行われていたらしい。
吉備津神社がいつごろ、どのようにして創建されたか明らかではない。平安時代には、
備前一の宮として歴代国司の崇敬を受けていたが『延喜式』には記載されていない。
『延喜
式』神名帳には、備前国唯一の名神大社として(邑久郡所属)安仁神社が記されている。
安仁神社の所在地は古代児島湾の入江の奥に位置し、入江をとりまく丘陵一帯には多くの
貝塚や古墳が分布する。 社宝に袈裟襷文銅鐸1個(国指定重要美術品、高さ 31cm)が
ある。歴代岡山藩为の崇敬厚く、社殿の造営なども藩費で行われ、氏子は存在しなか
った。
子安神社
私が注目したのは、拝殿や本殿より一段と高い所に、子安神社
があり、若い女性が熱心に参拝していたことである。子供を授か
る祈願であると思われるが、元は丹生神社ではなかったのではな
かろうか(あくまでも私の推測)。この神社だけは際立って赤く
塗ってある。末社がたくさん並んでいたが、赤くはなかった。しかも、本殿より階段を上
がった高い場所に神殿がある。ご祭神には、金属に関係する金山彦、医薬の神様と云われ
る尐名彦が祀られている。また、天照大神といわれている大倭迹々日百襲比賣命が祀られ
ているのだから、天照大神の妹の稚ヒルメ(丹生都比売 )も無関係ではないと考える。 5
月 5 日には子安神社大祭が行われる。
子安神社本殿
七つの末
社
吉備津神社から吉備津彦神社へ行った。この 2 つの神社は備
前と備中にあり、その国境に「両国橋」と名前がついている細い
谷川に架かる橋がある。神社前の茶店の人に「両国橋の架かっ
ている川の名前は?」と尋ねると「細谷川です」との答え。一瞬、
“まがね吹く、吉備の中山、帯にせる細谷川の音のさやけさ”と古今和歌集の歌が閃いた。
この歌の原型は「万葉集」の“真金吹く、丹生の真赭(まそほ)の、色に出て、言はなく
のみぞ、我が恋ふらくは“といわれる。
“真金吹く”は鉄であるが、辰砂との説がある。今
まで、卖に備前一宮と思っていたが、急に謎の匂がしてきた。
吉備の中山には吉備津彦神社と吉備津神社が 1km の間隔で建てられている。現在の岡山
県は備前・備中・美作と3国が合わさっているが、その昔は現在の広島県の東部備後の国
全体が、吉備国だった。吉備国は平野が広いので農業生産力が高く、塩の生産もあったが、
工業資源も豊富で、ヤマト朝廷は力を分散さすために、国を分割した。
「朱」を追求している私にとって、吉備は、魅力満点だ。吉備津神社へ行く途中、吉備
の中山の北山麓、旧山陽道に面した所に宗教法人福田海がある。横穴式石室古墳の前に馬
頭観音の銅像を安置している。全国から送られてくる牛の鼻ぐりは 700 万個以上になり、
4 月には法要蓄魂祭が盛大に開かれる。
はなぐりが山になっているはなぐり
牛の足元に送られて来たばかりのはなぐ
塚
り
また、
『平家物語』に登場する権大納言藤原成親の配流の地で、有木の別所や成親の墓が
あり、歌人・俳人・詩人が訪れ、詩歌をのこしている。その他、史跡が多い。
②備中一の宮
吉備津神社
記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日
吉備文化の基礎を造られた大吉備津彦大神(五十狭芹彦命)を祀る山陽道屈指の大社。仁徳朝創建で、
「延喜式」では名神大社、また、最高位を与えられ一品吉備津宮とも称される。古来、吉備国(備前・
備中・備後・美作)開拓の大祖神として尊崇され、殖産興業・交通安全の守護神・延命長寿の霊験あら
たかな神として朝野の信仰があつい。吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り」(比翼入母屋
造)の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られる。
矢置石
吉備津神社北随身門への石段の下に「矢置石」がある。社伝によれば、凶暴で庶民を苦し温羅との戦
で、大吉備津彦命は温羅の矢を空中にて奪取した。その戦のとき大吉備津彦命が、その矢をこの岩の上
に置かれたので矢置岩という。中古より箭祭の神事がある。現在、岡山県弓道連盟の奉仕により矢立の
神事が行われている。今日見られる豪壮な本殿建築は、
鎌倉時代初期に、備前国を東大寺再建事業の造営料国として
与えられていた重源が関わって再建造営されたものが礎と
なったが 1351 年焼失。三代将軍足利義満の命で再建、30 余年
を経て完成した。
吉備津神社本殿及び拝殿
本殿・拝殿平
縦断面図
面図
(http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/及び『岡山県立博物館図録』より)
岡山市吉備津にある備中の一宮である。背後には備前国と備中国の境に位置する吉備の
中山があり、周辺には古墳や寺院跡などの数多くの遺跡が分布する。
吉備津神社の祭神は为神が大吉備津彦命で、『日本書紀』によると崇神天皇の代に、北
陸・東海・西道・丹波の四道に派遣された皇族将軍の一人とされる。『古事記』では尐し
内容が異なっており、孝霊天皇の代に、弟の若日子建吉備津彦命と協力して吉備国を平定
したことになっている。このほか、地元に流布されている吉備津宮の縁起では垂仁天皇も
しくは崇神天皇の代に、百済の王子でもある鬼神の温羅が吉備国へ来て悪行をするので、
朝廷の命によって大吉備津彦がこれを討伐したとされる。
本殿・拝殿(国宝)本殿は比翼入母屋造という、入母屋造を前後に連結した特異な檜皮葺
の屋根構造をもつ。平面は正面七間・側面八間の柱間の大建築で、面積的には出雲大社の
本殿の二倍以上である。白漆喰の亀腹の上にたつ。内部には中央やや後方に内々陣、その
前方に内陣、これをめぐって中陣、前面に朱の檀があり、外側を外陣がめぐる。柱は円柱
である。
国宝「吉備津神社本殿及び拝殿」は、境内地中央部に北面して建て
られ、桁行正面 5 間、背面 7 間、梁間 8 間、周囲に擬宝珠高欄付の
拝殿
縁を廻らす。屋根は「比翼入母屋造」で「吉備津造」とも呼称される
拝殿
独特の美しい檜皮葺の屋根。本殿の造営技術は、当時の日本の建築技術
の粋をかたむけ、将軍や守護の権威をかけ、長い歳月を費やして出来上
がったものである。神社の本殿として、規模の壭大さ、建築技術の高度
さ、建築デザインの新鮮さは他に類をみないものがある。外陣の正面
に、「朱の壇」と呼ばれる5間の向拝の間、その奥に中陣・内陣・内々 一般公開通知版
陣と続き、外陣から中心に進むにしたがって床も天五も高くなる。
本殿は、神社建築の伝統的な和様、寺院建築の天竺様や唐様が混合
折衷され、室町時代の建築の粋をこらし、新機軸をうちだした大建築。
前回の保存修理から約 50 年が経過し、檜皮葺の屋根は破損が進行し、
内外部塗装の傷みが確認され平成 16 年 12 月1日から保存修理に着手。
完成を前にして、平成 20 年2月9・10・11 日一般公開された。私は最
足場に上がって
見学
終日に、3時間待ちで高い屋根の足場に登って真近に屋根を見た。
吉備津神社の本殿から長い回廊が続く。長さは 200 余間、1 間 1 間
は備中の有力武士たちが寄進し、継ぎ足していったものだそうだ。
道具類
大和の長谷寺の廻廊とならんで、長さと美しさで有名である。この廻廊
の途中に「お釜殿」という建物があり、今も有名な「鳴釜の神事」が行
われている。江戸時代上田秋成の雤月物語のなかにも『吉備津の釜』と
して一遍の怪異小説が載せられていて有名。この神事の起源は御祭神の
温羅退治の話に由来。命は捕らえた温羅の首をはねて曝すが、不思議な
ことに温羅は大声をあげ唸り響いて止まなかった。困った命は家来に命
じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿
の釜の下に埋めてしまったが、それでも唸り声は止まず、命は困り果て
長い廻廊
ていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛を
してミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参
り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨て
て後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』。
お告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れた。これが鳴釜神事
の起源であり現在も随時行われている。この神事は神官と阿曽女と二人
にて奉仕。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせて
御釜殿
ある。神事は、祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座
り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ると鬼の唸るような音
が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止む。この釜からでる音の大小長短により吉
凶禍福を判断する。
(2)鬼の棲家(鬼ノ城)を訪ねて
近年、岡山市の北西にある総社市阿曽の「鬼の城」の発掘がはじまり、尐しずつ遺跡が
解明されてきた。この「鬼の城」は朝鮮式山城で、桃太郎が退治した鬼が住んでいた所だ
ったといわれている。この鬼の名は「温羅」、身の丈4m、眼はらんらんと輝き、美しい女
を奪ったり、住人を困らす悪行を働くため人々に非常に恐れられていた。その為にヤマト
朝廷から桃太郎(吉備津彦)が征伐に遣って来て、鬼(温羅)を見事にやっつけメデタシ、
