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ポーランドの旅

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ポーランドの旅
ショパンとアウシュビッツの国・ポーランド (2009/2~9)
ビルケナウ収容所
川面に映るクラクフのバベル城
9 月 2 日(水)
午前7辞前、迎えのヤサカタクシーで関西空港へ。今回は衆議院選挙があった関係で日程
を投票日の後に変更し、参加は15人となった。添乗員はおなじみの金森さん。
KLM オランダ航空 868 便にて 11 時 05 分関西空港離陸、アムステルダム・スキポール空港
までは11時間余り。アムステルダムには現地時間で午後4時前に到着、ワルシャワへの出
発まで4時間ほどあるので金森さんの手配で現地の小型バスを300ユーロでチャーター、
市内観光となった。オランダで有名なダイヤモンド産業の工場(MUSEUM)の視察。こう
したダイヤモンド産業を担っているのはすべてユダヤ人。次々とケースから出されてくる見
事なダイヤモンドの値段は「5カラットで600万」とか。
続いてアンネフランクの家に。第二次世界大戦勃発後の 1942 年 7 月
6 日、フランク家を始めとした 8 人のユダヤ人は、ユダヤ人迫害を逃れ
るために父オットーの職場であるアムステルダムにて潜行生活に入る。
ここでの暮らしは 2 年に及んだが、1944 年 8 月 4 日にゲシュタポに捕
まり、全員強制収容所に送られた。アンネは姉のマルゴット・フランク
とともに、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられ、1945 年 3 月 12
日、チフスによって命を落としたといわれている。
次のワルシャワへの搭乗を気にしながら空港へ。しかしセキュリティ
がとても厳しい。目立たないところに小銃をもって立つのは明らかに軍隊。京都を立ってか
ら22時間。眠い眠い。ワルシャワに到着後、専用車にて午後11時、ショパン・ホテルへ。
今回の現地ガイドはマルゴ(マルガリ−タ)さん。
9 月 3 日(木)
ワルシャワ
6時30分レストランで朝食。その後ホテル付近の散歩、大通り
を行くと巨大な歴史的建造物が..「市役所か元共産党本部か?」と
思いつつ写真に収める。正面の壁面には大きく「HONOR」という
文字の入った兵士の絵が描かれている。バスでマルゴさんの説明に
よると「文化科学宮殿」で高さ231m「社会主義の時代」にスタ
ーリンからの贈り物として建てられたものという。「入館できるん
ですか」と聞くと金森さんは「見るようなものは何もない」という。
バスが到着したのはワジェンキ公園。ワルシャワは緑豊かな森林
公園をもつ静かで満たされた環境を持った都市。まずはショパンの
像の前で記念撮影。散歩していると木立から何やら小さな影が。リ
スが3匹、追っかけっこをしながら木に登った
り、草原を駈けまわったり、見ているとあっと
いう間に草むらに消えた。ワジェンキ宮殿は
「水上宮殿」といわれ周りを池と水路に囲まれ
ている。夜はこの宮殿の広間でピアノリサイタ
ルが開かれた。演奏は Marek Bracha 氏で曲目は幻想曲、マズルカ、
ポロネーズ、ノクターンなど。客はわれわれ15人と外国人観光客
の一団だけだった。旧市街市場広場のレストランで昼食、午後は歴史博物館でワルシャワ攻
防戦のドキュメンタリー映画。ワルシャワ蜂起記念碑は 19
44 年8月、ナチス支配の最終段階で市民が蜂起、2万人と
も言われている大きな犠牲を出しながら戦った記念の碑だが、
ワイダ監督の「地下水道」はこの戦いを描いた映画。しかし、
マルゴさんは「蜂起は早すぎたという声もあります」という。
ワルシヤワ蜂起
1944 年8月1日、ソ連赤軍のワルシャワ接近という戦況の下、ワルシャワの国内軍(AK)
は、ソ連軍が市内に人る前にポーランド人による独立した行政組織を確立するために、ドイツ
軍に対して大規模な武装蜂起を決行した。しかし、AK は満足な装備がなかった。一方ドイツ