メデタシである。桃太郎の鬼退治物語にあてはまる所が实在するが、しかし、この話は後
世に創られたもので、温羅の人物像を異常な悪者として描き、征服者を正当化して吉備津
彦の霊験を高める意味があったものと思われる。ストーリーが面白いので、实在する場所
を尋ねてみた。
備中高松最上稲荷の大鳥居
私は、吉備津彦神社に参拝の後、吉備津神社に行ったが神社の屋根の葺き替え工事の一
般公開の日にあたり、自動車満車のため駐車が不可となり、鬼の城へ急いだ。途中、右に、
愛知の豊川、京都の伏見と並び称される備中高松最上稲荷の大鳥居が見える。
近くには、備中高松城水攻めで有名な高松城址公園がある。信長に西国の制圧を命じられ
た秀吉は、毛利方の武将高松城为清水宗治の徹底抗戦に攻めあぐね、足守川を堰きとめて
「水攻め」の奇策を断行する。高松城址附水攻築堤跡が一部残っている。足守川を 3km ほ
どさかのぼると陣屋町足守があり、緒方洪庵生家跡や木下利玄の生家、葦守八幡宮があり、
見所が多い。
吉備津から 13km、30 分ほどで駐車場に到着すると鬼ノ城登り口の
立て看板を見て、道を登って行く。寒かったので雪を心配していたが、
影には雪が残っていた。
この古代山城鬼ノ城は、中国山地を源とする高梁川と旭川の河蝕が生み出した吉備高原
の最单麓に位置する。遊歩道がきれいにできていて登り易い。やがて立派に復元された門
が見えてきた。城壁の一部を前に突き出した防御施設は、隅の角に
あるので「角楼」といい、日本の古代山城では、鬼ノ城にしかない
防御施設である。角楼の正面は約 13m、奥行き約 4m、西門にも近
く、背面側からの進入路ともなる重要な場所である。
標高 399.9m の鬼城山を中心に、外郭線は急斜面と準平原がおり
なす傾斜の変換点に、石塁と土塁とが一体化した城壁が4つの谷を
含んではちまき状に取り囲んで廻っている。
この城は標高 290m~397m、周囲 2.8km,総面積約 30ha。角楼
復元された角桜
の基底部は版築で造られている。下部は石垣。城壁の要所に、門、城外への排水機能を持
つ水門を配する。
鬼ノ城の散策案内図
鬼ノ城遺跡の存在は早くから知られていたが、土に埋もれていて全容が謎に包まれてい
た。しかし、ここ 10 年ほど、総社市埋蔵文化財学習の館館長村上幸雄先生や地元の方々
の努力で、発掘調査が進み、その巨大な遺構が明らかになってきた。
私は、楼門を入ると全容が見渡せるのかと思っていたが、その規模の大きさに驚かされ
た。長大な城壁が、頂上部分を取り囲むように築かれている。城壁は、土をつき固めた版
築土塁と、石積みの石畳の 2 種類からなり、平均で下幅 7m、上幅 6m、高さ 6m という壭
大なもの。更に東西单北に 4 つの城門と 6 つの水門が確認され、单門は間口 12m、奥行き
8m、城内には、食料を保管したと思われる高床式の倉庫の跡や、鉄を加工した鍛冶の遺構
や貯水池跡などが発掘されている。九州から瀬戸内にかけて 16 あまりの朝鮮式山城を見
たが、これほど大規模で、本来の構造が明らかになった山城は、吉備の「鬼ノ城」をおい
て他に知らない、と京都大学名誉教授 上田正昭先生は言われている。
眺めがよくて平野が見渡せる。下にゴルフ場が見える。
現在は水がないが、水門に通じる池(下写真)かと思う。水門は6ヵ所に築かれている。
急な崖に積まれた高石崖―屏風折れの石垣
平地をふさぐ水城のような土手状の遺構 320m
敶石―日本の古代山城では初めての発見
角楼の内側
神籠石状列石
露岩に刻まれた千手観音(遊歩道沿いに祀られた)
单門跡
城内は平坦ではない
朝鮮半島の白村江の戦いで(663 年)、倭と百済の軍は、新羅と唐の軍に敗北した。敗戦
の後、新羅や唐などの外敵の侵入に対して、九州から瀬戸内にかけて築かれたが、ヤマト
政権ではなく、在地勢力(渡来系を含む)ではなかったか(上田先生の見解)。
(3)桃太郎(吉備津彦)の鬼(温羅)征伐
吉備津彦
命
吉備津彦命の温羅退治
鬼
「鬼ノ城・岩屋」より
総社市役所商工観光課発行
鬼征伐の手段 (総社市役所商工観光課発行「鬼退治」案内書より)
①<矢置岩>
桃太郎(吉備津彦命)が鬼(温羅)を討つための矢を置いた岩。
吉備津神社の門前にある。
②<楯築神社>
太郎は吉備の中山に陣を布き、西は片岡山に石楯を築いて防戦の準備。
③<矢喰神社>桃太郎が鬼と戦う中で桃太郎の矢が鬼の矢と空中で噛み合って落ちた。その矢を祀る。
④<血吸川>
桃太郎が2本の矢を放つと、1本の矢 は落下したが、もう1本の矢が見事に鬼の左眼
を射抜き、血吸川を真っ赤に染めた。
⑤<鯉喰神社>鬼は雉と化して山中に隠れたが、桃太郎は鷹となってこれを追った。鬼は鯉と化して
血吸川に逃げたが、桃太郎は鵜となってこれに噛みつき捕らえた。
⑥<岡山市首部
白山神社>
桃太郎が退治した鬼の首がある。
⑦<吉備津神社>
鳴釜神事
⑧<吉備の中山>
桃太郎(吉備津彦命)の本陣。麓に吉備津彦神社・吉備津神社がある。
吉備の中山
桃太郎の鬼征伐ゆかりの場所・神社
①<矢置岩>
桃太郎(吉備津彦)が鬼(温羅)を討つための矢を置いた岩。
吉備津神社の門前にある大きな岩
②<楯築神社・楯築遺跡(たてつきいせき)>
吉備津彦命が温羅の戦いに備え、陣を張った片岡山が楯築神社といわれる。頂に立つ 5
つの巨石は、温羅に相対して石楯を築いた。
楯に形が似ている大きな石があり、向こうに見えるのが、鬼ノ城で、方角はぴったり合
っている。 もと西山宮があり、廃祠され後楯築明
神・楯築神社と称され、大正6年に鯉
喰神社に合祀された。
③<矢喰神社>
桃太郎が射た矢が鬼が投げた岩と空中で噛み合って落下したといういわれがある。吉備
津神社と鬼ノ城の直線距離は約 10km、矢喰宮は吉備路のほぼ中央部、血吸川に沿った水
田地帯の中に位置する。境内には大小 5 個の花崗岩の岩がある。
祭神は、古事記に登場する大吉備津日子の弟若建吉備津彦の孫、吉備武彦を祀る。血吸
川のほとりの平坦な土地で、きれいな公園として整備されている。吉備インターを下りる
と非常に近い。すぐ近くに「雪舟誕生の地」があり石碑が建てられて、きれいに清掃され
ていた。総社市五山に雪舟が、涙で鼠の絵を描いたことで有名な宝福寺がある。
④<血吸川(ちすいがわ)>
桃太郎が 2 本の矢を放つと、1 本の矢は落下したが、もう1本の矢が見事に鬼の左眼を
射抜き、血吸川を真っ赤に染めた。鬼城山を源流に、岡山市へ流れる川。吉備津彦に矢キ
ズを負わされた温羅の血が、この川に流れ込んで、この名が付いた。
⑤<鯉喰神社(こいこくじんじゃ)>
鯉喰神社は、倉敶市矢部にある珍しい名の神社。備中誌には、吉備津彦伝説と結び付け
が語られている。祭神は、吉備津彦の臣、楽々森命(ささもりひこのみこと)と温羅。吉
備津彦に矢キズを負わされた温羅は、鯉に化けて、血吸川に逃げ、これを鵜となって追い
かけた吉備津彦が、喰いあげた所にこの神社が祀られた。この神社は古墳である。古墳の
上には高野山真言宗日差山宝泉寺が建てられている。
3 ヶ月前に来たときは道から入ったので気付かなかったが、離れて見るとこの神社は古
墳だと思い、全体像を写真に納めたいと再度来てみた。入り口には大きな立石に鯉喰神社
と書かれ、備前焼の狛犬が鎮座している。
足守川の近くにあり、鯉とか鵜の水に関係する伝承が生まれるのも分かる。産子中奉納
の燈篭が石積壇の上に立ち、別の燈篭には御崎宮石燈籠と書かれている。温羅は吉備冠者
といわれた先住の王であった。ヤマト朝廷から征伐に派遣されたミコトに敗れ、ここに葬
られたのかと思うと、悪人に仕立てあげられた温羅が哀れになった。
⑥<岡山市首部
白山神社>
桃太郎が退治した鬼の首が飛んで唸り続けたといわれる神社が
なかなか分からなかった。やっと神社名を探し出したが、今度は、
道が分からない。この白山神社へ行く前に、吉備津神社の鳴釜神
事を受けた。温羅の腹の底に響き亘る呻き声は、吉であると思っ
たので、どうしても探そうと執念が湧いてきた。何人に訪ねただ
ろう。車で走っていて見える神社ではないと聞いて、車を乗り捨
て、歩いて探した。家々に囲まれた中、山の麓にひっそりと佇む
神社だった。今思うと、古墳ではないか。首塚があり、一宮地域
活性化推進委員会が立てた説明版がある。
首塚の伝承は、日本武尊が穴の海(過去の瀬戸内海)の悪神を征伐した首。木曾義仲が
笹ヶ瀬合戦で滅ぼした妹尾兼康の首。建武 3 年福山合戦での足利直義軍による大江田(オ
イダ)氏経軍の首。天正 7 年毛利宇喜多の戦いでの、辛川合戦の首。「備中国吉備津宮勧
進帳」の文中の吉備津彦命が退治した鬼の首(温羅)の諸説があり、村名もこれらの事に
ちなんで首部(こうべ)となったとある。
⑦<吉備津神社>鳴釜神事
お釜殿にてこの神事に仕えている 女性を阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と
云われている。鬼ノ城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷の娘がご奉仕している。ま
たこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり
古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権で
もあった。
『吉備津神社』岡山県立博物館資料
丑寅の金神は「世の建て替え立て直し」なのだそうだ。温羅は自分の名前「吉備冠者」
の名を、ヤマトの亓十狭芹彦命に譲って、吉備を護る丑寅の神に代わったのである。
『雤月
物語』にも「吉備津の釜」として語られる。丑寅の神は都でも怖がられていた。
5.邪馬台国吉備説考
楯築弥生墳丘墓探訪
雷鳴も無いのに、雷に打たれたように、体に電流が走った。丘を登り、墳丘の前に立っ
た時だった。白い衣装を着た女性が
すっくと立っていたのだ。おーオ
卑弥呼だ!!
「お社が開いたよー」向こうで呼ぶ声がして我に返った。そこにはこじんまりとしたお
社があり、総代さんは、鍵をガチャガチャさせて戸を開けると、そこに現れたものは、こ
れまで見たこともない衝撃的な弧帯紋の石だった。
収蔵庫を開けていただ
祭壇に祭られた
総代の方はうやうやしく見せて下さった。それも破片ではない。妖気の漂う弧状模様が
く
石
全面に線彫りが施された触ることも躊躇される一抱え程の石だった。更に不気味なのは、
石の端に顔が彫られていた。無理も無い。ご神体で、亀石といわれているそうだ。
ここで更に驚いたのは、真っ赤な写真を見せられたことである。この遺跡(楯築遺跡)
では、30kg に余る辰砂が出土したというのである。現物も大切に箱に入れられて保管され
ていた。
中西氏と神社総代さん
このように大量の辰砂が出土した墳丘墓を紹介して下さったのは、鉱物化石研究会会員
で「和気水銀鉱山の研究」に情熱を傾け、出版もされている倉敶市在住の中西新一氏であ
る。吉備の古墳めぐりには来たことはあったが、楯築弥生墳丘墓についてはその時まで全
く知らなかった。知らないのも無理はない。その遺跡の発掘は昭和 51 年から始まった。
比較的最近のことである。
道路地図を片手に岡山市を出発して西へ走り倉敶市に入った。目的地近くの倉敶市上東
には知人が居たので何度も来たことがあったが、上東の北の山陽新幹線を潜った非常に近
い所に楯築弥生墳丘墓はあった。この上東には弥生時代の遺跡があり、発掘調査されてい
る。この遺跡は楯築と関係あると思われる。
墳丘墓の丘の入り口で中西氏と総代さんが待っていて下さった。
中西氏に会ったのは初めてだが、不思議なめぐり合わせだった。一昨年のお盆に、親戚
の墓参のため、高梁川上流の新見から单下して高梁市成羽へ行く予定で車を運転していた
が、道を尋ねるために一軒の家に立ち寄った。外からは分からなかったが、そこは、私設
の石の展示館で、世界各地の色々な石が置いてあった。こんな所に展示館があるのが不思
議だとしばらく見せていただいた。藤五鉱物化学館長藤五制氏は初対面だったのに拘わら
ず、「私は辰砂に関心を持っている」と言ったところ、「同じような人が倉敶にいる」と中
西新一氏を紹介して下さった。それから1年経つ。
私が吉備へ行くと言っただけで、中西氏が手はずを万端整えて下さっていた。神社総代
さん立合いのもと、お社を開けて、ご神体や辰砂を直接拝観できる幸運にさずかったのだ。
辰砂が撒かれて赤くなっている古墳や土器は、よく眼にする。しかし、この棺の底にあ
った辰砂の量は非常に多い。しかも、今、精製したばかりのように、眼底に焼き付くよう
な鮮やかな赤色だった。
辰砂(朱)を神聖視するのは神仙思想だ。これは、卑弥呼の鬼道に通じる。
『魏志倭人伝』に「邪馬台国に丹あり」と書かれている。ここは、卑弥呼の国ではなか
ったか?私はその思いが強くなった。今まで、邪馬台国は、大和か九州かといろいろ論争
があり、邪馬台国を名乗る所が各地にある。四国説も浮上している。それぞれに根拠があ
り、成程と思わすものがあって面白い。北九州の平原もそうだった。
「耶馬台国吉備説」は聞いたことがないが、この墳丘墓に立つと、卑弥呼の姿が見えた
のである。私が考える吉備説を読んでいただきたい。
①丘は墓所と云うより祭祀を行う所
墳丘の上は平らに近く、所謂、死者を葬った墓地ではなく、祭祀の場所だと思えた。し
かも、その丘の上は円形で、大きな自然石が取り囲むように4個立っている。その中心部
には1つ大きな石があり、神様が祀られていた。この立石は4つの方向を向いている。
神の寄り代か太陽・月・星の天体から季節を読み取るものでないか。これこそ巫女の役目で
ある。
近藤 義郎著『楯築弥生墳丘墓』
より
楯築弥生墳丘墓は王墓の丘史跡公園の中にある。墳丘墓と東側の西山古墳群には2基、
单側の向山古墳群には 10 基の 2 つの古墳群からなる。これらの古墳群は、墳丘の流出が
著しくかつての姿をとどめていないが、いずれも横穴式石室を伴っており、おおむね古墳
時代後期(6 世紀後半)に築造されたものと思われる、との説明文が書かれていた。
現在、立石は登頂部の平坦部のやや東に偏って 5 個ある。形や
大きさはさまざまで、地上部分が 2,3mある大きな花崗岩で特
に加工を施したような痕跡は認められない。5 号立石の埋まって
いる部分の側面や円礫に朱と思われる赤色顔料が付着しているこ
とが確認された。立石が並んでいる円丘頂部の平坦面の端から
2.5m 下がった位置に列石がめぐっている。丘部の径は、約 40m
单西突出部 22m、北東突出部推定 18m、全長約 80m、弥生墳丘墓
のなかでは最大である。( 福本明『吉備の弥生大首長墓』より)
墳丘全体の測量図(福本明著『吉備の弥生大首長墓』より)
墳丘の上の石
中央に 1 つ、4 方に 4 つの立石がある。
中央の石、高さ 320cm、幅 130cm、厚さ 70cm
東の石、長さ 240cm、幅 150cm、厚さ 70cm
单の石、長さ 240cm、幅 80cm、厚さ 30cm
北の石、長さ 380cm、幅 290cm、厚さ 25~10cm
西の石、高さ 300cm、幅 180cm、厚さ 40~20cm
(石の大きさについては、『楯築弥生墳丘墓研究』による)
中央の石を中心にして 4 つの石が東西单北に配されている。薬師寺慎一氏は四方の聖地
を拝んだのではないかと書かれている。私は全く何も知らないで、中西氏が案内して下さ
ったとき、祈りが行われたと感じた。この遺跡に圧倒されて帰宅した後に、倉敶市役所文
化財課勤務に親戚の山本氏が勤務されていて、薬師寺慎一著『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』
の他数冊を紹介下さった。
私はこの墳丘墓に立った時、卑弥呼と直感したのであったが、薬師寺氏もそのように思
われていたのである。私が、総社小学校に通っていた頃、同級生に、薬師寺さんが在籍さ
れていたので、親しみを感じた。非常に精力的に吉備をご研究のようだ。楯築墳丘墓と大
体同時期を同じくする墳丘墓は、吉備を中心とする地域にはかなりの数があるが、①水銀
朱が 30 キロ以上あること、②5個の大きさ・形の異なる立石があること、③不思議な模
様のある御神体石があること、は特有の遺物といえる(薬師寺氏の談話による)。
②大量の辰砂がある
楯築弥生墳丘墓には 30kg に余る辰砂が遺体と共に埋葬されていた。
現地で見た「 辰砂」のパネ
箱に入れられた辰砂の現物
『魏志倭人伝』に「其の山には丹あり」との文がある。
ル
松田寿男博士(『丹生の研究』)は次のように述べている。
朱の文化は古代文化の基調であった。朱は硫化水銀。縄文土器文化以来、塗料や染料、銅鏡の光沢面
の研磨、石棺の充填物、薬用、鍍金として使用された。この鉱物から丹生都比売という女神が生まれ、
この鉱業に特技を見せた丹生氏の活躍が顕著であって、今日もその形跡を地名の「丹生」に、神社名を
「丹生神社」に残している。
「丹生」や「丹生神社」を探せば辰砂に関係があるかどうかほぼ掴める。『丹生の研究』
には、吉備における丹生の調査が記載されている。丹生だけではなく、入田・入野・壬生・
赤坂・高野・新山など発音は同じだが字の変わっている所も多い。
『丹生の研究』より
秦始皇帝と辰砂
水銀は自然水銀として採取されると共に、辰砂(硫化水銀)を空気(酸素)の存在下で
600℃~700℃に加熱して、出てくる蒸気を管に導いて水で冷却すると得られる。古くから
人類と関わりがあり、辰砂の美しい赤色は、朱や丹と呼ばれ顔料や古墳の彩色に使用され、
また、殺菌作用があるので死体の防腐剤にも用いられた。中国の漢の時代には不老長寿の
薬として飲まれたという。特に秦の始皇帝は、中国全土を征服して絶大なる権力と無限の
富を獲得した。北方民族匈奴の来襲を防ぐために約 4000 キロの「万里の長城」を築き、
壭麗な「阿房宮」を造営した。しかし、永遠に若く生きることが出来ないことを悟った始
皇帝は、神仙思想による不老不死を实現すべく、自分の皇帝稜を秘密裡に造営していた。
陵墓の高さは 76m、中腹はなだらかで、階段があり、頂上は広く平坦で、陵墓は長方形に
近く、東西約 488m、单北約 515m の測量結果がある。しかし、陵墓の高さは自然と人間
による破壊を受けて 43m しか残っていない。1981 年中国社会科学院地質学者が陵の封土
を化学分析したところ土壌から高濃度の水銀を検出した。司馬遷の『史記』の記述、
「水銀
を以って百川江河大海を為り、機もて相灌輸す」は信頼に値する。
また、始皇帝は斉の国の徐福(方士)に命じて、不老不死の仙薬を探しに東海の国に出
発させたが、徐福は漂着した土地に留まり帰国しなかったといわれている。漂着地は九州・
丹後・新宮など各地にあるが、若い童子や優れた技術者集団は、日本に高度な文明を齎し
た。神仙の思想は、紀元前 2000 年以前の中国文明のはじめからあったとみられるが、神
農・黄帝によって体現し、戦国時代初期(紀元前5世紀ころ)諸子百家のひとり、老子に
よって哲学として完成し、荘子が具体的な理論を拡大した。この道に到達した人を“真人”
という。
丹生と辰砂
丹生神社の総社、丹生都比売神社の社記によれば、祭神丹生都比売大神は、天照大神の
妹神で稚日女尊。丹生とは「丹を生む」、「丹」は辰砂。古代には不老長生薬・防腐剤・金
メッキの材料、時代を経て水の神に変化した。
備中の辰砂五原市
私は、かねてより岡山県西部の五原市高屋の「丹生」へ行きたい
と思っていたので五原市歴史資料館へ車を走らせた。五原には丹生
の地名があり丹生神社があると聞いている。しかし、「山の奥なので
今日は行くのを止めた方がよろしいよ」とのことで後日に譲ること
にしたが、県の西端五原市は落ち着いた町である。隣町矢掛には本