軍は最も残忍な数部隊にワルシャワ掃討を命じた。市街戦は凄絶をきわめ、多数の市民が虐殺
された。ところが、ソ連の赤軍はヴィスワ川まで来ると進軍を停止した。しかも、スターリン
は蜂起軍に援助物賀を届ける連合軍の飛行機に対し、ソ連内の飛行場の使用許可を与えること
を延期した。彼は、ポーランド支配の最後の邪魔者たちがナチスによって壊滅されるまで時間
稼ぎをしていたのである。ソ連軍指揮下にあったポーランド人部隊は9月になってやっとヴィ
スワ川を渡河しようとしたが、ソ連軍の援護がほとんどなかったため川を渡ることはできなか
った。ワルシャワ蜂起は 10 月2日の蜂起軍の降服によって幕を閉じた。両軍の戦死者はとも
に1万7千人だったが、その他に20万人ものワルシャワ市民が犠牲になった。ワルシャワは
報復措置として徹底的に破壊された。
「ポーランドの歴史」(イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ著)より
ユダヤ人を強制的に収容したゲットー
跡地は住宅街として再生されていて、
記念碑(写真は裏側)が建っている。
コルチャック記念館は 1911 年建設さ
れたユダヤ人の孤児のための孤児院で
コルチャック先生は院長として生涯をささげた。建物正面にあるのはコルチャック先生記念
碑。1942 年8月、ナチス弾圧下のポーランドにあって、多くのユダヤ人同様、コルチャック先生
と子どもたちも絶滅収容所に送られる。高名であったコルチャック先生には助命の特赦があたえ
られたが、彼は「子どもたちにも助命の特赦があたえられないなら、私は子どもらと一緒に運命を
共にします」と、ユダヤ孤児2百余名に同行し、トレブリンカ収容所で非業の死を遂げた。
9 月 4 日(金)
ワルシャワ
午前はショパンの生家があるゼラゾヴァ・ヴォラへ。ショパンは 1810 年
2月 22 日誕生、生後8ヶ月で一家はワルシャワに移住。父はフランス語教
師。現在「生誕200年」の来年に向けて大きな展示施設だろうか、建設中
で「来年も来てくださいね」とか。(写真は当時のアップライトピアノ)
現地のレストランにて昼食。午後はワルシャワに戻り、Szuzter Palace
で我々だけのピアノリサイタル。約60人程度の会場で、ピアニストは Robert Skiera 氏。
曲目はポロネーズ第3番(軍隊)
、プレリュード第15番(雨だれ)
、エチュード第12番(革
命)等。ホテルの近くまで帰ってきたところで大きなショッピングセンターへ。
ショパン全曲演奏のCD
今回のポーランド旅行の主題の一つはショパン。ワルシャワからクラクフまではバスの旅と
なる。そこで 1999 年に発売されたワルシャワ・ショパン協会製作のショパン全曲演奏のCD
集(全18枚)を持参してバスの中で聞いていただいたた。この中には
映画「戦場のピアニスト」の主人公シュピルマンの演奏も入っている。
解説によれば国を挙げて「ショパン生誕150年(1960 年)」を記念し
てとり組まれた事業で、譜面の発掘、照合など 10 年近い歳月をかけて
完成、その後ワルシャワ国立フィルハーモニー交響楽団をはじめトップ
クラスの演奏家によって録音されたものである。
ポーランド民族舞踊レストランにて夕食。盛り上がったと
ころで4人の歌い手(踊り子)から男女4人が誘われてダン
スのお相手。その次は男性3人が出演した Whip Cracking
(鞭鳴らし)コンテスト。馬の鞭を打って鳴らすのだが思う
ように「パチッ!」と音が出ない。私はそれでも3人の中で
は優勝、賞状をもらった。
9 月 5 日(土) チェンストホーヴァを経てクラクフへ
ホテルにて朝食。専用車にてクラクフへ。途中チェン
ストホーヴァに立ち寄り昼食、その後ヤスナ・グラ僧院
へと向かったが驚くほどの人がおしよせている。宝物展
示の部屋には絵画、式典に使う器具.装飾類があり、次
の礼拝場にはあふれるほどの信者が祈りをささげている。
その間をぬうようにして『黒いマドンナ』の祭壇の後を
めぐって次の部屋へ。奥の広場では多くの人が列をなし
て順番を待っている。何かと思えば懺悔・告白の人の列。