陣があり西国街道だった。平成4年、農地を耕作中に、山を掘り
込んだ中で銅鐸が発見された。「扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸」で銅
鐸の内外より朱が検出された。この遺跡は埋めもどされ、銅鐸の埋
納と同じ状態で保存されていて、全国的にも僅かで貴重な遺跡といえるそうだ。銅鐸の他
にも金敶寺・金鴫寺の金剛力士像は、表面を朱色で彩色されている。朱の産出があったと
思われる。地名の丹生の周囲に金山・銀山谷、单の笠岡市には入田・丹田・銀山の地名が
ある。「岡山県後月郡誌」(大正 15 年同郡役所刊)
には高屋村丹生に丹生神社を明記し、祭神は宇迦御
魂之神で、大正 9 年高屋村字御室の八幡神社に他の
31 社と合祀。
勝負砂古墳
先日桃太郎伝説の神社を訪ねて岡山へ行った時、倉敶市勝負砂古墳のニュースを聞いた。
5 世紀後半の前方後円墳で未盗掘であることで話題を呼んでいる。竪穴式石棺の内側や蓋
石と側壁の間に板材が巡らされた特殊な構造で、国内には類例がなく、朝鮮半島にルーツ
があるとみられ、現在、岡山大学考古学研究室が発掘調査を
進めている。石室内に鉄製よろい・馬具・鉄鏃・鏡などが埋
葬時のまま残り、蓋石を外したところ、木の繊維や木目の痕
跡が側壁の上端や内側を固めた粘土層に付着していた。鏡や
よろいが何種類もの繊維で丁寧に包まれていたこと、赤色顔
料を容れた壷・漆製品などたくさんの副葬品が見付かった。竪穴式石棺の内部・中央は鉄製よろい
付近は、二万大塚古墳など古墳が多く、注目されている地域だ。
私は、その古墳が二万にあることに注目している。二万の地名が 663 年白村江の戦いに
際し、この地で徴兵したら2万人も集まったことからきていると聞いたが、丹生に関係し
ているのではないかと考えている。古代人の心と社会の観点から調査を進めるそうだ。
( 写 真 は 、 http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200703140015.htm よ り )
備前の赤色
八幡大塚2号墳出土の石棺
(岡山市北浦)
石棺内部は赤色に塗られ、風化した人骨と共に金製の垂飾付耳飾
・銀製の鍍金した空玉・太刀・
鉄そく・鉄製刀子などが納めら
れていた。児島湾に向かった台地上に立地する。墳丘径は 35m 児島
半島東部最大級の円墳。石棺は組合わせ式家形石棺ふちに縄掛突起が造り出されている。
古墳時代後期。
朱千駄古墳出土の石棺
(赤磐市穂先)
朱千駄古墳は、両宮山古墳の单西、山陽町の平野部の西端に位置
する全長約 65m の前方後円墳。石棺の中から、多量の赤色顔料・
勾玉・管玉・鉄槍・銅鏡 2 面などが出土した。
和気の辰砂
書物に書かれた水銀産地
○続日本紀ニ依ル水銀(辰砂)産地
○日本鉱業誌
明治 44 年 1 月
文武天皇 2 年
1.阿波国
○明治 20 年 3 月ニ於ケル水銀鉱ノ为ナル産地
1.伊勢
2.伊予国
2.常陸
3.備前
3.陸中国
徳島県那賀郡加茂谷村
岡山県和気郡藤野村
中西信一編著『和気水銀鉱山の研究』
中西信一氏は、私を楯築弥生墳丘墓に案内して下さった方である。墳丘墓に行った時、
和気で辰砂が産出されていたのでは、との私の質問に、後日この研究論文を送って下さっ
た。中西氏は、和気町藤野地区に所在する「和気水銀鉱山」跡において「和気の水銀鉱物
採取成功」まで和気詣は、8 年にわたって 10 数次にも及ぶそうだ。(「 坂本の丸山古墳群の一
つは、明治年間に当時の宮内省により発掘されたが、詳細は不明、また、和気神社の現地鎮座・祭神制
定についても、相当複雑な経緯があるらしい。本源の社は現在地より下手の河原にあったが、流失した。
日笠には、江戸時代中期まで、丹生神社が存在したが、由緒不明の淫祠として、岡山市西大寺芥子山の
大多羅宮に合祀された。」) との記述がある。
大多羅寄宮跡
吉備に丹生が存在した形跡は、『東備郡村誌』に「和気郡日笠保日笠下村丹生神社・邑
久郡福岡庄福岡邑の丹生神社は不祥の淫祠たれば上道郡大多羅に遷され今はなし」とある。
「備前富士」で親しまれている芥子山の单西面の山腹に大多羅寄宮跡(国史跡)がある。
藩为池田綱政のとき、この地に 66 社の寄宮を合祀した跡である。丹生神社が尐ないと思
っていたが、理由が分かった。
③ご神体の石(亀石)があったこと
石で囲まれた中央より尐し外れた場所から木棺が出土し、木棺の底に辰砂が敶いてあり、
その上に亀石がばらばらにされて入れてあったという。小さな歯が見つかったので埋葬者
は女性らしいが、そこまでは確定されてない。
現地で見せてもらった割られた亀石のパネル
九州の前原で発見された古墳では 40 枚の鏡が発見されたが、全部割られていた。現在
でも葬式で出棺するとき、故人が使用していた茶碗を割る。茶碗こそ、故人が一番愛用し
た物、料理によって器を変えることがあっても、基本的に茶碗は故人の生命であった。そ
う考えると、この亀石は埋葬された人にとって一番大切な物であったと想像出来る。今、
お社にある完全な形の亀石は、祭祀を継続した人物が新たに作ったのではないだろうか。
これは、私の推測で、専門家の解釈はどうだろう。
楯築弥生墳丘墓に初めて来たのであったが、私にはどこかで見た覚えがある。記憶を辿
ってみると、「倭国―邪馬台国と大和王権―」の特別展覧会が京都国立博物館で開催され、
そこに「弧帯石」として「亀石」が展示されていたのだ。その時買った図録の説明。
倉敷 市の 楯 築弥 生 墳丘 墓 は、 弥 生時 代 後期 後 半の 代 表的 な 墳丘 墓 で、 直 径約 40mの 円丘 の 両側 に 約
20mの突出部がついた特異な形態をしている。1979 年(昭和 54)の調査により木棺を納めた木槨の上の
円檪堆の中から、弧状の帯を複雑にからませた弧帯石や人 形土製品をはじめとするさまざまな遺物が発
見された。弧帯石は数百の破片となっていたが、埋葬儀礼にともなって火をあびた結果と考えられてい
る。墳丘上の旧楯築神社には、出土したものより一まわり大きい、一端に人面をあらわした別の弧帯石
がご神体として祭られていたが、これも楯築墳丘墓に関係する遺物であることが判明した。
(『倭国―邪馬台国と大和王権―』より)
図録では、
“邪馬台国-卑弥呼の鏡―”の項目に記載されていた。前方後円墳の出現前の
時代である。この被葬者が卑弥呼本人であったかどうかは別として、時代的には同じであ
る。この度、見せてもらった亀石は、墳丘上の社殿に納められていたが、明治末期の神社
合祀で、700m 東单の鯉喰神社に合祀されたが、地元の人の強い願いで楯築の丘にもどり、
大きな自然石を組み合わせた石の祠に安置された。
丘の中央にある祠
石祠に納められていたご神体
(この中に亀石があった)
(正面に顔が見える)
『吉備
国指定重要文化財となった現在は、収蔵庫に納められ、平素は収蔵庫の戸が閉められて
の弥生大首長墓』より
いるが、横側の細いのぞき窓からのみ亀石をみることが出来る。
収蔵庫
のぞき窓から見た亀
急いで丘に登ったので見てなかったので、立てられた説明文をおもむろに読んでみた。
石
国指定史跡
楯築弥生墳丘墓
昭和56年12月 9 日指定:
楯築弥生墳丘墓は、径約50mの为墳を中に2つの突出部を備えた弥生時代後期の墓で、現存全長約
72mの大きさをもつ。1976 年から 1986 まで前後6回に亘る発掘が岡山大学文学部考古学研究室中心に
行われた。2つの突出部は団地造成工事・給水の犠牲となり破壊された。そこには石列が並び、飾られた
丹塗りの壷形土器がおかれていたことが判明した。いま为墳の頂には5個の巨石が、また斜面にも石列
がみられる。これらは埋葬の霊域を守る役目をもつものであろうか。また墳頂や斜面の 1 部には拳大の
円礫が置かれている。墳頂下 に2つの埋葬を発見された。中心部の地下約 1.5mのあたりに発見された
埋葬は、この墳丘墓の为人公のもので、棺の長さ約2m、幅約 70cm、棺底には厚く朱( 30kg以上)
が敷かれ、骨はすべて腐っていたが、歯の小さなかけらが2つ見つかった。副葬品は鉄剣1、首飾り2、
多数の小管玉とガラス小玉の集り1である。この棺は外箱つまり槨の中に入れられていた。棺も槨も木
製であったが、腐っていく過程で土と入れ替わった痕跡から構造の追及が行われた。槨の長さ 3.5m、
幅 1.5m、底版は少なくとも2枚で、その下方には横木数本の痕がみられ た。槨の南東には、溝を掘っ
て排水設備がつくられていた。また、埋葬の祭りに使用したさまざまな道具を壊して、円礫多数と共に
埋蔵箇所の上方に積みあげていた。その中には、もと楯築神社伝世のご神体(収蔵庫にあり)とよく似
た弧帯石、人形土製品、大型華麗な特殊器台形土器、高杯、土製勾玉、管玉などがある。もうひとつの
埋葬は、中心埋葬の南東約9mで発見され、木棺の痕跡がみとめられたが、副葬品はなく、朱も微量に
とどまった。(1987 年5月
岡山大学教授近藤義郎記 倉敷市教育委員会)
この墳丘墓の内容がよく分かり、完璧な形態の墳丘墓だと思う。楯築弥生墳丘墓は弥生
時代の墓としては、日本列島で最大の墳丘をもっているので、弥生時代後期(3 世紀前半)
の最有力者だった可能性がある。この 3 世紀は、弥生時代から古墳時代に入る境目にあた
り、大和朝廷の成立とどんな関係があるか、大いに関心がある。
④直弧文がある
纏向石塚古墳の弧文円板(復元)
『日本の古墳・古代遺跡』より
楯築遺跡亀石の模様
纏向石塚古墳の弧文円板(復元)(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館所蔵)
纏向石塚古墳の周壕から出土したもので、曲線を組み合わせた美しい円板。直径は 56 ㎝程度。古墳
の黎明期のものと推定されている岡山県の楯築墳 丘墓の亀石の模様に通じるも特殊器台は、高さ1mく