2時間も待って神に許しを乞う儀式にこれほどまでして人は心を捧げるのだろうか。まさに
「カトリックが国を救った」という長い歴史の重みを見た思いがした。
今日はクラクフまでの旅程で時間もあったのでバスの中で各自自己紹介、初めての人もこ
れでみんな知り合いに。それでも到着まで時間があるので持参した「ショパン全曲演奏」の
CD 集から「ピアノ協奏曲1番」をかける。ホテル到着。ホテルの周りを散歩。レストラン
にて夕食。
9 月 6 日(日) クラクフ ヴェリチカ
朝6時前に散歩、昨夜聞いていたバベル城とスカウカ教会がビスワ川面に映る姿(表紙写
真)をみながらホテルに帰って朝食。午前中はクラクフ観光でガイドはリチャードさん。ま
ずはユダヤ教のシナゴーグ(教会)
。 現在ポーランドに在住するユダヤ人は1000人、戦
前は330万人といわれている。ナチスのユダヤ人迫害の追求がいかに厳しかったかと言う
ことがわかる。古くは旧クラクフ地区の外にユダ
ヤ人が住むカジミェシ地区があったがこの地区は現
在はクラクフ市に編入となっている。
今でも残るシナゴーグ(ユダヤ教徒の祈りの場)
やユダヤ人墓地をめぐるユダヤ人観光客が絶えない。
ホテルでも朝食のとき別のレストランで頭に帽子を
のせたユダヤ人観光客の集団を目にしたが、彼らも
巡礼の旅で来ているのだろう。広場の両側のレストランにはヘブライ語の看板もある。
バスの窓からゲットー跡地(壁の一部が残っているだけ)、
映画「シンドラーのリスト」
(スピルバーグ監督)の工場の一
部が現存しているとの説明を聞くが、映画で有名になって現
在記念館を建設中という話。映画「戦場のピアニスト」の R.
ポランスキー監督はゲットーの隔壁の隙間から逃れ生き残っ
てこの地で育った人である。ポアショフ収容所跡地は高台の
草原の上に大きな石の記念碑が立っているだけで何もない。当時は2万人くらい収容されて
いたという。
旧市街地区に戻りレストランで昼食。バスを降り、ヤギェ
ヴォの銅像(グルンバルドの戦いとドイツ騎士団に対する勝
利をもたらした英雄)を見上げながらバルバカンからフロリ
ャニスカ門から旧市街地に入場。すると鼓笛の音とともに当
時の装いで軍隊の一部隊が入場、堂々の行進で通り過ぎてい
った。
中央市場広場は織物会館の正面に位置する広場、今日は日
曜日なので人出も多くなってくるという。織物会館の裏手に
は旧市庁舎の塔。聖マリア教会は広場の織物会館の向かい側
にそびえる。ヤギウェォ大学見学の後はバベル城に
入城。ここはクラクフが首都であった時代の象徴。
王宮とバベル大寺院がある。王宮に入場し2階の部
屋をリチャードさんに案内してもらったが、壁面全
体を覆うすばらしいタペストリー。よく見るとその
絵は「ノアの方舟」がテーマで何枚も続く物語とな
っているが、これはジグムント・アウグスト王のコ
レクションという。途中で「イタリアの首相一行が
きた」とかで取り巻きの SP 集団とともに部屋に入
ってきた。
城内のバベル大寺院に入場。バベル城を出て聖母マリア大聖堂に
入場。その後は2時間ほど自由時間。少々歩き疲れたのでホテルに
帰って一休みして6時半の中央広場の集合場所に急ぐ。広場では舞
台の上で操り人形がギターを引きながら観客にアピールしていた。
今夜の夕食はホテルの近くのレストラン。クラクフの人口は80
万人で学生は20万人という大学の町、夏休みは6∼9月の3ヵ月。
9 月 7 日(月)
ヴェリチカ、アウシュビッツ
ポーランドの旅も今日が実質最終日。ホテルを出てヴェリチカへ向かうまでの約30分、
リチャードさんに「最新ポーランド事情」について質問した。
教育は基本的には大学まで無償ということだが、人気のある大学や学部に希望が集まるの
は日本でも同じ。医療は基本的には無料、費用は税金でまかなわれる。しかし手術など治療
を待っている人が多く「半年待ち」といった状況では「お金のある人は特別の治療が受けた
い」となるのもイギリスや日本でも同じこと。しかも「社会主義」体制の時代の影響で医師
の給料が高くない(ソ連でも労働者・農民こそ国の主人公であり知識層、中でも大学教授や
医師などの給料は低かった)。医師の国外流出が止まらないという。
就職事情は「失業率10%」という状態が続いており、少し働いて失業手当てを受け取り
ながら期限がくるとまた少し働く、といった青年も多くいて、これはこれで制度のよしあし
は簡単には判断できないようだ。
クラクフ南東約15km にある小さな町ヴェリチカにあるヴェリチカ岩塩採掘場へ。入場
するとすぐ地下階段が、上からのぞくとどこまで地下へと降りていくのか想像もできない。
380段を降りてやっと地下採掘坑道に入ったが、階段の方はさらに地下深く暗黒の口をあ
けている。
採掘坑道は次々と枝分かれしており、総延長は、
300km、観光ルート以外は灯りもない。
しかし採掘された跡は広大な地下ホールとなって
おり、時折コンサートも開かれるそうだ。昼食は
岩塩の採掘後の地下ホールのレストランで。お土産
屋さんで岩塩をくりぬいた淡い光の卓上ランプを
売っていたが、「これは日本に持ち帰ると湿気で岩
塩が融けてしまう」と気づいたので買うのをやめ
た。昼食後はバスでアウシュビッツへ。
アウシュビッツでは現地日本人ガイドの中
谷さんが説明をしてくれたが、なぜユダヤ人
が攻撃の標的になったか、普通の市民がナチ
ス政権の下でなぜ残虐なユダヤ人絶滅作戦に
加担することになったのか、「何かおかしい」
と思いながらも真実を知らされず、ナチスの
残虐をとめることができなかったドイツ市民
には責任はないのか、といった問いかけに現
在のドイツ市民はどう答えてきたのか。中谷
さんの説明は日本人である自らにも、私たちにも問いかけているように思われた。
アウシュビッツ収容所は展示もかなり簡略化されているようで、靴、かばん、女性の頭髪、
食器類などのうずたかく積まれた山のような展示はあっ
たが、写真はもちろんふれることもできない。ガス室、
焼却室、監視塔、有刺鉄線などに当時の様子が残されて
いる。途中で出会ったのはイスラエル国旗をかざした高
校生たちだろうか。
ビルケナウ第2収容所(表紙の写真)はさらに広い。収容されたのは圧倒的多数はユダヤ
人であったが、障害者、ロマ(ジプシー)、同性愛者なども収容された。フォルクスワーゲン
をはじめ、多くの企業もこうした多数の収容者を抱えて戦争目的の生産活動を推進した。現
在こうした企業は企業研修の中で現地を訪れ「何が起きたか」、
「誰がどのように行動したか」、
「責任をどのように取るか」といった教育を徹底しているという。また企業によっては歴史
的責任を明らかにしてユダヤ人(イスラエル)に賠償の意味をこめた貢献を続けているとい
う。はたして日本は、日本の企業は責任を認識しているのであろうか。
林 功三氏の指摘(「ヤーコプ・リットナーの穴蔵の手記」2007/7 あとがき)
1945 年5月の初めにヒトラーは自殺し、ドイツは無条件降伏した。しかし、ナチスがいな
くなったわけではなかった。当時「非ナチ化」のために唱えられたテーゼに「集団責任論」が
ある。そもそもナチズムへの歴史的責任を「集団責任」という政策にしてしまい個々人の道義
心に訴えようとしなかったこのテーゼは占領軍でなく、ドイツ人の作りあげたものだった。
クラクフへ戻り、旧市街地のレストランにて旅行最後の夕食。
1950 年代以後も、大多数のドイツ人はショアを、アウシュヴィッツを不問に付した。「過去
は過去として眠らせ、現在のこと、未来のことを考えたらどうか」という意見がかなり長期に
わたってドイツ人の中では一般的だった。しかし、ドイツ人は 1960 年代以降、自らナチスの
罪を追及した。1958 年 12 月にはルートヴィヒスブルクに「ナチス追及センター」がつくら
れ、1963 年と 65 年の2回、フランクフルトで、アウシュヴィッツ強制・絶滅収容所で人間
を殺裁した22人のナチスが裁判にかけられた。少し後になるが、同じようにデュッセルドル
フの法廷で、1975 年から 81 年まで、
「マイダネク裁判」が開かれ、かつてマイダネク強制収
容所で大量殺裁と虐待をおこなった17名を裁判にかけた。こういう裁判がおこなわれたこと