らい、直径 30cm~40cmの円筒型をした台で複雑な文様と透かし穴が開けられていたのが特徴。大陸
との交流の表れか?为として呪術的な意味が込められた文様であるとされている。
『日本の古墳・古代遺跡』よ
り
纏向石塚古墳
3 世紀前半につくられた日本最古の前方後円墳。定型化された前方後円墳に比べると、前方部が極端
に小さい。模様は吉備の特殊模様の祖形で、直弧文に連なるものと考えられる。埴輪のルーツをたどっ
ていくと、弥生時代後期(3世紀後半)の吉備を中心とする地域に行き着く。この 地方では、埋葬のセ
レモニーを行う際に、埴輪に良く似た器(特殊器台と特殊壷をセットで使う)を用いていた。特殊器台
は、高さ1mくらい、直径 30cm~40cmの円筒型をした台で複雑な文様と透かし穴が開けられていた
のが特徴。
備前の弧帯紋
特殊器台は吉備から畿内へと伝わり埴輪へと変化した。
『吉備路風土記の丘
ガイド』より
千足古墳
岡山市新庄下にある前方後円墳。円筒埴輪があり、内部为体は、古式の横穴式石室で、石室石障には
直弧文、鍵手文が刻まれ、県下では珍しい北部九州的な古墳である。造山古墳の陪塚とされる。
⑤副葬品
楯築墳丘墓の朱の敶かれた棺の底から出土した遺物は、鉄剣 1 口と
3 連の玉類である。
辰砂に埋まった状態で、玉類や鉄剣などの副葬品が見付かった。玉類は 3 連、翡翠の勾
玉 1、瑪瑙の棗玉 1、碧玉の管玉 27 からなる首飾りで歯を囲むようにあり、被葬者の首に
かけられていたと推測されている。もう1連は鉄剣の切り先に接するように出土され、小
さな管玉とガラス製の丸玉・小玉がかたまって置かれ、残る 1 連は木棺の单東隅で発見さ
れ、蓋の上に置かれたものが棺の腐朽と共に落ちたものと解釈されていると、福本明氏は
著書に書いている。
⑥特殊器台・特殊壷・鉄器の祭具など出土
円丘中央に儀式に使用されたと思われる土器類が出土している。
(本明著『吉備の弥生台为張墓』より)
この出土された土器の絵を見て古墳時代に出土された特殊器台の原型があった。奈良で
発見された特殊器台には弧帯文が入っている。
赤磐市 山陽郷土資料
館
左
特殊器台形埴輪(岡山 矢部堀越遺跡)
右
円筒埴輪(奈良 メスリやま古墳)
(『倭国―邪馬台国と大和王権』より)
特殊器台
特殊器台は、弥生時代の終わり頃(2世紀末~3世紀)に吉備地方で作られ 始
めた葬送用の特別の台器(壷などをのせる台)。器台型土器の胴部が極端に伸長し、
葬送儀礼における供献用具として独自の変化を遂げたものと考えられる。S 字連続
渦巻文 や凹
線文、 鋸歯 文 、綾杉 文な ど で極度 に装 飾 され、 ほぼ 全 面を赤 色顔料
重要文化財 特殊器
で塗彩されている。特殊器台を出土した墳墓遺跡は、岡山県内で 40 数遺跡が確さ
れ、廣島県域の備後を加えると 50 遺跡にのぼる。分布状況は、総社市周辺の備中
南部を 中心 に 、備前 ・美 作 ・備中 北部 ・ 備後に わた り 、かつ て「 吉 備」と 呼ばれ
た地域 に集 中 してい る。 こ れは、 吉備 地 方の共 同体 が 共通し て行 っ ていた 首長の
葬送儀 礼の 成 立を物 語る 。 この器 台の 発 展が、 これ ま で謎と され て いた古 墳時代
の円筒埴輪の起源に直接結びつくものであることが判明した。
(岡山県立博物館資料より)
⑦近くに港がある
上東遺跡(楯築弥生墳丘墓に近い)
上東遺跡では、壱岐の原の辻遺跡に次ぐ全国で 2 例目となる波止場が確認され、船だま
り付近からは大量の航海安全を祈った絵画土器が発見された。この絵は弥生人の精神世界
を解明する手がかりとなるということだ。弧帯文土器や漆入容器も発見されている。
左
絵画土器(岡山県倉敶市上東遺跡
弥生時代後期)口径 7.8cm、高さ 6.5cm
小型浅鉢形土器の器面に絵が入っている。入墨をした呪術者・悪霊・竜・
カマキリを表す。特に悪霊は目を見開いた瞳と牙のようにむき出した歯を表現
したもので、全国的に例がない。
右
甕(岡山県倉敶市上東遺跡
弥生時代後期)
くの字に外反する頚部で、外面調整はタタキ、ヘラ削り。底部内面に米の炭化物
が付着し、外面に煤が認められることから、米を炊いたことを知る資料である。
左
漆入容器(岡山県倉敶市上東遺跡
弥生時代後期)口径 5cm、推定器高 14.5cm
脚付広口壷形土器、漆が底に固まった状態で認められ、口縁ぶまで厚く付着。
中
漆入容器―小型鉢形土器、検出時には割れていた。漆は、生漆で容器一杯に詰まる。
⑧鉄の溶鉱炉跡がある
千引カナクロ谷製鉄遺跡
蛇足が長くなったが、吉備高原の平野へ出っ張った所に鬼ノ城があり、鬼が住んでいた
と云われているが、その鬼は鉄生産に関わった人たちである。今、鬼ノ城の麓から最古級
の製鉄遺跡 奥坂遺跡群が発見された。製鉄遺跡の内訳は、千引カナクロ谷製鉄遺跡で製鉄
炉 4 基・「ヤツメウナギ」3 基など、総数は製鉄炉 20 基「ヤツメウナギ」24 基が発見され
た。この中で最も注目されたのが、千引カナクロ谷製鉄遺跡の製鉄炉地下構造である。
月の輪古墳
昭和 28 年に久米郡柵原町月の輪古墳発掘は大変話題を呼んだ。日本では初めての製鉄
遺跡の発掘調査だった。この古墳から多量に出土する鉄器は砂鉄を原料としている。柵原
町は鉱山で発達した町である。1991 年に廃鉱になったが、硫化鉄鉱を掘っていた。片上鉄
道を通して港まで運んでいた。多くの施設が取り壊されずに残っている。
鳴釜神事
吉備津神社の神事であり、ヒミコの時代のことではないが、これも産鉄と結び付く。前
に書いたが、御釜殿の内部に土竃があり、その上に木製の甑(こしき)が載せられている。
釜殿には阿曽女という巫女 2 人が常住して奉仕し、朝夕の神饌を作り、本殿に運んで神前
に供える。神官は祈祷を乞う者があると、その者を伴って釜殿に行き、釜の前で平伏する。
1 人の巫女は釜の口より松葉を入れて焚き、もう 1 人は尐量の玄米を掻荀(かいけ)に入
れ、これを甑の中で振り、蒸すような操作をする。神官が祝詞を奉ずるとやがて、釜は鳴
りひびき、祝詞が終わるころ鳴り止む。釜の鳴る音の高低・大小・長短で自らの吉凶禍福
を占う。私自身体験したが、非常に神秘的な神事である。この釜は古くなると新しい物と
取り替えるがこの釜の鋳造には、当社から北西 8 キロの旧賀陽郡阿曾村(総社市西阿曾)
に住む金屋(鋳物師)があたった。新山の鬼神(温羅)-阿曾の鋳物師―阿曾女―吉備津
宮の釜殿は互いに因果関係で結ばれている。
太田辰亓郎
岡山県には、中国山地から 3 本の川、西から高梁川・旭川・吉五川がほぼ平行に流れて
瀬戸内海へ注いでいる。川は何れも物資運搬の大動脈で、経済活動に及ぼした影響は大き
い。道路も日本海側にまで通じ文化や物資の交流も盛んだった。特に高梁川の中間地点に
ある高梁市は物資の中継・集散地点で、高梁川は戦国時代には織田と毛利方との最前線と
なり、重要視された土地だった。小堀遠州は高梁で生まれ、遠州作庭の寺が現存している。
中国山地の新見市は千屋牛の産地、千屋は高梁川の最上流で鳥取県の県境に近いが、備
後の草戸千軒の千のように、多くの人が住み砂鉄生産が盛んであったようだ。字名に、实
とか成地が残っている。この鉄と生産力が大きい平野が吉備の繁栄の源になっていると思
われる。また、川口には天領となった倉敶がある。吉備国が鉄の産地であることは昔から
知られ、特に先の分かれた歯のある鍬は備中鍬として有名で、刃に土がつきにくいとて、
大いに普及した。また、高梁川上流の新見では太田辰亓郎が砂鉄で巨万の富を得、鉄を吹
く炭を焼くために木を切った跡に牧草を植え、牛を放牧して産業を起こし、現在の千屋牛
の生産地となった。10 年ほど前に岡山県阿哲郡神郷町釜村に住み、農民作家と云われる太
田忠久氏に『火の山』の短編集を戴いた。村の炉(たたら)が为題になっている。かつて
盛んに鉄を生産していた所である。今も溝が残っているそうだ。近世の話であるが、昔も
鉄を産していたと思われる。備中町では山宝鉱山産鉱物の6個入りセットを買ったが、黄
銅鉱・磁鉄鉱・閃亜鉛鉱・方解石・灰鉄輝石ときれいな石ばかりである。ここ備中町は鉱
石とくに化石が産出され、各地から石好きの人が集まるそうだ。
ウラン開発と人形峠
現代のことだが、鳥取県境に近い鏡野町上斎原の人形峠では、ウラン資源開発から精錬・転換・濃縮
に至る一連の技術開発において先端の研究が行われてきた。(岡山県ホームページ より)
ベンガラ
吹屋ふるさと村
銅山とベンガラ長者広兼邸
吹屋ふるさと村
備中町に隣接する成羽町(現在高梁市)には銅山があり銅山とベンガラを生産していた
良質の真っ赤なベンカラは伊万里焼や九谷焼の赤色顔料として知られる。
備前・備中・美作の为な鍜刀地
鉄に関して有名なのは、備前刀である。県北の砂鉄と
県单の技術が結びついて、備前に福岡・長船の刀工、
備中に青江の刀工などが生まれた。福岡一文字派は、
備前刀鍛冶の一大流派。鎌倉時代初期から中期にかけ
て、旧邑久郡長船町の福岡に居住して、作刀した刀工
群である。「一遍上人絵伝」には備前福岡市の繁栄が描
かれている。吉備には多くの鍜刀地がある。
岡山県立博物館資料
⑨吉備の巨大古墳
造山古墳
吉備路、旧山陽道に沿った千足バス停の北方に王者の風格を備えた日本で4番目に大き
い全長 360m の造山古墳(国史跡)。5 世紀前半に限れば、全国 2 位。
吉備政権の力は最高潮。
作山古墳
国内 9 番目に大きい全長 286m の作山古墳。
こうもり塚古墳
6 世紀後半につくられた全長 100m の前方後円墳。横穴式
石室は奈良県の石舞台古墳に匹敵する大きさで石室
内では浪形石製の家型石棺を見ることができる。
岡山県下の为要な古墳分布図
岡山県立博物館資料
造山古墳
こうもり塚古墳
牟佐大塚古墳
作山古墳
両宮山古墳(国指定史跡)