によって、またそれをすすんで報道したメディアによって、1960 年代以降、ドイツ市民の意
識も次第に変わっていった。この流れに大きな力を貸したのは、後に「68 年世代」と呼ばれ
た若い世代の反体制運動だった。西ドイツの若者たちの運動には、世界中の他の国ぐにの若者
の運動にないひとつの特色があった。それはかれらがナチズムの過去を問い糾したことであ
る。ドイツの若者たちは父親の世代を厳しく弾劾した。教授たちがナチスにどうかかわってい
たか、両親がナチスにどう対処したかを、徹底的に問題にした。(ドイツが加害者責任と向
き合う過程については「ドイツは過去とどう向き合ってきたか」:熊谷徹著に詳しい)
9 月 8 日(火)
クラクフ発ワルシャワ→アムステルダム→帰国
今日は 6 時ホテル出発で 7 時発のクラクフからワルシャワまで列車の旅。10 時前ワルシャ
ワ駅に着き、バスで空港へ。出国手続後、KLM オランダ航空にてアムステルダムへ。アム
ステルダムから KLM オランダ航空に乗り換え関西空港へ。機中泊で 9 月 9 日(水) 関西空
港 9 時 35 分着陸。入国手続後、解散となった。
ガイドのマルゴさん
ワジェンキ水上宮殿
ピアニスト Robert Skiera 氏
クラクフ
中央広場の旧市庁舎の塔
ドイツによって破壊されたワルシャワの町並みは忠実に再現された
ユダヤ人に〝命のビザ”を発行した杉原千畝のこと
2006 年 6 月、バルト 3 国に旅行した際にリトアニアのカウナスにある旧
日本領事館を訪れた。1940 年 7 月、リトアニアで領事代理を務めていた杉
原千畝は、外務省の命令に逆らって、6千人を越えるユダヤ人にビザを発給
し続けたが、このことは数年前テレビドラマにもなり放映された。昨年出版
された「日本・ポーランド関係史」ではカウナスでの杉原の「別の仕事」に
ついて記述している。
1939 年 8 月末、カウナスに領事代理として日本公館を開設したのは杉原
千畝だった。「日本陸軍参謀本部は満州に駐留していた精鋭の関東軍をできるだけ早くソ満国
境から南太平洋諸島へ転進させることを望んでおり、ドイツ軍による西方からの電撃的な対ソ
攻撃に並々ならぬ関心をもっていた。ドイツ軍出撃の日時を迅速かつ正確に特定すること、こ
れが公使の主たる任務であった。日本人居住者もいないカウナスの領事となってみて、私は国
境付近のドイツ軍の集結状況を参謀本部と外務省に伝えることがわが使命であると自覚した
のである」(杉原千畝の手記)。
当時、ポーランドがドイツ、ソ連の占領下にあった状況の下で(特にソ連戦力の)情報を入
手する方法はポーランド人の地下組織に支援、協力をすることであった。やがてドイツの圧力
で杉原千畝は当地を離れるが、情報入手の連絡網は小野寺信ストックホルム駐在武官へ引き継
がれた。1941 年 6 月といえばドイツのソ連侵攻開始の時期。
「ナチスドイツのバルバロッサ作
戦は失敗する」。イワノフからの情報では、第一に、国境を越えて敵地へ攻め込む作戦は成功
するものではない、国境線に敵兵力を引きつけて戦うべきである。第二にこの年の春、イタリ
ーがユーゴスラビヤ戦線で窮地に陥ったため、ドイツは戦車部隊をその方に投入せざるを得な
かった。特にウクライナ地方であの兵力では足りない。第三にバルバロッサ作戦実施予定は5
月 15 日であったが、イタリー援助のために l ヵ月以上おくれた。ドイツ軍はすべて夏の装備
である。ロシヤの冬の厳しさを考慮しないのは無謀だ。 ドイツのめざましい攻撃ははたして
2カ月しか続かなかった。8月末になると例年になく雨季が早く来て戦場は泥沼となり、ドイ
ツ軍自慢の戦車が動けなくなった。その上 10 月になると、これも予想外に早く寒気が到来し、
全然防寒装備を持たないドイツ兵たちの士気はガタッと落ちてしまった。小野寺の許に届くこ
うした情報は東京へはもちろん逐一報告された。しかしそれは(ドイツの敗退を信じることが
できなかった)日本の軍部へは通じなかった。(「日本・ポーランド関係史」2008)
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