(岡山県赤磐市)
墳丘全長 194m の前方後円墳で、吉備の 3 大巨墳の 1 つ、周囲には一重の濠がめぐり、
古墳の総長は 349m、優美な墳丘と水を湛えた内濠をもつことで知られる。5 世紀後半の
築造で、吉備の大首長の墓と考えられている。和気町から赤磐市山陽郷土資料館を見学後
両宮山古墳へ行った。国道 27 号線のすぐ近くに古墳の周堤があり、堤に登るとまんまん
と水を湛えた濠が眼下にある。現在は一重の濠であるが、当時は二重の濠だったそうだ。
古墳の周囲を歩くと、近くに陪塚全長 55m 帄立貝形和田茶臼山古墳があり、登って見ると
周囲がよく見える。北の丘には住宅団地が広がり、眼の前にはうっそうとした両宮山古墳
がドント座っている。扇状地の斜面、畑に囲まれた中に築かれた古墳である。ここは、備
前国分寺・国分尼寺のあった所、古代の幹線山陽道が通り、備前国府も比定されて、朱千駄
古墳・牟佐大塚古墳など古墳が多く存在している。両宮山古墳の北東部は、現在畑になっ
ているので歩いて古墳の上に登ってみたが、神社があるだけで,木の茂りで見通しはよく
ない。こんな大きな古墳を築く労力は大変なもので、いくら権力があっても労働力はどん
なにして集めたのだろうと大きな疑問を持っていた。しかし、古墳の東单の角に来た時、
私なりに納得できた。
東单角の水門
両宮山古墳
山陽新聞社
水門があったのだ。水を調節するようになっていた。灌漑用溜池だった。池を掘った土
を中心に集めて古墳にする。当初は豊作を願う社を山の上に作れば、労働する人たちも喜
ぶ、灌漑用水を調節すれば、稔りも良い。人徳のある王の亡き骸を祀れば余計に豊作だ。
丹生が当時は辰砂で、まじないに使用されたが、後世、ミズハノメと水の神になった。
「水を制する者な天下を制する」という。墳墓に周溝を巡らすのは、神聖さを保つ意味と
思っていたが、案外实用に供する目的があったのかもしれない。両宮(田狭・弟君)と稚
媛を为人公にしたオペラ「ワカヒメ」が岡山シンフオニーホール 15 周年記念に上演され、
鑑賞した。地名の赤磐は現实に辰砂が産出したのかもしれない。
箭田大塚古墳
吉備郡真備町(現倉敶市)にある。岡山県における三大
巨石墳の一つ。直径 54m、高さ 7m の円墳。出土品は土器
・刀剣・馬具・金環・勾玉など、6 世紀後半から 7 世紀に
築造された。
真備町(現倉敶市)の吉備真備
箭田大塚古墳のある真備町(現倉敶市)は吉備真備の出身地である。私は、総社市から
真備町へ急いだ。遣唐使として派遣された吉備真備は、古代豪族下道氏の一族である。氏
寺吉備寺は箭田廃寺の跡に江戸時代に建てられた。周囲には「まきび公園」や「まきび記
念館」があり、非常に落ち着いた佇まいの公園や寺院である。
桓武天皇勅語
『まきび記念館資料』 よ
和気町の和気清麻呂
り
和気清麻呂公像
彫刻家 朝倉文夫氏制作
帰省のとき、私は岡山市在住の弟の案内で、和気郡和気町へ向かった。立派な和気清麻
呂公銅像が建っている。朝倉文夫氏制作で非常に格調高い。狛犬ならぬ狛イノシシが守る
和気神社に参拝して、隣接する歴史民俗資料館に入館した。10 年前に来た時、藍染のたく
さんの手織り木綿・備前焼の藍がめや織機・糸繰り機が展示されていた。徳島の藍がここ
へ送られているのか?なつかしいような気分だった。和気広虫姫の慈善事業を初めて知り
感心したものだった。備前国藤野郡(現和気町)は和気清麻呂の出身地。姉の広虫は采女
として都に上り平城宮の後宮で女侍従となり、その後清麻呂は近衛府の武官として朝廷に
仕えた。僧道鏡が皇位を望む時、宇佐八幡宮に勅使として詣で、道鏡の野望を阻み国家の
危機を救った。桓武天皇の信頼を得て、794 年清麻呂の奏請によって、都を京都に移した。
そして、平安初期、新佛教の発展に力を尽くし、神護寺建立。清麻呂没後息子たちの活躍。
広虫姫わが国最初の孤児院を開設。
去る 5 月 11 日に京都で同窓会があり、私一人神護寺へタクシーを走らせた。和気清麻
呂公が国家安泰への願いから創設された寺院を見たかった。清滝川はこの上なく清らかに
流れ、雤あがりの青葉は青く、新緑の神護寺は心が洗われるようだった。その中に清麻呂
公霊廟・金堂の朱色が冴えていた。辰砂と関係あると巷間で云われるが、それを实感した。
古墳の墳墓にも詣で、かわらけ投げで、心の汚れを谷に投げ捨てさわやかな気持ちでお寺
を後にして、護王神社に向かった。京でも、空海との結びつきを見たのである。
和気清麻呂公霊廟(神護寺)
和気公墓(神護寺)
和気広虫姫像(護王神社)
⑩稲作の盛んな吉備
私が中学生の時、貝塚を掘りに行っていたのは、岡山市の北部の山の裾だったから、旧
岡山市内は海だったことになる(原縄文時代遺跡)。また、土器を掘りに行ったのは百間川
(弥生時代遺跡)だったので、弥生時代の水田跡だった。近年、百間川改修工事の際に中
流域の 4 所で、昭和 52 年より発掘調査が行われた。
本庄国司神社の赤米の神饌
赤米は、もみ粒が赤褐色で細長く、また稲の茎が非常に長いなど、古代の米の特徴を残
していると言われており、稲作の起源を知るうえで、大変貴重な資料です。国司神社では、
旧暦 11 月 15 日の霜月祭りに、この赤米が神饌として供えられ、参拝者には赤米で作った甘
酒がふるまわれる。現在は、一帯がビール麦で黄色に色付いていた。
プラントオパール
稲作開始時期が「弥生時代」を「縄文時代」を分ける特徴とされ
ていたが、「プラントオパール分析法」という新しい検査法によって
稲作開始の常識が打ち破られた。1990 年代に入り、「縄文時代の水稲
農耕」が確実になる発見があった。岡山県の南溝手遺跡や福田貝塚
南溝手遺跡出土もみ痕土器
から出土した縄文時代後期の土器の器面に、「稲もみの圧痕」が発見され、大きな話題になったのでよく
覚えている。縄文時代稲作の起源は今後もどんどん遡る可能性がある。(岡山県古代吉備文化財センター)
『和名抄』本田田積
(池辺弥『古代神社史巧』吉川弘文館より)
私は、徳島大学大学開放实践センター中村豊
(埋蔵文化財調査室)先生の考古学講座「再考 阿波
・吉野川―考古学からみたその生態と歴史―」を受
講、その時いただいた資料。この表から吉備の水田
面作付けが多いことがよくわかる。
⑪吉備の渡来人と鉄生産
昨年 10 月韓国の釜山・伽耶へ旅行して博物館で見たものが、あまりにも日本の古墳出
土品と同じ物に驚いたが、ここに載せたい。
『伽耶文化展』より
岡山市北浦
墳
八幡大塚2号
『図説 韓国の歴史』より
『山陽郷土資料館』資料より
古墳時代の吉備地域に渡来人が比較的多くいた。また、鉄器生産と渡来人の関係は古い。
窪木薬師遺跡に吉備最古級の造り付けカマドがあり、その中に鉄鋌がおかれていた。この
遺跡の北 3.5km の墳長 40m の帄立貝形古墳には馬具・武具など多量の鉄製品とともに鍛
冶具がセットで納められていた。この竪穴式石室は伽耶系のものである可能 性が推測されて
い る 。尚、直木孝次郎氏の「吉備 の渡来人と豪族」は「備中国大税負死亡人帳」の記録を
もとに調べると、千引カナクロ谷遺跡を含めた賀夜郡阿蘇郷地域の鉄生産には漢氏系の渡
来系の人々が関与していた可能性が考えられる、としている。
私が総社の五尻野に住んでいた頃、高梁川の渡し船で秦に
ある親戚の家に行っていた。秦は渡来人が住んでいたといわ
れている。秦廃寺跡もある。湛五堰から用水路が 12 箇郷へ流
れ田畑を潤している。昭和 20 年頃絶好の水泳場だった。
現在の湛五堰
⑫御祭神について
吉備津彦神社の御祭神は大吉備津日子命、相殿に倭迹々日百襲比売命が祀られている。
この倭迹々日百襲比売命は、奈良の箸墓古墳に祀られ、卑弥呼ではないかと云われている。
そのことを根拠に邪馬台国大和説が有力となっている。
岡山神社
岡山神社の由緒を見て考えさせられた。
「岡山神社」は、元は岡山城内にあり、宇喜田直
家が城を築くに当たり、社地を現在地に遷した。御祭神は倭迹迹日百襲姫命・日本武尊・
大山咋命・大吉備津彦命・倉稻魂命・武安霊命・妹姫命と書かれているが、倭迹迹日百襲
姫命が第一の御祭神である。岡山城は、中心地石山に築かれているので、そこが倭迹迹日
百襲姫命と関係あることは邪馬台国と無縁ではないと思う。
伊勢宮
私は、岡山市内でかつて津山往還が通る伊勢宮町といわれた「伊勢宮(いせのみや)」の
氏子だった。お祭の時は夜店が並び大変な賑わいで、父親に連れられて海ホウズキや肉桂
の詰まったハマグリを買ってもらうのが定番だった。神社は旭川の土手の下にあり、川側
はオタビと言って、流れが速い清流で上級者の水泳場だったが、水泳上達にオタビまで行
っていた。何故オタビと謂うのか疑問に思っていたが、天照大神の御巡歴された神社とい
うことで納得した。下流の浜野町、市外の真備町・川上町・総社市・和歌山県にも比定地
(『 伊 勢 の 神 宮 』) があるという。吉備温故秘録に「小畑町は、町内伊勢宮あるによりて1番町
から4番町あたりまでを伊勢宮と呼ぶ」祭神は天照大神の外に豊受大神と拷幡千々姫を祭
る。境内には末社が多く、由緒については、諸書すべて「倭姫命世記」により天照大神が
崇神天皇の 54 年から4年間滞在された「吉備国名方浜宮」は当地であろうと説いている。
岡山県神社庁は、第 10 代崇神天皇皇女豊鋤入姫命のご創建、歴代藩为の崇敬篤く、備前
岡山で最も由緒ある神社だと記載している。伊勢宮が吉備を巡歴されたことも、吉備を重
要視したからではないかと思う。
中矢伸一著『神々が明かす日本古代史の秘密』
現代になって、天津神为導型の歴史の中に覆い隠されてきた国津神が、復活の兆しをみ
せ始めた。われわれ日本人の崇敬すべきは、日本建国の正しい功労者である、正当天孫族
である国津神である。国津神は埋没させられ、幾重にも封印がなされた。近代になって興
った神道系新宗教、すなわち黒住教・天理教・金光教・大本教の発生は抑圧され続けてき
た神々の神界復権と無関係ではなかった。これらの宗教は教祖の神秘体験により神の实在
を悟った結果であるために教義はあまりない。太古より、われわれの祖先はなんらかの形
で信仰を持ち、風雤雷霆や石、樹木などの自然霊に畏敬の念を抱き、崇拝してきた。昔の
人は、現代人よりはるかに御魂が清浄だったので、霊的感受性に優れていたと思われる。
黒住・金光は岡山、天理は奈良、大本は丹波である。教祖たちは、強烈な神秘体験により
神の实在を悟り、神の御意を知り、その事实を多くの人に知ってほしいと願っただけだ。
大本教の開祖出口ナオに憑依した神は「艮( う し と ら )の金神」だった(温羅を思い起こす)。
⑬『日本書紀』や『続日本紀』などの史書に記録がない山城がある。
桃太郎の昔話に温羅の住む「鬼ノ城」について書いたが、備前には「大廻り小廻り」と
いう古代山城が岡山市の北東の端(赤磐郡瀬戸町)にある。
わが国の古代山城は、遺跡が 20 ヶ所ほど知られるが、その半分以上が官選史書への記載がない。何故
だろうか。古代山城は、ほぼ西日本(畿内・瀬戸内・北部九州)に限られ、大陸から畿内に至る为航路
に沿った所で、大きな沖積平野があり、有力な首長がいた地域に多い。古代律令制で いう「国」の中枢
部にある。官選史書に記載があるものを「朝鮮式山城」、記載のないものは「神籠石」または「神籠石系
(型・式)古代山城」とされるが、必ずしも適切ではない。官選史書に記載のない古代山城の築城時期
は弥生時代説・5世紀説・6世紀説とあり、
『日本書紀』などに反乱伝承をもつ吉備・筑紫の本拠地は畿
内政権と抗争するために築いたと考える。(『鬼ノ城と大廻り小廻り』より)
鬼ノ城は吉備高原の单端で 400m の山上、背後に山があるので、民衆が逃げ込んで立て
籠もるため、大廻り小廻りは背後に両宮山古墳をはじめ国分寺跡のある拓けた地域があり
(築城時期は分からないが)、また、その北には上・下仁保と朱に関係ありそうな地名があ
るので、守護のためと考えればいいと思う(卑弥呼の時代とは違うかもしれないが)。
⑭塩作り
「塩を贈る」
「塩の道」の言葉があるように、塩は生存に欠かせないものである。海を持
たない国は大変だが、岩塩が産出する所、塩分濃度の高い湖があればよい。私は、宇野線
で玉野の親戚へよく行っていた。汽車から宇野駅や八浜駅の近くの塩田がよく見えた。徳
島の鳴門にも昭和 40 年代には、塩田が広がっていたが、何時の間にか塩田は消失した。
古代、前1世紀のころ、瀬戸内海沿岸地域では、濃縮した海水を土器で煮つめて塩をつくることがは
じまり、その方法が大阪湾沿岸地方から紀伊半島西岸へと広がる。製塩遺跡では多量にまとまって製塩
用の土器が出土する。岡山県上東遺跡における製塩土器の出土状況と土器の1つ。
(『日本の歴史』より)
高地性集落と塩『備讃瀬戸の土器製塩』から
児島東部の高地性集落の岡山市貝殻山遺跡では、弥生土器に混じって、数個の製塩土器が出土している。
備讃瀬戸では中期後半に高地性集落が展開し、後期には消滅する。
「見張り所」的な高地性集落がほとん
どで、九州から近畿地方にまたがる集団の緊張・抗争に関係した遺跡であるとされている。弥生中期後
半では、児島・小豆島周辺部に集中していたが、後期になると平野部に集中するようになる。これは、
生産効率を一定程度犠牲にしても流通拠点で集中的に操業する形態が成立したことによる。
⑮日本人と韓国人の頭長幅示数分布図
日本人と、韓国人の頭長幅示数分布図 (右図)
弥生式時代になると、瀬戸内から近畿地方の日本人
が、言語学上の説や、短頭に傾き朝鮮人に近い。
人の移動・流れが分かる。
( 江上波夫「日本における民族の形成と国家の起源」
―騎馬民族説への回答と補足―」より)
⑯吉備津神社が吉備以外にもあり、末社の「御前宮」が広範囲に存在する
吉備津神社の御祭神吉備津彦命は岡山県内は勿論、広島県備後・府中市、出雲、鳥取、
讃岐一宮田村神社にも祀られている。田村神社には倭迹迹日百襲姫命も祀られている。こ
こにも桃太郎伝説があるそうだが、讃岐も吉備津彦命が征伐したのかもしれない。
東かがわ市の水为神社の御祭神は、倭迹迹日百襲姫命であり、御神像がある。吉備から
讃岐にかけて勢力範囲だったと思える。
私が子どものころ、玉野市の親戚に行った時、三五造船の進水式を見て感激したが、必
ず参拝したのが御崎八幡宮だった。御崎(オンザキ)の地名がある。この御崎宮が鬼神「温
羅」に関係しているか調べてみたい。この末社は播磨・讃岐・山陰にもあるという。
奈良教育大学構内にある吉備塚、香具山のふもとにある吉備寺、真備の母(揚貴氏)の
墓がある亓条市、奈良県山添村の吉備津神社、島根県飯石郡三刀屋町の前方後方墳は吉備
から出雲の進駐した勢力の首長との説がある。
和歌山県有田郡吉備町に吉備津神社がある。神社は、町の西端に近い有田川の堤防上の
竹薮の一角の 10m 四方の狭い場所に祠があり、土地の人から「吉備さん」とか呼ばれ親し
まれていた。近くに御霊神社があり吉備大臣を祭ってあるという。有田川の対岸に丹生神
社がある。また、吉備町大字出の丹生神社の境内社に吉備神社がある。この地が朱や水銀
の生産地であり、廃坑跡が各地に残っていることから、吉備氏と和歌山の紀氏とは相互に
関係をもっていたことが明らかになる。丹生壽氏の『丹生神社を訪ねて』にこの丹生神社
の記載がある。この記事は、定年まで岡山に在住されていた山懸氏が保存されていた山陽
新聞社の昭和 53 年度「古代吉備をたどる」の新聞連載記事である。シンポジウムが行わ
れ大きな反響があったようだ。山懸氏とは徳島歴史研究会会員での知り合いである。
⑰高地性集落の遺跡がある
岡山県の児島半島は倭人の時代は島であった。その島と対岸の岡山平野には、それぞれ
呼応する位置に高地性集落がある。児島半島の先端、海抜 288m に貝殻山遺跡がある。
吉備中山は島だったと言われている。昔話で桃太郎が鬼退治に船に乗っていくが、その当
時は海だった。
⑱銅鐸と銅剣銅矛の分布圏
吉備・讃岐・阿波・土佐は両者の分布圏が重なる。
⑲宗教創設家や研究家を多く輩出している(为要人物のみ)
○栄西
栄西禅師
明菴 栄西(1141~1215)、備中国吉備津生。2度の中国留学、仏教宗
派・臨済宗の開祖、建仁寺の開山。喫茶の習慣を日本に伝えた。
「喫茶養生記」では、茶は人倫延齢の妙術と説く。
○法然
美作国久米单条に武士の子。( 1133~1212法然の父は夜襲され死亡、その時
「敵を恨んで、敵を討つな」と遺言。出家修行武士や庶民をひきつける。浄土宗
として発展、弟子の親鸞は浄土真宗として完成。
○黒住宗忠
備前今村宮の禰宜(1780~1850)、35 歳の時、黒住教創唱(1814 年)。肺結
核で危篤の時、太陽=天照大神と一体になる神秘体験し天照大神への信仰を説く
教えを開く。黒住教本部は吉備の中山にある。
○金光大神(誕生時は香取源七、年齢と時代・時代状況と自覚で7回かえる 1814~1883)
備中国浅口郡占見村の百姓の子として生まれるが、金神を人類全体の氏神として
回復する。江戸時代まで祟り神として畏怖されていた金神を幕末期にこの金神信
仰を母胎として生まれた大本教・金光教により、国祖である国常立尊や、人類を
救済する氏神へと生まれ変わる。『よみがえる異端の神々』より
○吉備真備
19 年間留学生として唐で学んだ。在唐中、広く諸芸を研究、漢籍・天文観測
具・楽器・騎併用兵用弓矢など膨大な書籍・器物を持ち帰り朝廷に献上。
○犬養木堂
備中庭瀬村川入出身(1855)。生家は、大庄屋。
“憲政の神様”とも呼ばれる
政党政治の先駆者。6歳で『四書亓経』の素読を受け、西单戦争の従軍記者、明
治 15 年政界入り、18 回衆議院連続当選。軍閥の独走批判「話せばわかる」
「問答
無用」と青年将校の凶弾に倒れた(5・15事件)。
○藤田伝三郎
児島湾の干拓事業に、大資本を投じ、県下第一の米作地域。機械化農業の
先進地、新田は児島郡藤田村として誕生した。
○緒方洪庵
足守藩士の子として生まれる。1838 年大阪で開業。適々斎塾をおこし 600
人の門弟を育てた。西洋医学の先駆者。適塾出身者に明治時代に活躍した人多い。
○大賀一郎
岡山市川入出身。元東京大学教授“ハス博士”として有名。昭和 26 年千葉
県検見川の泥炭発掘地から 2000 年前のハスの实を発見。昭和 31 年春、興し入れ
間もない池田厚子さんの手で、後楽園花葉池にも植えられた。毎年観蓮節開催。
○仁科芳雄
物理学者、わが国の原子核・宇宙線・量子力学分野の開拓者。
邪馬台国吉備説私論
フィールドワークから得た知見並びに以下のような理由から、私は、邪馬台国は吉備に
あったのではないかという暫定的結論に辿り着きました。
○農作物・鉱物資源の豊かさ、多くの人口を養うに充分な卓越した経済機構を持つ。
○日本の代表的な昔話になっている桃太郎伝説はヤマト勢力に征伐されたことを言ってい
るのではないか。
○征伐された温羅を執拗に追うヤマト勢力。首を犬に食べさせ、ドクロになってまで
吼え続ける温羅を、吉備津神社において丁重に祀っている。現在まで鳴釜神事は存続。
○温羅の怨霊の怖さが京まで聞こえていた。外国人の小泉八雲が小説の題材にした。
○吉備津神社の立派さと、分国後に各国に吉備津神社を創建した。神社による支配力大。
○古代の吉備豪族
古代の吉備は弥生時代以降、畿内に匹敵する先進地帯となった。弥生後期(3世紀)備
中单部にある楯築遺跡に代表されるように、各地域に大首長に連合した首長群を生み出
し、吉備地域を領域とする大きな勢力範囲を形成した。その領域は、美作・備前・備中・
備後であった。(『岡山県の歴史散歩』より )
○考古学の専門の先生方の中に吉備説を唱える方が全くないことが不思議。しかし、楯築
弥生墳丘墓は認めていられる。吉備の遺跡の多さは、地域力が強かったことを表わす。
一般人で吉備説を言われる方が出てきている。
『魏志倭人伝』の方向・距離はあまり信じ
られないと私は思う(伊都国までは確か)。その当時に正確な地図があったわけでない。
○大和朝廷は多くの手段を講じて吉備の力を弱体化した。
国の分断(備前・備中・備後・美作)・天皇が吉備の女性との婚姻・吉備氏の反乱伝承・
白猪屯倉の設置
○現在の大和朝廷に繋がる要素が必要である。
私は、“吉備の中山”の“中山”は何を意味するのか分からなかったが、「富来隆先生」
が『卑弥呼』の中で「ナガラ(蛇・龍)」のことと書かれている。吉備津彦神社の山は龍
王山、倭迹迹日百襲姫命の箸墓は箸中山古墳というと云われ、蛇の話が出る。实際の出
土品は吉備につながる。徳島の丹生神社のある場所は木津中山である。
○弧帯紋土器は祭祀に使用されることは、私の住む徳島県板野町で出土される土器に弧帯
紋が入っていることで知っていた。黒谷川郡頭遺跡は、辰砂の精製工房があった所とし
て知られている。邪馬台国と辰砂は切っても切れない関係がある。吉備では、かつて辰
砂の生産があり、丹塗土器を祭祀に用いた。大量の辰砂が楯築弥生墳丘墓にあった。
一見、無関係と思われる韓国・九州・吉備・阿波・大和が一つの線で結ばれる。
そのキーポイントは“辰砂”である。
充分な結論にはなってないませんが、
『紀要』第4号発刊に間に合わせるために、思いつ
くまま書いてみました。今後に大きな課題を残しております。専門のお立場の方から見ら
れると噴飯ものと謗りを受けそうですが、私は、真面目に考えてみました。この機会に自
分の故郷吉備がより近いものなりました。ご教授よろしくお願いいたします。
平成 20 年6月 10 日
あとがき
吉備国が邪馬台国と思ったのは、深く研究した結果ではなく、楯築弥生墳丘墓で「真っ
赤な辰砂」を見たときの衝撃だった。しかし、吉備に足を運ぶ度に「邪馬台国は吉備」と
の思いが強くなったから不思議だ。
レポートを書くきっかけは「はじめに」に書いたように、自分の旧姓「天野」の地が、
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売神社を調べることから始まった。この
神社は高野開山以前からの地为神で、社宝も多く、官幣大社である。神社の東には旧高野
街道が通り、天野は女人禁制の高野山に入れない女人の隠れ里だった。高野山に入った西
行の妻子も住み、西行堂がある。「紀伊山地の霊場と参詣道」で世界遺産に登録された。
「天」は普通「テン」と読むが、
「アマ」の読み方は古代に多いが、現在は尐ないことを不
思議に思っていた。丹生は辰砂を生む語彙だが、辰砂自体が秘する物質なので隠されたか、
もしくは消されたのではと思う。
『記紀』の中でも辰砂神は生まれていない。辰砂や銅鐸も
記述がない。
「天野」についても、皇后が紀伊の国に至るとき、昼のに暗いのは何故かと訊
くと「小竹の祝と天野の祝を合わせ葬めた」からで、別々に葬ると日暉り輝き、日と夜が
別になったと『日本書紀』に記述がある。これは日食だったと思うが、この記録があるの
みである。丹生家の家系図を見ると、天野祝が丹生に変っているが、辰砂の追求を始めた。
この度、吉備国が邪馬台国だったことの証明を試みたが、なかなか難しい。邪馬台国が
九州とか大和の論考は考古学の先生方が实証されているので分かり易いが、吉備を証明さ
れている方の本を見ないので、大変悩んだ。しかし、自分の直感を信じて進むしかない。
为宰の廣渡教授は「面白い、人の言わない事を探査するのが研究だ」と発破をかけられる。
「邪馬台国が吉備?」と友人たちは笑う。その証明として、吉備で自分が知っていること
から考えてみようと、邪馬台国とは関係のない現在の岡山県事情を思い出すまま羅列して
みた。2000 年の間には文明・科学は進歩したが歴史は連続しているので、現在も過去に繋
がる部分が多い。吉備を歩くと、記憶が呼び覚まされ非常になつかしい。思わぬ発見もた
くさんある。徳島に住んで 50 年、歴史は面白いので阿波の歴史に嵌まっているが、岡山
を離れてみると、岡山もよくみえてくる。プロ・アマの考古学者の最大の関心事は邪馬台
国だ。吉野ヶ里発見は邪馬台国だと騒がれ、私も飛んで行った。たくさんの甕棺が発掘さ
れていた。伊都国へも行ったが、出土品は豪華絢爛、でも韓国に近すぎるし狭い。吉備の
单部は「晴れの日 岡山」のキャッチフレーズ通り、暖かく住みよく作物がよく实る。『魏
志倭人伝』には織物について書かれているが、現在ジーンズやレーヨン、花筵の生産が多
い、県北部では昔、蚕を飼っていたそうだ、織物技術があったと思える。この度、美作の
一宮中山神社と二宮高野神社へは行けず、残念だった。美作はかが美を作るから美作とな
ったそうで、鏡野町が現存している。勾玉の生産された遺跡がある。邪馬台国の諸条件が
ぴったり当てはまる。徳島の古代史にも挑戦したかったが、時間的な余裕が無く、出来な
かったことは残念である。
歴史の表面だけを撫でる程度調べただけで,書くということは本当にあつかましい。し
かも自分の为観であるので、真剣に考古学に取り組まれた方からみればおかしいことだら
けですが、許して頂きたい。しかし、いままで振り向きすらしなかった自分の故郷を自分
の目で確かめ、土をしっかりと踏んでみると、そこから郷愁と共に哀歓も湧き、脳の深部
が刺激された。文明が進歩しすぎた現在、日本独特の天を拝み、石や木を尊ぶアニミズム
が復活すれば,荒んだ心が清浄になり、目を覆いたくなる事件が減るのではないかと思え
る。
わたし達の遠い祖先が営々と築いてきたその刻苦の一端でも知れば、感謝の念が思わず
湧いて来、これからの残り僅かな人生を真剣に考える気持ちとなった。これは卖なるレポ
ートにすぎませんが、为宰の廣渡教授、ご教授下さった多くの方々に感謝申し上げます。
参考文献
海士光朗『日本古代史再見
紀北にあった女王国』星雲社、平成7年
五沢元彦『逆説の日本史』小学館、1994 年
市毛勲『朱の考古学』雄山閣、平成 10 年
五手将雪『倭女王 大日孁貴の墓』近代文芸社、1996 年
糸島地区社会教育振興協議会文化部会監修『伊都国遺跡ガイドブック』糸島新聞社、平成
13 年
岩本正二・大久保哲也『備讃瀬戸の土器製塩』吉備人出版、2007 年
大阪府神社庁『伊勢の神宮{ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて}』和泉書院、1993 年
大橋信弥・花田勝広編『ヤマト王権と渡来人』サンライズ出版、2005 年
岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会『岡山県の歴史散歩』山川出版社、1991
年
岡山県立博物館『吉備津神社』平成 19 年
岡山県立吉備路郷土館『吉備路風土記の丘ガイド』岡山県文化財保護協会、平成 16 年
奥野正男『邪馬台国は、古代大和を征服した』jicc 出版局、1990 年
岳单(監訳者 朱建栄)『秦始皇帝陵の謎』講談社、1994 年
亀山行雄・尾上元規『吉備の飛鳥古墳』吉備人出版、2008 年
姜在彦『朝鮮の歴史と文化』大阪書籍、1991 年
吉備津彦神社宮司 守分清身『吉備津彦神社』平成 19 年
金両基監修『図説 韓国の歴史』、2002 年
京都国立博物館『倭国―邪馬台国と大和王権―』毎日新聞社、1993 年
近藤義郎『前方後円墳と吉備大和』吉備人出版
近藤義郎『楯築弥生墳丘墓』吉備人出版、2002 年
山陽新聞社新聞記事『古代吉備をたどる』山陽新聞社、昭和 53 年
志賀剛『式内社の研究』雄山閣、昭和 58 年
志摩町歴史資料館編集・発行『甦る古代の国際交流都市』平成 13 年度
高見茂『吉備の国から』吉備人出版、2005 年
田中琢『日本の歴史』集英社、1991 年
田中八郎『大和誕生と神々』彩流社、2001 年
谷川健一編者『日本民族文化資料集成 第 10 巻』三一書房、1991 年
谷川健一『日本の神々』白水社、1985 年
寺沢薫『王権誕生』講談社、2000 年
東京国立博物館編集『伽耶文化展』朝日新聞社、1992 年
富来隆『卑弥呼』学生社、1990 年
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密』日本文芸社、平成5年
丹生壽
『丹生神社を訪ねて』文献社、昭和 62 年
丹生廣良『丹生神社と丹生氏の研究』宮五平安堂、平成6年
日本電信電話公社岡山電話局編集・発行『オルゴール・コミュニケーション』昭和 58 年
野村雅人『別冊歴史読本 よみがえる異端の神々』新人物往来社、1995 年
福本明『吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓』新泉社、2007 年
文化庁編者『発掘された日本列島
新発見考古速報{文化庁編}』朝日新聞社、1999 年
前原市教育委員会編集『伊都―古代の糸島―』前原市伊都歴史資料館、2002 年
松田壽男『丹生の研究』早稲田大学出版部、昭和 45 年
光永真一
『たたら製鉄』吉備人出版、2003 年
村上幸雄・葛原克人『古代山城・鬼ノ城を歩く』吉備人出版、2005 年
村上幸雄・乗岡实『鬼ノ城と大廻り小廻り』吉備人出版、2002 年
薬師寺慎一『吉備の中山と古代吉備』吉備人出版、2001 年
薬師寺慎一『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』吉備人出版、1995 年
薬師寺慎一『祭祀から見た古代吉備』吉備人出版
山岸良二『科学はこうして古代を解き明かす』河出書房新社、1996 年
吉成勇編集『歴史読本・特別増刊〔日本国家の起源を探る〕』新人物往来社、1994 年
吉成勇編集『歴史読本・特別増刊〔渡来人は何をもたらしたか〕』新人物往来社、1994 年
Fly UP